読んだ。 #現代思想入門 #千葉雅也
読んだ。 #現代思想入門 #千葉雅也
物事に対し二項対立で考えることを超えること(→脱構築)、
既存の秩序やパターン化したものから逸脱するもの(→差異)に注目し、それをクリエイティブなものとして肯定すること、
など、丁寧に説明されており、おもしろかった。
今後のための、哲学者別おすすめ書籍もあり。
カント。(哲学とは「世界がどういうものか」を解明するのではなく、「人間が世界をどう経験しているか」、「人間には世界がどう見えているか」を解明するものだ、と近代哲学の向きを定めた)
千葉さんの授業を受けているような感じで、(これはどういうこと?)と思うところのすぐ後に、「これは○○のことです。」とか、「確認ですが、○○のことです。」というような説明が書かれてある。優しさ。
「現代思想の読み方」も、独学者にはなかなか知れないところでよかった。
□物事を二項対立で捉えない デリダ
□人生のリアリティはグレーゾーンに宿る はじめに
□秩序の強化を警戒し、逸脱する人間の多様性を泳がせておく
□権力は「下」からやってくる フーコー
□搾取されている自分の力を、より自律的に用いる方法を考える
□自分の成り立ちを偶然性に開き、状況を必然的なものと捉えない
□人間は過剰なエネルギーの解放と有限化の二重のドラマを生きている
□無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組む
□大きな謎に悩むよりも、人生の世俗的な深さを生きる
はじめに 今なぜ現代思想か
今なぜ現代思想を学ぶのか
11 ここで言う「現代思想」とは、1960年代から90年代を中心に、主にフランスで展開された「ポスト構造主義」の哲学を指しています。フランスを中心としたものなのですが、日本ではしばしば、それが「現代思想」と呼ばれてきました。
──と言うと、「いや、複雑なことを単純化できるのが知性なんじゃないのか?」とツッコミが入るかもしれません。ですが、それに対しては、「世の中には、単純化したら台無しになってしまうリアリティがあり、それを尊重する必要がある」という価値観あるいは倫理を、まず提示しておきたいと思います。そう聞いて、「ふむふむ、そうだよな」と思ってくださるならいいのですが、「なんじゃそれは」とイラつく人もいるかもしれない。ともかく読み進めてみて、役に立つものかどうかご判断いただければ幸いです。
13 現代は、いっそうの秩序化、クリーン化に向かっていて、そのときに、必ずしもルールに収まらないケース、ルールの境界線が問題となるような難しいケースが無視されることがしばしばである、と僕は考えています。何か問題が起きたときに再発防止策を立てるような場合、その問題の例外性や複雑さは無視され、一律に規制を増やす方向に行くのが常です。それが単純化なのです。世界の細かな凹凸が、ブルドーザーで均されてしまうのです。
物事をちゃんとしようという「良かれ」の意志は、個別具体的なものから目を逸らす方向に動いてはいないでしょうか。
14 現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。
人間は歴史的に、社会および自分自身を秩序化し、ノイズを排除して、純粋で正しいものを目指していくという道を歩んできました。そのなかで、20世紀の思想の特徴は、排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したことです。
16 そういう状況に対して僕は、さまざまな管理を強化していくことで、誰も傷つかず、安心・安全に暮らせるというのが本当にユートピアなのかという疑いを持ってもらいたいと思っています。というのも、それは戦時中のファシズムに似ているからです。
僕は祖父母が戦争を経験しているので、皆が一丸となってひとつの方向を向くことへの警戒心をギリギリ教えられてきた世代です。そういう昭和の記憶があるからこそ、一人の人間が逃げ延びられる可能性が倫理的につねに擁護されるべきだと考えるのです。犯罪の抑止は必要だとしても、過剰な管理社会が広がることへの警戒は言わねばならないし、現代思想はまさにその点に関わっており、人が自由に生きることの困難について語っている思想だと思うのです。
秩序をつくる思想はそれはそれで必要です。しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えてもらいたいのです。
17 動物を飼うのもそうですね。他者が自分の管理欲望を攪乱することに、むしろ人は安らぎを見出す。ここが逆説的なのです。すべてを管理しようとすればするほど、わずかな逸脱可能性が気になって不安に駆られるのです。むしろ秩序の攪乱を拒否しないことで不安は鎮まっていく。だから人は恋愛をしたり、結婚したりもするのです。それは秩序をつくるためというより、攪乱要因とともに生きていくことが必要だからでしょう。
入門のための入門
19 デリダについても良い入門書があるし、日本には東浩紀さんの『存在論的、郵便的──ジャック・デリダについて』(新潮社)という大変重要な研究書もあります。これは本格的な研究書ですが、推理小説のようにも読めるエキサイティングな本で、デリダに興味を持ったらぜひ読んでもらいたいですね。
20 ポストモダンとは「近代の後」です。そもそもの「近代」とは、今日我々が生きる社会の基本ができた時代で、17から19世紀あたりを指します(学問分野によって範囲が異なります)。近代とは、市民社会や進歩主義、科学主義などが組み合わさったものです。
大まかに言って、近代は、民主化が進み、機械化が進み、古い習慣が捨てられてより自由に生きられるようになり、「人間は進歩していくんだ」と皆が信じている時代です。皆が同じように未来を向いている。
その後、世界経済が、つまり資本主義が発展していくなかで、価値観が多様化し、共通の理想が失われたのではないか、というのがポストモダンの段階です。このことを、「大きな物語」が失われた、と表現します(この「大きな物語」という概念はジャン゠フランソワ・リオタールというやはりポスト構造主義の哲学者によるものです)。
なぜ相対主義はダメなのか。何でもありになるからです。事実にもとづかない陰謀論や、人を抑圧し暴力を肯定するような主張にも余地を与えかねない。ドナルド・トランプが大統領になった時期には、ウソを事実のようにごり押しすることを「ポスト・トゥルース」と呼ぶようになりましたが、そういう「世の乱れ」の原因はかつてのポストモダン的現代思想にある、と批判する人も出てきた。
これは不当だと思います。真理の存在が揺らぎ、人々がバラバラになるのは世界史のやむをえない成り行きなのであり、かつて現代思想はその始まりに反応して、それはいかなることなのかと理論化を試みたのです。
確かに現代思想には相対主義的な面があります。後で詳しく述べるように、二項対立を脱構築することがそうなのですが、それはきちんと理解するならば、「どんな主義主張でも好きに選んでOK」なのではありません。そこには、他者に向き合ってその他者性=固有性を尊重するという倫理があるし、また、共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在しています。みんなバラバラでいいと言っているのではありません。いったん徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンスなのです。
