文章を書かなくなったから自分が何を考えているのかわからなくなったかもしれない

ここのところ、文章を書いていない。

 

ツイッターをやっているので時々には一言二言つぶやいたりしているが、それは自分の言葉なのか何なのかわからないような、本当のつぶやきみたいなものか、走ったとか風邪ひいたとか、この本読んだとか映画見たとかのメモで、見返したことがない。

 

自分は1997年にはじめてインターネットにふれ、専門学校の課題で作ったホームページに日記を書きはじめた。ブログはまだなかったのでテキストファイルにHTMLを上書き保存してはアップロードしていた。文字化けしたりした。

専門学校を卒業した後、バックパックを背負ってけっこう長い期間旅行をすることになり、バックパッカーと呼ばれたりするような生活を送った。

旅行をはじめた頃はまだインターネット環境がそんなになかったので、ノートにペンで日記を書いていた。

そのうち旅行先の各地でもネットカフェや宿などにインターネットを安く利用できるところが増えてきたので、またホームページに書いたりミクシーに書いたりしていた。そして10年前、日本に帰ってきて日記を書かなくなった。

 

なんとなく去年あたりから、そういえば自分が何を考えているのか全然わからないような気がして、それはもしかしたら文章を書かなくなったから、自分の考えを書いて目で見ていないからかもしれないと思ったりしたので、また文章を書いてみようかと思っていたがはじめずにいた。だけどさっき、なにかの拍子に、とんとん拍子にここまで来たという感じ。

 

気負わずに文章を書く場所になればよいと思う。

読んだ。 #敏感すぎる自分を好きになれる本 #長沼睦雄 #HSP

読んだ。 #敏感すぎる自分を好きになれる本 #長沼睦雄 #HSP
 
第1章 5人に1人いる“敏感すぎる人”たち。
神経。行動活性システム(アクセル) 、行動抑制システム(ブレーキ)
自己と他者の境界が薄い
情報処理能力が高い
社会のカナリア
共感性が高い、音叉
潜在記憶→直感
感動する才能
HSS型 (High Sensation Seeking)HSPHSP的感性を持ちつつ刺激を好むHSS。
HSPは全体の15~20%。その中の30%、全体の6%。
 
第2章 過剰な敏感さが「生きづらさ」の原因だった。
幼少期の親、先生との関係
疲労(身体的)と疲労感(精神的)
トラウマ
自律神経、パニック障害になりやすい
「生きづらさ」のダイエット
 
第3章 敏感すぎる自分に振り回されずに生きるには。
①知る→ふりかえる、日記など
②対応する→準備とケア。マイナスの刺激をブロック。変わりたくない自分。
③心構えをつくる→プラス思考ではなく、プラスの感情を大切にする。
潜在意識にアプローチ
 
第4章 敏感な人が陥りやすい15の「困ったこと」の対処法。
境界線。アドラー「課題の分離」= 他者の課題には踏み込まない。
 
HSP的OK→懐が深くて寛大な精神の持ち主。客観的視点の持ち主。冷静沈着な人。
HSP的NG→ 不機嫌、常に負の感情を抱えている人。他者を支配したがる人。
HSPは社会の人間関係の潤滑油に成りうる。
 
第5章 あなたの身近な人が「とても敏感な人」だったら。
ライオンの吐き出し。いやな気持を吐き出す。
タイムアウト法。6秒間不安に耐える。
 
楽しくても疲れることを理解して対応する。
マイナスの感情を正直に伝える。
 
 
 
 

読んだ。 #ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。 #エレイン・N・アーロン #HSP

読んだ。 #ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。 #エレイン・N・アーロン #HSP
 
・Highly Sensitive Person
 
HSPはいつも神経が高ぶっているというわけではなく、新しい刺激や長引く刺激に対して神経が高ぶりやすい。「神経症的」とは違う。神経症的とは、特に理由もないのに、つねに不安でいる。
 
HSPは無意識からの影響を受けやすく、その無意識は彼らに「もっとも重要な情報」や「予知的な洞察」をもたらすという。ユングにとって無意識は学ぶべき知恵の宝庫なのである。
 
HSPの人たちは、実際に眠らなくても、とにかく9時間は目を閉じてベッドに横たわっていようと努めるだけで、ずいぶん楽になるものだ。近く的刺激の80%は目から入ってくるので、目を閉じて休むだけでもかなりの休息になる
 
・多くのHSPにとっての遊び、楽しみとは、自分のぺ-スで好きな本を読んだり、庭いじりをしたり、家でゆっくり支度をした食事を落ち着いて食べることだったりする。あなたの周りにいる非HSPには、この件で口出しさせないほうがいいだろう。午前中にいくつもの「活動」を詰め込むのは、あなたにとっての楽しみではないかもしれないのだ。~常に余裕をもって計画すること。もし他の誰かと一緒なら、相手を憤慨させたり傷つけたりしないためにも、あらかじめ「私は途中で抜けるかもしれない」と伝えておくことも大事だ。
 
・もちろん睡眠も神経のぴりぴりした状態からあなたを連れ出してくれるが、~睡眠だけに頼らず、遊び、瞑想、祈り、ヨガなど、それぞれ違った興奮を脳に起こさせる方法をいろいろと取り混ぜて、休息をはかるようにしよう。
とりわけ瞑想はぜひとも取り入れてほしい。~意識は覚醒したままで、とても深い休息を得ることができる。~まるで、瞑想がHSPに必要なものをすべて与えてくれるかのようだ。
 
「境界」という概念が大切。望むものは内側に入れ、望まないものを外に閉め出すよう、融通の利くものでなければならない。いつもすべてを締め出している状態は避けたいし、他者と一つになりたいという衝動もコントロールしたいものだ。他者と一つになるのは、きっと素敵なことだろうとは思うが、長続きはしない。自分がまったくなくなってしまうからだ
~一番の悩みの種は自分の「境界」がもろいことだという。~自分には関係のない問題に巻き込まれたり、予期せぬほどたくさんの人に嫌な思いをさせられたり、必要以上に口出ししてしまったり、人間関係の泥沼に引きずり込まれたり、相手のことをよく知りもしないうちから深く付き合う羽目になったりしてしまう。
~「境界」を築くには鍛錬が必要。必要以上の刺激をシャットアウトするため。自分の意思で。不本意ながらその場を離れたり、「ぶっ飛んでしまう」のではなく、自ら選んで周りの声や騒音をシャットアウトする、あるいは少なくとも、そういった刺激から受ける影響を小さくするということである。
 
・人間は、生まれてから数年の間に、他者やほかの世界を信頼すること、あるいは信頼しないことを学んでしまう。もし信頼することを学んだなら、恐怖をコントロールすることができるようになり、敏感さはそのままの形で残っても、長期的な神経の高ぶりを起こすほどの恐怖を味わうことはあまりなくなる。小さいとき、あなたがまわりの人に「やめて」と頼むと、ちゃんと聞き入れてやめてくれた。だからあなたは「他者」とは、自分に重荷を課すものではなく、助けてくれるもので信頼していいと了解したのだ。~これは生まれつきではなく、学習したものなのだ
 
・それにきちんと耳を傾けるようにと言った。けれども、時には、本当は耐えられるのに、花火を見たり観覧車に乗るという考えを恐れているだけ、という場合もある。「自分で自分の親になる」~新しいことに喜んで挑戦するようになるためには、「挑戦してうまくいった経験」をたくさん積むことが必要だ。
 
・「シャイ」はある状況に対する反応でしかない。~「敏感さ」は遺伝するが、「シャイ」は遺伝しない
 
・「社会的不快感」社会的な場面で神経の高ぶり過ぎに対処する方法
「神経の高ぶりすぎ」は「恐怖」とは別物であるということを思い出す
②他のHSPを探し、一対一で話してみる。
③気持ちを落ちkつかせるいつもの方法を使う。
④「ペルソナ」を作り、意識的にそれを使うようにする
⑤自分の特徴を他人に説明する
 
・「ペルソナ」とよいマナー。時と場合に応じて、率直さの度合いを調節する。
 
・「今までいくつかよい間違いを犯したことがある」スタートレック、キャプテン・ピカード
 
・教師、医師、弁護士、芸術家、科学者、カウンセラー、宗教関係者などの職業が、現代では非HSPに占拠される率が高くなってきたが、~「聖職者的」価値観が小さくなり、「戦士的なスタイル」つまり「拡張と利益追求」が前面に出てきたということ。世の中が複雑になり、より強い刺激を求めるようになってきている。
 
ユング「人生とは個性化のプロセス」。地上に産み落とされたとき一人一人に「問い」が与えられ、それに対する「答え」を見つけていくということ。自分の世代のやり方で、この「問い」に答えていかなければならない。大切なのは、「答え」そのものより、その「問い」への答えを追及する姿勢。
わずかでも私たちの時代を進歩させるための仕事を受け持っている。困難な過去は一見人生の目的を妨げているように見えるが、実際のところは目的達成に一役買うこともある。その困難な過去を十分に経験し、人間の問題として理解することが人生の目的になっていることさえある。
 
ユングは、私たちのようなタイプの人間に安易に金銭的な援助をするのは大きな間違いだと言っている。実際的なことを考えなくて済むなら、HSPはたちまち「浮世離れした人」になってしまう。誰も耳を傾けない「戯れ言や」になってしまう。
「自分の喜び」と「世界のニーズ」との接点を探す。
「まわりからの要求に答えること」で手一杯。様々な責任、名誉、お金、安定、好かれたい、プレッシャー→HSPの「直観力」は、答えられるべき「内なる問い」も拾ってしまう。この対立する2つの間で苦しむ。
 
HSPが抱えるもう一つの問題は、あまり現実を知らない、ということだ。勘に頼ろうとして人に尋ねることを嫌うからだ。~人前でのスピーチ、会議、ネットワーキング、社内政治、出張など、私たちの社会で「職業的成功の鍵」とされている物事に直面すると神経が昂りすぎてしまう人が多い。
 
