読んだ。 #U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面 #森達也

読んだ。 #U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面 #森達也
 
序章 面会室
22 19人の障害者を殺害した理由を、植松は「彼らは心を失った存在だから」と説明した。社会に対して何の貢献もしないし、その家族や施設の職員たちに迷惑をかけている。だから存在を消すべきなのだ。この主張は事件直後から現在に至るまで、ほぼぶれていない。ところが弁護団は、過度の大麻と薬物接種による心神喪失状態時の犯行であり、責任能力は失われていたとの弁護方針を展開した。
 事実関係はほぼ争われていない。この裁判をワンフレーズに要約するならば、責任能力をめぐる裁判だったということになる。
 弁護団のこの主張に、自分には責任能力があると植松は強く反駁した。弁護人の主張を被告人が真っ向から否定する。極めて異例な事態だ。ただし確かに彼の立場からすれば、心がない(心神喪失)状態であることを理由に命を奪ったのに、その自分が心神喪失状態だったから罪を軽減してほしいとの主張は筋が通らない。
 
27 拘置所にいるのは、死刑確定囚以外はみな被告人、と少し前に僕は書いた。多くの被告人は裁判が終わって懲役などの刑罰が確定すれば刑務所に移送されるが、死刑囚は刑罰が確定しても移送されない。なぜなら彼らの刑罰は処刑されることだ。もしも刑務所に移送すれば、死刑以外に自由を束縛される有期刑が科せられることになる。ならば一事不再理と二重処罰を禁じた憲法39条に抵触する。
 
 
第1章 宮﨑、麻原、植松
吉岡忍との対話(『M/世界の、憂鬱な先端』著者)
61 宮崎勤に出た3つの精神鑑定
 宮崎勤の第一精神鑑定は慶応大学医学部の保崎秀夫教授など6人が1年4カ月かけて行い、責任能力はあると結論づけた。その後に帝京大と東大医学部の3名の教授によって行われた二次鑑定は2年の月日をかけたが、途中で意見が割れ、東大の中安信夫鑑定人は精神分裂病の初期段階と鑑定し、帝京大の内沼幸雄教授と東大の関根義夫教授は解離性同一性障害(多重人格)の状態にあると診断した。
 つまり4名の鑑定によって、正常、分裂病、多重人格、という3つの判定が下されたのだ。特に後者の2つは、責任能力は失われていたとする結論に結びつく可能性が高い。この事態について吉岡は、皮肉をにじませながらこう嘆息する。
 ある医者は、いささか疲れ気味ですが健康ですよと言い、別の医者は進行性ガンだと言い、もう一人の医者は複雑骨折と診断したようなものである。
 
93 「なんだっけ。メディアの視点か。ずっと思っていることがある。宮崎が事件を起こしたあの時代がちょうど境目だったのかな。報道が加害者よりも被害者への取材にどんどん傾いていった」
 そう言ってから吉岡は、「20年以上も前に書いた本(『M/世界の、憂鬱な先端』)だから細かいことは忘れていたけど、話しながらいろいろ思いだしてきたよ」とつぶやいた。
 「あの本を書きながら、自分はとても怒っていた。本当に怒っていた。宮崎に対してじゃないよ。裁判所と社会とメディアに対して。宮崎は4人の幼女を殺害したことや匿名の犯行告白文を被害者の母親に送ったことを、一度も否定していない。つまり事実関係には争う余地はほとんどない。だから僕の関心は、なぜ彼のような人間が生まれたのか、その一点だけだった。人間って結局は器だと思うんだ。そこに盛りつける何かによって人は人になっていく。だから宮崎という器について、これは手首の障害とか祖父への過剰すぎる愛着とかいろいろあったけれど、それをまずは地元に行って徹底して調べて、次にその器に盛られたものを取材したのだけれど、やっぱり時代性をものすごく感じるわけ」
 「えーと、つまり80年代」
 「そう。この国の80年代。時代と社会が宮崎をつくった、というのが僕の理解。ということは、同じ時代に日本社会にいた僕たちだって加害者になっていたかもしれない。事件があるたびに僕はそう考える。でも多くの凶悪犯罪報道において、これを発信する記者やディレクターたちは、ひょっとしたら自分も加害者になっていたかもしれない、ということを考えない。多くの人は自分が被害者になるかもしれない、ということばかり考えている。でも僕は事件現場に立つとき、自分が被害者になる可能性よりも、加害者になる可能性のほうが絶対に大きいと思っている。
 ならばなぜ、あの本を書きながら僕は怒っていたのか。精神鑑定書が果たしている役割は、『性格の偏りはあったけれど、理非弁別をする能力は失われておらず、従って責任能力もあった』として極刑を科すことです。つまり、普通人であったと認定すること。
 でもさ、ならば次に、なぜ普通人があれほどの凶悪事件を起こしたのか、という問いに答えなければならない。でも鑑定書は答えていない。答える気が最初からない。悪いやつが悪いことをやった。それは同義反復だよ。こうして彼や彼女を世の中から切り離して処刑して、世の中はいっさい免責される、というわけ。世はなべてこともなし、めでたしめでたし。これでおしまい。
 ……何ていうかな、こうした現実を疑わない社会に、僕は怒っていたと思う」
 「そうした状況を醸成しているのはメディアですよね」
 「もちろん。なぜこんな犯罪を彼らは起こしたのか、なぜこんな集団が生まれたのか、というところに僕たちは、……それは森さんの『A』や『A2』、あと書籍なら『A3』も同じだと思うけれど、強い関心があるわけだよね。それを解明したいと思うわけ。ところが、マスコミの多くは、特に宮崎以降だと思うけれど、被害者の悲しみとか、あるいは被害者遺族が抱く加害者への怒りとか憎しみとか喪失感とか、そちらのほうに急激にシフトしていった。だから加害者への取材が薄くなる」
 そこまで言ってから、吉岡は次の言葉を探すように沈黙する。僕も考える。自分のこれまでを。そして現在を。
 
