読んだ。 #カント #永遠平和のために 悪を克服する哲学 #萱野稔人 #100分de名著

読んだ。 #カント #永遠平和のために 悪を克服する哲学 #萱野稔人 #100分de名著
 
 
はじめに 哲学の視点から平和の可能性を考える
第1章 誤解されやすいカントと『永遠平和のために』
遅咲きの哲学者カント
カント教授の一日
厳格な哲学者というイメージ
『永遠平和のために』が書かれた歴史的背景
 
『永遠平和のために』全体の構成
26 
序文 - 永遠平和のために
第1章 - 国家間に永遠の平和をもたらすための六項目の予備条項
(この章は国家間の永遠平和のための予備条項を含む)
 
第1条項 - 将来の戦争の原因を含む平和条約は、そもそも平和条約とみなしてはならない。
(将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。)
第2条項 - 独立して存続している国は、その大小を問わず、継承、、交換、買収、または贈与などの方法で、他の国家の所有とされてはならない。
(独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない。)
第3条項 - 常備軍は、全廃すべきである。
常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。)
第4条項 - 国家は対外的な紛争を理由に、国債を発行してはならない。
(国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない。)
第5条項 - いかなる国も他国の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。
第6条項 - いかなる国家も他の国との戦争において、将来の和平において相互の信頼を不可能にするような敵対行為をしてはならない。例えば暗殺者や毒殺者を利用すること、降伏条件を破棄すること、戦争の相手国での暴動を扇動することなどである。
(いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。)
 
第2章 - 国家間における永遠平和のための確定条項
(この章は国家間の永遠平和のための確定条項を含む)
 
第1確定条項 - どの市民的な体制も、共和的なものであること
(各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。)
第2確定条項 - 国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと
国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。)
第3確定条項 - 世界市民法は、普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと
世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。)
 
第一追加条項(第1補説) - 永遠平和の保証について
第二追加条項(第2補説) - 永遠平和のための秘密条項
 
付録
1. 永遠平和の観点から見た道徳と政治の不一致について
(永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について)
2. 公法を成立させる条件という概念に基づいた道徳と政治の不一致について
(公法の先験的概念による政治と道徳の一致について)
 
 
『永遠平和のために』は単なる理想論なのか?
 
常備軍は全廃できるのか?
30 常備軍が存在するということは、いつでも戦争を始めることができるように軍備を整えておくことであり、ほかの国をたえず戦争の脅威にさらしておく行為である。また常備軍が存在すると、どの国も自国の軍隊を増強し、他国より優位に立とうとするために、かぎりのない競争がうまれる。こうした軍拡費用のために、短期の戦争よりも平和時のほうが大きな負担を強いられるほどである。そしてこの負担を軽減するために、先制攻撃がしかけられる。こうして、常備軍は戦争の原因となるのである。
 
31 常備軍の兵士は、人を殺害するため、または人に殺害されるために雇われるのであり、これは他者(国家)が自由に使うことのできる機械や道具として人間を使用するということである。これはわれわれの人格における人間性の権利と一致しないことだろう。もっとも国民が、みずからと祖国に防衛するために、外敵からの攻撃にそなえて、自発的に武器をとって定期的猪訓練を行うことは、常備軍とはまったく異なる事柄である
 
 カントが「常備軍」と呼んでいるのは傭兵による常備軍のこと。王が傭兵を雇って軍事力を保持・増強することには反対しているが、時刻を守るために国民がみずから軍隊を組織することは認めている。カントは決していかなる軍隊も常備してはならないということを述べているのではない。あくまでも権力者が傭兵を雇い「機械や道具として人間を使用する」ことを「全廃すべき」と主張している。
 
 
カントが議論の前提とする国家のあり方
33 国家とは、その所有している土地とは異なり、財産でないからである。国家は人間が集まって結成したものであり、国家それ自体をのぞくだれも、国家に命令したり、これを自由に支配したりすることのできないものである。国家を樹木に譬えるならば、みずから根をはった幹のようなものであり、これを切りとってほかの幹に接ぎ木するようなことをするならば、その道徳的な人格としての存在を失わせることになり、国家を道徳的な人格ではなく物件にすることである。これは民族にかんするあらゆる法と権利の基礎となる根源的な契約の理念に反することである。
 
35 カントのこうした国家のとらえ方は必然的に植民地支配に対する批判になりえる。国家とはその土地に根ざした人たちが「集まって結成したもの」であり「他の国家の所有とされたはならない」ものである以上、カントにとって植民地支配は当然受け入れられるものではなかった。
 
 
人間性とは邪悪なものである
戦争とは異常なもの、逸脱的なものではない
 
自然状態とは戦争状態である
39 ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態(スタトゥス・ナーチューラーリス)ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。だから平和状態は新たに創出すべきものである。敵対行為が存在していないという事実は、敵対行為がなされないという保証ではない。この保証はある人が隣人に対して行うものであり、これは法的な状態でなければ起こりえないものである。
 
※こうした自然状態を戦争状態とみるという考え方は、カントがオリジナルではなく、17世紀に活躍した思想家トマス・ホッブズに端を発する「社会契約説」を下敷きにしています。社会契約説とは、どのように人間が国家をつくったのかを論じたもので、要約すると、国家の成り立ちを次のように考えます。
「万人の万人に対する闘争」
法秩序が存在しない自然状態では、人間は常に自分の利益だけを考えて行動する。それゆえに放っておくと戦争状態へと向かい、生存さえ危うくなってしまう。そこで命や一定の権利を守るために、人間は相互にルールを守るという契約を結び、それが国家(政府)になった
 
 
歴史のリアリティを直視するカント
43 人間性が邪悪なものであることは、こうした諸民族の関係からありありと読みとることができる。このことは市民的で法的な状態では、統治による矯正のために覆い隠されていただけなのである。
 
