読んだ。 #桃太郞の妹 #相馬泰三

読んだ。 #桃太郞の妹 #相馬泰三

 

#国立国会図書館デジタルコレクション のものを読んだ。

 

https://dl.ndl.go.jp/pid/1170038

 

大正3年発行。全189ページ。

 

おお、なるほどなーという展開を追いかけていく感じで、おもしろかった。(ネタバレ回避)

 

『桃太郞の妹』以外にも、
『七色の蠟燭』、
『ソロモンの壺』、
『花子の荷物』という戯曲が3作収録されていた。

 

戯曲の3作も、結構おもしろいかった。
『七色の蠟燭』、『ソロモンの壺』は昔話ファンタジー物で、
『花子の荷物』は金持ちギャグみたいな感じ。

 
 
 
デジコレのOCRテキストファイルはバグっていたので修正しながら読んだ。
(「〓〓」は繰り返しの「ゝ」「ゞ」「ヽ」「ヾ」等)
 
 
 
桃太郞の妹
相馬泰三著
 
 
旅立ち
 
 
目次
桃太郞の妹・・・・・・1
七色の蠟燭・・・・・・147
ソロモンの壺・・・・・・163
花子の荷物・・・・・・177
 
 
装幀
中林僲 氏
 
 
桃太郞の妹
一 里川の流
 
 むかし、むかし、或るところに、お爺さんとお媼さんとがありました。
 お爺さんは山へ柴刈りに、お媼さんは川へ洗濯に行きました。お媼さんが、ぢやぶ〓〓、ぢやぶ〓〓洗濯をしてゐますと、川上の方から大きな桃が二ツ、どんぶらこ、どんぶらこと流れて來ました。
 お媼さんは、
『小さな桃はあつちへ行け、大きな桃はこつちへ來い。』
 と云ひながら、とう〓〓その大きい方の桃を拾ひ上げました。――これは、皆様のご存知のとほり、中から桃太郞が生れて出て、その桃太郞は、のちに日本一の黍團子を腰に下げて鬼ケ島を征伐に出掛けるといふのでありますが、その時、お媼さんに拾ひ殘された、その小さい方の桃は、その後、どこまで流れて行つて、何者の爲に拾はれ、どんな一生を送つた事でありませう。・・・・・・
 それは夏の事で、川の両岸には木々の靑葉が、ちやうど香油でも振りかけたやうに艶々と光つてゐました。その中に暑さうな音を立てゝ油蟬が頻りに鳴いてゐました。道を行く人たちが、みんな汗をだくだく流して通つてゐました。
 ところどころに、先刻のお媼さんのやうな人が、幾人も幾人も同じやうに、ぢやぶ、ぢやぶ、ぢやぶぢやぶと洗濯をしてゐました。それから、裸體になつて水およぎをして遊んでゐる里の童も大勢ゐました。さつきの桃は、それ等の人たちの側を通りすぎる時に、幾度か拾はれ相にしましたが、いつも、もう少の所で拾はれないで仕舞ひました。そして、どこまでも、どこまでも、同じやうにどんぶらこ、どんぶらこと流れて行くのでありました。こんな工合にして、里を幾つも幾つも流れて過ぎるうちに、川幅がだん〓〓と廣くなつて行きました。檜船だの、帆前船だの、いろ〓〓な船が徃つたり來たりしてゐるところへ來ました。岸にはところどころ、可成賑やかな、大きな町などもありました。
 或る時は、川の中ほどをながれ、或る時は、右の岸に沿ふて流れ、或る時は、左の岸に沿ふて流れて行きました。
 廣い野原へ出たり、中洲へ打ち上げられ相にしたり、大きな橋の下を通つたりして、やがて、川口へ出ました。そこには涯もない大きな海がありました。波の音が高く鳴つてゐました。
 かなり早い風が吹いてゐました。桃は風のまにまに、波にゆられながら、波の上になり波の下になりして、沖の方へ、沖の方へと遙か遠くへ打ち流されて行くのでありました。
 
 
 
二 濱の家
 此所は、ある島國の、とある漁村に一軒の貧しい家がありました。その家は、年寄つて仕事がよく出來なくなつたお爺さんと、お媼さんと、その孫の七助といふ若者との三人暮しでありました。七助は、まだ十八九の遊びたい盛りの年頃だりが、朝早くから日の暮れるまで、一生懸命になつて働いてゐます。釣をするしやうばいでありますが、嵐があつたり、天氣都合の惡るい時などは、町へ出掛けて行つて、何かと人の手助けをして幾らかのお金をとつて來ます。そして時々は年寄に食べさせる、何かおいし相なものを土產に買つて歸るのでありました。こうして貧いながらも、年寄つたお爺さんお媼さんに何ふじゆうなくすごさせてゐます。
 ある日のこと、その日も七助は、朝早くから釣竿を肩にして家を出ました。
 お天氣の良くなる兆で、日の出ないうちは、あたりに薄い靄が地に低く垂れてゐました。鳥が高く松林の上で晴れやかに鳴いてゐました。
 七助は家を出る時に、高く朝日を仰ぎながら、
『お爺さん、今日は、なぎが良いから、うんと漁があるよ。家へも土產を持つて來るからね、圍爐裡に鍋でも架けて待つてゐて下さい。』
 こんな事を云つて行きました。
 七助は、いつも行き慣れた岬の蔭の岩の上へ乗つて壓をおろしました。その日はそこへ鯛が澤山に集つて來てゐました。底の方に踊るやうにして騷いでゐる姿が、强く射しこむ日の光りで、びかびかと光つて見られました。思つたとほり、大へんに漁がありました。釣れるの釣れないのつて、それはまるで面白いやうでありました。餌をつけて投げると、そのあとから、あとから大きな鯛が、いくつも〓〓ぴかぴかと水をあたりに散らしながら上つて來るのでありました。
 お午少し過ぎる頃には、もう、一人で持ちきれない程澤山に獲れました。
 七助は非常に悅びました。それを町へ擔いで行つてお金をうんと得つて來ました。いつもより早く家へ歸つて來て、今日の漁の面白かつた事をお爺さんお媼さんに話して聞かせました。
 そしてお爺さんお媼るんに食べさせやうと思つて賣り感して來た、一疋の大きな鯛を籠の中から取り出して料理を初めました。鱗を除り、それから腹を裂いて臟腑を出しますと、その臟腑の中に、何やらごろ〓〓堅いものがありました。おや。これは、鯛が何か呑んでゐるんだな、と思つてよく調べてみますと、それは思ひもがけない、一つの大きな桃の種でありました。
『おや、鯛の腹の中に、こんな大きな桃の種が入つてゐたよ。ほーら、こんなにおほたね大きな桃の種!』
 と云つて、七助はお爺さんとち處さんの居る所へ持つて行つてみせました。
『おや、おや、これは大きな桃の種!ほんとにこれはめづらしい大きな桃の種だこと。······こういふ種を蒔いたら、どんなにか大きな桃が生るだらう。』
 と、それを三人が、手から手へ渡して眺め入つてゐましたら、これは不思議、ふとした機にそれがばツと二ツに破れて、その中から可愛らしい、眞赤な女の子が、ひよいと生れて來ました。あまりの不思議に三人とも、しばしの間は只あつけにとられて、ぼんやりしてゐましたが、やがて湯で洗つてやるやら、衣物を着せるやら、お爺さんとお媼さんとは、まるで周章てゝ、そこいらを轉げあるくやうな騷ぎであります。
 その明くる日は、お祝ひに赤のご飯を焚くやらして、七助も仕事を一日休みました。その子は、桃の種の中から生れ出た子だからと云ふので、お桃といふ名をつけてやりました。
 お桃は大變な縹緻よしで、あたり近所から大變に可愛がられました。右隣のおかみさんも、左隣のおかみさんも、
『どうか、私にも少し抱かしておくれ、私にも少し抱かしておくれ。――何といふ美しい子だらうね。こんな子なら、ほんとに育てるにも育て甲斐があるといふものだわ。』
 などゝ云つて、毎日のやうに大勢やつて來ます。そして、まるで競爭するやうにして自分の乳を少しでも多く飮ませやうとするのであります。こんな按梅で、誰ときまつた人の乳ではないが、お桃は何の世話もなくどん〓〓と大きくなつて行くのでありました。お爺さんお媼さんはお桃のおかげで、この頃では少し若返つたやうに元氣が出て來ました。七助も家の中が急に賑やかになつたので、これも大きによろこんでゐます。
 七助は、町へ行くしきつと何が玩具を買つて來てくれました。おしやぶりだの、がらがらだのを手に握らせてやると、身體を振つて喜びます。それから、不思議と七助を見識つて、どんなに泣いてゐる時でも、七助が抱いて、ゆすぶつてやると直ぐに泣きやむのであります。七助は自分の本當の子のやうに可愛くてなりません。
 月日のたつのは早いもので、百日、半年、一年、二年と、いつかお桃は十歲になりました。
 お桃は大變に利口な子で、もう、一人で水も汲めば、ご飯も焚きます、家のまわりのお掃除もします。それだから七助もよろこんで、
『お桃のおかげで、この頃は私も大變仕事が樂になつた。第一、家の方の事がまるではぶけるんだから。』
 こんなふうに云つてゐます。
 お桃はまた、隣りのおかみさんに願つて、松林へ一緒につれて行つて貰つて、松露だの松茸だのを採つて來ます、それを町へ賣りにも出掛けるのであります。
 ある日のこと、お桃は七助に向つて、釣りをする事を教へてくれと頼みました。しかし、七助は、
『それは、駄目だよ。お前さんなんぞに出來るやうな容易いもんぢやないよ。』
 と云つて、只笑つてばかり居ます。お桃は戯談ではありません。出來ることなら自分も七助と一緒に釣りに出て、少しでも家の手助けをしやうといふのであります。
『いゝから、どうか私も一緒につれて行つて頂戴な。私にだつてきつと、少しは釣れてよ。』
 と云つてきゝません。仕舞ひには自分で、山へ行つて竹を切つて來て、それで釣の道具をつくり、或る日から、無理に七助の後へついて行きました。初めのうちは何と云つても一尾もとれません。つゐ近くに糸を垂れてゐても、七助の絲にきばかり魚が附いて、お桃の糸には少しも附きません。お桃は子供ながらも一生懸に七助のする事を一々眞似て、その上にいろ〓〓と自分で工風をするのであります。熱心といふものは恐ろしいもので、そのうちにお桃の糸にも、一尾二尾小さなのが釣れるやうになりました。しまひには、どうやら七助の半分くらゐもとれるやうになりました。七助が止むを得ない用事で、濱へ出掛けられないやうなときは、自分一人で出かけて、家の者の食べる位のものは獲つて來るのであります。
 こんなふうだから、知らず識らずのうちに、七助の家もこの頃は大ぶ景氣がよくなつて來ました。それは、とてもまだ、お金が溜まるなどゝ云ふ所へは行かないが、どうにか人並みな暮らし夫はやつて行けるやうになりました。
 
 
 
三 翁の夢
 お桃が十四歲の春、七助は醉つぱらつて、人と喧嘩をして、その時受けた頭の傷が原因で、とう〓〓死んで仕舞ひました。
 その頃お桃の家は、七助小父さんの外、二人の年寄りと、七助のつれあひのお豊小母さんと、今年三ツになる七助の息子の市助と、こう六人暮らしでありました。大事な主人が亡くなつたのでありますから、家の内が何だか穴でも出來たやうに淋しくなりました。家の者はひどく悲しみました。しかし、いくらくやんでも、こればかりは取り返へしがつきません。
 あの正直者の、勉强家の七助が、一體どうしてまた酒などを飮むやうになつたかと云ひますと、それにはこういふ譯があるのであります。
 それは四年ほど前のはなし、一人の惡るい奴が、七助が金を少し貯めて持つてゐるのを聞き込んで、それをとり上げやうと計り、
『うまい儲け仕事があるから、仲間に入らないか。』
 などゝ甘い事を云つて、何のかんのと、とう〓〓それをぺろぺろとまき上げても、し仕舞つたのであります。そのやり方は、立派な詐欺でありましたから、七助は、そんな法はないと云つて、お役人に賴んで、その金を取戾さうとかゝりましたが、その役人といふのが又、大の慾張り者で、その惡者から賄賂をとつて、薩張り七助の云ふ事なんか聞いてくれません。それどころか、あべこべに、
『大事な金を他人に奪られるなんて、そんな馬鹿なはなしがあるものか。それはお前の方に何かさうされる丈の惡るい事をしてあるに相違ない。誰が、そんな譯もなく他人のものを奪つたりするものか。それは確かにお前がその人にさうされてもまだ足りないやうな迷惑でもかけてゐるのであらう。――他人にそんな迷惑をかけて置きながら、その人の事を訴へるなんて、貴様は何といふ不德義な奴だはらう。――馬鹿者奴が、そんな事を何時までも云つてゐないで、早く家へ歸へつて自分の仕事でも精出すがいゝ。』
 と云つて七助を叱り飛ばしました。
 七助は口惜しくてしやうがありません。考へてみれば充分自分の方に理屈がある、それを見す見す大事にして貯めた金を他人に奪られて仕舞ふなんて、おまけに役人に叱り飛ばされたり、そんな馬鹿々々しい事つてあるものか。世間の奴等はどうしてさう惡者ばかり多いのだらうと、思へば思ふほど憎々しく、忌々しくてたまりません。それからといふもの、七助は何をしても、どうも氣が浮きませもん。世の中が面白くなくてたまりません。――そんな事で、とう〓〓七助は酒を飮むことをおぼえました。どうかすると酷く醉拂つて家へ歸へる事もありました。さうかと思ふと、醉醒めの興のない顏をして二日も三日も仕事にも出ず、家にごろ〓〓ふさぎ込んでゐる事もありました。
 それでも初めのうちはそれ程でもなかつたが、段々と惡くなつて、酒さへ飮むと氣が荒くなつて、何かといふと怒つぽくなり、何の譯もない人にまで當り散らさしてはよく喧嘩を自分から賣るのでありました。そしてしまひには氣が少し變になつて、少しでも氣に喰はない事があると、直ぐにも家の者を叩いたり殿つたりするのであります。
 どうかして、七助の氣を靜めたいものと、お桃が側へ行つて何か云ふと、
『お前のやうなものは、もと〓〓家の者でも何でもありやしない。邪魔つけになるから、どこへでもさつさと出て行つて吳れ。』
 こんな邪見な事を云ふのであります。
 それでもお桃は、自分を育てゝくれた大切な恩人、この世にたつた一人の大切な人だと思つて、决して七助を怨んだり粗末にしたりする事はありません。そして、隣り近所の人によく、
『七助小父さんをこんな風にしだ世間の惡るい人達が憎らしい。』
 と云つて、却つて七助の亂暴を辯護してゐるのでありました。そして、まめまはめとお豊小母さんを助けて家の仕事に精出してゐました。
 ある年の秋であります。
 お桃が、一人で濱山の松林の中で松茸を採つてゐましたら、どこからか一人の見知らない男がお桃の前へ現はれて、親しさうにお桃の名を呼びました。そして云ひますには、
『お桃さん、わたしは、この山の向ふの村の者だ。家は家內と二人きりで何不自由なく暮らしてゐるが、どうしたものか二人の間に子といふものがない。それでいつも火のない家のやうに淋しくてしやうがない。どうだらうね。お桃さん、わすたしはお前さん家の様子は人に聞いてよく知つてゐる。あの七助さんは、もとはこの邊での賞められ者で、ほんとに立派な男だつたが、この頃はあの通りまあ半分氣が狂ふてゐる。それに追々貧乏にはなる。――それに何だといふぢやないか、お前さんなどにもこの頃は隨分と辛く當り散らしてゐるといふぢやないか。だから、ね一層の事、そんな家を捨てゝ今日から私共の家の子になつてお吳れでないか。さうすれば、あしたから、そんなぼろ〓〓した着物は着なくともいゝ。そしてこんな淋しい處へ一人ぼつちで松茸採りになん出かけなくてもいゝんだよ。わたしとわたしの家內とで、それはそれは大事にして可愛がつて上げる。さうしてお前の欲しいといふものなら、どんなものでも買つて上げる。え?さうしておくれでないか。』
『いゝえ。さうではありません。わたしは今の境涯を决して辛いなどとは思つては居りません。それよりもわたしが居なくならうものなら、あの家はどんなに困るか知れません。年寄りはゐる、七助小父さんはあの通りだし、お豊小母さんだつて、子持ちで、さう〓〓は世話がし盡せるものではありません。少しづゝでもわたしが、こうして働らいてゐなければ、その日その日の食ふものにも差閊えるのです。それだのに、それを目の前に見ながら、どんなにいゝ事があればとて、どうしてこのわたしが、あの家を捨てる事が出來ませう。それも、ほんの自分一人の安樂榮華の爲めに・・・・・・』
 と云つて、その人の云ふ事をどうしても諸きませんでした。
 その人もお桃の心の如何にも美しく、しつかりしてゐるのに感心して、强いてとは云ひ兼ねました。それで、懐中に持ち合はせた若干の金を取り出して、お桃の手に握ぎらせるや、すた〓〓と山を下りて行つて仕舞ひました。
 七助が死んでからは、一家の暮らしはます〓〓困難になつて來ました。それに女世帶といふので、どうしても世間からは馬鹿にされますし、何かと萬事思ふや둘うに行かぬ事が多くなりました。
 運の惡るい時には、妙に惡るい事が重なるもので、七助が死んでまだ半年と經たないのに、また赤ん坊の市助が重い熱病にかゝりました。初めのうちは普通の風邪だらうぐらゐで、打ち捨て置いたら、薩張良くありません。一日一日と様子が變つて行きました。醫者に診て貰ひますと、その醫者は氣の毒相な顏をして、さお、『どうも思はしくありませんな。少し手遅れになりました。・・・・・・まあ、十中の八九はむづかしいものと思はなければなりますまい。』
 と云ひました。お豊は、自分が病氣になつたよりもひどく嘆き悲しんで、
『この子に死なれたら、妾はどうしませう。・・・・・・妾は死んでもいゝから、どうかしてこの子を助けてやりたいものだ。』
と云つて泣いてゐます。
 お桃も氣が氣ではありません。さうかと云つて自分も一緒になつて泣いてゐては、家の仕事は駄目になつて仕舞ひます。仕事の方は一日だつて休んでゐる譯に行ません。こういふ時には常よりも心をしつかり持つてゐなければいけないと思つて常にもまして一生懸命に立働らきました。そして、とにかく市助の薬も買つてやり、また、母親にも出來る丈おいしいものを食べさせるやうにして、精々元氣のいゝ乳の出るやうにとさせるのでありました。
 ある時、お桃が、眠つてゐるお豊の身體に觸つてみましたら、市助の病氣が傳染たものか、これも燃えるやうに熱くなつてゐるのであります。
 お桃は、心配で心配で、その晩はとう〓〓少しも眠ることが出來ませんでした。翌朝起きると、直ぐ、裏山の上にある鎭守様へお參りして、心をこめてお豊母子の病氣が一日も早く癒るやうにとお祈りしました。こういふ事を三朝つゞけました。すると、その夜、お桃は不思議な夢を見ました。
 一人の翁、それは長い自髯を生やした神々しい老人でありました。多分それは神様が假りにさういふ姿でお現はれになつたのかも知れません。お桃はさう信じたのであります。その翁が、お桃の方へ手を伸べて云はれますには、
『これから東の方へ進んで行くと、遙か遠い、遠い處に一ツの大きな山がある。その頂きに一人の仙人が住んでゐて、それが、どんな病氣でも即時に癒すことの出來るといふ不思議な霊薬を持つてゐる。・・・・・・その山へ行くには先づ一ツの大きな森を通らねばならぬ。それから、一ツの大きな湖、一ツの深い谷、一ツの郷、一ツの嶮しい峯、・・・・・・そこに立派な宮殿がある。・・・・・・』
 と云ひ終ると、此度はその翁は、お桃を幾度も幾度もさし招くやうな手振りをしながら、遠くへ遠くへ、次第に薄く消えて行つて仕舞ひました。
 お桃は、目がさめたあとまでも、自分の目の前にきら〓〓光る後光のやうなもうのが映つてゐました。それで、お桃は、これはきつと、あの山の神様が自分達の難義を可憐相におぼしめして、假の姿を夢に現はして、自分に不思議な霊薬のある所を教へて下さつたのだと思ふて大層よろこびました。そして早速、それをお爺さんに話して、これからその霊薬を頂きに出掛けたいと相談しました。
 お爺さんは目をぱちぱちさせながら、
『さうさ、俺等も、昔から、どこか遠い遠い所にさうした不思議な薬のあるといふ事は聞いてゐるが、それだとてそんなものがどうしてさう容易く得られやう。それに、それはとてもお前さんなどの行かれるやうな所ではないのだよ。それはそれは遠い、遠い・・・・・・』
 と云つて、どうしてもお桃の出掛ける事に賛成してくれません。しかしお桃は今はさうしてあるべきでないと思ひましたので、近所隣りの者によくあとを賴んで、その翌日、とう〓〓その不思議な霊薬を採りに遠い遠い旅に出かけました。
 