 
 
第2章 発達障害
郡司真子との対話(ASDADHD、知的障害のある子どもと保護者への支援)
106 「今この段階で、相模原事件や裁判について僕が考えていることを言葉にします。日本には死刑制度があります。現行の法制度においては、例えば3人以上殺したら、まず死刑になる。永山基準です。でもオウム以降は厳罰化が進んで、犠牲者が1人か2人の場合でも、死刑になる事件が増えてきた。ただ唯一、被害者が3人だろうが5人だろうが10人だろうが、死刑を免れる方法があります。刑法39条。責任能力がないと認定されれば、死刑を回避できる。
 だから凶悪で大きな事件になればなるほど、絶対に加害者をそちらに逃がしちゃいけないという圧力みたいなものが、刑事司法やメディアに対して、もちろん社会全体でも働いているような気がしています。何が何でも責任能力ありにする。多少の矛盾や疑問はスルーする。裁判全体がこうして進む。ならば加害者の内面や事件の骨格がわからなくなって当たり前です。
 一昔前に比べれば、明らかに動機が不明瞭な事件が増えてきた。それは相模原事件だけではなく秋葉原通り魔事件の加藤智大とか附属池田小事件の宅間守とか土浦連続殺傷事件の金川真大とか、何といっても麻原彰晃とか宮崎勤とかも、この系譜に入ります。これらはすべて、事件発生時には新聞一面を飾った大事件です。そして必ずのように、終わってみると動機がよくわからない。ある程度はわかる。でもある程度です。必ず曖昧なまま終わる。もちろん人の内面は簡単にわかるはずがない。動機も同様です。カミュが『異邦人』で示したように、人の意識は不条理である。すべてを明確に説明できるはずがない。でも少なくとも以前は、一つひとつの事件に対して僕たちは、もっと理解できたという感覚を持てたような気がするし、メディアはこれほどに『闇』という言葉を濫用していなかったと思うんです」
 
109 発達障害者支援法が施行された2005年以降、この概念は急激に広がった。言い換えればそれまで、発達障害は名前のない存在だった。つまり認められていない。小学生時代、授業中にじっとしていられない子供はクラスに何人かいた。学期末にはほぼ必ず、通知表の備考欄に「落ち着きがない」「注意力が散漫」「みんなと協調できない」などと記載される。しばらく見つめてから母親がため息をつく。なぜおまえはみんなと同じことができないの?なぜ授業中にイスの後脚だけでバランスをとることに熱中するの?なぜ遠足の時は必ずのようにみんなとはぐれるの?なぜ玄関に置いてある体操服を毎回忘れるの?そういわれても自分でもわからない。できればみんなと同じようにしたいのだ。でも気がついたら違うことをしている。これが脳の障害に由来しているとは、当時は誰も思わなかった。真摯さが足りないからだと思われていたし、自分でもそう思っていた。
 
112 「何を危惧しているのですか」
 「今の社会の流れです。悪いことをしたら死刑。その傾向がとても強くなっている」
 「えーとつまり」と僕は言った。「その危惧は、障害のある自分の子供が相模原事件のように危害を加えられたら、ということではなくて」
 「もちろんそれもあります。でも発達障害とか軽度知的障害など境界的な知能障害を持つ子供を育てている親の中には、もしこの子が罪を犯したら、と脅えている人はたくさんいます。ちゃんと裁いてくださいって覚悟はしていると思うけれど、でも最近の裁判については、なぜ彼らが犯罪を起こしてしまうのかについての考察がまったく抜け落ちていて、しかも社会の前提は自己責任で、それはどうにかしないといけないと思っています。スクールバスを襲撃して2人を刺殺してから自殺した登戸の通り魔事件も、犯人は同じようなタイプです」
(略)
 「彼らの責任能力について郡司さんは・・・・・・」
 「その議論以前に、このまま死刑で殺してしまっていいのだろうかと思っています。植松には自分の考えを変えるきっかけや出会いがなかった。だからとても急進的に、自分が正義だと思って行動を起こしてしまった。いろんな人が面会しているけれど、誰も彼と話ができていない。もちろん、彼の認知のゆがみとか理解力のなさもあるけれど、彼の心を引き出す対話ができていない。許せないみたいな論理で対峙してしまっては、重度障害者を殺害した彼の心の闇が理解できない、殺してはいけない理由を気づかせることができない。
 植松は今も自分のやったことは正しいと思っているし、反省もしていない。このまま死なれてしまったら困ると私は思っていて・・・・・・
 