 
平和を探求する問の転換
43 「なぜ戦争が起こるのか」という問いはカントにとってはさほど重要なものではない。戦争は人間の本性と結びついているため、戦争に何か特別な理由を求めても、それは空振りに終わってしまう。先の引用文でもカントは「戦争そのものにはいかなる特別な動因も必要ではない」と述べていた。
 むしろカントにとって重要なのは「どうしたら戦争を起こりにくくさせることができるか」という問い
 これら二つの問いの違いは決定的に重要。前者の問いから校舎の問いへと転換することこそが『永遠平和のために』を読み解く鍵となるとさえいえる。
 
 平和状態は新たに創出すべきもの」
 
国家をどうとらえるか
45 カントは決して国家を否定していない。それどころか、平和を実現するためには国家は不可欠だと考えている。
 なぜなら、国家とはまさにその領域内で「法的な状態」を確立することで存在するものだから。言い換えるなら、国家が存立しているのは、戦争状態である自然状態がその領域内で克服された結果として、である。
 事実、安定した近代国家の建設に成功した国では、内戦の危険性はすでに過去のものとなっている。日本でも戊辰戦争西南戦争を最後に内戦と呼べるような武力衝突は起こっていない。内戦を克服したところに近代国家は存在する。
 カントにとって、国家の成立とは人類社会に平和が実現される一つの段階に他ならない。
 カントは決して「戦争するのは国家だから国家をなくすべきだ」とは考えない。逆に、自然状態を克服して国家が成立したロジックをどのように国家を超えた次元にまで拡大していくのかを考える。
 日本では第二次世界大戦での敗戦という経験もあってか、国家への不信感が強く、「戦争するのは国家だから、戦争をなくすためには国家をなくすべきだ」という発想も知識人を含めて非常に根強くある。脱国家的な思考性が日本の哲学・思想系で強いのも同じ現象。
 しかし、カントからすれば、そうした発想は感情に任せた謬論にすぎない。カントの議論を通じて自らの思想的な思い込みを洗い出すのも、カントを読むことの価値の一つである。
 
 
 
第2章 世界国家か、国家連合か
戦争が起こりにくくなるような社会の仕組み
52 第2章 - 国家間における永遠平和のための確定条項
(この章は国家間の永遠平和のための確定条項を含む)
第1確定条項 - どの市民的な体制も、共和的なものであること
(各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。)
第2確定条項 - 国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと
国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。)
第3確定条項 - 世界市民は、普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと
世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。)
 
 戦争が起こりにくくなるような社会の仕組みについて、カントは三つの水準で議論を展開している。
(戦争が起こりにくくなるために必要な三つの条件)
・国内的な政治体制の水準
国際法の水準
世界市民法の水準
 
共和的な体制とは何か
54 共和的な体制を構成する条件が三つある。第一は、各人が社会の成員として、自由であるという原理が守られること、第二は、社会のすべての成員が臣民として、唯一で共同の法に従属するという原則が守られること、第三は社会のすべての成員が国家の市民として、平等であるという法則が守られることである。
 
 カントの言う「自由」とは「他人に迷惑や危害を与えなければ何をしてもいい」という意味の自由ではない。そうではなくそれは、自分たちがしたがう方は自分たちで決めることができる、という意味での自由。
 権力者や支配者が一方的に決めた法に人びとがしたがわなくてはならない状態は、カントの言う「自由」ではない。現代的な言い方をすれば、国民が主権(すなわち自己決定権)をもち、選挙などの制度をつうじて国民が立法過程に関与できていることが、カントの言う「自由」にあたる。
 
なぜ共和的な体制は平和に必要なのか
57 ところで共和的な体制は(略)永遠平和という望ましい成果を実現する可能性をそなえた体制でもある。この体制では戦争をする場合には、「戦争するかどうか」について、国民の同意をえる必要がある。共和的な体制で、それ以外の方法で戦争を始めることはありえないのである。そして国民は戦争を始めた場合にみずからにふりかかってくる恐れのあるすべての事柄について、決断しなければならなくなる。みずから兵士として戦わなければならないし、戦争の経費を自分の資産から支払わねばならないし、戦争が残す惨禍をつぐなわねばならない。さらにこれらの諸悪に加えて、たえず次の戦争が控えているために、完済することのできない借金の重荷を背負わねばならず、そのために平和の時期すらも耐え難いものになる。だから国民は、このような割に合わない<ばくち>を始めることに慎重になるのは、ごく当然のことである。
 
「支配の形式」と「統治の形式」
59 「共和的な体制は、民主的な体制と混同されることが多い」→ 共和的な体制と、民主的な体制は別物。
 国家の形式を区別する二つの方法。
一つは「支配の形式」から区別する方法であり、もう一つは「統治の形式」から区別する方法。
 
「支配の形式」では、支配する権力を握っているものの人数で国家の形式が区別される。
支配する権力(政府において決定を行う権限)を握っているのが一人なら「君主制に、複数人なら「貴族制」に、市民社会を構成するすべての人なら「民主制」(直接民主制に区別される。
 
「統治の形式」から区別する方法→立法権と行政権の関係によって区別される。
共和的な政治体制→行政権と立法権が分離している
専制的な政治体制→行政権と立法権が分離していない
 
共和的な体制は民主的な体制とは区別される
62 共和政体とは、行政権(統治権)が立法権と分離されている国家原理であり、専制政体とは、国家がみずから定めた法律を独断で執行する国家原理である。
 
