読んだ。 #現代思想入門 #千葉雅也

読んだ。 #現代思想入門 #千葉雅也
 
物事に対し二項対立で考えることを超えること(→脱構築)、
既存の秩序やパターン化したものから逸脱するもの(→差異)に注目し、それをクリエイティブなものとして肯定すること、
など、丁寧に説明されており、おもしろかった。
今後のための、哲学者別おすすめ書籍もあり。
 
現代思想の先駆となった「秩序の外の存在、非理性的なもの」に注目した、ニーチェフロイトマルクス
 
カント。(哲学とは「世界がどういうものか」を解明するのではなく、「人間が世界をどう経験しているか」、「人間には世界がどう見えているか」を解明するものだ、と近代哲学の向きを定めた)
精神分析ラカン。(精神分析批判というか、精神分析の胸を借りるようなかたちで自分の思想を形成しているという面が現代思想にはある)
 
そして、ポスト・ポスト構造主義、メイヤスー、ハーマンたちの紹介、二項対立の外のさらにその外。思弁的実在論など。レヴィナスもすごそう(存在するとは別の仕方で)。
 
千葉さんの授業を受けているような感じで、(これはどういうこと?)と思うところのすぐ後に、「これは○○のことです。」とか、「確認ですが、○○のことです。」というような説明が書かれてある。優しさ。
 
現代思想の読み方」も、独学者にはなかなか知れないところでよかった。
 
 
 
□物事を二項対立で捉えない デリダ
 
□人生のリアリティはグレーゾーンに宿る はじめに
 
□秩序の強化を警戒し、逸脱する人間の多様性を泳がせておく
 
□権力は「下」からやってくる フーコー
 
□搾取されている自分の力を、より自律的に用いる方法を考える
 
□自分の成り立ちを偶然性に開き、状況を必然的なものと捉えない
 
□人間は過剰なエネルギーの解放と有限化の二重のドラマを生きている
 
□無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組む
 
□大きな謎に悩むよりも、人生の世俗的な深さを生きる
 
 
 
はじめに 今なぜ現代思想
今なぜ現代思想を学ぶのか
11 ここで言う「現代思想」とは、1960年代から90年代を中心に、主にフランスで展開された「ポスト構造主義」の哲学を指しています。フランスを中心としたものなのですが、日本ではしばしば、それが「現代思想」と呼ばれてきました。
 
12 現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。
 ──と言うと、「いや、複雑なことを単純化できるのが知性なんじゃないのか?」とツッコミが入るかもしれません。ですが、それに対しては、「世の中には、単純化したら台無しになってしまうリアリティがあり、それを尊重する必要がある」という価値観あるいは倫理を、まず提示しておきたいと思います。そう聞いて、「ふむふむ、そうだよな」と思ってくださるならいいのですが、「なんじゃそれは」とイラつく人もいるかもしれない。ともかく読み進めてみて、役に立つものかどうかご判断いただければ幸いです。
 
13 現代は、いっそうの秩序化、クリーン化に向かっていて、そのときに、必ずしもルールに収まらないケース、ルールの境界線が問題となるような難しいケースが無視されることがしばしばである、と僕は考えています。何か問題が起きたときに再発防止策を立てるような場合、その問題の例外性や複雑さは無視され、一律に規制を増やす方向に行くのが常です。それが単純化なのです。世界の細かな凹凸が、ブルドーザーで均されてしまうのです。
 物事をちゃんとしようという「良かれ」の意志は、個別具体的なものから目を逸らす方向に動いてはいないでしょうか。
 
14 現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。
 人間は歴史的に、社会および自分自身を秩序化し、ノイズを排除して、純粋で正しいものを目指していくという道を歩んできました。そのなかで、20世紀の思想の特徴は、排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したことです
 
15 逸脱には実にさまざまな様態があります。考えてみてほしいのですが、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害は法によって遂行されたのであり、抵抗するには違法行為=逸脱が必要だったのです
 
16 そういう状況に対して僕は、さまざまな管理を強化していくことで、誰も傷つかず、安心・安全に暮らせるというのが本当にユートピアなのかという疑いを持ってもらいたいと思っています。というのも、それは戦時中のファシズムに似ているからです
 僕は祖父母が戦争を経験しているので、皆が一丸となってひとつの方向を向くことへの警戒心をギリギリ教えられてきた世代です。そういう昭和の記憶があるからこそ、一人の人間が逃げ延びられる可能性が倫理的につねに擁護されるべきだと考えるのです。犯罪の抑止は必要だとしても、過剰な管理社会が広がることへの警戒は言わねばならないし、現代思想はまさにその点に関わっており、人が自由に生きることの困難について語っている思想だと思うのです。
 秩序をつくる思想はそれはそれで必要です。しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えてもらいたいのです。
 
17 動物を飼うのもそうですね。他者が自分の管理欲望を攪乱することに、むしろ人は安らぎを見出す。ここが逆説的なのです。すべてを管理しようとすればするほど、わずかな逸脱可能性が気になって不安に駆られるのです。むしろ秩序の攪乱を拒否しないことで不安は鎮まっていくだから人は恋愛をしたり、結婚したりもするのです。それは秩序をつくるためというより、攪乱要因とともに生きていくことが必要だからでしょう。
 
 
入門のための入門
19 デリダについても良い入門書があるし、日本には東浩紀さんの『存在論的、郵便的──ジャック・デリダについて』(新潮社)という大変重要な研究書もあります。これは本格的な研究書ですが、推理小説のようにも読めるエキサイティングな本で、デリダに興味を持ったらぜひ読んでもらいたいですね。
 
 
20 ポストモダンとは「近代の後」です。そもそもの「近代」とは、今日我々が生きる社会の基本ができた時代で、17から19世紀あたりを指します(学問分野によって範囲が異なります)。近代とは、市民社会進歩主義、科学主義などが組み合わさったものです。
 大まかに言って、近代は、民主化が進み、機械化が進み、古い習慣が捨てられてより自由に生きられるようになり、「人間は進歩していくんだ」と皆が信じている時代です。皆が同じように未来を向いている。
 その後、世界経済が、つまり資本主義が発展していくなかで、価値観が多様化し、共通の理想が失われたのではないか、というのがポストモダンの段階です。このことを、大きな物語」が失われた、と表現します(この「大きな物語」という概念はジャン゠フランソワ・リオタールというやはりポスト構造主義の哲学者によるものです)。
 
22 相対主義批判=ポストモダン批判=現代思想批判、というわけです。
 なぜ相対主義はダメなのか。何でもありになるからです。事実にもとづかない陰謀論や、人を抑圧し暴力を肯定するような主張にも余地を与えかねない。ドナルド・トランプが大統領になった時期には、ウソを事実のようにごり押しすることを「ポスト・トゥルース」と呼ぶようになりましたが、そういう「世の乱れ」の原因はかつてのポストモダン現代思想にある、と批判する人も出てきた。
 これは不当だと思います。真理の存在が揺らぎ、人々がバラバラになるのは世界史のやむをえない成り行きなのであり、かつて現代思想はその始まりに反応して、それはいかなることなのかと理論化を試みたのです。
 確かに現代思想には相対主義的な面があります。後で詳しく述べるように、二項対立を脱構築することがそうなのですが、それはきちんと理解するならば、「どんな主義主張でも好きに選んでOK」なのではありません。そこには、他者に向き合ってその他者性=固有性を尊重するという倫理があるし、また、共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在しています。みんなバラバラでいいと言っているのではありません。いったん徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンスなのです。
 
 
23 具体的には異なってはいても、別の作品やジャンルで、抽象的に同じパターンが繰り返されているという見方は、今日ではよく見られるものです。物語のパターンを意識して新しい作品をつくる──「鉄板」のパターンを使ったり、あるいはパターンをズラしてみたり──というのは、構造主義的な方法です。大塚英志物語論はその代表で、ぜひ『ストーリーメーカー──創作のための物語論』(星海社新書)を読んでみてください。そうした見方を最初に展開したのが構造主義なんです。逆に言えば、驚くかもしれませんが、以前には何でもパターンとして考えられるというのは自明ではなかったのです
 
24 しかし、それに対して、パターンの変化や、パターンから外れるもの、逸脱を問題にし、ダイナミックに変化していく世界を論じようとしたのがポスト構造主義だと言えるでしょう。比べると、構造主義はもっとスタティック、静的で、世界をパターンの反復として割り切れると思っていたところがあった。
 
 
二項対立の脱構築
25 脱構築とはどういうものかは第一章で説明しますが、ここで簡単に言っておくなら、物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保するということです。
 
27 そもそも、二項対立のどちらがプラスなのかは、絶対的には決定できないからなのです。
 
28 本書では、デリダは「概念の脱構築」、ドゥルーズは「存在の脱構築」、フーコーは「社会の脱構築」という分担で説明します。
 
 
グレーゾーンにこそ人生のリアリティがある
29 能動性と受動性が互いを押し合いへし合いしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがある。
 
 
 
 
 
第一章 デリダーー概念の脱構築
独特なデリダのスタイル
デリダ(1930年(昭和5年)7月15日 - 2004年10月8日)フランス(満74歳没)
 
33 「脱構築」や「エクリチュール」といった概念によって知られる哲学者で、ポスト構造主義の代表的な一人と見なされています。デリダアルジェリア出身のユダヤ系フランス人で、哲学を志してパリに出て来た人です。ですからヨーロッパにおけるマイノリティとしての、他者としての立場を持っており、そこが彼の哲学に関わってきます。
 
34 入門書は、まず高橋哲哉デリダ 脱構築と正義』 (講談社学術文庫)をお勧めします。それは『散種』の第一論文「プラトンパルマケイアー」の開設から始まるのですが、このテクスト選定にはなるほどと思いました。「プラトンパルマケイアー」はエクリチュールの問題をプラトンから引き出してくるデリダ独自の手つきがよくわかるもので、かつ比較的読みやすい。デリダは、過去の哲学者の文章をひじょうに繊細に読解します。とにかく読みの達人なのです。読むとはこういうことなのか、ここまで読むものなのか、と圧倒されると思います。
 余談ですが、デリダの著作を読むと、最近強まっている「わかりやすく書かない方が悪い」という読者中心の態度がいかに浅はかであるか、思い知ることになります。デリダはひじょうに複雑なものを描きますが、それはデリダ自身がまず他人のテクストをきわめて高解像度に読む人だからで、そもそも「読むって、これくらい読みますよね?」というデフォルトの基準がハンパなく高いのです
 
 
二項対立からズレていく差異
35 ポスト構造主義現代思想とは「差異の哲学」であると、ひとことで言ってよいと思います。
 
36 「差異」は、「同一性」すなわち「アイデンティティ」と対立しています。同一性とは、物事を「これはこういうものである」とする固定的な定義です。逆に、差異の哲学とは、必ずしも定義に当てはまらないようなズレや変化を重視する思考です。
 
 今、同一性と差異が二項対立をなすと言いましたが、その二項対立において差異の方を強調し、ひとつの定まった状態ではなく、ズレや変化が大事だと考えるのが現代思想の大方針なのです。
 
 
39 それに対し、書かれたものは解釈がさまざまに可能で、別の文脈のなかに持っていけば価値が変わってしまう。エクリチュールは、ひとつの同じ場所に留まっておらず、いろんなところに流れ出して、解釈というか誤解を生み出していくのです
 そのようなエクリチュールの性質をデリダは悪いものと捉えず、そもそもコミュニケーションでは、そういう誤解、あるいは間違って配達される「誤配」の可能性をなしにすることはできないし、その前提で人と付き合う必要がある、ということを考えました。実際、目の前でしゃべっていたって、本当にひとつの真理を言っているとは限りません。しゃべっていることにだってエクリチュール性はあるのです。
 
 
二項対立の分析
42 脱構築の手続きは次のように進みます。
 ①まず、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。しかし、ただ逆転させるわけではありません。
 ②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。  
 ③そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある
 
 
非本質的なものの重要性
44 しかし、「本質的なことが大事だ」という常識をデリダは本気で掘り崩そうとするのです。
(略)
 まさに本質を崩すことによって、世の中をより開放的にすることができるのです。
 ちょっと例を考えてみましょう。男性中心的な社会は、強さを基準にしていると言えると思いますが、弱さや受動性を割り当てられてきた女性の側から社会を見直すことで、たとえば、男性的には自分の論理を主張することが重視されがちなところに、まず人の話をよく聞いて細かいところに注目する、というような姿勢で対抗することができる。
 
 
近いか遠いか
45 これが根本的な二項対立で、ありありと目の前に本物があるということを、哲学においては「現前性」と呼びます。そしてそうした現前性に対して劣っているという「再現前」との対立がある。「直接的な現前性>間接的な再現前」すね。この二項対立が本物と偽物、本質的と非本質的という対立の根っこなのだというのがデリダの主張です。
 
46 直接的な現前性、本質的なもの:パロール
 間接的な再現前、非本質的なもの:エクリチュール
 
47 パロールは直に真意を伝える、エクリチュールは間接的だから誤読される。
 
 
脱構築の倫理
49 大きく言って、二項対立でマイナスだとされる側は、「他者」の側です。脱構築の発想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶれず安定していたいという思いに介入するのです。自分が自分に最も近い状態でありたいということを揺さぶるのです。
 「自分が自分に最も近い状態である」というのは哲学的な言い回しかもしれませんが、それがつまり同一性です。それは自分の内部を守ることです。それに対して、デリダ脱構築は、外部の力に身を開こう、「自分は変わらないんだ。このままなんだ」という鎧を破って他者のいる世界の方に身を開こう、ということを言っているのです。
 
50 レヴィナスデリダの違いを簡単に言っておくと、レヴィナスの場合、他者の隔絶した絶対的な遠さが強調されるのですが、デリダの場合は、日常のなかに他者性が泡立っているようなイメージだと僕は思います。日常を、いわば他者性のサイダーのようなものとして捉える感覚です。一切の波立ちのない、透明で安定したものとして自己や世界を捉えるのではなく、炭酸で、泡立ち、ノイジーで、しかしある種の音楽的な魅力も持っているような、ざわめく世界として世界を捉えるのがデリダのビジョンであると言えると思います。
 
51 確かに人は、物事を先に進めるために、他の可能性を切り捨ててひとつのことを選び取らなければなりません。しかしそのとき、何かを切り捨ててしまった、考慮から排除してしまったということへの忸怩たる思いが残るはずです。そしてまた、そのとき切り捨てたものを別の機会に回復しようとしたりすることもある。
 ここでまた仮固定と差異の話を思い出していただきたいのですが、全ての決断はそれでもう何の未練もなく完了だということではなく、つねに未練を伴なっているのであって、そうした未練こそが、まさに他者性への配慮なのです。我々は決断を繰り返しながら、未練の泡立ちに別の機会にどう答えるかということを考え続ける必要があるのです。
 脱構築的に物事を見ることで、偏った決断をしなくて済むようになるのではなく、我々は偏った決断を常にせざるをえないのだけれど、そこにヴァーチャルなオーラのように他者性への未練が伴っているのだということに意識を向けよう、ということになる。それがデリダ的な脱構築の倫理であり、まさにそうした意識を持つ人には優しがあるということなのだと思います。
 
 
未練込みでの決断をなす者こそ「大人」
52 二項対立は常に非対称的に他者を排除していて、何らかの二項対立が背後にある決断をすることはつねに他者を傷つけることになっているのではないか、という意識を持つと、なにもできなくなってしまうかもしれません。しばしばそういうものとして、つまり行動不能に陥らせるものであるかのようにデリダレヴィナスの思想を捉える人がいます。
 ここは僕の解釈になりますが、彼らの思想は、「そもそも人間は何も言われなくたってまず行動しますよね」というのを暗黙の前提にしているのだと捉えたほうがよいと思います。人間は生きていく以上、広い意味で暴力的であらざるをえないし、純粋に非暴力的に生きることは不可能であるということは、言わずもがなの前提なのです。だからこそ、ここが誤解を招くところだと思うのですが、この言わずもがなの前提の上で、そこにいかに他者の倫理を織り込んでいくかということが問題になっているのです
 
 
 
 
 
第二章 ドゥルーズーー存在の脱構築
ジル・ドゥルーズ(1925年(大正14年)1月18日 - 1995年11月4日)フランス(満70歳没)
 
56 80年代、バブル期の日本におけるドゥルーズの紹介は、旧来の縦割りの秩序が壊れ、資本主義・消費社会の発達、マスメディアの発達によって、新しい活動の可能性がどんどん広がっていった時代の雰囲気とマッチしていました。それまでの時代のように、支配層・資本家と抑圧された労働者が対立するという二項対立ではなく、より多方向的に、二項対立的ではないような社会への介入の仕方が言われるようになり、単純に資本主義を敵視してそれを打ち倒すよりも、資本主義が可能にしていく新たな関係性を活用して、資本主義を内側から変えていくという可能性が言われた時代です(それが有効かどうかは脇に置くとして)。
 その後90年代に入り、日本ではバブルが崩壊し、不況になり、イケイケドンドン的な空気は終わります。それと軌を一にするかのようにドゥルーズのブームも収まり、楽観的に新たな外部を目指すというよりも、微細な対立や衝突を発見し、二項対立のジレンマを言うような思考、すなわち第一章で扱ったデリダ的な思考が全面化するようになりました。そんな90年代を代表する著作として、東浩紀存在論的、郵便的』というデリダ論がある、と流れをつけることができるでしょう。あまり浅田―東というラインを強調するのもどうかと思いますが、日本における現代思想の受容ではドゥルーズからデリダへという流れがあったことは押さえておくとわかりやすくなると思います
 
57 有名な概念ですが、横につながっていく多方向な関係性のことを、ドゥルーズ+ガタリは「リゾーム」と呼びましたリゾームとは植物学の用語で「根茎」のことですが、横にどんどん広がっていく芝みたいな植物をイメージしてください。21世紀に入り、まさにリゾーム的関係性がネットによって文字通りに実現されていくわけです。
 
 ネットによって皆が発言権を持つようになったのは確かです。だが、それは管理社会の到来でもあった
 
 
差異は同一性に先立つ
60 入門書の紹介ですが、まず、芳川泰久・堀千晶『ドゥルーズ キーワード89』(せりか書房)をパラパラ見て、気になる概念を見つけるのがいいでしょう。その上で、代表的な研究者のものを比較することをお勧めします。檜垣立哉ドゥルーズー解けない問を生きる』(ちくま学芸文庫)、國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)、宇野邦一ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社学術文庫)など。
 
61 世界は差異でできている。
 というのがドゥルーズが示した世界観です。
 
 同一性よりも差異の方が先だ、という考え方。重要なのは、大きな二項対立として同一性/差異という対立があることです。
(略)
 「同一性は最初のものではない」と言われています。同一性は「二次的」な位置に置かれるのです。でもそれは、事物が一瞬たりとも同一性を持たないというような、めちゃくちゃの状態を言っているのではありません。二次的にでも、同一性は「原理として存在する」のです。僕はこのことを「仮固定」という言い方で捉えています。
 
 
ヴァーチャルな関係の絡まり合い
63 意識のレベルでは、「私が自転車に乗る」という主語-目的語の関係でしか捉えていない。ところがそのなかでは、複雑な線がいたるところに伸びていて、関係の意図の絡まり合いのようになっている。それは意識下で処理されている。
 このように、AとBという同一的なものが並んでいる次元のことを、ドゥルーズは「アクチュアル」(現働的)と呼びますそれに対して、その背後にあってうごめいている諸々の関係性の次元のことを「ヴァーチャル」(潜在的)と呼びます。我々が経験している世界は、通常は、A、B、C・・・という独立したものが現働的に存在していると認識しているわけですが、実はありとあらゆる方向に、すべてのものが複雑に絡まり合っているヴァーチャルな次元があって、それこそが世界の本当のあり方なのだ、というのがドゥルーズの世界観なのです。
 
 
すべての同一性は仮固定である
65 そもそもA、Bという同一性よりも手前においてさまざまな方向に多種多様なシーソーが揺れ動いている、とでもいうか、いたるところにバランスの変動がある、という微細で多様なダイナミズムのことを差異とよんでいるのです。世界は、無数の多種多様なシーソーである。
 
 
プロセスはつねに途中である
66 重要な前提は、世界は時間的であって、すべては運動のただなかにあるということです。物を概念的に、抽象的に、まるで永遠に存在するかのように取り扱うことはおかしいというか、リアルではありません。リアルにものを考えるというのは、すべては運動のなかに、そして変化のなかにあると考えることです。
 こうしてまたキーワードが出てきます。「生成変化」と「出来事」です。
 生成変化は、英語ではビカミング(becoming)、フランス語ではドゥヴニール(devenir)です。この動詞は、何かに「なる」という意味です。ドゥルーズによれば、あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。事物は、多方面の差異「化」のプロセスそのものとして存在しているのです。事物は時間的であり、だから変化していくのであり、その意味で1人の人間もエジプトのピラミッドも「出来事」なのです。プロセスは常に途中であった、決定的な始まりも終わりもありません。
 世界をこのように捉えるとどうなるか。たとえば、我々は仕事を始めるのがだるいなあとか、仕事を終わらせるのが大変だというようなことを日々思うわけですが、すべては途中だし、本当の始まりや本当の終わりはないのだと考えることができます。こう言うと、何やらビジネス自己啓発的に応用できる気がしてきませんか?
 
 
家族の物語ではなく、多様な実践へ
69 (精神分析に対して)
 それに対してドゥルーズ+ガタリが行った批判は、すごく簡単に言えば、人間の振る舞いはそんなに小さいころの家族のことだけで決まってるわけじゃない、ということです。自分自身をごく狭い範囲=家族における同一性だけで考えるのはリアルじゃない、というのです。
 世界は多方向の関係性に開かれていて、しかもそれは変動しているはずであって、自分自身の心あるいは身体をそのような変動の中にある仮固定のものと捉えるなら、昔からずっとあるトラウマを想起するなんてそもそもおかしな話ではないか。むしろそれは、そのような基準点があると仮説を立てて、そこに向けて自分自身を固めていくような運動で、自分をむしろ硬直化させて治ったような気にさせるまやかしの技法だ、と。
 
70 これに関しては、第五章でピエール・ルジャンドルという思想家を取り上げるときに述べますが、人間と動物の違いという話につながってきます。動物は本能的に取れる行動のバリエーションがかなり定まっていて、何を食べるかが決まっている種もあるし、繁殖期も決まっているわけです。ところが人間は、脳神経が過剰に発達しているので、本能から自由に、より多様な行動がとれるように進化してしまったそしてその自由度に対して何らかの制約を加えないと、何をしていいかわからなくなってしまうのです。これが人間がさまざまなレベルで感じる不安の根源です。僕は精神分析をベースに、人間をこのように捉えています。
 だから、自己啓発的なアドバイスには、人間にある種の決めつけを提供することで安心させるものが多いのではないでしょうか。「ああではなくこういう生き方をしなさい」と言われると人は安心する。ところがそれは長く効力を持たないので、またその手のアドバイスが必要となる。そうであるがゆえに、自己啓発本は似たようなものがたくさん刊行されているわけです。
(略)
 ドゥルーズ+ガタリの思想は、外から半ば強制的に与えられるモデルに身を預けるのではなく、多様な関係のなかでいろんなチャレンジをして自分で準安定状態を作り出して行け、ということだと言えるでしょう。
 
 
ダブルで考える
「すぎない」ことの必要性
 
 
ノマドのデタッチメント
76 全体性から逃れていく動きは「逃走線」と呼ばれます。
 
78 むしろ重要なのは、そういう価値観の争いからデタッチ=遊離して、だけれども互いに対する気遣いを持ち、しかもその気遣いが他者の管理にならないようにする、というひじょうにむずかしい案配を維持できるかどうかです。
 
 
管理社会批判
接続と切断のバランス
 
 
 
 
 
第三章 フーコーーー社会の脱構築
権力の二項対立的図式を揺さぶる
ミシェル・フーコー(1926年(大正15年)10月15日 - 1984年6月25日)フランス(満57歳没)
85 支配を受けている我々は、実はただ受け身なのではなく、むしろ「支配されることを積極的に望んでしまう」ような構造があるということを明らかにするのです。
 
 権力は、上から押し付けられるだけではなく、下からそれを支える構造もあって、本当の悪玉を見つけるという発想自体が間違いなんです
 
86 こんなふうに言うとさっそく、「闘うべき悪を名指すことが難しくなる。立ち上がるべき人民にも悪いところがあるなんて言う話になってしまうと、そもそも政治運動ができなくなってしまう。どっちにも悪いところがあるというような「どっちもどっち論」は、必要な闘いから目を逸らし、状況をただ俯瞰しているだけの「冷笑系」だ」などと批判されるかもしれません。先ほど述べたようなフーコー的視点に対し、そういう反応が向けられることが増えてきた気がします。
 しかしそれは誤っていると思います。そういう抵抗運動が実は大きな権力構造の手のひらの上で踊らされている、ということもありうるからです。重要なのは、いったいどのような権力の回路が作動しているかをクールに分析することです。これがフーコーから得られる教えです
 ところで、支配する者/されるものが相互依存的になっているのだとしたら、フーコーはそういう構造の外に逃れることはできない、とでも言いたいのでしょうか?
 そうではありません。フーコーの思想につねにあるのは、権力構造、あるいはフーコーの言葉で言うと、「統治」のシステムの外を考えるという意識です。ドゥルーズの用語で言えば、秩序の外部への「逃走線」を引くということがフーコーの狙いなんです。
 ここでは、単なる二項対立的構図での抵抗運動では、逃走線を引くことになるどころかむしろシステムに囚われたままになる、という穿った見方をしているところがポイントです。本当の逃走線は難しいのです。逃走線を引けないのではなくて、あななたちが思っているより一段難しいのだ、というのがフーコーのメッセージなんです。
 
89 入門書は、慎改康之ミシェル・フーコーー 自己から脱け出すための哲学』 (岩波新書)がまずお勧めです。コンパクトな本ですが、初期から後期までバランスよく説明されています。
 
 
「正常」と「異常」の脱構築
89 これが正常でこれが異常という分割線は、どういう文脈で見るかによって違い、それはつねにつくられたものです。その背後には政治的な事情があります。というのは、「正常なもの」というのは基本的には多数派、マジョリティのことであって、社会で中心的な位置を占めているものです。それに対して、厄介なもの、邪魔なものが「異常」だと取りまとめられるのです。その存在が取り扱いにくいと、社会的にマイナスのラベリングがされて、差別される。逆に、寛大な処遇として、それを社会に「包摂」する場合でも、マジョリティの価値観に寄せてそうすることになります。
 
90 フーコーは、「正しい側」と「おかしい側」に括られ、その二つの括りが複雑なもたれ合いをしている状態を社会の基本構図として考えています。近代という時代は、その二項対立を強化した時代です。まあいろいろ変なことをする人はいるわけです。そういう人たちを括って病院や刑務所に閉じ込めたりしないで、普通に共存しているという状態、それこそフーコーは社会の本来のデフォルトとして考えています。そして、近代以後、世の中がいかにそういう状態でなくなっていくかを考えるのです。
 現代ならば、発達障害を考えるとわかりやすいでしょう。昔だったら「風変わりな子」、「人の心をうまく先読みできない」などと捉えられるようになりました。つまり、マジョリティの社会のなかでうまくサバイブできないと価値づけされ、括られるわけです。
そうなって初めて、受けられるべきケアが受けられるようになったのだからよかったと多くの人は思うのかもしれませんが、しかしそれは、主流派の世界の中で主流派のやり方に合わせて生きていくことが前提になっている。ここに注意すべきです。マジョリティとは異質な人をマイナスに見る価値観が前提になっているのに、マジョリティに合わせるためのケアが受けられてよかったねというのは倫理的におかしい気がしませんか?現に社会には規範があるのだから、適応のためのサポートは事実上必要と言わざるを得ないにせよ、もっと多様にバラバラに生きて構わないのだったら、発達障害と言われる状態はそんなに問題視するものだろうかとも思えないでしょうか。
 
91 その後、監獄あるいは監獄的な空間―病院などの施設のことです―にノイズを集約することによって、主流派世界をクリーン化していくことになった。
 こういうクリーン化こそ、まさに近代化と言うべきものです。
 そして近代化には、ある意味、隔離よりも重要な側面があります。古い時代には隔離していた者たちを、だんだんと、「治療」して社会のなかに戻す動きが出てきます。しかし、それは人に優しい世の中に変わったということなのかといったら、そんなことはありません。フーコー的観点からすると、統治がより巧妙になったと捉えるべきなんです。つまり、ただ排除しておくのだったらコストがかかるばかりだけれど、そういう人たちを主流派の価値観で洗脳し、多少でも役立つ人間に変化させることができるのであれば、統治する側からすればより都合がいいわけですから。
 
 
権力の三つのあり方
92 まず王様がいた時代、そこから近代へ、そして現代へ、という展開です。
 
 
規律訓練―自己監視する心の誕生
93 それに対して、17-18世紀を通して成立していく権力のあり方を、フーコーは「規律訓練」(ディシプリン discipline)と呼びます。もっとやわらかい日本語だと「しつけ」ですね。これは簡単に言うと、誰に見られていなくても自分で進んで悪いことをしないように心がける人々をつくり出すことです。
 
 「パノプティコン」という監獄のシステム
 
94 囚人は自分が監視されているかどうかを確かめられない。そしてそのためにかえって、つねに監視されているという意識を植えつけられることになるのです。
 
 監視されていなくても、自分で自分のことを自己監視するという状態に置かれることになるわけです。
 
 近代社会のポイントは、支配者が不可視化されるということです。
 
96 すなわち、実際に閉じ込められていなくても、ある程度それに類する経験をすれば、こうした監視は内面化されるだろう、ということです。以上では、実際に独房に居て隣と接触できない状態について書かれていますが、重要なのは、そのような「孤立性」が、たとえ自由の身でも、近代的な精神のあり方として成立していくということです。どこかで見られているかもしれないからちゃんとしなければならないという「個人」の心がけが成立するのです。自分が何かをするとき、自分で自分を見張る。自分は何か悪いことをしようとしてるんじゃないか、何かやってしまうんじゃないかと行動の先取りをして、前もって自分を抑えるようになっていきます。
 こうして、体が動くより前に踏みとどまる空間が自分のなかにできていく。だから近代的個人は、本当に監視者がいるかどうかがわからないのに、不正行為を、殴り合いを、共同謀議をしなくなるのです。自発的に「大人しく」なっていく。
 これが個人的な心の発生だとも言えます。今日のプライバシー、個人的なものというのは、そういった自己抑制とともに成立したのです
 逆にいえば、それ以前の時代には、そういうふうに自分の行動を前もって管理するという力はもっと弱かっただろうと推測されるのです。つまり、人びとはもっと行動的であって、マズいことをやらかしたら、その都度に罰せられるだけ、という面がもっと強かったのではないか。
 
 
生政治-即物的コントロールの強まり
98 個々に働きかける権力の技術が規律訓練ですが、他方で18世紀を通して、もっと大規模に人々を集団、人口として扱うような統治が成立していきます。こちらの側面をフーコー「生政治」(bio-politics)と呼びます。生政治については『性の歴史Ⅰ』で説明されています。生政治は内面の問題ではなく、もっと即物的なレベルで機能するものです。たとえば病気の発生率をどう抑えるかとか、出生率をどうするかとか、人口密度を考えて都市をどのように設計するか、そういうレベルで人々に働きかける統治の仕方です
 新型コロナの問題を例にしてみると、「感染拡大を抑えるために、出歩くのを控えましょう」と言った心がけを訴えるのが規律訓練で、「そうは言ったって出歩くやつはいるんだから、とにかく物理的に病気が悪くならないようにするために、ワクチン接種をできる限り一律にやろう」というのが生政治です。
 世の中にはワクチン反対派もいて、それを批判する人もいますが、しかし反対派にも一理あるのです。どういうことか。ワクチン政策は生政治であって、人々が自分の人生をどう意味づけるかにかかわらず、一方的にただ生き物としてだけ扱って、死なないようにするという権力行使です。ここで「死なないようにする」というのは、働いて税金を納めて国家という巨大なモンスターを生き延びさせていくための歯車にするという意味ですから、そういう統治に巻き込まれたくない=自由でいたいという抵抗の気持ちが―無意識的に―そこにはあるのです。他方、「自粛なんぞ知らん、飲みに行くぞ」というのは、規律訓練に対する抵抗ということになります。
 ですから、現代社会においては、規律訓練と生政治が両輪で動いていると捉えてください。その上で、今日では、心の問題、あるいは意識の持ち方に訴えかけてもしょうがないので、ただもう即物的にコントロールするしかないのだという傾向がより強まっていると言えると思います。つまり、生政治の部分が強くなってきている。
 
