読んだ。 #読書と日本人 #津野海太郎

読んだ。 #読書と日本人 #津野海太郎
 
Ⅰ 日本人の読書小史
 
1 はじまりの読書
  『源氏物語』を読む少女/音読か黙読か/苛立つ菅原道真私の部屋がほしい/個人的な読書
 
3 「本はひとりで黙って読む。自発的に、たいていはじぶんの部屋で――。
 それがいま私たちがふつうに考える読書だとすると、こういう本の読み方は日本ではいつはじまったのだろう
 たぶんあのあたりかな、と思われる記録が二つ残されています。
 ひとつは菅原道真の「書斎記」という短い随筆で、9世紀の終わり近く、平安遷都のほぼ100年後に書かれたもの。そしてもうひとつが、ご存じの『更級日記』ですね。いなか育ちの中くらいの貴族の娘が親戚の女性に『源氏物語』のひと揃いをもらって、われを忘れて読みふける。あの愛すべき一節を含む回想録の執筆されたのが11世紀なかば――
 このふたつの文章から見て、いま私たちが<読書>とふつうに呼んでいる行為がこの国に根づきはじめたのは、おおまかにいって、菅原道真から同じ血筋の菅原孝標の女(むすめ)にいたる150年ほどのあいだのことだったのではないか、という推測が付く。つまり平安時代の中期
 
竹西寛子の現代語訳>
 これまでとびとびにほんの少しずつ読むだけで、あまり納得がゆかず、いらいらしていた源氏の物語なのですが、それを第一の巻から、誰にも邪魔されず、几帳の中にこもりっきりで、一冊一冊取り出して読んでゆく心地、もう后の位だって問題じゃないと思うくらいでした
 
13 私が「秀才」の資格を得ると、父上がおっしゃった。ここは由緒のある部屋だ。これからの猛勉強の日々、ここをお前の居場所にしなさい。私はただちにすだれや机を移し、あたりをととのえ、書物を運んできてそこにおいた。
 あゝ、それにしても、ここは狭く、人心はトゲトゲしい。
 友人といっても、親しい者もいれば、そうでない者もいる。さして気が合うわけでもないのに、ニコニコ顔で寄ってくるやつ。腹の底はわからないが口先だけはへんに親しげなやつ。かと思えば、無知を退治するかといって秘蔵の書を無造作にあつかったり、面会を求めると称して休憩の場に押し入ってきたり・・・・・・。
 小刀と筆は、書物を書き写し、間違えた箇所を削り取るための道具だ。しかるにバカどもは「物の用」ということをまるで心得ていない。小刀を手にするや机を削りはじめ、筆をもてあそんでは書物をよごしてしまう。
 また学問の道は「抜き書き(妙出)」を中心とする。抜き書きは紙に写して利用するのが基本――。
 私には後漢文人、禰衡の才はないから、どうしても筆がとどこおる。したがって部屋にあるのはすべて抜き書きした短冊状の紙(短札)ばかり。しかるに乱入する連中の心はなんとも予測しがたい。知恵のあるものはこれらの紙を見つけると巻いてフトコロに収め、知恵のないものは破いて捨ててしまう
 
19 いずれにせよ、この時期に大和政権を基盤に新しい国家を築こうと思えば、先進国である中国の模倣からはじめるほかなかった。かといって、かの国と頻繁に往来するのはきわめてむずかしく、身のまわりに中国人が大勢いるわけでもない。となれば、残された手段は本による学習しかありません。遣隋使や遣唐使にしても、彼らの最大の目的のひとつは、できるだけ大量の本を中国から持ち帰ることにあったようです
 
20 科学史家の中山茂が、その著『パラダイムと科学革命の歴史』で、ヨーロッパの学問を推し進めるエンジンは「論争」だったが、中国の学問では「記録の集積」が優先された、という意味のことをのべています。したがって中国の教育では、他人を説得する<弁論力>ではなく、紙や竹簡にしるされた先行者の言動(先例)を、繰りかえし声にだして読み、そのすべてを頭に叩きこんで、必要なとき瞬時に思い出せるようにすること、つまり<記憶力>がもっとも重視されることになる。
 そして、それに加うるに<文章力>ですね。官僚制の階段を上って帝のそば近くにたどりつくには、じぶんがケタ外れの記憶力の持ち主であると同時に、優れて人間的で高雅な詩人や文章家でもあることを、きびしい試験(科挙)によって証明しなければならない。
 