115 「本や映画に対する理解が普通とは違う。そして浅いんです。例えば『アップルパイがあるね』と誰かに言われたら、『くれ』と言われたように思っちゃうとか、廊下で誰かとぶつかったら、わざとぶつかってきたと思いこむとか、そういった認知の歪みがあって、その積み重ねでいろんな社会経験がものすごくつらいものになって、その結果として、自分の生きづらさをカバーするためのコーピング(ストレスへの対処法)として、アルコール依存になったり薬物に手を出したりする。そういうタイプだと思うんです。
 私自身は大麻はやったことがないけれど、周囲にはけっこういます。彼ほどの歪みはないですね。もともとの彼の特性的なものかしら。境界知能にある人は実生活でいろいろ困難があって、ストレスから抑うつ状態になって、しかも思考の幅が狭いので、自分は低賃金で頑張って仕事をしながら怠けているとか叱責されて社会的なストレスにさらされているのに、重度障害の人たちは何も生産しなくても食べられるし怒られないし、このまま生き永らえるのかって、・・・・・・抑うつ状態による思考の狭さも働いて、どうしても許せなくなる人はすごく多い」
 「つまり植松に特異な感覚ではない」
 「そういう子は思春期ぐらいから目立ち始めて、周囲との軋轢の結果としてドロップアウトして、・・・・・・日本っていったんドロップアウトしてしまうとリカバリーがすごく難しいから、社会に対する不満や怒りが強まるばかりで、これは安倍政権を支持しているネトウヨ自民党ネットサポーターでバイトしている人たちなんかにも共通するけれど、自分たちが抑圧されている原因は現政権にあるはずなのに、自分を攻撃者である政権と同一化して、リベラルな人や政権に対して抗議の声をあげている人を攻撃するという倒錯した現象が起きています。それと非常に近いです
 
118 「ようやく関心を持たれ始めたけど、スペクトラムにいる子どもたちに対する教育のリソースは今もとても少ない。教師たちも知識がないし、認知の歪みを是正することについて意識的な医師も少ない。
 だから、今まで植松みたいなタイプの子供たちは、学校や社会で、なぜこれが理解できないのかとか、なぜ他の人と同じようにできないのかとか、起こられたりバカにされたり、とてもつらい思いをしていたはずなんです。結局は自己責任。努力しないから自分はダメなんだって思いこまされている」
 「そうした障害を持つ人たちについては」と僕は言った。「責任能力や訴訟能力だけではなく、処罰能力についても考えなければいけないと思っています。つまり罰を与える意味があるのかどうか無期懲役で万歳三唱した小島一郎とか、死刑になるために行きずりの人を殺したと主張する土浦連続殺傷事件の金川真大や付属池田小事件の宅間守も、植松と同じく一審だけで控訴を取り下げて死刑を確定させました。もちろん、それが彼らの本当の望みだったのかどうかについては慎重に考えねばならないけれど、彼らに望み通りの刑を執行することの意味について、本当はもっと考えなければいけないはずです」
 言いながら考える。小島の精神鑑定の結果は猜疑性パーソナリティ障害だった。金川は(植松と同じ)自己愛性パーソナリティ障害。2つとも要するに人格障害だ。性格の歪み。傲慢で極度の権力志向。自分が大好き。平気で嘘をつく。他人の命への尊厳はない。狡猾で冷酷。人間として大切なことが欠けている。だから責任能力に影響はしない。思い起こしてほしい。正金の大きな事件の加害者のほとんどは、ほぼこの人格障害のパターンに押し込められている。もちろん植松も。それも極めて早い段階で。
 
123 「被害者からすると死刑にしたいと思うことは当然です。でも私は自分の子供とか担当している子供たちが、悪意がないままに事件を起こすかもしれない子どもたちなので、死刑ではなく彼らを治療していく方向性を真剣に模索しないと、事件は今後もなくならないと思っています。彼らの命は不要であるという思想を、死刑によって社会と国家が実践しているわけで、ならば人を殺すことを肯定していることになる。
 
 発達障害の治療は可能か
 
127 弁護人 (やまゆり園で)働いていくうちに考え方が変わってきたのですか?
 植松 (重度障害者は)必要ないと思いました。
 弁護人 安楽死させるべきなのは、障害のある人すべてではないのですね。
 植松 意思疎通がとれない人です。
 つまり殺害するかどうかの基準は「役に立つか立たないか」ではなく、「人としての意識を保持しているかどうか」だ。ところが彼の主張に対して、(かつての僕も含めて)社会は、「役に立たない人は殺していいのか」と短絡しながら反発した。
 