・私たちはみんなある程度はプログラミングされて育っていく。一番謝意所に自分に愛と庇護を与えてくれた人を喜ばせ、その人にすがりつくようにプログラムされている。
 
・怒り、対立、涙、不安、変化に直面すること、変化してくれと言われること、批判されること、間違いをあざ笑われること、誰かに恥をかかせること、が苦手なので、なるべくそういう状態を避けようとする。~人間関係を新鮮に保つには、これらのことがある程度は必要。「直感」が災いして、勝手に会話の行き先をいろいろ想像してうまくいかないと決めつける場合もある。
①自分が勝手に頭の中で想像し。ていることを認識し、それ以外の可能性も想像してみること。
②相手に正直に、「私はあれこれ先行きを想像してしまうので、自分の気持ちをなかなかオープンに表現できない」と話してみる。
 
・リフレクティブ・リスニング(反映的傾聴)-相手の言っていること、特に相手の気持ちに耳を傾ける。相手の気持ちを自分の言葉にして繰り返す。
<してはいけないこと>
①質問してはいけない。②アドバイスをしてはいけない。③自分にも似た経験があると言ったり、自分の経験を話してはいけない。④分析したり解釈してはいけない。⑤相手の気持ちを反映しないこと、気持ちを逸らすことはしてはいけない。⑥沈黙しすぎて相手のモノローグばかりを延々と続けさせてはいけない。ちょうどいい長さの沈黙。⑦相手が何を言おうとも、言い訳をしたり、自分の考えを話してはいけない。
+もし必要なら、自分の聞く番が終わってから「黙って聞いていたけれど、それはかならずしも同感したからではない」と言おう。
 
・シャドウ
 
・スピリチュアル・アプローチ
一見にっちもさっちもいかない状態にあるように思えても、実はその奥深くでは、もっと大きな秩序や計画、目的の下で様々なことが起こっているのだと教える。
 
組織的な宗教に抵抗を感じているHSPも多い。組織だっていない宗教についてはかなり好意的、半数の人が日常的に自分の内面に目を向け、スピリチュアルな修練をしていると言っていた。
 
<欠点>
①他者と付き合うことや、自分の体や考え方、気持ちを理解することなどを避けるようになる。
②指導者や運動に強い「転移」を起こすことが多いが、たいてい彼らはその種の「理想化転移」からあなたを救い出し成長させるスキルを持っていない。それを助長する指導者さえいる。
③ほとんどの教えは「事故や自我、個人的欲望を捨て去ることが大切だ」と説く。~あまりにも早く自我を捨ててしまうHSPがたくさんいる。そのカリスマ的輝きは本物なのだろうか?~真の救いや啓蒙とは、個人的な問題を解決するつらい努力の果てにある。HSPにとって一番つらい仕事は、現実を捨てることではなく、この現実にしっかりとかかわること。
 
・転移。セラピストへのアタッチメント(愛着を抱くこと)。
 
・ビクトール・フランクル「夜と霧」
人生の意味は、人によっても、日によっても、時間によっても異なる。~チェスで最良の手とは何でしょうか?
 
・エティ・ヒレスムの日記
 
・全体性の追求とは、中心に向かって渦巻きを描くようなものだ。その中心に至ることは決してないが、何がその中心なのかはだんだんわかってくる。この渦巻きを描いていると、「様々な自分」を経験するので、傲慢さが起こる余地はほとんどなくなる。これが「完全性」ではなくて「全体性」の追求なのだ。
全体性はその定義の中に不完全さを含む。自分が抑圧したり、拒絶したり、否定したりすることを含む、人間の「シャドウ」も含む。それを熟知し、注意する~それを意識的に統合し、人格に活力や深みがもたらされたときに初めて道徳的な行動ができる。
 
自分のシャドウについてもう少し学ぶことが、子供時代に身に着けた「過剰な社会科」という拘束衣から解放されるための最良で、おそらく唯一の方法だと思う。あなたの中にいる「良心的で喜ばせたがり屋」のHSPが、「パワフルで、衝動的で、たくらみ深く、自己拡大的で、不遜」なHSPと出会う。お互いを尊重し、それぞれの欠点に注意しあうことで、世の中に貢献できるパーソナリティになるだろう。これも、全体性の一つなのだ。
~多くのHSPにとって本当の「挑戦」とは、「中道」を見極めることである。
 
・遅かれ早かれ、いずれ私たちは想像の世界や趣味、遊びを通して、自分の劣等機能を鍛えなければならなくなるらしい。ユングやフォン・フランツによると、そのために時間を取るのは倫理的義務だという。多くの不条理な集合的行動は、人々が他者に自分の劣等機能を投影したり、劣等機能への訴えに反応してしまうことと関係している。そしてこの劣等機能は大衆を操作しようとするメディアや指導者たちに悪用されるのである。
劣等感コンプレックスに気づけば、ストップをかけることができるようになり、他人を責めなくなる。→倫理的義務の一つだといわれるゆえん。

読んだ。 #アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? #米田衆介

読んだ。 #アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? #米田衆介
 
自閉症スペクトラム――発達障害に含まれる自閉症アスペルガー障害などは、それぞれ独立の疾患ではなく、虹やプリズムで分光した光の色彩が連続しているように、程度の差を伴って一つの連続体をなしている
 
ウイングの三つ組み仮説
①社会的相互干渉の障害-他者とうまくかかわれない
②コミュニケーションの障害-会話や意志の伝達が苦手
③想像力の障害-場の空気、暗黙の前提が分からない
 
・情報処理過剰選択仮説
①シングルフォーカス―注意、興味、関心を向けられる対象が、一度に一つ。大局がつかめない。部分的な局所に反応しやすい。木を見て森を見ない。田舎の駅、風景、人物、植物、列車、看板。
②シングルレイヤー―同時的、重層的な思考が苦手。文脈の手がかりを利用できない。多層性を持った思考。本、物理的(タイトル、内容、色、かたち、匂い、手触り、推定される重量)、文化的な価値(著者はどんな人なのか)、経済的な価値(だいたいの値段)、所有関係(だれの持ち物なのか)、社会的でシンボリックな作用(その本がそこに置かれていることの文脈、その本を手に取ることで他者はどう思うか。)個々の事柄の間に優先順位を付けにくくなる。
③ハイコントラスト―白か黒かのような極端な感じ方や考え方をすること。適当がわからない。満腹、空腹しかない。自己コントロールができない。
 
・記憶と学習の障害
・注意欠陥、多動
・自己モニター障害
・運動制御
・情緒制御
 
・猿山原理-マウンティング、集団の中での優位劣位の序列を確認する行為。一般の人は自分の社会的な地位が相対的に引き下げられることを極端に嫌う。
 
悪気はないけれど相手を怒らせる。普通の人が学習して身につけてしまった他者に関する内的モデルによる予測と、アスペルガー者の反応が食い違うから。
 
相手に合わせることができない。
可愛げがない。(相手の感情の変化に気がつかない→シングルレイヤー)
反応を返さない。(顔面の不器用さ)→自分の感情を示すサインが表示されないことが相手に不安を与えるということを理解できない。
話題となっている事実について考えているうちは、相手との間で成立する自分の感情についての検討は停止する。
 
服装、不潔を気にしない、挨拶ができない。非社会性。→他者の感情への無関心さと受け止められる。→他者の気持ちを考えるようにと指示するのはナンセンス。できるだけ因果関係や論理的関連性を明らかにする形で説明をする方が効果的。善悪などの価値の問題にせず、損得、慣習の問題として解決する方がよい。他者のない世界。
 
「普通の人はこう思うものだ」は不合理であるとして受け入れられない。普通の人は非合理な考え方をするものであると説明する方が生産的。
 
・過剰適応
うつ病→申しわけなさ、社会的な恥の観念
アスペルガー→ほかのやり方が思いつかない、やるべき程度がわからない
 
ふつうの人→本音、建前、どちらでもない本当の心を区別して生活している。三重構造。
アスペルガー→シングルレイヤー、3つの層で同時に考えることは無理
 
挨拶の仕方、会話をするときの規則、人にものを頼んだり断ったりするための規則+内的モデルの問題
 
・ふつうの人にとって「共感」は、自動的であると同時に強制的な力を持っている。アスペルガーは無視できる。シングルレイヤー思考
 
・ふつうの人が「ひとの心」と呼んでいるもの。(明示的ではない)他者の要求にこたえる能力に関する自己説明を可能にするような説明モデル。自分が他者の要求を推測し、滑らかにそれに従うことができる→実際には他社の行動の観察や、言語表現の解釈という情報源を用いて行われる自動的な推論。

#14歳からの哲学 #飲茶

#14歳からの哲学 #飲茶
 
はじめに
 
     ・14歳、中2=子供向けの常識が崩壊する時期(大人は正しい、先生は偉い、世の中には善と悪がある)
          ↓
     自分なりの価値観を構築していく
 
     <哲学>--古い常識を疑って今までにないものの見方を発見し、新しい価値観、世界観を想像する学問
 
     ・常識が崩壊した時の選択
          「先生の言うことを聞くべきだ」→
                (精神の安定を図るために、、、)
               ・妥協する--常識に不備があることは重々承知だが、逆らったって何の得もないのだから、妥協。
               ・反抗する--
 
               ・哲学する--まず史上最強の先生と言う最悪ケースを想定してみよう、、、
                              死ねと言ってきたら、何の罪もない人々を無差別に虐殺してこいと言ってきたら、、
                                   ↓
                               生徒が先生の言うことを聞くための前提条件とは--人間として正しくあること
                                   ↓
                              人間として正しいとはどういうことか、まず先生がそれを明らかにして生徒と共有すること、それが先生と生徒の関係性における基盤であり、出発点とするならば、そこを議論せず、、、
 
               14歳ころにだれもが味わう「常識の崩壊」を乗り越えるためのもの
 
 
 
第1章    14歳からの哲学
 
ニーチェ(1844年(天保15年)10月15日 - 1900年8月25日)ドイツ(満55歳没)

 
     「神は死んだ」
 
     ・ニヒリズム虚無主義=神や正義に冷めた態度をとる者たち
                                              ↓                        
                                   (作り物でしょ?嘘でしょ?意味なく存在してるだけでしょ?信じるとか馬鹿らしい)
                                    善悪は神様が決めていた→宗教組織の派閥争い、ミス→宗教から覚めていく
                         
