2020年2月9日(日)、10時30分出発。
太子橋今市駅の交差点から、国道一号線を京都方面へ。京阪本通1の交差点はもう守口市。
パナソニックを通過し、大日の交差点で左折、大阪中央環状線(府道2号)に移り、淀川を渡ると摂津市。
近畿道、モノレールと並走する。結構寒いと思っていたら、小雪。
沢良宜駅を過ぎたところで右折、次の沢良宜橋交差点を左折し桜通りに入る。
桜通りの両側には木々が植えられた遊歩道が整備されており、公園などもあり、気持ちの良い道だった。茨木市役所を越えると通りの名前は川端通になっていた。
>「川端通り」は、ご存じ茨木市の名誉市民であり、ノーベル賞作家の川端康成氏に由来しています。
>幼くして両親と死別した康成は、茨木市宿久庄の祖父母に育てられ、三歳から十七歳までの多感な少年期をここ茨木で過ごしたのです。
>康成が茨木中学に通った道がこの「川端通り」です。
(茨木、高槻のディ―プな情報満載[ハーツウェブ]より)
川端通りのつきあたりで茨木川を渡り、すぐ右折し国道171号(大阪外環状線)に入り安威川を東に渡る。
そのまま400mほど進み三島岡西の交差点を左折し北へ。住宅地になる。
若干上っているような道をそのまま500mほど北へ進み、東太田4丁目交差点を左折すると、普通の住宅の並びに、「継体天皇三嶋藍野陵」(太田茶臼山古墳)の入り口があった。(大阪府茨木市太田3丁目)11時20分。
宮内庁管轄になっており、古墳内には立ち入り禁止。
誰もいなかった。自分が歩く砂利の音が大きく聞こえた。
きれいに整備された礼拝所が設けられていた。航空写真で見ると前方後円墳の前方側になる。
墳丘は水を湛えた周濠に囲まれている。墳丘長は226m。
特別に何があるというわけでもないが、シンプルな構成で空間の取り方が絶妙なのか、広々とした清々しい気持ちになる。
とても静かな場所で、自分が歩く砂利の音が止まった後は、自分の呼吸音だけが大きく聞こえる。しばらくすると、鳥の鳴き声や、風が木々の間を通り抜けていく音がしていたことに気がつく。
耳を澄まして聞いていると、それらはかなり広い範囲の、いろいろなところから聞こえていた。どこか遠くの方で車が走っているような音も聞こえた。
静かすぎて、ここにいるだけで瞑想しているときの心持ちになってしまいそうだった。
誰もいないと思っていたが、ふと、微かな視線を感じた。
垣根からネコがこちらを見ていた。
ここは宮内庁によって第26代継体天皇陵だと治定されているが、どうやらこの古墳の築造年代が継体天皇の没年(531年)に合わず、所在地も史書の記述と食い違う為、被葬者は明らかでないらしい。
発掘調査をすれば詳しいことがわかるかもしれないのだが、宮内庁管轄になっているために、それも不可能とのこと。
太田茶臼山古墳の周りには不自然に残された空き地がいくつかあり、道路はそれを避けるように曲がっていた。あれも遺跡なんだろうかと思っていたが、今調べたらやはりそうだった。
古墳の北側の道路を東へ進むとすぐ高槻市になる。そのまま1.5㎞ほどいくと、「今城塚古墳」と「今城塚古代歴史館」がある。
今城塚古墳は公園として整備されており、この古墳公園と歴史館の2つを総称して「高槻市立いましろ大王の杜」と名付けられている。
11時45分着、雪が結構降っていた。とても寒かった。
高槻の辺りは三島と呼ばれ、2万年前の旧石器時代から人が住んでいたらしい。
※三島古墳群 -- 淀川北岸、桧尾川流域から茨木川流域にあり、大阪府高槻市と茨木市(旧三島郡)にかけて広がる古墳と遺跡の総称。
古墳を作るために石を運ぶ人たちの等身大ジオラマ展示。この石はここのすぐ東側を流れている芥川から運んできたと説明にあった。
リアル、ある位置から眺めると、自分も石を運んでいる人になったような視点。
あの古墳の模様の線は埴輪が並んでいたのだった。
歴史館にはたくさんの埴輪が展示されていた。
先に訪れた「太田茶臼山古墳」から来た道のすぐ北側に「新池埴輪製作遺跡」、「ハニワ工場公園」などがあり、ここにある埴輪はそこで作られたものらしい。
発掘された石棺の模型もあった。大王が眠っていた様子も再現されていた。このピンク色の石は、阿蘇から運んでこられたものらしい。
当時の人たちがどうやって運んできたのかを体験するイベントも行われているとのこと。
1500年前の人たちが阿蘇からこのような巨石を運んでくるのはさぞや大変なことだっただろう。
先に訪れた、宮内庁が治定している「継体天皇三島藍野陵」(太田茶臼山古墳)は、天皇が崩御された時期と、古墳の築造時期がずれている為、学者の間では異論が唱えられているとのことだった。
