読んだ。 #ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版 #片岡一竹

読んだ。 #ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版 #片岡一竹
 
 
精神分析が目的とするのは単に「心の病を治すこと」ではない
精神分析は臨床実践である
・言葉を用いる臨床実践
 
・本来「心の治療」とは、身体医学のように身体の一部を相手にするものではなく、精神の全体を対象とするもの。ということは、それは結局、「どう生きていくか」といった、人生の根幹をなす問題
 
・「〈生き方〉を見直すことで精神的負担が緩和され、その結果神経伝達物質の分泌バランスが良くなる」はずなのに、いつの間にか「神経伝達物質の分泌バランスを良くすれば、精神的負担が緩和される」というように、原因と結果の関係が逆転してしまっている。
 
精神分析には「健康」の概念がない
 精神分析が目指すのは、精神障碍に陥った患者の〈治療〉でも、心理的問題の解決の〈援助〉でもありません。もちろん、分析の過程でこういった効果がもたらされることはありますが、それはあくまで副次的な効果であって、最終的な目的ではありません。
 
 しかし精神分析は症状を「異常」や「病気」とは考えず、したがって「健康(メンタルヘルス)」という考え方もありません。ラカン精神分析では疾病分類として神経症精神病倒錯(+自閉症)という三つないし四つのカテゴリーを設けていますが、すべての人は神経症精神病者倒錯者(+自閉症者)のどれかに分類されます。「健常者」というカテゴリーは存在しません。()これらの疾病分類は治療のための分類というよりも、人間の〈生き方〉の構造と捉えるべきです
 
・〈理想〉に苦しめられないこと
 ある意味で、精神分析は〈理想〉に苦しめられなくなるための営みであるとも言えます。
 「こうあるべき人間像」に患者を同一化させるようなことは、精神分析のすることではない。
 
精神分析の主体は患者である
 
・他人を理解することはできない
・患者を理解してはいけない
 よくあるカウンセリングのマニュアル本には、「患者への共感を示すことが重要である」というようなことが書いてあります。しかし、ラカン精神分析の観点から言えば、患者に共感したり共感を表明したりすることには、大きな危険が潜んでいます。それは、患者の他者性や特異性を殺してしまうことにつながるからです。
 「人は皆そういうものですよ」とか「あなたの気持ち、まるで自分のことのように分かります」などといった、一見して優しい言葉の中に秘められた一種の暴力に、分析家は敏感でなければならないのです。この暴力は、特異性を亡きものにする暴力です。
 
患者の話は、意識的に聞くのではなく、自分自身の無意識を働かせながら聞くべきなのです。患者は自由連想に従って、意識的な選択や検閲を働かせずに発言することが求められます。分析家の側も同じです。患者の話は、意識的に聞くのではなく、自分自身の無意識を働かせながら聞くべきなのです。患者の側の無意識の発言を受容できる機械は、分析家の側の無意識に他なりません。分析家は自分の無意識を治療の道具として使う必要があるのです。理論的知識に頼る臨床はこうした無意識の道具化の妨げになります。
 
 
自我(moi)というのは私たちが日々の生活で前提として抱いている「自分」の像、自己イメージのことです。客体化(対象化)された自分と言ってもよいでしょう(実際、「自我」の原語である(moi)は英語の"me"にあたり、目的格になった「私」を指します)。
 こうした「自分」の像は《他者》に支えられたイメージによって構築されています。つまり「自分が自分だと思うもの」は《他者》を通して作り上げられた虚構的なるので、それがその人の本性であるわけではないのです。
 にも拘わらず、ラカン以前の精神分析(ここでは自我心理学)では、自我は人間の自律的な部分だと思われており、「自我を強化すること」が精神分析の目的だとされていました。そしてそのためには「自我が不合理な混沌(カオス)である無意識を統御できるようにする」ことが重要だと考えられていました
 つまり、「精神分析治療を通じて自我が強化されることによって、患者は内的な無意識の力動や外的な環境に適応し、調和をとって生きることが可能になる」というわけです。
 