     末人(まつじん)--生存のための作業を仕方なくやり続けながら、ひたすら暇をつぶして生きる
 
     ニヒリズムを乗り越える哲学とは一体どんなものか
          ↓
     史上最悪のニヒリズムとは?
          ↓
     (・「死ぬ」→対処法→死から生きる意味を導き出す考え方、かけがえのなさ、という価値を生み出せる。輪廻。)
 
     永劫回帰 -- 無限に繰り返される、無限の繰り返し、かけがえのなさ(唯一性)は存在しない
 
          宇宙には果てがなく「無限の広がり」を持っていると仮定すると、エントロピー増大の法則により、 密(ひしめきあている)の状態→疎の状態(離れ離れ)になっていく
               ↓
          ある程度時間が進み、物質同士が一定距離以上離れてしまえば、もはや物質同士が相互に作用することはなくなり、何の物理現象も起きなくなってしまう。→生物も存在しない世界
               ↓
          全体の時間の中で「生物が存在している時間」というのは限りなくゼロに近い一瞬、それが今、というのはあまりにもできすぎ、確率的にありえない
               ↓
          宇宙の広がりは「有限」だと考える
               ↓
          「有限」の空間に「有限個」の物質が運動しているのだから、空間上に生じうる物質の位置と速度のパターンは「有限の組み合わせ」しかない
               ↓
          いつかは「同じ組み合わせ」が現れ、同じ運動が始まる
 
      「今という瞬間」を欲し愛せるものは「永劫回帰の宇宙」をも欲し愛せる
 
     <ツッコミどころ>
      ・ボールの位置は「無限の細かさを持つ」
      ・「量子」「ひも」など、ボールほど単純なものではない
      ・「永遠に同じことを繰り返す」なら「今を肯定するかどうか」も繰り返しに含まれる。アドバイス自体無意味。
 
     ニーチェ自身も、永劫回帰を「フィクション」としてとらえている「聖なる嘘(方便)」
 
     <哲学>--「価値」について考えること。今までにない新しい「価値」を生み出したり、既存の「価値」の正体を解き明かしたりすること
     ※「価値」を「意味」「概念」「ものの見方」「分別」「公理」などに置き換えてもOK
 
          価値観Xを「常識(あたりまえ)」として共有する集団
          その価値観Xが集団のメンバーが生まれる前から存在していたから「常識」
               ↓
          しかし、一世代以上前の価値観。時間の経過とともに、合わなくなってくる
               ↓
          天の邪鬼、神経質、社会的に落伍したやつ→常識に反逆→価値観Y
               ↓
          価値観Yが広がっていく
               ↓
          価値観Zに淘汰される
 
     ニーチェ永劫回帰の哲学も、ニーチェの時代では、「今」に特別な価値を見出すことが常識はずれだった。
     当時の世界には存在していない価値観だった
     今でも、ほとんどの人間が採用している常識(生まれた時からあった考え方)は基本的に「未来」に価値を見出すタイプ。
     目標、理想、幸福、、「価値のあるもの」「目指すべきもの」は全て未来にある。
     
     今の価値観(未来)に価値を見出す思考が役に立たなくなるとき、新しい価値観(今)に価値を見出す思考を創造する。
 
 
 
第2章    <合理主義>の哲学
 
合理主義 -- 理屈に合う→理屈に合うことを大切にしましょう主義
     (前の時代は「信仰の時代(AD500-1500,中世)」)
     古代ギリシャ時代のような理屈で考える学問を復活させよう運動(ルネサンス
 
     「人間は何をどこまで認識できるのか?人間が認識したことは本当に正しいのか?
     考える前にまずそこをきちんと明らかにしよう」
          ・人間の認識は正しいのか?
          ・正しいという根拠はどこから得られるのか?
          ・認識に限界はあるのか?
               ↓
          「認識論」
 
デカルト(合理論)(1596年(文禄5年)3月31日 - 1650年2月11日)フランス(満53歳没)

 
     「人間の認識をあえて徹底的に疑ってみることで「人間の認識の正しさ」を証明する」(方法的懐疑
          ↓
     「人間が認識したものを疑って、疑って、それでもなお疑えないものが出てくるかどうか試してみる」
          ↓
          1.人間の認識は全て疑わしい。勘違いかも、夢かも、悪霊かも
          2.しかし、その「私は疑っている」という事実そのものは決して疑うことはできない
          3.なぜなら「疑うことを疑った」としても、やっぱり「疑っている」という事実にゆるぎはない
               ↓
          4.というわけで、「考える私」は確実に存在する
          5.さて、その私は「神」という存在を知っている
          6.ここで、神は「完全で無限の存在」であるわけだが、一方、私は「不完全で有限の存在」である。
               ならば、その私が「神」を知っているのは明らかにおかしい
          7.したがって、「神」という概念は、私が考えだしたものではなく、「私の外部から」与えられたものである
          8.ゆえに、神は存在する
               ↓
          9.というわけで「神」は確実に存在する
          10.「神」が存在するのだから、世界はでたらめに作られてはおらず、きちんと合理的にできているはずである。また「神」が人間を騙したり、悪意を持ってでたらめな認識を与えたりもしないだろう(なぜなら神は完璧に正しい存在なのだから)
          11.ゆえに、人間が「明晰な状態(俺は今パッチリ目が覚めているぞと強く自覚している状態)」で認識したものは確実に正しい
 
    ・「神」を「無限」に置き換えてみると、、、
          「人間、は「無限」という概念を知っている。ここで、人間の思考は、有限の物質から構成された「脳という機械」の計算結果にすぎないというのが常識であるわけだが、そもそも、有限の物質からできた機械(脳)の内側に「無限」という概念を生じさせることは可能なのだろうか?」
 
          ※ロジャー・ペンローズ(1931~)
          「人間の精神(思考)は、脳細胞の機能的動作だけでは説明できない。
          今の科学の常識を超えた未知の何かを持ち込む必要がある。」
               ↓
          現在の計算機の限界を調べるために、まず「究極のマシン」を想定し、その限界を調べてみた。
          すると、無限に関するいくつかの問題が解けないという事が数学的に証明できました。
               ↓
          計算機と無限はとても相性が悪い。人間は無限に関する問題を容易に解けてしまう。
          人間の脳は計算機的な仕組みで成り立っていない。
               ↓
          人間の思考は脳という物理機械だけでは説明できず、何らかの未知の要素を持ち込まなくてはならない。
               ↑
          ・ホーキング博士が反論
     
     
・ヒューム(経験論)(1711年(正徳元年)4月26日(グレゴリオ暦5月7日)- 1776年8月25日)スコットランド(満65歳没)

 
     デカルト -- 大陸合理論    -- 演繹法(えんえき)-- ロマン主義
               A=B、B=C、A=C 理屈に基づいて結論を導くやり方
               ・理論、数学などの一定のルールに従って答えを導き出すので、誰がやっても同じ結果が得られる
               ・出発点であ前提が絶対的に正しいものであれば、答えも絶対正しい
                    ↓
     ヒューム -- イギリス経験論 -- 帰納法 -- 現実主義
                たくさんの観察事実から共通点を見つけ出し暫定的な結論を導く
 
     ・複合概念 -- ペガサスについての知識=馬についての経験+翼についての経験
 
     「私とは、知覚の束にすぎない
          まず最初に知覚があって、それが次から次へと連続してやってくるから、「それらを感じ続けている固定的な存在がいる」という実感が生まれ、そこから「私」という概念が生じた、、、というのが本当なんじゃないの?
 
      ・デカルトの合理論(「神の存在」「私の存在」「絶対的な正しさ(真理)の存在」)をヒュームは(経験論)で否定
 
      「正しい」というのも経験から生み出された一つの概念である。人間という「経験する機械」が勝手に自分の中に生み出した創造物。しかもその根拠は「今までの経験からいってそんな気がしましたー」という程度のもの。
 
 
・カント(1724年(享保9年)4月22日 - 1804年2月12日)ドイツ(満79歳没)

 
     経験論に従うなら、、、
          幾何学や論理学など、人間全体で共有可能な概念は「たまたま同じような経験をした人たちが集まってそういう概念を生み出し、共有しているだけのものにすぎない。全人類にとって絶対的に正しいものではない。」
               ↓
     人それぞれの経験の違いによらず、人間ならだれもが必ず「正しい」と言わざるを得ない唯一の考え方(概念)が存在しているのではないだろうか?
 
     「人それぞれの経験によらない概念」を見つけるために「経験とは何か?経験が成立するための前提条件とは何か?」
          ↓
     「時間と空間という概念」が前提として必要であり、これらの概念が人間の中に最初から存在していなければ、そもそも経験すること自体が不可能である。
 
     ・世界(モノ自体)=DVD
     ・変換装置(精神)=パソコン
     ・経験=動画
 
     ・人それぞれではない合理的な法則(数学や幾何学)が変換装置によって生じており、人間(同じ変換装置、同じ経験形式を持つ生物)ならば誰もがその合理的な法則を正しいと言わざるをえない。したがって、演繹法(大陸合理論)が成り立つ。
     ・経験が発生した後に、その経験に基づいて人それぞれの概念が生み出される。したがって帰納法(イギリス経験論)が成り立つ。
 
     <カント哲学のまとめ>
     1.人間は人それぞれの経験の違いによらない、「生まれつきの概念」を持っている。
     2.その「生まれつきの概念」は、人間固有の経験形式に由来するものであり、人類全体で共有可能なものである。
          そして、人間がそういう「共有可能な概念」を持っていることは、演繹法(人間ならだれもが正しいと言わざるを得ない合理的な思考方法)が成立することの根拠となる。→合理論復活
     3.ただし、その演繹法でどんな答えを導き出そうと、それは人間の中だけの真理にすぎない。→
          ①モノ自体は絶対に知りえない -- 変換装置(精神)を通さずにモノを知ることはできない
          ②人間の思考形式の範囲外のものは知りえない -- 人間は誰であろうとその思考形式の範囲内でしか考えられない
 
     ・「真理(客観)と人間(主観)の関係」を逆転させた→コペルニクス的転換
 
     「純粋理性批判
 
     ・思考テスト
     (人間なら絶対にこう考えざるを得ない、生まれつきの思考形式」だけを使っており、その思考形式だけで矛盾が発生してしまっている)
    
     1.ある問題Aを想定する。(宇宙には始まりがあるか?)
 
