読んだ。 #スピノザ 読む人の肖像 #國分功一郎

読んだ。 #スピノザ 読む人の肖像 #國分功一郎
 

スピノザの著書、『デカルトの哲学原理』、 『知性改善論』、『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』、 『エチカ』『神学・政治論』、『国家論』 『ヘブライ語文法綱要』と読み進めながら、それらの本に何が書かれているのか、どのように意味を取ればよいのか、というようなことが説明されている本。

 

現在の自分には難しいところもあったが、なんとか最後まで辿り着いた。
人間の「意識」についての説明を細かく丁寧に積み上げていき、最終的には言葉では言い表せない、体験することでしか知ることが出来ない自由の境地(意識のあり方)の説明にまで辿り着いた。
自分の意識の認識に当てはめながら読んでいると、自分の意識が変化していくような感じもあり、密教ニューエイジ系のメソッドのような感じもあった。デカルトの「我思う故に我あり」じゃない方の意識のあり方の行方。何の話をしているのかわからなくなることもあると思うが、わかる人にはとてもおもしろい話だと思う。読めてよかった。

 
 
【目次】
凡例

序章 哲学者の嗅覚
外交官・政治家ライプニッツ

教会合同計画
当時のヨーロッパの政治状態
届かなかった建白書
ライプニッツの政治的センス
パリにいた学識豊かな男
スピノザの政治的嗅覚
哲学者とは・・・
12 哲学者とはいかなる人物であろうか。哲学者とは、部屋に閉じこもって真理の追究に勤しむだけの世間知らずではない。真理の追究が権力による恐るべき迫害をひき起こすこと、人々が必ずしも真理が追究されるのを望んでいないこと、そうしたことを十分に承知した上で真理の追究に取り組むのが哲学者である。
 
13 スピノザは政治的嗅覚に優れた哲学者であった。彼は当局が『上』から行使する権力にも、民衆が隷属を望みつつ無知に基づいて行使する『下』からの権力にも敏感だった。だが、世間に対してかくのごとき鋭い警戒心を常に働かせつつも、世捨て人となることはなかった。自らを迫害する社会を呪詛して怨恨の中に生きることもなかった。それどころかスピノザは、世の中の人々がもっと自由に生きることを願って、哲学史に燦然と輝く『エチカ』という書物を完成させた。
 その姿勢は生活においても貫かれていた。スピノザは決して富によって誘惑されることはなかったが、常に身ぎれいで、外出時にはいつも整った服装をしていた。身なりを気にしないことは学問に熱中している証拠でも何でもない。それどころか世間に対する無関心を装い、そのことを周囲に強く主張する自己顕示欲のあらわれに過ぎない。学者風情がわざとだらしのない身なりをするのは、知恵の少しも認められない野卑な精神のしるしであって、それでは学問も腐敗を生むだけだと、スピノザは常日頃から述べていたようである。
 
 
 
 
第一章 読む人としての哲学者――『デカルトの哲学原理』
1 スピノザの三つの名前
複数の名
アムステルダムユダヤ・コミュニティ
破門
ラテン語との出会い
哲学へと向かう道
デカルト哲学との出会い
29 スピノザがちょうど10代だった1640年代にはデカルトの評判は高まる一方だった。
 このような最新の思想がスピノザの知的関心の対象とならないはずがなかった。ラテン語を身につけた彼はデカルトの書物をむさぼるように読み、それを理解し、そしてまたそれに対する批判的見解を組み立てていったに違いない。スピノザがはじめて刊行した書物は、彼が31歳の時、1663年に出版したデカルトの哲学原理』である。スピノザは何よりもまず、デカルト哲学の驚異的な解説者――そしてまた批判者――としてその名声を確立することになる。ラテン語こそは、スピノザに哲学への道を開いた言語であった。
 
 
2 スピノザ哲学の「源流」
スピノザの著作
1660 - 『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』Korte Verhandeling van God, de mensch en deszelvs welstand
1662 - 『知性改善論』Tractatus de Intellectus Emendatione
1663 - 『デカルトの哲学原理』Principia philosophiae cartesianae (スピノザが生前に実名で出版した唯一の書物)
1663 - 『形而上学的思想』Cogitata metaphysica (『デカルトの哲学原理』の末尾についている付録)
1670 - 『神学・政治論』Tractatus Theologico-Politicus (筆禍を避けるため匿名で、さらには発行地まで偽っての出版だった)
1675~1676 - 『国家論』Tractatus (遺作)
1677 - 『エチカ』(『倫理学』)Ethica
1677 - 『ヘブライ語文法綱要』Compendium grammatices linguae hebraeae(いつ書かれたものなのか全く不明。未完。『国家論』の執筆以前に『綱要』の執筆が中断されていた)
 
31 人はある思想に出会った時、その由来を求めずにはいられない。だから、あるものはユダヤ哲学にその源流を求め、あるものはデカルト哲学に、あるものはスコラ哲学にその源流を求め、スピノザ哲学がいったい何の影響下にあるのかを探ろうとしてきた。我々はいつも哲学者の思想を「影響」という不確かな語で考えがちである。だが真の哲学者の思想というのはどこかに還元できるものではない。
 スピノザには、自らが受け取ったいかなる知識をも批判的に検討し、そこに矛盾を見出すやその矛盾を手掛かりにして整合的な解釈や考え方を作り出すことのできる知性が備わっていた
 
32 二〇世紀フランスの哲学者ジャック・デリダの言葉をややラフに用いて言えば、スピノザは常に、既存の思想体系を「脱構築」することで自らの思想を組み立てていたのだと言えよう。
 
読む人としてのスピノザ
デカルトの哲学原理』とはどのような書物か

 
3 デカルトの哲学原理』第一部――方法の問題
デカルトの新しい哲学
コギト命題の書き換え
40 その矛盾とは次のようなものだ。「私は考える、故に私は存在する」は第一真理であって、これはいかなる命題も前提にしていないはずである。だがよく見てみると、結論を導くための「ゆえに」という接続しを有し、それによって二つの節――「私は考える」と「私は存在する」――を接続するこの命題は、ある別の命題を前提にしていることがわかる。たとえば、「考えるためには存在しなければならない」とか「考えるものは存在している」といった前提である。
 スピノザはこのことを、大前提の隠された三段論法という言い方で説明している。三段論法とは、「全ての人間は死ぬ」(大前提)、「ところでソクラテスは人間である」(小前提)、「故にソクラテスは死ぬ」(結論) )のような論法のことである。スピノザはつまり、コギト命題は実際には、「考えるためには存在しなければならない」(大前提)、「ところで私は考えている」(小前提) 、「故に私は存在している」 (結論)という三段論法であるのに、最初の大前提が省略されているのではないかと指摘しているのである。もしそうだとしたら大変なことになる。この大前提がコギト命題に先行していることになり、コギト命題は全ての認識の基礎である第一真理ではなくなる。デカルト哲学は崩壊してしまう。
 
説得の問題
42 「私は考える、故に私は存在する」(Cogito, ergo sum)という命題は、「私は考えつつ存在する」(Ego sum cogitans)という命題と異議を同じくする単一命題なのである
 ここでスピノザは、有名なコギト命題の大胆な書き換えを提案している。「故に ergo」の接続詞を持つ限り、コギト命題は、大前提の隠された三段論法と区別できない――これがこの書き換えの出発点である。二つの節からなる限り、この命題は大前提となる別の命題を必要としてしまう。だからこれを単一の節からなる命題にしなければならない。そうしてスピノザは「私は考えつつ存在する」という単一命題を得る。この命題によってコギト命題は先の難点からは救われることになる。書き直されたコギト命題には、大前提の隠された三段論法と解釈される余地はない。
 だが、この書き換えは単に命題を危機から救い出しているだけではないように思われる。新しく定式化されたコギト命題は元の命題とはその方向を大きく違えてしまっているからである。ここでコギト命題は、単一命題になるとともに、「・・・だから存在している」という結論を導く証明する命題から、「・・・の状態で存在している」と描写する命題へとその役割を変更されている。ということは、つまり、そのようにコギト命題の役割を変更しようとも、デカルト哲学の本質には抵触しないとスピノザは考えていたということである。このようなコギト命題でもデカルト哲学を基礎づけられるはずだとスピノザは考えていたのだった。
 
思想以前にある態度
44 デカルトはどうしても疑ってしまう自分をなんとかして説得し、確実と思えるものを信じ続けながら真理の研究を行うための出発点としてコギト命題を必要としたのだ。
 「私は考える、故に存在する」の命題はこの要請に答えるものとして考案されている。だからこそ、それは証明する形をとっている。デカルトは自分に対して一つの真理を証明し、それによって懐疑に取りつかれた自分を説得しようとしている。
 それに対し、「私は考えつつ存在する」はどうだろうか。それは事実らしい何かを描写しているだけである。そこには、疑っている自分を、あるいは相手を説き伏せる力は見出せない。実際、スピノザは本論の中で、各々の人は自分が考えながら存在していることを確実に知覚しているのであって、そのことは誰も疑い得ないと述べている(第一部定理四備考)。これは言い換えれば、そのようなことを疑う人物はスピノザの議論の射程に入っていないということである。スピノザのこの態度は一貫している。『知性改善論』では何もかもをただ疑うためだけ疑う「懐疑論者」が言及されているのだが、そこでは、「このような人間とは、学問について語ることができない」とすら述べられているからだ(第四八節)。
 しかしデカルトにとっては、懐疑論者のようにどうしても疑ってしまう自分を説き伏せることこそが重要であった。スピノザデカルトのこの訴えを考慮しない。なぜならば、哲学の命題としてみたとき、コギト命題は確かに大前提の隠された三段論法と解釈されても仕方がないという根本的な命題を抱えているからである。だからスピノザデカルトの哲学体系を体系として整序するべく、コギト命題を書き換える。スピノザからすれば、コギト命題の説得機能はこの哲学的体系にとっての不純物に他ならないのである
 
第一部が下地としたテキスト
二つの方法
48 デカルトはこれに答える中で、証明の方法は二つあると述べる。分析的方法総合的方法である。まずはイメージをつかんでいただくために大雑把な説明をしておくと、結果を分析あるいは分解して原因に至るのが分析的方法である。それに対し、総合的方法では、原因あるいは原理を提示したうえで、そこに諸々の結果を組み合わせて証明が行われていく。つまり、結果から原因に遡るのが分析的方法であり、原因から結果へと前進するのが総合的方法である
 
「諸根拠」が選択されたことの意味
49 デカルトによれば、我々は原因についての認識を手にするよりも前に、まず結果についての認識を有している。私は、私が存在していることの原因を知るよりも前に、自分が考えるものとして存在していることを知るからである。したがって、原因を明晰判明に認識するためには、まず、我々がその中にいるところの結果を明晰判明に認識しなければならないことになる。だからこそ、デカルトは結果の分析を最優先し、自らの哲学を分析的方法で提示した。ここでは認識は結果から原因へと遡っている。
 
「私は存在する」を巡る四つの定理
51 定理一 我々は自分が存在することを知らない間はどんなものについても絶対に確実ではあり得ない。
定理二 「私は存在する」ということはそれ自体で知られなければならない。
定理三 「私は存在する」ということは、私が身体から成るものである限りにおいては第一に認識されることでもないし、またそれ自体で認識されることでもない。
定理四 「私は存在する」ということは、我々が思惟するものである限りにおいてのみ第一に認識されることである。
 
52 四つはスピノザがまったく独自に定式化して付加したものである。そして、これらの定理のその後の利用法もまた、デカルト哲学を首尾一貫したものにしようとするスピノザ独自の努力を示している。
 
分析的方法の定義
総合的方法の定義
幾何学的様式
57 スピノザ総合的方法こそが哲学の真の方法であると考えた。それはすなわち、総合的方法は真理の発見には向いておらず、発見された真理を提示するのに向いているに過ぎないと考えたデカルトに真っ向から反対することを意味する。スピノザによれば、総合的方法こそ、真理を発見するための方法である。
 デカルトは総合的方法に従うと言って、「諸根拠」を幾何学的様式 mos geometricus」によって書いた。これは古代ギリシアにおいてユークリッド幾何学言論を著すために用いた様式で、定義、公理、定理、証明を短い命題の形で述べていく論述の仕方である。スピノザもまた、この様式を用いて主著『エチカ』を著したのだった。
 スピノザの挑戦的意志は明らかであろう。スピノザは結果の分析からでは原因の真の認識は得られないのであって、まずは原因を認識し、そこから結果へと進まねばならないと考えている。すなわち総合的方法こそが真の哲学的方法である、と。そしてこの方法の有効性は決して幾何学には留まらない――スピノザはそう確信していた。だからこそ『エチカ』は、総合的方法のもと、幾何学的様式で書かれた。
 
準備の問題
58 デカルトは総合的方法の有効性は認めているが、それは現実の存在を扱う場合には無理だと考えたのである。それは言い換えれば、現実の存在の場合、結果から出発しない限り、原因の真の認識にはたどり着けないとデカルトが考えていたことを意味する。スピノザはそれにどう答えるのだろうか。
 
神の存在証明
60 
定理五 神の存在は単に神の本性を考察するだけで認識される。
定理六 神の存在は単に神の観念が我々のうちにあるということだけからア・ポステリオリに証明される。
定理七 神の存在はまた神の観念を有するところの我々自身が存在するということからも証明される。
 
61 神の存在を根拠とする真理の基準の保証というこの考え方は、既に当時から批判を受けていた。それは次のようなものである。明晰判明に把握されるものが真であると言いうるのは、神の存在が証明された後である。だが、神の存在を証明するためには、我々が明晰判明に把握したものはすべて真であることが確実でないといけない。だからここには循環があるのではないかというのである。これはいわゆる「デカルト的循環」と呼ばれる問題で、メルセンヌ神学者による「第二反論」と、哲学者アントワーヌ・アルノーによる「第四反論」でその様な指摘がなされている。
 デカルトは、明晰判明という真理の基準に神の存在という支えが必要になるのは、あくまでも記憶に基づいて行われる長い推論の場合であるとして、ここには循環はないと反論した。その場で直接に明証性が把握されるコギトの場合と、記憶と早期に基づかざるを得ない長い推論の場合とでは事情が違うというわけであるデカルトの反証が納得のいくものであるかどうかは判断が分かれるだろうが、いずれにせよ、デカルトが、どうしても疑いを抱いてしまう自分にどれほど悩まされていたのかがここから推し量れよう。デカルトは自らの疑いを抑え込むために、「これでよいのだ」「この推論のやり方で私は間違っていない」と自らを説得するための神を必要としたのである。
 