23 具体的には異なってはいても、別の作品やジャンルで、抽象的に同じパターンが繰り返されているという見方は、今日ではよく見られるものです。物語のパターンを意識して新しい作品をつくる──「鉄板」のパターンを使ったり、あるいはパターンをズラしてみたり──というのは、構造主義的な方法です。大塚英志の物語論はその代表で、ぜひ『ストーリーメーカー──創作のための物語論』(星海社新書)を読んでみてください。そうした見方を最初に展開したのが構造主義なんです。逆に言えば、驚くかもしれませんが、以前には何でもパターンとして考えられるというのは自明ではなかったのです。
24 しかし、それに対して、パターンの変化や、パターンから外れるもの、逸脱を問題にし、ダイナミックに変化していく世界を論じようとしたのがポスト構造主義だと言えるでしょう。比べると、構造主義はもっとスタティック、静的で、世界をパターンの反復として割り切れると思っていたところがあった。
二項対立の脱構築
25 脱構築とはどういうものかは第一章で説明しますが、ここで簡単に言っておくなら、物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保するということです。
27 そもそも、二項対立のどちらがプラスなのかは、絶対的には決定できないからなのです。
グレーゾーンにこそ人生のリアリティがある
29 能動性と受動性が互いを押し合いへし合いしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがある。
独特なデリダのスタイル
33 「脱構築」や「エクリチュール」といった概念によって知られる哲学者で、ポスト構造主義の代表的な一人と見なされています。デリダはアルジェリア出身のユダヤ系フランス人で、哲学を志してパリに出て来た人です。ですからヨーロッパにおけるマイノリティとしての、他者としての立場を持っており、そこが彼の哲学に関わってきます。
34 入門書は、まず高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』 (講談社学術文庫)をお勧めします。それは『散種』の第一論文「プラトンのパルマケイアー」の開設から始まるのですが、このテクスト選定にはなるほどと思いました。「プラトンのパルマケイアー」はエクリチュールの問題をプラトンから引き出してくるデリダ独自の手つきがよくわかるもので、かつ比較的読みやすい。デリダは、過去の哲学者の文章をひじょうに繊細に読解します。とにかく読みの達人なのです。読むとはこういうことなのか、ここまで読むものなのか、と圧倒されると思います。
余談ですが、デリダの著作を読むと、最近強まっている「わかりやすく書かない方が悪い」という読者中心の態度がいかに浅はかであるか、思い知ることになります。デリダはひじょうに複雑なものを描きますが、それはデリダ自身がまず他人のテクストをきわめて高解像度に読む人だからで、そもそも「読むって、これくらい読みますよね?」というデフォルトの基準がハンパなく高いのです。
二項対立からズレていく差異
36 「差異」は、「同一性」すなわち「アイデンティティ」と対立しています。同一性とは、物事を「これはこういうものである」とする固定的な定義です。逆に、差異の哲学とは、必ずしも定義に当てはまらないようなズレや変化を重視する思考です。
今、同一性と差異が二項対立をなすと言いましたが、その二項対立において差異の方を強調し、ひとつの定まった状態ではなく、ズレや変化が大事だと考えるのが現代思想の大方針なのです。
39 それに対し、書かれたものは解釈がさまざまに可能で、別の文脈のなかに持っていけば価値が変わってしまう。エクリチュールは、ひとつの同じ場所に留まっておらず、いろんなところに流れ出して、解釈というか誤解を生み出していくのです。
そのようなエクリチュールの性質をデリダは悪いものと捉えず、そもそもコミュニケーションでは、そういう誤解、あるいは間違って配達される「誤配」の可能性をなしにすることはできないし、その前提で人と付き合う必要がある、ということを考えました。実際、目の前でしゃべっていたって、本当にひとつの真理を言っているとは限りません。しゃべっていることにだってエクリチュール性はあるのです。
二項対立の分析
42 脱構築の手続きは次のように進みます。
①まず、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。しかし、ただ逆転させるわけではありません。
②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。
③そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。
非本質的なものの重要性
44 しかし、「本質的なことが大事だ」という常識をデリダは本気で掘り崩そうとするのです。
(略)
まさに本質を崩すことによって、世の中をより開放的にすることができるのです。
ちょっと例を考えてみましょう。男性中心的な社会は、強さを基準にしていると言えると思いますが、弱さや受動性を割り当てられてきた女性の側から社会を見直すことで、たとえば、男性的には自分の論理を主張することが重視されがちなところに、まず人の話をよく聞いて細かいところに注目する、というような姿勢で対抗することができる。
近いか遠いか
45 これが根本的な二項対立で、ありありと目の前に本物があるということを、哲学においては「現前性」と呼びます。そしてそうした現前性に対して劣っているという「再現前」との対立がある。「直接的な現前性>間接的な再現前」ですね。この二項対立が本物と偽物、本質的と非本質的という対立の根っこなのだというのがデリダの主張です。
46 直接的な現前性、本質的なもの:パロール
間接的な再現前、非本質的なもの:エクリチュール
脱構築の倫理
49 大きく言って、二項対立でマイナスだとされる側は、「他者」の側です。脱構築の発想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶれず安定していたいという思いに介入するのです。自分が自分に最も近い状態でありたいということを揺さぶるのです。
「自分が自分に最も近い状態である」というのは哲学的な言い回しかもしれませんが、それがつまり同一性です。それは自分の内部を守ることです。それに対して、デリダの脱構築は、外部の力に身を開こう、「自分は変わらないんだ。このままなんだ」という鎧を破って他者のいる世界の方に身を開こう、ということを言っているのです。
50 レヴィナスとデリダの違いを簡単に言っておくと、レヴィナスの場合、他者の隔絶した絶対的な遠さが強調されるのですが、デリダの場合は、日常のなかに他者性が泡立っているようなイメージだと僕は思います。日常を、いわば他者性のサイダーのようなものとして捉える感覚です。一切の波立ちのない、透明で安定したものとして自己や世界を捉えるのではなく、炭酸で、泡立ち、ノイジーで、しかしある種の音楽的な魅力も持っているような、ざわめく世界として世界を捉えるのがデリダのビジョンであると言えると思います。
51 確かに人は、物事を先に進めるために、他の可能性を切り捨ててひとつのことを選び取らなければなりません。しかしそのとき、何かを切り捨ててしまった、考慮から排除してしまったということへの忸怩たる思いが残るはずです。そしてまた、そのとき切り捨てたものを別の機会に回復しようとしたりすることもある。