主体(sujet)
 精神分析でいう主体には「能動的なもの」「統御するもの」「理性的なもの」「意識的なもの」という性格が全くない
 主体は《他者》によって生み出され、《他者》に支配されるもの。
 主体には実体がない。つまりどこかで目に見えるような形で主体なるものが存在しているわけではない。そもそも目に見える形で存在している時点で、それは対象(オブジェクト)になっているわけですから、言葉の上でも主体(サブジェクト)とは言えません客体化(対象化)された自分とは、先述の通りむしろ自我のほうです
 だから、主体の存在を立証するために数字などのデータに頼っても、意味がありません。同様に「私の主体はこういうものだ」と語ることもできません。語ることも対象化の一つだからです。
 
 主体は〈存在するもの〉というよりも、〈生じるもの〉であると考えるべき。
 
 「偽の主体としての自我の外に、真の主体としての無意識の主体がある」という考え方は正しくありません。存在するものは自我だけです。主体は(潜在的にしか)存在せず、瞬間的に〈生じる〉ものでしかありません。
 
 「自分が言おうとしたこととは別のことを言っている「自分」がいた」という形でしか、主体は姿を見せません。このように主体とは二重性そのものだとも言えるでしょう。
 
・特異性と一般性の相克
 「特異性が排除されることによって、無意識の主体が生まれる
 繰り返すように、私たち個々の本質的な部分は特異的です。しかし、私たちが完全に特異的なだけの存在であれば、一切のコミュニケーションが不可能になってしまうでしょう。
 だから、私たちは生まれて間もなく〈一般的なもの〉を自分の中に導入し、その枠内で日々を送ることを余儀なくされます。
 例えば言語はまさにこうした〈一般的なもの〉です。何らかの言語体系がその話者の間で一般的に共有されていなければ、言葉が通じなくなっています。
 自我もまた、このような〈一般的なもの〉の導入によって生まれます。自我とは他者との関わりの中で生まれてくる「自分」であり、他者に見られる限りでの「自分」です。だからこそ、そこには、決して他者が見てとることのできない、その人の特異性が欠けているのです。
 特異性が排除されている以上、一般性の世界は完璧になりません。一般性の世界に入るということは、自分の大事な特異的なものを手放すということに他なりません。そうして生まれた一般性の世界は、つねに「一番大事なもの」が欠けているため、どこか居心地の悪い世界になります。
 この根本的な居心地の悪さがあるからこそ、無意識の主体が生まれるのです。先述の通り、無意識の主体は〈ハプニング〉として姿を見せます。もし一般性の世界に満足しきっていたら、わざわざそんな厄介なことが起きることもないでしょう。しかし心の奥底で何らかの不満を抱いているからこそ、失錯行為のように思わぬ形で反抗が現れてしまうのです。
 精神分析は無意識の主体を現れさせることを目指します。そして無意識の主体特異性とが本質的に結びついている以上、精神分析が最終的に目指すのは、特異的なものが一般性の世界を食い破って出現することです。分析が最後まで進んだならば、それまで一般性の世界にはなかったような、〈全く新しいもの〉が生まれるはずです。
 
 特異性が出てこない限り、症状の苦しみはなくなりません。なぜなら、そもそも無意識的な症状の苦しみは、一般性の世界で特異性が排除されるという、根源的な不満に基づくものだからです。
 といっても、特異性が発現すれば症状が全部消えてしまうというわけではありません。誤解を招くかもしれませんが、精神分析を終えても、いくらかの症状は必ず残ります。ただし大きな変化として、分析主体は、自分の症状に対して、それまでのようには苦しまなくなるはずです。
 そもそもなぜ人は症状に苦しむのでしょうか。その原因はさまざまでしょうが、大きな原因の一つは「症状を持っていると、自分が世間一般の標準から外れてしまう」からではないでしょうか。
 
・特異性と一般性との間の相克は、どちらかの勝利によって終わるものではありません。それは構造的に不可能です。ただ、特異性との上手い付き合い方を見出すことはできます。
 
個性と特異性の違い
 ゆとり教育で言われている「個性」なるものは、学校や社会という一般的なシステムに適合する限りで認められるものでしかない。学校教育が本当の意味で個性を重視すれば、おそらく学級崩壊が起こる。ある人の個性と他の人の個性が相容れるとは限らないのですから。
 個性というものは、「一般論」によって一つの視点から扱われるものでしかありません。他方、特異性というのは、あらゆる一般論からはみ出す過剰な何かのことを言います。
 