神の観念の形成と神の存在の証明
63 曰く、我々は神の存在を知らないからいかなるものについても確実であり得ないのではなくて、神の何たるかを知らないが故にいかなるものについても確実ではあり得ないのである
 
64 それに対してスピノザは、神の観念の形成神の存在の証明という二つの課題を区別したうえで、まずはしっかりと神の観念を形成するべきであって、それさえうまくいけば、神の存在は分けなく証明されると指摘しているのであるスピノザにはデカルトの実存的不安の訴えが届かないかのようである。その様な不安によって哲学体系が汚染されることを何としてでも避けようとしているのだ。
 
三つの証明の順序
65 デカルトが残した二つのア・ポステリオリな証明の内容をごく簡単に見ておこう。一つ目は、神の観念が我々の内にあることから神の存在を証明するものである。神の観念は実在性を含んでいるが、この実在性は我々を起源にするものとは考えられないほどの高い実在性である。したがって、その様な実在性をこの観念に付与した原因として神が存在していると考えるほかない。二つ目は、神が存在しないとするなら私は存在しうるかという観念からなされる証明である。私には自分を維持し続ける力はないから、何か他の者によって維持されているはずである。ところで、わたしという実体を維持できる力をもった者は、自らに完全性という属性を与えることができるはずだろう。つまり、神という完全性を備えた存在があって、それが私を維持しているのである。
 これらの証明が納得できるものかどうかは置いておく。
 
デカルトを読むスピノザの構え
66 スピノザア・プリオリな証明こそが主要な証明であるべきだと考えた。それは神の観念の形成から神の存在へという然るべき流れを最も尊重する証明だからである。デカルトの体系では、神の存在証明の役割は消極的なものに留まっており、それ故、二つの課題が十分に区別されることもなかった。二つの課題を十分に区別すべきと主張するスピノザは、したがって、この消極性をも批判することになろう。
 
4 『デカルトの哲学原理』第二部――スピノザと物理学
スピノザ物理学とスピノザ哲学
72 スピノザは、自然が必然的な法則に基づいて作用していると考えた。つまりスピノザは偶然を否定している。これは第一には、人間には偶然に思えるものでも、実はその背後には必然性があるという意味であり、第二には、そもそも自然には偶然は存在しないという意味である。スピノザはもっぱら第一の意味で偶然を否定している。「あるものが偶然と呼ばれるのは、我々の認識の欠陥に関連してのみであって、それ以外のいかなる理由によるものでもない」(『エチカ』第一部定理三三備考一)。
 これを認識論的な視点からの偶然の否定と呼ぶならば、第二の意味は存在論的な視点からの偶然の否定と呼ぶことができよう。後者は『エチカ』で明示的に述べられているわけではないが、先に引用した真空の否定からそれに近い考え方を導き出すことができるように思われる。自然を必然性が貫いているというのは、あらゆるものが最終的には因果関係を通じてつながっていることを意味するしたがって、仮に因果関係を通じてつながっていない複数の系を考えることができるならば、その系の間で連絡が生じた時、そこに偶然が生まれると考えることもできるだろう
 これは偶然についての一つの古典的な概念であり、中世の神学者トマス・アクィナス(1225~74年)や古代ローマ末期の哲学者ボエティウス(480~524年もしくは525年)が偶然をそのような意味で、すなわち、お互いに独立した因果系列の出会いとして捉えている。この意味では偶然が可能であるためには、その間で全く連絡の生じえない複数の因果系列が存在できなくてはならない。真空の概念はそれを可能にする。あるものとあるものが真空で隔たれているとは、定義上、その間に何らの連絡関係もないことを意味するからである。したがって、仮に偶然なるものをこの意味で捉えるならば、真空を否定するスピノザの物理学と、必然性を肯定するスピノザの哲学とは一貫していると考えることができる。
 
 
 
第二章 準備の問題――『知性改善論』『短論文
1 スピノザの二つの技術
闇の期間
素描画家として
レンズ職人として
もしかしたらフェルメールが・・・
82 もちろんこれは憶測に過ぎない。だが確かに、かつて浅田彰が詩情ゆたかに記したように、スピノザの哲学はレンブラントの闇の絵画よりも、フェルメールの光の絵画に近い。人間の闇の部分から秩序を生成させようとしたホッブスの哲学がレンブラントに対応するとすれば、スピノザの哲学の中には、レンズを通じて光そのものを画布に定着させようとしたフェルメールの絵画のように、「光がある。/光があって闇はない」
 
 
2 『知性改善論』と方法
初期の著作の執筆年代の問題
『知性改善論』と『方法序説
85 このような自伝的要素を含んでいるという意味で、『知性改善論』はデカルトの『方法序説』に大変よく似ている。後者も一種の自伝である。真なるものの探究への決意を語るところも共通しているし、その決意のもとで探究に熱心に従事するあまり日常生活がおろそかになってしまうことを避けるべく、日常の規律を――スピノザが三つの「生活規則」(第一七節)を、デカルトが四つの「当座の準則」(第三部)を――立てるところも同じだ。特に、決意という共通点は興味深い。ミシェル・フーコーデカルトの『方法序説』とスピノザの『知性改善論』がともに「倫理的決断」の中に身をおいていた点に注目し、この決断は狂気から身を引き剥がすために必要であったと述べている。近代初期においては理性はまだ確たる地位を獲得しておらず、決断によって支えなければすぐさまに崩れ去ってしまうほど弱々しいものだったというのである。両著作はかつての理性の地位を教えてくれる貴重な証言でもあるというわけだ。
 
失敗から始まる哲学書
準備の問題
方法の三つの形象(1)――道具
方法の三つの形象(2)――標識
91 「明晰判明」(観念の外側に置かれた標識)
 
公共的ではあり得ない真理
94 言い換えれば、自分が何かを知っている時、隣にいる人に、「自分は本当にこれを知っているのか」と尋ねても答えを得ることはできないし、またその人に、「自分はそれを確実に知っているのだ」と証明もできないということである。真理を公共的に共有することはできない。真理を公共的に示すこともできない。真理とは、自分でそれを獲得した時に、真理自身によってそれが真理であることを告げられる、そのようなものでしかありえない
 このような真理観を密教的(エソテリック)と評することもできよう。
 
方法の三つの形象(3)――道
95 真理の標識を論じるスピノザデカルトを標的にしていたことは間違いないだろう。デカルトの真理の基準、「明晰判明」こそは、観念の外側に置かれた標識に他ならない。デカルトの真理観は公共的であり、だからこそそれは近代科学の基礎ともなり得た。だが、スピノザの目にはこの真理観は妥協の産物として映っていたことだろう。デカルトはあれほど懐疑に悩まされながらも、いやむしろ、あれほど懐疑に悩まされていたからこそ、それを振り払おうとして性急に真理の標識を立ててしまっている、と。
 
 このように、真理は何らの標識も必要でなく、むしろ一切の疑いが除去されるためには事物の想念的本質あるいは――同じことだが――〔正しい〕観念を有するだけで十分なのだから、ここからして、真の方法は、観念の獲得後に真理の標識を求めることには存せずに、かえって、真理そのもの、あるいは事物の想念的本質、あるいは観念(これらすべては同じことを意味する)が適当な順序で進められる道であるということが帰結される。(第三六節)
 観念が適切な順序で獲得されていくための道こそが方法である。それがここで述べられていることである。
 
97 然るべき出発点から、然るべき順序で観念が導き出されていくならば、観念を獲得していく行為それ自体が、観念の獲得を指導し、制御していく、と。
 
スピノザの方法
出発点の問題
定義論の位置
定義を高く位置づける哲学
103 「何事かを発見するための正しい道は、或る与えられた定義から諸々の思想を形成してゆくことにある」(第九四節)。
 スピノザ哲学は定義を極めて高く位置づける。これはその一貫した特徴であり、『エチカ』においても変わらない。定義はまずは言葉の上での決め事と捉えることができるのであって、この場合、それは「何々を何々と呼ぶことにする」という仕方で定められるものである。定義といえば一般的にはこのようなものがすぐに想像されるかもしれないし、スピノザもそのような定義を利用している。だが、他方で、定義は然るべき仕方で形成された時、その対象の本質そのものを描き出す観念となる。これこそが、『知性改善論』の定義論の目指すところに他ならない。
 
発生的定義
104 問題はここで「内的本質」と呼ばれているのは何かということである。それを知るためには、定義の規則を参照すればよい。規則は二つある。
(1)定義が定義される対象のもっとも近い原因を含んでいること。
(2)定義は他のものと結びつけられることなく、ただそこだけから定義される対象のすべての特性が導き出せるものであること(第九六節)。
 スピノザは円の定義を例に挙げている。スピノザの定義論に従うならば、円は中心から円周へ引かれた緒線が等しい図形ではなく、一方の端が固定されていて他方の端が運動する線分によって描かれた図形と定義されなければならない。スピノザの考える定義が、定義される対象の発生を描くものになっていることに注意しよう。それは線分の運動という円の発生の原因を含んでいる。「事物の内的本質」を明らかにする定義とは、すなわち、定義される対象の原因を含み込むことで、その対象の発生そのものを描き出す定義のことである
 定義がそのようなものであるとき、対象の有するあらゆる特性をそこから導き出すことができる。たとえば、上記の円の定義からは、中心から円周へ引かれた緒線が等しいという円の特性の一つを導き出すことができる。マルシアル・ゲル―はスピノザの考える定義を「発生的定義」と呼んだが、まさに定義は発生的であることによって、対象のあらゆる性質の導出を可能にする。
 
スピノザの定義論の有効性
106 対象の発生原因に標準を合わせる発生的定義はその意味で極めて広い射程をもつ。スピノザ自身は『エチカ』で人間の本質を欲望として定義しているが(第三部諸感情の定義一)、それは人間に帰せられるあらゆる特性が、欲望のあり方によって説明できるからである。我々のよく知る無数の特性を持った人間のあり方を発生させるのは、その欲望であるとスピノザは考えたのである。
 
定義論の不徹底
『知性改善論』終盤の難点
 
 
3 『短論文』(神・人間及び人間の幸福に関する短論文)と神の存在証明
『エチカ』のプロトタイプ
神の存在証明から始めることの困難
112 デカルトは神が存在することを証明してから、神の何たるかを説明しようとするから循環に嵌まり込んでしまうのだというのがスピノザの明確な主張であった。
 
神の存在証明への修正
前提への遡行
実在性ではなくて力
115 デカルトは神のア・ポステリオリな存在証明を二つ残したわけだが、ここで問題になっている第一の証明は、観念の実在性の度合いという考え方を前提にしている。これは、ある観念には、その観念の対象の存在の確からしさと同じだけの実在性がその中に含まれているという考えである。神の観念には、他のいかなるものにも含まれることのあり得ない量の実在性が含まれており、そしてその観念を実際に我々は有しているのであるから、その観念の対象である神は実在するというわけである。
 実在性の度合いという考え方は当時から批判されていた。「第三反論」の著者であるホッブスは、「より多くの実在性をもつ」という表現でデカルトが何を言わんとしているのかがわからないと述べて、この考え方を全否定している。「第三応答」でのデカルトによるそれへの再反論は、「その点はすでに何度も説明した」と言うに留まっている。デカルト研究者のフェルディナン・アルキエも、この考え方は理解困難だとし、デカルトがより詳しい説明を与えなかったことを残念がっている。
 
116 「有限な知性はある外部の原因に依って決定されるのではなくては自分自身で何物をも認識することが出来ない」(第一部第一章)。
 スピノザは同じア・ポステリオリな証明を扱いながらも、ここで、デカルトのように実在性の概念ではなく、ある種の力(能力)の概念に訴えかけていることになる。こういうことだ。人間の有限な知性には、外部の原因無しで、あれではなくこれを先に、これではなくあれを先に認識し始める力はない。何らかの外的原因があってはじめて人間は何ごとかを認識するのである、さて、人間の知性は有限であるとはいえ、無限を理解することができる。ならば、そのような理解へと人間の知性を駆り立てる外的な原因があるはずであり、それこそが神の存在に他ならない・・・。
 
認識の受動性
悪魔について
121 悪魔などをを仮定する必要はない。いや、なぜ人間は悪魔を仮定してしまうのかではなくて、どうすれば人間は、悪魔を仮定しようというなどという考えが心をかすめもしない生き方ができるようになるか、それを考えようではないか。これこそが『エチカ』で開陳されるスピノザ哲学である。
 
 
 
第三章 総合的方法の完成――『エチカ』第一部
1 『エチカ』誕生の地
レインスブルフへの滞在
125 (なお、スピノザが1663年までの二年間を過ごしたレインズブルフには、スピノザが滞在した家屋が今もなお残されており、「スピノザハウス」という記念館として一般に公開されている)。
 
2 『エチカ』第一部(1)――総合的方法の完成
幾何学的様式
127 『知性改善論』と同様に、『エチカ』にも献辞や序文はない。この本は、幾何学的様式 mos geometricus」が要求する8つの定義で始まる。幾何学的様式とは、定義、公理、定理、証明などを積み重ねながら体系を構築していく論述法であり、古代ギリシアの数学者エウクレイデス(ユークリッド)の著作『原論』にその起源をもつ。
 
定義と公理
129 
定義一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。
定義二 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。
定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
定義四 属性とは、知性実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。
定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
 説明 私は「自己の類において無限な」とは言わないで、「絶対に無限な」と言う。なぜなら、単に自己の類においてのみ無限なものについては、我々は無限に多くの属性を否定することができる〈(言いかえれば我々はそのものの本性に属さない無限に多くの属性を考えることができる)〉が、これに反して、絶対に無限なものの本質には、本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属するからである。 38
定義七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。
定義八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。
 説明 なぜなら、このような存在は、ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ、そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されないからである、たとえその持続を始めも終わりもないものと考えようとも。
 
