読んだ。 苫野一徳特別授業 #社会契約論 別冊NHK #100分de名著 読書の学校 #苫野一徳

読んだ。 苫野一徳特別授業 #社会契約論 別冊NHK #100分de名著 読書の学校 #苫野一徳
 
第1講 ルソーの読み方 その人生と思想
人はどうすれば自由になれるか
10 人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。
Man is born free, and everywhere he is in chains. Those who think themselves the masters of others are indeed greater slaves than they.
 
12 『孤独な散歩者の夢想』
 私よりも博学な哲学者はたくさんいる。だが、彼らの思想は自らの血肉となっていない。彼らは、ただ他人よりも物知りになりたいと思い、まるでそこらにある機械の仕組みを調べるように、好奇心だけで宇宙を研究しているのである。人間について研究するにしても、単に学者ぶって話をするためにそうしているだけであり、 本気で自分自身について知ろうとしているわけではないのだ。彼らは、ただ他人に知識を教えたいから学ぶのであり、 自らの内側を解明しようとして学ぶ のではない。何でもいいからとにかく本を出して、世間に認められたいだけの者も少なからずいる。
 
いっぽう、私の場合、自分自身に知りたいという思いがあるからこそ、学ぶのであり、他人に教えるためではない。他人に教える前に、まず自分のために学ぶことが必要だと常々思ってきた
 
哲学者と思想家
14 よく、哲学(者)と思想(者)は何が違うのか、と訊かれます。
 わたし自身は、これら二つの言葉を、ある程度意識して使い分けています。
 哲学とは何か?わたしの考えを一言でいうと、その本質は「本質洞察に基づく原理の提示」です。様々な問題や物事の本質を洞察すること。そのことで、それにまつわるさまざまな問題を力強く解き明かしていくこと。それが哲学の一番重要な仕事です。
 『社会契約論』についていえば、「よい社会」の本質を洞察し、ではそれはいかに可能かについての原理(考え方)を提示すること。
 その明確な”答え”を明らかにした点において、ルソーはまぎれもない”哲学者”でした。
 むろん、本質とはいっても、どこかに絶対正しい本質が転がっているわけではありません。哲学は、そんな絶対の真理としての本質を見つけ出す営みではなく、誰もができるだけ「なぁるほど、それは確かに本質的な考えだ!」とうなってしまうような考えを追いつめ明らかにするものなのです。
 他方の”思想”は、いってみれば「わたしはこう考える」と表明するものです。それは確かに、ユニークな考えかもしれません。でも、それはどちらかといえば、誰もが納得できる普遍的な原理というよりも、「わたしはこう考える」という自らの”信念”を表明しているにすぎないのです。少し極端ないい方かもしれませんが、私はこのように哲学と思想という言葉を使い分けています。
 さて、しかしほんとうにすぐれた”哲学者”は、同時にすぐれた、”思想家”でもなければならない。そんな思いが、わたしの中には強くあります。 
 19世紀アメリカの哲学者エマソンの言葉に、「最も内的なものは、時至れば最も外的(普遍的)なものになる」という一節があります。
 
「哲学がわかったぞ!」という体験か
万能の天才にして、変人
絶対王政化の危険な思想書
ルソーの幸福論
27 『孤独な散歩者の夢想』
 この世にたったひとり。もう兄弟も、隣人も、友人も世間との付き合いもなく、天涯孤独の身。 私ほど人付き合いが好きで、人間を愛する者はいないというのに、そんな私が、満場一致で皆から追放されたのだ
 
※こうして諦めてみると、これまでの苦痛がすべて埋め合わされるほどの平穏を見つけ出すことができた。この平穏こそ、諦めが私にもたらしたものであり、つらく報われることのない抵抗を続けていたときには、得られなかったものである。
 
哲学書の読み方
30 どんな哲学書も、シンプルな次の三つのポイントを決して手放さないことが重要です。
 「問いは何か?」
 「どのような方法でその問いを考えたか?」
 「たどり着いた答えは何か?」
 