 だから現代社会においていかに「個性」や「多様性」というものが尊重され、賞揚されていたとしても、それは社会が特異性を重視していることにはなりません。むしろ個性の重視によって、ますます特異性の問題がないがしろにされると言えます。「こんなに多様な個性を認めてやっているのだから、それと相容れないような<個性>(これは特異性のことです)を主張するのは欲張りが過ぎる」というわけです。
 個性が一般的な基準に立脚して考えられる以上、それは必ず、この基準を司っている権力にとって都合のよいものとして扱われます。権力は社会の中で、何を「個性」として認め、何を「反社会的なもの」として排除するかという境界線を画定することによって、その支配力を発揮するのです。それに対して、特異性とは本質的に反権力的なものです。
 
個性とは、自我に対して用いるべき言葉自我は客体=対象(オブジェクト)化された「自分」であり、そして他者の支えのうえに成立するもの。個性は自我のものである限りで他者に依存しており、他者によって評定されなければなりません。
 
・主体的な特異性は、他者に依存する「自我の個性」とは正反対のもの。それは個性のように対象(客体)として他者に示せるようなものではありません
 
 分析主体は、他者が承認する一般性とは相容れない特異性に悩むのです。精神分析の臨床は、この相克との上手い付き合い方を見出していく過程だと言えます。
 そのためには自分の特異性を認めてそれを引き受けるための「勇気」とでも言えるものが必要。そしてその勇気を得ることができる場所は、自らの無意識と対峙し、その根源まで旅を続けようとする精神分析を措いて他にない。
 
・「本当の自分を教えてほしい」という動機。しかし実際に分析を受けてみると、その望みが叶わないことが分かります。
 なぜなら精神分析の主体とは患者自身であり、分析家はあくまで、患者(分析主体)の自己分析の補助を行うに過ぎないから。分析家の解釈は意味を持つものではなく、むしろ、「意味を切る」ことによって、自分の何気ない発言に潜む〈思いもよらないもの〉に気づかせるためのもの。
 この〈思いもよらないもの〉とは、それまで自我が抑圧していた無意識的なものに他なりません。〈思いもよらないこと〉を言ってしまう時こそ、無意識の主体が姿を見せる瞬間。
 
 
 イメージの領域
 
 言語の〈仕組み〉の領域言語がもつ「意味」の側面は想像的なもの
 象徴的なものとは言語の意味作用(シニフィカシオン)ではなく、意味作用を作り出す言語の構造を指す言葉です。
 
シニフィアンはそれ自体としては意味を持っておらず、意味作用(シニフィカシオン)が生じるためには他のシニフィアンと連接されることが必要となる
 
 私たちはほとんどの場合、言語的な仕方でしかイメージを受け止めることができない
 
 人間は言語的な存在。イメージに触れる際も、言語を把握する際の仕方が大きく影響を及ぼす。言い換えれば、想像界象徴界によって統御(コントロール)されている象徴界の作用をまったく離れた純粋に想像的なものは基本的に存在しない。
 
象徴界には「言語=文化=〈法〉」という等式が見られる
 
 現実界は私たちが普段触れている現実とは異なる領域を指す。私たちが普段生きている「現実」の世界は、言語とイメージ(象徴界想像界)による構築物。一方、真の意味での現実界はむしろ、言語やイメージをはみ出す領域を指します。
 
 
・言語で捉えられない領域は、精神分析の対象にはなりません。
 精神分析神経症などの症状にアプローチできるのは、それがいわば言語の病だから。象徴的なものを基盤とする人間の精神は、言語的な仕方で構造化されています。精神障碍もまた精神の言語的構造のもつれから生まれてくるものであり、だからこそ、言語を用いて精神障碍にアプローチすることが可能になる。それに対して、言語と関係ないところで作られる病、例えばインフルエンザや癌を精神分析で治すことはできません(それらの病気が主体の〈心の現実〉にもたらす影響を扱うことはできますが)。それらは現実界の病。
 