100 そういう状況において、人生の自由とは何なのかというのはひじょうに難しい問題です。今説明したような統治技術をすべて無くしてしまうのが自由なのでしょうか?雑多な人々がともに生きていく以上、関係の調整は必要で、ただ放っておくわけにはいきませんただそこで何か調整が始まると、それがたちどころに規律訓練や生政治に変貌していくのです。おそらくいかなる権力関係もないユートピアは無理なのです
 
 
人間の多様性を泳がせておく
101 このように、本章では、社会の脱構築ということで、悪い支配者がいるから闘うんだというヒーロー的図式で捉えるのでは単純すぎるということ、自分たちが知らず知らずのうちに統治を下支えする位置に置かれているということ、その自覚が重要だということをご理解いただけたかと思います。
 フーコーは、かつてない仕方で人間の多様性を論じたのです。
 我々は二項対立で「これは正常」、「これは異常」と割り振ったり、あるいはさまざまに分類して秩序付けようとしたりします。しかし、はっきりそれが何だかわからないような「ちょっと変わっている」とか「なんか個性的だ」というあり方を、ただそれだけで泳がせておくような倫理があるのです。
(略)
 人間は他の動物とは違い、過剰さを持っています。本能的な行動をはみ出した行動の柔軟性を持ちます。だからこそ逸脱が生じるわけなのですが、それを可能な限り一定方向に整序して行動のパターンを減らすことで安心・安全な社会を実現していくというのは、言ってみれば人間が疑似的に動物に戻るということに他なりません。今日における社会のクリーン化は、人間の再動物化という面を持っているのです。
 フーコーは、人間がその過剰さ故に持ちうる多様性を整理しすぎずに、つまりちゃんとしようとし過ぎずに泳がせておくような社会の余裕を言おうとしている。ドゥルーズの言う逃走線なるものを、具体的に社会のあり方として提示しているのです。
 
 
「新たなる古代人」になること
103 アイデンティティなるものが成立するその時に、良いアイデンティティと悪いアイデンティティという二項対立が同時に成立したのです。それ以前の人間の人生はもっとバラバラだった。ただし、根本にはキリスト教的な、自分は罪を犯してしまうのではないかという反省性があり、それが後に近代において本格的に統治に利用されるようになっていくわけです。
 フーコーによれば、性的なアイデンティティ、たとえば「同性愛者」というアイデンティティであるとか、自分をどういう性的欲望を持つ人格として捉えるかというのも、この近代化の過程で成立していきました。ですからそれ以前には、誇張して言えば、同性愛「者」はいなかった。同性愛行動はありましたが、それはまだアイデンティティではなかった。そして、性の逸脱を排除していく動きによって同性愛者というアイデンティティが成立したのだとしたら、今日のLGBTQ支持の運動は、そう単純なものではないということがわかるはずです。つまり、そもそも排除によって成立しているアイデンティティも悪いアイデンティティも不成立だった時代の、多様な同性愛行動を肯定し直すということが何らかの形で伴わなければならないはずなんです。そうした近代批判が伴わなければ、たんに近代という構造をこじらせているだけになるかもしれない。
 後期のフーコー古代ギリシア・ローマへと向かいました。
 『性の歴史』第一巻は近代論ですが、その後計画が変わり、第二巻・第三巻で古代の話をするという一見わかりにくい展開となります。これは、「つねに反省し続けなければならない主体」よりも前の段階に戻るということなのです。
 かなりラフに言いますが、古代人だって「あれはマズかった」とか「あれはやりすぎだった」とか、反省はします。もちろん性に関しても、不倫も問題視されたし、同性との関係に対する問題視もありましたが、それは何か無限に続く罪のようなものではなく、その都度注意するものだったのです。古代の世界はもっと有限的だった。自己との終わりなき闘いをするというよりは、その都度注意をし、適宜自分の人生をコントロールしていく。このことを、古代では「自己への配慮」と呼んでいました
 
106 ここからは千葉流のフーコー読解になりますが、現代社会において大規模な生政治と、依然として続く心理的規律訓練がどちらも働いているのだとすると、ある種の「新たなる古代人」になるやり方として、内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対してマテリアルにかかわりながら、しかしそれを大規模な生政治への抵抗としてそうする、というやり方がありうるのだと思います。
 それは新たに世俗的に生きることであり、日常生活のごく即物的な、しかし過剰ではないような個人的秩序づけを楽しみ、それを本位として、世間の規範からときにははみ出してしまっても、「それが自分の人生なのだから」と構わずにいるような、そういう世俗的自由だと思うのです。後期フーコーが見ていた独自の古代的あり方をそのようにポストモダン状況に対する逃走線として捉え直すこともできるのではないか
 というのは要するに、変に深く反省しすぎず、でも健康には気を遣うには遣って、その上で「別に飲みに行きたきゃ行けばいいじゃん」みたいなのが一番フーコー的なんだという話です。こういう世俗性こそがフーコーにおける「古代的」あり方なのです。
 
 
 
 
 
ここまでのまとめ
 
 
 
 
 
第四章 現代思想の源流ーーニーチェフロイトマルクス
秩序の外部、非理性的なものへ
 
114 本章では、現代思想の先駆者として19世紀の三人の思想家を取り上げたいと思います。ニーチェ(1844~1900)、フロイト(1856~1939)、マルクス(1818~1883)です。
 この三人がどういう意味で前提として重要かというと、いずれも秩序の外部、あるいは非理性的なものを取り扱った人物だと言えるからです。
 
115 そうした政治活動とともに前衛芸術やカウンターカルチャーが盛り上がったのが60-70年代で、現代思想もそういう時代に生まれ育ったわけです。
 そこから遡って、19世紀。秩序から逃れるものに注目する新しい知のかたちが提起されたのが19世紀なんです。それまでは基本的に、知の課題とはいかに世界を理性的な秩序にきちんと補足するかだった。しかし、むしろ非理性的なものの側に真の問題があるという方向転換がなされるのです。その代表者がニーチェであり、フロイトであり、そしてある意味でマルクスなのだということです。
 すごく雑に言ってしまえば、「ヤバいものこそクリエイティブだ」という20世紀的感覚、あれを遡るとこの3人になるということなのです。
 インターネットの普及後、世の中の相互監視が強まり、クリーン化が進んでいく中で、ヤバさのクリエイティビティへの警戒心が高まってきて、世の中はより安心・安全な秩序を求める傾向が強くなっている、と「はじめに」で述べました今後、20世紀的な自由の感覚は、歴史的に勉強しないとわからないものになるかもしれません
 
 
116 哲学とは長らく、世界に秩序を見出そうとすることでした。世界の中に混乱を見つけて喜ぶような哲学は、あるとしても異端。そういう意味で、混乱つまり非理性を言祝ぐ挙措を哲学史において最初にはっきりと打ち出したのは、やはりニーチェだと思います
 『悲劇の誕生』(1872)という著作において、ニーチェは、秩序の側とその外部、つまりヤバいもの、カオス的なもののダブルバインドを提示したと言えます。古代ギリシアにおいて秩序を志向するのは「アポロン的なもの」であり、他方、混乱=ヤバいものは「ディオニュソス的なもの」であるという二元論です
 
117 まずディオニュソス的エネルギーが大事であって、しかしそれだけでは物事は成り立たず、アポロン的形式との拮抗において何かが成立する。僕のドゥルーズ論である『動きすぎてはいけない』という本のタイトルも、動くというのがエネルギーの流動性を表しているとするなら、そこにある抑制がかかることで何事かが成りたつという意味であって、そういう意味では、ニーチェ的なダブルバインドが僕の仕事にも、あるいはドゥルーズにも継承されているということになります。
 ここで重要なのは、「秩序あるいは同一性はいらない、すべてが混乱状態になればいい」と言っているわけではないということです。しばしば現代思想はそういうアウトローを志向する者のように勘違いされることがありますが、そうではないのです。確かに混乱こそが生成の源なのですが、それと秩序=形式性とのパワーバランスこそが問題なのです。ですからここでも二項対立のどちらかを撮るのではなく、つねにグレーゾーンが問題であるという脱構築的発想が働いているわけです。
 
 
下部構造の方へ
118 アポロンディオニュソスという対立は、同一性と差異という対立に対応します。後者、つまり脱秩序的で混乱したヤバいものの側が、秩序の下に押し込められているという「下部構造」のイメージがここでは重要です。
 この図式は、哲学史的に遡ると、「形相」と「質料」という対立に行き着きます。これは古代ギリシアアリストテレスが示した対立ですが、ようするにかたちと素材ですね。形は秩序を付与するものであり、素材はそれを受け入れる変化可能なものです。
 
119 ところが、ずっと時代を飛ばしますが、ニーチェあたりになると、秩序づけられる質料の側が、何か暴れ出すようなものになってきて、その爆発するエネルギーにこそ価値が置かれるようになります。つまり、形相と質料の主導権が逆転するのです。
(略)
 質料すなわち物質や身体の側が要するにディオニュソス的でヤバいものであり、それを形相すなわちカタが抑えつけている
 ニーチェのこうした図式は、ショーペンハウアー(1788~1860)の影響を受けています。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』(1819)において、世界が秩序だった「表象」として見えている一方で、世界とは本当はひたすら邁進していく「盲目的な意志」がありー自然の運動もすべて「意志」だと呼ぶのが特徴的ですー、我々はそれに振り回されるという議論を展開しています。そのどうにもできない力に対して、人間が向かうべき「涅槃」、「無」の思想が語られることになる(ショーペンハウアーはヨーロッパで初の、本格的に仏教思想を念頭に置いて哲学者でした)。
(略)
 この普遍的な意志概念、しかも「何かをしたい」という目的的なものではない、ただの力、非合理な意志というものをはっきり概念化したのがショーペンハウアーのすごいところで、ニーチェディオニュソス的なものも、あるいはフロイトにおける無意識の概念もその影響下にあるのです
 
 
フロイト―無意識
精神分析の実践と作用
125 精神分析の本当のところは、記憶のつながりを何かの枠組みに当てはめることではなく、ありとあらゆることを芋づる式に引きずり出して、時間をかけてしゃべっていく過程を経て、徐々に、自分が総体として変わっていくことなのです。どう変わるかはわかりません。ただ、これはやはり一種の治療であり、何とも言いにくいかたちで、自分のあり方がより「しっかり」していくのだと言えると思います。精神分析は時間を節約してパッパと済ませることができません。精神分析経験とは、ひじょうに時間をかけて自分の記憶の総体を洗い直していく作業なのです。
 
 
無意識と偶然性
126 これは「自分でコントロールしきれないものが大切だ」という現代思想の基本的な発想につながってきます。自分のなかの無意識的な言葉とイメージの連鎖は、自分のなかの「他者」であるということになります。
 
127 その上で、無意識の何がポイントなのでしょうか。これは僕の解釈ですが、「偶然性」というキーワードをここで出してみたいと思います。
 精神分析で明らかになるのは、自分の過去のいろんな要素が絡み合い、ところどころ固い結び目ができてしまい、それが今の行動に傾向を与えているということです。ただしそれは、「人間はこういう経験をしたらこういう人間になる」などと一般法則のように言えるものではありません。精神分析はその意味で、個別の経験を大事にするのです。似たような交通事故に遭ったとして、そのことが大きなトラウマになる人もいれば、ならない人もいるでしょう。
 つまり、無意識とはいろんな過去の出来事が偶然的にある構造をかたちづくっているもので、自分の人生のわからなさは、過去の諸々のつながりの偶然性なのです
 今自分にとってこれが大事だとか、これが怖いとかがあり、それについて物語を持っているとして、「それはあのときにああいう出会いがあったからだ」と振り返るときのその出会いは、たまたまそうだったというだけ、そしてそのことが深く体に刻まれてしまったというだけであって、その「運命」に意味はありません。たまたまです。
 でも人間はまったく訳もわからずに自分の人生が方向づけられているとは思いたくない。我々は意識の表側で必ず意味づけをし、物語化することで生きているわけですが、その裏側には、それ自体でしかない出来事の連鎖があるのです
 ただそのことに直面するのが通常は怖いので、人はさまざまな物語的理由づけをします。しかし精神分析の知見によれば、まさにそのような物語的理由づけによって症状が固定化されているのです。むしろ、無意識の中で要素同士がどういう関係づけにあるかを脱意味的に構造分析することで初めて、症状が解きほぐされることになるのです
 
 
物語的意味の下でうごめくリズミカルな構造
128 二項対立、どちらか一方が優位で他方が劣位である二項対立によって物語をさばいていくのが表の思考ですが、それは言い換えれば、世界の物語化です。善と悪を分け、有用と無駄を分け、清潔と不潔を分け、愛と憎しみを分け、そこでの選択の迷いや希望や後悔をあれこれ語るのが「物語」であり、典型的な近代的小説の構造です。
 しかし現代思想は、そういった物語の水準にとどまっていては見えないリアリティが世界にはあるということを教えてくれます。無意味なつながり、あるいは無意味という言葉が強ければ、物語的意味とは別のタイプの意味、とも言えるでしょう。なかなかそれを考えるのは難しいかもしれませんが。
 
130 これを自分自身の記憶や世界の在り方に適用することが、二項対立から離れて現代思想的にものを見ることだとも言えます。物語的意味ではない意味を世界に、自分自身に見る。それが「構造」を見るということであり、しかもその構造は動的でリズミカルなものです構造とは、諸々の偶然的な出来事の集まりなのです
 まとめるならば、ディオニュソス的なものとは抑圧された無意識であり、それは物語的意味の下でうごめいているリズミカルな出来事の群れだということです。それが下部構造なのです。
 
 
近代的有限性
130 まず、カント超入門です。時代は18世紀末、カントは『純粋理性批判』(第一版、1781/第二版、1987)において、哲学とは「世界がどういうものか」を解明するのではなく、「人間が世界をどう経験しているか」、「人間には世界がどう見えているか」を解明するものだ、と近代哲学の向きを定めました。哲学者も含めて我々は人間であり、人間が分析できるのは人間が認識していることだけだからです。
 人間に認識されているものを「現象」と言います。現象を超えた、「世界がそれ自体としてどうであるか」はわからない。この、それ自体としての存在を、カントは「物自体」と呼びました人間にはフィルターみたいなものが備わっていて、それを通ったものしか見えない。フィルターを外して世界がどうなっているかはわからない。ちょっと言葉が難しいですが、このフィルターをカントは「超越論的なもの」と呼びました。別の例えをすると、超越論的なものとは、思考のOS(Window や Mac OS など)みたいなものです。
 人間はまず、いろんな刺激を「感性」で受け取って知覚し、それを「悟性」=概念を使って意味づける。この感性+悟性によって成り立っている現象の認識では、物自体は捉えていません。しかしそれでも物自体を目指そうとするのが「理性」である(しかし物自体には到達できない。ゆえに理性に関する難問が生じるのですが、それは省略します)。感性、悟性、理性という三つが絡み合うのがカントOSです。
 
132 フーコー『言葉と物』
 17から18世紀、フーコーの言い方では「古典主義時代」は、思考に対する事物の現れ、すなわち「表象」と、事物それ自体とを区別することはなく、事物を思考によって直に分類整理できる、という時代でした(古典主義時代より前はルネサンスで、フーコーはそれにも説明を与えていますが、ここでは省略)。このときには、表象と事物は一致しているのか、ズレているのかという問題意識はなかったのです。
 ところがその後、近代化の進展につれて、表象の背後には、事物がそのようにできている深い原因がある、表象を見るだけではわからない原因を解明しよう、という知の運動が始まります。たとえば、生物学ができる以前に、古典主義時代には「博物学」がありましたが、それは動植物の特徴を分類整理するだけでした。その後、今の我々も知っている生物学の段階に入っていくと、生命という抽象的なものを想定して、生命の「機能」がさまざまな身体機関でどう実現されているかを研究するようになる機能とは、目に見えるものではありません。機能自体は表象としては見えない、抽象的に考えるものです。そのように、表象の背後に抽象的なレベルでの原因を探ることで、原因がそこに位置する事物「それ自体」が、表象から分離されていくのです。
 
133 表象空間から解放され、自身の謎めいた厚みのなかに引きこもることによって、事物は、認識に対して決して完全には与えられないものとなる。そして、そのように表象から一歩引いた場所に措定された事物が、まさにそのことによってありとあらゆる認識の可能性の条件として自らを差し出すことになる。自らを示すと同時に隠す客体、決して完全には客体化されえぬ客体こそが、「自らを表象の統一性の基礎として示す」ということであり、ここから、我々はそうした起訴への到達を目指す「終わりのない任務」へと呼び求められるのである。
慎改康之ミシェル・フーコー―自己から脱け出すための哲学』(岩波新書)
 
134 隠されたものとしての事物の謎の追求は、「終わりのない任務」になる、つまり、キリがないのだけれど続けるしかない。ここには、かつてなかった無限性が生じている。古典主義時代には、神の秩序たる世界をたとえば博物学で記述することは、それも際限ない仕事でしたが、その終わらなさ=無限性は、たんに量が多いだけだった
 しかし今や、探求するほどに「かえって謎が深まる」ようになったのです。これが新たな無限性です。思考(表象)と事物を隔てるどうしようもない奈落を埋めようとして埋められない、というのが近代的な無限性です。世界そのもの、物自体には到達できない。この意味で、人間という存在が「有限」なものとして発見されます。かつて、人間が有限だというのは、神に対して矮小なものというくらいの意味でした。近代において有限性の意味がより深まるのです。思考(表象)によって世界(事象)に一致しようと際限なく試みるが、結局はできない、というのが近代的な有限性なのです。
 
135 そしてフーコーによれば、見えないものの力、ネガティヴなものの力がそのようにして承認されるとともに、そうした力によって魅惑される者、そうした力によって絶えず呼び求められる者の存在が浮上してくることになる。心理を常に取り逃すという点において自らの有限性を示すと同時に、まさしくその有限性ゆえにその真理に向かって不断に歩み続けるものとしての人間、根源的に有限な存在としての人間が、ここに登場するのである。(同書、76頁)
 
 カントの『純粋理性批判』は、新たなる有限者=近代的人間のあり方を、初めてクリアに分析した画期的な仕事でした。そして、カントも含めて知の近代化とは有限性の主題化にほかならない、ということを明示したのがフーコーの『言葉と物』なのです。
 
 いささか脱線的になりましたが、改めて本性全体とつなぎ直しましょう。
 近代において、人間の思考は、見えないもの、決して届かないもの、闇のようなものに向かって、あるいはそれをめぐって展開されることになる。思考は不可能性を運命づけられつ。先の引用に「真理に向かって不断に歩み続ける」とありましたが、これはよりネガティブに言い換えれば、「真理に向かおうとするが、真理への到達不可能性によって牽引され続ける」ということです。人間の思考は、つねに闇を抱え込むようになった。思考において思考を逃れるものが生じた。それが、広い意味での下部構造の発見ですディオニュソス的なもの(ニーチェ)、盲目的な意志(ショーペンハウアー)、無意識(フロイト)といった近代的概念は、人間自身が内に含むようになったその闇の別名なのだ、とまとめることもできるでしょう。遠く遡ればその闇とは、形相ないしイデアに必ずしも従わないような質料、マテリアルの転身した姿なのです
 
 
マルクス―力と経済
136 マルクスは、政治でも文化でもなく、もっぱら経済こそが、要するにカネの問題こそが人間を方向づけてきたのだと喝破した人です。そして経済は、資本と労働の二項対立で動いていると考えました。カネの問題が下部構造と呼ばれるのは、表面的な社会の状況、すなわち上部構造に覆われて見えにくくなっているからです。
 フロイトにおける、無意識が抑圧されて意識が成立しているという二重構造に似ていると思いますが、マルクスは「労働力」とそこからの「搾取」というメカニズムを発見しました。労働者は自分の労働力に対して賃金をもらい、それは生活に必要な金額だということなのですが、結果的に、賃金に見合う以上の生産を行うこととなり、その余剰の利益、すなわち「余剰価値」を使用者=資本家にピンハネされる、というメカニズムです。
 
 人間には本来、好きに使えるはずの力があるのに、偶然的な立場の違いによって、搾取されている
 
 
すべての人が自分自身の力を取り戻すには
138 よりキャリアアップするために自己啓発本を読んでやる気を出すとか、職場の環境をよりよくするためにLGBTQへの差別をなくす運動に取り組むとか、そういう活動は「意識が高い」とされるものでしょう。しかし、仕事の効率を上げ、職場をよりよくするという善意は、余剰価値をピンハネされ続けるという下部構造の問題から目を背けることではないでしょうか。
 意地悪に言えば、搾取されていても快適であるために、みずから進んで工夫をしているのではないか、ということです。
 このとき、本当に意識を高く持つというのは、搾取されている自分自身の力をより自律的に用いることができないかを考える、ということになります。
 もっとも、自分は使われている人間だということを自覚したうえで、独立を決意すべきだという自己啓発はたくさんあります。それが意味しているのは、労働者から資本家になれということです。そうすると結局、誰かを搾取する立場にかわるだけです
 だからマルクス主義では、「あなたも資本家になれる」ではなく、すべての人がこの構造から解放されるにはどうするか、すべての人が自分自身に力を取り戻すにはどうするかを考えようとするのです。それが「共産主義」と呼ばれるものなのですが、いまだにそれは実現されていません(歴史上の社会主義国家はそれを試みて失敗しました)。
 
140 同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見することだとおもうのです。こうして、みずからの力を取り戻すという実践的課題において、ニーチェフロイトマルクスが合流することになるのです。
 
 
 
 
 
現代思想の前提としての精神分析
ジャック・ラカン(1901年(明治34年)4月13日 - 1981年9月9日)フランス(満80歳没)
144 本性によってごく大ざっぱにはわかると思いますが、この後、ぜひ複数の入門書を読んでください。ラカンの場合はとくに、入門書を複数読んで、いくつかの解説を合算するのが重要です。後ほど、本を紹介します。
 
 さて、デリダには名高いラカン批判の論文「真理の配達人」というものがあり(『現代思想』1982年2月臨時増刊号「デリダ読本」に翻訳が掲載)、その批判があってこそ、日本では東浩紀の『存在論的、郵便的』が書かれました。また、ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』は、精神分析批判によって欲望の新たな捉え方を打ち出したのでした。そのように、精神分析批判というか、精神分析の胸を借りるようなかたちで自分の思想を形成しているという面が現代思想にはあるのです
 
145 僕は若いころ、デリダドゥルーズガタリ精神分析批判を十分に消化できず、精神分析はダメなのだと単純に反発していました。しかし、だんだんと、精神分析は侮れないぞ、精神分析的な家族の問題はそう簡単にはスルー出来ないぞ、と思うようになったのです。それは年齢を重ね、人間の見方が変わってきたのかもしれません。結果として、精神分析の意義をある程度認めながら、しかしその外部を目指すような欲望理論を持つ、という姿勢をとるようになったのです。そのように、この本では、精神分析精神分析批判のダブルシステムをお勧めしたいと思っています
 
 
人間は過剰な動物である
146 夢が細部まですべて自分のコンプレックスに関わっているという読みは「意味化しすぎ」だと思います。
 
147 精神分析は、ひとつの人間の定義を与えます。それは、「人間は過剰な動物だ」ということです。過剰さ、あるいは秩序からの逸脱性。僕はよく「人間はエネルギーを余している」といっています(これは方言っぽいですが、「余らせている」より「余している」という言い方がなんとなく僕には自然です)。
 
 
本能と制度
149 本能とは「第一の自然」であり、動物においてそれはかなり自由度が低いのだが、人間はそれを「第二の自然」であるところの制度によって変形するのです。ここでの「制度」には、「別様でありうるもの」という意味を込めています。逆に、本能とは固定的で、そうでしかありえないものです。制度は別様でありうる、しかし、いくらでも好きに別様に変えられるわけでもない、というところが重要です。人間は多様なあり方をとりうるわけですが、好きなタイミングでどうにでも変われるわけではありません。
 
150 人間の過剰さは、脳神経の発達のためだというのがよくなされる説明です。だから他の動物より認識の多様性を持っているのだ、と。他の動物は生体に近いかたちで生まれてきますが、人間は未完成な状態で生まれてきます。人間の子供は、神経系的にまだまとまっていないため、生れてしばらくは嵐の中にいるような状態なのです。そしてだんだん、成長しながら教えられることで、事物を一対一対応的に認識できるようになっていく。ノイジーな状態から固まっていく。これは経験的に納得していただけるだろうと思いますそもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーを何とか制限し、整流していくというのが人間の発達過程なのです。教育とはまず、制限なのです。その最初にして最大の行為が、自分が名前で呼ばれ、そして周りのものの名前を教えられることです。「これは何々である、それ以外ではない」というのはまさしく制限です
 
 
欲望の可塑性
150 ひとつのテーゼとして言いましょう―人間は認知エネルギーを余している
 自由に流動する認知エネルギーのことを、精神分析では、本能と区別して「欲動」(drives と呼びます人間の根底には、哺乳類としての本能的次元があるにはあるでしょう。だけれど、それが実際にどう発動するかと言えばひじょうに多様であって、欲動という流動的なかたちに変換されているのです(・・・という仮説なのです)。
 これはフロイトが言っていることですが、欲動の向かう先は一対一対応ではなく、自由で定まっていません。だからこそ、性的な対象も最初の段階では定まっておらず、異性を欲望するようになるという大多数の傾向は、もともと本能的にあるにはあっても、人間の場合は欲動のレベルでそれを固め直すことになります本能のレベルに異性愛の大きな傾向があるにしても、欲動が流動的だから、欲動のレベルにおいて例えば同性愛という別の接続が成立することがありうるのです。性愛のことだけでなく、何か特定の者に強い好みを持ったりとか、そういう自由な配線が欲動の次元で起こるのです
 本能的・進化論的な大傾向はあるにせよ、欲動の可塑性こそが人間性なのです
 欲動において成立する生・性のあり方は、たとえそれが異性愛のようなマジョリティの形式と一致するにしても、すべては欲動として再形成されたものだから、その意味においてすべてが本能からの逸脱です。つまり、極論的ですが、本能において異性間での生殖が大傾向として指定されていても、それは欲動のレベルにおいて一種の逸脱として再形成されることによって初めて正常化されることになるのです
 そのように欲動のレベルで成立するすべての対象との接続を、精神分析では「倒錯」と呼びますしたがって、人間は本能のままに生きているということはなく、欲動の可塑性を常に持っているという意味で、人間がやっていることはすべて倒錯的なのだということになります。こういう発想は、正常と異常=逸脱という二項対立を脱構築しているわけです。我々が正常と思っているものも「正常という逸脱」、「正常という倒錯」です。本能的傾向と欲動の可塑性のダブルシステムを考えるというのがここで言いたいことです。すべての人間を倒錯的なものとしてとらえる発想は、ジャン・ラプランシュという精神分析家が示しています。精神分析における生と死』(1970)がその文献ですが、全部読むのは大変なので、第一章だけでも読んでもらえれば、今の話がより専門的に説明されています。
 
 
ラカン―主体化と享楽
153 人間がいかに限定され、いわば「有限化」されるかということがここからの主題になります。つまり、有限化が主体化なんです。
 
 理想的な状態からはじき出されることを「疎外」と言います。精神分析的には、母が必ずしもずっとそばにいてくれないということが最初にして最大の疎外です。そしてそれがすべての自律の始まりなのです。
 
154 ここには「快」の二つの様相があります。第一には、緊張が解けて弛緩すること。安心です。しかしもうひとつ見逃せないものがある。第二に、偶然に振り回され、死ぬかもしれないというギリギリのところで安全地帯へもどって来るというスリルであり、これは不快と快が混じったようなもので、こちらの方が第一の快の定義よりも根本的だと言うべきではないでしょうか。第一の定義が、普通の意味での「快楽」(pleasure)です。それに対し、第二の方では、むしろ死を求めているようですらあるわけで、ここにフロイト死の欲動」(death drive デストルドーという概念が当てはまります。死の偶然性と隣り合わせであるような快を、ラカンは「享楽」(jouissance)と呼びました
 
154 子供はそのうち、おもちゃなどで遊ぶようになっていくわけですが、そういった対象には母の代理物という面がある。根本的な「欲しさ」の対象は母乳であって、おもちゃの欲しさなど、何か外的対象に向かう指向性は、母との関係の変奏として展開していくことになる成長してからの欲望は、かつて母との関係において安心・安全(=快楽)を求めながら、不安が突如解消される激しい喜び(=享楽)を味わったことの残響があるのです
 
 
去勢とは何か
155 さて、そこにもう一人の人物が介入してくる。父です。この「父」とは、密接な二人の世界を邪魔するものです。これも実の父でなくともよく、概念的にいえば「第三者」の存在を意味します。子どもにとって外的対象との関係は母との関係の変奏だと言いましたが、そこから離れて、第三者的な外部、すなわち「社会的なもの」を導入するのが、この「二」の外部にいる「三」の人物です。それは親子の一体化の邪魔=禁止するのです。
 この禁止は、「ダメ!」と口に出すようなものではなりません。母が子供のそばからいなくなってしまうことがある、それと、二人の外部=第三者の領域があるらしいという認識がつながってくる。母には母の事情があって、ずっと子供だけを構っているわけにはいかない。そこで、自分以外の誰か=第三者との関わりのために母がいなくなってしまう、つまり、母がその誰かによって自分から奪われる、という「感じ」が成立してくる。父=第三者は、ゆえに憎むべき存在であり、母を奪い返さねばならないということになる。これがいわゆる「父殺し」の物語であり、以上のプロセスを精神分析では「エディプス・コンプレックス」と呼びます。そのようにして、「外部がある」ということが子供において成立してくる。外部の客観的認識には、本来の母子一体を邪魔されたがゆえの憎しみが伴なっています(精神分析的にいえば、客観性には憎しみが伴なっているのです)。
 こうした父の介入を、精神分析では「去勢」と言います。ずっと母が側に居てくれるという安心・安全は、母の気まぐれ=偶然性によって崩れるわけですが、その理由は、父=第三者が世界には存在するからである。端折った言い方になりますが、「客観的世界は思い通りにはならない、だからもう母子一体には戻れない」という決定的な喪失を引き受けさせられることが去勢です
 
 
欠如の哲学
156 母の欠如を埋めようとするのが人生です。しかしそれは決して埋められない。絶対的な安心・安全はありえないのであり、不安とともに生きていくしかない。だがそう悟っても穴を埋めようとする―それが人生です。根本的な欠如を埋めようとすることが、ラカンにおける「欲望」です。その意味でラカンには「欠如の哲学」があるのです。
 
157 これを手に入れなければと思うような特別な対象や社会的地位などのことをラカンの用語で「対象a」と言います。人は対象aを求め続けます。
(略)
 そう言うと、人生は空しい感じがしますが、でもそれでいいんです。もし何か手に入って、「よし、これで人生の目標が達成されたぞ」となったら、その後生きていく気力がなくなってしまいます。結局、何らかの対象aに憧れては裏切られるということを繰り返すことによって人生は動いていくのですこういうロジック自体をメタに捉えることによって、欲望を「滅却する」方向に向かうのが仏教的な悟りなのでしょう
 
