読んだ。 #ユリイカ 2021年12月号 #フレデリック・ワイズマン

読んだ。 #ユリイカ 2021年12月号 #フレデリック・ワイズマン
 
図書館の雑誌コーナーで表紙を見て驚いた。一冊まるごと(ほとんど)いろいろな方がワイズマンについて語られている。皆すごく詳しいようだった。
フレデリック・ワイズマン監督作品は47作品あるらしい。(私はまだ5作品しか見ていない)。
本の中で何度も参照されていた、『全貌フレデリック・ワイズマン アメリカ合衆国を記録する』(岩波書店)という本もあるらしい。
 
 
特集*フレデリック・ワイズマン——『チチカット・フォーリーズ』から『クレイジーホース・パリ』、『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』、そして『ボストン市庁舎』へ…ドキュメンタリー映画監督の軌跡
 
❖インタビュー
「とにかく、映画を作ることが好きなんです」――『ボストン市庁舎』インタビュー / フレデリック・ワイズマン
 
❖討議
集大成のその先へ / 鈴木一誌×冨田三起子
55 鈴木 限界と言えば、ジャクソンハイツは167もの言語が行き交っていると謳われている地域ですが、映画そのものには5、6カ国語くらいしか出てこない。録音技師であるワイズマンは、自分のまったく知らない言語が話されているシーンを撮影できない。ワイズマン映画は、不明な言語が話されている場を収めることが出来ない構造をもっている
 
57 冨田 私は『DV2』を見たとき、出演者たち(被写体)それぞれがハマり役を完璧に演じているような気がしました。彼の映画では「どうして人々がカメラを意識しないのか」と聞かれると、「人間は虚栄心からカメラを気にしないふりをする、おまけに他の人を上手に演じられない。ゆえにどうしてもその人の地が出てしまうんだ」と答えていました。ワイズマンにとってはそこが人間の面白さになるのでしょう。
鈴木 社会学者のアーヴィング・ゴッフマンが、個人はそれに先行して存在するフレームに帰属するというドラマツルギーの応用的理論を提唱していました。公の場において編集者は編集者を、デザイナーはデザイナーを、あるいは母親は母親を演じようとする。だからフレームは個人に先立つという理論です。しかしワイズマンはそこから一歩進んで、でもやはり演じきれない余剰としての個人があるのだと言っている。ワイズマン作品からわかるのは、組織・機関という反公共的な枠組みがあるからこそ個人が見えてくる。ただ道を歩いている人をとっても個人は見えてきません。ワイズマンの撮影スタイルを形容した言葉に有名な<壁に止まっている蠅(fly on the wall)>というのがあります。
 
❖記録映画というコンパス
網羅すること/反復すること――ワイズマンと同時代性 / 舩橋 淳
61 「四無い主義」
インタビュー、テロップ、ナレーション、(現場音以外の)音楽
 
祝福と告発 / 想田和弘
 
❖論考〈1〉:『ボストン市庁舎』の世界
One of them――『ボストン市庁舎』にみるワイズマン映画のいくつかの形式的特徴 / 三浦哲哉
「観察」の条件 / 佐々木 敦
フレデリック・ワイズマンとインスティテューショナルな笑い / 入江哲朗
90 とはいえ同時に、ドクの愛嬌はそのマッド・サイエンティストぶりにも由来している。映画の開始時点のドクはあくまでも、自宅で珍奇な発明品を生み出しつづけている変人であり、彼が何らかの研究機関や学界に属している様子は見受けられない。過去に属していたのか否かは映画からはわからないけれども、少なくとも私たちのイメージにおいては、”学会から追放された異端の物理学者”というフィクショナルな紋切型がドクにぴったり当てはまると感じられる。そしてこのことが、つまり”学会から追放された異端の物理学者”を”いかにもアメリカ的な科学者”と見なすことが私たちにとって容易であるという事実こそが、米国に対する私たちの視覚の偏りを示している。私たちは、学界から追放された異端のアメリカ人科学者の姿を―ドクの造形などのおかげで―たやすく想像できる一方で、ドクを追放したかもしれない学会のことを、すなわち主流のアメリカ人科学者たちからなるインスティテューションのことを、十分に知っているわけではない。事実アメリ科学史という学問分野は日本においてかなりマイナーである。
 バック・トゥ・ザ・フューチャー』におけるドクの、電気仕掛けの大きなヘッドギアをかぶってテレパシーの実験を行ったり素っ頓狂な声で「1.21ジゴワット!」と叫んだりするふるまいはいちいちおもしろく、私たちを笑わせてくれる。こんなにも魅力的なドクの居場所を用意できない学会は、さぞかし硬直的で官僚的でおもしろみに欠けるインスティテューションであるに違いない―こうした固定観念は、ワイズマンに言わせればひとつの「イデオロギー」である。1973年になされたインタビューの中で彼は、それまでの「ほぼすべて」の自作に共通するテーマは「形式的なイデオロギーと現実の実践とのあいだ、規則とその運用のされ方とのあいだに、すでにギャップがあるということ」だと語っている。この「現実の実践」はおそらく、「地理的に限られた領域内で、多少なりとも固定的な人間集団を巻き込みながら生じる一連の活動」と同じものを、すなわちワイズマンが定義するところの「インスティテューション」を意味しているのだろう。
 かかる「一連の活動」を捉えたショットの組みあわせをとおしてワイズマンは、インスティテューションをめぐるわたしたちのイデオロギーを解きほぐしてゆく。そして、インスティテューションのふるまいはドクのふるまいがおもしろいのとは違った意味でおもしろいのだという認識へと私たちを導いてゆく。言い換えれば、「一人の魅力的な人物」が私たちにもたらす笑いが多様であるように、インスティテューションな笑いもまた実に多様であることを、ワイズマン作品は私たちに伝えてくれている。
 