 
 
四 怪しい森
 お桃がいつも松茸を採りに來る松林を過ぎ、小山を一ツ越えると、小さな小川が一筋流れてゐて、それに小さな板橋が架つてゐます。それがこの村の端れであります。
 そこまで來た時、お桃は一度、うしろをふりかへつて見ました。まだ明けきらない空は茫と霞んでゐました。小山の麓の大きな杉の樹の上に鳥が群がつて頻りに鳴いてゐます。その鳴聲が、耳のせいだか、妙に悲しそうに聞かれました。もしや、それは自分が出たあととに豊置子の病薬が急に重くなつて來た事でも知らせるのではないか、などと思つて心配しました。しかし、きつと神様が自分達を助けて下さると信じてゐますから、お桃は、しばし止めた足をあげて、此度はもう側目もふらず、一生懸命に、どんどんどんどんと步るいて行きました。すると行手の野の末にこんもりとした森の姿が見えだしました。
 お桃は思はず心の中で、
『あゝ、森が見え出した。』
 と叫びました。
 杉だの、松だの、檜だの、樫だの、欅だの、いろ〓〓な大木が相抱き合ふやうにして繁つてゐます、枝と枝とが組み合はせたやうになつて、日の洩る隙間もない位であります。藤だの、葛だの、蔦だのゝ類が、それ等の大木に纒ひ附いてゐます。そしてまた、ところどころには、名もわからない、途方もない大きな葉の木なども交つてゐるのであります。
 日の照つてゐた野の道から、急にこんな處へ入つて來たので、はじめのうちは、お桃は目が變で一寸先も見えませんでした。闇の夜を行くやうに、手探りをするやうにして步きました。そして、つゐ蔓草に足をとられて、轉ぶことも度々でありました。
 時々、木々の梢で、けたゝましい鳥の聲が聞えました。その度びにお桃は何かに脅かされでもするやうにびく〓〓しました。
 あたりが厭にじめ〓〓して、急に身内が寒いやうに感じて來ました。丁度その時木の間をすかして向ふを見ると、少し道を外れた處に、焚火の烟がもう〓〓と立ちのぼつてゐます。
『おや、あすこへ行つて、一つ火にあたらして貰つて行かう。』
 と行つてみますと、つゐ今しがたまで誰か確がに居たやうだつたが、あたりには何者の影もありません。それでゐて、火は今燃えつけたばかりのやうに盛んに燃えてゐます。
 お桃は薄氣味惡く思ひながらも、そこにしやかんで身體を暖めてゐますと、そこへ、これは不思議、一人の年の若い、頭を靑々と剃つた尼さんが、ひよつこりと現はれて來ました。ほんの瞬く間のことであります。どこからどうして來たものか、お桃にはとても見當がつきませんでした。
 お桃は驚ろいて、もう少しで、
『お〓!』
 と大きく叫び出すところでありました。
 それだのに、尼さんは親しげにお桃に挨拶して、何かと話しかけるのでありまます。そしてお桃に、なんでこんな所へ一人でやつて來だかなどゝ尋ねました。もお桃が正直にはなしをしますと、
『まあ、それはそれはご苦勞なことでございます。いや、わたしがいゝ事を教えて上げやう。そんな遠いところへ行くには及ばない。つゐ、この森の中にもさうした霊薬のある所がある。・・・・・・どれ、妾が案内して上げるから何でも妾のあとにきは、隨いておいでなさい。・・・・・・さう遠くはない。これから少し奥の方へ入ると一つのね洞穴があります。その中へどん〓〓入つて行くと、そこに奇麗な清水が湧いてゐる。その清水といふのが不思議とよく何病にでも利くのです。』
『いゝえ、ありがたいけれども、それでは私にこの旅を思ひ立たせて下すつた、あの夢の中のお爺さんに申譯がないから。』
 と云つて、お桃は堅く斷りました。それにも拘はらず、その尼さんは頻りにお桃を說きつけます。ふと氣がついてみると、その尼さんはお桃の袖を摑んで、ぐい〓〓と引張つてゐるのでありました。そこで、お桃はこれは何でも怪しい奴には相違ない。事によると、これは狐とか狸とかいふ類ひかもしれない。尼さんに化けて出て自分の穴の中へつれ込まうとしてゐるのだと考べましだか急に立ち上つて竹の杖をしつかと握りきつと身搆えしました。すると、尼さんは周章てゝお桃のそばを離れ、こそこそと何處かへ逃げて行つて仕舞ひました。
 お桃はほつと吐息をして、そこを出かけました。
 繁り合ふ草を押し分けながら、しばらく進むと、此度はどこからか赤ん坊の泣き聲がして來ました。こんな深い森の中に赤ん坊の泣き聲とは、一體どうしたのだらうと思つて、その聲のする方へ行つてみると、生れてまだ四ヶ月ばかりしか經たない可愛らしい赤ん坊が、お腹を空らしてでもゐるのか、顏中を淚だらけにして、えん〓〓泣いてゐます。
 しかし、お桃は先刻の尼さんの事もあるし、これも何か惡るい者の惡戯だらうと、見捨てゝそのまゝそこを過ぎ行きましたが、あまり悲しさうに泣き立てるので、また後戾りして、両手で抱き上げてやりました。『よい〓〓よい〓〓』と子守唄を唄つてあやしてやつて居ますと、何時か機嫌をなほして、お桃の顏をぢーいと見上げて莞爾と笑ふのでありました。
 どんな親が、こんなに可愛らしい赤ん坊をこんな所へ捨てたのだらう。ひどい人もあればあつたものだと思ひました。
 世の中にはこうした不幸な子供もある、母親でも急に亡くなつて、育てる乳がないので捨てたのか、などといろ〓〓に想像をめぐらしたりしてゐると、つゐ哀れを催ふして來て、思はず熱い淚がほろりと両の頰を傳ふて流れ落ちました。
 と云つて、何時までそこにその子を抱いてやつてゐる譯にもゆきません。幸ひすや〓〓と眠り付いたので、お桃はそーツとまた舊の草の上へ寢かして立ち去らうとしました。すると、また、直ぐに目を覺まして燃え付くやうに泣き立てるのであります。
 あんまり可哀相なので、お桃はそれでは、ついその邊まで抱いて行つてやらうと決心しました。
 二三町も歩るいた頃になつて、ふと氣がついてみると、手の中の赤ん坊が冷たくなつてゐるではありませんか。
『おや、まあ、可愛相に、この子は死んで仕舞つたのかしら。』
 とよく〓〓見ますと、自分の今まで抱いてゐたのは赤ん坊ではなく、大きな石塊でありました。
 何か惡るいやつが、自分にからかつてゐるのだとお桃は思ひました。二度まで、うま〓〓とやられたので、お桃はもう忌々しくて堪まりません。何といふ馬鹿々々しい事だらうと、手に持つてゐたその石塊を力任せに大地へ投げつけました。
 すると、乙は如何に、その石塊は忽ち黃色い一片の烟となつて、ぽーツとあたりに散つて仕舞ふのであります。その烟の中から、黃金色の毛髪を長く振り亂した、如何にも憎々しげな一人の魔女が現はれました。
 あまりの事にお桃は、只々あつけにとられて茫然としてそれを見詰めてゐました。と、やがて、その魔女は、手に持つた銀色の細長い韃を振つて、三度び虛空を切りました。すると、四圍の大木が一本一本、皆ぽー、ぽーと黃色い烟となつて行きます。そしてそのあとから炎々たる焔が燃え上つて、さしもに廣い大森林が瞬く間にすべて烟と焰とになつて仕舞ひます。そのうちにお桃の身邊へもそれが迫つて來ます、こうなつてはどんなに騷いでも仕方がありません。お桃の着てゐる着物にまで火が移つて來ました。焦氣と烟との爲めにお桃は苦しみ悶えた揚句、とう〓〓たまらなくなつて、そこへぱつたり倒れて仕舞ひました。
 どれほどの間經つたのか、お桃が我にかへつて、そーツと、恐る〓〓目を開いて見ますと、あたりにはもう烟の跡さへもありませんでした。その代りに直く自分の側に、先日の夢の中に見た、白髪を長く生やした、神々しいお爺さんが優し相に笑ひながら、自分を見下してゐるのに氣がつきました。
 お桃は思はず両手を合はせて、そのお爺さんを拜みました。
 老人は靜かにお桃を援けおこして、
『この森の中には、誠にいたづらな一人の魔女が住んでゐるので、そいつめが、こゝを通るものを何時も苦しめて困るのだ。一度、その魔女に見込まれたら、何者も遁れる事は出來ない。一生涯この森の中から出る事が出來なくなる、毎日のやうに魔女の妖術に弄ばれてゐなければならないのだ。・・・・・・しかし、お桃や、决して心配する事は要らない。まあ、何でもいゝから、わたしの云ふ通りにさへなつてゐればよい。わたしが森の外まで案内して上げるから。・・・・・・それにしてもその儘ではとてもこの森を越す譯にはいかない。先づ、何にも見えないやうに両方の目をしつかりと閉ぢなければならない。それから、何物も聞えないやうに両方の耳をしつかりと塞がなければならない。』
 と云ひました。
 お桃は、その通りにしました。お爺さんに引つばられるまゝについて行きました。時々、お爺さんは、
『わたしが良いといふまでは、どんな事があつても目を開けてはいけないよ。耳をあけてはいけないよ。』
 と繰り返へしました。
 お桃は、そのうちに閉ちてゐる目へも急にあたりの明るくなつて來だのを感じました。
 すると、お爺さんが、
『さあ、もうよし。――さあ、耳の蔽ひを除つてもいゝよ。-さあ、もう目を開けてもいゝんだよ。』
 と云つて、つとお桃の傍から離れました。
 お桃が周章てゝ目を開けた時にほ、もう、そのお爺さんの姿は、そこいらには見られませんでした。
 
 
 
五 悲しい湖
 尾花だの、野菊だの、萩などが枯れ枯れに咲き殘つてゐます。それ等の間から大きな湖の表面が、ちら〓〓と見るえてゐます。
 お桃は、一本の小道に導かれるまゝに湖の岸へ出ました。湖の四周には高い山がその裾を湖にひたして聳えてゐます。年老いた杉や松やが、水の上へ長くその枝を伸ばしてゐる所もあります。
 水の上には、白い薄絹のやうな靄がかゝつて、見渡すと、向ふに雲の橫はつてゐる高い峯が見える丈で、どこが岸ともわからない位大きな湖であります。
 お桃は、それを眺めて、
『これを渡らなければならないのか。』
 と思つて、ほつと吐息を洩らしました。
 それにしても、あたりには船らしいものも見えないし、さて、どうしたものかと、しばし途方に暮れてゐますと、どこからか程遠からぬところから、人の話しき聲がひそひそと聞えて來ました。
 お桃は飛び立つばかりに喜こんで、その聲のする方へと急ぎました。
 そこには船が一艘つないでありました。そしてそれに三人の人が乗り込んで、今にも岸を離やうとしてゐるところでありました。
 お桃は慌てゝそれを呼び止め、
『もし、もし、あなた方は、どこへおいでになるのか知らないが、お願だから、どうぞわたしもそれに乗せて行つて下さい。』
 と云ひました。
 お船の中の人達は、なぜか大變におどく〓してゐる様子でありました。初めは默っておりを見て疑ひ深かさうな目をして何か船の中で云ひ合つてゐましたが、お桃の顏附や、様子をよく見ると、默つて、
『早くお乗り。』
 と云ふやうに手招ぎをするのでありました。
 お願だから、
 お桃は、どうしたのかと不思議に思ひながらも走り込むやうにしてそれへ乗り込みました。
 やがて船は岸を離れました。
 船の中には、年寄りの夫婦者と、その娘らしい十七八の女の予が一人居ました。様子がおかしいのでお桃が訊ねてみますと、それには次のやうな譯があるのでありました。
 何でも、何でも、この潮の中には昔から一疋の大蛇が住んでゐるのだ相であります。それがお爺さん達の村へ時々暴れに出て、折角の作物を目茶苦茶にして仕舞ふのである年の事、村の人達が集つて、その大蛇の爲めに村端れて一ツの祠堂を立てゝ、いつもそれへ食べる物を置いてやる事にしました。それでもまだ鎭まりませんので、今度は巫女に依つて尋ねさしてみましたら、その巫女の云ひますには、毎年秋になつたら一人づゝ娘の子を大蛇に供へてやらなければ、どうしても駄目だとの事でありました。如何にも殘忍な話ではあるが、さうしなければ作物を暴らされて食ふものが少しも獲れません。仕舞には村の人全部餓死して仕舞はなければなりませんから、その年から、娘を持つた者が変はる交はる一人づゝ出す事になりました。
 ところが、この頃では世間の人達が不正直になつて、少し羽振りのいゝ家になると、何のかんのと口實を設けて、仲々自分の娘を出しません。その番に當つても、金を貸してある家へそれを無理に押しつけたり、なほ狡猾なのになると、村の者共に少しづゝくすくり金を撒いて、いやおうなしに貧乏の娘を代りに立たせるといつたやうな、そんな工合で、この老人達の家では、去年と今年と續けて二人の娘を奪られたのだ相であります。
 親として子の可愛くないものはありません。誰しもそれは同じであります。それを貧乏人だからと云つて、その者にばかりさういふ事を仕向けると云ふ法はない筈であります。それでこの老夫婦は、そんなに無人情な事をするのならば、自分達はこんな村に住まなくともいゝ。二人しかない娘を二人とも、そんな事にして仕舞ふ位なら、一層死んだ方がましだ。と云ふので、今、村の人達に隱れてどこか選い所へ逃げて行かうとしてゐる所だと云ふのでありました。
 老夫婦は、物語の中にも村人の不公平を憤つて、その爲めに幾度か涙を流しました。
 お桃も、七助小父さんの時の事などを思ひ出し、それやこれやを思ひ合はせて、何とも云へない氣持になりました。
 聞けば、その娘ほ、村人の爲めに引き出されて、一旦その村端れの祠堂の柱に縛りつけられたのを、老夫婦が物蔭に隱くれてゐて、今、やうやく連れ出して來たばかりのところだといふのであります。
『あの儘にしておけば、今夜のうちに大蛇の爲めに丸呑みにされて仕舞ふのです。』
『去年、この姉娘のお菊のときなども、その翌日になつてその堂へ行つてみたら、髪の毛が一本、床に落ちてゐた丈で、血一滴こぼれてゐませんでした。』などと云つて、三人の者は、まるでその時の光景を今また目のあたり見るやうな心持ちで、顏の色さへ蒼ざめ、怖しさの爲めに聲もおろ〓〓と慄えてゐるのであります。
 そのあとでお桃は自分の身の上を談りきかせました。すると、
『まあ、殊勝なお心掛けだこと。』
 と云つて、一同深くお桃の身の上に同情を寄せてくれました。中にも、娘のお里は、
『まだ年もゆかないのに。家の者の病氣を癒したいばかりに、こうして一人でこんな處へまでもよくお出掛けなさつた。ほんとに感心なお志だ。わたしなんかこんな年になつて、いつも親に心配ばかりかけて、・・・・・・あゝ、出來る事なら、せめて一緒に道中をして上げたい位だ。』
 と、眞心から云ふのでありました。
 お桃も、その親切な言葉を深く有難く思ふて、また新らしい涙をこぼしました。
 こんな話しに時を過ごしてゐますうちに、船は帆に風を受けてずん〓〓と進み、今は、丁度、湖の眞中あたりと思はれる所へ來ました。どつちを見ても只茫々として水ばかりであります。船舷に顏をつけて水の中を覗くと、水は澄み切つてゐて、湖の底までも見えるやうであります。深い深い湖の底をぢーつと見詰めてゐますと、そこには大きな森のやうなものがあるやうに見えます。よく見ると、その森の中に何やら大きな、圓い、長いものが橫つてゐるやうであります。何だらうと思ふて、お里は顏を一層船の外へ突き出して覗き込んでゐると、その圓い、大きな、長いものが、どうやら動き出して來ました。
 それから間もなく、お里は急に、
『きやあ!』
 と一聲高く悲鳴をあげて、船の中へ顏を隱しました。
 その物音に驚ろいて、帆を操つてゐました親爺がお里の側へやつて來ました。
 お里の顏はまるで土のやうに色を失つてゐます。どうしたのかと尋ねますと、お里は如何にも忍びやかな聲で、ひどく物に脅されたやうに、
『湖の底に、大蛇が、火のやうな眼をあげて、今、こつちへ浮いて來る!』
 と云ふのも、とぎれとぎれであります。そしてそれを云ひ終ると、直ぐに袖で顏を蔽ふて仕舞ひました。
『さあ、大變だ。困つた事になつて來た。』
 と、一同顏を見合せて眞蒼になりました。と云つていくら騒いでも致し方がありません。こうなつたら、兎も角も一時も早く岸に漕ぎ附かなければならぬといと、
ふので、今度はお里も、お桃も手傳つて一生懸命に櫓を押し初めました。
 ふと、氣がついて空を仰いでみますと、船の眞上の處に一ツの小さな黑雲が、どこから湧いて來たものか、無花果の葉ほどになつて現はれてゐます。ところがそれは見る見るうちに四方に擴がつて行きます。まるで大きな煙火の散るやうにぱあーつと、瞬くうちに空一面に陰々たる黑雲となつてしまひました。と、四方の山々、峯々から時ならぬ寒い風が、さあーつと吹き下ろして來ました。そしてその跡から、それを追ふやうにして大きな嵐が、湖の水を高く波立たせて押し寄せて來るのであります。
 さうこうしてゐるうちに、黑雲が次第に低く垂れて來て、船はまるで、空と水との間にへしつぶされ相になりました。
 やがて、大粒な雨がばら〓〓と落ちて來ました。
 船の中の人達は、今はもう生ける心地もありません。船は木の葉のやうに波に船はまるで、空と水船は木の葉のやうに波に隨つて、ずーつと高く、又、下へ、抛げ上げられ抛げ下ろされ、今にも沈みさうであります。
 その時、お里は何と思ひましたか、きつと落ち付いた聲で、
『お父さん、お母さん、それからお桃さん、今はもう迚も助りません。こうやつてゐては皆んなが死んで仕舞はなければなりません。どうせ妾は大蛇に見込まれた身、妾が皆んなの身代りになつてこの湖の中へ身を捨てます。さうしたらばきつと大蛇の氣がすんで、嵐も靜まるに相違ありません。
『お父さん、お母さん先だつ罪はどうぞお許し下さい。それからお桃さん、どうか、ぞこれからもお身を大切に、首尾よく、お家の人達の爲めにその霊薬を得て歸つて下さい。さらば皆さん・・・・・・。』
 と云ひ終るや、狂ひに狂ふて湧き立つばかりの大波の中へ臨るが如くにして飛びこみました。
『あゝ、』
『あれ、あれ。』
 といふ間もなく、お里の姿は水煙の中に跡なく消えて行つて仕舞ひました。
 すると、不思議や、今まであれほどに暴れ荒んでゐた大嵐が、次第に凪ぎ、雨はあがり、空を蔽ふてゐた黑雲はいつか斷れ〓〓に別れ、やがて、山の端に赤々と暖かい日の光りさへぱーツと當り出してくるのでありました。
 湖の上は、けろりと穩やかになり、水は疊を敷いたやうであります。帆は順風を受けて、以前にもまして安々と進んで行くのであります。
 老夫婦、お桃の三人は、勇ましい、しかし哀れなお里の事を云ひ出しては幾度となく涙を流しました。しかし老夫婦はどんなふうに諦めたものだか、しまひには、
『お里も、お桃さんのやうな感心な人の爲めに死んだのだから、却つて心の中では悅こんでゐたかも知れません。それでなくともあの子はどうせあの大蛇に殺される運命を持つてゐたのかも知れません。・・・・・・お桃さんはこれから先きもお身を大切に、首尾よく目的をおとげなすつて下さいよ。』
 こんなに云ふのでありました。
 船が岸につくと、お桃は老夫婦に厚くお禮を述べ、名殘を惜しみながら、西、東へと別れました。
 