カントが「民主制」を否定したのも、この論理においてである。
 カントの言う「民主制」とは直接民主制のこと。つまりそこでは国民全員が法を決定し、かつ法を執行するので、立法権と行政権は全く分離されえない。現代の言葉で言えば、まさに全体主義
 「民主制は語の本来の意味で必然的に専制的な政体である
 カントにとって「民主制」とは「立法者が同じ人格において、同時にその意思の執行者となりうる」「まともでない形式」であり、決して受け入れられるものではなかった。
 
立法権と行政権の区別がなぜ重要なのか
63 「支配の形式」に対して「統治の形式」は「比較にならないほど重要な意味をもつ」
 平和を実現するためには、「君主制」か「貴族制」か「民主制」かということよりも、立法権と行政権がどこまで分離されているかが重要
 
 ドイツでも日本でも、第二次世界大戦に至る過程で立法と行政の区別がなくなっていった。
 ドイツでは、ワイマール憲法のもとで行政権が法によって厳格にコントロールされていたはずだったが、アドルフ・ヒトラーの出現によって立法と行政の境目が次第にあやふやになっていった。最終的には「全権委任法」が成立し、ヒトラーが組閣した内閣に立法権憲法改正権が委譲されることで、立法と行政権は一本化してしまった。
 日本では「国家総動員体制」が敷かれることで、立法の機能が事実上、行政府と軍部に吸収されてしまった。
 平和を実現するためには、確かに国民が主権者として自己決定権を持つことがまずは重要。しかし、それだけでは不十分であり、その自己決定権は立法権として政府の執行権(行政権)から区別・保護される必要がある。
 
第二確定条項で問われていること
第2確定条項 - 国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと
国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。)
国際法の水準と言っても、カントが考察しているのは、国際法の内容はどのようなものであるべきかということではない。そうではなく、国際法はどのような国際関係に基礎をおくべきかといこと。つまりここで問われているのは、永遠平和を実現するためにはどのような内容の国際法が必要なのかではなく、どのような国際関係が国際法の基礎として永遠平和を実現するのに適しているか。
 何故カントは国際法に関してこうした問いを設定するのか。→国際社会においては諸国家に対して法を強制する機構が存在しないから。そうした状態では、いくら平和を促進するような内容の国際法を制定しても、その国際法に従わない国家が出てきてしまう。
 
66 たしかに、現代の国際社会にには国際連合(国連)の司法機関として国際司法裁判所が設置されている。しかし、この国際司法裁判所は、提訴する側の国家と提訴される側の国家の双方の同意がないと法的な処分を下すことができない。各国の同意のもとでしか法的な処分を下せない以上、それは各国を法に強制的に従わせる機構とは到底言えない。
 
国家間の戦争状態をどう克服するか
 
自由な国家の連合に基礎をおく
69 国家としてまとまっている民族は、複数の人々のうちの一人の個人のようなものと考えることができる。民族は自然状態においては、すなわち外的な法にしたがっていない状態では、たがいに隣りあって存在するだけでも、ほかの民族に害を加えるのである。だからどの民族も、みずからの安全のために、個人が国家において市民的な体制を構築したのと同じような体制を構築し、そこでみずからの権利が守られるようにすることを、ほかの民族に要求することができるし、要求すべきなのである。
 ただしこれは国際的な連合であるべきであり、国際的に統一された国際的な国家であってはならない。
 
一つの矛盾としての世界国家
71 このような国際的な国家は一つの矛盾であろう。どの国家も上位の者すなわち立法者と、下位の者すなわち服従すべき大衆で構成されているものである。もしも多数の民族が一つの国家に統合されるならば、多数の民族が一つの民族になってしまうことになるが、それではこの考察の前提に反することになろう。というのはここでわれわれが考察しているのは、諸民族がそれぞれ異なった国家を構成しながらも、単一の国家にまとまっていない状態において、いかにして諸民族を支配すべき法が定められるかということだからである。
 
72 世界国家をつくるべきだというアイデアは一見するとすばらしい解決策であるように見える。しかしそれはよくみると、「諸民族がそれぞれ独立した国家をもつという状況の中でいかに法の支配を実現していくか」という問題をまったく解決していない。解決していないどころか、「諸国家が並存する状況の中で」という問題の前提を消してしまっている。それはいわば前提を変えることによってあたかも問題を解決したかのように取り繕っているだけ。だからこそそれは「一つの矛盾」だと言われている。
 さらに、この引用文には世界国家に対するカントの懸念がにじみ出ている。すなわち、もし多数の民族が世界国家へと統合されるようなことになれば、そこには支配する民族と支配される民族という分割が不可避的に生じるのではないか。
 そうなると、「世界国家」といえばきこえはいいが、実際にはそれは帝国主義や植民地支配と変わらなくなってしまう。
 
世界国家のもとに隠された抑圧
74 国際法の理念は、互いに独立した国家が隣接しあいながらも分離していることを前提とする。しかしこの状態は既に戦争状態である(諸国家が連合の下で統一されていて、敵対行為を予防しないかぎり)。しかし理性の理念によれば、ある一つの強大国があって、他の諸国を圧倒し、世界王国を樹立し、他の諸国をこの世界王国のもとに統合してしまうよりも、この戦争状態の方が望ましいのである。というのは、統治の範囲が広がりすぎると、法はその威力を失ってしまうものであり、魂のない専制政治が生まれ、この専制は善の芽を摘み取るだけでなく、結局は無政府状態に陥るからだ
 確かにどの国家も、そしてどの元首も、このような方法で持続的な平和状態を樹立し、できれば全世界を支配したいと望むものである。しかし自然の望むところは、これとはまったく異なる。自然は、諸民族が溶けあわずに分離された状態を維持するために、さまざまな言語と宗教の違いという二つの手段を利用しているのである。
 