 原理的な問い、原理的な方法、原理的な答え。これら三つが哲学が常に目指すべきものなのです。
 いま、「原理的に」といいました。この言葉を「原理主義」と混同する方もいらっしゃるかもしれませんので、少し補足しておきたいと思います。
 哲学でいう「原理的」は、誰もが納得できる力強い考え方、ということを意味します。「なるほど、それは確かにそうとしかいえない」と、誰もが唸ってしまうほど鍛え抜かれた思考、それが原理的な思考です。
 むろん、それは絶対に正しい考えではありませんし、その正しさを強弁するものでもありません。むしろ哲学者は、「この考えは本当に原理的なものになっているか、みなさん、ぜひ確かめてください」と、丸裸になってまな板の上に乗り、自らの思考を人びとの吟味にさらすのです。もしその考えにみんなが納得できたとするなら、そのとき初めて、それは「原理」と呼べることになるのです。
 その意味で、哲学は誰かの思想をありがたく押し頂くようなものでは決してありません。前にも言ったように、思考のリレーを通して「原理」をつねに更新し続けることをめざすものなのです。
 それに対して「原理主義」は、「この考えしか認めない」という態度のことです。例えば宗教原理主義者は、自分が信じるところの宗教のみが絶対であるとして、そのほかの信仰を認めません。その意味で、哲学原理と原理主義は、相反するものというべきです。
 
『社会契約論』 の問いは何か
34 ただし、ホッブズとルソーの「自然状態」には大きな違いがあります。
 ホッブズにとって、「自然状態」とは「万人の万人に対する戦争状態」を意味するものでした。「自然状態」は、きわめて野蛮で暴力的な世界だったのです
 それに対してルソーの「自然状態」は、もっと原始的な時代の人類がイメージされています。個々人が独立し、己の自己保存を最優先のこととしながら、お互いにほとんど不干渉であった時代です。現生人類の誕生期がイメージされているといっていいかもしれません
 そんな自然状態における野生人は、「自己保存」だけでなく、お互いに対する「あわれみ」の情もまた持っていたとルソーはいいます。人は本来的に、他者が苦しむのを見たくはない生き物です(それは他の動物にも見られるきわめて自然な感情だとルソーはいいます)。「自己保存」と「あわれみ」。これが野生人の二大原理だったのです。
 ルソーはホッブズの「自然状態」を批判しています。それは「自然状態」ではなく、すでに「社会状態」なのだ、と。ホッブズは、戦争が絶えない今日の社会の感覚から野生時代を照射することで、本来の自然状態を見誤ってしまったとルソーはいうのです。
 しかしこの批判自体は、あまり本質的なものではないように私は思います。両者の「自然状態」の違いは、次のように考えればむしろお互いに補い合う理論になります。ホッブズのいう「自然状態」は、約1万年前の定住・農耕・蓄財から始まった、大規模な戦争状態のこと。対して、ルソーのいう「自然状態」は、それより数十万年前の現生人類の誕生期から、長く見積もれば約1万年前までの狩猟採集時代までのこと、と。
 
『人間不平等起源論』の方法
36 その意味で、『人間不平等起源論』は、不平等の「起源」を明らかにするというより、むしろ人間の本質を見きわめ、そこからあるべき社会のあり方を考える道を開こうとしたものだったとわたしは考えています。
 実際、ルソーも、人類の起源や不平等の真の起源など、本当はどうでもいいのだと言っています。
 「よい社会」の本質を明らかにするにあたって、「過去はこうだった」という歴史的事実(起源)は、直接的にはあまり意味を持たないからです。過去において、人類はみんな自由で平等に生きていた。だから、現代のわたしたちもそうあるべきだ。このような主張は、何の説得力も持ちません。過去がそうだったからといって、現代もそうでなければならない必然性はどこにもないからです。
『人類不平等起源論』で、ルソーは次のようにいっています。
 だからすべての事実から離れることから始めよう。事実では問題の核心に触れることはできないからだ。(中略)真の起源を明らかにするのではなく、事態の本性を解明することがふさわしいのである。
 事実ではなく、「事態の本性を解明する」。つまり、人間の本性を見きわめ、そこから社会の変容を理解する。そうして、来るべき社会のあり方を問う。それが『人間不平等起源論』におけるルソーの方法でした。
 
