読んだ。 #聖なるズー #濱野ちひろ

読んだ。 #聖なるズー #濱野ちひろ
 
たしかにこの考え方を知ってしまうと、知る前の状態には戻れそうもない。
ズーと呼ばれる人たちは、単に動物とセックスする人たちではなかった。
 
 
プロローグ
 
第一章 人間と動物のアンモラル
・動物へのレイプだ!
・不気味なみみず男
・ようやく訪れたチャンス
・犬を妻にする男
動物愛護団体「ゼータ」
・初めての経験
・自然に始まるセックス
50 ズーのなかにも、いろいろな違いがある。ミヒャエルは動物にしか性的欲望を抱かないが、私が出会ったズーのなかには人間とも恋愛やセックスをする人もいる。
 性的対象となる動物の性別にも違いがある。自身が男性で、パートナーの動物がオスの場合をズー・ゲイという。自身が女性で、パートナーがメスの場合はズー・レズビアン。パートナーの性別を問わない場合はズー・バイセクシュアルという。もちろん、自分とは異なる性別の動物を好む、ズー・ヘテロもいる。また、セックスでの立場を示す言葉もあって、受け身の場合はパッシブ・パート、その逆をアクティブ・パートという。
 
・濃密な動物の気配
 
 
 
第二章 ズーたちの日々
・動物のパーソナリティ
 
 
64 彼はパートナーへの思いを、「そのパーソナリティを愛しているんだ」を私に繰り返し説明した。「僕と彼は飼い主とペットじゃない。きょうだいでもない。仲間でもないし、家族でもない。パートナーという言葉がいちばんしっくりくるんだ。彼じゃなきゃダメなんだよ」。パートナーとそうでない存在を分けるのが、ズーを魅了する「動物のパーソナリティ」である。
 パーソナリティを日本語に直訳するなら”人格”や”個性”になるが、その役では彼らが指し示すものを正確には理解できない。
 たとえば、ミヒャエルにとって動物のパーソナリティとは、キャラクターよりも判別に時間がかかるものだ。キャラクターは、直訳すれば”性格”となるが、動物それぞれの気性と言い換えるとわかりやすいかもしれない。荒々しい馬、おとなしい犬、いたずら好きの猫。こういった形容詞で表現できるのがキャラクター、すなわち気性にあたるものだろう。誰から見てもある程度は変わらない、それぞれの動物に固有の特徴ともいえるかもしれない。
 一方で、パーソナリティとは、自分と相手の関係性のなかから生じたり、発見されたりするもののようだ。じっくり時間をともに過ごすうちに、相互に働きかけ合って、反応が引き出され合う。そこに見出されるやりとりの特別さを、ズーは特定の動物が備えるパーソナリティだと表現している。
 そうであれば、相手のパーソナリティは自分がいて初めて引き出されるし、自分のパーソナリティもまた、同じように相手がいるからこそ成り立つ。つまり、パーソナリティとは揺らぎがある可変的なものだ。相互関係のなかで生まれ、発見され、楽しまれ、味わわれ、理解されるもの。キャラクターは箇条書きにすることができるが、パーソナリティは散文的だ。背景にともに過ごした時間、すなわち私的な歴史があって、その文脈のなかで想起されるものが、パーソナリティではないだろうか。そして、相性が悪いとか、機械的なやり取りしかしない間柄――人間と犬なら、ただ定期的に餌を与えるだけとか、おざなりな散歩をするだけといった関係――でしかないとすれば、お互いのパーソナリティを引き出し合うことはできないだろう。
 このように考えれば、人間同士の関係であってもキャラクターとは異なるパーソナリティが生じていることに気づかされる。誰かにとって、ある誰かが特別なのは、共有した時間から生まれるその人独特のパーソナリティに魅了されるからだ。それが揺らぎ続け、生まれ続けるからこそ、私たちはその誰かともっと長い時間をともに過ごしたくなる。そして同時に、その人といる間に創発され続ける自分自身のパーソナリティにも惹かれる。
 誰かのパーソナリティは、それを受け止める人によって感じられ方が違うこともある。恋人同士にしかわからないパーソナリティや、家族だけが知っているパーソナリティ。関係性によって生じるパーソナリティは、人格や個性、性格とも少し違うものだ。
 他のペットや動物と比較して、「彼だけが特別」とズーたちが言うとき、彼らの間には彼らだけの相互関係が成立していて、そこに感じられるパートナーのあり方には抗いがたい魅力があるのだろう。
 