 
現場実習へようこそ――ソーシャルワークから『ボストン市庁舎』を問う / 大嶋栄子
96 『ボストン市庁舎』の冒頭、そして最後のシーンは、市庁舎にかかってくる様々な市民からの電話に対応する職員の様子だが、そのニーズは実に多様だ。人が生きていると、本当に雑多なトラブルに遭遇する。すごいのはそのトラブルを一旦、市庁舎の電話に集約させるシステムだ。日本で同じような場面に出くわしたとき、どの部署に電話をかけたらよいかが分かりづらい。仮にインターネットの情報にアクセスしたとしても、何回クリックしたら目的の情報に到達するのだろうという気分になる。多くの人は相談するのを諦めるかもしれない。あるいはようやく繋がった電話の先で、「担当部署が違うからかけ直して」と言われるときの徒労感は、行政に対する信頼が損なわれることに直結するだろう。
 映画では、まさにその反対の手法で市民と向き合う姿勢が示される。市長自ら、何度も「市庁舎に電話をして」と繰り返す。自分を通りで見かけたら直接話しかけて困っていることを教えて欲しい、「市庁舎は市民のためにあるのだから、市民のために働くのが自分たちの仕事なのだ」というフレーズが何度も繰り返される。初めは正直なところ、胡散臭いなと感じた。日本では「表向きのリップサービス」で本当に電話などしようものなら先述したような結果が予想できてしまうからだ。しかし、映像が進むにつれてそうではないことが明らかになっていく。
 
 私は日本だけでなく、アメリカにおける行政サービスもそれなりの「縦割りの弊害」があると考えている。しかし映画のなかで印象的なのは問題の分割ではなく統合、マネジメント機能を分散ではなく終結させる場面が繰り返し描かれていることだ。
 
❖創作
工場の模型 / 高山羽根子
 
❖論考〈2〉:再生、反復
突然頭痛に襲われた――『チチカット・フォーリーズ』について / 信田さよ子
111 2021年7月31日に放映されたNHKETV特集「ドキュメント 精神科病院✕新型コロナ」は、その点を取材した優れた番組だった。コロナの感染がわかると、病室に南京錠をかけて出られないようにされたという患者さんの証言、1970年代に勤務していた病院と同じ畳敷きで仕切りのない病室が、令和の現在も残っていること・・・などに驚かされた。中でも印象的だったのは、日本精神科病院協会会長がインタビューのなかで「社会の皆様の安全のために貢献してきたのに、あまりに無理解である」と述べたことだ。精神病院の「社会防衛」的機能に関しては、なかばタブーのようになっていたからだ。はからずも、精神病院が「治療」という表向きの機能と、社会防衛的機能との二つを背負っていることを自ら公言したことになる。本来矛盾する二律背反的機能が埋め込まれた精神病院は、その葛藤を自覚しなければ果てしなく非人間的になっていくはずだ
 本作が見るひとに衝撃を与えるとしたら、舞台である矯正院が社会防衛的機能を明確に謳っている場所だからだろう。そして、それはもともと精神病院が背負っているものであり、大なり小なり、現在の日本の精神病院と共通していることを強調したい。
 
『臨死』(Near Death)を貫く慎ましさの「作法」 / 原田麻衣
116 映画は容易にフィクションを作り出すメディウムである。ショットの置き方一つで意味作用が異なってくることはかつてエイゼンシュテインが示した通りだ。だからこそワイズマン作品のようなドキュメンタリー映画においては、とりわけ作り手と被写体との間に強固な信頼関係が必要となってくるだろう。
 
逆編集されるルーティーン――ワイズマンの『動物園』 / 細馬宏通
〈親密圏の秘密〉を明かすということ――映画『DV』が描く〈ループの世界〉と立ち上がる問い / 坂上
 
❖営みのディティー
映画は苦手でも / 小山田浩子
見ないことを学ぶ / 伊藤亜紗
みんなのニューヨーク / 佐久間裕美子
 
❖座談会
話すことと聞くこと――『ボストン市庁舎』の構成をめぐって / 三宅 唱×大川景子×和田清人
 
❖論考〈3〉:(非)アーカイヴァルな生/活
オペラ的構成とエロスへの躊躇――『クレイジーホース・パリ』の女性たち / 栗原詩子
身体に刻印されたイギリス――『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』を観る / 吉村いづみ
話者の遍在――『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』における移民/クィアのコミュニティ / 菅野優香
民主主義の柱、アクティヴィズムの現場――『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』への小説的アプローチ / 深瀬有希子
 