21 ・・・・・・董仲舒はとばりをおろしたまま講義し、薛道衡は自室に横たわって文章をつくった。学問をとことん究めたいと思ったからだけではなく、それはまた心の安静を願ってのことでもあった。私がこの文を書いたのは、なにも絶交のためではない。ただ、おのれの鬱憤を晴らしたいと思っただけ。とりわけ情けないのは、敷居のそとに来客用の施設をもうけず、この部屋に直接の出入りを許す決まりをつくってしまったことだ。
 
寝殿造り」と「書院造り」
銀閣寺の「東求堂」
 
27 ――本はひとりで黙って読む。自発的に、たいていはじぶんの部屋で。
 ままならぬ世でほんの一時であれ、好きな本に読みふけって充実した時間を過ごす。道真であれば「心の安静」、孝標女であればこの上ない幸福感ということになりますが、そうした特別の時間をもとめる気持ちが煮つまり、それが「じぶんだけの閉じた小さな部屋」という夢に結晶してゆく。「じぶん」というのは「個人」ということです。いまでいう個人と同じかどうかはともかく、道真も青年時代、そんな個室での自由な読書を夢見たが、ついに実現にはいたらなかった。
 その夢を、かれより五代のちの菅原一族のさしてできのよくない当主(その父や息子とちがって、大学寮の学頭にも文章博士にもなれなかった)の娘が実現してしまう。そしてそれは同時に、それまで男性が占有していた読書が女性たちに開放されたことをも意味していた。それが平安中期。やはり新しい読書の時代がはじまろうとしていたのです。
 
 
 
2 乱世日本のルネサンス
 書院と会所/源氏ルネサンス/漢字が読めない知識人/平仮名による読者層の拡大
 
 手写は印刷ではないので、意図のあるなしにかかわらず、そのつど微妙にちがう本文(異本)ができてしまう。だが、なにせ「紅旗征戎(こうきせいじゅう)吾ガ事ニ非ズ」の人ですからね。どうやら定家は、この殺伐たる時代をよそに、世にはびこる雑多な異本群から区別される、しっかりした定本をつくることをひそかに決意していたらしい。
 
37 宗祇(連歌師)と三条西実隆応仁の乱のまっただなかで生きていた公家)の写本ビジネス
彼は地方大名に本を送り、その代償として生活費を稼いでいた。500年以上も前に既に読書欲の旺盛な(文人ではない)武人達が地方にいた。
 
 実隆は当代一の能筆であり、応仁の乱後、都の本が壊滅的な打撃を受けた後の本への飢餓感を埋めるために写本執筆に絶えず励んでいたので、その旺盛な「本」生産能力を、受け皿としての享受者に繋いでいく役割を、宗祇を始めとする連歌師たちは果たしていた。実隆からは「本」が渡され、地方大名からは応仁の乱後収入が激減して生活費にも事欠く有様であった実隆に、地方の豊かな財が贈られていった。商人としての宗祇によって、実隆たち宮廷貴族もまた、交換経済の中を生きることになったのである。
(『記憶の中の源氏物語三田村雅子
 
43 天台宗座主・慈円愚管抄
 この種の<かたい本>は当時であれば漢文で書くのがとうぜんあんおに、慈円はあえてそれを仮名まじりの文章(和漢混淆文【わかんこんこうぶん】)で書いた。なぜか。その説明をみずからこころみた個所です。
 
 この書をこのように書こうと思ったのは、物事を知らない人のためであった。いま末の世の有様を見ると、文筆にたずさわる人は貴賎・僧俗を問わず何といってもまれには学問をするようで、かろうじて漢字を読むことはできるが、その正しい意味を理解している人はといえばいないのである。
 