言語を超えた領域
 象徴界の構造自体に根差す不可能なもの全般が、現実的なものと呼ばれるようになった
 
 
・「人を見た目で判断しそうな顔をしやがって」
 
《他者》は〈法〉をもたらすという点から分かる通り、大文字の《他者》とは象徴的なものだと言えます。他方、小文字の他者は想像的なものです。
 
言語の世界の中で生きるようになることは、根源的な《他者》の経験です
 
・人間にとって純粋に想像的なものはありません。想像界はつねにすでに象徴界によって動かされているのです。したがって、人間はまずイメージの世界で生き、その後で言語の世界に入るのではありません人間は最初から言語の世界に生み落とされるのです
 
無意識は抑圧されたもろもろのシニフィアンによって構成されています。だから無意識とは《他者》から受け取ったシニフィアンの集積だと言えるでしょう。主体の無意識を構成しているのは《他者》であり、ラカンはそのことを「無意識は《他者》語らい(ディスクールである」と表現しています。
 
・このように無意識がシニフィアンによって構成されている以上、無意識はシニフィアンの〈法〉に従って動かされていると言えます。
 この「法」は「文法」のような意味だと捉えてください。つまり、無意識はただの混沌(カオス)ではなく、言語的な構造を持っており、そこでは一定の規則が機能しているのです。前述の通り、これは無意識を混沌として捉える自我心理学とラカンとの一番の違いです。
 しかし自我は無意識的なものを抑圧し、その〈法〉を見ないことにしています。そして無意識の〈法〉を無視しようとするがゆえに、想像的なイメージの世界に騙されてしまいます。そうであれば、精神分析の目的は、イメージの背後で作用する無意識の〈法〉を明らかにするように患者を導くことと言えるでしょう。
 
 
・意味からシニフィアン
 「意味」とは想像的なものであり、その扱いに終始していれば、想像界の罠に囚われるだけです。だから分析家は、一見意味のないものに見えるシニフィアンのつながりに注目するのです。
 私たちは普段、言語を意味によって捉えています。それは言語をイマジナリーに捉えているということです。しかし分析の場においては、言語を意味によって使用することを中断し、言語のシニフィアン的な性質が現れることが目指されます。そのためには、意味の中に囚われるのではなく、むしろ意味の外にあるシニフィアンの作用に注目しなければなりません。
 

 
夢解釈においては、イメージはシニフィアン的に解釈されなければなりません。夢に限らず、これは精神分析の鉄則です
 
・「抑圧されたシニフィアンが発話によって認められることで、無意識の〈法〉との関係が変化する
 
発話が治療手段になる
 必要なのは、抑圧されたものの言語化を通じて無意識の〈法〉に関する主体的な変化があることです。自我とは違った主体というものがふと明らかになるだけで、苦しみは緩和されます。なぜなら、そこで患者は自分に書き込まれた〈法〉を見出し、〈法〉との向き合い方を更新できるからです。
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〈法〉に関する変化は、このように「口に出すこと」、つまり発話(パロール)を行うことによってしか生じません。精神分析の治療手段は、患者が抑圧されたものを発話することそのものです
 分析では、発話という行為が精神医療における向精神薬などの治療手段に相当するのです。患者は抑圧された真理を話すことそれ自体によって治るのであって、無意識的なものを意識化することによって治るのではありません。だから仮に分析家が患者の無意識的なものを代わりに教えてあげても、それは治療効果をもたらしはしないでしょう。
 自分の話していることが分からなくても問題はありません。話すことそのものが治療の道具です。だからこそ、患者は自由連想を通じて、全てを口に出さなければならないのです。
 
