読んだ。 #ヒロポンと特攻 太平洋戦争の日本軍 #相可文代

読んだ。 #ヒロポンと特攻 太平洋戦争の日本軍 #相可文代
 
特攻兵は出撃前に覚せい剤を摂取していたのではないか?という事に関しては数人の証言があったという感じで、本書の中でも前半に少し語られるだけという印象だったが、その他の特攻隊についての話が強すぎて、もはや覚せい剤がどうとかあまり残らなかった。
覚せい剤よりも当時の日本の、特攻に行かなんて非国民!恥ずかしくないのか!お国の為に死んでこい!というような空気のほうが恐い&ヤバい。
 
 
・旧制茨木高等女学校に置かれた大阪陸軍糧秣廠で梅田和子さんが覚醒剤入りチョコレートを包んだという証言。
 
・戦争という歴史的なできごとの因果関係を掘り下げる「歴史認識」と統一されてこそ「戦争体験の継承」も生きた力となる。国内の困難を国外に排外的に転嫁するのが戦争である。冷静に考え行動する人が多数にならなければ、戦争はまた起こるだろう。そして、大きな戦争であれ、小さな戦争であれ、他国にも自国にも犠牲者は必ず出る。
 
・ アヘンの一大産地だった茨木市
国内では大阪府和歌山県が一大産地だった。なかでも茨木市の福井地区は、「日本のアヘン王」と呼ばれた二反長音蔵がケシ栽培の改良に成功し、地域の農家の裏作として奨励したため、アヘンの一大産地になっていた。
 
国民学校高等科の一三歳以上の少年・少女や、中学生・女学生が多く、ほとんどが二〇歳以下の若者ばかりだった。()立元は機体の解体班に所属し、米軍の空襲でやられたゼロ戦の解体作業をおこなった。
  解体された部品はほかの班によってすぐ組み立てられ、組み立てられた機体はまた出撃していった。壊れたゼロ戦の使えそうな部品を集めて、熟練工でもない若者たちが組み立てた特攻機であった。すぐ油漏れを起こし、飛行の途中でエンジントラブルを起こした。
 私は旧岩川基地(現鹿児島県曽於市)を取材したとき、壊れた機体の部品を見た。本来なら溶接ないしネジなどによって接合されなければならない部品が、針金によって接合されていた
 
総重量が二トンもある「桜花」をつるした一式陸攻のスピードは遅く、兵士がたくさん乗っているため、グラマンの集中攻撃を受けると、犠牲者が格段に多かった。「桜花」が初めて鹿屋基地から出撃した三月二二日は、大隅半島沖合でグラマンの集中攻撃を受け、一度に一六〇人もの戦死者を出した。米軍は「桜花」を「Baka Bomb (バカ爆弾)」と呼んでいた。
 
覚醒剤入りチョコレートを日本で最初に開発したのは、岩垂荘二である。岩垂は太平洋戦争中、陸軍航空技術研究所の研究員として勤務し、航空兵のための「航空糧食」「航空栄養」の研究・開発に従事した。今日では、航空機内は気圧も気温も一定であるが、当時は高度三〇〇〇メートルという上空の低気圧・低温によって搭乗者に負荷がかかり、頭痛・めまい・吐き気などの航空病にかかる者が多かった。訓練によってある程度は体を慣らすことはできたが、長時間の飛行に耐えることはむずかしかった。そこで、研究が急がれたのが「航空糧食」や「航空栄養」だったのである。
 
「仕事を好む」という意味のギリシャ語から採った製品名で、覚せい時間を延長させる作用とともに、精神的・肉体的活動力を著しく高め、判断力・思考力を強め、作業能力を向上させる効能をもつことから、徹夜作業の際に用いるとよい、とされた。
 ヒロポンは強い覚醒作用と興奮作用を持つため、「国家総動員体制」下の日本では、航空兵のみならず、徹夜作業の労働者たちにも積極的に提供された。こうして、ヒロポンは国民に広く普及していったのだ。
 
