読んだ。 #社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学 #ジョナサン・ハイト #TheRighteousMind : Why Good People Are Divided by Politics and Religion #jonathanhaidt

読んだ。 #社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学 #ジョナサン・ハイト #TheRighteousMind : Why Good People Are Divided by Politics and Religion #jonathanhaidt
 
人間の正義心、道徳とはどういうものかについて、進化心理学の考え方で説明されている本。
なぜ世界中でリベラルよりも保守の方が勝ち続けるのかということについてなど。
 
・「皆で仲良くやっていこうよ。
お願いだよ。ここで仲良くやっていけるはずさ。
必ず仲良くやっていけるはず。
誰もが、ここでしばらく生きていかなきゃならないんだ。
だから、やってみようではないか」
―ロドニー・キング(1991年にロサンゼルス警察の四人の警官から激しい暴行を受けた人物)
 
私は人間の行動を、笑ったり、悲観したり、憎んだりせず、理解しようと努めている。―スピノザ『国家論』(1676)
 
 
目次 [005-011]
はじめに [012-022]
<正義心とは何か>
16 私たちの<正義心>は、親族関係という接着剤なしに、大規模で協力的な集団、部族、国家を形成することを人類に可能にしたものであり、他の動物はこの能力を持っていない。しかし同時に、協力関係によって成立している集団同士が、道徳をめぐる争いに終始するような状況をもたらした。とはいえ、集団間のある程度の競争は、社会の安寧や発展に必要なのかもしれない。私は10代の頃、世界の平和を願っていた。しかし現在では、いくつかの対立するイデオロギーのバランスが保たれ、説明責任の名のもとで悪事が見過ごされることなく、「正義のために暴力的な手段を正当化する」などとは誰も考えないような世界の実現を切に望んでいる。それは確かにロマンチックなバラ色の未来像ではないが、実現の可能性は十分にある
 
本書の概要
20 ここで「リベラル」という語の意味を明確にしておこう。アメリカでは、この語は進歩主義的もしくは左翼的な政治の見方を指し、本書でもこの意味で用いる。しかしヨーロッパやほかの地域では、経済活動を含めて、何よりお自由を重視するという本来の意味で用いられている。したがってヨーロッパでリベラルという場合、その意味は、アメリカではリバタリアンという用語が示すところに近いが、この語は、左派か右派かの尺度では測りにくい。本書でリベラルと描かれた箇所については、アメリカ人以外は「進歩的主義者」あるいは「左派」と読み替えたほうが分かりやすいかもしれない
 
 
 
 
 
●第1部 まず直観、それから戦略的な思考――心は〈乗り手〉と〈象〉に分かれる。〈乗り手〉の仕事は〈象〉に仕えることだ
 
第1章 道徳の起源 024
道徳の起源
リベラルのコンセンサス
32 もっとも大きな影響を及ぼしたコールバーグの発見は、「(彼が考案した採点技術によって) もっとも道徳に発達している(と測定された)子どもは、役割取得の機会―を数多く経験している」というものである。役割取得の機会は、(同級生などとの)平等な関係においては生じるが、(教師や両親などとの)上下関係のなかでは発生しない。子どもは教師になった経験がないので、教師の観点で物事を見るのは非常にむずかしい。ピアジェもコールバーグも、教師を含めた権威者が、道徳の発達の障害になると考えている。
 
もっと簡単なテスト
非西欧社会では・・・
37 アザンデ族は、魔術師が男女どちらでもあり得ると信じており、魔術師の烙印をおsれることに対する恐れから、隣人を怒らせたり嫉妬させたりしないよう注意を払う。私にとってこれらの記述は、「集団は、世界の成り立ちを説明するためではなく、社会の秩序を維持するために超自然の存在を作り出す」ということを知る、最初のヒントになった。
 
大きな議論
41 クリフォード・ギアーツ
はっきりとした境界を持ち、動機や認知能力によって統合化された単一の実体として、また、明確に認識可能な全体へと組織化され、他者、社会、自然などの背景からはっきりと分離された、気づき、情動、判断、行動の動態的な中心として人間をとらえる欧米の見方は、いかにそれが私たちには根深いものに見えようとも、世界の文化という文脈のもとでは相当に特殊な考え方だ。
 
42 なお、ヨーロッパには、強力な社会的セーフティーネットを提供する国がいくつかあるが、これらの国々が採用している政策は、ここで言う向社会的なアプローチには該当しない。というのも、それは不安定な生活環境からの、個人の保護を目的としているからだ
 
嫌悪と不敬
犠牲者をでっちあげる
58 被験者は合理的に思考しようと奮闘していた。だがそれは、真実を求めてではなく、自分の情動的な反応を支持するための奮闘であった。このような思考様式について、哲学者のデイヴィッド・ヒュームは1739年に、「理性は情熱の奴隷であり、それ以外であるべきではない。情熱に仕え従うものであるという以外の役割は持たない」と書いている。
 私は、ヒュームの主張の正しさを示す証拠を、すなわち「道徳的な志向は、多くの場合情動の召使と化している」という事実を発見したのだ。
 
まとめ
60 
◎道徳の領域は文化ごとに異なる。欧米の啓蒙化された個人主義的な文化のもとでは、その領域は異常なほど狭い。向社会的な文化は、道徳の領域を広げ、生活のより多くの側面をカバーし規制する。
◎とりわけ嫌悪をもよおす行為や不敬に対し、時に人は本能的な不快感を覚える。また、それによって思考は影響を受ける。道徳的な思考は、あとづけの正当化と見なせる場合がある。
◎道徳は、危害に関する理解の発達に基づいて、子どもが自分で一から築き上げていくようなものではない。合理主義的な理論が想定している以上に、文化的な学習や手引きが大きな役割を果たしている。
 
 
 
 
 
第02章 理性の尻尾を振る直観的な犬 061
66 さて、今や私たちは三つの「心のモデル」を手にしている。プラトンは、「たとえ哲学者だけがそれに値するのだとしても、理性が主人たるべきだ」と言った。ヒュームは、「理性は情熱の召使たるべきだ」と主張した。そしてジェファーソンは、「理性と感情は、帝国を東西に分割して統治したローマ皇帝のように、おのおのが独立した共同支配者であり、そうあるべきだ」という第三のオプションを提示した。では、いったいだれが正しいのだろうか?
 
ウィルソンの予言 
情動の九〇年代 
なぜ無神論者は自分の魂を売らないのか 
「見ること」と「理由を考えること」 
86 私たちはミュラー・リヤー錯視を、見たり見なかったりという具合に選択できるわけではない。一方の線が他方の線よりも長いということを、ただ「見る」だけである。マーゴリスは、この種の思考を「直観的」と呼ぶ。
 それに対し、「理由を考えること」は、「どのように自分や他の人が、ある特定の判断に至ったと考えるかを、それによって記述する」プロセスを指し、言語能力を備え、それを用いて自分の意図を他の固体に明確に説明する必要にせまられた動物にしか生じ得ない。また、自動的ではなく意識的であり、時に課題のように感じられ、認知的な負荷によって容易に混乱する。
 
87 ゴキブリジュースと魂を売るストーリーでは、被験者は拒否したいとすぐに「見ること」ができたが、理由を示す必要に迫られているとはあまり感じていない。ゴキブリジュースを飲みたくないと思うことは、道徳的な判断ではなく個人の好みの問題であり、「なぜなら、飲みたくないから」という返答は、自分の主観的な思考の正当化として完璧に受け入れられる。それに対し、道徳的な判断は主観の表明ではない。それは、誰かが何か悪いことをしたという主張のことだ。ある人の行動が気に入らないというだけで、その人を罰するよう社会に働きかけられるわけではない。そのためには、自分の思考以外の何かを指し示す必要があり、この指摘のプロセスこそ、道徳的な思考なのである。私たちは、「なぜ自分がある特定の判断に至ったのか」を説明する、現実的な理由を再構成するために道徳的な思考を働かせるのではない。そうではなく、「なぜ他の人たちも自分の判断に賛成すべきか」を説明する、考えうる最も有力な理由を見出すために道徳的思考を働かせるのだ。
 
〈象〉と〈乗り手〉 
88 情動は愚かなのではない。ダマシオの患者がおかしな判断をするようになったのは、意思決定の過程に情動を動員するすべを奪われたためだという点を考えてみればよい。情動とは一種の情報処理である。従って情動と認知を対比させて考えることは、雨を天気と、あるいは車を乗り物と比べるのと同じくらい無意味だ。
 
議論に勝つ方法 
まとめ 
96 人は理性的に思考する能力と、道徳的な直感(情動も含める)能力の両方を備えている。だが、これら二つのプロセスはどのような関係にあるのだろうか?プラトンは「理性が主人たるべき」と、ジェファーソンは「<頭>と<心>は、おのおのに割り当てられた領地を統治する平等なパートナーである」と、そしてヒュームは「理性は情熱の召使であり、それ以外の仕事には向いていない」と主張する。本章では、これら三つの味方のうち、ヒュームのものが正しいことを示した。
◎心は、<乗り手(理性にコントロールされたプロセス)>と<象(自動的なプロセス)>という二つの部分に分かれる。<乗り手>は、<象>に仕えるために進化した。
◎誰かが道徳的に啞然としているところを観察すれば、<乗り手>が<象>に仕えている様子を確認できる。何が正しく、何が間違っているかについて直観を得たあとで、その感覚を正当化しようとするのだ。たとえ召使い(思考)が正当化に失敗しても、主人(直観)は判断を変えようとしない。
◎社会的直観モデルは、ヒュームのモデルから出発し、さらに社会関係を考慮に入れる。道徳的な思考は、友人を獲得したり、人々に影響を与えようとしたりする、生涯を通じての格闘の一部と見なせる。つまり、「まず直観、それから戦略的な思考」である。道徳的な思考を、真理を追究するために自分一人でする行為としてとらえる見方は間違っている
◎したがって、道徳や政治に関して、誰かの考えを変えたければ、まず<象> に語りかけるべきである。直観に反することを信じさせようとしても、その人は全力でそれを回避しよう(あなたの論拠を疑う理由を見つけよう)とするだろう。この回避の試みは、ほぼどんな場合でも成功する。
 
 
 
 
 
第03章 〈象〉の支配 099
脳はただちに、そして絶えず評価する 
104 1890年代、実験心理学創始者ヴィルヘルム・ヴントは、「感情先行(affective primacy)」という原理を提起した。ここでいう「感情(affect)」とは、私たちに、何かに近づいたり、何かを避けたりする準備を指せる、ポジティブ、もしくはネガティブな細かい突発的感情を指す。(幸福や嫌悪などの)情動はすべて、このような感情的な反応を含むが、そのほとんどは、持続時間が短すぎて情動とは呼べない(たとえば「幸福」や「嫌悪」などという単語を読んだ時に生じるかすかな感情)。
 ヴントによれば、感情的な反応は知覚ときわめて密接に統合されているので、私たちは、何かに気づいた瞬間、場合によってはそれが何かが分かる前ですら、それに対する好悪の感情を抱くことがある。この突発的な感情は、当該事象に関して他のどんな思考が浮かぶより以前に、きわめてすばやく生じる。たとえば、何年もあっていなかった人にばったり出くわしたとき、この感情先行を経験できる。その人に対する好悪の感情は、通常1、2秒でよみがえってくるが、その人の名前や、知り合ったいきさつを思い出すにはもっと時間がかかる。
 
105 ザイアンスは画期的な論文で、「感情」を最初の過程としてとらえる二重プロセスモデルを採用するよう心理学者に強く勧めている。感情を優位と見なす理由は、それが最初に生じるからであり(知覚の一部であって、極端にすばやい)、また、より強力だからだ(動機づけに強く結びつき、したがって行動に大きな影響を及ぼす)。第二のプロセスたる思考は、進化の過程で感情よりあとに獲得された能力であり、言語に依存し、動機づけには強く結びついていない。つまり思考は<乗り手>で、感情は<象>ということだ。思考システムは役に立つ助言者であっても、先頭に立って引っ張る能力を持つわけではない(ものごとを引き起こす力は持っていない)。
 ザイアンスによれば、理論的には、思考は感情とは独立して機能し得るが、実際には、感情的な反応はきわめて迅速に生じかつ強力であるゆえ、馬のブリンカー〔競走馬などの視野を前方に制限して集中させる馬具〕のように機能し、その後に生じる思考が取れる選択の範囲を狭める。また、<乗り手>は注意深い召使であり、つねに<象>の次の動きを予測しようとする。一歩を踏み出そうとして、<象>がわずかでも左に傾くと、<乗り手>は左を見て、すぐに開始されるはずの<象>の左方向への歩行を手助けする準備を整える。かくして右側にあるすべてのものに対する興味を失うのだ。
 
