読んだ。(見た) #お水取り 入江泰吉作品集 #入江泰吉 #三彩社

読んだ。(見た) #お水取り 入江泰吉作品集 #入江泰吉 #三彩社
 
入江泰吉さんが1967(昭和42)年頃に撮影した修二会の写真が92ページまで、
そこからお坊さんや識者の方達による修二会の説明、スケジュール、お経などについてのくわしい説明が142ページまで、
さらに9人の方達の「お水取り拝観記」など、183ページまである。
 
1969(昭和44)年に発行された33.5×26.5cmの大型本。
奥付に廉価版、定価8000円と書いてあるが、かなりしっかりつくられている印象。
 
写真はカラーとモノクロ半々くらいだが、サイズが大きく、準備から儀式の終わりまで、その場の空気感、臨場感が感じられる。
 
テキストのパートはかなり読みごたえがあり、おもしろかった。
「お水取り拝観記」では、それぞれの視点からお水取りへの思いが書かれていて、55年前の当時の雰囲気も感じられてよかった。
 
テキストパートを読んだ後で、もう一度写真を見なおすと、語られていたあれこれのシーンが押さえられていて、写真のよさ、おもしろさが倍増していた。
 
#国立国会図書館デジタルコレクション にもあった(内容を見るのはログインが必要かも)↓
 
 
>「お水取り」として知られている東大寺の修二会は、十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)だが、8世紀半ばからの悔過作法だけでなくその後に古密教神道修験道民間習俗や外来の要素まで加えて大規模で多面的なものとして行われている。その本行は、かつては旧暦2月1日から15日まで行われてきたが、今日では新暦の3月1日から14日までの2週間行われる。二月堂の本尊十一面観音に、練行衆と呼ばれる精進潔斎した行者がみずからの過去の罪障を懺悔し、その功徳により興隆仏法、天下泰安、万民豊楽、五穀豊穣などを祈る法要行事が主体である。
 
>伝説では、『二月堂縁起絵巻』(天文14年1545年)によると、天平勝宝3年(751)東大寺の開山、良弁の弟子の実忠笠置山で修行中に、竜穴を見つけ入ると、天人の住む天界(兜率天)に至り、そこにある常念観音院で天人たちが十一面観音の悔過を行ずるのを見て、これを下界でも行いたいと願った。しかし兜率天の一日は人間界の四百年にあたるので到底追いつかないと天人の1人に言われた。それで、少しでも兜率天のペースに合わせようと走って行を行うと念願したという。
 
・修二会は天平勝宝4年(752年)から現在まで1270年続いている「不退の行法」
 
鎌倉時代に集慶という僧が過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女の幽霊が現れ、「など我が名をば過去帳には読み落としたるぞ」と言った。なぜ私の名前を読まなかったのかと尋ねたのである。集慶が声をひそめて「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と読み上げると女は満足したように消えていった。いまでも、「青衣の女人」を読み上げるときには声をひそめるのが習わしである。
 
・その日の全ての行法を終えて参籠宿所に戻るときには「ちょうず、ちょうず」と声を掛け合いながら石段を駆け下りる。「ちょうず」とは手洗い、トイレのことである。ある時、行法を終えて帰ると、烏天狗たちがやってきて行法のまねをして火を弄んで危険だったことがわかったので、ちょっと手洗いにゆくのだと思わせるためにこういうのだそうである
 
 
 
お水取りに就いて 橋本聖準/p95
十一面観音悔過 筒井寛秀/p97
二月堂声明 筒井寛秀編/p105
修二会日記 筒井寛秀/p119
 
火と水の祭典 笹谷良造/p135
 
 春を呼ぶ水
 
 古代の農村の、ほの暗く、火の気の乏しい冬の生活は、まことにきびしいものであった。こういう冬籠りの続いた後の春の訪れは、どれほど 待ち遠しかったか、今の我々には想像にあまりある。蚕がまゆに籠り、稲の実が俵につめられている間に盛んに増殖して、発芽の力を蓄える、これが殖(フ)ユー古代語ではミタマノフユーで、冬という語もこれから出ている。
 古くシナから暦術が入って暦は正確になったが、必然的に日本の気候とはずれがあり、混乱が生じた。旧暦の正月にしても、立春にしても、少しく早過ぎる嫌いがある。千数百年前か、二千年前か、日本の暦法がやや整うて正月が立春の前後となったが、冬と春との交替は地方によって異なり、年の始めは必ずしも全国同じではなかった。あるいは旧暦の二月―今の三月頃―ではなかったかと思われる。正月を古くムツキと呼んだのは恐らく忌(イ)ム月(ツキ)―モノイミ月―の意であり、二月をキサラギというのは、春が来、冬が去ルーすなわち春と冬との交替を意味したものかと私は思う。このフユが終った後が晴(ハレ)・春(ハル)で、身も心も若返って新しい春を迎える。この時、古代人が理想の国と考えた常世(トコヨ)から春を知らせる新しい水が来着する。それが若水で、古代語ではヲチミヅと言った。ヲツという語は若返ルことをさしていた
 元正天皇養老元年(七一七年)九月に美濃国行幸、十一月に多芸郡の多度山の美泉でミソギをせられた(続日本紀巻七)。そうしてこれを浴飲すれば、白髪を黒くなり、眼病もなおる他、一切の病気は平癒する、と激賞していられる。随行した大伴東人も、
 古ゆ 人の言ひ来る老い人の変若(ヲツ)といふ水ぞ 名に負滝つ瀬(万六の一〇三四)
と詠んでいる。
 古昔、北陸の若狭脊一帯はこの若水(ヲチミヅ)の来寄せる地域として信ぜられ、宮廷では殊のほか重視していられた。神功皇后は、皇太子(後の応仁天皇)が早く天皇としての聖格を得るのを望まれたためか、越前の気比(ケヒ)に行かしめられた。
 建内宿祢、その太子を率てまつりて、禊せむとして、淡海(アフミ)また若狭国を経し時に、越前の角鹿(ツヌガ)の仮宮を作りて坐せ奉りき(記)。
皇后は太子が帰られると、大いに酒宴を設けて祝福し、名高い酒祝(サカホガミ)の歌を作られたことが記にも紀にも見えている。宮廷御料の塩も、この地のものに限って使用するしきたりであった。武烈紀を見ると、平群真鳥(へぐりのまとり)が謀饭して除せられるに当り、「広く塩をさして詛(ノロ)」うた。
 呪う時に、唯角賀の塩を忘れて詛はず。是によりて角賀のは天皇所食(ヲシモノ)となり、余(アダ)し海の塩は天皇の忌み給所となる。
とある。平群真鳥は海人部出自であったから、多分製塩のことに関与していて、世を怨んでこんなことをしたのであろうが、その力をもってしても宮廷所用の塩にまでは及ばなかったことを言ったものと思われる。史実であると否とは別としても、少くとも宮廷では若狭の塩が用いられていたことは疑いない。
 若狭の海岸には古くからニフ・ヲニフなどの地名が散在しているが、ニフーそれに指小辞の小(ヲ)のついた小丹生(ソニフ)は、ミソギを行なう聖地で、このニフは水産(ミウ)ブ、すなわち聖水によって復活することであった。それに関与する宮廷所属の部曲が壬生部(ミブベ)であり、直接に天子のミソギに奉仕する女性が命婦(水産(ミウ)ブ)である。禊は明らかに水注(ミソソ)ぎだから、水産(ミウ)ブから出たミブ・ニフと同義である。そうして禊に奉仕する「水の女」の神格化したのが遠敷(ヲニフ)明神で、この聖水信仰が民間に沈潜して伝説化・俗信化したのが若狭の八百比丘尼である。八百年は永久を意味し、結論的には不老不死ということになる。室町時代にはこの地方の巫女が勝手にその名を潜称して、京都まで出て来て活躍した様子が康富記など、その当時の記録類に見えている。
 年の初めに聖水の海岸に打ち寄せるのが原初的な信仰であったが、村々が河岸から次第に内陸に入り込み、山麓に居を占めるに至ると、川上から流れ降るとか、地底を通じて井戸や池などに初出するという風に発展した。大和の国には、底が龍宮に通じるという伝説のある井戸があちこちに散在しているし、猿沢池にもそういう伝えが残っている。古いものでは、三輪山麓の狭井(神社)も出雲国風土記に何ヶ所かある狭井神社と一進のもので、宮廷内の座摩(ヰスカリ)の巫(カムナギ)の管掌した三つの井戸も、難波の海岸の座摩(後の座摩神社)と地底を通じて結ばれていたのであろう。二月堂の若狭井は東大寺創建より遥か以前からこの地にあり、湧泉信仰が山麓の村人の間に根深くしみついていたに違いない
 「お水取り」は、今では三月十二日(正確には十三日)の夜の二時頃行なわれる。後夜の動行を終えた僧の一行が若狭井の前に降りると、呪師という役の僧が閼伽井屋に入り、香水一荷に水を汲んで堂に運ぶ、これを三回繰り返す。この若狭井の水はこの日だけ湧くと伝えられているものだが、勿論、真闇で内部はどうなっているか、一切秘せられていてわからぬ。昭和三十六年九月の第二室戸台風で良弁杉が倒れ、この閼伽井屋は押し潰された。その時に行けば中を見られたか知らぬが、私はわざと行かなかった。秘密になっている信仰の対象は、学問のためとは言っても、みだりに暴くものではない――こうして汲み上げられた水は、二月堂に運び、壺に移して一年間使用する。この水は長く変質することはないと言われている。
 西鶴の「諸国咄」(巻二)に出ている「水筋のぬけ道」は、多分に伝奇小説化したものではあるが、「若狭の水」の古代信仰がこんな形で伝承せられて来たことを示すよい例として付加しておこう。曰く、
若狭国の小浜に魚の網を売る店があり、その主人の伝助は美しい女中を使っていた。この女が出入りの庄吉という男と仲がよくなったのを、伝助の女房が嫉妬して焼火箸で女の頬を焼いたので、女は悲しんで若狭の海に投身した。時は正保元年二月九日。話が変って、大和の秋篠村で、百姓が用水井戸を掘っていたら、盛んに水が溢れ出た。翌日、水が収まった頃、十八、九の女の屍体が出て来た。折しも二月堂の行法を見に来た旅人が通りかかってこの女を見て、これは郷里の網屋の女中だといったので「奈良の都へ若狭より水の通りありと伝へしが、これは不思議」と一同は驚歎、旅人は国へ帰って主人の伝助に告げたので、哀れに思って秋篠を訪ねて弔った。夜に入って寝ようとすると、燃え上る火の車が現われ、その上で女房と自殺した女中とが載っていて争い、女中が焼金を女房に当てて、これで思いを晴らしたと言って消えた。同じ時刻に、若狭では一声を挙げて女房が死んだ。
この女中は霊の零落したもので、極めて微かながら、小丹生明神の面影を残している。
 
 モノイミの生活
 古代では、不断・平常の生活をケ(褻)と呼び、婚礼や田植などを含めた広い意味での祭礼時をハレと言ったが、この二種の他にもう一つ、モノイミの期間があった。これは、ハレを前にして身も心も清らかになるための精進期で、これの仏教理論と結びついたのが懺悔(ざんげ)である。つまり今までの心の罪障をきれいさっぱりと拭い去るのであった。これにはある種の食物を断ったり、男女別居したり、面白いのは、祭の前には、村中一切音をたてぬことにしている所が京都府の南部にある。仏寺では肉食・妻帯せぬのが以前のきまりであったから、勢い、火を別にすることによってできるだけ、ケ、すなわち日常生活と異なることを強調する要がある。二月堂の修二会が別火を殊のほか重視する理由であった。
 古代ではこのモノイミの期間は長く、また戒律も厳重であった。神に仕える人達の中には、生涯モノイミを続ける人もいた。平安朝の貴族の日記類を見ても、数ヶ月の長いモノイミをしたことが屢々(しばしば)見えている。しかし、世が進むにつれて、神職・僧侶のごときはいさ知らず、たとえそういう専門職でさえも長い籠居生活を持することは困難となり、三年一年は愚か、半年が一ヶ月に、更に三七二十一日となり、更に十四日・七日と短相せられ、もう今では単に口を漱ぎ手を洗い、お払ヒを受けるだけの、ほんの形ばかりのものとなった。祭礼は華やかになっても、却ってその前提条件たるモノイミの方は簡略になる一方である。現に肝腎の神官でさえも、禊斎は前日に湯に入るだけになっている場合が多い。この点で、東大寺の修二会の参籠は、古式が今なお守られている極めて珍しい例だと言うことができよう。
 修二会の参籠は、今では新暦の二月二十日から始まる。この期間を三つに分けて見ると、初めの四日間は試別火で、明治の初め頃までは自坊で行なっていたが、肉食妻帯が許されるようになった現在では、別火坊(現在は戒壇院を使用)で行なうことになった。試別火が済んで参籠者一同一練行衆―は一つに集まって総別火に入る。今ではそのまま、戒壇院を使うのだから、愈々勢揃いして「行に入る」という意識は薄らいでいることであろう。この第二段階の籠居生活は三日間だから、結局、二月二十八日(閏年は二十九日)に終ることになり、三月一日から本格的な参籠となり、これが二七日、すなわち十四日間続くのである。
 修二会の生活と不断凡俗の生活との顕著な相違は火を別にすることである。従って火については取扱いが極めて厳重で、たとえ試別火の間に許されて自坊に帰ることはあっても、湯茶も口にせず、火に当ることもできぬ。また総別火に入って俗人が別火坊を訪れ、面接を許されても、火鉢は別、煙の火も練行衆のものとは別で、試別火の始まる二十一日に鑽り出された新しい火を用いる。また上堂後の飲食・入浴・燈火など、行法中に使用する火は、悉く二月堂に燈された消えずの火から移されたものである。この火は、毎年、三月一日午前一時頃打ち出される聖火で、一徳火と呼ばれている。
 
 十二本の棒
 参籠所は二月堂の下にあり、細殿(屋損のある石の階段)によって二月堂と結ばれている。この建物は四室(他に仲間(チュウゲン)の入る三つの小部屋)に分れ、十一人の練行衆は二名乃至四名に分れて分宿し、二七十四日までここで暮らす。その間、二月堂・湯屋などへの往復以外、所用があっても外出はできぬ。毎日少しずつ諸作法が異なるが、行法は正午から翌朝にかけて徹夜で行なわれる。まず正午に食堂に入って昼食(正式の食事は毎日一回)、その後、六時(六回)の作法が続き、午前三時乃至四時頃終了。それから、正午まで就寝と休憩とがあって一日の日程が終る。
 毎日、日中・日役の行法が終って参籠所に降り、少しく仮眠を取って入浴を済ませてから、一同は初夜の勤行のために上堂する。この時、呪師だけは準備のために先に上堂しているから、結局十人の練行索が、童子のかつぐ各々一本ずつの大きな松明に先導せられる。この松明には長さ四間位、重さ十五貫位の太い竹の先に杉の枝葉を束にしたものを付けてあり、それに点火して細殿の石の階級を上る。練行衆はそのまま二月堂に入るが、松明だけは更に二月堂の舞台から突き出して南の欄干の上を移行させる。盛んに燃え上る火の玉が赤々と夜空に回転する様は、まことに壮観、世上に名高い十二日の籠松明とさして変りはないのだが、十二日のものが有名になり過ぎて、この毎夕持ち出される杉の葉の大松明の方は見逃されている。
 この毎晩の大松明は、正式には十二本(閏年は十三本)であるべきである。今は、練行衆は十一人と定ってしまったが、古い記録には十七、八あったと見えているから、上堂する僧は必ずや十二人(閏年は十三人、以下閏年の事は省略)であったに違いない。また、この参籠期間は、上七日・下七日の二つに区分せられ、練行衆も交替したと言うから、実際に別火坊の参籠に加わる僧たちは三十人近い多数で、病気や近親に死者が出て下りる場合が起きても、現在のように欠員のままで行を続けねばならぬことはなかったであろう。
 ここで考えねばならぬのは、その十二という数は何であったかということだ。古代人にとっては、その年の作物の豊凶や運不運などは、生活の根底をなす重大事であったから、予めこれを知ろうとする熱意は真剣そのものであった。これが年占であり、初春に権威ある神を迎えて神意を問うた。この神の意志が端的に言葉で言い表わされることもあったが、多くは物によって示された。その最も典型的なものはクシ(クジビキやオミクジはその例)のごとき棒状のものであったが、後には次第に種々なる手段方法が案出せられ、いろいろな形式が分化した。今ここにはその顕著な例として、大和の宇陀郡野依の白山神社で行なわれている豆占を挙げてみよう。
 節分の夜の十二時、当屋が社務所の火鉢に鉄板を置いて、その上に、平年は豆を十二、閏年は十三個を載せて焼き、その焼け方によって、月々の日照の多少を占い、半紙二枚位の大きさの紙に書き付けて張って置く。これなども、節分が年越シと呼ばれているように、元は旧正月一日の前後に節分があったからで、やはり初春の年占行事であった。このマメヤキはこの付近の村々ではあちこちで行なわれていたが、今では退化している。

