読んだ。 #訂正可能性の哲学 #東浩紀 #ゲンロン叢書014

読んだ。 #訂正可能性の哲学 #東浩紀 #ゲンロン叢書014

 

 レイ・カーツワイルのシンギュラリティや、落合陽一さんの「デジタルネイチャ―」、成田悠輔さんの「無意識データ民主主義」、鈴木健さんの「なめらかな社会とその敵」、ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」、等、「人工知能民主主義(データ至上主義)」と呼ばれるような、人間よりも人工知能に政治を任せたほうが人類の総幸福量は高くなりそうなのでそういう社会にしていこうというようなムーブメントに対して、東さんは、それをそのまま進んでしまうのは危険なのではないかと考えている。

 

 「人工知能民主主義」は共産主義が終わった後に現れた新たな「大きな物語」である。
 ルソーの「一般意志」はそれがどういったものなのかはっきりとはわからないままに、民主主義社会が理想として目指すものであったが、コンピュータ技術の進歩により、ついに達成できるのではないかというような話になっているようなのだが、ルソーの「一般意志」は実のところ、社会が「できてしまった」後に、「訂正」によって、「遡行的に」発見されたものだった(と、ルソーの『社会契約論』以外の著作などを読んでみるとそのように読める)
 ビッグデータ分析では、例外も統計の一部として取り込み、個々の個人性や統一性はデータとして分解され、主体性は消去されてしまう。
 「人工知能民主主義」によって、常に正しいとされる「一般意志」というものを成立させてしまうと、それは訂正不可能なものになり、新しい全体主義のようになってしまう可能性がある。かなり危険である。各主体が消去されたデータにより表された統計はつねに正しいものとされ、個人が反論する為の主体は消去されてしまっている。
 本当にそのような人工知能が人間の生活を効率よく制御する社会になってしまった場合、人類は幸せに生きていけるのだろうか。「人間とはなにか」「幸せとは何か」というような未だ答えの出ていない問題が最悪の形となって再来する可能性はないのだろうか。

 人間の「正しさ」というものは、つねに「正しさ」それ自体に反対する人たち、懐疑論者が出現し、そこでのせめぎ合い(政治)により、バランスを取りあいながら、「正しさ」が「訂正」され続けることによって持続されてきたものである。
 「一般意志」には必ず「訂正可能性」を持たせなければならない。それは例えば「家族」という概念ように、メンバーもルールもなにもかもが変わっていくにもかかわらず、参加者たちはなぜかみなが「同じゲーム」を行い、「同じなにか」を守り続けていると信じているというように、「閉じて」いながら「開いて」いるものでなければならない。訂正可能性によって、その社会は持続可能なものになっていく。
 正しさとは、正しい発言や行為などが確固として存在するようなものではなく、つねに過ちを発見し、正しさを求める運動としてしかありえないのではないか。
 人類は常に誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということ。

 

 この本で東さんは、ルソー、ウィトゲンシュタインクリプキ、ローティ、アーレントドストエフスキートクヴィルなど、過去の哲学者たちのテクストを上記のような意味で読めるような読み方に読み替え、繋いでいく。
 それがそのまま、過去の哲学を「訂正」していく営みで、その連鎖が人間にできる正義の態度であり、それが哲学であるのではないか、と語られているのではないかと思う。

 
 
 
共産主義による家族の否定そのものが、共同体家族という特定の家族が生み出したイデオロギーでしかなかった可能性
 革命は家の否定から始まった。革命後のソ連では、労働者が家庭に滞在する時間をできるだけ少なくし、共同生活の場にひきずりだすような住宅の改革が試みられていた。にもかかわらず、もしその家の否定が、それ自体特定の家族形態によって支えられる価値観でしかなかったのだとすれば、これはどのように考えればいいのだろう。だとすれば、プラトンヘーゲルによる家族の否定もまた、同じように別の家族形態に支えられていたのかもしれない
 
ぼくたち人間はしょせんは家族をモデルにした人間関係しかつくれないのではないかという疑いである。家族のかたちが異なるだけで。
 
言語ゲーム言語ゲームにおいては、プレイヤーは自分がなんのゲームをプレイしているか理解することができないし、またどんな規則に従っているかも理解することができないいったいなんのゲームをプレイしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている、それこそが言語の本質。
 