・犬と馬が愛されるわけ
69 動物を苦しめないことに誇りを持つゼータの人々にとって、おそらく動物のサイズの問題は大きい。だからこそ、犬のなかでも小型犬をパートナーとする人はひとりもいない。人気なのはジャーマン・シェパードロットワイラーラブラドール・レトリーバードーベルマンなどの大型犬やその雑種だ。
 
・ねずみと暮らす男
 
 
77 ザシャはねずみへの愛着と、馬への性的欲望を根拠に自分をズーだと思っているようだ。
 「動物は僕にとってパーソンだ」
 そうザシャはいう。「パーソンとは、パーソナリティを備えていると認識できる存在のことだね。例えばネズミたちと一日一緒にいて、よく見ていれば、それぞれがなにをしたいか、なにを望んでいるのかがわかるんだよ。この、なにをしたいかといったことの根底にあるのがパーソナリティ」
 ザシャもまた、関係性を通して動物のパーソナリティを見出している。
 
・犬と対等でいられるか
・ドイツの犬たち
85 ハンスをよく知るゼータの友人は、こう話す。
「自分もハンスと同じように、しつけの是非については悩んだことがある。僕のパートナーは犬だから。だが僕は、しつけをすることを選んだ。しつけをしなければ、犬は心地よく人間社会で生きていけない。しつけは犬の安全を守るためなんだけど、本当は叱ったりしたくない。ハンスはクロコと対等でありたいあまり、しつけをきちんとできなかった。その気持ちはわかる。だが結局、クロコはハンスを苦しめているだろう」
 
 対等であることと、ともに生きていくためのしつけの問題は矛盾だらけの感覚をハンスにもたらす。だがハンスとクロコの顛末から、対等であるためにしつけをせずに、「ありのままに犬らしく」育てるという試みはやはりうまくいかないのだと、ゼータのズーたちは感じているようだ。ズーたちはパートナーの動物を「対等な存在」と見るが、それは、例えばサバンナで野生の世界を生きるライオンに対して人間が抱く感覚とは異なっている。パートナーには、本能のままにふるまってもらっては困る。ともに生きるために、人間社会に順応してもらわなくてはならないわけだ。
 では、ズーの言う「パートナーとの対等性」とはなんだろう。
 おそらくそれは、日々の世界の中で自分とパートナーとの間に力関係をなるべく生じさせないことだったり、散歩の時間を一般的な飼い主に比較してたっぷりとることだったり、人によってそれぞれやり方は違うのだと思う。すべてのズーに共通していたのは、彼らの生活がパートナー中心に回っていることだ。彼らは支会のどこかで常にパートナーの姿をとらえていて、そのとき何を望んでいるかを気にかけている。二十四時間、ひっきりなしに彼らはパートナーとコンタクトをとり続ける。
 
・名前のない猫
 
 
88 しばらくミヒャエルと日常を過ごしているうちに、彼が猫に名づけをしない理由がわかってきた。ミヒャエルにとって、犬や猫に名前は必要ないのである。それは彼が言葉で犬や猫に話しかけることがほとんどないためだ。目を見る、耳を澄ます、触れる、匂いを嗅ぐ。じっと集中する。いつも、彼はそうやって動物たちとコミュニケーションを取る。話しかけることもないし、こちらのタイミングで呼びかけて、動物たちが歩いているところを遮って抱き上げたり、言葉で指示したりすることもない。だから名前は必要ないのだ。
 むしろ動物たちに言葉以外の方法であれこれ翻弄されるため、ミヒャエルは無言でのコミュニケーション力を発揮しなくてはならない。動物たちの様子から望みを察知して、その希望を最大限に叶えてやることをミヒャエルは生活の中心にし、それを楽しんでいる。
 
・犬は裏切らない
92 「犬のセックスって、人間と全然違うんだよ。人間はずっと激しく腰を動かすでしょ。でも、犬が腰を動かすのは最初だけなんだ。その後は不思議なくらいじっとして いるんだよ。そのまま動かないで、何度も射精する。犬は背後から僕のお尻の穴に挿入しているんだけど、完全にリラックスして僕の身体にもたれかかっているんだ。僕の頭のすぐ後ろに犬の顔があって、あたたかくて、それはもう素晴らしい感覚としか言いようがない。なんと言ったらいいかな……、そうだな……、神秘的なんだ」
 