 そのくせ世間の人びとは「ハタト」「ムズト」「シャクト」「ドウト」といった口語的表現を低俗なものとして嘲笑する。でも、これはおかしい。ハタと気づく。ムズと組みつく。ドウと倒れる。そうストレートに書いてどこがわるいのか(「シャクト」の意味は不明らしい)
 
 わたくしはこれらのことばこそ日本語の本来の姿を示すものと思う。これらのことばの意味はどんな人でも皆知っている。卑しい人夫や宿直の番人までも、これらのことばのような表現で多くのことを人に伝えまた理解することができるのである。それなのに、こうしたことばは滑稽であるといって書くときに使わないとすれば、結局は漢字ばかりを用いることになってしまうであろう。そうすれば漢字の読める人は少ないのであるから、この間の道理を考えた末に、以下のような書き方で書くことにしたのである
 
53 網野善彦『日本の歴史をよみなおす』
 
 
 
3 印刷革命と寺子屋
 フロイスと「きりしたん版」/西鶴と出版商業化/サムライの読書/自発的な勉強ブーム/大衆の読書
 
57 ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』
 〇われわれの間では女性が書くことはあまり普及していない。日本の高貴の女性は、それを知らなければ価値が下がると考えている。
 〇われわれは22文字で書く。彼らは仮名canaのABC48文字と、異なった書体の無限の文字とを使って書く。
 〇われわれの間では世俗の師匠について読み書きを習う。日本ではすべての子供が坊主bonzosの寺院で勉学する。
 
62 西鶴は1642年、活版から木版への復帰がすすむ寛永19年に、大阪なんばの商人の子として生まれた。島原の乱の鎮定によって、応仁の乱から数えて200年におよぶ長い戦乱気が終わり、あたらしい商業都市・大坂の基盤がかたまりつつある。そんな時代です。そこでそだった西鶴は「まったく戦争を体験したことのない、ちょうど戦後の高度経済成長期に青春時代を送った団塊の世代に似た、大坂の新しい世代」に属していたと、中島隆の『西鶴と元禄メディア』はいいます。
 
 
 
4 新しい時代へ
 福沢諭吉の『学問のすゝめ』/新しい頭と古いからだ/音読から黙読へ/義務教育の力
 
99 音読から黙読へ
 母や祖母が読み聞かせる絵双紙から父や祖母による素読教育まで、伝統的な音読文化の基盤は時代が明治に変わったのちも、しばらくはそのまま保存されていた。
 だとすると、この過渡期は事実上、いつ終わったのだろう。いいかえれば、「家庭や地域や学校などの場で、しばしば音声にたよって読む」という本との共同的なつきあいは、「本はひとりで黙って読む。おもに自室で、しかも自発的に」という今日にまでつづく私たちの個人的な読書のしかたに、どの段階で、どのように取って代わられたのだろうか
 おそらく1980年前後、明治20年代のなかばから30年代にかけて。どうやらそのあたりに変わり目があったらしいと考える点では、前田愛をはじめとする研究者たちの意見はおおむね一致しているようです。そして、この変わり目を鮮やかに象徴する出来事として前田があげていたのが、二葉亭四迷による「あいびき」の翻訳です。
(略)
 そして、この400字づめ原稿用紙にしてわずか20数枚の小品が、当時の若い読者たちに、いまとなっては想像もつかないほどの強烈な衝撃を与えることになります。具体的にいえば、国木田独歩(17歳)、島崎藤村(16歳)、田山花袋(同)、蒲原有明(13歳)、柳田国男(同)らの、後に巧妙な詩人や作家となる一群の少年たち――。
 では、この世代の感度のいい少年たちは「あいびき」のなにに、それほどはげしく心をうばわれたのだろうか。おもな理由はふたつ。その第一が、この作品を特徴づける抒情的な自然描写です。
 ――いいなァ。こんな文章、オレ、いままで読んだことがないよ。
 そんな少年たちのういういしい感動が、9年後の二葉亭自身による徹底的な改稿をあいだにはさんで、国木田独歩の『武蔵野』(1898)や田山花袋の『田舎教師』(1909)などの自然主義的散文や、「千曲川のスケッチ」(1912)にはじまる島崎藤村の「写生文」の実験につながり、ひいてはそれが日本人の文章観を大きく変えてゆく。
花袋自身も、のちに「明治文壇における天然(=自然)の新しい見方は、実にこの『あいびき』の翻訳に負ふところが多い」(「二葉亭四迷君」)と語っています。
 しかも清新な自然描写だけではない。かれら明治の少年たちがこの作品によって初めて体験した文学的感動がもう一つあった。こちらの感動については蒲島有明による興味深い証言がのこされています。
 その頃はいまだ中学に入りたてで、文学に対する鑑賞力も頗る(すこぶる)幼稚で『佳人の奇遇』などを高誦して居た時代だから、露西亜の小説家ツルゲーネフの翻訳といふさへ不思議で、何がなしに読んで見ると、巧みに俗語を使った言文一致体――その珍しい文体が耳の端で親しく、絶え間なくささやいでいるやうな感じがされて、一種名状し難い快感と、そして何処か心の底にそれを反撥しようとする念が萌してくる。余りに親しく話されるのが訳もなく厭であつたのだ。(略)兎に角私が覚えたこの一篇の刺戟は全身的で、音楽的で、また当時にあっては無類のものであつた。(『あいびき』に就て)
 
