読んだ。 #無限の網 草間彌生自伝 #草間彌生

読んだ。 #無限の網 草間彌生自伝 #草間彌生
 
 
第1部 ニューヨークに渡って
――前衛アーティストとしてのデビュー 1957―1966
27 水玉一つで立ち向かう
 絵の構成を無視し、中心がなく、常動作用からくる反復のもたらす単調さは、観る人を当惑させ、暗示と静謐は精神を「無」の眩暈の中に誘いこませる。それは、後にヨーロッパに胎動した「ゼロ」の美術運動や、ニューヨークに後に出た抽象の支配的動向となったポップ・アートへの予言を含んでいた。
 私には、一つ一つの水玉をネガティヴにした網の目の一量子の集積をもって、果てしない宇宙への無限を自分の位置から予言し、量りたい願望があった。どのくらいの神秘の深さをこめて、無限は宇宙の彼方に無限であるか。それを感知することによって、一個の水玉である自分の生命を見たい。水玉、すなわちミリオンの粒子の一点である私の命。水玉の天文学的な集積が繋ぐ白い虚無の網によって、自らも他者も、宇宙のすべてをオブリタレイト(消滅)するというマニフェストを、この時、私はしたのである。
 
第2部 故国を去るまで
――画家としての目覚め 1929―1957
 
 
第3部 反戦と平和の女王となって
――前衛パフォーマンスの仕掛け人 1967―1974
116 ヌードボディによる創造行為
私のハプニングは、なるほど、その都度10から15ぐらいのアメリカの法律を犯している。しかし、そうした法律とは既成の観念であり、私の芸術はそんなものとはおよそ無関係なのだから。
 人前でセックスしたり、国旗を焼いたり、そうしたことはすさまじいと言えばすさまじいだろう。けれど、そういう受け取り方そのものが既成の観念なのである。私の行くところ、必ず警官がついて回るが、私はいっこうにに平気だ。私は5、6人の顧問弁護士を抱えていたが、それは私なりに法律と芸術の妥協を考慮していたからだった。
 また、私にはいつも、大勢のヒッピーのボディ・ガードがついていた。私のスタジオには抗議と脅迫の電話がひきもきらずかかってきたので、万一のことをおもんばかって、ヒッピー親衛隊が私を暴力から守ってくれていたのだ。
 そんなこともあって、ジャーナリズムのなかには私のことを、”ヒッピーの女王”のように思いこんだり、私がだれとでも寝る女のように信じているものも少なくなかった。しかし、個人としての私自身は麻薬にもレズにもセックスにも、まったく興味がない。だから、私は意識的に、私のグループの者たちとの間に一線を画していた。彼らは私のことを、「シスター」と呼ぶ。シスターとは修道尼のことだ。女でも男でもない。つまり、無性。私はセックスのない人間なのである
 少女期から成長期にかけての私の環境、体験が、私のセックス嫌悪症のみなもとである。私は男のセックスの形が嫌いだった。女のも厭だった。どちらもが恐怖の対象だった。だからこそ、嫌いなもの、厭なもの、怖いものを、作った作って作っていってそれを乗り越えていくのが、私の芸術表現なのだ。そうやって新しい自分をクリエイトしてゆくのが、私の言う”サイコソマティック・アート”なのである。
 だから、「クサマ・ハプニング」においても、男を女をじゃんじゃん裸にし、ジャンジャン裸に絵の具で絵を描かせる。私はそれを演出しクリエイトするだけで、けっして自分はその中に入ってはいかない。それが私の表現なのだ。
 
120 私の家系は、父子二代にわたって、男が女遊びに明けくれ、祖父と父が競争で女をあさった。男は無条件にフリーセックスの実践者であり、女はその陰でじっと耐えている。そういう姿を目のあたりにして、子供心にも、「こんな不平等なことがあっていいものだろうか」と、強い憤りと反発を感じたものだ。このことは、それからの私の思想形成に大きな影響を与えたと思っている。
 