・性欲をケアする
・動物性愛と小児性愛
98 ここには対等性にまつわる問題が横たわっているように私には思える。「大人と子どもは対等ではない」という感覚と、「人間と動物は対等ではない」という感覚は近似している。人々がこのふたつを並べがちなのは、「人間の子どもも動物も、人間の大人ほど知能が発達していない」という認識があるからだろう。特にそれは言語能力に顕著に表れる。動物は言葉を話せず、小児も小さければ小さいほど言葉を操れない。
 
100 「MY BBY 8L3W」 NEOZOON
 
102 日本では、多くの飼い犬が当たり前に去勢をされる。去勢は飼い主としての義務だという考え方もあるようだ。去勢は身近な動物の性のコントロールであり、その生命のあり方に手を加えることだ。本来は、去勢をするか否かはもっと議論されてよいはずなのだが、犬の性を無視して去勢が一般的になっている背景には、「イヌの子ども視」があるのではないか。子どもは大人の支配下にあるものだから、大人が権限をふるうのは当然だ。また、子供は大人のようには性を持たないと通常考えられているから、去勢に後ろめたさが起きにくい。去勢してしまえばなおさら、犬の永遠の子ども化が進む。性欲を剝き出しにされる恐怖から大人の飼い主たちは解放される。
 
103 犬たちが「子ども」であるからこそ、人びとは無意識に「ズーフィリア」と「ペドフィリア」を重ね合わせて考えてしまうのだろう。
 一方、ズーたちの犬に対するまなざしは、一般的な「犬の子ども視」のちょうど逆だ。彼らは成犬を「成熟した存在」として捉えている。彼らにとって、パートナーの犬が自分と同様に、対等に成熟しているという最たる証拠は、犬に性欲があるということだろう。彼らにとって犬は人間の5歳児ではないし、犬が「人間の子どものようだから好き」なのではない。
 
104 ズーたちは「人間の女児も男児も、幼いうちは性的な目覚めがない。そんな相手に性的行為を強いるのは間違っている。女児や男児の側から欲望することはあり得ないのだから」と力説する。その裏側にはもちろん、「成熟した動物には性的な欲望とその実行力がある」という主張がある。
 
 
 
第三章 動物からの誘い
・やつらは聖人君子
110 ”セイント・ズー”=聖なるズー
 
・犬が誘ってくる
117 「そうだね、状況は想像しにくいだろうね。でもね、オス犬に任せたら自然にそうなるんだ。自分が犬をコントロールしようとする気持ちを捨てた途端に、犬とのセックスは始まるんだよ
 
・縛るか縛らないか
119 その時話題に上がっていたのはズーと「ビースティ(獣姦愛好者)」、そして「ズー・サディスト(動物への性的虐待者)」の違いだ。愛情を持たず、動物とのセックスだけを目的とするビースティや、動物を苦しめること自体を楽しむズー・サディストを、ズーたちは嫌う
 
・日本で出会った青年
・ズー・レズビアン
・匂いと誘惑
137 ドイツには「FFK(Freikörperkultur)/エフ・カー・カー」と呼ばれる裸体主義文化がある。エフ・カー・カーの始まりは十九世紀末期に遡る。近代化の波が押し寄せ、工業化とそれに伴う都市部の発展が起きた時代だ。環境汚染や労働問題が取り沙汰されるようになると、健康的な生活を求める動きが見られるようになった。そんななか、裸になって日光浴や水浴、森林浴を行うことを推奨するエフ・カー・カーが誕生する。その理念は、人間性の回復と自然への回帰だった。この動きは当初、進歩的なエリート層を中心に支持されていたが、二十世紀初頭には大衆文化となり、多くの人々に受容された。エフ・カー・カーは健康志向、さらに男女平等の思想とも結びついて受け入れられ、ヌーディスト・ビーチが各地に開設されるなど、隆盛していった。
 
139 もしも私たち人間の「匂い」という物質的な側面が身近な動物たちを刺激しているのだとすれば、普段、衣服で遮断しているものが解放されたときに、犬たちからの反応が強くなるのも頷ける。
 この点でも、愛犬に服を着せる飼い主たちは、ズーたちと対照的だ。服という人間らしさを象徴するものを着せることによって、その犬は人間社会により近づく。一方で、裸体になるドイツのズーたちは、服をときどき捨てて、動物的なあり方にいったん近づいているのだともいえる
 
