読んだ。 #日本の歴史をよみなおす(全) #網野善彦

読んだ。 #日本の歴史をよみなおす(全) #網野善彦
 
1991年に刊行された『日本の歴史をよみなおす』と、1996年に刊行された『続・日本の歴史をよみなおす』を合わせて一冊として2005年に刊行された本。
 
百姓=農民ではなかった。百姓とは、さまざまな職業に従事する人々(武士、町人、神官・僧侶など以外)を指す用語だった。
貧しい水呑み百姓として分類された人々のなかには、実際には大規模な交易や様々な産業・事業を経営する裕福な事業家もいた。
日本列島は孤立した孤島ではなく、海や河川が交易路として活用され、海外と緊密な交易を行う貿易立国であった。
かつては穢れを清める職能集団として畏怖されていた人々が、社会の自然に対する認識の変化に伴い、賤民として差別されるようになっっていった、など、
漠然と持っていた日本の歴史の常識(イメージ)が、古文書などの詳細な解析によって覆されてきた、、というようなことが書いてあった。
 
 
 
 
前近代に女性がこのようなすぐれた文学を多く生み出した民族が、はたして世界にあるのかどうか。私はおそらくほかにはないと思いますが、なぜ女性がこのような役割をはたしえたのか、その意味はまだ深く考えられていないと思います。
 そして最初の問題にもからみますが、こうした女流の文学が生まれたのは十四世紀までなのです。室町時代以降、女性の日記はありますが、江戸時代までふくめて女性の文学といえるものは、おそらくないのではないかと思います。これが最初にお話しした、十四世紀を境とした社会の転換と深いかかわりがあることは確実です。
 
 
ところが南北朝をこえて室町時代になりますと、文書はきわめて数が多くなるのですが、鎌倉時代以前に比べると文字に品がなくなります。しかも、大変に読みづらくなる。
()文字にたいする社会の感覚が、鎌倉時代とは大きく変わってきたのではないかと思います。
 鎌倉時代までの人びとは、文字にたいしてある畏敬の感情をもっていたと思うので、それが文字そのものの美しさにつながっていたのだと考えられますが、そうした意識はなお生きていたとしても、文字を使う人にとって、それはきわめて実用的なものになってきた。
 
埋蔵銭
埋蔵物は、当時の考え方では、無主物になってしまうのです。
 
・文字の普及によって社会の均質化が進んだと申しましたが、北海道と沖縄をのぞく日本列島に、丸に四角の穴をあけた銭が流通するようになったことが、日本の社会の均質化の進行にひとつの意味をもっていたことは間違いないと思います。
 
贈りものをし、相手からお返しをもらうという行為がおこなわれれば、人と人との関係は、より緊密に結びついていかざるを得ないことになってきます。これでは商品の交換にはなりません。ではどうしたらモノは商品として交換されうるか。
()モノがモノとして相互に交換されるためには、特定の条件をそなえた場が必要なので、その場が市場である。市場においてはじめて、モノとモノとは贈与互酬の関係から切り離されて交易をされることになるのではないか。市場は、その意味で、日常の世界での関係の切れた、私流にいえば「無縁」の場として、古くから設定されてきたのではないか
()実際、日本の社会では、河原、川の中洲、あるいは海と陸との境である浜、山と平地の境目である坂などに市が立つのが普通です。このように市の立つ場は独特な意味をもった場なのですが、そうして開かれた市場は、日常の世界とはちがい、聖なる世界、神の世界につながる場であると考えられていました
 
・利息
日本の社会の場合、金融の起源を古くさかのぼってみますと、出挙(すいこ)に帰着します。
()このように、交易にせよ金融にせよ、俗界をこえた聖なる世界、神仏の世界とかかわることによってはじめて可能であったのですから、交易、金融にたずさわる商人、金融業者は、俗人にはたやすくできなかったのです。それ故、中世では商人、金融業者は、いずれも神や仏の直属民という立場で姿を現しています
 
・当時市場のなかで起きた事件は、市場のなかだけで処理して、外へ持ち出さないという習慣がありましたが、道もまったく同じで、道でもし殺人事件がおこったとしても、その場だけで処理して、決してそれに関連して、被害者の親族が加害者に復讐をするということはしてはならない場所だったのです。
 そういう性格は、道や市場、さらには津・沖・泊・浜坂などの境界的な場所に共通していますが、神人や供御人の遍歴する場は、まさしくこのような場だったことになります。
 