129 そしてこの発想そのものは、決して植松のオリジナルではない。この国は1996年に改定された母体保護法によって、障害を持つ胎児に対する人工妊娠中絶を認めている。かつての名称は「優生保護法」。母体保護と名称を変えたけれど、(意識がない胎児)ならば殺害して劣生を駆逐する(優生を保護する)という本質は変わっていない。障碍者に対する強制断種も合法的に行われていた
 
 
 
第3章 裁判員裁判
篠田博之との対話(月刊「創」編集長)
 
136 死刑にするためのセレモニー
 Zoom画面の中で顔をあげた篠田は、「相模原事件の裁判の問題点はもうひとつあります」と言った。「裁判員裁判の影響は大きいと思う」
 やはりそうだよね。そうおもいながら「公判前整理手続きですね」と僕は同意した。刑事裁判において、裁判官、検察官、弁護人の三社が公判前に協議して争点を絞り込む公判前整理手続きは、市民から選ばれた裁判員の負担を軽減することを主目的に、2005年の改正刑事訴訟法施行で導入された。この手続きの際に三者は綿密な審理計画も立てる。ならば公判は短くできる。理屈はそうだ。相模原事件の初公判は2020年1月8日で結審は2月19日。審理期間は2カ月もない。宮崎勤の一審の審理期間はほぼ7年で、死刑判決の基準となった永山則雄の一審は(途中で弁護団の解任などがあったこともあり)10年。麻原彰晃の一審は8年弱で、和歌山カレー事件は3年半だ。
 そして植松の一審は1カ月強。
 
138 その結果として、責任能力以外の論点、例えば障害者への差別の現状について、あるいはやまゆり園も含めて福祉のありかた、何よりも植松の動機の解明とか、そんな要素が全部抜け落ちてしまった
 
141 ・・・・・・教育や勤労はともかく納税がなぜ権利なのかと首をひねる人がいるかもしれないが、英語では税は「支払う(PAY)」もの。つまり対価があることが前提だ。だからこそTaxpayerとして国民一人ひとりが、政府や行政に対して奉仕することを、胸を張って要請できる。
 ところが日本では、税は「支払う」ものではなく「納める」もの。要するに年貢だ。一方的に収奪されるもの。あるいは見返りを求めず提供するもの。しかも国民主権という概念も薄い。統治者への無自覚な従属。お上には逆らわない。近代以降もそうしたメンタリティが駆動しているからこそ、この国では国民主権という感覚が馴染まない。
 確かに国民の司法への参加は、(義務ではなく権利として)近代司法国家の潮流になっている。アメリカやイギリスは陪審制で他のヨーロッパの多くの国々は参審制を導入して、国民の司法参加を前提にしている。ただし日本の場合は国民の司法参加について、他の国とは異なる要素がある。ヨーロッパでは欧州最後の独裁国家と呼ばれるベラルーシを除いたすべての国が死刑を廃止しているし、州によって死刑制度が残るアメリカの陪審員は有罪か無罪かを決めるだけで、量刑は裁判官が決めることが原則だ。
 つまり日本は世界で唯一、罪人として起訴された人を処刑(殺害)するかどうかの判断を、無作為に選んだ国民に(ある意味で)委ねる国なのだ。ならばもしも処刑後に冤罪であることが分かった時、その評議に参加して死刑に賛同した裁判員は、どれほどの心的ダメージを受けるのか。しかも守秘義務が課せられている。悩みは家族にすら打ち明けられない
 
146 「・・・・・・そのうえで思うけれど、明らかに彼の精神は、何らかの病気だなという感情を抱いています」
 「つまり精神耗弱?」
 「法廷で争われる刑事責任能力とは少し違う。法廷における精神鑑定は、あくまでも刑事責任能力があるかどうかの結論を導くための素材としてのみ使われるので、本当の意味で植松の精神状況についてはわからない。仮に精神的な障害があったとしても、現場でその行動を自分で理解する力があったかどうかなどを考慮しながら刑事責任能力は判定されるので、すぐに責任能力の否定とはならない。そもそも裁判では、責任能力があるかないかについては、絶対にどちらかに結論を出さなければいけない。つまり二者択一。ならば国民感情が前提になる」
 「その前提は、こんな凶悪な事件を起こした男への刑罰は死刑以外にありえない、ということですね」
 
148 しかし日本の大麻取締法第24条の8には、「刑法第2条の例に従う」と記載されている。そして刑法第2条は、日本国外において日本の方で規定される罪を犯した場合にも同じように警報を適用するとの条項だ。ならばオランダで大麻を吸ったことを公開する僕は、今後処罰されるのだろうか。
 よくわからない。結論から書けばグレイゾーンだ。刑法第2条で規定される犯罪は、内乱罪や通貨偽造罪など相当に重大な犯罪だ。そのまま適用されるとは思えない。でも条項の描き方は不気味だ。
(略)
 オランダで使用したことが帰国後にとがめられるのなら、日本人はラスベガスやマカオのカジノにだって行けなくなる。アメリカの射撃場で銃をうつツアーに参加したら、帰国して罰されることになる。さすがにそれはおかしいと多くの人は思うはずだが、大麻に関しては何となく微妙だ。そもそものグレイゾーンの領域が大きすぎるのだろう。
 