 
 
六 淋しい谷
 道は次第に坂になつて、下へ下へと降つて行きます。道に沿ふて一つの溪川が流れてゐます。それは熊笹の葉蔭にかくれたり、又、ふと現はれたりしました。岩に碎けて水が白く泡立つてゐる所もありました。しばらく道を離れて、遠くへ行つたと思ふてゐると、今度は思ひがけなくすぐ足もとから轟々といふ響を立てゝ瀑と落ちたりしてゐる所もありました。
 段々と下へ行くと、或る時は、大きな澤竹の林がありました。そこでは吹く風に竹の葉と葉が擔れ合つてちやうど海の波の音のやうに聞ました。又、或る時は、大きな杉林がありました。樹が繁り合つて、梢の方から絕えずぽたり〓〓と露が落ちてゐました。道はじと〓〓と濕つてゐて、うつかりしてゐると、つゐ足を滑べらして倒れさうになりました。
 下へ行くにつれて道は益々急になりました。どこまで行つたら、ほんとに谷のそこ底に行きつくことやらわかりません。
 どつちを向いても、森の奧の方は涯なく暗くて氣味が惡るいやうであります。お桃はぢれつたくなつて來ました。
『こんな道を歩いてゐたつて、不思議な霊薬なんかゞ得られるのかしら。全く當てになりやしない。夢の中のあのお爺さんに欺されたのではないか。』
 つゐ、心がゆるんで、こんな心がうか〓〓と起こつて來ました。と、これはしたり、お桃は道を失つて仕舞ひました。自分の今まで辿つて來た道が、ぷツつりそこで消えてゐます。さあ、これは大變とあと戾りをしたりしますが、今度は、自分のつゐ今しがたまで歩いてゐた道へさへ出る事が出來なくなりました。
 そのうちに方角がわからなくなりました。
『困つた、實に困つた。』
 と心の中に叫びながらむやみとあつちこつち歩きき散らしてゐると限りなく深く迷ひこんで仕舞ふやうに思はれて、お桃は心細きて胸が一ぱいになりました。おまけに谷底の方から濃い霧が、濛々と吹き上げて來て、どうかすると、息する事さへ出來ない位であります。そのうちそろ〓〓日が暮れて來ました。
 さしもに健げなお桃も殆んど当惑して仕舞つて悲しくなって来ました。そこで、あらん限りの聲をはりあげて、
『おーい、おーい。』
 と人を呼んでみました。
 しかし、こんな所に人などの住んでゐる筈はありません。その聲は、四圍の山々谷々に響いて、やがて淋しげな山彥となつて、
『おーい、おーい。』
 と返つて來るばかりであります。
 泣いてもどうしても致しやうがありません。そのうち、日はもう、とつぷりと暮れて行きます。暗い暗い闇夜が方々から押し迫つて來ました。お桃は、もう一步も進むことが出來なくなりましたので、ある大きな樹の根のところに、竦むやうにして腰をおろしました。
 濛々たる濃霧と、塗りこめたやうな暗らい夜とに取圍まれて、お桃はちやうど深い〓〓底知れぬ大海の底へでも沈みこんだやうな心持ちがしました。
 たつた一人ぽつち。
 どう考へてみても、自分のほかには誰もゐません。ほんとに一人ぽつちであります。もし、この儘、一生涯この谷から出られないとしたら・・・・・・いや、實際さうかも知れないのだ。わたしはどうしやう。お豊小母さんにも、市助にも、お爺さんお媼さんにも、もう會へずに、此の儘こうして死んで仕舞ふのだとしたら、・・・・・・まあ、多分さうなのかも知れない。などと思へば思ふほど、身もよもなく情なく、心細くなつて來ます。
 夜が更けるに從つて、あたりは森々と靜まつて行きます。梢の方から一枚の枯ひれ葉が、葉と葉との間を滑べつて落ちる音まで、耳に響き渡るやうに高く聞えます。それほどあたりは靜まりかへつてゐるのであります。
 お桃はまた、
『こんな深い谷の事だから、どんな魔の物、どんな怖ろしい獸物が住んでゐないとも限らない。そんなものが現はれて來たらどうしやう。』
 と思ひました。すると、此度は今にも自分の後から、何か出て来そうでならない。何か樹の上の方から、そーツと下りて來て、大きな舌で自分の頭をべろりと甜めるやうな氣もして來ます。かと思ふと、此度は、自分を一呑みにしやうとして窺てゐるのかも知れない。
 こうなつて來ると、一寸先きも見えない深い濃い闇がお桃には何よりも恐ろしく思はれ出しました。
 してゐると、氣のせいばかりでなく、谷の底の方から何やら、さら〓〓とこツちへ近づいて來る音がして來ました。はじめは丁度、風が笹籔の上でも滑べつてゐるやうに聞かれたが、近づくにつれてそれは荒々しい音になります。それは確かに何か大きな默物の足音に相違ありません。
 お桃はきよつとしました。
 やがて、獸物の荒い鼻息が聞えて來ました。それはどうしても餓じがつてしきりに餌をあさつてゐるとしか思はれません。
 お桃は、今はもう天地の神にお助けを乙ふ外に道はないと考へました。そして思はず両手を合はせて心の中で一念こめて祈りました。
『どうぞお助け下さい。先程は心がゆるんで、淋しさのあまり遂邪念が起つて神様を疑り申していろ〓〓と愚痴な事を思つたりしましたが、どうぞその罪はお許し下さい。
 妾の身一ツは決して惜しくはありませんが、今こゝで獸物の餌ぢきになつてしまひましては、折角の願望がほんの水の泡になつてしまひます。お豊小母さんや市助の命を助けてやる事が出來ません。年寄りのお爺さんお媼さんはどんなに心をなやまして私を待つてゐてくれませう。私が歸つて行かなければ、きつと失望のあまりがつかりして死んで仕舞ふでありませう。
 ぞうぞ、神様。
 私共の一家を憐れとおぼしめして、今、こゝで私の命をお助けなすつて下さい。』
 と、淚を流してお祈り致しました。すると、その獸物は、お桃のゐる周圍を三めぐりして其儘ずーツとまたどこかへ消えて行きました。
 お桃は、ほつと吐息を洩らして、やうやく胸をなでおろしました。すると、眠むむいのと、疲れ果てゝゐるのとで、我にもなくつゐうと〓〓と眠つて仕舞ひました。
 ・・・・・・それは淋しい野中道であります。
 とぼ〓〓と辿つてゐますと、お桃のうしろの方から、ちんかん〓〓と悲しげに鉦を鳴らして、人の群が靜かに近づいて來る氣配がしますので、お桃は振りかへつてみました。誰かの葬式の行列であります。粗末な白木の棺を二三人でかついでゐます。そのうしろから、白い衣を着た僧侶がついて來ます。それにつゞいて七八人の人が、何れも手に鉦を持ち、默つて隨いて來るのであります。
 お桃は、
『まあ、どこの誰が死んだのだらう。』
 とその行列を見てゐますと、一番最後について來るのが、まがひもなく自分の家のお爺さんとお媼さんとでありました。
 お桃はお爺さんを呼びとめましたが、お爺さんは默つてゐます。
『お爺さん、これは誰のお葬式なの?』
 と尋ねますと、爺さんは何の表情もない、白らけた顏付をして、
『お豊と、市助のお葬式だよ。』
 と云つて、すた〓〓と通りすぎて行きます。驚いて、お桃は走りすがらうとしましたが、どうしたのか足が急に引きつツたやうになつて、歩くことさへ出来なくなりました。
『まあ、可哀相に、お豊小母さんと市助とはとう〓〓あの世の人になつて仕舞つたか。』
 と思はず悲しい涙が両の類を傳ふて流れ落ちて來ました。
 すると、そのあとから、また一ツ他の葬式の行列が靜かにやつて來ました。これもさつきのと同じやうに、粗末な白木の棺を二三人で擔いでゐます、そのうしろから白い衣を着た僧侶が來ます。それにつゞいて七八人の人が何れも手に手に鉦を下げて、默つてそれを打ち鳴らしながら隨いて來ます。
 今度は、その一番終りに、市助と、お豊とがゐました。よち〓〓歩く市助の手さびあをひいて淋しさうにして步るいてゐます。
 お桃は、
『おや。』
 と思ひました。小母さんを呼んで、
『おや、小母さんはもう病氣がそんなに良いんですか。それに市助も、そんなにあ歩けるやうになつたんですね・・・・・・まあ、ほんとによかつたこと!・・・・・・だが、これは一體、誰れのお葬式なの?』
 と尋ねますと、お豊は、これもさつきのお爺さんのやうに何の表情もない白けかほつきた顏付して、
『うちのお爺さんとお媼さんとが死んだのですよ。』
 と答へて、そのまゝまた默ツてどん〓〓向ふへ行つて仕舞ひます。
 お桃は、
『私がこんなに、みんなの爲めに心配してゐるのに、家の人達はなぜこんなに冷淡なのだらう。』
 と思ひました。
 しかし、まあ、一體どうしたと云ふのだらう。死んだといふのはどつちが本當かしら。お爺さんとお媼さんなのかしら。お豊小母さんと市助なのかしら。お爺こさんとお媼さんとが死んだら、あとに殘つたお豊小母さんや市助がさぞ困つてゐるだらう。それからまた、お豊小母さんと市助が死んだのとすれば、あとに殘されたお爺さんとお媼さんとが、さぞ困つてゐるだらう。どんなに嘆いてゐるか知れない。いや、いや、事によつたら四人とも亡くなつて仕舞つたのではないかしら。さうだつたとしたら、私はまあ、何としやう。ほんとに、・・・・・・そんな事を繰り返へし繰り返へし、いろ〓〓に思ふてゐると、急に心の中が暗くなつて來て立つてもゐても堪まらない程淋しく、悲しくなつて來ました。お桃は前後もなく両手を顏に押しあてゝ『わあ!』とばかり泣き出しました。
 と、夢は破れて目が覺めました。
『おや、それでは今のは夢であつたか。まあ、よかつた。』
 と、お桃はほつとしました。
 が、心の中はまだ、何となく晴々しません。いつまでも〓〓淋しくて心細くてたまりませんでした。
 あたりを見まわすと、どうやら夜が明けかゝつてゐるらしく、ぽうと白んでゐます。今は霧も晴れ、大空はあけぼのゝ光を受けて、一面に淺黃色になつてゐます。
 お桃は、岩間に湧いて流れてゐる清水で顏を洗ひ、木の幹によせかけて置いた竹の杖をとり上げてそこを立ち出でました。
 溪川の音が耳に入つて來ました。それを目あてにして辿つて行くと、そこに正しい道が直ぐに見つかりました。
 夢とは云ひながら、あまりに不吉な事だ。事によると、小母さんと市助の病氣が急に重くなつたのではないかしら。・・・・・・それから、ことに依ると、今頃はお爺さんやお媼さんにもあの熱病が傳染して、まあ、四人枕を列べて苦しんでゐるのかも知れない。・・・・・・そんな事にでもなつてゐたら、わたしはほんとにどうしやう。・・・・・・それにしても一日も早く家へ歸へりつきたいものだ。その不思議な霊薬を早く頂いて。』
 と、思ひながらお桃はひたすら道を急ぐのでありました。
 
 
 
七 愛らしい鄕(さと)
 日の暮れ方、お桃は一ツの村里にたどり着きました。
 家々の屋根の上へ、ゆうべの烟が豊かに立ちのぼつてゐました。
 田畑には、もろ〓〓の穀物が、今にも刈り入れられるばかりに熟つてゐます。その上へ、沈みかけてゐる赤々とした日の光りの投げかけられてゐる様が何と云へず美しく見えます。畔の並木に夕靄がまとひ、遠くの山々が淡く暮れてゆきます。
 烏や小鳥やの群が、野から急いで森の方へと歸つて行きます。鍬や鎌を持つた農夫が、これも一日の仕事を爲し終へた滿足相な色を顏に表はして、家路を急いでゐます。
 やがて、寺々からつき出す入相の鐘の音が、この幸福な、平和な里を祝福するやうに長く響き渡りました。
 お桃は、久しぶりに我が家へでも歸つたやうな穏やかな心安さを感じました。小高い岡の上へのぼつて、こうした景色に見とれてゐましたが、夜が靜かにあたりへおし迫つて來ましたので、やをら腰を上げて岡を降りました。
 お桃が、ある家の前を通りますと、その時、そこの垣根の中から、一人の百姓女が走り出て來て、
『あら、旅の娘さん。もう日も暮れたに、今晩はわたしの家へ泊つておいでなさい。わたしはこの家に使はれてゐる者だが、わたしからご主人にお願ひしてあげませうから。さあ、さうなさい。』
 と親切に言葉をかけてくれました。
 お桃は、それを聞いて、この村の人情何といふ親切なことだらうと思いました。そこで、云はれるまゝに、その女の人に隨いて玄關の方へ行くと、そこにその家の主人らしい人が立つてゐました。そして、
『おゝ、旅のお人か、さあ、さあ、草鞋の〓を解いておあがり。――わたしの家は決して遠慮の要るやうな處ではない。さあ、さあ、――まだ年もいかぬにこうして一人旅、・・・・・・それには何か深い仔細があるであらう。・・・・・・え?まあ、家の人達の病氣をなほしたいばかりに、ほんとに感心なことだ。いや、はなしはゆつくりと後に聞かう、まあ上りなさい。』
 と云つて、自分で屋を洗ふ水などを運んで來てくれたりしました。
 お桃は、今まで淋しい、怖ろしい、悲しい、たよりない旅を續けて來たのに引き替へて、今宵のこの人々のやさしい待遇を、ことのほか有難いものに思ひました。
 夕飯がすんで少しすると、
『お疲れだらうから、早くお寢み。』
 といつて一間のうちへ床をのべて吳れました。
 お桃は、どうしたのか直ぐには寢付かれませんでした。行燈の光りで、枕屏風の繪などを見て、うつら〓〓と物思ひにふけつてゐますと、次ぎの間から、このさ家の主人と、その娘らしい十二三歲の子と何やら話し合つてゐるのが聞えて來ます。どんな顏立の予だか、その娘の子の壁が馬鹿し可愛もしく聞えます。
 何を云つてゐるのだらうと、聞くともなく聞いてゐますと、
『あの方の名前は何といふのよ。ね。父さん。あなたは知つてゐるんだわ。』
『いや、知らないよ。』
『知つてゐるくせに、知らないなんて、父さんはづるいわ。よ。教へて頂戴!』
『だつて、お前、旅の人の名前なんぞ聞いたつて、どうもなりやしないぢやないか。ね。』
『どうするつて、わたし、いゝ事があるのよ。』
『いゝ事つて、どう?』
『父さんが、あの方の名前をきかしてくれたら、わたしも聞かしてあげるわ。』
『ぢや、云つて聞かせやう。あれはね、お桃さんツて云ふんだとさ。』
『まあ、お桃さん!いゝ名前だこと。わたしの名前よりは、ま、ずーツといゝことね。父さん。』
『なに、そんな事があるものか。』
 お桃は、はつと思ひました、自分の事を云つてゐるんだよ、と思つて、一層熱心に耳を傾けました。
『わたしね、明日の朝になつて、お桃さんが目を覺ましたら、いゝ事をお願ひしやうと思つてゐるの。』
『何だらうね。お春や、お前のそのいゝ事つて云ふのは。』
『それはね。こうなのよ。わたしは、何時もさう云つてゐるでせう。一人ぼツちで淋しいつて。』
『え?お春、お前は何を云つてゐるんだい。お前が何で一人ぼつちな事があるは、ものか。お前には、お前をこんなに可愛がつてゐるお父さんがあるぢやないか、それに母さんだつて直ぐに歸つて來るよ、あれは、ほんの一寸親類の所へ行つた丈ぢやないか。明日にも歸へつて來るよ。』
『そんな事ちやないわ。わたしには、父さん、きやうだいがないぢやないの。』
『そんな事があるものか。太郞兄さんや二郞兄さんはぢや、あれはお春の何だらうね。』
『だつて、父さん、それは違ふわ。』
『ちがふもんか。』
『だつて。』
『何が、だつてのものかね。』
『だつて、太郞兄さんや二郞兄さんは、兄妹は兄妹だけれども、みんな男ぢやないの。――わたしは、父さん、女のきやうだいの事を云つてゐるんだわ。』
『だつて、お春、それはどうも仕方がないぢやないか。』
『父さんには仕方がなくつても、春にはちやんといゝ事があるの。』
『どうすると云ふんだよ。』
『父さんや、母さんに幾ら願つたつて、女のきやうだいを生んで吳れないんだもの。だから、わたし、お桃さんにお願ひして、明日からわたしの姉さんになつては頂かうと思つてゐるんだわ。さうすれば、兄さん達と同じやうに、わたしの方も女が二人になるからいゝわ。』
『お春、それは無理といふものだよ。お前ばかりがさうきめたつて、そんな都合の良い事ばかりが出來るものではないよ。聞けば、あのお桃さんは、自分の家の人の病氣を癒したいと云つて、遠い遠いところから態々出かけて來たんだといふよ。何でも、向ふの高いお山へ登つて神様に、お薬を授けてもらひに行くんだとさ。それだから、お桃さんは、とても此處に長く宿つてゐられないんだよ。お前こも、そんな無理な事を願つたりするんではないよ。』
『だつて、』
『だつてぢやありません。お春には、また、父さんがのちにいゝ娘さんを探して上げるからね。』
『いや、いや。わたしはあのお桃さんでなければ、どんな人だつて厭だわ。わたしあのお桃さんを先刻一寸あすこで見たら、それ丈でもう、すツかり好きになつて仕舞つたんだもの。誰だつて、お桃さんにかなはないわ。もし、お桃さんが、どうしてもわたしの姉さんになつて吳れないと云つたら、わたしはお桃さんに縋り付いて泣くわ。それでも承知してくれなかつたら、わたしは裏の川の中へ身を投げて死ぬといふわ。』
『これ、これ、お春。かりにもそんな事を云ふものではないよ。お前に死なれたら、この父さんや母さんはどんなに悲しいか知れやしない。――それでは、父さんが明日お桃さんによく〓〓お願ひして上げるからね。――お前のやうに、そんな無理を云ひ出すものではないよ。それに、今晩はもう遅いから、もう寢ませう。さあ、いゝ兒だから。』
『それでは父さん、きつとよ。』
 と、お春は、もうその願が叶ひでもしたかのやうに嬉しがつてゐます。
 お桃は、床の中でこの話しを聞いてゐて、急にその春とやらいふ、まだ見ぬ兒が可愛くてしやうがなくなりました。床から跳ね起きて行いて抱いてやりたいやうな心持になつて來ました。
 考へれば、自分にも、市助といふ兒はゐるが、あれは本當の弟といふのでもなし、それに、まあ、あのお春のやうな兒が、自分の本當の妹であつたら、どんなうれにか嬉しい事だらう。お春さんのいふやうに、明日から自分もこの家の子になつて暮らしていけるのだつたら、どんなにか幸福な事だらう。それに、折角、わたか、しがその霊薬を頂いてつて行つたとしても、家へ歸へりついた時には、もはや小母さんも、市助も、おまけにお爺さんもお婆さんも、みんな死んで仕舞つてゐたら。それだつて、必らずさうでないとも限られない。もし、さうだつたらどうしやう。わたしには外にこれと云つて賴依る人もなければ、どこへ行くといふ家もない。それよりも、一層のこと、明日からこの旅をやめて、こゝの人達の願ひにまかせて一生涯この土地の人にして貰はふかしら。・・・・・・
 つゐ、こんな氣にもなるのでありました。
 しかし又、考へてみると、あすこの家は何と云つても、自分の親の家も同然なのだ。さうだとも、親の家を捨てゝ自分勝手に、よその人になるなんて、それに今々死にさうになつてゐる病人もあるのではないか、そしてその爲めに自分は今こうしてこゝまで様々な辛苦をして旅をして來てゐるのではないか。ほんとに、こんな心のぐらついてゐるやうではいけないと、深く自分で自分を責め、そして漸く眠りにつきました。
 翌朝、お桃は、家の者のまだ起きないうちに身仕度をして、勝手の方の人に、わよくその譯をはなして、急いでその家を立ち出でました。
 それは、お桃はお春に泣きつかれるのがずらいからでありました。どうかしたこゝの人達の願ひ勝手の方の人に、どうかした拍子に、つゐそれにつれ込まれて仕舞ひはしないかと、半ばは自分の弱い心をも恐れたのでありました。
 お桃が、村端れの坂の上へ登つた時に、下を見返へりますと、今、自分が出て來た家の門の處に、十二三歲の女の兒が、ぢーツと此方を見詰めてゐるのが小さくなつて見えます。お桃のゐる所からは昔丈の高さが僅か七八寸位にしか見えませんが、思ひなしか、その兒は一生懸命にこちらを手招きしてゐるやうであります。
 お桃は腰の手拭を高くかゝげて打振りました。すると、向ふでも何やら白いものをひら〓〓と打振り打振るのでありました。
 お桃は、たまりかねて、ひとり心の中で、
『お春さん、お春さん、わたしを怨んでおくれでないよ。――緣があれば生涯の中にまた會はれないとも限らないのだから、どうか達者にゐておくれ。――それではさよなら。』
 と、つきぬ名殘を惜しみながら、一きわ强く手拭を打振りました。
 お桃は、生れてから、こんなに辛い思ひの別れをした事がありませんでした。
 
