読んだ。 #万物の黎明 人類史を根本からくつがえす #デヴィッド・グレーバー #デヴィッド・ウェングロウ #酒井隆史 #thedawnofeverything #davidgraeber #davidwengrow

読んだ。 #万物の黎明 人類史を根本からくつがえす #デヴィッド・グレーバー #デヴィッド・ウェングロウ #酒井隆史 #thedawnofeverything #davidgraeber #davidwengrow
 
アナキスト、人類学者のデヴィッド・グレーバー と、考古学者のデヴィッド・ウェングロウが、人類学の通説を、新しく発見された考古学の資料から語りなおす、というような本。
「ビッグ・ヒストリー」と呼ばれている(らしい)、ユヴァル・ノア・ハラリやジャレド・ダイアモンドスティーブン・ピンカーたちも批判されている。
人類は、狩猟採集→農耕→富の蓄積→不平等、国家、現在の社会システム、と不可逆的に進んできただけではない!農耕をやってみたけど止めて狩猟採集に戻り長く続いた社会もあったし、王政ではあったもののヒエラルキーを解消するように運用していた社会もあったし、人類の過去には様々な社会もあったのだ!もうどうしようもないのだと諦めるんじゃねえ!というような感じで、世界中で発見された古代のいろんな社会システムの例を紹介しまくってくるような感じ。
 
たしかにおもしろいところも多かったが、英語の日本語訳だからなのか、けっこう読みやすくない文章のうえに643P、しかも二段組、長い&重い(本が)。
そして人名、共同体、村落、都市、帝国、文明、遺跡、部族、など、出てくる固有名詞の多さも半端なく、自分の脳力ではこれってなんだったっけと忘れてしまうことも多く、これは最後まで読めないのではないか、と何度か思った。が、なんとか最後まで目を通せたのでよかった(内容をどこまで覚えているか、自信はないが)。
 
 
・本書で乗り越えたいのは、この[ルソーかホッブズかの]二者択一なのだ。
 
グレゴリー・ベイトソン。「分裂生成」人は、近隣の人間たちに対立させてみずからを定義するようになる。都市民はより都市的になり、野蛮人はより野蛮になる。もし「国民性」などというものが本当に存在するとすれば、そればこのような分裂生成過程の結果でしかありえない。
 
・A・R・J・テュルゴー。未開人の自由と平等はかれらの優越性ではなく、劣等性の証なのだ、と。
 
社会進化論は、先住民による批判の影響に対する直接の応答としてはじまったのである。
 
・ルソーがカンディアロンクとは異なり、所有以外のものに基礎をおいた社会をまったく想像できないという点にある。
 
・本当の問題は、「社会的不平等の起源はなにか」ではなく「どのようにして閉したのか」である
 
・アマゾンの首長たちが計算高い政治家であったというだけではない。かれらは本物の政治的権力を行使できないように設計された社会環境のなかでふるまうよう強いられた、計算高い政治家だったのである。
 
・これが、旧石器時代の「プリンス」の埋葬――あるいはストーンヘンジ――のような壮麗なる劇場(マジェスティック・シアター)が、けっしてお芝居の域を超えていないとおもわれる理由のひとつである。かんたんにいえば、たとえば七月になればまた対等に接することになる相手に対して、一月には恣意的な権力を行使するのはむずかしいのである。
 
・平等主義的社会と呼ばれる社会のメンバーの多くは、平等そのものよりも「自律性(オートノミー)」に関心を寄せている。たとえば、モンターニャ=ナスカピの女性にとって重要なのは、男性と女性が同等の地位にあるとみなされるかどうかではなく、女性が個人的にも集団的にも、男性の干渉を受けずにじぶんの人生をまっとうし、じぶんで決断できるかどうかなのである。
 
・本当に謎であるのは、首長や王、あるいは王妃がいつ登場したかではない。かれらを笑い飛ばすことができなくなったのはいつなのか、なのだ。
 
・カンディアロンクのような先住民の批評家は、その場の空気に合わせて、みずからの主張を誇張したり、じぶんたちが無垢なる幸福な自然の子であるかのようにふるまったりすることもたびたびあった。しかし、かれらがそうしたのも、ヨーロッパ人のライフスタイルの奇怪なる倒錯をあかるみにだすためであった。皮肉なことに、そうすることで、かれら――無垢なる幸福な自然の子たる――には土地に対する自然権がないと主張する人々の術中にはまってしまったのである。
 
・首長と強制的権力とがむすびつかないようにしていたのとおなじく、その所有システムが強制的権力とむすびつくことのないよう、人びとが努めていたからである。
 
・私的所有と不可侵なるもの(セイクリッド)[聖なるもの]の観念のあいだに密接な並行があることを認識することは、ヨーロッパの社会思想の歴史的に奇妙な点を認識することでもある。すなわち([先住民たちの]自由社会とはまったくちがって)私的所有におけるこの絶対的で不可侵なる[聖なる]性質を、すべての人権と自由の範型(パラダイム)として捉えている点である。
 
・所有的個人主義。じぶんの土地、家屋、車などから他人を排除する権利を合法的に保持しているという観念に基礎づけられている。
 
民族誌家たちは、このような所有権には、支配とケアという二重の意味があることも指摘している。所有者がいないということは、無防備にさらされているということでもあるのだ。
 
・その意味するところは、クランのメンバーは、その「所有」する動物を狩ったり、殺したり、傷つけたり、消費してはならぬ、ということである。実際には、かれらにもとめられているのは、その動物の生存を支え、繁殖を促すための儀礼に参加することなのである。
 ローマ法の所有概念――現在のほとんどすべての法制度の基礎となっている――が独特であるのは、ケアをしたり共有したりする責任が最小限に抑えられているか、完全に排除されている点である。ローマ法では、占有 にかかわる三つの基本的な権利がある。 usus (使用する権利)、fructus (所有物の産物を享受する権利)、abusus (損害を与えたり破壊したりする権利)である。最初の二つの権利しかもってないないばあい、これは usufruct [用益権、使用権]と呼ばれ、法に保護された真の占有とはみなされない。つまり、真に法に即した所有を規定する特徴は、人がそれをケアしない、あるいは意のままに破壊するという選択肢を有しているということなのだ。
 
・革命が公然たる戦闘で勝利することはめったにない。革命家が勝利するときは、かれらを弾圧するために送り込まれた人間の大半が銃撃を拒否するか、端的に帰宅してしまうときなのだ。
 
・暴力の支配、知の支配、カリスマ的権力という三つの基本的支配形態が、それぞれ独自の制度的形態(主権、行政管理、英雄政治)に結晶化する
 
・官僚制帝国がはじめて成立するときは、そこにはほとんどつねに、ある種のたがの外れた等価システムがともなっているのである。
 
・三つの原初的自由=移動する自由、服従しない自由、社会的関係を創造したり変化させたりする自由
 
・相互扶助、社会的協働、市民的活動、歓待(ホスピタリティ)、あるいはたんに他者へのケアリングなどが真に文明を形成しているのだとすれば、本当の意味での文明史の叙述は、いまはじまったばかりなのである。
 
・「あたらしい科学的真理は、既存の科学者に、それがまちがっていたことを納得させることで古いものに取って代わるのではない。古い理論の支持者がやがて死に絶え、後続の世代があたらしい真理や理論を身近で明白なものと感じることで、そうなるのだ」。
 
・「世界の隠された究極の真実は、その世界は、わたしたちがつくり、またおなじようにかんたんに別のかたちでつくることができるということだ」。