読んだ。 #ルソー #エミール 自分のために生き、みんなのために生きる #西研 #100分de名著

読んだ。 #ルソー #エミール 自分のために生き、みんなのために生きる #西研 #100分de名著
 
はじめに 真に自由な人間を育てるために
5 今回ご紹介する『エミール、または教育について』は、『社会契約論』と同じ1762年に出版されました。『社会契約論』が自由な社会の「制度論」を展開したのに対し、『エミール』は自由な社会を担いうる人間を育てるための「教育論・人間論」を展開しています。この2冊はいわば車の両輪であり、2つで1体の書物だといえるところがあります。
 
 カント、ヘーゲルマルクス
 
第1章 「自然」は教育の原点である
子どもの発見
15 子供には発達段階というものがあることは現代においては常識ですが、この当時のフランスでは子どもは「小さい大人」としか見られていませんでした
 
16 万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。(中略)人間はみにくいもの、怪物を好む。なにひとつ自然がつくったままにしておかない。人間そのものさえそうだ。人間も乗馬のように調教しなければならない。庭木みたいに、好きなようにねじまげなければならない。
 しかし、そういうことがなければ、すべてはもっと悪くなるのであって、わたしたち人間は中途半端にされることを望まない。こんにちのような状態にあっては、生まれたときから他の人々のなかにほうりだされている人間は、だれよりもゆがんだ人間になるだろう。偏見、権威、必然、実例、わたしたちをおさえつけているいっさいの社会制度がその人の自然をしめころし、そのかわりに、なんにももたらさないことになるだろう。
(『エミール』今野一雄訳、岩波文庫、上巻27ページ)
 
17 教育の根幹「三種類の先生」による「三つの教育」
①自然の教育=先天性
②人間の教育=普通の意味の教育
③事物の教育=経験から学ぶ
 まず「自然の教育」というときの「自然」とは、人間の内なる自然のことを指します。子どもが手足を自由に動かせるようになったりだんだん言葉を覚えたりするのは、人間の内なる自然によるもので、いわば自然そのものが教えてくれる、ということです。次に「人間の教育」とは、親や学校の先生、家庭教師など、大人による一般的な意味での教育のことです。そして「事物の教育」とは、子どもが現実のさまざまなモノやコトに出会って経験から学ぶことを意味します。
 「自然の教育」における内的発達には段階があって不変なものなので、これが教育の柱になるべきだとルソーは考えます。つまり、この自然の発達段階に沿うようにして、「事物の教育」「人間の教育」は行われなくてはならないのです。
 
「自然人」と「社会人」の対立を克服する
独学の天才、ルソー
 
人間の不平等の起源は農業にある
25 ジョン・ロック『統治二論』
民主主義と人権の思想の源流となった
 <人間は身分などに関係なく、みな対等であり、どんな人間でも、他者の「生命、健康、自由および所有物」を奪ってはならない。それは人が生まれながらにして神から与えられた「自然権」である>。このロックの自然権の思想が、後に「人権」と呼ばれるものへと発展していきます。ロックはさらに、自然権を守るために対等な人々が契約して政府をつくり議会で持って法をつくる、という民主主義の基本的な考え方を定めました。
 ちなみに、ルソーは、権利の根源は神から与えられたものではなく、人間同士の合意に基づく社会契約にあると考えます。そして人民主権の立場を、ロックよりもさらに明確に打ち出すことになるのです。
 
29 未開人は自分自身のなかで生きている。社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見の中でしか生きられない。そしていわばただ他人の判断だけから、彼は自分の存在の感情を引き出しているのである。『人間不平等起源論』
 ここでいう「他人の判断」とは、名誉、富、権力、名声といったものです。つまり、自由な未開人とは異なり、社会に生きる社会人には自分をはかる基準が自分の内側にはなく、他人から評価される基準しかないというのです
 
「エミール」刊行、そして迫害
 
自然の発達に従う――第一編 乳幼児期
36 子どもが、「自然の道にとどまる:つまり本来の発達の道を歩んでいくための、四つの「確率」=「規則」
・第一の確率――自然に与えられた子供の力を十分に発揮させること
・第二の確率――肉体的・知性的な必要を、養育者が助けてあげること
・第三の確率――必要なことだけに限って助け、気まぐれや理由のない欲望には何も与えないようにすること
・第四の確率――子供を注意深く観察し、直接に自然から生じる欲求と臆見から生じるものとを見分けること
 