家族的類似性家族の比喩を、共同体が閉じているさまではなく、むしろ閉じることができないさまを意味するものとして使っている
 
クワス規則も意味も本当は実在せず、現在の行為を支えているはずの規則や意味は、未来の行為に照らしていくらでも論理的に遡行的に書き換えることができる
 
一般名は定義の束に置き換えることができる固有名は定義の束に還元することができない。
固有名は、その定義を遡行的に訂正することができる。だから一般名とは異なる論理的な挙動をする。この固有名の奇妙な性格こそが、開かれているものでも閉じているものでもない、「家族」という第三の共同体の構成原理となる
 
クリプキの考えでは、固有名の指示対象はそもそも定義により決定されていない。「多くの話し手にとって、名前の指示対象は、記述によってよりもむしろコミュニケーションの「因果的」な連鎖によって決定されている」。ここで「因果的な連鎖」とは、話し手が特定の固有名の意味をだれからどのように教わり、またそのひとがだれからどのように教わったのかという、きわめて具体的な言葉の伝達の連鎖を意味している。クリプキは、固有名の指示対象は、そもそも定義ではなくこの言語外的な連鎖によって決まるので、逆に定義をいくらでも訂正できるのだと考えた。
 
政治とは本質的に、「友」と「敵」の対立を基礎として敵を殲滅する行為。
 
あらゆる問題が論争の対象となり、人々は友と敵に分かれ争っているが、マルクス主義のような大きな枠組みはもはや存在しないので、現実は調べれば調べるほどわからなくなるそれゆえ多くの人々は、すべてを単純な陰謀論で切り取り心の平安を保つか、あるいはすべてに無関心になって麻痺するか、どちらかの状態に陥っている。それがポピュリズムフェイクニュースに溢れた現代社会の基本的な条件だ。
 したがってぼくは、なにかについて断片的な情報しか入手できないまま、友にもならず敵にもならずらず「中途半端」にコミットすることの価値を、あらためて肯定する必要があると考えた。それが『観光客の哲学』の核となる執筆動機である。そのような肯定がなければ、現代人はまともに政治に向きあうことができない。ぼくたちはどうせすべての問題に中途半端にしか関わることができないのだから、まずはその限界をきちんと認め、そのうえで新たな社会思想を立ち上げなければならないのだ。
 
観光客とは、沖縄について、福島について、憲法改正について、あるいはそのほかさまざまな問題について、政治的な意志表明を行う運動の共同体に加わり、そしてまた去っていく、そのような一般市民のことである彼らの存在は当事者や活動家からすれば迷惑かもしれないともに運動の未来をつくるわけでもなく、本気でないならば出て行ってくれといいたくなるかもしれないけれども、そのような中途半端な人々の関与を認めることなしに、あらゆる共同体は持続的なものになりえない。運動も持続的なものになりえない。それがウィトゲンシュタインクリプキ言語哲学から導かれる、実践的な結論のひとつである。
 
保守とリベラルの対立はそもそもがアメリカのものである
()同国では、いわゆる「左」、すなわち正義や社会主義が政治的な力をもつことがなかったアメリカでは、みながリベラリズムを支持しているという前提のうえで、古典的なリベラリズムを守る側が「保守」、現代的なリベラリズムを推進する側が「リベラル」だという独特の差異化が成立した
 
・あえていえば、仲間との関係を優先する [・・・・・・] 立場が保守と、普遍的な連帯を主張する [・・・・・・] 立場がリベラルと親和性をもつといえる。
 
・そのような共同体を優先させる発想、それそのものがリベラルにとっては反倫理的で許しがたいということになる。他方で保守にとっては、身近な弱者を救わなくてなにが政治だということになろう。
 
俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです」。
 
プラグマティズム「真理」とか「正義」とかいった抽象的な概念について、そこになにか超越的なものが隠されていると考えるのではなく、むしろそれらが現実の生活のなかで果たす実用的(プラグマティック)な機能に注目し、その観点から哲学や倫理学を再構築しようとする思想的立場。
 