ここでまた仮固定と差異の話を思い出していただきたいのですが、全ての決断はそれでもう何の未練もなく完了だということではなく、つねに未練を伴なっているのであって、そうした未練こそが、まさに他者性への配慮なのです。我々は決断を繰り返しながら、未練の泡立ちに別の機会にどう答えるかということを考え続ける必要があるのです。
脱構築的に物事を見ることで、偏った決断をしなくて済むようになるのではなく、我々は偏った決断を常にせざるをえないのだけれど、そこにヴァーチャルなオーラのように他者性への未練が伴っているのだということに意識を向けよう、ということになる。それがデリダ的な脱構築の倫理であり、まさにそうした意識を持つ人には優しがあるということなのだと思います。
未練込みでの決断をなす者こそ「大人」
52 二項対立は常に非対称的に他者を排除していて、何らかの二項対立が背後にある決断をすることはつねに他者を傷つけることになっているのではないか、という意識を持つと、なにもできなくなってしまうかもしれません。しばしばそういうものとして、つまり行動不能に陥らせるものであるかのようにデリダやレヴィナスの思想を捉える人がいます。
ここは僕の解釈になりますが、彼らの思想は、「そもそも人間は何も言われなくたってまず行動しますよね」というのを暗黙の前提にしているのだと捉えたほうがよいと思います。人間は生きていく以上、広い意味で暴力的であらざるをえないし、純粋に非暴力的に生きることは不可能であるということは、言わずもがなの前提なのです。だからこそ、ここが誤解を招くところだと思うのですが、この言わずもがなの前提の上で、そこにいかに他者の倫理を織り込んでいくかということが問題になっているのです。
ドゥルーズの時代
56 80年代、バブル期の日本におけるドゥルーズの紹介は、旧来の縦割りの秩序が壊れ、資本主義・消費社会の発達、マスメディアの発達によって、新しい活動の可能性がどんどん広がっていった時代の雰囲気とマッチしていました。それまでの時代のように、支配層・資本家と抑圧された労働者が対立するという二項対立ではなく、より多方向的に、二項対立的ではないような社会への介入の仕方が言われるようになり、単純に資本主義を敵視してそれを打ち倒すよりも、資本主義が可能にしていく新たな関係性を活用して、資本主義を内側から変えていくという可能性が言われた時代です(それが有効かどうかは脇に置くとして)。
その後90年代に入り、日本ではバブルが崩壊し、不況になり、イケイケドンドン的な空気は終わります。それと軌を一にするかのようにドゥルーズのブームも収まり、楽観的に新たな外部を目指すというよりも、微細な対立や衝突を発見し、二項対立のジレンマを言うような思考、すなわち第一章で扱ったデリダ的な思考が全面化するようになりました。そんな90年代を代表する著作として、東浩紀『存在論的、郵便的』というデリダ論がある、と流れをつけることができるでしょう。あまり浅田―東というラインを強調するのもどうかと思いますが、日本における現代思想の受容ではドゥルーズからデリダへという流れがあったことは押さえておくとわかりやすくなると思います。
57 有名な概念ですが、横につながっていく多方向な関係性のことを、ドゥルーズ+ガタリは「リゾーム」と呼びました。リゾームとは植物学の用語で「根茎」のことですが、横にどんどん広がっていく芝みたいな植物をイメージしてください。21世紀に入り、まさにリゾーム的関係性がネットによって文字通りに実現されていくわけです。
ネットによって皆が発言権を持つようになったのは確かです。だが、それは管理社会の到来でもあった。
差異は同一性に先立つ
60 入門書の紹介ですが、まず、芳川泰久・堀千晶『ドゥルーズ キーワード89』(せりか書房)をパラパラ見て、気になる概念を見つけるのがいいでしょう。その上で、代表的な研究者のものを比較することをお勧めします。檜垣立哉『ドゥルーズー解けない問を生きる』(ちくま学芸文庫)、國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)、宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社学術文庫)など。
61 世界は差異でできている。
というのがドゥルーズが示した世界観です。
同一性よりも差異の方が先だ、という考え方。重要なのは、大きな二項対立として同一性/差異という対立があることです。
(略)
「同一性は最初のものではない」と言われています。同一性は「二次的」な位置に置かれるのです。でもそれは、事物が一瞬たりとも同一性を持たないというような、めちゃくちゃの状態を言っているのではありません。二次的にでも、同一性は「原理として存在する」のです。僕はこのことを「仮固定」という言い方で捉えています。
ヴァーチャルな関係の絡まり合い
63 意識のレベルでは、「私が自転車に乗る」という主語-目的語の関係でしか捉えていない。ところがそのなかでは、複雑な線がいたるところに伸びていて、関係の意図の絡まり合いのようになっている。それは意識下で処理されている。
このように、AとBという同一的なものが並んでいる次元のことを、ドゥルーズは「アクチュアル」(現働的)と呼びます。それに対して、その背後にあってうごめいている諸々の関係性の次元のことを「ヴァーチャル」(潜在的)と呼びます。我々が経験している世界は、通常は、A、B、C・・・という独立したものが現働的に存在していると認識しているわけですが、実はありとあらゆる方向に、すべてのものが複雑に絡まり合っているヴァーチャルな次元があって、それこそが世界の本当のあり方なのだ、というのがドゥルーズの世界観なのです。
すべての同一性は仮固定である
65 そもそもA、Bという同一性よりも手前においてさまざまな方向に多種多様なシーソーが揺れ動いている、とでもいうか、いたるところにバランスの変動がある、という微細で多様なダイナミズムのことを差異とよんでいるのです。世界は、無数の多種多様なシーソーである。
プロセスはつねに途中である
66 重要な前提は、世界は時間的であって、すべては運動のただなかにあるということです。物を概念的に、抽象的に、まるで永遠に存在するかのように取り扱うことはおかしいというか、リアルではありません。リアルにものを考えるというのは、すべては運動のなかに、そして変化のなかにあると考えることです。
こうしてまたキーワードが出てきます。「生成変化」と「出来事」です。
生成変化は、英語ではビカミング(becoming)、フランス語ではドゥヴニール(devenir)です。この動詞は、何かに「なる」という意味です。ドゥルーズによれば、あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。事物は、多方面の差異「化」のプロセスそのものとして存在しているのです。事物は時間的であり、だから変化していくのであり、その意味で1人の人間もエジプトのピラミッドも「出来事」なのです。プロセスは常に途中であった、決定的な始まりも終わりもありません。
世界をこのように捉えるとどうなるか。たとえば、我々は仕事を始めるのがだるいなあとか、仕事を終わらせるのが大変だというようなことを日々思うわけですが、すべては途中だし、本当の始まりや本当の終わりはないのだと考えることができます。こう言うと、何やらビジネス自己啓発的に応用できる気がしてきませんか?