 
 この一年十二ヶ月の、月々の晴雨・豊凶をオミクジのような十二本の棒によって判断しようとした古代の原始的な民俗が、種々なる形式で全国至る所に残存している。元は十二本であったらしい二月堂の籠松明もその一つだが、余りに変り方がひどくて、もう古代的意義をたどり難くなっているが、他の多くの民俗行事と比較すると、この点を明らかにすることができる。例えば、京の祇園神社では元旦の早朝、十二本の削り掛を建てて火を付け、煙が西へ靡けば丹波の不作、東へ向えば近江方の凶作として、参詣の群衆が東西に分れ、相手方の国の名を唱えて大騒ぎをしたということが江戸時代の記録に見えている。
 門松は神の依代であり、それを初春に山から家に迎え、十二本のクシによって神意占い、月々の運勢などを知ろうと試みた素朴な方法は、もう修二会では全く退化しているが、形式だけはいろんな形で残っている。そのクシがト占のためのものであり、更にその源は山人のもたらすミカマギ(※御薪)であったことも忘れられて、今では門松の根締めの棒にまで変化してしまった。民俗はこんなふうに変貌・残存するものなのである。
 
 籠松明
 樹木は神の依代であった。サカキ・スギ・ツバキ・ナギなど、神によって、村によって、用いる木は異なっていたが、近来は松が優位するに至った。神霊の宿った松を山から迎え、庭に立て、正月祭をする、これが門松であり、床の間の若松だが、古代では家毎に行なわず、村で共同に迎えて来る方が多かったし、また、山のかなたに神の世界があり、神祭りに専念する山人が住み、初春に神を奉じ、時には神の資格で村々を訪れることもあった。この山の神人は、村人の気遣う一年の豊凶を標示すると共に、もしも凶と出た場合は、持っていた杖―玉鉾(タマホコ)―で宣り直しを行なった。だからこの杖が凶作・不幸・天災を折伏する呪力があると考えられるに至った。こういうホコによって予報を受けることがホコナヒーヲコナヒーであった。今に正月行事をオコナイと言っている所は大和でもあちこちにある。神道は、それの神学化したもので、鿆は災を去って吉事(ヨゴト)をもたらす方術だから、その根元は単に穢を追放する呪術ではなく、吉事鿆であった。
 三輪山の北に連なる巻向・穴師の山麓は、山人が春のコトホギに降って来る聖地であった。山人はその表象としてヒカゲノカヅラで頭部を包んでいた。宮廷の神楽歌に、
 巻向の穴師の山の山人と 人も見るかに山葛(カズラ)せよ
というのがあるが、これは祝福に来た山人の舞が宮廷の神楽に取り込まれたものである。古い神楽歌には山人の持つ杖を飲んだものが幾つかあるが、杖はこの山人たる資格を示す大切な用具であったからである。
 この杖は、遥々と違い所から衝いて来たという表示として、その先端をそそげさせてあった。元はわざわざそそげたわけでもなかろうが、神聖視して永年使用したから、自らこうなったのであろう。これが次第に象徴化し、更に装飾化して削り掛となった。修二会は明らかに初春の予祝行事であり、十二本の大松明は山人の十二本の年占のホコの巨大化したもので、恐らくお水取りが第十二日の悔過(ケカ)のすんだ直後――言い替えると、一年は十二ヶ月の祝福が終った後――に行なわれる理由だと私は考える。

 

 この山人の杖の象徴化した削り掛は、お水取りの直前に若狭井に懸けられる「ハチノス」を初め、ダッタン松明の飾りや、火を移すッケタケなど、色々の用具となって、この行法の細部に行き渡っている。参道に張られる占縄にさえ、ほんの形式だが、紙切で作ったものがついている。
 山人が初春に家々を訪れたあと、この家の祝福せられている印として、削り掛を入口に掛けて行った。「守貞漫稿」(嘉永六年)を見ると、江戸の市中の家々の入口に釣るす削り掛と武家の門の両柱に寄せて建てるミカマギの図とが出ている。解説に曰く、「柳の木を以て之を製す、上は箸の如く、下は図の如く細く削り掛けたり。小なる物、長さ二、三寸、大は尺余もあり。(中略)門戸正中の上に釣る。又、同日、江戸武邸門の両柱に、割薪に図の如く墨をひきて建てるなり。名づけてミカマギと云ふ。御竈木なり。閏月ある年は墨を十三本引くなり。江戸も御竈木武家のみ」とある。この江戸の削り掛と殆ど同じものがハチノスである。修二会のものは紙製、形が蜂の巣に似ているのでこんな名がついているが、これが十二日夜、練行衆がお水取りに若狭井に下る直前、閼伽井屋の入口に掛けられるのである。この形は江戸の市中のものと同形で、明らかに山人の杖の象徴化したものであり、群行して訪れた神が印として残したものであった。
 
 ダッタン
 三輪明神繞道祭(にょうどうさい)は、大晦日の深夜二時、正確には年が明けると共に行なわれる。二丈を越える大・中の四本の松明と、その他幾本かの松明が新に鑚り出された新しい火で一斉に点火せられ、根原のもの一本を現して、大・中の松明は宝前を出て神社周辺の十八の摂末社を巡行、神火によって旧年の一切の穢れを焼き清める。この神前に残された大松明の火を貰い受けて、家々の雑煮を煮る火とするのは、この付近の村々の正月の習慣となっているが、雑煮ばかりではなく、古くは一年間絶やすことなく使用したのであろう。
 この一ッ火には穢れを焼き払い、健康・幸福・豊産をもたらす呪力を宿していたが、この聖なる火に対して、人間界には火事・雷火・火山などの災いの火があって、突然に起る。このよからぬ方の火は、地上・地下・天空にいる悪霊どもの起こす火だから、前もって年の始めに彼等の跳梁を防ぎ、少くも一年間は荒ぶることがないように誓約せしめる要がある。修二会の十二日目の真夜、オタイマツの聖火によって人々の穢れを払ったあと、神の世界から湧出する若水を汲み上げ、水天がその水の呪力によって、災いの火を起こす悪霊どもの火天を調伏する―それのやや芸能化したのがダッタンの行法であり、要は四人ずつの水天と火天との争いで、恐らく火天の閉口退散すること、あたかも狂言の追込みに類した結末になるのであろう。これが十二日の深夜、若狭井のお水取りのすんだ直後の午前四時頃にダッタンの行なわれる理由である。
 ダッタンの語義は明らかではない。窮した挙句に、西城あたりのタタール人の舞踊だとするのは、単に音が類似しているための憶測で、少しも必然性はない。これを解くにはどうしてもこれと似た行事と比較する要がある。よってまず、旧坂合部村(今は五条市)の大津の念仏寺で、正月十四日の夜に行なわれる鬼走りという―初春の行事を考えて見よう。阿弥陀如来の面をつけて出るカツテという役と、赤い鬼の面をつけて出る父鬼、青色の母鬼、茶色の子鬼、この四人が主役である。何れも八日から厳しい別火の生活を続けている間に準備をすませ、夜の十時頃、この念仏寺の本堂に集まり、最初に阿弥陀如来の面をつけたカッテが、松明(桧を割って竹で束ねた長さ五尺、廻り六尺、上部に桧のヘギをつけたもの、重さ十貫位。多分、削り掛の退化したもの)に火をつけ、両手で捧げて堂内を一巡して内陣の前で、水という字を宙に画いて去ると、父鬼が左手に松明、右手に斧を持って堂を一巡、続いて母鬼は槌と松明、子鬼は杖と松明を持って、それぞれ一巡して、最後に鬼の井戸へ行って火伏せ(井戸水で松明の火をすこと)をする。二月堂の場合と比較にならぬほど簡単なものだが、この鬼走りをダダオシとも言っていること、この堂をダダ堂と呼んでいることなどを考えると、ダッタンと同系の語であると見てよろしいと思う。あるいは、この行事の始まる前、このダダ堂の本尊たる阿弥陀様の背後の壁板を青年たちが六尺近い四角な棒でドタンドタンと打ちつける。この音があるとこの行事が始まるのだから、合図みたいなものだが、簡単にこの音からずダダオシと名づけられたとも見られるが、二月堂では別にこんな音を立てぬのだから、火霊の出現を促する意から出たものを見るべきではないか。タタ・タツは虹タツ・風タツ・龍(タツ)・鶴(タヅ)などのごとく、出現・顕現を意味する古語であった。だからダッタンの場合も、水天・火天を出現せしめて争わせる半ば芸能化した所作事だと私は思っている。
 長谷寺ダダオシ旧正月十四日の夜の行事である。やはり修二会だから、寺の壮重な儀式があって、それが済んだ頃、まず二人の寺役がそれぞれ小松明(長さ一丈、重さ十六買)に火をつけたのを持って回廊に出る。これを鬼を誘い出す火だと言っている。この時群集が押し寄せて忽ちこれを奪い合って取ってしまう。この一騒ぎが済むと、今度は一匹の赤鬼が大松明(長さ一丈五尺、重さ三十貫)に火をつけて出現する。その時、再び群集はこれを追い、本堂の廻りを数回する間に、この松明を奪い取るのである。この鬼の出現以前、法螺貝や太鼓の音が寺内に鳴り響くと、群集は「鬼が出るぞ」と待ち構えると言うから、やはりダダは出現する鬼をさしているらしいのである。ただし、この行事の、鬼のもたらす火は、三輪の繞道祭(にょうどうさい)の大松明のように、初春の聖火を持って、神の使役霊として人間界に出現するもので、二月堂の火天の持つ火とは性質が違うものと見ねばなるまい。
 
 
お水取り拝観記
 
お水取り印象 安藤更生/p145

 

 大正十二年の三月十二日、とにかく寒かった。小川晴陽君が懐爐を用意していらつしやいといふので借用して懐へ入れ、ドテラを着た上からビロオドのマントを引かけて出掛けた。同行者はSさんといふ近所のお嬢さんで女高師の生徒の人、もう一人、女の人だった。
 夕ご飯をたべて早目に出かけようと逸ると「いまに大仏の初夜の鐘が鳴るから、それが聴こえてからで大丈夫ですよ」と小川君が例ののんびりした調子で云った。お水取りは二週間もあるのに今夜を選んだのは、大松明が点されることと、其頃私が興味を持つてゐた伝説の「青夜の女人」に関係のある「過去帳」が読み上げられる夜だからだった。
 南大門の辺には沢蟹を茹でたのや、蜜柑、駄菓子、玩具などの屋台店が並んで、その間を参詣人がぞろぞろと山の方へ歩いてゆく。夜空いっぱいに拡つてゐる大仏殿の大屋根を見上げながら東へ折れて大鐘の脇を通って行くと、暗闇の中に急ぎ足の人たちが集ってくる。杉木立で暗い石段だったが、低く緩いのでつまづく心配はない。三月堂の白い横腹が見える辺まで上ると、あたりが突然明るくなつて、わつという人声がどよむ。三月堂も良弁杉も、開山堂の築泥も、はつきり照らし出された。何のことはない。もう大松明が始ってゐるのだ。私は呑気な小川君の言ふことを真に受けたのを後悔しながら、お嬢さん達を先に立てて二月堂の石段を駆け上った。
 お堂の西側へ廻つてSさんが係の人に声をかけると、前から頼んであつたので、すぐに東側の局へ案内された。局は西側にも幾つか同じやうなのが並んでゐて、内陣へ向けて小間返格子で仕切られてゐる。格子の間から内陣を覗くと、灯りがあかあかと点つているが、大松明の行事は一段落したらしく、僧達の姿は見えず、静まり返つてゐた。さきの係の老人が「今夜は格別冷えますなあ」と云つて、小さな手炙りを運んで来てくれた。局の中は灯りは勿論ない。内陣からの火明りがぼうつとして、わづかに人の顔がわかる程度である。私は何か藤原時代の姫君達の参籠の様を思浮べて、ロマンテイックな気分になっていた。
 内陣のあたりが騒がしくなって、坊さん達が列を組んで入堂して来た。口ぐちに「南無観」「南無観」と声高に叫んである。それに和するやうに木製の沓が床に当って、カンカンと寒い空気の中に響きを立てる。私達のゐるところと内陣の間には低い石畳みの間があつて、ぐるりと内陣を囲んでゐる。男の拝観者はそこまで出てもいいのだが、女人達は例の局に籠ったきりで、石敷へ出るのは許されない。Sさん達が「行かれたら宜ろしわ」と云ってくれたので、一人で石の間へ出た。
 今年の和上は、私の親しい清水公俊さん(後の管長)だし、一番末座の処世界という役は田島さん(今の新薬師寺住職、福岡隆聖師)、堂童子は稲屋さん(故人)である。私は、石敷きへ出て、一所懸命に内陣を覗き込んだが、肝心の所は太い円柱に障ぎられたりしてよく見えなかった。それでもゆらめくみ灯しや、黒くぼうつと落ちる練行僧たちの影法師や、香の匂ひに不思議な世界に引込まれて行った。また床を蹴る差懸け(沓)の音、読経の声。
 そのうちに過去帳の読誦が始った。いよいよ青衣の女人である。青衣の女人の話を聞いたのは、去年の夏のことである。二月堂主任をしてるた稲垣晋清僧正(今の上司海雲君の師匠、故人)を、会津先生のお伴をして、二月堂の向ひの座敷に訪ねた。僧正は痩躯で、歯を喰い縛って話をする癖のあるかたで、「奈良を御覧になるなら今のうちですな。奈良もかう大阪や東京から見物人が来るやうでは、段々と古いものが亡くなって間もなく泯(ほろ)んでしまふでせう」といふ意味のことを語った。会津先生が相槌を打つて、「さうですか、奈良は泯びますかなあ」「泯びます」と二人で慨歎して隣りの三月堂の大屋根を見降ろした姿が今も眼に浮ぶ。その時、稲垣さんは気をかへるやうに青衣の女人の話をしてくれた。
 承元のむかしといふから十三世紀の極くはじめ、鎌倉時代東大寺復興の最中である。集慶といふ僧が番に当ってお水取りで過去帳を読んでるた。過去帳は本願聖武天皇から始って当寺に功績のあつた僧俗の名が次々に読上げられてゆくのだが、集慶が読み了へると、青い衣を着た一人の女が現れて「など我をば読み落したるぞ」と詰って掻き消すやうに亡せてしまった。二月堂の内陣は女人などの来る可きところではないのだから、これは生ある女ではない。どんな素性の女かもわからないが、なぜ私の名を読まないのかと云ふからには、東大寺か二月堂に功のある自信を持つ女にちがひない。そこで名のわからぬままに「青衣の女人」と読むことにして、今も読んでゐるといふ。会津先生はこんな伝説が大好きである。黙って聴いてゐるが眼は輝いてゐた。
 その青衣の女人を聴かうと思って今夜出かけて来たのに「青衣の女人」の段を聞き落すまいとしたのだが、初めての事で順序がよくわからず、そのうちに「早がけ」になってしまった。過去帳は本願聖武皇帝から鎌倉時代の青衣の女人までは、ゆっくり節をつけて読み上げられる。殊に青衣の女人は、この名を読み上げることに依って誰にも知られぬ怨霊を成仏させようといふのだから、心を籠めて読まれる。青衣の女人がすむと、後は「早がけ」と云って早い速度で棒読みするだけである。楽しみにして来た「青衣の女人」のところがはっきりしなかったので、少しがっかりしながら、またお嬢さん達のゐる局へ戻った。寒さはしんしんとして来て、懐爐の有難味がよく解った。
 内陣が一段と明るくなって、いよいよ後夜勤行も近づいた。また行道が始って、鐘がごんごん鳴り渡る。Sさんたちと一緒に礼堂へ出て、一般の善男善女に混ぢって見物した。どういふわけか、練行衆たちはぐるぐる内陣を行道してある途中で差懸けを脱いで足袋跣になった。それから馳け足である。感動は益々昂つて僧も参詣者も一体の宗教的昂奮に包まれる。時々、堂司や呪師の合図が飛ぶ。堂司が礼堂めがけて土器(かわらけ)を擲げたとたん、内陣と外陣の間に巻き上げてあつた白い戸帳がするすると降ろされた。「礼堂に香水を参らせ」と高声に叫ぶのが聞えたと思ったら、銅杓に水を満たしたのを持つて来て、礼堂にある信者たちに、少しづつ水を配ってくれた。掌に受けて、飲んだり、頭につけたり、肌に擦り込んだりしてゐる。若狭の井から汲んで置いた水である。人が多いので私たちのところまでは廻って来なかった。
 午前二時ごろだったろうか、いよいよお水取りの行事である。法螺貝が吹き立てられ、切さんたちが次々に、閼伽井屋への石段を駆け降りてゆく。童子の持つ一と抱へもある松明がバッバッと燃え上るたびに、坊さんの姿が闇に浮ぶ。私は二月堂のバルコニイの上から人浪をかき分けて、この印象的な光景を遠望してゐた。僧たちは時折、何か声高に叫んでゐる。前の日に清水さんが、「修二会に使ふ言葉は鎌倉時代そのままです」と云ったから、気をつけて聴いたが、よく聴取れなかった。
 草疲れたので局へ帰り、壁に倚りかかつてうとうとする。「風邪を引きますよ」と云はれたが、我慢できないくらゐ眠い。お嬢さんの一人の着てゐる黄八丈の稿が、ぼんやりと拡がったり遠くなったりした。時々火鉢にかざしてぶつかり合ふ手が、柔かくつめたい。みんなの吐く息が灯明の光りに反映して、白く煙になって暗に消える。香の匂ひの断え間に、若い娘の体臭が化粧品の匂ひと交って鼻を衝く。
 「達陀よ」と云はれて、眼を覚まし、礼堂へ出た。居眠りをしたので、余計寒いかと思ったが、人いきれでそれほどでもない。実を云ふと、私はこの達陀の行法にはあまり感動しなかった。異形な、神将めいた扮装をした火天や水天が、大きな松明を振り廻すし、火花が堂内に散乱して、たしかに派手な火祭りだが、人のいふほど壮絶とも鮮烈とも感じなかった。それよりは、「南無観」とか「南無観世音」と叫んで内陣を飛廻る走りの行法の方が印象は鮮烈である。しかし行法全体の演出の変化の上では、「達陀」はたしかに修二会中のクライマックスで、必要な段取りであらう。
 だつたんの果てし御堂のくら闇に
 心白らけて、何か果敢なき
などと、下手糞な即興の歌を作った。
 