     2.その問題Aを真(はい)と仮定して、カントが分析した「人間の思考形式」に従って思索を進めてみて矛盾が発生するかどうか調べる。
          (宇宙には始まりがある)
               ↓
          (宇宙が始まる前の状態=「宇宙がまだ存在していない無の状態」があったことになる
               ↓
          無から宇宙が生じた(何の原因もなく宇宙が生じた)=おかしい
 
     3.その問題Aを偽(いいえ)と仮定して、同様に思索を進めてみて矛盾が発生するかどうかを調べる。
          (宇宙には始まりがない)
               ↓
          ある時刻の宇宙が存在するための前提=宇宙は無限の時間(無限の過去)が過ぎ去ってなくてはならない=おかしい
 
     この思考テストをやってみて「真偽のどちらを仮定しても矛盾が発生する」のであれば、その問題は「人間の思考形式において真偽の判定ができない問題」
 
     ※・宇宙は分割不可能な最小単位(原子や素粒子など)から構成されているのか?それともそうではないのか?
        ・人間に自由意思はあるのか?それとも物理法則通りに動くだけの機械にすぎないのか?
        ・全ての原因となる絶対者(神)は存在するのか?それとも存在しないのか?
 
 
ヘーゲル(1770年(明和7年)8月27日 - 1831年11月14日)ドイツ(満61歳没)

 
     ・人間には限界なんかない
     合理主義哲学(近代哲学)を完成させて「終わらせてしまう」
 
     ・カント -- 人間はモノ自体を知ることは絶対にできない
     ・ヘーゲル -- 認識の可能性がゼロの存在はないのといっしょ。もうそれを「世界」と言わなければよい。
          カントが言っているのは「人間の外側の存在(モノ自体)」という概念が、人間の中に生じました、ということだけ。
 
    ・ 私(人間の精神)=世界
          ・経験論=しょせん、世界は人間の経験から生じた思い込み、人間の内側での出来事の集まりにすぎない
          ・ヘーゲル=てことは、世界って私の内側で作り出されたものってこと、私=世界
 
     「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」
          人間は「合理的に物事をとらえる能力(理性)」を持っていて、それによって現実世界が形作られているのだから(理性の働きによって人間にとって現実だと思えるようなものが現れているのだから)、世界が合理的な構造をもっているように見えるのは当たり前
 
     ・カント -- 人間の経験形式は固定的に決まっているのだからどう認識するか、どう思考するかの形式もすべて固定的に決まっている。
                    ゆえに人間が知ることには一定の限界がある、人間は普遍的真理に到達できない(限界論)
     ・ヘーゲル -- 人間の認識が固定的という説はおかしい
                    小さな集落→巨大な王国国家→自由で平等な民主国家
 
     「人間の精神は、弁証法に従って成長していく」
          世界を生じさせている「人間の精神」が「物事を合理的に改善していく、弁証法的な存在」だから
               ↓
          私=世界=神(絶対精神)
               ヘーゲル以前 -- 「私と世界」の二元論的世界観
               ヘーゲル -- 一元論世界観(私の精神現象=世界)
 
     「精神現象学
     「我々がモノについて何らかの知識を得る場合、もちろんその知識は、「我々にとって」という一つの対象物である。
     だから、我々がモノについて何らかの知識を主張するとき、実のところ、それはモノのホントウの姿を言い当てているのではなく、
     「モノのホントウの姿についての知識が我々の対象としてそこに在る」という事にすぎない。すなわち、実在は我々の内にある。」
 
     「テーブルの上にリンゴがある」といった場合、「そこに確実にある」と言えるのは「リンゴというモノをのもの」ではなく、
     「「リンゴというモノがそこに在る」という知識(概念)」
 
     ・今までの世界観  「私が存在する。そして、私とは別に、独立した世界が存在する。」
          ↓
     「では、私は、その世界をきちんと認識できているのだろうか?」
          ↓
     できる、できない ← これが混乱のはじまり
 
     ・ヘーゲル私が認識したもの(私の精神現象)=世界
          「人間にはどうにもならないものが存在しているでしょ?」という考えが思い込み。
          弁証法=より高い次元の認識(理解)を手に入れ、物事の対立を解消していくこと
                         ↓
          人間にとって不都合な事、不可解な事を世界から一つずつ消していく行為
                         ↓
          人間(主観)に対立するモノ(客観)がなくなった状態=世界のすべてが私(精神)
 
          「真理とは全体である」
          東洋哲学=インド哲学の梵我一如、釈迦の仏教、老荘思想の道(タオ)
 
 
 
第3章    <実存主義>の哲学
 
     ・実存(Existential)=現実存在
          本質存在(物事の本質、見たり触れたりできない) ⇔ 現実存在(現実のものごと、見たり触れたりできる)
 
     ・人間は自分で自分の生き方(在り方)を決めることができる「主体的な意志」を持っているから
 
キルケゴール(1813年(文化10年)5月5日 - 1855年11月11日)デンマーク(満42歳没)

 
 
          ↓
     ネガティヴ→楽天的なヘーゲルが嫌い
 
     「死にいたる病」→死ぬまで続く病
          ↓
          絶望
          ↓
     「自分自身から抜け出そうと欲すること。これがあらゆる絶望の定式である」
          「こういう自分になりたい。ああいう自分になりたい。こんな自分だったらいいのに」
          「今のままではいけない、何かをしなければいけない。私は今の自分とは違う、何者かにならなければいけない」
          ↓
     理想にはキリがない
 
     「誰かが気絶したとき、我々は水や気付け薬を持ってこいと叫ぶ。しかし、誰かが絶望しているとしたら、その時には
     「可能性を持って来い」と叫ばなけれはならない。可能性のみが唯一の救いなのである」
          ↓
     究極の可能性=神
 
 
サルトル(1905年(明治38年)6月21日 - 1980年4月15日)フランス(満74歳没)

 
 
     「実存は本質に先立つ」→人間は「人間とはこういうものだ」というような本質を持つよりも前に、存在してしまっている
          (例)
               ・ペーパーナイフが「(紙を切るためのものだ)」という本質(目的、意味)を先立って与えられ、その後に存在を与えられた。
                    ↓
               本質は、ペーパーナイフより先立つ
 
               ・人間は本質(目的、意味)を持たずに生まれてくる。人間は自分の意志によって「こういう存在でありたい、こういう目的を持って生きたい」といった願いを、後から自由に持つことができる
                    ↓
               人間(実存)は本質に先立つ
 
     ・「実存」=主体的意思を持った、本質を言い当てられない特別な存在=人間
 
     ・サルトル「石もリンゴも家もテーブルも、存在する現実のすべてのモノ(実存)」は本質に先立って存在する
                ペーパーナイフでも本質(目的、意味)は人間が勝手に貼り付けたシール(思い込み)
               ↓
               人間の側でそれを引きはがして、シールが貼られる前の(思い込みが生じる前の)ありのままの存在(モノ)を眺めたら,,,
          
     ・「嘔吐」
          マロニエの木の根は、ちょうど私の腰かけていたベンチの真下の大地に、深く突き刺さっていた。それを見て、私はそれが根であることを思い出せなかった。「根」という言葉が消えうせ、その意味もその使用法も忘れてしまったのだ。
          背を丸め、頭を低く垂れ、たった一人で私は、その黒く節くれだった塊としばらく向かい合っていた。(略)
          すると、「存在」のヴェールがふいに剥がれた。抽象的なカテゴリを持った「姿かたち」というものが、すべて失われてしまったのだ。
          「木の根」だけではない、「柵」も「ベンチ」も「芝生」も、すべてが消えうせていた。。。結局、存在とは、捏粉のようなもの(小麦粉に水を溶かしたようなドロドロとした塊)。木の根は、その捏ねられたものにすぎなかったのだ。。。モノの多様性、その個性など、つまるところ、見せかけの幻、単なるシミにすぎず、そして、今、そのシミが溶けてしまった。もはやそこに在るものは、怪物じみたやわらかい無秩序の塊――恐ろしく忌まわしい裸の塊だけであった
 
      絶望的だ、、、でも、だからこそ、、、
          ↓
     「世界に意味がないなら、自分で作ればいい」
 
     ・アンガージェマン
          人生に意味はない、しかし、だからこそ、あえて自分から社会に積極的に参加しよう
     Engagement -- エンゲージ(婚約) エンゲージする者
     
     パリの五月革命(女子寮に入りたいと騒いだらフランス政府を倒してしまった事件) 
 
 
 
第4章    <構造主義>の哲学
 

 
 
     人類は全員性的欲望を持っている→抑圧
 
     ・無意識、深層意識 ← 幼児期のつらい記憶、トラウマ
          
     ・実存主義 -- 人間は「自分の意志(主体的意思)」を持っており、その意志によって自由に「自分の本質」を決めることができる。
                         人間とは、そのような素晴らしい特別な存在
               ↓
     ・フロイトの無意識の概念 -- 「自分の意志(主体的意思)」ってないんじゃないの?
 