諸個人と諸国家の理論的な違い
78 法の支配しない状態にある人間にたいしては、自然法によって、「この状態から抜け出すべきである」と命じることができるが、国家にたいしては国際法によって同じことを命じることはできないのである。というのはどの国家もすでに国内では法的な体制を確立しているので、ある国がみずからの方の概念にしたがって、他国に命令しようとしても効力はないのである。
 
 自然法=人間を含むあらゆるものの本性=自然から導き出される法則。
人間の本性=自然にもとづいた人間の行動法則
自然状態において人間はまず自己の安全と利益を考える。「法の支配しない状態でみずからの安全や利益が脅かされるよりも、他人と協力して法の支配する状態に移行したほうがいい」
 
空虚な理念としての世界国家
81 しかしこうした国家は、彼らなりに国際法の理念に基づいて、このこと(世界国家を設立すること)を決して望まず、それを一般的には正しいと認めながらも、個々の場合には否認するのである。だからすべてのものが失われてしまわないためには、一つの世界共和国という積極的な理念の代用として、消極的な理念が必要となるのである。この消極的な理念が、たえず拡大しつづける持続的な連合という理念なのであり、この連合が戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制するのである。
 
 社会の中では「一般論としては賛成だが、個別論としては反対」ということがしばしば起こる。たとえば政府が財政難におちいっているとき、政府の予算を削減するという総論には多くの人が賛成するが、ではどの予算を削るのかという各論になると、それぞれの人は自分にかかわる予算は削られたくないので反対する、というような事態。「総論賛成・各論反対」などと言われる事態。
 
積極的な理念と消極的な理念
83 積極的な理念とは、いわば目的が手段を正当化することを許容する理念のこと。すなわち、正しい目的を達成するためなら何をしても許されると考える理念のこと。
 カントは世界国家の理念がそうした積極的な理念であることを見抜いていた。その理念は「永遠平和を実現するためには、世界国家に反対する諸国家を武力制圧することも辞さない」という考えをどうしても内包してしまう。
 こうした考えは根本的な矛盾をはらんでしまう。そこでは「平和のためなら戦争も辞さない」と考えられてしまう。
 
84 消極的な理念とは、手段が最適化されるところに目的を定めようとする理念のこと
 永遠平和についていえば、「平和が問われている以上、それを実現する手段も平和的なものでなくてはならない、したがって平和的な手段によって達成されるところに永遠平和の目的を定めよう」と考える理念のこと。
 要するに、積極的な理念と消極的な理念の間では目的と手段の関係が逆になる。積極的な理念では目的が手段を正当化する。これに対して消極的な理念では手段が目的を正当化する
 これは、政治の領域で物事を考えるうえで、きわめて重要な視点。
 私たちはともすれば目的が手段を正当化すると考えがち。とくにその目的が絶対的に正しいと思われるときほど、そう考えてしまいがち。しかしそうした発想は理念の暴走を招き、政治の場を抑圧と粛清の場にしてしまいかねない。
 政治に限って言えば、理想は高ければ高いほどいいと考える人は政治には向かない。手段を最適化したところに目的を定められる人こそ政治にたずさわる資格を持つ。
 カントは積極的な理念を退けて消極的な理念を重視した。この点でも、カントはいかに理想主義とは程遠いのかがよくわかる。
 
国際連盟国際連合の位置づけ
86 国際的な連合はあくまでも永遠平和が実現されるための前提条件。決してそれは十分条件ではない。そもそも両者の関係は、一方が与えられれば自動的に他方が導かれるというものではない。
 
 かつての国際連盟の試みも、現在の国際連合の試みも、どちらも永遠平和に向かう途上のものだと理解されなくてはならない。カントが構想した世界はまだずっと先にある。
 
カントの現実主義
88 この連合の理念は次第に広がってすべての国家が加盟するようになり、こうして永遠の平和が実現されるようになるべきであるが、その実現可能性、すなわち客観的な実現性は明確に示すことができるのである。
 
 このようにすべての国は、少なくとも言葉の上では<法・権利>の概念に敬意を表明しているが、このことは人間のうちに、まだ眠り込んでいるとしても、偉大な道徳的な素質があることを示すものであり、これが人間のうちにひそむ悪の原理を克服できること(悪の原理がひそむことを誰も否定することはできない)、そして他者も同じようにこの原理を克服することを期待できることを告げるものである。
 
なぜ世界市民法なのか
第3確定条項 - 世界市民は、普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと
世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。)
 
国内法とも国際法とも区別される世界市民法について、それはどのような条件に従うべきか。
 
91 ところでいまや地球のさまざまな民族のうちに共同体があまねく広がったために(広いものも狭いものもあるが)、地球の一つの場所で法・権利の侵害が起こると、それはすべての場所で感じられるようになったのである。だから世界市民法という理念は空想的なものでも誇張されたものでもなく、人類の公的な法についても、永遠平和についても、国内法と国際法における書かれざる法典を補うものとして必然的なものなのである。そしてこの条件のもとでのみ、人類は永遠平和に近づいていることを誇ることができるのである。
 
 国際法は国家と国家の関係を対象とするので、そうした法・権利の侵害から各人を守ることには適していない。もちろん国内法にも――国境を超えて活動する自国民を保護することに対しては――限界がある。そのため、国家を超えて交流する人々の権利の保護をもっぱら対象とするような、普遍的な世界市民法の理念が、国内法や国際法とは別に求められる。
 こうした世界市民法の理念がなければ、地球上の人びとは他国の人たちと安心して友好的な関係を築くことができない。しかもその友好的な関係は永遠平和の実現にとって基礎となるもの。だからこそカントは国際法の水準とは別にこの世界市民法の理念を提示した。
 