 以上が、二十二才の私が書いたお水取りの印象記である。橋本管長も上可執事長も未だ郡山中学の生徒だったから、この年の行法に参加しているかどうか。
 この後、私はいく度か修二会を拝観してゐるが、戦後は学校の教師などになつてしまったものだから、時期が毎年、学年末の行事とぶつかってしまひ、それでも二度ほど行ってみただけである。奈良のことなら何でも知っていたと思はれてゐる秋艸道人もお水取りはほとんど観てるない。これも先生が長いこと学校の教師をやってるたためである。先生がお水取りを観たのは、やつと戦後になって、大学教授をやめてからで、それも只の一回きりであった。だからあれほど奈良や東大寺を詠んだ名歌の多い道人に、この感動的なお水取りの行事を詠んだ歌は一首もない。まことに惜しいことである。(早稲田大学
 
 
 
二月堂のほとり 北川桃雄/p148
 
 二月堂は修二会のおこなわれる桧舞台であるが、同時に、若狭井屋そのほか二月堂の下のほうに散在する諸堂屋も、修二会のために並々ならぬ役をはたすのである。
 いま、二月堂はじめこれらの古い建物について少し語ってみたい。
 二月堂は暗い森の樹立を背に、半ば崖により、その正面は、高い列柱や斗栱にささえられ、舞台を張りだしている。観音堂に多くみられる舞台造りとか懸崖造りといわれる形をしている。ふかい軒から垂れた大小さまざまの形をした銅燈籠、ずらりと並らんだ大小の絵馬。しかも、四方の扉はひらかれ、うすぐらい堂内には、聖灯がゆらめき、二月堂と浮彫りした大きな銅香炉はじめ、おびただしい荘厳具がならび、るるとして香煙がただよい、読経の声ももれてくる。
 静かできびしい隣りの古代的な三月堂とは打って変った、賑やかで人なつかしい、近世ふうのお堂である。ふだんの二月堂は朝暗いうちから日の昏れるまで、終日、参詣の人々があとを絶たない。昔ながらに庶民信仰に生きている堂だ。
 ぼくは大和古寺としての三月堂に、もちろん、ふかく魅惑される。しかし、三月堂とは別の意味で、二月堂につよく惹かれる。それは、たぶん、東京下町に育って子供のときから親んできた、浅草の「観音さん」のもつ庶民信仰的な雰囲気と、一脈通うものがあるからだ
ろうか。
 現在の二月堂はそれ以前の堂が江戸時代(寛文七年)の修二会中に焼けて、再建された建築である。修二会を創始した天平時代の実忠和尚当時のままの堂姿が、こん日なお眼のあたりにすることができたら、三月堂よりもさらに深い感銘をあたえたにちがいない。
 ご本尊の十一面観音も、この寛文の火災によって火中したらしい。現在では、厨子ふかく秘められて、そのお姿は寺中の坊さんもうかがい知らぬときく。ただ、その金銅製の舟形光背の断片が集められて残っている。あの光背の毛彫りの仏画はじつにみごとな作品である。それから推しても、ご本尊の十一面観音像が稀有の霊像だったのではないかと想像される。聖林寺の十一面観音のような・・・・・・。
 二月堂には今一つ修二会の本尊とされている小観音がまつられている。これも秘仏でそのお姿は知られていない。そのほかに、堂の東・南・北の三面に後世の観音像が安置されている。これは外から拝める。
 修二会がはじまると、二月堂に「古代」が一年ぶりで生きてくる。
 修二会のあいだ、練行衆の坊さんたちにとっては、夜も昼もないお勤めがつづくわけだが、拝観者からみると、なんといっても、堂上における夜を主にした行法という印象がつよい。
 春寒の闇をこがして燃えさかる篝火(かがりび)や、練行衆の影をうきだす燈明のゆらめき、うすぐらい堂内のはのあかるい神秘的な内陣、そして、そこに流れる長短高低リズミカルな声明、異様な法悦的な練行僧の動作。およそ現代から遠い、それゆえに幻想的な宗教劇の演出ともみられる。
 とくに、三月十二日の宵ので篭松明は、長さ四間もある大竹棒のさきに球形の籠をつけ、火を焚いて、二月堂の舞台から突きだし、振りまわされる。炎々ともえる焔は無数の火の粉をちらし、煙と火粉が堂をつつむ――それは大都会では忘れられた、闇の火のたたかいをおもわせる原始的なみものである。
 その夜更けて、お水取りの時刻になると、呪師をせんとうに練行衆が牛玉杖(ごおうづえ)をつきながら、本堂の南石段のうえに勢ぞろいする。大松明の焔が赤くそれを照らし、法螺貝のおもおもしい吹声ものものしく、一同がしずしずと石段をくだり、閼伽井屋へとすすむ。この野外劇もぼくたちを古代伝説の世界にひきこむような魅力がある。
 だったんの妙法はいちばん奇抜で劇的だ。はじめ、八天とよばれる達陀帽の諸衆が、木・火・芥子・楊子を投げあうやりとりがある。そのあと、大松明をもった火天と、水器をもつ水天の立ちまわりとなる。
 内陣も外陣も、八天の頭も肩もふんふんと火の粉だらけになる。観ていてハラハラするような荒行である。
 早春の夜におこなわれるこの宗教行事は、じっさい、日本にも類のない、ふしぎな法会である。
 こみいったあの作法や、燃えさかる火や、伝説的な水汲み、達陀僧の活躍など、たぶんに神道的な分子、密教的な要素、拝火教的あるいは西域的な匂いが混じっている。
 ご本尊の十一面観音はがんらい密教がつくりだした変化観音の一つであり、この行法を創始した実忠和尚はインド出身という説もあることなども、思いあわされてくるのである。
 
 二月堂のまえに張りだした舞台の勾欄に立つと、すぐ前にそびえていた良弁杉に昔の俤はないが、森をこして大仏殿、その向うに生駒山大和平野の一部が、眼にはいってくる。幾たび眺めても懐しい風光である。
 が、それ以上に、ぼくがいつも見惚れるのは、眼下にならんでいる長廊・参籠所・仏銅屋・食堂・若狭井屋湯屋などの一群の古い堂宇の佇まいである。本瓦葺の屋根、白い壁、ほどよく褪せた朱の柱と緑の運子窓――ことに上から見おろす屋根の美しさは無類である。東京から久しぶりにくると、その古い滋味のある、底光りのする美しさが、身にしみて感じられる。
 がっしりした本瓦葺きの太い列線、ほどよく反った棟の一筋、いずれも切妻づくり湯屋のうえに乗る煙出しの小さな屋根までがいい形である。
 大都会とはちがって、さすがに清澄な空気の山の上である。屋根の瓦は埃もあびず、しっとりと潤っている。
 ふと想いだされるのは大同雲岡の石窟古寺である。あの石窟群の第五、第六あたりの大きな石窟のまえには、三、四層の高い拝楼が立っている。その上層から下を見おろすと、院子(中庭)をかこんで、幾棟かの堂宇僧房の甍(いらか)が、たくましく反りかえっている。
 この石窟古寺の伽藍の向うには、ひろい磧(かわら)と大きな武周川の流れと対岸にうねる朔北の高原がはるかにひろがっている。
 大同の甍は仏堂にしろ民家にしろ、日本の本瓦葺とちがい、むしろ、行基葺をおもわせる。ふとい管をならべたようで、しかも、異常にうねっている。重厚で逞しい点は日本の本瓦葺の屋根以上だ。
 そこに大陸の文化と、大陸から承けたものに抑制を加えて表現する日本の文化のちがいが、みられるのである。
 瓦屋根の一ばん美しくみえるのは、若葉ころであろう。いぶし銀と新緑の対比、寂かななかに明るい寺院風景で、二月堂の場合にもそれを印象させられるが、あるとき、真夜中に二月堂に上って、月に濡れ、蒼く沈んだ、これらの諸堂の甍の美しさに魅惑されたことも忘れられない。
 
 二月堂の北側から渡廊の階段を下るとその下り口で、一棟の細ながい単層の建物のあいだを抜ける。
 右(北)のほうが参籠所で、左(南)のほうが食堂である。
 今の建物は鎌倉時代のものらしいが、舟肱木(ふなひじき)、白壁・横桟のある高窓、板扉、連子(れんじ)の窓など、簡素質朴の構成は取りたてていうほどのことはないにせよ、それでも実用に制約された質実な美しさが感じられる。
 参籠所はいうまでもなく修二会のとき練行衆がおこもりする宿所である。ふだんは他の堂宇同様に閉じられている。ある年の修二会中に、ぼくはここに参籠中のK師を訪れたことがある。もちろん、這入れないが、入口から内部は一瞥できた。
 所内は四室に分れ、畳じきで、壁によせて方三尺ほどの炉が切ってある。壁上には念珠をいれた紙袋や、紙手(こうで)と称する丈さしがかかっている。その上の棚には参籠の無事を祈るお祓や持仏の小さいお厨子などがおかれてある。黒光りした柱には形の変った行燈や青竹の花生けがかかっている。坊さんたちの知合や信徒衆の見舞というか陣中慰問というか、訪れてくる人も多いとみえ、贈られた菓子箱なども眼についた。
 食堂は会中に練行衆が昼食をする堂である。瓦じきで床几がならび、古式に則って食事が摂られるという。ぼくはまだ拝見したことはないが、写真でみると、食器はいっさい漆器らしい。ことに坊さんのまえにおかれた大きな鉢の山盛りの飯にしゃもじをたてたのが印象的である。いつか博物館に東大寺から出練された、すばらしい根来の大鉢をおもいだす。
 閼伽井屋若狭井屋という名のほうが、伝説の匂がしてぼくには好ましい感じがする。鎌倉式の天竺様と和様のくわわった、赤と緑の建築的好小品だ。小気味よく安定したその姿は、石柱や石柵や石碑、それからこの小宇の周囲をつつむ神木などのため、じゅうぶん味わえない。しかし、ふだん、いかにも大切にされているという風情がある。
 仏餉屋(ぶっしょうのや)は御供屋ともいう。二月堂に献ずる供物を調進する所である。鎌倉時代の建築というが、屋根の流もするどいし、柱にもエンタシスが残っていて、天平をおもわせるような、豪放な古格をもっている。ぼくの好きな建物の一つだ。堂内には古い大きな石臼があるときいたが、これもぼくは、まだ、観る機会がない。
 ほかに湯屋がある。江戸初期の造りで、大鐘楼の山にある大湯屋の規模や形態にはおよばないと思うが、修二会に使われると思うと見すごしはできない。いうまでもなく練行衆が会中に斎戒沐浴する浴室である。内部は唐破風の屋根でしきられて脱衣場と浴室になっている。湯屋の傍らに井戸があり、そこから青竹の筒をとおして浴槽に水を送る。内部にはこれを焚く石造の大きなカマドが設置されている。
 
 崖上の本堂は前記のように年中ふだん開扉されて、にぎやかな参詣人の気配をみせている。しかし、崖下のこれらの附属の小堂群は、ふだんは固く扉を閉ざして冷めたい表情をしている。古建築好きは別として、お水取りをみたことのない一般の観光客は、たいてい、無関心に一瞥しただけで通りすぎてしまう。
 ところが、修二会の時期にはいると、このあたりの雰囲気がにわかに一変する。
 各堂屋の扉はひらかれ、新しい注連飾りがつけられ、籠松明が軒にかかったり、これらの堂屋は一年ぶりで娑婆の空気を吸いこんで、蘇生する。
 それぞれ係りの人たちの出入りが繁くなり、人間くさくなり、活気づいてくる。
 芝居で云えば、練行衆その他は主役、脇役のはなばなしい出演が人々の眼をひくわけだが、裏方にあたる世話役や奉仕の人々の、いっぱんには注意されない働きぶりも、とうぜん、忘れてはなるまい。
 本堂はもちろんのことだが、この下のほうの諸堂屋が、そういう人々の働きの「場」になる。
 そうした裏方の活躍ぶりを事こまかに紹介するのも、お水取りという特異な宗教行事、今ふうにいえば古代宗教的ショーの全貌を語るために必要だと思うが、あいにく、ぼくにはその資格がない。ただ、一、二度、昼間あのあたりを通って、瞥見した印象を語りうるくらいなものだ。
 とにかく、会中はふだんと違って、この一帯、生き生きした気配が、昼間でも、二月堂を中心としてただよっている。それは観光客の群があたえる気分ではない。ことに、あの湯屋の煙出しや出入口からほうほうと立ちのぼり、ながれる白い煙、せわしく出入する人々の影、あれはたぶん寺で「庄馳士(しょうのくし)」と呼んでいる遠く山城方面の加茂あたりから奉仕にくる人たちでもあろうか。そうした人たちのせわしない気持が、傍観者のこちらにまで伝わってくるようであった。(共立女子大学
 
 
 
早春の賦 ―二月堂お水取り― 佐藤道子/p152
 
 "お水取り”と耳に親しみながら、この大行事に実際に参ずるのは今年が始めてであった。どうせなら二七日を通して参じてみようと決心したのが、行法の始まる十日ほど前であったろうか。
 女人結界の場が多いので、女性の調査は不適当であろう、というお寺のご忠告であった。それを押して出掛けることだから、と、収穫の少ないことを覚悟もし、場合によっては途中で切上げる心づもりもあった。それが、のっけから心を奪われて、宿舎から二月堂への道を、来る日も来る日も通いつめる結果となってしまった。
 お水取りには、参ずる者に感動を与える“何か”がある。その“何か”が、悔過滅罪のひたすらな祈りの心だとのみ見るのは当るまい。お祭めいたにぎわいもあれば、巧まれた演出もある。そして、物見高いだけの俗世間の興味の目もある。にもかかわらず、憑かれたように足を運ばせる何かがあるのだ。それが何であるか。多くの言葉を聞くよりも、一度参じてごらんなさい。というのが私の結論なのだが、参ずる人も少なくてあまり一般には知られず、しかも心に残ったことがらの幾つかを書き記してみようと思う。
 
 <参籠所入り>
 二月二十八日午後二時すぎ、練行衆は、加供奉行・仲間を従え、寺内西よりの別火坊(戒壇院)を出て、大仏殿の裏道をまっすぐに東へ、二月堂下の参籠所に向かう。
 和上・大導師・呪師は、紫衣に緋の紋白五条袈裟、その他の練行衆は、白衣に紫の紋白五条袈裟、白緒の草履姿で和上を先頭にあゆみを進める。一列に並んで、無言足早に、なだらかな石畳の坂道を進む。早春のいろどり少い景色の中で、袈裟衣の色はひときわ色あざやかに、すそさばきのサッサッサッサッという音が快い。大きな行に入る前の緊張とつつしみの心にあふれて、さわやかなものであり、厳粛なものである。
 迎える者の目に、まず入る和上の姿。その足どりと、身の軽さには、修錬を経た人にのみ見る確かさがある。こもりの数を重ねた肉体的鍛錬の上の確かさであり、心の確かさである。
 この行列は、実に美しい。
 