 
 
八 嶮しい山
 山の登り口の所で、お桃は、牛に柴を運ばせて山を下りて來る一人の老人に會ひました。その老人は、お桃の様子を見て云ひますには、
『これ、これ、旅の娘御、お前さんはこれからどこへ行きなさるのぢやな。』
 で、お桃は、
『この山へ登るのです。』
 と事もなげに答へました。
 老人は驚ろいた顏をして、
『何と云はつしやるな。この山へ登るのだと云はつしやるか。そして、どうなさるのぢやな。――えーと、何であらうがな。お前さんはこのお山の頂に、不思議な霊薬とやらを頂きに行かうとでも云はつしやるのぢやらうがな。え。もし、さうだつたら、娘御、この爺さんが惡るい事は云はないから、こゝから引返へしなされ。な、そんな事はみんな、とんだ空事ぢや。昔からよくそんな事をいふがこれまでに遂ぞ一人、その頂きへ登つて歸へつた者がないのぢや。いや出掛けたものはぼつ〓〓あつたが、みんな中途から歸つてくるか、さうでなければ二度と山から降りて來んのぢや。おほかた、峯の鷲の餌食にでもなつて仕舞ふことぢやらう。おそろしい事ぢや。
 それに、まあ、見なさるがいゝぢや。このお山の高いこと!どんなに晴れた日でも、つゐぞ一度このお山の頂きが仰げた事がないのぢや。いつも雲に深くとざされてゐてな。ことによつたら、あれから、ずーツと天へ續いてゐるのかも知れぬわ。それでな、中腹までは、どうにか行ける相なやが、その先きは、木一本ない岩山で、その岩山がまた、つる〓〓滑つてとても登れぬといふことぢや。それに、何時でも、年中きりなしに大きな嵐がやつて來るとかいふよ。
 どうぢや、娘御、爺さんの云ふ事をきいて、こゝから引返へしておくれ。
『いゝえ、お爺さん、あなたのご親切は本當に有難いけれども、わたしはどうしてもこの山へ登らなければならないのだから。――それでないと、こゝまで來たのが何のやくにも立たなくなつて仕舞ふから。』
『おゝ、おゝ、そのお心掛けは、この爺さんも實に感心してゐるのぢや。おほかた、神様もお前さんのその立派な心掛けに感心なすつて、きつと何だよ、今頃はもう、家のご病人達は癒つて何か仕事でもしてゐられるやもしれないよ。――この人さんはな、見す見すお前さんの命を捨てさせるに忍びないのぢや。それでこうして止めてゐるのぢやから、・・・・・・どうかこのお山へ登るの丈は思ひ止まつてお吳れ。これ、こんなにして願ふのぢや。』
 それでもお桃はきゝ入れません。しまひには、とう〓〓その老人を拂ひ除けるやうにして、山の上の方へ上つて行きまました。
 老人は、
『まあ、この子の亂暴なことは。』
 と呆れてゐましたが、それでも、て、お桃のあとを見送つて、それから、天に向つて、
『おゝ、神様。どうか、あの子の身の上に怪我のありませんやうに。・・・・・・』
 と祈りました。
 長い、急な坂を二ツ三ツ上ぼると、お桃は又、さつきと同じやうに、牛に柴を運ばせて山を下りてくる一人の老人に遇ひました、すると、その老人もさつきと同じやうな事を云つて頻りにお桃の山へ登るのを止めました。それでも、お桃は矢張りとん〓〓、とん〓〓上の方へと登つて行きました。
 この老人も、呆れて、お桃の後姿を眺めてゐましたが、しばらくすると、天に向かつて
『おゝ、神様。どうか、あの子の身の上に怪我のありませんやうに。・・・・・・』
 と祈りました。
 それからまた、長い坂を三ツ四ツ越えますと、今度は、子供ともつかず老人ともつかない顏付をした、一人の不思議な人に遇ひました。その人は牛の背に乗つんて、その邊をぶら〓〓步るいてゐました。お桃を見ると、一寸意外相な顔をして驚ろきましたが、さつきの二人の老人のやうにお桃を引止めはしませんでした。そして、何やらお桃の耳に囁いたあとで、
『これから先きへ行くと、いろ〓〓危險な事があるから、その時には、出來るだけ心を靜かにしてこの咒文を口の中で唱へるがいゝ。』
 と云つて、その儘お桃のわきから離れ、悠々として矢張りその邊をぶら〓〓してゐます。
 お桃はその人に厚くお禮を云つて、なほも登つて行きました。
 山の中腹とおぼしいあたりへ來ると、そこに一ツの小さな石碑が立ツてゐました。その石の表には、『これから先へ登つては危ない。』といふ意味の文字が深く刻みつけてありました。
 二人のお爺さんの云ふた通り、こゝいらは、どつちを向いても、大きな岩が轉々してゐるばかりで、木も草もありません。勿論、もう道といふやうなものもあらう筈がありません。
 岩々を霧がぬらして、ずる〓〓と滑べります。折角一ツの大きな岩の上へ昇つたと思ふと、また直ぐに滑べり落ちて仕舞ひます。何遍くりかへしても同じことで、どうしても一ツの岩さへ越すことが出來ません。
 お桃は、こういふ時に、あの咒文を唱へるのだなと思つて、心を靜かにして口の中で三遍その咒文を唱へました。すると、不思議にも足が今までより確かになつて來て、どうやら滑べり落ちもしません。
 やうやく、その滑べる岩山がすむと、今度は、燒石の屑を積み重ねたやうな所へ來ました。そこでは、ざく〓〓、ざく〓〓して、いくら歩るいても、步るいても一ツ處から前へ出ることが出來ません。歩るくどころか、一ツところで、ざく〓〓やつてゐるので、前から、右から、左からその燒石の屑が、ざく〓〓と落ちだて來て、次第に身も埋まつて仕舞ひ相であります。
 そこで、お桃はまた咒文を唱へました。すると、又も不思議に、今度は自分のう身體が急に輕くなつて、何の苦もなく、その燒石の屑の上を進んで行くことが出來ました。
 段々上の方へ登つて行くと、風が出て來ました。風はそ瘭の燒石の屑を縱橫に吹ざくざく〓〓と落ち風が出て來ました。風はその燒石の屑を縱橫に吹き散らして、お桃は目も口も開けてゐることが出來ません。
 お桃は、また咒文を唱へやうと思ひましたが、これを〓へてくれた、あの、子供とも老人ともつかない顏をした不思議な人が、自分にこの咒文を囁いた時に、この咒文は三度しか効能がない、四度目からはいくら唱へても何の効能もないのだと云はれたのを思ひ出して躊躇しました。この先、まだどんな困難があるかわからない。その時に困るからと、一生懸命に我慢して行きました。
 してゐるうちに、幸にも風は次第に小さくなつて來ました。もう、燒石の屑もんそれ程飛びません。やれ嬉しやと目を開けますと、こはいかに。・・・・・・獰惡な眼を、爛々と燃える火のやうに光らして、餌をあさつてゐる大鷲の群が、お桃の身に近く迫つてゐるではありませんか。そして、中にも猛々しさうな一羽の大鷲が今やお桃に向つて飛びかゝらうとして、その大きな翅を力强く張つてゐる處であります。
 お桃は、今はこれまでと思つて、咒文を唱へやうとしますが、心が徒らにおど〓〓して、どうしてもそれを唱へる事が出來ません。早く早くとあせればあせる程心が亂れて駄目であります。ほんの瞬くあいだ!『あ、』といふ暇もなく、その大鷲は、お桃を引つ浚つて空中高く舞ひ上りました。
 その時は、お桃は氣が轉倒して、一切夢中でありましたが、ふと、氣がついてみると、自分の胴は、鷲の足に荒々しく摑まれてゐます。目を開くと。あたりは只茫漠として、際涯もない高い中空であります。一ツの影、一ツの形も目に入つて來ません。まだ空を翔けつてゐるものと見えて、風のやうに鳴る響が、びゆーつと長く、身も魂も消え入るかと思はれるほどに物凄く聞えてゐます。
 お桃は、その時、ふと思ひ附いて、さつきの最後の咒文を口の中で、靜かに三度唱へました。
 
 
 
九 美しい宮
 鷲は、とう〓〓自分の巢へお桃を運びました。巢の中へお桃を入れると、そのまゝ、子鷲でも呼びに行つたのかどこともなく急いでそこを飛び去りました。
 お桃は、やをら頭をあげて下を見ますと、そこは切つ立ての斷崖の中腹で、下は千仭の谷であります。見た丈で目がくらむやうであります、そして其處には激流が岩を嚙んで白く流れてゐます。上は見上げるばかりに高くその崖が續いてゐます。お桃はどうする事も出來ません。と云つて、その儘にしてゐれば、間もなく鷲共の爲めに五體を引き裂がれて喰はれて仕舞ふのは知れきつてゐます。逃げるならばこの時だと、あたりを眺めまわしますと、巢のすぐ側の處を太い常春藤の蔓が一本上の方から、ずーつと下の方へ垂れてゐます。これぞ天のお助けと、逸早くその蔓に身を移しました。すると、身體の重みで思ひがけなく、する〓〓と二三間滑べり下りました。
 お桃は、その時、はつと思つてもう少しでその憂から手を離さうとしました。
 氣をつけて下へ下へとそれを傳ふで下りて來ますと、その蔓は次第に末細くなつて來て、今にも盡き相になりました。これは困つたと、下を見ると、その蔓から三尺ばかり離れた所へ、一本の大きな榎が、梢の枝をそこまで延べてゐるのが目に入りました。
『あゝ、あの枝に移ればいゝのだ。』
 と思ひますが、一步誤れば、下は深い〓〓谷であります。激する溪流の中へ眞逆様に落ちて、身は粉微塵となつて住舞はなければなりせまん。
 お桃は、こゝぞと全身の勇氣を振り起こして、ひらりとばかり、その枝めがけて飛びました。ほんの瞬く間ではあるが、お桃の身體は何物にも支へられず、何物からも離れて、全くの空中の人となつたのであります。まるで鳥か獸のやうでありました。
 お桃は僥倖にも危ぶない所をのがれて、地に安着しました時、ほつと吐息をしました。全身にはぴつしより冷たい汗が流れてゐるのでありました。
 丁度樹の下に人の通る細道がありました。そこを步るきながらお桃は、
『まあ、よかつた。』
 と、我が身を疑がふやうに、幾度となく繰りかへしました。
 道は次第に山の上の方へお桃を導きました。
 急にあたりが明るくなつたと思ふと、廣い見晴らしへ出ました。お桃は思はず両手をあげて喜びました。目の下には、廣々とした美しい平地があります。緣濃い松が林をなして續いてゐます。そしてその內に、目もまばゆいばかりにぴかぴかと光り輝く立派な宮殿があるではありませんか。
 庭の池には白い運が淨らかに咲いてゐます。木犀の林の間を美しい孔雀が、尾を長く牽いて逍遙ふてゐます。
 耳を澄ますと、そこからえも言はれない妙なる音樂の音が起つて來ました。そしてそれは次第にお桃の方へ近づいて來るのでありました。やがて、お桃の前へそれこそ夢かと思はれるばかり美しい天女が下りて來て、物をも云はず優しくお桃の手を握ります。そしてその儘、五色の雲に乗せて、ふはりと山を降りて行きました。
 お桃は、導かれるまゝに一ツの宮へ入りました。そこには、お桃がまだ見たこともない、噂さにも聞いた事もない、いろ〓〓の美しい物が澤山ありました。さういふものに馴れてゐないお桃は、まるで目がくらむかと思はれるのでありました。
 ふと、目をあげて正面を見ますと、そこには、夢の中で見た翁がちやんと座つてゐるではありませんか。矢張りその身のまわりには神々しい光が取りかこんでゐました。その翁は、お桃に、ずーつと近寄るやうに命じました。
 そこへ一人の天女が現はれて來て、一ツの小さな瓶をその翁に捧げました。翁はそれをお桃に渡し、
『それは、そなたが長々心掛けてゐた不思議の霊薬だ。わたしはそなたの勇ましい、美しい心に感じてそれをそなたに上げるのちや。』
 と云はれました。
 お桃は、それを押頂いて、この上は一刻も早く家へ歸つて小母さんや市助の病氣を癒してやりませう、と思ひまして、そこを引下らうとしますと、翁は靜かに呼びとめて、
『これ、少しお待ち。それをその儘に持つて行つては、もし萬一の事で、それをこぼしたり、失くしたりするといけない。その薬をわたしの見てゐる前で、そなたの両方の手によくなすり付けるがいゝ。さうすると、今度は、どんな病人でもわたしはそなたのその手で擦つてやりさへすれば直ぐに癒ほる。だからさうするがよかろう。』
 と云はれました。お桃はその通りにしました。
 翁は、それがすむと、
『それでは、そこいらまで誰かに送らしてあげるから、また、いつかのやうに目と耳とをしつかりと閉ぢるのぢや。』
 と云はれました。
 お桃が、その用意をして待つてゐますと、二人の天女が両方から自分の手を握ツて、ふわ〓〓する雲の上へ乗せてくれました。
 
 
 
十 嬉しい春
 お桃には、それは僅か十分か十五分の間だとしか思はれませんでした。二人の天女は、お桃を雲の上からおろして、
『さあ、もうよろしいんですよ。耳と目の蔽ひをお除りなさい。』
 と云ひました。
 そしてその聲のまだ消えぬ間に、そのあたりにはその影も形も見えなくなつて仕舞ひました。
 お桃は、しばらくの間、たゞ茫然として立つてゐましたが、よくよくあたりを見廻しますと、今。自分の立つてゐる處は、自分の村の村端れであります。
『これは、ほんとに不思議だ。行く時にはあんなにいろいろな處を通つて行つたのだに、この歸へりの早いことはどうしたのだらう。』
 と、いくらあたりを見廻しても、どうしても自分の村の村端れであります。
 そこには、小さな里川が、行く時と同じやうに流れてゐます。それに橋が架つてゐます。此處は、お桃がこの旅に出る時に、こゝまで來て一度村の方を振り返へツて見た所であります。向ふに村の小山が見える、いつもよく登りつけた小山であります。その麓に一本の大きな杉の樹が聳えてゐます。
 あの山を越へれば、直ぐにもう自分の家だ、みんな今頃はどうしてゐるだらう、何はともあれ、こうしてまあ、無事で村へ歸へられたのだから何よりの事だ。だが、薬はどうしたのだらう。身體が無事でも薬がなくては、何の顏をさげて家へ歸へられやう。と、急にそれが心配になつて來ました。
『さう、さう、神様が、わたしに薬を授けて下すつて、そしてわたしはその薬を確かにこの両手になすり付けた筈であつた。そしてこの手で擦つてやりさへすれば、どんな病氣でも直ぐに癒るのだと神様がお云ひになつたのだ。――だが、何だかまるで夢のやうな氣がしてならない。』
 などゝ氣遣ひながら步いて來ると、道端に一疋の小犬がひい〓〓鳴いてゐます。惡戯な小供に打たれでもしたのか、右の後足を害めてゐます。傷の所が、如何にも痛た相にふくれ上つてゐます。
『まあ、可哀相に!』
  と、お桃は思はずその小大の側へ近よつて行きました。
 小犬は、お桃が親切な人である事が解かつたのか、それとも走け出す丈の元氣がない程にその傷が痛かつたのか、逃げもせず、矢張りひい〓〓泣きながら、憐れみを乞ふやうに頻りに尾を振つてゐるのであります。
 お桃は、その小犬の首を片手に抱くやうにし、片手でその傷の所を擦すつてやりました。口の中で、
『どうか癒くなりますやうに!』
 と念じながら、しばらく擦すつてゐますと、小犬は次第に泣き聲を出さなくなりました。
『まあ、うれしい、わたしのこの手はほんとに・・・・・・』
 と、お桃はわれ知らず両手を合はせて、天に向つて、
『神様、どうも有難うございます。』
 と、申しました。
 小犬は、今までとはまるで別者のやうに元氣よくなり、喜ばし相にして、どこかへとん〓〓起つて行つて仕舞ひました。
 お桃の喜びはどんなでありましたらう。勇み勇んで、まるで飛ぶやうにして我が家へと驅けつけました。
 こちら、七助の家では、お豊親子の病氣が誠によくありません。一時一寸良かつたのだが、それは癒なる兆ではなくて、却つて一層重態に陷ゐる前兆なのでありました。殊にこの三四日といふものは、二人ともすつかり弱り果てゝ、息の根さへ次第に細つて行くかと思はれる位であります。
 それに、お爺さんとお媼さんも、どうやらその熱病に感染したらしく、この頃では、これも床に就いたつきり、ちよつとも起き出られないといふ有様であります。
 こういふ處へお桃が歸つて來ました。
 丁度、隣りのかみさんが、病人共の様子を見に來て、食べるものを各自に食はせたり、水をやつたりしてくれて、今歸へらうとしてゐる所でありました。かみすがたみさんは、お桃の姿を見ると、
『おや、お桃さん、まあ、大變よ。』
 と、走り出で來て、いろ〓〓と病人の様子を話して大きな吐息を洩らしました。
 お桃は、旅の仕度を除るのももどかしく、はあ〓〓息をはづませながら、第一番にお豊の枕もとへ來ました。だけれども、お豊は、お桃の顏もよく見分けられほどない程でありました。お桃は、
『手遅れになつては大變!』
 と、早速、両手を伸べてお豊の胸のあたりから背中、腹、頭と次第に全身を、心を靜かにして、一念こめて擦ツて行きました。すると、そのうちにお豊は両眼あをぱつちりと開けました。
 お桃は、まあ、よかつたと思つて、
『小母さん、少しは氣分がよくなりましたか。』
 と尋ねました。すると、お豊は、
『おや、お桃さん、あなたは何時帰つて来てくれました。何といふうれしい事でせう。まあ、安心して下さい。妾は急に氣分がよくなつて來ましたよ。ほんとにどうしたといふのでせう、これぢやもう起きられ相だわ。・・・・・・お桃さん、それでは、あなたはほんとにあの不忠議な霊薬とか云うものを神様がら頂いて來てくれたの。』
 今にも起き上り相にしましたから、お桃は、
『まあ、まあ、そんなに無理しては困ります。』
 と、押し靜め、今度は市助の方へとりかゝりました。これも間もなく、鈴のやうな大きな眼を瞶つて、不思議相にあたりを眺め、元氣に手を床の外へ出してぱたぱたさせたりするのでありました。
 お爺さんとお媼さんとは、もと〓〓大した事はなかつたので、お桃が一寸觸つてやりますと、もう起きて、そこいらの一寸とした仕事が出來るやうになりました。
 その夜は、神棚や佛壇へお燈明をあげ、お花を供へたりして家内中でおまゐりをもしました。
 その翌日からは、もう、お豊は床の上に座つて市助に乳をのませる事が出來るやうになりました。市助は子供の事とて病氣のよくなるのも早く、三四日するともう、家の外へ遊びに出たりするのでありました。
 村の人達がよろこんで、皆お桃に會ひに來ました。中には、その序に、腰が少しいたむからとか、二三日前から頭痛がするからとか云つて、お桃に擦すつて貰つて歸へる者などもありました。
 さういふ事は直ぐに評判が高くなるもので、やれ、家に急な病人が出來たから來てくれ、やれ、時候變りで手足の筋が痛んで困るから來てくれ、と云つて毎日のやうにお桃を迎へに來る者が絕えません。
 お桃は、自分の留守中に、いろ〓〓村の人達に世話になつたのを知つてゐますから、請はれるがまゝに、自分の仕事はあとまはしにしても直ぐに飛んで行つてやるのであります。
 お桃の家では、みんなが以前にもまして健康になり、元氣がよくなり、隨つて仕事の方も大變に都合よくはかがいきます。それに、お桃が病人を癒してあるくので、病人の家から、毎日のやうに何かしら持つて來てくれます。そんな按梅で家の暮らしの方は追々とよくなつて來ました。
 年の暮れが近づいたので、久しぶりに市助は新らしい正月着を拵えて貰ひました。お爺さんとお媼さんとに着せる暖か相な、綿を入れたものも出來ました。
 こんな工合だと、お正月のお雜煮の餅なども、どんなにでも澤山に搗かれ相であります。
 村のほかの家々でも、
『今年は病人がなくて何よりの仕合せだ。家中達者で打揃ふて暮らせるに越したこ事はない。これも、みんなあのお桃さんのお蔭だ。』
 こんな事を云つて、喜び合つてゐます。
 こんなふうにして、この村に、これまでに甞つて無かつた程お目出度いお正月が來たのであります。
 