 ――音読による享受から黙読による享受へ。
 ――均一的・共同体的な読書から多元的・個人的な読書へ。
 という引き返し不可能な変化が生じ、個人としての作家と個人としての読者との一対一の関係に基づく「近代読者」が誕生したのだと前田は言いきった。それが1900年前後、明治20年代から30年代にかけて。
 
 
Ⅱ 読書の黄金時代
 
5 20世紀読書のはじまり
 だれもが本を読む時代へ/百万(国民)雑誌の登場/円本ブーム/文庫の力
 
139 出版の近代化を推しすすめてきたエンジンは利潤の追求。そして、いったん起動したエンジンを止めずにいるためには、ひたすら売り上げを伸ばしつづけるほかない。20世紀初頭、その方向でまず突っ走ったのがアメリカ合衆国の出版業界です。そして日本の百万雑誌や円本も、かれらが先行してつくりあげた大量生産・大量宣伝・大量販売方式、すなわち「亜米利加型」ビジネスモデルをまるごと導入することによって華々しい成功をおさめることができた。
 対するに岩波書店がお手本としてえらんだのは新興のアメリカではなく古きヨーロッパ、具体的にいえばドイツのレクラム文庫です
 19世紀後半に発足した同文庫は、内外の古典を簡素な小型本として刊行しつづけるというやり方で、めざましい成功をおさめていた。
 
 
 
6 われらの読書法
 ローソクから電灯へ/本棚のある家/日雇い労働者の読書/電車で読む人びと
 
163 本にはじつはふたつの顔がある。ひとつは商品としての顔。そしてもうひとつが公共的な文化資産としての顔です。出版社は本を売り買いする商品として生産し、図書館はその本から商品性をはぎ取って、だれもが自由に利用できる公共的な文化資産としてあつかう。だから書店ではお金を支払って買わなければならない本も、図書館に行けばタダで読めてしまう。この二つの顔の実現不可能とも思える共存を、出版社と図書館の双方がそろっておおやけに承認した。<見知らぬ他人たちとともに本を読む>という20世紀読書の基盤には、ひとつには、そうした二重性を許す寛容さと大胆な制度的決断があったのです。
 
 
 
7 焼け跡からの再出発
 紙が消えた!/本への飢え/復活/二十世紀読書まっさかり
 
 1942年、雑誌座談会をよそおって共産党再建の謀議をおこなったというでっちあげによって、改造社中央公論社朝日新聞社岩波書店日本評論社などの90人近い編集者やその他の関係者が逮捕され、はげしい拷問によって4人が獄死する。そして『改造』『中央公論』は廃刊。遠い満州後にあって「よそごとではない」と感じたと池島伸平がいうのが、この事件をさしていたことはいうまでもないでしょう。
 