家族の物語ではなく、多様な実践へ
69 (精神分析に対して)
それに対してドゥルーズ+ガタリが行った批判は、すごく簡単に言えば、人間の振る舞いはそんなに小さいころの家族のことだけで決まってるわけじゃない、ということです。自分自身をごく狭い範囲=家族における同一性だけで考えるのはリアルじゃない、というのです。
世界は多方向の関係性に開かれていて、しかもそれは変動しているはずであって、自分自身の心あるいは身体をそのような変動の中にある仮固定のものと捉えるなら、昔からずっとあるトラウマを想起するなんてそもそもおかしな話ではないか。むしろそれは、そのような基準点があると仮説を立てて、そこに向けて自分自身を固めていくような運動で、自分をむしろ硬直化させて治ったような気にさせるまやかしの技法だ、と。
70 これに関しては、第五章でピエール・ルジャンドルという思想家を取り上げるときに述べますが、人間と動物の違いという話につながってきます。動物は本能的に取れる行動のバリエーションがかなり定まっていて、何を食べるかが決まっている種もあるし、繁殖期も決まっているわけです。ところが人間は、脳神経が過剰に発達しているので、本能から自由に、より多様な行動がとれるように進化してしまった。そしてその自由度に対して何らかの制約を加えないと、何をしていいかわからなくなってしまうのです。これが人間がさまざまなレベルで感じる不安の根源です。僕は精神分析をベースに、人間をこのように捉えています。
だから、自己啓発的なアドバイスには、人間にある種の決めつけを提供することで安心させるものが多いのではないでしょうか。「ああではなくこういう生き方をしなさい」と言われると人は安心する。ところがそれは長く効力を持たないので、またその手のアドバイスが必要となる。そうであるがゆえに、自己啓発本は似たようなものがたくさん刊行されているわけです。
(略)
ダブルで考える
「すぎない」ことの必要性
ノマドのデタッチメント
76 全体性から逃れていく動きは「逃走線」と呼ばれます。
78 むしろ重要なのは、そういう価値観の争いからデタッチ=遊離して、だけれども互いに対する気遣いを持ち、しかもその気遣いが他者の管理にならないようにする、というひじょうにむずかしい案配を維持できるかどうかです。
管理社会批判
接続と切断のバランス
権力の二項対立的図式を揺さぶる
85 支配を受けている我々は、実はただ受け身なのではなく、むしろ「支配されることを積極的に望んでしまう」ような構造があるということを明らかにするのです。
権力は、上から押し付けられるだけではなく、下からそれを支える構造もあって、本当の悪玉を見つけるという発想自体が間違いなんです。
86 こんなふうに言うとさっそく、「闘うべき悪を名指すことが難しくなる。立ち上がるべき人民にも悪いところがあるなんて言う話になってしまうと、そもそも政治運動ができなくなってしまう。どっちにも悪いところがあるというような「どっちもどっち論」は、必要な闘いから目を逸らし、状況をただ俯瞰しているだけの「冷笑系」だ」などと批判されるかもしれません。先ほど述べたようなフーコー的視点に対し、そういう反応が向けられることが増えてきた気がします。
しかしそれは誤っていると思います。そういう抵抗運動が実は大きな権力構造の手のひらの上で踊らされている、ということもありうるからです。重要なのは、いったいどのような権力の回路が作動しているかをクールに分析することです。これがフーコーから得られる教えです。
ところで、支配する者/されるものが相互依存的になっているのだとしたら、フーコーはそういう構造の外に逃れることはできない、とでも言いたいのでしょうか?
そうではありません。フーコーの思想につねにあるのは、権力構造、あるいはフーコーの言葉で言うと、「統治」のシステムの外を考えるという意識です。ドゥルーズの用語で言えば、秩序の外部への「逃走線」を引くということがフーコーの狙いなんです。
ここでは、単なる二項対立的構図での抵抗運動では、逃走線を引くことになるどころかむしろシステムに囚われたままになる、という穿った見方をしているところがポイントです。本当の逃走線は難しいのです。逃走線を引けないのではなくて、あななたちが思っているより一段難しいのだ、というのがフーコーのメッセージなんです。
「正常」と「異常」の脱構築
89 これが正常でこれが異常という分割線は、どういう文脈で見るかによって違い、それはつねにつくられたものです。その背後には政治的な事情があります。というのは、「正常なもの」というのは基本的には多数派、マジョリティのことであって、社会で中心的な位置を占めているものです。それに対して、厄介なもの、邪魔なものが「異常」だと取りまとめられるのです。その存在が取り扱いにくいと、社会的にマイナスのラベリングがされて、差別される。逆に、寛大な処遇として、それを社会に「包摂」する場合でも、マジョリティの価値観に寄せてそうすることになります。
90 フーコーは、「正しい側」と「おかしい側」に括られ、その二つの括りが複雑なもたれ合いをしている状態を社会の基本構図として考えています。近代という時代は、その二項対立を強化した時代です。まあいろいろ変なことをする人はいるわけです。そういう人たちを括って病院や刑務所に閉じ込めたりしないで、普通に共存しているという状態、それこそフーコーは社会の本来のデフォルトとして考えています。そして、近代以後、世の中がいかにそういう状態でなくなっていくかを考えるのです。
現代ならば、発達障害を考えるとわかりやすいでしょう。昔だったら「風変わりな子」、「人の心をうまく先読みできない」などと捉えられるようになりました。つまり、マジョリティの社会のなかでうまくサバイブできないと価値づけされ、括られるわけです。
そうなって初めて、受けられるべきケアが受けられるようになったのだからよかったと多くの人は思うのかもしれませんが、しかしそれは、主流派の世界の中で主流派のやり方に合わせて生きていくことが前提になっている。ここに注意すべきです。マジョリティとは異質な人をマイナスに見る価値観が前提になっているのに、マジョリティに合わせるためのケアが受けられてよかったねというのは倫理的におかしい気がしませんか?現に社会には規範があるのだから、適応のためのサポートは事実上必要と言わざるを得ないにせよ、もっと多様にバラバラに生きて構わないのだったら、発達障害と言われる状態はそんなに問題視するものだろうかとも思えないでしょうか。
91 その後、監獄あるいは監獄的な空間―病院などの施設のことです―にノイズを集約することによって、主流派世界をクリーン化していくことになった。
こういうクリーン化こそ、まさに近代化と言うべきものです。
そして近代化には、ある意味、隔離よりも重要な側面があります。古い時代には隔離していた者たちを、だんだんと、「治療」して社会のなかに戻す動きが出てきます。しかし、それは人に優しい世の中に変わったということなのかといったら、そんなことはありません。フーコー的観点からすると、統治がより巧妙になったと捉えるべきなんです。つまり、ただ排除しておくのだったらコストがかかるばかりだけれど、そういう人たちを主流派の価値観で洗脳し、多少でも役立つ人間に変化させることができるのであれば、統治する側からすればより都合がいいわけですから。
権力の三つのあり方
92 まず王様がいた時代、そこから近代へ、そして現代へ、という展開です。
規律訓練―自己監視する心の誕生
93 それに対して、17-18世紀を通して成立していく権力のあり方を、フーコーは「規律訓練」(ディシプリン discipline)と呼びます。もっとやわらかい日本語だと「しつけ」ですね。これは簡単に言うと、誰に見られていなくても自分で進んで悪いことをしないように心がける人々をつくり出すことです。