 <開白法要>
 お水取りは、こもりの行である。本行を前にして、練行衆はまず別火坊にこもる。本行に入って参籠所にこもる。そして行法を行なうため、内陣にこもる。二十日に余るこもりの行である。
 三月一日夜半、二七日にわたるこもりの行法は、日中の時の法要を以て始められた。
 午前一時四十分、童子のかざす手松明に先導されて、黒の法衣に鈍色の上堂袈裟姿の練行衆は、参籠所を出て二月堂に上る。
 内陣の扉が開かれ、内陣掃除・須弥壇上の荘厳など、すべての準備は練行衆の手で整えられる。礼堂の輪燈の光で、人々の姿が影法御のように見え、金属のふれ合うかすかな音に、ふと我に返って寒気を感じたりする。とはいえ、深夜の堂内はそくそくと寒い。
 準備が整い、練行衆が礼堂に着座すると、堂内の明りはすべて消されて暗やみとなる。音も光もなくなった息づまる静寂の中で、一瞬カチッと光が走り、しばらくするとぼーっとやみに赤味がさして火がともる。新しい火を以て常燈を点し、こころ新たに、この年の行が始められるのだ。鮮烈な感動と緊張を覚える。
 二時二十分、内陣の鐘が日中開白を知らせ、練行衆は一人一人上座の衆に一礼して、扉帳のすそを開いては内陣に入る。最後に、和上によって礼堂と内陣の境の扉帳が閉じられると、心理的にも距離的にも、練行衆は、全く別世界の人となってしまう。
 扉帳に写る影法師が行道する時、その吐く息が映って見える。礼堂を隔てて聞える振鈴や声明は、大きな井戸の底から聞えてくる音のような響きと重重しさがある。実忠和尚が、兜率天悔過法を拝された時、やはり、この様な光景だったのだろうかと、古い伝説を思い浮かべたりするのだった。
 宝号が唱誦され、数珠が拍子に合わせて揉まれている。数珠の音というのは、かっきりとしていて、しかも柔らかい。実にいいものだ。「南無観」「南無観」と、宝号の唱誦が続く中に、「五体打ち出で給え」と和上の声がかかり、差懸の音をカタンカタンとさせて五体人が礼堂に出て来た。中央にしつらえられた五体板と呼ばれる板の前で差懸を脱いで、本尊の方に向いて立つ。内陣の、「南無帰命頂礼大慈大悲観自在尊」の唱誦に合わせて、「南」「大」「尊」と五体投地する。体を左にひねりながら、肩からぶつけるように体を落して五体板に右膝を突く。観音の種子を黙請しては投地するのだという。五体を投地して、罪障を懺悔するという発想が、いつの頃からどこであったものか知らないが、このように整った形式で伝えられているのは、他にないのではなかろうか。
 内陣の宝号唱誦は終り、静寂の中に、投地は更に続けられる。「ドゥーン」「ドゥーン」と、間を置いて響く音は、かえって合間の静寂を際立たせるようだ。「五体打上げて入り給え」と和上の声がかかって更に四回、都合十二回(回数は、十二回と定まっているわけではない)の投地で、五体人は又、差懸の音をたてながら、扉帳の奥に姿を消した。
 発願、心経行道、回向文などと続く内陣での作法を終えて、練行衆が再び礼堂に姿を現わした時、時計は三時を五分回っていた。
 
 
 <時作法>
 二七日六時の行法。つまり、一日六回の行法が十四日間繰返し行なわれるということである。
 時の法要の作法は、供養文から始まって悔過・宝号を中心に、回向文で終る。初夜・後夜には、この後に大導師・呪師の作法が加わり、初夜には更に神明帳又は過去帳の読上げがある。
 一日六回、十四日間で合計八十四回。よくまあ飽きもせず・・・・・・と思われるだろう。それが全く飽きるどころの話ではないのだから面白い。二重の格子で隔てられた局で聴聞していて、である。
 同じ事を繰返しているように見えて、作法にも、声明にも、各時どとの変化があり、それぞれが又、日を追って少しずつ変化してゆく。初夜の散華には、華(もち米をいったものを用いる)を散らしながら、静かに行道するのに対して、後夜のそれは、華は散らさず、足音高く拍子を取って行道する。といった違いがあったり、昨日まで耳にしたことのない九条錫杖が、錫杖の音に合わせて唱誦されたり、といった具合である。
 始めの頃、テンポの早い晨朝の行など、まごまごしている中に「手水・手水」とか何とか叫びながらトントントントンと駆け下ってしまわれて、訳もわからず終ってしまうという始末だった。
 訳はわからなくとも面白い。
 悔過の行についての感想を記すのに、面白い、面白いと書く法があるものか、と思われる向きもあるだろう。実際、雑念を断って(参じてみればわかることだが、雑念があって勤まる行ではない)行に励む練行衆には失礼千万な話なのだが、しかし、正直言って面白く、ふと、真似してみたくなるような親しみのある行なのである。
 厳粛な作法もあればコミカルな作法もある。リズミカルな声明もあれば旋律の美しい声明もある。緩急・静動の対照もある。これら、色々な要素が、様々の組合わせで六つの時が構成されているわけだ。調子のよい後夜の行、端正な初夜の行。それぞれに特長がある。
 初夜の行の半ばに、須弥壇上のあまたの燈明がすべて点ぜられると、内陣には一種華やぎとも言える雰囲気が生れる。このひとときは、ひときわ印象深い。今、初夜の行の一部を略記してみよう。
 初夜の行は、六時を通して最も省略のない丁寧な形で行なわれる。上堂作法に始まって、悔過法・神明帳読上げ・大導師の祈願・呪師の修法が続き、最後の大導師作法まで、三時間を越える行となる。
 鐘楼の大鐘が、七時の時を、ゴゥーンと知らせ始める。途端に、加供奉行(上堂を、二月堂に居る処世界に知らせる人)が手松明を揚げて、宿所に続く八十三段の登廊を一気に駆け上る。二月堂入口で、大声に「出仕の案内」と練行衆の上堂を知らせると、又一気に登廊を駆け下って宿所に戻る。直ちに練行衆は宿所を出、童子の抱える上堂松明に先導されて、袈裟の樹被下で合掌したまま、静かに登廊を上る。一人、又一人、薄暮の上堂作法は、ゆるゆると静かに進められ、先導の松明は、花火のように火の粉を散らして夕景を彩る。
 上堂した平衆は、すぐ内陣に駆け入って、和上の上堂まで、差懸の音高々と行道を続ける。和上の上堂と共に、行道はビタリと止まり、着座して静まった内陣に、四職(上席の四人)は威儀を正し作法正しく入るのである。
 悔過法に入る前の法華経唱誦は、旋律が実に美しいし、独唱になったり斉唱になったりするのが、浪のうねりのように快い。
 これから悔過法に入り、時導師が出て、まず「辺無量」と供養文の一句を朗々と唱誦する。
 続く如来唄は、「如、世、如」と一字ずつ時導師のあとをつけて唱え、「一切法常住是故我帰依」の句を合唱する。短かいけれども、呼吸の合った時、ハーモニーの美しさは格別で、一種の法悦を感ずることがある。
 ここで全員立って、散華行道になる。散華文を、ゆるやかに斉唱しては行道し、止まって斉唱しては又行進する。
 散華が終って着座すると、大導師は呪願文を唱誦する。ひびきのよい漢音で(他はほとんど呉音で唱誦される)、格調の高いものだ。
 そして次に悔過となる。これは、時導師と、その他の人によってカノンのような形式で唱誦されるが、この時、時導師は一称ごとに立って一礼し、側の衆の中、三人が一称ごとに立って数珠を揉み上げ、その他の人々は、座ったまま数珠を揉む。この作法は半ばから変化して、前記の四人は、立ったまま数珠を揉んで一称一礼し、他の人々は座ったまま数珠を揉む。ただし、この時は、数珠を拍子にアタッて揉む。つまり、十一人が二手に分かれて声明をしながら、三様の作法を行ない、その作法は、途中から変るわけだ。というわけで、あっちで立ったと思うとこっちは蹲踞する。向う側の誰かも蹲踞したらしい。と思っている中に、柄香炉を捧げていたはずの時導師が、いつの間にか数珠を挟んでいたりして、私は感醸している暇などなくなってしまう。この、十一面神呪心経によった称名が終ると、続いて観音標の宝号を画する。作法は一段と複雑になりややこしいが、「南無觀自在菩薩」「南無觀自在」「南無觀」の三部分に分かれ、節回しは単純で親しみやすいし、リズミカルなので、いつの間にか、ナムカン・ナムカンなどと口ずさむのが癖になってしまうものだ。この終りに、前記の五体投地が行なわれる。
 以下、懺悔・心経・回向文などがあって、悔過法が終る。
 以上のように、十一人が、各自の役割に従ってそれぞれの作法を行ない、それが一体となって、諧調を生み出すわけだ。
 続いて行なわれる神明帳唱誦・大導師の祈願・呪師の修法にも同様なことが言える。すべてが無駄なくはこばれるし、一寸した動作にも意味があるので、緊張の連続であり、局の片隅に、局の片隅に、何も知らず、ただ目を凝らしていた時の感激は少しずつ変化して、魅力の源を探ってみたいという興味となってゆくのである。
 
 <周囲の人々>
 練行衆の別火精進の厳しさは徹底したもので、女性は参籠宿所のしきいをまたぐことを許されない。心づくしの陣中見舞のお茶菓子も、黄味あんでも用いてあると、手をふれずに下げ渡されるという。
 練行衆のみではない。この期間、その身辺の人々――練行衆に仕えて雑用やら松明持ちをつとめる仲間・童子達――は無論のこと練行衆の家族や堂守まで、生ものを遠ざけて日を送るという。すべて、行法を中心に人々の心が動き、時が送られてゆく。
 中にも、仲間・童子といわれる人々の、お水取りに対する純粋な心の在り方は得難いものである。
 気のいい、親切な人達である。練行衆の食事を運びながら、自分達は、練行衆から下げられた練行衆と同じ食事を頂くのだ。食事のだしはすべてこぶを使って、生ぐさのだしは一切使わないのだ。と誇らしげに話してくれる。籠松明を丹念に作りながら、その手順を細々と教えてくれる。しかし、「こんな時、手を貸して上げましょうなんて言うと叱られるでしょうね」という問いに、「いろうてもらいたくありませんな」と、厳然たる返事がかえって来た。
 女性が、上堂用の竹にふれるなどは、彼等にとってとんでもない罰当たりのことなのだ。なぜ、女人がけがれたものであらねばならないのか、と理屈はこねたくなるものの、けがれを忌み、拒む意識は、この人々に最も明らかに、妥協を許さぬ形で現れており、それは一種の小気味よさを伴って、必ずしも不快なものではない。
 お水取りを、この上なく神聖と思うこの人々が居る限り、行法はつつがなく回を重ね、感動を与え続けてゆくに違いない。
 
 <名残りの法会>
 三月十五日、夜深く最後の長期の行を終えて後、壇上の荘厳は、練行衆の手ですべて取払われる。
 一日の法要の前に荘厳されて以来、およそ百と数えられた大小の燈明の光の中で、御厨子の四方は、供花の椿の花もしきみの葉も彩りを添えていたし、整然と積まれた壇供のお餅もにぎやかだった。そのすべてが下げられたあとの内陣は、わびしく暗く、常燈の光の輸なりの明るみに、御厨子の影が殊更に濃い。
 ここで、涅槃講が勤められる。
 唄(ばい)を唱誦ながら南北両側に立ち並んだ練行衆の姿が壇越しに見えるのも、破壇の後のゆえだが、鈍色の袈裟姿は、肩の辺りから闇に溶け入ってさだかには見えない。
 唄を唱え、散華行道し、涅槃経を読誦し、講問が行なわれる。その声はかすかに、その節は長くひいて緩やかに唱誦される。
 周囲の局に、内陣の光の届くわけはない。人気のないくらがりに座って、じっと耳を澄ましていると、内陣の声は、静かに辺りの闇に拡がり、人の心にしみ入って来る。長い行を、無事に終えた喜びと名残りが、練行衆の胸をひたしているに違いない。わずか三十分。だが、これほどしみじみと名残り惜しい法会を、私は知らない。
 
 <山内夜景>
 半月に余る滞在の間に、月は日ごとに細くなって、夜中に下堂する時、ただでさえ暗い大鐘の辺りは全くの闇と見えた日もあった。このような時、よく、ねぐらへ帰りそびれた鹿が木立の間から前ぶれなしに飛出して来て、こちらが飛上るような思いをさせられる。犬に吠えられるのは毎度のことで、気分のよいものではないが驚きはしない。ところが面白いことに、草木も眠ると俗に言う夜更けに晨朝の行が終ると、道々、犬の声も鹿の身じろぎも、風のそよぎさえもないひと時にぶつかることがある。身体が空気に吸い取られてしまうかと思われるほどにひたすらな静寂の中を下って来る時、夜とはいかに美しいものかと思う
 遅く出た月の明るい雨上りの晩があった。雨に潤った三月堂が、さえぎるもののない光の中でひときわ静かに美しく見えた。三月堂の前から右に折れて大鐘の傍を通り、楓に覆われた石段を下ると、大仏殿の真横に出る。半ばまで下って、木立の切れた明るみに大仏殿の回廊を見出した時、これはまあ、なんと思いの外の華やぎであろうと驚いた。西に傾いた月の光が、回廊の朱も、大屋根の金色の鴟尾も、まことに映え映えと、たおやかに照らし出しているのである。羽を収めて静まりながら、いつかは舞い立つ鳥かと空想を誘われる。大仏殿の、この生気に満ちた美しさを、どれほどの人が知っているだろうと思い、わが参籠の功徳かと、一寸いい気になってみたりもするのだった。
 心のはずみのまま、回廊伝いに中門の前に出、南面して黒々とそそり立つ南大門を望んだ時、松並木の彼方の大門は、大仏殿の華やぎとうって変って、圧倒的な大きさと気むずかしげな表情で立ちふさがっていた。その大きさというものは明るい日ざしの中で見る大きさとは比べものにならない。劫を経た怪物に、通せんぼをされたようなもので恐ろしげですらある。
 寺院建築の、昼の表情と夜の表情がこれほどに違うものか、など思いながら、東大寺――ひむがしのおほでら――の名を、紛れようのない実感として受取らせるこれらの建物に、改めて敬意を表したことであった。
 
 天武天皇朱鳥元年を始めとする悔過法修行の記録は様々の空想を誘う。お水取りの始行された時代に、悔過法は、如何なる思想の下に如何なる形で行なわれていたのか。年々、怠りなく勤められて、千二百年を経る間には、思想上・形式上のさまざまな変化もあったであろう。どのような変化であったのか。堂の周囲に深い木立やら動物達を配して、空想は様々に拡がる。
 それはそれとして、この行法のこころが、今に生きて人の心をうつことは意義深い。形式のみ伝えて、本来のこころを失った行事の、なんと多いことか。
 本来のこころと記したが、私はこの文章で称名悔過にのみ目を向けすぎたかもしれない。国家安穏・五穀豊穣・万民快楽などを始めとして、行法を陰で支えている人々・局に参じている人々の至福に至るまで、専心祈願する大導師の祈りのこころなどについてもふれるべきだったと思う。ともし火のゆらめく内陣に、サラサラトン・サラサラトンと大導師鈴を打ち振りつつ祈りを捧げる大導師の作法に、人目をひく派手やかさはないけれども、その朗々たる唱誦には、行法の柱となる人の品格と気迫がみなぎり、感銘は日を追って深い。しかし、始めに書いたように、一度参じてみれば、筆の不足など直ちに補なわれるはずだ。
 お水取りに魅せられて、私の聴聞は、これからも事情の許すかぎり続くことになるだろう。差障りの起らぬよう、健やかであるようにと、祈り努めるこの日頃である。
(東京国立文化財研究所)
 
 
 
