読んだ。(見た) #お水取り 入江泰吉作品集 #入江泰吉 #三彩社

読んだ。(見た) #お水取り 入江泰吉作品集 #入江泰吉 #三彩社
 
入江泰吉さんが1967(昭和42)年頃に撮影した修二会の写真が92ページまで、
そこからお坊さんや識者の方達による修二会の説明、スケジュール、お経などについてのくわしい説明が142ページまで、
さらに9人の方達の「お水取り拝観記」など、183ページまである。
 
1969(昭和44)年に発行された33.5×26.5cmの大型本。
奥付に廉価版、定価8000円と書いてあるが、かなりしっかりつくられている印象。
 
写真はカラーとモノクロ半々くらいだが、サイズが大きく、準備から儀式の終わりまで、その場の空気感、臨場感が感じられる。
 
テキストのパートはかなり読みごたえがあり、おもしろかった。
「お水取り拝観記」では、それぞれの視点からお水取りへの思いが書かれていて、55年前の当時の雰囲気も感じられてよかった。
 
テキストパートを読んだ後で、もう一度写真を見なおすと、語られていたあれこれのシーンが押さえられていて、写真のよさ、おもしろさが倍増していた。
 
#国立国会図書館デジタルコレクション にもあった(内容を見るのはログインが必要かも)↓
 
 
>「お水取り」として知られている東大寺の修二会は、十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)だが、8世紀半ばからの悔過作法だけでなくその後に古密教神道修験道民間習俗や外来の要素まで加えて大規模で多面的なものとして行われている。その本行は、かつては旧暦2月1日から15日まで行われてきたが、今日では新暦の3月1日から14日までの2週間行われる。二月堂の本尊十一面観音に、練行衆と呼ばれる精進潔斎した行者がみずからの過去の罪障を懺悔し、その功徳により興隆仏法、天下泰安、万民豊楽、五穀豊穣などを祈る法要行事が主体である。
 
>伝説では、『二月堂縁起絵巻』(天文14年1545年)によると、天平勝宝3年(751)東大寺の開山、良弁の弟子の実忠笠置山で修行中に、竜穴を見つけ入ると、天人の住む天界(兜率天)に至り、そこにある常念観音院で天人たちが十一面観音の悔過を行ずるのを見て、これを下界でも行いたいと願った。しかし兜率天の一日は人間界の四百年にあたるので到底追いつかないと天人の1人に言われた。それで、少しでも兜率天のペースに合わせようと走って行を行うと念願したという。
 
・修二会は天平勝宝4年(752年)から現在まで1270年続いている「不退の行法」
 
鎌倉時代に集慶という僧が過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女の幽霊が現れ、「など我が名をば過去帳には読み落としたるぞ」と言った。なぜ私の名前を読まなかったのかと尋ねたのである。集慶が声をひそめて「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と読み上げると女は満足したように消えていった。いまでも、「青衣の女人」を読み上げるときには声をひそめるのが習わしである。
 
・その日の全ての行法を終えて参籠宿所に戻るときには「ちょうず、ちょうず」と声を掛け合いながら石段を駆け下りる。「ちょうず」とは手洗い、トイレのことである。ある時、行法を終えて帰ると、烏天狗たちがやってきて行法のまねをして火を弄んで危険だったことがわかったので、ちょっと手洗いにゆくのだと思わせるためにこういうのだそうである
 
 
 
お水取りに就いて 橋本聖準/p95
十一面観音悔過 筒井寛秀/p97
二月堂声明 筒井寛秀編/p105
修二会日記 筒井寛秀/p119
 
火と水の祭典 笹谷良造/p135
 
 春を呼ぶ水
 
 古代の農村の、ほの暗く、火の気の乏しい冬の生活は、まことにきびしいものであった。こういう冬籠りの続いた後の春の訪れは、どれほど 待ち遠しかったか、今の我々には想像にあまりある。蚕がまゆに籠り、稲の実が俵につめられている間に盛んに増殖して、発芽の力を蓄える、これが殖(フ)ユー古代語ではミタマノフユーで、冬という語もこれから出ている。
 古くシナから暦術が入って暦は正確になったが、必然的に日本の気候とはずれがあり、混乱が生じた。旧暦の正月にしても、立春にしても、少しく早過ぎる嫌いがある。千数百年前か、二千年前か、日本の暦法がやや整うて正月が立春の前後となったが、冬と春との交替は地方によって異なり、年の始めは必ずしも全国同じではなかった。あるいは旧暦の二月―今の三月頃―ではなかったかと思われる。正月を古くムツキと呼んだのは恐らく忌(イ)ム月(ツキ)―モノイミ月―の意であり、二月をキサラギというのは、春が来、冬が去ルーすなわち春と冬との交替を意味したものかと私は思う。このフユが終った後が晴(ハレ)・春(ハル)で、身も心も若返って新しい春を迎える。この時、古代人が理想の国と考えた常世(トコヨ)から春を知らせる新しい水が来着する。それが若水で、古代語ではヲチミヅと言った。ヲツという語は若返ルことをさしていた
 元正天皇養老元年(七一七年)九月に美濃国行幸、十一月に多芸郡の多度山の美泉でミソギをせられた(続日本紀巻七)。そうしてこれを浴飲すれば、白髪を黒くなり、眼病もなおる他、一切の病気は平癒する、と激賞していられる。随行した大伴東人も、
 古ゆ 人の言ひ来る老い人の変若(ヲツ)といふ水ぞ 名に負滝つ瀬(万六の一〇三四)
と詠んでいる。
 古昔、北陸の若狭脊一帯はこの若水(ヲチミヅ)の来寄せる地域として信ぜられ、宮廷では殊のほか重視していられた。神功皇后は、皇太子(後の応仁天皇)が早く天皇としての聖格を得るのを望まれたためか、越前の気比(ケヒ)に行かしめられた。
 建内宿祢、その太子を率てまつりて、禊せむとして、淡海(アフミ)また若狭国を経し時に、越前の角鹿(ツヌガ)の仮宮を作りて坐せ奉りき(記)。
皇后は太子が帰られると、大いに酒宴を設けて祝福し、名高い酒祝(サカホガミ)の歌を作られたことが記にも紀にも見えている。宮廷御料の塩も、この地のものに限って使用するしきたりであった。武烈紀を見ると、平群真鳥(へぐりのまとり)が謀饭して除せられるに当り、「広く塩をさして詛(ノロ)」うた。
 呪う時に、唯角賀の塩を忘れて詛はず。是によりて角賀のは天皇所食(ヲシモノ)となり、余(アダ)し海の塩は天皇の忌み給所となる。
とある。平群真鳥は海人部出自であったから、多分製塩のことに関与していて、世を怨んでこんなことをしたのであろうが、その力をもってしても宮廷所用の塩にまでは及ばなかったことを言ったものと思われる。史実であると否とは別としても、少くとも宮廷では若狭の塩が用いられていたことは疑いない。
 若狭の海岸には古くからニフ・ヲニフなどの地名が散在しているが、ニフーそれに指小辞の小(ヲ)のついた小丹生(ソニフ)は、ミソギを行なう聖地で、このニフは水産(ミウ)ブ、すなわち聖水によって復活することであった。それに関与する宮廷所属の部曲が壬生部(ミブベ)であり、直接に天子のミソギに奉仕する女性が命婦(水産(ミウ)ブ)である。禊は明らかに水注(ミソソ)ぎだから、水産(ミウ)ブから出たミブ・ニフと同義である。そうして禊に奉仕する「水の女」の神格化したのが遠敷(ヲニフ)明神で、この聖水信仰が民間に沈潜して伝説化・俗信化したのが若狭の八百比丘尼である。八百年は永久を意味し、結論的には不老不死ということになる。室町時代にはこの地方の巫女が勝手にその名を潜称して、京都まで出て来て活躍した様子が康富記など、その当時の記録類に見えている。
 年の初めに聖水の海岸に打ち寄せるのが原初的な信仰であったが、村々が河岸から次第に内陸に入り込み、山麓に居を占めるに至ると、川上から流れ降るとか、地底を通じて井戸や池などに初出するという風に発展した。大和の国には、底が龍宮に通じるという伝説のある井戸があちこちに散在しているし、猿沢池にもそういう伝えが残っている。古いものでは、三輪山麓の狭井(神社)も出雲国風土記に何ヶ所かある狭井神社と一進のもので、宮廷内の座摩(ヰスカリ)の巫(カムナギ)の管掌した三つの井戸も、難波の海岸の座摩(後の座摩神社)と地底を通じて結ばれていたのであろう。二月堂の若狭井は東大寺創建より遥か以前からこの地にあり、湧泉信仰が山麓の村人の間に根深くしみついていたに違いない
 「お水取り」は、今では三月十二日(正確には十三日)の夜の二時頃行なわれる。後夜の動行を終えた僧の一行が若狭井の前に降りると、呪師という役の僧が閼伽井屋に入り、香水一荷に水を汲んで堂に運ぶ、これを三回繰り返す。この若狭井の水はこの日だけ湧くと伝えられているものだが、勿論、真闇で内部はどうなっているか、一切秘せられていてわからぬ。昭和三十六年九月の第二室戸台風で良弁杉が倒れ、この閼伽井屋は押し潰された。その時に行けば中を見られたか知らぬが、私はわざと行かなかった。秘密になっている信仰の対象は、学問のためとは言っても、みだりに暴くものではない――こうして汲み上げられた水は、二月堂に運び、壺に移して一年間使用する。この水は長く変質することはないと言われている。
 西鶴の「諸国咄」(巻二)に出ている「水筋のぬけ道」は、多分に伝奇小説化したものではあるが、「若狭の水」の古代信仰がこんな形で伝承せられて来たことを示すよい例として付加しておこう。曰く、
若狭国の小浜に魚の網を売る店があり、その主人の伝助は美しい女中を使っていた。この女が出入りの庄吉という男と仲がよくなったのを、伝助の女房が嫉妬して焼火箸で女の頬を焼いたので、女は悲しんで若狭の海に投身した。時は正保元年二月九日。話が変って、大和の秋篠村で、百姓が用水井戸を掘っていたら、盛んに水が溢れ出た。翌日、水が収まった頃、十八、九の女の屍体が出て来た。折しも二月堂の行法を見に来た旅人が通りかかってこの女を見て、これは郷里の網屋の女中だといったので「奈良の都へ若狭より水の通りありと伝へしが、これは不思議」と一同は驚歎、旅人は国へ帰って主人の伝助に告げたので、哀れに思って秋篠を訪ねて弔った。夜に入って寝ようとすると、燃え上る火の車が現われ、その上で女房と自殺した女中とが載っていて争い、女中が焼金を女房に当てて、これで思いを晴らしたと言って消えた。同じ時刻に、若狭では一声を挙げて女房が死んだ。
この女中は霊の零落したもので、極めて微かながら、小丹生明神の面影を残している。
 
 モノイミの生活
 古代では、不断・平常の生活をケ(褻)と呼び、婚礼や田植などを含めた広い意味での祭礼時をハレと言ったが、この二種の他にもう一つ、モノイミの期間があった。これは、ハレを前にして身も心も清らかになるための精進期で、これの仏教理論と結びついたのが懺悔(ざんげ)である。つまり今までの心の罪障をきれいさっぱりと拭い去るのであった。これにはある種の食物を断ったり、男女別居したり、面白いのは、祭の前には、村中一切音をたてぬことにしている所が京都府の南部にある。仏寺では肉食・妻帯せぬのが以前のきまりであったから、勢い、火を別にすることによってできるだけ、ケ、すなわち日常生活と異なることを強調する要がある。二月堂の修二会が別火を殊のほか重視する理由であった。
 古代ではこのモノイミの期間は長く、また戒律も厳重であった。神に仕える人達の中には、生涯モノイミを続ける人もいた。平安朝の貴族の日記類を見ても、数ヶ月の長いモノイミをしたことが屢々(しばしば)見えている。しかし、世が進むにつれて、神職・僧侶のごときはいさ知らず、たとえそういう専門職でさえも長い籠居生活を持することは困難となり、三年一年は愚か、半年が一ヶ月に、更に三七二十一日となり、更に十四日・七日と短相せられ、もう今では単に口を漱ぎ手を洗い、お払ヒを受けるだけの、ほんの形ばかりのものとなった。祭礼は華やかになっても、却ってその前提条件たるモノイミの方は簡略になる一方である。現に肝腎の神官でさえも、禊斎は前日に湯に入るだけになっている場合が多い。この点で、東大寺の修二会の参籠は、古式が今なお守られている極めて珍しい例だと言うことができよう。
 修二会の参籠は、今では新暦の二月二十日から始まる。この期間を三つに分けて見ると、初めの四日間は試別火で、明治の初め頃までは自坊で行なっていたが、肉食妻帯が許されるようになった現在では、別火坊(現在は戒壇院を使用)で行なうことになった。試別火が済んで参籠者一同一練行衆―は一つに集まって総別火に入る。今ではそのまま、戒壇院を使うのだから、愈々勢揃いして「行に入る」という意識は薄らいでいることであろう。この第二段階の籠居生活は三日間だから、結局、二月二十八日(閏年は二十九日)に終ることになり、三月一日から本格的な参籠となり、これが二七日、すなわち十四日間続くのである。
 修二会の生活と不断凡俗の生活との顕著な相違は火を別にすることである。従って火については取扱いが極めて厳重で、たとえ試別火の間に許されて自坊に帰ることはあっても、湯茶も口にせず、火に当ることもできぬ。また総別火に入って俗人が別火坊を訪れ、面接を許されても、火鉢は別、煙の火も練行衆のものとは別で、試別火の始まる二十一日に鑽り出された新しい火を用いる。また上堂後の飲食・入浴・燈火など、行法中に使用する火は、悉く二月堂に燈された消えずの火から移されたものである。この火は、毎年、三月一日午前一時頃打ち出される聖火で、一徳火と呼ばれている。
 
 十二本の棒
 参籠所は二月堂の下にあり、細殿(屋損のある石の階段)によって二月堂と結ばれている。この建物は四室(他に仲間(チュウゲン)の入る三つの小部屋)に分れ、十一人の練行衆は二名乃至四名に分れて分宿し、二七十四日までここで暮らす。その間、二月堂・湯屋などへの往復以外、所用があっても外出はできぬ。毎日少しずつ諸作法が異なるが、行法は正午から翌朝にかけて徹夜で行なわれる。まず正午に食堂に入って昼食(正式の食事は毎日一回)、その後、六時(六回)の作法が続き、午前三時乃至四時頃終了。それから、正午まで就寝と休憩とがあって一日の日程が終る。
 毎日、日中・日役の行法が終って参籠所に降り、少しく仮眠を取って入浴を済ませてから、一同は初夜の勤行のために上堂する。この時、呪師だけは準備のために先に上堂しているから、結局十人の練行索が、童子のかつぐ各々一本ずつの大きな松明に先導せられる。この松明には長さ四間位、重さ十五貫位の太い竹の先に杉の枝葉を束にしたものを付けてあり、それに点火して細殿の石の階級を上る。練行衆はそのまま二月堂に入るが、松明だけは更に二月堂の舞台から突き出して南の欄干の上を移行させる。盛んに燃え上る火の玉が赤々と夜空に回転する様は、まことに壮観、世上に名高い十二日の籠松明とさして変りはないのだが、十二日のものが有名になり過ぎて、この毎夕持ち出される杉の葉の大松明の方は見逃されている。
 この毎晩の大松明は、正式には十二本(閏年は十三本)であるべきである。今は、練行衆は十一人と定ってしまったが、古い記録には十七、八あったと見えているから、上堂する僧は必ずや十二人(閏年は十三人、以下閏年の事は省略)であったに違いない。また、この参籠期間は、上七日・下七日の二つに区分せられ、練行衆も交替したと言うから、実際に別火坊の参籠に加わる僧たちは三十人近い多数で、病気や近親に死者が出て下りる場合が起きても、現在のように欠員のままで行を続けねばならぬことはなかったであろう。
 ここで考えねばならぬのは、その十二という数は何であったかということだ。古代人にとっては、その年の作物の豊凶や運不運などは、生活の根底をなす重大事であったから、予めこれを知ろうとする熱意は真剣そのものであった。これが年占であり、初春に権威ある神を迎えて神意を問うた。この神の意志が端的に言葉で言い表わされることもあったが、多くは物によって示された。その最も典型的なものはクシ(クジビキやオミクジはその例)のごとき棒状のものであったが、後には次第に種々なる手段方法が案出せられ、いろいろな形式が分化した。今ここにはその顕著な例として、大和の宇陀郡野依の白山神社で行なわれている豆占を挙げてみよう。
 節分の夜の十二時、当屋が社務所の火鉢に鉄板を置いて、その上に、平年は豆を十二、閏年は十三個を載せて焼き、その焼け方によって、月々の日照の多少を占い、半紙二枚位の大きさの紙に書き付けて張って置く。これなども、節分が年越シと呼ばれているように、元は旧正月一日の前後に節分があったからで、やはり初春の年占行事であった。このマメヤキはこの付近の村々ではあちこちで行なわれていたが、今では退化している。

 
 この一年十二ヶ月の、月々の晴雨・豊凶をオミクジのような十二本の棒によって判断しようとした古代の原始的な民俗が、種々なる形式で全国至る所に残存している。元は十二本であったらしい二月堂の籠松明もその一つだが、余りに変り方がひどくて、もう古代的意義をたどり難くなっているが、他の多くの民俗行事と比較すると、この点を明らかにすることができる。例えば、京の祇園神社では元旦の早朝、十二本の削り掛を建てて火を付け、煙が西へ靡けば丹波の不作、東へ向えば近江方の凶作として、参詣の群衆が東西に分れ、相手方の国の名を唱えて大騒ぎをしたということが江戸時代の記録に見えている。
 門松は神の依代であり、それを初春に山から家に迎え、十二本のクシによって神意占い、月々の運勢などを知ろうと試みた素朴な方法は、もう修二会では全く退化しているが、形式だけはいろんな形で残っている。そのクシがト占のためのものであり、更にその源は山人のもたらすミカマギ(※御薪)であったことも忘れられて、今では門松の根締めの棒にまで変化してしまった。民俗はこんなふうに変貌・残存するものなのである。
 
 籠松明
 樹木は神の依代であった。サカキ・スギ・ツバキ・ナギなど、神によって、村によって、用いる木は異なっていたが、近来は松が優位するに至った。神霊の宿った松を山から迎え、庭に立て、正月祭をする、これが門松であり、床の間の若松だが、古代では家毎に行なわず、村で共同に迎えて来る方が多かったし、また、山のかなたに神の世界があり、神祭りに専念する山人が住み、初春に神を奉じ、時には神の資格で村々を訪れることもあった。この山の神人は、村人の気遣う一年の豊凶を標示すると共に、もしも凶と出た場合は、持っていた杖―玉鉾(タマホコ)―で宣り直しを行なった。だからこの杖が凶作・不幸・天災を折伏する呪力があると考えられるに至った。こういうホコによって予報を受けることがホコナヒーヲコナヒーであった。今に正月行事をオコナイと言っている所は大和でもあちこちにある。神道は、それの神学化したもので、鿆は災を去って吉事(ヨゴト)をもたらす方術だから、その根元は単に穢を追放する呪術ではなく、吉事鿆であった。
 三輪山の北に連なる巻向・穴師の山麓は、山人が春のコトホギに降って来る聖地であった。山人はその表象としてヒカゲノカヅラで頭部を包んでいた。宮廷の神楽歌に、
 巻向の穴師の山の山人と 人も見るかに山葛(カズラ)せよ
というのがあるが、これは祝福に来た山人の舞が宮廷の神楽に取り込まれたものである。古い神楽歌には山人の持つ杖を飲んだものが幾つかあるが、杖はこの山人たる資格を示す大切な用具であったからである。
 この杖は、遥々と違い所から衝いて来たという表示として、その先端をそそげさせてあった。元はわざわざそそげたわけでもなかろうが、神聖視して永年使用したから、自らこうなったのであろう。これが次第に象徴化し、更に装飾化して削り掛となった。修二会は明らかに初春の予祝行事であり、十二本の大松明は山人の十二本の年占のホコの巨大化したもので、恐らくお水取りが第十二日の悔過(ケカ)のすんだ直後――言い替えると、一年は十二ヶ月の祝福が終った後――に行なわれる理由だと私は考える。

 

 この山人の杖の象徴化した削り掛は、お水取りの直前に若狭井に懸けられる「ハチノス」を初め、ダッタン松明の飾りや、火を移すッケタケなど、色々の用具となって、この行法の細部に行き渡っている。参道に張られる占縄にさえ、ほんの形式だが、紙切で作ったものがついている。
 山人が初春に家々を訪れたあと、この家の祝福せられている印として、削り掛を入口に掛けて行った。「守貞漫稿」(嘉永六年)を見ると、江戸の市中の家々の入口に釣るす削り掛と武家の門の両柱に寄せて建てるミカマギの図とが出ている。解説に曰く、「柳の木を以て之を製す、上は箸の如く、下は図の如く細く削り掛けたり。小なる物、長さ二、三寸、大は尺余もあり。(中略)門戸正中の上に釣る。又、同日、江戸武邸門の両柱に、割薪に図の如く墨をひきて建てるなり。名づけてミカマギと云ふ。御竈木なり。閏月ある年は墨を十三本引くなり。江戸も御竈木武家のみ」とある。この江戸の削り掛と殆ど同じものがハチノスである。修二会のものは紙製、形が蜂の巣に似ているのでこんな名がついているが、これが十二日夜、練行衆がお水取りに若狭井に下る直前、閼伽井屋の入口に掛けられるのである。この形は江戸の市中のものと同形で、明らかに山人の杖の象徴化したものであり、群行して訪れた神が印として残したものであった。
 
 ダッタン
 三輪明神繞道祭(にょうどうさい)は、大晦日の深夜二時、正確には年が明けると共に行なわれる。二丈を越える大・中の四本の松明と、その他幾本かの松明が新に鑚り出された新しい火で一斉に点火せられ、根原のもの一本を現して、大・中の松明は宝前を出て神社周辺の十八の摂末社を巡行、神火によって旧年の一切の穢れを焼き清める。この神前に残された大松明の火を貰い受けて、家々の雑煮を煮る火とするのは、この付近の村々の正月の習慣となっているが、雑煮ばかりではなく、古くは一年間絶やすことなく使用したのであろう。
 この一ッ火には穢れを焼き払い、健康・幸福・豊産をもたらす呪力を宿していたが、この聖なる火に対して、人間界には火事・雷火・火山などの災いの火があって、突然に起る。このよからぬ方の火は、地上・地下・天空にいる悪霊どもの起こす火だから、前もって年の始めに彼等の跳梁を防ぎ、少くも一年間は荒ぶることがないように誓約せしめる要がある。修二会の十二日目の真夜、オタイマツの聖火によって人々の穢れを払ったあと、神の世界から湧出する若水を汲み上げ、水天がその水の呪力によって、災いの火を起こす悪霊どもの火天を調伏する―それのやや芸能化したのがダッタンの行法であり、要は四人ずつの水天と火天との争いで、恐らく火天の閉口退散すること、あたかも狂言の追込みに類した結末になるのであろう。これが十二日の深夜、若狭井のお水取りのすんだ直後の午前四時頃にダッタンの行なわれる理由である。
 ダッタンの語義は明らかではない。窮した挙句に、西城あたりのタタール人の舞踊だとするのは、単に音が類似しているための憶測で、少しも必然性はない。これを解くにはどうしてもこれと似た行事と比較する要がある。よってまず、旧坂合部村(今は五条市)の大津の念仏寺で、正月十四日の夜に行なわれる鬼走りという―初春の行事を考えて見よう。阿弥陀如来の面をつけて出るカツテという役と、赤い鬼の面をつけて出る父鬼、青色の母鬼、茶色の子鬼、この四人が主役である。何れも八日から厳しい別火の生活を続けている間に準備をすませ、夜の十時頃、この念仏寺の本堂に集まり、最初に阿弥陀如来の面をつけたカッテが、松明(桧を割って竹で束ねた長さ五尺、廻り六尺、上部に桧のヘギをつけたもの、重さ十貫位。多分、削り掛の退化したもの)に火をつけ、両手で捧げて堂内を一巡して内陣の前で、水という字を宙に画いて去ると、父鬼が左手に松明、右手に斧を持って堂を一巡、続いて母鬼は槌と松明、子鬼は杖と松明を持って、それぞれ一巡して、最後に鬼の井戸へ行って火伏せ(井戸水で松明の火をすこと)をする。二月堂の場合と比較にならぬほど簡単なものだが、この鬼走りをダダオシとも言っていること、この堂をダダ堂と呼んでいることなどを考えると、ダッタンと同系の語であると見てよろしいと思う。あるいは、この行事の始まる前、このダダ堂の本尊たる阿弥陀様の背後の壁板を青年たちが六尺近い四角な棒でドタンドタンと打ちつける。この音があるとこの行事が始まるのだから、合図みたいなものだが、簡単にこの音からずダダオシと名づけられたとも見られるが、二月堂では別にこんな音を立てぬのだから、火霊の出現を促する意から出たものを見るべきではないか。タタ・タツは虹タツ・風タツ・龍(タツ)・鶴(タヅ)などのごとく、出現・顕現を意味する古語であった。だからダッタンの場合も、水天・火天を出現せしめて争わせる半ば芸能化した所作事だと私は思っている。
 長谷寺ダダオシ旧正月十四日の夜の行事である。やはり修二会だから、寺の壮重な儀式があって、それが済んだ頃、まず二人の寺役がそれぞれ小松明(長さ一丈、重さ十六買)に火をつけたのを持って回廊に出る。これを鬼を誘い出す火だと言っている。この時群集が押し寄せて忽ちこれを奪い合って取ってしまう。この一騒ぎが済むと、今度は一匹の赤鬼が大松明(長さ一丈五尺、重さ三十貫)に火をつけて出現する。その時、再び群集はこれを追い、本堂の廻りを数回する間に、この松明を奪い取るのである。この鬼の出現以前、法螺貝や太鼓の音が寺内に鳴り響くと、群集は「鬼が出るぞ」と待ち構えると言うから、やはりダダは出現する鬼をさしているらしいのである。ただし、この行事の、鬼のもたらす火は、三輪の繞道祭(にょうどうさい)の大松明のように、初春の聖火を持って、神の使役霊として人間界に出現するもので、二月堂の火天の持つ火とは性質が違うものと見ねばなるまい。
 
 
お水取り拝観記
 
お水取り印象 安藤更生/p145

 

 大正十二年の三月十二日、とにかく寒かった。小川晴陽君が懐爐を用意していらつしやいといふので借用して懐へ入れ、ドテラを着た上からビロオドのマントを引かけて出掛けた。同行者はSさんといふ近所のお嬢さんで女高師の生徒の人、もう一人、女の人だった。
 夕ご飯をたべて早目に出かけようと逸ると「いまに大仏の初夜の鐘が鳴るから、それが聴こえてからで大丈夫ですよ」と小川君が例ののんびりした調子で云った。お水取りは二週間もあるのに今夜を選んだのは、大松明が点されることと、其頃私が興味を持つてゐた伝説の「青夜の女人」に関係のある「過去帳」が読み上げられる夜だからだった。
 南大門の辺には沢蟹を茹でたのや、蜜柑、駄菓子、玩具などの屋台店が並んで、その間を参詣人がぞろぞろと山の方へ歩いてゆく。夜空いっぱいに拡つてゐる大仏殿の大屋根を見上げながら東へ折れて大鐘の脇を通って行くと、暗闇の中に急ぎ足の人たちが集ってくる。杉木立で暗い石段だったが、低く緩いのでつまづく心配はない。三月堂の白い横腹が見える辺まで上ると、あたりが突然明るくなつて、わつという人声がどよむ。三月堂も良弁杉も、開山堂の築泥も、はつきり照らし出された。何のことはない。もう大松明が始ってゐるのだ。私は呑気な小川君の言ふことを真に受けたのを後悔しながら、お嬢さん達を先に立てて二月堂の石段を駆け上った。
 お堂の西側へ廻つてSさんが係の人に声をかけると、前から頼んであつたので、すぐに東側の局へ案内された。局は西側にも幾つか同じやうなのが並んでゐて、内陣へ向けて小間返格子で仕切られてゐる。格子の間から内陣を覗くと、灯りがあかあかと点つているが、大松明の行事は一段落したらしく、僧達の姿は見えず、静まり返つてゐた。さきの係の老人が「今夜は格別冷えますなあ」と云つて、小さな手炙りを運んで来てくれた。局の中は灯りは勿論ない。内陣からの火明りがぼうつとして、わづかに人の顔がわかる程度である。私は何か藤原時代の姫君達の参籠の様を思浮べて、ロマンテイックな気分になっていた。
 内陣のあたりが騒がしくなって、坊さん達が列を組んで入堂して来た。口ぐちに「南無観」「南無観」と声高に叫んである。それに和するやうに木製の沓が床に当って、カンカンと寒い空気の中に響きを立てる。私達のゐるところと内陣の間には低い石畳みの間があつて、ぐるりと内陣を囲んでゐる。男の拝観者はそこまで出てもいいのだが、女人達は例の局に籠ったきりで、石敷へ出るのは許されない。Sさん達が「行かれたら宜ろしわ」と云ってくれたので、一人で石の間へ出た。
 今年の和上は、私の親しい清水公俊さん(後の管長)だし、一番末座の処世界という役は田島さん(今の新薬師寺住職、福岡隆聖師)、堂童子は稲屋さん(故人)である。私は、石敷きへ出て、一所懸命に内陣を覗き込んだが、肝心の所は太い円柱に障ぎられたりしてよく見えなかった。それでもゆらめくみ灯しや、黒くぼうつと落ちる練行僧たちの影法師や、香の匂ひに不思議な世界に引込まれて行った。また床を蹴る差懸け(沓)の音、読経の声。
 そのうちに過去帳の読誦が始った。いよいよ青衣の女人である。青衣の女人の話を聞いたのは、去年の夏のことである。二月堂主任をしてるた稲垣晋清僧正(今の上司海雲君の師匠、故人)を、会津先生のお伴をして、二月堂の向ひの座敷に訪ねた。僧正は痩躯で、歯を喰い縛って話をする癖のあるかたで、「奈良を御覧になるなら今のうちですな。奈良もかう大阪や東京から見物人が来るやうでは、段々と古いものが亡くなって間もなく泯(ほろ)んでしまふでせう」といふ意味のことを語った。会津先生が相槌を打つて、「さうですか、奈良は泯びますかなあ」「泯びます」と二人で慨歎して隣りの三月堂の大屋根を見降ろした姿が今も眼に浮ぶ。その時、稲垣さんは気をかへるやうに青衣の女人の話をしてくれた。
 承元のむかしといふから十三世紀の極くはじめ、鎌倉時代東大寺復興の最中である。集慶といふ僧が番に当ってお水取りで過去帳を読んでるた。過去帳は本願聖武天皇から始って当寺に功績のあつた僧俗の名が次々に読上げられてゆくのだが、集慶が読み了へると、青い衣を着た一人の女が現れて「など我をば読み落したるぞ」と詰って掻き消すやうに亡せてしまった。二月堂の内陣は女人などの来る可きところではないのだから、これは生ある女ではない。どんな素性の女かもわからないが、なぜ私の名を読まないのかと云ふからには、東大寺か二月堂に功のある自信を持つ女にちがひない。そこで名のわからぬままに「青衣の女人」と読むことにして、今も読んでゐるといふ。会津先生はこんな伝説が大好きである。黙って聴いてゐるが眼は輝いてゐた。
 その青衣の女人を聴かうと思って今夜出かけて来たのに「青衣の女人」の段を聞き落すまいとしたのだが、初めての事で順序がよくわからず、そのうちに「早がけ」になってしまった。過去帳は本願聖武皇帝から鎌倉時代の青衣の女人までは、ゆっくり節をつけて読み上げられる。殊に青衣の女人は、この名を読み上げることに依って誰にも知られぬ怨霊を成仏させようといふのだから、心を籠めて読まれる。青衣の女人がすむと、後は「早がけ」と云って早い速度で棒読みするだけである。楽しみにして来た「青衣の女人」のところがはっきりしなかったので、少しがっかりしながら、またお嬢さん達のゐる局へ戻った。寒さはしんしんとして来て、懐爐の有難味がよく解った。
 内陣が一段と明るくなって、いよいよ後夜勤行も近づいた。また行道が始って、鐘がごんごん鳴り渡る。Sさんたちと一緒に礼堂へ出て、一般の善男善女に混ぢって見物した。どういふわけか、練行衆たちはぐるぐる内陣を行道してある途中で差懸けを脱いで足袋跣になった。それから馳け足である。感動は益々昂つて僧も参詣者も一体の宗教的昂奮に包まれる。時々、堂司や呪師の合図が飛ぶ。堂司が礼堂めがけて土器(かわらけ)を擲げたとたん、内陣と外陣の間に巻き上げてあつた白い戸帳がするすると降ろされた。「礼堂に香水を参らせ」と高声に叫ぶのが聞えたと思ったら、銅杓に水を満たしたのを持つて来て、礼堂にある信者たちに、少しづつ水を配ってくれた。掌に受けて、飲んだり、頭につけたり、肌に擦り込んだりしてゐる。若狭の井から汲んで置いた水である。人が多いので私たちのところまでは廻って来なかった。
 午前二時ごろだったろうか、いよいよお水取りの行事である。法螺貝が吹き立てられ、切さんたちが次々に、閼伽井屋への石段を駆け降りてゆく。童子の持つ一と抱へもある松明がバッバッと燃え上るたびに、坊さんの姿が闇に浮ぶ。私は二月堂のバルコニイの上から人浪をかき分けて、この印象的な光景を遠望してゐた。僧たちは時折、何か声高に叫んでゐる。前の日に清水さんが、「修二会に使ふ言葉は鎌倉時代そのままです」と云ったから、気をつけて聴いたが、よく聴取れなかった。
 草疲れたので局へ帰り、壁に倚りかかつてうとうとする。「風邪を引きますよ」と云はれたが、我慢できないくらゐ眠い。お嬢さんの一人の着てゐる黄八丈の稿が、ぼんやりと拡がったり遠くなったりした。時々火鉢にかざしてぶつかり合ふ手が、柔かくつめたい。みんなの吐く息が灯明の光りに反映して、白く煙になって暗に消える。香の匂ひの断え間に、若い娘の体臭が化粧品の匂ひと交って鼻を衝く。
 「達陀よ」と云はれて、眼を覚まし、礼堂へ出た。居眠りをしたので、余計寒いかと思ったが、人いきれでそれほどでもない。実を云ふと、私はこの達陀の行法にはあまり感動しなかった。異形な、神将めいた扮装をした火天や水天が、大きな松明を振り廻すし、火花が堂内に散乱して、たしかに派手な火祭りだが、人のいふほど壮絶とも鮮烈とも感じなかった。それよりは、「南無観」とか「南無観世音」と叫んで内陣を飛廻る走りの行法の方が印象は鮮烈である。しかし行法全体の演出の変化の上では、「達陀」はたしかに修二会中のクライマックスで、必要な段取りであらう。
 だつたんの果てし御堂のくら闇に
 心白らけて、何か果敢なき
などと、下手糞な即興の歌を作った。
 