社会、政治的な判断はとりわけ直観的である 
身体が判断を導く 
サイコパスは理性的に思考するが感じない 
114 この分野の第一人者ロバート・ヘアは、次のような二つの特徴によって「精神病質」を定義する。サイコパスは、異常な行動をとる(子どもの頃に始まる衝動的で反社会的な行為)。そして道徳的な情動を欠き、同情、罪、恥、きまりの悪さをまったく感じず、そのためすぐにうそをつき、家族、友人、動物を傷つける
 
115 精神病質は、ひどい生育環境や、幼少期のトラウマによって引き起こされるわけではないように思われる。また、他のどのような養育環境の問題によっても説明できそうにない。それは遺伝的な条件の一つであり、それによって他者のニーズ、苦痛、尊厳にまったく何も感じない脳が形成されるのだサイコパスの<象>は、もっとも邪悪な不正義に対してすら、まったく動こうとしないのに対し、<乗り手>はまったく正常で、戦略的な思考に著しく長けている。だが、<乗り手>の仕事は道徳的な方針を決めることではなく、<象>に仕えることにある
 
乳児は感じるが思考しない 
感情反応は脳のしかるべき場所でしかるべきときに起こる 
〈象〉は理性に耳を貸す場合もある 
122 「理性は情熱の<奴隷>だ」と言ったとき、ヒュームは行き過ぎたと思う。
 奴隷は決して主人に疑問を呈してはならないとされているが、私たちは、一度下した直観的な判断を疑問に思ったり改めたりする場合がある。<乗り手>と<象>のたとえは、ここでもうまく当てはまる。というのも、<乗り手>は<象>に仕えるために進化したとはいえ、両者は互いを尊重するパートナーの関係にあるからだ。それは、奴隷が主人に仕えるというよりも、弁護士が依頼人のために働くと言ったほうが的を得ている。
 
まとめ 
126 道徳心理学の第一原理は、「まず直観、それから戦略的な思考」である。この原理を検証するために、本章では次の六つの研究成果を紹介した。
◎(ヴントやザイアンスが主張するように)脳はただちに、そして絶えずものごとを評価する。
◎(トドロフの研究やIATを用いた調査が示すように)社会的、政治的な判断は、突発的に生じる直観に強く影響される。
◎身体の状態が道徳的な判断に影響を及ぼすことがある。悪臭を嗅いだり、不味いものを食べたりすると、人はより厳しい判断を下しやすくなる(また、純粋さや清潔さを思い出させる何かを考えているときにも) )。
◎精神病質者(サイコパス)は思考するが感じない(そして道徳性を著しく欠く)。
◎乳児は感じるが思考しない(また、道徳の芽を宿している)。
◎(ダマシオ、グリーンらの研究が示すように)感情による反応は、脳の然るべき場所で、しかるべき時に生じる。
 
 これら六つの項目を総括すれば、<乗り手>と<象>の明確な全体像、および<正義心>の行使にあたって、それらが果たす役割をはっきりと理解できる。<象>は、道徳心理学の中心的な位置を占める。もちろん思考も、とりわけ人と人がやりとりする際に、そしてその活動を通して別の直感が引き起こされる場合、大きな役割を果たす。<象>は支配する。だが、愚か者でも独裁者でもない。思考が、友好的な会話、あるいは情動的な満足をもたらしてくれる小説、映画、ニュースなどで提供される場合には特に、直感は思考によって形成され得る
 
 
 
 
 
第04章 私に清き一票を 129
129 あなたが生まれた日に、神様がコインを投げて賭けをしたとしよう。表が出たら、あなたは生涯究極の正直者を貫き通すが、あらゆる人々からならず者だと思われる人になる。裏なら、常習的なうそつきなのに、模範的な人物と見なされる。さああなたは、どちらの人生を選ぶだろうか?
 西洋哲学史上で、人類に最も大きな影響を与えてきた書物の一つ、プラトンの『国家』は、表を選ぶべきだとする議論を長々と展開している。彼によれば、徳が高く見えるより、実際そうである法が重要なのだ。
 
130 グラウコン(プラトンの兄)の思考実験は、「捕まった場合のこと(とりわけ自分の評判が傷つくこと)を恐れるがゆえに、人は有徳になるに過ぎない」と言わんとしている。そしてソクラテスに対し、世間では有徳と見なされているよこしまな男より、評判は悪いが公正な男の方がより幸福だという点を証明できるまでは納得しないと言っているのだ。
 
131 私たちは何をすべきかをめぐる議論は、道徳哲学では人間性と心理に関するいくつかの(暗黙の)前提に依拠していることが多い。だがプラトンにとっては、真理を前提にすることはまったくの誤りだった。本章では、理性は真実ではなくあとづけの理由を探すために設計されたものであり、統治には向かないこと、および人々は、現実よりも見かけや評判に、より大きな注意を払うと主張するグラウコンの意見は正しいということを検討する。実際私は、問題を正しくとらえた人物として、すなわち倫理的な社会を築くためのもっとも重要な原理は、「あらゆる人々の評判がつねに皆の目に入るようにし、不正な行動がつねに悪い結果を生むようにすること」だと悟った人物として、本書では何度もグラウコンを称賛する。
 
人は皆、直感的な政治家だ 
133 「説明責任(accountability)」に関する研究者の第一人者フィル・テトロックは、それを「自分の信念、感情、行為を他者に説明し、正当化することが求められるはずだという明白な予感」と、「どれだけうまく正当化できたかに応じて、人々は報酬や懲罰を与えられるであろうと推測する予期」を合わせたものと定義している。怠け者やペテン師が罰せられずに済んだりすれば、あらゆる物事が機能しなくなるだろう(人々がどれほど熱心に怠け者やペテン師を罰しようとするかについては、リベラルと保守主義者の大きな違いの一つとして、後の章で再度取り上げる)。
 
私たちは投票に取りつかれている 
138 「ソシオメーターは、意識的な注意が及ぶ以前の無意識レベルで機能し、社会環境を精査して、自分の相対的な価値が低い、あるいは低下しつつあるという事実を示すあらゆる兆候を検出しようとする」とリアリーは結論する。ソシオメーターは<象>の一部だと見なせる。他人の意見を気に欠けているような印象を与えてしまうと、自分を弱く見せることになるため、私たちは(政治家同様)、世論には何の関心もないかのごとく振舞うケースが多々ある。だが実は、他人が自分をどう考えているかが気になって仕方がないのだ。ソシオメーターを備えていない人間など、サイコパス以外にはいない
 
 
専属の報道官がすべてを自動的に正当化してくれる 
141 ウェイソンは、この「自分の考えを確証する方向で、新しい証拠を探し、解釈しようとする傾向」を「確証バイアス」と呼んでいる。人間は、他人の言葉に委を唱えるのにはたけていても、ことが自らの信念になると、ほとんど自分の子どものごとく扱い、疑ったり、失う危険を侵したりはせずに、何とか守ろうとする。
 
143 さらに、もっと人を不安にさせる知見が得られている。IQはその人の議論の巧拙を予測するにあたって最善の手段になるが、「自分側」の理由の数のみを予測するという事実を、パーキンスは見出したのだ。賢い人々は、現実に優れた弁護士や報道官になるケースが多いはずだが、「対手側」の理由を見出すという点では、他の人々とほとんど変わらなかった。これについてパーキンスは、「人々は、議論を包括的かつ公平に検討することにより、自分の主張を補強するためにIQを使う」と結論している。
 
私たちはうまくうそをつき、正当化するので、自分が正直だと信じ込む 
145 ダン・アリエリー『予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』
 正直な人々でも、その多くは機会があればズルをする。実際は、少数の腐ったリンゴが平均値を押し下げているのではなく、人々の大多数がほんの少しずつズルをするのだ
 
合理的な思考(とグーグル)は自分の行きたいところに連れて行ってくれる 
私たちは自分のグループの支持するものならほとんど何でも信じる 
合理主義者の妄想 
154 プラトンからカントを経てコールバーグに至るまで、多くの合理主義者は、倫理に関する優れた思考能力が、善き行いを生むと想定してきた。思考は道徳的な真実への王道であり、その能力を駆使する人はより道徳的に振舞うと考えてきたのだ。
 
155 真実の追求を是とする人は、理性崇拝をやめるべきだ。証拠を冷静に見つめて、思考とは何たるかをよく考える必要がある。フランスの認知科学者ユーゴ―・メルシエとダン・スペルベルは、動機づけられた推論をテーマとする(社会心理学の)論文と、思考におけるバイアスや誤りに関する(認知心理学の)論文を徹底的に調査している。その結果、それらの研究の奇異で気の滅入る発見のほとんどは、「思考能力は、真実を発見するためでなく、誰かと論争する際に、議論、説得、人心操作を巧みに行うための補助手段として進化したと見なせば、完璧に理解できる」と結論している。「議論の巧みな人は、(・・・)真実ではなく、自分の見解を支持する理由を探している」と二人は言う。
 
156 何も私は、思考をただちに中止して、直観のみに頼るべきだと言いたいわけではない。直観は、消費生活や人間関係に関する判断を下すときに、思考よりも良き導き手になることもあるが、公共政策、科学、法の基盤としては、一般に劣っていると言わざるを得ない。ここで私が言いたいのは、どんな人物のものであれ個人の思考能力には、用心深くなければならないということだ。ニューロンは、いくつかの樹状突起から入力される刺激を総合して、パルスを発火するか否かを「決定」するという、一つの仕事に長けている。単体のニューロンはそれだけで賢いわけではないが、適切なあり方で多数のニューロンが集まると脳になり、単体のニューロンよりはるかに賢く、柔軟性に富んだシステムが創発する〔部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れる〕
 それと同様、思考する個人は、自分の立場を支持する証拠を見つけるという、一つの仕事に長けているとりわけ利害や評判が関わる場合には、当人が心を開いて、優秀な思考能力を駆使して真実を追求するなどとても期待できないだが、思考能力を駆使して互いの考えを批判できて、なおかつ皆が何らかの紐帯や目的を共有し、礼儀正しくやりとりできるような形態で個人が集まれば、社会システムの創発的な性質として優れた思考をを生む集団が形成され得るだろう。(情報機関や化学コミュニティなどの)真実の発見を目標とする機関や、(議会や顧問会議などの)有益な公共政策の発案を目的とする組織は、知的、思想的に多様なメンバーで構成されることがとても重要なのは、この理由による。
 
まとめ
158 道徳心理学の第一原理は、「まず直観、それから戦略的な思考」である。道徳的な思考の戦略的な性格を明確にするために、それが真理を探求する科学者というよりは、票集めに走る政治家に近いことを示す五つの研究を紹介した。
 
◎私たちは、他人が自分をどう考えているかを執拗なまでに気にする。ただしその大部分は無意識化で生じ、意識的にはとらえられない。
◎意識的な思考は、大統領のいかなる見解も無条件に正当化する報道官のごとく機能する。
◎私たちは、内なる報道官の助けを借りて、ちょくちょく嘘をつき、人をだます。その上巧妙にその事実を糊塗するので、自分自身ですらその嘘を信じ込んでしまう。
◎思考は、自分が望むほとんどどんな結論にも導いてくれる。なぜなら、何かを信じたいときには「それは信じられるものか?」と自問し、信じたくない場合には「それは信じなければならないものか?」と問うからだ。その答えは、ほぼどんなケースでも、前者は「イエス」、後者は「ノー」になる
◎道徳や政治に関係する問題では、私たちは利己的であるより集団中心主義的なる場合が多く、思考能力を駆使して自分の属するチームを支援し、チームへの貢献の度合いを示そうとする。
 私は、「哲学や化学の世界で時に見受けられる理性崇拝は、妄想である」という警告で本章を締めくくった。それは存在しないものへの信仰の一例である。その代わり、道徳の研究や教育に際して、個人の能力をもっと謙虚に捉え、人々の思考や行動をよりよいものにする文脈や社会システムへの調和を図る、直観主義的なアプローチをとるよう勧めた。
 私は、「人間の道徳的な能力は、直観主義的な観点から最も適切に説明できる」という点を、読者の<乗り手>に訴えるために、できる限り理路整然と解き明かそうとした。もちろんすべての観点から検証できたと主張するつもりはないし、反論の余地のない証拠を提示できたとも思っていない。克服不可能な確証バイアスのために、私の見解に同意しない人々からの、様々な反論が必ずや提起されるであろう。いずれにしても、科学コミュニティが正常に機能しているのなら、たとえ一人ひとりの心には欠陥や限界があったとしても、大勢の人々の努力によって、いずれ真実が明らかにされるはずだ。
 
 
 
 
 
