読んだ。 #岸田ビジョン 分断から協調へ #岸田文雄

読んだ。 #岸田ビジョン 分断から協調へ #岸田文雄
 
はじめに
・「聞く力」を持つリーダー
・戦後最大の国難に直面して
・「コロナ対策」補正予算の策定
・浮かび上がった「日本の課題」
・「成長戦略」五つの柱
 
 
第一章 分断から協調へ
・「47歳」の日本
18 たとえば、今後ますます膨らむことが予想されている社会保障費です。今後20年で確実に人口が減少していく国は世界6か国に過ぎず、その中でも高齢化率は日本がダントツで高率です。2040年には介護費用は2.4倍(2018年比=以下同)になり、医療費は1.7倍、年金支給額は1.3倍と社会保障にかかるお金が激増するという試算がでています(「2040年を見据えた社会保障の将来の見通し」=内閣府など による)。
 
※世界的に見ても我が国の人口減少が著しいことがわかる。国連の調査によると、主要先進国にて2015年から2050年までの間に人口減少が見込まれているのが、日本、イタリア、ドイツであり、我が国はその中でも減少率が大きく、2050年では、2015年の15.1%減と見込まれている(同ドイツは7.7%、イタリアは5.5%となっている。)
加えて、我が国は、主要先進国内でも高齢化が進んでおり、2015年、2050年のどちらにおいても、主要先進国内で60歳以上の比率が最も高くなっている。数値としては、2015年時点では0-14歳が全体の12.9%、15-59歳が全体の54.1%、60歳以上が全体の33.1%であったのが、2050年では、0-14歳が全体の12.4%、15-59歳が全体の45.1%、60歳以上が全体の42.5%となり、2015年から2050年で0-14歳が0.5ポイント減、15-59歳が9.0ポイント減、60歳以上が9.4ポイント増になると見込まれている6。
 
・新しい資本主義に向けて
・緩和の限界
・地方再生と財政の持続可能性
・中間層の底上げを!
・大企業と中小企業・小規模事業者の共存
・データ駆動社会
・いまこそ「田園都市構想」
・令和の時代の農業
・地方発世界行き
・国立大学の復活を
・持続可能性と三つの視点
・環境問題のリーダー国に
・個性を生かすワンチーム
 
 
第二章 ヒロシマから世界へ
・賢人会議
・勝者なき戦争
・中国と核
朝鮮半島有事に備えよ
・自由・民主主義・人権の尊重・法の支配
 
憲法九条と現実の狭間で
88 また、自民党は、この「自衛隊の明記」のほかに、三つの項目を「憲法改正についてのたたき台素案」として提案しています。
 ①選挙のおける一票の平等について
 東京への人口集中が進むなかで、憲法に一票の平等において、人口割という物差ししかなければ、地方の議員定数はどんどん削減されてしまう。地域の繋がりを重視し、一票の平等を考える際の物差しとすることによって県を合区するような選挙区を解消すべきではないか。
 ②教育の充実について
 子どもの貧困が社会問題化し、所得の格差との負のスパイラルがはじまっていると指摘される中で、憲法には「義務教育の無償化」しか書かれていない。子どもにはその経済的環境にかかわらず、教育を受ける機会を与えるような規定を憲法に盛り込むべきではないか。
 ③緊急事態対応について
 我が国の憲法には、大きな災害の発生時などの緊急事態への対応について明文はない。「災害の時代」と言われる現代において、首都直下型地震感染症拡大(パンデミック)等の大きな災害時を想定して、国民の代表たる国会の機能維持について、他の国々のように規定しておく必要はないか。
 
・韓国の「国民情緒法
・広島の一番長い日
・「フミオが言うなら」
・黒い雨の記憶
 
 
第三章 「信頼」に基づく外交
・愛犬ベン
110 なかでも、アメリカ合衆国のカウンターパートであったジョン・ケリー国務長官とは親しく、日本の要人と面会すると、いまでも「フミオは何してる?」と尋ねてくれるそうです。2015年4月、アメリカ・ボストンの私邸に安倍晋三総理とともにお邪魔し、歓迎していただいた思い出は忘れられません。ケリー国務長官のご自宅は、築120年の修道院を改築したもので、その荘厳な雰囲気に圧倒されました。
 ケリー氏はベトナム帰還兵で、アメリカ国内でも人気が高く、民主党の大統領候補となった政治家です。また同時に愛犬家であることも知られています。愛犬「ベン」を家族のように愛し、執務室に写真も飾ってあるそうです。私は、愛犬ベンの写真をプリントしたクッションをお土産に持っていきました。
 「オー、ベン、マイ・ファミリー」
 テレイザ夫人はそう喜び、いたく感動してくださった。翌日の昼食会でも夫人は大喜び。夫人はハインツ財閥の財産相続人でもあり、ケリー氏が大統領選の資金目当てに結婚した、とアメリカのメディアで揶揄されたことを教えてくれました。安倍さんは地元山口県の日本酒、獺祭を持っていきました。ケリー氏は喜んでいましたが、夫人のよろこび方を見ると、「ベンちゃんクッション」の完勝でしょうか。
 