 
つながるイメージの世界と言語による区別
158 ラカンは大きく三つの領域で精神とをらえています。第一の「想像界」はイメージの領域、第二の「象徴界」は言語(あるいは記号)の領域で、この二つが合わさって認識を成り立たせているものがイメージとして知覚され(視聴覚的に、また触覚的に)、それが言語によって区別されるわけです。このことを認識と呼びましょう。第三の「現実界」は、イメージでも言語でも捉えられない、つまり認識から逃れる領域です。お気づきかもしれませんが、この区別はカントの『純粋理性理論』に似ていないでしょうか。のちに「否定心理学批判」のところで説明しますが、実はラカンの理論はカントOSの現代版と言えるものなのです(想像界→感性、象徴界→悟性、現実界→物自体という対応になっている)。
 人間の発達では、まずイメージの世界が形成されていきます。まだ自己がはっきりせず、刺激の嵐に晒されている生まれたばかりの子供は、対象を十分区別できず、すべては境目が曖昧で、ぼんやりつながっている。近くには強弱の差があり、強い部分に注意が向くとしても、それはまだ他から明確には区別されないでしょう。
 そこに言語が介入するのですが、言語が行うのは「分ける」ことです。名前を与え、イメージのつながりを切断し、すべてがごちゃごちゃにならないよう制限する。一定の形態を指さしながら言葉を言うことで、世界が対象に分けられていく。
 その過程で、子どもは自分自身の姿を初めて見ることにもなる。鏡によってです。そして名前を呼ばれ、そのひとまとまりのイメージを自分のものとして引き受けるようになる。このことをラカン派「鏡像段階」と呼びます。
 鏡像段階を通して自己イメージができる。それは想像界象徴界の交わりによって可能となるわけです。人間は自分自身の全体像を見ることはできません。鏡によって間接的に(しかも反転した像で)見るしかない。自己イメージはつねに外から与えられる、というのがラカンの重要な教えです。鏡像というのは、鏡に映った姿だけではなく、自分について人から言われることや、有名人やアニメのキャラをモデルにして自分のあり方を調整すると言ったときの外的なものすべてを指します。大人になっても我々は日々、鏡像的な自己イメージの作成を続けています(だから、「自分探し」は決して終わらないのです)。端的にいって、自己イメージとは他者なのです
 そして、先に説明した去勢によって、想像界に対し、象徴界が優位になります混乱したつながりの世界が言語によって区切られ、区切りの方から世界を見るようになる。よくわからない色や音の洪水のなかで、動く何かを見て「ワンワン?」と名前を探るのではなく、最初から「犬」という区切り=フィルターに当てはまるかどうかでものを見るようになる象徴界の優位とは、世界が客観化されることです。ですがそれは、原初のあの幸福と不安がダイナミックに渦巻いていた享楽を禁じることを意味するのです。
(略)
 象徴界によって創造的エネルギーの爆発が抑圧されてしまうのです
(略)
言い換えるなら、まさに区別を超えたつながり、あるいは区別の手前のつながりに戻ってみましょうと言っているのです。
 ところが、言語は分別ができる世にするもので、「こっちはこっち、向こうは向こう」ということになります。ですから、言語習得というのはある意味世界を貧しくすることなのです。だけれど、言葉を習得しなければ、人間は道具をまともに操作することすらできません。おそらく体もまともに動かせないでしょう。動物の場合なら、言語を習得することなしに一定の行動をとることができますが、動物が本能的に物事を区別し分節化してとらえられているのに対して、人間は言語習得との関係で世界を分節化し直すという「第二の自然」を作りださなければ、その中で目的的な行動をとることができないのです。言語とは、ドゥルーズの言い方を使えば「制度」の一種です
 
 
現実界、捉えられない「本当のもの」
162 イメージと言語によって認識が成立し、意味が生じているわけですが、まったく意味以前的にそこにあるだけ、というのが現実界です。現実界に直接向き合うことはできません。そういう「認識の向こう側」にあると仮に仮定してみましょう。疲れたりして、見慣れているものが何かよくわからなくなったりするときは、そういう外部にちょっと近づく瞬間です。しかし通常、現実界に向き合うことはありません。
 では、意味以前の現実界とは何か。それは成長する前の、あの原初の時です。刺激の嵐にさらされ、母の気まぐれに振り回されていた不安の時、不安ゆえの享楽の時です。それが認識の向こう側にずっとあるのです。
 
 ここでラカン理論の変遷について述べておきます。「想像界から象徴界優位へ」という話は50年代の初期ラカンで、その後、60年代に現実界の位置づけが問題になります。ラカン派60年代=中期以後に現実界を重視するようになった、と覚えてください。
 これこそが欲しかったものだ、と対象aを求め、手に入れては幻滅するのが人生だという話をしましたが、人はつねに、これこそという「本当のもの」を求め続けているわけです。これが「本当のもの」かと思って何か=対象aを得ても、「本当のもの」はまた遠ざかってしまう。対象aを転々とすることで、到達できない「本当のもの」=Xの周りをめぐっていることになる。このXが、イメージにも言語にもできない「いわく言いがたいアレ」としての現実界なのです。あの原初の享楽!
 それは成長し、認識が成立していく過程で失われたものです。幼少期に原初的な満足を喪失したということがつねに世界の影として残り続けているのです。
 
163 僕の研究におけるラカン解釈は、 原和之『ラカン―哲学空間のエクソダス』(講談社選書メチエ)と、向井雅明『ラカン入門 』(ちくま学芸文庫)から影響を受けています。
 現在、最初に読むのにお勧めなのは、片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』(誠信書房)です。この著者は実際に精神分析を受けており、精神分析実践の様子も具体的に描かれています。また、新世代のラカン研究者である松本卓也の説明は際立って明晰なもので、『人はみな妄想する―ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』(青土社)は必読書です。これには索引があり、 用語辞典のようにも使えます。
 
 
ルジャンドル―ドグマ人類学
164 ピエール・ルジャンドル(1930~)という思想家を紹介します。ルジャンドルラカン派の精神分析を取り入れながら法の歴史に関する独自の理論を打ち立てた人です。ルジャンドルは自分の理論を「ドグマ人類学」と呼んでいます。
 ドグマという言葉は、普通、良い意味では使わないものですよね。融通の利かない、いかなる批判も許さない決めつけみたいなものをドグマというわけですから。哲学史でも、「世界の本質はこうだ」というドグマ的=独断的な決めつけをやめ、人間はどういうふうに世界を捉えているのか、言い換えれば、「人間のOS」を分析しよう、というカントの哲学に転換した歴史があって(それが哲学における近代化です)、我々はカント以後にいる。カント以前の、世界はこうだという思弁を行う哲学を「独断的形而上学(dogmatic metaphysics)」と呼びます(この「独断的」というのは「ドグマチック」の翻訳です)。ですから、今さらドグマという言葉を復活させるなんて、と奇妙な感じがするわけです。ルジャンドルは一種の保守の人で、社会秩序を守ろうとする思想の持ち主です。だからこそドグマ人類学は、世界の伸展から距離をとって、現代的欲望を分析するのに役立つのです。
(略)
これは実は原理的な話です。たとえばAという主張をするとして、それには理由aがある、と言われる。それに対して批判が起こると、その理由aをさらに根拠づける、より掘り下げた理由bを言わざるをえなくなる。理由bは「理由の理由」ですね。さて、されに批判が続けば、理由の理由の理由・・・という掘り下げにはキリがありません。原理的には無限に続きます。このことを僕の『勉強の哲学』ではアイロニーと呼びました。
 だけれど現実には、批判や反論はあるところで止めざるをえなくなります。時間に限りがあるからです。そうすると、ある段階で、事実上そこで行き止まりの「こうだからこうだ」としか言いようがない命題に突き当たることになる。原理的にはさらに遡れますが、そこで「手打ち」にするしかなくなる。その命題をドグマと呼ぶのです。
 こうだからこうだ、というどうしようもなさは、すべての人が個人的に経験しています。それはすなわち、成長する過程での去勢です。母から引き離され、物事を切り分けるようになる。名前とはドグマです。自分で勝手にものに名前をつけることはできません。「これはこう呼ぶのだ」と指定され、かつその名前には結局根拠がありません。
 
 
儀礼に拠る有限化
166 ルーティン作成としての秩序化、それは人間が「本能で動く動物になり直すこと」だとも言えます。動物の場合、なにも強制されなくても最初から決まった行動がとれますが、人間の場合には外からの「構築」が必要なのです。第二の自然をつくるわけです。
 人間はルーティンを複雑化させていきました。学校で制服を着るとか、教室では黙って先生の話を聞いているとか、体育の時間に整列するとか、みんなで行進するとか、音楽の時間にみんなで同じ歌を歌うとか、我々はそう言うなんでそんなことをやらなきゃいけないのかというような共通行動をさせられ、それを嫌々ながらもうけいれる。しかもそういうことをたんにイヤだと思っているのではなく、たとえば合唱コンクールで一糸乱れぬパフォーマンスを行うことに青春の感動があったりする。
 ここはフーコーが規律訓練という概念によって批判的に問題にしたところです。ですが、今はそのことのポジティブな面を言おうとしています。
 人は規律訓練を求める。なぜか。認知エネルギーが溢れてどうしたらいいかわからないような状態は不快であって、そこに制約をかけて自分を安定させることに快があるからです。しかし一方では、ルールから外れてエネルギーを爆発させたいときもある
(略)
これは人間のあらゆる組織的行動に言えることで、また個人的に生活を律するときでもそうです。
 ここで「儀礼」というキーワードを出したいと思います。あるいは「儀式」でもよいですが、儀礼の方がより抽象的ですね。ルーティンというのは儀礼です。なんでそんなことをやっているのかその根本の理由が説明できない。たんにドグマ的でしかないような一連の行為や言葉のセットのことです。
 人間は過剰な存在であり、逸脱へと向かう衝動もあるのだけれど、儀礼的に自分を有限化することで安心して快を得ているという二重性がある。そのジレンマがまさに人間的ドラマだということになるわけです。どんなことでもエネルギーの解放と有限化の二重のプロセスが起きている儀礼である、という見方をすることで、ファッションでも芸能でも政治でも、いろんなことがメタに分析できるようになります(こうした見方は文化人類学的なものであると言えるでしょう)そして、儀礼とは去勢の反復だと言えます
 
 
168 このようなXに牽引される構造について、日本の現代思想では「否定神学」という言い方をします否定神学とは、「神とは何々である」と積極的に特徴づけるのではなく、神を「神は何々ではないし、何々でもなく・・・」と、決して捉えられない絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義するような神学です。まさにそうした神の定義と、このXのあり方は似ている。我々は否定神学的なXを追い続けては失敗することを繰り返して生きているわけです。
 カントまで遡るなら、否定神学的なXは「物自体」に相当すると言えます
 カントについては第四章で紹介しました。カントは、人間が経験しているのは現象であり、現象は感覚的なインプットと概念の組み合わせでできていて、その向こう側に本当の物自体があるのだが、物自体にはアクセスできない、という図式を『純粋理性批判』で提示したのでしたこれがラカンの三つの界とだいたい対応するのです。
 カントが現象と呼んでいるのは想像界象徴界の組み合わせです。人間はイメージ(感性)と言語(悟性)によって世界を現象として捉えている。しかし、その向こう側に現実界(物自体)があり、それにはアクセスできない。にもかかわらず、それにアクセスしようと思っては失敗し続ける
 この捉えきれないものを捉えようとして失敗し続ける人間という「空回り的人間像」のようなものが成立したのが近代です。やってもやってもきりがないという無限性。このことは、たとえばカフカの小説を想起するとよいでしょう。際限のない事務手続きに巻き込まれ、埒が明かない迷宮のようなところに迷い込む・・・そんな世界観です。カフカはそれを誇張的に滑稽なものとして描いている。
 こうした近代的人間のあり方を示したのがフーコーの『言葉と物』なのでした。
(略)
 フーコーによれば、近代以前には、人間の思考は無限に謎を掘り進めていくようなものではなかった。まず神の秩序が揺るぎなくあって、神はとにかく無限の存在であり、神が作った世界はすべてくまなく秩序的であって、人間はその中に含まれている。人間は神には及ばない有限なものなので、自分にわかる範囲で世界の秩序をできるだけ発見しようとする。人間は有限であり、有限にできることをやるしかなかった。
 しかしそれ以後、有限性の意味が変わります。神と比べて人間は有限、なのではなく、人間自身に限界があるために世界には見えないところがある、という自己分析的な志向が立ちあがってくる。人間にわかっていることの背後には何か見えないもの、暗いものがあって、人間はそこに向かって突き進んでいくのだ、というような人間像になっていきます。
 
171 否定神学という言い方で近現代の思想を捉えたのは、東浩紀の『存在論的、郵便的』です。東において、「否定神学システム」の代表と見なされるのがラカンの理論です。ラカンにおける、現実界が認識から逃れ続けるということが、否定神学システムのいちばん明らかな例なのです。東はそれと同等のものがデリダの初期にもあるとした上で、デリダは後にそこから離脱する方向に向かったという読解を示しました。かつ、同時代のドゥルーズなどにも似た展開が見られるというのです。
 いかに否定神学システムから逃れるかという考察を、「否定神学批判」と呼ぶことにしましょう。これが問題にされたのが日本現代思想の特徴です。
 その前提にあるのは、フーコーの『言葉と物』です。否定神学システムとは、事物「それ自体」に到達したくてもできない、という近代的有限性の別名なのです
 
 しかしどうやったら近代的有限性から逃れられるのか?
(略)
 ドゥルーズガタリは、家族の謎を追求するのではなく、絵を描くでも社会活動でも何でも、具体的にアクションをしてみなさいと励ます思想だと説明しましたが、そこで重要なのは、それが無限のXに向かっていく、つねに欲求不満な活動として行われるのではなく、さまざまな活動がそれぞれに有限に、それなりの満足を与えてくれる、それなりに完結するものだということです。無限の負債を背負い、返しきれないもののために悲劇的な人生を送るのではなく、さまざまな事柄を「それはそれ」として切断し、それなりにタスクを完了させていく。ドゥルーズガタリはそういう気楽な人生を推奨していると僕は思います。いわば有限的喜劇です
 ひとつのXをめぐる人生というのは、いわば単数的な悲劇ですが、そうではなく、人生のあり方をもっと複数的にして、それぞれに自律的な喜びを認めようということです。後に説明しますが、東は、単数のXから「複数的な超越論性へ」という転換をデリダにおいて強調しました。
 このように、無限の謎に向かっていくのではなく、有限な行為をひとつひとつこなしていくという方向性は、ある意味、近代以前に新たな価値を与えることだとも言えます。フーコーが晩年、古代に発見したような自己とのかかわり方がここにつながってくる。
 そして、上級編として言えば、実はラカンは後期になると、空回り的人間像というよりドゥルーズガタリに近いような立場へと向かいました。見せかけである対象aを求めては幻滅するのを繰り返しているのを自覚するだけでなく、その自覚によっても結局消えることがない根本的な享楽を見つけ、享楽的なものとしての、そこに自分の存在がかかっているような「症状」を社会生活と両立させてうまくやりくりできるようにする、という精神分析になっていくその人の特異性-先の言い方なら「存在の偏り」-であるような症状を、ラカンは「サントーム」と呼びます。サントームについては松本卓也『人はみな妄想する』を参照してください。
 
 
 
 
 
第六章 現代思想のつくり方
新たな現代思想家になるために
176 この後は、21世紀に入ってからの最近の展開、ポスト構造主義の後なので「ポスト・ポスト構造主義」と呼べるような展開についても少し説明したいと思います。
 
 
現代思想を作る四つの原則
178 ①他者性の原則 基本的に現代思想において新しい仕事が登場するときは、まず、その時点で前提となっている前の時代の思想、先行する大きな理論あるいはシステムにおいて何らかの他者性が排除されている、取りこぼされている、ということを発見するのです。これまでの前提から排除されている何かXがある。こういう言い方も品がないですが、「他者探し」をするのです。詳しくは後ほど具体例で説明します。
 
②超越論性の原則 広い意味で「超越論的」と言えるような議論のレベルを想定する。それは「根本的な前提のレベル」くらいに思ってください。第四章で説明したように、超越論的なものとはカントの概念です。復習しておきます。カントは、人間が物を認識し思考するときの前提として、人間の精神にはあるシステム、いわばOSがあり、それによって情報処理しているのだというようなことを『純粋理性批判』で論じました。そのOSをカントは「超越論的」と形容したのでした。カントにおけるこの意味を踏まえて、何かある事柄を成り立たせている前提をシステマティックに想定するとき、それを超越論的なものと呼ぶのです。
 現代思想では、先行する理論に対してされに根本的に掘り下げた超越論的なものを提示する、というかたちで新しい議論を立てるのですが、その掘り下げは、第一の「他者性の原則」によってなされます。先行する理論では、ある他者性Xが排除されている、ゆえに、他者性Xを排除しないようなより根本的な超越論的レベル=前提を提示する、というふうに新たな理論をつくるのです。
 
③極端化の原則 これは特にフランス的特徴と言えますが、現代思想ではしばしば、新たな主張をとにかく極端にまで推し進めます。主張の核は、排除されていた他者性に向き合うことですが、それをひじょうに極端なかたちで提示する。排除されていた他者性Xが極端化した状態として新たな超越論的レベルを設定するのです。
 
④反常識の原則 そのようにある種の他者性を極端化することで、常識的な世界観とはぶつかるような、いささか受け入れにくい帰結が出てくる。しかし、それこそが実は常識の世界の背後にある、というかむしろ常識の世界はその反常識によって支えられているのだ、反常識的なものが超越論的な前提としてあるのだ、という転倒に至ります。
 
 
179 デリダの場合、先行するものが言っていることに対し、いわば「逆張り」をする。ここで先行するものというのは、一方が優位、他方が劣位とされている二項対立で組み立てられた指向です。できる限り劣位の側を排除して優位の側で物事を組み立てていく、プラスを増やしていくことを目指すような思考です。デリダはそれに対し、プラスとマイナスの区別が本当に一貫して成り立つのか?という疑問を向けます。そのとき、むしろマイナスの方に注目する。だから「逆張り」なんです。これが脱構築なのでした。そこで排除されていたのは「エクリチュール」と言われる他者性です
 第一章の繰り返しになりますが、エクリチュールとは、真理から遠ざかり、ズレて誤解されるもののことですが、多くの場合、ズレや誤解をなくし、真理に近づいていくことが目指されるわけです。だけれど、どれほど努力しても、我々はズレや誤解、すなわち差異を排除することはできません。そうすると、そうであるにもかかわらず、それが排除できるかのように無理を言っていることになります。
 このように、実は世界は、根本的にはエクリチュール的な差異が至る所にあるのに、それを否認している、ということを世界の超越論的な前提として発見する。そしてそれはいたるところにあるのだ、というかたちで極端化する
 デリダは、パロール話し言葉)とエクリチュール(書かれたもの)を対立させ、人々がパロール的だと、つまり真理に近いと見なしているものであっても、決して純粋な真理ではありえず、つねにそこにはズレや誤解の可能性がある、すなわちあらゆるものには「原エクリチュール」という面がある、とします。
 そうすると、たいていの場合、すべてを真理に近い関係にしていきたいという強い欲望が働いているのだけれど、それに対して、ズレや誤解、さらに言えば嘘や虚偽をなしには出来ないということを受け入れ、多少なり濁った水で生きていくことこそがむしろ倫理的なのだ、という反常識的な帰結が出てくることになります。
 
 
ドゥルーズ―差異それ自体へ
181 ドゥルーズの場合、先行するのは、物事が同一性を持ち、これはこういうものだと定まっている世界です。さらにそこがプラス/マイナスによってヒエラルキー化されているという特徴づけを加えるとデリダっぽくなりますね。
 そこから排除されているのは、デリダと共通することですが、ズレ、差異、生成変化です。そしてそういった同一性の崩れこそが世界の超越論的な条件であるとする。しかもそれを極端化し、同一的なAとBのあいだの差異ではなく、「差異それ自体」が世界をつくっているのだ、という存在論が出てくることになります。
 デリダの場合は極端化によって、原エクリチュールドゥルーズの場合は極端化によって差異それ自体に至るわけです(デリダにおける原エクリチュールドゥルーズにおける差異それ自体というのは、ほとんど同じような概念だと言えます)。
 
 
レヴィナス―存在するとは別の仕方で
エマニュエル・レヴィナス1906年明治39年)1月12日 - 1995年12月25日)フランス(満89歳没)
 
182 レヴィナスも大きく言って差異の哲学を提示した人ですが、差異よりも「他者」というキーワードで知られています。レヴィナスの哲学は「他者の哲学」です。ちなみに、補足しておくと、レヴィナスといえば他者、とあまりに言われすぎたので、それこそ逆張り的に、最近の研究者はレヴィナスのそうではない側面に光を当てる解釈を出すようになりました。とはいえ、それは上級の話で、まずはレヴィナスといえば他者と押さえておけばいいと思います。
 レヴィナスリトアニア出身のユダヤ人哲学者です。母国語はフランス語ではないのですが、フランスに住んでフランス語で哲学をしました。だから彼の使うフランス語はちょっと独自のものがあります。レヴィナスの主著は『全体性と無限』(1961)で、これはひじょうに内容豊富なのですが、ここではそのマクロな立場だけに注目します。それは、哲学史は他者の問題を排除してきた、だから他者の方へ向かう哲学を考えなければならない、という立場です。
 最大の仮想敵は、ハイデガー存在論です。ハイデガーは、物事がただ「ある」という、その「存在そのもの」をいかに思考するか、という極端に基礎的で、きわめて展開が難しい問題に集中した人です。そういう意味でハイデガー哲学史の極みなのですが、ハイデガーは一時期ナチに加担したという事実があり、それとの関係で、ハイデガー存在論、ひいては西洋哲学史の道行き全体が帯びているある種の危険性を、ユダヤ人であるレヴィナスは告発することになります(レヴィナスフランス軍に属し、ドイツに捕虜として捕らえられたのですが、そのため絶滅収容所に送られることは免れました)。
 存在論は哲学の極みであり、存在することそれ自体を考えるというところまで極まったら、それ以上の根本なんて考えようがない感じがするじゃないですか。だけれど、レヴィナスは、そこでなお、他者が排除されているというのです。というのは、すべて「ただある」という根本的な共通地平にすべての存在者が乗せられてしまうことによって、抽象的な意味での共同性の中にすべてが回収されてしまうからです。そこから逃れる術がもはやないような強制的な地平にすべてが載せられてしまう。このこととファシズムがつながってくるという話です。それは、存在論ファシズムとでも言うべきものです
 もちろんこれはきわめて抽象的な意味でのことです。ただ、哲学者がすごいのは、このような超抽象的なレベルにおける政治性を考えるところです。存在論という極端な抽象性に抵抗する、ラディカルな意味での他者性を考えなければならない。 そこでレヴィナスは、存在から始めるのではなく、他者との向き合い、他者との距離からすべてを始め直さなければならないという立場をとります。レヴィナスは「無限」であるような他者を超越論的な次元に置きますこれはひとつの極端化です。他者を「無限」と捉え、そして存在論の地平を「全体性」と捉えるのです
 これはひじょうに強力な二項対立です。これに対してデリダは、純粋に絶対的な他者性というものはありえず、他者性は、同一性へと回収されていく運動との緊張関係においてしか問えないのだ、という脱構築的介入を行うことになります。これは『エクリチュールと差異』というデリダの論文集に入っているレヴィナス論、『暴力と形而上学』です。
 その後、レヴィナスはもう一つの大著で、ひじょうに大胆なキーワードを出してきます。それは著作のタイトルなのですが、「存在するとは別の仕方で」というものです。フランス語では「Autrement qu'etre」、英語では「Otherwise than being」です。『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』(1974)という著作です。
 存在という超抽象的な全体性の地平から、なお外れるような他者―ドゥルーズ的に言えば、存在の全体性から逃走線を引くこと―を考えたとき、その他者はいったいどのように「ある」のかが問われています。それはもはや「ある」とは言えない。なぜなら、「ある」と言ってしまったら、ただちに存在論に引き戻されることになるからです
 そこで、言葉に無理をさせる必要が出てきます。というか、こういう時に言葉に無理をさせるのが哲学者の面白いところです。「ある」というのは我々にとって根本的ですが、さらにそこから外れるものをかろうじてすくいとるために、存在するとは「別の仕方で」、「別様に」というふうに、もはや副詞でしか言えないことを言おうとするんです。結果、「存在するとは別の仕方で」で止める、という無理やりの表現がつくられた。
 こう言っては間違いなのですが、言ってみれば「オルタナティブな存在」みたいなものではある。だけれどもそれをオルタナティブな存在と言ってしまうと、存在論に回収されてしまうからダメで、「別の仕方で」というしかないのです
 こうなると哲学はほとんど、詩が行おうとするような、常識的な言葉遣いでは表現できないものを表現するという領域に踏み込んでいます。ただ、それはたんに曖昧なイメージ的なものではなく、確実にひとつの論理によって導き出された、概念としての表現なのです。通常の言葉の用法では表現できない抽象性の概念なのです。ここが、哲学が数学とは違う仕方で到達する独特の抽象性の世界です。厳密に論理的に確定された概念なのだけれど、それを表現するには言葉に無理をさせなければならないということがある。
 というわけで、簡潔ですが、本書でのレヴィナスの紹介はこのくらいに留めます。
 
 
四原則の連携
186 ①先行する議論は、安定的なものとして構造S1を示しているが、そこからは他者性Xが陰に陽に排除されている。まずこのことに気づく。(他者性の原則)
②そこから、S1は実は根本的な構造ではない、という問題提起へと向かう。S1は根本的でなかったからXは排除せざるをえなかったのである。そこでS1を条件づける構造S2を考える。S2においてようやくXが肯定される。(超越性の原則)
③S1にとってXは従属的、付随的だった。だが今や、Xが極端化され、Xこそが原理となるようなS2を考え、それがS1を条件づけると考えるのである。S2を定式化するために、慣例を破って新たな概念をつくることもある。(極端化の原則)
④S2を前面に押し出すと、常識と齟齬をきたすような帰結を生む。(反常識の原則)
 
 
ポスト・ポスト構造主義への展開
187 ポスト構造主義は、諸々の二項対立を脱構築する一方、同一性と差異というより大きな二項対立を設定して、差異の側を支持するものでした。しかし、この本で強調してきたのは、その同一性と差異の大きな二項対立にもさらに脱構築がかけられていて、必ずしも「差異バンザイ」なのではなく、差異と「仮固定的な同一性」の共存が事実上問題にされているということです。ただ、そのように読まない人もいます。どちらかというと、「差異バンザイだったからダメなんだ」というような批判をする人もいるのです。
 21世紀に入ってからの、西洋におけるポスト・ポスト構造主義の展開は、ポスト構造主義的な同一性と差異の二項対立をさらに脱構築するというかたちで展開していくものだと言えるでしょう。だけれど、僕の考えでは、日本現代思想には先駆的にそうした問題意識があって、独自の展開を遂げていました。ただ、西洋の人たちはその文脈を知りませんし、それとは別にさらなる脱構築を進めているということになります。
 
 
マラブー―形態の可塑性
カトリーヌ・マラブー Catherine Malabou(1959年(昭和34年) - )フランス
 
188 ポスト・ポスト構造主義の段階を説明するには、やはり「逆張り」という言葉が便利です。これまでの現代思想で是とされてきた「差異の方へ」という方向づけに対して、逆張りをする。つまり、同一性の側に何らかの肯定的な意味を持たせるということです。ただし、それは差異が重要ではないと言いたいのではなく、差異の思考をより推し進めるためにこそ同一性の側にもう一度注意を向けるという展開をとるのです。
 
 マラブーデリダの指導によってヘーゲルに関する博士論文を書いた人で、マラブ―にとっての主な先行議論はデリダです。デリダにおける、すべてはエクリチュール的であり、ズレ続けており、差異の運動である、ということが前提であり、それに対して、むしろ同一性を持つもの、マラブ―の場合それを「形態」(フォルム)と言うのですが、形態の概念を改めて重視する必要がある、というふうに逆張りをするのです。
 これは僕の解釈では、同一性の側にちょっと揺り戻しをかけるということだと思います。ただ、だからと言って同一性こそが大事というわけではなく、「形態を持ちつつの変化」を言おうとするのです。
 マラブーは、それこそがデリダドゥルーズの世代の議論よりも根本的な超越論的構造である、というふうに議論を展開します。そしてそこで「すべては仮固定的に形態を持ちながらも差異化し変化していく」というようなタイプの差異概念を提出することになり、それを「可塑性」(プラスティシテ Plasticite)と呼ぶことになります。可塑性の概念については、『わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義』(2004)がわかりやすいと思います。他の著作でもこの概念が常に念頭に置かれています。
 本書全体を通して、同一性と差異の大きな二項対立自体の脱構築ということで、「仮固定的な」という言い方をうまく使おうとしたわけですが、それはもともと僕の体質的な発想であると同時に、マラブーさんから学んだ面があると思います。というのは、僕はパリに留学してマラブーさんに師事したからです(パリ第十大学)。本書は、多少マラブー的な筋で全体的に説明しているところがあるかもしれません。
 
 
メイヤスー―絶対的な実存とその変化可能性
・クァンタン・メイヤスー Quentin Meillassoux(1967年(昭和42年)10月26日 - )フランス
 
 189 メイヤスーの場合も、マラブー同様、すべてはエクリチュール的であり、差異であるというポスト構造主義の前提を相手取って、そこからの新たな展開を試みている哲学者です。そのとき、マラブーの場合には、可塑的な形態という、一種の「柔らかさの原理」を出してくるわけですが、メイヤスーの場合は、これまでの議論では考えられてこなかったような、より徹底的な同一性に向かう、という明らかな逆張りの立場なのです。
  メイヤスーの場合、排除されていたものとは、人間の解釈に左右されないただ端的に同一的に存在している物自体としての実在です。その意味を人間がどう考えるかとまったく無関係に、ただそうあるようにある存在。ハイデガーにおける存在もやはり人間の意味理解との関係で問われていたところがありますが(詳細は略しますが)、それよりもさらにドライに残酷に切り離された、端的な存在というのを言おうとするのがメイヤスーです。
 それで、説明を端折りますが、そのような絶対的に同一的な実在を考えると、それは全く無意味にただあるだけであって、なぜそのように存在しているかという理由がまったくないもの、ということになる。 理由なしに存在する、というのは偶然的だということです。絶対的な実在は絶対的であるからこそ偶発的であり、ならば、そのままのあり方で存在しつづける必然性はない。端的な実在は、ただの偶然で、いつでも全く別のものに変化するかもしれない、という帰結に至るのです。
  これがメイヤスーの主著『有限性の後で』(2006)において言われていることなのですが、この図式だけで言うと、興味深いのは、すべては差異だという議論に対する逆張りとして考えるがゆえに、同一的でありながら突然まったく別のものに変化するかもしれないという帰結になり、差異の哲学の新たな徹底という様相を呈するところです。
 ですからメイヤスーの道行きは、ポスト構造主義の流れに反しているものでは全然ないのです。むしろポスト構造主義の前提に強烈な逆張りをかけることによって、ポスト構造主義のある種滑稽な反転像のようなものを打ち出しているのです。
 
 
 
 
 
第七章 ポスト・ポスト構造主義
21世紀における現代思想
アラン・バディウ(1937~)『存在と出来事』(1988)
フランソワ・ラリュエル(1937~)非哲学(non-philosophie)
ジャック・ランシエール(1940~)
 