 
レヴィ=ストロース(1908年(明治41年)11月28日 - 2009年10月30日)ベルギー(満100歳没)

 
 
     人類学者(実際に現地に赴いてそこで暮らし、その土地の文化を調べる。フィールドワーカー的。)
     
     未開社会のイトコ同士の結婚ルール
     ランダムに1000人の人間を選んで、隔離された部屋に各10人づつ分ける→どこの部屋でもジャンケンみたいなものが開発される
     
     もしかしたら、この世界には、結婚関係について「こういうふうに結婚すると家同士の交流が広がるよ(社会が発展するよ)という
     「隠された構造(秘密の仕組み)」みたいなものがあって、未開社会の人々はそれを無意識に選びとったのではないだろうか
 
     ・人間の意志がまず最初にあり、その意志が自由に物事を考え、オリジナルの便利な新しいルールを生み出した」のではなく、
     「世界には最初から「特定のルール」が隠されており、人間は無意識にそのルールを選んだ」
          ↓
     人間社会のルールは、個人個人がその意思によって一生懸命考えて出来上がったわけじゃない。
     実は、世界に内在している既存の構造を、無意識がかってに選びとってできただけ
 
     「自分の意志で、自由に決める」「個人の主体的意思による決断底が真理」ということが、隣の部屋の連中とそっくり。
     「何か」に操られて行動している。「自分で選んでいる」と思い込んでいる。
 
     ・観察事実に基づくことから導き出された論
 
 
ウィトゲンシュタイン(1889年(明治22年)4月26日 - 1951年4月29日)オーストリア(満62歳没)

 
 
 
     ・構造
     いびつな丸い図形Aだけを見る or いびつな丸い図形A~Eを見る 
          ↓
     図形Aだけだと、その図形の特徴が「たまたま偶然そうなっているのか、必然的にそうなっているのか」を区別することができないが、
     図形A~Eを見ると、多数のモノを比較して「共通的な特徴(それらの図形を成立させている根本の構造)(真円)」を取り出すことで、容易にその区別ができる
     「創造」についても役に立つ。根本の構造が「真円」だとわかっている人は、その真円を適当に歪ませて、新しい図形Xを作ることができる。  
          ↓
     ・「個」を見るより「多」を見て、それらを成立させている根本の構造を見出そう。そうしたほうがより対象を深く知ることができ、
     新しいものをつくることにも役立つ
 
      構造主義の入門書では「構造主義=西洋中心主義批判」という紹介のされ方が多いのは西洋人は、西洋文明が最高だと思い込み、西洋という一個の視点や文化でしか物事を見ようとしない。しかし、物事を深く知りたければ、東洋や未開社会の文化や考え方にも、もっと目を向けなければならない。そして、西洋文明を「多」の中の一つとして位置づけ、その「構造」を見つけ出し、広い視野で物事を理解しようとしなければならない
 
      ・言葉の構造
 
     思考とは「言語を所定の規則に従って操作すること」
          ↓
     言語=思考
          ↓
     さまざまな「言語」を分析して、そこに隠されている「共通の構造」「普遍的構造」を見つけ出せば、
     思考の「構造」を見つけ出したことになる
          ↓
     新しい思考体系、哲学が生み出せる
 
 
     <前期ウィトゲンシュタイン
     「哲学を終わらせた」
     変人
 
     ・ウィトゲンシュタインの言葉の定義
     1.世界とは事実の集合である。
     2.言語とは、その事実を記述したものである。
     3.したがって、言語とは、世界(事実)を映し出す鏡(像)である。
 
     「哲学なんて無意味。実は、今まで哲学者が語ってきたことは全部、言葉の使い方の勘違いから生まれた「無意味な文字の羅列」にすぎなかった。というわけで哲学は終わり。解散。」
          ↓
     言葉の役割が、事実の記述であるとするならば、どの言語(文章)も必ず何らかの事実と対応していなくてはならない。
     逆に、何の事実にも対応していない言語(文章)があったとしたら、それはもはや言語ではなく、ただの「無意味な文字の羅列」
          ↓
     「神は存在する」→確認不可能→無意味な文字の羅列
     「私は彼を愛している」→確認不可能→無意味な文字の羅列
                         ↓
               ・「〇年〇月〇日〇時〇秒、私の網膜に彼の映像が映りこみ、その刺激信号が私の脳内の特定部位を活性化させ、そこから化学物質が大量に分泌され、私の心拍数が上がった」
               これが実際に起きたことであり、事実。このように語られたものだけが言語。
          
     「語りえないものについては、沈黙しなくてはならない」
          神とか愛とか、語りえない何かが存在するかどうかは知ったことではない。とにかく、言語的に語れないものは言語的に語れない。
          これは単に、言語の表現能力の問題に過ぎない。だから「語れないものが世界の中に存在する可能性だってあるんじゃないですか?」
          とか私に聞かないこと。そんなことは私の知ったことではない。
          私はただ、言語とはこういう性質のものであるのだから、言語で語れるのはこういう範囲のものだけです、と言っているにすぎない。
          というわけで、哲学者たちは、語れないものは語れないのだから語るべきではない。(語ってもいいが、言語として成立していないから
          意味不明の文字だとみなす。)
 
          ※別解釈
          ・語りえないものについては無理して語らず、語れるものを語り尽くすことで、結果として語りえないものを示しなさい。
          語りえないものは語りえないけど「存在する」と言いたかった。
 
 
     <後期ウィトゲンシュタイン
     「哲学を終わらせた、と言ったのは間違いだった」
          
          「これはどんな意味?」→「アゴをこする」
               ↓
          何の事実とも対応しないものが、意味を持って相手に伝わってしまった。
               ↓
          新しい言語の定義 「言語の意味とは、その使用である」(意味の使用説)
                                        ↓
                                   「言葉の意味は、どう使うかで決まる」
                                        ↓
                                   「言葉の意味は、シチュエーションで決まる。言葉はどういう状況で使ったかによって意味が変わる。」
                                   ※「水!」
                                        ・水を飲ませてください!、水がこぼれるから気をつけなさい!
 
          言葉→使用状況→意味
               その関係性は「特に根拠があって決まるのではなく、それぞれの文化圏で、たまたま偶然的に決まるだけ」
 
 
    言語ゲームとは何か
          ゲーム=一定のルールの集まり。
          ルール=「そうでなくてはならない根拠」というものは存在しない。
               ↓
          ゲーム=偶然的に、たまたま、そうなっただけのルールの集合によって成り立っているだけのもの
 
          ①まず、大前提として、人間の思考は言語的に行われているものとする。
               「思考=言語」
          ②しかし、言語の正体が、何の根拠もないルールの集合であり、「言葉の意味」がこの無根拠なルールによって決まっているとしたら、人間はどんなに言葉を重ねて「答え(意味)」を導き出そうと、それは、あくまでも、「その無根拠なルールの中において導き出された答え(意味)」にすぎなくなる。
          ③したがって、言語がそうである以上、人間はどんなに思索を重ねても、普遍的で客観的な答え(意味)にたどり着くことはできない。
 
 
     構造主義 「西洋、東洋、未開を問わず、とにかく全部並べてみて、そこから「普遍的な構造」を見つけ出すことで物事の本質を把握しよう」
          ↓
     廃れた理由① 言語の構造を分析したら構造主義(を含む従来の哲学)が破綻した。
                     言語は無根拠なルール(それぞれの文化圏の社会的慣習)によって成り立っており、その言語をどんなに駆使したところで「普遍的な答え(異なる慣習を持つ別社会の人々にも通じる共通の答え)を導くことは不可能」       
     廃れた理由② 何を構造として見出すかは、その人のさじ加減という事がわかってきた
                    ウィトゲンシュタインパラドックス
                         1,3,5,7,9,11,13,□
                         15 or 14(「晴れの日は奇数、雨の日は偶数を書く」という規則性によって生み出されたものだったら14」
                    「人間は複数の対象を比較することによって、そこから確実な規則性を取り出すことはできない。」
 
 
 
第5章    <ポスト構造主義>の哲学
 
     ・ポスト(次の)構造主義 → 構造主義以降、人類はブームとなるような哲学(主義)を生み出せていない
          ↓
     あえて名づけると「真理批判主義」 or 「反哲学主義」
          ・人類は古代の昔から真理というものをずっと追い求めてきた。真理とは、石とか山とか目に見えるモノ以上のもの。
          絶対的な正しさ、法則、構造、本質、価値など、目に見えない「何か」。
          哲学も、科学も、すべての学問が、目に見えるモノごとから目に見えない真理(本質、法則)を見いだすことによって成立している。
               ↓
          ・最新最強の哲学、構造主義が破綻。失敗。
          ・真理(唯一正しいもの、真の宗教、政治思想)を求めて争えば地球がメチャメチャになる
               ↓
          お互いの立場を尊重しましょう
          多様性を大事にしましょう
 
 
デリダ(1930年(昭和5年)7月15日 - 2004年10月8日)フランス(満74歳没)

 
 
     ・難解
          デリダ自身が「この本は解読不能です」と書いている。
          「誰かの書いた言葉に「真理(唯一の解釈、一意に決定される意味)」があるというのは思い込みだ。どんな言葉も特定可能な意味を持たない。」
 
    ・「ルールに縛られてはいけない」
          言葉に従ってルールに縛られなければルールに縛られたことになる。「ルールに縛られてはいけない」を実行することは原理的に不可能
 
      ・「どのような文章でも、その文章の反対の意味を取り出すことが可能である」
           
     ・まとめ
          ①文章の真の意味は知りようがない。文章を読んで真の意味を得られる(意味が一つに決定される)というのは思い込みである。
          ② だから、皆好き勝手に「意味(解釈)」を与えて、自由に読めばいい
          ↓
          文章を「物事」、意味を「構造」と読み替えてみると、構造主義の破綻に対する一つの回答
          ↓
          物事を並べても、真の構造(本質)を知りようがない。そもそも、そういう構造(本質)が物事に隠されていて、それを取り出せるという考え自体が思い込み。だからもう、個人個人が好き勝手に、構造でも、本質でも、なんでも自由に取り出していけばよい。
 
     脱構築
          唯一不変の正しい理論や解釈などないのだから、どんどん視点をずらして新しい理論や新解釈を積極的に生み出し続けて、理論や
          解釈が硬い構築物になることから脱しよう
 
     1.テキストの内部から批判せよ
          「なるほど、あなたの文章は正しい、で、あなたの意見を素直に読むとこういうことになるよね」
     2.テキストの前提となっている対立構図(二項対立)を見つけ出し、解体せよ
          対立構図(全/悪、生/死、純愛/不倫)
          純粋の美しさをうたう歴史的名書は、不倫をしつこく非難することによって実は不倫の魅力を語っていたのだ
 
     ・ハイデガー - 解体(destruction)
     ・デリダ - 脱構築(deconstruction)
          ↓
     「どうかみなさん、論を破壊する為だけに脱構築という手法を使わないでください」という意味を込めて。
          ↓
     しかし、真理の破壊を推奨する主張であるかのように捉えられ、真理批判主義、反哲学主義の傾向へ。
 