・酒豪の外相
・対ロ交渉の舞台裏
王毅外相の「能面」が緩んだ瞬間
・吉田ドクトリンの後継者
 
 
第四章 人間・岸田文雄
・ニューヨークでの出会い
・行きは五人で帰りは六人
開成高校野球部の青春
・野球から学んだチームプレー
・東大とは縁がなかった
・三度目の失敗
早大時代の「校外活動」
・「空飛ぶ棺桶」で出張
・クリスマスの「プレゼント」
・仁義なき選挙戦
建設省を敵に回した
 
・歩いた家の数しか票は出ない
158 
栗屋敏信―経世会建設省
 
自民党の「集金係」に
 
 
第五章 「正姿勢」の政治
・選挙に強い「秘伝のタレ」
169 政治家にとって
 「地盤・看板・カバン」
 の三バンは選挙戦を勝ち抜くうえでもっとも重要と言われます。
 選手は候補者の資質、能力、政策、実績などで選ばれるべきですが、後援組織がしっかり機能しているか否か、知名度があるか否か、選挙資金の多寡などが勝敗を分けることが多々あります。
 
・「一区」で勝ち抜くことの難しさ
170 佐藤栄作総理・総裁の後継者を決める総裁選には三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫の四人が出馬し、「三角大福」と言われました。この四名は後に全員総理・総裁へと登り詰め、自民党の全盛期を支えました。熾烈な権力闘争が繰り広げられ、令和となったいま現在でも往時を振り返る書籍が刊行されています。
 
・大連一の高級デパート
※先代経営の貸家業を継ぎ1933年(昭和8年)に幾久屋百貨店を創立。
大連および奉天で不動産業や百貨店経営に従事。
1928年(昭和3年)に衆議院議員となって、以後6期連続当選、その間第1次近衛内閣の海軍参与官、小磯内閣の海軍政務次官、翼賛政治会国防委員長、自由党総務等を歴任した。
戦後、公職追放追放解除後の1953年(昭和28年)に衆議院議員に当選。代議士に復帰し1期務めたほか、幾久屋商事社長、穏田マンション社長を歴任した。
 
宮澤喜一さんの金言
176 88年に起きたリクルート事件をきっかけに「自民党金権政治」とのレッテルが貼られ、自民党に厳しい視線が注がれた。
 92年8月、金丸信副総裁が「5億円闇献金事件」を認め、辞任。その後議員辞職まで追い込まれた。
 その結果、最大派閥の経世会竹下派)の後継争いが起こり、小渕派が誕生。橋本龍太郎梶山静六両氏が推す小渕恵三氏が新会長へと就任した。小沢一郎氏ら若手は「政治改革をすべし」として羽田務氏を擁立して羽田派を結成し、経世会が二つに割れた。
 時の宮澤内閣は政治改革を掲げながら、法案提出すらできなくなり、93年6月18日、野党が宮澤内閣不信任案を提出。自民党内の羽田派がこれに同調すると造反議員が続出し、内閣不信任案が可決された。
 宮澤総理は同日、衆議院を解散し、国民の信を問う。宮澤内閣の不信任案に賛成した、羽田、小沢、渡部恒三ら36人が自民党を離党し「新生党」を設立する。
 その前年の92年7月の参院選で、細川護熙小池百合子ら4氏が「日本新党」を設立し、93年に武村正義氏が率いる「新党さきがけ」も生まれ、空前の新党ブームとなっていた。
 
