読んだ。 #訂正する力 #東浩紀

読んだ。 #訂正する力 #東浩紀
 
先日読んだ『訂正の哲学』もおもしろかったが、そのなかでいくつか気になっていた、物事についての意味合いを訂正していくという行為と「歴史修正主義」の違いについてや、具体的に「訂正し続けていく」ということはどういうことなのかという例や説明、最近のSNSで右も左も極端な意見を言う人ばかりが目立ち議論が成立しなくなっている状況についての説明などもわかりやすく、とてもよかった
 
 
政治とはそもそも絶対の正義を振りかざす論破のゲームではありません。あるべき政治は、右派と左派、保守派とリベラル派がたがいの立場を尊重し、議論を交わすことでおたがいの意見を少しずつ変えていく対話のプロセスのはずです。しかし、現状ではそんなことはできない。
 とくに最近の左派の一部は頑なです。彼らはどんな説明を聞かされても意見を変えません。むしろその頑なさが「ぶれない」として評価されている。そのため政府側も彼らをクレーマーとして扱い、真剣な議論を行わない。政権側も反政権側もおたがいが「相手は変わらない」と思い込んでいるため、議論が始まらないわけです。あるのはいつも同じ「反対してるぞ」アピールだけです。
 議論が始まるためには、おたがいが変わる用意がなければなりません。ところがいまの日本では、その前提が壊れています。みな「議論しましょう」とは言うものの、自分自身が変わるつもりはなく、むしろ変わってはいけないと思っているのです
 
リセットすることもぶれないことも幼稚な発想です。日本ではそんな幼稚さばかりがもてはやされる
 けれども、ぼくたちはそろそろ成熟するべきです。そして社会の持続について考え始めるべきです。訂正する力は成熟する力のことでもあるのです。
 
 
山本七平『「空気」の研究』
 
・というよりも、日本では脱構築しか有効ではないと言うべきかもしれません。正面から既存のルールを批判しても力をもたない。ルールを訂正しながらも、その新しさを前面に押し出さず、「いや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張し、現在の状況に対応しながら過去との一貫性も守る。そういった両面戦略が不可欠となります。
 
・議論を成立させるためには相手が意見を変える可能性をたがいに認めあわなくてはいけませんだれの意見も変わらない議論なんて、なんの意味もありません
 
立憲主義とは、国民が憲法を使って国家を縛ることです。そのためには国民が憲法を理解できなくてはいけません
 ところがいまの護憲派の主張にしたがうと、日本国憲法については、ふつうに読んでふつうに社会に適用してはいけないことになる。ふつうに考えれば自衛隊は戦力です。9条の戦力放棄の規定と反しているのだから、自衛隊を解散するか憲法を変えるか、どっちかにしないといけないと考えるのがふつうです。それがおかしいと言われたら、ふつうの国民は憲法について語れなくなる。
 皮肉なことに、9条についてはむしろ政府のほうが訂正する力を発揮しています。解釈改憲集団的自衛権を認め、このままだと北朝鮮の基地にミサイルを打ち込むことも可能になるかもしれない。それが危険だと思うならば、リベラルのほうも訂正する力を発揮し、条文自体を変えてしっかりできることとできないことを規定したほうがいい。ところがいまの左派はそういう主張ができない。「条文が変わっても同じ憲法の精神を守ることができる」という社会への信頼がないからです。護憲派の人々からすれば、条文を一字でも変えてしまったら右派に乗っ取られ、日本は別の国になってしまうとなる。その神経質な純粋主義が事態を膠着させています。
 
・ふつうの日本語として読める憲法
 
 
・つまり、声を上げることは必然的に反発を伴うということです。むしろ反発がないと意味がない。ところが最近は、「声を上げると周りから変なひとだと言われる、それ自体が圧力だから、『変』と言われないようにしてほしい」という要求が上がるようになってきた。
 こうなると話がこじれてきます。声を上げるというのは、ルールに対して否を突きつけるということです。その異議申し立てがうまくいき、世の中が変わるかどうかは、結果でしかわかりません。
 異議申し立ては、その意味では賭けです。だからこそ価値があります。事前に「声を上げても歓迎されるような環境をつくってください」というのでは、おかしな話になってしまう。
 この逆説はさきほどの「水」がすぐ「空気」になるという話と関連しています。いまの空気に水を差したい、でもそれは空気として歓迎されたい、というのでは有意義な異議申し立てになりません。日本の市民運動の弱点はここにあるように思います。
 訂正する力は、そのような「事前承認」は求めません。単に「このルールはおかしいから変えるべきだ、否、じつはもともとこう解釈できるものだったのだ」と行動で示し、そのあとで事後承諾を求める。それが訂正の行為です。だからそれは、ある観点では単なるルール違反です。
 けれどもその違反がすごく大事なのです。違反によって、ルールの弱点や不完全なところが見えてくることがあるからです。むろん、ルールに違反するということは「ルール違反だ」と非難されるということです。みんなから賛同されるわけでもないし、問題提起がうまくいかなければ犯罪になることもある。けれども、そのことによってルールが変わるかもしれない。訂正する力は、そういうリスクを取って行うことでもあります。
 言い換えれば、訂正する力は、「自分はこれで行く」「自分はこのルールをこう解釈する」と決断する力のことでもあります。そして批判を引き受ける力でもあるのです。
 