184 ほかならぬ水木もそのひとりだったというのですね。
 そして、この教養主義的読書のおしえが敗戦後も若い人々の間で継承されていった。一例をあげると、戦後間もないころの話として、「細い手で小さな盃に酒を注いでくれる若い女がジッドの『狭き門』の話をするような酒場は、ヨーロッパのどこにもない」――そんな意味のことを、フランス人ジャーナリスト、ロベール・ギランが『アジア特電』という本で書いているらしい。そう加藤周一が『夕日妄語』にしるしています。
 アンドレ・ジッドの『狭き門』は、教養主義系の現代フランス文学という点では、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』と並ぶ人気作品でした。なかでも1936年にでた岩波文庫版は戦時中にもかかわらず、大量に売れたのだとか。したがって、もしこの「若い女」の話が事実だとすれば、彼女が読んでいたのも、おそらくその岩波文庫版だったのだろうという推測がつく。
 
189 しかし本書のテーマである<読書>とのかかわりでいうと、1951年に始まった「週刊図書館」という書評欄の魅力も負けず劣らず大きかった。それは後年、丸谷才一が「私の見方では日本の書評はこのときからはじまる。これ以前は前史とも呼ぶべき段階であった」と断じたとおり。
 「かういふ企画を立てて然るべき書評委員(普通の読者が楽しんで読める高度な書評を知識人)を人選した編集長、扇谷正造はじつに偉かつたと思ふ」(「書評と『週刊朝日』」)
 『週刊朝日』の読者層からみて、ここで丸谷のいう「普通の読者」とは、戦争が終わって、ようやくよみがえりつつあった高学歴の男性サラリーマンに代表される知的中間層をさすものと思われます。彼らの本えらびの役に立つ、しかもそれ自体としても楽しめる「書評」というジャンルが、ようやくこの国に根づきはじめた。そういうせつですね。
 扇谷がえらんだという書評委員は臼井吉見、浦松佐美太郎、河盛好蔵、坂西志保の4人で、やがて中野好夫がそこに加わります。
 
198 それでも、サンフランシスコ平和条約による占領終結(1952年)が近づくにつれて、この種の制限も徐々に緩和されてゆきます。
 そうした自由化の過程で、1950年に、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルの『分別ざかり』(『自由への道』第一部)とアルベール・カミュの『ペスト』というふたつの長編小説が、つづいて前者の『嘔吐』『実存主義とは何か』、後者の『異邦人』『反抗的人間』などの小説や評論が立てつづけに刊行され、戦後の日本に「実存主義ブーム」が巻きおこる。新しい時代の混乱にどう対処し、そこでどう生きてゆくか。そんな切迫した問いがこのブームを支えていたのはたしかでしょう。でも、日本の読書人が戦時と占領期を合わせて10年をこえる文化的鎖国状態から解放され、ようやく同時代の世界とのつながりを再獲得した、そのこと自体が与えた感動、よろこびの表明という面も、それと同等か、もしかしたらそれ以上に大きかったんじゃないかな。
 
 
 
8 活字ばなれ
 マンガを読む大学生/売れる本がいい本だ/人が本を読まなくなった/黄金時代のおわり
 
205 そこで思いだすのが、これと同時期に、アメリカ西海岸のヒッピー運動から生まれた『全地球カタログ』や、中国文化大革命の赤い聖書ともいうべき『毛沢東語録』などの、ひとしく「書物主義に反対する」ととなえる異形の「書物」がいくつか出現していたことですあの時代風にいえば、本による知の権威主義的支配に異議を唱える本。当時は全く気付かなかったが、今にして思えば、大学生がマンガを読み始めたのは、そうした感じ方や考え方が世界の各地で、それぞれに独特の仕方で広まっていた時代でもあったのです
 そういえば、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』が若者たちの人気を集めたのも、おなじ60年代の終わりごろでした。ようはカウンターカルチャー(対抗文化)やサブカルチャー(周辺文化)発見の時代です。ただし、「書物主義に反対」という主張そのものについていえば、戦後の日本で、かならずしもこのときが最初だったわけではない。たとえば京大人文研(京都大学人文科学研究所)の所長だったフランス文学者の桑原武夫――早くも彼は1955年に「読書はコミュニケーションの有力な、しかし一つの形式に過ぎず、人間形成にはそれのみでは不十分」といっていました。
 