37 子供が感覚や感情や欲求を育てていくためには、「愛情」が、より正確にいえば「承認と応答の関係」が、必須であるということです。
 児童精神医学者の滝川一廣さんによれば、不快で泣いていた赤ちゃんは、養育者が「おなかが空いたのね、おっぱいあげる」「おむつが冷たいね、取り替えてあげるね」というふうに適切に対応してあげていると、最初は混沌としていた不快から、「空腹の不快」と「冷たさの不快」とが分化してくる。お腹が空いたときとおむつが冷たいときでは泣き声に違いが生じてくるので、それがわかるのだそうです。しかし逆に、「泣いたら哺乳瓶を口に突っ込まれる」というような対応を受け続けていると、感覚がちゃんと分化していかない。ですから、虐待されて育った人には感覚の異常が見られることが多いといいます。たとえば、とても寒い日なのにTシャツ一枚で平気、というように・・・・・・
 これはつまり、子どもの感覚は、養育者が愛情をもって適切に対応するなかで育つということを意味しています。感情や欲求にも同様のことが言えます。「どうしたの、悲しいの?」「怒ったの?」、あるいは「お腹空いたの?」「美味しくなかった?」というように、親が子供の感情や欲求をきちんと承認し、それにふさわしく応答することで、初めて子どもの感情や欲求は育ってくる。そうした承認と応答のことを心理学では「モニタリング」といいますが、このモニタリングがちゃんとなされず、親の機嫌が不安定で、突然起こり出したりするようだと、子どもはいつも親の機嫌をうかがっておかなければならず、自分の感情や欲求を訴えることができません。極端な場合には、「自分はいま怒っているのだ」「自分はこれが好きなのだ」ということもわからなくなります。自分という存在の主体的な核ともいうべき、感情や欲求が自覚できなくなってしまうのです。
 自由な人間になるためには、自分の感覚や感情や欲求を、しっかり自分のものとして自覚できることが重要です。ルソーも愛情の大切さに触れてはいますが、現代の視点から見ると、そうした子どもとの承認・応答関係による、感覚・感情・欲求の主体化(=親の承認と応答によって、子どもは自分の感覚・感情・欲求を自分のものとして自覚することができる)という視点が、やや足りない部分かと思います。
 
41 ヴォルテール『市民の意見』で、ルソーの私生活を暴露、攻撃した。
 
44 ピアジェの4つの発達段階
 
 
 
第2章 「好奇心」と「有用性」が人を育てる
事物から学ぶ消極教育――第二編 児童期・少年前期
47 二度とない快活な年頃の子供時代に、精神的苦痛を与えて無理やりに勉強させたりせず、今を存分に楽しませ、生きる喜びを味わわせてあげよう、愛をもって子どもの遊びを見守ってあげようといいます。
 このような自分の考えに対して、やはり将来が大事だとする異論が多くの人から出てくるだろうが、人間の持つ「先見の明」(未来を予測する能力)がかえって人間を不幸にすることがある、とルソーはいいます。先見の明とは、「私たちを絶えず私たちの外へ追い出し、いつも現在を無と見なして、進むにしたがって遠くへ去っていく未来を休む暇もなく追い求め、私たちを今いないところに写すことによって、決して到達しないところに移す、あの偽りの知恵」だというのです。
 
 「わたしたちの欲望と能力との間の不均衡のうちにこそ、私たちの不幸がある。その能力が欲望と等しい状態にあるものは完全に幸福といえるだろう」
 
最初の「正義」――「そら豆のエピソード」
・エミールはそら豆を植える。しかし、あるときそれが掘り返されていた。それは庭師のロベールのやったことだった。 そら豆が植わっていた場所に実は先にロベールがメロンの種を植えていたのだった。家庭教師は謝罪。その後、エミールと家庭教師は畑の隅を少しだけ使わせてもらうことにする。
このようにして、エミールは、「所有」や「正義」の観念を学ぶ。
 