 以上が、二十二才の私が書いたお水取りの印象記である。橋本管長も上可執事長も未だ郡山中学の生徒だったから、この年の行法に参加しているかどうか。
 この後、私はいく度か修二会を拝観してゐるが、戦後は学校の教師などになつてしまったものだから、時期が毎年、学年末の行事とぶつかってしまひ、それでも二度ほど行ってみただけである。奈良のことなら何でも知っていたと思はれてゐる秋艸道人もお水取りはほとんど観てるない。これも先生が長いこと学校の教師をやってるたためである。先生がお水取りを観たのは、やつと戦後になって、大学教授をやめてからで、それも只の一回きりであった。だからあれほど奈良や東大寺を詠んだ名歌の多い道人に、この感動的なお水取りの行事を詠んだ歌は一首もない。まことに惜しいことである。(早稲田大学
 
 
 
二月堂のほとり 北川桃雄/p148
 
 二月堂は修二会のおこなわれる桧舞台であるが、同時に、若狭井屋そのほか二月堂の下のほうに散在する諸堂屋も、修二会のために並々ならぬ役をはたすのである。
 いま、二月堂はじめこれらの古い建物について少し語ってみたい。
 二月堂は暗い森の樹立を背に、半ば崖により、その正面は、高い列柱や斗栱にささえられ、舞台を張りだしている。観音堂に多くみられる舞台造りとか懸崖造りといわれる形をしている。ふかい軒から垂れた大小さまざまの形をした銅燈籠、ずらりと並らんだ大小の絵馬。しかも、四方の扉はひらかれ、うすぐらい堂内には、聖灯がゆらめき、二月堂と浮彫りした大きな銅香炉はじめ、おびただしい荘厳具がならび、るるとして香煙がただよい、読経の声ももれてくる。
 静かできびしい隣りの古代的な三月堂とは打って変った、賑やかで人なつかしい、近世ふうのお堂である。ふだんの二月堂は朝暗いうちから日の昏れるまで、終日、参詣の人々があとを絶たない。昔ながらに庶民信仰に生きている堂だ。
 ぼくは大和古寺としての三月堂に、もちろん、ふかく魅惑される。しかし、三月堂とは別の意味で、二月堂につよく惹かれる。それは、たぶん、東京下町に育って子供のときから親んできた、浅草の「観音さん」のもつ庶民信仰的な雰囲気と、一脈通うものがあるからだ
ろうか。
 現在の二月堂はそれ以前の堂が江戸時代(寛文七年)の修二会中に焼けて、再建された建築である。修二会を創始した天平時代の実忠和尚当時のままの堂姿が、こん日なお眼のあたりにすることができたら、三月堂よりもさらに深い感銘をあたえたにちがいない。
 ご本尊の十一面観音も、この寛文の火災によって火中したらしい。現在では、厨子ふかく秘められて、そのお姿は寺中の坊さんもうかがい知らぬときく。ただ、その金銅製の舟形光背の断片が集められて残っている。あの光背の毛彫りの仏画はじつにみごとな作品である。それから推しても、ご本尊の十一面観音像が稀有の霊像だったのではないかと想像される。聖林寺の十一面観音のような・・・・・・。
 二月堂には今一つ修二会の本尊とされている小観音がまつられている。これも秘仏でそのお姿は知られていない。そのほかに、堂の東・南・北の三面に後世の観音像が安置されている。これは外から拝める。
 修二会がはじまると、二月堂に「古代」が一年ぶりで生きてくる。
 修二会のあいだ、練行衆の坊さんたちにとっては、夜も昼もないお勤めがつづくわけだが、拝観者からみると、なんといっても、堂上における夜を主にした行法という印象がつよい。
 春寒の闇をこがして燃えさかる篝火(かがりび)や、練行衆の影をうきだす燈明のゆらめき、うすぐらい堂内のはのあかるい神秘的な内陣、そして、そこに流れる長短高低リズミカルな声明、異様な法悦的な練行僧の動作。およそ現代から遠い、それゆえに幻想的な宗教劇の演出ともみられる。
 とくに、三月十二日の宵ので篭松明は、長さ四間もある大竹棒のさきに球形の籠をつけ、火を焚いて、二月堂の舞台から突きだし、振りまわされる。炎々ともえる焔は無数の火の粉をちらし、煙と火粉が堂をつつむ――それは大都会では忘れられた、闇の火のたたかいをおもわせる原始的なみものである。
 その夜更けて、お水取りの時刻になると、呪師をせんとうに練行衆が牛玉杖(ごおうづえ)をつきながら、本堂の南石段のうえに勢ぞろいする。大松明の焔が赤くそれを照らし、法螺貝のおもおもしい吹声ものものしく、一同がしずしずと石段をくだり、閼伽井屋へとすすむ。この野外劇もぼくたちを古代伝説の世界にひきこむような魅力がある。
 だったんの妙法はいちばん奇抜で劇的だ。はじめ、八天とよばれる達陀帽の諸衆が、木・火・芥子・楊子を投げあうやりとりがある。そのあと、大松明をもった火天と、水器をもつ水天の立ちまわりとなる。
 内陣も外陣も、八天の頭も肩もふんふんと火の粉だらけになる。観ていてハラハラするような荒行である。
 早春の夜におこなわれるこの宗教行事は、じっさい、日本にも類のない、ふしぎな法会である。
 こみいったあの作法や、燃えさかる火や、伝説的な水汲み、達陀僧の活躍など、たぶんに神道的な分子、密教的な要素、拝火教的あるいは西域的な匂いが混じっている。
 ご本尊の十一面観音はがんらい密教がつくりだした変化観音の一つであり、この行法を創始した実忠和尚はインド出身という説もあることなども、思いあわされてくるのである。
 
 二月堂のまえに張りだした舞台の勾欄に立つと、すぐ前にそびえていた良弁杉に昔の俤はないが、森をこして大仏殿、その向うに生駒山大和平野の一部が、眼にはいってくる。幾たび眺めても懐しい風光である。
 が、それ以上に、ぼくがいつも見惚れるのは、眼下にならんでいる長廊・参籠所・仏銅屋・食堂・若狭井屋湯屋などの一群の古い堂宇の佇まいである。本瓦葺の屋根、白い壁、ほどよく褪せた朱の柱と緑の運子窓――ことに上から見おろす屋根の美しさは無類である。東京から久しぶりにくると、その古い滋味のある、底光りのする美しさが、身にしみて感じられる。
 がっしりした本瓦葺きの太い列線、ほどよく反った棟の一筋、いずれも切妻づくり湯屋のうえに乗る煙出しの小さな屋根までがいい形である。
 大都会とはちがって、さすがに清澄な空気の山の上である。屋根の瓦は埃もあびず、しっとりと潤っている。
 ふと想いだされるのは大同雲岡の石窟古寺である。あの石窟群の第五、第六あたりの大きな石窟のまえには、三、四層の高い拝楼が立っている。その上層から下を見おろすと、院子(中庭)をかこんで、幾棟かの堂宇僧房の甍(いらか)が、たくましく反りかえっている。
 この石窟古寺の伽藍の向うには、ひろい磧(かわら)と大きな武周川の流れと対岸にうねる朔北の高原がはるかにひろがっている。
 大同の甍は仏堂にしろ民家にしろ、日本の本瓦葺とちがい、むしろ、行基葺をおもわせる。ふとい管をならべたようで、しかも、異常にうねっている。重厚で逞しい点は日本の本瓦葺の屋根以上だ。
 そこに大陸の文化と、大陸から承けたものに抑制を加えて表現する日本の文化のちがいが、みられるのである。
 瓦屋根の一ばん美しくみえるのは、若葉ころであろう。いぶし銀と新緑の対比、寂かななかに明るい寺院風景で、二月堂の場合にもそれを印象させられるが、あるとき、真夜中に二月堂に上って、月に濡れ、蒼く沈んだ、これらの諸堂の甍の美しさに魅惑されたことも忘れられない。
 
 二月堂の北側から渡廊の階段を下るとその下り口で、一棟の細ながい単層の建物のあいだを抜ける。
 右(北)のほうが参籠所で、左(南)のほうが食堂である。
 今の建物は鎌倉時代のものらしいが、舟肱木(ふなひじき)、白壁・横桟のある高窓、板扉、連子(れんじ)の窓など、簡素質朴の構成は取りたてていうほどのことはないにせよ、それでも実用に制約された質実な美しさが感じられる。
 参籠所はいうまでもなく修二会のとき練行衆がおこもりする宿所である。ふだんは他の堂宇同様に閉じられている。ある年の修二会中に、ぼくはここに参籠中のK師を訪れたことがある。もちろん、這入れないが、入口から内部は一瞥できた。
 所内は四室に分れ、畳じきで、壁によせて方三尺ほどの炉が切ってある。壁上には念珠をいれた紙袋や、紙手(こうで)と称する丈さしがかかっている。その上の棚には参籠の無事を祈るお祓や持仏の小さいお厨子などがおかれてある。黒光りした柱には形の変った行燈や青竹の花生けがかかっている。坊さんたちの知合や信徒衆の見舞というか陣中慰問というか、訪れてくる人も多いとみえ、贈られた菓子箱なども眼についた。
 食堂は会中に練行衆が昼食をする堂である。瓦じきで床几がならび、古式に則って食事が摂られるという。ぼくはまだ拝見したことはないが、写真でみると、食器はいっさい漆器らしい。ことに坊さんのまえにおかれた大きな鉢の山盛りの飯にしゃもじをたてたのが印象的である。いつか博物館に東大寺から出練された、すばらしい根来の大鉢をおもいだす。
 閼伽井屋若狭井屋という名のほうが、伝説の匂がしてぼくには好ましい感じがする。鎌倉式の天竺様と和様のくわわった、赤と緑の建築的好小品だ。小気味よく安定したその姿は、石柱や石柵や石碑、それからこの小宇の周囲をつつむ神木などのため、じゅうぶん味わえない。しかし、ふだん、いかにも大切にされているという風情がある。
 仏餉屋(ぶっしょうのや)は御供屋ともいう。二月堂に献ずる供物を調進する所である。鎌倉時代の建築というが、屋根の流もするどいし、柱にもエンタシスが残っていて、天平をおもわせるような、豪放な古格をもっている。ぼくの好きな建物の一つだ。堂内には古い大きな石臼があるときいたが、これもぼくは、まだ、観る機会がない。
 ほかに湯屋がある。江戸初期の造りで、大鐘楼の山にある大湯屋の規模や形態にはおよばないと思うが、修二会に使われると思うと見すごしはできない。いうまでもなく練行衆が会中に斎戒沐浴する浴室である。内部は唐破風の屋根でしきられて脱衣場と浴室になっている。湯屋の傍らに井戸があり、そこから青竹の筒をとおして浴槽に水を送る。内部にはこれを焚く石造の大きなカマドが設置されている。
 
 崖上の本堂は前記のように年中ふだん開扉されて、にぎやかな参詣人の気配をみせている。しかし、崖下のこれらの附属の小堂群は、ふだんは固く扉を閉ざして冷めたい表情をしている。古建築好きは別として、お水取りをみたことのない一般の観光客は、たいてい、無関心に一瞥しただけで通りすぎてしまう。
 ところが、修二会の時期にはいると、このあたりの雰囲気がにわかに一変する。
 各堂屋の扉はひらかれ、新しい注連飾りがつけられ、籠松明が軒にかかったり、これらの堂屋は一年ぶりで娑婆の空気を吸いこんで、蘇生する。
 それぞれ係りの人たちの出入りが繁くなり、人間くさくなり、活気づいてくる。
 芝居で云えば、練行衆その他は主役、脇役のはなばなしい出演が人々の眼をひくわけだが、裏方にあたる世話役や奉仕の人々の、いっぱんには注意されない働きぶりも、とうぜん、忘れてはなるまい。
 本堂はもちろんのことだが、この下のほうの諸堂屋が、そういう人々の働きの「場」になる。
 そうした裏方の活躍ぶりを事こまかに紹介するのも、お水取りという特異な宗教行事、今ふうにいえば古代宗教的ショーの全貌を語るために必要だと思うが、あいにく、ぼくにはその資格がない。ただ、一、二度、昼間あのあたりを通って、瞥見した印象を語りうるくらいなものだ。
 とにかく、会中はふだんと違って、この一帯、生き生きした気配が、昼間でも、二月堂を中心としてただよっている。それは観光客の群があたえる気分ではない。ことに、あの湯屋の煙出しや出入口からほうほうと立ちのぼり、ながれる白い煙、せわしく出入する人々の影、あれはたぶん寺で「庄馳士(しょうのくし)」と呼んでいる遠く山城方面の加茂あたりから奉仕にくる人たちでもあろうか。そうした人たちのせわしない気持が、傍観者のこちらにまで伝わってくるようであった。(共立女子大学
 
 
 
早春の賦 ―二月堂お水取り― 佐藤道子/p152
 
 "お水取り”と耳に親しみながら、この大行事に実際に参ずるのは今年が始めてであった。どうせなら二七日を通して参じてみようと決心したのが、行法の始まる十日ほど前であったろうか。
 女人結界の場が多いので、女性の調査は不適当であろう、というお寺のご忠告であった。それを押して出掛けることだから、と、収穫の少ないことを覚悟もし、場合によっては途中で切上げる心づもりもあった。それが、のっけから心を奪われて、宿舎から二月堂への道を、来る日も来る日も通いつめる結果となってしまった。
 お水取りには、参ずる者に感動を与える“何か”がある。その“何か”が、悔過滅罪のひたすらな祈りの心だとのみ見るのは当るまい。お祭めいたにぎわいもあれば、巧まれた演出もある。そして、物見高いだけの俗世間の興味の目もある。にもかかわらず、憑かれたように足を運ばせる何かがあるのだ。それが何であるか。多くの言葉を聞くよりも、一度参じてごらんなさい。というのが私の結論なのだが、参ずる人も少なくてあまり一般には知られず、しかも心に残ったことがらの幾つかを書き記してみようと思う。
 
 <参籠所入り>
 二月二十八日午後二時すぎ、練行衆は、加供奉行・仲間を従え、寺内西よりの別火坊(戒壇院)を出て、大仏殿の裏道をまっすぐに東へ、二月堂下の参籠所に向かう。
 和上・大導師・呪師は、紫衣に緋の紋白五条袈裟、その他の練行衆は、白衣に紫の紋白五条袈裟、白緒の草履姿で和上を先頭にあゆみを進める。一列に並んで、無言足早に、なだらかな石畳の坂道を進む。早春のいろどり少い景色の中で、袈裟衣の色はひときわ色あざやかに、すそさばきのサッサッサッサッという音が快い。大きな行に入る前の緊張とつつしみの心にあふれて、さわやかなものであり、厳粛なものである。
 迎える者の目に、まず入る和上の姿。その足どりと、身の軽さには、修錬を経た人にのみ見る確かさがある。こもりの数を重ねた肉体的鍛錬の上の確かさであり、心の確かさである。
 この行列は、実に美しい。
 
 <開白法要>
 お水取りは、こもりの行である。本行を前にして、練行衆はまず別火坊にこもる。本行に入って参籠所にこもる。そして行法を行なうため、内陣にこもる。二十日に余るこもりの行である。
 三月一日夜半、二七日にわたるこもりの行法は、日中の時の法要を以て始められた。
 午前一時四十分、童子のかざす手松明に先導されて、黒の法衣に鈍色の上堂袈裟姿の練行衆は、参籠所を出て二月堂に上る。
 内陣の扉が開かれ、内陣掃除・須弥壇上の荘厳など、すべての準備は練行衆の手で整えられる。礼堂の輪燈の光で、人々の姿が影法御のように見え、金属のふれ合うかすかな音に、ふと我に返って寒気を感じたりする。とはいえ、深夜の堂内はそくそくと寒い。
 準備が整い、練行衆が礼堂に着座すると、堂内の明りはすべて消されて暗やみとなる。音も光もなくなった息づまる静寂の中で、一瞬カチッと光が走り、しばらくするとぼーっとやみに赤味がさして火がともる。新しい火を以て常燈を点し、こころ新たに、この年の行が始められるのだ。鮮烈な感動と緊張を覚える。
 二時二十分、内陣の鐘が日中開白を知らせ、練行衆は一人一人上座の衆に一礼して、扉帳のすそを開いては内陣に入る。最後に、和上によって礼堂と内陣の境の扉帳が閉じられると、心理的にも距離的にも、練行衆は、全く別世界の人となってしまう。
 扉帳に写る影法師が行道する時、その吐く息が映って見える。礼堂を隔てて聞える振鈴や声明は、大きな井戸の底から聞えてくる音のような響きと重重しさがある。実忠和尚が、兜率天悔過法を拝された時、やはり、この様な光景だったのだろうかと、古い伝説を思い浮かべたりするのだった。
 宝号が唱誦され、数珠が拍子に合わせて揉まれている。数珠の音というのは、かっきりとしていて、しかも柔らかい。実にいいものだ。「南無観」「南無観」と、宝号の唱誦が続く中に、「五体打ち出で給え」と和上の声がかかり、差懸の音をカタンカタンとさせて五体人が礼堂に出て来た。中央にしつらえられた五体板と呼ばれる板の前で差懸を脱いで、本尊の方に向いて立つ。内陣の、「南無帰命頂礼大慈大悲観自在尊」の唱誦に合わせて、「南」「大」「尊」と五体投地する。体を左にひねりながら、肩からぶつけるように体を落して五体板に右膝を突く。観音の種子を黙請しては投地するのだという。五体を投地して、罪障を懺悔するという発想が、いつの頃からどこであったものか知らないが、このように整った形式で伝えられているのは、他にないのではなかろうか。
 内陣の宝号唱誦は終り、静寂の中に、投地は更に続けられる。「ドゥーン」「ドゥーン」と、間を置いて響く音は、かえって合間の静寂を際立たせるようだ。「五体打上げて入り給え」と和上の声がかかって更に四回、都合十二回(回数は、十二回と定まっているわけではない)の投地で、五体人は又、差懸の音をたてながら、扉帳の奥に姿を消した。
 発願、心経行道、回向文などと続く内陣での作法を終えて、練行衆が再び礼堂に姿を現わした時、時計は三時を五分回っていた。
 
 
 <時作法>
 二七日六時の行法。つまり、一日六回の行法が十四日間繰返し行なわれるということである。
 時の法要の作法は、供養文から始まって悔過・宝号を中心に、回向文で終る。初夜・後夜には、この後に大導師・呪師の作法が加わり、初夜には更に神明帳又は過去帳の読上げがある。
 一日六回、十四日間で合計八十四回。よくまあ飽きもせず・・・・・・と思われるだろう。それが全く飽きるどころの話ではないのだから面白い。二重の格子で隔てられた局で聴聞していて、である。
 同じ事を繰返しているように見えて、作法にも、声明にも、各時どとの変化があり、それぞれが又、日を追って少しずつ変化してゆく。初夜の散華には、華(もち米をいったものを用いる)を散らしながら、静かに行道するのに対して、後夜のそれは、華は散らさず、足音高く拍子を取って行道する。といった違いがあったり、昨日まで耳にしたことのない九条錫杖が、錫杖の音に合わせて唱誦されたり、といった具合である。
 始めの頃、テンポの早い晨朝の行など、まごまごしている中に「手水・手水」とか何とか叫びながらトントントントンと駆け下ってしまわれて、訳もわからず終ってしまうという始末だった。
 訳はわからなくとも面白い。
 悔過の行についての感想を記すのに、面白い、面白いと書く法があるものか、と思われる向きもあるだろう。実際、雑念を断って(参じてみればわかることだが、雑念があって勤まる行ではない)行に励む練行衆には失礼千万な話なのだが、しかし、正直言って面白く、ふと、真似してみたくなるような親しみのある行なのである。
 厳粛な作法もあればコミカルな作法もある。リズミカルな声明もあれば旋律の美しい声明もある。緩急・静動の対照もある。これら、色々な要素が、様々の組合わせで六つの時が構成されているわけだ。調子のよい後夜の行、端正な初夜の行。それぞれに特長がある。
 初夜の行の半ばに、須弥壇上のあまたの燈明がすべて点ぜられると、内陣には一種華やぎとも言える雰囲気が生れる。このひとときは、ひときわ印象深い。今、初夜の行の一部を略記してみよう。
 初夜の行は、六時を通して最も省略のない丁寧な形で行なわれる。上堂作法に始まって、悔過法・神明帳読上げ・大導師の祈願・呪師の修法が続き、最後の大導師作法まで、三時間を越える行となる。
 鐘楼の大鐘が、七時の時を、ゴゥーンと知らせ始める。途端に、加供奉行(上堂を、二月堂に居る処世界に知らせる人)が手松明を揚げて、宿所に続く八十三段の登廊を一気に駆け上る。二月堂入口で、大声に「出仕の案内」と練行衆の上堂を知らせると、又一気に登廊を駆け下って宿所に戻る。直ちに練行衆は宿所を出、童子の抱える上堂松明に先導されて、袈裟の樹被下で合掌したまま、静かに登廊を上る。一人、又一人、薄暮の上堂作法は、ゆるゆると静かに進められ、先導の松明は、花火のように火の粉を散らして夕景を彩る。
 上堂した平衆は、すぐ内陣に駆け入って、和上の上堂まで、差懸の音高々と行道を続ける。和上の上堂と共に、行道はビタリと止まり、着座して静まった内陣に、四職(上席の四人)は威儀を正し作法正しく入るのである。
 悔過法に入る前の法華経唱誦は、旋律が実に美しいし、独唱になったり斉唱になったりするのが、浪のうねりのように快い。
 これから悔過法に入り、時導師が出て、まず「辺無量」と供養文の一句を朗々と唱誦する。
 続く如来唄は、「如、世、如」と一字ずつ時導師のあとをつけて唱え、「一切法常住是故我帰依」の句を合唱する。短かいけれども、呼吸の合った時、ハーモニーの美しさは格別で、一種の法悦を感ずることがある。
 ここで全員立って、散華行道になる。散華文を、ゆるやかに斉唱しては行道し、止まって斉唱しては又行進する。
 散華が終って着座すると、大導師は呪願文を唱誦する。ひびきのよい漢音で(他はほとんど呉音で唱誦される)、格調の高いものだ。
 そして次に悔過となる。これは、時導師と、その他の人によってカノンのような形式で唱誦されるが、この時、時導師は一称ごとに立って一礼し、側の衆の中、三人が一称ごとに立って数珠を揉み上げ、その他の人々は、座ったまま数珠を揉む。この作法は半ばから変化して、前記の四人は、立ったまま数珠を揉んで一称一礼し、他の人々は座ったまま数珠を揉む。ただし、この時は、数珠を拍子にアタッて揉む。つまり、十一人が二手に分かれて声明をしながら、三様の作法を行ない、その作法は、途中から変るわけだ。というわけで、あっちで立ったと思うとこっちは蹲踞する。向う側の誰かも蹲踞したらしい。と思っている中に、柄香炉を捧げていたはずの時導師が、いつの間にか数珠を挟んでいたりして、私は感醸している暇などなくなってしまう。この、十一面神呪心経によった称名が終ると、続いて観音標の宝号を画する。作法は一段と複雑になりややこしいが、「南無觀自在菩薩」「南無觀自在」「南無觀」の三部分に分かれ、節回しは単純で親しみやすいし、リズミカルなので、いつの間にか、ナムカン・ナムカンなどと口ずさむのが癖になってしまうものだ。この終りに、前記の五体投地が行なわれる。
 以下、懺悔・心経・回向文などがあって、悔過法が終る。
 以上のように、十一人が、各自の役割に従ってそれぞれの作法を行ない、それが一体となって、諧調を生み出すわけだ。
 続いて行なわれる神明帳唱誦・大導師の祈願・呪師の修法にも同様なことが言える。すべてが無駄なくはこばれるし、一寸した動作にも意味があるので、緊張の連続であり、局の片隅に、局の片隅に、何も知らず、ただ目を凝らしていた時の感激は少しずつ変化して、魅力の源を探ってみたいという興味となってゆくのである。
 
 <周囲の人々>
 練行衆の別火精進の厳しさは徹底したもので、女性は参籠宿所のしきいをまたぐことを許されない。心づくしの陣中見舞のお茶菓子も、黄味あんでも用いてあると、手をふれずに下げ渡されるという。
 練行衆のみではない。この期間、その身辺の人々――練行衆に仕えて雑用やら松明持ちをつとめる仲間・童子達――は無論のこと練行衆の家族や堂守まで、生ものを遠ざけて日を送るという。すべて、行法を中心に人々の心が動き、時が送られてゆく。
 中にも、仲間・童子といわれる人々の、お水取りに対する純粋な心の在り方は得難いものである。
 気のいい、親切な人達である。練行衆の食事を運びながら、自分達は、練行衆から下げられた練行衆と同じ食事を頂くのだ。食事のだしはすべてこぶを使って、生ぐさのだしは一切使わないのだ。と誇らしげに話してくれる。籠松明を丹念に作りながら、その手順を細々と教えてくれる。しかし、「こんな時、手を貸して上げましょうなんて言うと叱られるでしょうね」という問いに、「いろうてもらいたくありませんな」と、厳然たる返事がかえって来た。
 女性が、上堂用の竹にふれるなどは、彼等にとってとんでもない罰当たりのことなのだ。なぜ、女人がけがれたものであらねばならないのか、と理屈はこねたくなるものの、けがれを忌み、拒む意識は、この人々に最も明らかに、妥協を許さぬ形で現れており、それは一種の小気味よさを伴って、必ずしも不快なものではない。
 お水取りを、この上なく神聖と思うこの人々が居る限り、行法はつつがなく回を重ね、感動を与え続けてゆくに違いない。
 
 <名残りの法会>
 三月十五日、夜深く最後の長期の行を終えて後、壇上の荘厳は、練行衆の手ですべて取払われる。
 一日の法要の前に荘厳されて以来、およそ百と数えられた大小の燈明の光の中で、御厨子の四方は、供花の椿の花もしきみの葉も彩りを添えていたし、整然と積まれた壇供のお餅もにぎやかだった。そのすべてが下げられたあとの内陣は、わびしく暗く、常燈の光の輸なりの明るみに、御厨子の影が殊更に濃い。
 ここで、涅槃講が勤められる。
 唄(ばい)を唱誦ながら南北両側に立ち並んだ練行衆の姿が壇越しに見えるのも、破壇の後のゆえだが、鈍色の袈裟姿は、肩の辺りから闇に溶け入ってさだかには見えない。
 唄を唱え、散華行道し、涅槃経を読誦し、講問が行なわれる。その声はかすかに、その節は長くひいて緩やかに唱誦される。
 周囲の局に、内陣の光の届くわけはない。人気のないくらがりに座って、じっと耳を澄ましていると、内陣の声は、静かに辺りの闇に拡がり、人の心にしみ入って来る。長い行を、無事に終えた喜びと名残りが、練行衆の胸をひたしているに違いない。わずか三十分。だが、これほどしみじみと名残り惜しい法会を、私は知らない。
 
 <山内夜景>
 半月に余る滞在の間に、月は日ごとに細くなって、夜中に下堂する時、ただでさえ暗い大鐘の辺りは全くの闇と見えた日もあった。このような時、よく、ねぐらへ帰りそびれた鹿が木立の間から前ぶれなしに飛出して来て、こちらが飛上るような思いをさせられる。犬に吠えられるのは毎度のことで、気分のよいものではないが驚きはしない。ところが面白いことに、草木も眠ると俗に言う夜更けに晨朝の行が終ると、道々、犬の声も鹿の身じろぎも、風のそよぎさえもないひと時にぶつかることがある。身体が空気に吸い取られてしまうかと思われるほどにひたすらな静寂の中を下って来る時、夜とはいかに美しいものかと思う
 遅く出た月の明るい雨上りの晩があった。雨に潤った三月堂が、さえぎるもののない光の中でひときわ静かに美しく見えた。三月堂の前から右に折れて大鐘の傍を通り、楓に覆われた石段を下ると、大仏殿の真横に出る。半ばまで下って、木立の切れた明るみに大仏殿の回廊を見出した時、これはまあ、なんと思いの外の華やぎであろうと驚いた。西に傾いた月の光が、回廊の朱も、大屋根の金色の鴟尾も、まことに映え映えと、たおやかに照らし出しているのである。羽を収めて静まりながら、いつかは舞い立つ鳥かと空想を誘われる。大仏殿の、この生気に満ちた美しさを、どれほどの人が知っているだろうと思い、わが参籠の功徳かと、一寸いい気になってみたりもするのだった。
 心のはずみのまま、回廊伝いに中門の前に出、南面して黒々とそそり立つ南大門を望んだ時、松並木の彼方の大門は、大仏殿の華やぎとうって変って、圧倒的な大きさと気むずかしげな表情で立ちふさがっていた。その大きさというものは明るい日ざしの中で見る大きさとは比べものにならない。劫を経た怪物に、通せんぼをされたようなもので恐ろしげですらある。
 寺院建築の、昼の表情と夜の表情がこれほどに違うものか、など思いながら、東大寺――ひむがしのおほでら――の名を、紛れようのない実感として受取らせるこれらの建物に、改めて敬意を表したことであった。
 
 天武天皇朱鳥元年を始めとする悔過法修行の記録は様々の空想を誘う。お水取りの始行された時代に、悔過法は、如何なる思想の下に如何なる形で行なわれていたのか。年々、怠りなく勤められて、千二百年を経る間には、思想上・形式上のさまざまな変化もあったであろう。どのような変化であったのか。堂の周囲に深い木立やら動物達を配して、空想は様々に拡がる。
 それはそれとして、この行法のこころが、今に生きて人の心をうつことは意義深い。形式のみ伝えて、本来のこころを失った行事の、なんと多いことか。
 本来のこころと記したが、私はこの文章で称名悔過にのみ目を向けすぎたかもしれない。国家安穏・五穀豊穣・万民快楽などを始めとして、行法を陰で支えている人々・局に参じている人々の至福に至るまで、専心祈願する大導師の祈りのこころなどについてもふれるべきだったと思う。ともし火のゆらめく内陣に、サラサラトン・サラサラトンと大導師鈴を打ち振りつつ祈りを捧げる大導師の作法に、人目をひく派手やかさはないけれども、その朗々たる唱誦には、行法の柱となる人の品格と気迫がみなぎり、感銘は日を追って深い。しかし、始めに書いたように、一度参じてみれば、筆の不足など直ちに補なわれるはずだ。
 お水取りに魅せられて、私の聴聞は、これからも事情の許すかぎり続くことになるだろう。差障りの起らぬよう、健やかであるようにと、祈り努めるこの日頃である。
(東京国立文化財研究所)
 
 
 