❖ある姿勢
ワイズマンと写真 / ホンマタカシ
撮影の領分――ワイズマンのロングインタビューを読んで / 金川晋吾
201 ワイズマンは映画は主観的なものだと断言する。客観的な映画など存在しないし、映画における「真実」云々の議論にはまったく関わりたくないと一蹴し、映画が主観的なものにならざるをえないからこそ、現実を湾曲しないフェアな描写に徹しなければならないとワイズマンは言う。そして、「もちろん何が「フェア」であるかは私の主観的な判断となるのだが、撮影体験を通し、わたしが「フェアな」描写だと思うものを、映画で提示したいのだ」と語る。つまり、ワイズマンには「フェアであること」に対する時分自身の感覚、自分のなかにある基準を信頼し、それに基づいて撮影をおこなうとしていると言えるだろう。それは自分は常に正しいと思い込むこととはまったく違って、普遍的な正しさを求めない態度から生じるものだと思う
 自分のことを省みると、別にどっちがいいとかいう話でもないし、そのちがいをまずは適切に受容するところからはじめないといけないのだと思うが、自己に対する信頼の度合いがワイズマンと決定的にちがうのかもしれないと思った。私には不安のようなものがつきまとうところがどうしてもある(もしかすると、ワイズマンの自己への信頼感は、彼が法律の専門家であることも関係しているのかもしれない。私は自分が属する社会の「ルール」であるはずの法律を、実はあまりよくわかっていないままに生きている。そのことから来る不安もあるのではないか)。
 
❖論考〈4〉:ワイズマンが撮るトポス
権力はいかに実践されるか?――ワイズマンによるフーコーフーコーによるワイズマン / 北小路隆志
肉とノイズ――フレデリック・ワイズマン映画の音風景 / 長門洋平
217 ナレーションが無い、字幕・テロップがない、音楽が付加されない、インタビューをしない、有名人を取りあげない、中心人物がいない、特定の人物やできごとの経緯を追いかけない、一回性としての事件が描かれない、一定のメッセージがない、結論が無い、始まりと終わりが無い、ストーリーラインが無い、時制が無い、カメラ目線が無いといった<無い>集合体としてのスタイルを一気に獲得したというのだ。
 
シネマ・ヴィリテ―カメラの存在をあえて見る者に意識させる手法のドキュメンタリー
ダイレクト・シネマ(アメリカン・シネマ・ヴェリテ―カメラの存在を消すように務める手法のドキュメンタリー
 
アメリカン・ユートピア』と共鳴する二一世紀のフレデリック・ワイズマン――ユートピアへの道は、音楽とダンスとともに / 上原輝樹
226 映画『アメリカン・ユートピア』は、ジョナサン・デミにオマージュを捧げるかのように『ストップ・メイキング・センス』と同じ作法で、バーンを先頭に、バンドメンバーが一人ずつ、自分が演じるパートの出番に合わせて登場する。脳の模型を手にして現れたバーンは「ヒア」を歌い終えると、人間は赤ん坊の時に最大数の脳細胞を持って生まれ、年を取るに従って、その数は減っていく、つまり私たちは後ろ向きに成長( Grown Backwards)しているんだと語り、皮肉の利いた自虐ネタで観客の苦笑を誘うが、しかし、と言って、続ける。細胞の数は減っていくが、細胞同士をつなげるニューロンの数は年と共に増えていく。私たちがお互いに繋がっていくことで、死滅していく細胞の数を補うことが出来るのだと
 
231 そして、映画の終盤では、ティツィアーノの絵画≪ディアナとアクタイオン≫鑑賞の手引きとして、絵画の源であった古代ローマの詩人オウィディウスの詩「カリストの歌」を、現代の英語に翻訳する詩人 Jo Shapcott が登場し、詩の朗読を終えると次のように語る。「詩人は常に言葉によって阻まれています。言葉は完ぺきなものではなく、例えば”手”という言葉は本当の手ではない。私の詩はすべて、別のものの粗雑な翻訳に過ぎません。その試みは決して成功しません。カリストが歌った(という体の)詩と私の翻訳との間には何万光年もの隔たりがあるのです。私は、その美しくも痛ましい溝に魅了されています」。
 
233 館長のムハンマド氏は、公民権運動をはじめとする、黒人の地位向上に貢献した多くの社会運動を率いてきたジョン・ルイス議員の「私たち皆は必要な面倒事(トラブル)に対処しなければならない」という言葉を紹介して、私たちは面倒事を引き受け、次の新しい世代へと引き継いでいかなければならない、彼らがいずれ起こるであろう面倒事に対処することが出来るようにしておくために、と語り、民主主義の本質を言い当てている。つまり、民主主義とは本質的に”面倒くさい(troublesome) ”ものであり、関わること自体は面倒だが、私たちの生活をよりマシなものにするには、関わらざるを得ないものであるということだ。主権が”国民”にあるのだから、私たちはその面倒を引き受けなければならない。
 
❖資料
フレデリック・ワイズマン作品解題 / 水野祥子