シェーマL

「a’」は他者(autre)
「a」は自我(moi)
「S」から「a'」を通って「a」に向かう矢印は、他者のイメージを通して自我が成立することを意味します。
つまりこれは鏡像段階を表わしています。主体(S)から自我(a)へ、直接には線が伸びていないことに注意してください。
 自我(a)は他者(a’)のイメージがなければ成立しないのです。
 自我(a)は大文字の《他者》(Autre)からの矢印にも接していますが、これは自我が他者だけではなく《他者》にも支えられていることを示します。
 a→a'の軸は想像的関係(relation imaginaire)を指します。想像的関係とは、まさに鏡像段階によって成立するものです。しかしこの軸はA→Sの軸に割り込んでいます。そのため、《他者》(A)からの無意識(inconscient)のメッセージが主体(S)に届いていません(破線になってしまっています)。
 これは、想像的関係に囚われると象徴的な無意識が覆い隠されてしまう(抑圧されたままになる)ということを意味します。したがって、精神分析が目指すのはAからのメッセージがSに届くことです。そのことによって無意識のシニフィアンは目的を遂げ、〈法〉との新たな関係が生まれてくることでしょう。
 
 
・一九七七年七月七日に七人兄弟の第七子として生まれたマイケルは、一七歳の誕生日パーティの最中、友人から、その日の競馬の第七レースの七枠に「セブンオペラ」という馬が出走する予定だと聞かされた。その馬は七歳で、体重は七七七ポンドだった。
 運命的なものを感じたマイケルは、預金をすべて引き出し、その馬に有り金を賭けた。
 結果は七着だった。
 
・エディプス・コンプレクス
 
 

 
 
・よく聞く「昔の日本は良かった」という回顧主義も「剝奪者としての想像的存在を想定する」ことで成り立っています。こういう主張は、えてして「新しく登場したもののせいですべてが駄目になった」という信仰を守るために、過ぎた時代を理想化しているだけです。本当に昔の日本が黄金郷であったかはどうでもよく、今ある不幸を誰かのせいにしたいだけです。この思想が過激化すると陰謀論ができあがります。
 どんな時代にもそれ相応の不幸が生まれていたのであって、完璧な時代などなかったのです。その時代が黄金期に見えるのは、単にイメージの中で理想化されているからです。
 
 
剝奪から去勢へ③――現実的父の登場と《父の名》の導入
 そうなると、〈父〉は自分と同じレベルにある(それゆえライバルになる)想像的父ではなく、象徴的父として、自分を超越したところにいる存在になります。そのことで子供は、〈母の法〉の中で生きていくことをやめ、普遍的な〈法〉の中で、〈母〉と共に生きていくようになるわけです。〈父〉は現実的父としてファルスという欲望のシニフィアンを与えるだけではなく、同時に、象徴的父として〈法〉も与えるのです。
 
分岐点――エディプス脱出と性別化
 エディプス・コンプレクスの解決としてどちらのルートを選んだかによって、その主体が〈男〉であるか〈女〉であるかが規定されるというわけです。反対に言えば、ここまでの行程で語ってきた「子供」は、まだ性別を持たない存在です。
 精神分析にとって性差は、例えば「ペニスをもつかヴァギナをもつか」という生物学的(解剖学的)な特徴によって決定されるものではありません。〈男〉や〈女〉という性別はあくまでシニフィアン的なものであり、人間固有の象徴的世界の中で決定されるものです。人が「女というものは」「男というものは」などと語る時、そこで言及される「女」「男」が単に生物としての雌雄の問題ではないことは明らかでしょう。
 また人は自分の性別を主体として選択するということも重要な点です。性別とは自然の力によって生まれながらにして決まっているものではなく、エディプス・コンプレクスの出口としてどちらのルートを選択したかによって決定されるものであり、つまり主体自身の手で選び取られるものなのです。もちろん選択といってもこれはあくまで無意識の主体の選択なので、自分は選択していることを知りませんが。
 多くの場合「解剖学的に男性とされる子供」が〈男〉のルート、「女性とされる子供」が〈女〉のルートを選んでいるかもしれません。性の選択は主体的なものではあっても、周囲の影響(つまり性別に関する既成概念)を大いに受けるからです。そもそも主体とは自発的なものではありません。だから選択といっても通常の意志的な選択ではありません。しかし「女性とされる子供」が〈男〉のルート、「男性とされる子供される子供」が〈女〉のルートを選ぶということは可能であり、実際にそういった選択がなされていることも多々あります。
 