152 「大麻精神病の境界線はどこにあるのか、それは刑事責任能力とどのように結びつくのか、そのあたりはよくわからない。とにかく今の裁判所は、大きな事件の場合には特に、責任能力ありに持っていくという感じですよね。つまり国家意思を体現しようとする傾向が強くなった」
 国家意思だけではなくて、社会の多数派の意向も大きなバイアスになっていると思う。そういう僕に、篠田はこっくりとうなずいた。
 「その結果として法廷が、本来の意味で機能しなくなる。解明しなければいけないことが解明されない。その傾向は明らかに進んでいます。要するに裁判所は、鑑定医に死刑判決の論拠のひとつを求めている」
 「つまり客観的な診断ではなく、人を処刑することへの助力を求めている」
 「ならば司法において、精神医学が本来のあり方でなくねじ曲げられていることになる。その意味では措置入院も同じです。自傷他害の恐れが強いから緊急避難的に拘束して治療することが目的なのに、明らかに予防拘束になってしまっている。結果としてあの措置入院が、植松の背中を押してしまった可能性は高い
 篠田のこの指摘は重要だ。措置入院はこれまで、実際に自傷他害行為を起こした後の緊急避難として決断されることが大半だった。だって強制的に拘束する人権侵害なのだ。ハードルは高くて当然だ。植松の場合は犯行予告の手紙を書いて衆院議長に渡そうとしたことが理由になったが、これだけで措置入院という経緯はこの事件についての特異点のひとつであり、この体験が犯行の呼び水になったとの見方は多い。つまりこれもまた過剰なセキュリティ。その帰結として、従来はありえなかったことが起きる事例が増えている。
 「鑑定依頼される精神科医たちは、みんなやる気をなくして投げやりになっているんじゃないかと吉岡忍さんは言っていました。だから指名される医師は、全部とは言わないけれど、御用学者が多くなる」
 
157 人の視点はこれほどに違う。生物学者のユクスキュルは、生き物それぞれが知覚する世界の総体が、その生き物にとっての環境であるとする環世界説を提唱した。つまり種によって知覚する世界は異なる。カタツムリが見る世界はイヌが感知する世界とは違うし、オジロワシが俯瞰する世界とも異なれば、ジンベエザメが認識する世界とも違う。なぜなら可視光線の範囲は種によって違うし、音や匂いで世界を認識する生き物もいる。多くの脊椎動物は目が2つだから、複眼をもつ昆虫とでは世界の在り方が違って見えることは当然だ。さらに人の場合は、一人ひとりの可視光線の範囲はほぼ同じではあっても、一人ひとりの視点がある。コップは下から見れば円だけど、横から見ればほぼ台形だ。どこから見るかで世界は変わる。ニーチェが残した箴言「事実はない。あるのは解釈だけだ」は、メディア・リテラシーの本質でもある
 
171 「恐縮ですが、3つあります」と陳述を始めた。
 「一つ目に、ヤクザはお祭りやラブホテル、タピオカ、芸能界など様々な仕事をしています。ヤクザは気合の入った実業家なので罪を重くすれば犯罪ができなくなります。しかし、捕まるのは下っ端なので、司法取引で、終身刑にします。刑務所の中で幸せを追求できれば問題ないし、その方が生産性も上がるのではないでしょうか。
 2つ目に、私はどんな判決でも控訴致しません。1審だけでも長いと思いました。これは文句ではなく、裁判はとても疲れるので負の感情が生まれます。皆様の貴重なお時間をいただき大変申し訳なく思いました。
 3つ目に、重度障害者の親はすぐに死ぬことがわかりました。寝たきりなら楽ですが、手に負えない人もいます。病は気からなので、人生に疲れて死んでしまいます。日本は世界から吸血国家と呼ばれており、借金は1110兆円になったと、2月11日に報道されました。もはや知らなかったで済まされる範囲をとっくに超えています。文句を言わず、我慢された33(43の言い間違いと思われる)名のご家族と親を尊敬致します」
 
 「最後になりますが、この裁判の本当の争点は、自分が意思疎通がとれなくなった時を考えることだと思います。長い間皆様にお付き合いいただき、厚くお礼を申し上げます。ご静聴、誠にありがとうございました」
 
180 ※T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、ナチス・ドイツ精神障害者身体障害者に対して行われた強制的な安楽死政策である。
1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーガルテン通り4番地[# 1]」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を略して[1]第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である[2]。
 
181 「わかりやすさ」の罠
 「イントレランスの時代」(RKB毎日放送)のディレクターは、自閉症の息子を持つ神戸金文記者だ。イントレランス(不寛容)をタイトルに掲げたこの作品は、神戸と植松との面会を縦軸にしながら、在日朝鮮・韓国人や中国人に対するヘイトスピーチや沖縄差別、かつてこの国で起きた朝鮮人虐殺などを取り上げている。
 確かに力作だ。メッセージにも強く同意する。でも違和感がいくつかある。そのひとつは不寛容という言葉を差別する側に使ったこと。差別する側が求められることは寛容であることではない。差別する側にいる自分の意識を客体化しながら凝視し、される側にいる誰かの心情を主体的に想像し、差別と迫害の歴史をしっかりとまなんで心に刻むことだ。黒人を差別する白人や障害者を蔑視する健常者に呼びかける言葉は、絶対に「寛容になろう」ではない。
 