思弁的実在論の登場
196 「思弁的実在論」(Speculative Realism)
その火付け役がメイヤスーの『有限性の後で』で、フランスでの出版が2006年(デリダの死後ですね)、英訳が2008年に出ています。英語圏で爆発的に読まれたことが大きかった。
 メイヤスーレイ・ブラシエイアン・ハミルトン・グラントグレアム・ハーマンとい4人が、2007年にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで「思弁的実在論」と題したワークショップを開き、それによってポスト構造主義以後の一つの方向づけが示されることになりました。
 四人の仕事は異なりますが、思弁的実在論というものは大きく言えば、人間による意味づけとは関係なく、ただ端的にそれ自体として存在している事物の方へ向かう、という方向づけです。意味よりも、それ自体としてあるものを問題にする新種の実在論が登場した。
 その代表者がメイヤスーであることはすでに述べましたが、もうひとつ、「オブジェクト指向存在論」(Object Oriented Ontology, OOO)と呼ばれる潮流を作ったのが、ハーマンです。ハーマンは、あらゆる存在者=オブジェクトは根本的にバラバラであり、絶対的に無関係に存在していて、関係は二次的なものであるという主張をしています。
 
 
意味づけの外にある客観性
197 メイヤスーは、人間がどう意味づけるかに関係なく、ただ端的に存在している事物があり、そしてそれは一義的に何であるかを言える、つまり、唯一の真理として「これはこういうものだ」と言える、という主張をします。このとき、メイヤスーは数字を持ち出すことになります。数理的思考こそが、事物が何であるかを直接に言えるのだ、というのです。このように数字を持ち出すことが妥当かどうかは本書の範囲を超えますので、ここではメイヤスーはそう論じているのだというだけに留めさせてください。
 自然言語(日本語や英語など通常の言語)による意味づけの外にあるような客観性は、数学的なものである。
 
 このようなメイヤスーのポジションを現代思想の展開の中で捉え直してみましょう。先ほどから出ている言葉ですが「意味づけ」というのがキーワードです。
 デリダドゥルーズフーコーにおいて共通して問題とされているのは、「これが正しい意味だ」と確定できず、つねに視点のとり方によって意味づけが変動するという、意味の決定不可能性、あるいは相対性です
 ただし、これが言わんとするのは、決定不可能だから何も言えないということではなく、「物事は複雑だ」ということです。多義的、両義的だということです
 たとえばフーコーだったら、誰かが一方的に支配を受けているのではなく、むしろ被支配者が支配に加担している面があり、だから単純にどちらが悪いとも言いきれないような力学が複雑にある、というふうに、現実の複雑さを言っているのです。これは、どっちもどっちだから「どっちも悪くない」ということではありません
 ただ、こういう現代思想の傾向は単純化され、素朴な相対主義として捕らえられることがよくあります。「物事はどうにでも捉えられる」とか、「そういう立場を撮っていると歴史修正主義になる」とか、「「ポスト・トゥルース」と言われるような勝手な事実認識の押し付けや陰謀論を許容することになるのではないか」と言われたりするのです。
 確かに現代思想は、そういった現代の困った現象を一刀両断に批判するものではありません。そうではなく、人間の思考・言語には、例えば陰謀論にも至るような可能性がそもそもあるということをまず冷静に認めることから始めなければならないのです。だから「そういうものはよくないからなくしましょう」と単純には言えません。
 人間はそもそも精神分析的にいっても「過剰」な存在であって、一定の意味の枠組みを離れて物事を別様に意味づけようとする傾向があるので、それが突拍子もないような妄想に展開することは人間の基本設定としてありうるわけです。
 
 
実在それ自体の相対主義
199 しかし、メイヤスーの議論はそういった「常識的に考えて歴史的事実はちゃんとある」というような話よりももっと深いところまで到達しています。
 揺るぎない客観性は数学的だとされるわけですが、メイヤスーの場合は、事物を数学的に記述すれば世界の真理が分かるという話にはとどまりません。前章で述べたように、メイヤスーによれば、この世界がこのようにある、ということには必然性がなく、世界はたまたま、偶然的にこうなっているのであって、だから世界は突然別物に変わるかもしれない。客観的世界は根本的な偶然性の下にある、ということが深く捉えられる
 この世界がこうであるということに必然性があるなら、世界には隠された存在理由があることになりますが、それ(「充足理由」と言います)をメイヤスーは消去し、完全に乾ききった「ただあるだけ」のこの世界を捉えるのです。そしてそれこそが自然科学的世界像を根本的に正当化する哲学的態度である、と考えるのです。
 世界の意味を言おうとするのではなく、世界の今そうである限りでの設計をただ記述するのが数理である。かつ、記述される世界はなんらそれを保証する根源的意味がなく、いつ何時、まったく別のあり方に変化してしまってもおかしくない
 自然科学の徹底的なドライさをちゃんと認めようとするがゆえに、世界の(自然法則のレベルでの)変化可能性という突拍子もない主張を同時に認めるよう求めるのがメイヤスーの面白いところです。この意味でメイヤスーは反常識的なのです。                                     
  スランス現代思想、あるいは悪い意味でのポストモダン思想は、「物事は相対的で、どうにでもいえると言っているから陰謀論を招き寄せてしまう。だから客観的事実をちゃんと追求しよう」などと言われるわけですが、メイヤスーにおいては、「確かに客観的事実というものはあるのだが、客観的事実の客観性を突き詰めるならば、客観的事実は根本的に偶然的なものであり、いくらでも変化しうる」という、より高次の、実在それ自体に及ぶ相対主義のようなものが出てくることになります
 現代思想では、物事の意味をひとつに固定せず、意味が逸脱し多様化することを論じるわけですが、それはメイヤスーにおいてさらに実在のレベルで徹底されているのです。メイヤスーは、ポスト構造主義相対主義に対する逆張りによって、かえってより深い相対主義を提示している、とも言えるでしょう。
 
 
内在性の徹底―ハーマン、ラリュエル
201 他方、意味づけを逃れる「それ自体」を、個々のバラバラのオブジェクトというあり方で言おうとするのが、ハーマンのオブジェクト指向存在論です。日本語では「四方対象」(2010)でその立場を知ることができます。
 ハーマンによれば、事物はひとつひとつ絶対的に孤独であり、それ自体に引きこもっている=退隠している。それが本来の、第一次的なもののあり方で、関係というのは二次的で、現象的なものである哲学では、それ自体の内にあるということを「内在性」と言いますが、ハーマンは、オブジェクトひとつひとつの内在性を徹底するのです。人間も、犬でも洗濯機でも、一つ一つが他からアクセスできない孤独な闇なのです。これはいくらかレヴィナス的でもあると思います。
 それ自体であること=客観性へと向かうことが、世界はいつ変化するかわからないという主張にもなるメイヤスーの場合は時間的ですが、それに対しハーマンは、同時的に複数の引きこもったオブジェクトが散在している、という空間的な話になっている。あるいは、メイヤスーは直線的、ハーマンは水平的、とも言えるでしょう。
 
202 ラリュエルは「非哲学」というプロジェクトを1980ー90年代に展開しました。非哲学とは何か。それは、これまでの哲学すべてに対して外部的であろうとする理論です。自然科学とも違います。独特の抽象理論です(ラリュエル自身は非哲学を「科学」と呼んでいるのですが、それは経験科学ではなく、いわば「思弁科学」でしょう)。
(略)
 ラリュエルは、哲学は「実在」を捉え損なっていると考えました。実在、それをラリュエルは「一者」と呼びます。哲学は一者=実在を捉えようとするのだが捉え損ねる。そのとき、無限遠点としてのXが想定され、それは「物自体」だったり「存在それ自体」だったりするわけだが、その「捉えようとするのだが捉え損ねる」という構造の外に、そのXとは区別されたものとして「一者」を置くのがラリュエルの独自性なのです。
 すぐさま言えば、これは日本の観点から見れば、否定神学批判です。哲学はつねに否定神学的Xを必要としてきたのだが、そういうものとしての哲学全体の外にみずからを位置づけるのがラリュエル、ノンフィロソフォアーなのです。
 ちょっと上級編のコメント。古代ギリシャ以来、「存在」と「一者」の関係づけはいろいろ議論になってきたのですが、二つを切り離すのがポイント。ラリュエル的には、「存在論」より「一者論」が先に立つ、というわけです。
 一者とは実在であり、ただそれ自体に内在的であるとされます。
 従来の哲学者は、内在を、超越との対立に置いて語っているのが、ラリュエルは「あらゆる二項対立の外部」という意味で、自分は絶対的な内在性を考えているのだ、と主張します。ラリュエルの一者は、内在vs.超越よりも手前にある
 ラリュエルは、哲学というものを、二項対立の組み合わせによって物事を論理的に意味づけることだと見ています(これはデリダと共通ですね) )。そしてその外部に、ただただ内在的で、論理から逃れる一者=実在 とは、「秘密」なのだとも言われます。
 しかし結局、ラリュエルはまた大きな二項対立をつくっているのではないでしょうか?次のような区別が導入されます。哲学的な二項対立、二元論はdualismと呼ばれ、それとは区別して、哲学全体とその外部の一者との対立はthe dualと呼ばれます。
 うーん、どうでしょう。これは結局「哲学」なのでは・・・?
(略)
 ともかく、二項対立による意味づけの外部を形式的にピュアに考えようとしたという点で、ラリュエルの仕事は思弁的実在論の先駆と言えると思います。メイヤスーの場合の、それ自体として偶然的にあるだけの世界、その「それ自体」というステータスはラリュエル的内在性であり、まさに「秘密」だと言えるでしょうし、ハーマンにおけるお互いに無関係なオブジェクトについても同様に言えるでしょう。
 
 
複数性の問題と日本現代思想
206 現代思想には、60年代後半に否定神学システムが意識される段階があり、その後、ひとつのXをめぐるのではなく、より分散的で複数的に諸関係を展開していくという向きに、デリダドゥルーズは議論を展開することになりました
 繰り返すならば、ひとつのXをめぐる空回りを人間の運命として最も強くいったのはラカンです。現代思想において、ラカン否定神学的思考の王であると言える。 捉えられない何かを捉えようとするというのは、発達論的には、母親が自分のもとからいなくなってしまうという根源的な欠如を埋めようとすることです。それに対し、親子関係にすべてをしゅうやくするのではなく、より広大な社会や事物との関係へと思考を開いていこうとしたのがドゥルーズガタリなのでしたデリダドゥルーズガタリも、ラカンに対してどう距離をとるかが大きな課題で、ひとつの欠如をめぐって意味作用が展開するというのではない方向に向かいました。東浩紀の『存在論的、郵便的』はそのことを明確化しています。そして東は、単数の否定神学的Xから「複数的な超越論性」へ向かう、という方向づけを示しました。
 ここで「超越論性」という概念は、人間のあり方を条件づける抽象的なレベルという意味で、それが単数の欠如なのか―ひとつの穴をめぐって人生が展開される―、そうではなく複数的なものなのか、ということです。では、複数的なものというのをどう考えるべきかというのは、開かれた問題だと思います。
 他方で、メイヤスーやマラブーは、デリダドゥルーズラカン批判を通して複数的なものを問題にしたということを重視していません。複数性への着目は、日本現代思想に特徴的なことです。フランスにおける新世代は、デリダドゥルーズ否定神学システムに寄せて捉え、複数性が言われる文脈もそこに含めてしまい、それに対して自分独自の新たな外部性を提示する、というかたちになっていると思います。
 
 
有限性の後での新たな有限性
210 こうしたローマの思想については『主体の解釈学』(2001)というコレージュ・ド・フランス講義で集中的に論じられていて、大変面白いのでぜひ参照してみてください。
 ここに興味深い有限性があると思うのです。法的なものではなく、行政的であり監査的であるとされる反省の形態は、無限に深まって泥沼になることがない。そのような意味での無限批判がここにはある。すなわち、謎のXを突き詰めず、生活の中でタスクがひとつひとう完了していくというそんなイメージの、淡々とした有限性です。主体とはまず行動の主体なのであって、アイデンティティに悩む者ではないのです
 
 
複数的な問題に有限に取り組む
211 ここで重要なのは、諸々の問題は必ずしもひとつにつながるわけではない、ということです。もちろん関連する問題はあるけれど、すべての問題がつながってダマになってしまうとき、人は途方もないアイデンティティの悩みで閉塞状態に陥り、何もできなくなってしまう。問題は分割して一個一個解決しなければならないというのはデカルトも言うところですが、まさにその巨大な謎、巨悪が立ちあがらないように、個別に物事にアプローチするということこそが、複数へという方向づけの意味なのではないでしょうか
 
 
世俗性の新たな深さ
213 オルタナティブな有限性とは、行動の有限性、身体の有限性にほかなりません。
 こうして、ただそれ自体であるものへと向かうポスト・ポスト構造主義の議論は、複数的なものへと向かう日本現代思想と合流することになります。
 ひとつの身体が実在する。そのことに深い意味はない―メイヤスーの絶対的偶然性の哲学は、おのれの謎Xをめぐるアウグスティヌス的無限反省のその手前へ、というフーコーの方向性と密かに共鳴している。メイヤスー的にいえば、この身体はいつまったく別のものになるかもわかりません。古代中国で荘子が夢に見たように蝶になるかもしれない。身体は故障するし、病むし、老いていき、いつか崩壊して他の物質と混じり合う。メイヤスーはその生成変化よりもラディカルに、突然蝶になったっておかしくないとまで考えた(そのときには、今の世界から、わたしが蝶であるような世界へと、世界全体が変化する)。そうだとしても、というかだからこそ、今ここを生きるしかないのです。私がこのようであることの必然性を求め、それを正当化する物語をいくらひねり出してもキリがありません。今ここで、何をするかです。今ここで、身体=脳が、どう動くかなのです。
 身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである
  世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。
 底なし沼のような奥行きではない別の深さがある。それは世俗性の新たな深さであり、今ここに内在することの深さです。その時世界は、近代的有限性から見たときとは異なる、別種の謎を獲得するのです。我々を闇に引き込み続ける謎ではない、明るく晴れた空の、晴れているがゆえの謎めきです。
 
 
 
付録 現代思想の読み方
読書はすべて不完全である
215 哲学書を一回通読して理解するのは多くの場合無理なことで、薄く重ね塗りするように、「欠け」がある読みを何度も行って理解を厚くしていきます。プロもそうやって読んできました
 
 
現代思想を読むための四つのポイント
217 ①概念の二項対立を意識する。
②固有名詞や豆知識的なものは無視して読み、必要なら後で調べる。
③「格調高い」レトリックに振り回されない。
④原典はフランス語、西洋の言葉だということで、英語と似たものだとして文法構造を多少意識する。
 
 
原文の構造を英語だと思って推測する
218 その上で、フランス語の特徴をひとつだけ言っておきます。フランス語は、英語に比べて、運用するために最小限必要な語彙の数がやや少ないと言われています(また、英語とフランス語よりも日本語の方が多い)。そのため、一単語の多義性を駆使する傾向があるようです。どこか抽象性が高いようなフランス語分のカッコよさは、相対的に少ない語彙でいろんなことを言おうとするから生じる効果だと思われます
 
 
レトリックに振り回されず、必要な情報だけを取り出す
219 古典を意識した文章にはお決まりのレトリックがいろいろあり、何を言うかより、まずその古臭い「カタ」があって、カタにはめるかたちで言いたいことを出していく、というかカタにはめるために言いたいことをわざと大げさに膨らませたり、大して本質的でないお飾り的な文を増やしたりすることがあります。これは「科学」とは大いに異なります。必要な情報だけを伝えるのが科学的な文章ですが、人文系の文章は古くは「弁論術」に由来し、人を説得するための技術がいろいろ含まれた文章なのです。
 
 
固有名詞や豆知識を無視する
概念の二項対立を意識する
ケース1:「なんかカッコつけてるな」
ケース2:「カマし」のレトリックにツッコまない
ケース3:お飾りを切り詰めて骨組みだけを取り出す
ケース4:言い訳の高度な不良性
 
 
 
 
 
おわりに 秩序と逸脱
244 個人的な話ですみません。本書は、「こうでなければならない」という枠から外れていくエネルギーを自分に感じ、それゆえこの世界において孤独を感じている人たちに、それを芸術的に展開してみよう、と励ますために書かれたのでしょう。
 本書が、人生をより活力あるものにするために少しでも役立つことを願います。
 
 
 

読んだ。 #人新世の「資本論」 #斎藤幸平

読んだ。 #人新世の「資本論」 #斎藤幸平
 
 
 
 
はじめに‐SDGsは「大衆のアヘン」である!
 
 
 
第1章 気候変動と帝国的生活様式
1.02 ポイント・オブ・ノーリターン
1.03 日本の被害予測
1.04 大加速時代
1.05 グローバル・サウスで繰り返される人災
1.06 犠牲に基づく帝国的生活様式
27 ドイツの社会学ウルリッヒ・ブラントとマルクス・ヴィッセンは、グローバル・サウスからの資源やエネルギーの収奪に基づいた先進国のライフスタイルを「帝国的生活様式」(imperiale Lebensweise)と呼んでいる。
 
1.07 犠牲を不可視化する外部化社会
1.08 労働者も地球環境も搾取の対象
1.09 外部化される環境負荷
1.10 加害者意識の否認と先延ばしの報い
1.11 「オランダの誤謬」‐先進国は地球に優しい?
1.12 外部を使いつくした「人新世」
1.13 冷戦終結以降の時間の無駄遣い
1.14 マルクスによる環境危機の予言
1.15 技術的転嫁‐生態系の撹乱
1.16 空間的転嫁‐外部化と生態学帝国主義
1.17 時間的転嫁‐「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」
1.18 周辺部の二重の負担
50 例えば、南米チリでは、欧米人の「ヘルシーな食生活」のため、つまり帝国的生活様式のために、輸出向けのアボカドを栽培してきた。「森のバター」とも呼ばれるアボカドの栽培には多量の水が必要となる。また、土壌の養分を食い尽くすため、一度アボカドを生産すると、他の種類の果物などの栽培は困難になってしまう。チリは自分たちの生活用水や食料生産を犠牲にしてきたのである。
 
1.19 資本主義よりも前に地球がなくなる
1.20 可視化される危機
1.21 大分岐の時代
 
 
 
 
第2章 気候ケインズ主義の限界
2.02 「緑の経済成長」というビジネスチャンス
2.03 SDGs‐無限の成長は可能なのか?
2.04 プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)
62 地球システムには、自然本来の回復力(レジリエンスが備わっている。
 
2.05 成長しながら二酸化炭素排出量を削減できるのか?
2.06 デカップリングとはなにか?(切り離し、分離)
65 通常、「経済成長」によって「環境負荷」は増大する。そのように今まで連動して増大してきたものを、新しい技術によって切り離そうとするのが、ディカップリングだ。つまり、経済が成長しても、環境負荷が大きくならない方法を探るのである。
 
「相対的ディカップリング」
 
2.07 絶対量で二酸化炭素を減らす必要性
「絶対的ディカップリング」
 
2.08 経済成長の罠
2.09 生産性の罠
2.10 デカップリングは幻想
2.11 起きているのはリカップリング
2.12 ジェヴォンズパラドックス‐効率化が環境負荷を増やす
76 新技術の開発で高率性が向上したとしても、商品がその分廉価になったせいで、消費量の増加につながることが頻繁に起こる。テレビは省エネ化しているが、人々がより大型のテレビを購入するようになったせいで、電力消費量がむしろ増えている。あるいは、自動車の燃費向上をSUVなどの大型車の普及が無意味にしたというのも、同じパラドックスである。
 
2.13 市場の力では気候変動は止められない
2.14 富裕層が排出する大量の二酸化炭素
81 もちろん、「裕福な生活様式」によって、二酸化炭素を多く排出しているのは、先進国の富裕層である。世界の富裕層トップ10%が二酸化炭素の半分を排出しているという、驚くべきデータもある。とりわけ、プライベート・ジェットやスポーツカーを乗り回し、大豪邸を何件も所有するトップ0.1%の人々は、きわめて深刻な負荷を環境に与えている。
 他方で、下から50%の人々は、全体のわずか10%しか二酸化炭素を排出していない。にもかかわらず、気候変動の影響に彼らが最初に晒される。ここにも、第一章で見た帝国的生活様式や外部化社会の矛盾がはっきりと表れている。

 
2.15 電気自動車の「本当のコスト」
2.16 「人新世」の生態学帝国主義
2.17 技術楽観論では解決しない
90 IEA(国際エネルギー機関)によれば、2040年までに、電気自動車は現在の200万台から、2億8000万台にまで伸びるという。ところが、それで削減される世界の二酸化炭素排出量は、わずか1%と推計されているのだ。
 なぜだろうか?そもそも、電気自動車に変えたところで、二酸化炭素排出量は大して減らない。バッテリーの大型化によって、製造工程で発生する二酸化炭素はますます増えていくからだ。
 
2.18 大気中から二酸化炭素を除去する新技術?
92 NETの代表例であるBECCS(Bio-energy with Carbon Capture and Storage)について考えてみよう。BECCSとは、バイオマス・エネルギー( BE)の導入によって排気量ゼロを実現しつつ、大気中の二酸化炭素を回収して地中や海洋に貯留する技術(CCS)を用いて、二酸化炭素排出量をマイナスに持っていこうとするものだ。
 しかし、BECCSが実現しても、問題はそう簡単には解決しないだろう。「緑の経済成長」を目指すなら、拡大する経済規模に合わせて、BECCSの規模を拡充させなくてはならないからだ。
 
2.19 IPCCの「知的お遊び」
2.20 「絶滅への道は、善意で敷き詰められている」
2.21 脱物質化社会という神話
96 シュミルが指摘するように、サービス部門への経済の移行が問題を解決するわけではない。例えば、レジャーは非物質的であるが、余暇活動のカーボン・フットプリントは全体の25%をも占めるといわれている。
 
2.22 気候変動は止められないのか?
2.23 脱成長という選択肢
 
 
 
 
第3章 資本主義システムでの脱成長を撃つ
3.01 経済成長から脱成長へ
3.02 ドーナツ経済‐社会的な土台と環境的な上限

103 まず、水や所得、教育などの基本的な「社会的な土台」が不十分な状態で生活している限り、人間はけっして繫栄することはできない。社会的な土台の欠如とは、自由によく生きるための「潜在能力」を実現する物質的条件が欠けていることを意味する。人々が本来もっている能力を十分に開花できないならば「公正な」社会はけっして実現されない。これが今、途上国の人々が置かれている状態である。
 けれども、自らの潜在能力を発揮するために、各人が好き勝手にふるまっていいわけではない。将来世代の繁栄のためには、持続可能性が不可欠となる。そして、持続可能性のためには、現在の世代は、一定の限界内で生活しなくてはならない。それが、第二章でも見たプラネタリー・バウンダリー論に依拠した「環境的な上限」であり、ドーナツで言えば外延を成す。
 要するに、この上限と下限のあいだに、できるだけ多くの人々が入るグローバルな経済システムを設計できれば、持続可能で公正な社会を実現することができる、というのがラワースの基本的な考えである。

 
3.03 不公正の是正に必要なもの
3.04 経済成長と幸福度に相関関係は存在するのか?
3.05 公正な資源配分を
3.06 グローバルな公正さを実現できない資本主義
111 しかし、問題の本丸は、公正な資源配分が、資本主義のもとで恒常的にできるのかどうか、である。
 
3.07 4つの未来の選択肢
(2)野蛮状態
(4)X(脱成長コミュニズム

 
3.08 なぜ資本主義のもとでは脱成長できないのか?
3.09 なぜ貧しさは続くのか?
3.10 日本の特殊事情
121 もちろん、人々の生活を第一に考えた反緊縮は、すばらしい発想だ。しかし、日本の反緊縮の議論に決定的に欠けている視点がある。それが本書の主題でもある、気候変動問題である。
 前章でも触れたが、反緊縮を真っ先に掲げたアメリカのバーニー・サンダースにせよ、イギリスのジェレミー・コービンにせよ、反緊縮政策の目玉のひとつは、グリーン・ニューディールだった。つまり、気候変動対策としてのインフラ改革であり、生産方法の変革であった。ところが、彼らの反緊縮政策が日本に紹介される際に、気候変動という視点は、すっぽり抜け落ちてしまった。その結果、日本の経済論壇における「反緊縮」とは、金融緩和や財政出動で資本主義のもとでの経済成長をひたすらに追及する従来の理論と代り映えしないものになっている。
 
3.11 資本主義を批判するZ世代
3.12 取り残される日本の政治
3.13 旧世代の脱成長論の限界
3.14 日本の楽観的脱成長論
3.15 新しい脱成長論の出発点
3.16 「脱成長資本主義」は存在しえない
3.17 「失われた30年」は脱成長なのか?
133 そもそも、本来成長を目指す資本主義を維持したままの脱成長とは、「失われた30年」の日本のような状態を指す。実際、広井は日本が「成熟社会の新たな豊かさの形こそを先導していくポジションにある」と述べている。
 だが、資本主義にとって、成長できない状態ほど最悪なものはない。資本主義のもとで成長が止まった場合、企業はより一層必死になって利益を上げようとする。ゼロサム・ゲームのなかでは、労働者の賃金を下げたり、リストラ・非正規雇用化を進めて経費削減を断行したりする。国内では階級的分断が拡張するだろうし、グローバル・サウスからの掠奪も激しさを増していく。
 実際、日本社会では、労働分配率は低下し、貧富の差はますます広がっている。ブラック企業のような労働問題も深刻化している。
 
3.18 「脱成長」の意味を問い直す
3.19 自由、平等で公正な脱成長論を!
3.20 「人新世」に甦るマルクス
 
 
 
 
第4章 「人新世」のマルクス
4.02 <コモン>という第三の道
141 近年進むマルクス再解釈のカギとなる概念のひとつが、<コモン>、あるいは<共>と呼ばれる考えだ。<コモン>とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す。20世紀の最後の年にアントニオ・ネグリマイケル・ハートというふたりのマルクス主義者が、共著『<帝国>』のなかで定義して、一躍有名になった概念である。
 
4.03 地球を<コモン>として管理する
143 「否定の否定」とはどういう意味か、簡単に説明しておこう。一段階目の「否定」は、生産者たちが<コモン>としての生産手段から切り離され、資本家の下で働かなくてはならなくなったことを示している。だが、二段階目の「否定」(否定の否定)においては、労働者たちが資本家による独占を解体する。そして、地球と生産手段を<コモン>として取り戻すというのである!
 
4.04 コミュニズムは<コモン>を再建する
4.05 社会保障を生み出したアソシエーション
146 グレーバーによれば、アソシエーションから生まれた<コモン>を、資本主義のもとで制度化する方法の一つが、福祉国家だったのである。しかし、1980年代以降、新自由主義の緊縮政策によって、労働組合や公共医療などのアソシエーションが次々と解体もしくは弱体化され、< コモン>は市場へと吞み込まれていった。 
 
4.06 新たな全集プロジェクトMEGA:Marx-Engels-Gesamtausgabe
4.07 生産力至上主義者としての若きマルクス
149 すなわち、資本主義の発展とともに多くの労働者たちが資本家たちによってひどく搾取されるようになり、格差が拡大する。資本家たちは競争に駆り立てられて、生産力を上昇させ、ますます多くの商品を生産するようになる。だが、低賃金で搾取されている労働者たちは、それらの商品を買うことができない。そのせいで、最終的には、過剰生産による恐慌が発生してしまう。恐慌による失業の生でより一層困窮した労働者の大群は団結して立ち上がり、ついに社会主義革命を起こす。労働者たちは解放される。
 これは、マルクスエンゲルスと一緒に書いた『共産党宣言』(1848年)の内容を物凄く大雑把にまとめたものと言えるかもしれない。
 
4.08 未完の『資本論』と晩期マルクスの大転換
4.09 進歩史観の特徴‐生産力至上主義ヨーロッパ中心主義
4.10 生産力至上主義の問題点
154 まず、「生産力至上主義」の立場に立てば、生産が環境にもたらす破壊的作用を完全に無視することになる。自然に対する支配を完成させることで、人類の解放を目指すのが生産力至上主義なのだ。その結果、資本主義のもとでの生産力の上昇こそが、環境危機を引き起こしているという厳然たる事実を、生産力至上主義は過少評価してしまう。
 
4.11 物質代謝論の誕生‐『資本論』でのエコロジカルな理論的転換
4.12 資本主義が引き起こす物質代謝の撹乱
4.13 修復不可能な亀裂
4.14 『資本論』以降のエコロジー研究の深化
4.15 生産力至上主義からの完全な決別
4.16 持続可能な経済発展を目指す「エコ社会主義」へ
164 そのうえで、生産力上昇の一面的な賛美をやめた『資本論』刊行前後の時期のマルクスは、さまざまな文献を読み漁りながら、社会主義における持続可能な経済発展の道を模索していた。
 
4.17 進歩史観の揺らぎ
4.18 『資本論』におけるヨーロッパ中心主義
4.19 サイードによる批判‐若きマルクスオリエンタリズム
169 なるほどイギリスがヒンドゥスタン〔=インド〕
 
4.20 非西欧・前資本主義社会へのまなざし
4.21 「ザスーリチ宛手紙」‐ヨーロッパ中心主義からの決別
4.22 『共産党宣言』ロシア語版という証拠
4.23 マルクスコミュニズムが変貌した?
4.24 なぜ『資本論』の執筆は遅れたのか?
4.25 崩壊した文明と生き残った共同体
180 古代ゲルマン民族の共同体である「マルク共同体」(Markgenossenschaft)
 
4.26 共同体のなかの平等主義に出会う
4.27 新しいコミュニズムの基礎‐「持続可能性」と「社会的平等」
4.28 「ザスーリチ宛の手紙」再考‐エコロジカルな視点で
4.29 資本主義とエコロジストの闘争
4.30 「新しい合理性」‐大地の持続可能な管理のために
4.31 真の理論的大転換‐コミュニズムの変化
191 晩年のマルクス進歩史観を捨てたが、それを可能にしたのは、1868年以降の自然科学研究と共同体研究であった。両方の研究が密接に連関しているのをしっかりと踏まえることで、晩期マルクスの到達点である「ザスーリチ宛の手紙」のもつ理論的意義も、初めて理解できるようになるのである。
 つまり、自然科学と共同体社会を研究することで、「持続可能性」と「平等」の関連について、マルクスは考察を深めようとした。そして、「ザスーリチ宛の手紙」を何度も書き直しながら、将来社会が目指すべき、新しい合理性の姿を展開しようと試みていたのである。要するに、ロシア人からの質問をきっかけに、持続可能で、平等な西欧社会を実現するための展望を、マルクスは構想し直そうとしていたのだ。
 
4.32 脱成長へ向かうマルクス
4.33 「脱成長コミュニズム」という到達点
197 マルクスが目指していたもの

1840~1850年代 生産力至上主義(『共産党宣言』、『インド評論』) 経済成長○、持続可能性✕
1860年代 エコ社会主義(『資本論』第一巻) 経済成長○、持続可能性○
1870~1880年代 脱成長コミュニズム(「ゴータ綱領批判」、「ザスーリチ宛の手紙」) 経済成長✕、持続可能性○
 
4.34 脱成長コミュニズムという新たな武器
4.35 『ゴータ綱領批判』の新しい読み方
4.36 マルクスの遺言を引き受ける
 
 
 
 
第5章 加速主義という現実逃避
5.01 「人新世」の資本論に向けて
206 経済成長をますます加速させることによって、コミュニズムを実現しようという動きもある。それが、近年、欧米で支持を集めている「左派加速主義」(left accelerationism)だ。
 
5.02 加速主義とはなにか?
207 イギリスの若手ジャーナリスト、アーロン・バスターニはこの可能性を追求して、「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」(fully automated luxury communism)を提起し、人気を博している。
 
5.03 開き直りのエコ近代主義
210 エコ近代主義は、原子力発電やNETなどを徹底的に使って、地球を「管理運用」しようという思想である。自然の限界を認識して、自然との共存を目指すよりも、自然を人類の生存のために管理することを目標とするのだ。
 