リベラル・アイロニズム革命の理念を信じてもいい、カルトの神を信じてもいい、ただしその思いはあくまでも自分の心のなかだけにしまって、公共の場に持ち出すなという要請
その自己矛盾こそが、「自由で民主的な世界」を維持するために必要不可欠
自由民主主義なるものは、みながその限界を受け入れることでかろうじて維持されている
 
「共感」や「想像力」
多くのひとは、人類よりもはるかに小さな「わたしたち」にしか共感できない
「わたしたちリベラル」が民族中心主義的に肯定可能なのは、その民族=エトノスの内部に自己変革と自己拡張の契機が繰り込まれているがゆえなのだ
 
・家族の概念を再構築する必要性。共同体の同一性がたえず訂正され続けるということ。それは共同体が持続可能だということでもある。最近のリベラルは開放性についてばかり考えてきた。そしてあまりにも持続性に無頓着だった。
 
政治が目指すべき公共性は、開放性の場としてだけではなく、同時に持続可能な場として、したがって訂正可能性の場としても構想されなければならない。()
 理想の政治は、あらゆる法、あらゆる偏見、あらゆる差別、あらゆるイデオロギー、あらゆる友敵の分割を乗り越えるものでなければならない。本書の議論はそのような信念のうえに組み立てられている。その点ではリベラルの側に立つ。
 けれども同時にぼくは、その理想は、歴史の蓄積を否定するのではなく、つまり「リセット」するのではなく、過去の不条理さをあるていど許容しつつ、しかし同時につねに訂正可能性に開いていくような、持続的な運動を経由して実現されるほかないと考える。その点では本書はリベラルから離れている。そのような諦念は、リベラルからすれば、保守的であり、また現状追認として非難されるものろう。しかしぼくは、それだけが現実的な社会変革の態度だと考える。ぼくたちは、「リベラルなアイロニスト」として、あるいは再帰的な保守主義として、伝統を守るために変える、あるいは変えるために守る、そのような両義的な態度をもって社会に接さなければならない。おそらくは、それだけが人間にできることなのである。
 かつてジャック・デリダは、脱構築とは正義のことだと記した。それに倣えば、ぼくの考えは、正義とは訂正可能性のことだと表現できるかもしれない。人間はつねに誤る。正義はその訂正の運動でしかない。正義は、開かれていることにではなく、つねに訂正可能なことのなかにある
 
人間はけっしてそんな怪しげな営みを破棄できない。なぜならば、その「カルト的」なスタイルは、じつは人間が言語を用いて思考するかぎり避けることができない、ある条件を凝縮して反映したものにすぎないからである。その条件が、まさに本論で「訂正可能性」と呼んできたものである。
 
・ぼくたちは単純な加法ですら完全には定義できない。クリプキ懐疑論者を排除できない。だとすれば、真理や善や美や正義といった厄介で繊細な概念について、同じようにすべてをひっくり返す懐疑論者の出現をどのようにして排除することができるだろうか。人文学者はそのことをよく知っている。それゆえ人文学は、すべての重要な概念について、歴史や固有名なしの定義など最初から諦めて、先行するテクストの読み替えによって、すなわち「訂正」によって、再定義を繰り返して進むことを選んでいるのである。それは結果的に、先行者の業績を無批判に尊重する、非科学的で権威主義的なふるまいにみえる。しかしけっしてそれが目的なわけではない。
 だからぼくは本論で、訂正可能性について理論的に語るとともに、またその訂正の行為を「実践」しなければならないと考えた。ぼくはこの第一部で、家族や訂正可能性について「正しい」理解を提案したのではない。ぼくが行なったのは、ウィトゲンシュタインの哲学を訂正し、ローティの連帯論を訂正し、アーレントの公共性論を訂正する・・・・・・といった訂正の連鎖の実践である。だから本論の結論も、いつかまた読者のみなさんによって訂正されるかもしれない。その可能性は排除できない。むしろその排除の不可能性こそが人文学の持続性を保証するのだ。
 人文学がこのようなスタイルをとるのは、けっして人文学者が愚かだからではない。人間はそもそもそのようにしてしか思考できないのだ
 
だれもがあらゆるひとの意見に接し、すべてを調査できる環境においては、多くのひとはむしろ、話したいひととだけ話し、見たいものだけを見聞きたいことだけを聞くようになってしまう
 