38 ルソーの答えは簡明です。「ある広さの土地に囲いを作って、これはわたしのものだと宣言することを思いつき、それを信じてしまうほど素朴な人々をみいだした最初の人」が現われたこと、すなわち「王」の登場が、人類社会に不平等をもたらしたのです。
 なぜ、王は生まれたのでしょう。というより、なぜ王はそれほどの権力を握る事が出来たのでしょう?
 その背景には、冶金術と農業、つまり農耕があったとルソーはいいます。農耕が、それまで共有されていた土地の私有化を生み出したのです
 本来であれば、そうした土地私有者は、そのほかの人びとから責められてしかるべきです。みんなで共有すべき土地を、「ここは俺のものだ」などと突然主張し始めたのですから。
 しかし彼らは、ここで恐ろしい奸計を思いつきました。そうルソーはいいます。
 「よその土地のやつらが、俺たちの土地を奪いにくるぞ!さあ、このわたしに至高の権力を与えよ。そうすればお前たちを守ってやる」。
 ルソーはいいます。こうして「すべての人は、自分の自由を確保するつもりで、自分を縛る鎖に飛びついたのである」と。
 
『社会契約論』 の方法
41 「自由」というのは難しい言葉ですが、『エミール』におけるルソーの言葉を借りるなら、ほんとうに自由な人間は自分ができることだけを欲し、自分の気に入ったことをする。これを砕いて、「自由」とは「生きたいように生きられること」であると考えておくと分かりやすいのではないかと思います。
 
答えは何か
43 社会契約」と「一般意志。端的には、この二つが答えです。両者のそこにある原理が、「人民主権」。そういっていいだろうと思います。
 まずルソーは、「国家は社会契約によって成立したものと考えよう」と提案します。
 これも、かつてそのような契約が歴史的にあったのだという仮説を主張するものではないことに注意が必要です。「社会契約」、それは国家のあるべき本質についての”考え方”なのです。
 ではこの「社会契約」の内容は、具体的にどのようなものになるでしょうか?
 その答えが「一般意志」です。
 
 「みんなの意思を持ち寄って見出された、みんなの利益になる合意」
 
 
 
第2講/社会契約論の核心
ホッブズ「万人の万人に対する戦争」
自然権」の相互譲渡とは?
人間は命を守るためならなんだってするというより、自由を手に入れるためならむしろ命をとしてでも戦うのだと言いました。奴隷にされ、自由を一生奪われるくらいなら、むしろ命をかけて戦いを挑むのだ、と。
 
ホッブズが出した答えはシンプルです。みんなで一斉に、おのれの「自然権」を放棄すること。そしてこれを、ある個人、あるいは合議体に譲り渡し、統治社会をつくること。これ以外に、平和を実現する道はない。
 「自然権」の相互譲渡。これが、ホッブズの考えた「社会契約」の内実なのです
 この考えは、内戦の果てに王政復古を遂げた、当時のステュアート王朝を理論的に擁護するものであったとよくいわれます。あるいは逆にリヴァイアサンは、革命の指導者にして独裁者クロムウェルに気に入られるために書かれたものだったという解釈もあります。しかしいずれにしても、ホッブズは単なる日和見主義の御用学者などではなく、透徹した洞察力を持った一流の哲学者だったとわたしは思います。
 
ロックの「天賦人権論」
57 ホッブズの問題。
 せっかく平和が訪れても、その後、統治者に逆らうものが現われたなら、結局また内乱(戦争)が続くことになってしまいます。
 だから人民は、一度できた政治権力には常に従わなければならない。ホッブズはそう主張したのです。
 しかしそうすると、大多数の人びとは、自己保存を果たせるとしても、いつまでたっても支配のくびきから逃れることができません
 
リヴァイアサンから38年後の1689年、ロックは『統治二論』を出版します。ここで彼はホッブズが認めなかった「抵抗権」を打ち出します。君主からいわれのない暴力にさらされ、これを法に訴えることで回避することが不可能な時、人民は君主に対する抵抗権を持つ。ロックはそう主張したのです。
 
「天賦人権論」神がそもそも与えてくださっているもの
当時のキリスト教社会では、いくらか通用したかもしれません。でも現代では、とてもじゃないけど通用しない。近代ヨーロッパローカルの思想というべきでしょう。その意味で、ロックの思想は、残念ながら哲学「原理」とは言えないものだと私は思います。
 