 
・「負けた選挙を勝ったと捉えるのも訂正する力の働きではないのか」と反論されるかもしれません。
 その理解は違います。訂正する力は現実から目を逸らすために使ってはいけません。現実を「再解釈」するために使うべきなのです
 
訂正する力とは現実を直視する力
 目を逸らすことと「再解釈」することの違いは重要です。その違いがわからなくなると、訂正する力と歴史修正主義との違いもあいまいになってしまいます。 訂正する力は、けっして、自分に都合よく現実を見る力のことではありません。むしろ現実を直視する力です。
 その違いについては本書を読むことでおいおいわかってもらえるはずですが、ここでもつぎのようには言えます。ぼくはつねひごろ「ものごとは続くのが大事だ」と述べています。この「続く力」と「訂正する力」は同じものです。理由は単純で、ものごとは訂正しないと続かないからです。ぶれないだけでは潰れてしまう
 
ポリティカル・コレクトネスとは、「昔の正しさはいまでは正しくない、だから訂正しよう」という反省のことです。
 
訂正する力は歴史修正主義とは異なるものです。本書はけっして、過去を都合よく修正するのが大事だと主張する本ではありません。訂正する力は、過去を記憶し、訂正するために謝罪する力です。歴史修正主義は過去を忘却するので、訂正もしなければ謝罪もしません。この違いはしっかりと意識するようにしましょう。
 
訂正する力は身体と深く関係しています。そもそも、「いま言ったのはそういう意味ではなくて」という対話中の訂正が、なぜ受け入れられるのでしょうか
 日常的にみな行っている行為ですが、考えてみればそれはすごいことです。訂正は文字だけでは実行しにくい。なぜならば、文字だけで「さっき言ったのはそういう意味ではなくて」といった自己否定を繰り返していたら、単に支離滅裂な文章になってしまうからです。
 でも、ぼくたちは日常の会話ではそういう訂正を平気でなんどもやります。なぜそんなことが可能かというと、そもそもぼくたちはしゃべっているとき、じつは同じ言葉を同じ意味で使っているとはかぎらず、相手の顔や反応を見ながらどんどん意味を変えていっているからです。そしてその前提をたがいにわかっている。
 だから、「前後の流れからある言葉を選んでしまっていたけれど、それはさっきいい言葉が思い浮かばなかっただけで、本当はこのように言ったほうがいいのだ」という訂正ができる。言葉の外部への信頼感があるからこそ、言葉を訂正することができるのです。
 
 
動画の時代は、こういうルッキズムが前面に出てくる時代でもあります。
 そういう時代にどう対応するか。人間はくだらない情報に弱いんだということを、つねに意識しておくことが大事だと思います。
 
・署名活動やクラウドファンディングは健在ですが、往時のような存在感はない。数が集まっても、みなその数があまり意味をもたないことを知ってしまっている
 このような結果になったのは、ツイッター上の政治運動に訂正する力が宿りにくいからだと考えられます。どういうことでしょうか。
 たとえば署名活動を考えてみましょう。昔は人間が街中で物理的に署名を集めていました。署名をするときには、呼びかけ人の顔や服装を見ることになります。逆に呼びかける側も、署名者の顔や服装を観察するわけです。
 むろん、そういう情報のほとんどは忘れ去られるものです。けれども、一部は心に響いたり記憶に残ったりする。そしてそのような経験が、運動がなにかしら障害にぶつかったときに意外なかたちで役立つことがある。「ああ、こういうひとたちが署名してくれるんだ」「こういう年齢層のひとたちなんだ」「こういう服装で、こういう話しかたなんだ」といった付加情報が、運動の方向性を訂正するにあたり、とても重要なものになることがあるわけです。
 ネットの署名にはそういった付加情報がありません。自分たちの支持者がどういうひとなのか、顔が見えない。だから「じつは・・・・・・だったんだ」という訂正ができないまま、薄っぺらい動員合戦になってしまう。
 
ネットは文脈を消してしまいます。時間も消してしまいます
 
・けれども、さきほども触れたように、そのような「削ぎ落とし」は実は肝心のコンテンツをたいへん脆弱なものにするのです。コンテンツは、周りの無駄な情報と一緒に伝えないと本来の力を発揮できないものなのです。これは言説だけではなくて、映画や音楽のような文化的な体験全体にも言えることです。
 
 
・ぼくは人類学や脳科学の専門家ではありません。だからあくまでも素人の考えとして聞いてほしいのですが、「いままではこう行動していればうまくいったけれども、状況が変わってうまくいかなくなった、それならばこうしてみればどうだろう」といった、訂正のシミュレーションが意識の起源なのではないでしょうか。そして、最初は意識しながらやっていく行為も、繰り返されて訂正が必要なくなると無意識のなかに沈んでいく
 