184 何度でも補足するが、意思疎通がとれないことと内面の意識活動がないことは、決してイコールではない。その意味で植松の論理はあまりにも乱暴で粗雑だ。そして仮に意識活動がないとしても、その人の命の価値が家族にとって重要であるならば、それは尊重されるべき命だ。
 ・・・・・・と書きながら考える。もしも意識活動がないことが医学的に100%証明されたとして、さらにその人への介護やケアが周囲に過度な負荷をかけて家族を不幸にしているのであれば、安楽死という選択は認められるのだろうか。
 この問いに対して、僕はまだ答えることができない。これから先に答えることができるかどうかもわからない。
 
187 元少年Aが書いた『絶歌』騒動について、テレビと新聞からコメントを求められた。
(略)
 出版前に被害者遺族の了承を得るべきだったと多くの人は主張する。了承を得ることができないのなら出すべきではないという人もいる。
 これも確かに知らせるべきだったと僕も思う。何も聞かされていなければ、遺族としては だまし討ちにあったような気分になることは当然だ。了承を取れるかどうかは別にして その努力はすべきだった。ただしこれを出版の条件にするならば違う。
 被害者や遺族の思いを可能な限り配慮することは当然だ。でも遺族を傷つけないことを最優先するならば(つまり被害者や遺族を絶対的な聖域においてしまうと)、戦争や災害などもすべて描けなくなる。報道すらできなくなる。
 これはテレビと新聞のインタビューでも何度も言った。でもテレビも新聞も、この部分は編集で落としてしまう。
(略)
 ホロコーストに加担したナチス兵士の証言は黙殺すべきなのか。エノラ・ゲイ乗務員の今の思いは報道すべきではないのか。中国で民間人を虐殺した日本兵の告白は無視すべきなのか。ならば歴史修正と何が違うのか。
 内容に批判はあって当然だ。でも出版すべきではないとか回収せよなどの主張は違う。それは多数派の民意を理由にした焚書なのだから
 
192 職員が利用者に暴力をふるい、食事を与えるというよりも流し込むような感じで利用者を人として扱っていないように感じたことなどから、重度障害者は不幸であり、その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるようになった。
 
 
 
第4章 精神鑑定
松本俊彦との対話(国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部部長 兼 薬物依存症センターセンター長)
 
197 「そもそも僕はオウム真理教のドキュメンタリーを撮る過程で、帰属していたテレビ業界から排除されて一人になりました。だからこそ撮影を続けながら、社会や政治、あるいは組織と個の相克に対する見方、メディアへの批評性、そうした意識が内面化されたという自覚があります。特に、意識をほぼ喪失した状態の麻原彰晃を被告席に座らせたまま進行していた裁判を傍聴したときの衝撃は大きくて、あれは大きな原点になったと思います。
 麻原法廷は一審だけで打ち切られて、2018年7月に12人の弟子たちと共に彼は処刑されました。何も語らないまま。そして、その後も多くの注目される事件の裁判が、同じようなパターンをくりかえしていることに気がつきました。
 それをひと言にすれば、責任能力を巡る議論です。事件が大きくて社会からの注目が高まれば高まるほど、責任能力を認定するために被告人の意識状態は正常だったとする前提が強くなり、この前提に辻褄を合わせようとするから裁判そのものに大きな無理が生じている。・・・・・・相模原事件の裁判は、まさしくそうした流れの集大成だったと思っています。
 何よりも、命を選別して不要だと宣言しながら殺害したことで罪に問われた彼に対して、おまえの命は不要であると宣言して死刑に処することの矛盾について、社会はあまりに無自覚です。しかも裁判は重要な議論がほとんどなされないまま、これも最近の大きな事件の傾向だけど、一審だけで確定してしまった。法廷が死刑を正当化するためのセレモニーと化しています
 
199 「・・・・・・それが大きな事件であればあるほど」と松本は話し始めた。
 「犯人はどのような精神状態にあったのか、それがどのように変容して事件につながったのか、そうしたメカニズムの解明や分析についての知見が、特に近年は全く集積されていない。だから教訓にできない。同じことがまた起きるかもしれない。特に相模原事件の法廷は、責任能力の一点だけに論点が集約されてしまった。これは本当にもったいないことだと思っています。『後医は名医』という格言があります。後から診た医者ほど正しいい診断を下せる。医学領域全般に当てはまる経験値ですが、精神医学はそれが最も当てはまるジャンルです。すぐに死刑にして口を封じてしまうのではなく、時間経過の中で加害者の精神状態や語りがどう変化するのかを観察し、そこからわかってくる真相を社会全体でシェアする。これはとても意義のあることです
 