 ロックとルソーの問い自体は、それほど異なるわけではありません。ずばり、「よい社会」とは何か。でも、「どのような方法でその問いを考えたか」という点において、両者は天と地ほどの差があるのです。
 ロックの方法は、人間がもともと神に与えられている人権(所有権)を見定め、そこから社会のあり方を構想するというものです。それに対してルソーの方法は、「よい社会」とは誰もが望む「自由」を実現する社会であると見定め、ではそれを可能にする条件はなにかと問うものなのです
 
人民主権の原理
61 ルソー
 どうすれば共同の力のすべてをもって、それぞれの成員の人格と財産を守り、保護できる結合の形式をみいだすことができるだろうか。この結合において、各人はすべての人々と結びつきながら、しかも自分にしか服従せず、それ以前と同じように自由であり続けることができなければならない」。
これが根本的な問題であり、これを解決するのが社会契約である。
 
「一般意志」とは何か
62 社会のすべての構成員は、みずからと、自らのすべての権利を、共同体の全体に譲渡するものである。
 
ここれいう「共同体」とは、ホッブズがいうような統治者(王)ではなく、「一般意志」にほかならない。
 
「みんなの意思を持ち寄って見出された、みんなの利益になる合意」
 
一般意志は、どこかにあらかじめ転がっているものではなく、人々の対話・議論を通して浮かび上がってくるもの
 
一般意志はつねに異議申し立てに開かれていることが重要です。一度これが一般意志だとされたからといって、未来永劫、それが絶対に正しいと言えるわけではない
 
社会の正当性をはかる基準として
66 「一般意志」の最も重要なポイント、それは、これのみが、統治の、そして法の「正当性」の原理であるということです。ルソーの最初の問いを思い出しましょう。何が統治を正当なものとしうるか?「私はこの問題は解きうると信じる」。
 この問いの答えこそ、一般意志に他ならないのです。つまり一般意志は、民主主義社会がめがけ続けなければならない、政治権力や法の正当性をはかる基準原理なのです
 別の言い方をすると、わたしたちは、この一般意志の観点からしか社会の「よさ」をはかれないということです。いま、わたしたちは「よい社会」に暮らしているか?そう問うたとき、わたしたちは、この社会は全ての人の利益になる合意をちゃんと目指しているかと考えるほか基準を持ちません。
 つまり一般意志は、絶対に実現しなければ意味のない原理ではなく、社会の正当性をはかる基準として意味を持つ原理なのです
 ですから、政府や法を批判するときの根拠も、最終的にはこの一般意志にあります。「この政府は私の利益を実現してくれない」。そんな批判は、政治議論において正当性を持ちません。「この政府は一般意志をめざそうとしていない」。これが正当な批判の仕方なのです
 
 ルソーの一般意志には、もう一つ繰り返されてきた批判があります。
 一般意志は全体主義の思想である、という批判です。
 
 この批判の一つの背景には、おそらく、フランス革命期における独裁者、ロベスピエールの存在がありました。王侯貴族のみならず、内ゲバも含めて何千人もの人を断頭台に送り込んだ、恐怖政治の独裁者ロベスピエール。彼はルソーの熱心な信奉者だったのです。
 しかし一般意志は、すべての人を絶対的な意志のもとに服従させよという全体主義とは全く違うものです。繰り返し言ってきたように、すべての人の意思を持ち寄って見出された、すべての人の利益になる合意。それが一般意志です。一般意志は全ての人の利益を目指すのですから、誰かの自由を犠牲にすることを正当化する全体主義と同一視するのは、やはり大きな間違いなのです
 
一般意志は徐々に実現している
68 かつて人類は、宗教や人種、身分が違えば、お互いを同じ人間と思うことさえありませんでした。それは文字通りの意味で同じ人間とは思わなかったということで、人々はお互いに、異なる宗教や人種や身分の人たちを”ウジ虫”だとか”虫けら”だとか平気でいったいたのです。そしてひとたび戦争になれば、残酷な仕方で殺したり、奴隷にしたりするのも当然とされていたのです。
 
69 一般意志は、確かに完全に実現することは不可能でしょう。しかし人類は、長い目で見れば一般意志をめざしてこれまで努力しつづけてきたといっていいのです。そしてそれは、確実に前進してきたのです。
 これこそ、思想の力、「原理」の力です。哲学なんて”役に立たない”という批判が、どれだけ現実を見ていないものであるか、改めてご理解いただけるのではないかと思います。
 
「自然」とは何か?
70 ルソーは別に、あの太古の「自然状態」に戻ることをといたわけではない。
ヴォルテール「あなたの本を読むと四つ足で歩きたくなってしまいます」
 
 ここでいう「自然」は、ルソーが描いたあの仮説としての「自然状態」のことではなく、むしろ人間の自然、つまり人間本性(ヒューマンネイチャー)のことと理解すべきものです。『エミール』では、自然とは人間の「本来の傾向」のことであるとも言われています。
 
 人間は「自由」に行きたいと願うのが「自然」なことだ。
 
「自然な成長」とは?
 