『エチカ』は神から始まらない
131 
定理一 実体は本性上その変状に先立つ。
 証明 定義三および五から明白である。
定理二 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。(異なる属性を有する複数の実体は共通点を持たない)
 証明 これもまた定義三から明白である。なぜなら、おのおのの実体はそれ自身のうちに存しなければならずかつそれ自身によって考えられなければならぬから、すなわち、一の実体の概念は他の実体の概念を含まないから、である。
定理三 相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たることができない。
定理四 異なる二つあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によってたがいに区別される。
定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。(同一の属性を有する複数の実体は存在し得ない)
定理六 一の実体は他の実体から産出されることができない。
定理七 実体の本性には存在することが属する。
 証明 実体は他の物から産出されることができない(前定理の系により)。ゆえにそれは自己原因である。すなわち(定義一により)その本質は必然的に存在を含む。あるいはその本性には存在することが属する。Q・E・D・
定理八 すべての実体は必然的に無限である
 
定理九 およそ物がより多くの実在性あるいは有をもつに従ってそれだけ多くの属性がその物に帰せられる。
定理一〇 実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ。
定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。
 
定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。
 
冒頭八つの定理の手続き(1)――背理法
134 変状とはあるものが何らかの刺激を受けて一定の形態や性質を帯びることを言う。
 
属性の概念
135 実体とは実際に存在しているもののことをいう。『エチカ』においてそれは神であり、また自然とも呼ばれる。この実体属性をもつ。属性とは一般にはその物に備わっている性質を指す(たとえば豆腐はやわらかいという属性をもつ)。だが、スピノザの言う実体属性は非常に強い意味をもっており、単なる性質ではなく、実体に備わるリアリティそのもののことを指している。実体はこの属性を無限に多く備えているのだが、そのうち人間に知ることができるのは思惟延長の二つだけである。思惟は思考の領域を指し、諸々の観念から成る。延長は物体の領域を指し(これは真空を否定したデカルト物理学をそのまま援用した定義である)、諸々の事物から成る
 神が思惟の属性や延長の属性を有するとは、神は観念の領域としても、実際に存在している一つの独立したリアリティであること、また物体の領域としても、実際に存在している一つの独立したリアリティであることを意味する。思惟の世界なるものが、一つの完結した世界として実際に存在しており、それはそれ以外のどんな世界にも影響を受けることがない。延長の世界についても同様である。つまり思惟の世界で起こることは思惟の世界にのみ作用し、延長の世界で起こることは延長の世界にのみ作用する。属性は一つの完結したリアリティであるから、異なる属性を有する複数の実体が共通点を持たないことも(定理二)、同一の属性を有する複数の実体は存在しないことも(定理五)、当然である。
 
冒頭八つの定理の手続き(2)――仮定
冒頭八つの定理の手続き(3)――遡行
137 つまり定義群は自己原因から出発した。それに対し、冒頭の諸定理は、論理を逆向きでさかのぼるかのようにして、7つの定理を経たうえでそこに辿り着く。
 
『知性改善論』の定義論への答え
139 『知性改善論』では、神(「最高完全者」)の定義は、事物の定義の場合とは異なり、一切の原因を排除しなければならないと言われていた。対し、『エチカ』においては、事物がその原因によって定義されるように、神もまたその原因によって定義される。神は自己原因として原因によって定義されるのである。『エチカ』では、原因による定義という『知性改善論』が提示しつつも徹底できなかった原則がまさしく徹底されている。確かに神は自らの原因であって、他からは産出されない。とはいえ神もまた原因によって定義されていることは変わりない。
 
自己原因という主軸
139 続く定理八は神の無限性を説く。こうして実体の四つの特性が出そろう。唯一性(定理五)、自己原因(定理六および定理七証明)、必然的存在(定理七)、無限性(定理八)。
 
実体の系譜学
属性は実体の本性を享受する
143 事実その属性のおのおのがそれ自身によって考えられるというのは実体の本性なのである。なぜなら、実体の有するすべての属性は常に同時に実体の中に存し、かつ一が他から産出されえず、おのおのは実体の実在性あるいは有を表現するからである。(第一部定理一〇備考)
 
神の存在
146 神は然るべき仕方で定義されるならば、つまり、神の何たるかが、あるいはどのような仕方で存在しているかが明らかにされるならば、その存在は自ずと明らかになる。これが『デカルトの哲学原理』以来の一貫したスピノザの姿勢である。神の定義は神の存在証明に優先する。その姿勢がここでも貫かれている。『エチカ』第一部の冒頭は複雑な手続きを経て、神の定義を構築し、それを実在的なものとする。
 
神の本質
『エチカ』と存在論的証明の問題
148 『エチカ』における神の存在についての議論は、一見したところ、哲学史の中で伝統的に「存在論的証明」と呼ばれてきたタイプの神の存在証明に似ている。存在論的証明とは、神は完全なのだからその完全性には存在も含まれていなければならない、したがって神は存在するという――トンチのような――証明である。スピノザは確かに「実態の本性には存在することが属する」(第一部定理七)とか、神の本質が存在を含まないのは不条理である(同定理一〇証明)と述べており、これらは一見したところ存在論的証明のようにも思える。
 さて、カントがいわゆる存在論的証明を徹底的に批判したこと、ほとんど論破したと言ってよいことは哲学史においてよく知られる事実である。カントの発想は決して難しいものではない。神が「完全」であるならば、「永遠である」とか「無限である」とか、神という事象について、その内容を示す述語を付すことはできるし、「神が完全である」ならばそれらは真であろう。だが、それがあるとかないとかいったことは、主語の事象内容とは独立しているのであって、「完全である」のような万能に見える述語であろうと、主語を存在させてしまうことはできないというのがカントの指摘である。
 カントの指摘には強い説得力がある。けれども、その指摘が『エチカ』にも当てはまるとは思われない。スピノザはどこかに神が存在していると言っているのではなくて、我々がその一部であるところの自然が確かに存在しているということ、この事実そのものを神の観念によって説明したのである。<こと>そのものを本質と見なす考え方は、存在論的証明という伝統的な用語では説明しきれない新しさを持っている。『エチカ』における神の存在についての議論は、その存在の証明というよりもむしろその存在の描写であり、これは『デカルトの哲学原理』におけるコギトの存在の描写から一貫しているスピノザの哲学的な構えである
 
実在性』について
150 一つの哲学用語の意味はそれが置かれた体系の中で規定される。ある用語の辞書上の意味をいくら知っていても、それを理解しているとは言えないのはそのためである。実際、『エチカ』におけるrealitasの概念は、いま我々が参照している畠中尚志の翻訳通り、「実在性」という翻訳でその意味するところを確認することができる。
 
 
3 『エチカ』第一部(2)――実体と様態
無限性の意味するところ
151 スピノザの言う無限は、どこまで行っても果てがないという意味での無限ではない。「果てがない」という否定的な表現によって説明される無限はしばしば「無際限」と呼ばれる(数学でいう可能無限をイメージするとよい)。それは人間的な視点から無限をとらえようとするときに現れる観念である。追いかけても追いかけても果てには届かない。このような無際限という意味での無限は、完成しない無限である。その結果として、無限の外側に、何か曰く言い難いものが想定されてしまう。無際限は人間的視点が不可避的に抱え込む、到達できない外部を伴っている。
 それに対しスピノザの言う無限とは、いわば神の視点で捉えられた、完成している無限である。それは「完成している」という肯定的表現によって説明される(数学でいう実無限をイメージするとよい)。『エチカ』では、有限であるとはその存在の本性の部分的な否定であり、無限であるとはその絶対的肯定であると言われる(第一部定理八備考一)。つまり無限とは肯定であり、有限とは否定である。無際限の場合、有限を否定するものとして無限が捉えられる。つまり有限があり、そこからその否定としての無限が目指される(人間的視点)。それに対し、スピノザはまず無限を肯定したうえで、そこからその否定としての有限を考えるのである(神の視点)。だからスピノザの無限には、無際限の場合のような外部が存在しない。
 
神の自然科学的意義
152 人間という有限な存在者には外部がある。皮膚の外側には自分とは異なる他者・他物が無数に存在するし、出生の前には、経験のすることのできない時間がある。有限な存在者はそうした外部から影響を受ける。現在において、有限な存在者は周囲から影響を受け続けているし、そもそもそれが存在しているのはその存在以前に時間があったからである。それに対し、無限なる神にはそのようなことはあり得ない。神が無限であるとは、その外部が存在しないということだからである。
 神には外部がないのだから、自分以外のものから影響を受けることがない。時間的にもそのように言えるのであって、神は永遠であって、はじまりも終わりもない(第一部定理一九)。外部からの影響が一切考えられないのだから、神は存在し、また作用するにあたって、自身の法則以外のものに左右されない(第一部定理一七)。有限である人間はたとえば他人からの影響で行為の仕方を変えることがあり得るが、神にはそれはあり得ない。したがって神が存在し、また作用する際の法則は不変である。そして無限なる神に外部がないのだから、この法則には例外がない(例外とは法則の外部である)。すべては神の法則、すなわち、自然の法則にしたがって起こる。だから自然の法則に背く奇跡など存在しない。
 「神」という言葉は現代人には宗教的な信仰を想起させるかもしれない。だが、スピノザの考える無限なる神という観念が、実のところ、実に自然科学的な発想を基礎にしていることが分かるだろう。「神」という言葉が使われているからといって、必ずしも宗教的な信仰に基づいているとは限らないのである
 
全ては神のうちに
154 全て在るものが神のうちに在るとは、したがって、あらゆるものが神の一部であることを意味する。神こそは存在する唯一の「実体 substantia」であり、様々な個物はその実態の「変状」として捉えられることになる変状 affectio」とは何かが性質や形態を帯びることをいう。実体の一部が何らかの刺激を受けて変状し、個物が成立する。だから個物は生まれたり消えていったりするが、実体そのものは生まれることも消えることもない。スピノザは水を例にこれを分かりやすく説明している。「水は水としては生じかつ滅する。しかし実体としては生ずることも滅することもない。」(第一部定理一五備考)。
 実体の変状である個物のことを、スピノザは「様態 modus」と呼ぶ。この用語法ははじめてこれに接した人を当惑させる。この語は英語ならばモードであり、「様式」とか「仕方」などを意味する。どうして個物が「様式」や「仕方」などと呼ばれるのだろうか。
 存在する実体は神ただひとつだけであるが、神は実際には、常に既に変状して存在している。この自然ないし宇宙は、どこを取っても神の変状である。つまり神は無数の仕方、無数の様態で存在している。万物はそのそれぞれが神の存在の仕方、つまり様態であって、だからその意味で個物は様態と呼ばれるのである。これは言い換えれば、あらゆる個物は、神がいったいどのような仕方で存在できるのかを、それぞれがそれぞれの仕方で説明しているということだ。
 
一般的な因果性の概念
155 「存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する(定理二五の系により)。言い換えれば(定理三四により)存在するすべての物は神の能力を――万物の原因である神の能力を一定の仕方で表現する。」(第一部定理36証明)
 
「表現 expressio」は『エチカ』全体を貫くカギ概念の一つである(この概念に注目してスピノザ哲学を読み解いたのが、今や古典となっているドゥルーズの『スピノザと表現の問題』である。
 
内在原因と表現の概念
156 この一般的な因果性の概念をスピノザは「他動原因 causa transiens」と呼び、神は万物の原因であるとは言っても、それは「他動原因」ではありえず、「内在原因 causa immanens」として理解されねばならないと述べている(第一部定理一八。)
 
157 「内在原因という関係は、それを構成する能動的な要素が原因となって第二の要素を引き起こすのではなく、むしろそれが第二の要素の中で自らを表現するということを含意している」アガンベン
 
158 内在原因はつまり、神というただひとつの実体しか認めないスピノザ存在論によって要請された因果性の概念であり、この概念の基礎となっているのが表現という考え方なのである
 
 
第四章 人間の本質としての意識――『エチカ』第二部、第三部
1 『エチカ』手稿の発見
誰が手稿を作成したか
ステノによる弾劾
162 なお、ステノはデカルトが精神と身体を結びつけるものだと主張した松果体について、解剖学的な知見をもってこれを否定した人物である。『エチカ』第五部序文は松果体についてのデカルトの節に批判的に言及していることから、スピノザがステノの見解に興味を持った可能性も考えられる。
 
ヴァチカン図書館での発見
手稿の意義
165 手稿の発見がもたらした最大の知見は、むしろ、ヴァチカン手稿の『エチカ』が、遺稿集の『エチカ』とほとんど変わらなかったという事実である。ヘントは遅くとも一六七五年にこの手稿を作成しており、遺稿集は一六七七年にスピノザが死んだ際に残された遺稿をもとに編纂されたわけだから、スピノザはこの約二年間の間に『エチカ』の本文にまったく手を加えなかったことになる。二〇世紀に出版されたほとんどの近代語訳の底本となったのが、一九二五年にドイツで出版されたいわゆるゲプハルト版のスピノザ全集なのだが、その校訂者カール・ゲプハルトはスピノザを、テキストを絶えず手直しして改善し続ける哲学者として描いていた。かなり広く受け入れられていたその見方は、ヴァチカン手稿の発見によって完全に覆されたことになる。
 確かに『エチカ』は途中で大きな構成の変更が行われている。だが、それは執筆途中の苦労に関わる話であって、どうやらスピノザは、ひとたび完成したならばその原稿は引き出しの中にしまい込んで次のプロジェクトに没頭する、そういうタイプの哲学者であったようである。これはスピノザの人となりをよく伝える事実であるように思われる。
 
 
2 『エチカ』第二部――身体と精神
手を獲るようにして進む倫理学
166 「神の本質からは無限に多くのものが無限に多くの仕方で生起しなければならぬ」と言われる(第二部序言)神の観念はこの宇宙そのものを捉えるための一つの原理である。
 もしスピノザが物理学(フュシカ)を目指していたならば、この原理からその様なものを組み立てることもできただろう(実際、『デカルトの哲学原理』は「神は運動の根本原因である」(第二部定理一二)と述べている。しかしスピノザが目指していたのは倫理学(エチカ)であった。したがってスピノザは第二部以降の論述の対象を、「人間精神とその最高の幸福との認識へ我々をいわば手を執って導きうるものだけにとどめる」こととなる(同)。スピノザの考える倫理学とは、人間精神の何たるか、その最高の幸福の何たるかを教えてくれるもの、しかも「いわば手を執って」その道へと導いてくれるものだ。『エチカ』において読者は一人で進むのではない。手を執ってくれる道案内とともに、この目的地へと向かうのである
 