222 そして、さらに70年代も後半に入ると、文庫や新書以外の一般の単行本の分野でも、様々な新現象が目立つようになります。
 そのひとつが、みずから「昭和軽薄体」を名のる一群のエッセイストたちの登場でした。『チューサン階級の冒険』(77)の嵐山光三郎や、『さらば国分寺書店のオババ』(79)の著者で「昭和軽薄体」の命名者でもあった椎名誠を筆頭に、赤瀬川源平南伸坊村松友視、林真理子橋本治糸井重里といった新しいタイプの文筆家たちの活躍がはじまる。こちたい思想用語など最初から使う気もない。片の力を抜いて、とことん俗な話ことばで考えて書く。で、そのさいは笑いが不可欠。だから、あえていってしまえば「読むマンガ」ですよ。
(略)
 この「昭和軽薄体」の運動(でしょう、やはり)は大学外の書き手によるものでしたが、それ数年遅れて、大学アカデミズムの中枢から現れた20代から30代の秀才たちの著作活動が少なからぬ反響をよんだ。いうところの「ニューアカ・ブーム」です。
 浅田彰『構造と力』、栗本慎一郎『パンツをはいたサル』、中沢新一チベットモーツァルト』、上野千鶴子『セクシィ・ギャルの大研究』、四方田犬彦『映像の招喚』などの本がたてつづけにかんこうされ、青土社の『現代思想』や岩波書店の『へるめす』などの新しい雑誌の力とあいまって、おもとして大学の若手教員が執筆し、それを大学生や大学院生、若い「一般社会人」などの読者が読むという、ひさかたぶりの<かたい本>人気が高まった。
(略)
 変化の理由は重層的ですが、この本の文脈でいえば、高度経済成長期の後、出版点数が増えるにつれて人々が大量の本に取り囲まれて暮らすようになったことが大きい。そんななかで、いつしか上の時代の生真面目な読書法の力が薄れ、おびただしい量の本と如何に気分良く付き合うかという、いわば満腹時代の新しい読書方が求められるようになった。<かたい本>の領域でいえば、70年代に入って、その導師が『言語にとって美とは何か』(65)や『共同幻想論』(68)の吉本隆明から、『本の神話学』(71)や、『歴史・祝祭・神話』(74)の山口昌男にかわった。そんな印象があります。
 もうすこし<やわらかい本>寄りでいうと、『遊び時間』(76)や『文章読本』(77)の丸谷才一ですね。そこに開高健大江健三郎井上ひさし、さらには『竜馬がゆく』(66)や『坂の上の雲』(72)の司馬遼太郎なども含めて、すべて<多読>と<博識>の人、体力かつ広範囲の本を楽々と読みこなす能力の持ち主です。そうした人たちが満腹時代の読書人のお手本として新しく浮かびあがってきた。
 