「野党議員」としてのスタート
・ビールケースに立ちつづける
・ピラミッド型選挙は通用しない
・大逆風
・たった二人だけの生き残り
 
 
第六章 闘う宏池会
・「お公家集団」の権力闘争
200 私たち宏池会は1957年、池田勇人さんが総理・総裁を目指すために自身の派閥を創設したのが始まりです。私が生まれた年のことです。
 2017年に結成60周年を迎え、池田さん、大平正芳さん、鈴木善幸さん、宮澤喜一さんと四人の総理・総裁を輩出。官僚出身の議員が伝統的に多く、「政策の宏池会」と評されています。
 池田さんは自身の内閣で「所得倍増計画」を目玉政策として掲げました。前任の岸信介元総理は「憲法改正」を掲げ、日米安保改定に取り組みました。党是である「憲法改正」も重要ですが、後任の池田さんは「時代が何を望んでいるか」を重視し、「経済優先」を掲げました。
 「国民総生産(GNP)を10年以内に26兆円に倍増」
 「生活水準を欧米並みに」
 所得倍増計画によって日本は年平均10%と驚異的な経済成長を遂げました。池田さんは高度経済成長に道筋をつけ、政治の時代から経済の時代へと巧みに時代を転換したのです。
(略)
 しかし、一方、高学歴で官僚出身の議員が多いために「政局に弱い」「お公家集団」と揶揄されることがあるのも事実です。
 竹下昇元総理や小渕恵三総理が率いた経世会平成研究会には、地方議員出身のたたき上げの政治家が多く、地は閣内でも権力闘争が行われ、「戦闘集団」というイメージが強くあります。
 それに対し、おっとりとしたイメージで語られることが多い宏池会ですが、宏池会で起きた、ある権力闘争から二つのことを学びました。
 「勝負は勝たなければならない」
 しかし同時に、
 「勝ち負けは二の次で勝敗は抜きにして打って出る」
 二律背反する、この勝負への要諦を教えてくれたのが2000年11月20日のいわゆる「加藤の乱」です。
 そして、「加藤の乱」に至る過程では、節目となる大きな出来事が派閥内において少なくとも二つ起こっていました。
 一つ目は宏池会の代替わりです。1998年12月22日、宏池会の臨時総会が開催され、派閥会長が正式に宮澤さんから加藤紘一さんに引き継がれました。しかし、宏池会にはもう一人、次の時代を担うべく力を備えていた大物がいました。河野洋平さんです。
 加藤さんは早くから「宏池会のプリンス」と目されていたのですが、河野洋平さんもまた「自民党のプリンス」と評されていました。年齢は加藤さんは二つ年下で、宮澤内閣では加藤さんが官房長官に就きましたが、河野さんも宮澤改造内閣官房長官に就任しました。当時、それぞれの頭文字から「KK対決」などと言う人もいました。
  加藤さんの派閥会長就任を受けて、河野さんを慕うメンバー、相沢英之さん、麻生太郎さん、松本純さんといった皆さんが、15名のグループで河野派大勇会を結成し、宏池会を離脱してしまったのです。
 人間関係というのは本当に難しいものだ、そして、両雄並び立たずとはこういうことをいうのだと、政治の世界の厳しさを目の当たりにしました。
 
・「一本釣り」の波紋
203 そして、もう一つの出来事が、小渕恵三首相が現職として挑んだ1999年の自民党総裁選でした。
 宏池会を引き継いだばかりの加藤さんは、「さわやかな政策討論会をしよう」と主張して、盟友の山崎拓さんとともに総裁選に出馬され、小渕首相に3倍以上の差をつけられての敗北を喫します。結果的に宏池会は、反主流派として厳しい立場に追い込まれ、人事においても冷や飯を食わされることになったのです。
 ところが、そうした中で、小渕総理は、池田行彦さんをいわば一本釣りの形で党三役の総務会長に指名しました。
 池田さんは旧姓を栗根といい、東大法学部から大蔵省に入省し、宏池会創立者池田勇人さんの次女・紀子さんと結婚されました。
 加藤さんに負けず劣らずリーダーの資質をお持ちの方で、1976年の衆院選池田勇人さんの地盤の広島二区、私のお隣の選挙区から出馬して初当選。宏池会を引き継いだ宮澤さんの胸中にも、「いずれ池田家に」と「大政奉還」を意識する思いは当然あったと思います。池田さん自身も、宏池会はいずれ私がという気持ちがあったかどうかは分かりませんが、バトンは宮澤さんから加藤さんに渡されることになっていました。その池田さんが一本釣りされてしまったわけですから、派閥内に大きな動揺が走ったのです。
 
・失言が招いた惨敗
・「永田町のプリンス」加藤紘一
・固めの盃
・「あなたは大将なんですから」
・屈辱のピエロか、悲劇のヒーローか
・「反乱軍」残党の処遇
小泉政権誕生と「加藤の乱
・ドライマティーニの会
 
 
あとがき 総裁選に向けて