歓待とは何か
93 ここで歓待、すなわち<善きもてなし>というのは、外国人が他国の土地に足を踏み入れたというだけの理由で、その国の人から敵として扱われない権利を指す。その国の人は、外国から訪れた人が退去させられることで生命が危険にさらされない場合に限って、国外に退去させることはできる。しかし外国人がその場で平和的にふるまうかぎりは、彼を敵として扱ってはならない。
 
 敵として扱われない権利=歓待→博愛精神を説く道徳概念ではない。
 
誤解されやすい「歓待」の概念
94 ジャック・デリダ『歓待について』
 20世紀の終わり、当時のフランスでは反移民の世論の高まりを背景に、不法移民に対する風当たりが強くなっていた。
 
96  ただし外国から訪れた人が要求することが出来るのは、客人の権利ではない。この権利を要求するには、外国から訪れた人を当面は家族の一員として遇するという特別な条約が必要であろう。外国から訪れた人が要求できるのは、訪問の権利であり、すべての人が地表を共同で所有するという権利に基づいて、互いに友好的な関係を構築するために認められるべき権利なのである。
 
 ある国が移民を受け入れるためには、その国政府は彼らに対して言語の習得を手助けしたり、職業訓練の機会を提供したり、あるいは彼らが職に就けないようなら生活保護などの社会保障を与えたりしなくてはならない。そうしたサービスを移民が受けることは、引用文では「客人の権利」と言われている。
 
 
カントが「歓待」い込めたもの
97 「(訪問の権利とは)すべての人が地表を共同で所有するという権利に基づいて、互いに友好的な関係を構築するために認められるべき権利なのである。」
 
 この地球という球体の表面では、人間は無限に散らばって広がることができないために、共存するしかないのであり、ほんらいいかなる人も、地球のある場所に移住する権利をほかの人よりも多く認められることはないはずなのである。
 
 カントがこれを描いた時代状況。
18世紀から19世紀の初めにかけて、外国への訪問で一般的だったのは、先進国であるヨーロッパ諸国の人びとがそれ以外の地域を訪問することだった。逆に、先進国への移民の流入が問題になったのはようやく20世紀の後半になってから。そうしたカントの時代の訪問において何が起こっていたのかと言えば、ヨーロッパ諸国による侵略と植民地支配。
 
 しかし外国から訪れたものに認められるこの歓待の権利は、昔からの住民との交通を試みる可能性の条件を提供するものにすぎない。この権利が認められることで、世界の遠く離れた大陸が互いに平和な関係を結び、やがてはこの関係が公的で法的なものとなり、人類がいずれはますます世界市民的な体制に近くなることが期待できるのである。
 これと比較するために、開花された民族、とくにヨーロッパ大陸で商業を営む諸国の歓待に欠けた態度を考えていただきたい。これらの諸国が他の大陸やほかの諸国を訪問する際に、きわめて不正な態度を示すことは忌まわしいほどであり、彼らにとって訪問とは征服を意味するのである。
 
 デリダが行ったような「歓待」解釈は、カントが批判した植民地支配を肯定することになってしまう。
 
第3章 人間の悪こそ平和の条件である
議論の自由と秘密条項
第一追加条項(第1補説) - 永遠平和の保証について
第二追加条項(第2補説) - 永遠平和のための秘密条項
 
106 第二追加条項→国政を担うのは政治家と法律家(今でいうと行政官)だが、彼らは平和をもたらすための条件について哲学者の助言を仰ぐべきである。
 具体的な状況の中で行われる権力の行使には往々にして普遍的な理性の判断が欠けてしまうから。
 人間が普遍的で理性的な判断を行うためには自由で公な議論が必要だと考えていた。自由に議論できること、そして権力による抑圧を恐れてそれを隠すようなことはしなくてもすむこと。これが人間の理性の行使にとって不可欠なことだと、カントはさりげなく主張している。
 この追加条項が「秘密条項」だとされていること。
 
 というのは、国家の立法者たちにとっては、最高の知恵を蔵しているのは国家に他ならないはずである。だから臣下である哲学者に助言を求めることは、他の国家に対し提言を守るという原則からみると、国家の威厳に傷をつけるものと思われよう。しかし哲学者に助言を求めることは、きわめて望ましいのである。だから国家は暗黙のうちに、すなわち助言を求めていることを秘密にしながら、哲学者たちに助言するよう促すことになろう。
 
自然こそが永遠平和を保証する
第一追加条項→
109 永遠平和を保障するのは、偉大な芸術家である自然、すなわち<諸物を巧みに創造する自然>である。自然の機械的な流れからは、人間の意志に反してでも人間の不和を通じて融和を作りだそうとする自然の目的がはっきりと示されるのである。
 
 ここでいう「自然」とは、「自然を満喫する」とか「大自然の中の生活」とかいうような意味でつかわれる「自然」ではない。そうではなく、地球上のあらゆるものを創りだし、動かしているものとしての「自然」。
 この「自然」のなかには当然、人間も含まれる。
 人間の「本性=自然」は戦争にむかう傾向性を宿している→その「自然」はさらに、そうした戦争にむかう傾向性から平和さえも生みだそうとする。
 
世界のいたるところに人間が住んでいる謎
112 自然が暫定的に準備したものとして次の三つの点を挙げることができる。自然は
(1)人間が世界のあらゆる地方で生活できるように配置した。
(2)戦争によって、人間を人も住めぬような場所にまで駆り立て、そこに居住させた。
(3)また同じく戦争によって、人間が多かれ少なかれ法的な状況に入らざるをえないようにしたのである。
 