お水取りの水源 白洲正子/p158
 
 お水取を見たことがある人は、あの異様に神秘的な雰囲気を、忘れることが出来ないであろう。私が参列したのは、十年以上も前のことで、全体の記憶はうすれてしまったが、所々で受けた強烈な印象は、年を経るにしたがひ深まって行くやうだ。当時は未だ良弁杉が健在で、その太い根元であびた籠松明の火の粉、「青衣の女人」と呼びあげる陰にこもった音声など、読経の間を縫ふほら貝や鐘の音とともに、私の心にしみついて離れない。中でもいはゆる「お水取」の行事と、ダッタンの壮快さは、お能で云へば破と急の段にたとへられる見ものであらう。特に印象が深いのは、明け方近く、行法が終つて、あかあかと二月堂の内外を照してるた燈火が消えた後、お勤めを終へた坊さん達が、松明を手に、長い階廊を走り下りて来る光景だ。実際には、走るのではないかも知れないが、暗闇を流れる光の波は目がさめるやうで、それも消えてしまふと、はじめて私達は我に返って、「幕が降りた」淋しさを味ふのであつた。
 さうしてすべてが終った後、私はお堂の上の欄干から、ほのぼのと明け行く空を眺めてゐた。三山のかなたから、紫の朝霞が、大和平野を舐めるやうにのぼって行く。春だ。春が来たのだ。その時私は強く感じた
 いつかさういふお水取の印象記を、私は書いてみたいと思ってゐた。事実、何度か試みたが、いつも失敗に終った。しょせん、かういう神秘的な行事は、肌身で感ずるほか、筆にも口にもつくしがたいのであらう。その謎めいた所に、人をひきつけるものがあるのかも知れないが、おそらくはじめは、一つ一つの作法に意味があったのが、忘れられたり失はれたりして、形だけが残ったものに違ひない。たとへばダッタンと名づける行法は、私達にはダッタン踊りとしか見えないが、梵語タプタに語原があり、火による苦行を意味するといふ。火が煩悩を焼きはらひ、水が穢れを清めるのだ。してみると、これは天平時代よりずっと古くから行はれたみそぎの行事に、仏教が加味されたのではなからうか。さう云へば、ダッタンは、鬼やらひに似なくもない。時は如月、去る年の穢れや苦しみを追ひやつて、新しい春を迎へる、修正会も修二会も、内容的には同じものだらう。一般には、修二会が、俗にお水取と呼ばれるやうに解してゐるが、最初の目的は「水を汲むこと」、もしくは汲んで飲むことにあったので、本家は案外そちらの方かもわからない。それは変若(おち)水であり、若水である。或ひは生れ変りのお呪ひでもある。若狭の井の名称も、もしかすると、そこから出たのではあるまいか。仏教の背後には、実に多くの古代の信仰がかくされてゐる
 先年、本を書く為に、西国巡礼をした時、一番強く感じたのはそのことであった。西国巡礼も、観音信仰が元になってゐるが、補陀落浄土と、自然信仰は、あらゆる所で一致してるたし、寺院はいつも古代の遺跡に建つてゐた。神が存在しない所に、仏もまた生れなかったのである。民族の生命力は強い。何も仏教とは限らない。キリストも、マホメッドも、民衆の生活の中に根を下さずに、思想を発展させることは出来なかった。
 その巡礼の途上、天の橋立から松尾寺へぬける街道で、私は若狭彦と若狭媛神社によつてみた。「東大寺要録」によると、天平勝宝四年、実忠和尚が二月堂で修二会をはじめた時、諸国の神々を勧請したが、若狭の遠敷(おにう)神は、魚釣りに夢中になってるた為遅参した。やうやく行法の終り頃に到着し、そのお詫とお礼のしるしに、お堂の傍に香水を出して進ぜやうと約束した。時に黒白二羽の鵜が飛来つて、良弁杉のもとの盤石をつつくと、忽ち甘泉がほとばしつた。そのまはりを石畳でかこみ、観音様の閼伽(あか)の水としたのが、若狭の井のはじまりと伝へるが、遠敷の神とは、若狭彦のことであるといふ
 以上のことは、後でしらべて知ったので、その時は、若狭彦といふ名にひかれたのと、何となくお水取と関係がありさうな気がしたからである。私は元来考証は不得手だが、好奇心の方は人一倍強い。はるばる若狭まで来て、お水取の水源を確かめぬ法はない。といって、適当な案内者もゐない。地図をたよりに音無川をさかのぼって行くと、先づ若狭媛神社がみつかった。若狭彦の方は、そこから更に奥へ入った上流の方にあつて、うつそうとした森の中に、大きな二股杉の神木がそびへ、ささやかながら清々しい社が立つてゐた。傍らに由ありげな清水も湧いてある。そそっかしい私は、これこそ例の井戸に違ひないと、のぞきこんだり、写真をとったりしてある所へ、牛車をひいた村の人が現れた。念の為、聞いてみると、それはもつと上流の、「鵜の瀬」にあるといふ。仕方がない、どうせ乗りかかった船だ、日は既に落ちかけてゐたが、再び川にそって行くと、次第に川幅はせばまり、山もせまつて来て、やがてそれらしい所へ辿りついた。「巡礼の旅」の中に、私はそのことを次のやうに書いてある。
 「東大寺と記した小さな鳥居が、浅瀬の中に立ち、その向ふ側の岸が洞になつて、渦を巻いてゐる。それだけのことなのだが、かういる古いところには、何かしら奇妙な感じがある。密度の濃い空気がたちこめてゐる。今は小さな川にすぎないが、かつては急速で恐しげな渦が巻いてあたのであらうか。それより水の信仰には、若返りのお呪ひがともなふから、ワカサの名に重きをおくべきだらうか。さういふことは素人の私にはわからないが、これから先も「お水取」と聞く度に、鵜の瀬のあたりの風景を、私はきっと思ひ出すに違ひない。音無川には、鵜の瀬川、遠敷川などいろいろの呼名があるが、お水取の期間は、ここの川水が全部奈良へ行ってしまふので、流れを断つといはれてゐる。
 
 といふわけで、今回も、「お水取」と聞いたとたん、鵜の瀬を思ひ出した次第だが、依然として何もわからないのは同じである。何故、二月堂が若狭と関係があるのか、東大寺の記録にも、土地の伝承にも残ってるないと聞く。鵜の瀬といふからには、遠敷神の使者の鵜にちなんだ名だらうが、おにふにふで、遠い国の丹生、或ひは小さな丹生川を意味するのかも知れない。むろん水神には違ひないが、遠敷神、つまり若狭彦は、また彦火火出見命の別名とも伝へられ(一宮縁起)若狭媛は玉依媛のことだといふ。さうすると、例の海幸・山幸の物語とも関係があり、魚釣に行った話と結びつく。この命から三代目の孫が、大和の国造に任命されたといふから、お水取の伝説は、若狭から大和へ移った豪族の子孫が、家の歴史を保存する為、作りだした話だったかも知れない。神代の物語は象徴的で、私など素人の手におへないが、昔から漁業の盛んだった若狭の国は、海人部(あまべ)と関係が深く、民族の神として水神を祭り、鵜をトーテムとしたことは、先づ間違ひがないと思ふ。ついでのことにいっておくが、彦火火出見の子が、鵜葺草葺不合(うがやふきあわせずのみこと)であり、日向の鵜戸神社に祭られてゐる。
 火の神である彦火火出見と、水の神である若狭彦、それは仏教の火天と水天より、ずっと前から同じ目的の為に結びついてゐた。ダツタンの修法が鬼やらひを思はせることは前に書いたが、若狭の井の伝説とともに、古代から伝はつた民族舞踊ではなかったか。大衆は、自分がよく知ってあるものしか喜ばないし、安心してとけこみもしない。その間の機微をよく心得て、土地の伝承の上に、修二会といふ大きな一つのショウを造りあげ、仏法流布の方便とした実忠は、稀代の演出家といへやう。
 ちなみに、水はアイヌ語でワツカといふ。若狭の地名はそこから出たに違ひない。少くとも、わきの国、はしの国といふ意味の「腋狭(わきさ)」より、はるかに信用のおける説だと私は思ふ。(随筆家)
 
 
 
お水取り拝観記 杉山二郎/p161
 
 わたくしがまだ奈良にいた時分だから、かれこれ今から八~九年も前になるだろう。春を呼ぶ行事として知られている東大寺二月堂のお水取りの行事を、拝観したことがあった。奈良や京都の年中行事が、今も都市生活、農民生活のなかに生きているのを知って、東京からやってきていたわたくしは、たいへん驚いたものであった。東都歳事記や江戸年中行事を文献で追いながら、東京の年中行事探しの揚句に失望した経験をもつ身にとって、奈良の年中行事が到る所に生きているのに目を膛った。しかも、その大半が寺院、神社に結びついているのだから面白い。現在の奈良市の繁華街が、興福寺門前町として中世以後発展してきたために、仏教の恩恵は街の隅々にまで及んでいる。だから、奈良の人びとは季節の変り目を寺院の行事で代表させる。お水取りが済むと春がやってくる、と人びとは挨拶代りに口にする。確かに済んだ翌日くらいから暖かさが感じられ、寒気が去ったような気になる。それほどお水取りの最中は寒い。しかし、二、三日もすると三寒四温の現象があらわれて、また急に寒くなったりする。まだ春は遠いような気がする。すると、「まだまだあるぞ一切経」と警句のようなことをいって、白毫寺の一切経転読が済まないと本当の春にはならないというのである。ともあれ、お水取りの行事中とくに寒い日が多く、大松明の登る日に雪が降りだしたりして、外の見物人を靴の底から震え上らせたりする。芭蕉の「籠りの僧の沓の音」の句は、寒気ではりつめたような二月堂の空気を感じさせる。静寂のなかにひそむ修行僧の気魄をすら響かせているのが読みとれる。
 わたくしが、お水取りの拝観にでかけるといったら、親切な勤め先の文化財研究所の参籠経験者たちや、下宿の小母さんなどが、寒さが厳しいからたくさん着込んで、和服に袴が好いなぞと教えてくれ、誘めてくれた。洋服よりも和服と袴が長時間坐っているのに楽だったのには大いに感謝した。南大門から境内にかけて、いつもとは違って夕闇みが迫っているのに、人通りが多い。お水取り行事の拝観者たちが二月堂に向って急ぎ足で登ってゆく。二月堂の堂内に入ることを許された参観者たちは、一旦、三月堂横手の堂宇(手水屋)庭先に集合し、引率されて石段を登ってゆく。こうした案内や整備に一役かっている連中は、奈良に住む、七大寺お出入りの経師屋指物師たちである。余談にわたるが、こうした人たちは七大寺の行事には、いつも雑用をかって出る。薬師寺花会式の時、本坊に行くと、玄関の式台の横に机をならべて訪問客の取次をする。唐招提寺の開山忌に行けば、開山堂のなかで神妙に坐っている。どの寺でも自由に、その寺があたかも自分の家のような顔をして坐り応接しているのに、驚きかつあきれ、しかも、彼等が無報酬で活躍しているのを後で聞いて、感心したりした。
 彼等の指示に従って、二月堂に入る前に男性と女性は列を異にし、夫婦者でも比所では離別させられる。石段を登って男性の列は二月堂内の外陣床の上に坐ることを許され、女性の群れは堂の霑れ縁外廊に立って格子戸の外から、内部を眺める差別がつけられる。こうした参観者は、とくにお水取りの行事の行われる三月十二日前後に限られる。そして、芭蕉の句の静寂とちがった熱っぽい雰囲気が造られる。この行法は約二十五日間、毎夜二月堂本尊十一面観音の前で行われている。だから、悔過の行法を詳細に心ゆくまで観たい人は、始めの日々を利用するのが好い。お水取りという行法の正式の名は十一面観音悔過法であって、むしろ、お水取りは行法の最後を焦る集約的な行事を総称し転化しているに過ぎない。
 十一名からなる練行衆の二十五日間の悔過行法は、東大寺仏教徒を代表して行法・修行しているだけでなく、一般の人びとすべてを代行してもいる。インドに発生した仏教は、釈迦族のゴータマによって説かれた実践倫理の色彩を帯びた思想、思惟であった。四諦、十二因緣、八正道といった組織化された思想を元とする人間の苦悩からの超脱法は、つねに慈悲を基調とする正しい行動により達成されると考えられていたので、ゴータマ時代の仏教徒や弟子たちは、自ら実践によって悟りの道に到達しようとした。こうした教説は、非凡な人格をもつゴータマの個性的な、また相手の境遇や知能に応じた魅力あるものだったが、彼の死後、教説の受け取り方が変ってくるのはやむを得ない。
 伝統的保守的な弟子たちは、ゴータマの教説を守って修行を重ねることを目的として、上座部、長老部を結集する。他方、ゴータマを超人化し崇拝の対象とし、宇宙に他の多くの仏や菩薩(悟りを開くことのできる資格のある一切の生き物という意味)が存在し、それに帰依し信仰するなら、多くの富や幸福が得られると説く大衆(だいじゅう)部が成立した。こうしたインド仏教の宗派のうち、大衆部派の活動が大乗仏教となって中央アジア、中国を経て日本に流入したのである。
 仏・菩薩に帰依し、信仰する形態はいろいろあり、これらの像を造りだし、その像を安置する堂字や建物を造ることに利益や功徳を求める形態が流布したが、このため仏教に附帯した東ア圏の学間、技術、芸術が育まれたといえる。日本の飛鳥・白鳳・天平時代の造寺・造仏に、こうした現世利益・死者の咒術儀礼が先行して、仏教の本質、経典の哲学思想としての理解が遅れたのは止むをえないことであった。大和朝廷の上部構造のなかに、仏教とともに入った東ア圏の百科辞書的(エンサイクロペデツク)な知識大系が、技術・芸術といった即物的な形態をとって受容され、そうした範囲内での現世利益が追求されていった時、他方では聖徳太子のような仏教的な知識を思想的に消化し日本のなかに組み入れようとされた方もあった。東大寺盧舎那大仏の造立意図が、聖武天皇を中心とする大和朝廷にあって、梵網経・華厳経の教理の哲学的理解や、思想的理解をどの程度に遂げていたか問題であろう。教理を視覚的理解に訴えての造立ではあったろうが、むしろ東ア圏での、大仏造立風潮の余波の結実といった点がなかっただろうか。しかし、仏教がすべて即物的であったというのではない。宗教が流布してゆく際の宿命として、文化的隔差が大きければ大きいほど、即物的にみえるのである。
 悔過(けか)は、仏菩薩の面前で、自らの意識、無意識に犯す生きているための業(カルマ)を罪過として懺悔し、さらに清浄な身になった所で幸福利益を請求する行法なのである。ゴータマの教説のなかで、人間が生きるために負う苦悩を業(カルマ)といったが、この業(カルマ)を自らが精進して涅槃(火を吹き消すように罪障を取り去った状態)に入ることで消滅させる小乗部の考えに対し、明らかにまったく対立的な、絶対者に帰依し、その礼拝対象にひれ伏して懺悔する形式をもって業の消滅を叶った。ここに大乗仏教の特色をはっきりみせている。だから悔過は、かつて仏教徒が等しく行ったものだった筈が、時代がたち、国が変るにつれて特殊な職能化した僧侶が、帝王や貴族・庶民、さらには生けとし生ける一切の生物の代りに、代行することになる。二月堂の十一名の練行衆は、意識すると意識しないとにかかわらず、その時代の有情(仏教用語の一切の生き物)の代表者である。
 こうした意味をになったわたくしたちの代表者、そして選ばれた人たちでもある練行者は、今や内陣に入って行法を始めた。行法の進行順序を確実な予備知識として持っていなかった当時のわたくしには、視聴覚に入ってくる行法進行の様子から推測するしかなかった。わたくしたち俗衆の坐っている外陣から、本尊十一面観音像を安置した厨子は垣間見るべくもない。東大寺の人たちですら、実忠和尚拾得と伝える秘仏十一面観音像を拝したことがないという。現在奈良の博物館に寄託出陳されている本尊の焼損した銅製光背は、その痛ましい焼損断片であるにもかかわらず毛彫りの仏菩薩群は、まさに天平中期ごろの造立を思わせるすぐれた表現をもち、本尊の造形感覚や造形表現のすばらしさは想像できる。その厨子周囲に積まれた壇供の一部が、ほのぐらい蠟燭の光で照らされているのが、外陣と内陣を隔てた縵幕(とばり)がゆらめく度にほの見えるにすぎない。むしろ、練行衆の行法は、声明の異様な律調と節廻し、神名帳転読の某々明神、何々明神、何の明神という言葉や抑揚のなかに集約され、わたくしの聴覚は一心にそれを追いながら、みることのできない小宇宙たる内陣の練行者の姿を髣髴とする。練行衆の進退居姿は、気配でそれと察せられるばかり。行法代行者の行動は縵幕(とばり)の蔭、内陣の柱でさえ切られてしまっている。この時ほど内陣が近くにありながら、手のとどかない遠方の存在と感ずることはない。そして、不図兜率(トゥシタ)天宮の行法を模して云々という、十一面悔過後起の伝説を思いだした。兜率天という浄土が、聴覚の世界として眼前に現出しながら、視覚的世界としてはまったく隔絶されている。そうした联想は線行衆の縵幕(とばり)を通じて垣間みる姿や、外陣のわたくしたちの限の前で時折り五体投地を演ずる姿に、兜率天と現世を結ぶ三道宝梯を瞬時に昇降する、此の世ならぬ存在者と錯覚するほどである。
 しかし、聴覚の世界であった内陣の兜率天は、練行衆の走りの行法といった劇しい遶道(にょうどう)作法を始めると、ゆらめく蠟幌の光が縵幕(とばり)に落すスクリーンに、妖しげな僧侶の影法師が、まるで廻り燈籠のように忽然と出現しては消えてゆく幻想世界に変る。その幻想をさらにかきたてるのが法螺貝のピプゥー、ピプッーと響き交わすなかに、南無觀世音菩薩と連続して唱える唱名の調律、それに床を踏み鳴らすおどろおどろしい響きの交錯である。そのクライマックスは原始宗教に共通する恍惚の瞬間がある。しかも、行動する練行衆の「南無観、南無観、なむかん、ナムカン、ナンカン・・・・・・」と絶叫に似た
唱名と激しい走りに、観る俗衆が魂をうばわれて吾を忘れる瞬間がある。行動する者と観る者、彼岸の世界の者と比岸の覚めた者が此の瞬間に合致する。この時、十一面観音厨子前にひれ伏す自らの姿を発見するのである
 わたくしは、十一面悔過が、数百年前から連綿と続いてきた行法として、練行衆たちの姿ばかりを考え過ぎていた。最近、南都七大寺の諸行事を拝観する人びとが増えて、これらの行法が好奇な眼にさらされている。言葉を換えて言えば、行法をショーの一種として眺めようとする人びとの登場をひそかに懸念していた。けれど、喧騒と身じろぎのなかで、ある瞬間、現世の俗衆が兜率天宮の行法執行者である練行衆のなかに同化して、霊の交感と親和する。この経験は驚くべきことであった。確かに、わたくし自身の心の底にも、また周囲に蝟集した拝観者のなかにも、行法のクライマックスである韃靼、大松明、お水取りと集約的に観ることを望んでいる。能率を尊ぶ現代的な感覚が働いてはいる。ちょうど、古典音楽愛好者が、自分の好む楽章主題を待ちわびながら、交響曲全曲を辛棒強く聴くように。行法の拝観にそうした似かよった心緒を不図感じたりするが、交響曲全体の流動を、一つ一つ主題の変奏展開と追いながら没入して聴き終る人もある。これは好奇から出発して、やがては好奇心を超脱して法悦へと入りこむのである
 わたくしは、東大寺実忠和尚の姿を造仏活動や修法活動の面からとらえてみようと、研究テーマに選んでいる。それゆえ、二月堂の十一面観音悔過とお水取り行法も研究の一部分をなしている。けれど、最初の拝観には、そうした研究材料を蒐集し、体験を通じて行法の構成要素を解きほごしてみるだけでも容易でなかった。そして行法を練行衆が行うものとして客観化するより、やがては、自らが悔過会に参加して、静止してみる者から、働く者、行動する者へと自然に移っていってしまった自分をみいだし、驚いた経験が鮮やかに浮んでくる。
 内陣の厨子を中心に遶道(にょうどう)する動きをみているうちに、わたくしは、インドの仏蹟遺構の幾つかを想像し始めた。拝観していた当時、わたくしにとってまだインドは書物を通じての憧憬の世界であって、具体的ではなかった。それでもこの行法を眺めながら、サンチーのストゥーパ基部に欄楯(らんじゅん)を設けて右行遶道(うぎょうにょうどう)するその行動に、単なる釈迦ゴータマの遺身(サリーラ)崇拝から脱して、超人覚者(ブッダ)であるゴータマに懺悔してゆくうちに、その行法者がだんだん清浄な身体となり、やがて現世的な利益や幸福を得ることができるという思想が生れ、その行法に希望がたくされていたように転化していっただろうことは、納得がいっていたのであった。
 こうして書き進んでいるうち、二月堂内陣の夜半の闇と燭火の世界と、暑熱を浴びせかける陽光のもとで輝く石造のサンチーストゥーパを観た世界が、あまりにかけ離れていて、右行遶道(うぎょうにょうどう)行法と二月堂悔悔過修法との一致はあり得ないように思われてくる。むしろ、こうした状況と観念は、大乗仏教となってからのインドデカン高原の石窟寺院、アジャンター石窟やエローラ石窟といった、摩崖を切り開いて造った洞窟寺院内陣がふさわしいように思えてくる。僧侶たちの住む学校であり宿舎でもあった僧院窟(ヴィハーラ)と、内陣にストゥーパを安置し祀る行法の場である塔院窟(チャイトヤ)からなる仏教石窟寺院で、もし二月堂悔過法要のような行法がなされるとすれば、ストゥーパを巡らす列柱によって醸しだされる塔院窟(チャイトヤ)こそ適わしい。暗黒のなかに局限された場所を造り、ほのかな人工光線のゆらめくなかでストゥーパの周囲を遶道(にょうどう)し、読誦を行う。しかも、ストゥーパには仏、菩薩の半浮彫り像が彫出され、ゴータマの遺身崇拝というより、その像を対象とする悔過が行われたのではなかろうか、との連想を誘う。アジャンター石窟の第九、一〇、一二、二六窟の塔院は大きく天井も高い。二月堂内陣の簡素な建築装飾にくらべて、列柱にも長押(なげし)にも装飾文様が氾濫し、外廊壁面を飾るグプタ朝絵画の豪華さ賑やかさもかけはなれているかに見える。けれど浄土的な道具立てはアジャンター石窟はととのっている。デカン高原の石窟寺院が、いずれも山中の渓谷にあり、摩崖に噴き出す清水や、渓流の清浄な水に恵まれている点、僧侶の集団生活にとって不可欠な立地条件ともみられるが、摩崖内陣奥深くにこうしたストゥーパを構成し、人工光線のほのかな光りのなかで行法を執行する点と水の問題が興味をそそる。
 練行衆の五体投地の響きは外陣にきびしい雰囲気を造りだし、退屈しだした拝観者の心を揺り動かし、睡たげな眸に輝きを与える。やがて、内陣から外陣に松明が振り舞わされ火焰の舞踊が始まる。木造家屋内でこうした松明が持ち運ばれること自体、石窟の冷やかな雰囲気と構造の日本的展開様相の一つと思われる。火焰が時折り長押を舐め廻すかとばかり建物部分に近づけられ、思わず肝も冷やすと同時に、拝観者から嘆声の入り混った吐息が洩れる。わたくしは、火に関する宗教儀礼民間信仰の種々相をここでも、長々と語りたい衝動に駆られるが、また他に譲ろう。
 悔過修法の掉尾を飾るお水取りの儀式は、外陣から屋外、階段を下りて若狭井まで行列の後についてゆかなくてはならない。人びとは立ち上り、屋外で歓声と足音が夜半過ぎの痛いほどの空気を揺さぶる。若狭井が、御蓋山(みかさやま)中腹の泉水脈の一つといってしまえば、それまでだが、この行事の水に関する民間信仰と、観音菩薩が沙漠帯社会で信仰されていた水の女神アナーヒタのインドでの習合と考えると、この行事はなかなか意味深長である。十一面観音悔過に若狭井の霊水が捧献されるのは、観音菩薩のインドでの出自を考えないわけにいかぬであろう。
 かつて、わたくしは、この二月堂悔過法要の創設者実忠和尚を、新羅系法相の流れをくむ朝鮮系僧侶と推定したことがあった。新羅が航海術に長じて山東半島を根拠地に、南海貿易に活躍して南伝系仏教の流入に大きな役割りを果したが、新羅にインドのアジャンター石窟や、エローラ石窟を具体的に模倣した遺構のない今、にわかに実忠を媒介として結びつけるわけにはゆかない。中国大同石窟にも遶道(にょうどう)のできる塔院窟の名残りもある。北魏を通しての北伝大乗仏教でも説明できはする。しかし、十一面悔過には何処か南伝の嗅いがある。そして練行衆の真率な行法への投入振りをみていると、国家も帝王も、民衆をも越えた自らの悔過懺悔の姿を、そして、小乗系仏教教団の僧侶の姿をすらわたくしは髣髴としたのであった。
 
 
 
お水取り 坂東三津五郎(※たぶん八代目)/p166
 
 お水取り、という行事は、天平勝宝四年から始まった、千二百年続いている行事で、若狭の国小浜から、千二百年前水を送る約束によって、その水を閼加井屋(あかいや)の中で真暗な井戸から、香水用の水を汲む、その行事をお水取りと言うと、なにも私が書かなくても、歳事記を見ればわかりやすく書いてあるし、
 水取りや こもりの僧の 沓の音
 芭蕉の句はお水取を拝観すれば、名句だということが、すぐわかる。
 お水取りは三月十二日の夜、正しくは十三日の午前二時頃に行われる。
 私は三年続けて拝観した。といっても、もう古い事で、初めての時は、今の築地の金田中の若いおかみさんが、まだ十七才位で、奈良の月日亭の娘さんであった頃、私の娘と仲良しだったので案内してくれた。
 練行衆のお籠している、籠り屋へ伺った時、練行衆が「みよちゃん、今日は中へ這入ったら、あかん、外に待っててあげなさい」と言われたのを覚えている。
 ここにいる練行衆の生活が面白い、紙衣(かみこ)を着て、不思議な美しさを持つ懸け行燈を掛け、紙で作った状差しのようなものから、芝居で旅行者が着るテシマがここでは重要な役目をしている。薦(こも、むしろ)で作った敷物だ。
 二月の二十日から三月の十五日までは、女人禁制で、不浄を断って合宿して、毎日行をする。しかしこのお籠りしている所の拝観は、特別の人でなければ、無暗みに来られたら大変困られるだろう。毎夜七時頃、大松明(青竹の三間の長サ)を燃やし二月堂に上って行く、それからいろいろむずかしい行法が行われる。
 青衣の女人、で有名な過去帳を読むのは、五日と十二日の初夜である。
 走の行法と呼ばれる行で、タタタタと走って来て五体投地つまり体を床にたたきつけるのがある。これを拝観している時、お堂の外から、女人の声で、
 「俊ちゃん(私の実名)あんた中にいられていいわね、外は寒いし、暗いし、本当に裏山しいわ」
 とやられて冷汗をかいた。女人は吾妻徳穂女史であった。夜明しで寒いし、暗いし、女性はお松明とお水取りの行列だけ見ることにした方がよい
 お堂の中に居ても説明があるではなし、お燈明の明りだけが照明だから、余程前もって勉強してゆかぬことにはなんにもわからない。
 私も三度拝観しているし、大和上、練行衆、堂童子なぞにお知り合が多いが、まだはっきりした印象はつかめていない。ただ一度お水取りの行列がお堂から下りて来る時、雪がさんさんと降って来た。私は石段の下から一寸五六段上った所に立っていたが、私の三段屋上に中村貞以さんが黒いマントを着て立っている。そのマントに雪がさんさんと降っている。上から大松明を堂童子が持って下りてくる、つづいて練行衆が法螺貝の音とともに静々と下りてくる。本当に絵のような景色で、去年芸術院賞授賞の折、中村貞以さんと御一緒だった。これも奇縁であったが、その話をしてしまうのが私にはなんだか惜しかった。
 それより私はお水取りの水桶の枠と天秤棒が見たかった。それはまぎれもない根来(ねごろ)なのだ。東大寺のお水取りの用具は根来の宝庫である。今日我々の家庭で使っている二月堂会卓という机こそ、お水取りの食堂の作法で使用する。それの写しを大正初期に作らせたのが、すっかり一般化したものだし、あの有名な日の丸盆も裏に、「二月常練行衆盤二六枚之内永仁六年十月日漆工選仏」と銘がある。東大寺にも裏に大導師と記されたもの、ほかに番号の書かれたものが十余枚残って居るそうである。いま世の中に出ているのも十一枚位あるのではないだろうか、写し物にもちゃんと銘が書いてある。私も写しを持って居る。本物も二度ほど見た。
 応量器も食堂で飯を盛り、その真中に杓子を突き立てる。これも根来だ。
 東大寺にある根来室町時代の銘記のあるものばかりのようである。俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)根来寺の関係は想像がつくが、なぜ室町以後の物だけ残ったか、俊乗坊重源の大仏再建の時の調度は残らなかったか、過去帳青衣の女人後白河天皇の御代ごろの人と云っているが、一度、東大寺さんの調度品を調べて貰ったらまだなにか発見があるのではないか。
 東大寺本坊の結解料理(けっけりょうり)、あれも室町らしい。つまり室町からこちらの儀式と調度が多く残った。ということは、それ以前の物は早くにお寺から出てしまったのかもしれない。
 元德式(一三三〇)と書いた油壺も東大寺のもの。
 建武五季(一三三八)の布薩盥(ふさつたらい)は法隆寺、銘記のない根来の調度品は東大寺にいくらもある。お水取りの調度品は我々が見ることが出来ないが、あの天秤棒と水桶の枠も何かに発表してほしいものである。
 仏具を納める、閼加器を乗せる閼加折敷(アカオシキ)、食堂内で用いる木鉢、碗、会器類。
 時香盤(時間を計るため香を焚く盤)、この底には銘記がありはしないか。私は裏が見たい。
 香盤を割るという言葉が生れ、役目をきめる書き物を香盤と言うようになり、歌舞伎の役割を定める書き物を今日でも、香盤と言っている。
 芸妓の玉代(花代)を線香と呼ぶのも、線香一本が立つ時間を、花代いくらときめ、お線香をつけると言う。
 私はお水取りの行事を拝観するごとに、調度類を、明るい所でゆっくり拝見したいと思う。いつもそればかり考えている。お水取りの行事に使用されている、おびただしい数の調度品の中に、新しく作られているものと、何百年つづけて使われているものが、不思議に一体となって調和し、新鮮な美しさを出している。
 お水取りの晩だけでなく、修二会全部をゆっくり拝観することを、おすすめする。
(歌舞伎俳優)
 
 
 