「パノプティコン」という監獄のシステム
94 囚人は自分が監視されているかどうかを確かめられない。そしてそのためにかえって、つねに監視されているという意識を植えつけられることになるのです。
監視されていなくても、自分で自分のことを自己監視するという状態に置かれることになるわけです。
近代社会のポイントは、支配者が不可視化されるということです。
96 すなわち、実際に閉じ込められていなくても、ある程度それに類する経験をすれば、こうした監視は内面化されるだろう、ということです。以上では、実際に独房に居て隣と接触できない状態について書かれていますが、重要なのは、そのような「孤立性」が、たとえ自由の身でも、近代的な精神のあり方として成立していくということです。どこかで見られているかもしれないからちゃんとしなければならないという「個人」の心がけが成立するのです。自分が何かをするとき、自分で自分を見張る。自分は何か悪いことをしようとしてるんじゃないか、何かやってしまうんじゃないかと行動の先取りをして、前もって自分を抑えるようになっていきます。
こうして、体が動くより前に踏みとどまる空間が自分のなかにできていく。だから近代的個人は、本当に監視者がいるかどうかがわからないのに、不正行為を、殴り合いを、共同謀議をしなくなるのです。自発的に「大人しく」なっていく。
これが個人的な心の発生だとも言えます。今日のプライバシー、個人的なものというのは、そういった自己抑制とともに成立したのです。
逆にいえば、それ以前の時代には、そういうふうに自分の行動を前もって管理するという力はもっと弱かっただろうと推測されるのです。つまり、人びとはもっと行動的であって、マズいことをやらかしたら、その都度に罰せられるだけ、という面がもっと強かったのではないか。
98 個々に働きかける権力の技術が規律訓練ですが、他方で18世紀を通して、もっと大規模に人々を集団、人口として扱うような統治が成立していきます。こちらの側面をフーコーは「生政治」(bio-politics)と呼びます。生政治については『性の歴史Ⅰ』で説明されています。生政治は内面の問題ではなく、もっと即物的なレベルで機能するものです。たとえば病気の発生率をどう抑えるかとか、出生率をどうするかとか、人口密度を考えて都市をどのように設計するか、そういうレベルで人々に働きかける統治の仕方です。
新型コロナの問題を例にしてみると、「感染拡大を抑えるために、出歩くのを控えましょう」と言った心がけを訴えるのが規律訓練で、「そうは言ったって出歩くやつはいるんだから、とにかく物理的に病気が悪くならないようにするために、ワクチン接種をできる限り一律にやろう」というのが生政治です。
世の中にはワクチン反対派もいて、それを批判する人もいますが、しかし反対派にも一理あるのです。どういうことか。ワクチン政策は生政治であって、人々が自分の人生をどう意味づけるかにかかわらず、一方的にただ生き物としてだけ扱って、死なないようにするという権力行使です。ここで「死なないようにする」というのは、働いて税金を納めて国家という巨大なモンスターを生き延びさせていくための歯車にするという意味ですから、そういう統治に巻き込まれたくない=自由でいたいという抵抗の気持ちが―無意識的に―そこにはあるのです。他方、「自粛なんぞ知らん、飲みに行くぞ」というのは、規律訓練に対する抵抗ということになります。
ですから、近現代社会においては、規律訓練と生政治が両輪で動いていると捉えてください。その上で、今日では、心の問題、あるいは意識の持ち方に訴えかけてもしょうがないので、ただもう即物的にコントロールするしかないのだという傾向がより強まっていると言えると思います。つまり、生政治の部分が強くなってきている。
100 そういう状況において、人生の自由とは何なのかというのはひじょうに難しい問題です。今説明したような統治技術をすべて無くしてしまうのが自由なのでしょうか?雑多な人々がともに生きていく以上、関係の調整は必要で、ただ放っておくわけにはいきません。ただそこで何か調整が始まると、それがたちどころに規律訓練や生政治に変貌していくのです。おそらくいかなる権力関係もないユートピアは無理なのです。
人間の多様性を泳がせておく
101 このように、本章では、社会の脱構築ということで、悪い支配者がいるから闘うんだというヒーロー的図式で捉えるのでは単純すぎるということ、自分たちが知らず知らずのうちに統治を下支えする位置に置かれているということ、その自覚が重要だということをご理解いただけたかと思います。
フーコーは、かつてない仕方で人間の多様性を論じたのです。
我々は二項対立で「これは正常」、「これは異常」と割り振ったり、あるいはさまざまに分類して秩序付けようとしたりします。しかし、はっきりそれが何だかわからないような「ちょっと変わっている」とか「なんか個性的だ」というあり方を、ただそれだけで泳がせておくような倫理があるのです。
(略)
人間は他の動物とは違い、過剰さを持っています。本能的な行動をはみ出した行動の柔軟性を持ちます。だからこそ逸脱が生じるわけなのですが、それを可能な限り一定方向に整序して行動のパターンを減らすことで安心・安全な社会を実現していくというのは、言ってみれば人間が疑似的に動物に戻るということに他なりません。今日における社会のクリーン化は、人間の再動物化という面を持っているのです。
フーコーは、人間がその過剰さ故に持ちうる多様性を整理しすぎずに、つまりちゃんとしようとし過ぎずに泳がせておくような社会の余裕を言おうとしている。ドゥルーズの言う逃走線なるものを、具体的に社会のあり方として提示しているのです。
「新たなる古代人」になること
103 アイデンティティなるものが成立するその時に、良いアイデンティティと悪いアイデンティティという二項対立が同時に成立したのです。それ以前の人間の人生はもっとバラバラだった。ただし、根本にはキリスト教的な、自分は罪を犯してしまうのではないかという反省性があり、それが後に近代において本格的に統治に利用されるようになっていくわけです。
フーコーによれば、性的なアイデンティティ、たとえば「同性愛者」というアイデンティティであるとか、自分をどういう性的欲望を持つ人格として捉えるかというのも、この近代化の過程で成立していきました。ですからそれ以前には、誇張して言えば、同性愛「者」はいなかった。同性愛行動はありましたが、それはまだアイデンティティではなかった。そして、性の逸脱を排除していく動きによって同性愛者というアイデンティティが成立したのだとしたら、今日のLGBTQ支持の運動は、そう単純なものではないということがわかるはずです。つまり、そもそも排除によって成立しているアイデンティティも悪いアイデンティティも不成立だった時代の、多様な同性愛行動を肯定し直すということが何らかの形で伴わなければならないはずなんです。そうした近代批判が伴わなければ、たんに近代という構造をこじらせているだけになるかもしれない。
『性の歴史』第一巻は近代論ですが、その後計画が変わり、第二巻・第三巻で古代の話をするという一見わかりにくい展開となります。これは、「つねに反省し続けなければならない主体」よりも前の段階に戻るということなのです。
かなりラフに言いますが、古代人だって「あれはマズかった」とか「あれはやりすぎだった」とか、反省はします。もちろん性に関しても、不倫も問題視されたし、同性との関係に対する問題視もありましたが、それは何か無限に続く罪のようなものではなく、その都度注意するものだったのです。古代の世界はもっと有限的だった。自己との終わりなき闘いをするというよりは、その都度注意をし、適宜自分の人生をコントロールしていく。このことを、古代では「自己への配慮」と呼んでいました。