 
ボードリヤール(1929年(昭和4年)7月27日 - 2007年3月6日)フランス(満77歳没)

 
 
     「新しい主義を掲げる時代はもうやってきません!」
 
     ・破たんしない資本主義社会
          ボードリヤールが主張する「資本主義社会が破たんしない理由」
           ↓
          破綻しない自己完結システム
          資本主義社会は、すでに「生産時代」を終えて、「消費時代」に移っており、しかも記号を消費する時代になったから破綻しないのだ
 
         ・消費される記号には実態がない→無限に生産できる
               社会を構成する人間を「欲望を持った生き物」と定義する
               欲望=単純に「お腹が空いたからご飯を食べたい」「寒いから服を着たい」
                    ↓
               現代は技術力が向上し、生物的な欲望がすべて満たせる時代
                    ↓
               より美味しいものを食べたい、より素敵な服を着たい(「より」「さらに」には上限がある)
               
               「前年よりも良いものです、流行っています、高級品です」的な記号を付けて新商品を作り出すことは可能
 
     1.実体のない、見せかけのだけの記号(高級感、お得感だと、欲望を刺激するイメージを生み出す何か)が付与された
          商品は無限に生み出すことができる。
     2.でもしょせんは見せかけだけの商品なのだから、そんなものをいくら作ったところで(経済を回したところで)、社会は今のまま、どんな未来にも到達しない。
     3.しかも、こうした経済活動の不毛さ、おかしさに気づく前に人間の寿命は尽きてしまう。だから、同じ経済活動が永遠に繰り返され、社会が変わることはありえない。
 
     記号消費社会の中で働くということ→記号を作り出すということ
     「(自分の)欲望が、(他者の)欲望を生み出す」
          ↓
     記号を追いかける過程の中に、別の新しい記号を生み出す過程(労働)が含まれてしまっているため、記号が無限に生産され、記号消費社会は終わることなく続いていく
 
     「反社会的活動」も、今や記号消費社会システムにおいて、消費される記号の一つになった。つまり、それらの活動は、システムを存続させるための部品にすぎず、もはやシステムを変える力を持たない。
 
          1.人間は好む好まないにかかわらず、なんらかのシステム(社会、価値観や分別の体系)の中に捕らわれている。
               人間は、そのシステムが提供する範囲の中でしか「思考」も「行動」も「欲望」も出来ない。
          2.したがって、人間がシステムを超えることはできず、システムの外側に出ることもできない。人間は、システムの枠を超えた「普遍的な真理」を得ることはできず、システムが提供する枠組みの中でぐるぐる回り続けるしかない。
 
ドゥールズガタリ -- 「人間は資本主義の仕組みから抜け出せない」
 
 
 
第6章    これからの哲学
 
     ・合理主義
          「宗教家(神さま主義)の連中は何をやっているのか?ぜんぜん信用できない。これからはちゃんと理性の力を使って合理的に物事を考えていこう。そのために、まず、理性(認識)の機能や限界について、しっかりと考えていくべきだ。」
     
デカルト(合理論)
         「我思う、ゆえに我あり
          1.人間の認識は全て疑わしい。勘違いかも、夢かも、悪霊かも
          2.しかし、その「私は疑っている」という事実そのものは決して疑うことはできない
          3.なぜなら「疑うことを疑った」としても、やっぱり「疑っている」ちう事実にゆるぎはない
               ↓
          4.というわけで、「考える私」は確実に存在する
          5.さて、その私は「神」という存在を知っている
          6.ここで、神は「完全で無限の存在」であるわけだが、一方、私は「不完全で有限の存在」である。
               ならが、その私が「神」を知っているのは明らかにおかしい
          7.したがって、「神」という概念は、私が感が出したものではなく、「私の外部から」与えられたものである
          8.ゆえに、神は存在する
               ↓
          9.というわけで「神」は確実に存在する
          10.「神」が存在するのだから、世界はでたらめに作られてはおらず、きちんと合理的にできているはずである。
               また「神」が人間を騙したり、悪意を持ってでたらめな認識を与えたりもしないだろう(なぜなら神は完璧に正しい存在なのだから)
          11.ゆえに、人間が「明晰な状態(俺は今パッチリ目が覚めているぞと強く自覚している状態)」で認識したものは確実に正しい
 
・ヒューム(経験論)
      ・複合概念 -- ペガサスについての知識=馬についての経験+翼についての経験
                「私とは、知覚の束にすぎない」
          まず最初に知覚があって、それが次から次へと連続してやってくるから、「それらを感じ続けている固定的な存在がいる」という実感が生まれ、そこから「私」という概念が生じた、、、というのが本当なんじゃないの?
 
      ・デカルトの合理論(「神の存在」「私の存在」「絶対的な正しさ(真理)の存在」)をヒュームは(経験論)で否定
 
      「正しい」というのも経験から生み出された一つの概念である。人間という「経験する機械」が勝手に自分の中に
     生み出した創造物。しかもその根拠は「今までの経験からいってそんな気がしましたー」という程度のもの。
 
・カント    
     1.人間は人それぞれの経験の違いによらない、「生まれつきの概念」を持っている。
     2.その「生まれつきの概念」は、人間固有の経験形式に由来するものであり、人類全体で共有可能なものである。
          そして、人間がそういう「共有可能な概念」を持っていることは、演繹法(人間ならだれもが正しいと言わざるを得ない
          合理的な思考方法)が成立することの根拠となる。→合理論復活
     3.ただし、その演繹法でどんな答えを導き出そうと、それは人間の中だけの真理にすぎない。→
          ①モノ自体は絶対に知りえない -- 変換装置(精神)を通さずにモノを知ることはできない
          ②人間の思考形式の範囲外のものは知りえない -- 人間は誰であろうとその思考形式の範囲内でしか考えられない
 
     ・人間には限界なんかない
     ・カント -- 人間はモノ自体を知ることは絶対にできない
     ・ヘーゲル -- 認識の可能性がゼロの存在はないのといっしょ。もうそれを「世界」と言わなければよい。
          カントが言っているのは「人間の外側の存在(モノ自体)」という概念が、人間の中に生じました、ということだけ。
 
     ・カント -- 人間の経験形式は固定的に決まっているのだからどう認識するか、そう思考するかの形式もすべて固定的に決まっている。
                    ゆえに人間が知ることには一定の限界がある、人間は普遍的真理に到達できない(限界論)
     ・ヘーゲル -- 人間の認識が固定的という説はおかしい
                    小さな集落→巨大な王国国家→自由で平等な民主国家
 
     「人間の精神は、弁証法に従って成長していく」
          世界を生じさせている「人間の精神」が「物事を合理的に改善していく、弁証法的な存在」だから
               ↓
          私=世界=神(絶対精神)
               ヘーゲル以前 -- 「私と世界」の二元論的世界観
               ヘーゲル -- 一元論世界観(私の精神現象=世界)     
 
     ・ヘーゲル私が認識したもの(私の精神現象)=世界
          人間にはどうにもならないものが存在しているでしょ?」という考えが思い込み。
          弁証法=より高い次元の認識(理解)を手に入れ、物事の対立を解消していくこと
                         ↓
          人間にとって不都合な事、不可解な事を世界から一つずつ消していく行為
                         ↓
          人間(主観)に対立するモノ(客観)がなくなった状態=世界のすべてが私(精神)
 
          「真理とは全体である」
          東洋哲学=インド哲学の梵我一如、釈迦の仏教、老荘思想の道(タオ)
 
     ・実存主義
          「理性の機能や限界なんか調べても、人間についてわかるわけはない。人間は機械ではない。そうやって人間を一般化して考えるからダメ。
          もっと人間が「自由で主体的な意味を持った現実の存在(実存)だという前提で考えるべき。」」
 
     絶望
          ↓
     「自分自身から抜け出そうと欲すること。これがあらゆる絶望の定式である」
          「こういう自分になりたい。ああいう自分になりたい。こんな自分だったらいいのに」
          「今のままではいけない、何かをしなければいけない。私は今の自分とは違う、何者かにならなければいけない」
          ↓
     理想にはキリがない
 
     「誰かが気絶したとき、我々は水や気付け薬を持ってこいと叫ぶ。しかし、誰かが絶望しているとしたら、その時には「可能性を持って来い」と叫ばなけれはならない。可能性のみが唯一の救いなのである」
          ↓
     究極の可能性=神
 
     「実存は本質に先立つ」→人間は「人間とはこういうものだ」というような本質を持つよりも前に、存在してしまっている
     ・「実存」=主体的意思を持った、本質を言い当てられない特別な存在=人間
 
     ・サルトル「石もリンゴも家もテーブルも、存在する現実のすべてのモノ(実存)」は本質に先立って存在する
                ペーパーナイフでも本質(目的、意味)は人間が勝手に貼り付けたシール(思い込み)
               ↓
               人間の側でそれを引きはがして、シールが貼られる前の(思い込みが生じる前の)ありのままの存在(モノ)を眺めたら,,,
 
      絶望的だ、、、でも、だからこそ、、、
          ↓
     「世界に意味がないなら、自分で作ればいい」
 
     構造主義
          「人間が自由で主体的な意味を持っているというのはおかしい。人間の考えや行動は目に見えない構造に支配されている。
          そういうことをいう人間も同じような服を着て、同じようなことを言っている。人間の意志を賛美する前に、人間がどんな構造に支配されているかをまず調べるべき。」
 
     もしかしたら、この世界には、結婚関係について「こういうふうに結婚すると家同士の交流が広がるよ(社会が発展するよ)という
     「隠された構造(秘密の仕組み)」みたいなものがあって、未開社会の人々はそれを無意識に選びとったのではないだろうか
 
     ・人間の意志がまず最初にあり、その意志が自由に物事を考え、オリジナルの便利な新しいルールを生み出した」のではなく、
     「世界には最初から「特定のルール」が隠されており、人間は無意識にそのルールを選んだ」
          ↓
     人間社会のルールは、個人個人がその意思によって一生懸命考えて出来上がったわけじゃない。
     実は、世界に内在している既存の構造を、無意識がかってに選びとってできただけ
 