5.04 「素朴政治」なのはどちらだ?
5.05 政治主義の代償‐選挙に行けば社会は変わる?
5.06 市民議会による民主主義の刷新
5.07 資本の「包摂」によって無力になる私たち
219 つまり、バスター二の主張は一見するとラディカルだが、実はシリコンバレー型資本主義の焼き直しに過ぎないのだ。
 要するに、バスター二は資本主義を批判しながらも、資本主義が大好きなのである。だが、そんなバスター二の加速主義に引き付けられる人々がいる。
 
220 一時期流行った「ロハス」もこの無力な状態を克服しようとせず、消費だけで持続可能性を目指し、失敗した。消費者意識のレベルの変化では、成長を目指し続ける商品経済に、いとも簡単に呑み込まれてしまうのである。
 このように呑み込まれることを、マルクスの概念を使って言い換えると、「包摂」という。私たちの生活は資本によって「包摂」され、無力になっている。バスター二の理論的限界も根はロハスと同一で、資本による包摂を乗り越えることが出来ないのだ。
 
5.08 資本による包摂から専制
5.09 技術と権力
223 「資本の専制」がこのようなプロセスを経て完成することを踏まえると、バスター二の加速主義の真の危険性がわかるだろう。新技術の加速を追求するだけなら、「構想」と「実行」の分離をより一層深刻化させてしまい、「資本の専制」がさらに強化されるにすぎないからだ。
 そうなれば、どの技術を、どうやって使うかについて構想し、意思決定権をもつのは、知識を独占する一握りの専門家と政治家だけになる。資本は、そうした人々を取り込むだけでよい。様々な問題を新技術で解決できるにしても、一部の人間が有利になるような解決策が一方的に「上から」導入されてしまう可能性が極めて高いのである。
 
224 近年、気候変動対策として注目されている技術であるジオエンジニアリング(気候工学)を例に、この問題を考えてみよう。
 ジオエンジニアリングには、いろいろな種類があるが、共通する特徴は、地球システムそのものに介入することで、気候を操作しようとすることにある。
 
5.10 アンドレ・ゴルツの技術論
227 生産力至上主義の危険性を避けるためには、「開放的技術」と「閉鎖的技術」の区別が重要であると、ゴルツは述べた。「開放的技術」とは、「コミュニケーション、協業、他者との交流を促進する」技術である。それに対して、「閉鎖的技術」は、人々を分断し、「利用者を奴隷化し」、「生産物ならびにサービスの供給を独占する」技術をさす。
 
5.11 グローバルな危機に「閉鎖的技術」は不適切
5.12 技術が奪う想像力
229 だが、エコ近代主義のジオエンジニアリングやNETといった一見すると華々しく見える技術が約束するのは、私たちが今までどおり化石燃料を燃やす生活を続ける未来である。こうした夢の技術の華々しさは、まさにその今までどおり(status quo)の継続こそが不合理だという真の問題を隠蔽してしまう。ここでは、技術自体現存システムの不合理さを隠すイデオロギーになっているのである。
 
5.13 別の潤沢さを考える
 
 
 
 
第6章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
6.01 欠乏を生んでいるのは資本主義
6.02 「本源的蓄積」が人工的希少性を増大させる
236 「本源的蓄積」とは、一般に、主に16世紀と18世紀にイングランドで行われた「囲い込み(エンクロージャー)」のことを指す。共同管理がなされていた農地などから農民を強制的に締め出したのだ。
 
6.03 コモンズの解体が資本主義を離陸させた
238 土地は根源的な生産手段であり、それは個人が自由に売買できる私的な所有物ではなく、社会全体で管理するものだったのだ。だから、入会地のような共有地は、イギリスでは「コモンズ」と呼ばれてきた。そして、人々は、共有地で、果実、薪、魚、野鳥、きのこなど生活に必要なものを適宜採取していたのである。森林のドングリで、家畜を育てたりもしていたという。
 だが、そのような共有地の存在は、資本主義とは相容れない。みんなが生活に必要なものを自前で調達していたら、市場の商品はさっぱり売れないからである。誰もわざわざ商品を買う必要がないのだ。
 だから、囲い込みによって、このコモンズは徹底的に解体され、排他的な私的所有に転換されなければならなかった。
 
6.04 水力という<コモン>から独占的な化石資本へ
240 マルムは、なぜ人類が水力を捨てたのかを資本主義との関連で説明してくれる。
 
Fossil Capital: The Rise of Steam Power and the Roots of Global Warming (English Edition)  - Andreas Malm
 
241 石炭や石油は河川の水と異なり輸送可能で、なにより、排他的独占が可能なエネルギー源であった。この「自然的」属性が、資本にとっては有利な「社会的」意義を持つようになったというのである。
 
6.05 コモンズは潤沢であった
6.06 私財が公富を減らしていく
244 ローダデールのパラドックス
「私財(private riches)の増大は公富(public wealth)の減少によって生じる」
 
 要するに、「公富」と「私財」の違いは、「希少性」の有無である。
「公富」は万人にとっての共有財なので、希少性とは無縁である。だが、「私財」の増大は希少性の増大なしには不可能である。ということは、多くの人々が必要としている「公富」を解体し、意図的に希少にすることで、「私財」は増えていく。つまり、希少性の増大が、「私財」を増やす。
 
245 そう、ローダデールの議論は直接には、「私富」の合計が「国富」であるというアダム・スミスの考えに対する批判と見なすことができるのだ。
 つまり、ローダデールに言わせれば、「私富」の増大は、貨幣で測れる「国富」を増やすが、真の意味での国民にとっての富である「公富」=コモンズの現象をもたらす。そして、国民は、生活に必要なものを利用する権利を失い、困窮していく。「国富」は増えても、小億民の生活はむしろ貧しくなる。つまり、スミスとは異なり、本当の豊かさは「公富」の増大にかかっているというのである。
 
6.07 「価値」と「使用価値」の対立
246 マルクスの用語を使えば、「富」とは、「使用価値」のことである。「使用価値」とは、空気や水などがもつ、人々の欲求を満たす性質である。これは資本主義の成立よりもずっと前から存在している。
 それに対して、「財産」は貨幣で測られる。それは、商品の「価値」の合計である。「価値」は市場経済においてしか存在しない。
 マルクスによれば、資本主義においては、「商品」の論理が支配的となっていく。「価値」を増やしていくことが、資本主義的生産にとっての最優先事項になるのである。
 その結果、「使用価値」は「価値」お実現するための手段に貶められていく。「使用価値」の生産とそれによる人間の欲求の充足は、資本主義以前の社会においては、経済活動の目的そのものであったにもかかわらず、その地位を奪われたのだ。そして、「価値」増殖のために犠牲にされ、破壊されていく。マルクスはこれを「価値と使用価値の対立」として把握し、資本主義の不合理さを批判したのである。
 
6.08 「コモンズの悲劇」ではなく「商品の悲劇」
6.09 新自由主義だけの問題ではない
6.10 希少性と惨事便乗型資本主義
6.11 現代の労働者は奴隷と同じ
6.12 負債という権力
6.13 ブランド化と広告が生む相対的希少性
6.14 <コモン>を取り戻すのがコミュニズム
6.15 <コモン>の「<市民>営化」
6.16 ワーカーズ・コープ‐生産手段を<コモン>に
261 「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」
 
6.17 ワーカーズ・コープによる経済の民主化
263 20世紀の福祉国家は、富の再分配をめざしたモデルであり、生産関係そのものには手をつけなかった。つまり、企業があげたり順を所得税法人税という形で、社会全体に還元したのである。 
その裏では、労働組合は、生産力上昇のために資本による「包摂」を受け入れていった。資本に協力することで、再分配のためのパイを増やそうとしたのだ。その代償として、労働者たちの自律性は弱まっていった。
 資本による包摂を受け入れた労働組合とは対照的に、ワーカーズ・コープは生産関係そのものを変更することを目指す。労働者たちが、労働の現場に民主主義を持ち込むことで、競争を抑制し、開発、教育や配置換えについての意思決定を自分たちで行う。事業を継続するための利益獲得を目指しはするものの、市場での短期的な利潤最大化や投機活動に投資が左右されることはない。
 
6.18 GDPとは異なる「ラディカルな潤沢さ」
6.19 脱成長コミュニズムが作る潤沢な経済
6.20 良い自由と悪い自由
6.21 自然科学が教えてくれないこと
6.22 未来のための自己抑制
 
 
 
 
第7章 脱成長コミュニズムが世界を救う
7.01 コロナ禍も「人新世」の産物
7.02 国家が犠牲にする民主主義
7.03 商品化によって進む国家への依存
7.04 国家が機能不全に陥るとき
7.05 「価値」と「使用価値」の優先順位
7.06 「コミュニズムか?、野蛮か?」
7.07 トマ・ピケティが社会主義に「転向」した
288 そして、社会民主主義政党が労働者階級を見捨て、インテリの裕福層重視になっていったことを「バラモン左翼」と痛烈に皮肉っている。リベラル左派の姿勢を、右派ポピュリズムの台頭を許しているとして、厳しく批判するようになっているのだ。
 
7.08 自治管理・共同管理の重要性
290 そして、ピケティも強調しているように、「参加型社会主義」はソ連社会主義とはまったく異なるものである。官僚や専門家が意思決定権や情報を独占していたがゆえに、ソ連における民主主義的な「参加型社会主義」は不可能であった。
 独裁的なソ連に対して、「参加型社会主義」は、市民の自治と相互扶助の力を草の根から養うことで、持続可能な社会へ転換しようと試みるのだ。今、ピケティと晩期マルクスの立場はかつてないほどに近づいているのである。
 
7.09 物質代謝の亀裂を修復するために
7.10 労働・生産の場から変革は始まる
7.11 デトロイトに蒔かれた小さな種
7.12 社会運動による「帝国的生産様式」の超克
7.13 人新世の「資本論
7.14 脱成長コミュニズムの柱1‐使用価値経済への転換:「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する
301 レジリエンス(回復力、弾性(しなやかさ))
 
7.15 脱成長コミュニズムの柱2‐労働時間の短縮:労働時間を削減して、生活の質を向上させる
7.16 脱成長コミュニズムの柱3‐画一的な分業の廃止:画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる
7.17 脱成長コミュニズムの柱4‐生産過程の民主化:生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる
7.18 脱成長コミュニズムの柱5‐エッセンシャル・ワークの重視:使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視を
7.19 ブルシット・ジョブ VS. エッセンシャル・ワーク
316 だからこそ、「使用価値」を重視する社会への移行が必要となる。それは、エッセンシャル・ワークが、きちんと評価される社会である。
 
7.20 ケア階級の叛逆
7.21 自治管理の実践
7.22 脱成長コミュニズムが物質代謝の亀裂を修復する
7.23 ブエン・ビビール:Buen Vivir、良く生きる
 
 
 
 
第8章 気候正義という「梃子」
8.01 マルクスの「レンズ」で読み解く実践
8.02 自然回帰ではなく、新しい合理性を
8.03 恐れ知らずの都市・バルセロナの気候非常事態宣言
8.04 社会運動が生んだ地域政党
8.05 気候変動対策が生む横の連帯
8.06 協同組合による参加型社会
8.07 気候正義にかなう経済モデルへ
8.08 ミュニシパリズム‐国境を超える自治体主義
337 このように国境を越えて連帯する、革新自治体のネットワークの精神は「ミュニシパリズム」と呼ばれている。従来の地方自治体が閉鎖的であったのとは対照的に、国際的に開かれた自治体主義を目指しているのである。
 
8.09 グローバル・サウスから学ぶ
8.10 新しい啓蒙主義の無力さ
8.11 食料主権を取り戻す
8.12 グローバル・サウスから世界へ
8.13 帝国的生産様式に挑む
8.14 気候正義という「梃子」
8.15 脱成長を狙うバルセロナ
8.16 従来の左派の問題点
8.17 「ラディカルな潤沢さ」のために
8.18 時間稼ぎの政治からの決別
8.19 経済、政治、環境の三位一体の刷新を
8.20 持続可能で公正な社会への跳躍
 
 
 
 
おわりに‐歴史を終わらせないために

読んだ。 #失われた未来を求めて #木澤佐登志

読んだ。 #失われた未来を求めて #木澤佐登志
 
マーク・フィッシャー、サイバネティクス、『ダークナイト』『ジョーカー』、ポピュリズムフーコーLSDネオリベラリズム反知性主義
 
「脱魔術化」としてのプロテスタンティズム、ピュウリタニズム、主知主義的合理化のプロセス、
「反脱魔術化」としてのカウンターカルチャーサイケデリック運動、ダダイズムシュールレアリズム、エラノス会議、ホフマンの考え、ハクスリーの「意識革命」、
「再魔術化」としてのニューエイジ運動、リアリーの考え、エスリン研究所、アブラハム・マズロー自己啓発、マインドフルネス、、資本主義的スピリチュアリティ、霊的資本主義の時代、
 
資本主義リアリズム、シミュラークル、ARG(代替現実ゲーム)、Qアノン、コンスピリチュアリティメンタルヘルス発達障害などが、ずーっと繋がっており、すごいのだが、いろいろな専門用語も多く、大量に流れてくる情報に圧倒されて何を読んでいるのかわからなくなることもあったが、わかるところはおもしろかった。またいつか再読したい。
 
 
・リー・エーデルマンは<未来=子ども>という観念のもとで生産される一種の信仰を「再生産的未来主義」と名付ける。エーデルマンはクィア理論の立場から、「(再)生産性の信仰」と、社会秩序の保守と再生産に加担する<未来=子ども>の観念を批判する。
 
ダークナイト』(2008)はテロリズムの映画だったが、『ジョーカー』(2019)はポピュリズムの映画だ。
 
・フランスの思想家、ツヴェタン・トドロフによれば、ポピュリズムとは伝統的な右派や左派に分類できるものではなく、むしろ「下」に属する運動であるという。つまり、既成政党を右も左もひっくるめて「上」の存在として括り、それらを「下」から批判してみせるのがポピュリズムの基本戦略なのだ、と。
 
対立の解消こそがポピュリズム政党のもっとも恐れる事態であるかもしれない。ムフも指摘するように、ポピュリズム政党のアピールは、「ひとたび政権の一翼を担うと弱まってしまう」のである
 
フィッシャーによれば、アイデンティティ政治は連帯ではなく分断を、繋がりではなく切断を生み出す。人種、ジェンター、性的指向、等々……。左派はネオリベラリズムという大いなる敵と闘うことを忘れ、個々のアイデンティティという小さな枠内の議論に閉じこもっている。そこで発生するのは、閉鎖的なクラスタ内において、各々の主張と弾劾が倍音とともに反響していくエコーチェンバー現象である。終わりなき個人攻撃と異端審問。不安と罪の意識に突き動かされた、ニーチェ的な意味での道徳的なリベラル左派たちは、脅迫的な「牧師的欲望」をプチブル意識の内部に育んでいく。そこではエスタブリッシュメント的な特権と資本が癒着している。こうした動向に対して、オールドレフトを自認するフィッシャーは、今こそ階級意識を取り戻し、資本主義リアリズムのオルタナティブとなるような、新しい形の共同体を模索しなければならない、と主張する。ヴァンパイア城から脱出すれば、あらゆることが再び可能になる
 
フィッシャーが仮想敵としているのが、60年代以降のニューレフトであることは明らかである。ニューレフトによる多文化主義や反レイシスト運動やフェミニズム運動が、それまでのオールドレフトに対するカウンターとしてまず台頭し、それはアイデンティティ政治として定着した。だが、左派によるアイデンティティ政治は、やがてシティズンシップに回収されることでブルジョワ化した。一方で、経済格差や階級闘争などの左派における伝統的な問題は等閑視され、そこに空いた間隙に排外主義的な貧しき白人というマジョリティによるアイデンティティ運動が入り込む隙を作った。その帰結がドナルド・トランプ大統領である
 
カウンターカルチャーという亡霊、言い換えれば「失われた未来」
 
・マーク・フィッシャーは絶筆となった『アシッドコミュニズム』の序文のなかで、アシッドコミュニズムとは、とある亡霊に与えられた名前であると述べている。その亡霊とは、70年代以降のネオリベラリズムヘゲモニーと資本主義リアリズムによって祓われた亡霊、すなわち60年代カウンターカルチャーの核心であった「世界を徘徊する自由を求める亡霊」である。
 
・フィッシャーにとっては、ネオリベラリズムとはまず何よりも、このアシッドコミュニズムという名の「亡霊」を祓うためのプロジェクトに他ならなかったネオリベラリズムが標的とした真の敵、それはソビエトブロックでも、みずからの矛盾の重みによって自壊していったニューディール政策でも社会民主主義でもなかった。ネオリベラリズムのプロジェクト、それは60年代後半と70年代前半に華開いた民主社会主義リバタリアンコミュニズムにおける数々の実験を完膚なきまでに破壊することに主眼があった、という。
 
LSD特有の「曲がる」感覚
 
多田智満子
それは異様におびただしい花弁をもった肉色の薔薇であって、たえず左から右へ(時計の針と同じ方向に)ゆっくり旋回しながら、花開きつづけていた。それはじつに数時間ぶっ通しに、同じ大きさ、同じ形を保ちながら、果てしなく花開きつづけたのである
 
たとえば、ここで槍玉に挙げられているベビーブーマー世代は、この連載の文脈では、60年代以降のカウンターカルチャーの担い手となった当の世代でもある、という点を見過ごすことはできない。
 
・だが、ヒースらの診断に従えば、こうしたカウンターカルチャーによる文化革命/意識革命の運動は、なんら社会制度の具体的な変革には結びつかず、むしろ後続の大量消費文化を用意する元凶にまでなったという。なぜか。
一言でいえば、「消費プロセスを駆動しているのは順応への渇望ではなく、むしろ差異化の探求」であるからだという。人々は他人と違う人間になりたいからこそ商品(ブランドもののバッグ、服、最新のガジェットやら音楽、等々)を飽くことなく求め続ける。「差異」を求める心理は「主流」に対する反抗として現れる。カウンターカルチャーの反逆――「主流」社会の規範の拒絶――は大きな差異の源泉となり、競争的消費の主要な原動力となった。「反逆」は「オルタナティヴ」へのモデルチェンジによって消費社会の商品サイクルを永続化させる
 
カウンターカルチャーに宿っていた可能性、その潜在性/潜性力を根絶やしにすることこそが、ネオリベラリズムに課せられたプロジェクトであった。
 
・バーマンに従えば、近代化とは、この生にとって根源的な役割を果たしていた「意味」の喪失のプロセスに他ならない。それは言い換えれば、世界から「魔法」が解けていくということを意味する。たとえば、デカルトに端を発する機械論的哲学は、精神と物体を明確に分断する思考法を推し進めた。主体と客体を常に対立させる二元論的思考は、自然への参入ではなく、自然との分離に向かう意識、すなわち「参加しない意識」を生み出した。無意味な世界のなかで、内面的に孤立化した諸個人が暮らしているのが私たちが生きる近代社会のあり方なのだ。
 
伝統的価値観の崩壊によって生じた空虚のなかで、我々にあるものといえば、狂信的な信仰復興運動、統一教会への集団改宗、そして、ドラッグ、テレビ、精神安定剤によってすべてを忘れてしまおうとする姿勢である。
 
フィッシャーは、憂鬱症が個人の脳器質的な問題に還元され、周囲の労働環境や社会構造、もっといえば政治の次元が等閑視されてしまう構造を問題視した。資本主義リアリズムは、資本主義が本質的に機能不全であるという事実を、不断に個人の自己責任の問題にすり替えることで、資本主義に代わるオルタナティヴは存在しえないというイデオロギーを堅牢に保つことに成功する。
 
第一次世界大戦とそれが生んだ壊滅的なカタストロフィは、同時代を生きる若者たちに、脱魔術化による合理化のプロセスや進歩、あるいは理性といった啓蒙主義のプログラムに対する根本的な懐疑を植え付けた
 
そしてその元凶としてのカント批判へと至る。「カント、これこそ一切の源にある不倶戴天の敵だ。彼はその認識論によって可視的世界の対象をすべて悟性と抑制に引き渡してしまった
 
・こうしたカントへの不満と批判は、第一次大戦後のドイツにおけるアカデミー哲学としての新カント学派の凋落を予示するものであり、当時「生命の全体的な表現」を求める表現主義的傾向に共感する青年たちがひとしく抱いてたものであったと言って差し支えなく、一般にそれは当時の青年たちを襲った「ニーチェゲオルゲ熱」と表現される、という。バルは日記の中で、「レゾーン(理性)を一切打破し、カント主義を廃絶した最初の哲学者」としてニーチェを評価している
 
・「考えるのではなく視る人
 
 
・ホフマンによれば、現実というものは、それを体験している主体すなわち自我を抜きにしては考えることはできない現実、それは「送り手」である外界と、「受け手」である自我の相互関係において成り立っているホフマンはこうした外界と自我の関係性をラジオの受信機に喩えている。すなわち、現実とは自我の内奥にある感覚器官のアンテナを用いて受信された外界の写しであって、送り手と受け手のどちらかが欠けても現実は成立しないのである。そして、LSDはわれわれの脳、つまり受け手の中枢にあるアンテナに強く働きかけ、生化学的な変化をそこに生じさせ、それによって受け手は通常の現実とは異なった波長を受け取ることが可能となる。LSDはそれまでの、さながら自然律であるが如く強固で不動であるかのように思われた「現実」とは本質的に異なるまったく異質な「現実」を構成するのである外界の波長が無限に多様であるとすれば、LSDがその都度もたらす様々なアンテナの変化によって構成される現実も権利上は無限に存在するだろう。「その現実は、否、もっと正確に言えば現実のこの様々な層は、互いに排他的な関係にあるのではなく、むしろ相補的であり、それが一緒になってすべてを包括した悠久の超越的な現実を構成しているのである。
もう一つ、ホフマンは日常の現実と、LSDによって引き起こされるもうひとつの現実との間の本質的な相違はどこにあるのか、という問いを提起している。彼はそれに対して、日常においては、我々の自我と外界との間には本源的な分離が横たわっているのだが(外界は我々にとって客体として立ち現れる)、LSDの酩酊状態においては、外界とそれを体験している自我との境界が、その酩酊の深さに比例して取り払われることになるのではないか、と述べている。
 
つまり受け手と送り手との間に区別がなくなり、両者の間に行き来が生ずる。自我の一部が外界へ、事物へと転移される。それによって、外界は生き生きとし始め、より深い意味を持つようになる。それはわれわれに至福感を感じさせることもあれば、逆に恐怖を抱かせるような悪霊的なものを感じさせることもある。至福感を伴う場合には、新しい自我は外界の事物そのものと結びつき、また他の人びととも精神的に一体化するように感じられる。この体験は、自我と宇宙に存在する一切のものとが一体であるという感情の昂まりとなる。
 
つまり、共産主義者の洗脳テクノロジーに対抗するだけでなく、あわよくばそれらを上回る洗脳テクノロジーをみずからの手中に収めるためにCIAが目をつけたのが、当時スイスのサンド社が手掛けていたLSDであり、そのために発動されたのがMKウルトラ計画であった。
 
リアリーらサイケデリクス派は、LSDを「洗脳」ドラッグとしてではなく、隠された真理を開示するための「啓蒙」ドラッグとして見なした。だが、これら二つの態度の差は、見かけほどに開いているとは必ずしも言えないのではないか
 
エサレン以降の研究者たちは、カウンターカルチャーから意識的に距離を取り、LSDをヒッピーたちの手から奪い返し、サイケデリック・セラピーに、神とつながる<至高体験>の儀式に供することを求めている
かくして、サイケデリクスは現実を転倒させる革命のための武器から、有り難い<至高体験>を味わい人生のネクストステージへの階段を昇るための霊的な護符へと変質していった。このサイケデリクスの変質の過程は、アメリカにおけるカウンターカルチャーからニューエイジ運動への移行の過程とほぼ同期している。
 
・さらに近年では、精神の健康を保つ、あるいは精神機能を向上させる目的で、作用閾値未満のごく微量のLSDを数日おきに摂取するマイクロドージングなるムーブメントも流行っているようだ。ここに至ってLSDは完全に骨抜きにされ、ビジネスパーソンが束の間の休憩中に摂取するサプリメント、あるいは西海岸のプログラマーが高いパフォーマンスを発揮するために摂取するスマートドラッグの位置にまで堕した。ここでのLSDは、ビジネス・スキルを獲得して同期のライバルに差をつけよ、という競争=狂躁社会から突きつけられる要求に応えるための便利な呪符であり、それ以上でもそれ以下でもない。再帰的無能感(フィッシャー)に奉仕する抗うつ剤が氾濫している資本主義リアリズムにあっては、まさにうってつけなのかもしれないが。
 
・まず注意しておくべきは、反知性主義(Anti-intellectualism)を、その訳語が想起させがちな「知性」に対するアンチとして捉えてしまうと往々にしてその本質を取りこぼすことになる、という点である。インテレクチュアル(intellectual)」とは「知識人」を意味し、反知性主義はまずもって「知性」を不当に(?)独占する知識人階級のエリートたちに対するアンチとして理解する必要があるだろう(この点について神学者の森本あんりは、「反知性主義は単なる知性への軽蔑と同義ではない。それは、知性が権威と結びつくことに対する反発であり、何事も自分自身で判断し直すことを求める態度である。」と述べている)。
 
また信仰の基盤を個人の内面に求めるピューリタニズムは、同時にヨーロッパにおける個人主義を醸成した
 
20世紀のカウンターカルチャーと18世紀の信仰復興運動を繋ぐ真のミッシングリンクはリアリーではない。歴史の狡知は、もっと深いところで地下水脈を人知れず形成している。そして、そこにはやはりLSDという物質が常に関わっている。
 
ハクスリーはサイケデリクスによって<物自体>に到達することができると信じた。この現象世界というまやかしを一気に突き破って、彼方にある唯一の<リアル>にアクセスすること、これこそがハクスリーが提唱した「意識革命」のアジェンダであった
 他方、フィッシャーはサイケデリクスによって直ちに<物自体>の世界に到達できるという企てを慎重に退けているように見える。むしろ、サイケデリクスは私たちに、この世界がどのように構築され機能しているか、という外のビジョン(outside vision)を授けてくれるそれはこの世界を突き破ることなく視点をあくまでこの世界の内に留めたまま、しかしこの世界が一貫性と恒常性を伴った、改変しがたい強固なものではなく、むしろ矛盾だらけで可塑性のある、ある種の「壊れやすさ」を伴った世界であることを開示する。それが哄笑を誘うのは、この世界が恣意的で偶然的な基盤=イデオロギーに支えられたシステムに過ぎないことをどこまでも暴露してやまないからだ。
 
・いい音楽と悪い音楽があるのと同様に、いいドラッグと悪いドラッグがあるのです。それ故、私たちが音楽自体に「反対」だと言えないのと同様に、ドラッグ自体に「反対」だとは言えないのです。
 
例えば、何世紀にもわたり人びとは一般に、そしてまた医者、精神科医、あるいは解放運動までもが、欲望については語りましたが、快楽については決して語りませんでした彼らは、「欲望を解放せねばならない」と言います。違うのです。新しい快楽を創造せねばならないのです。そうすれば、欲望はそれについてくるでしょう
 
フーコーを仕事に駆り立てる唯一の好奇心、すなわち「自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心」。
 
異なる仕方で思索すること、異なる仕方で知覚すること、思索の思索自体への批判作業を行うこと。別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企て。言い換えれば、限界(limit)の線をいかに越え、引き直すか。線を絶えず引き直し続けること。その終わりなきプロセスの只中に自身の身を置くこと。
 
・社会がもちこたえ、生きているのは、つまり諸権力が社会において「絶対的に絶対」ではないのは、あらゆる受諾と強制の背後に、脅迫や暴力や説得の彼方に、生がもはや交換の対象でなくなる瞬間、諸権力がもはや何もできなくなる瞬間、絞首台と機関銃を前にして人々が立ち上がる瞬間の可能性があるからだ
 
・だがボードリヤールによれば、ディズニーランドには隠された役割が存在する。その役割とは、ディズニーランドの外側に存在する実在の世界それ自体がディズニーランドに他ならない、という事実を見えなくすることである。
 
ディズニーランドは、それ以外の場すべてを実在だと思わせるために空想として設置された
 
・マクゴニガルは、ポジティブ心理学などを援用しながら、人生に意味を見出すための最善で唯一の方法は、日々の行動を、何か自分自身よりも大きな存在に結びつけ日々を送ることである、と述べる。
 
・彼女のような人々は、パステルQアノンと呼ばれている。パステルカラー、ピンクとゴールドの配色、水彩画、手書きフォント、自然風景と豊かなライフスタイル、いかにも幸福そうな笑顔の画像、等々……。パステルQアノンは陰謀論の無害化と衛生化に努める
 
コンスピリチュアリティ(Conspirituality)という言葉がある。これは、ニューエイジ的なスピリチュアリティ(Spirituality)と陰謀論(Conspiracy Theory)の交叉を説明する際に用いられる造語である。
 
結果、メンタルヘルスの疾病は資本主義リアリズムに取り憑く病となる
 
現在、鬱病は脳内の神経伝達物質の均衡が崩れることによって発症すると考えられている(モノアミン仮説)。こうした精神障害の化学・生物学化は、当然の如く、抗うつ薬SSRI)の万能性をアピールすることに資する。だが、解明されるべきは、なぜ神経伝達物質の均衡が崩れたのか、である。フィッシャーは『資本主義リアリズム』のなかで以下のように指摘していたことを思い出そう。
 
ここでの職場結合性うつ病とは、対人関係や自己同一性の双方での明らかなパーソナリティ機能の問題が認められない、安定した社会機能を有する個人が、職場での過重労働(目安としては一ヶ月あたり100時間を超える時間外労働)を誘因として発病した鬱病に対して提唱された概念である
 
自己啓発ネットワークビジネスは「強い思考やイマジネーションはいずれ現実化する」というポジティブ・シンキングの発想を主要な参照点としている。身も蓋もなく言えば、「自分が強く願えば自分/世界は変わる」もしくは「自分が変われば世界も変わる」という考え方がそれらのベースにある。言ってしまえば、それはどこまでも唯心論的、さらに言えば独我論的な世界観である。
小池靖が『セラピー文化の社会学』のなかで指摘するように、ネットワークビジネス(とそれが信奉するポジティブシンキング)は、自分の力で成果を生み出し成功しようとする意味で、「強い自己」を前提とした、競争社会で自己責任を強調する態度を推奨しているこうした態度が、リベラル能力資本主義とも親和的であることは言うまでもない
同様の性質は、いわゆる自己啓発セミナーにも見られる。なお自己啓発セミナーは、第八回で言及した、あのエサレン研究所で実践されていたエンカウンターグループをルーツのひとつとする。エサレン研究所のヒューマン・ポテンシャル運動は、社会の価値観や制度によって抑圧されている潜在能力の解放が目指されていたのだった。その運動は当時のカウンターカルチャーの精神とも確かに結びついていた。だが、結局それは社会を変革することはなく、現在では自己啓発セミナーとして「再魔術化」したリベラル能力資本主義に適合した姿を見せている
自己啓発セミナーとネットワークビジネスの重要な差異は、「社会によって抑圧されている自己の限界を解放する」という契機が自己啓発セミナーに加わる点であるという。
 
自己啓発セミナーは、自己の抑圧からの解放を志向する。しかし、それはどこまでも自己の内部で起こる出来事であるがゆえに、世界を変えることは遂にない。世界とそこで起こる事象は、すべて自己の内側の心的表象に還元されてしまうのだ。そこに見られるのは、自己の外側に存在する世界/社会を変えることはできないので、それらを自己の内側に取り込んだ上で「自分が変われば世界も変わる」という発想に繋げていくという、一種の認識論的な詐術である。ここには、<外部>が存在しない唯心論的な世界に対するアプローチにおいては、外部=環境を変容させるのではなく、外部=環境の受け取り方(解釈)を変容させることが目指される
 
自己啓発は個人を自己の檻のなかに閉じ込める。すべてが絶えず自己に再帰してくる。自分が変われば世界も変わる、という希望とともに。だが、それは同時に呪いでもある。
うつ病自己啓発はともに表裏の関係にあるどちらも魔術的自立主義という自己幻想を所与としたリベラル能力資本主義に支配的な「病」である、という点において。自分の力だけが自分を変え、なりたい自分になることができるという信念。可塑的な脳と、強固で不可逆な資本主義という制度。
もし、この交換不可能で二項対立的なイデオロギーこそが、資本主義を維持させている当のものである、としたら? つまり、資本主義は見かけほど強固でも不変でもなく、脳と同じく(あるいはそれ以上に)可塑的で変更可能である、としてみたら?
 