お水取り讃 黛敏郎/p169
 
 お水取りの行法に、はじめて私が接したのは、もう七八年まえのことになるが、そのときの驚きと感激とは、いまも忘れることが出来ない。
 三月十二日の籠松明の晩で、二月堂の長い石段を次々と運び上げられ、堂上から大車輪の如く振り廻される十二本の松明の壮観もさることながら、私を感嘆させたのは、内陣で修される悔過法要のすばらしさだった。
 大仏開眼天平勝宝四年に始まり、以来一年も欠かすことなく今日まで続いているこの行法は、疑いもなく本邦最古のものである。
 二月二十日から始まる試別火から数えれば、三月十五日までの一ヶ月近いあいだ、参加する十一人の練行衆たちは厳しい戒律を守り、三月一日に常燈が点じられてからは、日に六回、日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝と、それぞれ式次第や内容の異った法要を厳修するこの修二会なる行法は、実に大規模にして複雑な構成を持っている。
 内陣の奥、練行衆たちが声明を上げ、お経をよみ、行道し、五体投地をするあたりは、格子窓越しにうかがうほかないので、どんな秘法が行われているのか知る由もないが、いずれにせよ、こんなに神秘的で、ドラマチックで、かつ原始的なエネルギーの横溢した祭典を、私は他に知らない。
 それは、巷間云われているように、文字どおり火と水の祭典だが、私に云わせれば、加うるに音の祭典でもある。
 緩急とりどりの声明はもちろんのこと、内陣せましと響きわたる練行衆たちの沓の音、ホラ貝、鈴、五体投地の板の音・・・・・・すべての音響が渾然一体となって、仏教の持つ初源的、呪術的雰囲気を盛り上げる。これは、いわば信仰と、己を律することの厳しさから生まれて、千二百年以上の歳月にみがき抜かれてきた巧まざる叡智と演出の結晶であり、ドラマ以上のドラマ、芸術以上の芸術であろう。
 文献によると、日本仏教の声明は円仁慈覚大師と、弘法大師とが、相前後して唐から伝えたことになっている。前者は比叡山天台声明として今日に至り、後者は高野山真言声明となって、仏教音楽界の二大潮流を形成している。ところが、お水取りに代表される奈良の声明は、このいずれにも属さぬ別格なのだ。恐らくは、慈覚弘法以前の奈良朝に、大陸渡来の僧や帰化人によって伝えられたものに違いない。それほどに、奈良の声明は、平安朝以降の日本化が施こされていない、まだ大陸文化と日本古来の文化が混然としていた時代――つまり奈良朝の息吹きを、脈々と伝えているのである。
 お水取りの声明のうちで、最もポピュラーな「観音宝号」を見てみよう。頭(とう)と呼ばれるリーダーと、加衆といわれるコーラスのかけ合いに終始するとの声明は、二月堂の本尊である十一面観音の称号をただ唱えるだけのものだが、その音楽的構成は驚くばかりの精緻さだ。
 まず頭が、ゆるやかな詠嘆調で「南無観自在菩薩」と唱うと、加衆が同様に答える。かけ合いが繰り返し進行するうちに、それが「観自在菩薩」になり「自在菩薩」になり、やがてテムポが徐々に速くなって「南無観自在」となり、ついには「南無観、南無観」の繰り返しのうちにクライマックスに到達して終る。このあいだ、拍子のリズムは、字数の増減と共にまるで生き物のように微妙に変化し、極めて、効果的なクレッシェンドとアクチェルランドをもたらす。典型的な序破急の見事な構成であり、これはどの劇的緊張を持った声明は、他に全く見当らない。
 それは、抹香くささの附きまとう仏教という既成概念とは全く無縁の、明るく、逞しく、大らかで、エネルギッシュな、大陸的かつ古代的な世界である。こうした声明に触れると、人は、仏敷そのもののイメージまで、大幅に変改せざるを得ないだろうし、また、その意味からも、私は、奈良声明に、人々が、とくに他宗派の仏教徒が、注目すべきだと考えるのだが・・・・・・。
 お水取りの声明には、他にも、微妙に音程が上っていく興味深い「如来」、メロディックな「散華」、敬虔にして借らかな「観音悔過」、そして独特なヒナびた味わいを持つ「神名帳」や「過去帳」その他、とてもここに挙げきれぬ、おびただしい数があるが、更に附言しなくてはならないのは、その配列の巧みさである。
 静の次には動、緩の次には急と、随所にホラ貝や鈴、そして音音をひびかせた行道や、走りの行法なども加えて、最も長い初夜の二時間にわたる長いステージを、飽かさずに次々と繰りひろげられるさまは、まさに壮絶としか云いようがない。
 お水取りや、薬師寺薬師悔過――これがまたお水取りと双璧をなす奈良声明の一大宝庫なのだが――に代表される奈良時代の遺産は、大陸渡来の文明に始めて接したわが古代人たちの、比類なき叡智と感覚、そして同化力の尊い結晶として、飛鳥、白鳳、天平の仏像仏画とともに、未来永劫に伝えていかねばならないし、同時にまた、それを、現代的観点から再認識し、その強靭なエネルギーを衰弱した現代に注入して起死回生をはかる努力も必須とされよう。
 ともあれ、毎年、私は、二月も末に近づくと、居てもたってもいられなくなる。お水取りが呼んでいる。千二百年来の父祖の声が、魂の叫びが、あの二月堂の内陣から、呼び寄せているような思いに抗しきれなくなるのだ。来年もお水取りに行こう。そして再来年も、その翌年も、またその翌年も・・・・・・。生きているという実感を、このときほど強く感じることは無いのだから。
(音楽家)
 
 
 
修二会の行法と西アジア・原始キリスト教の儀式 マリオ・マレガ/p171

 

 修二会という珍しい行法は、日本中で唯一ヵ所奈良の二月堂で行われるもので、この行法の起源については、次のような伝説がある。そもそもこの儀式は日本で始まったことでなく天国で始まったという天平の昔、実忠和尚という東大寺の僧侶が笠置山で龍の洞窟を渡って天国についたところ、おみずとりのような儀式を見たというのである。そしてこのような式をたてるためには生身の本尊が必要だと教えられた。そこで和尚は浪速の浦で熱心にお祈りしたところ沖からピカピカ光る七寸程の小観音が海を渡って来た。それが人はだのような温かさをもった小観音像だったので、二月堂にまつって修二会の本尊としたということである。

 

 
 二月堂 東大寺が出来上った頃、東大寺や附近の寺々の地図が残っており、そこに良弁は自分の名前を記しているが、東大寺の東側に羂索院(三月堂)と千手観音の堂が描かれているが、二月堂の図がない。春日宮の代りに「神の地」と書いてあり、二月堂の図だけがないのは不思議なことである。
 昔のキリスト教会の聖堂はみな東に向って礼拝する。というのは祭壇が東の端で、礼堂が西の端ということである。奈良のすべての寺は南に向いている。東大寺大仏殿、薬師寺西大寺唐招提寺法隆寺、大阪の四天王寺などみな南大門から北方に建てられている。しかし二月堂だけは礼堂が西にあり、内陣は東側に建てられているのは興味あることである
 
 過去帳 修二会の行われる期間中、毎日の儀式の一つ「六時」と称する勤行の中には主に観音菩薩に対する祈りがあるが、その他に過去帳神名帳の朗読がある。その過去帳の中に青衣の女人の名が記されている。出現した婦人についての説の中には、源頼朝に関係のある女性であったろうとか、或は他の高貴の婦人であったろうと、色々の説がある。私どもにはこの青い衣を着た女性は、聖童貞女マリアを連想させる。
 
 神名帳 神名帳は昔の古いお宮の目録である。その中に秦(はた)の大明神というのが三回となえられる。昔、奏の馬賊ペルシャ(Partia = Pata)から日本に来たこと佐伯好郎教授の説である。東大寺の大仏が出来あがった時、支那から中臣名代(なかとみのなしろ)が十九人の外国人を連れて渡ってきた。その中に三人の波斯(ぺるしゃ)人がいたのである。
 
 神道的行事 三月一日の暮方に咒師(悪魔をう僧)が中臣大祓(なかとみおおはらい)を唱え、最後の日には咒師が二月堂の東南にある飯道(いいみち)の詞で豊年祈願を行う。この祈願には色々の異なった穀物の種をささげて祈願する。キリスト教の国では春の満月の後、即ち復活祭後に全ての穀物がよく実るように大祈願祭が行われる。その折には諸聖人の連祷といって修二会の神名帳と似たことが行われる。
 
 六時 十一人の練行衆は毎日二十四時間の内に六回(日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝(じんじょう))、参籠所から祈願のため二月堂に上って行く。これは「六時」と称する。しかし昼の十二時にも食堂に集まって約一時間近くの祈りを唱えて十五分位の食事をすませる。この時も生ける人々と死せる人々のためにお祈りするのである。つまり六時(六回の祈)だけでなく七回の式があるといってよい。
 キリスト教の神父たちも昔から毎日、ダビドの詩篇を教会や修道院などで、一堂に七回集まって唱える。「日没」の集まりをキリスト教では日暮と称える。修道院の夜の第一のつとめは「初夜」にあたる。第二の夜のつとめは「半夜」にあたり、夜の第三のつとめは「後夜」にあたる。修道院の人々は今でも夜三回起床して、礼拝堂に集まり、一緒に夜のつとめの祈りをする。朝早くの分は朝課といい「晨朝」にあたる。昼の部を讃歌といい「日中」にあたる。修二会で祈りの行をこのように分けてあることも珍しいことである。ヨーロッパでは神父たちが詩篇を唱えることを「時の行」と称している。
 
 別火 イエズ・キリストが春の最初の満月の金曜日に殺され、次の日曜日に墓の中から復活したことを記念するために、毎年その復活祭に適当な準備をするために三週間断食を続けることがあった(三世紀頃)。この断食は一日一回だけ食べるが、肉類、玉子、牛乳を遠慮する。
 修二会の三週間の僧侶たちの別火と、三世紀頃のキリスト教信者の断食とよく似たところがある。無論、現代のキリスト教にはこんなに厳しい規則は廃止された。
 
 小観音 三月七日に行われる小観音の儀式と同様な式が、東西西洋のキリスト教会にある。すべての教会の主な祭壇の上には二月堂内陣の須弥壇の上にある厨子と同じように、キリスト教でも聖櫃があり、その中にパンのかたちの下に生けるキリストが在わす。即ち復活祭前の木曜日に、当日のミサ聖祭が終った後、そのミサを行った導師が、祭の聖櫃にある御聖体(生きたキリスト)を礼堂の左側(主祭壇の左側)の小さな祭壇に運ぶ、そこには沢山の蝋燭、花をもって飾り、神父たち信者一同はそこの御聖体を礼拝する。
 この式は二月堂で小観音の厨子を礼堂(外陣)の左側に運んで礼拝するのと同じである。また二月堂では厨子の中に七寸位の小観音がおわし、それは暖かな体をもって生きていられる。
 
 十一面観音 この観音菩薩という名は、セイロン島の小乗仏教一切経にはでていないが、西暦三四百年頃から大乗仏教の書物に見られる。この哲学の神が全知全能であることを現すために、昔の人がそれをアヴァロ・キテスヴァラ(かんのん)と呼んだ。
 斯様なアイデアを現すために、仏像に沢山の手をつけたり、いろんな表情の顔をつけたりしたのは、神が人の善行に対して喜び、悪行に対し反対し怒り、改心しないと地獄の罰を与えるということなどを示すためである。
 二月堂での祈りの中に十一面観音菩薩の顔についての説明がある。一つのアイデアを示すため、物質的なものを使うことは、聖書の中にもその例がある。例えば、旧約聖書の中に、神の全能の代りに、神の腕が罪人を減すとか、神の角が敵をおさえるとか・・・・・。しかし神は霊であるから腕や角など実際にはない。ただ一般人にわかるよりに腕とか角とか書いている。十一面とか千手とかの言葉も同じである。
 
 涅盤講 カトリック教会では、キリストである本尊(聖体)を主な祭壇から小観音のように向って左側に移し、主祭壇に神は不在である。またそれぞれの祭壇から花瓶、花、蝋燭、祭壇の掛布などまで取除き、そのままの状態を翌日の夜まで続ける。これは修二会の涅槃講によく似ている。
 復活祭前の金曜日にはすべての教会でキリストの涅槃講が行われる。即ちキリストが我等のために十字架上で殺されたことである。
 この儀式の時は、花も蠟燭も使わないで、導師と他の司祭がみな白色の長い衣だけを着て本尊のない祭壇の上に「五体投地」を行う。
 
 一徳火 修二会では三月一日の朝三時半頃から「一徳火」の行がある。童子は礼堂のすべての灯が消された後に、火打石をもって新しい火をつくり、つけ木によって常灯に火をともす。この常灯は大きな鉢に油を一杯満たしたもので、長さ二米の燈心の束が戻してあり、それに火がつくので、周囲まで大変明るくなる。次に堂司という僧侶がその燃える常灯を内陣の中の祭壇の西側(礼堂に向って)におく、この時からすべての祭壇の灯、その他廊下などの灯は皆この常灯の火からとられる。現在キリスト教では、火打石で火を起すのは復活祭前日の土曜日の午後十一時から十二時頃のことである。教会の門の前の地面で、消炭のようなものや木屑などをおき、火打石で火をつくる儀式である。現在どこの教会でも油の灯の代りに、二米または三米位の高い蝋燭に火をつける。その蠟燭をイースター(復活祭)の蠟燭と称し、復活したキリストのシンボルとしている。
 
 お水取り 三月十二日に若狭井から二月堂まで水を運ぶ儀式があるが、ヨーロッパにもアジヤにも、復活祭前の土曜日(籠松明)復活のキリストの蠟燭の式がすんだ後、外から厳かに水を教会に運ぶ儀式がある。その水を内陣にある大きなたらいの中にいれ、大導師がその水の上に色々の祈りを唱え、その中にオリーヴの油と香をまく、その水を行列をもって洗礼堂に運ぶ。残った水は、すべての信者に分ける習慣があり、その水のことを聖水という。
 以上は毎年(昭和三十六年より)修二会を拝観してきた私の所見の一部であるが、今年、私と一緒に修二会を拝観した一外人は、この行法に見られる熱心な勤行を我らの信仰の模範としたいと賛辞を送った。
 
 走行 エルザレムではシリア、レバノンなどの東洋キリスト教の司祭達は復活祭の前日に「走行」を行う。聖福音に、弟子のヨハネとペトロが市内からキリストの墓まで走ったと記されているのを記念して行われている。その時の声明と音楽は日本の歌と音楽に似ている。
(神学博士)
 
 
 
私のお水取り拝観記 渡辺武/p174
 
 入江泰吉さんの写真と杉本健吉画伯の墨絵の「お水取り絵巻」とに魅せられて、修二会行事の拝観は、永い間の夢であったが、実際に深夜の行を、始めて拝見する機会を得たのは、十年ばかり前のことであった。今京都の国立近代美術館におられる乾由明さんをさそって、深更まで拝観し、二月堂から程近い観音院にお泊めいただいた。若狭井からお香水を汲むクライマックスの行事の混雑をさけて、十三日か最終日の十四日だったと記憶する。この日は水取りの十二日と同様に達陀行法が拝観できる。
 お香水や籠松明の炭の信仰や遠陀の帽子を小児の頭にのせて無病息災を願う風習、漢薬牛黄や食堂での旧いしきたりによった食生活、入浴それにおこもり中の救急薬上七日薬、下七日薬など、お水取りの保健衛生に関する行事は、職業柄とくに興味が持たれた。
 お水取り行法中の八・九・十日の三日間は牛玉(ゴオウ)日といって、お守をつくる日である。香水と牛玉墨とによる墨汁で、総別火坊で準備され、牛玉箱に入れて、内陣に納められた牛玉・陀羅尼を、一枚一枚練行僧が祈念して、丁寧に手摺りの護符がつくられる。満行まで堂内で祈念されたこのお守は、古くから皇室にも献上されてきたと聞いている。
 牛玉墨には漢薬牛黄が混ぜられていて、この護符を牛玉宝印または牛玉宝命といって、厄除けの護符とされ、熊野権現のものと共に、その由来は有名である。この特殊な符印を押した牛黄紙は、いつの頃からか、請願文や武人の誓詞、起請文などに使われだした。二月堂修二会練行衆の起請文にも、裏面に牛黄宝印のある牛質紙がのこっていて、除疫病や願満行などの文字があり、その間の消息を物語っている。牛黄は仏の異名、宝印は重宝な符印の意と解され、誓詞に万一違反することがあると、神仏の罰によって死ぬものと信じられていたのである。
 牛黄宝印を略して牛印(ゴウイン)となり、漢薬牛黄の別名となった。牛黄が解熱・鎮痙・強心・解毒の効や赤血球の産生促進作用、免疫原としての作用があるとされていることから考えると、民間で難病、急病の際に牛黄紙の護符を、水に溶して服用することも、まんざら由ないことではない
 そのころの二月下旬の寒い日、お水取り行事の四職(大導師・和上・堂司・呪師)の一つ大導師職につかれた上司海雲さんから、至急便を受取った。別火入りしてから、折からの寒波で、感冒扁桃腺炎にかかられたというので、日暮れの戒壇院の別火坊に、お見舞いにでかけた。別火入りしてからは、斎戒沐浴精進の身で、俗界不浄の手を触れられないので、平常通りに主治医の診察を受けられない。漢方薬なら注射したり、聴診器を使ったり、休診、腹診などで不浄の手にふれなくとも、望診や問診だけで、投薬ができるだろうからと云うことであった。
 そのとき張壁に掛けられた守本尊・観音経・阿弥陀経・各種の念珠・襷(たすき)袈裟・美しい絵が描いてある紙手(こうで)などの間に、上七日薬上七日滓と墨書した袋が二つ釘にかけてあるのが目に止った。これは明治以前は、宮中からお水取り中の救急薬として下賜され、発病したとき服用されたもので、使用済みの煎じ滓も勿体ないので、滓入れの袋に移したものと聞いた。
 今は形式的にこれまでの伝統通りに、空の薬袋と煎じ滓入れの袋とどをお水取り行事中部屋に吊って、一週間たつと裏がえし、下七日薬・下七日滓と墨書した方を表にして、後半に入ったことを示すだけの役目を果すものとなっている

 

 寒い早春の連日の荒行では、そして発病しても医師の手にかかれないという危険にさらされているのでは、この救急薬は何としても復活する必要がある。十余名の練行衆が前後一ヶ月足らずの期間にそなえての薬なら、微力な私個人でも用立て寄進できる数量である。その後東大寺にのこるお水取りの古文書を調べていただいて、お水取りのお薬の処方を探すことになった。
 大導師覚悟記などの筆写本に、二月堂宿所の薬(薬師院調合)と円空上人の方などがあって、その処方を見ると、文字通り昼夜をわかたない苦行に備えた薬方だけあって、痰飲を除き、咽喉を保護し、消化を助け、胃腸を護り、大小便を利し、血行を盛んにし、身体を暖め、寒さに耐えることが期待できるものであるが、これだけの資料では、上七日薬・下七日薬の別も判らないし、使用に不便であり、救急薬としては、なお不備である
 光明皇太后孝謙天皇天平の昔、東大寺の大仏さまに奉献された数々の漢薬と漢方薬は、献物帳に誌されたその御遺志によって、その後百年間東大寺正倉から出庫して実用に供されている。今日でもその大半が正倉院宝庫に尊蔵され、当時の薬物の姿を識ることができるが、おそらく修二会の当初には、お水取りのお薬にもそれが使われたものと考えられる。そして正倉院薬物の応用の基準になったのは、その中にみられる紫雪金石陵などの製剤の出典である唐の薬方書、備急千金要方千金翼方それに外台秘要方などであったことも明らかである。東大寺正倉に納められた麝香・熊胆・真珠・人参・沈香・辰砂それに牛玉宝日に使われる牛黄、こうした貴薬から構成される救急薬で新しい修二会のお薬をつくれば、一番お水取りにふさわしい有効なものになると思いついた。千金・外台の唐の漢方書にこれを求めると、今日の六神丸・奇応丸などの原処方である麝香牛黄円があり、強心・強肝・健胃・整腸・鎮静・鎮痛・解毒の著効がある。しかも速効性の救急薬である。以来この麝香牛黄円の調進は、早春のわが草古堂薬室の年中行事となり、修二会に寄進した残りは、近親の護身薬に当てられることになった。
 別火坊や本行中のきびしい食生活にも、古い昔のしきたりが遺されていて、開心が持たれる。食堂の作法は昼間の行事で、食堂入りまでの昼前の時間には、宿所で練行衆の人達と談話が許されるので、お見舞いをかねてたびたび拝見した。
 古い記録はないが、大正七年院士日記、昭和十一年修二会別火坊日記、昭和廿七年閏二月修二会別火坊日記などで献立表を見せていただくことができた。院士は院司の下僕と云われ、今日は童子の宿老の者から選ばれ、試別火の二月廿日から三月十五日までの食事の菜を調え、小綱の監督のもとに、日々の材料を調達する役柄で、お水坂りの裏方の一人である。
 一汁一菜で一週間分の粗末な精進の献立で、後半は繰返し同じ献立で進められている。
 
 私がつばきをかじり始めてからは、お水取りに椿花があることを知ったときの感敵は大きかった。観音に供養する生花として、南天の造花と一緒に椿の造花が大小の生木のつばきの枝に挿して飾られた、修二会中の本堂の景観は、印象深いものである。それは、かって正倉院宝庫で孝謙天皇が正月の厄除けの行事に使用された、卯日棒杖を拝見した時の感動と同様な、天平の椿の発見のよろこびであった。
 以来この椿花のためにも、お水取り拝観は、欠かせない私の早春の年中行事となった。
 お水取りの椿は二月堂椿とも、御堂椿とも呼ばれている。それは行法前別火坊で、特定の花ごしらえの日――例年二月二十三日――に、紅白の和紙で花びらを、黄色の和紙でおしべをかたどって作られる清楚な造花で、大きな三つの桶に一ばい、およそ三百輪あまりも咲いた豪華さは、薄暗い別火功に文字通りばっと花咲いた華かさを加える。この椿の造花は総別火に入ってから、緑濃い生木の椿の枝につけられ、三月一日からの行中、観音に献花される。椿は早春の花木、歳寒の三友松竹梅と同類のもので、春を告げ、春を迎える花である。関西ではお水取りがすまないと春が来ない、この行事は春を迎える行事だと信じられている。それに迎春の椿がもっとも効果的に使われていることは由あることである。
 その花型は一重の五弁で、一弁ずつ紅白に咲きわけるもので、現存のつばきの品種では、このような咲き方をする椿花は見当らないので、それはつばきの花を暗い燈火の堂内で最も効果的に見せるための創作品と考えていた。
 ところが先年伊予の椿探訪のとき、松山の旧家で狩野永徳筆と伝えられる六曲一双の椿絵屏風の古椿花図を観る機会を得たとき、その中にこのお水取りの椿花そのままの花形・花色の椿絵を発見した。金屏風に一面五枚の椿絵色紙を貼りまぜて、都合六十種の椿花が椿銘をそえて描かれていて、園芸学上にも参考になる貴重な美術資料であった。

 

 それには、これより下った江戸時代の園芸書の百椿集や地錦抄に見られる品種以外にも、数多の稀品種が金銀極彩色で図示されている。二月堂椿は、銘もその花にふさわしい「一枚かはり」と記されていた。
 お水取りのこの花づくりが、他の多彩な行事と同様に天平時代から引続き伝えられたものとすれば、「一枚かはり」は奈良時代に作出された、世界中で一番古い椿の新花ということになる。また桃山から江戸初期のすぐれた園芸家が、二月堂椿のすばらしい造形にヒントを得て、作出した新品種とも考えられる。
 日本のどこかにこの「一枚かはり」が遣っていないだろうか。私の興味はそんな方面にも飛んで行くのである。
 修二会中のある日、入江泰吉さんと宿所に堂司の北河原さんらをお見舞いに寄ったら、思いがけずこの御堂椿の格調高い生菓子がつばきの緑の薬を添えて、お薄の接待にすすめられた。それは北河原さんの考案でお水取り中の菓子として、奈良の菓子匠につくらせたものと聞いた。鶴屋八幡の椿の菓子に玉椿と千代八千代というのがある。この千代八千代は紅い花弁と鶏卵で黄色のしべを形どったものであるが、お水取りには厳格な精進で、鶏卵入りの菓子も禁制だから、北河原さんの御堂椿には、勿論卵は入っていない。
 
 
 
 
あとがき ―お水取り余情― 入江泰吉/p179

 

 三月に入ると、夜更けの住居に、鐘の音がかすかに聞こえてくる。二月堂で始まったお水取りの、夜半の勤行を告げる内陣の、鐘の音である。
 昭和二十年、奈良に帰ってのち、東大寺旧境内町に住むようになって、毎年耳にする鐘の音であるが、そのひびきに誘われるかのように、お水取りには、十余年間を欠かさず参籠してきた。
 二月堂については、子供のころの思い出にも連らなる。
 母が、二月堂の観音さんを信仰していた。私は、朔日の月詣りの日のくるのを待ちかまえていて、母のあとについて行った。礼堂に籠って一心不乱に読経する母のそばに、神妙に控えていた。
 私には、本堂の北側にある、うどんや、おでんなどを商うお茶所に、その目的があったのである。
 お水取りの行法中にもついて行ったことがある。局のなかは昼でも真っ暗で、寒さもきびしいうえに、行法もまた、子供心に、退屈きわまりないものだったが、それでも我慢していた。
 そのうちに、声高らかに唱和される観音宝号の”南無觀自在菩薩”を耳にして、その緩急軽妙なリズムに、すっかり愉快になり、一生懸命に習い覚えた。
 或る日、家のなかで、大声をはりあげながら弟と二人して”ナムカン ナムカァンジイザイボーサー ジーザイボーサー”と、得意になって真似ているうちに、絵を描いていた兄に、ひどく叱られたことも思い出される。また、初夜の上堂松明の振りかざされる本堂舞台廊の下に悪友たちと待ちかまえていて、舞い落ちる燃え残りの木ぎれを奪いあい、騒ぎまわったこともあった。
 二月堂には、そのような他愛もないが、少年時代のなつかしい思い出に連らなることにもよるが、終戦後、再びお水取り行法を拝観してみて、そのドラマチックな荘厳美に強く心ひかれ、十余年間を、欠かさず参籠するに至ったのである。
 行法に仕える仲間や童子たちは、私を古練扱いにしてくれるが、しかし、この行法についての深い意義はいうまでもなく、そのスケジュールにおいても全貌をいまだに知り得ないありさまである。
 それほど大寺にふさわしい大きなスケールと、複雑多彩な形式をそなえる行法なのである。
 また、行法の創始された天平勝宝四年以来、今日に至るまでの千二百十余年の永きにわたって、一回として絶えることなく、法灯は護られてきた、といわれる。
 戦争も末期の昭和二十年といえば、国内もまた緊迫した情勢に追いつめられた時代であるが、その年にも行法は欠かさず勤修されたそうである。
 その年の行法も、ようやく演行の日に当る三月十四日、奇しくも大阪が大空襲にみまわれ、私たち家族も罹災した日である。
 後日、練行衆のかたがたから聞いた話であるが、その夜も、B29の烈しい爆音が引っきりなくとどろくなかで、秘かに行法は続けられ、いよいよ最後の晨朝の勤めを終え、お堂を出ると、夜半の生駒山の空一団が、真っ赤に燃えるすさまじい光景が、映ったそうである。
 お水取り行法は、春とはいえ、まだまだ余寒のきびしい三月一日から十四日間にわたり、十一面悔過去を中心にして、連日、六時の行法といわれる日中·日没・初夜、半夜・後夜・晨朝の六回に分けられた、それぞれ異った行法を、厳しい戒律のもとに修められる。
 その行法の舞台となる二月堂の北正面の石段下、細殿をはさんで、南に食堂、北に籠りの僧の宿所がある。いずれも鎌倉時代の建築である。その宿所の四部屋に分れた各部屋へは、食堂作法の始まるまでの午前中に限り、俗人――女人禁制であるが――の入室を許され、茶菓を接待される。
 部屋の奥の、中央の太い丸柱に、松明に使われる青竹の根で作られた花活けが懸り、活けられた梅や、藤などの季節の花が、その下の懸行灯の明りに、ほのかに映えている。
 諸僧のうしろの腰長押には、仙花紙を二つ折りにした紙手(こうで)とよばれる状差しが、貼られている。その紙手には、有縁の画家たちの手になる絵が描かれていて、なかには杉本健吉さんや、須田剋太さんの絵もみられる。
 その絵と、花活けの花に、法具や袈裟ばかりの、冷ややかな部屋の空気が、やわらげられている。
 日夜きびしい戒律のもとに、練行にはげまれる諸衆のどことなく近よりがたい容貌も、この部屋では、なごやかそうに映る。この宿所でいただく薄茶の味は、格別のものである。
 やがて、正午まえになると、「お茶はいかが」と加供奉行が各部屋にふれ廻るのを合図にして練行衆は、食堂に入られる。
 大導師と堂司とが、交互に行われる祈願が三十分余り続いてのち、食事になるが、これにも珍らしい作法をみられる。
 堂内周に配された十一の食卓、その机、盆、大鉢、椀はすべて根来(ねごろ)塗りで揃えられている。大鉢には一升の量の飯が盛りあげられ、その頂きに杓子が垂直にさされている。
 うす暗い、がらんとした堂内にならぶ食器の、漆の鮮やかな黒と失の色と、諸衆の食堂袈裟の渋い紺の色とが、よく調和して、絵画的な、実に美しい情景である。
 食堂作法が終ると、舞台は本堂に移され、いよいよ六時の行法の序幕が開かれる。
 真っ暗な堂内の内陣正面を閉ざす白麻の大戸帳が、常灯の明りに、うすいオレンジ色に染められている。
 その戸帳の奥から、低いが力のこもった声明の声が、ろうろうと流れてくる。
 お水取り行法の声明のいずれのリズムも、一般的な読経のリズムとは異り、厳そかなうちにも、流麗というか、軽妙というか、いずれにしても抑揚に富み、独得の音楽的な美しさを満えられている。
 声明の合いまに、さまざまな鈍い音色をもった鈴や、ほら貝の伴奏の入る場合もある。
 声明が止んで、静まり返った内陣に突如として、烈しい音がおこり、騒然となる。
 芭蕉の詠んだ”水取りや こもりの僧の 沓の音”の――差懸(さしかけ)ともいわれる――その行道の沓の音である。
 がたッ、がたッと一定のテンボをもちながら床を踏みならされるその沓の音は、広い境内の隅ずみにまで、ひびきわたる。この籠りの僧の沓の音にも印象的な独得のひびきがある。
 また、その沓の音をひびかせながら行道する諸衆の、戸帳に映る影法師が、ゆらゆらと揺れ動いてゆく情景をみていると、夢幻の世界へ引きこまれてゆくようで、恍惚とする。
 さきにも触れた。”南無観自在菩薩”の宝号の声明にも、特徴的なリズムをあらわされている。
 独唱から合唱へと、繰り返し唱えられるその緩急軽妙なリズム、そのリズムに伴い、念珠を操りつつ、手を高くさし上げては下ろす礼拝の烈しい動きのリズム。身も心も一切をあげて詠われる観音賛歌、そのリズムのうちに、法悦の境地の生き生きとしたあらわれを感じられる。
 まだまだ外にも珍らしい行法のかずかずを、十四日間連日勤修されるが、別に特定の日に限って行われる行法も、多く織りこまれている。そのなかでも特に珍らしい、まぼろしの女性”青衣の女人”の登場するドラマチックな”過去帳の読みあげ”、その”青衣の女人”々をモデルにした絵画や、戯曲、或いは能などもみられる。
 また、異彩を放つ走りの行法、諸衆が一様に袈裟を巻きあげ、腕を組み、足袋はだしになって、速歩から駆足へ、次第にスピードを増しながら内陣を、ぐるぐると駆け廻るのである。
 天上界の一日は、下界の四百年に当り、その時差を縮めようとて、ひたすら走り続けるという、苦行ではあるが、珍らしくもユーモラスな感じをうける行法である。けれども、内陣を駆け廻りながら順次礼堂に出て行われる五体投地――全身を地に投げ罪障を懺悔する――その瞬間のひびきに、身の引き緊まる思いがする。
 行法もいよいよクライマックスに達する十二日、初夜の鐘の音を合図に上堂、諸衆に従ってあがる籠松明、径一メートル、重さ八十キ口に及ぶ十一本の炎々と燃えさかる籠松明が、つぎつぎに本堂の舞台廊に運ばれ、振りかざされる。さながら火焰を吐きながら荒れ狂う火竜を彷彿させる、すさまじくも美しい景観である。
 次に、後夜に入って、お水取りと俗によばれる十四日間の行法の象徴的な行法いわゆるお水取りを行われる。
 続いて達陀の行法が始まる。
 この達陀の行法こそ、十四日間の行法中の圧巻といえるだろう。
  「帳上げッ」咒師(しゅし)の命令に従い堂童子は、内陣を区切る大戸帳を、鮮やかな手さばきで、素早く巻き上げられる。
 うす暗い内陣には香煙が漂い、須弥壇に奉安された本尊厨子や荘厳の金具、香花の椿の造花などが、常灯の明りに、かすかに輝いて、こうごうしい限りである。そして、静かである。
 練行諸衆の気配さえ感じられない静けさである。息づまるような静けさが続くうちに、忽然中央に音もなく躍りでた水天。袈裟を身に巻きつけ、金欄の達陀帽をかむった異様なすがたの、その水天が、さッと飛び上りざま礼堂に向って香水を撒くとともに、消え去る。
 その水天が消え去った、とみるまに替って火天が現われ、同じ動作で炭火を撒く。さらに続いて粶(はぜ)を撒き、楊子を投げ、大刀を振り、錫杖を鳴らし、金剛鈴を鳴らし、最後にほら貝を吹いて消え去る八天の行法は、まるで妖怪の魔術をみせられたようである。
 八天が消え去って、内陣は、もとの静けさに戻る。
 しばらくして、内陣の奥に、紅蓮の焔があがる。やがて、その紅蓮の焔の達陀松明は、堂司の手によって、正面に引きだされる。
 灑水器(しゃすいき)と散杖とを手にした水天もあらわれる。
 ほら貝、金剛鈴、錫杖の吹き鳴らされる騒がしい断続音のリズムに合せ、松明は、礼堂に突き出され、引き込められること数回にして、内陣を引き廻され、また、正面に戻って、同じ動作を繰り返し行われる。
 煩悩の穢れを焼き尽さんとして、いよいよ火勢はつのり、内陣は焔の海と化し、まさに、火の祭典のクライマックスに達する。
 そのような荒々しい動作を十回近く繰り返されてのち、燃えさかる松明を、礼堂めがけて投げだされるのである。
 さらに、その松明は、内陣正面に戻され、焰を上にして垂直に立て、三回にわたって床を烈しく突かれる。突かれるたびに、火の粉は松明を支える二人の練行衆の全身に、容赦なく散りかかる。
 実に凄絶な、これが、達陀の行法のラスト・シーンとなる。
 この達陀の行法をもって、十二日の日のすべての行法は終る。
 間もなく練行衆の下堂である。
 初夜上堂のはなやかさにくらべ、下堂はひそやかである。小さな平松明とともに、列をなして、小走りに石段を駆け下りてゆかれる下堂風景には、行法とは違った情趣がある。
 宿所にくつろがれるこの夜の諸衆の表情には、さすがに疲れの色も濃いが、一面、クライマックスの大役を果された安堵の色も、うかがわれる。
 昨年の、この夜のことである。和上部屋で”ごぼう”や”げちや”の接待をうけた。
 ”ごぼう”というのは、粥の汁、”げちゃ”はそのみのほうである。撮影に疲れ、寒さに冷えきった身に、暖い”ごぼう”の味はうまく、なによりのご馳走であった。
 宿所を出ると、すでに夜はしらじらと明けはじめていた。大仏殿の辺りまで下ってくると、うす暗い社のなかの、淡雪ともみえる馬酔木(あしび)の白い花が、目についた。
 ――瀬々のぬるみ――の言触れのようであった。
 