・階級的な差別とは異なる、身体障害者人に嫌われる病に罹った人に対する差別の実態を、原始社会にさかのぼってみてみると、縄文時代においては、そうした差別はなかったようです。
 縄文時代の零歳の平均余命は十七歳といわれており、大変に酷烈な状態に人びとは置かれていました。ネアンデルタール人にもそうしたことがあるようですが、縄文人の骨のなかに、明瞭に身体障害者と見られる人の骨、たとえば兎唇とか、足に障害を受けた人の骨が残っているとのことで、ある考古学者はこの時期には、人間が生きるということ自体非常に大変な時期であり、人間そのものが非常に大切だったので、そうした差別はなかったのではないかと考えています。
 
ケガレとは、人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、それによって人間社会の内部におこる畏れ、不安と結びついている、と考えることができるのではないかと思います。
 
ケガレに対して人びとは、たんにそれを忌避し嫌悪するだけではなくて、畏怖の感覚をもっていたのです。ケガレを清める力をもち、それを職能にしている非人に対するとらえ方にも、やはりそれに通ずるものがあったと見られるので、そのように特異な、一般の人間にはできない職能をもっているがゆえに、非人は神人・寄人、神仏の直属民という社会的な位置づけをあたえられたのだと思います。
 
・「童名」
「丸」をつけた名前。「丸」をつけるものは、みないわば聖俗の境界にあるものであることに注意する必要がある。鷹や犬などはまさしくそういってよい動物だと思いますし、楽器も同様です。当時の音の世界は、神仏との関係でとらえられており、神仏を呼び出し、また神仏を喜ばせるために用いられているわけで、楽器はまさしく神仏の世界と俗界を媒介するものだと思います。
 船にしても同様で、大海に乗り出したときに人間がいのちを託すものなので、そこになんらかの呪的な力を与えたいという気持がおこるのは当然だと思いますし、戦場で命を託する刀や鎧にしても同じ意味があると思います。こうしたものになぜ童名がつけられたのかということは、童――子どもそのものに対するこの時期の社会の見方と深いかかわりがあり、童自身が、聖俗の境界にある特異な存在と考えられていたのです。
 
ケガレに対する観念が変化してきたことに理由があると考えています。それ以前のようにケガレを恐れる、畏怖する意識がしだいに消えて、これを忌避する、汚穢として嫌悪するような意識が、しだいに強くなってきたことによるのだと思います
 このような社会的なものの見方の変化は、文字や貨幣などの問題と同じように、日本の社会において、人間と自然のかかわり方が大きく変化してきたこととかかわりがあると思うので、自然がより明らかに人びとの目に見えてきたが故に、このようなケガレに対する畏れが消えていったのですが、それにともなって、ケガレを清める仕事に携わる人びとに対する忌避、差別観、賤視の方向が表に現れてくるようになったのだと思います。
 
・そういう状態なので、当然、女性と男性の社会的な地位にはさほどのちがいはなかったと思われます。家父長制は決して確立してはいないのですが、そこへ中国の律令制が導入されるもともと中国の社会は早くから家父長制的な社会ができ上がっていますし、律令は当然その上にできた法体系です。それを受けいれたので、法制的には、日本の律令国家も男性優位、父系、家父長制を採用しており、親族関係を公的にとらえる場合には、原則的に父系、父親の系統でたどるという建前が導入されます
 平民の公的義務である調・庸などの課役を負担するのは男性――成年男子のみ、政策決定にあずかる官人も男性で、女性は裏の世界、後宮に退かされることになるのです。しかしこれは日本の当時の社会の実態と大きく異なっており、建前と実態の摩擦をおこすことになります
 