人類社会の全体が、人工知能の助けを借りることで、いわば「群れ」として賢くなる可能性について考えていた。
()「人間は機械の助けを借りるとすごいことができる」というシンギュラリティの夢と、「人間は機械の助けを借りないとろくに意志決定もできない」という民主主義への失望は、そこではぴたりと重なり合うのだ。
 
あまりにも複雑になった世界においては、もはや人間の貧しい自然知能に統治を任せることのほうが危険で無責任であり、これからは民主主義を守るためにこそ、むしろ政治から人間を追放し、意志決定を人工知能に任せるべきなのではないかと提案する新しい政治思想のことである。
 
・ぼくがシンギュラリティの思想を批判しているのは、その変化は人間が人間であることになにも関係しないむしろそこでは「人間とはなにか」という古い問題が帰ってくるにすぎないと考えるからだ。
 
・ぼくはさきほど、シンギュラリティの物語は過剰な人間信仰と呼んでもいいし、逆に人間批判と捉えてもかまわないと記した。人間はあまりにも能力があるから、逆に人間の限界を超えることができる共産主義もそう考えた。だから彼らは、私有財産と資本主義を克服し、家族や民族を解体することが可能だと信じた過剰な人間信仰と素朴な人間批判の両立、それこそが大きな物語」の本質である。
 
人民(デモス)支配(クラティア)するという、統治者の数を意味する言葉でしかなかった。統治者がひとりなら君主制少数なら貴族制多数なら民主制
 
当時は東西ともに民主主義を掲げていた西は「自由民主主義」を唱え、東は「社会主義的民主主義」を唱えていた
()
そもそもの民主主義の定義そのものが曖昧だからである。西側では、社会が人民の意志に導かれるためには、まずは市民的自由の確保が不可欠だと考えられただから言論の自由が尊重され、複数政党制が重視された。逆に東側では、社会が人民の意志に導かれるためには、まずはブルジョワ階級の支配を打破することが必要だと考えられただから共産党の一党支配でも問題はないとされていた。そのような考えはいまの日本の常識では突飛に聞こえるかもしれない。けれども、資本家が自由を謳歌し、労働者が搾取されている状況で人民の意志など現れるはずがないではないかといわれれば、いくら西側社会の優位を信じていても口籠らざるをえないのではないか。
 
人間とはけっして合理的な強い存在なのではなく、むしろつねに情念に振り回され、他人を傷つけ、ときに自分自身すら壊してしまうような弱く不安定な存在なのであり、それゆえに尊いのだという人間観である。
 
・『ルソー、ジャン=ジャックを裁く―対話
彼は本編の対話を書き上げたあと、発表方法についていろいろと考えたらしい
 まず大前提として出版はできない。周囲はみな陰謀に加担しており、だれも信用できないからだ。そこでルソー写本を一冊だけつくり、ノートルダム寺院の聖壇にこっそりと奉納することを思いつく。そうすれば「迫害者」の手に渡ることなく、告発が国王のもとに届くかもしれないからである。ルソー視察を繰り返し、聖壇がある内陣に侵入可能な日時と経路を決定するところが決行の日に寺院に行くと、新しい柵が設けられていて侵入ができないルソーは大きな衝撃を受けるが、陰謀は彼の想定より広大に張り巡らされていて、いまや奉納すら危険なのだという神からのメッセージだと前向きに捉える。
 ルソーは気をとりなおし、古い友人の文学者に原稿を読んでもらうことにする。この文学者はのちの研究でコンディヤックだとわかっている。ルソーは原稿を渡し、二週間後に感想を聞きに行く。けれども当然のことながら、コンディヤックは言葉を濁し、彼が期待したような興奮を示さない。ルソーは深く失望し、以後の親交を断つ。そしてあらためて原稿を委託できる人間を探し始める。
 こんどはそこにたまたま、イギリス滞在時に知り合った若い詩人が訪ねてくる。ルソーはふたたび天啓を受け、外国人こそが告発先としてふさわしいと確信を抱く。そして実際に原稿の一部を渡すのだが、詩人が帰るとまた猜疑心に囚われ始める。そもそもなぜ彼はやってきたのか。イタリアかイギリスへ帰る道の途中だというけれど、あまりにタイミングがよくはないか。そういえば妙に愛想がよかった・・・・・・。というわけで最終的にどうするかというと、ルソーはなんと、著書の内容を要約したビラをつくり、パリの路上で配布し始めるのである。ビラは「いまだ正義と真実を愛する全フランス人へ」と題され、日本語版の全集ではあとがきのあとに収録されている。かなりの枚数が印刷されたが、ほとんどのひとに受け取りを拒否されたらしい。パリ有数の名士の行動としてはかなりの奇行だった
はずだ。結局本編自体はだれの手にも渡っていないのだから、当初の目的も見失われている。けれども、繰り返すが、ルソーはとにかくそういう不安定な人物だったのである。
 