お水取りの水源 白洲正子/p158
 
 お水取を見たことがある人は、あの異様に神秘的な雰囲気を、忘れることが出来ないであろう。私が参列したのは、十年以上も前のことで、全体の記憶はうすれてしまったが、所々で受けた強烈な印象は、年を経るにしたがひ深まって行くやうだ。当時は未だ良弁杉が健在で、その太い根元であびた籠松明の火の粉、「青衣の女人」と呼びあげる陰にこもった音声など、読経の間を縫ふほら貝や鐘の音とともに、私の心にしみついて離れない。中でもいはゆる「お水取」の行事と、ダッタンの壮快さは、お能で云へば破と急の段にたとへられる見ものであらう。特に印象が深いのは、明け方近く、行法が終つて、あかあかと二月堂の内外を照してるた燈火が消えた後、お勤めを終へた坊さん達が、松明を手に、長い階廊を走り下りて来る光景だ。実際には、走るのではないかも知れないが、暗闇を流れる光の波は目がさめるやうで、それも消えてしまふと、はじめて私達は我に返って、「幕が降りた」淋しさを味ふのであつた。
 さうしてすべてが終った後、私はお堂の上の欄干から、ほのぼのと明け行く空を眺めてゐた。三山のかなたから、紫の朝霞が、大和平野を舐めるやうにのぼって行く。春だ。春が来たのだ。その時私は強く感じた
 いつかさういふお水取の印象記を、私は書いてみたいと思ってゐた。事実、何度か試みたが、いつも失敗に終った。しょせん、かういう神秘的な行事は、肌身で感ずるほか、筆にも口にもつくしがたいのであらう。その謎めいた所に、人をひきつけるものがあるのかも知れないが、おそらくはじめは、一つ一つの作法に意味があったのが、忘れられたり失はれたりして、形だけが残ったものに違ひない。たとへばダッタンと名づける行法は、私達にはダッタン踊りとしか見えないが、梵語タプタに語原があり、火による苦行を意味するといふ。火が煩悩を焼きはらひ、水が穢れを清めるのだ。してみると、これは天平時代よりずっと古くから行はれたみそぎの行事に、仏教が加味されたのではなからうか。さう云へば、ダッタンは、鬼やらひに似なくもない。時は如月、去る年の穢れや苦しみを追ひやつて、新しい春を迎へる、修正会も修二会も、内容的には同じものだらう。一般には、修二会が、俗にお水取と呼ばれるやうに解してゐるが、最初の目的は「水を汲むこと」、もしくは汲んで飲むことにあったので、本家は案外そちらの方かもわからない。それは変若(おち)水であり、若水である。或ひは生れ変りのお呪ひでもある。若狭の井の名称も、もしかすると、そこから出たのではあるまいか。仏教の背後には、実に多くの古代の信仰がかくされてゐる
 先年、本を書く為に、西国巡礼をした時、一番強く感じたのはそのことであった。西国巡礼も、観音信仰が元になってゐるが、補陀落浄土と、自然信仰は、あらゆる所で一致してるたし、寺院はいつも古代の遺跡に建つてゐた。神が存在しない所に、仏もまた生れなかったのである。民族の生命力は強い。何も仏教とは限らない。キリストも、マホメッドも、民衆の生活の中に根を下さずに、思想を発展させることは出来なかった。
 その巡礼の途上、天の橋立から松尾寺へぬける街道で、私は若狭彦と若狭媛神社によつてみた。「東大寺要録」によると、天平勝宝四年、実忠和尚が二月堂で修二会をはじめた時、諸国の神々を勧請したが、若狭の遠敷(おにう)神は、魚釣りに夢中になってるた為遅参した。やうやく行法の終り頃に到着し、そのお詫とお礼のしるしに、お堂の傍に香水を出して進ぜやうと約束した。時に黒白二羽の鵜が飛来つて、良弁杉のもとの盤石をつつくと、忽ち甘泉がほとばしつた。そのまはりを石畳でかこみ、観音様の閼伽(あか)の水としたのが、若狭の井のはじまりと伝へるが、遠敷の神とは、若狭彦のことであるといふ
 以上のことは、後でしらべて知ったので、その時は、若狭彦といふ名にひかれたのと、何となくお水取と関係がありさうな気がしたからである。私は元来考証は不得手だが、好奇心の方は人一倍強い。はるばる若狭まで来て、お水取の水源を確かめぬ法はない。といって、適当な案内者もゐない。地図をたよりに音無川をさかのぼって行くと、先づ若狭媛神社がみつかった。若狭彦の方は、そこから更に奥へ入った上流の方にあつて、うつそうとした森の中に、大きな二股杉の神木がそびへ、ささやかながら清々しい社が立つてゐた。傍らに由ありげな清水も湧いてある。そそっかしい私は、これこそ例の井戸に違ひないと、のぞきこんだり、写真をとったりしてある所へ、牛車をひいた村の人が現れた。念の為、聞いてみると、それはもつと上流の、「鵜の瀬」にあるといふ。仕方がない、どうせ乗りかかった船だ、日は既に落ちかけてゐたが、再び川にそって行くと、次第に川幅はせばまり、山もせまつて来て、やがてそれらしい所へ辿りついた。「巡礼の旅」の中に、私はそのことを次のやうに書いてある。
 「東大寺と記した小さな鳥居が、浅瀬の中に立ち、その向ふ側の岸が洞になつて、渦を巻いてゐる。それだけのことなのだが、かういる古いところには、何かしら奇妙な感じがある。密度の濃い空気がたちこめてゐる。今は小さな川にすぎないが、かつては急速で恐しげな渦が巻いてあたのであらうか。それより水の信仰には、若返りのお呪ひがともなふから、ワカサの名に重きをおくべきだらうか。さういふことは素人の私にはわからないが、これから先も「お水取」と聞く度に、鵜の瀬のあたりの風景を、私はきっと思ひ出すに違ひない。音無川には、鵜の瀬川、遠敷川などいろいろの呼名があるが、お水取の期間は、ここの川水が全部奈良へ行ってしまふので、流れを断つといはれてゐる。
 
 といふわけで、今回も、「お水取」と聞いたとたん、鵜の瀬を思ひ出した次第だが、依然として何もわからないのは同じである。何故、二月堂が若狭と関係があるのか、東大寺の記録にも、土地の伝承にも残ってるないと聞く。鵜の瀬といふからには、遠敷神の使者の鵜にちなんだ名だらうが、おにふにふで、遠い国の丹生、或ひは小さな丹生川を意味するのかも知れない。むろん水神には違ひないが、遠敷神、つまり若狭彦は、また彦火火出見命の別名とも伝へられ(一宮縁起)若狭媛は玉依媛のことだといふ。さうすると、例の海幸・山幸の物語とも関係があり、魚釣に行った話と結びつく。この命から三代目の孫が、大和の国造に任命されたといふから、お水取の伝説は、若狭から大和へ移った豪族の子孫が、家の歴史を保存する為、作りだした話だったかも知れない。神代の物語は象徴的で、私など素人の手におへないが、昔から漁業の盛んだった若狭の国は、海人部(あまべ)と関係が深く、民族の神として水神を祭り、鵜をトーテムとしたことは、先づ間違ひがないと思ふ。ついでのことにいっておくが、彦火火出見の子が、鵜葺草葺不合(うがやふきあわせずのみこと)であり、日向の鵜戸神社に祭られてゐる。
 火の神である彦火火出見と、水の神である若狭彦、それは仏教の火天と水天より、ずっと前から同じ目的の為に結びついてゐた。ダツタンの修法が鬼やらひを思はせることは前に書いたが、若狭の井の伝説とともに、古代から伝はつた民族舞踊ではなかったか。大衆は、自分がよく知ってあるものしか喜ばないし、安心してとけこみもしない。その間の機微をよく心得て、土地の伝承の上に、修二会といふ大きな一つのショウを造りあげ、仏法流布の方便とした実忠は、稀代の演出家といへやう。
 ちなみに、水はアイヌ語でワツカといふ。若狭の地名はそこから出たに違ひない。少くとも、わきの国、はしの国といふ意味の「腋狭(わきさ)」より、はるかに信用のおける説だと私は思ふ。(随筆家)
 
 
 
お水取り拝観記 杉山二郎/p161
 
 わたくしがまだ奈良にいた時分だから、かれこれ今から八~九年も前になるだろう。春を呼ぶ行事として知られている東大寺二月堂のお水取りの行事を、拝観したことがあった。奈良や京都の年中行事が、今も都市生活、農民生活のなかに生きているのを知って、東京からやってきていたわたくしは、たいへん驚いたものであった。東都歳事記や江戸年中行事を文献で追いながら、東京の年中行事探しの揚句に失望した経験をもつ身にとって、奈良の年中行事が到る所に生きているのに目を膛った。しかも、その大半が寺院、神社に結びついているのだから面白い。現在の奈良市の繁華街が、興福寺門前町として中世以後発展してきたために、仏教の恩恵は街の隅々にまで及んでいる。だから、奈良の人びとは季節の変り目を寺院の行事で代表させる。お水取りが済むと春がやってくる、と人びとは挨拶代りに口にする。確かに済んだ翌日くらいから暖かさが感じられ、寒気が去ったような気になる。それほどお水取りの最中は寒い。しかし、二、三日もすると三寒四温の現象があらわれて、また急に寒くなったりする。まだ春は遠いような気がする。すると、「まだまだあるぞ一切経」と警句のようなことをいって、白毫寺の一切経転読が済まないと本当の春にはならないというのである。ともあれ、お水取りの行事中とくに寒い日が多く、大松明の登る日に雪が降りだしたりして、外の見物人を靴の底から震え上らせたりする。芭蕉の「籠りの僧の沓の音」の句は、寒気ではりつめたような二月堂の空気を感じさせる。静寂のなかにひそむ修行僧の気魄をすら響かせているのが読みとれる。
 わたくしが、お水取りの拝観にでかけるといったら、親切な勤め先の文化財研究所の参籠経験者たちや、下宿の小母さんなどが、寒さが厳しいからたくさん着込んで、和服に袴が好いなぞと教えてくれ、誘めてくれた。洋服よりも和服と袴が長時間坐っているのに楽だったのには大いに感謝した。南大門から境内にかけて、いつもとは違って夕闇みが迫っているのに、人通りが多い。お水取り行事の拝観者たちが二月堂に向って急ぎ足で登ってゆく。二月堂の堂内に入ることを許された参観者たちは、一旦、三月堂横手の堂宇(手水屋)庭先に集合し、引率されて石段を登ってゆく。こうした案内や整備に一役かっている連中は、奈良に住む、七大寺お出入りの経師屋指物師たちである。余談にわたるが、こうした人たちは七大寺の行事には、いつも雑用をかって出る。薬師寺花会式の時、本坊に行くと、玄関の式台の横に机をならべて訪問客の取次をする。唐招提寺の開山忌に行けば、開山堂のなかで神妙に坐っている。どの寺でも自由に、その寺があたかも自分の家のような顔をして坐り応接しているのに、驚きかつあきれ、しかも、彼等が無報酬で活躍しているのを後で聞いて、感心したりした。
 彼等の指示に従って、二月堂に入る前に男性と女性は列を異にし、夫婦者でも比所では離別させられる。石段を登って男性の列は二月堂内の外陣床の上に坐ることを許され、女性の群れは堂の霑れ縁外廊に立って格子戸の外から、内部を眺める差別がつけられる。こうした参観者は、とくにお水取りの行事の行われる三月十二日前後に限られる。そして、芭蕉の句の静寂とちがった熱っぽい雰囲気が造られる。この行法は約二十五日間、毎夜二月堂本尊十一面観音の前で行われている。だから、悔過の行法を詳細に心ゆくまで観たい人は、始めの日々を利用するのが好い。お水取りという行法の正式の名は十一面観音悔過法であって、むしろ、お水取りは行法の最後を焦る集約的な行事を総称し転化しているに過ぎない。
 十一名からなる練行衆の二十五日間の悔過行法は、東大寺仏教徒を代表して行法・修行しているだけでなく、一般の人びとすべてを代行してもいる。インドに発生した仏教は、釈迦族のゴータマによって説かれた実践倫理の色彩を帯びた思想、思惟であった。四諦、十二因緣、八正道といった組織化された思想を元とする人間の苦悩からの超脱法は、つねに慈悲を基調とする正しい行動により達成されると考えられていたので、ゴータマ時代の仏教徒や弟子たちは、自ら実践によって悟りの道に到達しようとした。こうした教説は、非凡な人格をもつゴータマの個性的な、また相手の境遇や知能に応じた魅力あるものだったが、彼の死後、教説の受け取り方が変ってくるのはやむを得ない。
 伝統的保守的な弟子たちは、ゴータマの教説を守って修行を重ねることを目的として、上座部、長老部を結集する。他方、ゴータマを超人化し崇拝の対象とし、宇宙に他の多くの仏や菩薩(悟りを開くことのできる資格のある一切の生き物という意味)が存在し、それに帰依し信仰するなら、多くの富や幸福が得られると説く大衆(だいじゅう)部が成立した。こうしたインド仏教の宗派のうち、大衆部派の活動が大乗仏教となって中央アジア、中国を経て日本に流入したのである。
 仏・菩薩に帰依し、信仰する形態はいろいろあり、これらの像を造りだし、その像を安置する堂字や建物を造ることに利益や功徳を求める形態が流布したが、このため仏教に附帯した東ア圏の学間、技術、芸術が育まれたといえる。日本の飛鳥・白鳳・天平時代の造寺・造仏に、こうした現世利益・死者の咒術儀礼が先行して、仏教の本質、経典の哲学思想としての理解が遅れたのは止むをえないことであった。大和朝廷の上部構造のなかに、仏教とともに入った東ア圏の百科辞書的(エンサイクロペデツク)な知識大系が、技術・芸術といった即物的な形態をとって受容され、そうした範囲内での現世利益が追求されていった時、他方では聖徳太子のような仏教的な知識を思想的に消化し日本のなかに組み入れようとされた方もあった。東大寺盧舎那大仏の造立意図が、聖武天皇を中心とする大和朝廷にあって、梵網経・華厳経の教理の哲学的理解や、思想的理解をどの程度に遂げていたか問題であろう。教理を視覚的理解に訴えての造立ではあったろうが、むしろ東ア圏での、大仏造立風潮の余波の結実といった点がなかっただろうか。しかし、仏教がすべて即物的であったというのではない。宗教が流布してゆく際の宿命として、文化的隔差が大きければ大きいほど、即物的にみえるのである。
 悔過(けか)は、仏菩薩の面前で、自らの意識、無意識に犯す生きているための業(カルマ)を罪過として懺悔し、さらに清浄な身になった所で幸福利益を請求する行法なのである。ゴータマの教説のなかで、人間が生きるために負う苦悩を業(カルマ)といったが、この業(カルマ)を自らが精進して涅槃(火を吹き消すように罪障を取り去った状態)に入ることで消滅させる小乗部の考えに対し、明らかにまったく対立的な、絶対者に帰依し、その礼拝対象にひれ伏して懺悔する形式をもって業の消滅を叶った。ここに大乗仏教の特色をはっきりみせている。だから悔過は、かつて仏教徒が等しく行ったものだった筈が、時代がたち、国が変るにつれて特殊な職能化した僧侶が、帝王や貴族・庶民、さらには生けとし生ける一切の生物の代りに、代行することになる。二月堂の十一名の練行衆は、意識すると意識しないとにかかわらず、その時代の有情(仏教用語の一切の生き物)の代表者である。
 こうした意味をになったわたくしたちの代表者、そして選ばれた人たちでもある練行者は、今や内陣に入って行法を始めた。行法の進行順序を確実な予備知識として持っていなかった当時のわたくしには、視聴覚に入ってくる行法進行の様子から推測するしかなかった。わたくしたち俗衆の坐っている外陣から、本尊十一面観音像を安置した厨子は垣間見るべくもない。東大寺の人たちですら、実忠和尚拾得と伝える秘仏十一面観音像を拝したことがないという。現在奈良の博物館に寄託出陳されている本尊の焼損した銅製光背は、その痛ましい焼損断片であるにもかかわらず毛彫りの仏菩薩群は、まさに天平中期ごろの造立を思わせるすぐれた表現をもち、本尊の造形感覚や造形表現のすばらしさは想像できる。その厨子周囲に積まれた壇供の一部が、ほのぐらい蠟燭の光で照らされているのが、外陣と内陣を隔てた縵幕(とばり)がゆらめく度にほの見えるにすぎない。むしろ、練行衆の行法は、声明の異様な律調と節廻し、神名帳転読の某々明神、何々明神、何の明神という言葉や抑揚のなかに集約され、わたくしの聴覚は一心にそれを追いながら、みることのできない小宇宙たる内陣の練行者の姿を髣髴とする。練行衆の進退居姿は、気配でそれと察せられるばかり。行法代行者の行動は縵幕(とばり)の蔭、内陣の柱でさえ切られてしまっている。この時ほど内陣が近くにありながら、手のとどかない遠方の存在と感ずることはない。そして、不図兜率(トゥシタ)天宮の行法を模して云々という、十一面悔過後起の伝説を思いだした。兜率天という浄土が、聴覚の世界として眼前に現出しながら、視覚的世界としてはまったく隔絶されている。そうした联想は線行衆の縵幕(とばり)を通じて垣間みる姿や、外陣のわたくしたちの限の前で時折り五体投地を演ずる姿に、兜率天と現世を結ぶ三道宝梯を瞬時に昇降する、此の世ならぬ存在者と錯覚するほどである。
 しかし、聴覚の世界であった内陣の兜率天は、練行衆の走りの行法といった劇しい遶道(にょうどう)作法を始めると、ゆらめく蠟幌の光が縵幕(とばり)に落すスクリーンに、妖しげな僧侶の影法師が、まるで廻り燈籠のように忽然と出現しては消えてゆく幻想世界に変る。その幻想をさらにかきたてるのが法螺貝のピプゥー、ピプッーと響き交わすなかに、南無觀世音菩薩と連続して唱える唱名の調律、それに床を踏み鳴らすおどろおどろしい響きの交錯である。そのクライマックスは原始宗教に共通する恍惚の瞬間がある。しかも、行動する練行衆の「南無観、南無観、なむかん、ナムカン、ナンカン・・・・・・」と絶叫に似た
唱名と激しい走りに、観る俗衆が魂をうばわれて吾を忘れる瞬間がある。行動する者と観る者、彼岸の世界の者と比岸の覚めた者が此の瞬間に合致する。この時、十一面観音厨子前にひれ伏す自らの姿を発見するのである
 わたくしは、十一面悔過が、数百年前から連綿と続いてきた行法として、練行衆たちの姿ばかりを考え過ぎていた。最近、南都七大寺の諸行事を拝観する人びとが増えて、これらの行法が好奇な眼にさらされている。言葉を換えて言えば、行法をショーの一種として眺めようとする人びとの登場をひそかに懸念していた。けれど、喧騒と身じろぎのなかで、ある瞬間、現世の俗衆が兜率天宮の行法執行者である練行衆のなかに同化して、霊の交感と親和する。この経験は驚くべきことであった。確かに、わたくし自身の心の底にも、また周囲に蝟集した拝観者のなかにも、行法のクライマックスである韃靼、大松明、お水取りと集約的に観ることを望んでいる。能率を尊ぶ現代的な感覚が働いてはいる。ちょうど、古典音楽愛好者が、自分の好む楽章主題を待ちわびながら、交響曲全曲を辛棒強く聴くように。行法の拝観にそうした似かよった心緒を不図感じたりするが、交響曲全体の流動を、一つ一つ主題の変奏展開と追いながら没入して聴き終る人もある。これは好奇から出発して、やがては好奇心を超脱して法悦へと入りこむのである
 わたくしは、東大寺実忠和尚の姿を造仏活動や修法活動の面からとらえてみようと、研究テーマに選んでいる。それゆえ、二月堂の十一面観音悔過とお水取り行法も研究の一部分をなしている。けれど、最初の拝観には、そうした研究材料を蒐集し、体験を通じて行法の構成要素を解きほごしてみるだけでも容易でなかった。そして行法を練行衆が行うものとして客観化するより、やがては、自らが悔過会に参加して、静止してみる者から、働く者、行動する者へと自然に移っていってしまった自分をみいだし、驚いた経験が鮮やかに浮んでくる。
 内陣の厨子を中心に遶道(にょうどう)する動きをみているうちに、わたくしは、インドの仏蹟遺構の幾つかを想像し始めた。拝観していた当時、わたくしにとってまだインドは書物を通じての憧憬の世界であって、具体的ではなかった。それでもこの行法を眺めながら、サンチーのストゥーパ基部に欄楯(らんじゅん)を設けて右行遶道(うぎょうにょうどう)するその行動に、単なる釈迦ゴータマの遺身(サリーラ)崇拝から脱して、超人覚者(ブッダ)であるゴータマに懺悔してゆくうちに、その行法者がだんだん清浄な身体となり、やがて現世的な利益や幸福を得ることができるという思想が生れ、その行法に希望がたくされていたように転化していっただろうことは、納得がいっていたのであった。
 こうして書き進んでいるうち、二月堂内陣の夜半の闇と燭火の世界と、暑熱を浴びせかける陽光のもとで輝く石造のサンチーストゥーパを観た世界が、あまりにかけ離れていて、右行遶道(うぎょうにょうどう)行法と二月堂悔悔過修法との一致はあり得ないように思われてくる。むしろ、こうした状況と観念は、大乗仏教となってからのインドデカン高原の石窟寺院、アジャンター石窟やエローラ石窟といった、摩崖を切り開いて造った洞窟寺院内陣がふさわしいように思えてくる。僧侶たちの住む学校であり宿舎でもあった僧院窟(ヴィハーラ)と、内陣にストゥーパを安置し祀る行法の場である塔院窟(チャイトヤ)からなる仏教石窟寺院で、もし二月堂悔過法要のような行法がなされるとすれば、ストゥーパを巡らす列柱によって醸しだされる塔院窟(チャイトヤ)こそ適わしい。暗黒のなかに局限された場所を造り、ほのかな人工光線のゆらめくなかでストゥーパの周囲を遶道(にょうどう)し、読誦を行う。しかも、ストゥーパには仏、菩薩の半浮彫り像が彫出され、ゴータマの遺身崇拝というより、その像を対象とする悔過が行われたのではなかろうか、との連想を誘う。アジャンター石窟の第九、一〇、一二、二六窟の塔院は大きく天井も高い。二月堂内陣の簡素な建築装飾にくらべて、列柱にも長押(なげし)にも装飾文様が氾濫し、外廊壁面を飾るグプタ朝絵画の豪華さ賑やかさもかけはなれているかに見える。けれど浄土的な道具立てはアジャンター石窟はととのっている。デカン高原の石窟寺院が、いずれも山中の渓谷にあり、摩崖に噴き出す清水や、渓流の清浄な水に恵まれている点、僧侶の集団生活にとって不可欠な立地条件ともみられるが、摩崖内陣奥深くにこうしたストゥーパを構成し、人工光線のほのかな光りのなかで行法を執行する点と水の問題が興味をそそる。
 練行衆の五体投地の響きは外陣にきびしい雰囲気を造りだし、退屈しだした拝観者の心を揺り動かし、睡たげな眸に輝きを与える。やがて、内陣から外陣に松明が振り舞わされ火焰の舞踊が始まる。木造家屋内でこうした松明が持ち運ばれること自体、石窟の冷やかな雰囲気と構造の日本的展開様相の一つと思われる。火焰が時折り長押を舐め廻すかとばかり建物部分に近づけられ、思わず肝も冷やすと同時に、拝観者から嘆声の入り混った吐息が洩れる。わたくしは、火に関する宗教儀礼民間信仰の種々相をここでも、長々と語りたい衝動に駆られるが、また他に譲ろう。
 悔過修法の掉尾を飾るお水取りの儀式は、外陣から屋外、階段を下りて若狭井まで行列の後についてゆかなくてはならない。人びとは立ち上り、屋外で歓声と足音が夜半過ぎの痛いほどの空気を揺さぶる。若狭井が、御蓋山(みかさやま)中腹の泉水脈の一つといってしまえば、それまでだが、この行事の水に関する民間信仰と、観音菩薩が沙漠帯社会で信仰されていた水の女神アナーヒタのインドでの習合と考えると、この行事はなかなか意味深長である。十一面観音悔過に若狭井の霊水が捧献されるのは、観音菩薩のインドでの出自を考えないわけにいかぬであろう。
 かつて、わたくしは、この二月堂悔過法要の創設者実忠和尚を、新羅系法相の流れをくむ朝鮮系僧侶と推定したことがあった。新羅が航海術に長じて山東半島を根拠地に、南海貿易に活躍して南伝系仏教の流入に大きな役割りを果したが、新羅にインドのアジャンター石窟や、エローラ石窟を具体的に模倣した遺構のない今、にわかに実忠を媒介として結びつけるわけにはゆかない。中国大同石窟にも遶道(にょうどう)のできる塔院窟の名残りもある。北魏を通しての北伝大乗仏教でも説明できはする。しかし、十一面悔過には何処か南伝の嗅いがある。そして練行衆の真率な行法への投入振りをみていると、国家も帝王も、民衆をも越えた自らの悔過懺悔の姿を、そして、小乗系仏教教団の僧侶の姿をすらわたくしは髣髴としたのであった。
 