●第2部 道徳は危害と公正だけではない――〈正義心〉は、六種類の味覚センサーをもつ舌だ
 
第05章 奇妙(WEIRD)な道徳を超えて 162
三つの倫理 
私が多元論者になったわけ 
172 しかし不調和な感覚が消えるのには数週間しかかからなかった。それは何も、私が生まれつきの人類学者だからではなく、普通の人間ならだれもが持つ共感能力がうまく機能し始めたからだ。どこに行っても、人々は親切だったし、様々なことを進んで教えてくれた。そのような人びとに、私は自然と好意を抱いたのである。そして人はある人々に感謝の念を抱くと、その人々の視点に同化していくものだ。私の内なる<象>は彼らの方に向かって歩み始め、<乗り手>は彼らを弁護する道徳的な根拠を探そうとする。私は、無条件に、そこに住む人々を性差別主義者として非難したり、女性、子供、使用人を社会の無力な犠牲者として哀れんだりするのではなく、個人よりも家族が社会の基本単位になり、(使用人を含む)拡大家族のメンバーが、緊密に依存しあって生活している社会の道徳観に注目するようになった。インドの社会では、平等や個人の自律は、神聖な価値とは見なされていない。年長者、噛み、来客に栄誉を与え、従者を保護し、自分にあたえられた役割を果たすことの方が重要だと考えられている。
 
178 共同体の倫理と同様、神聖の倫理についても、インドに赴く以前から様々な書物で読んでいたので、頭では理解していた。しかしインド滞在後は、アメリカに戻ってからもそれを感じられるようになった。自制、誘惑への抵抗、気高い自己の形成、欲望の否定、こういったことを強調する道徳的な規律のなかに美点を見出すようになった。それとともに、神聖の倫理のマイナス面にも気づいた。神が何を望んでいるかについての信念を、本能的な嫌悪の感情に基づいて築くと、大多数の人々に少しでも嫌悪感を覚えさせる少数者(例えば同性愛者や肥満者)は村八分にされ、ひどい扱いを受ける場合がある。つまり神性の倫理は、思いやり、平等主義、基本的人権と相容れないことがある。
 とはいえ、世俗社会の醜い部分を理解し、批判するための貴重な視点も提供してくれる。例えば、なぜ私たちの多くは、猛威を振るう物質主義に辟易しているのだろうか?友人に見せびらかす高級品を買うための金を稼ぐことを目的として必死に働きたいと思っている人を、自立の倫理に基づいてどう批判できるのか?
 個人的な経験から、もう一つ例をあげよう。UVAの食堂で昼食を食べていた時のことだ。隣のテーブルに二人の女子学生が座っていたが、一方の子がもう一方の子にしきりに感謝していた。そしてこう叫んだ。「オーマイゴット!あんたが男なら、今すぐあれにしゃぶりついているところだわ!」と。私は興味と嫌悪の入り混じった複雑な気持ちになったが、自立の倫理の観点からは、どう彼女を批判できるのか?
 神性の倫理は、高揚と堕落の感覚(「より高い」と「より低い」)を目覚めさせる。また、思慮の浅い消費主義や、無文別でだらしない性的欲望を非難する手段を提供してくれる。そして、それによって私たちは、「人間の務めは自らの欲望を満たすことだ」と考える消費社会の精神の空洞化に対する、伝統的社会の嘆きを理解できるようになる
 
マトリックスからの脱出 
まとめ 
185 道徳心理学の第二原理は、「道徳は危害と公正だけではない」というものだ。この主張を裏付けるために、欧米の(W)、啓蒙化され(E)、裕福で(R)、民主主義的な(D)、文化のもとで育った人々は、道徳心理学を含め、様々な心理学の基準からすると例外的な存在であることを示す研究を紹介し、次の点を述べた。
 
◎WEIRDであればあるほど、世界の関係の網の目ではなく、個々の物の集まりとして見るようになる。
◎道徳の多元性は記述的な真理と見なせる。つまり単純な人類学的事実として、道徳領域は文化ごとに変化する。
自立の倫理(個人に対する危害、抑圧、欺瞞への道徳的関心)にほぼ限定されれるWEIRD文化の道徳領域は非常に狭い。それに対し、それ以外のほとんどの社会、およびWEIRD社会でも、宗教的で保守主義的な道徳マトリックスに依拠する文化のもとでは、道徳領域はもっと広く、共同体や神性の倫理も抱合する
道徳マトリックスは人々を結びつけるが、他のマトリックスの存在や一貫性に対して、人を盲目にする。これは、道徳的な真理には複数の形態があり得るということや、人の評価や社会の運営には、様々な枠組みが適用できるという可能性を考慮に入れることを、著しく困難にしている
 
 
 
 
 
第06章 〈正義心〉の味覚受容器 187
道徳科学の誕生 
システム主義者の攻撃 
193 自閉症研究の第一人者、サイモン・バロン=コーエンによれば、実際には、二種類のスペクトル、すなわち共感とシステム化という二つの次元が存在する共感とは、「他者の情動や思考を見極め、それに対し適切な情動を持って対応する衝動」を意味する。ノンフィクションよりもフィクションを好む人や、外に出て初対面の人と会話を楽しむことの多い人は、平均以上に共感能力を持つと言えるだろう。もう一方のシステム化とは、「システムの変数を分析し、そのふるまいの基盤にある規則を発見しようとする衝動」のことだ。地図やマニュアルを読むのが得意な人や、機械いじりが好きな人は、平均以上のシステム化衝動を備えていると考えてよい。

 
194 この見方を採用すれば、西洋哲学における倫理学の二つの主要な理論は、きわめて高度なシステム化能力と、相当に低い共感能力を持つ哲学者によって創始されたと言える。
 
 
 
ベンサム功利主義者グリル 
※ <功利主義:算術で倫理を規定>
ベンサム功利主義には、システム化の傾向があるとする(共同体構成員の功利性最大化を目指し、功利に関する変数をシステム化する幸福計算)。フィリップ・ルーカス、アン・シーランの研究では、ベンサムアスペルガー症候群の特徴を持つとする?
 
※ <義務論:論理による倫理>
イマヌエル・カントは、時代に左右されない善の形態を追及した。観察的方法では不十分であり、先験的な道徳法則を主張した。具体的ルールでなく、定言的(無条件の)命令。道徳の全てを短い文章や公式に還元する。
 
195 ベンサムの哲学には、極端なシステム化の傾向が見て取れる。バロン=コーエンが指摘するように、システム化は力をもたらすが、共感能力を欠くと大きな問題を生む。フィリップ・ルーカスとアン・シーランは、「アスペルガー症候群、およびジェレミーベンサムの奇行と天才」と題する論文で、ベンサムの私生活の記録を集め、アスペルガー症候群の診断基準に照らしている。それによると、共感能力の低さ、社会関係のとぼしさなど、主要な基準に良く当てはまるとのことだ。子どもの頃には友達がほとんどおらず、大人になってからは大勢の友人が怒って彼を見放している。結婚は一度もせず、世捨て人を自称し、どうやら他人のことなどどうでもよいと思っていたらしい。ある同時代人はベンサムのことを、「彼は自分の周りの人々を、夏場のハエのようなものと考えている」と評している。
 また、関連する基準に、想像力、とりわけ他者の内面を想像する能力の欠如がある。私生活でも、哲学でも、ベンサムは人が持つ多様で繊細な心の動きに気づく能力を欠いていたため、多くの人々に不快感を与えた。自閉症的な資質を持たない功利主義者のジョン・スチュアート・ミルは、ベンサムを軽蔑し、ベンサムの性格は心の<完全性>が必要とされる哲学者にはふさわしくないと述べている。
 
 彼は、人間の持つ最も自然で強い感情の中でも、とりわけ共感能力を欠く人物だ。その厳粛な経験から、まったく隔離されている。また、想像力が乏しいために、他人の心を理解し、その人がどう感じるかを、当人の身になって考えることができない。
 
 ルーカスとシーランは、ベンサムが現代に生きていれば、「アスペルガー症候群の診断を下される可能性が高い」と結論している。
 
カントと義務論ディナー 
元に戻る 
199 単に生みの親がアスペルガー症候群を抱えていた可能性があるという理由だけで、功利主義やカントの義務論が間違っていると言いたいのではない。それでは悪意のある個人攻撃に過ぎず、論理的にも誤っているそれは別にしても、功利主義もカントの義務論も、哲学や公共政策の領域において、豊かな実りをもたらしてきたことには変わりはない。
 しかし心理学の目的は記述にあり、私たちは道徳的な心がどのように機能すべきかではなく、実際にどのように機能しているのかを知りたいのだ。そしてそれは思考、算術、論理によってはなし得ない。それを可能にするのは観察だけであり、観察は通常、共感能力を伴なってこそ鋭利なものになる。しかし哲学は、19世紀になって観察や共感を放棄し始め、推論やシステム思考にますます重きを置くようになる。西洋社会が啓蒙か、産業化され、豊かで民主的になるにつれ、知識人の心はより分析的にもなり、物事を全体で捉えようとはしなくなった。そんな状況にあって、功利主義と義務論は、ヒュームの多元的で感情主義的なもつれたアプローチと比べ、論理学者にははるかに魅力的に見えたのだろう。
 
味覚を拡張する 
道徳基盤理論 

 
まとめ 
208 道徳心理学の第二原理は、「道徳は危害と公正だけではない」である。本書では、そのほかにどのような道徳の基盤があるのかについて概要を述べた。
 
◎道徳は様々な点で味覚に似ている。このことは、はるか昔にヒュームや孟子がたとえを用いて示している。
◎義務論と功利主義は「たった一つの受容器」に依拠し、システム化に秀で、共感能力が劣る人に最も強く訴える。
◎倫理に対するヒュームの多元的、感情主義的、自然主義的なアプローチは、現代の道徳心理学の方法として、功利主義や義務論より有望である。ヒュームのプロジェクトを復活させるための第一歩として、私たちは<正義心>の受容器を特定する作業から出発するべきだ。
◎モジュール性という概念は、生得的な道徳受容器について、そしていかにそれが、文化ごとに異なる様態で発達した初期知覚を生むかを考える際に役立つ。
◎<正義心>の受容器の有力候補には、ケア、公正、忠誠、権威、神聖の五種類がある。
 
 
 
 
 
第07章 政治の道徳的基盤 210
先天性について 
〈ケア/危害〉基盤 
※ 「自衛出来ない子供を保護すべき」。他者の苦痛に気づき、残虐行為を非難する。
 
〈公正/欺瞞〉基盤 
※ 「協力関係を結ぶべき」。協力出来る人間を見分け、詐欺師を避けるか罰する。利他主義は、自らが施した恩恵を返してくれる相手に生じる。左派は構成を平等するが、右派は比例配分とする。
 
224 誰もが公正さに配慮しているが、それには大きく分けて二種類がある。左派は、公正を平等としてとらえる場合が多いが、右派は比例配分として考える。比例配分を重視する公正さとは「結果が不平等になろうと、報酬は各人の貢献の度合いに応じて配分されるべきだ」と見なすことである
 
〈忠誠/背信〉基盤 
※ 「連合体を形成し維持すべき」。自らの共同体を裏切る者を追放する。『コーラン』は外部の人間を警戒するが、背教者は殺すべきと書く。ダンテは、『神曲』で裏切者に地獄の中心を割り当てる。裏切者は敵よりも憎まれる。
⇒普遍主義は、忠誠基盤を重視する人間に訴えられない
 
〈権威/転覆〉基盤 
※ 「階層的社会で有利な協力関係を形成すべき」。階級や地位に対して相応しく振る舞う。権威者は脅威を与える力を持つと同時に、秩序と正義を維持する責任を担う。階層は非対称的で、下位者は上位者に敬意を表し、上位者は司牧的役割を担う。
⇒右派の方が階層性、不平等、権力に反対する左派よりも優位
伝統、制度、価値観を覆る行為も権威への反抗と言える。
 
231 霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールによれば、「地位に関する取り決めと、権威に関する敬意なしには、社会的な規則への受容性は十分に発達し得ない。猫にわが家の単純な決まりを教えようとしたことのある人ならだれでも、この見解に同意するはずだ」
 
233 したがって、<権威/転覆>基盤のカレント・トリガーには、政党と見なされている権威に対する服従/不服従、経緯/不敬、従属/反抗として解釈可能なあらゆる行為、および安定をもたらすと考えられている、伝統、制度、価値観をくつがえすような行為が含まれる。<忠誠>基盤と同様、政治的な右派の方が、階層性、不平等、権力に反対する立場をとることの多い左派より、この基盤によって道徳マトリックスを形成する傾向がはるかに高い。
 