 
 
第3講/「よい社会」の根拠は「一般意志」にあり
「合意」だけが正当性の根拠
78 だから人々のうちに正当な権威が成立しうるとすれば、それは合意によるものだけである
 
自由であるよう強制される?
79 政治体はそれを構成するいかなる個人も害することができない。
 
 ただこれは、各人が自由であるよう強制されるということを意味するにすぎない。それぞれの市民はこのことを強制されることで、祖国にすべてを与えるのであり、これによって他人に依存することから保護されるのである。
 
 「自然状態」において、人間は自己保存のためなら何でもしていいという「自由」を持っていました。これをルソーは「自然的自由」と呼びます。しかしこれは、非常に脆い自由です。か弱い人間が、「自分だけで自由になる」のは至難のことだからです。
 だから、わたしたちは社会契約によって共同体(国家)をつくり出しました。
 このことによって得られたのが「社会的自由」です。この社会契約によって、私たちはひとりでいるときよりずっと強固な「社会的自由」を手に入れることができるのです。というより、社会契約とはそのようなものでなければならないのです。
 ひとたびそのような社会契約がなされた以上、わたしたちはもはや「自然的自由」を主張することはできません。自己保存のためには何をしてもいいというわけにはいかないのです。
 これが、「自由であるように強制される」ということの意味です。つまりわたしたちは、「自然的自由」ではなく「社会的自由」を追求するよう強制されているのです。むろん、ここで「強制されている」というからといって、それは望まないことを強いられているという意味ではありません。私たちは、自ら望んで社会性契約を結び、「社会的自由」を手に入れたのですから。
 
81 人間はそれまでは本能的な欲動によって行動していたが、これからは正義に基づいて行動することになり、人間の行動にそれまで欠けていた道徳性が与えられるのである。そして初めて肉体の衝動ではなく、義務の声が語り掛けるようになり、人間は欲望ではなく、権利に基づいて行動するようになる。それまで自分のことばかりを考えていた人間が、それとは異なる原則に基づいてふるまわなければならないことを理解するのであり、自分の好みに耳を傾ける前に、自分の理性に問わねばならないことを知るのである
 
所有権の獲得
83 人間が社会契約によって獲得したもの、それは社会的な自由であり、彼が所有しているすべてのものに対する所有権である。
 
 人権の哲学者、金泰明さんは、このようなルソー(およびヘーゲル)の思想を「ルール的人権原理」と呼んでいます。人権、それは、「みんながみんなの中で自由になる」ために、ルールとしてともに作りあったものである。「ルール的人権原理」は、人権の本質をそう洞察するのです。
 他方、ロックのような天賦人権論を、金さんは「価値的人権原理」と呼びます。これは人権を、それ自体において不可侵の価値を持ったものだると主張する考えです。
 「価値的人権原理」は、歴史的には確かに大きな役割を果たしました。しかし哲学的には、「ルール的人権原理」のほうがやはり原理的であるというべきでしょう。ルソーの人権概念は、今日なお、つねに立ち返るべき思想の土台なのです
 
みんなの利益を目指す「一般意志」
85 こうして確立された原則から生まれる最初の帰結、そしてもっとも重要な帰結は、国家は公益を目的として設立されたものであり、この国家のさまざまな力を指導できるのは、一般意志だけだということである。
 
社会を統治するには、この共通の利益だけを目指すべきなのだ。
 
 これまで述べたことから、一般意志はつねに正しく、つねに公益を目指すことになる
 
 この箇所、ルソーの意を汲むなら、次のように解釈するとよいのではないかと思います。一般意志は、それが皆の利益を目指すものであるというその概念の定義上、常に正しいものである、と。
 もう少しいうと、こんな感じです。
 政治的な正しさとは、それがみんなの利益を目指すところにある。みんなの利益を目指すものを一般意志という。だから一般意志は、定義上、政治的な正しさそのものである
 いわばこれは、トートロジー(同語反復)のようなものなのです。
 