感覚と運動の訓練
59 だれにもまったく依存しないというのではなく、必要な時に適切な相手に適切な程度で依存できることが、自立なのではないでしょうか。自立した大人というのは、仕事でも生活でも、うまく他人に頼る事が出来る人なのではないかと思います
 なんでもできて他人に頼らないのが自立であり自由なのだとルソー自身が述べているわけではありませんが、頼れるところがあって初めて人は自由に自分の力を発揮することができる、という視点はあまりないように思います。教育や介護のような「支援」の営みにおいても、この視点を自覚することは大切だと思います。
 
「好奇心」による研究の時期――第三編 少年後期
「地球と太陽」のエピソード
太陽の軌道について考えさせる。質問に答えてはいけない。自分で考えさせる。
「問題発見・解決型学習」「アクティブラーニング」のルーツとも言える。
 
・「ヒルの芸人」というエピソード
 
「有用なもの」の学習
・「近くの森が、エミールが暮らしているモンモランシーの北にある」ということを知っていることが何の役に立つのかを教える。あるとき、森で道に迷う。森が北にあるという知識があれば、南に行けばよいことがわかる。そこで、地理的知識が役に立つことがわかる。
この段階で初めて読書を許す。まず最初は『ロビンソン・クルーソー』を読ませる。
 
社会関係を知る
 
 
第3章 「あわれみ」が社会の基盤になる
自己愛と自尊心――第四編 思春期・青年期
77 さて、ルソーはまず、すべての情念の源でありその根本となるものは、自分に対する愛、すなわち「自己愛 amour de soi」なのだといいます。人はみな自己を保存しなければならないのだから、そのために自分を配慮し自分を愛さなければならない。その意味で、自己愛は常によいものであるとルソーはとらえます。ところが、この自己愛という根本的な情念が悪い方向に変形していくと、「自尊心 amour propre」になります
 「自分にたいする愛[自己愛]は、自分のことだけを問題にするから、自分のほんとうの必要が満たされれば満足する。けれども自尊心は、自分のほかのものに比べてみるから、満足することはけっしてないし、満足するはずもない」――自尊心は、自己愛と違って、自分が他者と比べてより優れた存在でありたいという欲望のことです。そこには競争心が含まれますが、競争心には際限がありません。一度他人よりも自分の方が優れていると思えたとしても、より優れた人が出てくれば、さらにその人に打ち勝ちたいという気持ちが生じます。また自尊心は、他人に対して「自分を他の誰よりも愛すること」を、さらに他者自身よりも自分の方を愛してくれることを要求しますが、これは不可能なことですから、いつまでたっても満足することはできません。ですから、「和やかな、愛情に満ちた情念は自分に対する愛[自己愛]から生まれ、憎しみに満ちた、苛立ちやすい情念は自尊心から生まれる」とルソーは述べます。
 
「あわれみ」を人類にまで伸ばす
80 「人間を社会的にするのはかれの弱さだ。私たちの心に人間愛を感じさせるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ」
「こうして私たちの弱さそのものからわたしたちのはかない幸福が生まれてくる」
 
81 「憐れみ(同情)」の三つの格率
第一の格率:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。
第二の格率:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。
第三の格率:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。
 
「同情は快い。悩んでいる人の地位に自分をおいて、しかもその人のように自分は苦しんでいないという喜びを感じさせるからだ。羨望の念はにがい。~自分はそういう地位にはおかれていないという恨めしい気持を起こさせるからだ。」
 
84 「かれは人々の不幸にたいして同情をおぼえると同時に、そういう不幸をまぬがれている自分の幸福を感じる。わたしたちをわたしたちの外にまでひろげさせ、快い生活をおくってなおあまりあるわたしたちの活動力をほかのもののうえにそそがせる、そういう力の状態にある自分をかれは感じる。」
 これは「自分のことばかり考えていないで、お国のために死になさい」「社会のために身を捨てて貢献しなさい」というような、滅私奉公や利他主義の思想とは正反対の考え方です。自分の利益を捨てて善行をなせ、と命ずるのではなく、自分の余った力を他人にふりむけよ、とルソーはいいます。ですから、善行をなしたときに、「よいことをしてあげてよかった。自分は悪い人間ではないのだな」と思うことも偽善ではない。そうではなく、善行は「自分はよいことをしている」と思えるときの「喜び」に支えられて成立する、というのが、ルソーの発想なのです。喜びや快を大事にするルソーらしい発想とも言えます。
 