〈神聖/堕落〉基盤 
※ ⑤神聖/堕落
「雑食動物のジレンマ(新奇好みと新奇恐怖の対立)」。病原菌等に汚染された環境で生きるため、象徴的脅威に警戒する行動免疫システム。雑食動物は食物に対して柔軟であるが、新しい食物には細心の注意を払う。
リベラルは新奇好みの傾向が強く、保守は新奇恐怖の度合いが強い。境界が伝統の遵守に拘る傾向。
神聖は身体接触によって伝染する脅威を避ける必要から発生し、危険な病原菌を知らせる感覚情報の入力パターンに依拠する?神聖基盤のカレント・トリガーは時代によっても異なり、移民への態度は疫病の発生確率によって変化するらしい。
 
238 ほとんどの動物は、生れた時から何を食べるべきかを知っている。コアラの感覚システムは、ユーカリの葉へ導かれるよう「経験に先立って組織化されている」。しかし人間は、何を食べるべきかを学習しなければならない。ネズミやゴキブリと同様、私たちは雑食動物なのだ。
 雑食動物は、柔軟性という点で非常に大きな優位性をもっている。人間は、新大陸を発見したときでも、必ず食料が見つかると確信していられた。しかし雑食にはマイナス面もある。食べられると思っていたものが、毒を含んでいたり、病原菌に汚染されていたり、寄生虫を宿していたりするかもしれない。「雑食動物のジレンマ」とは、「雑食動物は、安全性が確認されるまで細心の注意を払いながら、新たな食糧源を探さなければならない」という意味だ。
 そのため雑食動物は、新奇好み(ネオフィリア)と新奇恐怖(ネオフォビア)という二つの対立する衝動を抱えて生きている。どちらの衝動が強いかは人によって異なり、この相違が後の章では重要になる。リベラルはネオフィリアの度合いが高く(「経験に対して開かれている」とも言える)、それは食べ物ばかりでなく、人間関係、音楽、ものの見方などにも当てはまる。対して保守主義者はネオフォビアの度合いが高く、確実にわかっていることにこだわる傾向があり、教会や伝統の遵守に大きな関心を持つ
 嫌悪の情動は、当初「雑食動物のジレンマ」に最適な方法で対処するべく進化した。適切に調整された嫌悪の情動を持つ個体は、過剰な個体より多くのカロリーを摂取でき、不十分な個体よりも危険な病原菌を体内に取り込む可能性を低く抑えられる。だが脅威の対象は、何も食物だけではない。太古の人々が森林を出て、平地で群居生活を始めたとき、互いの身体や排泄物を通して病原菌に感染する危険が急激に高まった。心理学者のマーク・シャラーは、嫌悪が彼の言う「行動免疫システム」であると、すなわち汚染や感染の兆候がトリガーになり、汚れた者を避けたいと思わせる一連の認知モジュールだと述べる。免疫システムが根絶してくれることを頼みにして病原菌を体内に取り込むよりは、食物を洗い、ハンセン病患者を隔離し、不衛生な人々を避けていたほうが、はるかに効果的に感染を予防できる
 このように、最初に<神聖>基盤の進化をもたらした適応課題は、身体の接触や接近によって伝染する病原菌や寄生虫、あるいはその他の脅威を避ける必要性であった。この基盤を構成する主なモジュールのオリジナル・トリガーとしては、ものや人に危険な病原菌が付着していることを知らせる、嗅覚、視覚などの感覚データの入力パターンがあげられる(たとえば、死体、排泄物、傷や炎症を負った者、あるいはハゲタカなどの腐肉をあさる動物など)
 しかし<神聖>基盤のカレント・トリガーの種類や対象には、文化や時代によって大きな違いがある。その典型的な例はよそ者の扱いに関するもので、移民に対する人々の姿勢は文化によって異なり、よそ者を歓迎する寛大な態度は、疾病の発生する危険性が低い時代や場所において、より一般的に見られるようである。疾病、伝染病、未知の病気は通常、新しい思想、製品、技術と同様、よそ者によってもたらされるからだ。かくして社会は、よそ者に対する恐れと歓待のあいだで揺れ、一種の「雑食動物のジレンマ」に直面しなければならない。
 
243 しかし左派は一般に、貞節の美徳を、古臭い性差別であるとして片づける。また、ジェレミーベンサムは、快を最大に、苦を最小にすることを奨励している。このように、道徳の焦点が個人とその経験に置かれると、「なぜ快を得るために自分の体を遊び場にしてはならないのか?」などといった疑問が生じるだろう。かくして信仰心を持たないリベラルは、信心深いキリスト教徒を、快を恐れるお堅い気取り屋として風刺する。
 
まとめ 
245 私は本章を、第6章で導入した五つの道徳基盤に対する、読者の直感をテストすることから始めた。次に、生得性を「経験に先立って組織化されたもの」として、また、様々な文化のもとで個人が成長するにつれ、やがて改訂されていく草稿のようなものとして定義した。生得性をこのように定義することで、道徳基盤を生得的なものと見なせるようになった。ここの規則や美徳は文化によって異なる。したがって、すでに完成した書物のなかに普遍的な性質を探すつもりでいると、必ずや誤解を招くであろう。あらゆる文化の中で、まったく同じ形態をとって存在する段落(パラグラフ)などというものは存在しない。とはいえ、人類学の観察結果を進化論に結びつけて考えてみれば、人間性の普遍的な草稿がどのようなものかは推測できるはずだ。そのような推測を、私は五項目ほど提起した。
 
〈ケア/危害〉基盤は、「自ら身を守る方法を持たない子どもをケアすべし」という適応課題に対応する過程で進化した。それは他者が示す苦痛や必要性の兆候に容易に気づけるよう、また、残虐行為を非難し、苦痛を感じている人をケアするよう私たちを導く。
 
〈公正/欺瞞〉基盤は、「他人につけ込まれないようにしつつ協力関係を結ぶべし」という適応課題に対応する過程で進化した。それは、協力関係を結ぶのにふさわしい人物を容易に見分けられるようにする。また、人を欺くペテン師を避けたい、あるいは罰したいいと思わせる。
 
〈忠誠/背信〉基盤は、「連合体を形成し維持すべし」という適応課題に対応する過程で進化した。それは、チームプレイヤーを見分ける際に役立つ。そしてチームプレイヤーには信用と報酬を与え、自分や自グループを裏切るものを、傷つけ、追放し、時には殺すよう私たちを仕向けることがある。
 
〈権威/転覆〉基盤は、「階層的な社会のなかで有利な協力関係を形成すべし」という適応課題に対応する過程で進化した。それは、階級や地位に対して、あるいは人々が分相応に振舞っているかどうかについて、私たちを敏感にする。
 
〈神聖/堕落〉基盤は、最初は「雑食のジレンマ」の適応課題に対応する過程で、そしてさらに、病原菌や寄生虫に汚染された環境で生きていかねばならないという、より広範な問題に対処する過程で進化した。それには、象徴的なものや脅威に警戒を抱かせる行動免疫システムも含まれる。それはまた、ポジティブであれネガティブであれ、グループの結束を強化するのに必要な、非合理的で神聖な価値を有するなにかに人々の労力を投資させるものでもある
 
 次に、左派と右派は、各々異なる方法、程度によって、各基盤に依存しているということを述べた。つまり、左派はおもに<ケア>、<公正>基盤に、また右派は五つの基盤全てに依存している。だとすると、左派の道徳は「真の味覚レストラン」のメニューのようなものか?
 左派の道徳は、一種類か二種類の受容器を活性化するだけなのに対し、右派の道徳は、忠誠、権威、神聖を含む、より多種類の受容器に訴えるのか?もしそうなら、保守主義の政治家は、有権者に訴える、より多くの手段を持っていることになるのだろうか?
 
 
 
 
 
第08章 保守主義者の優位 248
250 共和党の政治家は、一部の民主党支持者が避難するように、単に国民の不安を煽ろうとしているのではなく、すべての道徳基盤に依拠して人々の直感に訴える術を心得ているのだ。民主党同様、(有害な民主党政策の)罪のない犠牲者や公正(とりわけペテン師や怠け者や無責任な愚か者を援助するために、勤勉で分別をわきまえた人々から税金を搾り取る不公正)についても語ることができる。それに加え、<忠誠>基盤(特に愛国主義や英雄主義)と<権威>基盤(両親、教師、年長者、警察、そして伝統の尊重など)へのアピールに関しては、ニクソン以来ほぼ共和党の専売特許だったと言ってよい。また共和党は、1980年の大統領選キャンペーン中に、ロナルド・レーガンキリスト教系の保守層を取り込んで、「家族の価値」を擁護する政党になる。そして、神聖とセクシュアリティに関するキリスト教の考え方を取り入れ、民主党をソドムとゴモラ〔聖書に登場する都市の名前。風紀の乱れのために滅ぼされたとされる〕の政党と呼んだ。1960年代から70年代にかけての犯罪発生率の上昇と文化的な混乱の激化を背景に、五つの道徳基盤の全てに基づく共和党の政策は、民主党支持者さえ引き付けた(いわゆるレーガン・デモクラッツ)。それに対し、1960年代以降民主党が示してきた道徳観は狭量で、犠牲者を救済し、抑圧された人々の権利を勝ち取ることのみに終始してきた感がある。つまり民主党は砂糖(<ケア>基盤)と塩(平等としての<公正>基盤)のみを提供する一方、共和党は五つの道徳基盤全てに訴えることができたわけだ。
 
道徳を測定する 

255 五人とも、政治的にはリベラルの立場だったが、リベラル研究者の政治心理学へのアプローチに懸念を抱いていた。彼らの研究の多くは、保守主義の何が問題かを解明することに焦点を置いていたからだ(「なぜ保守主義者は、普通の人がするように平等、多様性、変化を支持しようとしないのどうか?」)。ちょうどその日開かれた政治心理学のセッションで、何人かの講演者は、保守主義者にまつわるジョークや、ブッシュ大統領の認知的な限界について放言していたのだが、そのような言動は、私たち五人には、道徳的にも科学的にも間違っていると感じられた。道徳的に間違いだと感じたのは、そのような行為が、聴衆の中にいるかもしれない、何人かの保守主義者に対し敵対的な雰囲気を醸し出していたからであり、科学的に間違いだというのは、特定の結論に請求に至ろうとする動機がそこに見て取れたからだ(ともすると人は自分の望む結論に至りがちなことは、誰もがよく知るところだ)。また私たち五人は、アメリカにおける政治的な見解の二極化と民度の低さを憂慮し、道徳心理学をうまく利用して、両党派が互いに理解と尊重を示せるよう手助けしたいと考えていた
 
何が人を共和党に投票させるのか 
261 保守主義者が保守なのは、過剰に厳格な両親に育てられたためか、変化、新しさ、複雑さを異常なまでに恐れているがゆえであるか、あるいは自己の存在に対する不安を感じて、曖昧さのない単純な世界観に固執するからか、のいずれかとされている。これらの見方は、心理学を用いて保守主義を説明する点で共通する。そして、そう説明することで、リベラルは保守主義の見方を真面目に受け取る必要はないと見なす。なぜなら、それは子どもの頃の劣悪な生活環境や、何らかの人間性の欠落に由来すると考えるからだ。私は、それとは違うアプローチを提案したい。リベラル同様、保守主義者が誠実な人々であることを認めるところから始め、しかる後に、道徳基盤理論を用いて両陣営の道徳マトリックスを理解するというアプローチだ
 
私が見落としていたこと 
〈自由/抑圧〉基盤 
273 このような政治的平等主義への移行を果たしたグループには、道徳マトリックスの発達においても大きな飛躍があった。今や人々は、規範、非公式の制裁、そして折に触れての暴力的な懲罰をともなう、はるかに濃密なネットワークの中で暮らすようになったのだ。この新たな世界を巧みに生き抜き、良い評判を維持できたものは、他の人々から信頼、協力、政治的な支持を集めて有利な立場を築けた。それに対し、グループの規範を尊重しない者や、いばり屋のごとく振舞う者は、避けられ、追放され、殺されることで、遺伝子プールから除去されていった。かくして、遺伝子と文化的な実践(たとえば規範を守らないものを集団で殺害するなど)は共進化してきたのだ。
 ベームは、その結果生じたのが、「自己家畜化」と呼ばれるプロセスだという。育種家が、選択的な賭け合わせによって、より従順で大人しい動物を作り出すように、私たちの祖先は、全員で共有する道徳マトリックスを築き、そのもとで協力し合って生活する能力を、選択的に(そして意図せずして)育み始めたのである。
 