ミハイル・バフチンというロシアの文学理論家がいます。『ドストエフスキー詩学』という有名な本を書いているのですが、そこで対話が重要だと述べています。

 ただ、それはふつうの対話ではありません。バフチンによる対話の定義がどういうものかというと、「いつでも相手の言葉に対して反論できる状況がある」ということです。バフチンの表現で言うと「最終的な言葉がない」。
 つまり、だれかが「これが最後ですね。はい、結論」と言ったときに、必ず別のだれかが「いやいやいや」と言う。そしてまた話が始まる。そのようにしてどこまでも続いていくのが対話の本質であって、別の言いかたをすると、ずっと発言の訂正が続いていく。それが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。
 
・言葉を発するとき、ぼくたちの頭のなかには抽象的な概念が確固なものとしてあるわけではありません。Aさんのなかに概念があり、それがBさんに渡されて、Bさんがそれを理解するという過程ではないのです。
 では対話で起こっていることはなにかというと、むしろ一緒に共通の語彙をつくっていく作業に近い。言葉を交わすというゲームを遊びながら、同時に言葉を使うルールを一緒につくっていくような行為なわけです。
 
クリプキの「クワス算」

 
 ぼくたちの社会は、どんなに厳密にルールを定めても、必ずそのルールを変なふうに解釈して変なことをやる人間が出てくる、そういう性質をもっています。社会を存続させようとするならば、そういう変人が現れてきたときに、なんらかのかたちでそれに対処しながらつぎに進むしかない。だから訂正する力が必要になります。
 
 
テロは認めてはいけない。しかし、いったんテロが起こってしまったら、その新たな現実に対応して社会を訂正する必要がある。これはまったく両立する話だ、というのが本書の主張なのです。
 
 

ルールがいつのまにか置き換わる
 
 
保守派の日本観とリベラル派の日本観、あるいは伝統芸能の継承者の日本観とアニメオタクの日本観では、内実は大きく異なることでしょう。
 それゆえ、じつは日本のアイデンティティを決めることができるのは、第三者の観客や審判にあたる人々でしかないのです。
 
・もちろん「じつは・・・・・・だった」は万能ではありません。その力を野放図に使うと、過去を都合よく書き換える場当たり的な人間になってしまいます歴史修正主義の問題です。
 
・過去はまちがっていた、昭和の日本とは手を切るというのもひとつの方法です。多くのひと、とくにリベラル派はそういうリセットを望んでいるように見えます。
 けれども、そこでも訂正の考えかたを取ったほうがいいのではないでしょうか。具体的には、今後の日本を見据えたうえで、未来とつながるようなかたちで「じつは日本はこういう国だった」といった物語をつくるべきだということです。
 これは歴史修正主義を推進しろということではありません。歴史とは、過去の事実を組みあわせ、物語になってはじめて成立するものです。エビデンスに反しなくても、複数の物語がありえます
 そのような作業が必要なのは、じつはいまは保守派よりもリベラル派のほうです。保守派はもともと物語をもっている。リベラル派は独自の歴史観に乏しい。
 たとえばリベラル派には、自民党の支持母体ということもあり、神道を警戒するひとが多くいます。たしかに戦前の国家神道には大きな問題があった。しかし、神道そのものについて言えば、これは日本の土着宗教、というよりも文化習慣と不可分なものであって、その価値を否定して政治的な影響力をもつのは難しい。それならば逆に、「じつは神道にはこのような歴史がある、それは保守派が想定するよりもはるかにリベラルで、私たちの未来に続いている」ぐらいの物語をつくってみたらいいのではないか
 日本のリベラル派は戦後30年弱の歴史しか参照できず、その点でたいへん弱いアメリカだと、共和党民主党も独立宣言やゲティスバーグ演説に戻る。左右問わず国家の歴史が利用可能なリソースになっています。
 日本でも同じように歴史に接するべきです。左右ともに歴史を参照して、はじめてバランスが取れる。別に天照大神神武天皇に遡れとは言いません。それでもいろいろな歴史が語れると思います。
 
 
・ただ、結局のところ、そういうリセットの試みは歴史的に見て失敗に終わっているのです。フランス革命はすべてをリセットした。宗教を排し、暦を廃し、新しい理想を打ち立てた。それが偉大だということになっていますが、実際は共和政はあっというまに崩壊し、ナポレオンの短い帝政を経たうえで王政が戻ってしまったハンナ・アーレントのように、そのような限界をきちんと見据えた思想家もいます。
 もっとわかりやすいのがソ連の失敗です。ロシア革命のリセットがいかに無効だったか、いまのロシアを見るとよくわかります。
 あれだけ長いあいだ共産主義体制が続いていたのに、それが崩壊したらあっというまにロシアの伝統的な価値観や習慣が戻ってしまったロシア正教も力を回復して、スターリンによって爆破された救世主ハリストス大聖堂は再建された。プーチンの支配がかつてのロシア帝国ツァーリを思わせるのは、偶然ではありません。
 つまりは、そもそもソ連時代においても、じつはなにもリセットされていなかったのです。共産主義無宗教を標榜しましたが、モスクワにあるレーニン廟などは宗教施設そのものです。レーニンの遺体を防腐処理して永久保存しているわけですが、背景には正教の「聖者の遺体は腐らない」という考えがある。革命以前の宗教的な、あるいは民族的な想像力がちゃっかり回帰していた。
 特定の土地で営々と続いてきた文化や慣習は、リセットしようとしてもなかなかリセ ットできるものではありません。いくらイデオロギーで表面だけ洗脳しても、家族形態 や食習慣や住居構造はなかなか変わらない。そのため、肝心なところはもとに戻ってくる。
 