 
 
53
十一 不幸の人々
 お桃の噂さは、次ぎから次へと擴がつて行きました。五里、十里、十五里といふ所から、聞き傳へ、聞き傳へてやつて來ます。お桃の家の前は、いつもそれ等の人達の徃き來で絕える事がありません。
 お桃は、この頃は、もう、その爲めで少しの関もないといふ有様であります。それでも、お桃はちつとも厭な顏をするどころでなく、
『こうして人様の苦しみを救つて上げる事の出來るのも、神様のご恩を忘れてはならぬ。』
 と、何時も申してゐます。
 或る時のこと、遠國からやつて來た一人の老人の病人がありました。それは餘程遠いところから來たものらしく、その人のかぶつてゐる笠や、手に持つてゐる竹の杖や、穿いてゐる脚絆などが、長い旅の爲めに古ぼけてきたなくなつてゐました。その人は大變な重病なのに、誰一人付添ふでもなく、たつた一人でやつて來たのであります。その日その日にも困る貧乏な家の者で、それこれの事も思ふにまかせないのかも知れません。その老人は、そんなふうにしてお桃の家の前まで辿り着きは着いたのですが、そこまで來ると、氣がゆるんだとでもいふのか、急にぱたりと倒れて、そのまゝとう〓〓思を引きとつて仕舞つたのであります。
 お桃が急いで走けつけた時は、もう何とも手の盡しやうもない、全くの死人になつて仕舞つてゐたのでありました。
 お桃は、泣く〓〓自分の家へそれを引取つて、村のお寺の和尙さんをよんで來こて、厚く葬つてやりました。お桃はこの老人の事で、深く心に感じた事があります。
『世の中には、隨分とこうした可哀相な人が大勢あるに相違ない。どの病人も、みんな自分の處へやつて來られるとは限らない。一步も動くことが出來ないで苦しみながら死んでゆく者も大勢あらう。さういふ人達こそ第一番に救つて上げなければならないのだ。
 わたしにこういふ德を神様が授けて下さつたのも、决して一人や二人の人を救へといふ爲めではあるまい。みんな世の中の人々の爲めだ、一層の事、わたしの方から諸國へ出掛けて行つて、あちらの村、こちらの町と病人を癒して歩るくに越した事はあるまい。それがいゝ。』
 と思ひました。そしてその様に心が决まりましたので、それをお豊に相談しますと、お豊も、
『お桃さん、それはほんとに立派なお心掛けです。自分達丈が健康でありさへすればいゝといふものでは决してありません。お前さんが、さうして吳れるならわたしも大變喜ばしいのですよ。・・・・・・この世の中に喜ぶ人がどれだけ多いか知れません。』
 と云つて、大變に賛成してくれました。
 村の人達の中には、
『お桃さんに何處かへ行つて仕舞はれては心細いぢやありませんか。どうかこの村から離れないでゐておくれ。』
 と態々願ひに來る者もありましたが、お桃はそれから少しすると、自分の村を一周りし、家々に一人も病人のないのを見きはめ、鎭守様へおまゐりして、とう〓〓第二の旅に出掛けました。
 どこの村、どこの町でも、皆お桃の事を聞き知つてゐて、お桃の行く先々で、るまるで押し寄せるやうにしてお桃の前へ病人をつれて來ました。お桃は誰れかれの區別なくそれ等の病人を一人殘らず癒してやりました
 重病の人がある時は、その人の爲めに幾日もその家に滯在して、全治するのをいつまでも、全治するのを見てから、又つぎへ移るといふやうにしました。
 ある村などでは、惡るい病が流行してゐて、一村悉く病人といふやうな所もありました。そんな所では、お桃は、村の端れから村の端れまで家每に訪れて、病人を見てやりました。
 こういふ工合で、お桃の通つた跡は、神様でもお通りになつたやうで、すべての人が喜び、まるで拜まんばかりであります。
 ある日のこと、お桃が、ある村からある村へ移らうと村端れの道を歩るいてゐますと、あとから追ひ縋つて、袖を引く者がありました。
 振り返へつてみると、それは、やうやく七ツか八ツになる女の子であります。身にはぼろ〓〓した着物を纒ひ、髮は亂し、どう見ても非常な貧乏人の子といふ事がわかります。見れば、目に淚を一ぱいにしてしく〓〓泣いてゐます。
『お前さんはどうしたの?え?いゝ兒だから泣くのではありませんよ、何かわたしに願ふ事でもあるのなら、遠慮をせずに早くさういふのですよ。わたしに出來る事なら何でもして上げるからね。・・・・・・誰か、うちに病人でもあるのではないの?』
 と、お桃は親切に云つてやりますと、その兒は吃り吃り、
『父さんが・・・・・・父さんが・・・・・・』
 といふ丈で、あとは何にも云はずに泣いてゐます。お桃は、それぢや、この兒の父親が病氣なのだと思ひまして、
『お前さんの父さんが病氣なんだね。・・・・・・さうだらう。え?さう。ぢや、わたしがこれから一緒に行つて直ぐに癒して上げるからね。もう、泣くんぢやないの。さあ、いゝ兒だからわたしを案內しておくれ。』
 と云つてやりますと、その兒は急に元氣になつて、大變うれし相にしてどんどん先になつて步き出しました。
 籔のやうな中を行きますと、そこに小さな家がありました。家の中には、その兒の父親らしい中年の男がたつた一人で、うん〓〓呻吟つて寢てゐます。それでも、お桃の姿を見ると、床の上へ起き直り、両手を合せて拜むやうにして云ひますには、
『わたしは、先年人を欺まして他人の金を奪つたことのある惡人であります。しかし、今はもうすつかり改心してゐます。わたし共は、この兒とたつた二人きりで、こんな暮らしをしてゐるから、わたしが寢てゐては二人共喰ふ事が出來ませのん。現にこの二日間といふものは二人共何一ツ喉を通さないのであります。
 あなたが、この村へおいでになつた事を聞きまして、每日のやうにこの兒を願ひに上がらせるのですが、村の人達があたしを憎んでゐて、
『惡人の子が來た。惡人の子が來た。』
 と云つて追ひ歸へして仕舞ふのだ相でございます。そして、
(あんな惡る者なんか、さつさとくたばつて仕舞ふ方がいゝ。)
(あの子も、惡人の子だから、どうせ碌なものにはなるまい、石でも投げつけてやれ。)
 などと口々に云ふのだ相でございます。それは、わたしは確かに一度は惡るい事をしましたが、今はこうして後悔して改心してゐるものを、この子までをそんなに憎むなんて、村の人達もあんまりだと思ひます。それに、・・・・・・しかし、あなた丈はどうぞ、わたし共を憐れとおぼしめしてこの苦しみをお救ひ下さい。御願ひ申します。』
 お桃は、この物語を默つて聞いてゐましたが、
『まあ、何といふ解からない村の人達でせう。そんな意地惡るをする人達こそ却つて惡人といふものです。こうして改心をしてゐる正直な人を、そんな、いつまでも酷い目にあはせるといふ法があるものでせうか。・・・・・・まあ、そして二日も物を食べないんですつて、可哀相に、・・・・・・わたしは决してそんな不親切な仲間ではないから安心なさい。・・・・・・今直ぐに癒してあげますから。』
 と、手を伸べて、念をこめて擦すツてやりますと、その人は、お桃自身にも不思議と思はれる程早く全快しました。
 お桃は、その上に、側に座つてゐたさつきの女の子に、幾干の金を握ぎらせてそこを出ました。
 それからまた、ある所では、難產で、親子共に助かるまいと騷いでゐる最中へま招かれ、或る時は、大事な一人息子の難病を救ひ、また、或る時は、道端に行き倒れてゐる癩病の乞食女を癒してやつたりしました。
 その乞食女は、非常に不潔で、身體のところ〓〓が壤れ腐り、見るだに嘔吐を催ふするやうでありました。それでもお桃は、さういふものをも决して見捨てずに、一々親切に撫で擦つてやるのでありました。
 世の中には、隨分と病人は多いものであります。その數はとても想像も出來なみついほど多いものであります。目を病む人、耳の惡るい人、頭痛、腹痛、やけど、傷、・・・・・・それはそれは仲々大變であります。
 また、お桃がある町へ行きますと、氣の狂つた一人の男をお桃の前へ連れて來まして、これを癒してくれと願つたものがありました。
 お桃は、さういふ者は、これまでに一度も癒した事がないし、どうだらうかと自分でも半ば疑ひながら、それでも一心をこめてその男の全身を擦すつてやりますと、不思議にもそれがすつかり癒つたのであります。今まで大きな聲を出してわめき、騷いでゐたのが急に靜かになりました。つゐさつきまで、きよと〓〓と眼の居所が怪しく定まらないでゐたのが、ちやんと常人のやうに穩やかになつて來ました。
 これがまた大評判になつて、それから、さうした氣の狂つた人を、所々でお桃の前へ連れて來ました。お桃はそれ等を一々、きれいに癒してやりました。
 
 
 
58
十二 惡い企
 ある大きな町に一人の醫者が住んでゐました。仲々の名醫で、金も澤山に持ち方々に出張所を設け、手廣くやつてゐます。親切でどこへ行つても評判がよく大繁昌であります。
 ところが、この町へもお桃が來ることになりました。町の中ではその噂さで持ち切つてゐます。
 殊に喜こんでゐるのは病氣のある人達で、その人達はその噂さが傳はつてからといふものは、
『近いうちに、お桃さんといふ方が來て癒して下さるのだから。』
 といふので、誰一人として醫者に診て貰ふものもなければ、薬を飮むものもありません。そして口々に、
『さういふ方が、この世に現はれたからには、もう醫者なんか用はない。』
 と云び合つてゐるのであります。
 町では、重立つた人達が寄り合つて、お桃歡迎に就いていろ〓〓と相談してゐます。
 こんなふうだから、その醫者は、今までとはうつて變つて、今度は町の人達からすつかり除けもの、餘計者にされて仕舞つたのであります、その醫者はどうも面白くありません。
『どうも、さういふ不思議な人間が現はれて來て、おまけに何でもかんでも、只で診て、只で癒してくれるといふのでは堪つたものでない。自分の商買が上つたりになるのも當然の事だ。
 それにしても、折角、こうして手廣く、いろ〓〓な設備までして、おまけに近年は非常な繁昌で、毎日お金がどし〓〓入つて來るやうになつたものを、ほんとに惜しい事だ。・・・・・・世間の人達の爲めには有難いかも知れないが、あのお桃とかいふ奴は、自分にとつては大變な邪魔者だ。』
 こんな風に、考へてみると、お桃といふ者が譯もなく邪魔になッて考へられるのでありました。
『ところで、その奴をこの町へ來させないやうにしきへすれば事はない譯だ、何とかいゝ方法はないものか。まあ、それにしても、あゝやつて町の人達がこぞつて、一生懸命で呼び入れやうとしてゐるものを、自分一人の力で何として之を妨げる事が出來やう。何としたものかなあ。』
 と日も夜もその事ばかりに思ひふけつてゐます。
 世間には、利得の慾の爲めには、隨分と目のくらむ者が外いものであります。この醫者も、その爲めに心が橫に外れて、平常のこの人にも似合はず、
『どうも、かれこれと面倒くさいわ。・・・・・・こいつは一層の事、この向ふの山に住んでゐる山賊の頭に、金をうんといふ程にぎらせて、お桃をば途中で引捕まへて殺して貰うのが一番話しが早くていゝ。さうだ。それに限る。・・・・・・こんないゝ智惠が、なぜもつと早く出て來なかつたものか。』
 こんな非道な事を考へ出したのであります。
 そこで、その醫者は、人に知られないやうにと、夜の闇に乗じて、その町から十里ばかり離れた所にゐる山賊の所へと訪れて行きました。
 數千といふ大金を懷中から取り出して、その譯をその山賊の親分に願ひますと、
『おゝ、よしよし。それでは、これは確かに引取つた。この俺が引受けたからには、决して間違ひはない。お醫者、お願ひだと云はつしやるから、どんな事かと思つたら、それしきの事か。仕事があんまり樂過るよ。・・・・・・何なら、お金を少し割引かうかの、はゝゝゝはゝゝゝ』
 などゝ、その親分は、両眼をぎろりと光らせて、薄氣味惡く笑ふのでありました。
 醫者が歸つたあとで、手下の者共を大勢呼び集めて、
『誰か、この仕事を申受けたいといふ野郎はゐないか。――相當な褒美はつかはす。』
 と云ひました。と、その言葉のあとに隨いて、
『親方、わたしが願ひませう。・・・・・・お茶のこさい〓〓だ。東の方からあの町へ來るには道は一本しかない。人通りのすくない所で待伏せてゐれば何の雜作もないはなしだ。向ふは人形同様の小娘だ。』
 と申し出たものが一人ありました。
 それで、そのはなしは、その男に任せるといふ事にきまり、あとは金の入つた祝ひに酒宴が開かれました。洞窟のやうになつた廣い庭へ、ところどころ篝火を焚き、七八人づゝそれを取り圍んで酒を汲み初めました。
 山賊、强盜を仕事にしてゐる連中の事だから、禮儀作法といふものはありません。それに別にこれと云ふ藝もないので、酒に醉ふと、五六人づゝ集つては、力競べなどを初めるのでありました。どれもこれも毛もくぢやらで、手や足などはまるで丸太かなどのやうであります。そこへ一人の男が、どこからか一ツの大きな石を轉がして來ました。それは何でも七八十貫目もあらうかと思はれる石でありました。みんなでその石の持ち上げつこをしました。まことに恐ろしい奴等で、大抵はそれを安々と持ち上げます。さつき、お桃の一件を引受けた男などは、中にも力が强く、その大石を何の苦もなく、片手でぐいと高く差し上げるのでありました。この男は名を岩藏といつて、この輩の中でも何人といふ指折りの剛の者であります。
 いよ〓〓、お桃が、その町へ来るといふ日になりました。
 岩藏は、自分の子分を二人連れて出かけました。丁度よい時間をはかり、これからお桃がさしかゝらうといふ、町から三里ばかり離れた大きな原の草の中に姿を隱して、今か今かと待ち搆へてゐました。
 それは、夏の日の午過ぎで、ぢり〓〓照りつける太陽をおそれて、道には往來の人が一寸とだえてゐます。
 お桃は、そんな事とは露知らず、一時も早く町へ辿り着かうと汗をふきながら、一人ぼつぽつ步るいて來ました。まるで、穽に陷る兎のやうなものであります。お桃は何の雜作もなく、岩藏共の手に捕へられて、否應なしに荒繩でぐる〓〓と身體を縛られて仕舞ひました。
『道の眞中では仕事がしにくい。人に見つけられては面倒だ。――ーちやうど、あすこにこんもり暗い森がある。あすこへ引ずつて行つて首を撥ねる事にしやう。』
『それがようござんす。面倒くさい、えゝ、俺がひつ擔いで行きませう』
 と云ひざま、一人の奴が、お桃を肩の上へ、ぐいと乗せて走り出しました。
 お桃は、森の中の小流れの岸に座らせられました。
『娘ご、お前さんにはちつと氣の毒だが、その首はわたしが貰つた。それをわしらが親分の所へ持つて行くとな、また、うまい酒が頂けやうといふものさ。どりや、しからば、娘ご、覺悟をさつしやい。』
 と云つて、岩藏が、ぴか〓〓光る長い刀を振り上げて、今や、えい!とばかりに切り下ろそうとする一刹那、
『待て!狼藉者!』
 と、大聲張上げて、飛び込むが如くにして、その前に立ち塞がつた者がありました。
 見れば、それはまだ二十歲になつたかならぬ位の、美しい、優男であります。天から降つたか、地から湧いたかと、一同、あつけにとられて、しばし茫然として言葉もありません。
 すると、その若者は、お桃の方へ向ひ、
『娘さん、さあ、はやくあちらへ。そこにゐては危ない。早く、早く。』
 と、云つてお桃を立たせました。
 岩藏はそれと見ると、
『この靑二才奴、何をしやがるのだ。何の譯があつて、人の仕事の邪魔をしやがるのだ。』
 と叫びながら、振り上げた刀を、今度はその若者の方へ向けました。
 若者は、岩藏が切り下ろす刀をひらりとかはして、ひよいと横へ飛び、自分の腰にさしてある刀をすらりと拔きとりました。
『おのれ、小癪な。』
 と、岩藏の二人の手下も、これへかゝつて來ました。
 何しろ、三人に一人だから、初めは仲々危く見えましたが、巧みに身をかはし、身をすかし、それでも問もなく二人の手下の奴等を切り倒して仕舞ひました。そしてやがて岩藏をも、へと〓〓に弱らして、とう〓〓打敗かして仕舞ひました。
 お桃は、大きな樹の幹にかくれて、この様子を窺つてゐましたが、この時、その若者の前へ出て來て、深く禮をのべ、
『どこか、お怪我はありませんか、』
 と訊ねました。
 だが、別にどこにも怪我のないのを見ると、お桃はほつと安心し、
『ほんとに、もう少しのことで一命を取られますのを、お蔭様で、助かりました。何とお禮を申上げてよいやらわかりません。このご恩は一生忘れは致しません。恐れ入りますが、どうぞお名前を知らして下さいまし。』
 と云ひますと、若者は、
『いや、その名前は、少し譯あつて云ふ事は出來ない。しかし、綠があれば、いづれ又どこかで遇ふこともあらう。・・・・・・それにしてもちやうど私が此所を通りかつゝたので宜かつた。もう少し遅れやうものなら大變なのであつたが、いや、これもみんなお前さんの幸運といふものだ。――それでは、折角身體を大事に、こわかれでお別れとしやう。』
 と云つて、匆々にしてそこを立ち去るのであります。
 お桃は、名殘惜しく、その後姿を何時までも見送つてゐました。
 お桃は、町へ入ツてから、その事を人に話して聞かせます、とある旅から來た一人の男のいふには、
『さういへば、つゐ先日も、この川向ふの里で、ちやうどそんな事があつたが、その人もまだ年は二十歲位で、凛々しい立派な人だつたといふから、多分同じ人なのだらう。』
 といふ事でありました。
 誰れもかれも、
『さういふ立派な人を、一度見たいものだ。』
 と申しました。
 お桃は、この町でも數千人といふ大勢の病人を癒しました、そしてお桃がこの町を去る時には、もし又、先日のやうな事が、萬一にもあつては大變だといふので、町の內で一番强さうな男を十人ほど選んで、お桃の伴をさせました、それから、行く町、行く村で皆この通りにしました。
 