 
 
お水取り 坂東三津五郎(※たぶん八代目)/p166
 
 お水取り、という行事は、天平勝宝四年から始まった、千二百年続いている行事で、若狭の国小浜から、千二百年前水を送る約束によって、その水を閼加井屋(あかいや)の中で真暗な井戸から、香水用の水を汲む、その行事をお水取りと言うと、なにも私が書かなくても、歳事記を見ればわかりやすく書いてあるし、
 水取りや こもりの僧の 沓の音
 芭蕉の句はお水取を拝観すれば、名句だということが、すぐわかる。
 お水取りは三月十二日の夜、正しくは十三日の午前二時頃に行われる。
 私は三年続けて拝観した。といっても、もう古い事で、初めての時は、今の築地の金田中の若いおかみさんが、まだ十七才位で、奈良の月日亭の娘さんであった頃、私の娘と仲良しだったので案内してくれた。
 練行衆のお籠している、籠り屋へ伺った時、練行衆が「みよちゃん、今日は中へ這入ったら、あかん、外に待っててあげなさい」と言われたのを覚えている。
 ここにいる練行衆の生活が面白い、紙衣(かみこ)を着て、不思議な美しさを持つ懸け行燈を掛け、紙で作った状差しのようなものから、芝居で旅行者が着るテシマがここでは重要な役目をしている。薦(こも、むしろ)で作った敷物だ。
 二月の二十日から三月の十五日までは、女人禁制で、不浄を断って合宿して、毎日行をする。しかしこのお籠りしている所の拝観は、特別の人でなければ、無暗みに来られたら大変困られるだろう。毎夜七時頃、大松明(青竹の三間の長サ)を燃やし二月堂に上って行く、それからいろいろむずかしい行法が行われる。
 青衣の女人、で有名な過去帳を読むのは、五日と十二日の初夜である。
 走の行法と呼ばれる行で、タタタタと走って来て五体投地つまり体を床にたたきつけるのがある。これを拝観している時、お堂の外から、女人の声で、
 「俊ちゃん(私の実名)あんた中にいられていいわね、外は寒いし、暗いし、本当に裏山しいわ」
 とやられて冷汗をかいた。女人は吾妻徳穂女史であった。夜明しで寒いし、暗いし、女性はお松明とお水取りの行列だけ見ることにした方がよい
 お堂の中に居ても説明があるではなし、お燈明の明りだけが照明だから、余程前もって勉強してゆかぬことにはなんにもわからない。
 私も三度拝観しているし、大和上、練行衆、堂童子なぞにお知り合が多いが、まだはっきりした印象はつかめていない。ただ一度お水取りの行列がお堂から下りて来る時、雪がさんさんと降って来た。私は石段の下から一寸五六段上った所に立っていたが、私の三段屋上に中村貞以さんが黒いマントを着て立っている。そのマントに雪がさんさんと降っている。上から大松明を堂童子が持って下りてくる、つづいて練行衆が法螺貝の音とともに静々と下りてくる。本当に絵のような景色で、去年芸術院賞授賞の折、中村貞以さんと御一緒だった。これも奇縁であったが、その話をしてしまうのが私にはなんだか惜しかった。
 それより私はお水取りの水桶の枠と天秤棒が見たかった。それはまぎれもない根来(ねごろ)なのだ。東大寺のお水取りの用具は根来の宝庫である。今日我々の家庭で使っている二月堂会卓という机こそ、お水取りの食堂の作法で使用する。それの写しを大正初期に作らせたのが、すっかり一般化したものだし、あの有名な日の丸盆も裏に、「二月常練行衆盤二六枚之内永仁六年十月日漆工選仏」と銘がある。東大寺にも裏に大導師と記されたもの、ほかに番号の書かれたものが十余枚残って居るそうである。いま世の中に出ているのも十一枚位あるのではないだろうか、写し物にもちゃんと銘が書いてある。私も写しを持って居る。本物も二度ほど見た。
 応量器も食堂で飯を盛り、その真中に杓子を突き立てる。これも根来だ。
 東大寺にある根来室町時代の銘記のあるものばかりのようである。俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)根来寺の関係は想像がつくが、なぜ室町以後の物だけ残ったか、俊乗坊重源の大仏再建の時の調度は残らなかったか、過去帳青衣の女人後白河天皇の御代ごろの人と云っているが、一度、東大寺さんの調度品を調べて貰ったらまだなにか発見があるのではないか。
 東大寺本坊の結解料理(けっけりょうり)、あれも室町らしい。つまり室町からこちらの儀式と調度が多く残った。ということは、それ以前の物は早くにお寺から出てしまったのかもしれない。
 元德式(一三三〇)と書いた油壺も東大寺のもの。
 建武五季(一三三八)の布薩盥(ふさつたらい)は法隆寺、銘記のない根来の調度品は東大寺にいくらもある。お水取りの調度品は我々が見ることが出来ないが、あの天秤棒と水桶の枠も何かに発表してほしいものである。
 仏具を納める、閼加器を乗せる閼加折敷(アカオシキ)、食堂内で用いる木鉢、碗、会器類。
 時香盤(時間を計るため香を焚く盤)、この底には銘記がありはしないか。私は裏が見たい。
 香盤を割るという言葉が生れ、役目をきめる書き物を香盤と言うようになり、歌舞伎の役割を定める書き物を今日でも、香盤と言っている。
 芸妓の玉代(花代)を線香と呼ぶのも、線香一本が立つ時間を、花代いくらときめ、お線香をつけると言う。
 私はお水取りの行事を拝観するごとに、調度類を、明るい所でゆっくり拝見したいと思う。いつもそればかり考えている。お水取りの行事に使用されている、おびただしい数の調度品の中に、新しく作られているものと、何百年つづけて使われているものが、不思議に一体となって調和し、新鮮な美しさを出している。
 お水取りの晩だけでなく、修二会全部をゆっくり拝観することを、おすすめする。
(歌舞伎俳優)
 
 
 
お水取り讃 黛敏郎/p169
 
 お水取りの行法に、はじめて私が接したのは、もう七八年まえのことになるが、そのときの驚きと感激とは、いまも忘れることが出来ない。
 三月十二日の籠松明の晩で、二月堂の長い石段を次々と運び上げられ、堂上から大車輪の如く振り廻される十二本の松明の壮観もさることながら、私を感嘆させたのは、内陣で修される悔過法要のすばらしさだった。
 大仏開眼天平勝宝四年に始まり、以来一年も欠かすことなく今日まで続いているこの行法は、疑いもなく本邦最古のものである。
 二月二十日から始まる試別火から数えれば、三月十五日までの一ヶ月近いあいだ、参加する十一人の練行衆たちは厳しい戒律を守り、三月一日に常燈が点じられてからは、日に六回、日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝と、それぞれ式次第や内容の異った法要を厳修するこの修二会なる行法は、実に大規模にして複雑な構成を持っている。
 内陣の奥、練行衆たちが声明を上げ、お経をよみ、行道し、五体投地をするあたりは、格子窓越しにうかがうほかないので、どんな秘法が行われているのか知る由もないが、いずれにせよ、こんなに神秘的で、ドラマチックで、かつ原始的なエネルギーの横溢した祭典を、私は他に知らない。
 それは、巷間云われているように、文字どおり火と水の祭典だが、私に云わせれば、加うるに音の祭典でもある。
 緩急とりどりの声明はもちろんのこと、内陣せましと響きわたる練行衆たちの沓の音、ホラ貝、鈴、五体投地の板の音・・・・・・すべての音響が渾然一体となって、仏教の持つ初源的、呪術的雰囲気を盛り上げる。これは、いわば信仰と、己を律することの厳しさから生まれて、千二百年以上の歳月にみがき抜かれてきた巧まざる叡智と演出の結晶であり、ドラマ以上のドラマ、芸術以上の芸術であろう。
 文献によると、日本仏教の声明は円仁慈覚大師と、弘法大師とが、相前後して唐から伝えたことになっている。前者は比叡山天台声明として今日に至り、後者は高野山真言声明となって、仏教音楽界の二大潮流を形成している。ところが、お水取りに代表される奈良の声明は、このいずれにも属さぬ別格なのだ。恐らくは、慈覚弘法以前の奈良朝に、大陸渡来の僧や帰化人によって伝えられたものに違いない。それほどに、奈良の声明は、平安朝以降の日本化が施こされていない、まだ大陸文化と日本古来の文化が混然としていた時代――つまり奈良朝の息吹きを、脈々と伝えているのである。
 お水取りの声明のうちで、最もポピュラーな「観音宝号」を見てみよう。頭(とう)と呼ばれるリーダーと、加衆といわれるコーラスのかけ合いに終始するとの声明は、二月堂の本尊である十一面観音の称号をただ唱えるだけのものだが、その音楽的構成は驚くばかりの精緻さだ。
 まず頭が、ゆるやかな詠嘆調で「南無観自在菩薩」と唱うと、加衆が同様に答える。かけ合いが繰り返し進行するうちに、それが「観自在菩薩」になり「自在菩薩」になり、やがてテムポが徐々に速くなって「南無観自在」となり、ついには「南無観、南無観」の繰り返しのうちにクライマックスに到達して終る。このあいだ、拍子のリズムは、字数の増減と共にまるで生き物のように微妙に変化し、極めて、効果的なクレッシェンドとアクチェルランドをもたらす。典型的な序破急の見事な構成であり、これはどの劇的緊張を持った声明は、他に全く見当らない。
 それは、抹香くささの附きまとう仏教という既成概念とは全く無縁の、明るく、逞しく、大らかで、エネルギッシュな、大陸的かつ古代的な世界である。こうした声明に触れると、人は、仏敷そのもののイメージまで、大幅に変改せざるを得ないだろうし、また、その意味からも、私は、奈良声明に、人々が、とくに他宗派の仏教徒が、注目すべきだと考えるのだが・・・・・・。
 お水取りの声明には、他にも、微妙に音程が上っていく興味深い「如来」、メロディックな「散華」、敬虔にして借らかな「観音悔過」、そして独特なヒナびた味わいを持つ「神名帳」や「過去帳」その他、とてもここに挙げきれぬ、おびただしい数があるが、更に附言しなくてはならないのは、その配列の巧みさである。
 静の次には動、緩の次には急と、随所にホラ貝や鈴、そして音音をひびかせた行道や、走りの行法なども加えて、最も長い初夜の二時間にわたる長いステージを、飽かさずに次々と繰りひろげられるさまは、まさに壮絶としか云いようがない。
 お水取りや、薬師寺薬師悔過――これがまたお水取りと双璧をなす奈良声明の一大宝庫なのだが――に代表される奈良時代の遺産は、大陸渡来の文明に始めて接したわが古代人たちの、比類なき叡智と感覚、そして同化力の尊い結晶として、飛鳥、白鳳、天平の仏像仏画とともに、未来永劫に伝えていかねばならないし、同時にまた、それを、現代的観点から再認識し、その強靭なエネルギーを衰弱した現代に注入して起死回生をはかる努力も必須とされよう。
 ともあれ、毎年、私は、二月も末に近づくと、居てもたってもいられなくなる。お水取りが呼んでいる。千二百年来の父祖の声が、魂の叫びが、あの二月堂の内陣から、呼び寄せているような思いに抗しきれなくなるのだ。来年もお水取りに行こう。そして再来年も、その翌年も、またその翌年も・・・・・・。生きているという実感を、このときほど強く感じることは無いのだから。
(音楽家)
 