204 「あらためて訊きます。弁護団が主張した大麻精神病による心神耗弱、もしくは喪失という論理について、松本さんはどう考えますか」
「僕からすると全くナンセンスだと思います。大麻であのようになる人は本当にいない。というか、もしいたのなら、それは絶対にもともとあった精神医学的な問題が働いているとして考えなければいけない。国際的にはそれがコンセンサスです。
 実際に違法薬物の障害使用経験率としては、どの国でも大麻が最も多いと思います。日本でも多くの方たちが経験しているけれど、大麻の問題で医療機関を訪れる人は極めて少ない、というか稀です。来るとするならば、もともとほかの病気がある方が、大麻を使うことによってさらにもともとの病気が悪くなった場合かな。事件の原因を大麻に規定することには絶対に無理がある。だから、依頼された時点でもう全然、弁護団とは方針が食い違っていた」
 
207 「人格障害」という言葉
 
211 人の意識は再現できない
 被写体の一人である秋山眞人は、「超能力は近代科学と相性が悪いんです」と僕に言った。「だって心は動いているから。自分で思うようにコントロールできない。同じことを繰り返せない。そうするとやっぱりインチキだと言われる。仮にできたとしても、こんどはトリックだといわれる」
 いつだれがやっても同じ結果になる。このテーゼは定量性や測定可能性などと合わせて、近代科学として認定されるためには大前提だ(だからこそSTAP細胞は存在を否定された)。
 でも人の意識は物理現象とは違う。常に同じような反応はできない。沈黙する僕に秋山は言った。「すべての打席でホームランを打てないからと言って、たまたま打ったホームランをトリックだという人はいませんよね。でもスプーン曲げとかと透視とか予知とかは、100%じゃないとトリックだと言われます。むしろ超能力や心霊現象が物理現象のように完全な再現性を満たすのなら、その方がトリックなんです
 
213 人の意識活動は物理現象とは違う。1000億個近い脳細胞におけるシナプス間の神経伝達物質や活動電位のやりとりなどがそのメカニズムの根幹だが、最新のスパコンを使っても、一人の脳内における感情の動きや喜怒哀楽を分析して描写することは不可能だ。つまり法廷の場で、意識を「異常なのか正常なのか」「精神障害なのか人格障害なのか」と二分することがそもそも無理なのだ。
 
223 「精神障害者の方が正常な人よりも犯罪率は低いというデータを見たことがあります」と僕は言った。
 「有名なデータです。ただ、それを否定するデータもあって」
 「そもそも正常と異常はグレイゾーンです。区分けすることが無理なのに」
 「頻度は少なくても、あまりに多くの人が短時間に殺されたりというような、ちょっと普通では考えづらい事件に限ると、(犯人が)精神障害者である割合が多くなってしまうような気もします」
 
227 松本は「刑罰とは何か」とつぶやいた。
 「遺族や社会の応報感情に応えるためにあると決めてくれれば、考えずに済むから楽かもしれない。覚せい剤取締法違反による受刑者の中には、少数ではあるけれど、覚せい剤の後遺症として深刻な精神新病症状を呈している人たちがいます。そういった人たちは刑務作業の向上などで働けないんです。被害妄想が常に働いているから、今俺の悪口言っただろうみたいな感じで暴力沙汰を起こしてしまう。だから独房です。重度の場合は満期まで他者と交流しない。そのために妄想が固定してしまって」
 「重症化するのですか」
 「出所してから幻覚妄想を治療する薬を投与してもよくならなくなってしまう。そういう意味で刑務所は、薬物で収容された人にとっては、精神を破壊する場所だと思います。
 2019年に、千葉大の研究者が法務省の膨大なデータを使って分析した研究によれば、刑務所に長く入れば入るほど、回数が多ければ多いほど、覚せい剤再犯率が高くなるんです。つまり覚せい剤依存症からの回復や覚せい剤の乱用防止という観点でも、現状のこの国の刑事施設は役に立ってないどころか、下手をすると足を引っ張っている可能性もある」
 
 
 
第5章 新聞報道
石川泰大との対話(神奈川新聞記者。植松聖死刑囚と37回接見し、50通の手紙をやりとりした)
 
239 「これまで事件取材が多かったので、多くの被告と会ってきたけれど、今回はこれだけの凶悪事件だったので、最初はちょっと身構えました。でも実際にあってみる、森さんも書いているように、イメージよりずっと小柄で、礼儀正しく、本当にこの男にあんな事件が起こせるのかと衝撃を受けるぐらいの佇まいでした。最初のその印象は、最後までほぼ変わらなかった。普通なんです。ただ、普通って何だろうって考えたとき、この社会に漂っている空気というか、それをそのまま彼が吸い込んで体現している。まさに彼自体が、今の社会を映しているというか、社会からつくられた存在であるという意味では、それこそ彼は電車で隣に座っている人かもしれないし、もしかしたら自分も同じかもしれない」
 植松は今のこの社会に漂っている何か(空気)を凝縮した存在。これは松本俊彦の視点と重なる。でも隣に座っていたかもしれない植松が、なぜこれほど凶悪な事件を起こすことができたのかについては、まだ答えはない。
 