社会と人間~ ~歴史の教育
どう生きるかの根本の指針を持つ――「サヴォワの助任司祭の信仰告白
 
神の存在と人間の自由
93 「生命のない物体は運動によってのみ動かされるのであって、意思のないところにはほんとうに行動といえるものは存在しない。これが私の第一の原理だ。だから私は、何らかの意思が宇宙を動かし、自然に生命を与えているものと信じる。これが私の第一の教理、つまり、私の第一の信条だ」
 
 「一定の法則に従って動く物質はある英知[知性]を私に示してくれる、これがわたしの第二の信条だ」
 
 「動く物質はある意志をわたしに示してくれるのだが、一定の法則に従って動く物質はある英知をわたしに示してくれる。(中略)そういう存在者が存在するのだ。どこに存在するのが見えるのか、とあなたはきくだろう。回転する天空のなかにだけでなく、わたしたちを照らしている太陽のなかにも存在するのだ。わたし自身のうちにだけではなく、草をはむ羊、空を飛ぶ小鳥、落ちてくる石、風に吹かれていく木の葉のうちにも存在するのだ。」
 
「わたしはこの全体が何の役に立つのかは知らない」
「それぞれの部分が他の部分のために作られていることはわかる」
「だからわたしは、世界は力強い懸命なある意志によって支配されていると信じる。私にはそれが見える。というより、それが感じられる」
 
96 デカルトは『省察』で、人間は二種類の実体でできていると説きました。思惟する実体としての「精神」と、延長(空間的な広がり)をもつ実体としての「肉体」です。実体というのは他から創り出されることのない、究極的な存在という意味の言葉です。つまり、精神は物質から生まれてくるものではないし、また物質のほうも精神とは異なった実体であって、精神から生み出されるものではない、というのがデカルト物心二元論でした。
 ルソーはそれを承けて、精神は自由意志を与えられているので、肉体からくる情念のン命令を自分で判断して受け入れることもできれば、拒絶することもでき、そこに理性が働くと考えます。「神は、人間が自分で選択して、悪いことではなくよいことをするように、人間を自由にしたのだ」。さらに「最高の楽しみは自分自身に満足することにある。わたしたちが地上におかれて自由を与えられているのは、情念に誘惑されながらも良心にひきとめられるのは、そういう満足感を楽しむことができる者になるためなのだ」
 
人生の指針をつくり、「不寛容」に反対する
100 <人生の中で不遇な状況にあっても、やはり人としてなすべきことをして生きればよい。神様は必ず見ていてくれる>。
 
 では、「不遇なときに、どうやってまっすぐに生きられるか」という問いを、「神なし」でどう考えるか。この課題に立ち向かったのが、ルソーよりも百数十年後のドイツの哲学者ニーチェでした。彼が示したのは、<恨みや妬みは自分自身を貧しくする、ということを深く自覚したうえで、わずかであっても喜びのほうに自分を向けていく>という生き方です。この考え方が結晶したものが有名な「永久回帰」の思想になる
 
106 理神論、理性宗教、自然宗教
世界と天地の創造主としての神を認めるが、人格的な意志発動者としての神は認めず、節理・恩寵・啓示なども認めない、合理的な宗教観が「理神論」。ほぼ同義で、人間の自然的理性・洞察にのみ基づく宗教が「自然宗教」。またたとえばカントが道徳の延長線上で考えようとした宗教は、道徳自体が理性に基づいている点で「理性宗教」といえる。
 
 
 
第4章 理想社会のプログラム
ソフィーという女性像――第五編 青年期最後の時期
道徳の最後のレッスン
113 「きみがまだ克服することを学んでいない新たな敵が~立ちあがってきたのだ。その敵とは、きみ自身だ。」
「いまでは、きみは自分で自分にあたえているあらゆる結びつきににばられている。欲望を感じることによって、きみはきみの欲望の奴隷になってしまった」
「どんなことがあっても彼女と一緒にならなければならないとしたら、ソフィーが結婚していようといまいと~そんなことはどうでもいい、きみは彼女をほしがっている、どんな犠牲をはらっても彼女を自分のものにしなければならない、ということになる」
「自分が欲していることにはどんなことにでも抵抗できない者は、結局、どんな恐ろしい罪におちいることか」
欲望を最高の掟にするのではなくて、自分の両親が最高の掟にならなくてはならない
 