 お水取り行法は、荘厳神秘な音楽的、劇的効果で展開される火と水の大祭とも、いえるだろう。
 それだけに興味深いものであるが、しかし、形式・内容ともに、非常に複雑をきわめ、その全貌を把えることは、容易でない。
 
 この作品集を認めるに至ったのも、東大寺橋本聖準管長はじめ、一山をあげ、特別のご支援と、ご便宜を与えて頂いたたまものに外ならない。
 ことに、永年行法の堂司を務められた狭川宗玄筒井寛秀両師には、いろいろと行法に関するご教示を、また、無理な願いを許して下さった。
 それに、橋本聖準師、安藤更生先生ほか、各界権威の多くの方々のご執筆を得て、私の作品表現の不備の点に対し、いわば画竜点晴して頂いたのであります。
 さらに、この本の企画に当り、非常なご協力を与えて下さった上司海雲師、装幀を快く引き受けて下さった杉本健吉さん、身にあまる推薦の筆をお執りいただいた広津和郎石田茂作両先生。このように多くの善知識のご好意によって出来上ったことを想い、皆さまに、心より感謝の意を表します。
 末筆ながら、この本の出版を引き受けて下さった三彩社藤本韶三氏、ならびに編集にご尽力下さった内藤賛氏に改めてお礼申し上げます。
 昭和四十三年一月
 
 
欧文解説 荻原武 マリオ・マレガ/p1

読んだ。 #生きのびるための建築 #石山修武

読んだ。 #生きのびるための建築 #石山修武
 
>世田谷美術館で開催された『建築がみる夢石山修武と12の物語』(2008年6月28~8月17日)の会期中におこなわれた「石山修武真夏の夜の夢の又夢・連続21講」の第1夜から第12夜を収録し、加筆・修正を加えて再構成したもの
 
石山さんのお話を聞いてる感じで、出てくる建物の写真をネットで探しながら楽しめた。311以降、コロナ以降の話も聞いてみたい。
 
2010年発行。
 
 
 
ブリコラージュ。伴野一六さんが渥美半島につくっていた建物。レヴィ=ストロース
川合健二さんの「コルゲートハウス」。
佐渡宿根木集落の船大工がつくった建物。
 
ホモセクシュアルカップルに依頼されてつくった家。
オウムのサティアン
 
俊乗坊重源の「東大寺南大門」と「浄土寺浄土堂」
コンラッド・ワックスマンの「スペースフレーム
 
ジョセフ・パクストンの「水晶宮(クリスタルパレス)
ノーマン・フォスターの「センズベリー視覚芸術センター」、香港上海銀行・香港本店ビル」、「ウィリス・ファーバー・アンド・デュマ本社
 
リチャード・ロジャーズの「ポンピドゥー・センター」、「ロイズ・オブ・ロンドン本社ビル
 
ル・コルビュジェの「ラ・トゥーレット修道院、「サヴォワ邸」、「ロンシャンの教会」
ヤニス・クセナキスの「フィリップス館」というパビリオン
 
ミース・ファン・デル・ローエの「バルセロナ・パヴィリオン(の地下)」、「ファンズワース邸」、「シーグラムビル」
フィリップ・ジョンソンの「ガラスの家」
 
ルイス・カーンの「ブリティッシュ・アート・ミュージアム」、「ソーク研究所」
 
 
 
 
アポロ13号も情報のベースがあって、後は手仕事でやって地球に帰ってきたということが、僕は非常に重要な事件だったと考えます。
 
伴野さん漁師でしたが、海が埋め立てられて漁ができない状態になりました。だからこの住宅は表現主義的に船に似せています
 
・バックミンスター・フラーのものの考え方は、シェルターをすべて球形にして、その構成単位も、すべてのジョイントも標準化する。要するに、最小物質量で組み立てて最大体積に近づけるということです。
 
原理というものには非常に危険な側面があります。純粋な理論に忠実であろうとすると、生活と軋瞬を起こします。人間はそんなに論理的な生物でも、高等な生物でもないんです。地球の資源やそういうことから考えると、フラーが言うようにぜんぶ丸くすればいいというのは本当です。でも人間は丸い家には住みづらい。我々はこういうものに住めるほどにはまだ進化してない、そういう風に考えたほうがいまは賢いでしょう
 
バウハウス以来のモダンデザインというのは教育の産物です。あれはヨーロッパの内発的なものではありません。
 
・消費社会というのは、一途に生産することより使うことのほうが力を持っている時代なんです。
 
・ヒマラヤへ行くと6000クラスの峠はざらにあります。ここをアジアの子どもたちは裸足で越えていきます。そういうだだっ広い、価値基準の違う可能性がアジアにはある。それを信じたい
 
そしてオウム真理教の人たちは、ビル・ゲイツと同じように、建築に価値をぜんぜん認めていませんでした。「パッケージであればいい」、これが彼らの先見性です。しかもグローバリズとよく似ている。現代建築の突き詰めたものがここに表現されています。何の本質的な価値もないパッケージであるということが価値であるという、これはシニシズムです。いい悪いはいっさい言っていませんよ
 
重要なのは、古代と中世、奈良時代鎌倉時代がぶつかり合うとどういった表現になるか、革命というものがどのような造形を生み出すのかということです。そこには非常にプリミティブなものが出現します。奈良時代鎌倉時代の建築が、ここでいきなりぶつかります。そうするととんでもない造形が生まれます。これが転形期に特有の造形です。2つの性格が融合せぬまま、露出して、しかも合体している。
 
・でもその頃は、疫病やアクシデントがとても怖くて、彼らは死の恐怖から逃れようとしてバーチャル世界へ逃亡します。貴族たちは極楽浄土をイメージして、それを擬似的に体験したいと願いました。その産物が浄土式庭園です。
 また、そのバーチャル世界の凝縮としての御堂を作り、それで観念上、つまりパーチャルに浄土というものを仮構し、観念遊戯のようなことをしていました。このような時代に現れる建築というのが、俗にいうきわめて持続的でもある日本的なスタイルなのかなと思います。
 
ゴシック建築の様式というのは、当時のグローバリゼーションです。より正しく言えばグローバリゼションのツールです。発祥は南フランス。ゴシック建築の出現する前のヨーロッパは、うっそうたる森林でした。ゴシック建築とは、キリスト教がヨーロッパ圏を一律のキリスト教的システムの下に置こうとした建築装置です。
 
・無名というのは、際限のない可能性と際限のない不安のあいだで揺れるということなんだ
 
・本当にいいモノを作ろうと思ったら、絶対に長生きしなければダメです
 
なぜ東京に人が集まるかというと、みなお金が欲しいからです。それが資本主義のよいところですが、他には何もありません。そしてそれが限界です。でも、この島には水もないし、お金もない。東京とは違う人種が住み着き始めた。つまり、絵のような神話的風景のなかに暮らしたいと思う人々がいた。それをパンや水よりも上位に置いたとしか考えようがない
 
・このエーゲ海の光は、ヨーロッパの視覚芸術を創り出した中心です。光が燦々と真上から降り注いで、明晰な光と影を作り出します。ここでは、フォルムというものは光と影が生み出すものだということが、実感できます。しかもギリシア神話の真っ只中の風景です。そのことはさらに深く重要です。フォルムが人間の想像力のなかで神話的な位相に直結されることもあったでしょう。
 
ル・コルビュジエの言っていた「エスプリ・ヌーヴォー(新しい精神)」は、白という色に含みを持たされ、ある意味では神話化され、いまでも受け継がれて模倣の対象になっています。この白という色、青空との対比、光と影。フォルムとはそれらを含めた総合性のなかでの光と影の輪郭のことをいうのです。
 この光は日本にはありません。日本の青空は空の輝度がぜんぜん違います我々が住んでいるのは、アジア・モンスーン気候です。モヤーっとして輪郭がはっきりしません。だから日本ではフォルムというもの、明晰でロジカルな形がなかなか生み出せなかった。でも悲観的になる必要はなくて、そこにはメリットも持っているのです。モヤーっとしたあいまいな、だからこそファンタジックな光のなかで暮らしているのですから。
 東アジアには東アジアのファンタジーがある。物語ですねつまり我々には、一神教につながる明晰さとは少々異なる、多神教のあいまいさに原点を持つ特質がある。それは我々の近代においては、模倣という折衷的態度を生み出しました。我々には近代的な模倣というもう1つの原点があります。これは嫌みではなくそう言っています。「模倣につく模倣」、それをル・コルビュジエとは違うやり方で考えなければいけない時代になっているのです。それこそが情報時代の建築の基本でしょう。
 
ル・コルビュジエという人は、地中海にあこがれ続けました。最後には地中海で死ぬこともできた。彼は地中海で溺れ死んだのです
 
クセナキスの新しい、前の文化から進化した頭脳は、たとえば波のパターンのなかに数学を見ようとしています。なんだかざわめいていていい感じだな、という文学的なものではなく、波の運動のパターンの連続にルールを見つけようとします。それが数学者の頭脳です。若い人たちは、その数理を獲得できなくとも、そこの可能性に着目していけばいい
 
・2001年9月11日に起きたテロによって、ワールドトレードセンタービルが崩壊しました。この事件によって、象徴的にオフイスビルの時代は終わりました
 
・彼の設計はたしかにミースと比較したら下手です。なぜ下手かというと、本物のディテールというものに、彼は関心がないからです。一方で、ミースの建築は、恐ろしいくらいのディテールの宝庫なのです。ミースは、何が本物か、ということだけを追求しすぎた。ただ、ジョンソンは“本物”ではなく“まがい”でいいと自覚していました。
 
千利休の「待庵」、小堀遠州の「孤篷庵(こほうあん)」、あるいはあらゆる超一流の茶室の本質的な意味というのは、床の間に何が飾ってあるのか、今日はどんな花を生けてあるか、どんな茶碗でどんなお茶を入れるのか、それらのすべてにメッセージがあるということです。ですから、それをいま風に解釈すれば、茶室は情報時代の建築なのです。堀口捨巳の天才的直観はそれをとらえていました。堀口の半端ではない茶室研究はそのためになされたといっても過言ではない。
 
自分がニセモノであること、自分がその本物の一流性に対してセカンドクラスであるということを、とことんわかった人は、一流になります。つまらないプライドや知性では、それはなかなか獲得できません。
 
・「シーグラムビルは、ニューヨークのグリッドから来ている」と言いました。グリッドというのは、都市を枠づける格子です。ニューヨークの土地柄をもっとも表しているのはグリッドです。それでミースの建築というのは、ニューヨークのエキス、つまり精霊がすべて入っている、と鈴木さんは言ったわけです。
 
ルイス・カーンにはアニミズムと呼びたいくらいの物質への愛好、とりもなおさず、さらには光そのものへの偏愛がある。それがグローバリズムと本質的に背反している原因です。
 
ああこれは、偶像、そしてイコンを否定し装飾も否定したユダヤ教の、ユダヤの民でないとイメージできない1つの到達点なのだな、と僕は思いました。
 これは、日本でいうと宮澤賢治の物語や、詩のなかに使っている擬音、ドンドンドンとか、ビリビリゴロゴロとか、そういう世界です。ある具体的なモノへの感性を極度に抽象的に表現したい気持ちの代弁のようなコト、アニミズムなのですね宮澤賢治は、日本でもっともコスモポリタニズムを獲得している作家でしょうが、それは彼の表現が音声としての性格を持っているからだとも思います。音の響きは万国共通でしょう。それとよく似た感じなのです。
 
 

読んだ。 #ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版 #片岡一竹

読んだ。 #ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版 #片岡一竹
 
 
精神分析が目的とするのは単に「心の病を治すこと」ではない
精神分析は臨床実践である
・言葉を用いる臨床実践
 
・本来「心の治療」とは、身体医学のように身体の一部を相手にするものではなく、精神の全体を対象とするもの。ということは、それは結局、「どう生きていくか」といった、人生の根幹をなす問題
 
・「〈生き方〉を見直すことで精神的負担が緩和され、その結果神経伝達物質の分泌バランスが良くなる」はずなのに、いつの間にか「神経伝達物質の分泌バランスを良くすれば、精神的負担が緩和される」というように、原因と結果の関係が逆転してしまっている。
 
精神分析には「健康」の概念がない
 精神分析が目指すのは、精神障碍に陥った患者の〈治療〉でも、心理的問題の解決の〈援助〉でもありません。もちろん、分析の過程でこういった効果がもたらされることはありますが、それはあくまで副次的な効果であって、最終的な目的ではありません。
 
 しかし精神分析は症状を「異常」や「病気」とは考えず、したがって「健康(メンタルヘルス)」という考え方もありません。ラカン精神分析では疾病分類として神経症精神病倒錯(+自閉症)という三つないし四つのカテゴリーを設けていますが、すべての人は神経症精神病者倒錯者(+自閉症者)のどれかに分類されます。「健常者」というカテゴリーは存在しません。()これらの疾病分類は治療のための分類というよりも、人間の〈生き方〉の構造と捉えるべきです
 
・〈理想〉に苦しめられないこと
 ある意味で、精神分析は〈理想〉に苦しめられなくなるための営みであるとも言えます。
 「こうあるべき人間像」に患者を同一化させるようなことは、精神分析のすることではない。
 
精神分析の主体は患者である
 
・他人を理解することはできない
・患者を理解してはいけない
 よくあるカウンセリングのマニュアル本には、「患者への共感を示すことが重要である」というようなことが書いてあります。しかし、ラカン精神分析の観点から言えば、患者に共感したり共感を表明したりすることには、大きな危険が潜んでいます。それは、患者の他者性や特異性を殺してしまうことにつながるからです。
 「人は皆そういうものですよ」とか「あなたの気持ち、まるで自分のことのように分かります」などといった、一見して優しい言葉の中に秘められた一種の暴力に、分析家は敏感でなければならないのです。この暴力は、特異性を亡きものにする暴力です。
 
患者の話は、意識的に聞くのではなく、自分自身の無意識を働かせながら聞くべきなのです。患者は自由連想に従って、意識的な選択や検閲を働かせずに発言することが求められます。分析家の側も同じです。患者の話は、意識的に聞くのではなく、自分自身の無意識を働かせながら聞くべきなのです。患者の側の無意識の発言を受容できる機械は、分析家の側の無意識に他なりません。分析家は自分の無意識を治療の道具として使う必要があるのです。理論的知識に頼る臨床はこうした無意識の道具化の妨げになります。
 
 
自我(moi)というのは私たちが日々の生活で前提として抱いている「自分」の像、自己イメージのことです。客体化(対象化)された自分と言ってもよいでしょう(実際、「自我」の原語である(moi)は英語の"me"にあたり、目的格になった「私」を指します)。
 こうした「自分」の像は《他者》に支えられたイメージによって構築されています。つまり「自分が自分だと思うもの」は《他者》を通して作り上げられた虚構的なるので、それがその人の本性であるわけではないのです。
 にも拘わらず、ラカン以前の精神分析(ここでは自我心理学)では、自我は人間の自律的な部分だと思われており、「自我を強化すること」が精神分析の目的だとされていました。そしてそのためには「自我が不合理な混沌(カオス)である無意識を統御できるようにする」ことが重要だと考えられていました
 つまり、「精神分析治療を通じて自我が強化されることによって、患者は内的な無意識の力動や外的な環境に適応し、調和をとって生きることが可能になる」というわけです。
 
主体(sujet)
 精神分析でいう主体には「能動的なもの」「統御するもの」「理性的なもの」「意識的なもの」という性格が全くない
 主体は《他者》によって生み出され、《他者》に支配されるもの。
 主体には実体がない。つまりどこかで目に見えるような形で主体なるものが存在しているわけではない。そもそも目に見える形で存在している時点で、それは対象(オブジェクト)になっているわけですから、言葉の上でも主体(サブジェクト)とは言えません客体化(対象化)された自分とは、先述の通りむしろ自我のほうです
 だから、主体の存在を立証するために数字などのデータに頼っても、意味がありません。同様に「私の主体はこういうものだ」と語ることもできません。語ることも対象化の一つだからです。
 
 主体は〈存在するもの〉というよりも、〈生じるもの〉であると考えるべき。
 
 「偽の主体としての自我の外に、真の主体としての無意識の主体がある」という考え方は正しくありません。存在するものは自我だけです。主体は(潜在的にしか)存在せず、瞬間的に〈生じる〉ものでしかありません。
 
 「自分が言おうとしたこととは別のことを言っている「自分」がいた」という形でしか、主体は姿を見せません。このように主体とは二重性そのものだとも言えるでしょう。
 
・特異性と一般性の相克
 「特異性が排除されることによって、無意識の主体が生まれる
 繰り返すように、私たち個々の本質的な部分は特異的です。しかし、私たちが完全に特異的なだけの存在であれば、一切のコミュニケーションが不可能になってしまうでしょう。
 だから、私たちは生まれて間もなく〈一般的なもの〉を自分の中に導入し、その枠内で日々を送ることを余儀なくされます。
 例えば言語はまさにこうした〈一般的なもの〉です。何らかの言語体系がその話者の間で一般的に共有されていなければ、言葉が通じなくなっています。
 自我もまた、このような〈一般的なもの〉の導入によって生まれます。自我とは他者との関わりの中で生まれてくる「自分」であり、他者に見られる限りでの「自分」です。だからこそ、そこには、決して他者が見てとることのできない、その人の特異性が欠けているのです。
 特異性が排除されている以上、一般性の世界は完璧になりません。一般性の世界に入るということは、自分の大事な特異的なものを手放すということに他なりません。そうして生まれた一般性の世界は、つねに「一番大事なもの」が欠けているため、どこか居心地の悪い世界になります。
 この根本的な居心地の悪さがあるからこそ、無意識の主体が生まれるのです。先述の通り、無意識の主体は〈ハプニング〉として姿を見せます。もし一般性の世界に満足しきっていたら、わざわざそんな厄介なことが起きることもないでしょう。しかし心の奥底で何らかの不満を抱いているからこそ、失錯行為のように思わぬ形で反抗が現れてしまうのです。
 精神分析は無意識の主体を現れさせることを目指します。そして無意識の主体特異性とが本質的に結びついている以上、精神分析が最終的に目指すのは、特異的なものが一般性の世界を食い破って出現することです。分析が最後まで進んだならば、それまで一般性の世界にはなかったような、〈全く新しいもの〉が生まれるはずです。
 
 特異性が出てこない限り、症状の苦しみはなくなりません。なぜなら、そもそも無意識的な症状の苦しみは、一般性の世界で特異性が排除されるという、根源的な不満に基づくものだからです。
 といっても、特異性が発現すれば症状が全部消えてしまうというわけではありません。誤解を招くかもしれませんが、精神分析を終えても、いくらかの症状は必ず残ります。ただし大きな変化として、分析主体は、自分の症状に対して、それまでのようには苦しまなくなるはずです。
 そもそもなぜ人は症状に苦しむのでしょうか。その原因はさまざまでしょうが、大きな原因の一つは「症状を持っていると、自分が世間一般の標準から外れてしまう」からではないでしょうか。
 
・特異性と一般性との間の相克は、どちらかの勝利によって終わるものではありません。それは構造的に不可能です。ただ、特異性との上手い付き合い方を見出すことはできます。
 
個性と特異性の違い
 ゆとり教育で言われている「個性」なるものは、学校や社会という一般的なシステムに適合する限りで認められるものでしかない。学校教育が本当の意味で個性を重視すれば、おそらく学級崩壊が起こる。ある人の個性と他の人の個性が相容れるとは限らないのですから。
 個性というものは、「一般論」によって一つの視点から扱われるものでしかありません。他方、特異性というのは、あらゆる一般論からはみ出す過剰な何かのことを言います。
 
 だから現代社会においていかに「個性」や「多様性」というものが尊重され、賞揚されていたとしても、それは社会が特異性を重視していることにはなりません。むしろ個性の重視によって、ますます特異性の問題がないがしろにされると言えます。「こんなに多様な個性を認めてやっているのだから、それと相容れないような<個性>(これは特異性のことです)を主張するのは欲張りが過ぎる」というわけです。
 個性が一般的な基準に立脚して考えられる以上、それは必ず、この基準を司っている権力にとって都合のよいものとして扱われます。権力は社会の中で、何を「個性」として認め、何を「反社会的なもの」として排除するかという境界線を画定することによって、その支配力を発揮するのです。それに対して、特異性とは本質的に反権力的なものです。
 
個性とは、自我に対して用いるべき言葉自我は客体=対象(オブジェクト)化された「自分」であり、そして他者の支えのうえに成立するもの。個性は自我のものである限りで他者に依存しており、他者によって評定されなければなりません。
 
・主体的な特異性は、他者に依存する「自我の個性」とは正反対のもの。それは個性のように対象(客体)として他者に示せるようなものではありません
 
 分析主体は、他者が承認する一般性とは相容れない特異性に悩むのです。精神分析の臨床は、この相克との上手い付き合い方を見出していく過程だと言えます。
 そのためには自分の特異性を認めてそれを引き受けるための「勇気」とでも言えるものが必要。そしてその勇気を得ることができる場所は、自らの無意識と対峙し、その根源まで旅を続けようとする精神分析を措いて他にない。
 
・「本当の自分を教えてほしい」という動機。しかし実際に分析を受けてみると、その望みが叶わないことが分かります。
 なぜなら精神分析の主体とは患者自身であり、分析家はあくまで、患者(分析主体)の自己分析の補助を行うに過ぎないから。分析家の解釈は意味を持つものではなく、むしろ、「意味を切る」ことによって、自分の何気ない発言に潜む〈思いもよらないもの〉に気づかせるためのもの。
 この〈思いもよらないもの〉とは、それまで自我が抑圧していた無意識的なものに他なりません。〈思いもよらないこと〉を言ってしまう時こそ、無意識の主体が姿を見せる瞬間。
 
 
 イメージの領域
 
 言語の〈仕組み〉の領域言語がもつ「意味」の側面は想像的なもの
 象徴的なものとは言語の意味作用(シニフィカシオン)ではなく、意味作用を作り出す言語の構造を指す言葉です。
 
シニフィアンはそれ自体としては意味を持っておらず、意味作用(シニフィカシオン)が生じるためには他のシニフィアンと連接されることが必要となる
 
 私たちはほとんどの場合、言語的な仕方でしかイメージを受け止めることができない
 
 人間は言語的な存在。イメージに触れる際も、言語を把握する際の仕方が大きく影響を及ぼす。言い換えれば、想像界象徴界によって統御(コントロール)されている象徴界の作用をまったく離れた純粋に想像的なものは基本的に存在しない。
 
象徴界には「言語=文化=〈法〉」という等式が見られる
 
 現実界は私たちが普段触れている現実とは異なる領域を指す。私たちが普段生きている「現実」の世界は、言語とイメージ(象徴界想像界)による構築物。一方、真の意味での現実界はむしろ、言語やイメージをはみ出す領域を指します。
 
 
・言語で捉えられない領域は、精神分析の対象にはなりません。
 精神分析神経症などの症状にアプローチできるのは、それがいわば言語の病だから。象徴的なものを基盤とする人間の精神は、言語的な仕方で構造化されています。精神障碍もまた精神の言語的構造のもつれから生まれてくるものであり、だからこそ、言語を用いて精神障碍にアプローチすることが可能になる。それに対して、言語と関係ないところで作られる病、例えばインフルエンザや癌を精神分析で治すことはできません(それらの病気が主体の〈心の現実〉にもたらす影響を扱うことはできますが)。それらは現実界の病。
 
言語を超えた領域
 象徴界の構造自体に根差す不可能なもの全般が、現実的なものと呼ばれるようになった
 
 
・「人を見た目で判断しそうな顔をしやがって」
 
《他者》は〈法〉をもたらすという点から分かる通り、大文字の《他者》とは象徴的なものだと言えます。他方、小文字の他者は想像的なものです。
 
言語の世界の中で生きるようになることは、根源的な《他者》の経験です
 
・人間にとって純粋に想像的なものはありません。想像界はつねにすでに象徴界によって動かされているのです。したがって、人間はまずイメージの世界で生き、その後で言語の世界に入るのではありません人間は最初から言語の世界に生み落とされるのです
 
無意識は抑圧されたもろもろのシニフィアンによって構成されています。だから無意識とは《他者》から受け取ったシニフィアンの集積だと言えるでしょう。主体の無意識を構成しているのは《他者》であり、ラカンはそのことを「無意識は《他者》語らい(ディスクールである」と表現しています。
 
・このように無意識がシニフィアンによって構成されている以上、無意識はシニフィアンの〈法〉に従って動かされていると言えます。
 この「法」は「文法」のような意味だと捉えてください。つまり、無意識はただの混沌(カオス)ではなく、言語的な構造を持っており、そこでは一定の規則が機能しているのです。前述の通り、これは無意識を混沌として捉える自我心理学とラカンとの一番の違いです。
 しかし自我は無意識的なものを抑圧し、その〈法〉を見ないことにしています。そして無意識の〈法〉を無視しようとするがゆえに、想像的なイメージの世界に騙されてしまいます。そうであれば、精神分析の目的は、イメージの背後で作用する無意識の〈法〉を明らかにするように患者を導くことと言えるでしょう。
 
 
・意味からシニフィアン
 「意味」とは想像的なものであり、その扱いに終始していれば、想像界の罠に囚われるだけです。だから分析家は、一見意味のないものに見えるシニフィアンのつながりに注目するのです。
 私たちは普段、言語を意味によって捉えています。それは言語をイマジナリーに捉えているということです。しかし分析の場においては、言語を意味によって使用することを中断し、言語のシニフィアン的な性質が現れることが目指されます。そのためには、意味の中に囚われるのではなく、むしろ意味の外にあるシニフィアンの作用に注目しなければなりません。
 

 
夢解釈においては、イメージはシニフィアン的に解釈されなければなりません。夢に限らず、これは精神分析の鉄則です
 
・「抑圧されたシニフィアンが発話によって認められることで、無意識の〈法〉との関係が変化する
 
発話が治療手段になる
 必要なのは、抑圧されたものの言語化を通じて無意識の〈法〉に関する主体的な変化があることです。自我とは違った主体というものがふと明らかになるだけで、苦しみは緩和されます。なぜなら、そこで患者は自分に書き込まれた〈法〉を見出し、〈法〉との向き合い方を更新できるからです。
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〈法〉に関する変化は、このように「口に出すこと」、つまり発話(パロール)を行うことによってしか生じません。精神分析の治療手段は、患者が抑圧されたものを発話することそのものです
 分析では、発話という行為が精神医療における向精神薬などの治療手段に相当するのです。患者は抑圧された真理を話すことそれ自体によって治るのであって、無意識的なものを意識化することによって治るのではありません。だから仮に分析家が患者の無意識的なものを代わりに教えてあげても、それは治療効果をもたらしはしないでしょう。
 自分の話していることが分からなくても問題はありません。話すことそのものが治療の道具です。だからこそ、患者は自由連想を通じて、全てを口に出さなければならないのです。
 
シェーマL

「a’」は他者(autre)
「a」は自我(moi)
「S」から「a'」を通って「a」に向かう矢印は、他者のイメージを通して自我が成立することを意味します。
つまりこれは鏡像段階を表わしています。主体(S)から自我(a)へ、直接には線が伸びていないことに注意してください。
 自我(a)は他者(a’)のイメージがなければ成立しないのです。
 自我(a)は大文字の《他者》(Autre)からの矢印にも接していますが、これは自我が他者だけではなく《他者》にも支えられていることを示します。
 a→a'の軸は想像的関係(relation imaginaire)を指します。想像的関係とは、まさに鏡像段階によって成立するものです。しかしこの軸はA→Sの軸に割り込んでいます。そのため、《他者》(A)からの無意識(inconscient)のメッセージが主体(S)に届いていません(破線になってしまっています)。
 これは、想像的関係に囚われると象徴的な無意識が覆い隠されてしまう(抑圧されたままになる)ということを意味します。したがって、精神分析が目指すのはAからのメッセージがSに届くことです。そのことによって無意識のシニフィアンは目的を遂げ、〈法〉との新たな関係が生まれてくることでしょう。
 
 
・一九七七年七月七日に七人兄弟の第七子として生まれたマイケルは、一七歳の誕生日パーティの最中、友人から、その日の競馬の第七レースの七枠に「セブンオペラ」という馬が出走する予定だと聞かされた。その馬は七歳で、体重は七七七ポンドだった。
 運命的なものを感じたマイケルは、預金をすべて引き出し、その馬に有り金を賭けた。
 結果は七着だった。
 
・エディプス・コンプレクス
 
 

 
 
・よく聞く「昔の日本は良かった」という回顧主義も「剝奪者としての想像的存在を想定する」ことで成り立っています。こういう主張は、えてして「新しく登場したもののせいですべてが駄目になった」という信仰を守るために、過ぎた時代を理想化しているだけです。本当に昔の日本が黄金郷であったかはどうでもよく、今ある不幸を誰かのせいにしたいだけです。この思想が過激化すると陰謀論ができあがります。
 どんな時代にもそれ相応の不幸が生まれていたのであって、完璧な時代などなかったのです。その時代が黄金期に見えるのは、単にイメージの中で理想化されているからです。
 
 
剝奪から去勢へ③――現実的父の登場と《父の名》の導入
 そうなると、〈父〉は自分と同じレベルにある(それゆえライバルになる)想像的父ではなく、象徴的父として、自分を超越したところにいる存在になります。そのことで子供は、〈母の法〉の中で生きていくことをやめ、普遍的な〈法〉の中で、〈母〉と共に生きていくようになるわけです。〈父〉は現実的父としてファルスという欲望のシニフィアンを与えるだけではなく、同時に、象徴的父として〈法〉も与えるのです。
 
分岐点――エディプス脱出と性別化
 エディプス・コンプレクスの解決としてどちらのルートを選んだかによって、その主体が〈男〉であるか〈女〉であるかが規定されるというわけです。反対に言えば、ここまでの行程で語ってきた「子供」は、まだ性別を持たない存在です。
 精神分析にとって性差は、例えば「ペニスをもつかヴァギナをもつか」という生物学的(解剖学的)な特徴によって決定されるものではありません。〈男〉や〈女〉という性別はあくまでシニフィアン的なものであり、人間固有の象徴的世界の中で決定されるものです。人が「女というものは」「男というものは」などと語る時、そこで言及される「女」「男」が単に生物としての雌雄の問題ではないことは明らかでしょう。
 また人は自分の性別を主体として選択するということも重要な点です。性別とは自然の力によって生まれながらにして決まっているものではなく、エディプス・コンプレクスの出口としてどちらのルートを選択したかによって決定されるものであり、つまり主体自身の手で選び取られるものなのです。もちろん選択といってもこれはあくまで無意識の主体の選択なので、自分は選択していることを知りませんが。
 多くの場合「解剖学的に男性とされる子供」が〈男〉のルート、「女性とされる子供」が〈女〉のルートを選んでいるかもしれません。性の選択は主体的なものではあっても、周囲の影響(つまり性別に関する既成概念)を大いに受けるからです。そもそも主体とは自発的なものではありません。だから選択といっても通常の意志的な選択ではありません。しかし「女性とされる子供」が〈男〉のルート、「男性とされる子供される子供」が〈女〉のルートを選ぶということは可能であり、実際にそういった選択がなされていることも多々あります。
 
ヴェールとは何かを隠すものですが、何かがヴェールによって隠されることによって、その「何か」は「隠されているもの」として過大な価値を持つようになります。実際には何もないのだとしても、ヴェールがあるだけで、そこには隠されている何かがあるように見えます。欠如そのものであるファルスには形がないので、ヴェールを通じてのみその存在を示すことができるのです
 これは欠如としてのファルスを形象化しようとするフェティシズムの戦略と同じです。主体は自分自身をフェティッシュ化します。フェティシズムとはヴェールの機能なのです。
 