社会はリセットできない。人間は合理的には動かない。だから過去の記憶を訂正しながら、だましだまし改良していくしかない。それが本書の基本的な立場です。
 
 
・このような発想は「非科学的」に見えるかもしれません。実際、訂正する力の話はとても文系的な話でもあります。
 ある理系のかたと話したとき、ベストセラーになった斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』が理解できないと言われたことがありました。主張以前に、なんでいまさらマルクスを読む必要があるのかわからないと言うのです。
 本書の読者のみなさんにも、似た疑問を抱いたことがあるひとは多いのではないかと思います。実際、文系の学者は、過去の著作を引っ張り出し、新たな視点から解釈して読みなおすといったことばかりやっている。理系ではそんなことはしません。重力を学ぶためにニュートンを読みなおす、なんてことはないわけです。
 なんで文系はそんなことをやっているのでしょうか。それは文系の学問が基本的に「じつは・・・・・・だった」の学問だからです。
 そもそも文系の学問の対象は、存在するようでいて存在しないものです。たとえば善とか美とか真とか言っても、そういう物体がどこかに存在しているわけではない。言葉のなかにしか存在しません。
 だから文系の学問は、理系のように「言葉と対象が一致すれば真実」「予測がうまくいけば真実」といった基準で学問を進めることができません
 ではどうするかといえば、そこで基準になるのが「じつは・・・・・・だった」の論理なのです。プラトンは真理という概念についてこう語った。カントはこう語った。ハイデガーはこう語った。まずはそういう歴史がある。
 そのいずれが正しいかについては、そもそも真実という観念自体が言葉のなかにしかない以上、理系的な手法で探求しても意味がありません。できるのは、そういう過去の歴史を踏まえたうえで、いまの社会状況に照らし、真理という概念をあらためて使うとすればこういう再解釈が有効なのではないか、という「訂正」の提案でしかない。そうやって未来に進みます
 つまり、文系の知とは、本質的に「訂正の知」なのです。だからぼくたちは、21世紀になっても「プラトンはじつは・・・・・・と言っていた」「マルクスはじつは・・・・・・と言っていた」といった表現をするのですね。
 
・ChatGPTには訂正ができない?
最近は文系学部不要論が盛んですが、このように考えると、文系的な知――より正確に言えば人文学的な知――にも存在意義が見えてくるはずです。
 最近、ChatGPTのような生成AIが話題になっています。なにか質問を入力すると、まるで人間のように自然な言語でそれっぽい答えを返してくれる。いろいろな議論がありますが、このような技術の出現が意味しているのは、要は人間の言語は意識がなくとも構成できるということです。
 この章のはじめに述べたように、ぼくたちは日常では自動機械のように言葉を発している。この言葉のつぎにはあの言葉を発しておけばいいだろう、という連想の連鎖で会話を展開している。たいていはそれで問題が起きない。つまり、ぼくたちのコミュニケーションはそもそもChatGPTとあまり変わらない。だからAIで置き換えることができてしまう。
 では、人間が人間であるゆえんはどこにあるかというと、それはそんな無意識の連鎖に対する「メタ意識」にあります。つまり、「あれ、違ったかな」という訂正こそが人間の人間性を支えている人間は、訂正する力をもっているので、いままで長いあいだ使われていた言葉を、その記憶を継承したまま違う意味の言葉に変えることができる。それは、ここまで述べてきたように「言葉の外」がないと不可能な行為です。ChatGPTには言葉の世界しかないので、訂正ができません
 人間は、言葉のなかだけではなく、言葉の外にも世界をもつ生物です。それゆえ、ふたつの世界の関係を調整するため、たえず言葉を訂正することを求められる
 理系の知は、「言葉の外の世界」を予測するために発達したものなので、「言葉の世界」と「言葉の外の世界」が個別の命題単位で一致することを求める。
 他方で文系の知は、基本的には「言葉の世界」にしか関わらず、理系のような命題単位での外部との一致を必要としないけれども、全体として「言葉の外の世界」とずれてくると言葉の使用そのものが意味をなくし、単なる言葉遊びになってしまうので、中心をなす重要な概念についてはときおり訂正を必要とする。そんなふうに考えればよいと思います。
 
 
反証可能性と訂正可能性
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この世界には、個別のテストが不可能で、したがって反証も不可能な命題がありますが、それらは科学の範囲に入らない。たとえば「神はいる」といった命題は、正しいかもしれないし誤っているかもしれないけれど、そもそもテストができず、したがって反証もできないので、真偽以前に科学的な主張だと考えることができないポパーはそのような基準で、科学と非科学を分けたわけです。
 