115 「有徳な人とはどういう人か。それは自分の愛情を克服できる人だ。そうすればその人は自分の理性に、良心に従うことになるからだ」
「いまこそじっさいに自由になるがいい。きみ自身の支配者になることを学ぶがいい」
<欲望に支配されず、義務・美徳をめがけて生きることにこそ自由と幸福がある>
 
自由=欲望の開放ではない
 
政治の原理を学ぶ――『社会契約論』
「ソフィーはまだ18歳にもなっていない。あなたはやっと22歳になったばかりだ。そういう年齢は恋愛の時期で、結婚の時期ではない。なんという若い父親と母親! 子どもを育てられるようになるために、まあ、せめて、自分が子どもでなくなるまで待つがいい。……
 あなた自身のことを話そう。夫となり父となることを願っているあなたは、その義務を十分に考えてみたことがあるのか。一家の主人となることによって、あなたは国家を構成する者になろうとしている。だが、国家を構成する者であるとはどういうことであるか、あなたにそれがわかっているのか。あなたは人間としての義務を研究してきた。しかし、市民の義務というものを、あなたは知っているのか。政府、法律、祖国(国家)とはどういうものかわかっているのか。……あなたはなにもかも学んだつもりでいるが、じつはまだなにもわかっていないのだ。市民の世界のうちに一つの場所を選ぶ前に、その場所を知ることを、そこでどんな地位があなたにふさわしいかをよく知ることを学ぶがいい。
 エミール、ソフィーと別れなければならない。わたしは、あのひとを捨てろ、と言っているのではない。あなたにそんなことができるとしたら、あのひとは、あなたの妻にならないほうがよっぽどしあわせだろう。あのひとにふさわしい者になって帰ってくるために、別れなければならないのだ。」
 
120 これは、ロックの「自然権」の考え方と対照をなしています。第1章でも触れましたが、ロックの考えでは、自然権とは国家の成立以前に、神から与えられたものでした。人は、他人の生命、健康、自由、所有物を侵してはならないが、そのかわりに自分の生命、健康および所有物は誰からも侵されないという権利をもっている――これが自然権です。
人びとがそのような自然権を主張しつつも上手く折り合いをつけていられる間はよいのですが、ひとたび主張がぶつかり合って揉め事となった際に、それを調停する機関がないと、場合によっては殺し合いにまで到り、復讐の連鎖につながりかねない。このような事態を防ぎ、個々の自然権を守るために国家がつくられるというのです。
 ロックのこの考え方は、アメリカの独立宣言に強い影響を与えています。これは現代のアメリカでも根強く、リバタリアン自由至上主義者)と呼ばれる人たちの考えはこの自然権思想が基本になっています。
リバタリアン<あらゆる正義の中のもっとも根本のものは、個々人の活動の自由と、自分で稼いで得た所有物に対する権利である>と考えます。ですから、自分が稼いだものの一部を国家が税金という形で取り上げて貧しい人たちに再分配するのは盗みと同じだといいます。だから「小さい国家」にして、所有と自由を守るということに国家の役割を限定すべきだと考えます。これはしかし、現在は事実上、白人の裕福層が、黒人やヒスパニックの貧困層に自分たちの富を再分配する必要はないと主張するための「排除の理論」になってしまっているようです。
 それに対して、ルソーの考え方だと、あらゆる権利は社会契約によって生じるので、みんなが対等に心地よく平和共存するために必要な限りにおいて、個々人の権利が認められるということになります。つまり、人びとが平和に共存する公共性のほうを、個々人の権利に優先させているのです
 ただしこれは、国家の暴走を許す論理に悪用される可能背もなくはないので、その点では、ロックの自然権のほうがよいと考える人もいるかもしれません。しかし、公共性を重んじて、権利というのはあくまでもその中で承認されるものだというルソーの考え方のほうが、合理性が高いとぼく自身は考えています。
 