この行き詰まりを打開するためには、新自由主義のみならずリベラリズムにおける伝統全体の核心にある、自律的な個人という信念を捨てる必要がある
 
・すなわち、再魔術化でも単なる唯物論的還元主義としての脱魔術化でもない、反―脱魔術化としてのスピノザ主義を構想すること……?
自己の可塑性を世界の可塑性に向けて押し開くこと。自己の可塑性ではなく、世界の可塑性こそを信じること。そうすることによって、私たちは、鬱の状態で死ぬまで横たわっているか、脳に電極を埋め込んで死ぬまで資本主義に搾取されるか、という二つの選択肢のどちらでもない、別の可能性の未来に思いを馳せることができる。
 
・たとえば、ダーウィンは生物の進化を主の「分岐」として理解する。分岐が種を多様化させ、そして、種の多様化こそが進化の意味だった。つまり、ダーウィンからすれば、進化は進歩から厳密に区別されるべきものとなる。種の進化にとって問題となるのは、環境社会に適応しているかどうかであって、そのこと自体は偶然性によって左右される。そうした現象に対して「高等」とか「下等」といった価値観を適用させるのは、社会的な価値関係や階層秩序を暗に前提としている証左でしかない。実際、ダーウィンは生物の形態に関して「高等」や「下等」といった表現を用いることに対して常に慎重な態度をとっていた。
 
・今や、異常なものは正常なものと性質を異にするわけではない。怪物は、無限に広がる正常―異常の連続体の地平の内に囚われる。そこに<外部>はない。<外部>は常にすでにスペクトラムの内側へ包摂される。異常は絶えざる管理と矯正の対象となる。そこではたとえば、狂気=怪物は何らかの<外部> を示すものとしてではなく、進化の系列上における遺伝的退行として解釈し直される。この地平の内側では、人間 は狂うことさえできなくなるのだ。この正常化=規範化の権力の下で、いわば個人は横に伸びる平均の軸と縦に伸びる遺伝的系譜の軸からなる座標系=マトリクスのどこかに必ず定位される。
 
・(包摂による統治)。かくして、自立支援制度と特別支援教育が導入され、ソーシャルワーカースクールカウンセラー精神保健福祉士が動員される。近年における発達障害の診断数の増加は、こうした状況と明らかに不可分なものとしてある。たとえばASDの特徴のひとつとして、他者の声の調子、身振り、表情などから相手の気持ちを読み取る能力が定型発達者に比べて劣ることが挙げられるが、これなどは、相手の感情を読み、それに応じて地震の感情をフレキシブルに表出することが常に求められる感情管理社会を生きる上で不可欠な能力である
 現行の社会に適応できない者、言い換えれば正規分布における平均値から逸脱した者たちは、直ちに「障害」としてラベリングされ、教育的支援や福祉的支援といった諸々のセーフティネットを介して再び社会に包摂される。だがそこで行われる自立支援とは、要するに平均値からの偏差を可能な限り矯正することであり、他人に迷惑をかけるような、過大な不満、分不相応な意思、不届きな欲望を持たないように、言い換えれば、わきまえた欲望を持つことが出来るように善導してあげること、「正常なもの(le normal)」に少しでも近づけるよう適切にマネジメント=方向づけをして、社会が当人に定めた相応な位置に再配置することである。
 
規律社会の否定性が生み出したのは、[禁止や命令に従わないものとしての]狂人や犯罪者であった。それに対して能力社会が生み出すのは、[然々(しかじか)することができない者としての]うつ病患者と無能な人間である。
 
・17、18世紀を通じて、オランダ(そしてスイス)というカルヴィニスト国家は、脱魔術化と世俗化を他国と比べても早期の段階で徹底させ、現世内禁欲、契約に基づく人間関係、勤労の賛歌、といったプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を貫徹させた。そこでは、悪魔との闘争も現世における勤労によってなされるべきだとするリアリズムが魔女狩りの集団的パラノイアに対して優勢となったのである。この過程の中で、民衆の中に根づいていた魔術は不正な力の行使、つまり労働をせずにほしいものを手に入れる手段=労働の拒否と見なされ、根絶の対象となった。魔術は勤勉を殺す
 こうして男性の身体は「労働機械」へ、女性の身体は「産む機械」へと変容させられる。「資本主義によって発展した最初の機械とは、蒸気機関でも時計でもなく、人間の身体だったのだ」。身体の脱魔術化の完成。
 
・ところで、LSDなどのサイケデリクスは環境によって作用が大きく左右される。そこで重要になるのが、いわゆる「セット」と「セッティング」である。「セット」は服用者の心的状態、「セッティング」は服用者を取り囲む環境状態をそれぞれ意味する。これら二つのファクターがどちらも良好な状態でなければ、最悪バッドトリップに陥る。 

読んだ。 #talkingtomydaughterabouttheeconomy #yanisvaroufakis

読んだ。 #talkingtomydaughterabouttheeconomy #yanisvaroufakis
#父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話
 
ギリシャが経済危機の最中、2015年に財務大臣に就任した、ヤニス・バルファキスさんが、十代半ばの娘さんに向けて、「経済についてきちんと話すことができるように」という思いから、できるだけ専門用語を使わず、地に足のついた、血の通った言葉で経済について語ったもの、
ということで読みやすいかと思い読み始めたが、思ったていたよりかなり時間がかかってしまった。
 
 
 
0
・誰もが経済について権威を持って話すことができるようにすることは、良い社会の前提条件であり、本物の民主主義の前提条件です。
 
 
 
1
・市場と経済は別物
 
明らかに、私たちが木に住んでいたときから、食糧を育てる能力が発達する前から、私たちは市場を持っていました。
私たちの先祖の一人がバナナを他の果物と交換することを初めて申し出たとき、ある種の市場交換が行われました。
しかし、これは本当の経済ではありませんでした。
経済が成立するためには、他の何かが必要でした。
それは、単に木からバナナを取ったり、動物を狩ったりするだけでなく、人間の労働力なしには存在しなかったであろう食物や楽器を生産する能力である。
 
借金がなければ、農業の余剰を管理する簡単な方法はありません。
 
・そして、これらの関係を検討すると、余剰なしに国家が生まれることはあり得なかったということも明らかになります。
国家は、官僚公務を管理させ、警察に財産権を保護させ、支配者に(良くも悪くも)高い生活水準を要求する。
これらの人々を、畑仕事をすることなく維持するための多額の余剰金がなければ、上記のいずれも考えられなかっただろう。
また、組織化された軍隊は余剰なしには存在できませんでした
–そして組織化された軍隊なしで支配者の力、 そして、ひいては、国家を課すことはできませんでした、 そして社会の余剰は外部の脅威に対してより脆弱になるでしょう。
官僚と軍隊は農業の余剰によって可能になり、それが官僚と軍隊の必要性を生み出しました。
 
・では、これらの統治者はどのようにして権力を維持し、過半数に邪魔されることなく、余剰分を好きなように分配したのでしょうか。
答えは次のとおりです。大多数が彼らの支配者だけが支配する権利を持っていると彼らの心の奥深くに信じさせたイデオロギー育てることによって。
 
国家がその統治者の死を生き延びて永続的に存在しなければならなかったように、国家権力のためのイデオロギー的支柱制度化される必要がありました。
その目的のための儀式を行い、制定したのが聖職者たちである。
 
・私たちは、はじめに余剰があったことを見ました。
そして、農業の余剰から文字、借金、お金、国家が生まれ、これらの経済から技術や軍隊が生まれたのです。
簡単に言えば、ユーラシア大陸の地理的条件、つまり土地の性質と気候が、農業と余剰とそれに伴うすべてのものを大きな力で定着させ
銃などの技術を備えた軍隊を指揮する国家の支配者を出現させ
彼らが彼らの身体と彼らの息で運んだ生物化学兵器によって、さらに致命的になったのである。
しかし、オーストラリアのような国では、状況は異なっていました。
まず、300万から400万人の人々が自然と共生し、ヨーロッパと同じ大きさの大陸動植物独占的にアクセスできるため、食料が不足することはなかったのである。
その結果、余剰の蓄積を可能にする農業技術を発明したり、機会が訪れたときにその技術を採用したりする理由はありませんでした。
 
・私たちの心は、「私はXを持っている」ことと「私はXに値する」ことを自動的に同一視する。
私たちの目が、必需品を欠いている人々に落ちると、私たちはすぐに同情し、彼らが十分ではないということに怒りを表明します。
しかし、私たちは、彼らの欠乏が私たちの豊かさにつながったのと同じプロセスの産物かもしれないとは、一瞬たりとも考えることを許しません。
これは、持てる者と権力者(通常は同じ人々)に、彼らがより多くを持ち、他の人がはるかに少ないものを持つことは正しく、適切で、必要であると確信させる心理的カニズムです。
 
・物事の順序は、特にそれが私たちに有利であるとき、論理的で自然で公正であると自分自身を納得させるのは信じられないほど簡単です。
しかし同時に、今日、ティーンエイジャーとして、あなたがとんでもないと感じる不平等を受け入れようとするあなた自身の誘惑には厳しくなりなさい
とんでもない不平等もやむを得ないという考え方に屈しそうになったら、すべてがどのように始まったかを思い出してください。
裸で生まれてきた赤ちゃんが、高価な服で着飾る人と、飢えと搾取と不幸を運命づけられる人とに分けられる社会から生まれました。
しかし、その怒りを、賢明かつ戦術的に維持することで、時が来れば、私たちの世界を真に論理的で自然で公正なものにするために必要なことに投資することができるようになるのです。
 
 
 
2
経験価値交換価値という2つの価値は、互いにまったく異なるものなのです。
 
献血者がお金をもらって献血する国では、お金をもらわずに自発的に献血する国よりも、集まった血液の量が著しく少ないことが観察されています
お金を払って献血するドナーは、お金を気にするドナーを引き寄せるよりも、無料で献血したいドナーの意欲をそいでしまうようだ。
商品(グッズ)とコモディティを混同している人は、献血者がお金を払うとなぜ献血が減るのか理解できない。
彼らは、潜在的献血者が、見返りに金銭を提供されたからといって献血をしないと決めるという事実に困惑しているのである。
 
献血をする人の多くは、献血をするということに喜びを感じるが、その対価として金銭を提供されると、貢献から取引へと変化し、喜びは台無しになり、提供される金額も、腕に針を刺される時間や痛みを補うには十分でない。
オスカー・ワイルドは、「皮肉屋とは、あらゆるものの値段は知っているが、何の価値も知らない人のことである」と書いている。
私たちの社会は、私たち全員を皮肉屋にする傾向がある。
 
・ほとんどの仕事、ほとんどの生産が拡大世帯の範囲内で行われたという事実は、2つの単語からなるオイコノミアという単語を生み出しました:
オイコス(「家庭」)とノモイ(「法律、規則、制約」)の2つの単語からなる。
これが「エコノミー(経済)」の語源であり、文字通り「家庭を運営し、管理するための法律」のような意味である。
 
市場社会のはじまり ── 生産の3要素が突然「商品」になった
労働者は、新しく形成された「労働市場」において、自分の労働力を金銭に換えるために「自由」になった。
道具は専門の職人によって作られ、販売されることが主流になった。
そしてもちろん、土地は、新しく出現した不動産市場で売買され、貸し出されることによって、ようやく交換価値を持つようになった。
 
「なぜ産業革命はイギリスで起こり、フランスや中国のような他の国では起こらなかったのですか?」
 
しかし、私がこれまで出会った中で最も説得力があるのは、次の3つの要因である。
大規模な私兵を指揮するヨーロッパや中国の封建領主とは異なり、イギリスの地主には大きな軍事力を欠いていたため、貿易ではなく野蛮な攻撃による富化は選択肢になりませんでした。
同時に、イギリスの地主は、比較的強力な中央権力の恩恵を受けていた
このような地主は、立ち退きに抵抗する農民に直面したとき、強力な軍隊を指揮する君主から支援を受けることができた。
最後に、イギリスでは土地所有が比較的集中していたため、農民の大量追放には比較的少数の地主の同意が必要であったということである。
 
経験価値に対する交換価値の勝利において、市場のある社会市場社会に進化するにつれて、何か別のことが起こりました。
お金は手段から目的へと変化したのです。
人間が利益を追求するようになったから。
 
 
 
3
連帯の文脈では、誰かを助けるためのインセンティブは、正しいことをすることから受ける経験価値です、
錨を下ろしてコスタス船長を助けたときと同じように、助けを申し出たときに感じる温かい内面の輝き
しかし、法的な契約のローン契約の場合、あなたのインセンティブは、見返りにいくらかの余剰交換価値稼ぐことです:つまり利子の支払いから利益を得ること。
 
 
 
4
・人類が初めて夜空を見上げて、なぜその巨大さに圧倒されたのかを不思議に思って以来、私たちは私たちの奥深くに何か、不思議恐怖希望の能力を与える不確定な何かがあると確信しました
哲学者や作家は、その何か、私たちを私たちたらしめている無形の力を「機械の中の幽霊」と呼んできました
政治家、経済学者、コメンテーターが公的債務についてあたかもそれが呪いであるかのように話すのを聞くと、それはそれ以上のものであることを思い出ししてほしい。
それ(公的債務)が、よいか悪いかに関わらず、市場社会という機械のを動かしている「機械の中の幽霊」だということを
 
 
 
5
失業否定論者
ワシリーが月に50ユーロで生活するのに十分な食料や場所を買う余裕がないことに抗議した場合、失業否定論者肩をすくめ、アフリカには人々がはるかに少ない生活を送る場所があるという事実を指摘します。
ワシリーは単に彼の期待を下げる必要があります。 
そのような議論の耐え難い意地悪ささておき、それらは実際的客観的な言葉で重大な欠陥を含んでいます。
その理由を理解するには、アンドレアスが家を売る場合とワシリーが労働力を売る場合を区別する必要があります。
アンドレアスや彼のような家を売る必要のある他の人たちの場合、彼ら全員が彼らの価格を床まで下げれば、彼らは間違いなく買い手を見つけるでしょう–最終的に。
しかし、ワシリーや他の失業者がすべて賃金要求を下げ、ペニーのために働く準備ができていれば、結果として得られる(利用できる)仕事がさらに少なくなる可能性があります。
 
・鹿狩り
これは、楽観主義の力だけでなく、悲観主義の悪魔のような強さの素敵な例です
 雄鹿狩りの文脈では、どちらも自己実現的である。(予想が現実になる)
そして、これこそがルソーの寓話の本質である。
もし、目標が集合的にしか達成できないのであれば、成功は各個人が団結するだけでなく、第一に、他のすべての個人がそうすると信じている各個人にかかっています
 
失業否定論者が間違っているのはこのためです。
労働市場労働の交換価値だけでなく、経済全体に対する人々の楽観主義や悲観主義に基づいているため、全面的な賃金引き下げは結果として新規採用無し、または解雇さえもたらすかもしれない。
 
マネーマーケットでは、彼らがしていることはお金を貸し借りすることです。
 
 不況の最中、一律に賃金を引き下げても雇用は増えず、むしろ逆効果になることがある。
金利引き下げの発表は、絶望の行為解釈される。
企業家に悲観論を抱かせ鹿狩りから怖がらせて代わりに野ウサギを追わせる
 
もし、経済が社会の「エンジン」であり、借金がその「燃料」である場合、労働はそのエンジンに生命を吹き込む力(点火するための)「火花」であり、お金はそのエンジンが停止してしまわないようにする「潤滑油」です。
その両方(労働力とおカネ)がエンジンを駆動する能力を持っているだけでなく、エンジンを停止させて再始動を防ぐ能力を持っていることは強く心に訴えることです。
まとめると、それら(労働とお金)失業否定派とその仲間が信じている円滑な運営を妨げ、賃金が十分に低下すれば失業が消え、金利が「適切な」水準になれば、貯蓄が仕事と設備に変わるという単純な世界を除外します
あなたは今、これらの悪魔を飼いならして制御するために何かが行われるのではないかと疑問に思うかもしれません。
自己実現的な予言自己永続的な悲観論のサイクルを断ち切る方法はないのだろうか?
答えは、「それは簡単ではない」ということです。
労働市場やマネーマーケットを市場社会の災厄に変える悪魔は、まさに人間を人間たらしめているいくつかのものの表れである:
自分自身や他人の行動を振り返り、他人の心に住み、彼らの行動を予測する能力、
そして、どんなに賢くどんなに知恵があっても、どんなに自滅的とわかっていても、
自己防衛短期的な衝動抗うことはめったにないことを私たちも他人も知っているのである。
 
 
 
6
・それでも、マルクスによれば、私たちの経済には、希望の原因となる安全機能と呼ばれるものがあります。
それは、市場経済に組み込まれ、労働の機械化によって強化されていく傾向で、機械が人間の労働力を完全に引き継ぐ前に危機を生み出し、物の生産からすべての人間労働が投げ出されるのを防ぐものである。
 
・3つの力
第一に、生産の自動化がコストを押し下げる。
第二に、生産者間の冷酷な競争は、生産者が(下落している)コストを上回る価格を請求することを阻止する。このことは、利益を最低限にまで絞り込む効果があります。
第三に、人間の労働者に取って代わったロボットは、彼らが生産するのを助ける製品にお金をかけません。
これは、需要を減らす効果がある。
マルクスによれば、これらの3つの力により、最終的に価格は、コストをカバーし、すべてを継続するために必要なレベルを下回ります。
 
・もう1つは、機械を使うよりも労働者を雇うほうが今では安くなっているということです。
おそらく、人間には食べる必要があるという(問題の)性質があるために、ある時点で、彼らの労働力をどのような価格でも受け入れるようになる。
 
未来のロボット工場と同時にスウェットショップ(搾取工場)が存在し続けていることから判断すると、マルクスは少なくとも1つの点で正しかったようです。
市場社会の技術革新への特別な取り組みは、労働者をロボットに置き換えるだけの問題でなく、
彼らの賃金がロボットより魅力的であるとき、人間の労働者を機械化することを含みます
 
・最近、最大の交換価値は、生産ラインの労働者や監督ではなく、設計者によって生み出されています。
実用的な例を1つ挙げると、iPhoneの購入にかかる約600ポンドのうち、中国でiPhoneを製造した工場に支払われるのは150ポンド未満です。
残りは、いわゆる知的財産(IP)権の支払いとしてAppleによって保持されます。
 
マトリックスに戻り、そこでの経済我々のような経済との主な違いは何かと尋ねてみよう。
答えは、私たちの経済ではすべてが交換価値に依存しているのに対し、マトリックスのそれでは交換価値の概念自体がナンセンス無意味であるということです。
はい、マトリックスの世界には複雑な経済があります。
それを維持し、自社の機械部品を改良された部品に継続的に交換し、新しい技術を設計し、新しい機械を製造し、マトリックスを更新するには、機械の総軍が必要です。
しかし、判断力自由意志備えた自己認識の人間がいなければ、機械の交換を価値があると言うことはもはや意味がありません。なぜなら、それらを評価する人は誰もいないからです。
 
・ここに、人類の利益を機械の台頭一致させる方法に関する1つのアイデアがあります。
非常に簡単に言えば、この単純で実用的な手段は、すべての会社の機械の一部がすべての人の所有物になることです。
その部分に対応する利益の割合は、すべての人が平等に共有する共通の基金流れ込みます
それが人類の歴史の過程にどのような影響を与えるかを考えてください。
現在、自動化が増加すると、労働者に送られる総収入の割り前減り、機械を所有する金持ちのポケットにますます多くのお金がが流れ込んでいる
 しかし、これまで見てきたように、大多数の人が使うお金がどんどん少なくなっているので、これは最終的に彼らの製品の需要減らします
しかし、利益の一部が自動的に労働者の銀行口座にも振り込まれるとすれば、この需要、売上、価格への下方圧力緩和され、人類全体が機械の労働の受益者になります。
 
経済学者として最も高く評価されているジョン・メイナード・ケインズは、「孫たちの経済的可能性」というエッセイの中で次のように書いている。
「所有物としての金銭への愛は...それが何であるか、いささかうんざりするような病的状態、すなわち、精神疾患の専門家に震えながら引き渡す半犯罪的半病的傾向の一つであると認識されるようになるだろう」。
 
 
 
7
・なぜなら、全体として、より多くの紙巻きタバコが同じ量のコーヒーとお茶に対応するようになったため、個々の紙巻きタバコはより少ないコーヒーとより少ないお茶に対応しました
反対のことも当てはまりました赤十字がパッケージに入れた他の商品と比較してタバコの数が少なければ少ないほど、各タバコの交換価値または購買力は大きくなります。
要するに通貨単位購買力は、それが生産するのにどれだけの費用がかかるかとは関係がなく、むしろ、その相対的な豊富さまたは希少性と関係があります。
 
・要するに、この爆撃はいわゆる物価デフレを引き起こしました–他のすべての商品と比較してお金の量減少の結果として、すべての価格が低下する
反対に、システム全体でお金の量が増える結果としての価格の一般的な上昇は、物価インフレとして知られています。
 
・例を挙げると、銀行家は、各紙巻たばこの交換価値が10%低下すると予測しています。つまり、インフレが発生し、紙巻たばこで表現された商品の価格が10%上昇すると予測しています。
過去には、彼は来月12本の見返りに10本のタバコを貸す準備ができていました。
今、彼は、月利20パーセントの場合、彼にとっては20パーセントではなく、20パーセントから10パーセントを引いた10パーセントの増加にしかならないことを計算する。
(この数字は、直感的には実質金利として知られています。)
当然のことながら、銀行家が同じレベルの利益を維持したい場合、彼はもう20パーセントのタバコを貸す用意はないだろう。
彼は何を受け入れますか?
月額30%の利率で、彼の通常の金利10%を追加して、彼のお金の価値が10%少なくなることを補います
 
・退屈なニュース報道で誰かが「インフレが回復しているように見えるので金利はおそらく上がるだろう」と言うのを聞いたら、彼らが何をしているのか理解しない言い訳はできません。
 
・しかし、問題は次のようになりました。誰がこれにお金を払うのでしょうか。
前に述べたように、金持ちは必要な税金を支払うことを決して好まず、貧しい人は支払う余裕がありません。
それではどうしますか?
第4章で見たように、1つの選択肢は、赤字財政の国家支出、つまり公的債務でした。
もう1つは、銀行または中央銀行のいずれかを介して国家が自らの資金を設立し、必要なときに銀行家に資金を提供するために、より多くの資金を生み出すことでした。
どちらのオプションにもデメリットがあります。
 政治家は公的債務の増加を嫌う。反対派は、公的債務を返済するために、政府が子供たちに増税の将来を負わせることになると非難して、町に繰り出すからである。
したがって、1つの傾向は、社会がひどく必要としているものに支払うためのより多くのお金を生み出すように中央銀行こっそり指示することになる。
 
この観点からすると、収容所の経済は本格的な市場でしたが、捕虜が消費したものは何も生産されていなかったため、市場社会のようなものではありませんでした。
 
・ ラドフォードの捕虜収容所の経済と市場社会の経済との決定的な違いは、前者では債務と税金がマネーサプライと無関係であったのに対し、後者ではそれらが密接に関連していることです。
 
もし貨幣が非政治化され、その供給が政治の世界から切り離されるとしたら、次のようなすべての決定が政治から独立して行われなければならないことがわかる。
政府が何にどれだけ使うか、
国が誰からどれだけ税を徴収するか、
銀行家が何をやっても許されるか、
銀行家が破産したらどう対処するか、などだ。
これらの決定がまさに政治の定義である限り、もし寡頭制によって行われた場合、非民主的である可能性がありますが、非政治的であることは決してありません。
 
・しかし、ビットコイン支持者が好まないのは、わたしがこれから述べることだ。
お金が国家から、そして私たちの政府とその政策の形成につながる政治プロセスから分離しておくことができることは危険な幻想です。
 
・このように国がバックアップするユーザーへの保険制度がないのは、重大な欠点であることは間違いない。
私たちはそれを嫌うかもしれませんが、国家は結局、組織犯罪に対する私たちの唯一の保険なのです。
しかし、これはビットコインのような無国籍通貨の最も深刻な弱点ではありません。
最大かつ最も危険な弱点は、政府や銀行家による操作が行われないよう通貨供給(マネーサプライ)への介入を一切行ってはならないという考えに基づいているため、危機に対応してシステム内の通貨総量を調整することが不可能であることは、危機をより悪化させる。それは、これまで見てきたように。
 
・そして、これは全面的に起こります:価格デフレです。
これはそれ自体では問題ではないが、賃金が価格よりも早く下がると大きな問題になります。つまり、労働者は増殖する製品を購入する余裕が少なくなります。
 
・いったん暴落が起きると、ビットコインで動く経済の第二の問題が発生する。
それは、お金の量を増やすことによって経済をリフレーション(再膨張)することが不可能であるということ
金融危機の後、銀行家が未来からつくり出したお金が具体化しなかった場合、政府は銀行を救済し(銀行家ではない)、貧困層や公共事業に支出するなどして、失われたお金の一部を速やかに補填しなければならない
マネーサプライを増やすための迅速な行動を取らない限り債務超過の連鎖反応によって、誰もが1930年代のような不況に追い込まれることになる。
しかし、そのような迅速な行動は、供給が固定され、当局の把握の外にあるビットコインの下では不可能です。
 
これはどれも憶測ではありません。
1929年の金融危機の前後に起こったことである。当時、各国政府は保有する金の量比例して通貨供給量を一定に保つことを決定していた
この政策は金本位制として知られており、ビットコインの背後にある政治的なお金に対する嫌悪感と非常に近い精神を持っている。
1931年にイギリス政府が、1933年にルーズベルト大統領のいわゆるニューディール政権が、通貨量と金保有量を切り離したことで、初めて多少の安心感が生まれたのです。
しかしもちろん、政府や中央銀行といった誰かが通貨供給量を管理したとたんに、政治的なお金は復活したのである。
 
要約するとマネーサプライを管理することは、一方ではバブル債務、持続不可能な開発のスキュラを回避し、他方ではデフレ停滞カリュブディスを回避するコースを描く私たちの唯一のかすかな希望です。
しかし、そのような介入は、一方では金持ちや権力者であり、他方では貧しく無力である、さまざまな人々に異なる形で影響を与えるため、公平になることは決してありません。
お金が不可避的に政治的であることを受け入れた以上、お金を文明化するためにできることはただ一つ、お金を民主化することである!
一人一票に基づいて、お金をコントロールする力を人々に与えるのです。
それは私たちが知っている唯一の防御可能な方法です。
もちろん、私たちのお金を民主化するには、まず国家を民主化する必要があります。
 
 
 
8
・三一神教であるユダヤ教キリスト教イスラム教から判断すると、私たち人間は自分たちのことを非常に高く評価している。
私たちは、完璧でユニークな存在である神のイメージと似姿で形作られていると思いたいのです。
言語と理性のギフトを授けられた唯一の哺乳類として、私たちは自分たちを半神であり、地球の主人であり、環境に自分の欲望を適応させるのではなく、自分の欲望に環境を適応させる能力を持っていると考えています。
 
なぜ、市場社会は「破壊」を歓迎するのか?
 
・今日、私たちが地球と私たち自身を救うチャンスを得るには、市場が尊重することはもちろんのこと、認識することすらできない経験価値に対する人類の感謝再活性化する独創的な方法を見つけなければなりません。
ある程度の成功を収めて試みられた解決策の1つは、利益を追求する行動に制限を設けることです。
つまり、法的な規則として、1日1時間以上マスを捕まえる漁師はいないという合意を課すことです。
たとえばエクアドルでは、熱帯雨林の保護の権利を、その交換価値関係なくそれ自体がかけがえのない目的であるかのように認めるために憲法改正されました。これは憲法史上初のことです。
 
・事業者の活動を制限したり、利益に税金をかけたりするのは確かにいいことだが、もっと大きな問いがある。
どうしたら、すべての人が地球の資源に責任を持ち、それを社会に欠かせないものと考えられるようになるだろう?
土地と原料と機械を心配し、規制に反対しているほんの一握りの権力者たちが、法律を作り指向し監視する政府に決定的な影響を与えている今の世の中で、どうしたらすべての人が資源に責任を持てるようになるだろう?
→金持ちと庶民の二つの答え
 
オスカー・ワイルドがかつて言ったように、「社会主義の問題は、話が進まないことだよ」。
 
協同組合による管理はうまくいかないし、政府による管理は非効率的偏った権威主義的なものだから、私は次のような解決策を提案したい。
これらの貴重だが値段のつかない天然資源を、利益を上げられる人、例えば私に与えれば、必ず面倒を見てくれるだろう」。
 
市場ベースの解決策の利点は、最初に誰に天然資源が与えられたかに関係なく、それらの天然資源が売買できるようになると、必然的にそれらを最も収益的と効率的に高い方法で管理できる人の手に渡ることであり、彼らがそれらを所有するために最も支払うことができる。
これは、封建的な専制君主恣意的な気まぐれによって無期限に支配されていることとは完全に異なります。」
 
・この新しく作られた市場の中で、自動車製造、エネルギー生成、飛行機を飛ばす、など、大気中に何トンものこれらのガスを放出する企業は、それを必要としない人たちから、例えばソーラーパネルで発電する企業から、汚染ガスを放出する権利を買うことができるのである。
その支持者によると、このシステムのメリットは2つあります。
第一に、汚染が少ないほど汚染が少ない企業は、残りの割り当てを売却することでより多くのお金を稼ぐことができるため、汚染が少ない企業にはそうするインセンティブがあります。
第二に、企業が割り当て以上の汚染を許可された場合に支払う価格は、信頼できない政治家が決めるのではなく、市場の需要と供給によって決定される
かなりスマートに聞こえますね。
しかし、皮肉なことに注意してください。
このような市場ソリューションを採用する唯一の理由は、政府が信頼できないためですが、このソリューションが機能するかどうかは政府に完全に依存しています。
誰が汚染の元の割り当て量を決定するのでしょうか?
誰が各農民、漁師、工場、電車、車の排出量監視していますか
割り当て超えた場合、誰が罰金を科しますか?
もちろん政府です。
国家だけがすべての企業を規制する力を持っているので、国家だけがこの人工市場を作り出す能力を持っています。
裕福で権力のある人々が、彼らの知的イデオロギーな支持者とともに、私たちの環境の完全な民営化を推奨する理由は、彼らが政府に反対しているからではありません。
彼らは、彼らの財産権を弱体化させ、彼らが現在管理しているプロセスを民主化することを脅かす政府の介入反対しているだけです。
そして、その過程で、彼らが惑星地球を所有するようになれば、それは彼らにとっても大丈夫です!
 