 
・サンクコストを保存する
 たとえば最近、経済学者の成田悠輔さんの「高齢者は集団自決したほうがよい」という過去の発言が発掘され、社会的な批判が集まるという事件がありました。冷たいとか非人間的だとかいろいろな論評がありましたが、ぼくはあの発言は、まさに経済学者らしい合理的なものだという印象を受けました。
 ゼロベースでいまの日本の状況を見るならば、これからさき働いてくれる若いひとを優遇すべきで、治療費が嵩むだけの高齢者には退場してもらったほうがよいというのは、当然出てくる発想です。まさにサンクコストの切り捨てです。
 けれども、では人間はそういう合理性で動くかといえば、まったく動かない。その点で成田さんの発言は非現実的で単純だとも思いました。
 実際には人間は過去を忘れません。サンクコストも切り捨てません。無駄でも高齢者を大切にします。
 そこになんの必然性があるのでしょうか。ほくはそれを問うのが文系の学問で、その答えが訂正する力だと考えています。
 理系の世界には現在の理論しかありません。過去の理論は必要ありません。同じように経済学の世界には未来の利益しかありません過去のサンクコストは切り捨てるべき対象です。
 けれども人文学の世界ではそう考えません。未来の可能性は、過去の訂正によってこそ切り開かれると考えます。だから、できるだけ多くの過去の可能性を蓄積しておくことが、未来を豊かにすることだと考えるのです。たとえば図書館はまさにそういう発想でつくられています。いま必要とされる本だけを集めていたのでは、まともな図書館になりません
 だからほくは、文系の学問はこれからも必要とされ続けると思います。人間が人間であり、過去を記憶する存在であるかぎり、理系の発想だけで社会が覆われることはありえないからです。最近は文系不要論が盛んですが、そこをしっかりと訴えればいいのだと思います。
 
 
・たとえば人間は、不毛な論争を打ち切るために、まったく関係のない身体的な行為を導入することがあります
 それはとても具体的で、身近なことです。論争で疲れたので一緒に酒を飲むとか、恋人同士であればスキンシップや性的な接触をもつとか、そういうことです。いっけんそれは言語ゲームと関係ないように思われるかもしれませんが、これもまた一種の訂正の行為です。そしてそのような接触によって、さっきまで続いていた争いがどうでもよくなるということも、またじつによく起きていることです。というよりも、人間関係の調整とは本質的にはそういうものです。はたしてそのような訂正が人工知能に可能でしょうか。
 ぼくは、そのような力をもたないかぎり、人工知能の出現は人間のあいだのコミュニケーションの根幹を揺るがさないと考えています。
 そして逆に、もしかりに人工知能が官能的な身体をもち、そのようなコミュニケーションの訂正まで可能になったとしたら、そのときはそれはもはや人間と本質的に変わらない存在になってしまい、かえって社会のありかたにも影響しないように思われます。だから、どちらにしろ、人間の問題はいまと変わらず残り続けると思うのです。
 
 
文系の学者は、知識自体を売るのではなく、お客さんがすでにもつ知識に「じつは・・・・・・だった」という発見を加え、古い知識を新しい現実に適応させる「訂正の経験」を売るのだと考えたらどうでしょう。
 TEDという有名な国際的カンファレンスがあります。さまざまな分野の専門家が短い時間でプレゼンを行うので知られています。
 ぼくはときどき、冗談として、「TEDで3分でやる話を、ゲンロンカフェでは3時間かけてやるのだ」と言うことがあります。知識を売るのであれば、時間は短ければ短いほど「タイパ」がいいという話になる。けれども、ぼくがやりたいのは知識を売ることではない。体験を売ることです。だから長い時間が必要になります
 訂正する力とは対話する力のことでもありました。長いあいだ話していると、それだけでひとはいろいろと余計なことを話します
 その余分な情報が聴衆を刺激し、それぞれの頭のなかからいろいろな連想を引きずり出すそういう経験は、人工知能社会になるこれからの時代にこそ貴重なものです
 ぼくたちは「コスパ」「タイパ」の時代に生きています。けれども、メッセージを効率よく伝えるだけではけっして到達できない、コミュニケーションを奥底から支える力があります。それこそが訂正する力であり、「じつは・・・・・・だった」の感覚であり、作家性=固有名の力なのです。そしてその力の提供は、新たなビジネスの源泉になりえます。
 
 
・交換可能性と訂正可能性
 交換可能性と訂正可能性。すべてが交換できる世界と、なにも交換できず訂正だけができる世界。どちらがよいかは簡単には言えません。
 ただ、大事なのは、人間はそのふたつの世界の往復で生きているということです。いまの世の中は、交換可能性を高めること、イコール善といった主張をするひとが多い。だめな従業員ならば解雇すればいい、いやな職場ならば辞めればいい、いやな学校ならば行かなければいい、などです。
 たしかに交換の思想はひとを自由にしてくれます。なにもかも「チェンジ」すればいいのですから。
 けれども、それだけで人生を最後まで快適にすごすことができるかといえば、やはり難しいと思います。肝心のぼくたちの身体そのものが交換できないからです。いくら周囲の環境を交換し続けたとしても、だれもが自分自身とはずっとつきあっていくしかない。自分を「チェンジ」するわけにはいかない
 言い換えれば、世の中には、交換する力だけで対応できないケースがある。そのときぼくたちを自由にしてくれるのは、訂正する力しかないのです。
 
 
大事なのは、ひとが理解しあう空間をつくることではなく、むしろ「おまえはおれを理解していない」と永遠に言いあう空間をつくることなのです。第2章で触れたバフチンの言葉を使えば、対話の空間です。
 