 
一般意志と全体意志の違い
87 ルソーが「全体意志」と呼ぶもの
 
 一般意志は、全体意志とは異なるものであることが多い。一般意志は共同の利益だけを目的とするが、全体意志は私的な利益を目指すものに過ぎず、たんに全員の個別意志が一致したに過ぎない。あるいはこれらの個別意志から、[一般意志との違いである]過不足分を相殺すると、差の総和が残るが、これが一般意志である
 
 右の引用では、全体意志は「全員の個別意志が一致した」ものと訳されていますが、岩波文庫の桑原・前川訳では、個別意志の「総和」を訳されています。原文もsomme 英訳もsumですので、やはり、個別意志の「一致」というより「総和」と考えたほうがよいのではないかと思います。
 この「個別意志の総和」から、「相殺しあう過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志がのこることになる」(桑原・前川訳)とルソーはいいます。これはいったいどういう意味なのでしょう?
 ルソーがこれ以上言葉を尽くして説明してくれていないので、ある程度推測するしかないのですが、ここでいわれる「相殺しあう過不足」(les plus et les moins qui s'entre-detriuisent/お互いに打ち消し合うプラスとマイナス)とは、「他者の利益と衝突しあう私的な利益」のことと考えるとよいのではないかと思います。
 前にお話しした、修学旅行の例で考えてみましょう。
 
 旅行の行き先を決めるとき、わたしたちはまず、ハワイ、北海道、九州、ヨーロッパ、など、それぞれの個別意志を持ち寄ります。その「総和」、つまり個別意志の単なる寄せ集めが全体意志です。
 この総和から、「他者の利益と衝突しあう私的な利益」を差し引きます。たとえば、「俺の家にはお金があるから、修学旅行は絶対ヨーロッパだ!それも一国ではなく、いくつかの国の歴史的遺跡を訪問したい!」なんていうのがそうかもしれません。「我が家にはヨーロッパに行くお金なんてないから絶対無理」という、別の私的な利益と衝突するかもしれないからです。
 その結果、ヨーロッパ行の案が”相殺”されたとしましょう。でも、この案の中に含まれていた「歴史的遺跡を訪問する」は、差し引かれずに残るかもしれません。「一か所に留まるのではなく、近県にも足を伸ばす」という案も合意されるかもしれません。
 こうして差し引かれずに残った、それぞれの考えの総和が「一般意志」である。そうルソーはいうのです。
 その結果、修学旅行は、例えば九州の歴史的遺跡を巡る旅に決まるかもしれません。奈良と京都を巡る旅という、それまでになかったアイデアが合意されることになるかもしれません。
 以上のように、一般意志とは、全体意志から「衝突しあう私的な利益」を差し引いて、みんなの利益になるものとして見出された合意のことだとルソーはいうのです。
 ここで重要なのは、こうした私的な利益(個別意志)を、私たちはまずお互いにちゃんと表明しあう必要があるということです。そうでなければ、それが本当に他者の利益と衝突するかどうかわからないからです。
 
 すべての人の利益が一致するのは、各人の利益と対立した場合である。利益の違いがなければ、共同の利益はいかなる障害物にもであわない。すべては自然に進行し、政治は技芸(アート)ではなくなる。
 
 誰もが、お互いに異なる利益を持っています。だからまずは、それらをテーブルの上において吟味しあわなければなりません。そしてそのうえで、「みんなの利益になる合意」を見つけ出す必要があるのです。
 その意味で、政治とは一般意志を見つけ出すアート(技芸)に他ならないのです。
 ところで、このアートとしての政治を十分に機能させるためには、次の二点が重要になるとルソーはいいます。
 一つは、すべての人に情報が行き届いていること。もう一つは、人々が前もって根回しをしない仕組みを整えることです。
 
 人民が十分な情報を持って議論を尽くし、互いに前もって根回ししていなければ、わずかな意見の違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれるのであり、その決議は常に善いものであるだろう。しかし人びとが徒党を組み、この部分的な結社が[政治体という]大きな結社を犠牲にするときには、こうした結社のそれぞれの意志は、結社の成員にとっては一般意志であろうが、国家にとっては個別意志となる
 