思考と存在の同一性
167 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。(第二部定理七)
 
 実体は複数の、正確には無限に多くの属性を持っており、そのそれぞれが完結したリアリティを構成しているのだった。一つの唯一的実体はそれが有する各々の属性において実在している。したがって、思惟の属性における観念の秩序と、延長の属性における物体の秩序は同じだということになる。
 この定理の内容は、哲学的には、思考と存在の同一性と言い換えることができる。観念の秩序と事物の秩序が同一であるならば、思考は存在そのものを再現する能力を持つことになる。存在しているものは思考可能であり、かつ、思考されている通りに存在している。これは哲学史的にいうと、「あるものはある、ないものはない」と断言した古代ギリシアの哲学者、パルメニデスに端を発する考えだ。哲学は基本的にこの考えを根幹に据えて営まれてきたと言ってよい。
 実はこの考えはこの後、カントによって突き崩される。物自体と現象の区別、アンチノミー、そしてア・プリオリな総合判断といった概念によって、カントは思考と存在の同一性を完全に解体してしまった(それゆえであろう、ハイネは論争的な口調で「思想界の大破壊者であるイマヌエル・カントは、テロリズムではマキシミリアン・ロベスピエールにはるかにまさっていた」と述べた。カントによる思考と存在の同一性の解体については、アーレントのシャープな論考を参照されたい)。これはつまり、世界は思考されているようには存在していないかもしれないということだ。その直後、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と説いたヘーゲルによってこの考えは一度は復権するものの、基本的にはカントの考えが支配的になったし、二〇世紀の哲学もそのようなカントの哲学をベースとしていた。
 ただ、最近では、数学を操る近代科学に注目する思弁的実在論という新しい哲学潮流が、思考と存在の同一性テーゼを復権させつつある。数学に拠るならば、我々の思考は存在そのものに迫れるという考え方である[メイヤスー 二〇一六]
思考と存在の同一性のテーゼはこのように近代哲学においていくつもの荒波をくぐってきたわけだが、とにかくここで確認しておきたいのは、スピノザこそはこの伝統的な哲学的テーゼを一つの完成へともたらした哲学者だということである。ヘーゲルは、哲学を学ぶものは一度はスピノザ主義者にならねばならないとすら述べている。
 
並行論
精神の原理
171 第二部のタイトルに「精神の本性および起源について」とあることから分かる通り、この部の対象は精神である。ただし精神はここで、あくまでも身体との関係において捉えられている。
 
「人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念に他ならない」(第二部定理一一)。この個物の観念とは、神の中に存在している、各々の人間精神の核のようなものである。あらゆる存在にはそれに対応する観念がその存在の精神として存在している。だからスピノザは「どんな個体も程度の差こそあれ精神を有している」とも述べる(第二部定理一三備考)。
 
「人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ」
「人間精神を構成する観念の対象は身体である」(第二部定理一二、一三)
人間精神とは身体を対象とする観念であり、この観念の対象である身体に起こるすべてのことが人間精神によって知覚されるというわけである。一言で言えば、人間精神とは身体の観念である
 
人間の身体の複雑さ
差異の知覚としての精神
174 人間精神は身体の観念であるのに、身体を認識しないとはどういうことなのか。
 『エチカ』において認識するとは、観念を獲得すること、観念を有することを意味している。だとすると、ここで問題になっているのは、観念であることと、認識すること、すなわち観念を有することとの違いである。スピノザは、<我々がそれであるところの観念>と、<我々が有する観念>とを区別しているように思われる[ドゥルーズ]。つまり、我々は精神として確かに観念であり、その観念の対象は身体であるが、しかし、そのことは我々が直ちに身体についての観念を有していること、つまり身体を認識していることを意味しない。たとえば赤子は精神を持つ。しかし赤子は自らの身体を十分に認識していない。だから自らの身体をうまく使用することができない。
 では、我々が身体の観念を有するに至るのは、すなわち身体を認識するのはいかにしてであるかスピノザの答えは明確である。身体に生じる差異によってであるというのがその答えだ。
 
「人間精神は身体が受ける刺激(アフェクティオ)〔変状〕の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る」(第二部定理一九)
 
観念の観念
175 「人間精神は、身体の変状〔刺激状態〕のみならずこの変状の観念をも知覚する」(第二部定理二二)。スピノザ哲学において「知覚」の語は「認識」と同義で使われている。だとすると、ここで語られているのは、身体の変状の観念それ自体を認識すること、つまり、身体の変状の観念についての観念が形成されることに他ならない。この観念は「変状の観念の観念」と呼ばれる(第二部定理二二証明)。「観念の観念  idea ideae」スピノザ哲学においてカギとなる概念である。ここではこの概念によって、身体の変状の観念であることとは区別される、身体の変状の観念について観念を有することが説明されているのである。
 
身体についての非十全な観念
自由意志の否定
そもそも我々はいかなるものを「意志」と呼んでいるのか
181 我々は確かに、心の中に意志のようなものがあって自由に行為を決定しているように感じる。だから、その際に感じられているものを「自由意志」と呼ぶ。だが、そのように感じられるのは、我々が意欲や衝動や行動は意識しても、それらを引き起こした原因のことは知らないからだというのがスピノザの述べていることである
 
意志の自由を否定することになぜ納得できないか
意志の概念
183 「意識 conscientia」
「意志 voluntas」
 
184 意欲や衝動や行動をその対象としている以上、意識とは、身体の変状の観念の観念である。先の区別に従うなら、それは<我々がそれであるところの観念>から区別された<我々が有する観念>である。それが意志として現れ、行為についての一元的決定のイメージを作り出す
 
目的論批判の困難
185 目的とは、無数の原因によってもたらされる衝動ないし行為が意識されることで生じる一つの結果である。ところが、結果であるはずの目的が、衝動や行為の原因と取り違えられてしまうというのである。
 
 原因を目的において捉えるときに前提とされているのが目的原因の概念である。このような考え方を指して「目的論(テレオロジー」とも言う。目的論はあらゆるものが目的によって動いていると考える。これは非常に人間的な考え方である。素直な人間的感覚を自然に投影するものだからだ。
 
無意識
186 スピノザ目的原因という概念の根幹にある原因と結果の取り違えを説明して、「目的に関するこの説は自然をまったく転倒する」と述べている(第一部付録)。意識こそはこの転倒の担い手である。意識は原因の代わりに目的を置き、因果性を目的性へと変換し、原因と結果を転倒する。
 
187 スピノザによるならば、無意識とは、意識されていない精神内の諸原因の連鎖、あるいは原因についての混乱した認識であると言えよう。また、実のところ、意識されていない処理の過程を意識する事で人間精神のあり方に変化がもたらされると考えていた点でもスピノザフロイトには大きな共通点があるのだが、この点は後に見ることにしよう。
 
意識は知ることができる
189 意識にとって、知るとは、目的を知ること、目的を通じて知ることだ。意識は目的を通じて、我々を取り巻く現実を、そして我々自身を知る。
 ならば、意識は確かに転倒のメカニズムを免れ得ないけれども、むしろこのメカニズムがもたらす目的によって、我々を我々に独自の仕方で諸々の事物へと結びつけていると考えることができる。我々は意識を持つ存在である限りにおいて、意識を持たない存在とは異なる仕方でこの現実と結びついている。確かに「スピノザ哲学を理解する」という意識された目的は、読者が本書をここまで読み進めてくださったことの原因ではない。しかしこの目的は読者を読書という行為に、そしてこの本に結びつける。目的は意識を持った存在に、意識を持たない存在ではあり得ない振る舞いを可能にする。意識は意識を持つ存在を積極的に定義するものである。意識は単なる無知ではない。
 
第一種認識と虚偽
190 最初の区分、第一種と呼ばれる認識は「意見」や「表象」とも呼ばれている。スピノザはこれを、感覚を通して得られる知識と諸々の記号から得られる知識の二つの様式において説明している(第二部定理四〇備考二)。感覚を通して得られる知識とは、ここまでの用語で言いかえれば、身体の変状の観念の観念のことである。身体の変状の観念の観念とは意識のことであるから、ここでは意識の特徴が第一種認識として描き出されていることになる。自由意志はまさしくここに言われる表象であった。
 
 後者、記号から得られる知識とは何か。これは主として言語による認識を指している。なぜ言語による認識が身体の変状の観念と同じカテゴリーに入れられるのだろうか。それはスピノザが言語を、音声とそれが想起させるイメージによって定義しているからである。たとえば「ポームム」という音を聞いてもそれに聞き覚えのないものは何の反応もできない。だが、「例えばローマ人はポームム〔くだもの〕という言葉の思いからただちにある果実の思いへ移るであろう」(第二部定理一八備考)。「ポームム」はラテン語で果物を意味するからである。言語はこのような早期のメカニズムから成る。そして言語によって想起された観念はそれと類似の観念を形成する(第二部定理四〇備考二)。このメカニズムは対象そのものの理解に基づくわけではないから、容易に混乱した観念をもたらしうる。
 
本質を含む表象
191 我々は太陽を見ると、それがすぐ近くにあるかのように表象する。確かに太陽のそのような表象は誤謬と言いうる。だがこの表象は、そのように思わせるほどに強力なエネルギーを発している太陽の本質と、それを受け取るとどうしても太陽を近くにあると表象してしまう人間身体の本質とを「含んでいる」。単に太陽までの真の距離の認識が欠けているというだけでなく、太陽の本質と人間の本質とが混乱して受け止められているところにこの表象の誤謬が存在するのだ。
 だから欠損を補うだけでは、つまり太陽までの真の距離を知るだけではこの表象はなくならない。この表象の中にある二つの真なるもの、すなわち太陽の本質と人間身体の本質とを選り分けることが必要である。
 
第二種認識と真の観念
192 第一種認識においては主として誤謬が論じられていた。それに対して第二種認識は十全な観念を受け持つ認識である。第一種認識は自らの身体の変状の観念を基礎としていた。第二種認識は「共通概念 notiones communes」と呼ばれる、複数のものに適用可能な概念を基礎としている。共通概念はある対象について妥当する法則のことである。第一種認識は感覚ないしは表象といわれていたが、第二種認識は「理性 ratio」と呼ばれている。理性は一般に推論を行う。共通概念という法則は理性の行う推論の根拠である。ある物がある共通概念の対象であるならば、その共通概念に基づいて、一定の帰結がその物について推論されるのである。
 
194 観念の外側に、それを参照すれば真と判断できるような基準を立てることはできないのだった。真なる観念は自らが真であることを伝える。観念は「画板の上の画のように無言」ではない。真なる観念は自らが真であることを精神に語ってくる。ここから次の実に印象的な一節が語られる。
実に、光が光自身と闇とを顕(あら)わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である」(第二部定理43備考)。
これは真理の外側ないしは公共的基準の不可能性という大前提のもとにあるスピノザの真理観を一言で言い表したみごとな定式であろう。
 
観念の観念と意識
195 第二種認識における観念の観念は、身体の変状の観念、より正確に言えば、私の身体の変状の観念を対象としていないからである。それは共通概念を基礎とする認識についての観念である。第二種認識すなわち理性が行うのは、推論としての観念の操作であり、身体の変状の観念を対象とする意識からは区別されなければならない。
 
196 私の身体に立脚しない認識を第二位に置いたスピノザは、この後、最も優れた認識、第三種認識として「直観知 scientia intuitiva」に言及する。これは神についての妥当な観念から個物の本質の妥当な観念へと向かうものといわれるのだが、説明は先送りされている。
 
 
3 『エチカ』第三部――欲望と意識
感情
197 まず、感情とは何か。感情とは身体の変状であり、また同時にその観念である(第三部定義三)。「同時に」といわれるのは、心身の関係が並行論において捉えられているから、より正確に言えば、「精神と身体とは同一物であってそれが時には思惟の属性のもとで、時には延長の属性のもので考えられる」に過ぎないからである(第三部定理二備考)。たとえば怒りという感情は精神の中の怒りの観念としても、身体上の反応としても考えることができるが、それらは同一物が異なる秩序において、異なる質として表現されていると考えられるわけである。
 感情は身体の変状としてのみならず、プラスかマイナスかの方向性を持っていて、プラスならば身体の――ということは結局は精神の――「活動能力」を増大させていき、マイナスならばそれを減少させていくという連続体としても捉えられている(第三部定理三)。スピノザ感情という変状が持つ連続体という性質を強調するために、「変状 affectio」という語とは区別して、「感情 affectus」という同系統の、しかし異なる語を用いる。これは、いわゆるパッションを名指すにあたって、受動を意味するpassioではなくて、この語が選択された、ということでもある。スピノザは、後に見るように、感情は能動であり得ると考えたのである。
 変状は刺激したものの本質と刺激されたものの本性を含む状態である(たとえば日焼けという変状は、太陽光の本質と皮膚の本質の両方を含む状態である)。それに対し感情は身体と精神の連続的変異を指し示す。また、感情は確かに観念であるが、指示対象を持たない思惟の様態であるという点で、指示対象を持つ思惟である観念とは区別される
 
自己の存在に固執しようとする力
198 おのおのの人間身体の中にはそれ固有の力が作用しており、その力と刺激の組合せが身体に変状をもたらし、感情が変化する、と。
 人間身体の中で作用しているこの力を『エチカ』は「コナトゥス」と名付け、人間のみならずあらゆる個体の本質として定義している
 
199 「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力(コナトゥス)はその物の現実的本質にほかならない」(第三部定理七)
 