 
民俗学者柳田國男が『日本の祭』という本を書いています。その角川ソフィア文庫版の解説で、文芸評論家の安藤礼二さんが大事なことを指摘しています。柳田が祭りについて考えたのは、じつは、戦前の日本に急速に入り込み始めていた資本主義に対抗する、伝統的な農村の共同体原理——「組合」の原理——について考えるためだったというのです。
 日本において、祭りは、単なる娯楽でもなければ、また宗教儀式でもない、ひととひとを結びつけるアイデンティティの確認の手段として発達してきました。
いささか飛躍するようですが、この意味において、ぼくは、祭りというのもまた、訂正する力が発揮される場だと言えるのではないかと考えています。祭りに参加することで、ぼくたちは、「この村(共同体)はじつは・・・・・・だった」と過去を再発見し、現在につなぐかたちで集団的記憶を訂正するという営みを行っているのではないか。だから祭りがある共同体は強いのではないか
 唐突な例ですが、『名探偵コナン』というアニメシリーズがあります。青山剛昌さんの人気マンガが原作で、だいたい毎年4月に劇場版の長編が公開されています。2023年の作品で36作目のようです。
 この映画が最近は毎回大ヒットとなっています。理由のひとつとして、毎年春、桜に近い季節に新作が公開されるということがあるのではないでしょうか。それは年に1回の祭りのようなものです。観客は映画を観に行っているのではなく、じつは祭りに足を 運んでいる。
 『名探偵コナン』の原作マンガの連載開始は1994年。当時の小学生はアラフォーになっています。最近は2世代で行く観客も多い。そのうち3世代で鑑賞というスタイルも現れるでしょう。おばあちゃんとお母さんと子どもの3人が一緒に行く。そういう機会をコンテンツ産業が提供し始めています。
 
丸山眞男は、「歴史意識の『古層』」という有名な論文で、日本文化を特徴づける言葉として「つぎつぎになりゆくいきほひ」というフレーズを提案しています。
簡単に説明すると、「つぎつぎ」は継続性、「なりゆく」は生成性、そして「いきほひ」は空気を指しますものごとがなんとなく自然と生まれてつながっていく。そういう発想が日本の思想や政治を動かしてきたと言うのです。
 
 
日本哲学のジレンマ
 日本でも、京都学派のひとたちはハイデガーがとても好きでした(ここではハイデガーの前期と後期の差異には立ち入りません)。京都学派とは、戦前、京都大学を中心に集まった思想家たちのグループです。東西文化の融合を目指しただけではなく、日本がその役割を積極的に担うべきだとして、「大東亜戦争」を思想的に肯定したことでも知られます。
 彼らがハイデガーに近づいた理由はよくわかります。彼らはハイデガーに「日本的なもの」を見たのだと思います。ヨーロッパの哲学を勉強していると、ときどき日本の思想が逆に最先端に見えるという逆転が起こります。日本のほうがさきに「主体なんて存在しない。生成するだけだ」と言っていたじゃないか、というわけです。そういう思想はヨーロッパでは過去の哲学の批判になるのですが、日本だと逆に働いて、単なる自己肯定になり国家主義などと結びつくというジレンマがある。
 戦後の日本哲学はこのジレンマのなかで動けなくなりました。ヨーロッパ哲学だけ学んでいてもしかたない。とはいえ日本の伝統を加えてオリジナルなことをやろうとすると、京都学派の轍を踏む可能性がある。
 そこでぼくは「訂正する」という考えかたを導入したい。訂正するとは、これまでも言ってきたように、とりあえずはいまの状況を受け入れるということです。過去を受け入れて、それを守っていく。
 けれども、よく見ると過去を守る行為には必ずズレが生じる。同じゲームをプレイしているつもりでも、ルールがいつのまにか変わっていく。しかし、どう変わっているかは当事者にもわからない。伝統を受け継ぐとはイコール伝統を変えるということだし、ゲームに参加するとはイコール規則に違反もしてしまうということで、そのルール違反がまたゲームを豊かに変えていったりもする
 こういう考えかたを取ることによって、「つぎつぎになりゆくいきほひ」の支配も前向きに再解釈することができるのではないか。単に過去の無責任に居なおるのでもなく、他方で過去を全否定するのでもない、第三の道が開けていくのではないか。「つぎつぎになりゆくいきほひ」の国だからこそ、過去を訂正しつつ、ゆっくりとまえに進んでいくことが大事だと考えればいいのではないか。
 言うなれば、「つぎつぎになりゆくいきほひを、リベラルな観点から捉えなおしてみてはどうかというのが、この章の提案です。
 
 
・このところLGBTの話題が盛んです。しかしそこでの議論は不必要に混乱している。
 2023年6月にはLGBT理解増進法が可決されました。左派は規定が不十分だと批判しています。他方で右派は法律そのものが必要ないと反発している。彼らのなかには、「キリスト教文化圏のほうがよほど性的マイノリティを差別していた。日本にはそんな差別はなかった」と主張するひともいます。
 これは不毛な対立です。たしかに日本には性的マイノリティを受け入れる一定の伝統があったでしょう。それをすべて差別と呼ぶのはしっくりこない。とはいえ現在の基準でマイノリティの人権が十分に認められていたかといったら、それも違う。
 多様性はゼロかイチかの選択ではありません。結局のところ、それぞれの国の文化のなかで、伝統も残しながら、それをどうアップデートして未来につなげていくかという発想で進めるしかない
 ところが日本では、それがすぐに、ゼロかイチか、過去を否定するか肯定するか、リセットするかなにも変えないかの対立の議論になってしまう。少しでも動こうとすると両方の勢力から批判される。そういう風土を変えなければなりません。
 