残念ながら私が調べた限りでは、覚醒剤入りチョコレートを食べて出撃したとの体験談はなかった。しかし、製造されていたのはまちがいない。
 
長距離飛行の途中で眠くならないようにとヒロポン入りの酒まで用意されており、「元気酒」と名づけられていました
 
・その後隊長よりの飛行コース、其の他の細かい注意点など説明の後、軍医官の指示により、腕をまくる。何事だろうといぶかる我々の前で、眠気防止だとか云って一人々々に注射を打って廻る。(戦後四、五年経った頃ヒロポン禍がマスコミ等により報道され、あの時の注射がヒロポンであった事を知る。)
 
今まで酒でふらついていた身体が見る見る立ち直ってくる。その内にシャキーッと酔などどこへやら、神経は昂り身内から闘志が湧いてくるのを感じる。そして水盃をいっきに呑み干し、その盃を地面に叩きつけ、勇躍機上の人となる。
 
蒲原串良で三月中ごろから約二〇〇名の特攻兵の上腕部に、ヒロポンの皮下注射や筋肉注射を打って送りだした
 
・問題は戦後だった。運輸省の技官として勤務していた黒鳥は、通勤の満員電車のなかで奇妙な感覚にとらわれるようになった。
 「押し合いながら乗っている周りの人々の手や鼻が、自分の目に飛びこんでくる感じ」「指や鼻さき、食事のさいの箸など、尖ったものに対する奇妙な感覚」に悩まされ、「微熱と目眩」も出てきて体調を崩した。そのため病院で診察を受けたところ、「航空神経症」と診断され、ビタミン注射と飲み薬の服用を続けた。だが、「異常感覚や体調」は快方へは向かわなかった。ペアだった倉本も症状は違うものの、「捕らえどころのない違和感につきまとわれている」とのことだった。黒鳥は”暗視ホルモン”の影響を疑ったものの、たしかめる手立てもないまま症状に悩まされた。そして、日常生活にほとんど支障がなくなるまで回復するのに四〇年もかかったのである。
 黒鳥が真相を伝えられたのは、症状が消えてさらに数年がたったころだった。かつて黒鳥―倉本ペアに”暗視ホルモン”を注射した脇軍医から、”暗視ホルモン”の正体はヒロポンだったと告げられ、謝罪されたのである。
 
・この時期に海軍串良基地の軍医として、出撃する特攻兵にヒロポン注射を打っていた蒲原宏によれば、串良基地にはヒロポン入りの錠剤もチョコレートもなかったとのことである。ヒロポン入りの錠剤やチョコレートはおもに陸軍が使用したのではないか海軍の串良基地では、もっぱら注射のみだった蒲原は証言している。
 
・一九四四年一〇月に始まり、一九四五年八月まで、約一〇ヵ月間おこなわれた航空特攻による死者はどれくらいか。「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍が二五三一人、陸軍が一四一七人、合わせて三九四八人で、約四〇〇〇人となる水上・水中特攻も含めると、約六四〇〇人が特攻で戦死している
 
表現の自由」は民主主義の根幹であり、最後の砦でもあるもちろん、「表現の自由」の名のもとに、昨今のようにSNSなどで人を傷つけることが許されるわけではないそれは「表現の自由」に名を借りた人権侵害であり犯罪だ表現の自由」にはおのずから倫理的節度が求められ、人権侵害には罰則も適用されるこのことは「表現の自由」を論じるうえでの大前提である
 
甲種飛行予科練習生という制度は航空士官の中堅幹部養成が主で、中学校三年修了の資格があればだれでも受験できる
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 彼らは二年もたたないうちに戦場に立ち、その多くは神風特別攻撃隊の体当たり攻撃要員として若い生命を閉じた戦死者七七七名戦没者率七〇・八パーセントの甲飛十期生――その一人に、磯川質男の姿がある。
 