ヴェールとは何かを隠すものですが、何かがヴェールによって隠されることによって、その「何か」は「隠されているもの」として過大な価値を持つようになります。実際には何もないのだとしても、ヴェールがあるだけで、そこには隠されている何かがあるように見えます。欠如そのものであるファルスには形がないので、ヴェールを通じてのみその存在を示すことができるのです
 これは欠如としてのファルスを形象化しようとするフェティシズムの戦略と同じです。主体は自分自身をフェティッシュ化します。フェティシズムとはヴェールの機能なのです。
 
 ①〈男〉ルート:現実的父に同一化し、現実的父のように象徴的ファルスを持とうとする(存在から所有へ)。
 ②〈女〉ルート:象徵的ファルスに同一化し、ファルスを持つ現実的父に欲望されようとする。
 どちらのルートも、欲望を欠如として認めたうえで《他者》からやってきた欲望自分の欲望とするための解決案です。エディプス・コンプレクスの出口を経ることで、幼児は初めて「欲望の主体」として形成されるのです。
 
 
・確かに五〇年代のラカンはあまりに象徴界を重視しすぎており、情動や快楽(享楽)などといった、象徴的なものの枠組みでは語れない問題を二次的なものにする面がありました。しかし象徴的なもの以外にもそれに負けず劣らず重要な問題があり、それらは決して無視できません。ラカンが次に向かうべき場所は、もはやシニフィアン理論がそのまま通用しないような、象徴界埒外だったと言えるでしょう。
 一九六○年代に入ると、それらの問題を考えるために、ラカン現実界の探求を主題とするようになります。六〇年代のラカンのメインテーマは、現実界を理論化することだったと言っても過言ではありません。
 そのことと関連して、六〇年代に入ると現実界の定義に変化が見られるようになります。
 それまでの現実界は「純粋な物質世界」のような意味で使われていました。しかし六○年代において、現実界は「象徴界が扱うことのできない不可能な領域」として再定義されます。現実界という用語にそれまでこういった意味合いが皆無だったわけではありませんが、現実界の不可能性がより強調されることとなったのです。
 象徴界現実界を扱えない以上、想像界もまた現実界を扱うことができません。何度も繰り返すように、想像界は徹頭徹尾、象徴界によって統御されているからです。
 かくして現実界とは、イメージ(想像界)でも言語(象徴界)でも捉えられない純粋に不可能な領域であるということになります。現実界はもはや「物質世界」のような実体を持ったものではなくなり、象徴界の穴そのものとして捉えられるようになったのです。
 
・象徴的無意識と現実的無意識
 

 
 
 
欲動の満足は享楽(※Jouissance/ジュイサンス)
 
〈わけがわからない〉ゆえに子供の中に同化されず、外部に排除されてしまう何か《もの》です。それはそこで排除されるので、その後の反復でも戻ってきません。
 《もの》の体験は原初的な満足体験だと語ってきましたが、より厳密に言えば、それを「満足」として把握し、反復行為を通じて《もの》を取り戻したいと思ったりするのは、あくまで《もの》の体験が終わった後のことです。《もの》は、原初的な「満足」体験の中で乳児から排除されることで、初めて「失われた原初的満足のしるし」として機能するようになります。この意味で《もの》の体験とは「理解不能な何かが《もの》として排除される体験」でもあります。《もの》は失われて初めて《もの》になるのだと言ってもよいでしょう。
 そして同じく、享楽もつねに〈失われたもの〉としてしか発見されません。だから享楽は不可能なもの、現実的なものなのです。
 
 
ラカン主体が対象aと結びついて出来上がるものファンタスム(幻想)と呼び、ファンタスムこそが主体の欲望を根底的に規定する公式になると主張しました。主体の欲望を支えるのは(見せかけの)対象ではなく、無意識的に規定されたファンタスムです。つまりある対象の性質(例えばそれが魅力的であるとか)それ自体が欲望を惹きつけるのではなく、対象がファンタスムの中で欲望の対象の場所に位置づけられることで、初めて主体はその対象を欲望するようになるのです。そしてファンタスムが選ぶいろいろな(見せかけの)対象を裏で規定している、究極的な欲望の対象が対象aです。
 だから対象といっても、それは主体が所持できたりするような普通の対象ではありません。対象aは現実的なもの、把握不可能なものだからです。ファンタスムの中での主体と対象aの「結びつき」は、あくまで「隔たりを含んだ結びつき」であり、主体は自分がどのようなファンタスムを持っているか、そこで対象aがどう機能しているかを知りません。しかし、それでも、ファンタスムの中で主体が対象aと関係を結ぶことで、欲望が《もの》を目指す形式が規定されるのです。
 