・馬に恋をする
144 「残念だな。馬は本当に不思議ないきものだ。馬は、なぜか僕たち人間の心がわかる。たとえば、僕が右に曲がろうと思うと思うほんの一瞬前に、馬は右に曲がるんだよ。全部お見通しなんだ、僕たちが考えていることなんて」
 
145 「乗馬のあと、世話をしていたら、そのメス馬は後ろに立つ僕をお尻で押して、壁まで追い詰めたんだ。そしてすっと尻尾を右に上げた。とてもセクシーにね。ヴァギナがあらわになった。馬はヴァギナを開いたり閉じたりして、僕にクリトリスを見せつけてきた。誘っていると僕は思った」
 
・口の重い男たち
・語りにくさとうしろめたさ
160 ペニスそのもの、そしてペニスを挿入するという行為に暴力性を見出す視点が社会に漂っているから、アーノルドやディルクは自分たちのセックスをなかなか語りたがらなかった。そして彼らが押し黙るほど、その視点に同意することにもなってしまう。
 ズーの男性たちは、ペニスを持つうしろめたさを抱えているのかもしれない、と私は想像するようになった。ペニスは、それを持つ彼ら自身にとっても忌まわしく、凶暴で、思うままにならないものなのかもしれないと。そしてそれは、なにもアクティブ・パートに限ったことではない。裏を返せば、パッシブ・パートの人びともまた、その視点に立っている。
 
 
 
第四章 禁じられた欲望
・欲望のトレーニン
165 私が訪れていたのは「エクスプロア・ベルリン(Xplore Berlin)」というフェスティバルだ。三日間に及んでセックスやセクシャリティにまつわる様々な事柄を経験する。2017年時点ですでに14回目を迎えていて、年々少しずつ規模を拡大し、参加者も増え続けている。とはいえドイツ国内で有名かというとそうではなく、知る人ぞ知る催しといったところだ。私は人づてに聞いて参加を決めた。
 
・性暴力の記憶
・快楽のジャングル
177 このフェスティバルでは、もはやセックスは「みんなのもの」になっているか、それとも、個々人の身体が多数の人びとによってわかちあわれるものになっているのかもしれなかった。それは、私が慣れ親しんできた淫靡さや、私が経験してきたセックス、それにズーたちのセックスとも異なるものだ。この場所ではセックスを通した親密さが拡大し、人々に行き渡っていく。
 
ナチスへの反動
178 エクスプロア・ベルリンは、日本では耳慣れない「セックス・ポジティブ・ムーブメント」という社会運動の文脈のなかで説明することができる。「セックス・ポジティブネス」とは、セックスを健康的で自然なものと肯定的に捉えることで、社会規範や宗教規範によって植えつけられてきた性への忌避感や罪悪感を払拭しようとする概念だ。ジャングルの迷路の果てにあった祭壇のパロディと、その脇で快楽に溺れる男女の姿は、セックス・ポジティブネスの実践の象徴的な光景として私の脳裏に焼き付いた。
 
・性の抑圧
・ズーは合法か
188 ゼータの人々もまた動物保護の観点に立つ。動物虐待を防ぐためにも、整備された動物保護法は必要だと考えている。しかし、2013年に追加された新項目、動物保護法第3条第13項は、ズーたちにとって大問題だった。というのも、その内容は動物を人間の個人的な性行動に利用すること、他人の性行動のために訓練すること、所有する動物を他人が利用するのを許すことにより、動物に主として不適切な態度を強いることを禁じるというものだったからだ。
 
