読んだ。 #宮本常一 「忘れられた日本人」を訪ねて 別冊太陽 日本のこころ 148 #平凡社

読んだ。 #宮本常一 「忘れられた日本人」を訪ねて 別冊太陽 日本のこころ 148 #平凡社
 
15歳で大正12年(1923年)4月に故郷の山口県周防大島を離れるときに、父親の善十郎さんが旅の暮らしのなかで身につけた、これだけは忘れぬようにと言われた十カ条。
 
①汽車に乗ったら窓から外を良く見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちが良いか悪いか。村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうところをよく見よ。
駅に着いたら人の乗り降りに注意せよ。そして、どういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置き場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
②村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ。
峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮やお寺や目につくようなものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必ず行って見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。
③金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
④時間のゆとりがあったらできるだけ歩いてみることだ。いろいろなことを教えられる。
⑤金というものは儲けるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
⑥私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえに何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十をすぎたら親のあることを思い出せ。
⑦ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。親はいつでも待っている。
⑧これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。
⑨自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって親は責めはしない。
⑩人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。
 
・大阪逓信講習所 - 大阪市北区中野町二丁目(現在の大阪市都島区中野町)
 
・大阪高麗橋郵便局
 

48 芦田恵之助 生活綴方運動

 
アチックの研究スタイル
「物質文化への着目」
柳田國男「方言周圏論」「民俗語彙」など言葉主義と言えるほどの論理展開に対し、渋沢はモノからヒトの営みの跡を読み取り、人間文化を解明するという、徹底した科学的態度を志向した。
「足半」では鼻緒の結び目や編んだ藁紐の通し方などを正確に見るために、レントゲン撮影を導入。
 
73 八学会とは、民族学民俗学、人類学、社会学言語学、地理学、宗教学、考古学の各界専門家たちが協力し横断的に調査を行う活動
 
138 宮本常一の遺作『日本文化の形成』(全三巻 そしえて 1981)は、当時の考古学や生物遺伝学の最新成果を、豊かな民俗学的人間観の中で統合したきわめて注目すべき論考である。現代考古学の用語で言えば優れた民族考古学的著作と言える。
 その中の論考「日本文化にみる海洋的性格」において宮本は「越」の民に注目している。越の勢力範囲は河南の海岸一帯から、浙江省福建省広東省、広西省(現在の広西チワン族自治区)、そしてベトナムにわたっており、竜を崇拝し、入墨をおこない、米と魚を常食とする海洋民族の国であったとする。そしてこの民族に属する一派が倭人であると考えている。
 宮本によると、この人たちがもたらしたものが弥生文化であった。つまり、弥生文化は海洋性の強いものであるとともに、稲作をもたらした文化なのである。しかもその稲作には鉄文化が付随していた。また倭人に関して、船を持ち、しかも対岸の人たちとも同種同文化を持っているとすれば、海の彼方と比較的容易に交流することができる。日本列島へ稲作が普及していく速度も速かったが、一つには、水路を伝って船を利用してひろがっていったものではないか、というのである。
 さらに、登呂遺跡のように水田のほとりに住居があるためには、住居は土の乾くところに存在しなくてはならないし、水田も耕作しないときは水を落として乾くようにしていたであろうと推測する。宮本は水田農耕の技術を持った人々の多くは、家族が船を家にしていたのではないかと考えている。その多くは筏を汲み、筏の上に床や小屋をつくって家族そろって生活する。揚子江西江ではこのような船住居の人びとは鵜を飼い、鵜を利用して魚をとっている。これは倭人の工夫した技法というより江南から海を越えてもたらされた技法と見るべきであろう。また川を遡るには底が浅い方がゆうりであるし、幅が広いので家族が乗り込むことができ、必要な食物やその種類を積むことが可能である。その筏はまた帆をはったものであろうと推測する。