 
 
64
十三 王城の喜
 一ツの村に、少し重い病人があつて、お桃はそこに滯在してゐました。
 すると、その百姓家へ、思ひがけなく一人の立派な騎士が訪ねて來ました。見れば、白銀の鎧に白銀の兜を戴き、大きな栗毛の馬に跨り、如何にも威儀堂々としてゐます。
 取次ぎに出た、そこの家の主人は周章てまい事か、頭を床にすり付けるやうにして、
『これは、これは、お殿様、お早うございます。』
 と、畏こまりました。
 すると、その騎土は、ひらりと馬から下りて、
『これ、主人、それには及ばない。――そなたに少しお尋ねしたいのだが、このあたりに、あの名高いお桃さんといふ方がおいでだ相だが、それは一體、どこのうち家にだな。』
『へい、人いのそれはその、へい、そのお桃さんといふお方は手前共の家においでゞございます。うちの年寄りがその、少し加减が惡うございましてな。――だが、お蔭様で、もう、すつかり癒りましたも同様になつてゐるのでございます。』
『おゝ、それは何よりだ。それでは、その方に取次いで貰いたいのだが、・・・・・・わたしはこの國の王様からの使の者だが、・・・・・・我が王様におかれましては、さき頃からご不快のところ、この度びは大分お惡るい様子、諸國の名醫を招び集めてのご療治だが、どうも思はしくない。ところが、近日になつてそのお桃さんといふの方、噂さがお上に達し、それではその方に來て頂かうといふので、實はそのお迎へにやつて來たやうな次第だ。
 ご都合がよかつたら、あちらに馬車の用意もして來てあるから、直ぐこれから御願ひしたいのだと、そなたからもよろしく取次いでくれ。』
 といふ譯でありました。
 こお桃は、その騎士に導かれて、程なく王城へ乗り込みました。
 王様の病氣は、お腹の中に腫物が出來てゐるのでありました。大分の重態であります。
 殿中では、女王、王様の母君を初めとして、臣下のもの一同、心配の爲めに何てれも蒼ざめた顏をしてゐました。町の寺々では、その爲めに日毎ご祈禱が行はれてゐました。
 お桃は、直ぐに王様の寢ておいでになるお部屋へと案內されました。王様は溫和な、親切げな立派な方でありました。お桃は、早速、近寄つてよく身體を診ました上、病氣の原と思はれる部分を、両の手で念をこめて何遍となく撫で擦すりました。
 今まで苦しみの爲めに、全身から油汗の流れてゐたのも止み、長々の疲れが一時に出たものか、王様はすや〓〓と如何にも氣持ちよさ相にして、そのまゝ眠りに就かれました。おそばの人達は、急に靜かになつたので、何か大變な事にでもなつたのではないかと氣遣つて、窺ひに來ましたが、お桃はそれ等の人達を押し靜めて、
『どうぞお靜かに。そして、ですから。そして、充分眠ませ申して下さい。大變に疲れておいでなのですから。そして、目がお覺めになつたら、直ぐにまたわたしを招んで頂きたうございます。』
 と云つて次のお部屋へ下りました。
 夕方、王様がお目を覺ましなされた時、行つてみますと、もう、大分元氣がよく、お桃に向ひ、
『おかげで大變に氣分がよい。急に空腹をおぼえて來たが、何か食べても大事るまいか。』
 と云はれました。
 二三日すると、痛みはすつかり癒りました。それから又四五日すると庭のお散歩が出來るやうになりました。
 今日はお床上げといふ日、旅から王子がお歸へりになりました、この王子はおま年の若いに似合はず、大變に賢いお方で、先年、諸國の様子を親しく視察するといふので、身をわざと武者修業の姿にやつして王城を出られたのでありました。もう、視察も略濟んで、歸へりがけてゐられるところへ、父君の病氣を聞いて、取るものも取り敢へず、日に夜をついで歸りを急がれたのでありました。
 歸へり付いてみると、今日が丁度、ご全快のお祝ひで、殿中には今宵大饗宴が催されるといふのであります。王子の喜びは一通りではありません。
 王様、もことの外のお喜びで、その夜の饗宴を、いやが上にも盛大にするやうにと命令をお出しになりました。
 饗宴の席へは、殿中の役人を初めとして、いろ〓〓立派な人々が大勢招かれて來ました、無論、お桃もよばれました。お桃は、王様の特別のおぼしめしで、王様ご一族と食卓を一緒にする事となりました。お桃は、自分の直ぐ隣席に、いつぞや、野中の森の中で自分の危い生命を救つて貰つた、大恩人の若者がちやんと座つてゐるのを見て、驚ろいたの、驚ろかないのつて、それは、それは大變でありました。もう少しで、
『あゝ!』
 と、大きな聲を出すところでありました。
『それでは、あれが王子様なのであつたか・・・・・・』
 と、お桃は今昔の感に堪へないで、目に淚を浮べて、今更の如く、また、改めたてお禮を申上げました。
 王子に於ても、意外なのに驚ろき、
『こんな所で、會はふとは思はなかつた。・・・・・・これも何かの廻り合はせといふものであらう。・・・・・・この度びほ、父上のご病氣について色々とお骨折をして貰つて誠に有難い。』
 と云はれて、互に堅く握手をするのでありました。
 王様、女王初め、一その話しを聞いて、王子のすぐれた精神と勇氣とに感心しないものはありませんでした。
 最後に、王様はお桃に向ひ、
『さてお桃、わたしはそなたのお蔭でとても、駄目と思ふてゐた命を救つて貰つて、何とお禮を云つていゝかわからない。それで、お禮のしるしとして何か差上げたいが、何か望みのものがあるなら遠慮なく云つておくれ。』
 と云ほれました。
 お桃は、
『いゝえ。王様のお身體が癒りまして何よりでございます。わたしはそれが一番嬉しうございます。どうぞこの上ともお身體を大切に遊ばすやう。それが何よりわがのお願ひでございます。
 そして妾は、明日からまた町へ出て、方々の病人を癒して歩きたうございますから、お暇を頂かして下さるやう御願ひ申上げます。』
 と答へました。
 それを聞いて、集つてゐた凡ての人が、お桃の心の、如何にも潔白で、博愛の精神に富んでゐるのに感心しました。
 王様は、奧の方から一本の小さな劔を持つて來させて、それをお桃に與へられて云ひますには、
『この劔は、祖先傳來の家寶で(平和の劔)といふものだ。これにはこういふ事が云ひ傳へられてある。
(どんな事があつても、これで人を切つてはならない。もしこの劒に、ほんの一滴でも人間の血が着く時は、この劒の持主は忽ちにして亡びて仕舞はなければならない。その代り、この劒に人間の血が着かない限りに於ては、この持主は如何なる事があつても、どんな塲合に立ち到つても、必らず安全に保護される。)
 それだから、その心して、これからこれはそなたの身につけてあるくがいゝ。そしてどうぞ、いつまでも無事でゐてくれるやう。・・・・・・それから今後も時々、この城を見舞ふてくれるやう。・・・・・・』
そしてその劍をお桃の腰に親ら下げておやりになりました。
 女王は、自分の首にかけてある、尊とい首飾を除つて、それをお桃の首にかけておやりになりました。
 
 
 
十四 魔軍の襲來
 お桃は、玉城を出ると、その都に數ヶ月留つて、數萬の病人と、數百の氣の狂つた人を癒しました。
 王様は、王子の視察談を聞き、天下の民が皆、あまり裕福ではないのを憐れとおぼしめし、その年から向ふ三ヶ年の問、租稅をゆるすといふ事を公布されました。萬民に喜んで、今までより一層元氣に家業をはげみました。それだから、それから一年二年とするうちに、この國は、以前とは別な國のやうに金持ちになりました。
 それに病氣といへば、直ぐにお桃が行つて癒してくれますし、さながら、この世ながらの天國であります。
 家の無かつたものは新たに家を建てました。道具の不足だつた所では道具を買ひ入れました。村々に通ずる道を廣くし、橋の壞れたのを修覆しました。山には様々の木の苗を植え、野には牧獸を飼つて養ひました。また、商人は資本が出來て、今までとは變つた、都合のいゝやり方で手廣く商賣が出來るやうになりました。
 都會には、養老院だの、育兒院だのと云つたやうな公共な建物が澤山出來るやうになりました。
 しかし、この様な幸福な事は、ほんの一時の夢に過ぎなかつたのであります。その後、間もなくこの國に思ひがけもない凶事が起こつて來ました。といふのはある年の秋、遠い海のかなたから、數限りもない澤山の大船小船に乗つて、多くの軍勢が突然攻め寄せて來たのであります。海を越えて來た、その兵隊共は、何れも惡魔のやうな獰猛な顏付きをして、人間でも何でも食べるかと思はれる程であります。
 これは、この鳥から海を遠く〓〓距てた所にある鬼ケ島に住んでゐる悪者其でその王様は、本物の鬼かとも思はれるやうな恐ろしい人であります。この輩は、他人の生命をとり、家を燒き、他人の財寶を强奪するのを仕事としてゐるのであります。
 この國が、この頃大變に富裕になつたのを聞きつけて、今、こうして大擧して押し寄せて來たのであります。
 彼等は、この島へ上陸すると眞くにその上陸した村を燒き拂ひました。鉦を鳴らし、太皷を叩いて押したくツてあるのであります。隣りの村も、その又隣りの村も燒き拂ひました。そしてそこを自分達の本陣と定め、そこから毎日のやうに隊を分けて方々へ掠奪に出掛けるのであります。
『米を出せ!』
『牧獸を出せ!』
『金を出せ!』
『それを運べ!』
 そして、少しでも愚圖々々してゐやうものなら、即時に、ぼんと首を撥ねて仕舞ふと云つたやり方であります。人々は、何とも致し方がありません、ぶる〓〓慄え上りながら、彼等の云ふなりになる外はありません。
 大將は、一隊に命じてこの國の王城へ使者を送りました。その使者の持つて行つた書面は、
『王城にある凡ての財實を我等に獻上致せ!もし、それが厭とあらば、我等はこの國中を燒き拂ふて仕舞ふからさう思へ。』
 うこういふ亂暴なものでありました。
 王様初め、皆々はそれを見て驚き、且ツ怖れました。獨り皇子のみは大に怒つて、
『何といふ不埒千萬なことだ。このやうな惡者共をその儘にしておいて叶ふものか。我等を侮つてこの様な不禮な事を云つて寄來しやがる。憎みても余りある奴ら等だ。』
 と云つて、その使者の首を切り落し、それを箱に詰めて、使者を護送して來たへいたいどもわた兵隊共に渡してやりました。
『なあに、恐れるに當りません。一擊のもとに一人殘らず切り殺ろして仕舞ひますから、どうぞ心配をしないでゐて下さい。』
 と父君初め一同のものを勵まし、一方に於ては、諸方へ命令を出し、取り急いで天下の兵を召集しました。そして王子自身白銀の鎧白銀の兜で身を堅めた騎士隊の眞先になつて出陣せられたのでありました。
 魔軍の大將は、彼の使者の生首の箱を開いてみて、火のやうに怒りまして、これも時を移さず王城さして進んで來ました。
 両軍は、或る大きな川で出會ひました。
 王子の軍は、川の橋を落して敵軍を迎へましたが、彼等は逆卷く激流を物ともせずに、どん〓〓と進んで來ました。
 何と云つても敵は、戰爭が本職と云つてもいゝのだし、こちらは、長々の泰平に馴れて、身體も精神も、そんな荒々しい事には不適當になつてゐます。こんな譯で、王子の軍は散々に攻め立てられて、ちり〓〓ばら〓〓に破れ、とう〓〓王城まで追ひつめられました。そして王城の戰爭でまた大敗し、王子以下多くの人々が捕虜となりました。
 敵軍は王城に乗り込んで、有る限りの財寶を、そこから運び出しました。そして凱歌をあげて、さつさと引上げて仕舞ひました。
 多くの捕虜は、途中で首を切られたり、或は許されたりしましたが、王子とお桃だけは、別々な箱の中に入れられて、とう〓〓鬼ヶ島の本國まで送られる事となりました。
 
 
 
十五 隣國の援
 岸を離れてから三日になります。
 その三日目の夜、王子の乗つてゐる船に火事が起こりました。海を吹いて來る風が强く、火は急に大きくばあーツと燃え上がりました。それに驚ろいて船內の兵隊共は、
『それ大變!船が燃え盡きないうちに早く逃げ出せ!』
 といふので、上を下への大騷ぎとなりました。こうなつては、もう、火を防ぐものなどはありません、我れ先きにと皆、小船を下ろして海の中へ身を脫れました。泳ぎの上手の者は、身一ツになつて海の中へ飛び込みました。
 王子の入れられてゐる箱にも火がついて來ました。王子は、とても助からぬものと覺悟をきめて落ち付いてゐますと、これは又何といふ幸運でありませう、火は箱を半分ほど焼いて消えて仕舞ひました。
 そこで、王子は、逸早くその中から飛び出しました。しかし、船の火は益々ひどくなつて行きます、皇子は火に迫はれるやうにして甲板のやうな所へ出てみますと、一艘の小舟が卸ろし殘されてあるのを發見しました。やれ嬉しやと早速それに乗り移つて本船から離れました。そして力の限り漕ぎ續けました。
『そら、王子が逃げる!』
 といふので、他の船の者其が、あちらからもこちらからも追ひかけて來ました。だけれども、何分にも眞暗な夜ではあつたし、それに波も可成高かつたので、とう〓〓王子は辛くもその塲をのがれる事が出來るのでありました。
 遁は遁れたが、方角もわからなければ、もはや力も盡きて仕舞ひました、そのうちお腹は空いてくる、どちらを見ても波ばかりで、如何とも致し方がありません、王子は、半ば自棄氣味で、
『どうとでも、なるやうになれ。』
 と心の中で獨り言を云ひながら、櫂を引き上げ、自分は身を舟の底に橫へて睡入つて仕舞ひました。舟は風のまに〓〓あてもなく、はてしくなく漂ふて行きました。
 二日三晩たつて、三日目の朝、王子の小舟は、とある島の砂濱へ漂着したのであります。
 王子は、今は立ち上る力もなければ、物言ふ元氣もない、船から匍ひ出て砂の上に死んだ者のやうにして横はつてゐますと、そこへ村の人が通りかゝツて、いろ〓〓と介抱して自分の家へ擔ぎ込んでくれました。
 王子は、身體の元氣が出て來た時、自分の身に起つたこれまでの頗末を詳しく話しました。そして、
『それでも、こうして身體が助つたのが不思議な位だ。お蔭様で、ほんとに有難うございました。』
 と、その村人に厚く禮をのべました。
 その村人は、王子の物語りを聞いて大に同情をよせ、じ
『それは實に口惜しい事でしたらう。戰爭といふ奴は、一人がいくら强くとも駄目なものですからね。敗ける時にはほんとに仕方のないものです。それにしても、憎らしいのは、あの鬼ケ島の奴等です。あの奴等は私共の島へもよく來るんですよ。そしてちよい〓〓惡事を働らいて行きますが、この頃ではこツちで用意をしてゐるからさう甘い事ばかりはさせて置きません。つゐ先日も、この先きの村へざん〓〓襲つて來ましたが、あべこべに村の著者共の爲めに散々な目に過はされて逃げて行つたとか云ひますよ。・・・・・・それではあなた方のお國では大變でしたらうね。何とかして復讐をしておやりなさい。』
 といふのでありました。この話しの様子では、此處はどうやら、王子の國ではありません。王子はそれを不思議に思ひました。これまでは世の中に、國といへば自分の國だけだと思ふてゐたのに、あちらにもこちらにもこうも多くの國があるものかと、驚ろいた眼を見はつて今更のやうにあたりを見ると、家の様子や、その村人の者物の工合などか、自分の國のとは多少異でゐるのを發見しました、
 王子は、いろ〓〓な事が心配になつてたまりません。父君、母君はどうおなりだらう。それから、自分と一緒にほかの船へ乗せられたお桃はその後とうなつらう、どるしたらば國へ歸へられるだらう。どうしたらば首尾よく復營が出来るか、といろ〓〓に思へば、もう一刻もぢつとしてはゐられないやうであります。
 様子を見ますに、この國の人達は、自分の國の人達よりは遙かに力も强く、戰爭などにも馴れてゐるやうであります。そこで、王子は
『これは一ツ、この國に力を貸して貰ふに限る。どうかしてこの國の王様にお目にかゝつて、それをお願ひしたいものだ。』
 と思ひました。そしてそれを、村の人に話しますと、その人は、
『それもいゝが、・・・・・・この村から山を一ツ越して行くと、そこに桃太郞といふ、非常に强い、立派な大將がゐるから、その人に賴んでみなすつたらいゝでせう。その大將はそれでなくとも、鬼ヶ島の征伐に出掛けたいと云つてゐられた事がある位だから。・・・・・・何なら、私が、そこまで案內して上げてもようございます。』
 と親切に云つてくれるのでありました。
 王子は、非常に喜こんで、早速、そこへ出向くことにしました。
 桃太郞は、王子よりも若うございましたが、見るからに、威嚴のある、大將であります。王子の話しを聞くと、
『では、及ばずながらお援け致しませう。私も先年から鬼ケ島征伐の志は抱いてゐたのですから、丁度良い機會といふものです。』
 と、直ぐに承知しました。
 王子は、桃太郞の勇氣に滿ちてゐる風を見て、ひどく心丈夫に感じました。
 その夜は、月が非常に美しかつたので、桃太郞は自分の陣營に酒宴を開いて、王子を自分の部下のものに紹介しました。酒宴の後、二人はいつまでも月を賞して四方山の話しをしてゐました。その間にいつかお桃の事が話題に上りました。
 王子のはなしを聞いて、桃太郞は、
『へえ、どんな病氣でも癒して吳れるのですつて?そしてあなだの父君のご重病をも癒して吳れたんですつて?實に不思議な人ですね。・・・・・・そして、その名が私と同じとは、何だかなつかしく思はれますね。』
 と云ひました。そこで、王子は、
『その名に就いてまた、不思議ないはれがあるのです・・・・・・』
 と云つて、仔細にそれを話しました。桃太郞は、ぢーツとそれを聞いてゐましたが、急に飛び上がるやうに喜びまして、
『王子!それでは、その人は私のきやうだいだ。正しく私のきやうだいだ。あゝうれしい。』
 と云つて突然王子の手を堅く握りしめるのでありました。そして、
『實は、私も・・・・・・』
 と自分の身の上、自分の名の由來などを一々王子に話して聞かせました。
 それから、そのお桃が、今は、鬼ケ島の兵隊の爲めに捕虜になつてゐるといふ事を王子が話しますと、桃太郞は、こうしてゐる間にも、お桃が惡者共の爲めにひどく苦しめられてゐるやうに思はれて來て、矢も楯もたまらなくなりました。
『それでは、一刻も猶豫してゐる時ではない。』
 と、その夜のうちに、大急ぎで、出陣の準備にとりかゝる事にしました。
 總勢を二隊に分け、第一軍の先鋒に桃太郞が立ち、第二軍の眞先には王子が進みました。そして、その翌日、夜の明けるのを待ち、步分堂々として陣營を出ました。
 
 
 