コナトゥスの存在理由
本質としての力
202 この定理において重要なのは、コナトゥスのような力がその物の「本質 essentia」だと言われていることである。ここにはスピノザ哲学が哲学史にもたらした決定的な概念の転換がある。古代ギリシア以降、この語はその物の形、エイドス(英語ではフォーム)として定義されてきた。たとえば家畜の馬と野生のシマウマが同じく馬と呼ばれるのは、それが馬の形という本質を共有していると考えられているからだ。この場合、それぞれの個体の特性はその本質にとって些末なものに過ぎない。したがってそれぞれの個体は一般的な概念(馬)のもとに見られることになる。
 
意識された衝動としての欲望
203 「精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め〔conatur〕、かつこの自己の努力〔conatus〕を意識している。」(第三部定理九)。
 コナトゥスは精神のみに関係するときには「意志 voluntas」と呼ばれ、精神と身体とに関係するときには「衝動 appetitus」と呼ばれる(第三部定理九備考)。意志は精神の身に関係すると言われていることから分かる通り、身体の変状の結果に力点の置かれた概念であり、表象として位置づけられている。この点は良い。問題は衝動である。
 人間の精神と身体を実際に動かす力として捉えられたコナトゥスは衝動と呼ばれている。衝動は結局のところ、コナトゥスを別の側面から眺めたものに過ぎないから、コナトゥスの場合と同様、「衝動とは人間の本質そのもの(・・・)に他ならない」(同)といわれる。だが、それだけではない。人間精神はコナトゥスを意識しているのであるから、当然、衝動についても、これが意識の対象であることが指摘されている。この意識された衝動を名指すために、スピノザは「欲望 cupiditas」という別の語を導入する。「次に衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる」(同)。意識された衝動を名指すために、スピノザはわざわざ新しい用語を追加しているわけである。
 
人間的な衝動としての欲望
205 人間の本質が欲望であり(諸感情の定義一)、欲望が意識を伴った衝動であるならば、欲望とは人間的な衝動であり、人間の本質は意識を伴っていると言うことができる。欲望から衝動を差し引いた残りが意識であり、人間の特徴とは何よりも、自らを突き動かす力を意識している点に見出されることになる
 
欲望の再定義
207 欲望とは、人間の本質が、与えられた各々の変状によってあることを為すよう決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである」(第三部諸感情の定義一)
 欲望とは人間の本質であり、この本質は、そのたびごとに与えられる変状によって、何ごとかを為すように人間を決定する。本質はここでも一つの力、衝動でありコナトゥスである。したがって、この新しい定義は先の「意識を伴った衝動」という欲望の定義を否定しているのではない。逆である。人間が自己を認識するのは変状の観念の観念を形成することによってであった(第二部定理二三)。この新しい定義は変状の概念に言及することで、どうして人間が自らの欲望を意識するのかを説明し、先の定義が妥当であったことの根拠を提示するものになっている。
 
意識はなぜ積極的に定義されないのか
第三の主題
210 スピノザは喜び、悲しみと欲望の三つこそが基本的感情であって、すべての感情はこれらの組み合わせによって説明されるという(第三部定理一一備考)。ここで、喜びと悲しみの対が、衝動ではなくて欲望と並んで語られていることに注意せねばならない。欲望は人間の本質なのだから、第三部は論述対象を人間に絞っていることになる。
 また、これら三つが基本的感情であるとは言っても、三つが並列しているわけではないことにも注意が必要である。喜び/悲しみの対は力が方向性をもって推移することそのものを指し(第三部諸感情の定義三説明)、欲望はそうやって推移する力そのものである。欲望は人間の本質であるが、喜び/悲しみは本質ではなくて、その本質についての事実である。第三部は三つの組み合わせによって様々な感情を説明していくが、以上よりわかるのは、同部が人間的な衝動、意識を伴った衝動、即ち欲望をこそ主題にしているということ、したがって、第三部全体が意識の規定に関わっているということである。
 
能動と受動
211 スピノザの哲学はしばしば喜びの哲学と言われている。喜びの感情の最大化を目指す哲学のことだ。このイメージは間違いではない。だが、もし人が悲しみを避けて喜びを求めるだけであれば、そこに倫理(エチカ)は存在しないであろう。喜びと悲しみだけでは生きることの道しるべにならない。つまりスピノザ主義は快楽主義(ヘドニズム)ではない。
 『エチカ』が目指すのは能動性である。第三部はまさしく冒頭からこの問題に取り組んでいる。同部の定義群では「能動」と「受動」が定義されている。定義によれば、我々は、自らが或る出来事あるいは行為の妥当な原因である時に能動である。では妥当な原因であるとはどういうことか。その出来事ないし行為が我々自らの本性によって理解されうることだとスピノザは言う(第三部定義一~三)。
 
表現的因果性と能動性
212 さて、スピノザの言う能動を最も簡便な形で示すならば、それは自らが自らの行為の原因になっているということである。では原因であるとはどういうことだろうか。ここで思い出されるのは、スピノザが因果性の概念を通常のそれとは大きく異なった仕方で捉えていたということである。我々は『エチカ』の第一部でそれを教えられている。その因果性は内在原因の概念によって定義されていた。そして内在原因によって定義される因果性においては、原因は結果を引き起こすものというよりも、結果によってその力を表現するのだった。言い換えれば、原因の持つ力が結果によって説明されるのである
 内在原因の概念のもとで理解された時、原因はその結果によって自らの力を表現するものとして捉えられる。ならば、我々の行為が我々の力を表現しているとき、我々は能動的だと言うことができるはずだ。その時、我々の行為は、「我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうる」(第三部定義二)。能動性は力の表現と切り離すことができない。『エチカ』において、能動と受動は力の表現によって定義されている。
 
ねたみの分析
ねたんでいる人間はなぜ受動か
215 (妬みに突き動かされている)人間は傍目には活発に見えるだろう。だが、スピノザならば、その人間は活発であるように見えるし、実際に活発であっても、その実は受動的だと指摘するだろう。なぜならば、活発に見えるその人間の活動を最もよく表現しているのは、その人間にそれ程の妬みを感じさせた相手の力だからである。
 
能動と受動の度合い
216 表現的因果性によって基礎づけられた能動性こそが、『エチカ』において示された人間の望ましい生き方についての答えであると言わねばならない。確かに、たとえ受動的であっても人間が喜びを得ることはあり得る。受動である喜びの感情というものが存在するからだ(第三部定理五八)。だが受動的であることは他の存在による支配や強制が極めて高い状態であり、その喜びはきわめて不安定なものであると言わねばならない。それに対し、能動的であることで人間は悲しみを免れることができる。能動性がもたらすのは、ただ喜びと欲望だけだからである。(第三部定理五九)
 
217 能動性と受動性もまた「程度 gradus」において捉えられなければならない。これは言い換えれば、どんなに受動的な行為であろうとも、どこかには能動性があるという意味でもある。完全に能動的な行為があり得ないのと同様、完全に受動的な行為もあり得ない。そもそも完全に受動的な存在があるとしたら、それはコナトゥスを完全に放棄した存在であるから、存在し続けることができない。父親への復讐心から軍隊に走った彼の行為がもっともよく表現していたのは、確かに彼の父親の支配力であっただろう。しかし、彼が命令に従って身体を動かしている時、その行為は、各々の命令に従って身体を動かすことができるという彼自身の力をも同時に表現していたはずだ
 ほんのりとであろうとどんな行為にも見出され得る能動性は、人が能動的になるための手掛かりになるに違いない。それを手掛かりに、受動の度合いをできる限り少なくしていくことこそが能動性へと至る道に他ならない
 
感情の模倣
自己の能力の観想
221 「我々自身を観想することから生ずる喜びは自己愛または自己満足と称される。そしてこの喜びは人間が自己の徳あるいは自分の活動能力を観想するたびに繰り返されるから、したがってまた各人は、好んで自分の業績を語ったり、自分の身体や精神のカを誇示したりすることになり、また人間は、このため、相互に不快を感じ合うことになる」(第三部定理五五備考)
 最高の喜びをもたらすはずの<自己の能力の観想>は、他人との比較が入るやいなや、あまりにもつまらない不快ごとになってしまう。つまり、必ず複数の他人とともに生きていかなければならないという人間の条件が、最高の喜びへと至るはずの道の中央に一つの問題として立ちはだかっているということだ。だが、この観念が人間にとっての最高の喜びの可能性であることもまた確かなのだ。ならば、どうすればこの可能性をつまらぬ不快ごととすることなく実現できるだろうか。その答えは、この後の第四部と第五部に託される。
 
 
 
第五章 契約の新しい概念――『神学・政治論』
1 『神学・政治論』の執筆
『エチカ』執筆中断の謎
224 一六六五年、スピノザは『エチカ』の執筆を一時中断し、『神学・政治論』の執筆に取り組み始めるのである。スピノザは書簡のなかでその執筆動機を説明している(書簡三〇)。それによれば、人々が哲学へと向かうのを妨げている神学者たちの偏見、民衆が自分について抱いている無神論という誤った見解を排撃し、哲学することの自由と、自ら考えたところを口にする自由を全力で擁護するべく、「聖書に関する私の解釈についての一論文」の執筆を決意したのだという。
 
226 スピノザが『エチカ』の執筆を中断したのに倣って、我々もここで『エチカ』の読解を一時中断したいのである。そうすることで、少しでもこの事実の重みを実感したい。読者の皆さんもそのことの意味を想像していただく契機としたいのだ。では、中断してどうするのか。もちろん『神学・政治論』を読むのである。
 
哲学する自由
226 「本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示した様々な論考からできている
 
227 哲学する自由こそ道徳心や国の平和の必須条件であり、道徳心や国の平和を求めるならば哲学する自由を絶対に認めなければならない。スピノザはそう主張する。
 
「哲学的読者」とは誰か
 
 
2 神学的なもの
聖書読解の一例
233 「知的な理解力に秀でた人、知性がうまく育っている人は、想像力の方はむしろ控えめというか、いつも引き締めを怠らない。まるで手綱でも付けているかのようだ。これは知識に想像が混ざってしまったら台無しだからである」(第二章第一節)。
 
聖書を読み、どこに向かうのか
234 聖書の記述のみに依拠して行われる予言の分析とは対照的に(第六章第二一節)、「自然の光」すなわち自然の法則や秩序を念頭において行われるこの奇跡の分析において、スピノザは、自然のうちには自然法則に逆らうようなことは何も起こらないと述べ、奇跡のような我々の理解力を超えた出来事からは、神の本質や神の存在はおろか、自然に関わる事柄も何一つ理解できないと断言するからである(第六章四~九節)。
 
信仰と服従
235 「聖書は単純きわまりない教えしか説いていないこと、ひとびとを服従させることだけが聖書の狙いであること」
「神への服従とは、実質的には隣人を愛することに尽きる」(第一三章第三節)。
 
236 
(1)神は存在しており、まともな生き方の手本となる存在である。
(2)神はただ一つである。
(3)神はどこにでも存在する。
(4)神は至高の権利をもって万物を支配している。
(5)神への崇拝や服従とは、もっぱら正義と隣人愛を内容としている。
(6)神に従う人はみな救われる。
(7)悔い改めるならば神はその人の罪を許す。
 
 人々が平和に仲良く暮らすためには、以上のような信条箇条が国家という枠の中でどれほど有効であり、どれほど欠かせないことだろう。そしてどれほどの、またどれだけ多くの政情不安や蛮行を元から断ち切ってくれることだろう。これは皆さんの判断にまかせたい。(第一四章第一一節)
 
宗教を肯定することの意味
アダムの物語
主張とそれを規定するコード
242 「自然に反する形で起きることは何もない」(第六章第二節)。だが、スピノザの力点はそこにはない。スピノザの力点は、奇跡からは神の存在は理解できないというところにある。
 神の存在はそれ自体としては明らかでないのだから、確実な概念を使って論証しなければならない。したがって、もし確実と思える概念であっても、それが人知を超えた力、あるいは自然に反する力によって変化させられることがあり得るのなら、我々はそもそも概念に頼ることができず、神の存在を論証することもできなくなってしまう。ところで奇跡とは人知を超えた力、自然に反する力の発現であろう。もしそのような力を認めるのであれば、我々は確実な概念というものを想定できなくなる。したがって、神の存在も論証できない(第六章第六節)。
 スピノザは奇跡の存在を認めないけれども、実のところ、その存在の否定にはあまり力を込めていない。スピノザは奇跡の存在を認める考え方を規定しているコード(どんなに確実なことでもそれを無効にする出来事が起こりうる)を明らかにすることで、奇跡を認めるならば神の存在そのものが危うくなってしまうと強調するに留めるのである。
 
迷信/歴史物語/信仰
 
 
3 政治的なもの
神学的なものと政治的なものの距離と近さ
246 では「政治」とは何だろうか。形式的に言えばそれは「国家 imperium」に関わる事柄を指しており、「法 lex」「権利 jus」「契約 pactum」の参考がその議論の核心をなす。
 
なぜ権利と法が同じなのか
249 lex(法)とjus(権利)の区別はそれまではむしろ曖昧だったわけだ。なぜだろうか。少し斜めから答えるならば、それはある時まで社会が落ち着いていたからだということができる。社会の中で人々がjus(権利)を持ち、社会のlex(法)がそれに根拠を与える。両者の間に過不足がない時、つまり、jus(権利)の届く地点がlex(法)の覆う領域の外にまで及ぶなどということが着想すらされない場合、社会は落ち着いている。この状態では、私は私にできるはずのことをしているし、していないことはできないはずだからである。そして社会のlex(法)が、自然や神のそれであると信じられている間は、そこに過不足が生じることもない。認められるべきjus(権利)はすべてlex(法)によって定められていると信じられているのだから。この場合、jus(権利)とlex(法)が覆う領域は完全に一致している。両者を区別する必要はない。
(略)
国家や社会の定めるlex(法)の中でのみ、個人のjus(権利)はは実現されるという「伝統」があり、ホッブズはそれに挑戦した。すなわち、国家や社会のlex(法)に先立つ個人のjus(権利)を考えようとした。今もjus(権利)に対応するヨーロッパ語の単語に法の意味があるのは、この「伝統」が多少とも残っているからである。
 したがって、両者を区別する必要が出てくるのはlex(法)とjus(権利)の間に過不足が生じた時、あるいはその過不足に人々が気付いた時、すなわち、できるはずなのにしていないというカテゴリーが存在し始めたときである。非常に大雑把に言えば、近代においてはその過不足が生じるのであり、ホッブズはそれをjus(権利)の過剰(自然権)として発見したのであるスピノザもこの発見を継承する。だが、例の如く、その継承の仕方は尋常ではない。
 