ウクライナ戦争では、SNSが活用され、個人の死や人権侵害がじかに世界中に発信されるようになりました。その結果、かえって平和を達成するのが難しくなったというのです。平和とは国家間の政治的な妥協でしかありえませんが、いまは多くの関係する個人が納得しないと妥協ができないからです。
 
 
司馬史観
明治の日本はよかったが、昭和に入ってだめになった」という歴史観です。
 なぜそんな竜馬のイメージがここまで広がったのかということです。
 ぼくが推測するに、それは昭和の人々が、そこに彼ら自身の理想像を見出したからではないでしょうか。司馬が描いた竜馬は商人でもありました。海援隊を結成して物資を運び、貿易で利益を出して敵対勢力を結びつけ、平和を築いていく。それはまさに、武力を放棄し、経済力による平和の達成を夢見た戦後の理想に一致します。
 司馬は、そういう人々の無意識を敏感に感じ取り、起源を維新の志士に求めるというアクロバットをやってのけたのではないか。竜馬がいることで、戦後日本の商業国家路線は、じつは明治維新のときに可能性として胚胎していたものだという歴史がつくられる。占領軍に押しつけられたものではなくなる。
 その歴史は幻想ですが、単純に非難されるべきものではありません。司馬はそのような作業を通して、近代日本の自画像そのものをアップデートしようとしたのです。本書で言う訂正です。それはまさに昭和の日本人が必要としていたことでした。
 
・でもそんなことを言い出したら、哲学者はみな特定の時代の特定の言語の著作しか参照できないということになって、哲学という学問そのものが消滅してしまいますだからもうわからないと割り切ってやるしかない。もちろん、専門家の著作と矛盾しないかたちで自分の解釈をつくるということには気をつけます。それでも結局は「自由に読む」ということでしかありません。
 そのとき最終的に基準になるのは、過去の著作と現在の状況をどうつなげていくのかという問題でしかない。この視点がないと、哲学者の読みは本当に恣意的で自分勝手なものになってしまいますから。
 でもそれはなんの客観性を保証するものでもない。それは覚悟してやるしかない。私たちは訂正を通してしか過去を把握できないのです。
 
・そもそも明治維新が歴史を訂正した例だと考えられます。
 明治維新はリセットではありません。王政復古なのですから。しかし単なる復古でもない。攘夷はいつのまにか開国になった。過去の全否定でもなければ全肯定でもない、第三の道を歩んで成功を収めたのが明治維新なのです。
 なぜそんなことができたのか。当時の日本の最大の課題は、近代化を成し遂げ、植民地化を回避することでした。けれどもその目的をそのまま打ち出すと保守派から反発される。そこでもち出されたのが「天皇の時代への回帰」という一種のフィクションだったわけです。
 
・敗戦後に日本国憲法が制定された際、天皇は以前の「統治権の総攬者」から「国民統合の象徴」へ位置づけを変えられました。これは伝統が断ち切られたかのように思えます。
 ところが哲学者の和辻哲郎はそうは単純に考えませんでした。彼は1948年に『国民統合の象徴』という本を出版して、日本では天皇はもともと権力者というよりも権威であり、象徴だったという議論を展開しています。むしろ、天皇が実際に権力者になった明治時代の体制のほうがイレギュラーだったと言うのです。
 和辻のこの主張は明治の訂正の逆転と言えます。明治維新では、天皇親政の古代こそが日本の本体だと考えられた。和辻はそれを反転させ、天皇が実権をもっていなかった時期こそが本体だと主張しているのですから。
 
・かつて左派は天皇制廃止を訴えていました。ところが平成が進むにつれて国民の天皇制への感情は大きく変わり、いまでは左派で天皇制廃止を訴えるひとはほとんどいません。
 それどころか、平成末期には、天皇のほうが政権よりもリベラルなので、むしろ安倍政権の暴走を天皇に止めてもらおうなどと言い出す言論人さえ現れました。しかしそれならば、リベラル派から見た天皇論をきちんと展開するべきです。それは「日本」というアイデンティティをどう捉えるかということでもある。そのような議論を避けているかぎり、リベラル派が広く市民の支持を集めることは難しいでしょう。
 
・民主主義の本質は、人民が欲するとおりに国を動かすということであって、その意味ではじつに怖い思想です。ポピュリズムに直結しているし、人民の意志を代表するのが特定の党や独裁者ということになれば全体主義ファシズムを生み出すことにもなる。実際、ナチに協力したことで知られるドイツの法学者、カール・シュミットは、まさに民主主義の名のもとに独裁を肯定しています。
 