189 そして2015年、当時ゼータに所属していたあるメンバーたちが、「動物保護法第3条第13項は動物性愛を不当に禁止するもので、動物性愛者の性的自己決定権を阻害するものだ」としてドイツの連邦憲法裁判所に異議申し立てを行って、斥けられた。棄却の理由をおおよそまとめると、「第3条13項は、動物に種として不適切な態度を強いた際にのみ適用されるものであり、したがって、審判請求人による異議申し立て内容は本項目に当てはまらない」というものだ。つまり、これは動物に「種として不適切な態度」を強いなければ、動物とのセックスは問題視されないとも解釈できる。言い換えれば、「動物保護法第3条13項は、人々の性的自己決定権を阻害しない」と連邦憲法裁判所は判断したと理解できるのだ。
 連邦憲法裁判所のこの判断は興味深い。ナチスの性政策への激しい反省から、セクシュアリティに対する差別はドイツでは非常に繊細な問題となる。だからこそ、ゼータの元メンバーからの「セクシュアリティの自己決定権」に重きを置いた異議申し立てに対し、このような回避の仕方をとったのではないだろうか。ゼータはこの司法判断をもとに、動物性愛者と動物との性行為はドイツでは原則禁じられていないとしている。この一連のできごとは、ゼータ創立以来の最大の活動功績としてメンバーに記憶されている。
 
・タブーの裏返し
192 しかし、日本にも動物との性行為への罪悪感は古代からあった。
 『古事記』には、動物との性行為に関して興味深い箇所がある。中巻の仲哀天皇の段だ。仲哀天皇は、琴を弾いている最中に崩御する。その死を神の怒りに触れたからだと周囲はおののき恐れる。そこで、殯では穢れを払うための品々を国中から取り寄せて大祓をし、神の怒りを鎮めた。そのとき浄めた罪のリストが、「獣の皮を生きたまま剝ぐこと」「獣の皮を逆さに剥ぐこと」「田の畔を壊すこと」「田に水を引く溝を埋めること」「神聖な場所で大便をすること」「親子間の近親相姦」「馬、牛、鶏、犬との性行為」となっている。『旧約聖書レビ記18章の記述とはずいぶん趣が異なっていて、農耕の妨害や脱糞がなぜか性規範と併記されているのが独特だ。ともあれ、古代日本でも動物との性行為がタブーだったことはこの段を読めばわかる。
 『旧約聖書』や『古事記』だけでなく、ユダヤ教の律法もヒッタイトの規範も、獣姦に対する禁止を含む。日本は別として、世界のさまざまな地域でこれに違反すれば死刑にされることも多かった。このような禁忌が地域や文化を超えて存在するのは、世界中で動物との性行為が大昔から行われていたことの裏返しでもある。
 獣姦と呼び習わされてきたこの行為の痕跡は、遡れば先史時代に見つけることさえもでき、一説によれば、いまから四万年から二万五千年前には行われていたといわれている。スウェーデンのボヒュスレンには、男性が大型の四足動物にペニスを挿入する青銅器時代の岩絵が残されているし、イタリアのヴァル・カモニカには、男性がろばと思われる動物にペニスを挿入している場面を描いた鉄器時代の岩絵がある。有史以前に動物と出会い接近して以来、人間にとって動物は、狩猟し飼いならし使役する対象であっただけではなく、性的な存在でもあったのかもしれないことを、これらの歴史的遺物は示唆している。
 
 
 
第五章 わかち合われる秘密
・ズーになるという選択
204 「考えに考えて、迷いに迷って、私はついに決めたの。次に犬を飼うならば、ズーになろうって。動物の性をまるごと受け止めるには、性のことは無視できないでしょう。ズーの話を聞いて、そのことに気づかされてしまった。私たち人間は、これまで動物の性を知らなすぎたと私はいまでは思うわ。なぜこの点にだけ、いままで私は鈍感だったんだろう?動物には性がないかのように私は長年ふるまってきたわ。思い至らなかったの、単純に。でもそれって、動物に対して本当の意味でちゃんと接してるっていえるかしら
 
・障害をもつこと
・身体を預ける
・恋人の打ち明け話
・ふたりと一頭の実践
・十九歳の決断
・カミングアウト
242 セクシュアリティとは曖昧な言葉だ。文脈により性的思考を指すことも多い。しかし、本来は「セックスにまつわるあらゆること」を指し、広範な意味を持つ力強い言葉でもある。
 この「あらゆること」が難しい。想像しうる限りのあらゆること。セックスそのものにはじまり、性的指向性的嗜好、生殖、生殖の管理、妊娠、中絶、それだけではなく性にまつわる教育、政治、身体性、感情、感覚・・・・・・。セクシュアリティを考えるということは、セックスを巡るすべてを考えてみるということだ。
 