「一般意志」とは何か――民主主義の根本問題
123 「一般意志」の原語は volonte generale(ヴォロンテ・ジェネラール)、「みんなが欲すること」という意味なのです。
 
 「一般意志の最高指揮」という契約条項の言葉は、じつは「人民の主権」を表す言葉だったのです。
 
 この考え方のポイントは、法の正当性の根源は「一般意志」であって、多数の賛成がそのまま正当であることを意味しない、というところです。もちろんいろいろと話し合った結果、ひとつに結論がまとまらないことも当然あるわけで、そのときは最終的に多数決で決めるしかありません。ただし多数決というのは、あくまでも「決めるための方法」でしかないのです。ぼくなりにこの考え方を敷衍してみると、こんなことも言えそうです。――ある法について、それは一部の人たちを苦しめるものであって「一般意志」に反する悪法であると考える人がいるかもしれません。その場合には、「とりあえず多数決で決まったその方には従うけれど、それは一般意志ではないと私は考える」と主張を続けて、それに同意する人が増えていけば法が変わる事もありうる、ということにもなるでしょう
 これはまた、「一般意志」と「全体意志」とは違うということも意味します。すべての「個別意志」を集計した結果である「全体意志」(これもルソーの言葉です)は、しばしば少数派を犠牲にした多数派の意志になりがちです。多数派工作をしたり党派的利害を押し出したりして、一部の人たちの利益をみんなの利益であり「一般意志」であると称して法にしてしまうことが起こりうる。これは、まさしく民主主義の根本問題です。
 
126 さらに一つ大事なことがあります。一般意志の具体化である法はあくまでも「一般的なこと」だけを規定するものとされていて、個別の事項について定めることはできないとされます。ですから、議会でつくられた方を個別の事例に適用することが必要になりますが、これは「行政」(執行機関)にゆだねられます。そして、国王というのは行政の長であって、役人の一人にすぎないとルソーはいいます。あらゆる権利と法の源泉は人民の社会契約にあり、その正当性は「一般意志」にあるのだから、国王もそれに従って行政を行わなくてはなりません。また、議会は定期的に開かれなければならず、そこで行政が正しく法に則っているかがチェックされて、もし不適切であれば行政の長を罷免したり、また選んだりできる。そのようにして議会は行政をコントロールしていくことになります。
 
現代日本に『エミール』を生かすために
129 <ただ欲望を解放したり、他人からの評価や承認を求めて右往左往したりするのが自由なのではない。欲望をコントロールする良心をもち、集団や社会にほんとうの意味で役立つには、と問いながら、しっかりと「自分の軸」をもって生きるとき、人は初めて自由だといえる>
 
132 もう一つ、別の論点ですが、ルソーやカント、ヘーゲルのような、「自由」を求めたヨーロッパの思想家の人間観は、いささか自立と自由に偏っていると感じるところがぼくにはあります。人間観としてはむしろ、「自由と依存のバランス」というイメージのほうが一般性があると思うのです。小さいころに最大だった依存の比率が、成長するにつれて次第に減り、自由な活動の領域が大きくなっていく。でも大人になって何をするにしても、依存を完全になくすことはできません。何かのさいに誰かに相談したり適切に頼ったりできるほうがいいのです。第2章でも論点として挙げましたが、頼らない自立ではなく、適切に頼れる自立が大事だと考えます。
 
 
 
ブックス特別章 自由に生きられるための条件を考える
136 日本の社会には、言うまでもなく、人権と民主主義を土台とした憲法がありますが、私たちは正直なところ、これからどんな社会を形づくって生きていけばよいか、また、そういう社会をになるメンバーにはどのようなことが求められるのかについて、よくわからなくなってしまっているのではないでしょうか。
 なぜよくわからなくなっているのかについて、大まかに二つの理由が指摘できると思います。
 