比例配分としての構成 
三対六 
290 私は本章を、「リベラルは<ケア>と<公正>の二つの道徳基盤を重視するが、保守主義者は、五つの道徳基盤を用いる」という当初の発見を報告することから始めた。しかしここ数年の研究結果を考慮に入れると、この記述は訂正する必要がある。つまりリベラルは<ケア/危害><自由/抑圧><公正/欺瞞>の三つ、保守主義者は六つすべての基盤に依存すると書き直すべきだろうただしリベラルには、思いやりや、抑圧への抵抗と矛盾する場合、(比例配分としての)<公正>基盤を進んで放棄する傾向がみられるまた、リベラルと比べて保守主義者には、たとえ誰かが傷ついても、<ケア>基盤を犠牲にして、それ以外の種々の道徳目標を達成しようとする傾向がある
 
まとめ
291 道徳心理学は、1980年以来、民主党有権者にうまく訴えられなかった理由を教えてくれる。共和党は、民主党より社会的直観モデルをよく理解している。つまり、直接<象>に訴える術を心得ている。加えて、道徳基盤理論をよく理解しており、すべての道徳の受容器に刺激を与えようとする。
 次に、社会保守主義者が思考するデュルケーム流の社会観を紹介した。それによれば、社会の基本単位は個人より家族であり、その物では秩序、上下関係、伝統が重視される。また、この見方に対して、リベラルが擁護するミル流の、よりオープンで個人主義的な社会観を対置した。その際、ミルの提起する社会像によって、多数者(pluribus)を統一体(unum)に結びつけることは困難だと指摘した。民主党は、unumを犠牲にしてpluribusを擁護する政策を推進する場合が多く、配信、転覆、神聖冒瀆などの批判を受けやすい。
 そしてさらに、自由と公正に基づく直観をより正確に説明するために、道徳基盤理論を訂正したいきさつを説明した。
 
◎支配の試みの兆候はどんなものでも検知し、それに対して怒りの感情を呼び起こす<自由/抑圧>基盤を追加した。この基盤は、互いに結束して、いばり屋の暴君に抵抗し、その支配を打ち倒そうとする衝動を人びとにもたらす。また、左派の平等主義と反権威主義を、さらには「私を踏みつけるな」「私に自由を」と声高に叫ぶリバタリアンと一部の保守主義者の、政府に対する怒りを支える源泉でもある。
 
◎<公正>の基盤の定義を訂正し、焦点を比例配分に置いた。<公正>基盤は互恵的利他主義の心理にその起源を持つが、人類がゴシップの飛び交う懲罰的な道徳共同体を形成するようになってから、その機能は拡大した。多くの人々は因果応報に、直観的に深い関心を持ち、ペテン師を罰し、良き市民を働きに応じて報いたいと考えるようになった。
 
 これらの訂正を加えた道徳基盤理論は、近年の民主党を悩ませてきた大きな謎の一つ、「富の均等な再分配を重視しているのは民主党なのに、なぜ地方や労働者階級の有権者は、一般に共和党に投票するのか?」を解明できる。
 この問いに民主党は、「共和党有権者をだまして、彼らの経済的な関心に反して自党に投票するように誘導している」と答える。しかし道徳基盤理論の観点からすると、地方や労働階級の有権者は、自らの道徳的な関心にしたがって投票している。彼らは「真の味覚レストラン」で食事をしたいのではなく、政府が、犠牲者のケアや社会正義の追求に焦点を置く政策を実施することを望んでいない。デュルケームの社会観を理解し、六つすべての道徳基盤に依存した場合と、三つのみに基づいた場合の相違が分からないままでは、民主党は、人々が共和党に投票する理由を理解できないだろう。
 
 
 
 
 
●第3部 道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする――私たちの90%はチンパンジーで、10%はミツバチだ
 
第09章 私たちはなぜ集団を志向するのか? 296
勝利者の種族? 
足の速いシカの群れ? 
証拠A――進化における「主要な移行」 
証拠B――意図の共有
318 歴史を振り返って、ルビコン渡河に相当する出来事を見つけるのはとても楽しい。かつて私は、道徳の進化には小さなステップが無数にあって、ルビコンに相当するできごとの特定は無理だろうと考えていた。しかし、チンパンジーの認知に関する世界的な権威の一人、マイケル・トマセロの「二頭のチンパンジーが丸太を一緒に運ぶところを見ることなどないだろう」という言葉を聞いたとき、考えを改めた。
 私は呆然とした。何しろチンパンジーは、地球で2番目に賢い生物とされ、道具を作成し、身振り言語を学習し、他の個体の意図を推測して、自分の欲しいものを手に入れるために騙し合いすらするのだから。たしかにチンパンジーは、個体としてはとても優秀だ。ならば、なぜ協力し合えないのか?何が欠けているのだろうか?
 
321 それに対し、初期の人類がお互いの意図を共有し始めた時、狩猟、採集、子どもの養育、近隣に対する襲撃の能力は格段に上がった。チーム全員が、当面の課題を心に描き、パートナーも同じ構図を思い描いているということを理解し、また、成功を妨げる、あるいは獲物を独り占めにするなどの態度をパートナーがとった時にはその事実に気づき、その種の審判行為には否定的な反応を示すようになったのだ。こうして集団の誰もが、ものごとの進め方に関して理解を共有し、誰かがそれに反する行動をとると、それに対して否定的な感情が瞬時に湧きあがるようになった時、最初の道徳マトリックスが誕生したのである。(マトリックスとは、一種の共感的な幻覚であったことを思い出されたい)。この出来事は、まさしくルビコン渡河の一例であると私は考える。
 
証拠C――遺伝子と文化の共進化 
 

 
330 同様に初期の人類は、部族の道徳マトリックスのもとで生活する能力の有無に基づいて友人やパートナーを選択し始めたとき、自己家畜化のプロセスをたどった。事実、私たちの脳、身体、行動には、家畜動物にみられるものと同じ家畜化の兆候が、数多く認められる。例えば、小さなは、小柄な体、穏やかな性質、遊びへの志向などで、これらの特徴は大人になっても維持される。家畜化は一般に、成体になると消滅するはずの特徴を、死ぬまで保ちつづけるよう働きかけるのだ。かくして(人間を含め)家畜化された動物は、野生の祖先に比べて穏やかで、社会性が高く、また子供のように見える。
 これらの部族本能は一種の上塗りであり、人類より古く利己的な霊長類の本性の上に築かれた、集団を志向する一連の情動的、心理的カニズムからなる。<正義心>が基本的に部族的な心理に由来すると考えるのは、気が滅入るかもしれない。しかし次のことを考えてみよう。人類は部族的な心理のために分裂しがちであったとしても、長期にわたる部族生活の時代がなければ、そもそも分かれる対象になる母体自体が存在しえなかったはずだ。今日の狩猟採集民よりはるかに社会性が希薄な採集民の小家族だけが何とか生き延びることができ、干ばつが長引こうものなら、飢餓のためにメンバーのほとんどを失う、などと言った状態から決して抜け出せなかったであろう。部族的な心理と文化の共進化は、戦争のみならず、集団内の平和共存、さらには現代における大規模な協力関係の発達も促してきたのだ。
 
証拠D――迅速な進化 
戦争がすべてではない 
まとめ 
339 道徳は、個体と集団の両レベルで作用する自然選択によって進化した一つの適応だと、ダーウィンは考えた。徳の高いメンバーでしめられる部族は、利己的なメンバーの多い部族に取って代る。だがこのダーウィンの見方は、ウィリアムズとドーキンスが「集団選択はフリーライダー問題ゆえに消え去る運命にある」と主張したことにより、学問の世界から追放された。科学会ではその後30年間、集団間の競争という見方は軽視され続け、誰もが集団内での個体間の競争に焦点を絞るようになる。利他的な行動は、潜在的な利己性として説明されていた。
 しかし最近になって、進化を考えるにあたり、集団の役割を強調する新たな研究が現れ始めている。それにおれば、自然選択は、集団を含め複数レベルで同時に作用する。人間の本性は集団選択によって築かれたと、確信をもって言うことはできないが(賛否いずれの陣営にも、尊重すべき見解を持つ研究者がいる)、道徳を研究する心理学者として、「人はなぜ、利己的であると同時に集団を志向するのか」を説明するのに、マルチレベル選択は大いに役立つと提言したい。
 1970年代以降、(マルチレベル選択の一つとして)集団選択の再考が必要であることに気づかせてくれる研究が相次いで発表された。本章では、それらをまとめ、集団選択を弁護する以下の四つの証拠として提示した。
 
証拠A――「主要な移行」による超個体の誕生 
「主要な移行」は、生命の歴史のなかで繰り返し発生している。フリーライダー問題が、生物学的な階層の、あるレベルで解決されると、それより一つ上のレベルで、集団内の役割分担、協力、利他主義などの新たな特徴を持つ、より大きく強力な遺伝子の乗り物(超個体)が誕生した。
 
証拠B――意図の共有による道徳マトリックスの形成
私たちの祖先を集団で効率的に活動できるように導いた、カエサルルビコン渡河にも例えられるできごとは、意図やその他の心のイメージを共有する人類独自の能力を獲得したことだ。初期の人類は、この能力によって役割を分担し、協力し合えるようになり、互いの行動を評価するための規範を発達させた。規範の共有は、今日の私たちの社会生活を律している道徳マトリックスの端緒である。
 
証拠C――遺伝子と文化の共進化 
私たちの祖先がルビコンを渡り、意図を共有するようになると、人類の進化はこれら二つの要因に影響されるようになる。人々は、集団を志向するさまざまな特徴の適応度を変える、新しい慣習、規範、制度を生んだ。とりわけ遺伝子と文化の共進化は、人類に一連の部族本能を与えた。かくして私たちは、集団への帰属を示す何らかの印を刻み、なるべく自集団のメンバーと協力し合おうとするのだ。
 
証拠D――迅速な進化
人類の進化は、五万年前に止まったり、歩調を緩めたりしたわけではない。速度を上げたのだ。ここ1万2000年間、人類は遺伝子と文化の共進化によって急激に進化した。したがって、今日の狩猟採集民の特徴を、5万年前から全く変わらぬ普遍的な人間の本性として捉えることはできない。人間の本性や、<正義心>の起源を理解したいのなら、環境や文化の劇的な変化が起こった時代に注目すべきである(環境については14万年前から7万年前にかけて生じた変化、文化に関しては完新世に起こった変化)。
 人間の本性のほとんどは、個体レベルで作用する自然選択によって形づくられたものだ。しかしそれがすべてではない。集団レベルの適応もいくつか存在する。9・11同時多発テロが発生したとき、アメリカ人の多くはそのことに気づいたはずだ。私たち人間は、「自分よりも大きく貴いものの一部でありたいと願う利己的な霊長類」という、矛盾した存在なのである。あるいは、「私たちの90%はチンパンジーで、10%はミツバチだ」とも言える。そう言えるほど人間は集団を志向し、自らの根城を守ろうとする。それはあたかも、条件が揃うとオンになって集団志向性を活性化するスイッチが、私たちの頭の中に埋め込まれているかのようだ。
 
 
 
 
 
 
第10章 ミツバチスイッチ 343
ミツバチ仮説 
集合的な情動 
スイッチを切り替える方法 
  自然に対する畏敬の念
353 エマソンダーウィンも、自然の中に、世俗と心性の領域を結ぶ扉を発見したのだ。ミツバチスイッチは、集団レベルの適応によって獲得されたものだとしても、古来より神秘主義者や修行者が知っていたように、ひとりでいるときでも、自然に畏敬の念を覚えてオンになることがある
 畏敬の念は、広大さ(何かが私たちを圧倒し、自分を小さく感じさせる)と、順応の必要性(私たちの心の構造は、経験したことをそのまま同化できないので、心の構造を変化させて、経験に「順応」せさなければならない)という二つの特徴を持つ状況に直面したときに、引き起こされやすい。そして、一種のリセットボタンのような機能を果たし、自我やつまらぬ心配を忘れ、新たに価値観、可能性、生きる道に心を開くよう人々を導く。またそれは、集合的な愛や歓喜と共に、ミツバチスイッチに最も密接に結びついた情動の一つでもある。まさしく自然はミツバチスイッチをオンにして我を忘れさせ、自分がまったく全体の中の一部であることを感じさせてくれる。だからこそエマソンダーウィンがしたように、人は自然をスピリチュアルな言葉で語るのだ。
 