 ①〈男〉ルート:現実的父に同一化し、現実的父のように象徴的ファルスを持とうとする(存在から所有へ)。
 ②〈女〉ルート:象徵的ファルスに同一化し、ファルスを持つ現実的父に欲望されようとする。
 どちらのルートも、欲望を欠如として認めたうえで《他者》からやってきた欲望自分の欲望とするための解決案です。エディプス・コンプレクスの出口を経ることで、幼児は初めて「欲望の主体」として形成されるのです。
 
 
・確かに五〇年代のラカンはあまりに象徴界を重視しすぎており、情動や快楽(享楽)などといった、象徴的なものの枠組みでは語れない問題を二次的なものにする面がありました。しかし象徴的なもの以外にもそれに負けず劣らず重要な問題があり、それらは決して無視できません。ラカンが次に向かうべき場所は、もはやシニフィアン理論がそのまま通用しないような、象徴界埒外だったと言えるでしょう。
 一九六○年代に入ると、それらの問題を考えるために、ラカン現実界の探求を主題とするようになります。六〇年代のラカンのメインテーマは、現実界を理論化することだったと言っても過言ではありません。
 そのことと関連して、六〇年代に入ると現実界の定義に変化が見られるようになります。
 それまでの現実界は「純粋な物質世界」のような意味で使われていました。しかし六○年代において、現実界は「象徴界が扱うことのできない不可能な領域」として再定義されます。現実界という用語にそれまでこういった意味合いが皆無だったわけではありませんが、現実界の不可能性がより強調されることとなったのです。
 象徴界現実界を扱えない以上、想像界もまた現実界を扱うことができません。何度も繰り返すように、想像界は徹頭徹尾、象徴界によって統御されているからです。
 かくして現実界とは、イメージ(想像界)でも言語(象徴界)でも捉えられない純粋に不可能な領域であるということになります。現実界はもはや「物質世界」のような実体を持ったものではなくなり、象徴界の穴そのものとして捉えられるようになったのです。
 
・象徴的無意識と現実的無意識
 

 
 
 
欲動の満足は享楽(※Jouissance/ジュイサンス)
 
〈わけがわからない〉ゆえに子供の中に同化されず、外部に排除されてしまう何か《もの》です。それはそこで排除されるので、その後の反復でも戻ってきません。
 《もの》の体験は原初的な満足体験だと語ってきましたが、より厳密に言えば、それを「満足」として把握し、反復行為を通じて《もの》を取り戻したいと思ったりするのは、あくまで《もの》の体験が終わった後のことです。《もの》は、原初的な「満足」体験の中で乳児から排除されることで、初めて「失われた原初的満足のしるし」として機能するようになります。この意味で《もの》の体験とは「理解不能な何かが《もの》として排除される体験」でもあります。《もの》は失われて初めて《もの》になるのだと言ってもよいでしょう。
 そして同じく、享楽もつねに〈失われたもの〉としてしか発見されません。だから享楽は不可能なもの、現実的なものなのです。
 
 
ラカン主体が対象aと結びついて出来上がるものファンタスム(幻想)と呼び、ファンタスムこそが主体の欲望を根底的に規定する公式になると主張しました。主体の欲望を支えるのは(見せかけの)対象ではなく、無意識的に規定されたファンタスムです。つまりある対象の性質(例えばそれが魅力的であるとか)それ自体が欲望を惹きつけるのではなく、対象がファンタスムの中で欲望の対象の場所に位置づけられることで、初めて主体はその対象を欲望するようになるのです。そしてファンタスムが選ぶいろいろな(見せかけの)対象を裏で規定している、究極的な欲望の対象が対象aです。
 だから対象といっても、それは主体が所持できたりするような普通の対象ではありません。対象aは現実的なもの、把握不可能なものだからです。ファンタスムの中での主体と対象aの「結びつき」は、あくまで「隔たりを含んだ結びつき」であり、主体は自分がどのようなファンタスムを持っているか、そこで対象aがどう機能しているかを知りません。しかし、それでも、ファンタスムの中で主体が対象aと関係を結ぶことで、欲望が《もの》を目指す形式が規定されるのです。
 
 
ラカン対象aを「主体が《他者》の世界に参入した際に象徴化されきらなかった残余」と定義しています。対象aはいわば、主体に対して《他者》の世界の象徴化プログラムが実行された際に、変換エラーとして廃棄された一部分(パーツ)です。《もの》のような形で象微界の全き外部へ放逐されてはいないものの、見えないところに潜んでいる一種のバグです。対象a象徴界の全体性の中に還元できない異物であり、ある意味でゴミのようなものです。しかし、だからこそ、それは象徴界からはアクセスできない現実界と繋がる断片となりうるのです。
 欲望は対象aという、自分でもよくわからない謎の異物と結びついて《もの》を目指します。だから人は自分の欲望の真の対象が何かを知りません。ファンタスムそれ自体が無意識的なものですが、その中にはそのファンタスムにとっても異質な何かが(しかもファンタスムの根本的な対象として)存在しているのです
 
 
ファンタスムとは、現実的なものへの問いに対する主体的な答えとして形成される人生の指標です。本人はそれに気付いていないかもしれません。それでもファンタスムはその主体の生き方に対し、無意識的な形で一つの指標を与えます。そしてこの指標によって規定される人生の重要な要素が「いかに気持ちよくなるか」です。
 誤解を恐れずに言えば、私たちが死なずに生きつづけているのは、なにがしかの〈気持ちよさ〉が得られるからです。例えば、何かに成功した時の〈気持ちよさ〉、大切な人といる時の〈気持ちよさ〉、好きな音楽を聴いている時の〈気持ちよさ〉などです。
 この〈気持ちよさ〉とは、つまり享楽です。享楽こそが人生の意味の支えになるのです。「どうやって生きていくか」という問い、それはある意味で、「どうやって気持ちよくなるか」という問いに他なりません。
 
・ただしここで注意すべきなのは、享楽は両義的であって、人生を破壊する危険なものでもあるということです。あまりに過大な〈気持ちよさ〉を得ると、死に至ってしまいます。享楽が破壊的になりすぎないためには、つねに〈余裕〉がなければなりませんそれは「まだ最高の〈気持ちよさ〉には至っていない」という余地のことです。そうした空白部分があるからこそ、私たちは〈他のもの〉を求め、いろいろな新しいことにチャレンジできるのです。
 〈他のもの〉を求めるチャレンジ、それはまさに欲望の本質です。つまりこの余地は、欲望が働くための余地だと言えます。それがなければ、一つの満足にしがみつき、人生全体がその満足に溺れてしまうでしょう。
 それはある種の心的な依存症の状態です。こうした依存は人を一つの(断片的な)享楽の対象に縛り付け、そこから離れる自由を奪ってしまいます。それは実質的に死と近しいと言えます。欲望がなくなって心的な依存症に陥ってしまった状態というのは、中毒的な享楽を与える何らかの対象から離れられず、自分がなくなって対象の中に溶け込んでしまう状態です。それよりは、たとえ欲望が騙される運命にあるとしても(280頁)、騙されていないと思い込んで一つの対象に縋りつくより、騙されたことを(また、そこで騙された自分自身を)しっかり認め、新しい何かにまた騙されにゆく方がいいのです。それが欲望に関して譲歩しないための道です。
 つまるところ、①どういった形で自分が享楽を得ていくかということ、また、②欲望が機能するためにどういった(余白)を持って行くかということ、これが人生の意味や方向を決定づけます。そう、ファンタスムとはまさに、享楽の様式を規定するものであり、また欲望の指標でした。ファンタスムによるこうした規定が、人生の道しるべになるのです。
 ファンタスムは個人的なものとは限りません。もっとも強大なファンタスムは宗教でしょう。宗教は世界規模で人生の指針を与えつづけています。人生の喜びとは何か、正しい生き方とは何か――なにがしかの宗教の教説から、その答えを得る人は大勢います。さらに宗教は、神秘体験などによって、大きな享楽を与えます。すべての信徒が神秘主義者ではないにしろ、日々の宗教的行為が生み出す充実感のようなものは、日常生活の中に一種の満足を生み出します。宗教ほど強大なファンタスムはないでしょう。
 ことほど左様に、ファンタスムは私たちの人生の根幹に存在しています。だからファンタスムについて考えることは人生や世界そのものを考えることに匹敵します。私たちはなにがしかのファンタスムがなければ生きていく道を失ってしまいます。ファンタスムとは、言ってみれば人の生き方そのものの形式なのです。
 
 
神経症者、精神病者、倒錯者は、それぞれ異なった「生き方」の構造を持っている
 そこで問題となるのはあくまで「構造」です。つまり顕在的な症状に基づいた分類は無意味(ナンセンス)です。あくまで、そうした症状を規定している潜在的な構造が問われなければならないのです。
 現代の精神医学では構造論的な問いを捨てて症状の現象(みため)にだけ着目するような鑑別診断が主流です。これは精神医学の治療がもっぱら投薬治療に終始していることと関係しているでしょう。医師は「なぜ患者がその症状を持つに至ったか」という原因を考える必要はなく、「どんな症状か」だけが分かれば、薬を処方して治療を行えるからです。現代の精神医学は原因論を手放しつつあると言えるでしょう。
 それに対して、精神分析はあくまで患者の人生そのものを扱う臨床実践です。したがって精神分析的な疾病分類は、あくまで構造を考えなければなりません。もっと言えば、人生の構造を規定している根本的な要因(ファクター)を考えなければならないのです。
 この要因(ファクター)は〈父〉の問題に収斂する、とラカンは考えました。一言でいえば、神経症者は「〈父〉がいる」ことに苦しみ、精神病者は「〈父〉が何か分からない」ことに苦しみ、倒錯者は「〈父〉が馬鹿にしか思えない」ことに苦しむのです。どういうことか、順番に見ていきましょう。
 
 
もろもろの苦しみは結局、人がみな《他者》の世界の中で生きなければならないということに起因します
 
《他者》の中の〈至福〉に依拠しないような自分固有の「幸せ」を見つけ出すこと。そう、それこそ「特異性」という言葉が表わすもの。
 ただし「幸せ」と言っても、ここでいう「幸せ」はかなり特殊なもので、一般的な意味での幸福と捉えることはできません。つまり「《他者》の中で認められる幸せ」ではなく、むしろ幸せがないことをそのまま肯定するような〈生き方〉を指します。
 一般的に「幸福」と呼ばれるものには、例えば結婚や出産や社会的成功があります。「一般的な」とは、つまり《他者》の世界で「幸福」と認定されているということです
 しかし、努力や幸運の末にそうした「幸福と呼ばれるもの」を手に入れても、きっと虚しさはなくならないでしょう。なぜなら欲望の性質上、欲望の(見せかけの)対象が手に入っても私たちは飽き足らず、もっと〈他のもの〉を求めてしまうからです。幸せを追い求めることには終わりがありません。
 つまり《他者》の世界で認められた幸せを掴んだところで、それはつねに〈至福〉には至らないのです
 
《他者》の承認に依存しない〈特異的な幸福〉
 
・対象と〈理想〉の癒着が引き剥がされた時、「自分が執着していたものは〈理想〉ではなく、単に欲望の対象だった」ということが明らかになります。そのことでファンタスムの仕組みが露わになって解体され、主体は新たな〈理想〉のもと、新たなファンタスムを構築することができるようになります。
 しかし、ここで新たな〈理想〉を見出してしまえば、結局そのファンタスムにも横断の必要性が生じてしまうでしょう。つまり、それでは分析の終結にはならないわけです。
 したがって、重要なのは〈理想〉とは別の場所で「幸福」を見出すことです。〈理想〉とは結局《他者》の世界のものですから、〈理想〉に依拠しつづけている限り、〈至福〉に至れないことへの苦しみは消えません。他方、〈特異的な幸福〉は《他者》の世界において理想的とされるか否かが問題にならないものです。

読んだ。 #訂正する力 #東浩紀

読んだ。 #訂正する力 #東浩紀
 
先日読んだ『訂正の哲学』もおもしろかったが、そのなかでいくつか気になっていた、物事についての意味合いを訂正していくという行為と「歴史修正主義」の違いについてや、具体的に「訂正し続けていく」ということはどういうことなのかという例や説明、最近のSNSで右も左も極端な意見を言う人ばかりが目立ち議論が成立しなくなっている状況についての説明などもわかりやすく、とてもよかった
 
 
政治とはそもそも絶対の正義を振りかざす論破のゲームではありません。あるべき政治は、右派と左派、保守派とリベラル派がたがいの立場を尊重し、議論を交わすことでおたがいの意見を少しずつ変えていく対話のプロセスのはずです。しかし、現状ではそんなことはできない。
 とくに最近の左派の一部は頑なです。彼らはどんな説明を聞かされても意見を変えません。むしろその頑なさが「ぶれない」として評価されている。そのため政府側も彼らをクレーマーとして扱い、真剣な議論を行わない。政権側も反政権側もおたがいが「相手は変わらない」と思い込んでいるため、議論が始まらないわけです。あるのはいつも同じ「反対してるぞ」アピールだけです。
 議論が始まるためには、おたがいが変わる用意がなければなりません。ところがいまの日本では、その前提が壊れています。みな「議論しましょう」とは言うものの、自分自身が変わるつもりはなく、むしろ変わってはいけないと思っているのです
 
リセットすることもぶれないことも幼稚な発想です。日本ではそんな幼稚さばかりがもてはやされる
 けれども、ぼくたちはそろそろ成熟するべきです。そして社会の持続について考え始めるべきです。訂正する力は成熟する力のことでもあるのです。
 
 
山本七平『「空気」の研究』
 
・というよりも、日本では脱構築しか有効ではないと言うべきかもしれません。正面から既存のルールを批判しても力をもたない。ルールを訂正しながらも、その新しさを前面に押し出さず、「いや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張し、現在の状況に対応しながら過去との一貫性も守る。そういった両面戦略が不可欠となります。
 
・議論を成立させるためには相手が意見を変える可能性をたがいに認めあわなくてはいけませんだれの意見も変わらない議論なんて、なんの意味もありません
 
立憲主義とは、国民が憲法を使って国家を縛ることです。そのためには国民が憲法を理解できなくてはいけません
 ところがいまの護憲派の主張にしたがうと、日本国憲法については、ふつうに読んでふつうに社会に適用してはいけないことになる。ふつうに考えれば自衛隊は戦力です。9条の戦力放棄の規定と反しているのだから、自衛隊を解散するか憲法を変えるか、どっちかにしないといけないと考えるのがふつうです。それがおかしいと言われたら、ふつうの国民は憲法について語れなくなる。
 皮肉なことに、9条についてはむしろ政府のほうが訂正する力を発揮しています。解釈改憲集団的自衛権を認め、このままだと北朝鮮の基地にミサイルを打ち込むことも可能になるかもしれない。それが危険だと思うならば、リベラルのほうも訂正する力を発揮し、条文自体を変えてしっかりできることとできないことを規定したほうがいい。ところがいまの左派はそういう主張ができない。「条文が変わっても同じ憲法の精神を守ることができる」という社会への信頼がないからです。護憲派の人々からすれば、条文を一字でも変えてしまったら右派に乗っ取られ、日本は別の国になってしまうとなる。その神経質な純粋主義が事態を膠着させています。
 
・ふつうの日本語として読める憲法
 
 
・つまり、声を上げることは必然的に反発を伴うということです。むしろ反発がないと意味がない。ところが最近は、「声を上げると周りから変なひとだと言われる、それ自体が圧力だから、『変』と言われないようにしてほしい」という要求が上がるようになってきた。
 こうなると話がこじれてきます。声を上げるというのは、ルールに対して否を突きつけるということです。その異議申し立てがうまくいき、世の中が変わるかどうかは、結果でしかわかりません。
 異議申し立ては、その意味では賭けです。だからこそ価値があります。事前に「声を上げても歓迎されるような環境をつくってください」というのでは、おかしな話になってしまう。
 この逆説はさきほどの「水」がすぐ「空気」になるという話と関連しています。いまの空気に水を差したい、でもそれは空気として歓迎されたい、というのでは有意義な異議申し立てになりません。日本の市民運動の弱点はここにあるように思います。
 訂正する力は、そのような「事前承認」は求めません。単に「このルールはおかしいから変えるべきだ、否、じつはもともとこう解釈できるものだったのだ」と行動で示し、そのあとで事後承諾を求める。それが訂正の行為です。だからそれは、ある観点では単なるルール違反です。
 けれどもその違反がすごく大事なのです。違反によって、ルールの弱点や不完全なところが見えてくることがあるからです。むろん、ルールに違反するということは「ルール違反だ」と非難されるということです。みんなから賛同されるわけでもないし、問題提起がうまくいかなければ犯罪になることもある。けれども、そのことによってルールが変わるかもしれない。訂正する力は、そういうリスクを取って行うことでもあります。
 言い換えれば、訂正する力は、「自分はこれで行く」「自分はこのルールをこう解釈する」と決断する力のことでもあります。そして批判を引き受ける力でもあるのです。
 
 
・「負けた選挙を勝ったと捉えるのも訂正する力の働きではないのか」と反論されるかもしれません。
 その理解は違います。訂正する力は現実から目を逸らすために使ってはいけません。現実を「再解釈」するために使うべきなのです
 
訂正する力とは現実を直視する力
 目を逸らすことと「再解釈」することの違いは重要です。その違いがわからなくなると、訂正する力と歴史修正主義との違いもあいまいになってしまいます。 訂正する力は、けっして、自分に都合よく現実を見る力のことではありません。むしろ現実を直視する力です。
 その違いについては本書を読むことでおいおいわかってもらえるはずですが、ここでもつぎのようには言えます。ぼくはつねひごろ「ものごとは続くのが大事だ」と述べています。この「続く力」と「訂正する力」は同じものです。理由は単純で、ものごとは訂正しないと続かないからです。ぶれないだけでは潰れてしまう
 
ポリティカル・コレクトネスとは、「昔の正しさはいまでは正しくない、だから訂正しよう」という反省のことです。
 
訂正する力は歴史修正主義とは異なるものです。本書はけっして、過去を都合よく修正するのが大事だと主張する本ではありません。訂正する力は、過去を記憶し、訂正するために謝罪する力です。歴史修正主義は過去を忘却するので、訂正もしなければ謝罪もしません。この違いはしっかりと意識するようにしましょう。
 
訂正する力は身体と深く関係しています。そもそも、「いま言ったのはそういう意味ではなくて」という対話中の訂正が、なぜ受け入れられるのでしょうか
 日常的にみな行っている行為ですが、考えてみればそれはすごいことです。訂正は文字だけでは実行しにくい。なぜならば、文字だけで「さっき言ったのはそういう意味ではなくて」といった自己否定を繰り返していたら、単に支離滅裂な文章になってしまうからです。
 でも、ぼくたちは日常の会話ではそういう訂正を平気でなんどもやります。なぜそんなことが可能かというと、そもそもぼくたちはしゃべっているとき、じつは同じ言葉を同じ意味で使っているとはかぎらず、相手の顔や反応を見ながらどんどん意味を変えていっているからです。そしてその前提をたがいにわかっている。
 だから、「前後の流れからある言葉を選んでしまっていたけれど、それはさっきいい言葉が思い浮かばなかっただけで、本当はこのように言ったほうがいいのだ」という訂正ができる。言葉の外部への信頼感があるからこそ、言葉を訂正することができるのです。
 
 
動画の時代は、こういうルッキズムが前面に出てくる時代でもあります。
 そういう時代にどう対応するか。人間はくだらない情報に弱いんだということを、つねに意識しておくことが大事だと思います。
 
・署名活動やクラウドファンディングは健在ですが、往時のような存在感はない。数が集まっても、みなその数があまり意味をもたないことを知ってしまっている
 このような結果になったのは、ツイッター上の政治運動に訂正する力が宿りにくいからだと考えられます。どういうことでしょうか。
 たとえば署名活動を考えてみましょう。昔は人間が街中で物理的に署名を集めていました。署名をするときには、呼びかけ人の顔や服装を見ることになります。逆に呼びかける側も、署名者の顔や服装を観察するわけです。
 むろん、そういう情報のほとんどは忘れ去られるものです。けれども、一部は心に響いたり記憶に残ったりする。そしてそのような経験が、運動がなにかしら障害にぶつかったときに意外なかたちで役立つことがある。「ああ、こういうひとたちが署名してくれるんだ」「こういう年齢層のひとたちなんだ」「こういう服装で、こういう話しかたなんだ」といった付加情報が、運動の方向性を訂正するにあたり、とても重要なものになることがあるわけです。
 ネットの署名にはそういった付加情報がありません。自分たちの支持者がどういうひとなのか、顔が見えない。だから「じつは・・・・・・だったんだ」という訂正ができないまま、薄っぺらい動員合戦になってしまう。
 
ネットは文脈を消してしまいます。時間も消してしまいます
 
・けれども、さきほども触れたように、そのような「削ぎ落とし」は実は肝心のコンテンツをたいへん脆弱なものにするのです。コンテンツは、周りの無駄な情報と一緒に伝えないと本来の力を発揮できないものなのです。これは言説だけではなくて、映画や音楽のような文化的な体験全体にも言えることです。
 
 
・ぼくは人類学や脳科学の専門家ではありません。だからあくまでも素人の考えとして聞いてほしいのですが、「いままではこう行動していればうまくいったけれども、状況が変わってうまくいかなくなった、それならばこうしてみればどうだろう」といった、訂正のシミュレーションが意識の起源なのではないでしょうか。そして、最初は意識しながらやっていく行為も、繰り返されて訂正が必要なくなると無意識のなかに沈んでいく
 
ミハイル・バフチンというロシアの文学理論家がいます。『ドストエフスキー詩学』という有名な本を書いているのですが、そこで対話が重要だと述べています。

 ただ、それはふつうの対話ではありません。バフチンによる対話の定義がどういうものかというと、「いつでも相手の言葉に対して反論できる状況がある」ということです。バフチンの表現で言うと「最終的な言葉がない」。
 つまり、だれかが「これが最後ですね。はい、結論」と言ったときに、必ず別のだれかが「いやいやいや」と言う。そしてまた話が始まる。そのようにしてどこまでも続いていくのが対話の本質であって、別の言いかたをすると、ずっと発言の訂正が続いていく。それが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。
 
・言葉を発するとき、ぼくたちの頭のなかには抽象的な概念が確固なものとしてあるわけではありません。Aさんのなかに概念があり、それがBさんに渡されて、Bさんがそれを理解するという過程ではないのです。
 では対話で起こっていることはなにかというと、むしろ一緒に共通の語彙をつくっていく作業に近い。言葉を交わすというゲームを遊びながら、同時に言葉を使うルールを一緒につくっていくような行為なわけです。
 
クリプキの「クワス算」

 
 ぼくたちの社会は、どんなに厳密にルールを定めても、必ずそのルールを変なふうに解釈して変なことをやる人間が出てくる、そういう性質をもっています。社会を存続させようとするならば、そういう変人が現れてきたときに、なんらかのかたちでそれに対処しながらつぎに進むしかない。だから訂正する力が必要になります。
 
 
テロは認めてはいけない。しかし、いったんテロが起こってしまったら、その新たな現実に対応して社会を訂正する必要がある。これはまったく両立する話だ、というのが本書の主張なのです。
 
 

ルールがいつのまにか置き換わる
 
 
保守派の日本観とリベラル派の日本観、あるいは伝統芸能の継承者の日本観とアニメオタクの日本観では、内実は大きく異なることでしょう。
 それゆえ、じつは日本のアイデンティティを決めることができるのは、第三者の観客や審判にあたる人々でしかないのです。
 
・もちろん「じつは・・・・・・だった」は万能ではありません。その力を野放図に使うと、過去を都合よく書き換える場当たり的な人間になってしまいます歴史修正主義の問題です。
 
・過去はまちがっていた、昭和の日本とは手を切るというのもひとつの方法です。多くのひと、とくにリベラル派はそういうリセットを望んでいるように見えます。
 けれども、そこでも訂正の考えかたを取ったほうがいいのではないでしょうか。具体的には、今後の日本を見据えたうえで、未来とつながるようなかたちで「じつは日本はこういう国だった」といった物語をつくるべきだということです。
 これは歴史修正主義を推進しろということではありません。歴史とは、過去の事実を組みあわせ、物語になってはじめて成立するものです。エビデンスに反しなくても、複数の物語がありえます
 そのような作業が必要なのは、じつはいまは保守派よりもリベラル派のほうです。保守派はもともと物語をもっている。リベラル派は独自の歴史観に乏しい。
 たとえばリベラル派には、自民党の支持母体ということもあり、神道を警戒するひとが多くいます。たしかに戦前の国家神道には大きな問題があった。しかし、神道そのものについて言えば、これは日本の土着宗教、というよりも文化習慣と不可分なものであって、その価値を否定して政治的な影響力をもつのは難しい。それならば逆に、「じつは神道にはこのような歴史がある、それは保守派が想定するよりもはるかにリベラルで、私たちの未来に続いている」ぐらいの物語をつくってみたらいいのではないか
 日本のリベラル派は戦後30年弱の歴史しか参照できず、その点でたいへん弱いアメリカだと、共和党民主党も独立宣言やゲティスバーグ演説に戻る。左右問わず国家の歴史が利用可能なリソースになっています。
 日本でも同じように歴史に接するべきです。左右ともに歴史を参照して、はじめてバランスが取れる。別に天照大神神武天皇に遡れとは言いません。それでもいろいろな歴史が語れると思います。
 
 
・ただ、結局のところ、そういうリセットの試みは歴史的に見て失敗に終わっているのです。フランス革命はすべてをリセットした。宗教を排し、暦を廃し、新しい理想を打ち立てた。それが偉大だということになっていますが、実際は共和政はあっというまに崩壊し、ナポレオンの短い帝政を経たうえで王政が戻ってしまったハンナ・アーレントのように、そのような限界をきちんと見据えた思想家もいます。
 もっとわかりやすいのがソ連の失敗です。ロシア革命のリセットがいかに無効だったか、いまのロシアを見るとよくわかります。
 あれだけ長いあいだ共産主義体制が続いていたのに、それが崩壊したらあっというまにロシアの伝統的な価値観や習慣が戻ってしまったロシア正教も力を回復して、スターリンによって爆破された救世主ハリストス大聖堂は再建された。プーチンの支配がかつてのロシア帝国ツァーリを思わせるのは、偶然ではありません。
 つまりは、そもそもソ連時代においても、じつはなにもリセットされていなかったのです。共産主義無宗教を標榜しましたが、モスクワにあるレーニン廟などは宗教施設そのものです。レーニンの遺体を防腐処理して永久保存しているわけですが、背景には正教の「聖者の遺体は腐らない」という考えがある。革命以前の宗教的な、あるいは民族的な想像力がちゃっかり回帰していた。
 特定の土地で営々と続いてきた文化や慣習は、リセットしようとしてもなかなかリセ ットできるものではありません。いくらイデオロギーで表面だけ洗脳しても、家族形態 や食習慣や住居構造はなかなか変わらない。そのため、肝心なところはもとに戻ってくる。
 
社会はリセットできない。人間は合理的には動かない。だから過去の記憶を訂正しながら、だましだまし改良していくしかない。それが本書の基本的な立場です。
 
 
・このような発想は「非科学的」に見えるかもしれません。実際、訂正する力の話はとても文系的な話でもあります。
 ある理系のかたと話したとき、ベストセラーになった斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』が理解できないと言われたことがありました。主張以前に、なんでいまさらマルクスを読む必要があるのかわからないと言うのです。
 本書の読者のみなさんにも、似た疑問を抱いたことがあるひとは多いのではないかと思います。実際、文系の学者は、過去の著作を引っ張り出し、新たな視点から解釈して読みなおすといったことばかりやっている。理系ではそんなことはしません。重力を学ぶためにニュートンを読みなおす、なんてことはないわけです。
 なんで文系はそんなことをやっているのでしょうか。それは文系の学問が基本的に「じつは・・・・・・だった」の学問だからです。
 そもそも文系の学問の対象は、存在するようでいて存在しないものです。たとえば善とか美とか真とか言っても、そういう物体がどこかに存在しているわけではない。言葉のなかにしか存在しません。
 だから文系の学問は、理系のように「言葉と対象が一致すれば真実」「予測がうまくいけば真実」といった基準で学問を進めることができません
 ではどうするかといえば、そこで基準になるのが「じつは・・・・・・だった」の論理なのです。プラトンは真理という概念についてこう語った。カントはこう語った。ハイデガーはこう語った。まずはそういう歴史がある。
 そのいずれが正しいかについては、そもそも真実という観念自体が言葉のなかにしかない以上、理系的な手法で探求しても意味がありません。できるのは、そういう過去の歴史を踏まえたうえで、いまの社会状況に照らし、真理という概念をあらためて使うとすればこういう再解釈が有効なのではないか、という「訂正」の提案でしかない。そうやって未来に進みます
 つまり、文系の知とは、本質的に「訂正の知」なのです。だからぼくたちは、21世紀になっても「プラトンはじつは・・・・・・と言っていた」「マルクスはじつは・・・・・・と言っていた」といった表現をするのですね。
 
・ChatGPTには訂正ができない?
最近は文系学部不要論が盛んですが、このように考えると、文系的な知――より正確に言えば人文学的な知――にも存在意義が見えてくるはずです。
 最近、ChatGPTのような生成AIが話題になっています。なにか質問を入力すると、まるで人間のように自然な言語でそれっぽい答えを返してくれる。いろいろな議論がありますが、このような技術の出現が意味しているのは、要は人間の言語は意識がなくとも構成できるということです。
 この章のはじめに述べたように、ぼくたちは日常では自動機械のように言葉を発している。この言葉のつぎにはあの言葉を発しておけばいいだろう、という連想の連鎖で会話を展開している。たいていはそれで問題が起きない。つまり、ぼくたちのコミュニケーションはそもそもChatGPTとあまり変わらない。だからAIで置き換えることができてしまう。
 では、人間が人間であるゆえんはどこにあるかというと、それはそんな無意識の連鎖に対する「メタ意識」にあります。つまり、「あれ、違ったかな」という訂正こそが人間の人間性を支えている人間は、訂正する力をもっているので、いままで長いあいだ使われていた言葉を、その記憶を継承したまま違う意味の言葉に変えることができる。それは、ここまで述べてきたように「言葉の外」がないと不可能な行為です。ChatGPTには言葉の世界しかないので、訂正ができません
 人間は、言葉のなかだけではなく、言葉の外にも世界をもつ生物です。それゆえ、ふたつの世界の関係を調整するため、たえず言葉を訂正することを求められる
 理系の知は、「言葉の外の世界」を予測するために発達したものなので、「言葉の世界」と「言葉の外の世界」が個別の命題単位で一致することを求める。
 他方で文系の知は、基本的には「言葉の世界」にしか関わらず、理系のような命題単位での外部との一致を必要としないけれども、全体として「言葉の外の世界」とずれてくると言葉の使用そのものが意味をなくし、単なる言葉遊びになってしまうので、中心をなす重要な概念についてはときおり訂正を必要とする。そんなふうに考えればよいと思います。
 
 
反証可能性と訂正可能性
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この世界には、個別のテストが不可能で、したがって反証も不可能な命題がありますが、それらは科学の範囲に入らない。たとえば「神はいる」といった命題は、正しいかもしれないし誤っているかもしれないけれど、そもそもテストができず、したがって反証もできないので、真偽以前に科学的な主張だと考えることができないポパーはそのような基準で、科学と非科学を分けたわけです。
 
 
・サンクコストを保存する
 たとえば最近、経済学者の成田悠輔さんの「高齢者は集団自決したほうがよい」という過去の発言が発掘され、社会的な批判が集まるという事件がありました。冷たいとか非人間的だとかいろいろな論評がありましたが、ぼくはあの発言は、まさに経済学者らしい合理的なものだという印象を受けました。
 ゼロベースでいまの日本の状況を見るならば、これからさき働いてくれる若いひとを優遇すべきで、治療費が嵩むだけの高齢者には退場してもらったほうがよいというのは、当然出てくる発想です。まさにサンクコストの切り捨てです。
 けれども、では人間はそういう合理性で動くかといえば、まったく動かない。その点で成田さんの発言は非現実的で単純だとも思いました。
 実際には人間は過去を忘れません。サンクコストも切り捨てません。無駄でも高齢者を大切にします。
 そこになんの必然性があるのでしょうか。ほくはそれを問うのが文系の学問で、その答えが訂正する力だと考えています。
 理系の世界には現在の理論しかありません。過去の理論は必要ありません。同じように経済学の世界には未来の利益しかありません過去のサンクコストは切り捨てるべき対象です。
 けれども人文学の世界ではそう考えません。未来の可能性は、過去の訂正によってこそ切り開かれると考えます。だから、できるだけ多くの過去の可能性を蓄積しておくことが、未来を豊かにすることだと考えるのです。たとえば図書館はまさにそういう発想でつくられています。いま必要とされる本だけを集めていたのでは、まともな図書館になりません
 だからほくは、文系の学問はこれからも必要とされ続けると思います。人間が人間であり、過去を記憶する存在であるかぎり、理系の発想だけで社会が覆われることはありえないからです。最近は文系不要論が盛んですが、そこをしっかりと訴えればいいのだと思います。
 