エルンスト・カッシーラー
ルソー問題」一方で「ひとはひとりで生きていける」と言いながら、他方では「ひとは社会全体の意志に従うべし」と言っている。
 
ホッブズやロックは、ひとはひとりでは生きられない、だから社会をつくったと考えた。対してルソーは、ひとはひとりでも生きられる、にもかかわらず社会をつくってしまったと主張しているのだからだ。
 
もしいま不平等な社会が成立しているのだとすれば」という条件のもとで、遡行的に見出される仮説的な存在と理解するべきなのである。
 不平等な社会はどこでも成立しているのだから、その仮定は現実には条件節として機能しない。だから『社会契約論』をふつうに読めば、一般意志は素朴に実在すると語られているようにしか受け取れない。けれども、その隠された仮定を想定するとしないとでは、同書の多くの箇所の読みが異なってくる。
 
ルソー社会契約をめぐる遡行的な思考が、それを支える「しまった」の論理=訂正可能性のダイナミズムが忘れ去られたとき、いかに政治的に危険なものに変貌するかも示している。
 
・「もしいま不平等な社会が成立しているのだとすれば」という条件節を挟み込み、つぎのように解釈しなければならないのだ。
 ・・・・・・もしもいまきみたちがこの不平等な社会の存在を承認しているのであれば、かつて社会契約が成立したと想定せざるをえない。だとすればきみたちはいま、論理的な必然として、自分では自由だと感じながらも、同時に一般意志の命令には絶対的に服従しなければならないような、そういう状況に置かれていることになる。それこそが社会が成立するということだが、はたしてきみたちはその残酷さをどこまでわかっているのだろうか――そのような逆説的な問いかけとして。
 
・二一世紀のいま、ルソー自身が想像もできなかった知識や技術と結びつけて再解釈することができる。
 そのような再解釈を促すものとして、とくにふたつの変化がある。ひとつは「無意識の発見」である。
()
ルソーを再解釈するにあたり、もうひとつの重要な視点は「統計の整備」である。
 
ぼくにはそれは支持できないかといってぼくたちは、いまさら安易にルソーを破棄することもできないだからこそぼくはここまで、ルソーのテクストを別のしかたで読む方法を探り続けてきた
 
人間はそもそも、理想社会の到来にそれが理想社会だというだけの理由で反抗することができる、そういう厄介な存在だということである。そういう厄介さにどう対処するか。その思考が欠けているかぎり、政治思想は成熟したものになりえない。
 
そしてその「正しさ」は、つねに懐疑論者の出現によって「訂正」され続ける政治とはその訂正の場のことだ。
 
ビッグデータ分析は、本性上、例外をつねに群れの一部として取り込み、その例外性を消去してしまうことを意味している。
 
アルゴリズム的統治性主体化を消去する。ぼくがさきほど訂正可能性の消去として捉えた問題を、ルヴロワとバーンズ主体化の消去として捉えている。
 
フーコーは、近代国家の権力はそのような単純なものではないと考えた。ヨーロッパで生まれ、発達した近代国家なるものの権力は、それ以前の、あるいはそれ以外の地域の国家権力と異なり、人々から単純に自由を奪うものではなくむしろ人々の生に積極的に介入し、個人の自由そのものを管理し方向づけることで社会全体の秩序を形成するような、より巧妙なものに変わることになったというのだ。
 