みんながつくった国だからみんなで守る
92 だから統治者が市民に、「汝は国家のために死なねばならぬ」というときには、市民は死ななければならないのである。なぜならこのことを条件としてのみ、市民は安全に生きてこられたからである。
 
 人々は、自らの自由を確かなものとするために国家をつくりました。しかし、この国家は常に他国からの攻撃の危機にさらされています。もし、国が侵略されたり滅ぼされたりしてしまったら、私たちはせっかく手に入れた安全や自由を根こそぎ奪われてしまうことになります。
 ならば私たちは、国家が他国からの攻撃や侵略にさらされたとき、これを守るために命をかける必要がある。というより、自分たち以外に、この国を守ってくれる人はどこにもいないのです。
 
 ここでのルソーの主張を、現代の私たちの感覚から断罪することは慎まねばなりません。ルソーの時代と現代とでは、置かれている状況がまったく違っているのです。
 
94 ちなみに、このような戦争ばかり続けていたヨーロッパの現状を憂えて、ルソーからも大きな影響を受けたドイツの哲学者カントが、『永遠平和のために』を書いたことはよく知られています。このカントの著作は、その百数十年後の国際連盟(現在の国際連合の前身)の設立に大きな影響を与えました。
 
法は一般意志の具現である
96 法をつくる権限は誰にあるのかと、問うまでもない。法は一般意志の行為だからである。統治者は法律よりも上位に立つのかと、問うまでもない。統治者も国家の[構成員の]一因だからだ。
 
 公衆が啓蒙されると、社会の知性と意志が一致するようになり、様々な部分がきちんと調和するようになり、ついには全体が最大の力を発揮するようになる。
 
 立法者はあらゆる点において、国家における<異例な人>である。その天分においても、その任務においても、異例な人でなければならないのである。
 
 こうした理由から建国者はいかなる時代にあっても天の助けに頼ったのであり、自分たちの叡智は神々から受け取ったものだと、神々を褒めたたえたのである。
 
政府は人民の召使い
99 政府が主権者と混同されることが多いが、これは間違いである。政府は主権者ではなく、主権者の召使い[執行人]にすぎない。
 
 真の民主政はこれまで存在したことはなく、これからも存在することはないだろう
 
 ここでルソーが言っている民主政とは、あくまでも統治の仕方(政府の形態)のことであって、今日の民主主義の概念とは少しずれがあるのです。
 ルソーが目指したのは、「人民主権」の国家です。本書では、この人民主権に基づく社会を民主主義社会と呼ぶと言いました。
 他方、ルソーの用語では、「人民主権」に基づく国家は「共和国」と呼ばれます。一部の支配者の意志ではなく、みんなの意志(法)基づいてつくっていく国家、と考えておくとわかりやすいでしょう。
 それに対して民主政は、すべての人民が、いわば政府の役人を務める政治形態のことです。
 しかしそんな純粋な民主政は、さすがに非現実的です。ルソーも、きわめて小さな国であり、あまり議論をしなくてもいいくらい習俗が似通っていて、富もある程度平等な人々からなる社会でないと、真の民主政は不可能だろうといっています。
 非現実的であるばかりではありません。ルソーは、そのような民主政は好ましくないとさえ言います。法のつくり手が法の執行人にもなってしまうと、法が恣意的に運用される危険があるからです。
 立法権と行政権は区別しなければならない。そして司法権も。この三権分立の原則は、モンテスキューによって打ち立てられたものですが、ルソーも基本的にはこれを踏襲しています。
 
人民の集会をつくれ!
民集会=一般意志に基づいて法をつくる集会
この集会は定期的に開かれることが重要
毎回、開会にあたって必ず次の二つの議題を採決しなければならない
 
第一議案 主権者は政府の現在の形態を保持したいと思うか。
第二議案 人民は、いま行政を委託されている人々に、今後も委託したいと思うか。
 
「政府の現在の形態」→民主政、貴族政、君主政、またその混合政体のこと
(現代の日本でいうなら、このまま議院内閣制を続けるか、それとも大統領制に変更するか、といったことを決議するもの)
 