十六 めぐりあひ
 お桃は、多くの勝利品と一緒に、鬼ケ島の王城へ運ばれました。
 王城へつくと、お桃は箱の中から出されました。お桃はこれはきつと自分を殺すのだなと思つて覺悟をしてゐますと、そんな様子は更にありません。それどころか、今まで嚴しく縛しめてあつた繩を解いたり、おまけに、お甘味い暖かい物などを持つて來て食べさせたりしました。
 それから、王城の中の一室に入れられましたが、そこは捕虜などを入れるやうな所ではなく、金銀でびか〓〓と光り輝く美しい部屋でありました。そのうちに侍女が幾人も來て、錦の着物を着せたりするのでありました。お桃はあまりの意外に、只あきれてゐる外ありません。どういふつもりなのかさつぱり了解が出來ません。いつまでたつてもその通りで、益々優遇されこそすれ、自分を苦しめるやうな事は少しもありません。
 お桃は、王子の事が氣になつてなりません。ある日、侍女にそれとなく尋ねてみますと、
『あなたのお國の王子様でございますか、それは海へ落ちて、そのまゝ行方不明におなりなのだ相でございます。』
 と云ひました。
『まあ!』
 と云つたきり、お桃はつぐべき言葉もなく、そのまゝ、そこに泣き伏して仕舞ひました。
 お桃は、
『それなら、もう駄目だ。自分は、もうとてもこの城から出る事は出來ないのだ。あゝ・・・・・・』
 と、悲しげに心の中で獨り言を云ひました。
『ぢや、いつまでこうしてゐたつて仕方がない。生き長らへてゐて、思はぬ耻をするよりは、一層の事、自害して仕舞つた方がましだ。』
 と、幾度か幾度か、腰につけてある(平和の劔)に手をかけましたが、どふいふものか、いざとなるし、いつも誰か見えない者が來く自分の手を引き止るやうで、どうしてもその劒を引きぬくことが出來ません。
 或る日のこと、一人の侍女が、お桃の前へ來て、
『王様の急病でございますから、どうぞ早く來て癒して上げて下さい。何かに食傷をなすつて、つゐ今しがだから急にお苦しみ出しなすつたのだ相でございますさあ、一時も早く。』
 と、お桃を引立てるやうにするのであります。
 お桃は、その侍女の手を振り拂ひ、威儀を正して、
『それは出來ません。罪のない人を殺し、人の家を燒き、他人の財寳を掠奪するのをしやうばいにしてゐるやうな、そんな惡者共の大將の病氣なんか、私は癒してやる事は出來ません。』
 と、一言のもとに嚴然と斷はつて仕舞ひました。
 侍女は、お桃のこの權幕に驚ろいて、逃げるやうにして、奧の方へ去りました。
 それから、しばらくすると荒々しい男が二三人、その部屋へ入つて來ました。そして物をも云はず、お桃の身體をぐる〓〓と縛りつけて、その部屋から引摺り出しました。
 お桃は、どうなることかと思ふてまゐすと、その荒々しい男達はお桃を引擔ぐたやうにして王城の外へ出ました。そこには罪人でも入れて置く所か、石で疊み上げた、冷たい、眞暗な一ツの部屋がありました。お桃はそこへ押し籠められて、そとからぴんと重たい錠を下ろされて仕舞ひました。そしてそのまゝ飯も喰はせなければ一滴の水も與へてくれないのであります。
 王様の病氣は一刻一刻と惡るい方へ進んで行きました。何遍となく使がお桃の所へ來ました。威したり、すかしたり、いろ〓〓の事をして賴みますが、お桃はどうしても、
『それでは癒して上げやう。』
 とは云ひません。
 そのうちに、王様は、放つて置けば、あしたの朝までは危なからう、といふ所までになりました。
 今は、もう止むを得ないといふので、お桃の所へ最後の使をやつて、
『もし、今晩までに、承知して吳れなければ、その方の首を撥ねて仕舞ふから。』
 と言ひ渡しました。
 そんな事をしてゐると、急に城外のほうで勇ましい鯨波が聞えて來ました。突然この聲に驚かされて、城内では周章て上を下への大混雑であります。それが石室の中にゐるお桃の耳にも聞えて來ました。
 お桃は、思はず立ち上つて、腰にさしてある(平和の知)をしつかりと握りしめました。
 稍しばらくの間は、天地も裂けるかと思はれるばかりの大鹽亂でありましたが、勝敗の决がついたものと見えて急にあたりが森と静かになりました。
『どつちが勝つたのか。』
 と、お桃は様子を窺つてゐますと、今度は一群の人が自分のゐる方へ、どやどやと近づいて來ました。
『今度は、いよ〓〓自分も殺されて仕舞ふのだな。』
 と思つて、もう、半ば覺悟をきめてゐますと、一人の男が、がら〓〓と石の扉を開きました。しかし、その時は、もう日も暮れかゝつてゐたので、人の顏などはとても見分けられません。と、それに續いてどや〓〓と、松明を持つた人が四五人入つて來ました。そしてその中の一人が、
『おゝ、お桃さん!』
 と云ひました。
 その聲に驚ろいて、お桃が顏をあげますと、そこに王子が立つてゐました。
 お桃は嬉しさのあまり、われをも忘れて、
『おゝ、王子様!』
 と叫びながら、王子の両手に縋りつくのでありました。
 それから、お桃はそこを出て、桃太郞の前へ連れられて行きました。そこで王子の紹介で、二人は嬉しい、不思議な邂逅の握手を致しました。
 
* * * * * *
 
 そののち、桃太郞はその島の王様となりました。王子はお桃を女王に擧げ、國へ歸つて父君の後を繼ぎました。そしてそれから、桃太郞の國と王子の國とは互に『兄妹國』と呼び合つて相援け、共に共に末長く榮えたといふことであります。(完)
 
 
 
 
 
お伽對話
七色の蠟燭
 
登塲人物
露姫
森の翁
秋の女神
惡魔
月の神の使
秋の女神の侍女數名、同客人大勢
舞姫七一人、その他野兎一、惡魔の下部共數名
 
 
一 森の塲
大きな森の中。秋の景色、一つの小流れに添ふて四五本の大きな楓の樹、その根もとには眞赤に紅葉した楓の葉が一面に散つてゐる。露姫、一心になつてその落ち葉を糸につなぎ合せてゐる。そこへ白髮白髯の森の翁、片手に立琴を持ち、ねむ相に唄ひながら登塲。
 
翁。 おらが叔母ごは
月夜のばんに、
大きな、大きな、
鶴の背に乗つて、
峯のあなたへ、
峯のあなたへ、・・・・・・
(思ひがけなく、そこに少女の居るにおどろき)
ほい。――ええと、これ、これ。其處にゐなさるのは何者だな。
 
姫。 (びつくりして、翁の方へ向き直り)まあ、吃驚したわ。わたし、たつた今までわたし一人だとばつかり思つてゐたのに。まあ、お前さんは一體、何時、何處からやつて來たの?
 
翁。 それは此方から尋ねる事さ。これ、娘ご、えーと、わしかな、わしは此の森の主人だよ。お前さんこそ何處から來なすつた?お前さんの顔は遂ぞこの邊では見掛けた事もないが。え?なにかな、誰がお前さんを此所へ連れて來たかな。
――さうしてまあ、一體お前さんはまあ、何をしてゐなさるのだい。こんな淋しい所で。たつた一人でさ。
 
姫。 あたし?あたしはね、此所で今落ち葉を拾つてゐたんだわ。
 
翁。 え?これ、娘ごや、落ち葉を拾つてゐなすつたつて?――そしてそれを又何にしやうといふんだね。こんな土臭い、枯れつ葉をさ。
 
姫。 さうね。妙に土臭くて、冷たくつて妾もほんとに氣に入らないんだけれどもどうも仕方がないんだわ。ほかに良いものが見つからないんだもの。ほかにもう何にも無いんだもの。どこへ行つても、――せめて白百合の花でもと思つて方々探し步いたんだけども。
 
翁。 で?まあそんな物が何になるんだね。え?娘ご、一體、そんなものを何にしやうと云ふんだね。
 
姫。 いゝえ。ね、お翁さん。あんたは知らないのね。明日の晩は、妾達の女王様のお誕生のお祝ひの日なのよ。それは、それは每歲大變に盛んなお祭りがあるのよ。その時には、國中の人達が色々なものを女王様へ捧げる事になつてゐるんだわ。それはね、奇麗な錦だの、いろ〓〓の美しい草花だの、美事な果物だの、いゝ香りのする新らしいお酒だの、それからお祭の時に使ふ宮殿の敷物だの、それからおいしいお魚だのね。まだ、まだいろんな、どつさりよ。だけれども、妾の家は貧棒で、そんなものは何にもないの。何にも差上げるやうなものを持つてゐないの。それだから、妾は野に出て、せめて新らしい花でも採つて來やうと思つて出掛けたんだわ。ところが、丁度、人がみんな刈り取つた跡なので何一ツ殘つて居ないんだもの。だから、こんな物でも持つて行つて、女王様のお通りになる道へでも敷かふかと思ふのよ。
 
翁。 まあ、まあ、さうか。娘ご、お前さんはなんてまあ、やさしい、可愛らしい心を持つてゐなさるのだらうね。ほんとに、――だが、むすめごや、この落ちき葉は、このわしが敷いて寢る大事な寢床なのだから、これを持つて行かれては本當に困つて仕舞ふな。えーと、それではこういふ事にしやうよ。いゝかい、ま、その代りにこの發さんが良い品をお前さんに進ぜやう。どれ、どれ。
 
姫。 お翁さん、その良い品つて、どんなもの?
 
翁。 まあ、お待ち。どりや、どりや、今直ぐに出してあげるよ。ね、えーと?
(と云ひながら、楓の枝にかけて置いた立琴をとつて、それを幽かにかき鳴らす。すると何處からか一疋の野兎がびよん〓〓〓現はれて來る。翁が何かそれに言ひ渡すと、又急いで何處かへぴよん〓〓と去る。間もなく黃金色の小箱を一ツ運んで來る。翁それを受取つて姫の前に差し出し)
これだ。いゝか、むすめごや、この中にまあ何が入つてゐると思ひなさる?さうさ、どうしてお前さんなどの思ひも寄らぬものぢや。えーと、この中にはな、それは〓〓不思議な蝋燭が七本入つてゐるのぢや。いゝかな、不思議な蠟燭が七本だよ。それは、赤、黄、樺、橙、紫、綠、靑とな、一本一本に色が違つてゐるのだよ。そしてそれを點さうものなら、それはそれは美しいの美しくないのツて。まあ、この世の中に又と譬へるものさへないわ。そして又それが揃つて燃え上つた時には、きつと何か大變に嬉しい、よろこばしい事が起ツて來るのだよ。不思議な目出度い事が起ツて來るのだよ。どんな不思ぎがあるか、それはその時のお樂みにして知らせないで置くとしやうよ。
 
姫。 お翁さん。有難う。ほんとに有難うよ。まあ、うれしいこと。女王様がどんなにお悅びなさる事だらう。こんなうれしい祭をした事がないなんておつしやるかも知れないわ。まあ、あたし本當に嬉しいわ。翁さんほんとに有難うよ。――だが、どんな事があるといふのだらう、――まるで夢のやうだわ。――翁さん、それではもうお暇してよ。さようなら。
 
翁。 さようなら。娘ご(姫のあとを見送りながら立琴を鳴らし、)
おらが叔母ごは
月夜のばんに、
大きな、おほきな、
鶴の背に乗つて、
峯のあなたへ、
みね峯のあなたへ、・・・・・・
(と唄ひ唄ひ橫になりそのまゝ寢入つて仕舞ふ。)
 
 
 
二 洞窟の塲
 薄暗らい洞窟の中。甲蟲だの蟷螂だのの形をした、惡魔の下部共六七人、焚火をしながら露姫を中にして之を責めてゐる。
X。 その蠟燭の入つてゐる箱をその方が持つて居ない譯はないのだ。持つて居ないからには、屹度何處ぞへそれを隱したに相違ない。
X。 何處へ隱してあるか、それを云へ。
X。 正直に申さぬとあれば、此奴、火あぶりにでもしてやらうか。
姫。 だツて、そんなもの貰つた覺もないんだもの。どうぞ、そんな無理な事を云人だはないで許して下さい。
X。 ならぬ。
X。 ならぬ。
X。 惡魔の下部共六七人、焚火持つて居なXならぬ。
X。 此奴は嘘を云ふてゐやがる。
X。 先刻、あの森の翁さんから其方が、その箱を貰つてゐる所を現にこのわしが見てゐたんだから仕方がない。――それでもまだ、貰はぬといふか。
X。 中々づるい奴だ。一體どこへ隱したといふのだ。――あれはわし等が王様が先年から欲しがつて居られた品物なのだ。だから、それはもう、どんな事をしても其方からあれを奪ひとらずには置かれないのだ。
X。 さあ、早く白狀しろ。
X。 白狀せんか。こら。
X。 ほんとに。一體どこへ隱したといふのだ。あ?うむ?
姫。 でも、ほんとにそんな物貰つた覺はないんだから。どうぞ許して、早く此所から歸へらして下さい。
X。 いや、ならぬ、ならぬ。
X。 みんな、此の强情娘を撲て。
(姫どうしても白狀しない。そこへ惡魔の王、三四の下部を從へて登塲。)
惡魔。 どうぢや。まだらちがあかぬか。
X。 はい。どうも强情な奴でございます。
惡魔。 よし。よし。それではこう致さう。わしは元來面倒な事は誠に厭ぢや。もう、そんな蠟燭なんかどうでもよろしいわい。――だが、姫よく聞けよ。この儘でこの洞窟から其方を出してやる譯にはゆかぬ。それがこの洞窟の諚なのだからな。其方の持ツて居るものを殘らずそこへ出して仕舞へ。――まあ、そこへ出して見ろ。
姫。 はい。だが、あたしは何にも持つて居ないんだもの。――
惡魔。 それは困る。(暫く考へてゐたが、ふと、姫の美しい眼に目をつけ)いや、良い物を見つけた。それでは、わしは其方のその美しく輝いてゐる二ツの眼をもらいた貰ふと致さう。
X。 王様、それはほんとに良い思ひつきといふものでございます。
X。 さあ、皆のもの、此奴の両眼をぬきとるのぢや。
惡魔。 皆のもの、ちと待て。(姫に向ひ)だが、これ、そちにもう一度云ふがな、そちはあの蠟燭の入つてゐる箱を貰つたに相違あるまいがな。そんなら今のうちに早くその隱してある所をいふがいゝぞ。――いや、それとも一生涯の盲目しまになつて仕舞ふか。
姫。 何としても致方がない。――さあ、どうぞ、早く妾の眼をぬきとつて下さい。そして早く妾を此の洞窟から歸へして下さい。妾は少し急ぐ、大事な、大事な譯があるんだから。
X。 この强情者奴。そちうつくかゞやめわしは其方のその美しく輝いてゐる二ツの眼をそれでは、
X。 さあ、覺悟をしろ。
(下部共、姫をとりまいて奧の方へ連れて去る。)
 
 
 
三 宮殿の場
 秋の女神誕生祭の當夜、秋の女神宮殿大廣間。數多くの燈火がついてゐる。
 正面に女神。其左右に多くの侍女。女神の前には山なすいろ〓〓の捧げの品々。
 大勢のお客様。部屋の眞中に、赤、黄、樺、橙、綠、紫、靑の七本の蠟燭が据へてある。
 
女神。 (侍女の一人に向ひ)露姫をこゝへよんでおくれ。
侍女。 かしこまりました。
(露姫を女神の前に連れて來る。露姫今は両眼盲てゐる。)
女神。 露姬や。わたしは、そなたの、その優しい心と、健げな氣象とを深く有難う思ふてゐる。
姫。 かたぢけなうございます。
女神。 だが、そなたは可哀相に、まあ両眼とも盲になつてしまつたね。ほんとにまあ、それがわたしは可哀相でならないよ。
姫。 女王様、さやうに仰せられましては、あたしは何と申上げてよいやらわかりません。おゝそれよりも、――あの、さうでございました。あの森の翁が、この蠟燭をあたしに吳れました時に申しますには、この蠟燭が揃つて七本燃え上つた時には、それはきつと何か嬉しい目出度い事が起つて來るのだ相でございます。
女神。 それはわたしも信じる事が出來る。こんなに美事な蠟燭の事だから、少し位の不思議があつたとて驚るくには當らないと思ひます。さうであつた。早よう、それへ火を點けておくれ。
侍女。 畏りましてございます。
(七本の蠟燭、それ〓〓の色に美事に燃え上がる。と、どこからか幽かな立琴の音、流れるやうに聞えてくる。)
姫。 あ、あれでございます。森の翁が、あの森の中でかき鳴らしました立琴の音と少しも違ひはありません。
(といふてゐると、突然、美しい天使一人小さな箱を一ツ手に捧げて登場。)
天使。 私は月の神の使でございます。今日のお祭を祝されまして、天から女王様へ、これは贈り物でございます。(と、恭しく女神の前へ小箱を進める。)
女神。 これは誠に忝けない。――して、この中には何が入つてゐるのでございませうか。
天使。 はい。それには、美しい少女の眼が入つてゐるのでございます。それは永久に年寄るといふ事のない美しい美しい少女の眼でございます(言ひ終るや、影の如く消え去る。)
女神。 あゝ。何といふ嬉しい事であらう。美しい少女の眼、永久に年寄ることのない美しい少女の眼、――これは定めし、わたしから露姫へやれとのお心なのでがなありませう、では早速これは露姫へ。
(侍女の一人、それを露姫へ渡す。やがて露姫の目は開く、この間に又妙なる奏樂のひゞき、それにつれて各異れる七色の者物つけた無姫七人現はれ出る。)
露こそは、露こそは、
清らに澄み渡りたる
秋の心。
露こそは、露こそは
清らに澄み渡りたる
秋の心。
(と唄ひながら静かに舞ふ。七本の蠟燭の火この時一段と盛んになる。――幕。)
 
 
 
 
お伽對話
ソロモンの壺
 
登場人物
漁夫(老人)
惡魔
少女(七八歲)
附添ひの女數名
 
塲所
アラビヤの或る地方
舞臺。湖水のほとり、岸には枯れた茅、落葉樹二三本。木の梢からは風もないのに枯れた葉がちら〓〓と散つてゐる。日は今丁度向岸の山かげへ沈まふとして、淋しい夕榮がしてゐる。
投網を肩に持つた、年寄つた漁夫左手から靜かに登場。
 
漁夫。 (元氣のない様子)あゝ、日ももう暮れかゝツて來た。今日はまあ、どうしたといふのだらう。漁がないにも程があつたものぢあ。朝から出掛けて兎の尻尾みたいにい奴がたづた三疋といふんぢあ商売にもなにもなつたものではない。この儘家へ歸へるのが業腹だと思つて此處へ來て網を打てば、二度まで木の根や屑ばかり。わしが年寄つたので湖までがこのわしを馬鹿にすると見えるわい。――いやしかし三度目の正直といふ事があるから、もう一度やつてみるとしよう。今度で駄目ならいよ〓〓わしは今日限り漁師はやめて仕舞ふ。どれどれ今一度ぢあ。
(今度は一間ばかり離れた處へ網を投げる。)
やあ、やあ、また何か手ごたへがあるぞ、だが、さつきよりは大分輕いやうだ。何だか今度も魚ちあなささうだぞ。いやにごろ〓〓してゐやがる。石ころででもあつてみやがれ、それこそ、もう、もう勘忍ならないわ。網に魔でも附いたかな。――やあ、やあ、何だか光るぞ。や、光る、光る。厭にぎら〓〓光りやがるぞ。・・・・・・まさかお化の眼玉といふ譯でもあるまい。・・・・・・おや壺だ。まあ、白銀の壺だ。・・・・・・やあ、しつかりと蓋がしてあるぞ。・・・・・・これは何でも面白いものに相違ないぞ。(網なんかそつちのけにして色々にひつくり返へしてみる。)
何か入つてゐるわい。何はさて置いて一番これを開けてみるとしやう。・・・・・・なある程、これをこう廻すのだな。だが、待てよ、事によると是は開けてはならないものなのかも知れないて。いや。なあに。・・・・・・まてよ。(とかくして蓋を廻してゐるうちに不意に葢がぱつと開かる。と、同時におそろしい、物凄い物音が起る。それにつれて舞臺暗ら闇となる。そして響はいよ〓〓劇しく、物凄くなりゆく。と、また次第にその響が弱り、遠雷のやうに幽かになる。が、全く消えて仕舞ひはしない。舞臺再び明るくなる。漁夫は生ける心地もなく跼がんでゐる。そしてその前に、黑い大きな翼を持つた惡魔が立ツてゐる。)
 