 カントがここで示そうとしているのは、人類は自然の働きを通じて様々な地域でそれぞれの民族に分かれて生存してきた、という事実。
 この事実は、世界国家の設立がいかに永遠平和を実現する方法としてふさわしくないかというカントの認識につながっている。「自然」が人間をさまざまな地域でそれぞれの民族に分散させて存在させてきた以上、世界国家という理想を掲げても、それは多くの民族を強者の論理で無理やり支配する悲劇しか生まない。永遠平和を実現するためには、「自然」がそうなっているという現実に合わせてその方法を探さなくてはならない。
 
戦争が人間を分散させた
115 ところで自然は人間が地上のあらゆる場所に住むことができるように配慮しただけでなく、人間がその好みに反してでも、いたるところで生きるべきであることを独断的に望んだのである。ところがこの「べきである」というのは、ある義務の観念に基づいて、人間が道徳的な法によって拘束されるという意味ではない。自然はこの目的を実現するために戦争を選んだという意味であり、それは次のことからも明らかであろう。同じ言葉を使うことから、原初においては統一されていたことが分かる民族がわかれて住んでいる例がある。サモイエード人のように氷の海の沿岸に住む民族と似た言葉を使う民族が、200マイルも離れたアルタイ山脈に住んでいるのである。この二つの民族の間に、騎馬を巧みにあつかう好戦的なモンゴル民族が割り込んできて、二つの民族を引き離し、片方を極北の荒野に追いやったのである。こうした民族がみずから好んで極地まで広がっていったのではないことはほぼ確実である。
 
戦争が国家の形成をうながした
117 ある民族に内的な不和がなく、公法の強制に服する必要を感じていない場合にも、戦争が外部からこれを強いることになるだろう。すでに指摘しておいたような自然の準備によって、どの民族も隣接する地のほかの民族に圧迫されることになり、それに対抗する力をもつためには、その民族は内部において国家を形成しなければならないのである。
 
 国家とは強制力(つまり武力)を組織することで法の支配を確立しようとする機構のこと。カントのいう「法的な状況」とは要するに国家状態のこと。
 もし社会の規模がそれほど大きくなく、またその内部の構造も極めて単純であれば、社会が維持されるためにわざわざ強制力が組織される必要はないかもしれない。つまりそれは国家なき社会、強制力の執行機関のない社会。
 しかし、そうした社会であっても、外部の勢力による侵略や征服、支配から自らの独立を守るためには、防衛力を整備しなくてはならない。防衛力を整備するということは、社会の中に強制力を持った機関を出現させるということ。つまり、外部の勢力から独立を守るためには、その社会の人びとは国家を形成せざるをえない。
 
 現実には、他国の統治に組み込まれたくなければ、その土地の人たちはみずから国家を形成するしかない。つまり、他国に組み込まれるにせよ、みずから国家を形成するにせよ、どちらにしても国家からは逃れられない。
 
利己心こそが国家を形成させる
120 国家の樹立の問題は、たとえどれほど困難なものと感じられようとも、解決できる問題である。悪魔たちであっても、知性さえ備えていれば国家を樹立できるのだ。これは次のように表現できる。「ある一群の理性的な存在者がいて、自己保存のためには全体としては普遍的な法則の適用を求めるが、自分だけはひそかにその法則の適用をまぬがれたいと願っているとする。この一群の人びとに秩序を与え、体制を樹立させて、個人としての心情においては互いに対立しあっていても、公的な行動においては、私情を互いに抑制させ、悪しき心情などなかったかのようにふるまわせるにはどうすればよいか」。この問題は解決可能なはずである。ここで求められているのは、人間を道徳的に改善することではなく、自然のメカニズムを機能させることだからだ。
 
 すべての人たちは心情的には互いに対立し合っていても行動的には法に従っているという「法的な状況」が出現する。
 国家を形成するために人間は道徳的にすぐれた存在になる必要はない。それどころか、人間に利己心と自己保存の欲求さえあれば国家は形成される。
 
「商業の精神」は戦争と両立しない
122 他方ではまた自然は、互いの利己心を通じて、諸民族を結合させているのであり、これなしで世界市民法の概念だけでは、民族の間の暴力と戦争を防止することはできなかっただろう。これが商業の精神であり、これは戦争とは両立できないものであり、遅かれ早かれすべての民族はこの精神に支配されるようになるのである。というのは、国家権力のもとにあるすべての力と手段のうちでもっとも信頼できるのは財力であり、諸国は道徳性という動機によらずとも、この力によって高貴な平和を促進せざるをえなくなるのである。
 そして世界のどこでも、戦争が勃発する危険が迫ると、諸国はあたかも永続的な同盟を結んでいるかのように、仲裁によって戦争を防止せざるをえなくなるのである。戦争をするための大規模な同盟はその性格からしてきわめて稀なものであり、成功する可能性はごくわずかなのである。
 
永遠平和とは人類にとって運命なのか
126 ところでここで、自然があれこれのことを意志するというのは、自然が人間にそれを行うことを義務として定めているということを意味するのではない。これを行うことができるのは、強制されることのない実践理性だけだからである。自然が意志するというのは、人間が好むかどうかにかかわらず、自然がみずからそれをなすということである。「運命は欲するものを導き、欲せざるものは無理やり引きずってゆく」というではないか。
 
 実践倫理=カント倫理学の用語。人間が自律した状況の中で(つまり何かを強制されているわけではない状況の中で)道徳的な義務をみずからに課すときの理性の働きを指している。たとえば、噓をついてもバレない状況の中でそれでも噓をつかないという義務を自らに課すときの理性の働き。
 
 こうした実践倫理と対比されているということは、「自然」は人間に永遠平和を強制するものとしてここでは考えられているということ。
 そうである以上、やはり「自然」は人間に対して永遠平和をさけることのできない「運命」として定めているのであり、人間はみずからの「本性」にしたがって利己的にふるまってさえいれば永遠平和を手にすることができる、とカントは考えていたことになるのではないか。
 