240 社会に漂っている空気のような何かって何だと思いますか、と質問した。石川はしばらく考え込んだ。
 「・・・・・・いろいろあるとは思いますが、彼にとって最も影響が大きいのは、社会にとって役に立つか立たないかという基準、個人なのにその存在価値が社会によって決められてしまう空気、それがいちばん大きいような気がします。僕たちも友人との会話で、あいつ使えるとか使えないとか、つい口走ってしまうことがあるじゃないですか。そうした雰囲気が蔓延している。もう一つは、いわゆる同調圧力だと思います。取材を続けながら思ったんです。障害者は不幸しか生まないとか社会にとって不要な存在だとか、彼のこれらの言葉は、口には出さないけれど多くの人が心のうちに多かれ少なかれ仄かに持っている感覚なのかもしれないと。それを感じ取ったからこそ彼は、これを主張すれば多くの人から受け入れられる、と思ったんじゃないでしょうか。彼なりのそういった算段もあったような気がします」
 口には出さないけど多くの人が心の裡に持っている感覚。建前ではなく本音。つまりトランプが体現した「ポリティカル・コレクトネスに対する違和感」だ。だからきっと自分も支持される。でも仮にその算段があったとしても、なぜ19人を殺害する行為にまでエスカレートしたのか。
 
244 福祉施設の実態
 
254 「社会の関心が急激に冷えた理由は何でしょうか」
 「被害者が障害者だったということが大きいと思います。でも逆にこの4年、障害者だからこそ報道が持続していたともいえる。あとはやはり、当事者が不在だったということはあると思います」
 「この場合の当事者は被害者と遺族ですね」
 「語ってくれる人が少なかった。その結果として露出が減って、そうなると関心がさらに薄れる。社会の受け止め方も、被害者は障害者だから自分たちとは関係ない、とどこかで思ってしまった。被害者や遺族、あるいはやまゆり園に近い人たちが事件を忘れたいと思うことあある意味で当然だけど、結果的にはその流れに沿うようになってしまって、報道する立場としては本当に悔いが残ります」
 
256 かつてテレビ業界にいたころ、なぜ今のテレビはあんなくだらない番組をゴールデンタイムで放送しているのか、とよく質問された。どちらかと言えば詰問だ。本音としてはこう答えたい。あんたたちが観るからだよ。
 
262 ニューヨーク・タイムズワシントン・ポストペンタゴン・ペーパーズをスクープしてニクソン政権による米国民への背信行為をあばいた1971年、日本でもほぼ同様の骨格をもつ事件が起きた。沖縄返還に絡んで佐藤栄作政権が、アメリカ政府に対して資金援助するなどの密約を結んでいたことを、毎日新聞西山太吉記者がスクープしかけたのだ。でも、2つのスクープは全く正反対の帰結となった。アメリカでは(ペンタゴン・ペーパーズに続くウォーターゲート事件の報道もあって)ニクソンは任期途中に退陣したが、沖縄密約報道は結局のところ立ち消えになった。
 同じ時期に政権の不正行為を暴きながらこれほどに大きな差が生じた最大の理由は、アメリカの場合は国民が知る権利を主張してメディアを指示したが、日本の場合は西山記者の(情報入手する際の)不倫行為に国民の関心が集まり、結果として密約問題への関心が薄くなったからだ。
 この差異は大きい。絶望的なほど大きい。
 
266 「植松の言葉なんて報道する必要はないとまでいう大学教授もいたし、僕も同僚に批判されたことがありました。植松の言い分を垂れ流すだけでいいのかと。それが二次被害を生む。植松にあれだけ傷つけられた遺族が、それを読んだらまた傷つくだろう。もう植松の言葉なんか報道しなくていいんじゃないですか、だって言ってることめちゃくちゃなんだから、と言われました。でもそうして切り捨ててしまったら、異常な人間が起こした異常な事件という短絡的な結論で終わってしまう。この事件はそうじゃない。
 それに決して垂れ流しているつもりはないし、逡巡しながら言葉を選んで社会が考えるための材料として、植松の言葉を伝えてきたつもりです。
 確かに障害者や被害者サイドを傷つける言葉を彼は発するけれど、それを読んだ読者が、自分もそういう風に思っていたところがあったな、完璧に否定できないけれど、犯罪を肯定できるはずがない、じゃあどうすればいいんだろう、などと考えるきっかけになると信じて取材していました。きれいごとに聞こえるかもしれないけれど、そういったものがなければ社会は変わらないし、事件を教訓にもできない。
 結果として、遺族の方には大分嫌われてしまったけれど、それは僕の記者としての役割だと思いながら取材していました。同時に、僕自身もすごく試されているというか、植松に問われているような気持ちになったんです。お前のやったことも言っていることも絶対に間違っている、と言い返したい。だけど僕は障害者を介助した経験もないし、家族や友人に障害者はいない。だから間違っているとは言えるけれど、植松の考えを改めさせるだけの言葉を持っていない。僕は取材者でありながら、自分の中に潜む差別意識とか蔑視感情とか、そうしたことを試されていると感じながら接見を続けてきました。・・・・・・とても苦しかったです。