354 このキノコは「テオナナカトル」(その地方の言葉で「神の肉」を意味する)と呼ばれていた。キリスト教の宣教師は、このキノコの接種に聖体拝領との類似を見出したが、アステカ族の実践は象徴的な儀式の範疇を超える。「テオナナカトル」は、およそ30分で、それを摂取した者を世俗から聖なる領域へと直接導いてくれる。図10・2は16世紀のアステカの絵巻物の1シーンで、キノコを食べる人を神がつかもうとしている。アステカ北部の宗教では、メス化リンを含有するサボテン科の植物ペヨーテの接種に、また南部の宗教では、ジメチルトリプタン(DMT)を含む、蔓や葉を煎じた飲料アヤフアスカ(ケチュア語で「精霊の蔓」を意味する)の接種に焦点が置かれている。
 これら三種類の麻薬は、(LSDやその他の合成化合物と共に)幻覚剤に分類される。というのも、これらに含まれているものと科学的に同種のアルカロイドは、視覚や聴覚の幻覚を引き起こすからだ。思うに、自己を滅却させ、「宗教的体験」あるいは「変性体験」として後で思い起こせるような体験を摂取者に与えるという、(不確実ながら)ユニークな効力を持つ点で、これらは「デュルケーム剤」と呼んでもよいのではないだろうか。
 
356 この実験では、実践の直前直後、および6か月後に参加者全員から詳細なレポートが集められたが、以下の9つの項目に関して、統計的に有意な、シロシビンの効果が確認されている。
 
①統合(自己の感覚喪失、根源的な唯一性の感覚)
②時間と空間の超越
③深いポジティブな気分
④神聖の感覚
⑤深淵で絶対的な直感的知識が得られた感覚
⑥逆説性
⑦何が起こったかを説明することの困難さ
⑧その経験のはかなさ(数時間以内に通常の状態に戻る)
⑨態度や行動におけるポジティブな変化
 
 25年後、リック・ドリブンという研究者が、20人の被験者のうち19人を探し出してインタビューを行った。彼の結論は次の通り。「長期追跡調査でも、シロシビンを服用したすべての被験者が、その時純粋に神秘的な何かを感じ、自身の精神生活にとって独自の貴重な体験になったと考えていた。だが服用していないグループについては、そう考える被験者はいなかった」。
 
  レイブ
359 そこで経験したことは、僕の価値観をまったく変えた。(・・・)装飾やレーザー光線はとてもカッコよく、一部屋にこれだけ大勢の人が集まって踊っているのを見たのは初めてだった。しかしそう言ってみたところで、僕がその時経験した畏敬の念を説明できるものではない。(・・・)仲間のあいだでもっとも論理的で理性的と見なされている僕が、圧倒的にスピリチュアルな感覚に満たされるなんて自分でも驚いた。それは宗教的な感覚ではなく、そこにいるすべての人々はもちろん、宇宙の何もかもと深くつながっているという感覚だった。そこに判断はなかった。(・・・)自分の踊りを見せたいから踊っていると言った自意識や感情は微塵もなかった。(・・・)誰もが舞台に立っているDJの方を向いていた。(・・・)部屋全体が、何千もの人々からなる、一つに統合された巨大な部族のようなっだ。部族のリーダーはDJだ。(・・・)決して調子を乱さない電子音による無言のビートは、群衆を同調させる心臓の鼓動だ。まるで自意識が消滅し、一つに統合された集団意識に取って代られたかのようだった。
 
ミツバチスイッチ 
ミツバチスイッチの生物学 
363 要は、オキシトシンはただ内集団に向けられた愛情を高めただけで、被験者を郷党的な利他主義者にしたのだ。この実験を行った研究者は次のように結論している。「これらの発見は、一般的にいえば神経性仏学的なメカニズムが、より具体的にいうとオキシトシン分泌システムが、内集団における調和や協力関係を促し、維持するために進化したという見解を支持する」
 
365 どうやらマカクのミラーニューロンは、その個体の私的な使用のために、すなわち他の個体から何かを学べるように、あるいは他のマカクの次の行動を予測できるように発達したと考えられる。
 
 人間は互いの苦痛や喜びを、他の霊長類よりもはるかに強く感じている。誰かが微笑んでいるところを見ただけで、自分が微笑んだ時に活性化するニューロンのいくつかが発火する。要するに、誰かがあなたに微笑みかけると、あなたの脳も幸せな気分に満たされて微笑みたくなり、それがまた別の誰かの脳へと伝わっていくのだ。
 ミラーニューロンは、デュルケームの提唱する集合的な感情を、とりわけ集合的沸騰と呼ばれる、情動の「興奮」を完璧に説明する。
 
366 言い換えると、私たちは目に入ったすべての人々に無条件に共感するのではない。その意味では、人間は条件付きミツバチであり、自分の道徳マトリックスに反するものより従っているものに共感し、後者の行動を模倣することが多い。
 
ミツバチスイッチの働き
369 また、自然災害が襲ってきたときには、見知らぬ人同士が、自発的にリーダーと従者に分かれることを示した研究もある。自集団が何かを達成しなければならず、リーダーになる人物が、自分の持つ鋭敏な抑圧検出器を刺激しないということを確信できれば、人は進んでその人物に従うものだ。したがってリーダーは、<権威><自由>そしてとりわけ<忠誠>の三基盤に基づいて道徳マトリックスを築き上げねばならない。<権威>基盤はリーダーの権威を正当化するために、<自由>基盤は従者が抑圧を感じて、命令を下すアルファメイルに逆らう対抗集団を形成するような事態にならないように、そして<忠誠>基盤は第7章で述べたように、集団の結束力を高めるために必要とされる。
 
ミツバチの政治 
374 ファシズムとは、集団を志向する心理をグロテスクなまでに誇張した原理であり、個人の存在がすべての重要性を失った超個体として国家をとらえる。ならば集団志向の心理は悪に奉仕するものなのか?人々を忘我の境地に導き、共通の目標を追求するチームへ統合しようとするリーダーは、ファシズムを実践していることになるのだろうか?社員の朝の体操は、ニュルンベルクでのナチ党大会と大して変わりがないのか?
 エーレンライクは前掲『街路での踊り』で、まる一生を費やしてこの懸念を振り払っている。それによれば、我を忘れてダンスを踊ることは、階層性を解体して、人々を共同体へと統合するために進化した、バイオテクノロジーだと見なせる。熱狂的なダンス、祭り、カーニバルは日常の階層秩序を解体、あるいは反転する。男は女の服装をし、農婦は貴族のふりをし、リーダーは嘲られる。だが、祭りが終わると秩序は元に戻る。ただし、全体の雰囲気は以前よりも少しほぐれ、階級差のある人々の関係も少しばかり親密になる。
 ファシストの集会はそれとはまったく違うと、エーレンライクは言う。ファシストにとって、集会は祭りではなくスペクタクル〔大げさな見世物〕であり、人々の畏怖の念は、階層性を強化し、リーダーという神に国民を結びつけるために利用されているのだ。そこでは人々は踊りもしなければ、間違ってもリーダーを嘲ったりはしない。文句ひとつ言わずに何時間も立ち尽くしたまま、兵士の一団がそばを通り過ぎれば拍手をし、親愛なるリーダーがやって来て演説を始めれば、熱狂して喝采を送る。
 独裁者が、集団を志向する人間の心理を存分に利用しているのは明らかだ。しかしその事実は、ミツバチスイッチを恐れ、忌避すべき理由になるのだろうか?集団志向は、喜びとともにごく自然に私たちの心へ入ってくる。その通常の機能は、数十人、あるいはせいぜい数百人を、信頼、協力、愛情に満ちた共同体へと結びつけることだ。それによって結びつけられた集団は、たしかに以前より部外者に対する配慮を欠くことがある。そもそも集団選択の本質は、他集団とより効率的に争えるよう、集団内の利己主義の蔓延を抑えることにあるのだから。しかし、もとより人間には、よそ者をぞんざいに扱う傾向があるという点に鑑みれば、それは本当に悪いことだと言いきれるのだろうか?集団や国家の内部で人々が得られるケアの分量を大幅に増やせるのなら、たとえ部外者から期待できる分量がわずかに減ったとしても、全体としてみれば世界はより良い場所になるのではないだろうか?
 
376 社会関係資本、精神の健康、幸福という尺度で測った場合、どちらの国家を高く評価できるだろう?ビジネスを成功させて高い生活水準を保つには、どちらの国家が優れているのだろうか?
 
まとめ 
377 前著『しあわせ仮説』を執筆し始めたとき、ブッダストア派の哲学者が数千年前に述べたように、幸福は内面からやってくると考えていた。「自分の望み通りに世界を変えることなどできはしない。だから自分自身と自分の欲望を変えることに的を絞れ」ということだ。だが、執筆し終わる頃までには、私の考えは「幸福はあいだからやって来る」へと変わっていた。つまりそれは、他の人々や仕事、あるいは自分より大きな存在とのあいだに正しい関係を結ぶことで得られるのだ。
 人間が有する二重の本性には集団志向性が含まれるということをひとたび理解できたなら、なぜ幸福はあいだからやって来るのかが分かるはずだ。私たちは集団を形成して生きるよう進化してきた。私たちの心は、集団内ばかりでなく、集団間の競争に勝つために、地グループの他のメンバーと団結できるように設計されているのだ。
 本書では、「人間は一定の条件のもとではミツバチのごとく振舞う」というミツバチ仮説を提示した。私たちは(ある特殊な条件下で)私欲を捨てて、(一時的な忘我の境地で)自分より大きな何者かに没入する能力を持つ。私はこれをミツバチスイッチと呼ぶ。これは、「私たちホモ・デュプレックス(二重の)だ」と考えるデュルケームの見方を言いかえたものである。つまり私たちは、ほとんどの時間を日常的な世俗世界で過ごしているものの、つかの間ではあれ神聖な世界へ移行し、そこで「まったく全体の一部」になって至上の喜びを享受できるのだ。
 次に、自然に対する意見の念、デュルケーム剤、レイブという、ミツバチスイッチをオンにする三つのありふれた方法を紹介した。また、オキシトシンミラーニューロンが、ミツバチスイッチの構成要素であることを示唆する最近の発見を取り上げた。オキシトシンは、人々を人類一般ではなく特定の集団に結びつける。ミラーニューロンは、とりわけ道徳マトリックスを共有する人々に共感するように私たちを導く。
 人類は無条件にあらゆる人々を愛するべきに設計されている、と信じられるのならとてもすばらしい。しかし進化論的な観点から言えば、そんなことはまずあり得ない。だとすると、類似性、運命の共有、フリーライダーの抑制によって強化される郷党心、すなわちグループ愛は、私たちが達成できる最大の成果ではないだろうか。
 
 
 
 
 
第11章 宗教はチームスポーツだ 380
宗教的な信念 
無神論者のストーリー ――副産物、そして寄生虫 
393 デネットドーキンスにとって、宗教は自然選択の対象になる一連のミームであり、生物学的な特徴と同様、遺伝子、突然変異を被り、それによって誕生した変異体のあいだで自然選択が作用する。選択は、ある宗教が個人や集団に与える恩恵にではなく、生存と繁栄の能力に基づいて決定される。人間の心を乗っ取り、その深くに巣食い、あらたな宿主となる次世代の人々の心に伝えられていく能力は、個々の宗教ごとに異なる。デネットは『解明される宗教』を、アリの脳を乗っ取る小さな寄生虫の話から始める。この寄生虫は、草食動物がなんなく食べられるよう葉先へとありを誘導する。この行動はアリにとっては致命的だが、反芻動物の消化器官の中で繁殖する寄生虫にとっては適応能力のたまものだ。デネットは、「宗教は、遺伝子の宿主には不利になるが(たとえば自爆テロ)、寄生虫(たとえばイスラム教)には有利になる行動を人間にとらせることで存続する」と主張する。ドーキンスも「伝播のために、かぜのウイルスが宿主にくしゃみをさせるように、宗教は、宿主に貴重な資源を浪費させ、<伝染病>を広げることで繁栄する」と述べ、宗教をウイルスにたとえている。
 つまり彼らは、これらのたとえによって次のように言いたいのだ。宗教が、それ自身の利益のために私たちの認知能力を巧妙に利用する。ウイルスや寄生虫のたぐいであるのなら、私たちはそれを排除しなければならない。感染を免れ、健全な思考能力を未だ維持している科学者、哲学者、およびその他少数の人々は、その魔法を解き、妄想を振り払い、信仰の終焉を実現するために一致団結しなければならない。
 
無神論者より説得力のあるストーリー ――副産物、そして文化の集団選択 
396 コミューンとは、親族に依存せずに協力関係を維持する実験を、自然な環境のもとで行うことだ。それは通常、一般社会の道徳マトリックスを拒否し、独自の原理に基づいて自らを組織化しようとする献身的な信者たちによって設立され、グループとして結束し、利己主義を抑制し、フリーライダー問題を解決することができる限り存続できた。19世紀のコミューンの多くは宗教的な原理に基づいていたが、世俗的なコミューンも存在し、そのほとんどは社会主義的な原理に依拠していた。どちらのタイプのコミューンが長く存続したのだろうか?ソシスの発見によれば、違いは歴然としている。設立後20年が経過しても依然として機能していたコミューンの割合は、世俗的なものが6%、宗教的なものが39%だったのだ。
 