・前章の終わりで、私は、政治から金を取り除くことはできても、金から政治を取り除くことはできないと言った。
貨幣供給(マネーサプライ)の規制と管理を非政治化しようとすると、経済が窒息し暴落の際の回復を妨げることになるだろうと。
 
まともで合理的な社会は、お金や技術の管理だけでなく、地球の資源や生態系の管理も民主化しなければならないと主張する。
 
ウィンストン・チャーチル冗談の言葉言い換えると民主主義はひどい政治形態であり、それを構成する人々と同様に欠陥があり、誤りやすく、非効率的で、腐敗しているかもしれません。
- しかし、それはどの選択肢よりも優れています。
あなたの時代は、二つの対立する提案重大な衝突に代表されるでしょう。
すべてを民主化する!」対「すべてを商品化する!」。
強力で影響力のある人々や機関が支持する提案は、「すべてを商品化する」です。
彼らは、私たちの世界の問題の解決策は、人間の労働、土地、機械、環境の商品化を加速させ深めることであるとあなたに納得させたいと思っています。
すべてを民主化する!」が、この本全体を通して私が構築してきたおすすめです。
 
商品化は決して機能しません。
ラドフォードの捕虜収容所で見たように、都市のコーヒーショップの供給管理や、異なる嗜好を持つ買い手の間での商品の流通に関しては、市場は素晴らしい仕事をします。
しかし、私がこの本の過程で見せようとしたように、それらはお金、労働力、そしてロボットを管理するのには、ひどいものです。
環境に関しては、市場の解決策は、市場の最悪のもの国家介入の欠点を組み合わせています。
 
・市場と民主主義の両方で私たちは投票します。
選挙では、政党や提案が得票数が多いほど、政治的結果に影響を与えることができます。
同様のことが市場でも起こります。
あなたが特定のアイスクリームを買うとき、あなたはそのアイスクリームの生産者にあなたがお金を使うのに十分に望ましいとあなたが考えるメッセージを送っています。
それはまるであなたがその特定の種類のアイスクリームに賛成票を投じているかのようです。
誰も買わなければ、会社は生産をやめます。
あなたのような多くの子供たちが彼らのポンドとペンスでそれに投票するならば、会社はより多くを生産するでしょう。
しかし、これら2種類の投票には大きな違いがあります。
民主主義では、それぞれ1票ずつ投票します。
 
・しかし、市場では、投票数は富によって決まります
 
・今、私たちが大気を民営化し、どのような行動を取るべきかの決定を、海面上昇の影響を受けることはないが、排出量を減らせば利益の減少に直面し、おそらく仕事やビジネスの失うことにさえなる富を持つ人々の手に委ねているとします。
大株主である彼らがこの決定を下し、海面上昇で家や農場が消滅する人々が何も言えないというのは、正しいことだと思いますか?
なぜ株主の投票が民主主義と同じように地球を保護しないのか分かりますか?
 
・私たちの民主主義が不完全腐敗しているという事実は、民主主義が愚かなウイルスのように集合的に振る舞うことを避ける唯一のチャンスであり続けるという事実を変えません。
 
 
 
9
ほとんどの人が社会を精査する時間がないということです。
私たちはただ自分たちの生活を続け、仲間とおしゃべりをし、市場社会が提供する喜びを楽しみたいのです。
 
・しかし、英国の哲学者であり政治経済学者であるジョン・スチュアート・ミル1863年に警告したように、
「満足した豚よりも不満を抱えた人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい。
もし、愚か者や豚がこれと異なった考えをもっているとしたら、それは愚か者や豚がこの論点に関して自分たちの側のことしか知らないからである」
言い換えれば、無知は至福であるかもしれません–そしてHALPEVAMが提供する至福はそれ(無知)なしでは不可能です–しかし、本物の幸福はその反対のような何かを必要とします。
 
それでも、成功した人生本物の幸福が可能である人生を生きることは、ギリシャ人が「花開く」を意味する「エウダイモニア」という言葉を持っていたように、性格や思考、ひいては好みや願望が常に進化していく過程である。
 
・しかし、私たちは私たちの性格と私たちの欲望の進化に何を負っていますか?
簡単に言えば、「衝突(対立)」です。
はい、私たちは世界との対立と私たちのすべての願いを一度に与えること拒否すること、そして私たち自身で「私はXが欲しい、しかしXを欲しがるべきなのか?」と考える能力によって可能になる、私たちの内面の対立に私たちの性格を負っています
私たちは制約嫌いますが、同時に、私たち自身の動機に疑問を投げかけることによってのみ、制約が私たちを解放することを理解しています
真の幸福は、言い換えれば、不満満足がなければ不可能です。
満足によって奴隷にされるのではなく、不満を抱く自由が必要です。
自由と自律に依存する、内的と外的のこれらの2つの対立が、私たちの成長の鍵です。
HALPEVAMは、私たちに奉仕するというその努力において善意勇敢さを持っているかもしれませんが、私たち自身の凍りついた好みと、成長、発達、または超越することができない自己の専制政治の中で、私たちをディストピア包むことしかできません。
経済に関する本の文脈で、このいずれかのポイントは何ですか?
HALPEVAMは、市場社会達成しようと努力していること、つまりあなたの好みを満たすように設計されているということです。
私たちの周りの大規模な不幸から判断すると、市場社会はひどく無能ですが、重要なのは、あなたが設定した目標を達成するのにひどいだけでなく、さらに悪いことに、目標が決して出会えない経済のタイプで生活しているということです。
だが世の中には不幸が充満しているところを見ると、市場社会はうまく機能していないようだ。
何が言いたいかというと、いまの経済は、人間の欲する目標を手に入れるのに適していないどころか、そもそも手の届かない目標を設定したシステムなのだ。
 
アメリカの作家ヘンリー・デイヴィッド・ソローがかつて書いた幸福の鍵は、それを探さないことです
 
支配階級は自分たちを正当化するための新しい物語を必要とし、物理学者やエンジニアと同じ数学的方法を用いて、最も有名な建国の父である経済学者アダム・スミスの言葉を借りれば、市場社会はあたかも「見えない手」によって作られた究極の自然秩序であると、定理方程式証明したのである。
このイデオロギー、この新しい世俗的な宗教は、もちろん経済学でした。
 
・経済学者が数学を使っているので自分たちも科学者だと主張するとき、彼らはコンピューターや複雑な図表も使っているので天文学者と同じくらい科学的であると抗議する占星術と何ら変わりはありません。

The “deep state” is real. But it’s not what Trump thinks it is. 「ディープステート」は本物です。しかし、それはトランプが考えていることではありません。

The “deep state” is real. But it’s not what Trump thinks it is.

「ディープステート」は本物です。しかし、それはトランプが考えていることではありません。
 
 
Author David Rohde explains how the “deep state” evolved into a sprawling conspiracy theory.
作家のデビッド・ローデが、「ディープ・ステート」がいかにして広大な陰謀論へと進化していったかを説明する。
 
By Sean Illing@seanillingsean.illing@vox.com May 13, 2020, 11:00am EDT
 

Conspiracy theorist QAnon demonstrators protest during a rally to reopen California and against stay-at-home directives on May 1, 2020, in San Diego, California.
Sandy Huffaker/AFP via Getty Images
陰謀論者QAnonのデモ参加者は、2020年5月1日にカリフォルニア州サンディエゴで行われた、カリフォルニア州を再開と、ステイホームの指示に対する集会で抗議します
サンディ・ハファカー/AFP via Getty Images
 
 
A New York Times story in April chronicled the chaos within the Trump White House as it initially responded to the coronavirus pandemic.
4月のニューヨークタイムズの記事は、当初コロナウイルスパンデミックに対応したトランプホワイトハウス内の混乱を記録した
 
One of the throwaway revelations in that piece was that the president’s delayed reaction to the crisis was partially due to his fears about the “deep state.”
その記事の中で投げかけられた明らかにされた事実の1つは、危機に対する大統領の反応の遅れは、"ディープ・ステート "に対する彼の恐怖心部分的に原因であるということだった。
 
“Mr. Trump’s response,” the authors write, “was colored by his suspicion of and disdain for what he viewed as the ‘deep state,’
the very people in his government whose expertise and long experience might have guided him more quickly toward steps that would slow the virus, and likely save lives.”
トランプ氏の反応は、彼が「ディープ・ステートと見なすものに対する彼の疑惑と軽蔑によって彩られた。専門知識長い経験を持つ彼の政府の人々が、ウイルスを遅らせ、おそらく命を救う手順向けて、より迅速に、彼を導いたかもしれないのに」と著者は書く。
 
Under normal circumstances, this would be bad; in a pandemic, it’s terrifying.
Now, more than ever, expertise is needed, and Trump isn’t especially interested.
That a lot of his supporters think the virus itself is a deep state coup isn’t helping matters.
通常の状況では、これは悪いことです。パンデミックでは、それは恐ろしいことです。
今、これまで以上に専門知識が必要とされているが、トランプは特に関心がありません。
彼の支持者の多くが、ウイルス自体がディープ・ステートのクーデターであると考えていることは、状況が悪くなっている(問題の助けになっていない)
 
And Trump’s deep state obsession isn’t a new thing.
He’s been pumping up this theory since special counsel Robert Mueller launched the investigation into Russia’s interference in the 2016 election.
It has always been a diversion, whether it was coming from Trump or Fox News.
トランプのディープ・ステートへの執着は今に始まったことではありません。
ロバート・ミューラー特別顧問が2016年の選挙におけるロシアの干渉に関する調査を開始して以来、彼はこの説を煽り続けている
それがトランプから来たのかフォックスニュースから来たのかに関わらず、それは常に脇へ反らせること(陽動作戦)でした。
 
But here’s the thing: The deep state isn’t exactly a phantasm.
しかし、ここで問題なのは、ディープステートは正確には幻影ではないということだ。
 
There are parts of the US government that wield real power outside the conventional checks and balances of the system.
It’s not a conspiracy against Trump, but the term does refer to something that exists.
米国政府には、従来のチェックアンドバランスの外で実権を振るう部分が存在する。
それはトランプに対する陰謀ではないが、この用語は存在するなにかを指しているのだ。
 
David Rohde is an editor at the New Yorker and the author of In Deep: The FBI, the CIA, and the Truth About America’s “Deep State.”
デイビッド・ローデニューヨーカーの編集者で、『In Deep: The FBI, the CIA, and the Truth About America's "Deep State"』の著者である。
It’s a fair-minded look at the deep state and the various conspiracy theories surrounding it.
ディープ・ステートそれを取り巻く様々な陰謀論について、公平な視点で考察している
The term “deep state,” Rohde argues, has become a way for Trump and his supporters to deflect criticism
—but it’s also a real idea that can help us think through some legitimate issues, namely how we consider the limits of presidential power and the nature of government accountability.
ローデは、「ディープ・ステート」という用語は、トランプとその支持者批判をそらすための手段になっていると主張する
しかし、それは、大統領の権力の限界政府の説明責任の性質をどう考えるかという、いくつかの正当な問題について考える助けになる実在の考え方でもある。
 
I spoke to Rohde by phone about how the “deep state” has evolved into a sprawling conspiracy theory and if he thinks Trump’s complaints about it are at all justified.
Ultimately, Rohde believes the “deep state” is both a real thing and a toxic distraction.
私は、「ディープステート」がどのように広大な陰謀論に進化したか、そして彼がそれについてのトランプの不満はまったく正当化されると考えるかどうかについて、電話でローデに話しました。
最終的に、ローデは「ディープステート」は本物であり、有毒な乱心(気晴らし)でもあると信じています。
 
A lightly edited transcript of our conversation follows.
軽く編集された会話のトランスクリプトが続きます。
 

Sean Illing

ショーン・イリング
What the hell is the “deep state,” David?
デビッド、「ディープステート」とは一体何ですか?
 

David Rohde

デービッド・ローデ
To be honest, I hate the term. I believe it’s just political rhetoric.
正直なところ、私はこの言葉が嫌いです。それは単なる政治的なレトリックだと思います。
It’s the equivalent of terms like “fake news” and “witch hunt.”
フェイクニュース」や「魔女狩り」と同じような言葉です。
 
Now, on a deeper level, I do think there’s what we might call a permanent government or an institutional government.
さて、より深いレベルでは、私たちが恒久的な政府、または制度的な政府と呼ぶかもしれないものがあると思います。
We have these incredibly large and powerful organizations like the FBI and the CIA and the NSA.
FBI、CIA、NSAのような信じられないほど大規模で強力な組織があります。
In the digital age especially, when the ability to surveil is so immense, these are potentially dangerous agencies.
特にデジタル時代には、監視する能力が非常に大きくなり、これらは潜在的に危険な組織です。
Together these organizations make up what a lot of people mean by “deep state,” and I agree they need aggressive oversight.
これらの組織が一緒になって、多くの人々が「ディープステート」と意味するものを構成しており、積極的な監視が必要であることに私は同意します。

 

Sean Illing

I get why you hate the term, but it does at least refer to something real, right?
あなたがこの言葉を嫌う理由はわかりますが、少なくとも本物の何かを指しているのですよね?
 

David Rohde

That’s true. The problem is that the term has become an effective way of signaling a conspiracy for which there just isn’t any evidence.
その通りです。問題は、この言葉が、何の証拠もない陰謀を示す効果的な方法になってしまっていることです。
 

Sean Illing

What’s the origin of this term?
この言葉の由来は何ですか?
When did it take on the meaning it has now?
いつから今のような意味になったのでしょうか?
 

David Rohde

For decades, the term “deep state” was applied to Turkey.
何十年もの間、「ディープ・ステート」という言葉はトルコに適用されていました
It was a reference to the Turkish military and their efforts to slow the spread of democracy there.
それはトルコ軍とそこでの民主主義の広がりを遅らせる彼らの努力への言及でした。
Some applied it to Egypt and the Egyptian military to describe the same thing.
同じことを説明するために、エジプトとエジプト軍にそれを適用した人もいました。
The first time I found that the term deep state was applied to the US government was a book written in 2007 by a University of California Berkeley professor named Peter Dale Scott.
私が初めてディープ・ステートという言葉がアメリカ政府に適用されていることを見つけたのは、カリフォルニア大学バークレー校のピーター・デール・スコットという教授が2007年に書いた本だった。
 
I interviewed Scott for my book, and he used the term “deep state” to describe what liberals typically fear, which is the military-industrial complex.
私は自分の本のためにスコットにインタビューしました。彼は「ディープステート」という用語を使用して、リベラル派が通常恐れている軍産複合体説明しました。
Scott wrote about a sense that the military and defense contractors had driven the country repeatedly into wars and maybe helped fuel 9/11 and the wars that followed.
スコットは、軍と防衛の請負業者が国を繰り返し戦争に駆り立て、おそらく9.11とその後の戦争を煽るのを助けたという感覚について書いた
For Scott, it also applied to large financial interests, like Wall Street banks.
スコットにとって、それはウォール街の銀行のような大きな経済的利益にも適用されました
 
But Scott eventually ended up doing interviews with people on the right, like conspiracy theorist Alex Jones, and the term was sort of co-opted and vulgarized into what it is today, which is a shorthand for a conspiracy against Donald Trump.
しかし、スコット結局陰謀論アレックス・ジョーンズのような右派の人々とのインタビューを行うことになり、この用語は、ドナルド・トランプに対する陰謀の省略形である今日のように採用され卑俗化しました。
 

Sean Illing

Could we maybe say that, in the most generous sense possible, the term “deep state” is a way for both sides to describe parts of the government — or forces that interact with government — that aren’t elected or are beyond the conventional checks and balances of our system?
可能な限り最も寛大な意味で、「ディープ・ステート」という用語は、選挙で選ばれていないまたは我々のシステムの従来のチェックアンドバランスを超えている政府の一部、または政府と関与する勢力を説明するための方法であると言えますか?
 

David Rohde

I think that’s fair.
But I also think it’s extraordinarily effective political messaging that Trump uses to discredit rivals or people who question him.
その通りだと思います
しかし、トランプがライバルや彼に質問する人々の信用を傷つけるために使用するは、非常に効果的な政治的メッセージでもあると思います。
 
His use of it has evolved, too.
First, it was a reference to the FBI’s Russia investigation, and then it was extended to the CIA as well.
But more recently he declared the Pentagon part of the deep state when some Pentagon officials questioned his defense of a Navy SEAL accused of war crimes.
彼のその使い方も進化しました
最初に、それはFBIのロシアの調査への言及であり、それからそれはCIAにも拡張されました
しかし最近、国防総省当局者が戦争犯罪で告発された海軍シールの防衛疑問を呈したとき、彼は国防総省をディープステートの一部と宣言しました
And now, some of Trump’s supporters are absurdly declaring [head of the National Institute of Allergy and Infectious Diseases] Dr. Fauci part of the deep state as well.
して今、トランプの支持者の何人かは、[国立アレルギー・感染症研究所の所長]フォーチ博士もディープステートの一部であるとばかげた宣言をしています
 

Sean Illing

Trump’s election was a shock event for a lot of people, especially for people who worked in government and were accustomed to a certain level of continuity.
トランプの当選は、多くの人々、特に政府で働き、一定レベルの継続性に慣れている人々にとってショックな出来事でした。
Did their self-conception or their understanding of their own role shift once Trump took office?
What do they think they’re doing?
トランプが就任すると、彼らの自己認識や自分たちの役割に対する理解変化したのでしょうか?
彼らはどう考えているのでしょうか。
 

David Rohde

Most current officials I’ve talked to say they’re trying to do their jobs and keep their heads down and they don’t want to be part of the political brawl.
私が話したほとんどの現役の役人は、彼らが彼らの仕事をして、頭を低くして、彼らは政治的な乱闘の一部になりたくないと言っています。
And a lot of them think they’ve been hurt by the outspokenness of people like former FBI Director James Comey and others like him.
They think that damages them and makes their job harder.
そして、彼らの多くは、元FBI長官のジェームズコミーや彼のような他の人々の相手の感情を考慮せず、ありのままに、遠慮なくものを言う特性によって傷つけられたと考えています。
彼らはそれが彼らを傷つけ、彼らの仕事を難しくしていると考えている。
 

Sean Illing

How so?
どうして?
 

David Rohde

They think it feeds the conspiracy theories Trump and his supporters are spinning up every day.
彼らは、トランプと彼の支持者が毎日紡ぎ出すそれが陰謀説を養うと考えています。
And, to be fair, a lot of them know there was already a lot of distrust of their work after the Ed Snowden leaks [in 2013, Snowden leaked thousands of classified documents about NSA spying programs], and so that’s a cloud hovering over everything.
Trump, in his own way, has exploited that lack of trust.
そして、公平を期すために言うと、多くの人は、エド・スノーデンがリークした後、すでに多くの不信感があったことを知っています[2013年、スノーデンNSAスパイプログラムに関する何千もの機密文書をリークしました]。
トランプは、彼自身のやり方で、その信頼の欠如を利用(悪用)しました
 
One of the reasons I wrote the book was a 2018 poll that found that more than 70 percent of Americans think that there is a group of unelected officials who secretly influence policy in Washington.
私がこの本を書いた理由の1つは、2018年の世論調査で、アメリカ人の70%以上が、ワシントンの政策に密かに影響を与えている選挙で選ばれていない役人のグループがあると考えていることを見つけたことです。
Something like 80 percent believe they are being surveilled by the government, and the groups that had the highest belief in this or had the highest fear of this were on the right side of the spectrum.
80パーセントの人が自分たちは政府に監視されていると信じていて、このことを最も信じている、あるいは最も恐れているグループは右派の人たちだった(スペクトルの右側にあった)というものです。
 

Sean Illing

Is there a case for a more robust deep state, especially when the power of the American presidency keeps growing?
Is it necessarily bad to have an alternative check on the executive?
特にアメリカ大統領の権力が増大し続ける中で、より強固なディープ・ステートの余地があるだろうか?
行政に対する代替的なチェック機能を持つことは必ずしも悪いことなのでしょうか?
 

David Rohde

I don’t think that civil servants should be resisting lawful policies being carried out by elected officials.
公務員は、選出された役人によって実行される合法的な政策抵抗すべきではないと思います。
If a civil servant doesn’t want to work for the Trump administration, they should just quit.
A core ideal of our democracy is that there is a mandate that comes with elections every two, four, or six years.
もし公務員トランプ政権のために働きたくなければ、彼らはただ辞めるべきです。
私たちの民主主義の核となる理想は、2年、4年、または6年ごとの選挙に伴う委任があることです。
That mandate has to mean something.
その委任は何かを意味する必要があります。
If we start playing this game of allowing unelected officials to intervene when they think it’s necessary, that’s dangerous and unpredictable.
もし、選出されていない役人が必要だと思ったときに介入できるようにするこのゲームをプレイし始めると、それは危険予測不可能です。
 
Every president has expressed frustration with Washington when they came into office.
すべての大統領は、彼らが就任したとき、ワシントンに不満を表明しました
Reagan complained about the State Department not wanting to fight communism as aggressively as he did.
レーガンは、国務省が彼ほど積極的に共産主義と戦うことを望んでいないことについて不平を言った。
Barack Obama feared that Pentagon officials were leaking possible numbers for a troop increase in Afghanistan as a way to box him in and force him to send more troops than he wanted to Afghanistan.
It’s the way it’s always been.
バラク・オバマは、国防総省当局者アフガニスタンへの増派の可能性を漏らして彼を箱に入れ、彼が望む以上の兵力をアフガニスタンに派遣させるのではないかと恐れていた。
それはいつものやり方です。
 
So I think if it’s a lawful policy or order, civil servants should carry it out.
ですから、それが合法的な政策や命令であるなら、公務員はそれを実行すべきだと思います。
 

Sean Illing

There’s obviously a sense in which Trump uses the term “deep state” as a diversion, a way of dismissing legitimate criticisms of himself and his administration.
トランプが「ディープステート」という用語を流用(陽動作戦)として使用しているという感覚が明らかにあります。これは、彼自身と彼の政権に対する正当な批判避ける方法です。
But does he in any way have a point when he complains about the deep state trying to undermine the White House?
And I mean beyond the typical stuff you just cited.
しかし、彼がホワイトハウス弱体化させようとしているディープ・ステートについて不平を言うとき、何か意味があるのでしょうか
そして、私はあなたが今引用した典型的なものを超えて、という意味です。
 

David Rohde

Trump’s strongest case is about the FBI’s Russia investigation, and the fact that the Justice Department inspector general found that low-level FBI officials changed documents that were part of their application to surveil Carter Page.
トランプが最も得意とするのはFBIのロシア調査についてで、司法省の監察官が、FBIの下級職員カーター・ペイジ(ドナルドトランプの元外交政策顧問)への監視申請の一部である文書を変更したことを明らかにしたという事実です。
That’s bad.
それは良くない。
There’s a huge problem with the FISA process, and I accept the finding of the inspector general that the first two warrants for Carter Page to be surveilled were legal, while the subsequent two were not.
FISAプロセスには大きな問題があります。私は、カーターペイジの監視対象とする最初の2つの令状は合法であり、その後の2つは合法ではないという監察官の事実認定を受け入れます。
 

Sean Illing

That’s bad, no doubt, but it’s not an attempted coup,” as the president claimed.
それは間違いなく悪いことです。しかし、それは大統領が主張したような、「クーデター」未遂ではありません。
 

David Rohde

Absolutely not. Trump Tower was not wiretapped.
絶対違います。トランプタワーは盗聴(ワイヤータップ)されていませんでした。
Carter Page was a former Trump campaign adviser at that point.
And just anecdotally, if the FBI wanted to sink his election chances, the FBI and Justice Department would have leaked during the campaign in 2016 that they were investigating him, but they didn’t do that.
カーターペイジは、その時点でトランプ陣営の元顧問(元トランプキャンペーンアドバイザー)でした。
そして、あくまで逸話ですが、もしFBIが彼の選挙のチャンスを沈めたいと思った場合、FBIと司法省は、2016年の選挙期間中に、彼を調査していることを漏らしていたでしょうが、彼らはそうしませんでした。
 

Sean Illing

Bill Barr, Trump’s attorney general, gave a speech to the Federalist Societylast year celebrating the power of the executive branch.
He never mentions the deep state, but it’s pretty clear Barr believes it’s real and a problem —
トランプの司法長官であるビル・バーは、昨年、行政府の権力祝う (称える)スピーチを連邦議会(連邦主義者協会)で行った。
彼はディープステートについて言及することはありませんが、バーがそれが現実で問題であると信じていることは明らかです—
 

David Rohde

Well, yes —
まあ、そうですね
 

Sean Illing

Or am I going too far?
それとも私は行き過ぎですか?
 

David Rohde

The attorney general believes that the deep state in the form of the FBI investigation of Donald Trump was hugely problematic.
司法長官は、ドナルド・トランプのFBI捜査という形でのディープ・ステートは非常に問題があったと信じています。
I believe he called it “one of the greatest travesties in American history.”
彼はそれを "アメリカ史上最大の茶番の一つ "と呼んだと思います。
I obviously disagree with that.
私は明らかにそれに同意しません。
Again, it was wrong that Carter Page was surveilled for longer than he should have been, but the Mueller investigation was carried out properly.
繰り返しになりますが、カーター・ペイジが本来よりも長く監視されていたのは間違いでしたが、ミューラーの調査は適切に行われました。
Mueller essentially exonerated Trump of collusion.
ミューラーは本質的に共謀のトランプ免責にした
But to add a little context to that Barr speech:
He believes the legislative and judicial branches have created more power for themselves since the ’70s than they should have.
しかし、そのバーの演説に少し文脈を加えると。
彼は、立法府司法府が70年代以降、本来あるべき以上の力を自分たちのために生み出してきたと信じています。
He thinks the balance of power is off
and his reading of the Constitution is that the executive branch should be able to use the FBI to defend the country as needed,
and it’s the only branch that can act decisively in a crisis
and we need a powerful president to sort of preserve the country.
彼は権力のバランスが崩れていると考えており、
彼の憲法解釈では、行政機関は必要に応じてFBIを使用して国を守ることができるはずであり、
危機において断固として行動できる唯一の機関であり、
国を守るために強力な大統領が必要なようだと考えています。
 

Sean Illing

It’s hard to read your book right now without thinking about the coronavirus pandemic.
今、あなたの本を読むと、コロナウィルスのパンデミックについて考えずにはいられません。
 
How do you think Trump’s perception of the deep state impacted his response to the virus?
トランプ大統領ディープ・ステートに対する認識は、ウイルスへの対応にどのような影響を与えたとお考えですか?
 

David Rohde

I spoke to a person who left the administration recently who felt that Trump’s suspicion of government officials was one of several factors that slowed the response to the coronavirus.
最近政権を離れた人に話を聞いたところ、トランプ氏政府高官(官僚)に対する疑惑は、コロナウイルスへの反応を遅らせたいくつかの要因の1つであると感じていました。
They also felt that Trump’s belief in business, that businesses could outperform government agencies, was a big factor.
彼らはまた、ビジネスが政府機関をしのぐことができるというトランプのビジネスへの信念が大きな要因であると感じました。
 
More broadly, I think all of this has shown how important basic facts are.
もっと広く言えば、これらすべてが基本的な事実がいかに重要であるかを示していると思います。
There was an Axios poll that came out this week that showed that over 60 percent of Americans don’t think that death totals from coronavirus are accurate.
今週行われたAxiosの世論調査では、アメリカ人の60%以上が、コロナウイルスによる死亡総数が正確であるとは考えていないことが示されました
Democrats think the death totals are actually higher than is being publicly reported.
民主党は、死者の総数は実際に公に報告されているよりも多いと考えています。
Republicans believe the death totals are lower.
共和党は、死者の総数はもっと少ないと信じています。
And if we can’t agree on a basic fact about how many people are dying of coronavirus, how are we going to come up with policies to help each other through this?
そして、コロナウイルスで亡くなっている人の数についての基本的な事実同意できない場合、これを通じて互いに助け合うための政策をどのように考え出すのでしょうか。
 
We’re in this cycle of distrust and disdain and conspiracy theories, and it’s dangerous, and obviously Trump’s public doubting of his own government isn’t helping.
私たちはこの不信軽蔑陰謀論のサイクルの中にあり、それは危険であり、明らかにトランプが自身の政府に対して公に疑っていることは助けにならない。
 
 
 
 

読んだ。 #Capitalist Realism #Mark Fisher

読んだ。 #CapitalistRealism #MarkFisher マーク・フィッシャー
 
13日。
 
1
フレドリック・ジェイムソンスラヴォイ・ジジェク言った資本主義の終わりを想像するよりも世界の終わりを想像する方が簡単だ
このスローガンは、私が「資本主義リアリズム」と呼ぶものを正確に捉えている。
資本主義が唯一実行可能なの政治・経済システムであるだけでなく、それに代わる一貫した代替物を想像することさえ今や不可能であるという、広く普及した感覚である。
 
災害の時間的な瞬間はない。世界はバーンと終わるのではなく、それはウィンクアウトし、解きほぐし、徐々に崩壊する。
 
文化は新しいものなしでどれくらい持続することができますか?
もし、若者が驚きを生み出す能力を失ってしまったら、どうなるのだろうか。
 
エリオットの主張は、未来を使い果たすと、過去さえも残らないというものだ。
伝統は、それがもはや争われたり修正されたりしなくなったとき、何の価値もない。
単に保存されている文化は、まったく文化ではない。
 
・どんな文化財も、それを見る新しい目がなくなれば、その力を保つことはできない。
 
資本主義リアリズムの力は、資本主義がこれまでの歴史のすべてを包摂し消費してきた方法にも由来している
それは、宗教的図像であれ、ポルノグラフィであれ、『資本論』であれ、あらゆる文化財金銭的価値割り当てることができる等価システム」の効果である。
 
バディウが言うように、「過去のイデオロギー」に触発された「致命的な抽象化」から我々を解放したと主張することで、資本主義リアリズムは、信念そのものがもたらす危険から我々を守る盾として自らを提示しているのである。
ポストモダン資本主義にふさわしいアイロニカルな距離の態度は、狂信の誘惑に対して私たちを免疫するはずである。
 
新しいものはもう生まれないという病、フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」
 
・(フレデリック・ジェイムソン)
彼は、未来の失敗は、彼が正しく予言したように、パスティーシュ(作風の模倣)リヴァイバリズムによって支配されるようになるポストモダンの文化的シーン構成していると主張した。
 
・外部性を取り込むことにあまりにも成功した今、外部を植民地化し、利用することができなければ、どうやって機能するのだろうか。
ヨーロッパと北米の20歳以下のほとんどの人々にとって、資本主義に代わるものがないことは、もはや問題ですらない。
資本主義は、考えることのできる地平を隙間なく占有している。
 
・今私たちが扱っているのは、以前は破壊的な可能性を持っていると思われた素材の取り込みではなく、代わりにその前取り込みなのです。
例えば、定住する「オルタナティブ」あるいは「インディペンデント」な文化ゾーンの設立がそうである。
それは、あたかも初めてであるかのように、反抗争いの古いジェスチャーを延々と繰り返す。
オルタナティヴ」や「インディペンデント」は主流文化の外にあるものを指すのではなく、むしろ主流内におけるスタイルであり、事実、支配的なスタイルなのである。
 
・結局のところ、まさにこのリアルの最初のバージョンのヒップホップの「妥協のない」パフォーマンスが、第二の、後期資本主義経済の不安定さという現実に容易に吸収されることを可能にし、そのような本物志向が高い市場性を証明したのである。
 
2
結局のところ、そしてジジェクが挑発的に指摘したように、反資本主義は資本主義に広く普及している。
 
征服はもはや外因性の光景への従属の形をとらず、むしろ私たちを相互作用させ、参加するように誘います。
 
ロバート・プファラ相互受動性(インターパッシビティ)
この映画は私たちのために反資本主義を実行し、私たちが免責されて消費し続けることを可能にします。
 
・資本主義イデオロギーの役割は、プロパガンダのように何かを明確に主張することではなく、資本の運行が、どんな種類の主観的な思い込みにも依存しないという事実を隠すことです。
 