 
 
修二会の行法と西アジア・原始キリスト教の儀式 マリオ・マレガ/p171

 

 修二会という珍しい行法は、日本中で唯一ヵ所奈良の二月堂で行われるもので、この行法の起源については、次のような伝説がある。そもそもこの儀式は日本で始まったことでなく天国で始まったという天平の昔、実忠和尚という東大寺の僧侶が笠置山で龍の洞窟を渡って天国についたところ、おみずとりのような儀式を見たというのである。そしてこのような式をたてるためには生身の本尊が必要だと教えられた。そこで和尚は浪速の浦で熱心にお祈りしたところ沖からピカピカ光る七寸程の小観音が海を渡って来た。それが人はだのような温かさをもった小観音像だったので、二月堂にまつって修二会の本尊としたということである。

 

 
 二月堂 東大寺が出来上った頃、東大寺や附近の寺々の地図が残っており、そこに良弁は自分の名前を記しているが、東大寺の東側に羂索院(三月堂)と千手観音の堂が描かれているが、二月堂の図がない。春日宮の代りに「神の地」と書いてあり、二月堂の図だけがないのは不思議なことである。
 昔のキリスト教会の聖堂はみな東に向って礼拝する。というのは祭壇が東の端で、礼堂が西の端ということである。奈良のすべての寺は南に向いている。東大寺大仏殿、薬師寺西大寺唐招提寺法隆寺、大阪の四天王寺などみな南大門から北方に建てられている。しかし二月堂だけは礼堂が西にあり、内陣は東側に建てられているのは興味あることである
 
 過去帳 修二会の行われる期間中、毎日の儀式の一つ「六時」と称する勤行の中には主に観音菩薩に対する祈りがあるが、その他に過去帳神名帳の朗読がある。その過去帳の中に青衣の女人の名が記されている。出現した婦人についての説の中には、源頼朝に関係のある女性であったろうとか、或は他の高貴の婦人であったろうと、色々の説がある。私どもにはこの青い衣を着た女性は、聖童貞女マリアを連想させる。
 
 神名帳 神名帳は昔の古いお宮の目録である。その中に秦(はた)の大明神というのが三回となえられる。昔、奏の馬賊ペルシャ(Partia = Pata)から日本に来たこと佐伯好郎教授の説である。東大寺の大仏が出来あがった時、支那から中臣名代(なかとみのなしろ)が十九人の外国人を連れて渡ってきた。その中に三人の波斯(ぺるしゃ)人がいたのである。
 
 神道的行事 三月一日の暮方に咒師(悪魔をう僧)が中臣大祓(なかとみおおはらい)を唱え、最後の日には咒師が二月堂の東南にある飯道(いいみち)の詞で豊年祈願を行う。この祈願には色々の異なった穀物の種をささげて祈願する。キリスト教の国では春の満月の後、即ち復活祭後に全ての穀物がよく実るように大祈願祭が行われる。その折には諸聖人の連祷といって修二会の神名帳と似たことが行われる。
 
 六時 十一人の練行衆は毎日二十四時間の内に六回(日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝(じんじょう))、参籠所から祈願のため二月堂に上って行く。これは「六時」と称する。しかし昼の十二時にも食堂に集まって約一時間近くの祈りを唱えて十五分位の食事をすませる。この時も生ける人々と死せる人々のためにお祈りするのである。つまり六時(六回の祈)だけでなく七回の式があるといってよい。
 キリスト教の神父たちも昔から毎日、ダビドの詩篇を教会や修道院などで、一堂に七回集まって唱える。「日没」の集まりをキリスト教では日暮と称える。修道院の夜の第一のつとめは「初夜」にあたる。第二の夜のつとめは「半夜」にあたり、夜の第三のつとめは「後夜」にあたる。修道院の人々は今でも夜三回起床して、礼拝堂に集まり、一緒に夜のつとめの祈りをする。朝早くの分は朝課といい「晨朝」にあたる。昼の部を讃歌といい「日中」にあたる。修二会で祈りの行をこのように分けてあることも珍しいことである。ヨーロッパでは神父たちが詩篇を唱えることを「時の行」と称している。
 
 別火 イエズ・キリストが春の最初の満月の金曜日に殺され、次の日曜日に墓の中から復活したことを記念するために、毎年その復活祭に適当な準備をするために三週間断食を続けることがあった(三世紀頃)。この断食は一日一回だけ食べるが、肉類、玉子、牛乳を遠慮する。
 修二会の三週間の僧侶たちの別火と、三世紀頃のキリスト教信者の断食とよく似たところがある。無論、現代のキリスト教にはこんなに厳しい規則は廃止された。
 
 小観音 三月七日に行われる小観音の儀式と同様な式が、東西西洋のキリスト教会にある。すべての教会の主な祭壇の上には二月堂内陣の須弥壇の上にある厨子と同じように、キリスト教でも聖櫃があり、その中にパンのかたちの下に生けるキリストが在わす。即ち復活祭前の木曜日に、当日のミサ聖祭が終った後、そのミサを行った導師が、祭の聖櫃にある御聖体(生きたキリスト)を礼堂の左側(主祭壇の左側)の小さな祭壇に運ぶ、そこには沢山の蝋燭、花をもって飾り、神父たち信者一同はそこの御聖体を礼拝する。
 この式は二月堂で小観音の厨子を礼堂(外陣)の左側に運んで礼拝するのと同じである。また二月堂では厨子の中に七寸位の小観音がおわし、それは暖かな体をもって生きていられる。
 
 十一面観音 この観音菩薩という名は、セイロン島の小乗仏教一切経にはでていないが、西暦三四百年頃から大乗仏教の書物に見られる。この哲学の神が全知全能であることを現すために、昔の人がそれをアヴァロ・キテスヴァラ(かんのん)と呼んだ。
 斯様なアイデアを現すために、仏像に沢山の手をつけたり、いろんな表情の顔をつけたりしたのは、神が人の善行に対して喜び、悪行に対し反対し怒り、改心しないと地獄の罰を与えるということなどを示すためである。
 二月堂での祈りの中に十一面観音菩薩の顔についての説明がある。一つのアイデアを示すため、物質的なものを使うことは、聖書の中にもその例がある。例えば、旧約聖書の中に、神の全能の代りに、神の腕が罪人を減すとか、神の角が敵をおさえるとか・・・・・。しかし神は霊であるから腕や角など実際にはない。ただ一般人にわかるよりに腕とか角とか書いている。十一面とか千手とかの言葉も同じである。
 
 涅盤講 カトリック教会では、キリストである本尊(聖体)を主な祭壇から小観音のように向って左側に移し、主祭壇に神は不在である。またそれぞれの祭壇から花瓶、花、蝋燭、祭壇の掛布などまで取除き、そのままの状態を翌日の夜まで続ける。これは修二会の涅槃講によく似ている。
 復活祭前の金曜日にはすべての教会でキリストの涅槃講が行われる。即ちキリストが我等のために十字架上で殺されたことである。
 この儀式の時は、花も蠟燭も使わないで、導師と他の司祭がみな白色の長い衣だけを着て本尊のない祭壇の上に「五体投地」を行う。
 
 一徳火 修二会では三月一日の朝三時半頃から「一徳火」の行がある。童子は礼堂のすべての灯が消された後に、火打石をもって新しい火をつくり、つけ木によって常灯に火をともす。この常灯は大きな鉢に油を一杯満たしたもので、長さ二米の燈心の束が戻してあり、それに火がつくので、周囲まで大変明るくなる。次に堂司という僧侶がその燃える常灯を内陣の中の祭壇の西側(礼堂に向って)におく、この時からすべての祭壇の灯、その他廊下などの灯は皆この常灯の火からとられる。現在キリスト教では、火打石で火を起すのは復活祭前日の土曜日の午後十一時から十二時頃のことである。教会の門の前の地面で、消炭のようなものや木屑などをおき、火打石で火をつくる儀式である。現在どこの教会でも油の灯の代りに、二米または三米位の高い蝋燭に火をつける。その蠟燭をイースター(復活祭)の蠟燭と称し、復活したキリストのシンボルとしている。
 
 お水取り 三月十二日に若狭井から二月堂まで水を運ぶ儀式があるが、ヨーロッパにもアジヤにも、復活祭前の土曜日(籠松明)復活のキリストの蠟燭の式がすんだ後、外から厳かに水を教会に運ぶ儀式がある。その水を内陣にある大きなたらいの中にいれ、大導師がその水の上に色々の祈りを唱え、その中にオリーヴの油と香をまく、その水を行列をもって洗礼堂に運ぶ。残った水は、すべての信者に分ける習慣があり、その水のことを聖水という。
 以上は毎年(昭和三十六年より)修二会を拝観してきた私の所見の一部であるが、今年、私と一緒に修二会を拝観した一外人は、この行法に見られる熱心な勤行を我らの信仰の模範としたいと賛辞を送った。
 
 走行 エルザレムではシリア、レバノンなどの東洋キリスト教の司祭達は復活祭の前日に「走行」を行う。聖福音に、弟子のヨハネとペトロが市内からキリストの墓まで走ったと記されているのを記念して行われている。その時の声明と音楽は日本の歌と音楽に似ている。
(神学博士)
 
 
 
私のお水取り拝観記 渡辺武/p174
 
 入江泰吉さんの写真と杉本健吉画伯の墨絵の「お水取り絵巻」とに魅せられて、修二会行事の拝観は、永い間の夢であったが、実際に深夜の行を、始めて拝見する機会を得たのは、十年ばかり前のことであった。今京都の国立近代美術館におられる乾由明さんをさそって、深更まで拝観し、二月堂から程近い観音院にお泊めいただいた。若狭井からお香水を汲むクライマックスの行事の混雑をさけて、十三日か最終日の十四日だったと記憶する。この日は水取りの十二日と同様に達陀行法が拝観できる。
 お香水や籠松明の炭の信仰や遠陀の帽子を小児の頭にのせて無病息災を願う風習、漢薬牛黄や食堂での旧いしきたりによった食生活、入浴それにおこもり中の救急薬上七日薬、下七日薬など、お水取りの保健衛生に関する行事は、職業柄とくに興味が持たれた。
 お水取り行法中の八・九・十日の三日間は牛玉(ゴオウ)日といって、お守をつくる日である。香水と牛玉墨とによる墨汁で、総別火坊で準備され、牛玉箱に入れて、内陣に納められた牛玉・陀羅尼を、一枚一枚練行僧が祈念して、丁寧に手摺りの護符がつくられる。満行まで堂内で祈念されたこのお守は、古くから皇室にも献上されてきたと聞いている。
 牛玉墨には漢薬牛黄が混ぜられていて、この護符を牛玉宝印または牛玉宝命といって、厄除けの護符とされ、熊野権現のものと共に、その由来は有名である。この特殊な符印を押した牛黄紙は、いつの頃からか、請願文や武人の誓詞、起請文などに使われだした。二月堂修二会練行衆の起請文にも、裏面に牛黄宝印のある牛質紙がのこっていて、除疫病や願満行などの文字があり、その間の消息を物語っている。牛黄は仏の異名、宝印は重宝な符印の意と解され、誓詞に万一違反することがあると、神仏の罰によって死ぬものと信じられていたのである。
 牛黄宝印を略して牛印(ゴウイン)となり、漢薬牛黄の別名となった。牛黄が解熱・鎮痙・強心・解毒の効や赤血球の産生促進作用、免疫原としての作用があるとされていることから考えると、民間で難病、急病の際に牛黄紙の護符を、水に溶して服用することも、まんざら由ないことではない
 そのころの二月下旬の寒い日、お水取り行事の四職(大導師・和上・堂司・呪師)の一つ大導師職につかれた上司海雲さんから、至急便を受取った。別火入りしてから、折からの寒波で、感冒扁桃腺炎にかかられたというので、日暮れの戒壇院の別火坊に、お見舞いにでかけた。別火入りしてからは、斎戒沐浴精進の身で、俗界不浄の手を触れられないので、平常通りに主治医の診察を受けられない。漢方薬なら注射したり、聴診器を使ったり、休診、腹診などで不浄の手にふれなくとも、望診や問診だけで、投薬ができるだろうからと云うことであった。
 そのとき張壁に掛けられた守本尊・観音経・阿弥陀経・各種の念珠・襷(たすき)袈裟・美しい絵が描いてある紙手(こうで)などの間に、上七日薬上七日滓と墨書した袋が二つ釘にかけてあるのが目に止った。これは明治以前は、宮中からお水取り中の救急薬として下賜され、発病したとき服用されたもので、使用済みの煎じ滓も勿体ないので、滓入れの袋に移したものと聞いた。
 今は形式的にこれまでの伝統通りに、空の薬袋と煎じ滓入れの袋とどをお水取り行事中部屋に吊って、一週間たつと裏がえし、下七日薬・下七日滓と墨書した方を表にして、後半に入ったことを示すだけの役目を果すものとなっている

 

 寒い早春の連日の荒行では、そして発病しても医師の手にかかれないという危険にさらされているのでは、この救急薬は何としても復活する必要がある。十余名の練行衆が前後一ヶ月足らずの期間にそなえての薬なら、微力な私個人でも用立て寄進できる数量である。その後東大寺にのこるお水取りの古文書を調べていただいて、お水取りのお薬の処方を探すことになった。
 大導師覚悟記などの筆写本に、二月堂宿所の薬(薬師院調合)と円空上人の方などがあって、その処方を見ると、文字通り昼夜をわかたない苦行に備えた薬方だけあって、痰飲を除き、咽喉を保護し、消化を助け、胃腸を護り、大小便を利し、血行を盛んにし、身体を暖め、寒さに耐えることが期待できるものであるが、これだけの資料では、上七日薬・下七日薬の別も判らないし、使用に不便であり、救急薬としては、なお不備である
 光明皇太后孝謙天皇天平の昔、東大寺の大仏さまに奉献された数々の漢薬と漢方薬は、献物帳に誌されたその御遺志によって、その後百年間東大寺正倉から出庫して実用に供されている。今日でもその大半が正倉院宝庫に尊蔵され、当時の薬物の姿を識ることができるが、おそらく修二会の当初には、お水取りのお薬にもそれが使われたものと考えられる。そして正倉院薬物の応用の基準になったのは、その中にみられる紫雪金石陵などの製剤の出典である唐の薬方書、備急千金要方千金翼方それに外台秘要方などであったことも明らかである。東大寺正倉に納められた麝香・熊胆・真珠・人参・沈香・辰砂それに牛玉宝日に使われる牛黄、こうした貴薬から構成される救急薬で新しい修二会のお薬をつくれば、一番お水取りにふさわしい有効なものになると思いついた。千金・外台の唐の漢方書にこれを求めると、今日の六神丸・奇応丸などの原処方である麝香牛黄円があり、強心・強肝・健胃・整腸・鎮静・鎮痛・解毒の著効がある。しかも速効性の救急薬である。以来この麝香牛黄円の調進は、早春のわが草古堂薬室の年中行事となり、修二会に寄進した残りは、近親の護身薬に当てられることになった。
 別火坊や本行中のきびしい食生活にも、古い昔のしきたりが遺されていて、開心が持たれる。食堂の作法は昼間の行事で、食堂入りまでの昼前の時間には、宿所で練行衆の人達と談話が許されるので、お見舞いをかねてたびたび拝見した。
 古い記録はないが、大正七年院士日記、昭和十一年修二会別火坊日記、昭和廿七年閏二月修二会別火坊日記などで献立表を見せていただくことができた。院士は院司の下僕と云われ、今日は童子の宿老の者から選ばれ、試別火の二月廿日から三月十五日までの食事の菜を調え、小綱の監督のもとに、日々の材料を調達する役柄で、お水坂りの裏方の一人である。
 一汁一菜で一週間分の粗末な精進の献立で、後半は繰返し同じ献立で進められている。
 