フーコーによれば、近代国家は、人々を「主体」にし、その内面に権力の視線を移植し、好き勝手に生きているようでいて自発的に秩序を形成するような両義的な存在に変えることで、かつてなく効率的で安定した統治を実現した。彼はそのような統治のありかたを「生権力」とも呼んでいる。
 
社会心理学者のショシャナ・ズボフ「監視資本主義」
人間の経験を、行動データに変換するための無料の原材料として一方的に要求」し、その「行動余剰」から「予測製品」を生産したうえで、最終的に、その予測を原材料となった経験を提供した人々とはなんの関係もない「行動先物市場」で販売することで、プラットフォームが莫大な利益を得ることを可能にする体制のことである。ひとことでいえば、プラットフォームが個人情報を集めて儲ける体制のことだ。
 
わたしたちはもはや、価値実現の主体ではない。また、一部の人が言うような、グーグルの「商品」でもない。そうではなく、わたしたちはグーグルの予測工場で原材料を抽出・没収されるにすぎないわたしたちの行動に関する予測がグーグルの商品であり、それらを買うのは、グーグルの真の顧客である広告主であって、わたしたちではないわたしたちは他者の目的を達成するための手段なのだ」。
 監視資本主義においては、プラットフォームの利用者は商品の売り手ではない。むろん買い手や作り手でもない。流通する商品をつくりだすための「物」、つまり素材にすぎない
 
いまの民主主義国家において、選挙はそもそも有権者の意志を集約するためだけに行われているわけではない社会を統合する儀式としての役割があるし、教育的な機能も備えている。投票した党が政権を担えば、いくら消極的な選択でも責任の感覚が多少は芽生える。悪政が続けば後悔も感じる。その経験が有権者の成長を促しもする。
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なぜならば、それは結局のところ世のなかの情勢に合わせて票を分散させただけの話でしかなく、個人としてはなにも「選んで」いないからだ。結果として与党の悪政が続いたとしても、次回は多少分配率を下げようと思うくらいで終わりだろう。伝播委任投票では、投票は投資のポートフォリオに似てしまう。しかもリスクもリターンもない投資だ。
 伝播委任投票では有権者が主体化しない。これは考えてみれば当然である。そもそも分人民主主義とは、個人の単独性と統一性を解体し、分人の束に分解することを理想とする思想だったからである。したがって鈴木はもしかしたら、このような批判に対しても、分人民主主義は主体をつくらない、それはじつにけっこうなことではないかと答えるだけかもしれない。けれどもぼくは、ここまで論じてきたように、主体化が回避されることには、社会を維持し運営していくうえで大きな問題があると考える。
 
・近代において、民主主義を追求することがかえって人間の解体や排除につながるという危険な逆説があることを、あらためてはっきりと示してくれているからである。
 
・したがってぼくは、人間の社会について考えるにあたり、その「私」という固有性の感覚に直面しない思想は、すべて原理的な欠陥を抱えていると考える人工知能民主主義は現行の民主主義より効率的なのかもしれない。意志決定は迅速で、資源配分も巧みで、多くの人々を幸せにしてくれるのかもしれない。しかし、それでも、それが生の一回性を無視し、人々の意志を群れの表現としてしか理解することができないかぎりにおいて、けっして持続的な統治は実現できない。いくら人間を家畜のように管理するのが合理的だったとしても、実際には人間は家畜ではないので手痛いしっぺ返しに遭うだけだ。それが言語ゲーム論の教えであり、だからぼくたちは訂正可能性の哲学を必要とする。
 
・たとえかりに「人類を愛する人々」の提案がすべて正しく、人類全体の快や幸せがなんらかの方法で最大化できるとしても、個人としての人間には必ずその全体を拒否し破壊する自由がある。だからいかなるユートピアもけっして全員を救うことはできない。それがドストエフスキーの哲学だった。
 
一般意志は「私」を必要とする。政治は文学を必要とする。これは統治者には文系の教養も必要だとかなんとかいった、感情論の話ではない。人間のコミュニケーションの条件そのものから導かれる、厳密に論理的な話である。ぼくたち人間は、絶対的で超越的で普遍的な理念を、相対的で経験的で特殊的な事例による「訂正」なしには維持できない、そのようなかたちの知性しかもっていない。政治の構想もまたその限界には制約される。
 だからぼくたちはけっして、民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない。それが本論の主張であり、本当は『一般意志2.0』でも伝えたいことだった。
 