イデオロギー基本的なレベルは、物事の実際の状態を覆い隠す幻想ではなく、私たちの社会的リアリティー自体を構築する(無意識の)ファンタジー(幻想)である。
 
・資本主義的イデオロギー一般に、我々が行動において示し外部化させる信念を犠牲にして、信念―内なる主観的態度の意味において―を過大評価することにあるとジジェクは主張する。
 
・反資本主義運動は、資本主義に代わる首尾一貫した政治経済モデルを提示することができなかったため、その実際の目的は資本主義に取って代わることではなく、その最悪の行き過ぎ緩和することにあるのではないかという疑いが持たれていた。
そして、その活動の形態は、政治的な組織化よりもむしろ抗議行動の舞台となる傾向があったため、反資本主義運動は、満たされることを期待していない一連のヒステリックな要求を行うことで成り立っているという感覚があった。
 
・抗議行動は、資本主義リアリズムに対する一種のカーニバルのようなバックグラウンド・ノイズを形成し、
反資本主義の抗議行動は、政治家が貧困を法制化する(法律で取り締まる)という法外な要求をした2005年のLive 8のような超企業的イベントとむしろ共有し過ぎている。
 
・しかし、この「父」の形象に依存しているのは資本主義ではなく、抗議活動そのものなのである。
そして、現在のグローバル・エリートの成功の一つは、彼らが若者に押し付けている「リアリティー」が、彼らが60年代に抗議した状況よりも実質的にかなり厳しいにもかかわらず、ため込んでいる父の姿との同一化回避していることであった。
 
・心に留めておく必要があるのは、資本主義が超抽象的な非人格的構造であるということと、私たちの協力なしにはなにもないということの両方である。
 
・「レッドは、パンクロックやヒップホップのようなもので、ハードな商業のように感じられるはずだ」とボノは宣言した。
ポイントは、資本主義に代わるものを提供することではなかった。それどころか、プロダクト・レッドの「パンクロック」や「ヒップホップ」のキャラクター(特徴)は、資本主義がこの町の唯一のゲームであることを「現実的に」受け入れることにあるのである。
 
 
3
私が理解する資本主義リアリズムは、芸術や、広告が機能する準宣伝的な方法に限定されるものではありません。
それはむしろ、文化の生産だけでなく、労働や教育の規制をも調整し、思考や行動を制約する一種の見えない障壁として作用する浸透した雰囲気のようなものである
 
・資本主義リアリズムが脅かされるのは、それが何らかの形で矛盾していたり成り立たなかったりすることが示された場合だけである。
つまり、資本主義の表向きの「リアリズム」が、そのようなものではないことが判明した場合である。
 
イデオロギー的な立場は、それが自然化されるまでは決して本当の意味で成功することはなく、それが事実ではなく価値として考えられている間は自然化されることはない。
したがって、新自由主義は、倫理的な意味での価値のカテゴリーそのものを排除しようと努めてきた
過去30年間で、資本主義リアリズムは「ビジネスオントロジー存在論」の導入に成功しました。このオントロジーでは、ヘルスケアや教育を含む社会のすべてがビジネスとして運営されるべきであることが単純に明らかです。
 
ブレヒトからフーコーバディウに至るまで、数多くのラディカルな理論家が主張してきたように、解放者政治は常に「自然秩序」の出現を破壊しなければならず、
必要かつ必然であると示されたものが単なる偶発性であることを明らかにしなければならず、同様に、それまで不可能とされてきたものを達成可能であると思わせなければならない。
 
ラカンのリアルとリアリティーの差異。
 
アレンカ・ジュパンチッチが説明するように、精神分析がリアリティー原則を措定することで、自らを自然なものとして提示するあらゆるリアリティー疑うように誘うのである。
ジュパンチッチは書いています、
「リアリティー原則は、物事がどのようにあるかに関連するある種の自然な方法ではない・・・。
リアリティー原則自体はイデオロギー的に媒介されています
それは最高のイデオロギーを構成しているとさえ言えるでしょう。
経験的事実(あるいは生物学的、経済学的...)の必然性として自らを提示するイデオロギー(そして、我々は非イデオロギーとして知覚する傾向があります)である。
私たちがイデオロギーの機能に最も注意を払うべきなのはまさにここです。
 
ラカンにとって、リアルはあらゆる「リアリティー」が抑制しなければならないものである。確かに、リアリティーはこの抑圧を通してそれ自体を構成しているのである。
リアルは表象不可能な(表現できない)Xであり、見かけ上の現実の場の亀裂や矛盾の中にしか垣間見ることのできないトラウマ的な空虚である。
 
・1960年代と1970年代に、ラディカルな理論と政治レイン、フーコードゥルーズガタリなど)は、統合失調症などの極端な精神状態の周りに集結し、たとえば、狂気は自然ではなく、政治的なカテゴリーであると主張しました。
 
オリバー・ジェイムスは、その著書The Selfish Capitalistの中で、精神的苦痛の割合の増加と、イギリス、アメリカ、オーストラリアといった国々で実践されている新自由主義的な資本主義の様式との間に相関関係があることを説得力を持って提唱している。
 
・なぜ、これほど多くの人々、特に多くの若者が病気になることが許されるようになったのでしょうか?
 
 
4
うつ病風土病です。
 
うつ病的快楽主義
うつ病は通常、快感消失の状態として特徴づけられますが、私が言うこの状態は、快感を得ることができないのではなく、快感を追求する以外のことができないことによって構成されています。
 
だからバロウズコントロール中毒者と表現しています。
コントロール中毒者であると同時に、必然的にコントロール乗っ取られ、コントロールに憑依された者でもある。
 
・退屈するということは、テキスト、YouTube、ファーストフードといったコミュニケーション上の感覚刺激マトリックスから解放されることを意味する。
つまり、要求に応じて絶えず流れてくる甘い満足感を一瞬でも否定されることを意味するのである。
 
・なぜ、音楽をかけずにヘッドホンをつけるのか、ヘッドホンをつけずに音楽を流すのか。
それは、耳にかける電話の存在、あるいは(たとえ聞こえなくても)音楽が流れていることを知ることが、手の届くところにマトリックスが残っているという安心感につながったからだ。
それに、インターパッシビィティ(相互受動性)の典型的な例として、音楽がまだ再生されている場合、たとえそれを聞くことができなくても、プレーヤーは彼に代わってそれを楽しむことができるのだ。
ここではヘッドホンの使用が重要です。ポップは、公共の場に影響を与える可能性のあるものとしてではなく、社会に対する壁となるプライベートな「OedIpod」的な消費者の至福引きこもることとして体験されるのである。
 
・ジェイムソンはそこで、ラカン統合失調症の理論が、出現しつつある娯楽産業複合体に直面した主観性の断片化を理解するための「示唆的な美的モデル」を提供していることを指摘している。
シニフィアン連鎖の崩壊とともに」、ジェイムソンは要約している。「ラカン派の統合失調症純粋な物質的シニフィアンの経験に、言い換えれば、時間における一連の、純粋かつ無関係な現在還元される
ジェイムソンの執筆は1980年代後半、つまり、私の生徒の多くが生まれた時代である。
私たちが今教室で直面しているのは、非歴史的で反記憶的なブリップ(ピー音の)文化の中で生まれた世代、つまり、時間が常にデジタルなマイクロスライスにカットされている世代なのです。
 
「書くことは資本主義のことではありませんでした。資本主義は深遠な文盲である」とドゥルーズガタリは『アンチ・オイディプス』の中で主張した。
 
ジョージ・ソロスビル・ゲイツのようないわゆる「リベラル・コミュニスト」は、強欲な利益追求と生態系への配慮社会的責任というレトリックを組み合わせています。
 
資本主義に抵抗することはできても、克服することはできないという暗黙の譲歩をする現状維持論者と、
資本主義の非道徳的な行き過ぎ慈善活動によって相殺しなければならないと主張するリベラル・コミュニストを一緒にすると、
資本主義リアリズムが現在の政治の可能性を制限している方法を感じとることができる。
 
ジジェクの主張は正しい。リベラル・コミュニストは、公式の資本主義的イデオロギーに対する進歩的改善構成するどころか、現在の資本主義の支配的イデオロギー構成しているのである。
「柔軟性」、「ノマド主義」、「自発性」は、まさにポスト・フォーディズム、コントロール社会における経営の特徴である。
 
ハーヴェイは、一般に「ポスト政治的」と評される時代において、階級闘争は継続しているが、それは一方の側、すなわち富裕層によってのみ行われていることを実証している
 
フォーディズムポスト・フォーディズムの違いを把握する最も簡単な方法のひとつは、マンの映画を1971年から1990年の間にフランシス・フォード・コッポラマーティン・スコセッシが作ったギャング映画と比較することである。
(略)
『ヒート』のロサンゼルスは、ランドマークのない世界であり、ブランド化されたスプロールであり、マークできる領域は、複製するフランチャイズの無限に繰り返される景色に置き換えられています
 
5
・「さて、あなたは私の上にいて、私が動けばあなたも動かなければならないのなら、どうやって結婚生活を維持するつもりですか?」
 
以前は労働者は一つのスキルを身につけ、硬直した組織階層の中で上向きに昇進することが期待できたが、今では施設から施設へ、役割から役割へと移動しながら定期的に再スキルを身につけることが要求されるようになった。
仕事の組織が分散化されピラミッド型のヒエラルキーが横方向のネットワークに置き換わっているためと、「柔軟性」が重視されるようになるのです。
セネットは、『ヒート』でマコーリーがハンナを嘲笑反映して(「どうやって結婚生活を維持するつもりですか?」)、こうした恒常的な不安定さが家族生活に与える耐えがたいストレス強調している
家族生活が依存する価値観、つまり義務、信頼、コミットメントは、まさに新しい資本主義では時代遅れとされるものなのだ。
しかし、公共圏が攻撃され、「ナニー・ステート(子守国家)」が提供していたセーフティ・ネットが解体されると、家族は、不安定さが恒常化する世界の圧力から解放される場所としてますます重要な存在になってきている。
 
この柔軟性は、資本と労働の規制緩和によって定義され、労働力は非正規化(臨時で雇用される労働者の増加)され、外注化されるようになったのである。
 
管理者や監督者に見守られながら、騒がしい環境で労働する労働者は、休憩時間、トイレ、終業時、あるいはサボタージュに従事するときにのみ言語にアクセスすることができたが、それはコミュニケーションが生産を中断させるためであった。
しかし、ポスト・フォーディズムにおいて、組立ラインが「情報の流動」となったとき、人々はコミュニケーションによって仕事をするようになる。
ノルベルト・ウィーナーが説いたように、コミュニケーションとコントロールは互いを必然的に伴う
 
典型的なのは、あなたは自分が一連の短期間の仕事に従事していて、将来の計画を立てることができないことに気づきます。
 
マラッツィとセネットは、安定した労働形態の崩壊は、労働者の欲望によって推進された部分があると指摘している
―40年間も同じ工場で働きたくないというのは、当然なことである。
多くの点で、左翼は、資本の動員と、フォーディストのルーチンからの解放への欲求の代謝によって、誤った足取りからから立ち直ることができなかったのだ。
 
拮抗作用(アンタゴニズム、対立関係)は、今や階級間の対決という外部に位置するものではなく、労働者の心理の中にある
労働者としては、旧来の階級闘争に関心があるが、しかし、年金基金を持っている者として、投資の運用利回りの最大化にも関心がある。
 
マラッツィ双極性障害の増加とポストフォーディズムとの関連を研究しており、ドゥルーズガタリが主張するように、統合失調症が資本主義の外縁を示す状態だとすれば、双極性障害は資本主義の「内部」にふさわしい精神疾患といえるだろう。
その絶え間ないブームとバストサイクルで、資本主義はそれ自体が根本的かつ還元不可能な双極性であり、高揚したマニア(「バブル思考」の不合理な熱狂)と憂鬱な落ち込みとの間を周期的に揺れ動く
(もちろん、「経済的憂鬱(=不景気)」という言葉は偶然ではない)。
他の社会システムでは前例がないほど、資本主義は人々の気分によって養われ、それを再生産している。
せん妄と自信がなければ、資本は機能し得ない。
 
 
6
・ジャッジは、これと同じ管理主義が、オフィスワーカーがリラックスするために行く企業のコーヒーチェーンでも統轄していることを示しています。
ここでは、スタッフは「個性と創造性」を表現するために、ユニフォームを「7つのフレア」(つまり、バッジまたはその他の個人的なトークン)で装飾することが要求されている
創造性」と「自己表現」が管理社会の労働に内在するようになった方法の便利な図解。
これは、パオロ・ヴィルノヤン・ムーリエ・ブータンなどが指摘しているように、今では労働者に感情的で、生産的な要求をするようになった。
さらに、これらの感情的な貢献露骨に数量化する試みは、新しい取り決めについても多くのことを教えてくれている。
 
しかし、労働者のパフォーマンスを評価し、その性質上、定量に抵抗のある労働形態を測定しようとする動きは、必然的に管理と官僚主義の層を厚くすることを要求してきた。
私たちが手にするのは、労働者のパフォーマンスやアウトプットの直接的な比較ではなく、そのパフォーマンスやアウトプットの監査された表象比較することです。
必然的に短絡的になり、仕事は仕事そのものの公式目標ではなく、表象の生成とごまかし(操作)に向けられるようになります。
実際、イギリスの地方自治体の人類学的研究では、「ある地方自治体のサービスが正しく表象されているかどうかを確認するために、実際にそのサービスを改善するよりも多くの労力が費やされている」と主張している。
 
・資本主義では、つまり、形あるものみな広報へと消えゆき、後期資本主義は、少なくとも市場メカニズム押し付けと同じくらい、PR生産に対するこの遍在的な傾向によって定義されます。
 
ここで、ラカンの「大文字の他者」の概念をジジェクが詳しく説明していることが重要になる。
大文字の他者とは、あらゆる社会的分野によって前提とされている集合的なフィクション象徴的な構造です。
大文字の他者は、それ自体では決して遭遇することはありません。
代わりに、私たちはその代役に対峙するだけです。
これらの代表者は必ずしもリーダーではありません。
たとえば、上記の白海運河の例では、大文字の他者代表スターリン自身ではなく、このプロジェクトの栄光を説得されなければならなかったソビエトや外国の作家たちであった。
大文字の他者の重要な側面の一つは、それがすべてを知っているわけではないということです。
この大文字の他者構成的な無知が、パブリック・リレーションズ(PR)の機能を可能にしているのである。
確かに、大文字の他者は、PRとプロパガンダの消費者として定義することができます。これは、個人が信じることができない場合でも信じることが求められる仮想的な人物と定義することができるだろう。
 
裁判官が話すとき、彼の言葉(法の制度の言葉)には、裁判官の人の直接のリアリティよりも、ある意味でより多くの真実がある。もし自分が見ているものに自分を制限すると、その要点を見逃してしまう。
ラカンはこのパラドックスを彼の「les non-dupes errent((象徴界に)騙されない人は彷徨う)」で志向している。
象徴的な欺瞞/虚構にとらわれることを許さない人たち、自分の目を信じ続ける人たちが、最も誤りを犯す人たちなのだ。
「自分の目だけを信じる」皮肉屋は、象徴的な虚構の効率性と、それがどのように我々のリアリティの経験を構造化するかを見逃してしまうのである。
 
それが生で把握されているように見えたまさにその瞬間に、リアリティはボードリヤールに、「ハイパーリアリティ」と呼ばれる非常に誤解された造語で変換されました。
 
・われわれ視聴者は、外部からやってくる権力に服従するのではなく、われわれの欲望や嗜好唯一の指令とする制御回路に組み込まれているのだ。
- しかし、その欲望や嗜好は、もはや我々のものとしてではなく、大文字の他者の欲望として我々に返される。
 
私たちは皆、官僚のリビドーを知っている。ある種の役人が、責任を否認されたこの立場から得る楽しみを知っている(「恐れ入りますが、私ではなく、規制のせいなのです」)。
官僚を相手にするときのフラストレーションは、彼ら自身が何も決定できないために生じることが多い。むしろ彼らは、(大文字の他者によって)常にすでに行われた決定に言及することだけが許されているのである。
カフカは、この否認の構造が官僚主義内在していることを見抜いていたので、官僚制に関する最も偉大な作家であった。
Kの公式ステータスを最終的に解決する最終的な権威に到達するための探求は決して終わらない。なぜなら、大文字の他者はそれ自体では出会うことができないからだ。
そこには、多かれ少なかれ敵対的で大文字の他者の意図について解釈する行為に従事している役人がいるだけなのだ。
そして、こうした解釈の行為、責任の先送りこそが、「大文字の他者」のすべてである。
 
比較不可能無意味なもの疑問なく受け入れるというこの戦略は、常にそれ自体が正気を保つため模範的な手法でしたが、
しかし、社会的虚構夢想廃棄コモディティの生産と廃棄と同じくらい急速に進んでいる「今までにあったすべてのものの寄せ集め絵画」である後期資本主義において、それは特別な役割を担っている。
存在論的に(オントロジーの)不安定なこれらの条件では、忘却は適応戦略になります。
 
・新しい記憶を作ることができない
ポストモダン行き詰まり簡潔な定式化....
 
目的と手段の両方のレベルで明確に非道徳的である合理性新自由主義)は、明確に道徳的で規制的である合理性(新保守主義)と(どのように)交差するのだろうか。
 
・しかし、ブラウンが「政治的合理性」と呼ぶレベルでの矛盾は、政治的主観性のレベルでの共生妨げることにはなりません。
ブラウンは、非常に異なる指導的仮定から進んだものの、新自由主義新保守主義が協力して公共圏と民主主義弱体化させたと主張しています。
政治的プロセスではなく、製品の解決策を見つけようとする、統治された市民を生み出す。
 
 
8
ナニー・ステートに対する敵意は続いているが、それにもかかわらずグローバル資本主義における政府の傍観の結果を受け入れることを拒否している。
これはおそらく、政治的無意識のレベルにおいて、全体支配者が存在しないこと今ある支配権に近いものは、企業の無責任を行使する曖昧で責任感のない利益であることを認めることが不可能である、というサインなのであろう。
 
・資本主義の無中心性を直接的に体験するのに最も近いのは、コールセンターとの出会いである。
(略)
陽気に流れるPRによって中断される退屈とフラストレーション、訓練が不十分で情報が不十分の異なるオペレーターに何度も繰り返される悲惨な内容、正当な対象を持ち得ないために無力なままでいなければならない構築された怒り
-発信者にはすぐにわかるように-知っている人は誰もいないし、できたとしても何もできない人もいない。
 
・しかし、ジョーンズは、リサイクルをするはずの主体が、リサイクルをするように期待されていない構造を前提にしていると主張する。
リサイクルを「みんな」の責任とすることで、構造はその責任を消費者に委ね、それ自体は不可視化され後退していく
 
・誰もが、つまり誰もが、気候変動に責任がある、私たち全員が少しずつ行動しなければならない、と言う代わりに、誰も責任がない、それがまさに問題だ、と言った方がよいだろう。
生態系大災害の原因は非人格的な構造であり、それはあらゆる効果を生み出すことができるにもかかわらず、まさに責任を行使することができる主体ではありません。
 
・しかし、少なくとも1985年以来、英国の政治文化において行われてきた倫理的な即時性への訴えは、ライブエイド合意的なセンチメンティズムが鉱夫ストライキの敵対心に取って代わったとき、そのような主体の出現を永久に先延ばしにする。
 
なぜなら、まさに企業構造に属する個人が罰せられる可能性がある時点で、構造が(暗黙のうちに、あるいは公然と)呼び出されることが多いからである。
この時点で、突然、虐待や残虐行為の原因は非常に体系的で拡散しているため、個人が責任を負うことはできません。
これは、ヒルズボロの悲劇ヒルズボロのサッカーの災害)や、ジャン・シャルル・ド・メネゼスの射撃(ジャン・シャルル・ド・メネゼス事件)、その他多くの事件で起こったことなのだ。
しかし、この行き詰まり行動に対して倫理的に責任を負うことができるのは個人だけですが、これらの虐待やエラーの原因は企業的で体系的だということ)は、単なる隠蔽であるだけでなく、資本主義に欠けているものを正確に示している。
 
はい、企業は合法的に個人として扱うことができますが、しかし問題は、企業は確かに実体ではありますが、個人の人間のようではないため、企業を罰することと個人を罰すること類似性必然的に貧弱になるということです。
そして、それは企業がすべての背後にある深いレベルのエージェントだというようなことではない。
それら自体は、主体ではない究極の原因によって制約され、それを表現している。資本である。
 
 
9
具体的な質問は、もし父性の超自我に戻ること、つまり家庭における厳しい父親、放送におけるリース的な横柄さが不可能であり、望ましいものでもない場合、
挑戦や教育の拒否から生じる単調で瀕死の順応の文化をどう乗り越えればいいのか、ということである。
 
スピノザが示す自由は、私たちが自分の行動の本当の原因を理解することができ、私たちを酔わせて私たちを魅了する「悲しい情熱」を脇に置くことができるときにのみ達成できるものです。
 
カーティスはインターネットを攻撃します。なぜなら、彼の見解では、独我論のコミュニティ、お互いの思い込み偏見に挑戦するのではなく、それを確認する同類意識インターパッシヴ相互受動的)なネットワークを促進するからです。
争われている公共の場で他の視点に対峙する代わりに、これらのコミュニティは閉じた回路に引きこもってしまうのだ。
 
皮肉なことに、メディアクラスがパターナリスティックであることを拒否したことで、息を呑むような多様性ボトムアップ文化は生まれませんでしたが、ますます幼児化されてきました。
 
資本主義の「リスク社会」がこの種のリスクをとる可能性が、戦後の社会的コンセンサスというおそらくつまらない中央集権的な文化よりもはるかに少ないというのも、もう1つの皮肉です。
『ティンカー、テーラー、ソルジャー・スパイ』や、ピンターの劇、タルコフスキーのシーズンなどで私を困惑させたり喜ばせたりしたのは、公共サービス志向のBBCとチャンネル4だった。
BBCラジオフォニック・ワークショップの大衆的な前衛主義にも資金援助をし、音の実験主義を日常生活に組み込んでいたのは、このBBCであった。
このような革新は、公共が消費者に取って代わられた今となっては考えられない。
永続的な構造的不安定、つまり「長期的なキャンセル」の影響は、常に停滞保守主義であり、革新ではない。
これはパラドックスではない。
上記のアダム・カーティスの発言で明らかなように、後期資本主義で優勢な影響は、恐れとシニシズム冷笑主義)である。
これらの感情は、大胆な思考起業家的飛躍鼓舞するものではなく、適合性最小限のバリエーションのカルト、つまり、すでに成功している製品に非常によく似た製品を生み出します
一方、前述のタルコフスキーの『ソラリス『ストーカー』のような映画は、『エイリアン』ブレードランナー以来、ハリウッドに略奪されてきたが、ブレジネフ派のソ連という表面上は瀕死の状況で制作された。つまり、ソ連はハリウッドにとって文化起業家のような役割を果たしたのである。
 
真に新しい左翼の目標は、国家を乗っ取ることではなく、国家を一般意志従属させることであることを認識することである。
これには、当然のことながら、一般意志の概念そのものを復活させ個人その利益の集合体に還元できない公共空間の概念を復活させ、近代化することが含まれます。
 
 

Oliver Stone 3月4日 7:04 facebook

Oliver Stone 

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Although the United States has many wars of aggression on its conscience, it doesn’t justify Mr. Putin’s aggression in Ukraine.
 米国には良心に対して多くの侵略戦争があるが、プーチン氏のウクライナへの侵略を正当化するものではない。
A dozen wrongs don’t make a right.
 十数回の過ちは正しいことにはならない。
Russia was wrong to invade.
 ロシアは侵略したのが間違いだった。
It has made too many mistakes --
ロシアはあまりにも多くの過ちを犯している。
1) underestimating Ukrainian resistance,
1)ウクライナの抵抗を過小評価し、
2) overestimating the military’s ability to achieve its objective,
2)目的を達成するための軍の能力を過大評価し、
3) underestimating Europe’s reaction, especially Germany upping its military contribution to NATO, which they’ve resisted for some 20 years; even Switzerland has joined the cause.
 3) ヨーロッパの反応、特にドイツが20年来抵抗してきたNATOへの軍事的貢献拡大、スイスまでもが参加したことを過小評価していたこと。
Russia will be more isolated than ever from the West.
 ロシアは西側諸国からこれまで以上に孤立することになる。
4) underestimating the enhanced power of NATO, which will now put more pressure on Russia’s borders,
4)ロシアの国境にさらに圧力をかけるNATO強化された力を過小評価し、
5) probably putting Ukraine into NATO,
5)おそらくウクライナNATOに入れ、
6) underestimating the damage to its own economy and certainly creating more internal resistance in Russia,
6) 自国の経済へのダメージを過小評価し、確実にロシア国内の抵抗勢力をさらに増大させ、
7) creating a major readjustment of power in its oligarch class,
7)そのオリガルヒクラスの権力の大規模な再調整を作成し、
8 ) putting cluster and vacuum bombs into play,
8 ) クラスター爆弾と真空爆を投入して
9) and underestimating the power of social media worldwide.
 9) そして、世界中のソーシャルメディアの力を過小評価している。
 
 
But we must wonder, how could Putin have saved the Russian-speaking people of Donetsk and Luhansk?
しかし、プーチンはどのようにしてドネツクとルハンスクのロシア語を話す人々を救うことができたのだろうか、と考えざるを得ない。
No doubt his Government could’ve done a better job of showing the world the eight years of suffering of those people and their refugees -- as well as highlighting the Ukrainian buildup of 110,000 soldiers on the Donetsk-Luhansk borders, which was occurring essentially before the Russian buildup.
彼の政府は、これらの人々とその難民の8年間の苦しみを世界に示すためのより良い仕事をすることができたに違いありません。
-ドネツクとルハンシクの国境での11万人のウクライナ人兵士の増強は本質的にロシアの増強の前に発生していたということも強調した。
But the West has far stronger public relations than the Russians.
しかし、西側諸国はロシアよりもはるかに強力な広報活動をしている。
Or perhaps Putin should’ve surrendered the two holdout provinces and offered 1-3 million people help to relocate in Russia.
あるいは、プーチンは2つのホールドアウト州放棄し、100万~300万人のロシアへの移住を支援するように提案すべきだったのかもしれない。
The world might’ve understood better the aggression of the Ukrainian Government.
世界はウクライナ政府の侵略をよりよく理解していたかもしれません。
But then again, I’m not sure.
しかし、繰り返しになるが、よくわからない。
 
 
But now, it’s too late.
 しかし、今となっては遅すぎる。
Putin has allowed himself to be baited and fallen into the trap set by the U.S. and has committed his military, empowering the worst conclusions the West can make.
プーチンは、餌に釣られることを許し、米国が仕掛けた罠にはまり、彼の軍隊をコミットし、西側が作り得る最悪の結論に力を与えてしまった。
He probably, I think, has given up on the West, and this brings us closer than ever to a Final Confrontation.
彼はおそらく西側をあきらめたと思います、そしてこれは私たちをこれまで以上に「最終対決」に近づいています。
There seems to be no road back.
戻る道はないようです。
The only ones happy about this are Russian nationalists and the legion of Russian haters, who finally got what they’ve been dreaming of for years, i.e.
 これで喜ぶのはロシアの民族主義ロシア嫌いの軍団だけで、彼らはついに彼らが何年も夢見てきたものを手に入れたのである。
Biden, Pentagon, CIA, EU, NATO, mainstream media -- and don’t overlook Nuland and her sinister neocon gang in D.C.
バイデン、ペンタゴン、CIA、EUNATO、主流メディア-そして、ワシントンD.C.のヌーランドと彼女の不吉なネオコンギャングも見逃してはならない。
This will significantly vindicate the uber hawks in public eyes.
 これは、公共の目で、タカ派大いに正当化することになる。
Pointing out the toxicity of their policies (Yugoslavia, Iraq, Afghanistan, Libya, Syria, NATO expansion, breaking nuclear treaties, censoring and omitting crucial facts from the news, etc.) will be next to impossible.
 彼らの政策ユーゴスラビアイラクアフガニスタンリビア、シリア、NATOの拡大核条約の破棄、ニュースから重要な事実を検閲省略するなど)の毒性を指摘することは、ほぼ不可能だろう。
Pointing out Western double standards, including Kyiv and Zelenskyy’s bad behavior, will likewise fall on deaf ears as we again draw the wrong conclusions.
キエフとゼレンスキーの悪い行動を含む西洋の二重基準を指摘することは、私たちが再び間違った結論を引き出すので、同様に耳に聞こえなくなるでしょう。
 
 
It's easier now to smear those of us who tried to understand the Russian position through these last two decades.
 この20年間、ロシアの立場を理解しようとした私たちを中傷するのは、今では簡単なことだ。
We tried.
 我々はやってみた。
But now is the time, as JFK and Khrushchev faced down the perilous situation in Cuba in October 1962, for the two nuclear powers to walk this back from the abyss.
 しかし、1962年10月にJFKフルシチョフキューバ危機的状況に直面したときのように、今こそ2つの核保有国がこれを深淵から後退させる時です。
Both sides need to save face.
両側の面子を保つ必要がある。
 
 
This isn’t a moment for the U.S. to gloat.
 米国がほくそ笑んでいる場合ではない。
As a Vietnam War veteran and as a man who’s witnessed the endless antagonism of the Cold War, demonizing and humiliating foreign leaders is not a policy that can succeed.
 ベトナム戦争の退役軍人として、また冷戦の果てしない敵対を目の当たりにしてきた者として、外国の指導者を悪魔化し、屈辱を与えることは、成功し得る政策とは言えない。
It only makes the situation worse.
それは状況を悪化させるだけです。
Back-channel negotiations are necessary, because whatever happens in the next few days or weeks, the specter of a final war must be realistically accepted and brokered.
バックチャネルでの交渉が必要である、 なぜなら、今後数日あるいは数週間のうちに何が起ころうとも、終戦争の怪物を現実的に受け入れ、その調停を行わなければならないからだ。
Who can do that? Are there real statesmen among us?
誰がそれを行えるのか。我々の中に真の政治家はいるのだろうか?
Perhaps, I pray, Macron.
 おそらく、私はマクロンに祈る。
Bring us the likes of Metternich, Talleyrand, Averell Harriman, George Shultz, James Baker, and Mikhail Gorbachev.
 メッテルニヒタレーラン、アヴェレル・ハリマン、ジョージ・シュルツ、ジェームズ・ベーカー、そしてミハイル・ゴルバチョフのような人物を連れてきてほしい。
 
 
The great unseen tragedy at the heart of this history of our times is the loss of a true peaceful partnership between Russia and the U.S.
 私たちのこの時代の歴史の中心にある目に見えない大きな悲劇は、ロシアとアメリカの間の真の平和的パートナーシップの喪失である。
-- with, yes, potentially China, no reason why not except America’s desire for dominance.
-そうです、潜在的には中国ですが、アメリカの支配への欲求を除けば理由はありません。
The idiots who kept provoking Russia after the Cold War ended in 1991 have committed a terrible crime against humanity and the future.
冷戦が1991年に終わった後もロシアを挑発し続けた馬鹿は、人道と未来に対して罪を犯してしまった。
Together, our countries could’ve been natural allies in the biggest battle of all against climate change.
 私たちの国が一緒になれば、気候変動に対する最大の戦いにおいて、自然な同盟国であった可能性があります。
In its technical achievements alone, in large scale science, in its rocketry, heavy industries, and its most modern, clean nuclear energy reactors, Russia has been a great friend to man.
技術的な成果だけでも、大規模な科学でも、ロケット、重工業、そして最も近代的でクリーンな原子炉でも、ロシアは人類にとって素晴らしい友だちであった。
Alas, in our century so far, man has failed to see or reach for the stars.
悲しいかな、これまでの私たちの世紀では、人間は星を見ることも、星に手を伸ばすこともできなかった。