 
・たとえば人間は、不毛な論争を打ち切るために、まったく関係のない身体的な行為を導入することがあります
 それはとても具体的で、身近なことです。論争で疲れたので一緒に酒を飲むとか、恋人同士であればスキンシップや性的な接触をもつとか、そういうことです。いっけんそれは言語ゲームと関係ないように思われるかもしれませんが、これもまた一種の訂正の行為です。そしてそのような接触によって、さっきまで続いていた争いがどうでもよくなるということも、またじつによく起きていることです。というよりも、人間関係の調整とは本質的にはそういうものです。はたしてそのような訂正が人工知能に可能でしょうか。
 ぼくは、そのような力をもたないかぎり、人工知能の出現は人間のあいだのコミュニケーションの根幹を揺るがさないと考えています。
 そして逆に、もしかりに人工知能が官能的な身体をもち、そのようなコミュニケーションの訂正まで可能になったとしたら、そのときはそれはもはや人間と本質的に変わらない存在になってしまい、かえって社会のありかたにも影響しないように思われます。だから、どちらにしろ、人間の問題はいまと変わらず残り続けると思うのです。
 
 
文系の学者は、知識自体を売るのではなく、お客さんがすでにもつ知識に「じつは・・・・・・だった」という発見を加え、古い知識を新しい現実に適応させる「訂正の経験」を売るのだと考えたらどうでしょう。
 TEDという有名な国際的カンファレンスがあります。さまざまな分野の専門家が短い時間でプレゼンを行うので知られています。
 ぼくはときどき、冗談として、「TEDで3分でやる話を、ゲンロンカフェでは3時間かけてやるのだ」と言うことがあります。知識を売るのであれば、時間は短ければ短いほど「タイパ」がいいという話になる。けれども、ぼくがやりたいのは知識を売ることではない。体験を売ることです。だから長い時間が必要になります
 訂正する力とは対話する力のことでもありました。長いあいだ話していると、それだけでひとはいろいろと余計なことを話します
 その余分な情報が聴衆を刺激し、それぞれの頭のなかからいろいろな連想を引きずり出すそういう経験は、人工知能社会になるこれからの時代にこそ貴重なものです
 ぼくたちは「コスパ」「タイパ」の時代に生きています。けれども、メッセージを効率よく伝えるだけではけっして到達できない、コミュニケーションを奥底から支える力があります。それこそが訂正する力であり、「じつは・・・・・・だった」の感覚であり、作家性=固有名の力なのです。そしてその力の提供は、新たなビジネスの源泉になりえます。
 
 
・交換可能性と訂正可能性
 交換可能性と訂正可能性。すべてが交換できる世界と、なにも交換できず訂正だけができる世界。どちらがよいかは簡単には言えません。
 ただ、大事なのは、人間はそのふたつの世界の往復で生きているということです。いまの世の中は、交換可能性を高めること、イコール善といった主張をするひとが多い。だめな従業員ならば解雇すればいい、いやな職場ならば辞めればいい、いやな学校ならば行かなければいい、などです。
 たしかに交換の思想はひとを自由にしてくれます。なにもかも「チェンジ」すればいいのですから。
 けれども、それだけで人生を最後まで快適にすごすことができるかといえば、やはり難しいと思います。肝心のぼくたちの身体そのものが交換できないからです。いくら周囲の環境を交換し続けたとしても、だれもが自分自身とはずっとつきあっていくしかない。自分を「チェンジ」するわけにはいかない
 言い換えれば、世の中には、交換する力だけで対応できないケースがある。そのときぼくたちを自由にしてくれるのは、訂正する力しかないのです。
 
 
大事なのは、ひとが理解しあう空間をつくることではなく、むしろ「おまえはおれを理解していない」と永遠に言いあう空間をつくることなのです。第2章で触れたバフチンの言葉を使えば、対話の空間です。
 
 
民俗学者柳田國男が『日本の祭』という本を書いています。その角川ソフィア文庫版の解説で、文芸評論家の安藤礼二さんが大事なことを指摘しています。柳田が祭りについて考えたのは、じつは、戦前の日本に急速に入り込み始めていた資本主義に対抗する、伝統的な農村の共同体原理——「組合」の原理——について考えるためだったというのです。
 日本において、祭りは、単なる娯楽でもなければ、また宗教儀式でもない、ひととひとを結びつけるアイデンティティの確認の手段として発達してきました。
いささか飛躍するようですが、この意味において、ぼくは、祭りというのもまた、訂正する力が発揮される場だと言えるのではないかと考えています。祭りに参加することで、ぼくたちは、「この村(共同体)はじつは・・・・・・だった」と過去を再発見し、現在につなぐかたちで集団的記憶を訂正するという営みを行っているのではないか。だから祭りがある共同体は強いのではないか
 唐突な例ですが、『名探偵コナン』というアニメシリーズがあります。青山剛昌さんの人気マンガが原作で、だいたい毎年4月に劇場版の長編が公開されています。2023年の作品で36作目のようです。
 この映画が最近は毎回大ヒットとなっています。理由のひとつとして、毎年春、桜に近い季節に新作が公開されるということがあるのではないでしょうか。それは年に1回の祭りのようなものです。観客は映画を観に行っているのではなく、じつは祭りに足を 運んでいる。
 『名探偵コナン』の原作マンガの連載開始は1994年。当時の小学生はアラフォーになっています。最近は2世代で行く観客も多い。そのうち3世代で鑑賞というスタイルも現れるでしょう。おばあちゃんとお母さんと子どもの3人が一緒に行く。そういう機会をコンテンツ産業が提供し始めています。
 
丸山眞男は、「歴史意識の『古層』」という有名な論文で、日本文化を特徴づける言葉として「つぎつぎになりゆくいきほひ」というフレーズを提案しています。
簡単に説明すると、「つぎつぎ」は継続性、「なりゆく」は生成性、そして「いきほひ」は空気を指しますものごとがなんとなく自然と生まれてつながっていく。そういう発想が日本の思想や政治を動かしてきたと言うのです。
 
 
日本哲学のジレンマ
 日本でも、京都学派のひとたちはハイデガーがとても好きでした(ここではハイデガーの前期と後期の差異には立ち入りません)。京都学派とは、戦前、京都大学を中心に集まった思想家たちのグループです。東西文化の融合を目指しただけではなく、日本がその役割を積極的に担うべきだとして、「大東亜戦争」を思想的に肯定したことでも知られます。
 彼らがハイデガーに近づいた理由はよくわかります。彼らはハイデガーに「日本的なもの」を見たのだと思います。ヨーロッパの哲学を勉強していると、ときどき日本の思想が逆に最先端に見えるという逆転が起こります。日本のほうがさきに「主体なんて存在しない。生成するだけだ」と言っていたじゃないか、というわけです。そういう思想はヨーロッパでは過去の哲学の批判になるのですが、日本だと逆に働いて、単なる自己肯定になり国家主義などと結びつくというジレンマがある。
 戦後の日本哲学はこのジレンマのなかで動けなくなりました。ヨーロッパ哲学だけ学んでいてもしかたない。とはいえ日本の伝統を加えてオリジナルなことをやろうとすると、京都学派の轍を踏む可能性がある。
 そこでぼくは「訂正する」という考えかたを導入したい。訂正するとは、これまでも言ってきたように、とりあえずはいまの状況を受け入れるということです。過去を受け入れて、それを守っていく。
 けれども、よく見ると過去を守る行為には必ずズレが生じる。同じゲームをプレイしているつもりでも、ルールがいつのまにか変わっていく。しかし、どう変わっているかは当事者にもわからない。伝統を受け継ぐとはイコール伝統を変えるということだし、ゲームに参加するとはイコール規則に違反もしてしまうということで、そのルール違反がまたゲームを豊かに変えていったりもする
 こういう考えかたを取ることによって、「つぎつぎになりゆくいきほひ」の支配も前向きに再解釈することができるのではないか。単に過去の無責任に居なおるのでもなく、他方で過去を全否定するのでもない、第三の道が開けていくのではないか。「つぎつぎになりゆくいきほひ」の国だからこそ、過去を訂正しつつ、ゆっくりとまえに進んでいくことが大事だと考えればいいのではないか。
 言うなれば、「つぎつぎになりゆくいきほひを、リベラルな観点から捉えなおしてみてはどうかというのが、この章の提案です。
 
 
・このところLGBTの話題が盛んです。しかしそこでの議論は不必要に混乱している。
 2023年6月にはLGBT理解増進法が可決されました。左派は規定が不十分だと批判しています。他方で右派は法律そのものが必要ないと反発している。彼らのなかには、「キリスト教文化圏のほうがよほど性的マイノリティを差別していた。日本にはそんな差別はなかった」と主張するひともいます。
 これは不毛な対立です。たしかに日本には性的マイノリティを受け入れる一定の伝統があったでしょう。それをすべて差別と呼ぶのはしっくりこない。とはいえ現在の基準でマイノリティの人権が十分に認められていたかといったら、それも違う。
 多様性はゼロかイチかの選択ではありません。結局のところ、それぞれの国の文化のなかで、伝統も残しながら、それをどうアップデートして未来につなげていくかという発想で進めるしかない
 ところが日本では、それがすぐに、ゼロかイチか、過去を否定するか肯定するか、リセットするかなにも変えないかの対立の議論になってしまう。少しでも動こうとすると両方の勢力から批判される。そういう風土を変えなければなりません。
 
ウクライナ戦争では、SNSが活用され、個人の死や人権侵害がじかに世界中に発信されるようになりました。その結果、かえって平和を達成するのが難しくなったというのです。平和とは国家間の政治的な妥協でしかありえませんが、いまは多くの関係する個人が納得しないと妥協ができないからです。
 
 
司馬史観
明治の日本はよかったが、昭和に入ってだめになった」という歴史観です。
 なぜそんな竜馬のイメージがここまで広がったのかということです。
 ぼくが推測するに、それは昭和の人々が、そこに彼ら自身の理想像を見出したからではないでしょうか。司馬が描いた竜馬は商人でもありました。海援隊を結成して物資を運び、貿易で利益を出して敵対勢力を結びつけ、平和を築いていく。それはまさに、武力を放棄し、経済力による平和の達成を夢見た戦後の理想に一致します。
 司馬は、そういう人々の無意識を敏感に感じ取り、起源を維新の志士に求めるというアクロバットをやってのけたのではないか。竜馬がいることで、戦後日本の商業国家路線は、じつは明治維新のときに可能性として胚胎していたものだという歴史がつくられる。占領軍に押しつけられたものではなくなる。
 その歴史は幻想ですが、単純に非難されるべきものではありません。司馬はそのような作業を通して、近代日本の自画像そのものをアップデートしようとしたのです。本書で言う訂正です。それはまさに昭和の日本人が必要としていたことでした。
 
・でもそんなことを言い出したら、哲学者はみな特定の時代の特定の言語の著作しか参照できないということになって、哲学という学問そのものが消滅してしまいますだからもうわからないと割り切ってやるしかない。もちろん、専門家の著作と矛盾しないかたちで自分の解釈をつくるということには気をつけます。それでも結局は「自由に読む」ということでしかありません。
 そのとき最終的に基準になるのは、過去の著作と現在の状況をどうつなげていくのかという問題でしかない。この視点がないと、哲学者の読みは本当に恣意的で自分勝手なものになってしまいますから。
 でもそれはなんの客観性を保証するものでもない。それは覚悟してやるしかない。私たちは訂正を通してしか過去を把握できないのです。
 
・そもそも明治維新が歴史を訂正した例だと考えられます。
 明治維新はリセットではありません。王政復古なのですから。しかし単なる復古でもない。攘夷はいつのまにか開国になった。過去の全否定でもなければ全肯定でもない、第三の道を歩んで成功を収めたのが明治維新なのです。
 なぜそんなことができたのか。当時の日本の最大の課題は、近代化を成し遂げ、植民地化を回避することでした。けれどもその目的をそのまま打ち出すと保守派から反発される。そこでもち出されたのが「天皇の時代への回帰」という一種のフィクションだったわけです。
 
・敗戦後に日本国憲法が制定された際、天皇は以前の「統治権の総攬者」から「国民統合の象徴」へ位置づけを変えられました。これは伝統が断ち切られたかのように思えます。
 ところが哲学者の和辻哲郎はそうは単純に考えませんでした。彼は1948年に『国民統合の象徴』という本を出版して、日本では天皇はもともと権力者というよりも権威であり、象徴だったという議論を展開しています。むしろ、天皇が実際に権力者になった明治時代の体制のほうがイレギュラーだったと言うのです。
 和辻のこの主張は明治の訂正の逆転と言えます。明治維新では、天皇親政の古代こそが日本の本体だと考えられた。和辻はそれを反転させ、天皇が実権をもっていなかった時期こそが本体だと主張しているのですから。
 
・かつて左派は天皇制廃止を訴えていました。ところが平成が進むにつれて国民の天皇制への感情は大きく変わり、いまでは左派で天皇制廃止を訴えるひとはほとんどいません。
 それどころか、平成末期には、天皇のほうが政権よりもリベラルなので、むしろ安倍政権の暴走を天皇に止めてもらおうなどと言い出す言論人さえ現れました。しかしそれならば、リベラル派から見た天皇論をきちんと展開するべきです。それは「日本」というアイデンティティをどう捉えるかということでもある。そのような議論を避けているかぎり、リベラル派が広く市民の支持を集めることは難しいでしょう。
 
・民主主義の本質は、人民が欲するとおりに国を動かすということであって、その意味ではじつに怖い思想です。ポピュリズムに直結しているし、人民の意志を代表するのが特定の党や独裁者ということになれば全体主義ファシズムを生み出すことにもなる。実際、ナチに協力したことで知られるドイツの法学者、カール・シュミットは、まさに民主主義の名のもとに独裁を肯定しています。
 
 
・幻想は現実逃避ではない、現実を支えるために必要なときがある、その幻想をつくるのが訂正する力だという話でした。
 実際、戦後の平和主義は一種の方便でした。武力の放棄を約束することで国際社会への復帰を達成する。そして経済成長に集中する。でも現実はアメリカの核の傘に守られている。いいか悪いかはともかく、そのことは右も左もわかっていた。そのリアリズムを支えたのが戦争の記憶だった。ところが1980年代ぐらいから、平和と護憲さえ唱えていればよいという若い世代が現れてきます。
 そのあたりから議論が硬直してきた。保守派はそんな左派に反発して「自虐史観」と言い出した。他方でリベラル派もその動きに対抗し、ますます頑なになっていった。いまでは憲法9条は左派の聖典のようになっていますが、「九条の会」ができたのはじつは21世紀に入ってのことです。1990年代までは、リベラル側からも改憲の議論がありました。自衛隊が現実に存在するのだから、ある意味で当然です。
 結果として、いまの日本では政治的な議論が異様に抽象的になっています。戦争責任にしても、日本は絶対悪で永遠に謝るべきだという左派と、日本は悪くないという右派の対立になっている。
 現実的に考えればどちらかというのはありえなくて、日本はひどいことをやったのだからそこは謝るべきだけど、あまりにも謝罪相手が無理な要求を掲げてくるならば撥ね除けるべきだという話にしかならない。でもそういう議論ができない
 
 
 
明治維新から敗戦まで77年、そして敗戦から今年(2023年)までは78年です。明治日本は、近代化を達成するために天皇親政という物語(国体)をつくった。それはある時期までは柔軟に運用されていたが、時代を経ることで硬直化し戦争に突入してしまった。
 同じように、戦後日本は、経済復興や国際復帰を達成するために平和国家という物語をつくった。これもある時期までは柔軟に運用されていたが、いまはすっかり硬直化している。そんなふうに整理できるでしょう。
 
 
・平和とは政治の欠如などと言ったら、また識者のみなさんに怒られそうです(この本では怒られてばかりですが)。左派の理論家のなかには、人間の行為のすべてが政治的だと言いたがるひともいます。個人的なものこそ政治的だ、というのは学生運動フェミニズムのスローガンでした。
 言いたいことはわかるのですが、かといってなにもかも政治だというのは政治という言葉を拡大解釈しすぎだと思います。あらゆる行為が政治であるならば、逆に政治という言葉の意味が消えてしまう
 
 
作為的に自然をつくる
 平和は政治の欠如ですが、その政治の欠如そのものは政治にしかつくれません平和をつくるのはむろん政治です。でもいったん平和になってしまえば、政治は見えないものにならねばならない。そして政治が見えないあいだだけが平和になる。だから平和における政治の欠如は、単なる欠如=無秩序のことではありません戦争と平和、政治と非政治、作為と自然、現実と幻想といったもろもろの対立を超え、「自然を作為する」という第三の立場に立たないと、本当の平和はつくれないのです。
 
 
ルソーはなぜ日本で人気があるのでしょうか。ぼくはじつはその理由が、いま述べた「自然を作為する」という逆説にあるのではないかと考えています。
 日本は「つぎつぎになりゆくいきほひ」の国です。だから、作品を作品として提示せず、「なんとなくできあがった」ものとして作為性を隠して提示する美学が発達しています。つまり「自然を作為する」の美学が発達しているのですが、ルソーはじつはまさにその逆説の美学を追求した作家だったのです。
 
 
日本は極端なものを共存させている国です。それは思想だけの話ではありません。たとえば日本の「美」といってもふたつの傾向がある。一方には、ブルーノ・タウトが好んだような、すごくスタイリッシュな、モダニズムに通じるミニマルな美学がある。建築家やファッションデザイナーはこちらが好きです。しかし他方で、歌舞伎からオタクやアイドル文化に至るような、カラフルでキッチュな美学も強い。そして両者が自由自在に使い分けられている
 これはいわゆる多様性とは違うのかもしれません。とはいえ、そこにもなんらかの可能性がある。それを思想的に展開すれば、すべてを「友」と「敵」に二分し、極論ばかりが戦いあう21世紀の世界に対して、ぼくたちは極論を共存させることに成功してきた、という前向きのメッセージを発することができるかもしれない。
 
・本書は「訂正する力」を主題にしています。訂正する力とは「考える力」ということでもあります。本書は、なによりもみなさんに「考えるひと」になってもらいたいと思って書いています。
 けれども、いまはそのような本は好まれません。市場を席巻しているのは「考えない」方法を説く言葉ばかりです。だから読者が見えないのです。
 考えるとはとてもふしぎな行為です。考えたからいいことがあるとはかぎらない。むしろ考えると動けなくなる。まえに進めなくなる。それでも考えることは大事なはずだと本書では言い続けてきましたが、正直言ってそれが本当だという確信もありませんだって、世界には、なにも考えずに大成功しているひとがいくらでもいます。そっちのほうがどう考えてもよさそうです。
 それでも、ぼくはなぜか、いまの世界には考えるひとがあまりにも少なく、それはまずいと感じてしまった。みなが「考えないで成功する」ための方法ばかりを求める国は、いつか破滅すると感じてしまった。そう危機感を抱いたこともまた、本書執筆のきっかけのひとつです
 
 
 
 

読んだ。 #ヒロポンと特攻 太平洋戦争の日本軍 #相可文代

読んだ。 #ヒロポンと特攻 太平洋戦争の日本軍 #相可文代
 
特攻兵は出撃前に覚せい剤を摂取していたのではないか?という事に関しては数人の証言があったという感じで、本書の中でも前半に少し語られるだけという印象だったが、その他の特攻隊についての話が強すぎて、もはや覚せい剤がどうとかあまり残らなかった。
覚せい剤よりも当時の日本の、特攻に行かなんて非国民!恥ずかしくないのか!お国の為に死んでこい!というような空気のほうが恐い&ヤバい。
 
 
・旧制茨木高等女学校に置かれた大阪陸軍糧秣廠で梅田和子さんが覚醒剤入りチョコレートを包んだという証言。
 
・戦争という歴史的なできごとの因果関係を掘り下げる「歴史認識」と統一されてこそ「戦争体験の継承」も生きた力となる。国内の困難を国外に排外的に転嫁するのが戦争である。冷静に考え行動する人が多数にならなければ、戦争はまた起こるだろう。そして、大きな戦争であれ、小さな戦争であれ、他国にも自国にも犠牲者は必ず出る。
 
・ アヘンの一大産地だった茨木市
国内では大阪府和歌山県が一大産地だった。なかでも茨木市の福井地区は、「日本のアヘン王」と呼ばれた二反長音蔵がケシ栽培の改良に成功し、地域の農家の裏作として奨励したため、アヘンの一大産地になっていた。
 
国民学校高等科の一三歳以上の少年・少女や、中学生・女学生が多く、ほとんどが二〇歳以下の若者ばかりだった。()立元は機体の解体班に所属し、米軍の空襲でやられたゼロ戦の解体作業をおこなった。
  解体された部品はほかの班によってすぐ組み立てられ、組み立てられた機体はまた出撃していった。壊れたゼロ戦の使えそうな部品を集めて、熟練工でもない若者たちが組み立てた特攻機であった。すぐ油漏れを起こし、飛行の途中でエンジントラブルを起こした。
 私は旧岩川基地(現鹿児島県曽於市)を取材したとき、壊れた機体の部品を見た。本来なら溶接ないしネジなどによって接合されなければならない部品が、針金によって接合されていた
 
総重量が二トンもある「桜花」をつるした一式陸攻のスピードは遅く、兵士がたくさん乗っているため、グラマンの集中攻撃を受けると、犠牲者が格段に多かった。「桜花」が初めて鹿屋基地から出撃した三月二二日は、大隅半島沖合でグラマンの集中攻撃を受け、一度に一六〇人もの戦死者を出した。米軍は「桜花」を「Baka Bomb (バカ爆弾)」と呼んでいた。
 
覚醒剤入りチョコレートを日本で最初に開発したのは、岩垂荘二である。岩垂は太平洋戦争中、陸軍航空技術研究所の研究員として勤務し、航空兵のための「航空糧食」「航空栄養」の研究・開発に従事した。今日では、航空機内は気圧も気温も一定であるが、当時は高度三〇〇〇メートルという上空の低気圧・低温によって搭乗者に負荷がかかり、頭痛・めまい・吐き気などの航空病にかかる者が多かった。訓練によってある程度は体を慣らすことはできたが、長時間の飛行に耐えることはむずかしかった。そこで、研究が急がれたのが「航空糧食」や「航空栄養」だったのである。
 
「仕事を好む」という意味のギリシャ語から採った製品名で、覚せい時間を延長させる作用とともに、精神的・肉体的活動力を著しく高め、判断力・思考力を強め、作業能力を向上させる効能をもつことから、徹夜作業の際に用いるとよい、とされた。
 ヒロポンは強い覚醒作用と興奮作用を持つため、「国家総動員体制」下の日本では、航空兵のみならず、徹夜作業の労働者たちにも積極的に提供された。こうして、ヒロポンは国民に広く普及していったのだ。
 
残念ながら私が調べた限りでは、覚醒剤入りチョコレートを食べて出撃したとの体験談はなかった。しかし、製造されていたのはまちがいない。
 
長距離飛行の途中で眠くならないようにとヒロポン入りの酒まで用意されており、「元気酒」と名づけられていました
 
・その後隊長よりの飛行コース、其の他の細かい注意点など説明の後、軍医官の指示により、腕をまくる。何事だろうといぶかる我々の前で、眠気防止だとか云って一人々々に注射を打って廻る。(戦後四、五年経った頃ヒロポン禍がマスコミ等により報道され、あの時の注射がヒロポンであった事を知る。)
 
今まで酒でふらついていた身体が見る見る立ち直ってくる。その内にシャキーッと酔などどこへやら、神経は昂り身内から闘志が湧いてくるのを感じる。そして水盃をいっきに呑み干し、その盃を地面に叩きつけ、勇躍機上の人となる。
 
蒲原串良で三月中ごろから約二〇〇名の特攻兵の上腕部に、ヒロポンの皮下注射や筋肉注射を打って送りだした
 
・問題は戦後だった。運輸省の技官として勤務していた黒鳥は、通勤の満員電車のなかで奇妙な感覚にとらわれるようになった。
 「押し合いながら乗っている周りの人々の手や鼻が、自分の目に飛びこんでくる感じ」「指や鼻さき、食事のさいの箸など、尖ったものに対する奇妙な感覚」に悩まされ、「微熱と目眩」も出てきて体調を崩した。そのため病院で診察を受けたところ、「航空神経症」と診断され、ビタミン注射と飲み薬の服用を続けた。だが、「異常感覚や体調」は快方へは向かわなかった。ペアだった倉本も症状は違うものの、「捕らえどころのない違和感につきまとわれている」とのことだった。黒鳥は”暗視ホルモン”の影響を疑ったものの、たしかめる手立てもないまま症状に悩まされた。そして、日常生活にほとんど支障がなくなるまで回復するのに四〇年もかかったのである。
 黒鳥が真相を伝えられたのは、症状が消えてさらに数年がたったころだった。かつて黒鳥―倉本ペアに”暗視ホルモン”を注射した脇軍医から、”暗視ホルモン”の正体はヒロポンだったと告げられ、謝罪されたのである。
 
・この時期に海軍串良基地の軍医として、出撃する特攻兵にヒロポン注射を打っていた蒲原宏によれば、串良基地にはヒロポン入りの錠剤もチョコレートもなかったとのことである。ヒロポン入りの錠剤やチョコレートはおもに陸軍が使用したのではないか海軍の串良基地では、もっぱら注射のみだった蒲原は証言している。
 
・一九四四年一〇月に始まり、一九四五年八月まで、約一〇ヵ月間おこなわれた航空特攻による死者はどれくらいか。「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍が二五三一人、陸軍が一四一七人、合わせて三九四八人で、約四〇〇〇人となる水上・水中特攻も含めると、約六四〇〇人が特攻で戦死している
 
表現の自由」は民主主義の根幹であり、最後の砦でもあるもちろん、「表現の自由」の名のもとに、昨今のようにSNSなどで人を傷つけることが許されるわけではないそれは「表現の自由」に名を借りた人権侵害であり犯罪だ表現の自由」にはおのずから倫理的節度が求められ、人権侵害には罰則も適用されるこのことは「表現の自由」を論じるうえでの大前提である
 
甲種飛行予科練習生という制度は航空士官の中堅幹部養成が主で、中学校三年修了の資格があればだれでも受験できる
()
 彼らは二年もたたないうちに戦場に立ち、その多くは神風特別攻撃隊の体当たり攻撃要員として若い生命を閉じた戦死者七七七名戦没者率七〇・八パーセントの甲飛十期生――その一人に、磯川質男の姿がある。
 
・当時は特攻で死んだ兵士の家には「軍神の家」という張り紙がされ、通行人はみな敬意をこめて頭を下げた
 
・八月一五日の「玉音放送」を阻止できなかった大西は、一六日の未明に割腹自殺を図り、同日夕に死去新井喜美夫著『「名将」「愚将」大逆転の太平洋戦史』によると、大西は死の淵で物資調達の部下だった児玉誉士夫を呼び、革袋に入ったヒロポンを渡し、「今の日本にとって、残されたものはこれだけだ。これを金に換えて、日本の再建のための資金にしてくれ」と遺言したという児玉は戦後、自民党政権フィクサーとして暗躍した。その資金の一部は、大西から託されたヒロポンから得た金だったのかもしれない。
 
(特攻は)あまり世間を知らないうちにやんないとダメなんですよ。法律とか政治を知っちゃって、いまの言葉でいえば、人の命は地球より重いなんてこと知っちゃうと死ぬのは怖くなる。(少年飛行兵は)十二、三歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、そのかわり小遣いをやって、うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃうんですよ
 
・「第一回傷痍軍人慰安会」が開催された。次の四年生の生徒作文からは、傷痍軍人を迎えて、感激した気持ちが伝わってくる。
 遠くの方で「礼!」と言われた先生のお声が道の側の塀やかべに突き当たって晴れた秋空に高く消えて行った。いよいよ来られたのだ。私達はお隣のお友達と思わずほほえみ合った。やがて「コッン。コツン」とゆっくりした足並みが近づいて来た。拍手の音がそれを追う様にだんだん激しくなってせまって来ている。「来られたよ。来られたよ」と囁きながら互いに手を堅く握り合った。そして一緒に揃って丁寧に御辞儀をした。忽ち付近は拍手の洪水に巻き込まれてしまった。清い白衣に身を包まれた勇士様方。一人々々皆苦しい生死の境を越えて来られたのだ。けれども朗らかなお顔だった!! 元気なお姿だった! 私達は敬虔な気持ちになって感謝の意を微笑に表しながら、痛い迄に打ち続けた
 
 「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによって、だまされはじめているにちがいないのである。
 戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味をほんとうに理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自分を改造する努力を始めることである。
 
「伏龍」は潜水服に構造上の欠陥があった
 
岩井忠正
抵抗不可能の大勢だから従う——理屈に合っている。それ以外にどんなことが可能だっただろうか?だが、一見理屈に合っているように見えるこの立場には根本的な矛盾があることに、当時は気がつかなかった。それはそういう大勢に従うことによって、自分がその大勢を作る一人になってしまったことである。そして自分だけでなく、同じような他の人たちをその大勢に巻き込む手伝いをしてしまったということである。気に入らぬ大勢を自分で支えておきながら、その大勢を理由にこれに従う――ここには勇気の欠如と自己欺瞞があったと思う。
 あの戦争は私が作りだしたものではない。だから私には「戦争犯罪」はないと思う。戦争犯罪人は決定を下した天皇をはじめとする当時の権力者である。だが私にもやはり僅かなりとも「戦争責任」はあったと思わざるを得ないのだ。
 その責任は道義的なものである。この道義的責任は私に義務を課している。現在と将来に対してである。それはそういう大勢を作ろうとする一切の試みに対して、決して傍観者にはならないという義務である。
 
日本は日中戦争開始前の一九三六年の段階でも、軍事費が国家予算の五〇パーセント近くを占めていた。それが日中戦争を始めた一九三七年には七〇パーセント近くになり、敗戦直前の一九四四年には実に八五パーセントを超えていた。国家として完全に破たんしている
 
国民の大多数は民衆である。民衆がほんとうに闘わなければならない相手は誰だろうか。それは自分たちを虐げ、戦争に駆り出す人たちではないだろうかそれぞれの国で、民衆を利用する人たちと闘い、戦争をさせないようにすれば、戦争などそもそも起こらないのではないか。私たちが「闘う」べき相手は身近にいる私たちは他国民と「戦う」のではなく、戦争で儲ける人たちと「闘う」のでなければならない。そのためには、国境を越えて民衆が連帯しなければならない

読んだ。 #訂正可能性の哲学 #東浩紀 #ゲンロン叢書014

読んだ。 #訂正可能性の哲学 #東浩紀 #ゲンロン叢書014

 

 レイ・カーツワイルのシンギュラリティや、落合陽一さんの「デジタルネイチャ―」、成田悠輔さんの「無意識データ民主主義」、鈴木健さんの「なめらかな社会とその敵」、ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」、等、「人工知能民主主義(データ至上主義)」と呼ばれるような、人間よりも人工知能に政治を任せたほうが人類の総幸福量は高くなりそうなのでそういう社会にしていこうというようなムーブメントに対して、東さんは、それをそのまま進んでしまうのは危険なのではないかと考えている。

 

 「人工知能民主主義」は共産主義が終わった後に現れた新たな「大きな物語」である。
 ルソーの「一般意志」はそれがどういったものなのかはっきりとはわからないままに、民主主義社会が理想として目指すものであったが、コンピュータ技術の進歩により、ついに達成できるのではないかというような話になっているようなのだが、ルソーの「一般意志」は実のところ、社会が「できてしまった」後に、「訂正」によって、「遡行的に」発見されたものだった(と、ルソーの『社会契約論』以外の著作などを読んでみるとそのように読める)
 ビッグデータ分析では、例外も統計の一部として取り込み、個々の個人性や統一性はデータとして分解され、主体性は消去されてしまう。
 「人工知能民主主義」によって、常に正しいとされる「一般意志」というものを成立させてしまうと、それは訂正不可能なものになり、新しい全体主義のようになってしまう可能性がある。かなり危険である。各主体が消去されたデータにより表された統計はつねに正しいものとされ、個人が反論する為の主体は消去されてしまっている。
 本当にそのような人工知能が人間の生活を効率よく制御する社会になってしまった場合、人類は幸せに生きていけるのだろうか。「人間とはなにか」「幸せとは何か」というような未だ答えの出ていない問題が最悪の形となって再来する可能性はないのだろうか。

 人間の「正しさ」というものは、つねに「正しさ」それ自体に反対する人たち、懐疑論者が出現し、そこでのせめぎ合い(政治)により、バランスを取りあいながら、「正しさ」が「訂正」され続けることによって持続されてきたものである。
 「一般意志」には必ず「訂正可能性」を持たせなければならない。それは例えば「家族」という概念ように、メンバーもルールもなにもかもが変わっていくにもかかわらず、参加者たちはなぜかみなが「同じゲーム」を行い、「同じなにか」を守り続けていると信じているというように、「閉じて」いながら「開いて」いるものでなければならない。訂正可能性によって、その社会は持続可能なものになっていく。
 正しさとは、正しい発言や行為などが確固として存在するようなものではなく、つねに過ちを発見し、正しさを求める運動としてしかありえないのではないか。
 人類は常に誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということ。