 犠牲とは、具体的にいうと、タバコやアルコール飲料を断つ、何日か断食する、既定の服装や髪型に従う、よそ者との関係を断つなどである。宗教的なコミューンでは、その効果は単純明快で、求められる犠牲の数が多ければ多いほど、そのコミューンはそれだけ長く存続した。しかし驚いたことに、犠牲の数は世俗的なコミューンの存続には何の役にも立たなかった。そのほとんどは8年以内に解体しており、犠牲者の数とコミューンの存続期間の間に相関関係は見いだせなかった。
 
 儀式、法、あるいはその他の制約は、神聖化された場合に最もうまく機能するとソシスは主張するそして「社会的な慣習に神聖さを付与することは、その本質的な恣意性を見かけの必然性で覆い隠すことである」という、人類学者ロイ・ラパポートの言葉を引用している。しかし世俗的な組織では、いかなるメンバーも犠牲が求められたときに費用対効果分析を行う権利をもつ。したがってメンバーの多くは、不合理な行動を求められると拒否する。言い換えると、無神論者が高コスト、非効率、不合理として捨て去る儀式の実践こそは、人類が直面する最も困難な課題の一つを、つまり親族関係なくしていかに協力が可能かという問題を解決してくれるのだ
 
 
デュルケーム流のストーリー ――副産物、そしてメイポール 
神は善の力か、それとも悪の力なのか? 
チンパンジー、ミツバチ、神々 
413 レスリー・ニューソンが述べるように、繁栄する宗教は、効率よく「資源を子孫の繁栄へと転化できるよう」集団を導くがゆえに、人類の持つ宗教性は進化したのだ。
 したがって宗教は、集団の形成、部族主義、愛国主義に効果的に奉仕する。一例をあげると、自爆テロ原因は宗教ではないらしい。ここ1世紀の間に起こったあらゆる自爆テロのデータベースを作成しているロバート・ペイブによると、自爆テロは、異文化の民主主義勢力による軍事的な占領に対する、愛国主義者の反応なのだそうだ。またそれは、もっぱら地上攻撃に対する反応であり、爆撃に対するものであったことはない。要するに、神聖な祖国が汚されたことに対する反応なのだ。
 軍事占領のほとんどは、自爆テロを招かない。若者が大義のために自己を犠牲にするには、何らかのイデオロギーが必要だ。それは世俗的、宗教的のいずれでもあり得る。前者の例としては、マルクス・レーニン主義者からなるスリランカのタミル・タイガーが、後者の例として、1983年に自爆テロによってアメリカをレバノンから追放したシーア派イスラム教徒があげられる。内集団を美化すると同時に、外集団を悪魔の化身と見なす道徳マトリックスに人々を結びつけるいかなる世界観も、勧善懲悪を口実とする殺戮をもたらすが、多くの宗教はこの役割に適合している。つまり宗教は、残虐行為の原動力より、その共犯になりやすいのだ。
 
道徳の定義 
416 これまでの議論からわかるとおり、私のアプローチは、「道徳的なものとは、結束の源泉になるすべてのもの、すなわち人をして自らの行動を(・・・)利己主義以外のなんらかによって統制せしめる(・・・)すべての事象をいう」と主張する、デュルケームを出発点にした。デュルケームは、個人の利己主義を抑制する社会的事実(個人の心の外に存在するもの)に社会学者として注目する。その例として、宗教、家族、法、そして私がこれまで道徳マトリックスと呼んできた、意味の共有ネットワークがあげられる。私は心理学者なので、それらに加えて、道徳的な情動、心の弁護士(報道官)、六つの道徳基盤、ミツバチスイッチ、そして本書で取り上げてきた、進化を通して得られたその他すべての心のメカニズムも定義に含めたい。
 さて、私の提起する道徳システムの定義は、これら二つの側面を合わせ、次のようになる。
 
 道徳システムとは、一連の価値観、美徳、規範、実践、アイデンティティ、制度、テクノロジー、そして進化のプロセスを通して獲得された心理的なメカニズムが連動し、利己主義を抑制、もしくは統制して、協力的な社会の構築を可能にするものである
 
まとめ 
419 宗教を超自然的な行為者に対する一連の信念としてとらえるのなら、誤解は避けられない。その様な信念は、愚かな妄想と、さらに言えば私たちの脳を巧妙に利用する寄生虫とさえ見なされるのがオチだからだ。しかし宗教に対して(帰属に焦点を置く)デュルケームの、また、道徳に対して(マルチレベル選択を含めた)ダーウィンのアプローチを採用すれば、全体像は違って見えてくるはずだ。宗教の実践は、数万年前、私たちの祖先を集団の形成に導いていった。だが、同時にそれを信じる者の目をくらます場合も多々あった。というのも、どのような人物、書物、原理でも、それが神聖なものと見なされると、崇拝者はそれを疑問視しなくなり、客観的に見ることができなくなるからだ。
 超自然的な行為者を信じる能力は、超高感度の行為者探知機の偶然の副産物として獲得されたのかもしれない。しかしひとたび人類がそれを信じるようになると、上手くそれを利用して道徳共同体を築いた集団は、存続し、繁栄し始める。そして、19世紀の宗教的コミューンと同様に、神々を祀ってメンバーから自己犠牲と献身を引き出すようになり、また、欺瞞の研究や信用ゲームの被験者と同じく、神々の助力を得て欺瞞やフリーライダーを抑制し、信頼関係を発達させ始める。かくしてこれらに成功した集団のみが成長できるのだ。
 植物を栽培し、動物を飼いならすようになってから、人類の文明が急速に発展したのはそのためだ。宗教と<正義心>は、完新世以前、何万年にもわたって遺伝的かつ文化的に共進化を遂げてきた。そして農耕の誕生によって人類が新たな好機と挑戦に直面するようになると、これら両タイプの進化は共に加速する。こうして協力を促進する神々の要請に個々のメンバーが応じ始めた集団のみが、新たな挑戦を受けて立ち、その果実を収穫できるようになったのだ。
 
 
 
 
 
第12章 もっと建設的な議論ができないものか? 422
政治的多様性について 
遺伝子から道徳マトリックスへ 
426 「社会の秩序、およびその達成方法に関する一連の信念」―これは、イデオロギーという言葉の単純な定義の一つだ。また、イデオロギーに関する最も基本的な問いに「現行の秩序を維持するのか、それとも変えるのか?」というものがある。
 
427 (養子縁組のため)互いに異なる過程で育てられた一卵性双生児は、それでも性格的にきわめて類似するのに対し、(養子縁組のため)一緒に育てられた血縁関係のない二人の子供は、互いに、また養親に似ることはまれで、実の両親に似るケースが多いことが分かった。遺伝子は性格のあらゆる側面に、影響を及ぼすのである。
 
  ステップ1――遺伝子が脳を形作る
429 1万3000人のオーストラリア人を対象にした最近のDNA分析によって、リベラルと保守主義者の間で異なるいくつかの遺伝子が見つかっている。これらの多くは神経伝達物質、とりわけグルタミン酸セロトニンの機能に関わるものだが、これらの物質は、脅威や恐怖に対する脳の反応に関与している。この発見は次のようなことを示す多くの研究とも一致する。保守主義者は、細菌や汚染による脅威、あるいは突発的なホワイトノイズ〔すべての周波数で同じ強度となるノイズ〕の発生といった低レベルの脅威に対してすら、リベラルより強い反応を示す。また、神経伝達物質ドーパミンの受容体に関する遺伝子の研究もある。ドーパミンは、リベラルとの相関関係の高さがはっきりと示されている性格特徴の一つ、新たな経験や感覚を求める意欲に結びつくとされてきたルネサンス期の哲学者ミシェル・ド・モンテーニュが言うとおり、「価値があると私が考える唯一のものは(・・・)変化と、多様性の享受である」。
 一つの遺伝子の効果は小さなものだが、これらの発見が重要なのは、遺伝子から政治へと至る一種の経路がそれによって示されるからだ。遺伝子は(集合的に)、人によって、脅威により強く(あるいは弱く)反応し、目新しいもの、変化、初めての経験にさらされると快をより少なく(あるいは多く)感じる脳を生む。これらは保守主義者とリベラルを分かつ、二つの主要な性格要因であることが一貫して示されてきた。政治心理学者のジョン・ジョストは、それ以外のいくつかの特徴をあげているが、それらのほとんどは、脅威に対する感受性か(たとえば保守主義者は死を思い起こさせるものにより強く反応する)、新しい経験に対する開放性か(たとえばリベラルは秩序、組織、閉鎖性の必要を余り感じていない)のいずれかに、概念的に関連する。
 
  ステップ2――さまざまな特徴が子どもを異なる経路へと導く
  ステップ3――人は自分の人生の物語をつむぎ出す 
440 リベラルの聴衆を前に<忠誠><権威><神聖>という「人々を結びつける」三つの基盤について話したとき、大多数はよくわからないといった顔をしたばかりか、これらを不道徳として積極的に否定する人もいた。彼らの言によれば、集団への忠誠は道徳の範囲を狭め、人種差別と排除の基盤になるそうだ。権威は抑圧になるらしい。神聖なものは女性を抑圧し、同性愛者に対する嫌悪感を正当化する宗教的なおまじないに過ぎないとの事だ
 
441 結果は明白で、一貫していた。中道と保守主義者は、リベラルの不利をしようが保守主義者の振りをしようが、予測は的確だった。それに比べてリベラル、とりわけ「非常にリベラル」を自称する人は、予測の正確さが落ちた。最も大きな予測ちがいは、リベラルが保守主義者のつもりで<ケア>と<公正>基盤に関する質問に答えたときに生じた。「最悪の行為の一つは無防備な動物を傷つけることである」「正義は最も社会に必要なものである」などの質問項目に対して、リベラルは保守主義者なら反対するだろうと予測した。おもに<ケア>と(平等としての)<公正>の二つの基盤のみで構成される道徳マトリックスに依存していたなら、レーガンの物語を聞いて他にどう予測できようか?「レーガンは、麻薬常習者、貧民、同性愛者には何の関心も持っていない。それより悪と戦うことや、性生活について国民に説教することに興味があるようだ」と考えるのではないだろうか。
 リベラルは、「レーガンは<忠誠><権威><神聖>基盤が持つポジティブな価値を追求している」という点に気づかないと、「共和党支持者は<ケア>と<公正>基盤には全く価値を認めていない」と結論したくなるであろう
 
リベラルの盲点――道徳資本 
444 社会的、政治的な議論において、保守主義をオーソドキシーから区別するものは、前者によるリベラルや進歩主義に対する批判が、理性の行使に基づいた人間の幸福の追求という、啓蒙主義の基盤に依拠している点だ。
 
 それまでずっとリベラルを通してきた私は「保守主義=オーソドキシー=宗教=信仰=科学の否定」という安直な等式を信じ込んでいた。だから無神論の立場をとる科学者として、リベラルであることが義務だと思っていたのだ。ところがミューラーは、最善の社会を築き、個別の状況を考慮したうえで最大幸福を追求することが、現代の保守主義の真の目的だと主張していた。読み進めるうちに「そんなことがあり得るのか?」「社会科学という土俵の上で、リベラリズムに対抗できる保守主義が存在し得るのか?」「保守主義者は、健全で健康な社会を築くためのより良いレシピを持っているのか?」などの疑問が次々に浮かんできた。
 さらに読み続けた。ミューラーは、人間の本性と、制度に関する保守主義の中心的な考え方を検討していた。人間は本来不完全で、すべての規制や責任を取り去ると不正な行為に走ると保守主義者は考えている(第4章で取り上げたグラウコン、テトロック、アリエリーを思い出されたい)。私たちの志向は誤りやすく、自信過剰に陥りやすい。だから直観や経験を無視し、純粋な理性のみに基づいて理論を組み立てるのは危険だ(第2章のヒューム、第6章のシステム化に関するバロン=コーエンの見解を参照)。社会的事実としてもろもろの制度が徐々に確立され、私たちはそれらを尊重し、時に神聖視さえする。だが、権威をはぎ取られ、自分たちの利益に資する恣意的な装置として見なされはじめると、制度はその効力を失い、アノミーや社会的な混乱が増大する(第8章と第11章で紹介したデュルケームの見解を参照)。
 
アノミー:社会の規範が弛緩・崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態を示す言葉。フランスの社会学エミール・デュルケーム社会学的概念として最初に用いたことで知られる。
 