能力としての権利
自然権は放棄できるのか
252 社会における権利が許可であるのに対し、自然における権利、自然権とはその個体に与えられた力そのもののことである。先に言及したホッブズは、そのような個体に備わる力としての自然権を発見した。それは端的に、「どんなことでも行う自由」と定義されている。自然権を行使するとは、その個体に自然が与えた能力を自らの思うがままに発揮することだ。自然権はどんなことでも行う自由なのだから、当然、社会の法制度に収まらないし、それを越えうる。これが先ほど述べたホッブズによる過剰としてのjus(権利)の発見である。
 スピノザは基本的にホッブズのこの定義に従っている。しかしその先が違う。
 ホッブズ自然権が何の規制もなく発揮される状態を「自然状態」と呼び、自然状態において人間は戦争状態にあると考えた。これは誰もが安全を求めているのに、誰もが危険にさらされた状態であり、その意味において矛盾している。この矛盾から、人々は自分たにち与えられた自然権を放棄するべきだという命法が導き出されるその命法こそホッブズの考える自然法である。この命法は社会契約というかたちで実施される。各人が自らの意志で、自然権を放棄して、共通の権力を設立する契約を結ぶのである。
 よく知られたこのロジックには大きな難点がある。自然権が、ホッブズの言う通り、「どんなことでも行う自由」だとすれば、それはその個体に与えられた力そのもののことであるほかない。さて、ホッブズ自然権の放棄こそ自然法の教えるところだと言っているが、ここで「放棄」と翻訳されているのはlay downという熟語動詞であり、これは武器などを捨てて、使えないようにすることを意味する。だが、自然権を武器のように捨てることができるだろうか。もちろんできない。武器とは異なり、自然権はその人間の能力そのもののことであるからだ。ならば、自然権についてできることとは何だろうかやろうと思えばできるがやらない、即ち自制することである
 
利益の計算
254 スピノザは自らの国家論についてのホッブズとの違いを尋ねられ、「私は自然権を常にそっくりそのまま保持させています」と述べている(書簡五〇)。
 
255 スピノザは契約の内容を次のように列挙している。何の変哲もない内容である。何ごとも「理性の指図」で取り仕切ること。自分が嫌なことは人にもしないこと。他人の権利を自分の権利と同じように尊重すること(第一六章第五節)。
 さて、契約というからにはこれらの内容が守られねばならない。ではどうやって守られるというのか。スピノザが述べていることは実に単純である。それを守ったほうが利益が大きいからである。人が自分にとって善いと思えることを差し控えるのは、より大きな善いことの為か、より大きな害が生じるのを避けるためである。逆に、悪いと思えることを行うのは、より大きな悪いことを避けるためか、より大きな善いことを得るためである人々は日々、こうした「理性の指図」、理性による利益の計算を暗黙の裡に行いながら生きている。この内容が人々によって日々守られているという事実そのものが、契約の履行である。言い換えれば、理性的計算に基づいて先の契約内容を守ることは、この契約を日々、更新し続けることに他ならない。こんな風に言ってもよいだろう。ホッブズの契約が一回性のものであるのに対し、スピノザの契約は反復的である。
 
民主制は強権を認める体制か
258 当然、ここで、このような考え方は国家に恐ろしい強権を認めることになるのではないかという疑問が生じる。実のところスピノザ自身がそう自問している。自分を無条件で他人の命令と裁量に委ねるのは、確かに冒険かもしれないと言うのである(第一六節第九節)。それに対するスピノザの答えはこうだ。実際には人は簡単にこの冒険に踏み込むことができた。なぜならば、思考の権力の持ち主があらゆることを命ずる権利をもつのは、彼らがこの至高の権力を手にしている間だけであり、先に見た理性による利益計算によって人々が契約更新を拒否すれば、彼らはこの権力をすぐに失い、命令する権利も無くすのだから、スピノザはここから「このため、至高の権力者たちがきわめて理不尽なことを命じるというのは、ごくまれにしか起こりえない」とすら述べる(同)。
 
神との契約
259 自分が神に従わなければならないことを生まれつき知っている人などいない。自然状態においては法律が存在しないだけでなく宗教も存在しないからである。自然状態は宗教状態に先行する。したがって、神への服従は神との契約によって成立すると考えねばならない。「だとすると神が定めた権利関係(jus divinum)は、人々が明確な契約(pactum)によって万事神に従うことを約束した、まさにその時点から始まり、このことは問答無用に認めなければならない。この約束によって、人々はいわば自然の自由を譲渡し、自らの権利を神に引渡したのである」(第一六章第一九節)。
 「自らの権利を神に引き渡した」といっても、もちろん、その人物が自然権という名の自らの能力を「放棄」したという意味ではない。そうではなくて、その人物が道徳心に従うようになった――つまりは、自然が与えた力の発揮を自制すべき場面があることをその人物が理解した――ということである。先に確認した通り、スピノザにとって、信仰は結局のところは神への服従を意味し、神への服従道徳心を持って生きること、引いては隣人を愛することを意味するのだった。したがって、「神との契約」とは、実際には、道徳心の価値の内面化に等しい
 
契約の二重化
261 この契約の二重化に見出せるのは、至高の権力を認める契約と神との契約が互いに互いを規定し合う関係である。至高の権力は人々の信託を得る。それゆえ宗教について様々な取決めを行うし、誰もがそれに服従せねばならない。だが同時に神との契約は、至高の権力が『この信託関係をくれぐれも破らないよう命じている』(第16章第21節)。神と個人との契約、個人と集団との契約という二つの契約は、或る意味では対立するが、或る意味では補い合っており、両者は一つの円環をなすことで、一方においてタガが外れてしまうような事態をできる限り排そうとしているわけである。
 
制度と計算に還元できない価値なるもの
262 憲法基本法といった法規範の存在は、その模索の結果、今のところ人類がたどり着いたひとつの答えではなかろうか。というのも、そこには、民主的な決定に基づこうとも決して否定されてはならない価値が書き込まれているからである。だからこそこの法規範は政治権力を抑制し、民主制の暴走を防ぐことができる。
 
歴史としての契約
263 契約はその社会の命運を左右してきた諸原因の総体を説明する。契約はもはやその社会が辿ってきた歴史と区別ができない。バリバールが指摘する通り、こうして契約は一つの歴史の概念となる。
 したがって、ある社会の契約を研究することは、その社会を形作ってきた諸原因を研究することに等しい。
 
権力の限界
言論の自由は奪おうにも奪えない
意志と契約
パウロ『ローマ人への手紙』
 
 
 
第六章 意識は何をなしうるか――『エチカ』第四部、第五部
1 再び『エチカ』へ
出版と転居
三部構成から五部構成へ
 
 
2 『エチカ』第四部――良心と意識
完全と不完全という観念の起源
279 完全であるとは完成しているという意味であり、そして完成しているとはもともと、人間が何かの制作を企て、その企てを成し遂げた場合を指していたのだろうとスピノザは言う。つまり、完全性とはある人の意図した目的が達成されたことを指していた。言い換えれば、完全であるとか不完全であるなどと言えるのは、その意図された目的が知られている場合に限られていたということだ。
 だが、目的がわからないことに耐えられないからであろうか、人間はこの欠落を補うべく「一般的観念」なるものを形成するようになった。家ならばこう、塔ならばこうという同種のものをまとめ上げる観念である。すると完全と不完全の概念はその適用範囲を大きく拡張することになる。制作者本人に意図を確認しなくても、完全とか不完全などと言うことができるからだ。
 この観念の適用範囲はさらに拡張される。人間の手で作られたのではない自然物についても完全とか不完全などと言われるようになった。つまり同種のものについてあらかじめ一般的観念を作り上げ、それと一致しないものを見るや、「自然が過ちを犯してそれを不完全にした」と考えるようになったのである。スピノザはここから次のように結論する。「人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、物の真の認識に基づくよりも偏見に基づいている」(第四部序言) )。
 
それ自体において見られた事物
組み合わせとしての善悪
284 私が何かとうまく組み合わさり、それによって私の活動能力が増大するとき、その何かは私にとって善い。
 
古名の戦略
285 新しい思想を表現するためには新しい言葉が必要だが、新しい言葉を理解してもらうためには古い言葉でそれを説明しなければならないから、結局、新しい思想を表現することはできないというしばしば取り上げられる逆説がある。この逆説には馬鹿げたところと耳を傾けるべきところがある。耳を傾けるべきであるのは、新しい思想を表現するにあたっても古い言葉を使わざるを得ないと教えているところである。まったく新しい言葉を使えばだれもそれを理解できない。もし、古い言葉でそれを言い換えて説明できるならば、その古い言葉を使い続ければいい。
 馬鹿げているのは、新しい思想を表現することの不可能性が結論されているところである。善と悪にせよ完全と不完全にせよ、スピノザは新しい思想を紡ぎ出している。しかも、これら古い言葉、これまでも使用されてきた単語を使って、である。この結論が見落としているのは、 ある言葉について意味が通じているからと言って、必ずしもその言葉の意味し得るところがすべて理解されているわけではないということだ。一つの言葉はその背後に他の諸々の言葉と織りなす諸関係およびそれを支える系譜学を持っている。言葉を読むとは、この諸関係と系譜学を分析することであり、第四部序言の冒頭でスピノザが「完全」と「不完全」という言葉について行っているのはそのような分析に他ならない。
 この諸関係と系譜学の分析は、一般的に通用している意味において何が覆い隠されているかを明らかにする。たとえば完全と不完全という言葉の場合なら、ある時に形成された一般的観念なしではその一般的な意味はもちこたえられないという事実であるスピノザはこれを足掛かりに、完全と不完全、善と悪といった古い言葉を使いながら、まったく新しい思想へとたどり着いた。たとえ古い言葉を使い続けようとも、その言葉において覆い隠されていた何かを見出すことができれば、新しい思想を語ることができる。これまでとは違う思想を表現することができる。
 
良心と意識の同一性
286 第四部の序言は善と悪を活動能力の増大と現象によって定義したが、これは第二種認識、すなわち私の身体から離れた理性の観点からなされていた。だが第二部で確認された通り、そのような観点は人間にとっての出発点ではあり得ない。人間の本質である欲望は意識を伴っているわけであるから、善と悪の観念もまた、意識との関係において定義されねばならない。スピノザは第四部が始まってすぐ八つ目の定理でこの課題に手をつける。
 
 「善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない」(第四部定理八)。
 
 感情とは身体の変状およびその観念のことであった。
 善と悪の認識とは一般に「良心」と呼ばれるもののことだ。するとこの定理は、良心と意識は同一であると述べていることになる。
 
288 「これは悪だ」と考えるから苦しい、――つまり『エチカ』の用語で言えば――悲しいのではない。何かを行為するにあたって、苦しい、悲しいと感じるから、それを悪と認識する。つまり良心のささやきを聞いた気がするのである。
 
 スピノザは、善と悪の判断から独立して中立的な意識が存在するという考えそのものを否定しているのである。
 
良心と意識の区別は存在しなかった
意識とは何であるのかはまだ分かっていない
291 この事実からすぐに理解できるのは、我々が当然視している意識の概念を『エチカ』に投影してはならないということである。この概念の起源は『エチカ』と同時期、あるいはその直後にあるのだから、『エチカ』を読むにあたっては、ロックやカントやフッサールやジェイムズといった「意識」の概念の構築に大いに貢献した近代の哲学者たちの仕事を一度は忘れなければならない
 そもそも――これはバリバールが強調している点である――意識とは何なのかが我々にはまだ分かっていない。認知科学や脳神経科学がこれについて膨大な量の研究結果をあげつつあることは事実である(それにしても、意識とは何かが分かっていない、意識を定義できていないのに、「意識はどうやって発生するのか」が盛んに研究されているのはどういうことなのだろうか。ここには、意志とは何かが判然とせぬまま、「自由意志は存在するのか」と問うのと同じ落とし穴があるように思われる)。それでもなお、意識とは何かという問への答えを我々は手にしていない。
 
良心と目的論
292 不快(悲しみ)であるから避けようとすることが悪と感じられ、快(喜び)であるから求めようとすることが善と感じられるのだとしても、意識はそうした快不快を生み出すに至る因果関係をどうしても掴み損ねる。いわゆる良心の概念は、『エチカ』の意識概念によって、その発生のメカニズムとともにその不可避性をも説明されていることになる。
 
いわゆる良心の発生メカニズム
293 我々が自分たちの精神の中に良心という独立した審判を見ることに違和感を抱かないとすれば、それは、良心によって下されているように思われる審判が、一般的に善や悪と見なされているものと概ね一致するからであろう。だからこそ、我々は個人的な快不快で善悪を判断しているのではないと、信じているし、信じたいのである
 これについてスピノザは、「習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではない」、なぜならば、親は習慣上「悪い」と呼ばれている行為を非難して子をそのためにしばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨するからだという実に当り前のことを言っている。
 
 「それは習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではないということである。実際このことは、前に述べた事柄から容易に理解される通り、主として教育に由来しているのである。すなわち親は「悪い」と呼ばれている行為を非難し、子をそのためにしばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨し、賞讃し、これによって悲しみの感情が前者と結合し喜びの感情が後者と結合するようにしたのである」(第三部感情の定義二七)。
 
意識と良心が区別されていなかったのはなぜか
295 逆に、良心と意識とを区別する一七世紀以降のロック的な思考の登場は、社会的規範の強い影響力を前提できなくなったことをその一因としているのではないだろうか。完全には社会的規範に包摂されない個人というものを考えるならば、個人的な意識を良心から独立したものとして想定せねばならなくなるからである。
 