 
ラカン対象aを「主体が《他者》の世界に参入した際に象徴化されきらなかった残余」と定義しています。対象aはいわば、主体に対して《他者》の世界の象徴化プログラムが実行された際に、変換エラーとして廃棄された一部分(パーツ)です。《もの》のような形で象微界の全き外部へ放逐されてはいないものの、見えないところに潜んでいる一種のバグです。対象a象徴界の全体性の中に還元できない異物であり、ある意味でゴミのようなものです。しかし、だからこそ、それは象徴界からはアクセスできない現実界と繋がる断片となりうるのです。
 欲望は対象aという、自分でもよくわからない謎の異物と結びついて《もの》を目指します。だから人は自分の欲望の真の対象が何かを知りません。ファンタスムそれ自体が無意識的なものですが、その中にはそのファンタスムにとっても異質な何かが(しかもファンタスムの根本的な対象として)存在しているのです
 
 
ファンタスムとは、現実的なものへの問いに対する主体的な答えとして形成される人生の指標です。本人はそれに気付いていないかもしれません。それでもファンタスムはその主体の生き方に対し、無意識的な形で一つの指標を与えます。そしてこの指標によって規定される人生の重要な要素が「いかに気持ちよくなるか」です。
 誤解を恐れずに言えば、私たちが死なずに生きつづけているのは、なにがしかの〈気持ちよさ〉が得られるからです。例えば、何かに成功した時の〈気持ちよさ〉、大切な人といる時の〈気持ちよさ〉、好きな音楽を聴いている時の〈気持ちよさ〉などです。
 この〈気持ちよさ〉とは、つまり享楽です。享楽こそが人生の意味の支えになるのです。「どうやって生きていくか」という問い、それはある意味で、「どうやって気持ちよくなるか」という問いに他なりません。
 
・ただしここで注意すべきなのは、享楽は両義的であって、人生を破壊する危険なものでもあるということです。あまりに過大な〈気持ちよさ〉を得ると、死に至ってしまいます。享楽が破壊的になりすぎないためには、つねに〈余裕〉がなければなりませんそれは「まだ最高の〈気持ちよさ〉には至っていない」という余地のことです。そうした空白部分があるからこそ、私たちは〈他のもの〉を求め、いろいろな新しいことにチャレンジできるのです。
 〈他のもの〉を求めるチャレンジ、それはまさに欲望の本質です。つまりこの余地は、欲望が働くための余地だと言えます。それがなければ、一つの満足にしがみつき、人生全体がその満足に溺れてしまうでしょう。
 それはある種の心的な依存症の状態です。こうした依存は人を一つの(断片的な)享楽の対象に縛り付け、そこから離れる自由を奪ってしまいます。それは実質的に死と近しいと言えます。欲望がなくなって心的な依存症に陥ってしまった状態というのは、中毒的な享楽を与える何らかの対象から離れられず、自分がなくなって対象の中に溶け込んでしまう状態です。それよりは、たとえ欲望が騙される運命にあるとしても(280頁)、騙されていないと思い込んで一つの対象に縋りつくより、騙されたことを(また、そこで騙された自分自身を)しっかり認め、新しい何かにまた騙されにゆく方がいいのです。それが欲望に関して譲歩しないための道です。
 つまるところ、①どういった形で自分が享楽を得ていくかということ、また、②欲望が機能するためにどういった(余白)を持って行くかということ、これが人生の意味や方向を決定づけます。そう、ファンタスムとはまさに、享楽の様式を規定するものであり、また欲望の指標でした。ファンタスムによるこうした規定が、人生の道しるべになるのです。
 ファンタスムは個人的なものとは限りません。もっとも強大なファンタスムは宗教でしょう。宗教は世界規模で人生の指針を与えつづけています。人生の喜びとは何か、正しい生き方とは何か――なにがしかの宗教の教説から、その答えを得る人は大勢います。さらに宗教は、神秘体験などによって、大きな享楽を与えます。すべての信徒が神秘主義者ではないにしろ、日々の宗教的行為が生み出す充実感のようなものは、日常生活の中に一種の満足を生み出します。宗教ほど強大なファンタスムはないでしょう。
 ことほど左様に、ファンタスムは私たちの人生の根幹に存在しています。だからファンタスムについて考えることは人生や世界そのものを考えることに匹敵します。私たちはなにがしかのファンタスムがなければ生きていく道を失ってしまいます。ファンタスムとは、言ってみれば人の生き方そのものの形式なのです。
 