アレクシ・ド・トクヴィル
アメリカはなぜ共和制を維持できているのだろうか。→アメリカは権力の分散に成功したから
アメリカの市民はそもそも、入植時に遡る歴史的な経緯や宗教的な背景、民族的な画一性、経済的な条件などさまざまな要因によって、個人の自律を尊重し、権力の集中を避ける「習俗」を育て上げていた
 
アメリカ人は自分の力しか信用していない。社会を当てにしない。困難は可能なかぎり自分たちで解決する
 
アメリカではとにかくいろいろなひとがいろいろなことを勝手にやっている、それが重要だと考えていたのではないか。結社の自由は、それによって悪が正されるから重要なのではない。現実には正しい目的の結社があるのと同じように、悪い目的の結社やくだらない目的の結社もあるだろうけれどもそれでいい重要なのはそのような多様な結社が存在することであり、自由はその環境を整えるために必要なのだ
 
 民主主義の本質は喧騒にある。終わることのない対話が一般意志を取り巻くことで、統治は健全なものになる。
 
陪審制はあらゆる階級の人々を法的な考え方に親しませる」のであり、「人民の判断力の育成、理解力の増強に信じられぬほど役立つ」ものだと考えたからである。これはつまり、トクヴィルが、陪審制を、判決の場というより、むしろコミュニケーションの場として評価していたことを意味する。実際彼は、「陪審制を司法制度として見ることに限るとすれば、思考を著しく狭めることになるのであり、「人民主権の一つのあり方」として分析されねばならないと繰り返し強調している。陪審制は正しい判断はもたらさないけれども陪審員喧騒はもたらすその経験が市民を育てる。この論理の組み立ては、さきほど民主主義をめぐる議論にみたものとまったく同じである。
 トクヴィルアメリカに、終わることのない喧騒による統治の訂正可能性を発見し、それを民主主義と名づけた。ぼくは第一部の終わりで、正義とは訂正可能性のことだと記している。それに倣えば、民主主義もまた訂正可能性のことだといえるだろう。一般意志は、つねに正義と民主主義によって訂正され続けなければならない。これをもって第二部の結論としたい。
 
フランスは革命という花火を打ち上げただけで終わった。アメリカはそのあとも共和制を維持した。だからアメリカのほうが革命と民主主義の経験としてすぐれている
 
正しさとは本当は、正しい発言や行為なるものが確固として存在するようなものではなく、つねに過ちを発見し、正しさを求める運動としてしかありえない
 
ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ。本書は、そんなおそろしくあたりまえな認識を、哲学や思想の言葉でガチガチになってしまったひとに思い出してもらうために書かれた書物でもある。
 
哲学とはなにか、と問いながらこの本を書いた。本書の主題である「訂正可能性」は、その問いに対する現時点での回答である。哲学とは、過去の哲学を「訂正」する営みの連鎖であり、ぼくたちはそのようにしてしか「正義」や「真理」や「愛」といった超越的な概念を生きることができない。それが本書の結論だ。
 
・哲学者の使命は、正義や愛について「説明する」ことにあるのではなく、それらの感覚を「変える」ことにあるのだと考えるようになった。それが本書でいう「訂正」である。
 人間は幻想がないと生きていけない。自然科学はそのメカニズムを外部から説明する。本書で参照した言語ゲーム論の比喩を使えば、正義や愛のメカニズムを、まるでゲームを統べるルールであるかのように説明する。
 けれどもいくら成り立ちが解明されても、人間が人間であるかぎり、ぼくたちは結局同じ幻想を抱いて生きることしかできない。同じルールのもとで、同じゲームをプレイし続けることしかできない。正義や愛を信じることしかできない。だとすれば、ぼくたちに必要なのは、ルールを解明する力ではなく、まずはそのルールを変える力、ルールがいかに変わりうるかを示す力なのではないか。
 哲学はまさにその変革可能性を示す営みであり、だから生きることにとって必要なのだというのが、ぼくがみなさんに伝えたかったことである。