「行政を委託されている人々」
(現代の日本でいうなら、総理大臣をはじめ、国務大臣らの信任/不信任決議のこと)
 
キリスト教」から「公民宗教」へ
108 公民宗教の教義
①神は存在する。
②来世は存在する。
③正しきものが幸福になる。
④社会契約と法が神聖である。
⑤不寛容を退ける。
 
 
 
第4講/若者たちと考える『社会契約論』の可能性
Q1.スクールカーストの解決方法、『社会契約論』で見出せますか?
クラスで「社会契約」を
116 まあ、社会契約なんて言うと大げさに聞こえるかもしれないけど、言いたいことはシンプルです。「お互いを対等な人間としてリスペクトし合う」。それだけをルールとして明示し、相互に確認しようというだけです。
 
学校を自分たちの手でつくる
119 加えて私の考えを言うと、学校の細かなルールでがんじがらめにされている子どもたちは、何かにつけてお互いを「ずるい」といって責め合う傾向があります。窮屈な枠の中で生活することを強いられると、その枠をちょっとでもはみ出た人を見ると、すぐに「ずるい」と感じる感性が育まれてしまうのです。
 こんな不寛容な心を、学校が育ててしまってはダメですよね。学校は本来、子どもたちがお互いの自由を認め合う感度をこそ育まなければならないのに。
 
120 学校って、多かれ少なかれ”空気”を読みあう場になってしまいやすいものですよね。
 その最大の理由は、同質性の高さだと思います。もちろん、学校には多様な子供たちが通ってはいるけれど、例えば同じ年生まれの人たちだけからなるコミュニティって、学校以外にはまずないですよね。
 スクールカーストが生み出される背景にも、やっぱり学校の同質性があると思います。同質性が高い空間では、容姿だとか、勉強やスポーツの得手不得手、ノリのよさ、面白さなど、いくつかの限られた指標で人間が評価されやすくなってしまうからです。 
 
Q2.「自由」だからこそ、じつは私たちは苦しんでいるのでは?
自由であることの苦しみ
125 言論の自由も、職業選択の自由も、幸福を追求する自由もない、絶対支配の社会。そんな社会に戻ることを、私たちはやっぱり欲しはしないよね。
 だから「自由な社会」それ自体が問題じゃないんです。問題は、この「自由な社会」のなかで、多くの人たちが、いまなお、失敗したら二度と復活できないとか、貧困の連鎖などのために、そもそも自由に生きるためのスタートラインに立てないとか言った理由で、大きな「不自由」を感じてしまっていることなのです。
 
「自由な社会」を先に進める
 
Q3.世界的な格差の問題に、ルソーの思想を役立てることはできますか?
グローバルな社会契約
128 世界政府は、非現実的なだけでなく危険性もあるんです。もし現実すれば、巨大な権力を握るわけですからね。その一方で、国民国家とは違って、世界政府は市民によるコントロールが非常に難しい。いま、世界には約70億人もの人がいますからね。一般意志を見いだすのは国民国家の何十倍も難しい。
 
民主主義の危機
130 ヘーゲル自由経済を、文字通り各人の自由を下支えするために重要なものだと考えました。農民の子は農民、職人の子は職人、ではなくて、自分の力ひとつで自由をめがけていくことができる。それが市場経済のよさですね。
 でもヘーゲルは次の問題も見落としませんでした。市場経済においては、どうしても貧富の差が拡大してしまう傾向がある。生まれの差が、結果の差をもたらしてしまうこともある。運不運などもあって、突然転落してしまうこともある。
 そんな時に、最後に必ず人々を下支えしなければならないのが国家であるとヘーゲルは言いました。国家こそが、すべての人の自由を実現するものでなければならないのです。
 
 これはルソーにはまだあまりなかった観点で、ヘーゲルがルソーを批判しながらはっきりと打ち出しました。
 
 為政者の責任を問う必要はもちろんあります。でも同時に、やはりここには構造的な問題がある。グローバルな経済競争、つまりは不安競合においては、すべての人の自由を考えている余裕なんてなくなってしまうのです。
 これは戦争共同体に似ています。よその共同体との戦争の可能性、つまり不安競合の中では、すべての人の自由が大事だなんて言っている余裕はありません。誰か強いやつに富と力を集中させないと、共同体自体が滅ぼされてしまう可能性があるのです。
 
教育の力