惡魔。 (天に向ひ、何者かに誓を立てるやうな、へりくだつた様子をして)ソロモンよ。大豫言者よ。私はもう、以後決してあなたのご令には背きません。
どうぞお許し下さい。(次に漁夫に向ひ、如何にも傲慢な態度になり)やい、爺さん、お前さんのお蔭でやうやく又この世の中へ出て來ることが出來たといふものだ。いや、實に千萬忝けない。だが、お前さんはこれから直ぐに死なねばならん。
漁夫。 (おそるおそる、氣が氣でない様な様子で、どもりながら)そ、そ、それはまた、ど、ど、どうした譯でござります。
惡魔。 譯といふて何もないわ。只、わしが殺すのぢや。
漁夫。 一體、こ、この、わ、わたしがどうしたといふのですか。
惡魔。 否。お前さんが何うしたの、こうしたのといふではないわ。只、このわしがさう思ふてゐたからぢや。な、分らなければ云ッて聞かせてやらう。えゝと、こうだ。わたしは豫言者ソロモンの命令に背いた爲めに、この壺の中に封じ込められて丁度三百年ばかりの間、この湖水の底へ沈められてゐたのだ。わたしは其間、今日は誰か開けてくれるか、明日は開けて貰へるかと、そればかりを待つてゐた。それで、さうだ、それでわたしは、もし初めの百年の間に開けてくれる者があつたら、お禮をしてその人には莫大な富貴を授けて、一生安樂に暮らさしてやらうと誓つてゐた。が、それはとう〓〓無駄であつた。で、その人に次ぎの百年の間に開けて吳れた人には、素てきもない强い國を與へてその人をその國王にしてやらうと思ふてゐたのぢや。ところが、それも何の甲斐もなかつた。そこで今度は、この百年の間に開けて吳れる人があツたら、わしは何の事もなく其奴をば殺して仕舞ふと思ふてゐたのちや。――どうだ、これでわかつたらう。それではもう、あたふたせずと、覺悟をしてわしの云ふ通りになるのぢや。
漁夫。 (惡魔のこの話のあいだに、一時顛倒してゐた心をやうやうに落付け、さて一策を思ひ付いたといふ風をして)さういふ譯ならどうも致しやうがございません。それにまあ、わたしのやうなものが、あなたの前にはむかつてみた所で何うなると云ふものでもございません。・・・・・・だが、あなたの云ふ事は少し私には解りかねるのです。聞けばこの壺の中に三百年も入ツてゐたなんて、第一そんな大きな身體の者がこんな小さな物の中に入ツて居られる筈がないぢやありませんか。
惡魔。 ははあ、お前は仲々疑ひの深い男と見えるな。人間といふ奴はよくさういふ馬鹿げきつた疑をするものだ。いつもおかしくてならぬ。なあんの、このわしにそれ位な事が出來ないでどうするものか。わし等の身體は、それはもう、どんなに大きくも、どんなに小さくも自由自在なものぢや。
漁夫。 (如何にも狡滑相に、口には何とでも云へるといふものでさ。
惡魔。 (小供のやうに無邪氣に、)よろしい。そんなに疑ふのなら、私が一番、小くなつてみせてやらうか。
漁夫。 どうぞ、お願ひです。私の命をとる前に、是非その不思議な術を見せて下さい。冥土の土產にしたうございます。
惡魔。 何の事はない。(大きな黑い翼を頭から被つて、何やら口の中で呪文を唱へる。と、今までの大きな足體が一片の紫色の烟と化り、其代りに小さな、手の上にも載せられるやうな一寸法師となる。)
漁夫。 美ごと、美事。(うまく計略にのせたと云ツて得意の顔をして)だが、こうなればもう此方のものだ。・・・・・・さあ、覺悟をするがいゝ。
(一寸法師を手早く壺の中へ押し込み、あわてるやうにして元のやうに堅く蓋をして仕舞ふ。)
小是非その不思議な術を見せて下さい惡魔。る。と、だが、こう
まあ、實にあぶない處だつたわい。すんでの事で殺されてしまふ處だつた。・・・・・・やれ、やれ、まあ、これで安心と云ふものだ。・・・・・・だが、一體、これを何と處分してくれたものか、惡魔奴を封じこんでやつた、このあぶない恐ろしい壺を。はて?はて?――さうだ。矢張り、この水の底へ沈めて置くが一番だ。そして此處へ立札をするのだな。何でも、此處の惡魔の壺が沈めてあると云ふ事を皆に知らしてやらねばならぬ。さうさへすれば、あの惡魔奴、あの恐ろしい惡魔の野郞、何百年經たうと、何千年たうと、否々何萬年經つたとて、二度と再びこの婆婆へ出て來られる事でない。――どりや、うか〓〓してゐるうちに如何な事が起らうも知れぬ。こういふ事は何でも手早くやッて仕舞ふに限る。・・・・・・やれ、やれ。立ち上がり、壺を手にとり、水際へ進まふとすると、壺の中から)
惡魔の聲。 (哀訴するやうに、)爺さん、お爺さんや。――お願だから、ま、ま、少し待つて下さい。
漁夫。 (驚いたやうす。あぶなく壺を手から落しさうにする。怖わ〓〓ながら)
何だ。
惡魔の聲。 (泣き出し相に)もう、决してお前さんを殺すなどと云はないから、どうぞもう一度この壺から私を救ひ出しておくれ。
漁夫。 とんでもない。いやならぬ、ならぬ。そんな事がなるものか。
惡魔の聲。 (狡滑相に、また一生懸命に嘆願の心持ちで)しかし、お爺さん。よく考へてみなさるがいゝ。お前さんが今、此處で私をこの湖水の底へ沈めて仕たわ舞つたとて、つゐそれまでの話ぢや。只の一文の得にもなる譯ぢやない。ね、お爺さんや、もし、今私を救つてくれるなら私はお前さんの爲めにどんな事でもして上げる。
漁夫。 (つり込まれるやうに無意識に、口眞似するやうに、)どんな事でも?
惡魔の聲。 さうとも、お爺さん。お前さんの欲しいといふものは何でもあげるとしやうよ。
漁夫。 うむ!?(考へこむ)
惡魔の聲。 ね。お爺さんや。さうなれば両方が幸と云ふものぢやないか。
漁夫。 まてよ。さう云はれれてみれば、なるほど、まあそんなものさね。
惡魔の聲。 そこだ。ねお爺さん。私はお前さんに何をあげたら良いだらうね。私は一體お前さんの爲めに何をして上げたら良いだらうね。
漁夫。 まてよ。――えゝと。さて、ほんとにさうとなると、私もこれで少し考へてみねばならぬて。どりあ、まづ金かな。世の中に金ほど重寳なものはない、何がなくとも金さへあればどんな安樂も出來る。爲たいと云ふ事は何でもしてみられる。どんな暮らしも出來る。王様のやうな、ほんとに王様のお邸のやうな所に住むことも出來るといふものだ。(考へる。)いや、位も惡くないな。大勢の者から尊び敬まはれて、すべての人がみんな自分の前へ來て、『あなたの爲めには私の命は少しも惜くはありません・・・・・・』と云ふやうに云ふ。このわしの前へ來てさ、・・・・・・まつたく夢のやうなはなしさ。(考へこむ)いや、やつぱり財寶だ。金が一番のやうだ。だが、考へてみりあ、わしはもう年寄だ。この先きもう幾ら生きてゐられやう。間もなく死んで仕舞はねばならぬのだ。さう思ふと誠につまらない。――これが、もつと若い時ででもあらうものなら、それこそ望みも願も澤山にあつたものだなる。(思はずだめいきをする。)
惡魔の聲。 おや、爺さんは、年寄つたのが何だか大變悲しいやうに云はれるが、ではどうだね、私の力でもう一遍お前さんを若返へらしてあげやうか。、
漁夫。 え?何を云ふのだ。お前は?・・・・・・過ぎ去つた月日を返へすなんて、一旦年寄つて仕舞つたものを又若返へらせるなんて、・・・・・・これ丈はどんなお前だつこて、どうしてどうして出來る事であらうかや。
惡魔の聲。 (思はず噴飯し)はつはつは、そこが人間の淺墓な考といふものだ。爺さんや、このわしにはそれ位の事はほんとに何でもありやしないんだよ。・・・・・・ほんとに。
漁夫。 ほんとに、お前さんはそんな事まで出來るのかい。
惡魔の聲。 えーと、それで、爺さんは一體幾歲位のところに返りたいといふんだね。
漁夫。 さあ。そこだて。――ずーツと子供の時かな。世の中の酸いも辛いも知らないで、只もう矢鱈と仇氣なく跳わ返つた頃の事を思ひ出すと、もうそれ丈でも氣が晴々するやうだよ。――さうさ、まあ、慾ばつてずーツと子供の頃、九っとを歲か十歲かな。
惡魔の聲。 よし、よし。九歲か十歲だね。
漁夫。 さうさ。
惡魔の聲。 譯のないはなしだ。
漁夫。 だが、ちと待つてくれよ。私は同じ事を二度繰返へすのなら厭だ。隨分わしの生涯には辛い事が多かつたからな。・・・・・・それに――さうだ、出來ることなら今度は女になつてみたい。美しい可愛いらしい少女にさ。・・・・・・どうだらう。こんな願はちと六ケ敷過ぎやうかな。え?
惡魔の聲。 いや、爺さん、それとて別にむづかしい事ではない。ではさういふ事にしやうね。ね、爺さん、さういふ事にして、お願だから私をこの壺の中からすくだ救ひ出してくれ。
漁夫。 よし。ではこれから蓋を開けてやらうよ。(壺の臺に手をやると急に又怖くなつて)だが、嘘をついてゐるのではあるまいな。わしをだますのではあるまいな。
惡魔の聲。 いや。そんな事があつて堪るものか。惡魔が泣き聲を出して人に願ひをするなどと云ふ事は、决して嘘や僞で出來るものではない。さあ、私を信じてくれ。さうして、どうぞ私を救ひ出しておくれ。きつとお前さんの願通り叶へてあげるから。
 
(漁夫、壺の蓋をあける。と、また前の時と同じやうに恐ろしい、物凄い響起る。と同時に舞臺再び暗黑となる、が、しばらくすると又その響は次第に衰へゆき、やがて今度は愉快なる、華麗なる音樂となり、舞臺三度明るくなる。舞臺は以前の秋の景色に引き替り、すべて麗かなる春の景色。枯れた茫は靑く輝き、落葉してゐた木々には紅白の花をつけ、あたりの地面には春の若草が美し咲き亂れる。さうして漁夫のゐた跡には漁夫の代りに美しい、可愛らしい十歲ばかりの少女、六七人の附き添ひの女共に從はれて、微笑みながら、最初、漁夫が登塲して來た反對の方へ靜かに、何か仇氣ない歌を唱ひながら退塲。)
 
・・・・・・幕。
 
 
 
 
 
お伽對話
花子の荷物
 
登塲人物
花子(十六才位。一見貴族の相。如何にも無邪氣な娘)
もと子(花子の家庭教師、二十四歲位。萬事を呑み込んでゐると云つた顏付。)
ばあや(五十歲位。)
 
場所
西洋風に贅澤に飾り付けられたる花子の居間。
花子は窓際の長椅子に倚り、もと子は部星の中程に置いてある小さな圓い卓子に向つて座つてゐる。
 
もと子。 お孃様、あなたお母様の所へは何日お出發になりますの?
花子。 お母様のお手紙では明日の午後出發やうにツて、おッしやるんだけれども、何しろ二週間も向ふで滯在するのでせう。いろいろ仕度をして行かなければならないんですもの。
もと子。 はい。
花子。 片付けて行くものは片付けて行かなくツちやならないし。
もと子。 はい。
花子。 それに、一番よく考へなげればならないのは、持つて行く品物だわ。二週間つて短いやうだけれども中々長いことよ。あなたさうは思はなくツて?月曜日、火曜日、水曜日、その次ぎが木曜日、それから金曜日、その次ぎが土曜日、・・・・・・ほうら、口で云ふ丈でも中々大變だわ。そんな長い間なんですもの、第一退屈して仕舞ふわ。その用意にも色々持て行かなければならないでせう。
もと子。 無論、さうでございます。もう、お出になる時に、お滯在中にお入用なもの丈はちやんと持つていらッしやる方が宜しいんでございますよ。後からお送りするなどと云ふ事があつては、ご不自由を遊ばしますから。
花子。 それでは、ね岡本さん(もと子の姓)妾がこゝで、妾の持つて行きたいと思ふものを一々云ひますからね、一寸何か手帳にでも記してみて下さいな。もと子。 畏りました。それが宜しうございます。
花子。 さうさね。着る物を先きにしませうね。それでは、さうさ、一、冬物不斷着一かさね。いゝこと?一、冬物外行一かさね。一、帶。
もと子。 帶はどれになさいます。
花子。 あ、さうでした。妾、すつかり忘れてゐました。着物は一切、お母様の方から婆やにさう云つておよこしになつた筈だわ。それで充分なんです。さうさう、先達婆やが妾にさう云つたのよ。妾、すつかり忘れてましたの。――ぢあ、妾の身のまわりの物にしませう。――ぢあ、前のを消して下さいな。そして新らしく書き直して下さいよ。
もと子。 はい。ではお召物は、ばあやさんにさう云つて鞄や行李に入れて貰ふやうにして置きませう。
花子。 え。――ええと、このテーブルを持つて行きませう。一、テーブル一ツ。
もと子。 そのテーブルをお持ちになります?
花子。 え?妾は、ほかのテーブルでは何にも落ち付かれないんですもの。それに、これだと、紙だの、狀袋だの、手紙だの、鉛筆類だの、ナイフだの、ちやんと入れてある所が定まつてゐて氣持ちがいゝんですもの。それから序にこの椅子も持つてゆくわ。
もと子。 は、でも、そんなものは小田原のお別莊の方にも幾らもございますぢあありませんか。
花子。 いゝえ。高さのちやうど妾にいゝのが一ツもないんですもの。――それからばあやさんにさう云つて鞄や行李に入れて貰ふやテーブル一ツ。そんなものは小田原のお別莊の方にも幾らもございますぢあ-それから、一、花瓶一個。そうだわ、生花もしなくツちや、あのお座敷のうすばたも一ツ持つて行きませう。さうね、二週間だから、一ツぢや倦きて仕舞ふわ。もう一ツの平つたい方のも持つて行くわ。――一、生花の道具一式。――一、お琴一面。――お琴と云へば、小田原へは大木さんの政子さんが行つてらツしやるんだわ、さう〓〓二人で此冬は洋楽を心しお稽古する約束だつたわ。――一、ヴアイオリン、――伴奏の時に要るから、そのピアノも持つて行く事にしませう。――一、ピアノ。
もと子。 ピアノもですか。
花子。 え。それから、一、ラケツト。――お天氣のよい時には運動もしなくツちや。ばあやの方で用意してくれたかしら。一丁、あの婆やを呼んでくださいな。
もと子。 はい。(呼鈴をおす。小間使が來る。ばあやを呼ぶやうに命ずる。婆や來る。)
花子。 ばあや!
ばあや。 はい。お孃様、何のご用でございます?
花子。 あのね、妾の持つて行く着物類は、もうちやんと別にしてあるのかい。
ばあや。 はい、さやうでございます。小田原の方から云つておよこしになりました分丈は、あの、行李にもう詰めて置きましてございます。
花子。 その中にね、妾の運動着は入ツてゐるの?
ばあや。 さうでございますね。どんなものはお手紙に書いてございませんでした。
花子。 それぢやいけないわ。それも入れて置いておくれ。それから政子さんとご一緒に散步をしたりする時に、ほら先日政子さん、――ほら大木のお孃さんよ。あの方と對にして拵へた丸帶ね、あれも入れて置いて頂戴な。お母様のお手紙にはたしかあれが書いてなかつたね。
ばあや。 はい。
もと子。 お孃様、あの學校の書物も少しはお持ちになるのでございませう。
花子。 え、え。それは、もう無論よ。讀本にお修身に、リーダーに、習字帖に、算術に、生理の本に、家政に、歷史に、地理に、それに物理、さうよ、物理は參考書も何か一册持つて行きたいんですよ。――それから學校の先生が、お料理のお稽古なんかもなさいツておつしやつたわ。さうだ、それに妾が向ふへ行つてゐる間にお父様が、きつと三度や四度びはいらつしやるわ。そんな時に自分で何か西洋料理の一品も拵へて驚ろかして上げるんだ。それではね、一、フライパン。一、ストーブ。えゝと。――
ばあや。 お孃様。あの、玉はどうなさいます?お連れになりますか。
花子。 猫かい。あれは何とあつても連れて行かなくツちや。――それでは玉やの道貝も要るわ。――それからお友達やなんかゞいらツした時、遊ぶのにピンポンや投扇興やを持つて行くわ。
もと子。 それでは一、ピンポン道具。一、投扇興
花子。 一、歌がるた。――そんな小さなものはまあ、あと廻しにして、それから、一、刺繡の道具。一、編物の道具。――さう〓〓、大變なものを忘れてゐたわ。鏡臺や、お化粧道具があつたわ。それに妾の洗面器。
もと子。 一、鏡臺。一、お化粧のお道具。一、洗面器。
花子。 ばあや。それから姿の夜具やなんかはでうしてあるのだらうね。
ばあや。 それはもうあちらへ送つてあります相でございます。
花子。 だけれども、妾はこの頃いつでも寢臺へばかり寢るんで、日本の蒲團で寢るのは厭なんだよ。だからあの寢臺も送る事にして頂戴。それから。寢室の窓か掛やなんかも、今、あの部屋にかけてあるのが妾大好なんだから、あれも持つうて行くわ。それから、あの寢臺の上に掛けてある額ぶちね、湖水のかいてある景色の繪よ。あれも持つて行くわ。額ぶちと云へばこの部屋にある飾りの物は皆妾が毎日見てゐて、これが無いときつと淋しくつてしようがないだろうからこれもみんな持つて行くことにしやう。
もと子。 このガラス箱に入ツてねます大きなお人形さんもでございますか。
花子。 え、さうよ。それから、いろんな用をして貰ふのに、今、向ふの家にゐる時や(女中の名)ぢやしようがないから、妾、小間使の春やを連れて行くわ。
もと子。 それではそれは何と書いて置きませう。
花子。 さうね。矢張り、一、春や。と書いて置いて頂戴な。忘れると困るから。
ばあや。 それでは、お孃様、わたしのも、一、ばあや。とお附けなすツて置いて下さいましな。
花子。 さうね。その方がいゝよ。
もと子。 では、一、ばあや。――ではもうこんなものでせうか。
花子。 さうね。あ、さうです、まだ〓〓仲々うんとあるわ。えーと、あの椽側に咲いてゐるゼラニアムの鉢、あれは大變奇麗だわね。あれを二個ばかり持つて行くわ。それから序に、あの向ふのお庭の山茶花もほんとによく咲いてゐるから、あれも一本持つて行きたいわ。
もと子。 とにかく、これ位にして一寸初めから讀み上げてみますから、お聞きなすつてゐて下さい。――
一、卓子。――一、椅子。――一、花瓶一個。――一、うすばた二個。。――一、生花のお道具。――一、お琴一面。――一、ヴアイオリン。――一、ピアノ。――一、ラケット。――一、運動着。――一、大木のお孃様と對の帶。――一、學校の教科書全部。――一、物理學參考書一冊。――一、フライバンその他西洋料理の道具一式。――一、ストーブ。――一、玉(猫の名)。――一、ピンポン。――一、投扇興。――一、歌かるた。――一、刺繡の道具。――一、編物の道具。――一、鏡臺。――一、お化粧の道具。――一、洗面器。――一、寢臺。――一、寢室の窓かけ。――一、寢室の額ぶち。――一、お居間の裝飾物一切。――一、春や(お小間使)。――一、ばあや。――一、ゼラニアムの鉢二個。――一、お庭の山茶花の木一本。――
(もと子、ぼあや、呆れた顏をし互に顏を見合せてゐる。花子は、まだ何か書き落しがないかと、いろ〓〓に考へ込んでゐる様子にて幕。)
 
 
 
 
桃太郞の妹 終
大正三年三月二日印刷
大正三年三月五日発行
 
定價金五拾錢
 
不許複製
 
著者 相馬泰三
東京市神田區佐久間町四丁目二十三番地
發行者 植竹喜四郞
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印刷者 今成溫平
 
 
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