良心/意識の無区別、法/権利の無区別
297 つまり、通常ならば、自然権の発見は、社会に対する個人の優位を意味するはずであり、また他方、意識を良心から独立させることの回避は、個人に対する社会の優位を意味するはずであるのに、スピノザにおいては、この発見と回避とが、超越的な価値を設定する国家の中で生きている個人に同時に適用されるという近代の常識に反することが起こっているのだこれは、国家あるいは社会の中で生きている個人が、あくまでも具体的に、その国家やその社会やその個人の歴史の中で捉えられていることを意味しているように思われる。個人の自由は否定しようがない。だが、自由であるものとして考えられた個人は、常に既に、一つの歴史を持った国家や社会の中に生きている。スピノザはこの具体性にこだわっているのだ。意識と良心の関係という問題は、このように、近代国家のあり方と無関係ではないのである。
 
良心と心情の動揺
297 スピノザが意識と良心を区別しないのは、善と悪の認識を葬り去るためではない。『エチカ』が善と悪について考えようとしていることは第四部の序言において確認したばかりである。スピノザが『エチカ』で目指しているのは、善と悪の認識を意識に対して超越的な位置に置くのではなくて、それを意識に内在させるような倫理の構築であるスピノザいわゆる良心に頼らずに善悪を考えようとしている。既に述べた通り、一般に良心と呼ばれているものには、確かに実際のところは喜びと悲しみの感情であるけれども、それはそれで一定の役割は果たしうる。しかしそれはスピノザの目指す倫理の構築にとってとても十分だとは言えない。
 
中立的な意識と「自由意志」
300 よく考えてみれば、意識が中立的ではあり得ないこと、すなわち意識は善いか悪いかという価値を付与された仕方でしか世界に向き合えないことは、第二部で、精神が身体の変状の観念であると言われた際に既に示されていたことだ。身体の変状は喜びか悲しみかいずれかの方向性をもっているのだから、その意味で良心と意識の区別は既にあの地点で破棄されていたのである。
 だが、この区別を取り払うことには抵抗があるに違いない。なぜだろうか。意識の性質ゆえ、我々が目的論的な考え方から完全に抜けきることは難しいからだと答えるほかない。中立的な意識というただの器があってその中に自由意志が発生する――そして良心を参照する――と、我々はどうしてもそう感じる。この意味で、良心と意識の区別、したがって中立的な意識という概念は自由意志の概念と分かちがたく結びついている。そして、実のところ、良心は意識された感情、つまり諸々の変状の結果に過ぎないのに、自らが良心に従うことができると信じられているという点では、一七世紀以前も以後も変わりはないのである。
 スピノザの徹底的な目的論批判がどれほど広大な射程を持っているかが改めて理解されよう。『エチカ』を読む者は自分の考え方の何もかもを再検討せねばならない。目的論批判が容易ではないとはそのような意味である。
 
301 「我々をしてあることをなさしめる目的なるものを私は衝動と解する」(第四部定義七)。
「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する」(第三部定理九備考)。
様々な原因によって何らかの対象を求める衝動が生じた後で、そのようにして求められた対象が善い目的として意識される。意識による転倒によって、衝動が目的と見なされる。したがって、目的はもともとは衝動であるとは言えるが、衝動はいかなる意味においても目的であるとは言えない。
 
意識は常に道徳的である
302 善悪の認識を伴っていることを「道徳的」と呼ぶならば、意識は常に既に道徳的な意識であるということができる。意識は身体の変状に基づいて、常にあらゆる事象について、善いとか悪いといった判断を下してしまっている。
 
理性は能力でも意識でもない
303 理性という能力があって何事かを認識しているのではない。単に、理性的認識と呼ばれる観念だけがあるのであって、『エチカ』に言われる理性は理性的認識の集合と考えられねばならない。
 さらに意識の観点からこれを説明するならば、理性的認識は意識から峻別されるべきものである。『エチカ』において理性と呼ばれているものは意識ではない。なぜならば、身体の変状を基礎とする意識とは異なり、理性は共通概念と呼ばれる概念を基礎にしているからである
 
理性的認識は自然の中に存在している
304 理性的認識とは、観念の秩序の中に現に存在している自然法則から取り出された認識である。
 
理性的認識と身体の変状という不純
自己の利益
308 「善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制しえない。ただそれが感情として見られる限りにおいてのみ感情を抑制しうる」(第四部定理一四)。つまり、結局意識と良心の同一性を述べた定理八(善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない)に戻ってくることになる。先ほどのやや不正確な言い方を続けるなら、客観的な善と悪の認識も、主観的な善と悪の認識に帰着する限りで意味を持つからだ。
 
310 「理性に支配される人間、言いかえれば理性の響きに従って自己の利益を求める人間は、他の人々のためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく、したがって彼らは公平で誠実で端正な人間であるということになる」(第四部定理一八備考)
 引用個所を注意深く読んでいただきたい。スピノザは、自分がされたらいやなことは他人にもしない、と言っているのではない。他人がされたら嫌なことは自分にもしない、と言っている。人間はそもそも自分のことをよく知らないならば、他人がされたら嫌なことを自分にしてしまうのだ。だからこそ、自分を知ること、そして自らの本性に従って行動できるよう、すなわち有徳的であるよう、「自己の利益」を求めることが肝心なのである。「自分自身を知らない者は一切の徳の基礎を知らない者であり、したがってまた一切の徳を知らない者である」(第四部定理五六)。
 
理性的認識の限界
殴打――なぜ人を殴ってはいけないか
312 「それ自体だけで観ればいかなる活動も善でも悪でもない」(第四部定理59別の証明)
313 「おのおのの活動は、我々が憎しみその他の悪しき感情に刺激されたという事実から発する限りにおいて悪と言われる」(第四部定理59備考)
 
有徳な人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろうと述べた定理である(第四部定理37)。つまりこういうことだ。自らのために求める善を他人の為にも欲するような状態からほど遠くなっているがゆえに、憎しみから人を殴ることは悪と言われるのである。あくまでも悪は、自己の利益の観点から規定されている。
 
法でも命令でもない倫理
314 簡単に言えば、憎しみから他人を殴ってしまう時、その人間は好ましくない状態にある、だから悪だということだ。この答えに納得できない向きも少なくなかろう。なぜだろうか。それはスピノザの考える倫理が「汝、・・・をするなかれ」という命令の根拠を与えてくれないからである。言い換えれば、我々が倫理に対して、その種の命令――「・・・してはいけない」――を求めているからである。しかしスピノザの考える倫理からは命令は導き出せない。それが先に、『エチカ』は善と悪の認識を意識に対して超越的な位置に置くことなく、あくまでも意識に内在させようとしていると述べたことの意味に他ならない。
 
改めて、組み合わせとしての善悪について
315 「人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせるものは善である。これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるようにさせるものは悪である」(第四部定理39)
 この定理は共通概念として提示されている。既に導入した用語を用いて言い換えれば、この定理はコナトゥスの維持こそが善であり、その阻害が悪だと述べているわけだが、その維持や阻害を諸部分の関係から規定しているところにこの定理の新しさがある。人間身体は部分からなり、その部分もまた一つの個体として捉えることができるのだった(第二部要請一)。
 
317 「しかしここで注意しなければならぬのは、身体はその諸部分が相互に運動および静止の異なった割合を取るような状態に置かれる場合には死んだものと私は解していることである。つまり、血液の循環その他身体が生きているとされる諸特徴が持続されている場合でも、なお人間身体がその本性とまったく異なる他の本性に変化しうることが不可能でないと私は信ずるのである。なぜなら、人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しないからである」(第四部定理39備考)
 
 「私はあるスペインの詩人について次のような話を聞いた。彼は病気にかかり、そしてそれは回復したものの、彼は自分の過去の生活をすっかり忘れきって、自分が以前作った物語や悲劇を自分の作と信じなかったというのである。それでもし彼が母国語も忘れたとしたら、彼はたしかに大きな小児と見なされえたであろう。もしこうした話が信じがたいように思えるなら、小児について我々は何と言うべきであろうか。成人となった人間は、他人の例で自分のことを推測するのでなかったならば、自分がかつて小児であったことを信じえないであろうほどに小児の本性が自分の本性と異なることを見ているのである」。(第四部定理39備考)
 
319 「あえて言うが、何びとも自己の本性の必然性によって食を拒否したり自殺したりするものでなく、そうするのは外部の原因に強制されてするのである」(第四部定理20備考)。
 
320 「自殺する人々は無力な精神の持ち主であって自己の本性と矛盾する外部の諸原因にまったく征服されるものである」(第四部定理18備考)。
 
 
3 『エチカ』第五部――自由は語りうるか
第五部はなぜ必要だったのか
自由の奇妙な位置づけ
第五部の中心概念
323 あらためて確認するならば、第一部では「が、第二部では「精神が中心的に論じられていた。第三部は感情生活の分析ともいえる内容で、その中心概念は「欲望だった。第四部は前三部の議論を使って、最初から最後まで「善悪」について論じている。
 
324 第五部で実際に論じられている中心概念を挙げるならば、おそらくそれは「永遠 aeternitas」――正確には精神の永遠――である。
 
賢者と意識
324 「以上をもって私は、感情に対する精神の能力について、ならびに精神の自由について示そうと欲したすべてのことを終えた。これによって、賢者はいかに多くをなしうるか、また賢者は快楽にのみ駆られる無知者よりもいかに優れているかが明らかになる。すなわち無知者は、外部の諸原因からさまざまな仕方で揺り動かされて決して精神の真の満足を享有しないばかりでなく、その上自己・神および物をほとんど意識せずに生活し、そして彼は働きを受けることをやめるや否や同時にまた存在することをもやめる。これに反して賢者は、賢者として見られる限り、ほとんど心を乱されることがなく、自己・神および物をある永遠の必然性によって意識し、決して存在することをやめず、常に精神の真の満足を享有している」(第五部定理42備考)
 
326 これまで検討してきたところによれば、意識の特徴は、原因について無知であり、何事をも目的において捉えるところ(意識の目的論)、そしてそれ故、何事をも善いか悪いかという価値のもとで、つまり道徳的に受け止めるところ(意識と良心の同一性)にあった。身体の変状すなわち衝動を引き起こす無数の原因の連鎖を意識することは困難であるため、衝動の原因は「自分はいまこのような善いことを目指している」、あるいは「このような悪いことを避けようとしている」という目的として意識される。初期状態における意識はこのような転倒を避けられない。それ故、これまで我々は意識を第一種認識に位置づけてきた。
 だがここで論じられている賢者の意識はそのようなものではあり得ない。スピノザは明らかに第三種認識について語っている。少し前の定理でも、第三種認識と意識の関係が明示されている。
「このようにして各人はこの種の認識(第三種認識)においてよりすぐれているに従ってそれだけ良く自己および神を意識する」(第五部定理31備考)
すると『エチカ』には第一種認識としての意識と第三種認識としての意識の二つが語られているということなのだろうか。
 
四つの対象
326 賢者は自己と神と物を意識すると言われている。自己は身体と精神からなるのだから、意識される対象は実際には身体と精神と神と物の四つである
 
327 第一種認識としての意識、すなわち初期状態にある意識は身体の変状がもたらす結果を受け取っているだけの状態にある。自らの身体の内部に留まっていて、その外部にある一般法則についての認識に自らを届かせられていないという意味で、この意識は、きわめて受動性が高い状態にあり、いわば静止している。それに対し第三種認識としての意識は、身体の変状をただ受け取る静止した状態にあるのではなくて、四つの対象の間を経めぐるようにして運動している。ここに大きな違いがある。
 つまりこうだ。身体が何らかの変状を起こした時、意識は、その変状に適用できる一般法則を知っているならば、法則を手がかりとしながら、その変状が自らの身体および精神のいかなる特性と結びついているのかを認識し、この変状という結果を原因において捉え直すことができる。その際に意識は、当然、自らに関係するもの――なお、「物」は、物体的な事物だけでなく、非物体的な出来事をも意味する――へと、また、やがては無限なる全体としての神へと向かい、これらとの因果関係を「永遠の必然性」において把握することになる。
 人間の意識はどんな場合もまずは第一認識から始まる。たとえ第三種認識をすでに経験したことのある人物でも、必ずそこから始まる。だが人間の意識は、第一種認識から始まりつつも、変状という結果をもたらした原因について観念を形成することができる。それは感情のあり方に影響を及ぼす。
 第三種認識とは孤立した一観念ではなくて、こうして繰り返される認識の過程そのものを指しているように思われる。だからスピノザは第三種認識を描き出すにあたって、何か一つの認識を取り上げるのではなく、これを、自己と神と物を意識することとして説明した
 
第五部の前半
329 「我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しない」(第五部定理4)
「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める。」(第五部定理3)
「精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる。」(第五部定理14)
 
「すなわちこの認識は、受動である限りにおいての諸感情を絶対的には除去しないまでも(この部の定理三と定理四の備考とを見よ)、少なくともそれらの感情が精神の極小部分を構成するようにさせうる」(第五部定理20備考)
これはつまり、能動性もまた一つの結果であること、第三種認識によってもたらされる結果であることを意味している。確かに能動性を目指すことは出来よう。だが、重要なのは第三種認識としての意識に到達することなのである。自らの身体と精神と物と神をよく意識しているとき、人は結果として能動的になる
 
観想
330 「自己満足は理性から生ずることができる。そして理性から生ずるこの満足のみが、存在しうる最高の満足である」(第四部定理52)
「自己満足は人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである」(第四部定理52証明)
つまり、存在しうる最高の満足を与えるのは、<自己の能力の観想>により生じる喜びである
 
331 <自己の能力の観想>は確かに最高の喜びを与えるけれども、「そしてこの満足は賞讃によってますます養われ強められ(第三部定理五三の系 により)、また反対に(第三部定理五五の系により)非難によってますますかき乱されるから、このゆえに我々は、名誉に最も多く支配され、そして恥辱の生活はほとんど耐えることができないのである」(第四部定理52備考)
 
「したがってこの感情は、ほとんど征服できないものである。なぜなら、人間は何らかの感情に囚われている間は必ず同時に名誉欲に囚われているからである。キケロは言う、「最もすぐれた人々も特に名誉欲には支配される。哲学者は名誉の軽蔑すべきことを記した書物にすら自己の名を署する」(第三部諸感情の定義44)
 
神への知的愛
332 では、なぜ名誉はかくも人間をかき乱す感情であるのか。それは<自己の能力の観想>という人間の望みうる最高の満足が、結局のところ、名誉に等しいものであるからだ。
 