     「自分の意志で、自由に決める」「個人の主体的意思による決断底が真理」ということが、隣の部屋の連中とそっくり。
     「何か」に操られて行動している。「自分で選んでいる」と思い込んでいる。
 
     ・観察事実に基づくことから導き出された論
 
     <前期ウィトゲンシュタイン
      「哲学なんて無意味。実は、今まで哲学者が語ってきたことは全部、言葉の使い方の感じ外から生まれた「無意味な文字の羅列」にすぎなかった。というわけで哲学は終わり。解散。」
          ↓
     言葉の役割が、事実の記述であるとするならば、どの言語(文章)も必ず何らかの事実と対応していなくてはならない。
     逆に、何の事実にも対応していない言語(文章)があったとしたら、それはもはや言語ではなく、ただの「無意味な文字の羅列」
          ↓
     「神は存在する」→確認不可能→無意味な文字の羅列
     「私は彼を愛している」→確認不可能→無意味な文字の羅列
                         ↓
               ・「〇年〇月〇日〇時〇秒、私の網膜に彼の映像が映りこみ、その刺激信号が私の脳内の特定部位を活性化させ、そこから化学物質が大量に分泌され、私の心拍数が上がった」
               これが実際に起きたことであり、事実。このように語られたものだけが言語。
          
     「語りえないものについては、沈黙しなくてはならない」
          神とか愛とか、語りえない何かが存在するかどうかは知ったことではない。とにかく、言語的に語れないものは言語的に語れない。これは単に、言語の表現能力の問題に過ぎない。だから「語れないものが世界の中に存在する可能性だって あるんじゃないですか?」とか私に聞かないこと。そんなことは私の知ったことではない。
          私はただ、言語とはこういう性質のものであるのだから、言語で語れるのはこういう範囲のものだけです、と言っているにすぎない。
          というわけで、哲学者たちは、語れないものは語れないのだから語るべきではない。(語ってもいいが、言語として成立していないから意味不明の文字だとみなす。)
 
     <後期ウィトゲンシュタイン
     「哲学を終わらせた、と言ったのは間違いだった」
      言葉→使用状況→意味
               その関係性は「特に根拠があって決まるのではなく、それぞれの文化圏で、たまたま偶然的に決まるだけ」
 
          ①まず、大前提として、人間の思考は言語的に行われているものとする。
               「思考=言語」
          ②しかし、言語の正体が、何の根拠もないルールの集合であり、「言葉の意味」がこの無根拠なルールによって決まっているとしたら、人間はどんなに言葉を重ねて「答え(意味)」を導き出そうと、それは、あくまでも、「その無根拠なルールの中において導き出された答え(意味)」にすぎなくなる。
          ③したがって、言語がそうである以上、人間はどんなに思索を重ねても、普遍的で客観的な答え(意味)にたどり着くことはできない。
 
          「見えない構造って何?ではそれを見せてもらいたい。そんなものはわかるはずがない。そうやって、目に見えない真理やら構造やらを
          「ある!私が見つけた!一番正しい!」をいう人間がいるから悲惨な戦争が起きる。もうやめよう。人間は確かに構造に支配されて生きているが、その構造を完ぺきに把握することも出来なければ、抜け出すこともできない。ゆえに、構造(真理)を知ろうとする人間の営み(哲学)は、一切が無駄。解散。」
 
    ・「ルールに縛られてはいけない」
          言葉に従ってルールに縛られなければルールに縛られたことになる。「ルールに縛られてはいけない」を実行することは原理的に不可能
    ・「どのような文章でも、その文章の反対の意味を取り出すことが可能」
           
     ・まとめ
          ①文章の真の意味は知りようがない。文章を読んで真の意味を得られる(意味が一つに決定される)というのは思い込みである。
          ② だから、皆好き勝手に「意味(解釈)」を与えて、自由に読めばいい
          ↓
          文章を「物事」、意味を「構造」と読み替えてみると、構造主義の破綻に対する一つの回答
          ↓
          物事を並べても、真の構造(本質)を知りようがない。そもそも、そういう構造(本質)が物事に隠されていて、それを取り出せるという考え自体が思い込み。だからもう、個人個人が好き勝手に、構造でも、本質でも、なんでも自由に取り出していけばよい。
 
     脱構築
          唯一不変の正しい理論や解釈などないのだから、どんどん視点をずらして新しい理論や新解釈を積極的に生み出し続けて、理論や解釈が硬い構築物になることから脱しよう。
 
     1.テキストの内部から批判せよ
          「なるほど、あなたの文章は正しい、で、あなたの意見を素直に読むとこういうことになるよね」
     2.テキストの前提となっている対立構図(二項対立)を見つけ出し、解体せよ
          対立構図(全/悪、生/死、純愛/不倫)
          純粋の美しさをうたう歴史的名書は、不倫をしつこく非難することによって実は不倫の魅力を語っていたのだ
 
     「新しい主義を掲げる時代はもうやってきません!」
 
     ・破たんしない資本主義社会
     1.実体のない、見せかけのだけの記号(高級感、お得感だと、欲望を刺激するイメージを生み出す何か)が付与された商品は無限に生み出すことができる。
     2.でもしょせんは見せかけだけの商品なのだから、そんなものをいくら作ったところで(経済を回したところで)、社会は今のまま、どんな未来にも到達しない。
     3.しかも、こうした経済活動の不毛さ、おかしさに気づく前に人間の寿命は尽きてしまう。だから、同じ経済活動が永遠に繰り返され、社会が変わることはありえない。
 
          1.人間は好む好まないにかかわらず、なんらかのシステム(社会、価値観や分別の体系)の中に捕らわれている。
               人間は、そのシステムが提供する範囲の中でしか「思考」も「行動」も「欲望」も出来ない。
          2.したがって、人間がシステムを超えることはできず、システムの外側に出ることもできない。人間は、システムの枠を超えた「普遍的な真理」を得ることはできず、システムが提供する枠組みの中でぐるぐる回り続けるしかない。
 
ドゥールズガタリ -- 「人間は資本主義の仕組みから抜け出せない」
 
 
 
 
     ・ポスト構造主義の次の時代のテーマ
          ①働かない社会をつくるにはどうすればよいか
          ②
          ③
 
     ・今の私たちの社会の常識(雰囲気)
          「真理を目指すとか、社会を革命するとか、今どきそういうことを言っている人間は危ないよね。唯一不変の固定された「真理」などどこにもないし、「正しさ」など人それぞれ。立場によって変わるものだ。だから「宗教」や「政治思想」や「哲学」などにのめり込んで特定の何かに偏るのはやめて、今の社会で、普通に働いて、普通に生きて、楽しく暮らせればそれでいいのではないか?」
          ↓
     その常識(社会システム)を維持するための代償=人生(時間とエネルギー)を消費している
     「戦争をやっていた時代」や「食べ物が無くて貧乏だった時代」にくらべたらマシ
 
     Q.生きていくために働くのは当たり前。皆ががんばって働いているからこそ衣食住の提供が保障されているではないか。
          ↓
     A.昔はそうだったかもしれないが、今はほとんどの人達が「生きるために必要な商品以外のモノやサービス」を作り出す労働に従事している。
 
     ・ケインズの分析に基づいた簡易的な経済モデルの図
          無理やりにでも雇用を作り出せばいい。政府が公共事業を投入すればよい。
               Q. 他にやるべき言葉なくなったらどうするか?
               A. 「あらかじめ土の中にお金でも隠しておいて、そこを掘って埋めるような仕事をさせればよい。それでも景気対策には有効だ。」
 
          ケインズの経済理論(止まっているお金を見つけたら借金してでも無理やり吸い上げて社会に流し込んでやれ理論)
          ↓
          有効
 
          「政府がした借金は、好景気になった時に増税などをして、きちんと返済しなくてはならない」
          ↓
          無理。選挙で政権が決まる民主主義国家で増税は簡単にできない。結局少しづつしか増税せず、好景気でもどんどん公共事業を投入したため、信じられないほどの借金を抱え込むことになった。
 
     ・昔→生活に必要なものを作りたい→仕事をする
     ・今→とにかくお金をグルグル回したい→仕事をする
 
     記号消費社会で、今行われている仕事は、実はこの「穴掘り」なのではないだろうか?
          実際に、あなたがその仕事を「やりたい」と思っていればよい。だとしたらそれは幸運だ。どんどん仕事をすればいい。だが、そうではなく、その仕事をすることに一切の喜びもなく、また「仕事だから」その仕事をやっているのであれば、どう自分をごまかそうと、それはあなたにとって「穴掘り(社会を維持するために強制的にやらされている「公共」の事業)」である。
 
          ・ボードリヤール「労働者の死を延期すること」
                                   
                         社会が提供してくれる衣食住、医療、治安。それらは全て「延命」に貢献している。
                         社会は私たちに「死の延期」をプレゼントしてくれている。
                                   ↓
                         そのプレゼントがあまりに魅力的すぎるため社会に逆らえなくなってしまった。誰もが社会の奴隷となり、社会の継続に人生を費やすこと(労働のみじめさを甘受すること、やりたくもないことに貴重な時間を消費すること)を当たり前(常識)と思うようになってしまった。
 
     「労働とは何よりもまず生きることにしか値しないと判定されたみじめさの徴なのである。資本は労働者を死ぬほどに搾取するだって?
     とんでもない。逆説的なことだが資本が労働者に加える最悪のことは、労働者を死ねないようにすることだ。
     労働者の死を延期することで、資本は労働者を奴隷にし、労働のなかでの生の際限のないみじめさに労働者をしばりつけるのである。"
     — 『象徴交換と死』 ボードリヤール (ちくま学芸文庫)p95
 
          ・ボードリヤール「社会の言いなりになって労働して生きながらえるぐらいなら死んだ方がマシ。そんなふうに、死を選ぶ人間、助かろうとしない人間だけが、社会を変えられる可能性を持っている。」
     