128 水玉模様の司祭長
 この時の私のスローガンは――
裸はなにもお金がかからない。着物はお金がいる。あなた自身を忘れ、自然とひとつになろう。自己を失わせ、永遠を超越する。そして私はあなたの身体を水玉でおおう。自己消滅は唯一の出口
 
138 ウェイアウト・ドレスからミュージカルまで
 こうした一連の私の活動は、アメリカでは着々と成果を上げ、マスコミからも正しい評価を受けていた。けれど、海の向こうの日本から伝えられてくる私は、”裸ハプニングの女王”とか、”国辱ものの女性”といったような、誤解と偏見に満ちた虚像だけがひとり歩きしていた。私にとって芸術としての、思想としての一連のパフォーマンスが、日本では単なるスキャンダルとしてだけ報道されたのだ。そのため、日本にいる家族との亀裂が生じ、それまでつづいていた送金が停止されてしまった。反対する母をなんとかとりつくろって父が送ってくれていたものだったのだが
 
ボディペイント・エンタプライズの設立
140 次は「オージー(乱交パーティ)会社」だが、これはクサマ・セックス・カンパニーとも呼び、乱交パーティを主催して多くの市民に恩恵を施したり、等身大の女性の性器の写真を販売したりするのが主な業務である。
 特に、オージーを見たことも経験したこともない人たちに、それを見せたり参加させてあげることは、アメリカ人のセックス開放に大きく寄与することであった。
 
142 それでは、私がなぜこのように広範囲な事業や運動に、憑かれたように没頭したのか。答えはいたって簡単だ。私のやっていることは、人間の誰もが望んでいることだからである。新聞や雑誌に、セックスの記事や女性のヌード写真が氾濫している事実からも、それはわかるだろう。
 それにもかかわらず、いまだにセックスは汚いもの、自由に楽しんではいけないものという、中世的な倫理がハバをきかせている。人間は窒息寸前の状態なのである。
 飢えが犯罪や戦争につながるように、セックスの抑圧も、人間の本当の姿を押し曲げ、人間を戦争に駆り立てる遠縁になっているというのが、私の見方である。そして、そういう禁欲で押しつぶされそうになっている人間を、救いあげようというのが私の願いなのであった
 
144 大きな時代の転換点としての60年代
 しかし、彼らだって、「戦争とフリー・セックスの、どちらがいいと思いますか」と尋ねれば、文句なしに、フリー・セックスを選ぶのである。
 
161 深夜の逮捕騒ぎ
 フリーセックスは、最も人間的な行為であるセックスを通じて、他者を確認する、連帯感を形成するということなのだ。つまり、日本人には、フリーセックスが人間革命であるということがまるで理解できない。フリーセックスは、人間的愛の確認、平等の確認なのだ。性の歓びに、黒と白と黄色の差はない。たがいに歓びあえる人間が、なんで戦争をやって殺し合う必要があるのだ。フリーセックスによって、自分と他者の垣根を取り払うことこそ大事なのに
 こうした私の「性と反戦」の思想、およびその表現としてのハプニングは、日本では少しも受け入れられなかった。マスコミもジャーナリズムも文化人も、わたしへの理解を示さなかった。イエス・キリスト以来、”革命家は故国に受け入れられず”を感じつつ、私は日本の地を飛び立った。
 