 クルトを通して、私はこのように考えるようになった。「セックスは本能的で自分ではどうにもできないもの」ではない。セックスの本能が先に会ってセクシュアリティが発生するとは限らない。セクシュアリティを考えるとき、セックスとセクシュアリティの位置を逆転させることも可能だ。「このようなセクシュアリティのために、このようなセックスを選び取る」と宣言してもよいのだ。
 
 
 
第六章 ロマンティックなズーたち
・動物へのまなざし
247 人々が抱く動物へのイメージは大きくいくつかに分けられる。
 「保護すべき対象、力なく自立できないいきもの、子どものような存在」。これはアクツィオン・フェア・プレイなどの動物保護団体も用いる言いぶんで、世界でも最も受け入れられやすい言説だろう。ただし、この時の動物とは、ペットのような身近な動物のみを指す。
 「人間とは離れた世界に暮らす、自立したいきもの」。これは野生動物にあてはまる。ほかに、「観賞用のいきもの」や、「人間とは異なる気味悪いいきもの」といった見方もあるだろう。
 だがズーたちの動物観は、そのどれとも異なる。
 「人間と対等で、人間と同じようにパーソナリティを持ち、セックスの欲望を持ついきもの」
 それがズーたちの考え方だ。身近な動物をこのように捉える彼らの姿勢から考えさせられることは多い。暮らしをともにする犬などの動物の性を無視していいのかという彼らからの問題提起は、議論を呼んでいいはずだ。ズーたちが私に突き付けてきた最大の論点は、結局それだったのだろう。
 ズーたちの話を聞き、「動物にもセックスへの欲望がある」と気づかされてしまったために、私はもはやそれを無視することができない。もしも今後、私が犬を飼うことがあったとして、その時私はどうするだろう。
 そう考えると、私は怖くなる。私には、動物の性的欲望を身体的に受け止めることはできそうにない。あらかじめ性を持たない「子ども」として、ただかわいがるだけの接し方のほうがよほど楽だと、正直に言えば思っている。だが、もはや、私はそのような飼い主になろうとは思わない。
 あるズーの男性に、私はこの思いを話してみたことがある。彼もまた、ロンヤやティナ、クルトと同じようにズーになることを選んだ人だった。私は彼に言った。
 「動物のセクシュアリティを大切に扱うべきだと、私も考えるようになった。だけど、そのせいで今後、二度と犬を飼えない気がしてきたの。犬は好きだけど、セックスできるとはどうしても思えない。やっぱり怖いし、自分にその欲望がないから」
 すると、彼はこう言った。
 「どんなセクシュアリティであっても、セックスしなくちゃいけないということはないでしょう。犬にマスターベーションをしてあげる方法だってあるよ。きみは、なんでセックスをしなくちゃいけないと思い込んでるの?」
 私は言葉に詰まった。彼の言うとおりだと思った。
 「それに、いまでは犬用のセックス・トイだって売っているよ」
 彼は、安心しなよというふうにそう続けた。
 
249 「僕はズーの概念を理解してから、ズーになった。僕はもう、ズーではない自分には戻らないし、戻れない。セクシュアリティのアイディアは、そう簡単に捨てられるものじゃないよ」
  彼はズーというあり方を、動物への接し方のひとつ、新しい愛し方のひとつとして捉えている。ズーであることとは、「動物とセックスすること」と必ずしも同義ではないと、私はドイツでの旅を通じて理解した。
 彼らはセックスを目的としていない。私が見てきたズーたちにとって、ズーであることとは、「動物の生を、性の側面も含めてまるごと受け止めること」だった。
 
・病とみなされること
253 私が見てきたズーたちは、パートナーのパーソナリティを見出すための日常を生きていた。パートナーと種を超えて対等であるために、共有する時間のなかでパーソナリティを日々見つけ、それを味わう。共通の原語もない、異なる身体と心を持つ存在たちと、いかにして対等な関係を結ぶのか。動物をパートナーとするからこそ、その問題は如実に浮かび上がる。そして彼らはその問いに対して、生活のなかで答えを出そうとする。
 ミヒャエルはあるとき、こんなことを言った。
 「動物が僕に教えてくれたことはいろいろあるけど、もっとも大切なことは、その瞬間に集中すること。そのとき、役割を演じるのではなく、ありのままの自分でいること。嘘をつかないこと」
 
・性暴力の本質
・反論を許さない愛
 
 
 
エピローグ
 
あとがき