106 ここからは千葉流のフーコー読解になりますが、現代社会において大規模な生政治と、依然として続く心理的規律訓練がどちらも働いているのだとすると、ある種の「新たなる古代人」になるやり方として、内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対してマテリアルにかかわりながら、しかしそれを大規模な生政治への抵抗としてそうする、というやり方がありうるのだと思います。
それは新たに世俗的に生きることであり、日常生活のごく即物的な、しかし過剰ではないような個人的秩序づけを楽しみ、それを本位として、世間の規範からときにははみ出してしまっても、「それが自分の人生なのだから」と構わずにいるような、そういう世俗的自由だと思うのです。後期フーコーが見ていた独自の古代的あり方をそのようにポストモダン状況に対する逃走線として捉え直すこともできるのではないか。
というのは要するに、変に深く反省しすぎず、でも健康には気を遣うには遣って、その上で「別に飲みに行きたきゃ行けばいいじゃん」みたいなのが一番フーコー的なんだという話です。こういう世俗性こそがフーコーにおける「古代的」あり方なのです。
ここまでのまとめ
秩序の外部、非理性的なものへ
この三人がどういう意味で前提として重要かというと、いずれも秩序の外部、あるいは非理性的なものを取り扱った人物だと言えるからです。
115 そうした政治活動とともに前衛芸術やカウンターカルチャーが盛り上がったのが60-70年代で、現代思想もそういう時代に生まれ育ったわけです。
そこから遡って、19世紀。秩序から逃れるものに注目する新しい知のかたちが提起されたのが19世紀なんです。それまでは基本的に、知の課題とはいかに世界を理性的な秩序にきちんと補足するかだった。しかし、むしろ非理性的なものの側に真の問題があるという方向転換がなされるのです。その代表者がニーチェであり、フロイトであり、そしてある意味でマルクスなのだということです。
すごく雑に言ってしまえば、「ヤバいものこそクリエイティブだ」という20世紀的感覚、あれを遡るとこの3人になるということなのです。
インターネットの普及後、世の中の相互監視が強まり、クリーン化が進んでいく中で、ヤバさのクリエイティビティへの警戒心が高まってきて、世の中はより安心・安全な秩序を求める傾向が強くなっている、と「はじめに」で述べました。今後、20世紀的な自由の感覚は、歴史的に勉強しないとわからないものになるかもしれません。
116 哲学とは長らく、世界に秩序を見出そうとすることでした。世界の中に混乱を見つけて喜ぶような哲学は、あるとしても異端。そういう意味で、混乱つまり非理性を言祝ぐ挙措を哲学史において最初にはっきりと打ち出したのは、やはりニーチェだと思います。
『悲劇の誕生』(1872)という著作において、ニーチェは、秩序の側とその外部、つまりヤバいもの、カオス的なもののダブルバインドを提示したと言えます。古代ギリシアにおいて秩序を志向するのは「アポロン的なもの」であり、他方、混乱=ヤバいものは「ディオニュソス的なもの」であるという二元論です。
117 まずディオニュソス的エネルギーが大事であって、しかしそれだけでは物事は成り立たず、アポロン的形式との拮抗において何かが成立する。僕のドゥルーズ論である『動きすぎてはいけない』という本のタイトルも、動くというのがエネルギーの流動性を表しているとするなら、そこにある抑制がかかることで何事かが成りたつという意味であって、そういう意味では、ニーチェ的なダブルバインドが僕の仕事にも、あるいはドゥルーズにも継承されているということになります。
ここで重要なのは、「秩序あるいは同一性はいらない、すべてが混乱状態になればいい」と言っているわけではないということです。しばしば現代思想はそういうアウトローを志向する者のように勘違いされることがありますが、そうではないのです。確かに混乱こそが生成の源なのですが、それと秩序=形式性とのパワーバランスこそが問題なのです。ですからここでも二項対立のどちらかを撮るのではなく、つねにグレーゾーンが問題であるという脱構築的発想が働いているわけです。
下部構造の方へ
118 アポロンとディオニュソスという対立は、同一性と差異という対立に対応します。後者、つまり脱秩序的で混乱したヤバいものの側が、秩序の下に押し込められているという「下部構造」のイメージがここでは重要です。
この図式は、哲学史的に遡ると、「形相」と「質料」という対立に行き着きます。これは古代ギリシアでアリストテレスが示した対立ですが、ようするにかたちと素材ですね。形は秩序を付与するものであり、素材はそれを受け入れる変化可能なものです。
119 ところが、ずっと時代を飛ばしますが、ニーチェあたりになると、秩序づけられる質料の側が、何か暴れ出すようなものになってきて、その爆発するエネルギーにこそ価値が置かれるようになります。つまり、形相と質料の主導権が逆転するのです。
(略)
質料すなわち物質や身体の側が要するにディオニュソス的でヤバいものであり、それを形相すなわちカタが抑えつけている。
ニーチェのこうした図式は、ショーペンハウアー(1788~1860)の影響を受けています。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』(1819)において、世界が秩序だった「表象」として見えている一方で、世界とは本当はひたすら邁進していく「盲目的な意志」がありー自然の運動もすべて「意志」だと呼ぶのが特徴的ですー、我々はそれに振り回されるという議論を展開しています。そのどうにもできない力に対して、人間が向かうべき「涅槃」、「無」の思想が語られることになる(ショーペンハウアーはヨーロッパで初の、本格的に仏教思想を念頭に置いて哲学者でした)。
(略)
この普遍的な意志概念、しかも「何かをしたい」という目的的なものではない、ただの力、非合理な意志というものをはっきり概念化したのがショーペンハウアーのすごいところで、ニーチェのディオニュソス的なものも、あるいはフロイトにおける無意識の概念もその影響下にあるのです。
フロイト―無意識
精神分析の実践と作用
125 精神分析の本当のところは、記憶のつながりを何かの枠組みに当てはめることではなく、ありとあらゆることを芋づる式に引きずり出して、時間をかけてしゃべっていく過程を経て、徐々に、自分が総体として変わっていくことなのです。どう変わるかはわかりません。ただ、これはやはり一種の治療であり、何とも言いにくいかたちで、自分のあり方がより「しっかり」していくのだと言えると思います。精神分析は時間を節約してパッパと済ませることができません。精神分析経験とは、ひじょうに時間をかけて自分の記憶の総体を洗い直していく作業なのです。
無意識と偶然性
126 これは「自分でコントロールしきれないものが大切だ」という現代思想の基本的な発想につながってきます。自分のなかの無意識的な言葉とイメージの連鎖は、自分のなかの「他者」であるということになります。
127 その上で、無意識の何がポイントなのでしょうか。これは僕の解釈ですが、「偶然性」というキーワードをここで出してみたいと思います。
精神分析で明らかになるのは、自分の過去のいろんな要素が絡み合い、ところどころ固い結び目ができてしまい、それが今の行動に傾向を与えているということです。ただしそれは、「人間はこういう経験をしたらこういう人間になる」などと一般法則のように言えるものではありません。精神分析はその意味で、個別の経験を大事にするのです。似たような交通事故に遭ったとして、そのことが大きなトラウマになる人もいれば、ならない人もいるでしょう。