そして、こちらの「今城塚古墳」は6世紀前半の築造されたことが判明しており、発掘調査などによって出てきた埋葬物などから考えても、現在の歴史学界ではこちらの「今城塚古墳」を真の継体天皇陵とするのが定説となっている、とのことだ。
※ 第26代 継体天皇
> 概略
>『記紀』によれば、15代応神天皇の「5世孫」であり越前国を治めていた。
>本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村・物部麁鹿火などの推戴を受けて即位したとされる。
>戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、「5世王」というその特異な出自と即位に至るまでの異例の経緯が議論の対象になった。
>その中で、ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪して現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする「王朝交替説」がさかんに唱えられるようになった。
>一方で、傍系王族の出身という『記紀』の記述を支持する声もあって、それまでの大王家との血縁関係については現在も議論がある。
※王朝交替説
>継体王朝(近江王朝)
>継体天皇は応神天皇5代の末裔とされているが、これが事実かどうかは判断がわかれている。水野祐は継体天皇は近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したとした。
>また、即位後もすぐには大和の地にはいらず、北河内や南山城などの地域を転々とし、即位20年目に大和にはいったことから、大和には継体天皇の即位を認めない勢力があって戦闘状態にあったと考える説(直木孝次郎説)や、継体天皇はその当時認められていた女系の天皇、すなわち近江の「息長氏」は大王家に妃を何度となく入れており継体天皇も息長氏系統の王位継承資格者であって、皇位簒奪のような王朝交替はなかったと考える説(平野邦雄説)がある。
>なお、継体天皇が事実応神天皇の5代の末裔であったとしても、これは血縁が非常に薄いため、王朝交替説とは関わりなく継体天皇をもって皇統に変更があったとみなす学者は多い。ただし、継体天皇の即位に当たっては前政権の支配機構をそっくりそのまま受け継いでいること、また血統の点でも前の大王家の皇女(手白香皇女)を妻として入り婿の形で皇位を継承していることなどから、これを新王朝として区別できるかどうかは疑問とする考え方もある。
(以上、wikipediaより)
※大伴氏・物部氏の淀川系 VS 蘇我氏の大和川系の権力争いがあったかもしれない。
※現在の歴史学者では、今の天皇家の血筋は「継体天皇」から始まったと考えている人も少なくないらしい。
※継体天皇←男大迹王(ヲホド王)
お淀クラブ「ヲホド、、OYODO meets OHODO...」
さらに、太田茶臼山古墳から北へ2㎞ほどの場所にある阿武山古墳は中臣鎌足の墓である可能性もあるらしいとの展示もあった。
高槻市、全然知らなかったけど、すごすぎる。
歴史館を出て、すぐ隣にある「今城塚古墳」を訪れた。
こちらは宮内庁治定を受けていない為、立ち入り禁止にはなっておらず、高槻市によって古墳公園として整備されている。
広々とした公園内では、たくさんの家族連れの方々がピクニックをしたり、散歩をしたりしていた。子供たちは走り回り、ラジコンカーで遊んだりしていた。皆がそれぞれの休日の午後を楽しんでいた。
鮮やかな色のフリースジャケットを着せてもらってラジコンカーで遊んでいる令和の子供たちを見ていると、1500年前の子供たちも、もっと前の2万年くらい前の子供たちも麻などで出来た服を着て走り回って遊んでいたりしたのだろうかと思った。今日のように雪の降る日もあっただろうか。寒くはなかっただろうか。
墳丘にも上れてしまう。
どうやら継体天皇の墓ではないようだとされる「継体天皇三嶋藍野陵」は、宮内庁の治定を受け、立ち入り禁止、発掘調査も出来ないまま、静かにその姿を残している。
一方、宮内庁の治定を受けていないが故に発掘調査が行われ、たくさんの埴輪や石棺などが発掘され、どうやらこっちが継体天皇の墓のようだとされる「今城塚古墳」は、現在も宇宙線ミュオン観測機などを使った調査なども続いていたり、古墳公園として開放され、たくさんの市民の憩いの場となっている。
歴史館と古墳公園をつなぐ陸橋の欄干に展示されていたパネル。
次回、「ポンポン山」につづく。。。
↓これはまじで罰が当たるぞと思った。