230 そして、これとまったく同じ時期に、書店と並ぶもうひとつの<本の文化>の拠点である図書館にも容易ならぬ異変が生じていた。これが事例の第二。すなわち都道府県立や市町村立の公共図書館の精神的なバックボーンともいうべき近代市立図書館の理念が、にわかにグラグラと揺らぎはじめたこと――。
(略)
 ところが最近になって、具体的にいうと、今世紀初頭に小泉純一郎内閣が掲げた「聖域なき構造改革」の旗のもとで、経営難に悩む各地の自治体がいっせいに図書館「改革」にはげみはじめた。
 新自由主義経済の「自由」はなによりも「大きな政府」が企業に押し付ける規制からの自由を意味します。したがって図書館のような公共事業にはとことん冷たい。
 その冷たさが自治体の役人や政治家、はては住民(利用者)の多くにまで共有され、図書館の内外で、いつしか「図書館に企業の経営手法を積極的に取り入れよう。それは文句なしにいいことなのだ」という判断が力をもつようになった。そんな空気の中で、図書館予算を大幅に切り詰め、専任の図書館員を派遣や契約社員におきかえ、ついには、われわれの社会に図書館があることの意味など本気で考えたこともないような外部企業に運営を丸投げしてしまう――そんな無茶なことまでも平気でやってのけるようにあってしまったのです。
 そしてこれらの「改革」の一環として、近年、図書館が新たに購入する本に占める<やわらかい本>の割合が激増し、その一方で<かたい本>の数がますます減らされている。このことはお気づきでない人の方が多いと思うので、もっと具体的に書いておくべきだろうと、じつはそう思い立って、先ほど私が住む東京近郊のある市立図書館のウェブサイトをのぞいてみたのですよ。で、そこの「新着資料一覧」のページを一瞥し、「えっ、まさか」と、多少は図書館のことを知っているはずの私までが、びっくり仰天させられた。
 そりゃそうでしょう。なにしろ、その新着本リストのアタマにおかれた、「総記・哲学・心理・宗教・言語」という分類でいうと、全部で66点あるうちの36点が、『神様にお任せで、勝手にお金が流れ込む本』『すごいお清め プレミアム』『幸せな人だけが知っているシンプルな生き方』といった読み捨てのハウツー本だったのですから。それに「地球の歩き方」や「まっぷるマガジン」などの実用書。宗教や語学の入門書が数点ずつ。この分類から予想される<かたい本>は、哲学や心理学入門関係の軽めの教養本が何点かあるだけ。もちろん読むのに多少の気力を要する分厚い翻訳本や研究所などはゼロ同然。岩波書店みすず書房白水社藤原書店もなければ、講談社中央公論新社筑摩書房の叢書や双書もない。
 おことわりしておくと、もともとここは全国でも有数のすぐれた図書館だったのです。それがちょっと見ない間に、いやはや、ここまですさまじい事態になっていたとは・・・・・・。
 
9 〈紙の本〉と〈電子の本〉
 電子本元年?/それでも人は本を読む
 
259 そして現代の日本で、厚いおおいで見えなくされている本の象徴が、先述の人文書を筆頭とする<かたい本>です。この種の隠蔽のさまを、再度、ざっと列挙しておきます。
○ <かたい本>が書店にならぶ時間が目立って短くなった。
○ それにつれて出版社の<かたい本>の在庫が極端に動かなくなった。
○ 地方の街の小さな本屋さんや個性的な書店が軒並みに店を閉じてゆく。
○ 電子本書店の惨状はいわずもがな。
○ そして、ついには頼みの綱の公立図書館までが<かたい本>を露骨に敬遠するようになってしまった。
 
263 たとえば哲学研究者の木田元。私よりもちょうど10歳上の彼は「猿飛佐助とハイデガー」の幅を持つ自分の読書生活をまるごと素直に楽しみ、80歳を超えたのちも、そのことを大っぴらに語り続けていた。この老碩学山田風太郎の伝奇小説に入れ込むさまは、本好きの大衆と全く何の変りもなかったのです。
 その木田元はまた、ハイデガーやメルロポンティの<かたい本>を学閥の統制下にあった直訳的難解さから解き放ち、普通に読みさえすればちゃんと理解できる日本文に翻訳するという試みに果敢に取り組み続けた人でもありました。カントやヘーゲルを、誰もが読める素直な日本語で解約して見せた在野の哲学研究者、中山元長谷川宏などもそう。
 いや、哲学や歴史などの<人文書=かたい本>に限りません。ミステリーや前衛小説や恋愛ものの領域でも、日本の翻訳の水準は、21世紀にはいると柴田元幸村上春樹に代表される人々の手で飛躍的に向上した。あるいは亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』にはじまる「光文社古典新訳文庫」とか、池澤夏樹訳『古事記』にはじまる「世界文学全集」「日本文学全集」(河出書房新社)とか。――これらも時代が私たちの読書環境にあけた大きな風穴の一つだといっていいでしょう。
 
 
 
あとがき
引用文献一覧