つまり、無意識とはいろんな過去の出来事が偶然的にある構造をかたちづくっているもので、自分の人生のわからなさは、過去の諸々のつながりの偶然性なのです。
今自分にとってこれが大事だとか、これが怖いとかがあり、それについて物語を持っているとして、「それはあのときにああいう出会いがあったからだ」と振り返るときのその出会いは、たまたまそうだったというだけ、そしてそのことが深く体に刻まれてしまったというだけであって、その「運命」に意味はありません。たまたまです。
でも人間はまったく訳もわからずに自分の人生が方向づけられているとは思いたくない。我々は意識の表側で必ず意味づけをし、物語化することで生きているわけですが、その裏側には、それ自体でしかない出来事の連鎖があるのです。
ただそのことに直面するのが通常は怖いので、人はさまざまな物語的理由づけをします。しかし精神分析の知見によれば、まさにそのような物語的理由づけによって症状が固定化されているのです。むしろ、無意識の中で要素同士がどういう関係づけにあるかを脱意味的に構造分析することで初めて、症状が解きほぐされることになるのです。
物語的意味の下でうごめくリズミカルな構造
128 二項対立、どちらか一方が優位で他方が劣位である二項対立によって物語をさばいていくのが表の思考ですが、それは言い換えれば、世界の物語化です。善と悪を分け、有用と無駄を分け、清潔と不潔を分け、愛と憎しみを分け、そこでの選択の迷いや希望や後悔をあれこれ語るのが「物語」であり、典型的な近代的小説の構造です。
しかし現代思想は、そういった物語の水準にとどまっていては見えないリアリティが世界にはあるということを教えてくれます。無意味なつながり、あるいは無意味という言葉が強ければ、物語的意味とは別のタイプの意味、とも言えるでしょう。なかなかそれを考えるのは難しいかもしれませんが。
130 これを自分自身の記憶や世界の在り方に適用することが、二項対立から離れて現代思想的にものを見ることだとも言えます。物語的意味ではない意味を世界に、自分自身に見る。それが「構造」を見るということであり、しかもその構造は動的でリズミカルなものです。構造とは、諸々の偶然的な出来事の集まりなのです。
まとめるならば、ディオニュソス的なものとは抑圧された無意識であり、それは物語的意味の下でうごめいているリズミカルな出来事の群れだということです。それが下部構造なのです。
近代的有限性
130 まず、カント超入門です。時代は18世紀末、カントは『純粋理性批判』(第一版、1781/第二版、1987)において、哲学とは「世界がどういうものか」を解明するのではなく、「人間が世界をどう経験しているか」、「人間には世界がどう見えているか」を解明するものだ、と近代哲学の向きを定めました。哲学者も含めて我々は人間であり、人間が分析できるのは人間が認識していることだけだからです。
人間に認識されているものを「現象」と言います。現象を超えた、「世界がそれ自体としてどうであるか」はわからない。この、それ自体としての存在を、カントは「物自体」と呼びました。人間にはフィルターみたいなものが備わっていて、それを通ったものしか見えない。フィルターを外して世界がどうなっているかはわからない。ちょっと言葉が難しいですが、このフィルターをカントは「超越論的なもの」と呼びました。別の例えをすると、超越論的なものとは、思考のOS(Window や Mac OS など)みたいなものです。
人間はまず、いろんな刺激を「感性」で受け取って知覚し、それを「悟性」=概念を使って意味づける。この感性+悟性によって成り立っている現象の認識では、物自体は捉えていません。しかしそれでも物自体を目指そうとするのが「理性」である(しかし物自体には到達できない。ゆえに理性に関する難問が生じるのですが、それは省略します)。感性、悟性、理性という三つが絡み合うのがカントOSです。
132 フーコー『言葉と物』
17から18世紀、フーコーの言い方では「古典主義時代」は、思考に対する事物の現れ、すなわち「表象」と、事物それ自体とを区別することはなく、事物を思考によって直に分類整理できる、という時代でした(古典主義時代より前はルネサンスで、フーコーはそれにも説明を与えていますが、ここでは省略)。このときには、表象と事物は一致しているのか、ズレているのかという問題意識はなかったのです。
ところがその後、近代化の進展につれて、表象の背後には、事物がそのようにできている深い原因がある、表象を見るだけではわからない原因を解明しよう、という知の運動が始まります。たとえば、生物学ができる以前に、古典主義時代には「博物学」がありましたが、それは動植物の特徴を分類整理するだけでした。その後、今の我々も知っている生物学の段階に入っていくと、生命という抽象的なものを想定して、生命の「機能」がさまざまな身体機関でどう実現されているかを研究するようになる。機能とは、目に見えるものではありません。機能自体は表象としては見えない、抽象的に考えるものです。そのように、表象の背後に抽象的なレベルでの原因を探ることで、原因がそこに位置する事物「それ自体」が、表象から分離されていくのです。
133 表象空間から解放され、自身の謎めいた厚みのなかに引きこもることによって、事物は、認識に対して決して完全には与えられないものとなる。そして、そのように表象から一歩引いた場所に措定された事物が、まさにそのことによってありとあらゆる認識の可能性の条件として自らを差し出すことになる。自らを示すと同時に隠す客体、決して完全には客体化されえぬ客体こそが、「自らを表象の統一性の基礎として示す」ということであり、ここから、我々はそうした起訴への到達を目指す「終わりのない任務」へと呼び求められるのである。
134 隠されたものとしての事物の謎の追求は、「終わりのない任務」になる、つまり、キリがないのだけれど続けるしかない。ここには、かつてなかった無限性が生じている。古典主義時代には、神の秩序たる世界をたとえば博物学で記述することは、それも際限ない仕事でしたが、その終わらなさ=無限性は、たんに量が多いだけだった。
しかし今や、探求するほどに「かえって謎が深まる」ようになったのです。これが新たな無限性です。思考(表象)と事物を隔てるどうしようもない奈落を埋めようとして埋められない、というのが近代的な無限性です。世界そのもの、物自体には到達できない。この意味で、人間という存在が「有限」なものとして発見されます。かつて、人間が有限だというのは、神に対して矮小なものというくらいの意味でした。近代において有限性の意味がより深まるのです。思考(表象)によって世界(事象)に一致しようと際限なく試みるが、結局はできない、というのが近代的な有限性なのです。
135 そしてフーコーによれば、見えないものの力、ネガティヴなものの力がそのようにして承認されるとともに、そうした力によって魅惑される者、そうした力によって絶えず呼び求められる者の存在が浮上してくることになる。心理を常に取り逃すという点において自らの有限性を示すと同時に、まさしくその有限性ゆえにその真理に向かって不断に歩み続けるものとしての人間、根源的に有限な存在としての人間が、ここに登場するのである。(同書、76頁)
カントの『純粋理性批判』は、新たなる有限者=近代的人間のあり方を、初めてクリアに分析した画期的な仕事でした。そして、カントも含めて知の近代化とは有限性の主題化にほかならない、ということを明示したのがフーコーの『言葉と物』なのです。
いささか脱線的になりましたが、改めて本性全体とつなぎ直しましょう。