「公共」にどう対してよいか、わからない
137 私たちの社会は、急速に個別化した社会です。現在よりも半世紀少し前になりますが、1960年の統計では、第一次産業の自営業者が労働人口の約3割いました。かなりの数の人たちが、昔ながらの村の生活、つまり父祖伝来の土地を代々耕す生活をしていたことになります。この状況が激変するのが、60年代の高度経済成長期でした。国は「新産業都市」のような工業化の拠点を各地に作って経済発展を推し進め、多くの若者たちが都会に出ていきました。
 そのとき若者たちが求めたものを、「自由」という言葉で呼ぶことも可能だと思います。田舎では皆が知合いです。安心感もあったでしょうが、昔ながらのしきたりをうるさく感じる人もいたでしょうし、昔からの有力者が幅をきかせるのを嫌に思う人もいたかもしれません。
 そんな田舎から抜け出て、都会で自分で稼いで豊かになる。誰かと恋愛して結婚し、誰からも干渉されない自分たちだけの生活をつくる。文学や演劇や音楽のような、田舎にない都市の文化に触れる。これらは当時の若者たちにとって大きな魅力だったことでしょう。そして、世界史に類がないようなスピードで、日本人は農村の生活を捨てて都会化し「個人」となっていったのです。今、韓国、台湾、中国でも、同じようなことが起こっているわけですが。
 こうして多くの人々が都会で暮らすようになり、農村もまた、かつてのような濃密な人間関係を失っていきました。さらに消費社会化と情報社会化の進展によって、一人ひとりの関心はますます多様になっていきました。こうして「他人には迷惑をかけずに、自分の生活を自分で望むような仕方でつくっていく」という自由を私たち日本人は求めてきたのですが、では、地方自治体や国家のような「公共的なもの」に自分はどうかかわればよいのか、について、ハッキリとした考えがつくられ共有されてきたとは、いえません。
 
141 もう一つ指摘しておきたいのは、市民の中だけでなく、学問や思想の世界の中でも「社会をどのようなものとしてつくりあげていけばよいか」ということ、つまり「社会の理念」が失われてしまっている、ということです。
 
143 国家についても、「国家はそもそも悪である」という見方をすべきではなく、国家の果たすべき役割、つまり、国家の存在理由が市民たちの間でハッキリと理解されていて、それを果たしていないからこそ批判される、というふうになるべきでしょう。「反国家的な気分」をもつだけでは、地域や社会をともに作っていくための思想にはなりません。
 
「自由な社会」の理念から再スタートする
143 こうして、日本社会では「社会理念の不在」が続いてきたのですが、では私たちは、どこを社会理念の土台にすればよいのでしょうか。そうあらためて問うてみたとき、それぞれの人の生き方の「自由」が尊重されていることが、まず必要だと考えます。つまり「一人ひとりが生きていて、それぞれが自分なりの仕方で生きていきたいと思っている。そうした一人ひとりの思いと行動とを、お互いに認め合って尊重する」という意味で、各人の自由の相互承認が、社会の土台となるべきでしょう。
 さらに、そのような人びとが一緒に生きていくためには、人としての「対等性」の感覚を大切にしつつ、必要なことについて一緒にさまざまな都合や事情を語り合いながら、どうやって一緒に生きていくのがよいかを考えあう。そして「一般意志=みんなの欲すること」をルールとして取り出しながら、さまざまな場面や地域での自治をつくっていく。さらには国家としての自治をつくっていく。こうして、一般意志こそが社会の正義の基準となる。そういうことになるのではないか。
 
自由な生き方ができるために必要なこと
やりたいこととめがけるばき価値をもつ――自由であるための条件その1
149 ここで家庭教師は、子ども(エミール)の欲求を尊重して見守っています。子どもの欲求は、養育者の見守りがなければ、より正確には「承認と応答」がなければ、育っていきません。養育者の機嫌が不安定でいつ怒りだすかわからない、そんな状況の下で育つ子どもは、自分がどうしたいかよりも、まずは親の機嫌を先に考えなくてはなりません。そうやって育つと、自分の欲求が自覚できず、自由な人間へと育つための土台をつくれないことにもなりかねません。
 自分の欲求を親に対して表出でき、そしてそれを親から認めてもらう。こうすることによって、子どもの中で自分の欲求がはっきりと自覚される。そして、欲求の自覚が自由な主体性の土台になる。こういう事情をルソーはよくわかっていたと思います。
 
将来のために役立つ技能・知識を身につける――自由であるための条件その2
価値を吟味する力と自治しうる力を育てる――自由であるための条件その3
自由な生き方と自由な社会をめざして
 
 
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