 
第4部 私の出会った人、愛した人
――G・オキーフ、J・コーネル、A・ウォーホル他
 
 
第5部 日本に帰ってから
――日本から発信する世界のクサマ 1975―2002
242 百年後の一人のために
 ものごころつく頃より、私は絵や彫刻や文章を、何十年と創りつづけてきたが、本心を言うと、私はいまだに自分が芸術家になれたとは思っていない。ふりかえってみるに、これらは筆やカンヴァスや素材をもって闘った求道への道程であった。
 それらは前方に燦然と輝く星。それを見上げれば、なおいっそう遠くに行ってしまうような、まぶしい星のたたずまいを仰ぎみて、自分の精神の力と、道を求める心の奥の誠実によって、人の世の混迷と迷路をかきわけて、魂のありかを一歩でも先へ近づける努力であった。
 考えてみるに、芸術家や政治家、医者などと言う職業のみが、特に世にぬきんでて偉いのではない。私がかつて感動した話は、身体障害者が施設で一日、一生懸命努力して、たった三個の小さなネジをやっとはめる仕事によって、神に自分が生かされているということの証を、自己自身感じとって、目を輝かしたということである。
 芸術家が芸術をやっているというだけで、他の人より特に偉いぬきんでた人種であるわけはない。たとえば、労働者であろうと農民であろうと掃除人夫であろうと芸術家であろうと政治家、医者であろうと、その人々が今日より明日、明日より明後日と、自分の生命への輝きと畏敬に一歩でも近づけたなら、虚妄と暗愚のなかに埋もれた社会の中で、それは人間として生まれた人間らしい一つの足跡となるのではないか。
 今日、多くの人々は、飽食と猥雑と経済大国への道を求めて、栄達のためにせめぎあい、さまよっている。そうした社会の中で、重い荷物を背負った道を求めて歩むことは、より険しく、より困難になっている。しかし、そうした中でこそ、私はなおのこと魂の光明に近づきたい。
 たとえば、ゴッホの絵は何十億円もするからすごいとか、ゴッホは精神病で天才だからすぐれているとか、そんな考えをする人が世の中には多いが、そんなことではゴッホを観たことにはならない。また、日本の精神科医は、ゴッホ分裂病だの癲癇だのと論議しすぎるきらいがある。私のゴッホ観は、彼が病気であったにもかかわらず、その芸術がいかに人間性にあふれ、強靭な人間美を持ち、求道の姿勢に満ちあふれていたかという、その輝かしい美しさにある。その激越な生きざまにある
 芸術家を志している私は、理不尽な環境に打ち勝つということは、追いつめられた立場に置かれた己れの苦しい状況に打ち勝つということであり、人間として生まれてきた故の試練であると思っている。だから、私の全人格をもってそれに立ち向かいたい。こういうことに巡り合ったことも、一つの人の世の運命であるから。
 天の啓示によって、私は神に生かされているのである。艱難辛苦、己れを玉にする毎日である。そして、歳月とともに死を意識すること、日一日である。
 光明に近づく求道の姿勢をいっそう深めたいと思い、大宇宙を背景にしても人間はしがない虫けらではないという畏敬の念を感じて、未来への心の位置を高めたい。そのため、私は芸術をそれへの手段として選んだ。これは一生をかけての仕事である。私の心を、死んで百年の間にたった一人でもよい、知ってくれる人がいたら、私はその一人の人のために芸術を創りつづけるであろう。
 そんな思いで、私は絵画を描き、彫刻を作り、文章を書いているのである。
 父・嘉門の死の九年後、1983年(昭和58年)12月に、母・茂が逝去した。母は終生、歌人でもあり、書家でもあった。母の遺稿を繙いていると、次の歌がみつかった。
 
  大ぜいの知人逝かせてこの年も 暮れなんとすなり つはぶきの咲く
  日の光 春をよびつゝぬかるみに まぶしく光る堤をゆけば
  眠られぬ小夜の臥床にひびきつゝ 列車の音の遠ざかりたり
 
 私は母のこの三首を、『心中櫻ヶ塚』の末尾に、「追記」として採録した。母に対する私の想いは、そして父に対する私の想いは、万巻を費やしても語りきれるものではないが、自分の著作の中に母の歌を添えることによって、私は父と母の思い出の片鱗を定着させたかった。
 そして、愛憎ともに万感こもごもに至る想いを抱いて生きてきた私ではあるが、今はすべてを越えて、こんなふうに思えている。私にこの年まで生かせてくれ、生死の明暗と、現し世の光陰などの綾なす社会の仕組みを、そして修羅場を見させてくれ、人間としての正しい知恵と真実への憧憬を体験させてくれたのは、父と母であると。従って私は今、私を生んでくださった、私のもっとも尊敬し愛する亡き父と母に、心から感謝をしているのである。
 
 
落涙の居城に住みて