実際、文字が女性に浸透したということ、それだけではなく後宮の女房による独自な女流文学が生まれたことは、女性が自分の目をしっかり持っていたことを示していると思います。その背景には父系制が確立していない双系的な社会に、非常に強固な父系の建前を持った制度が接合したという事態があった
 すこし極端ないい方をすると、まだ未開の要素を残し、女性の社会的地位も決して低くない社会に、文明的、家父長的な制度が接合したことによって生じた、ある意味では希有の条件が、このような女流文学の輩出という、おそらく世界でもまれに見る現象を生み出す結果になったのではないかと思うのです。これは強固な家父長制、男性の支配の下に女性が置かれていたと考えたのでは、とうてい理解できないことですし、さきほどお話ししたような、女性の社会のなかでの活発な活動の意味も、まったく解釈できないと思います。
 
天皇という称号が安定的に用いられ、制度的に定着するのは天武、持統朝――浄御原(きよみはら)律令の制定のころで、厳密にいえば持統からだというのが、古代史家のほぼ通説になっていると思います。
 ですから、この説にしたがって、史実に忠実な立場に立てば、雄略天皇崇峻天皇はもちろん、天智天皇という「天皇」もいないことになります。こうした厳密さは、神武から数える天皇の代数、しかも江戸時代以来いろいろな数え方をされている代数が、教科書をはじめあちこちで無神経に使われていることからみても、非常に大切なことだと思います。
 しかも、大宝律令のできた七〇一年に遣唐使が中国大陸に行くのですが、その時の使いは「日本」の使いであると唐の役人にいっています。つまり「日本」という国号も、これまで推古朝とも考えられていましたが、やはりこれも最近の説では七世紀の後半、律令体制の確立した天武・持統のころ、天皇の称号といわばセットになって定まったと考えられていますこれも大変大事な点で、このときより前には「日本」も「日本人」も実在していないことをはっきりさせておく必要がありますその意味で縄文人弥生人はもちろんのこと、聖徳太子も「日本人」ではないのです
 それはともかく、まだまだ未開な要素を残している日本列島の社会と、高度な文明の所産である中国大陸の律令制とのドッキングのしかた、これがじつはいろいろな形で列島の国家と社会を長く規定しているのですが、天皇の特異性もこのことと関係しています。
 まず、中国の律令制の骨格は儒教で、天命思想易姓革命の思想(天子は天の命によってその地位にあるので、天子に徳がなければ、天の命があらたまり、天子の姓がかわる。王朝が交替するという思想)がその背景にあるのですが、この国家が律令制を取り入れる時に、この天命思想と易姓革命の思想は注意深く排除しているということが注目されます。もちろん、律令とともに儒教をとり入れているのですから、天命思想と日本の天皇が、まったく無縁であったわけではありません。
 早川庄八さんの研究によりますと、天皇の口頭での発言を文書とした宣命には、明らかに天命思想につながる内容がもりこまれているのですが、それは八世紀という時代の状況の中で、天武・持統の直系の子孫を天皇とし、それ以外の皇統の人びとを排除するための論理として使われている。そして最終的には、天皇皇位継承の裏付けとなっているのは、皇孫思想なので、高天原から太陽神の子孫であるニニギノミコトが、この国土に降り、その子孫が天皇の位につくのだという、私どもが戦争中にさんざん聞かされた、皇孫思想にほかならない。それを合理化するために、天命思想が用いられているにすぎないのです。
 しかしこの皇孫思想は、太陽神の子孫としての天皇の立場を継承するというマジカルな性格を持っており、未開な要素を持つ日本列島の社会の中から生まれた神話に裏づけられたもので、「天」という普遍的で明確な概念を前提とする、天命思想とはまったくちがっているといえます
 
・実際、天皇の称号の定着した持統以来、江戸時代までの天皇は、二、三の例外を除き、みな火葬で、聖武以来仏式ですし、墓も泉涌寺をはじめ、寺院に葬られていたのです。墳丘もつくられていないので、昭和天皇のような葬儀や墓は、明治以後になって、天皇号の定まる以前の、いわば古墳時代のころのやり方を「復興」する形ではじめられたので、これを「古来の伝統」などというのは、まったくおかしいことだと思います
 こうした仏教と天皇との結びつき方については、まだ具体的にはっきりしていないことも多いのですが、十三世紀の後半から、天皇が即位の時に、密教の灌頂の儀式を行う、「即位灌頂」という儀式をやっていたことが最近明らかにされています。こういう密教風の儀式をやったことがはっきり確認されているのは、伏見天皇のときからですが、それ以前からも、これに近いことが行われていたようで、仏教的な儀式と、天皇との結びつきは、かなり強く、しかもそれが、非常に重要な意味を持っていたことを十分、考えなくてはならないと思います。
 