 私がつばきをかじり始めてからは、お水取りに椿花があることを知ったときの感敵は大きかった。観音に供養する生花として、南天の造花と一緒に椿の造花が大小の生木のつばきの枝に挿して飾られた、修二会中の本堂の景観は、印象深いものである。それは、かって正倉院宝庫で孝謙天皇が正月の厄除けの行事に使用された、卯日棒杖を拝見した時の感動と同様な、天平の椿の発見のよろこびであった。
 以来この椿花のためにも、お水取り拝観は、欠かせない私の早春の年中行事となった。
 お水取りの椿は二月堂椿とも、御堂椿とも呼ばれている。それは行法前別火坊で、特定の花ごしらえの日――例年二月二十三日――に、紅白の和紙で花びらを、黄色の和紙でおしべをかたどって作られる清楚な造花で、大きな三つの桶に一ばい、およそ三百輪あまりも咲いた豪華さは、薄暗い別火功に文字通りばっと花咲いた華かさを加える。この椿の造花は総別火に入ってから、緑濃い生木の椿の枝につけられ、三月一日からの行中、観音に献花される。椿は早春の花木、歳寒の三友松竹梅と同類のもので、春を告げ、春を迎える花である。関西ではお水取りがすまないと春が来ない、この行事は春を迎える行事だと信じられている。それに迎春の椿がもっとも効果的に使われていることは由あることである。
 その花型は一重の五弁で、一弁ずつ紅白に咲きわけるもので、現存のつばきの品種では、このような咲き方をする椿花は見当らないので、それはつばきの花を暗い燈火の堂内で最も効果的に見せるための創作品と考えていた。
 ところが先年伊予の椿探訪のとき、松山の旧家で狩野永徳筆と伝えられる六曲一双の椿絵屏風の古椿花図を観る機会を得たとき、その中にこのお水取りの椿花そのままの花形・花色の椿絵を発見した。金屏風に一面五枚の椿絵色紙を貼りまぜて、都合六十種の椿花が椿銘をそえて描かれていて、園芸学上にも参考になる貴重な美術資料であった。

 

 それには、これより下った江戸時代の園芸書の百椿集や地錦抄に見られる品種以外にも、数多の稀品種が金銀極彩色で図示されている。二月堂椿は、銘もその花にふさわしい「一枚かはり」と記されていた。
 お水取りのこの花づくりが、他の多彩な行事と同様に天平時代から引続き伝えられたものとすれば、「一枚かはり」は奈良時代に作出された、世界中で一番古い椿の新花ということになる。また桃山から江戸初期のすぐれた園芸家が、二月堂椿のすばらしい造形にヒントを得て、作出した新品種とも考えられる。
 日本のどこかにこの「一枚かはり」が遣っていないだろうか。私の興味はそんな方面にも飛んで行くのである。
 修二会中のある日、入江泰吉さんと宿所に堂司の北河原さんらをお見舞いに寄ったら、思いがけずこの御堂椿の格調高い生菓子がつばきの緑の薬を添えて、お薄の接待にすすめられた。それは北河原さんの考案でお水取り中の菓子として、奈良の菓子匠につくらせたものと聞いた。鶴屋八幡の椿の菓子に玉椿と千代八千代というのがある。この千代八千代は紅い花弁と鶏卵で黄色のしべを形どったものであるが、お水取りには厳格な精進で、鶏卵入りの菓子も禁制だから、北河原さんの御堂椿には、勿論卵は入っていない。
 
 
 
 
あとがき ―お水取り余情― 入江泰吉/p179

 

 三月に入ると、夜更けの住居に、鐘の音がかすかに聞こえてくる。二月堂で始まったお水取りの、夜半の勤行を告げる内陣の、鐘の音である。
 昭和二十年、奈良に帰ってのち、東大寺旧境内町に住むようになって、毎年耳にする鐘の音であるが、そのひびきに誘われるかのように、お水取りには、十余年間を欠かさず参籠してきた。
 二月堂については、子供のころの思い出にも連らなる。
 母が、二月堂の観音さんを信仰していた。私は、朔日の月詣りの日のくるのを待ちかまえていて、母のあとについて行った。礼堂に籠って一心不乱に読経する母のそばに、神妙に控えていた。
 私には、本堂の北側にある、うどんや、おでんなどを商うお茶所に、その目的があったのである。
 お水取りの行法中にもついて行ったことがある。局のなかは昼でも真っ暗で、寒さもきびしいうえに、行法もまた、子供心に、退屈きわまりないものだったが、それでも我慢していた。
 そのうちに、声高らかに唱和される観音宝号の”南無觀自在菩薩”を耳にして、その緩急軽妙なリズムに、すっかり愉快になり、一生懸命に習い覚えた。
 或る日、家のなかで、大声をはりあげながら弟と二人して”ナムカン ナムカァンジイザイボーサー ジーザイボーサー”と、得意になって真似ているうちに、絵を描いていた兄に、ひどく叱られたことも思い出される。また、初夜の上堂松明の振りかざされる本堂舞台廊の下に悪友たちと待ちかまえていて、舞い落ちる燃え残りの木ぎれを奪いあい、騒ぎまわったこともあった。
 二月堂には、そのような他愛もないが、少年時代のなつかしい思い出に連らなることにもよるが、終戦後、再びお水取り行法を拝観してみて、そのドラマチックな荘厳美に強く心ひかれ、十余年間を、欠かさず参籠するに至ったのである。
 行法に仕える仲間や童子たちは、私を古練扱いにしてくれるが、しかし、この行法についての深い意義はいうまでもなく、そのスケジュールにおいても全貌をいまだに知り得ないありさまである。
 それほど大寺にふさわしい大きなスケールと、複雑多彩な形式をそなえる行法なのである。
 また、行法の創始された天平勝宝四年以来、今日に至るまでの千二百十余年の永きにわたって、一回として絶えることなく、法灯は護られてきた、といわれる。
 戦争も末期の昭和二十年といえば、国内もまた緊迫した情勢に追いつめられた時代であるが、その年にも行法は欠かさず勤修されたそうである。
 その年の行法も、ようやく演行の日に当る三月十四日、奇しくも大阪が大空襲にみまわれ、私たち家族も罹災した日である。
 後日、練行衆のかたがたから聞いた話であるが、その夜も、B29の烈しい爆音が引っきりなくとどろくなかで、秘かに行法は続けられ、いよいよ最後の晨朝の勤めを終え、お堂を出ると、夜半の生駒山の空一団が、真っ赤に燃えるすさまじい光景が、映ったそうである。
 お水取り行法は、春とはいえ、まだまだ余寒のきびしい三月一日から十四日間にわたり、十一面悔過去を中心にして、連日、六時の行法といわれる日中·日没・初夜、半夜・後夜・晨朝の六回に分けられた、それぞれ異った行法を、厳しい戒律のもとに修められる。
 その行法の舞台となる二月堂の北正面の石段下、細殿をはさんで、南に食堂、北に籠りの僧の宿所がある。いずれも鎌倉時代の建築である。その宿所の四部屋に分れた各部屋へは、食堂作法の始まるまでの午前中に限り、俗人――女人禁制であるが――の入室を許され、茶菓を接待される。
 部屋の奥の、中央の太い丸柱に、松明に使われる青竹の根で作られた花活けが懸り、活けられた梅や、藤などの季節の花が、その下の懸行灯の明りに、ほのかに映えている。
 諸僧のうしろの腰長押には、仙花紙を二つ折りにした紙手(こうで)とよばれる状差しが、貼られている。その紙手には、有縁の画家たちの手になる絵が描かれていて、なかには杉本健吉さんや、須田剋太さんの絵もみられる。
 その絵と、花活けの花に、法具や袈裟ばかりの、冷ややかな部屋の空気が、やわらげられている。
 日夜きびしい戒律のもとに、練行にはげまれる諸衆のどことなく近よりがたい容貌も、この部屋では、なごやかそうに映る。この宿所でいただく薄茶の味は、格別のものである。
 やがて、正午まえになると、「お茶はいかが」と加供奉行が各部屋にふれ廻るのを合図にして練行衆は、食堂に入られる。
 大導師と堂司とが、交互に行われる祈願が三十分余り続いてのち、食事になるが、これにも珍らしい作法をみられる。
 堂内周に配された十一の食卓、その机、盆、大鉢、椀はすべて根来(ねごろ)塗りで揃えられている。大鉢には一升の量の飯が盛りあげられ、その頂きに杓子が垂直にさされている。
 うす暗い、がらんとした堂内にならぶ食器の、漆の鮮やかな黒と失の色と、諸衆の食堂袈裟の渋い紺の色とが、よく調和して、絵画的な、実に美しい情景である。
 食堂作法が終ると、舞台は本堂に移され、いよいよ六時の行法の序幕が開かれる。
 真っ暗な堂内の内陣正面を閉ざす白麻の大戸帳が、常灯の明りに、うすいオレンジ色に染められている。
 その戸帳の奥から、低いが力のこもった声明の声が、ろうろうと流れてくる。
 お水取り行法の声明のいずれのリズムも、一般的な読経のリズムとは異り、厳そかなうちにも、流麗というか、軽妙というか、いずれにしても抑揚に富み、独得の音楽的な美しさを満えられている。
 声明の合いまに、さまざまな鈍い音色をもった鈴や、ほら貝の伴奏の入る場合もある。
 声明が止んで、静まり返った内陣に突如として、烈しい音がおこり、騒然となる。
 芭蕉の詠んだ”水取りや こもりの僧の 沓の音”の――差懸(さしかけ)ともいわれる――その行道の沓の音である。
 がたッ、がたッと一定のテンボをもちながら床を踏みならされるその沓の音は、広い境内の隅ずみにまで、ひびきわたる。この籠りの僧の沓の音にも印象的な独得のひびきがある。
 また、その沓の音をひびかせながら行道する諸衆の、戸帳に映る影法師が、ゆらゆらと揺れ動いてゆく情景をみていると、夢幻の世界へ引きこまれてゆくようで、恍惚とする。
 さきにも触れた。”南無観自在菩薩”の宝号の声明にも、特徴的なリズムをあらわされている。
 独唱から合唱へと、繰り返し唱えられるその緩急軽妙なリズム、そのリズムに伴い、念珠を操りつつ、手を高くさし上げては下ろす礼拝の烈しい動きのリズム。身も心も一切をあげて詠われる観音賛歌、そのリズムのうちに、法悦の境地の生き生きとしたあらわれを感じられる。
 まだまだ外にも珍らしい行法のかずかずを、十四日間連日勤修されるが、別に特定の日に限って行われる行法も、多く織りこまれている。そのなかでも特に珍らしい、まぼろしの女性”青衣の女人”の登場するドラマチックな”過去帳の読みあげ”、その”青衣の女人”々をモデルにした絵画や、戯曲、或いは能などもみられる。
 また、異彩を放つ走りの行法、諸衆が一様に袈裟を巻きあげ、腕を組み、足袋はだしになって、速歩から駆足へ、次第にスピードを増しながら内陣を、ぐるぐると駆け廻るのである。
 天上界の一日は、下界の四百年に当り、その時差を縮めようとて、ひたすら走り続けるという、苦行ではあるが、珍らしくもユーモラスな感じをうける行法である。けれども、内陣を駆け廻りながら順次礼堂に出て行われる五体投地――全身を地に投げ罪障を懺悔する――その瞬間のひびきに、身の引き緊まる思いがする。
 行法もいよいよクライマックスに達する十二日、初夜の鐘の音を合図に上堂、諸衆に従ってあがる籠松明、径一メートル、重さ八十キ口に及ぶ十一本の炎々と燃えさかる籠松明が、つぎつぎに本堂の舞台廊に運ばれ、振りかざされる。さながら火焰を吐きながら荒れ狂う火竜を彷彿させる、すさまじくも美しい景観である。
 次に、後夜に入って、お水取りと俗によばれる十四日間の行法の象徴的な行法いわゆるお水取りを行われる。
 続いて達陀の行法が始まる。
 この達陀の行法こそ、十四日間の行法中の圧巻といえるだろう。
  「帳上げッ」咒師(しゅし)の命令に従い堂童子は、内陣を区切る大戸帳を、鮮やかな手さばきで、素早く巻き上げられる。
 うす暗い内陣には香煙が漂い、須弥壇に奉安された本尊厨子や荘厳の金具、香花の椿の造花などが、常灯の明りに、かすかに輝いて、こうごうしい限りである。そして、静かである。
 練行諸衆の気配さえ感じられない静けさである。息づまるような静けさが続くうちに、忽然中央に音もなく躍りでた水天。袈裟を身に巻きつけ、金欄の達陀帽をかむった異様なすがたの、その水天が、さッと飛び上りざま礼堂に向って香水を撒くとともに、消え去る。
 その水天が消え去った、とみるまに替って火天が現われ、同じ動作で炭火を撒く。さらに続いて粶(はぜ)を撒き、楊子を投げ、大刀を振り、錫杖を鳴らし、金剛鈴を鳴らし、最後にほら貝を吹いて消え去る八天の行法は、まるで妖怪の魔術をみせられたようである。
 八天が消え去って、内陣は、もとの静けさに戻る。
 しばらくして、内陣の奥に、紅蓮の焔があがる。やがて、その紅蓮の焔の達陀松明は、堂司の手によって、正面に引きだされる。
 灑水器(しゃすいき)と散杖とを手にした水天もあらわれる。
 ほら貝、金剛鈴、錫杖の吹き鳴らされる騒がしい断続音のリズムに合せ、松明は、礼堂に突き出され、引き込められること数回にして、内陣を引き廻され、また、正面に戻って、同じ動作を繰り返し行われる。
 煩悩の穢れを焼き尽さんとして、いよいよ火勢はつのり、内陣は焔の海と化し、まさに、火の祭典のクライマックスに達する。
 そのような荒々しい動作を十回近く繰り返されてのち、燃えさかる松明を、礼堂めがけて投げだされるのである。
 さらに、その松明は、内陣正面に戻され、焰を上にして垂直に立て、三回にわたって床を烈しく突かれる。突かれるたびに、火の粉は松明を支える二人の練行衆の全身に、容赦なく散りかかる。
 実に凄絶な、これが、達陀の行法のラスト・シーンとなる。
 この達陀の行法をもって、十二日の日のすべての行法は終る。
 間もなく練行衆の下堂である。
 初夜上堂のはなやかさにくらべ、下堂はひそやかである。小さな平松明とともに、列をなして、小走りに石段を駆け下りてゆかれる下堂風景には、行法とは違った情趣がある。
 宿所にくつろがれるこの夜の諸衆の表情には、さすがに疲れの色も濃いが、一面、クライマックスの大役を果された安堵の色も、うかがわれる。
 昨年の、この夜のことである。和上部屋で”ごぼう”や”げちや”の接待をうけた。
 ”ごぼう”というのは、粥の汁、”げちゃ”はそのみのほうである。撮影に疲れ、寒さに冷えきった身に、暖い”ごぼう”の味はうまく、なによりのご馳走であった。
 宿所を出ると、すでに夜はしらじらと明けはじめていた。大仏殿の辺りまで下ってくると、うす暗い社のなかの、淡雪ともみえる馬酔木(あしび)の白い花が、目についた。
 ――瀬々のぬるみ――の言触れのようであった。
 
 お水取り行法は、荘厳神秘な音楽的、劇的効果で展開される火と水の大祭とも、いえるだろう。
 それだけに興味深いものであるが、しかし、形式・内容ともに、非常に複雑をきわめ、その全貌を把えることは、容易でない。
 
 この作品集を認めるに至ったのも、東大寺橋本聖準管長はじめ、一山をあげ、特別のご支援と、ご便宜を与えて頂いたたまものに外ならない。
 ことに、永年行法の堂司を務められた狭川宗玄筒井寛秀両師には、いろいろと行法に関するご教示を、また、無理な願いを許して下さった。
 それに、橋本聖準師、安藤更生先生ほか、各界権威の多くの方々のご執筆を得て、私の作品表現の不備の点に対し、いわば画竜点晴して頂いたのであります。
 さらに、この本の企画に当り、非常なご協力を与えて下さった上司海雲師、装幀を快く引き受けて下さった杉本健吉さん、身にあまる推薦の筆をお執りいただいた広津和郎石田茂作両先生。このように多くの善知識のご好意によって出来上ったことを想い、皆さまに、心より感謝の意を表します。
 末筆ながら、この本の出版を引き受けて下さった三彩社藤本韶三氏、ならびに編集にご尽力下さった内藤賛氏に改めてお礼申し上げます。
 昭和四十三年一月
 
 
欧文解説 荻原武 マリオ・マレガ/p1