               「生命を守りながら権力を廃棄するなどは、できない相談だ。(略)この生命をひき渡すこと、直接的な死によって延期された死に逆ねじをくらわすことだけが、根源的な返答であり、それこそが権力を廃棄する唯一の可能性である。(略)
               死の回避や延期は、主人が権力を安泰にするために利用されてしまうのだ。殺されないで、権力の与える死の猶予のなかで生きつづけ、お情けの生命を負ってこの生命を免れることがまったくできない状態、そして事実上長期信用債権を少しずつ清算していく義務を負って、労働という緩慢なる死のなかにとらえられている状態、しかもこの緩慢なる死がみじめな状態や権力の運命に何らの変化ももたらさないといった状態、これらすべてを拒否しなくてはならない。」
 
          (例)「殺さなければ殺される、ゆえにみんなが殺しあっているという完璧なシステム」があり、誰もがそのシステムの奴隷になっているという状況があったとする。その状況において、そのシステムを超えられる可能性があるとしたら、それは、、、「殺されても私は銃を撃たない」という人間、すなわち、「死の延期」というプレゼントを受け取らない人間、そういう人間が一定数以上増えること。
 
          ・現代においてこれに当てはまる人間=ニート
               働かず、社会に貢献もせず、何もしない。彼らは記号消費社会の歯車の一部となり労働させられることを負け(敗北)と断じ、社会システムに組み込まれることを一切拒否する。
 
          ・ニートへの批判
               働かざる者食うべからず、仕事もせずに生きるのはおこがましい。
               ニートが増えて、経済が破綻して社会が崩壊する。
               ニートも電気水道公共サービスを受けている。
              ↓
          反論はできない。
          反論できないのはその批判が「普遍的に正しいから」ではなく「今の社会の言葉」を使って返答しようとするから。
          「経済」「社会」「仕事」そもそも、こういう用語(言葉)を使っている時点で、ある一定の価値観の中に取り込まれてしまっている。
          例えば、「社会人」という言葉の中に「私情を押さえて社会に貢献できる人」という意味と、それを善しとする価値観が含まれている。
          したがって、これらの価値観から成り立つ言葉を使って、どんな反論をしようと、その言葉を生み出している価値観の外側に出ることはできない。
          なぜなら、価値観の外側に出ようとする反論の言葉も、その価値観の中でしか成立しない言葉でできているから。
          例えば「ホームラン」「ヒット」という野球用語を使いながら、野球という概念の外側に出ようとすることに似ている。不可能。
 
          ゆえに普通の反論では、基盤となるシステム(社会、言語ゲーム)の枠の中をぐるぐる回っているだけになってしまう。
          真の反論とは
          「えー、働かないと経済が回らない?意味わかんない?うふふ☆おっけー」
          極端で幼稚な返答。話しにならない。
          無理に古い価値観(王様は神聖な存在だ)に合わせれば、「話しにはなる」がそれではラチがあかない。
          幽霊を信じている人に「幽霊がいないこと」を論理的に説明しても無理。幽霊という相手の言葉に乗っかって、有無や是非を議論しても話しにはなるが決して先には進めない。だから、結局、どこかで誰かが、古い時代の価値観(労働は尊い)を「お話にならない」をしてポーンと捨て去ってしまわなくてはならない(言葉を重ねて論理的に否定するのではなく)。そして、誰かが、今の常識では極端に幼稚に思えるかもしれない、新しい考え方、新しい価値観を提示しなくてはならないのだ。
 
          ・「働かずに生きていける豊かな社会」は可能か?
               ケインズ -- 「私の結論は次のようなものである。すなわち、重大な戦争と顕著な人口の増大がないものとすれば、経済問題は100年以内に解決されるか、あるいは解決のめどがつくということである。これは、経済問題が―将来を見通すかぎり―人類の恒久的な問題ではないことを意味する。」
 
               「しかし人生が耐えられるのは、歌うことができる人たちにとってだけであろう―そして、我々のうちで歌うことができる者は何と少ないことだろう!かくて人間の創造以来はじめて、人間は真に恒久的な問題―経済上の切迫した心配からの解放をいかに利用するのか、科学と指数的成長によって獲得される余暇を賢明で快適で裕福な生活のためにどのように使えばよいのか、という問題に直面するであろう。」(わが孫たちの経済的可能性)
 
 
 

公園

ダウンタウンから歩いて30分くらいのところに、スタンレーパークと呼ばれる「公園」がある。そこにトーテムポールがあるというので行ってみた。

平日の午後だというのに、カナダの「公園」にはたくさんの人が。走り、歩き、自転車に乗り、インラインスケートをして。公園,公園、公園。自分が「公園」の文字から定義するスペースが、こっちの「Park」という単語が意味するスペースと異なっている。

スタンレーパークを1周するとおそらく15kmくらいあるのではないか。園内には適当なスポットごとに停車する循環バスが走り、誰もが無料でそれを利用することがキャン。できる。

自分もバスに乗って「公園」の一番奥まで行ってみた。イングリッシュベイに突き出た「半島」が「公園」なので、海岸線から船やダウンタウンの高層ビル群などが見える。

「公園」の一番奥から歩いて戻ってきたのだが、すごかった。

あれは、私たち日本人が言うところの「公園」ではなく「森」である。カナダの人に「夜の公園は危ない」と言われていたので、「夜の山下公園を女性一人で歩くと、チンコ見せてくる人とかがいて危ない」とか、そういう危なさを想像していたのだが、あれはそういうのではなく、普通に危ない。獣が出るかもしれない。

実際、森を歩いている間にも、ものすごい数のリスの群れ(何百匹)に遭遇したし、アライグマ、カモ、なんかよく分からない鳥、よくわからない小型哺乳類など、たくさんの動物、生物を見かけた。あれは森だ。でっかい木がたくさんある系の森だ。

森の中の山道のような森道は枝分かれしていて、疲れたら途中で循環バスが走る自動車用の道に出る事もできるらしい。自分はよく分からないままに歩いたので、どの道を通ったのかはっきりとは分かっていないが、森から出るのに結構な時間がかかった。

カナダの人たちは、日本でやると結構恥ずかしいくらいの本格的なピチピチスポーツウェアに身を包み、山道を走り抜ける。自転車で滑走する。日本人がウォークマンを買うときに「汗がイヤホンまわりの邪魔にならないか?」など、気にするだろうか。あの人たちはきっとそういうことも考えている。自転車を乗るときは最新化繊でできたピチピチのスパッツと、ウェアー、ヘルメット、グローヴ、ペダルに固定型のシューズ、流線形のサングラス。あの人たちをみていたら、自転車グッズ一式そろえたら自転車に乗るという感覚が変わるのかもしれないなと思った。

こっちの人は、結構本格的な、そういったアクティビィティを午前中に楽しみ、少し休憩し、ランチをとった後、午後からダウンタウンで、オフィスワークをこなす、と、いうような生活を送っている、らしい。公園で走りつかれたおじさんが言っていた。ストレスの溜まる前には仕事を切り上げ、ディナー、スポーツクラブなどでのフィットネス、そしてリラックス。

こういった生活と、自分が18年間見てきた私の父親の生活とを比較すると、結構強めの動揺が無きにしもあらず。

スタンレーパークでみた景色

スタンレーパークで見た景色

スタンレーパークで見た景色

スタンレーパークで見た黒いリス

スタンレーパークで見たアヒル

 

 

「インディアンの研究」って昨日書いておいて。自分は昨日インディアンの本を探し出すだけで図書館の閉館時間を迎えてしまいました。はっきり言って、インディアンの研究への道はけっこう遠いと思います。

今日は美術館へ行った。木曜日の夕方は寄付で入れる。rodinの彫刻が来ていた。「考える人」のあれだ。実は、自分、昔rodinが呉市に来たときに両親に連れて行かれたことがある。その時買ってもらった、絵葉書が多分、いまだ実家のどこかに眠っていると思うが、思うに、あれは誰宛てに送るべき絵葉書なんだろうか?ロダンに何の関係もない呉市で買ったロダンのあの絵葉書を。

美術館にはrodinの葬式の風景写真があって、棺桶のすぐとなりに、その棺桶を見下ろすように、けっこうでっかいめの「考える人」のブロンズ像があって、それを結構な数の人が正装で囲んでいて、笑えた。

そもそも、あれって考えてるんかな?いや、考えているんだろうな。あの人はあの人の存在について。今も昔も人間が求めるテーマは同じってことか。

ただ、今生きている自分達は、あの人たちよりその追求の道において進んでいるべきであって、きっと進んでいるはずだ。人間もどんどん頭がよくなっていって、、なにか、どうにかはなるんだろうな。知らないけれども。

実は昨日、ソーシャルインシュランスナンバーってやつが届いて、自分はきっとこれを待っていたはずで、これでやっと働けるんだけれども、なんか、なんか。嗚呼、多分自分はまだ働かないな。予想。スロースターターなんだよな、基本的に。

そういえば、英語が読めない自分でしたので図書からの情報吸収能率は低すぎることに気がつき、午前中、近所にある個人のギャラリーを回った。そこでインディアンについての情報を得るという作戦だ。

・ノースウェストコーストのインディアンは木を使った物が多い。シダーという木(たぶん杉)があるから。
エスキモーの人は木がないところに住んでいるので石とかが多い。アーギライトとかそんな感じの名前の石がどこかカナダの西側の島で取れる。元は灰色だが、どうにかしたら黒くなる。
・トーテムポールも最近は結構な道具を使って作っている。
・色は基本的に白黒赤緑。石、灰、炭、土、植物などから。青はもしかしたら、ヨーロッパ人が来てからかもしれない。今は、ほとんど普通の絵の具、ペンキ。
・正方形の木箱を作っているが、蒸気で曲げて一個所だけ接合している。それは結構すごい。
・絵のモチーフはやっぱり、人、太陽、月、魚、熊、蚊、獣、ネッシー的な怪獣とか、そういった物が多い。
・ヨーロッパ人は昔カワウソの皮を集めた。それは中国に行って売ると結構な金になったらしい。
・カナダに来た人たち。ロシア人1741年、スペイン人1778年、イギリス人(キャプテンクック)1778年。
暴れん坊将軍徳川吉宗が1684~1751らしいから、日本はそのころ江戸時代。ちなみに1702年(元禄15年)赤穂浪士討ち入り。

個人メモ;日本史と世界史、同時進行で整理。