自然の中の理性の役割とは
127 さてここで永遠平和の意図にかかわる本質的な問題を考察しよう。自然は永遠平和を意図することで、人間自身の理性の働きでみずから義務とする目的を実現させるために、すなわち人間の道徳的な意図を助けるために、何をするのだろうか。
 
 人間自身の理性の働きでみずから義務とする目的=平和
 
 カントが示そうとしているのは、人間が理性の働きの下で永遠平和を実現しようと努力するなら、それを「助け」てくれるような自然の働きが確かに存在する、ということまで。それいじょうではない。
 
 自然はこのような方法で人間に備わる自然な傾向を利用しながら、永遠平和を保障しているのである。もちろんこの保証は、永遠平和の将来を理論的に予言することのできるほどに十分なものではないが、実践的な観点からは十分なものであり、単なる夢想にすぎないものではない。この目的に向かって努力することが、われわれの義務となっているのである。
 
 
第4章 カントがめざしたもの
哲学的土台としての「付録」
 
道徳と政治の一致
付録
1. 永遠平和の観点から見た道徳と政治の不一致について
(永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について)
2. 公法を成立させる条件という概念に基づいた道徳と政治の不一致について
(公法の先験的概念による政治と道徳の一致について)
 
136 政治は「蛇のごとくに怜悧であれ」と語り、道徳はこの命令を制限する形で、「しかも鳩のごとくに偽ることなく」とつけ加える。もしもこの二つが一つの命令のうちで両立できないならば、政治と道徳のあいだには実際に争いがあることになる。
 
 永遠平和のためには両者は一致すべきだとカントが考えていたからに他ならない。
 
 こうして真の政治は、あらかじめ道徳に服していなければ、一歩も前進できないのである。たしかに政治は困難な技術ではあるかもしれないが、道徳と政治を一致させることは、技術の問題ではないのである。(中略)むしろ政治は道徳の前に屈しなければならない。しかしそのことによってこそ、政治が輝き続けることができる状態にまで、たとえゆっくりとではあっても、進歩することを希望することができるのである。
 
法による政治の制約
138 しかし法の概念を政治と結びつけることがどうしても必要であり、法の概念を政治を制約する条件にまで高める必要があることを考えると、政治と法の概念をどうにかして結合させねばならない。
 
140 公法の状態を実現することは義務であり、同時に根拠のある希望でもある。これが実現されるのが、たとえ無限に遠い将来のことであり、その実現に向けてたえず進んでいくだけとしてもである。だから永遠平和は、これまでは誤って平和条約と呼ばれてきたものの後に続くものはないし(これはたんなる戦争の休止にすぎない)、たんなる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。この課題が次第に実現され、常にその目標に近づいてゆくこと、そして進歩を実現するために必要な時間がますます短縮されることを期待したい。
 
 公法の状態を実現すること=諸国家の関係
 
 世界国家なるものを想定することなく、いかにして政治(=国家)を法にしたがわせることが可能となるのか
 
道徳と政治の一致をつうじて公法の状態は可能となる
142 すでに指摘したように、国際法がそもそも可能であるためには、まず法的な状態が存在していなければならない。この法的な状態がない自然状態では、どのような法を考えても、それは私法にすぎない。さらにこれまで検討してきたように、戦争の防止だけを目的として諸国家が連合することが、諸国家の自由を妨げることのない唯一の法的な状態である。だから政治と道徳が合致するためには、連合的な組織が必要なのである。この連合的な組織は、原則に基づいた法の原理によって与えられる必然的なものなのである。
 
↑永遠平和を実現するためのカントの構想
・世界国家は諸国家の自由を妨げるため、永遠平和とは対極であること
・諸国家の自由を妨げることのない諸国家の連合こそが、諸国家のあいだに「法的な状態」を確立するのにふさわしいものであること
・この諸国家の連合は法の原理のもとで可能となるのであり、その法の原理を通じて政治と道徳も合致すること
 
法の土台としての道徳
145 人間のうちの道徳的な原理は決して消滅することがないのであり、この原理にしたがって着実に法の理念を実現しようとする理性は、進歩をつづける文化を通じてつねに成長していくのである。
 
カントにおける道徳概念
147 道徳とは、無条件にしたがうべき命令を示した諸法則の総体であり、すでにそれだけで客観的な意味における実戦であり、人間はこれらの諸法則にしたがって行動すべきなのである。だから道徳という義務を認めておいて、あとでそれにしたがうことができないと言うならば、それは明らかに矛盾したことである。
 
 しかし、私たちは自分の行為の結果をコントロールできるという前提で、
 「噓をついた結果、友人は助かる」
 「本当のことをいった結果、友人は殺される」
 という二つを比べて、噓をつくことを選択する。結果が異なるものを比較すれば、結果のよいほうを選ぶのは当然。
 とはいえ、こうした比較では「嘘をついてはならない」という道徳を正当に評価することはできない。というのもそこでは条件(この場合は、友人が助かるか殺されるかという結果)が違うものを比べているから。「嘘をついてはならない」という道徳を正当に評価するためには、比較の対象の条件を同じにする必要がある。つまり、
 「嘘をついた結果、友人は殺されてしまう」
 「本当のことを言った結果、友人は殺されてしまう」
 という比較。
 もし「友人は殺されてしまう」という条件が同じなら、私たちはどちらのほうにより罪悪感を抱くでしょうか。当然「嘘をついた場合」です。そちらの場合の方がわたしの作為がより強く作用しているから。それだけ私たちは「嘘をついてはならない」という道徳に価値をおいている。
 これこそ、カントが「無条件に」ということを強調する理由。
 特定の具体的条件のもとでは私たちは道徳の価値を正当に考察することができない。条件をフリーにすることで(すなわち条件を無化することで)はじめて私たちは道徳がどのような力をもっているのかを認識することができる。
 カントが道徳を考えるときに、人間は自分の行動の結果をコントロールすることができないという前提に立つのも、同じ理由から。そうした前提に立つことは、道徳をとりまく具体的な条件を無化することに他ならない(行動の結果はわからないという前提にたつことになるため)。
 