446 社会関係資本とは、個人間の社会的な絆、相互依存の規範、それらに由来する信用など、経済学者が大きく見落としていたタイプの資本を指す。他の条件が等しければ、社会関係資本をより多く持つ企業は、社員同士の信頼関係が希薄な、結束力の弱い競合他社に競り勝つだろう(人間はマルチレベル選択によって互いに協力するよう形作られている点を考えても、このことは理解できる)。実際、社会関係資本に関する議論で時に持ち出される例は、前章で紹介した超正統派ユダヤ教徒のダイヤモンド商人だ。固く結束したこの民族グループが、最も効率的なドク時の市場を維持してこられたのは、県粉相互信頼によって取引コストとモニタリングコストを低く抑えられるからである(どのような取引でも間接諸経費がそれほどかからない)。
 
447 人は生まれつき善良で、制限や仕切りをなくせば必ずや反映すると信じるなら、その答えは「イエス」であろう。しかし保守主義者は一般に、人間の本性に関してかなり違う見解を持つ。つまり彼らは、人々が正しく行動し、協力し合い、繁栄するには、法、公共機関、慣習、伝統、国家、宗教など組織や制度による抑制が必要だと考えている。この「抑制が必要」とする見方を取る人々は、これらの「心の外部にある」調整装置の健全性や完全性に関心を抱いている。それがなければ、人々は騙し合いをはじめ、利己的に振舞うようになるので、社会関係資本は急速に失われていくと考えるのだ。
 
448 親族関係の境界を超えて拡大していく道徳共同体の奇跡を理解するためには、人々や人間関係だけではなく、それらの関係を包摂し、人々をより道徳的(彼ら自身がそれをどう定義しようが)に振舞わせる環境全体も考慮に入れなければならない。 道徳共同体を支えるには、「心の外部にある」調整装置がどうしても必要なのだ。
 たとえば、小さな町や島に住んでいれば、通常は自転車にカギをかけておく必要はない。だが、同じ国でも大都市に住んでいると、カギをかけておいても部品を盗まれるかもしれない。小さく閉鎖的で、かつ道徳的に均質な環境は、共同体の道徳資本を増加させる条件の一つである。しかしそれは必ずしも、小さな町や島が快適に住める場所であることを意味するわけではない。多くの人々にとって、多様性と喧騒に満ちた大都会は、より創造的で魅力的な場所でもある。それは一種の交換条件なのだ。多様性と創造性のために道徳資本をいくらかでも犠牲にするかどうかは、経験への開放性、脅威への耐性の度合いなど、その人の性格に関する脳の設定にも依存する。通常大都市には、田舎よりもはるかに多くのリベラルが住む理由の一つも、ここにある。
 
450 ここで、道徳資本は必ずしも無条件によきものとは限らない、という点を指摘しておく。道徳資本はフリーライダーの抑制を可能にするが、機会均等など、他の形態の公正さを無条件にもたらすものではない。また、高度な道徳資本は共同体の効率的な運営を手助ける一方、それを持つ共同体は、まさにその効率性を利用して他の共同体に危害を及ぼし得る。さらに言えば、独裁的、あるいは全体主義的な国家でさえ、大多数の国民に既存の道徳マトリックスを真に受け入れさせられれば、高度な道徳資本を獲得し得る
 とはいえ、社会や組織を変革する際、その変化が道徳資本にもたらす影響を考慮に入れなければ、やがて様々な問題が生じるのは明らかだ。これこそまさに、リベラルの抱える根本的な盲点だと私は考えている。これは、リベラルの改革がたびたび裏目に出る理由を、さらには共産主義者の革命が独裁政治に陥りやすい理由を説明する。また、思うにそれは、自由と機会均等の実現に大きな役割を果たしてきたリベラリズムが、統治の哲学としては不十分な理由を説明する。
 つまりリベラリズムは、時に行きすぎてあまりにも性急に多くの物事を変えようとし、気づかぬうちに道徳資本の蓄えを食いつぶしてしまうのだ。それに対し、保守主義者は道徳資本の維持には長けているが、ある種の犠牲者の存在に気づかず、大企業や権力者による搾取に歯止めをかけようとしない。また、制度は時の経過に連れて更新する必要があることに気づかない場合が多い
 
一つの陰と二つの陽 
451 ジョン・スチュアート・ミルは、リベラルと保守主義について「健全な政治を行うためには、秩序や安全性を標榜する政党と、進歩や革新を解く政党の両方が必要だ」と述べている。
 
 長い歴史を通じて戦わされてきたすべての議論において、どちらの側にも、正しい面もあれば間違っている面もあることは明らかだ。社会的な結束は必須の要素であり、人類の歴史の中で、議論のみによって人々に結束を強いる試みはことごとく失敗してきた。いかなる共同体も、一方では厳しすぎる規律や、伝統に対する過剰な尊重によって生じる硬直化の可能性、他方では相互協力を阻害する利己主義や個人主義の発達によって起こる社会の解体や、侵略主義的な他国への服従の可能性という二つの相反する危険にさらされている。
 
陰――リベラルの知恵 
  ポイント1――政府は企業という超個体を抑制可能であり、実際にそうすべきである
  ポイント2――規制によって解決できる問題もある
459 有鉛ガソリンの精製禁止という一つの規制によって、無数の生命が救われ、IQ、経済、道徳資本のすべてがいっぺんに改善されたのだから。また、神経系に悪影響を及ぼす環境汚染物質は何も鉛だけではない。幼い子どもがPSB(ポリ塩化ビフェニル)、有機リン(殺虫剤に含まれていることがある)、メチル水銀(石炭燃焼時の副産物)にさらされると、IQが下がり、ADHD(注意欠陥・多動性障害)を引き起こす危険性が高まる。
 

 
陽1――リバタリアンの知恵 
460 リバタリアンは、時に社会的な面ではリベラルで(セックスや麻薬などのプライベートな領域に関しては個人の自由を強調する)、経済的な面においては保守的(自由市場を擁護する)と言われているが、そんな状況からも、アメリカでのこれらの用語の使用が、いかに混乱しているかがわかる。
 
462 ウィル・ウィルキンソン
 「リバタリアンとは、基本的に市場を愛し、弱者への同情を大袈裟に表現しないリベラルのことだ」
 
  カウンターポイント1――市場は奇跡だ
464 医療制度について学べば学ぶほど、彼は、うまく機能する市場の存在なしには、商品やサービスの提供が極めて非効率になり得ることを実感した。
 2009年、ゴールドヒルは『アトランティック』誌に「アメリカの医療はいかに私の父を殺したか」と題した挑発的な記事を寄稿する。彼の指摘の一つは、保険を使って日用品を購入することの愚に関するものである。通常私たちは、大きな災害に備えて保険を購入する。リスクを分散させるために、保険という溜め(プール)を他の人々と一緒に形成するのだ。そして保険金を受け取らねばならない事態に遭遇しないことを願う。それに対し、日用品に関しては、安価で高品質な商品を探して自前で払う。ガソリンを購入するために自動車保険を使ったりはしない。
 

 
陽2――社会保守主義の知恵 
468 保守主義のポジティブな側面は、より広い道徳マトリックスを持つがゆえに、リベラルの目には入らない、道徳資本に対する脅威を検知できることだ。彼らはすべての物事に反対するわけではない(たとえばインターネットには反対していない)。しかし、道徳の枠組みを形作る(家族などの)制度や伝統が破壊されていると思ったときには、激しく変化に抵抗する。制度や伝統の保護は、彼らにとって最も神聖な価値を帯びた営為なのだ。
 
  カウンターポイント2――コロニーの破壊ではミツバチを手助けできない
472 パットナムの調査では、社会関係資本は、集団間の、すなわち異なる価値観とアイデンティティを持つ人々のあいだの信用に関する橋渡し型資本と、集団内の信用に関する結合型資本の2タイプに区分できた。彼は、多様性がこれら両タイプの社会関係資本を低下させることを発見し、次のように結論する。
 
 多様性は、内集団/外集団の分裂ではなく、アノミーや社会的な孤立を引き起こすように思われる。わかりやすく言うと、多様な人種が集まる環境のもとで暮らす人々は「頑なになる」、つまりカメのように引きこもってしまうらしい
 
 パットナムは(アノミーなどの)デュルケームの着想を援用して、なぜ多様性が人々を内向き喝利己主義的にし、地域社会への貢献に対する人々の関心をそぐのかを説明する。パットナムがカメのようなひきこもりと呼ぶ態度は、私の言うミツバチ的な結束とは全く逆の現象だ。
 リベラルは、抑制と排除の犠牲者を支援する。人種差別、あるいは最近では性的思考に基づく差別など、恣意的に築かれた障害を打破するために奮闘する。しかし犠牲者を救おうとする彼らの熱意は、<忠誠><権威><神聖>基盤への依存度の低さゆえに、集団、伝統、制度、道徳資本を弱体化させる結果に至っているケースが多々ある
 
474 このように考えてみると、あたかもリベラルは、たとえコロニーを破壊することになっても、その構成メンバーたるミツバチ(実際に助けを必要としている)を救おうとしているかに見える。そのような「改革」は、結局社会全体の福祉を損ない、リベラルが助けようと思っていた犠牲者に、さらなる害を及ぼすことすらある。
 
 

 
 
より良い政治のために 
まとめ 
478 イデオロギーは無作為に選択されるのではない。人は、自分が遭遇したすべての考え方を何でもかんでも取り込むのではない。新しさ、変化、多様性に特別な喜びを感じるが、脅威の兆候に鈍感な脳の形成を導く遺伝子を持つ人は、リベラルになる素質を備えている(とはいえ、そう運命づけられているわけではない)。そして、左派の政治運動が語る大きな物語進歩主義者の物語など)にやがて共鳴する下地となる、「適応性格」や「人生の物語」を築きはじめる。それとは反対の遺伝子を持つ人は、同じ理由によって右派の大きな物語レーガンの物語など)に共鳴する資質を備えている。
 ひとたび何らかの政治グループに参加すると、人はそのグループの道徳マトリックスに深くかかわり始め、グループの大きな物語の正しさを再確認させるできごとに、至る所で出会うようになる。そして、自グループの道徳マトリックスの外側から議論を仕掛けられても、自分のまちがいを認めることはまずない。また、リベラルに関して次のことを指摘した。リベラルは<忠誠><権威><神聖>の三つの基盤がなぜ道徳と関係し得るのかを理解していないことが多く、したがって彼らが保守主義者を理解するのは、その逆のケースより難しい。とりわけ彼らは、道徳共同体の維持に必要な資源である道徳資本の意義を理解しようとしない
 リベラルと保守主義は陰と陽の関係にある。ジョン・スチュアート・ミルが言う通り、両者とも「健全な政治に必要な要素」だ。リベラルはケアの専門家であり、既存の社会システムの歪みの故に生まれた犠牲者を巧みに見分け、状況の改善を求めてたゆまず私たちに働きかける。ロバート・F・ケネディはかつて次のように言った。「人は現状を見て、なぜこうなのかと疑問に思う。私はまだ実現していないことを夢見て、できないはずはなかろうと考える」と。この道徳マトリックスは、健全な社会にとって何よりも大切な次の二点の理解へとリベラルを導く。
 
 ①政府は企業という超個体を抑制する能力を持つ。そして実際に企業の暴走に歯止めをかけるべきである。
 ②大きな問題には、規制によって解決できるものもある。
 
 その一方、(自由を神聖視する)リバタリアンと(特定の制度や伝統を神聖視する)社会保守主義者は、20世紀前半以来欧米で大きな影響力を持ってきたリベラルの改革運動に対し、釣り合いを取る役割を果たしている。また、(少なくとも外部性の押し付けなどの問題が解決されれば)市場は奇跡的な仕組みであると主張するリバタリアンと、コロニ―の破壊によってミツバチを手助けすることはできないと考える社会保守主義者は正しい。
 そして最後に、アメリカ政治におけるマニ教的な二極化の昂進は、宣誓書へのサインや、善人たろうとする決意だけでは解決できないと指摘した。選挙方法や、政治家が議論するための制度や環境を変えられれば、政治はより秩序正しいものになるだろう。
 
 道徳は、人々を結びつけると同時に盲目にする。それは、自陣営があらゆる戦いに勝利することに世界の運命がかかっているかのごとく争うイデオロギー集団に、私たちを結びつけてしまう。そして、どの集団も、とても重要なことを言わんとしている善き人々によって構成されるという事実を、私たちの目から覆い隠してしまうのだ。
 
 
 
 
 
結論 481
 
 
 
謝辞 [487-491]
訳者あとがき(二〇一四年一月 高橋洋) [492-497]
参考文献 [498-531]
原注 [532-597]
索引 [598-613]