・ですから、異様なほどの力を持っている人について、人の力をこえたものがその人を動かして、異常な力を発揮させているとして、悪七兵衛(あくしちびょうえ)悪源太(あくげんた)悪左府(あくさふ)のように、「悪」をつけてよぶのも同じ「悪」の用法です。金融業者、商人、海の領主、山の領主の組織が「悪党」といわれたのは、「悪」にたいするこの時期のこうしたとらえ方が背景にあったと思います。
 
・海の慣習法
また十五世紀前半に、朝鮮の使者として日本を訪れた宋希璟という人が『老松堂日本行録』(岩波文庫)という旅行記を書いています。当時の西日本の社会・風俗を知るうえで大変おもしろい史料なのですが、その中に海賊についての詳しい記述もみられます。
 この人の一行が、安芸国蒲刈島に泊まったときの話は、さきほどの堅田の話とそっくりなのです。東から来た船は東の海賊をひとり乗せておけば、西の海賊はそれにたいしていっさい口を出さないし、逆に西からの船は、西の海賊をひとり乗せておけば、東の海賊は襲撃をしないというのです。つまり、この蒲刈を境に西の海賊と東の海賊の縄張りがあったわけですが、そこでこの人は東の海賊に銭七貫文を支払って船に乗せ、西に向かって安全に航海したとこの記録に書いています。
 
 
・そういう大陸、半島の動きを、日本列島の動向、さらには東南アジアまでをふくめて、海に視点をおいてもう一度考え直してみると、アジアの歴史そのものの捉え方も大きく変わってくる可能性が十分にあると私は思います。
 十六、七世紀になると、日本も朝鮮も、明、清の中国大陸の帝国も、これまで「鎖国」ともいわれていた海禁政策をとり、いずれの国家も、自らの社会の内部の商工業的な要素を賤しめ、過小評価し続けてきたと思います。それが近代にまで受け継がれ、われわれ自身が、日本について最近まで思い違いをしてきたように、儒教イデオロギー農本主義の影響下にあった地域では、同じような誤解をしているのではないかと思います。
 韓国の学界のようすを聞いてみても、非農業的な側面、海民についての研究は非常に少ないようです。中国も同様のようで、やはりこれまでの日本の学界と同様に、頭からそういう非農業的な要素は社会の中での比重が小さいというきめつけが大勢をしめているようです。
 このように、全体として東アジアの社会は現代にいたるまで、自らの社会内部の非農業的、商工業的な要素を過小評価してきたといえると思うので、それを正当に評価したとき、どのような社会像、あるいは国家像が新たに見えてくるかは、今後の大きな問題になりうると思います。
 
十三世紀前半には、鎌倉や京都などはもちろん、各地に都市的な場所が顕著に現れており、まずそういう場で飢饉がおこったのだと考えられますわれわれ自身の、戦争中から敗戦後にかけての経験からいっても、実際に食糧をつくっている地域はそう飢えるものではありません。そこから切り離されて食糧を購入している都市民がまず干上がるのは、考えてみればあたりまえのことです
 そうなりますと、江戸時代の三大飢饉とされている享保天明天保の飢饉、東北に餓死者が大量に出たとされている飢饉も、単純に東北が貧しいからだとはいえないのではないでしょうか。農村地域に壊滅的な飢饉がおこったと考えてよいかどうか、この点は徹底的に再検討の必要があると思うのです。つまり東北は、意外に都市的な性格を持つ地域だったのかもしれません。だからこそ、作柄の不況によって決定的なダメージをあたえられた可能性も充分あります
 
われわれが今後の国際社会で生きていくため、その中でほんとうになすべき使命を果たしていくためには、日本の社会について正確な理解を持ち、自らについて正確な認識を持っていなくてはなりません。そうでないと、伸ばすべきものをつぶし、無駄なエネルギーを使い、とんでもないところに日本人がいってしまう危険があると思うのです。