 

 この本で東さんは、ルソー、ウィトゲンシュタインクリプキ、ローティ、アーレントドストエフスキートクヴィルなど、過去の哲学者たちのテクストを上記のような意味で読めるような読み方に読み替え、繋いでいく。
 それがそのまま、過去の哲学を「訂正」していく営みで、その連鎖が人間にできる正義の態度であり、それが哲学であるのではないか、と語られているのではないかと思う。

 
 
 
共産主義による家族の否定そのものが、共同体家族という特定の家族が生み出したイデオロギーでしかなかった可能性
 革命は家の否定から始まった。革命後のソ連では、労働者が家庭に滞在する時間をできるだけ少なくし、共同生活の場にひきずりだすような住宅の改革が試みられていた。にもかかわらず、もしその家の否定が、それ自体特定の家族形態によって支えられる価値観でしかなかったのだとすれば、これはどのように考えればいいのだろう。だとすれば、プラトンヘーゲルによる家族の否定もまた、同じように別の家族形態に支えられていたのかもしれない
 
ぼくたち人間はしょせんは家族をモデルにした人間関係しかつくれないのではないかという疑いである。家族のかたちが異なるだけで。
 
言語ゲーム言語ゲームにおいては、プレイヤーは自分がなんのゲームをプレイしているか理解することができないし、またどんな規則に従っているかも理解することができないいったいなんのゲームをプレイしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている、それこそが言語の本質。
 
家族的類似性家族の比喩を、共同体が閉じているさまではなく、むしろ閉じることができないさまを意味するものとして使っている
 
クワス規則も意味も本当は実在せず、現在の行為を支えているはずの規則や意味は、未来の行為に照らしていくらでも論理的に遡行的に書き換えることができる
 
一般名は定義の束に置き換えることができる固有名は定義の束に還元することができない。
固有名は、その定義を遡行的に訂正することができる。だから一般名とは異なる論理的な挙動をする。この固有名の奇妙な性格こそが、開かれているものでも閉じているものでもない、「家族」という第三の共同体の構成原理となる
 
クリプキの考えでは、固有名の指示対象はそもそも定義により決定されていない。「多くの話し手にとって、名前の指示対象は、記述によってよりもむしろコミュニケーションの「因果的」な連鎖によって決定されている」。ここで「因果的な連鎖」とは、話し手が特定の固有名の意味をだれからどのように教わり、またそのひとがだれからどのように教わったのかという、きわめて具体的な言葉の伝達の連鎖を意味している。クリプキは、固有名の指示対象は、そもそも定義ではなくこの言語外的な連鎖によって決まるので、逆に定義をいくらでも訂正できるのだと考えた。
 
政治とは本質的に、「友」と「敵」の対立を基礎として敵を殲滅する行為。
 
あらゆる問題が論争の対象となり、人々は友と敵に分かれ争っているが、マルクス主義のような大きな枠組みはもはや存在しないので、現実は調べれば調べるほどわからなくなるそれゆえ多くの人々は、すべてを単純な陰謀論で切り取り心の平安を保つか、あるいはすべてに無関心になって麻痺するか、どちらかの状態に陥っている。それがポピュリズムフェイクニュースに溢れた現代社会の基本的な条件だ。
 したがってぼくは、なにかについて断片的な情報しか入手できないまま、友にもならず敵にもならずらず「中途半端」にコミットすることの価値を、あらためて肯定する必要があると考えた。それが『観光客の哲学』の核となる執筆動機である。そのような肯定がなければ、現代人はまともに政治に向きあうことができない。ぼくたちはどうせすべての問題に中途半端にしか関わることができないのだから、まずはその限界をきちんと認め、そのうえで新たな社会思想を立ち上げなければならないのだ。
 
観光客とは、沖縄について、福島について、憲法改正について、あるいはそのほかさまざまな問題について、政治的な意志表明を行う運動の共同体に加わり、そしてまた去っていく、そのような一般市民のことである彼らの存在は当事者や活動家からすれば迷惑かもしれないともに運動の未来をつくるわけでもなく、本気でないならば出て行ってくれといいたくなるかもしれないけれども、そのような中途半端な人々の関与を認めることなしに、あらゆる共同体は持続的なものになりえない。運動も持続的なものになりえない。それがウィトゲンシュタインクリプキ言語哲学から導かれる、実践的な結論のひとつである。
 
保守とリベラルの対立はそもそもがアメリカのものである
()同国では、いわゆる「左」、すなわち正義や社会主義が政治的な力をもつことがなかったアメリカでは、みながリベラリズムを支持しているという前提のうえで、古典的なリベラリズムを守る側が「保守」、現代的なリベラリズムを推進する側が「リベラル」だという独特の差異化が成立した
 
・あえていえば、仲間との関係を優先する [・・・・・・] 立場が保守と、普遍的な連帯を主張する [・・・・・・] 立場がリベラルと親和性をもつといえる。
 
・そのような共同体を優先させる発想、それそのものがリベラルにとっては反倫理的で許しがたいということになる。他方で保守にとっては、身近な弱者を救わなくてなにが政治だということになろう。
 
俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです」。
 
プラグマティズム「真理」とか「正義」とかいった抽象的な概念について、そこになにか超越的なものが隠されていると考えるのではなく、むしろそれらが現実の生活のなかで果たす実用的(プラグマティック)な機能に注目し、その観点から哲学や倫理学を再構築しようとする思想的立場。
 
リベラル・アイロニズム革命の理念を信じてもいい、カルトの神を信じてもいい、ただしその思いはあくまでも自分の心のなかだけにしまって、公共の場に持ち出すなという要請
その自己矛盾こそが、「自由で民主的な世界」を維持するために必要不可欠
自由民主主義なるものは、みながその限界を受け入れることでかろうじて維持されている
 
「共感」や「想像力」
多くのひとは、人類よりもはるかに小さな「わたしたち」にしか共感できない
「わたしたちリベラル」が民族中心主義的に肯定可能なのは、その民族=エトノスの内部に自己変革と自己拡張の契機が繰り込まれているがゆえなのだ
 
・家族の概念を再構築する必要性。共同体の同一性がたえず訂正され続けるということ。それは共同体が持続可能だということでもある。最近のリベラルは開放性についてばかり考えてきた。そしてあまりにも持続性に無頓着だった。
 
政治が目指すべき公共性は、開放性の場としてだけではなく、同時に持続可能な場として、したがって訂正可能性の場としても構想されなければならない。()
 理想の政治は、あらゆる法、あらゆる偏見、あらゆる差別、あらゆるイデオロギー、あらゆる友敵の分割を乗り越えるものでなければならない。本書の議論はそのような信念のうえに組み立てられている。その点ではリベラルの側に立つ。
 けれども同時にぼくは、その理想は、歴史の蓄積を否定するのではなく、つまり「リセット」するのではなく、過去の不条理さをあるていど許容しつつ、しかし同時につねに訂正可能性に開いていくような、持続的な運動を経由して実現されるほかないと考える。その点では本書はリベラルから離れている。そのような諦念は、リベラルからすれば、保守的であり、また現状追認として非難されるものろう。しかしぼくは、それだけが現実的な社会変革の態度だと考える。ぼくたちは、「リベラルなアイロニスト」として、あるいは再帰的な保守主義として、伝統を守るために変える、あるいは変えるために守る、そのような両義的な態度をもって社会に接さなければならない。おそらくは、それだけが人間にできることなのである。
 かつてジャック・デリダは、脱構築とは正義のことだと記した。それに倣えば、ぼくの考えは、正義とは訂正可能性のことだと表現できるかもしれない。人間はつねに誤る。正義はその訂正の運動でしかない。正義は、開かれていることにではなく、つねに訂正可能なことのなかにある
 
人間はけっしてそんな怪しげな営みを破棄できない。なぜならば、その「カルト的」なスタイルは、じつは人間が言語を用いて思考するかぎり避けることができない、ある条件を凝縮して反映したものにすぎないからである。その条件が、まさに本論で「訂正可能性」と呼んできたものである。
 
・ぼくたちは単純な加法ですら完全には定義できない。クリプキ懐疑論者を排除できない。だとすれば、真理や善や美や正義といった厄介で繊細な概念について、同じようにすべてをひっくり返す懐疑論者の出現をどのようにして排除することができるだろうか。人文学者はそのことをよく知っている。それゆえ人文学は、すべての重要な概念について、歴史や固有名なしの定義など最初から諦めて、先行するテクストの読み替えによって、すなわち「訂正」によって、再定義を繰り返して進むことを選んでいるのである。それは結果的に、先行者の業績を無批判に尊重する、非科学的で権威主義的なふるまいにみえる。しかしけっしてそれが目的なわけではない。
 だからぼくは本論で、訂正可能性について理論的に語るとともに、またその訂正の行為を「実践」しなければならないと考えた。ぼくはこの第一部で、家族や訂正可能性について「正しい」理解を提案したのではない。ぼくが行なったのは、ウィトゲンシュタインの哲学を訂正し、ローティの連帯論を訂正し、アーレントの公共性論を訂正する・・・・・・といった訂正の連鎖の実践である。だから本論の結論も、いつかまた読者のみなさんによって訂正されるかもしれない。その可能性は排除できない。むしろその排除の不可能性こそが人文学の持続性を保証するのだ。
 人文学がこのようなスタイルをとるのは、けっして人文学者が愚かだからではない。人間はそもそもそのようにしてしか思考できないのだ
 
だれもがあらゆるひとの意見に接し、すべてを調査できる環境においては、多くのひとはむしろ、話したいひととだけ話し、見たいものだけを見聞きたいことだけを聞くようになってしまう
 
人類社会の全体が、人工知能の助けを借りることで、いわば「群れ」として賢くなる可能性について考えていた。
()「人間は機械の助けを借りるとすごいことができる」というシンギュラリティの夢と、「人間は機械の助けを借りないとろくに意志決定もできない」という民主主義への失望は、そこではぴたりと重なり合うのだ。
 
あまりにも複雑になった世界においては、もはや人間の貧しい自然知能に統治を任せることのほうが危険で無責任であり、これからは民主主義を守るためにこそ、むしろ政治から人間を追放し、意志決定を人工知能に任せるべきなのではないかと提案する新しい政治思想のことである。
 
・ぼくがシンギュラリティの思想を批判しているのは、その変化は人間が人間であることになにも関係しないむしろそこでは「人間とはなにか」という古い問題が帰ってくるにすぎないと考えるからだ。
 
・ぼくはさきほど、シンギュラリティの物語は過剰な人間信仰と呼んでもいいし、逆に人間批判と捉えてもかまわないと記した。人間はあまりにも能力があるから、逆に人間の限界を超えることができる共産主義もそう考えた。だから彼らは、私有財産と資本主義を克服し、家族や民族を解体することが可能だと信じた過剰な人間信仰と素朴な人間批判の両立、それこそが大きな物語」の本質である。
 
人民(デモス)支配(クラティア)するという、統治者の数を意味する言葉でしかなかった。統治者がひとりなら君主制少数なら貴族制多数なら民主制
 
当時は東西ともに民主主義を掲げていた西は「自由民主主義」を唱え、東は「社会主義的民主主義」を唱えていた
()
そもそもの民主主義の定義そのものが曖昧だからである。西側では、社会が人民の意志に導かれるためには、まずは市民的自由の確保が不可欠だと考えられただから言論の自由が尊重され、複数政党制が重視された。逆に東側では、社会が人民の意志に導かれるためには、まずはブルジョワ階級の支配を打破することが必要だと考えられただから共産党の一党支配でも問題はないとされていた。そのような考えはいまの日本の常識では突飛に聞こえるかもしれない。けれども、資本家が自由を謳歌し、労働者が搾取されている状況で人民の意志など現れるはずがないではないかといわれれば、いくら西側社会の優位を信じていても口籠らざるをえないのではないか。
 
人間とはけっして合理的な強い存在なのではなく、むしろつねに情念に振り回され、他人を傷つけ、ときに自分自身すら壊してしまうような弱く不安定な存在なのであり、それゆえに尊いのだという人間観である。
 
・『ルソー、ジャン=ジャックを裁く―対話
彼は本編の対話を書き上げたあと、発表方法についていろいろと考えたらしい
 まず大前提として出版はできない。周囲はみな陰謀に加担しており、だれも信用できないからだ。そこでルソー写本を一冊だけつくり、ノートルダム寺院の聖壇にこっそりと奉納することを思いつく。そうすれば「迫害者」の手に渡ることなく、告発が国王のもとに届くかもしれないからである。ルソー視察を繰り返し、聖壇がある内陣に侵入可能な日時と経路を決定するところが決行の日に寺院に行くと、新しい柵が設けられていて侵入ができないルソーは大きな衝撃を受けるが、陰謀は彼の想定より広大に張り巡らされていて、いまや奉納すら危険なのだという神からのメッセージだと前向きに捉える。
 ルソーは気をとりなおし、古い友人の文学者に原稿を読んでもらうことにする。この文学者はのちの研究でコンディヤックだとわかっている。ルソーは原稿を渡し、二週間後に感想を聞きに行く。けれども当然のことながら、コンディヤックは言葉を濁し、彼が期待したような興奮を示さない。ルソーは深く失望し、以後の親交を断つ。そしてあらためて原稿を委託できる人間を探し始める。
 こんどはそこにたまたま、イギリス滞在時に知り合った若い詩人が訪ねてくる。ルソーはふたたび天啓を受け、外国人こそが告発先としてふさわしいと確信を抱く。そして実際に原稿の一部を渡すのだが、詩人が帰るとまた猜疑心に囚われ始める。そもそもなぜ彼はやってきたのか。イタリアかイギリスへ帰る道の途中だというけれど、あまりにタイミングがよくはないか。そういえば妙に愛想がよかった・・・・・・。というわけで最終的にどうするかというと、ルソーはなんと、著書の内容を要約したビラをつくり、パリの路上で配布し始めるのである。ビラは「いまだ正義と真実を愛する全フランス人へ」と題され、日本語版の全集ではあとがきのあとに収録されている。かなりの枚数が印刷されたが、ほとんどのひとに受け取りを拒否されたらしい。パリ有数の名士の行動としてはかなりの奇行だった
はずだ。結局本編自体はだれの手にも渡っていないのだから、当初の目的も見失われている。けれども、繰り返すが、ルソーはとにかくそういう不安定な人物だったのである。
 
エルンスト・カッシーラー
ルソー問題」一方で「ひとはひとりで生きていける」と言いながら、他方では「ひとは社会全体の意志に従うべし」と言っている。
 
ホッブズやロックは、ひとはひとりでは生きられない、だから社会をつくったと考えた。対してルソーは、ひとはひとりでも生きられる、にもかかわらず社会をつくってしまったと主張しているのだからだ。
 
もしいま不平等な社会が成立しているのだとすれば」という条件のもとで、遡行的に見出される仮説的な存在と理解するべきなのである。
 不平等な社会はどこでも成立しているのだから、その仮定は現実には条件節として機能しない。だから『社会契約論』をふつうに読めば、一般意志は素朴に実在すると語られているようにしか受け取れない。けれども、その隠された仮定を想定するとしないとでは、同書の多くの箇所の読みが異なってくる。
 
ルソー社会契約をめぐる遡行的な思考が、それを支える「しまった」の論理=訂正可能性のダイナミズムが忘れ去られたとき、いかに政治的に危険なものに変貌するかも示している。
 
・「もしいま不平等な社会が成立しているのだとすれば」という条件節を挟み込み、つぎのように解釈しなければならないのだ。
 ・・・・・・もしもいまきみたちがこの不平等な社会の存在を承認しているのであれば、かつて社会契約が成立したと想定せざるをえない。だとすればきみたちはいま、論理的な必然として、自分では自由だと感じながらも、同時に一般意志の命令には絶対的に服従しなければならないような、そういう状況に置かれていることになる。それこそが社会が成立するということだが、はたしてきみたちはその残酷さをどこまでわかっているのだろうか――そのような逆説的な問いかけとして。
 
・二一世紀のいま、ルソー自身が想像もできなかった知識や技術と結びつけて再解釈することができる。
 そのような再解釈を促すものとして、とくにふたつの変化がある。ひとつは「無意識の発見」である。
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ルソーを再解釈するにあたり、もうひとつの重要な視点は「統計の整備」である。
 
ぼくにはそれは支持できないかといってぼくたちは、いまさら安易にルソーを破棄することもできないだからこそぼくはここまで、ルソーのテクストを別のしかたで読む方法を探り続けてきた
 
人間はそもそも、理想社会の到来にそれが理想社会だというだけの理由で反抗することができる、そういう厄介な存在だということである。そういう厄介さにどう対処するか。その思考が欠けているかぎり、政治思想は成熟したものになりえない。
 
そしてその「正しさ」は、つねに懐疑論者の出現によって「訂正」され続ける政治とはその訂正の場のことだ。
 
ビッグデータ分析は、本性上、例外をつねに群れの一部として取り込み、その例外性を消去してしまうことを意味している。
 
アルゴリズム的統治性主体化を消去する。ぼくがさきほど訂正可能性の消去として捉えた問題を、ルヴロワとバーンズ主体化の消去として捉えている。
 
フーコーは、近代国家の権力はそのような単純なものではないと考えた。ヨーロッパで生まれ、発達した近代国家なるものの権力は、それ以前の、あるいはそれ以外の地域の国家権力と異なり、人々から単純に自由を奪うものではなくむしろ人々の生に積極的に介入し、個人の自由そのものを管理し方向づけることで社会全体の秩序を形成するような、より巧妙なものに変わることになったというのだ。
 
フーコーによれば、近代国家は、人々を「主体」にし、その内面に権力の視線を移植し、好き勝手に生きているようでいて自発的に秩序を形成するような両義的な存在に変えることで、かつてなく効率的で安定した統治を実現した。彼はそのような統治のありかたを「生権力」とも呼んでいる。
 
社会心理学者のショシャナ・ズボフ「監視資本主義」
人間の経験を、行動データに変換するための無料の原材料として一方的に要求」し、その「行動余剰」から「予測製品」を生産したうえで、最終的に、その予測を原材料となった経験を提供した人々とはなんの関係もない「行動先物市場」で販売することで、プラットフォームが莫大な利益を得ることを可能にする体制のことである。ひとことでいえば、プラットフォームが個人情報を集めて儲ける体制のことだ。
 
わたしたちはもはや、価値実現の主体ではない。また、一部の人が言うような、グーグルの「商品」でもない。そうではなく、わたしたちはグーグルの予測工場で原材料を抽出・没収されるにすぎないわたしたちの行動に関する予測がグーグルの商品であり、それらを買うのは、グーグルの真の顧客である広告主であって、わたしたちではないわたしたちは他者の目的を達成するための手段なのだ」。
 監視資本主義においては、プラットフォームの利用者は商品の売り手ではない。むろん買い手や作り手でもない。流通する商品をつくりだすための「物」、つまり素材にすぎない
 
いまの民主主義国家において、選挙はそもそも有権者の意志を集約するためだけに行われているわけではない社会を統合する儀式としての役割があるし、教育的な機能も備えている。投票した党が政権を担えば、いくら消極的な選択でも責任の感覚が多少は芽生える。悪政が続けば後悔も感じる。その経験が有権者の成長を促しもする。
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なぜならば、それは結局のところ世のなかの情勢に合わせて票を分散させただけの話でしかなく、個人としてはなにも「選んで」いないからだ。結果として与党の悪政が続いたとしても、次回は多少分配率を下げようと思うくらいで終わりだろう。伝播委任投票では、投票は投資のポートフォリオに似てしまう。しかもリスクもリターンもない投資だ。
 伝播委任投票では有権者が主体化しない。これは考えてみれば当然である。そもそも分人民主主義とは、個人の単独性と統一性を解体し、分人の束に分解することを理想とする思想だったからである。したがって鈴木はもしかしたら、このような批判に対しても、分人民主主義は主体をつくらない、それはじつにけっこうなことではないかと答えるだけかもしれない。けれどもぼくは、ここまで論じてきたように、主体化が回避されることには、社会を維持し運営していくうえで大きな問題があると考える。
 
・近代において、民主主義を追求することがかえって人間の解体や排除につながるという危険な逆説があることを、あらためてはっきりと示してくれているからである。
 
・したがってぼくは、人間の社会について考えるにあたり、その「私」という固有性の感覚に直面しない思想は、すべて原理的な欠陥を抱えていると考える人工知能民主主義は現行の民主主義より効率的なのかもしれない。意志決定は迅速で、資源配分も巧みで、多くの人々を幸せにしてくれるのかもしれない。しかし、それでも、それが生の一回性を無視し、人々の意志を群れの表現としてしか理解することができないかぎりにおいて、けっして持続的な統治は実現できない。いくら人間を家畜のように管理するのが合理的だったとしても、実際には人間は家畜ではないので手痛いしっぺ返しに遭うだけだ。それが言語ゲーム論の教えであり、だからぼくたちは訂正可能性の哲学を必要とする。
 
・たとえかりに「人類を愛する人々」の提案がすべて正しく、人類全体の快や幸せがなんらかの方法で最大化できるとしても、個人としての人間には必ずその全体を拒否し破壊する自由がある。だからいかなるユートピアもけっして全員を救うことはできない。それがドストエフスキーの哲学だった。
 
一般意志は「私」を必要とする。政治は文学を必要とする。これは統治者には文系の教養も必要だとかなんとかいった、感情論の話ではない。人間のコミュニケーションの条件そのものから導かれる、厳密に論理的な話である。ぼくたち人間は、絶対的で超越的で普遍的な理念を、相対的で経験的で特殊的な事例による「訂正」なしには維持できない、そのようなかたちの知性しかもっていない。政治の構想もまたその限界には制約される。
 だからぼくたちはけっして、民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない。それが本論の主張であり、本当は『一般意志2.0』でも伝えたいことだった。
 
アレクシ・ド・トクヴィル
アメリカはなぜ共和制を維持できているのだろうか。→アメリカは権力の分散に成功したから
アメリカの市民はそもそも、入植時に遡る歴史的な経緯や宗教的な背景、民族的な画一性、経済的な条件などさまざまな要因によって、個人の自律を尊重し、権力の集中を避ける「習俗」を育て上げていた
 
アメリカ人は自分の力しか信用していない。社会を当てにしない。困難は可能なかぎり自分たちで解決する
 
アメリカではとにかくいろいろなひとがいろいろなことを勝手にやっている、それが重要だと考えていたのではないか。結社の自由は、それによって悪が正されるから重要なのではない。現実には正しい目的の結社があるのと同じように、悪い目的の結社やくだらない目的の結社もあるだろうけれどもそれでいい重要なのはそのような多様な結社が存在することであり、自由はその環境を整えるために必要なのだ
 
 民主主義の本質は喧騒にある。終わることのない対話が一般意志を取り巻くことで、統治は健全なものになる。
 
陪審制はあらゆる階級の人々を法的な考え方に親しませる」のであり、「人民の判断力の育成、理解力の増強に信じられぬほど役立つ」ものだと考えたからである。これはつまり、トクヴィルが、陪審制を、判決の場というより、むしろコミュニケーションの場として評価していたことを意味する。実際彼は、「陪審制を司法制度として見ることに限るとすれば、思考を著しく狭めることになるのであり、「人民主権の一つのあり方」として分析されねばならないと繰り返し強調している。陪審制は正しい判断はもたらさないけれども陪審員喧騒はもたらすその経験が市民を育てる。この論理の組み立ては、さきほど民主主義をめぐる議論にみたものとまったく同じである。
 トクヴィルアメリカに、終わることのない喧騒による統治の訂正可能性を発見し、それを民主主義と名づけた。ぼくは第一部の終わりで、正義とは訂正可能性のことだと記している。それに倣えば、民主主義もまた訂正可能性のことだといえるだろう。一般意志は、つねに正義と民主主義によって訂正され続けなければならない。これをもって第二部の結論としたい。
 
フランスは革命という花火を打ち上げただけで終わった。アメリカはそのあとも共和制を維持した。だからアメリカのほうが革命と民主主義の経験としてすぐれている
 
正しさとは本当は、正しい発言や行為なるものが確固として存在するようなものではなく、つねに過ちを発見し、正しさを求める運動としてしかありえない
 
ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ。本書は、そんなおそろしくあたりまえな認識を、哲学や思想の言葉でガチガチになってしまったひとに思い出してもらうために書かれた書物でもある。
 
哲学とはなにか、と問いながらこの本を書いた。本書の主題である「訂正可能性」は、その問いに対する現時点での回答である。哲学とは、過去の哲学を「訂正」する営みの連鎖であり、ぼくたちはそのようにしてしか「正義」や「真理」や「愛」といった超越的な概念を生きることができない。それが本書の結論だ。
 
・哲学者の使命は、正義や愛について「説明する」ことにあるのではなく、それらの感覚を「変える」ことにあるのだと考えるようになった。それが本書でいう「訂正」である。
 人間は幻想がないと生きていけない。自然科学はそのメカニズムを外部から説明する。本書で参照した言語ゲーム論の比喩を使えば、正義や愛のメカニズムを、まるでゲームを統べるルールであるかのように説明する。
 けれどもいくら成り立ちが解明されても、人間が人間であるかぎり、ぼくたちは結局同じ幻想を抱いて生きることしかできない。同じルールのもとで、同じゲームをプレイし続けることしかできない。正義や愛を信じることしかできない。だとすれば、ぼくたちに必要なのは、ルールを解明する力ではなく、まずはそのルールを変える力、ルールがいかに変わりうるかを示す力なのではないか。
 哲学はまさにその変革可能性を示す営みであり、だから生きることにとって必要なのだというのが、ぼくがみなさんに伝えたかったことである。
 
 

読んだ。 #万物の黎明 人類史を根本からくつがえす #デヴィッド・グレーバー #デヴィッド・ウェングロウ #酒井隆史 #thedawnofeverything #davidgraeber #davidwengrow

読んだ。 #万物の黎明 人類史を根本からくつがえす #デヴィッド・グレーバー #デヴィッド・ウェングロウ #酒井隆史 #thedawnofeverything #davidgraeber #davidwengrow
 
アナキスト、人類学者のデヴィッド・グレーバー と、考古学者のデヴィッド・ウェングロウが、人類学の通説を、新しく発見された考古学の資料から語りなおす、というような本。
「ビッグ・ヒストリー」と呼ばれている(らしい)、ユヴァル・ノア・ハラリやジャレド・ダイアモンドスティーブン・ピンカーたちも批判されている。
人類は、狩猟採集→農耕→富の蓄積→不平等、国家、現在の社会システム、と不可逆的に進んできただけではない!農耕をやってみたけど止めて狩猟採集に戻り長く続いた社会もあったし、王政ではあったもののヒエラルキーを解消するように運用していた社会もあったし、人類の過去には様々な社会もあったのだ!もうどうしようもないのだと諦めるんじゃねえ!というような感じで、世界中で発見された古代のいろんな社会システムの例を紹介しまくってくるような感じ。
 
たしかにおもしろいところも多かったが、英語の日本語訳だからなのか、けっこう読みやすくない文章のうえに643P、しかも二段組、長い&重い(本が)。
そして人名、共同体、村落、都市、帝国、文明、遺跡、部族、など、出てくる固有名詞の多さも半端なく、自分の脳力ではこれってなんだったっけと忘れてしまうことも多く、これは最後まで読めないのではないか、と何度か思った。が、なんとか最後まで目を通せたのでよかった(内容をどこまで覚えているか、自信はないが)。
 
 
・本書で乗り越えたいのは、この[ルソーかホッブズかの]二者択一なのだ。
 
グレゴリー・ベイトソン。「分裂生成」人は、近隣の人間たちに対立させてみずからを定義するようになる。都市民はより都市的になり、野蛮人はより野蛮になる。もし「国民性」などというものが本当に存在するとすれば、そればこのような分裂生成過程の結果でしかありえない。
 
・A・R・J・テュルゴー。未開人の自由と平等はかれらの優越性ではなく、劣等性の証なのだ、と。
 
社会進化論は、先住民による批判の影響に対する直接の応答としてはじまったのである。
 
・ルソーがカンディアロンクとは異なり、所有以外のものに基礎をおいた社会をまったく想像できないという点にある。
 
・本当の問題は、「社会的不平等の起源はなにか」ではなく「どのようにして閉したのか」である
 
・アマゾンの首長たちが計算高い政治家であったというだけではない。かれらは本物の政治的権力を行使できないように設計された社会環境のなかでふるまうよう強いられた、計算高い政治家だったのである。
 
・これが、旧石器時代の「プリンス」の埋葬――あるいはストーンヘンジ――のような壮麗なる劇場(マジェスティック・シアター)が、けっしてお芝居の域を超えていないとおもわれる理由のひとつである。かんたんにいえば、たとえば七月になればまた対等に接することになる相手に対して、一月には恣意的な権力を行使するのはむずかしいのである。
 
・平等主義的社会と呼ばれる社会のメンバーの多くは、平等そのものよりも「自律性(オートノミー)」に関心を寄せている。たとえば、モンターニャ=ナスカピの女性にとって重要なのは、男性と女性が同等の地位にあるとみなされるかどうかではなく、女性が個人的にも集団的にも、男性の干渉を受けずにじぶんの人生をまっとうし、じぶんで決断できるかどうかなのである。
 
・本当に謎であるのは、首長や王、あるいは王妃がいつ登場したかではない。かれらを笑い飛ばすことができなくなったのはいつなのか、なのだ。
 
・カンディアロンクのような先住民の批評家は、その場の空気に合わせて、みずからの主張を誇張したり、じぶんたちが無垢なる幸福な自然の子であるかのようにふるまったりすることもたびたびあった。しかし、かれらがそうしたのも、ヨーロッパ人のライフスタイルの奇怪なる倒錯をあかるみにだすためであった。皮肉なことに、そうすることで、かれら――無垢なる幸福な自然の子たる――には土地に対する自然権がないと主張する人々の術中にはまってしまったのである。
 
・首長と強制的権力とがむすびつかないようにしていたのとおなじく、その所有システムが強制的権力とむすびつくことのないよう、人びとが努めていたからである。
 
・私的所有と不可侵なるもの(セイクリッド)[聖なるもの]の観念のあいだに密接な並行があることを認識することは、ヨーロッパの社会思想の歴史的に奇妙な点を認識することでもある。すなわち([先住民たちの]自由社会とはまったくちがって)私的所有におけるこの絶対的で不可侵なる[聖なる]性質を、すべての人権と自由の範型(パラダイム)として捉えている点である。
 
・所有的個人主義。じぶんの土地、家屋、車などから他人を排除する権利を合法的に保持しているという観念に基礎づけられている。
 
民族誌家たちは、このような所有権には、支配とケアという二重の意味があることも指摘している。所有者がいないということは、無防備にさらされているということでもあるのだ。
 
・その意味するところは、クランのメンバーは、その「所有」する動物を狩ったり、殺したり、傷つけたり、消費してはならぬ、ということである。実際には、かれらにもとめられているのは、その動物の生存を支え、繁殖を促すための儀礼に参加することなのである。
 ローマ法の所有概念――現在のほとんどすべての法制度の基礎となっている――が独特であるのは、ケアをしたり共有したりする責任が最小限に抑えられているか、完全に排除されている点である。ローマ法では、占有 にかかわる三つの基本的な権利がある。 usus (使用する権利)、fructus (所有物の産物を享受する権利)、abusus (損害を与えたり破壊したりする権利)である。最初の二つの権利しかもってないないばあい、これは usufruct [用益権、使用権]と呼ばれ、法に保護された真の占有とはみなされない。つまり、真に法に即した所有を規定する特徴は、人がそれをケアしない、あるいは意のままに破壊するという選択肢を有しているということなのだ。
 
・革命が公然たる戦闘で勝利することはめったにない。革命家が勝利するときは、かれらを弾圧するために送り込まれた人間の大半が銃撃を拒否するか、端的に帰宅してしまうときなのだ。
 
・暴力の支配、知の支配、カリスマ的権力という三つの基本的支配形態が、それぞれ独自の制度的形態(主権、行政管理、英雄政治)に結晶化する
 
・官僚制帝国がはじめて成立するときは、そこにはほとんどつねに、ある種のたがの外れた等価システムがともなっているのである。
 
・三つの原初的自由=移動する自由、服従しない自由、社会的関係を創造したり変化させたりする自由
 
・相互扶助、社会的協働、市民的活動、歓待(ホスピタリティ)、あるいはたんに他者へのケアリングなどが真に文明を形成しているのだとすれば、本当の意味での文明史の叙述は、いまはじまったばかりなのである。
 
・「あたらしい科学的真理は、既存の科学者に、それがまちがっていたことを納得させることで古いものに取って代わるのではない。古い理論の支持者がやがて死に絶え、後続の世代があたらしい真理や理論を身近で明白なものと感じることで、そうなるのだ」。
 
・「世界の隠された究極の真実は、その世界は、わたしたちがつくり、またおなじようにかんたんに別のかたちでつくることができるということだ」。