 
神経症者、精神病者、倒錯者は、それぞれ異なった「生き方」の構造を持っている
 そこで問題となるのはあくまで「構造」です。つまり顕在的な症状に基づいた分類は無意味(ナンセンス)です。あくまで、そうした症状を規定している潜在的な構造が問われなければならないのです。
 現代の精神医学では構造論的な問いを捨てて症状の現象(みため)にだけ着目するような鑑別診断が主流です。これは精神医学の治療がもっぱら投薬治療に終始していることと関係しているでしょう。医師は「なぜ患者がその症状を持つに至ったか」という原因を考える必要はなく、「どんな症状か」だけが分かれば、薬を処方して治療を行えるからです。現代の精神医学は原因論を手放しつつあると言えるでしょう。
 それに対して、精神分析はあくまで患者の人生そのものを扱う臨床実践です。したがって精神分析的な疾病分類は、あくまで構造を考えなければなりません。もっと言えば、人生の構造を規定している根本的な要因(ファクター)を考えなければならないのです。
 この要因(ファクター)は〈父〉の問題に収斂する、とラカンは考えました。一言でいえば、神経症者は「〈父〉がいる」ことに苦しみ、精神病者は「〈父〉が何か分からない」ことに苦しみ、倒錯者は「〈父〉が馬鹿にしか思えない」ことに苦しむのです。どういうことか、順番に見ていきましょう。
 
 
もろもろの苦しみは結局、人がみな《他者》の世界の中で生きなければならないということに起因します
 
《他者》の中の〈至福〉に依拠しないような自分固有の「幸せ」を見つけ出すこと。そう、それこそ「特異性」という言葉が表わすもの。
 ただし「幸せ」と言っても、ここでいう「幸せ」はかなり特殊なもので、一般的な意味での幸福と捉えることはできません。つまり「《他者》の中で認められる幸せ」ではなく、むしろ幸せがないことをそのまま肯定するような〈生き方〉を指します。
 一般的に「幸福」と呼ばれるものには、例えば結婚や出産や社会的成功があります。「一般的な」とは、つまり《他者》の世界で「幸福」と認定されているということです
 しかし、努力や幸運の末にそうした「幸福と呼ばれるもの」を手に入れても、きっと虚しさはなくならないでしょう。なぜなら欲望の性質上、欲望の(見せかけの)対象が手に入っても私たちは飽き足らず、もっと〈他のもの〉を求めてしまうからです。幸せを追い求めることには終わりがありません。
 つまり《他者》の世界で認められた幸せを掴んだところで、それはつねに〈至福〉には至らないのです
 
《他者》の承認に依存しない〈特異的な幸福〉
 
・対象と〈理想〉の癒着が引き剥がされた時、「自分が執着していたものは〈理想〉ではなく、単に欲望の対象だった」ということが明らかになります。そのことでファンタスムの仕組みが露わになって解体され、主体は新たな〈理想〉のもと、新たなファンタスムを構築することができるようになります。
 しかし、ここで新たな〈理想〉を見出してしまえば、結局そのファンタスムにも横断の必要性が生じてしまうでしょう。つまり、それでは分析の終結にはならないわけです。
 したがって、重要なのは〈理想〉とは別の場所で「幸福」を見出すことです。〈理想〉とは結局《他者》の世界のものですから、〈理想〉に依拠しつづけている限り、〈至福〉に至れないことへの苦しみは消えません。他方、〈特異的な幸福〉は《他者》の世界において理想的とされるか否かが問題にならないものです。