「そして心の満足は実際には(感情の定義二五および三〇により)名誉と異ならないからである」(第五部定理36備考)
 
「この愛は精神が原因としての神の観念を伴いながら自己自身を観想する働きである」(第五部定理36証明)
 
333 この観想が神の観念を伴いつつ行われるならば、それはただただ最高の喜びを人間に与えるのだ。ここにこそ第三種認識における意識が神を対象とする理由がある。最高の満足を与える<自己の能力の観想>が、自己と神と物を経めぐる意識の過程、第三種認識の運動の過程に組み込まれた時、人間はもはやこの観想によって得られる喜びを、すなわち自己満足あるいは名誉を、他人との比較によって乱されることがない。神を意識するとは、つまり、自分になしうることを想いながら、自らに似た他人という同類の表象ではなくて、無限なる神の観念を意識するということだ。こうして、<自己の能力の観想>は、他人との比較に陥ることなく、最高の喜びそのものとなる。その過程の結果として、我々はよりいっそう能動的になる。
 
第三種認識の小括
333 「以上によって我々の幸福あるいは至福または自由が何に存するかを我々は明瞭に理解する。すなわちそれは神に対する恒常・永遠の愛に、あるいは人間に対する神の愛に存するのである」(第五部定理36備考)。
 
第三種認識における理性の役割
335 太陽が200フィートの距離にあるというのは虚偽であるが、私の身体にはそれが200フィートの距離にあるように感じられるというのは真実である。もし私が「身体は何をなしうるか」(第三部定理2備考)を探求し、そのように感じられることの原因を見定め、このメカニズムについての共通概念、すなわち理性的な概念を形成できるならば、「いまや十全な観念の反照〔反省〕と化した意識は、おのれの味わった変状や感情から明晰判明な概念を形成することによって、その錯覚を乗り越えることができる」〔ドゥルーズ〕。
 ドゥルーズがここで共通概念、すなわち理性的な概念に言及していることは重要である。我々はいま、常に第一種認識を出発点とする運動の過程としての第三種認識という像を描いてみせたが、いかなる手助けもなければ、第一種認識のもとにある意識がこのような運動に身を乗り出すことは難しいと言わねばならない。因果関係についての地である第二種認識こそ、その手助けを担うものである。第二種認識の形成する概念――なお、ここで「概念」の語は、身体に根ざす「観念」と対比的に用いられている――は、意識が先に描いた運動に乗り出すにあたっての手助けをする。たとえば、私の身体には、引いては人間の身体には、太陽を前にした時にかくかくしかじかの反応を示す特性があるという概念あるいは法則こそが、意識の運動の引き金を引く。
 
意識の弁証法
336 バリバールはこの過程において重要な役割を果たす第二種認識が意識に属していないことに注意を促している。理性的概念は私の身体ではなくて共通概念を基礎としているがゆえに、意識とは言えないのだった。意識は、つまり、意識のとっての他なるものである「理性」――理性的認識――に「寄り道」することで、先の過程へと身を乗り出すのだ。バリバールは、意識(第一種認識)が意識でないもの(第二種認識)を経由して再び意識(第三種認識)へと戻るこの過程を指して、「弁証法的」と呼んでいるが、この呼び名を採用するかどうかはともかくとして、意識は確かにそのような運動が見いだされる。
 
337 或る個物の本質を表現した一個の十全な観念が私の中で形成されるのは、私の身体から始まるこのようなプロセスが不断に行われている限りにおいてのことであり、したがって、一個の十全な観念の背後には、意識の(弁証法的な)運動が存在しているのだ、と。第三種認識は、第一種および第二種とはあり方そのものが大きく異なるのだと言わねばならない。第一種および第二種観念は孤立した観念として形成される。それに対し、第三種認識はそうして形成された観念の間を絶え間なく運動し続けることそれ自体である
 
身体なき精神
337 「我々は我々の永遠であることを感じかつ経験する。なぜなら精神は、知性によって理解する事柄を、想起する事柄と同等に感ずるからである」(第五部定理23備考)。
つまり、たしかに我々は永遠を知性で理解し、それについて十全な観念を形成することもできる。だが、それだけではない。人間の知性は自らが理解できるものを、理解するのではなくて感じることがある。これは第三種認識としての意識の運動がもたらす一つの効果として考えることができるだろう。第三種認識によって私なりに積み重ねられていくものである以上、それを一般的な言葉――つまり理性の言葉――で説明するのは無理なのかもしれない。事実、スピノザは永遠について「感じる」という動詞も使っているのである。
 
339 
「精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり・過去の事柄を想起したりすることができない。」(第五部定理21)
「人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する」(第五部定理23)
つまり、我々がそれであるところの観念は、神の永遠の必然性の一部である限りにおいて永遠である。身体が朽ち果てようとも、我々一人一人がこの自然すなわち神と、それぞれの仕方でつながっているということそのものは決して消えない
 注意しなければならないのは、人間精神は身体と共に完全には破壊されえないと言っても、死後に意識が残るわけではないということである。身体がないのだから意識もないのだ。だからスピノザは、精神は身体の持続する間だけしかものを表象することはできないというのである(第五部定理21)。どれほど精神の永遠を語ろうとも、スピノザが決して、死後は肉体を離れた意識だけが残るなどとは述べない事の理由もまたその意識の理論に求められる。
 
永遠性
340 永遠について考えるためには、一度身体を離れなければならない。身体が永遠であるはずはないからである。だが、このことは、身体を「永遠の相」のもとで考えることを些かも妨げない。だからスピノザは身体なき精神について考えると述べた直後に次のように宣言するのである。
「しかし神の中にはこの    または かの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する」(第五部定理22)。
ある一つの人間身体が、一つの歴史を持って、その歴史に置いて形成された本質を維持しながら、存在している。その本質は確かに、永遠の必然性のもので、「永遠の相」のもとで理解されうる
 
永遠性は時間によって規定されない(第五部定理23備考)
永遠は時間とは無関係であって、いつとか以前とか以後などと言うことはできない(第一部定理33備考2)。また永遠は必然性とも言われている(第一部定理10備考)。
 
341 永遠とは、必然性において捉えられた――ある意味で空間的な――因果関係の連なりの全体のことではないだろうか。我々一人一人の身体はその中で原因をもって存在している。ならば、永遠である精神とは、その必然性の連なりの中の位置を示すマーカーのようなものではなかろうか。各々の個体の観念は神の永遠の必然性の中に確かに場所を持っているのだから。
 
直観
341 それに対して第三種認識は、私の身体から出発した私の意識によって私なりに積み重ねられていくものである。第五部後半が主題として扱っている永遠性は、その過程の中で人間が感じたり、場合によっては理解したりするものだ。永遠を感じ経験することはもちろん、その十全な観念もまた、言葉で説明できる範囲を超えている。いや、そもそも私の意識が私の身体を出発点として私なりに自己と神と物を経めぐって形成していくのが第三種認識なのであるから、その成果は、私にとっては明晰判明であっても、そもそも言葉を超えている。
 第三種認識は確かに個物の認識を産出するが、そこで産出される観念を言葉で言い尽くすことはできない。第三種認識に付された「直観」という形容はそのことを言っているように思われる。実のところ『エチカ』は直観を正面からは定義していない。だが、この語の伝統的用法を参照しながら言えるのは、それが推論から区別されるものだということである。共通概念、理性的な認識は言葉で箇条書きにすることができるのであり、それを組み合わせて推論を行うことができる。それに対し直観は、神という万物の原因のもとで個物が把握されて形成される観念であって、その対象のリアリティそのものである
 リアリティそのものと言っても、純粋に理念的な理性的認識の不可能性を指摘した際にも述べた通り、そこには何らかの不純さを伴っているに違いない。我々は有限な身体を持っているからである。第三種認識は第一種認識を出発点とする一つの過程なのだから、身体に根ざした欠損や瑕疵が完全に取り除かれることはないだろう。
 また、第三種認識が過程であるということは、直観がある程度の時間を持って形成されることをも意味しているだろう。直観を瞬間と結びつけるのはロマン主義に特有の考え方であるが、スピノザの言う第三種認識をそこから解釈することはできない。
直観知は、私の身体に根ざした私の意識が諸対象を経めぐる過程において現れるものであり、また経めぐっている限りにおいて存在するものである
直観知は、私の身体に根ざした私の意識が諸対象を経めぐる過程において現れるものであり、また経めぐっている限りにおいて存在するものである。
 
あらためて第五部という余剰について
343 もはや言葉で説明できる範囲を超えている第三種認識、直観知、そしてそれと関係を取り結んでいる永遠性――これらを検討してきた後で言えるのは、第五部は、第四部までが扱ってきた、言うことができる領域に、言うことができない領域ををつけ加えようとしているのではないかということである。第四部まではほとんど言うべきことは言われているように思われたのは、確かに、言うことができる領域では、言いうることが言い尽くされていたからではなかろうか。この言い尽くされたという感覚こそが、第四部まででも、あるいは第五部前半まででも、十分ではないかという印象を与えるのではなかろうか。
 
命題で説明される、命題では説明できないこと
345 至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。(第五部定理42)
 
 この定理は見た目の簡潔さとは裏腹に、奇妙な言語的構造をもっている。至福が徳の報酬であるならば、至福は徳の外側にあることになる。その場合、徳の実践に先立って、徳の実践とは別に、至福について知ることが原理的には可能である。しかし、至福が徳そのものであるならば、徳の実践に先立って至福について知ることは原理的に不可能である。つまり、我々はこの命題から至福について何も知ることはできない。至福は徳を実践したときにはじめて知ることができるものであるからだ。この定理は、至福と徳を確かに説明しており、しかも両者の関係を肯定命題の形式で規定している。にもかかわらず、この命題は、それを記している言葉自体が命題の内容には届かないことを自身で示してしまっている。
 ここに見出されるのは、ある意味で、「光が光自信と闇とを顕すように、真理は真理自信と虚偽との規範である」(第二部定理43備考)という印象的なテーゼと同じ構造であろう。このテーゼは真理の外部に真理の基準を置くことの不可能性を言っていた。真理を実際に獲得する前に、真理の何たるかだけを知ることはできないのであって、実際に真理を知るものだけが真理の何たるかを知るのである。このテーゼもまた真理を、真理の獲得以前に言葉によって言うことの不可能性を述べている。しかもこの『エチカ』最後の真理と同様、それを否定命題ではなくて、肯定命題で語っている。いわゆる否定神学的な論理に訴えているわけではない。
 第五部がタイトルに掲げていた自由は、まさしくここに語られている至福と並べられていたのだった(第五部定理36備考)。ならば第五部がタイトルに自由の語を掲げつつもこれを一度も正面から定義していない理由もおのずと明らかである。言葉で説明できるのは能動性までである。自由は言葉で説明できる水準には位置していない。自由は至福と同様、言葉で説明されるのではなくて、経験されるものである。あるいは、自由とは、第三種認識という意識のあり方がもたらす結果である。意識は我々のあり方に大いに関係している。意識は我々の行為の決定に関わっている。意識は何をなしうるか。意識は自由をもたらしうる
 だとすれば我々が本当に『エチカ」を理解したと言えるのは、我々自身が『エチカ』の言う意味で能動的に生きて、ある時にふと、「これがスピノザの言っていた自由だ」と感じ得たときであろう。倫理学という実践的なタイトルを与えられたこの書はほんとうに実践的な書である。スピノザは言葉を用いて、言葉が到達し得る限界にまで、我々を連れてきてくれたのである
 
 
 
第七章 遺された課題――ヘブライ語文法綱要』『国家論』
1 スピノザ晩年のオランダ
災厄の年
ウィレム三世とヤン・デ・ウィット
「王」を求める民衆
スピノザの政治批判と怒り
 
 
2 ヘブライ語文法綱要』――純粋な知的喜び
哲学者が書いた文法の教科書
『神学・政治論』との関係
『国家論』との関係
『綱要』の快活さ
規則の体系性
362 よく知られているように、ヘブライ語では文字として表記されるのは子音だけである。ヘブライ語では意味の上で子音が重要な役割を担っているため、単語の意味さえ分かれば、そこにどういう母音が来るのかはわかってしまうのだという。そのことをイメージさせるためにスピノザが用いる比喩は実に素敵なものである。これは第一章を締めくくる一節である。「むしろ、文字と母音の違いをより明確に理解してもらうためであれば、このことは笛を例にとって説明するのがよいだろう。指で触れて音を奏でる笛である。母音とは音楽の音であり、文字とは指が触れる穴なのである。この点についてはこれ充分だろう」。
 
能動態と受動態の外部
内在原因と態
中動態的受動態
 
 
3 『国家論』――来るべき民主国家論
遺作
『国家論』の視点
君主国家
国家理性とタキトゥス主義
貴族国家
『国家論』における社会契約説の欠如について
382 民主国家の特徴である統治権への万人の参与が「外国人」「婦人および下僕」「子どもおよび未成年者」そして犯罪者については否定され、最後は、女性が政治から除外されるのは女性が男性に比べて本性的に無力だからであるとするスピノザの著作において最も悪名高い議論が展開される。「男と女が等しく支配することは平和をひどく損なうことなしには不可能であることを我々は容易に知りうるであろう。しかしこれについては十分である」。これが本書の最期の言葉である(第11章第4節)。
 このような言葉がスピノザの最期の言葉になったという事実は、スピノザに関心を持つ者としては相当に複雑な気持ちになるが、だからと言ってそのことに言及しないのはフェアではなかろう。力に注目するスピノザ哲学の弱点がここに現れているという指摘すら可能であるというべきであって、この言葉はより広い観点から今後、詳しく論じられる必要があろう。
 
多数者の概念
個人と国家ではなく多数者と国家
ある特殊な言い回し
有機体的身体という国家のメタファー
国家の身体と精神?
『エチカ』との関係
人間が存在するとはどういうことか
潜在的な哲学者たちに残された課題
399 読む人とは、自分たちに託されたものを確かに受け継ぎつつも、その批判的検討を怠らない者のことである。読む人としての哲学者スピノザに倣いつつ、今度は、我々自身が、スピノザが遺した本を読む人となって、新しい哲学を作っていかなければならない。
 
 
文献表
後書き