道徳の形式から出発すべき
151 実践哲学における自己矛盾をなくし、実践理性の課題を実現するためには、理性の内容的な原理から出発するのか、形式的な原理から出発するのかをまず決定しておく必要がある。
理性の内容的な原理は、意思の任意の対象としての目的を重視するものであり、
理性の形式的な原理は、目的の持つ内容そのものは問わずに、外的な関係における自由だけに依拠して、「汝の主観的な原則が普遍的な法則となることを求める意思に従って行動せよ」と命じるのである。
 ところで実践哲学においては、この形式的な原理を優先する必要があるのは疑えないところである。この形式的な原理は法原理として、無条件的な必然性を備えているからである。
 
 ここでいう「実践」とは「道徳」のこと。「道徳哲学」「道徳をめぐる理性(考え)」
 
 カントが道徳を「内容」と「形式」に分けていること。引用文の内容を要約すると次のようになる。すなわち、実践哲学には道徳の「内容」から出発するやり方と、道徳の「形式」から出発するやり方があるが、実践哲学は本来「形式」から出発すべきである、と。
 道徳の「内容」→個々の道徳における具体的な内容を指している。たとえば「嘘をついてはならない」という道徳命題がそれに当たる。
 こうした道徳の「内容」はどうしても特定の条件と切り離せない。たとえば「暴漢から友人を助けるために嘘をつくことは許されるか」といった問いのように。
 「理性の内容的な原理は、意思の任意の対象としての目的を重視する」→「暴漢から友人を助けるために」とうのがここでいう「目的」にあたる。つまり、道徳の「内容」から出発するかぎり、実践哲学は「暴漢から友人を助けるために」といった目的に振り回されてしまい、道徳について正しく考察することができなくなってしまう。
 こうした弊害を避けるために、実践哲学は道徳の「形式」から出発しなくてはならない、とカントは主張している。
 その道徳の「形式」とは、道徳からあらゆる「内容」を取り除いたもの
 道徳からあらゆる「内容」を取り除けば、道徳は具体的な特定の条件からも切り離される。無条件にしたがうべきだと迫ってくる本来の姿をあらわすことになる。引用文ではそれを「無条件的な必然性」と表現している。
 
道徳の形式的な原理とは何か
154 「誰がやっても問題ないと思えることを、自分はする」というのが道徳の「形式」にあたる。
 道徳からあらゆる具体的な「内容」を取り除いたうえで、それでもなおその道徳が「正しい」と言えるためには、「自分だけでなく誰がやっても問題ないと言えるかどうか」を基準にするしかない。自分だけは許される、という行為は決して道徳的な正しさを獲得できないから。
 →「汝の主観的な原則が普遍的な法則となることを求める意思に従って行動せよ」
 →「自分がとろうと思っている行動の原則が誰がやっても問題ないといえるものとなるように行動せよ」
 →「誰がやっても問題ないと思えることだけをおこなえ」
 道徳の「普遍化可能性」とでもいうべきもの。「
 
法における普遍性への志向性
「この形式的な原理は法原理として、無条件的な必然性を備えているからである。」
 
法に制約されてしまうという必然性
158 法による政治の制約が可能になるのは、こうした法の形式的な原理によって。
 
法の公開性という形式
160 国家における国民と国家間の関係に関して経験によって与えられている様々な関係から、法学者が普通想定するような公法のすべての内容を捨象してみよう。すると残るのは公開性という形式である。いかなる法的な要求でも、公開しうるという可能性を含んでいる。公開性なしにはいかなる正義もありえないし(正義というのは、公に知らせうるものでなければかんがえられないからだ)、いかなる法もなくなるからだ(法というものは、正義だけによって与えられるからだ)。
 
 公開性=公開しうるという可能性
 
 法は、それがいかなる悪法であっても、正義に根ざしていると主張することでみずからを正当化する。ただしその正義は私的なものであることはできない。なぜなら法それ自体が、人びとに対して「みずからにしたがうべき」という公的な要求をするものだから。そうである以上、法が主張する正義は公に認められうるものであらざるをえない。と同時に、そうした正義に基づく(と少なくとも主張する)法も決して公開性なしにはなりたたない。
 
 近年ではアカウンタビリティ」(説明責任)という概念が、法の内容についても政府の政策についても厳しく問われるようになった。「アカウンタビリティ」とは、公的に説明がつくかどうかをその「正しさ」の根拠にすべきだ、ということを求める概念。公的に説明がつかないかぎり、その政策なり法の内容は正しいとは考えられない。
 
カントの形式愛
163 人間愛と人間の方に対する尊敬は、どちらも義務として求められるものである。しかし人間愛は条件付きの義務にすぎないが、法にたいする尊敬は無条件的な義務であり、端的に命令する義務である。法に対する尊敬の義務を決して踏みにじらないことを心から確信している人だけが、人間愛の営みにおいて慈善の甘美な感情に身をゆだねることが許されるのである。
 
 人間愛とはあくまでも道徳における一つの「内容」。「形式」ではない。
 
 カントはこうした「条件付きの義務」である人間愛よりも「無条件的な義務」である「法にたいする尊敬」を優先させるべきだと述べている。道徳の「内容」ではなく「形式」を重視せよ、ということ。
 
 カントの墓碑銘「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」
 
 
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あとがき