・当時は特攻で死んだ兵士の家には「軍神の家」という張り紙がされ、通行人はみな敬意をこめて頭を下げた
 
・八月一五日の「玉音放送」を阻止できなかった大西は、一六日の未明に割腹自殺を図り、同日夕に死去新井喜美夫著『「名将」「愚将」大逆転の太平洋戦史』によると、大西は死の淵で物資調達の部下だった児玉誉士夫を呼び、革袋に入ったヒロポンを渡し、「今の日本にとって、残されたものはこれだけだ。これを金に換えて、日本の再建のための資金にしてくれ」と遺言したという児玉は戦後、自民党政権フィクサーとして暗躍した。その資金の一部は、大西から託されたヒロポンから得た金だったのかもしれない。
 
(特攻は)あまり世間を知らないうちにやんないとダメなんですよ。法律とか政治を知っちゃって、いまの言葉でいえば、人の命は地球より重いなんてこと知っちゃうと死ぬのは怖くなる。(少年飛行兵は)十二、三歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、そのかわり小遣いをやって、うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃうんですよ
 
・「第一回傷痍軍人慰安会」が開催された。次の四年生の生徒作文からは、傷痍軍人を迎えて、感激した気持ちが伝わってくる。
 遠くの方で「礼!」と言われた先生のお声が道の側の塀やかべに突き当たって晴れた秋空に高く消えて行った。いよいよ来られたのだ。私達はお隣のお友達と思わずほほえみ合った。やがて「コッン。コツン」とゆっくりした足並みが近づいて来た。拍手の音がそれを追う様にだんだん激しくなってせまって来ている。「来られたよ。来られたよ」と囁きながら互いに手を堅く握り合った。そして一緒に揃って丁寧に御辞儀をした。忽ち付近は拍手の洪水に巻き込まれてしまった。清い白衣に身を包まれた勇士様方。一人々々皆苦しい生死の境を越えて来られたのだ。けれども朗らかなお顔だった!! 元気なお姿だった! 私達は敬虔な気持ちになって感謝の意を微笑に表しながら、痛い迄に打ち続けた
 
 「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによって、だまされはじめているにちがいないのである。
 戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味をほんとうに理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自分を改造する努力を始めることである。
 
「伏龍」は潜水服に構造上の欠陥があった
 
岩井忠正
抵抗不可能の大勢だから従う——理屈に合っている。それ以外にどんなことが可能だっただろうか?だが、一見理屈に合っているように見えるこの立場には根本的な矛盾があることに、当時は気がつかなかった。それはそういう大勢に従うことによって、自分がその大勢を作る一人になってしまったことである。そして自分だけでなく、同じような他の人たちをその大勢に巻き込む手伝いをしてしまったということである。気に入らぬ大勢を自分で支えておきながら、その大勢を理由にこれに従う――ここには勇気の欠如と自己欺瞞があったと思う。
 あの戦争は私が作りだしたものではない。だから私には「戦争犯罪」はないと思う。戦争犯罪人は決定を下した天皇をはじめとする当時の権力者である。だが私にもやはり僅かなりとも「戦争責任」はあったと思わざるを得ないのだ。
 その責任は道義的なものである。この道義的責任は私に義務を課している。現在と将来に対してである。それはそういう大勢を作ろうとする一切の試みに対して、決して傍観者にはならないという義務である。
 
日本は日中戦争開始前の一九三六年の段階でも、軍事費が国家予算の五〇パーセント近くを占めていた。それが日中戦争を始めた一九三七年には七〇パーセント近くになり、敗戦直前の一九四四年には実に八五パーセントを超えていた。国家として完全に破たんしている
 
国民の大多数は民衆である。民衆がほんとうに闘わなければならない相手は誰だろうか。それは自分たちを虐げ、戦争に駆り出す人たちではないだろうかそれぞれの国で、民衆を利用する人たちと闘い、戦争をさせないようにすれば、戦争などそもそも起こらないのではないか。私たちが「闘う」べき相手は身近にいる私たちは他国民と「戦う」のではなく、戦争で儲ける人たちと「闘う」のでなければならない。そのためには、国境を越えて民衆が連帯しなければならない