 
・幻想は現実逃避ではない、現実を支えるために必要なときがある、その幻想をつくるのが訂正する力だという話でした。
 実際、戦後の平和主義は一種の方便でした。武力の放棄を約束することで国際社会への復帰を達成する。そして経済成長に集中する。でも現実はアメリカの核の傘に守られている。いいか悪いかはともかく、そのことは右も左もわかっていた。そのリアリズムを支えたのが戦争の記憶だった。ところが1980年代ぐらいから、平和と護憲さえ唱えていればよいという若い世代が現れてきます。
 そのあたりから議論が硬直してきた。保守派はそんな左派に反発して「自虐史観」と言い出した。他方でリベラル派もその動きに対抗し、ますます頑なになっていった。いまでは憲法9条は左派の聖典のようになっていますが、「九条の会」ができたのはじつは21世紀に入ってのことです。1990年代までは、リベラル側からも改憲の議論がありました。自衛隊が現実に存在するのだから、ある意味で当然です。
 結果として、いまの日本では政治的な議論が異様に抽象的になっています。戦争責任にしても、日本は絶対悪で永遠に謝るべきだという左派と、日本は悪くないという右派の対立になっている。
 現実的に考えればどちらかというのはありえなくて、日本はひどいことをやったのだからそこは謝るべきだけど、あまりにも謝罪相手が無理な要求を掲げてくるならば撥ね除けるべきだという話にしかならない。でもそういう議論ができない
 
 
 
明治維新から敗戦まで77年、そして敗戦から今年(2023年)までは78年です。明治日本は、近代化を達成するために天皇親政という物語(国体)をつくった。それはある時期までは柔軟に運用されていたが、時代を経ることで硬直化し戦争に突入してしまった。
 同じように、戦後日本は、経済復興や国際復帰を達成するために平和国家という物語をつくった。これもある時期までは柔軟に運用されていたが、いまはすっかり硬直化している。そんなふうに整理できるでしょう。
 
 
・平和とは政治の欠如などと言ったら、また識者のみなさんに怒られそうです(この本では怒られてばかりですが)。左派の理論家のなかには、人間の行為のすべてが政治的だと言いたがるひともいます。個人的なものこそ政治的だ、というのは学生運動フェミニズムのスローガンでした。
 言いたいことはわかるのですが、かといってなにもかも政治だというのは政治という言葉を拡大解釈しすぎだと思います。あらゆる行為が政治であるならば、逆に政治という言葉の意味が消えてしまう
 
 
作為的に自然をつくる
 平和は政治の欠如ですが、その政治の欠如そのものは政治にしかつくれません平和をつくるのはむろん政治です。でもいったん平和になってしまえば、政治は見えないものにならねばならない。そして政治が見えないあいだだけが平和になる。だから平和における政治の欠如は、単なる欠如=無秩序のことではありません戦争と平和、政治と非政治、作為と自然、現実と幻想といったもろもろの対立を超え、「自然を作為する」という第三の立場に立たないと、本当の平和はつくれないのです。
 
 
ルソーはなぜ日本で人気があるのでしょうか。ぼくはじつはその理由が、いま述べた「自然を作為する」という逆説にあるのではないかと考えています。
 日本は「つぎつぎになりゆくいきほひ」の国です。だから、作品を作品として提示せず、「なんとなくできあがった」ものとして作為性を隠して提示する美学が発達しています。つまり「自然を作為する」の美学が発達しているのですが、ルソーはじつはまさにその逆説の美学を追求した作家だったのです。
 
 
日本は極端なものを共存させている国です。それは思想だけの話ではありません。たとえば日本の「美」といってもふたつの傾向がある。一方には、ブルーノ・タウトが好んだような、すごくスタイリッシュな、モダニズムに通じるミニマルな美学がある。建築家やファッションデザイナーはこちらが好きです。しかし他方で、歌舞伎からオタクやアイドル文化に至るような、カラフルでキッチュな美学も強い。そして両者が自由自在に使い分けられている
 これはいわゆる多様性とは違うのかもしれません。とはいえ、そこにもなんらかの可能性がある。それを思想的に展開すれば、すべてを「友」と「敵」に二分し、極論ばかりが戦いあう21世紀の世界に対して、ぼくたちは極論を共存させることに成功してきた、という前向きのメッセージを発することができるかもしれない。
 
・本書は「訂正する力」を主題にしています。訂正する力とは「考える力」ということでもあります。本書は、なによりもみなさんに「考えるひと」になってもらいたいと思って書いています。
 けれども、いまはそのような本は好まれません。市場を席巻しているのは「考えない」方法を説く言葉ばかりです。だから読者が見えないのです。
 考えるとはとてもふしぎな行為です。考えたからいいことがあるとはかぎらない。むしろ考えると動けなくなる。まえに進めなくなる。それでも考えることは大事なはずだと本書では言い続けてきましたが、正直言ってそれが本当だという確信もありませんだって、世界には、なにも考えずに大成功しているひとがいくらでもいます。そっちのほうがどう考えてもよさそうです。
 それでも、ぼくはなぜか、いまの世界には考えるひとがあまりにも少なく、それはまずいと感じてしまった。みなが「考えないで成功する」ための方法ばかりを求める国は、いつか破滅すると感じてしまった。そう危機感を抱いたこともまた、本書執筆のきっかけのひとつです