近代において、人間の思考は、見えないもの、決して届かないもの、闇のようなものに向かって、あるいはそれをめぐって展開されることになる。思考は不可能性を運命づけられつ。先の引用に「真理に向かって不断に歩み続ける」とありましたが、これはよりネガティブに言い換えれば、「真理に向かおうとするが、真理への到達不可能性によって牽引され続ける」ということです。人間の思考は、つねに闇を抱え込むようになった。思考において思考を逃れるものが生じた。それが、広い意味での下部構造の発見です。ディオニュソス的なもの(ニーチェ)、盲目的な意志(ショーペンハウアー)、無意識(フロイト)といった近代的概念は、人間自身が内に含むようになったその闇の別名なのだ、とまとめることもできるでしょう。遠く遡ればその闇とは、形相ないしイデアに必ずしも従わないような質料、マテリアルの転身した姿なのです。
マルクス―力と経済
136 マルクスは、政治でも文化でもなく、もっぱら経済こそが、要するにカネの問題こそが人間を方向づけてきたのだと喝破した人です。そして経済は、資本と労働の二項対立で動いていると考えました。カネの問題が下部構造と呼ばれるのは、表面的な社会の状況、すなわち上部構造に覆われて見えにくくなっているからです。
フロイトにおける、無意識が抑圧されて意識が成立しているという二重構造に似ていると思いますが、マルクスは「労働力」とそこからの「搾取」というメカニズムを発見しました。労働者は自分の労働力に対して賃金をもらい、それは生活に必要な金額だということなのですが、結果的に、賃金に見合う以上の生産を行うこととなり、その余剰の利益、すなわち「余剰価値」を使用者=資本家にピンハネされる、というメカニズムです。
人間には本来、好きに使えるはずの力があるのに、偶然的な立場の違いによって、搾取されている。
すべての人が自分自身の力を取り戻すには
138 よりキャリアアップするために自己啓発本を読んでやる気を出すとか、職場の環境をよりよくするためにLGBTQへの差別をなくす運動に取り組むとか、そういう活動は「意識が高い」とされるものでしょう。しかし、仕事の効率を上げ、職場をよりよくするという善意は、余剰価値をピンハネされ続けるという下部構造の問題から目を背けることではないでしょうか。
意地悪に言えば、搾取されていても快適であるために、みずから進んで工夫をしているのではないか、ということです。
このとき、本当に意識を高く持つというのは、搾取されている自分自身の力をより自律的に用いることができないかを考える、ということになります。
もっとも、自分は使われている人間だということを自覚したうえで、独立を決意すべきだという自己啓発はたくさんあります。それが意味しているのは、労働者から資本家になれということです。そうすると結局、誰かを搾取する立場にかわるだけです。
だからマルクス主義では、「あなたも資本家になれる」ではなく、すべての人がこの構造から解放されるにはどうするか、すべての人が自分自身に力を取り戻すにはどうするかを考えようとするのです。それが「共産主義」と呼ばれるものなのですが、いまだにそれは実現されていません(歴史上の社会主義国家はそれを試みて失敗しました)。
140 同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見することだとおもうのです。こうして、みずからの力を取り戻すという実践的課題において、ニーチェとフロイトとマルクスが合流することになるのです。
144 本性によってごく大ざっぱにはわかると思いますが、この後、ぜひ複数の入門書を読んでください。ラカンの場合はとくに、入門書を複数読んで、いくつかの解説を合算するのが重要です。後ほど、本を紹介します。
さて、デリダには名高いラカン批判の論文「真理の配達人」というものがあり(『現代思想』1982年2月臨時増刊号「デリダ読本」に翻訳が掲載)、その批判があってこそ、日本では東浩紀の『存在論的、郵便的』が書かれました。また、ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』は、精神分析批判によって欲望の新たな捉え方を打ち出したのでした。そのように、精神分析批判というか、精神分析の胸を借りるようなかたちで自分の思想を形成しているという面が現代思想にはあるのです。
145 僕は若いころ、デリダやドゥルーズ+ガタリの精神分析批判を十分に消化できず、精神分析はダメなのだと単純に反発していました。しかし、だんだんと、精神分析は侮れないぞ、精神分析的な家族の問題はそう簡単にはスルー出来ないぞ、と思うようになったのです。それは年齢を重ね、人間の見方が変わってきたのかもしれません。結果として、精神分析の意義をある程度認めながら、しかしその外部を目指すような欲望理論を持つ、という姿勢をとるようになったのです。そのように、この本では、精神分析と精神分析批判のダブルシステムをお勧めしたいと思っています。
人間は過剰な動物である
146 夢が細部まですべて自分のコンプレックスに関わっているという読みは「意味化しすぎ」だと思います。
147 精神分析は、ひとつの人間の定義を与えます。それは、「人間は過剰な動物だ」ということです。過剰さ、あるいは秩序からの逸脱性。僕はよく「人間はエネルギーを余している」といっています(これは方言っぽいですが、「余らせている」より「余している」という言い方がなんとなく僕には自然です)。
本能と制度
149 本能とは「第一の自然」であり、動物においてそれはかなり自由度が低いのだが、人間はそれを「第二の自然」であるところの制度によって変形するのです。ここでの「制度」には、「別様でありうるもの」という意味を込めています。逆に、本能とは固定的で、そうでしかありえないものです。制度は別様でありうる、しかし、いくらでも好きに別様に変えられるわけでもない、というところが重要です。人間は多様なあり方をとりうるわけですが、好きなタイミングでどうにでも変われるわけではありません。
150 人間の過剰さは、脳神経の発達のためだというのがよくなされる説明です。だから他の動物より認識の多様性を持っているのだ、と。他の動物は生体に近いかたちで生まれてきますが、人間は未完成な状態で生まれてきます。人間の子供は、神経系的にまだまとまっていないため、生れてしばらくは嵐の中にいるような状態なのです。そしてだんだん、成長しながら教えられることで、事物を一対一対応的に認識できるようになっていく。ノイジーな状態から固まっていく。これは経験的に納得していただけるだろうと思います。そもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーを何とか制限し、整流していくというのが人間の発達過程なのです。教育とはまず、制限なのです。その最初にして最大の行為が、自分が名前で呼ばれ、そして周りのものの名前を教えられることです。「これは何々である、それ以外ではない」というのはまさしく制限です。
欲望の可塑性
150 ひとつのテーゼとして言いましょう―人間は認知エネルギーを余している。
自由に流動する認知エネルギーのことを、精神分析では、本能と区別して「欲動」(drives )と呼びます。人間の根底には、哺乳類としての本能的次元があるにはあるでしょう。だけれど、それが実際にどう発動するかと言えばひじょうに多様であって、欲動という流動的なかたちに変換されているのです(・・・という仮説なのです)。
これはフロイトが言っていることですが、欲動の向かう先は一対一対応ではなく、自由で定まっていません。だからこそ、性的な対象も最初の段階では定まっておらず、異性を欲望するようになるという大多数の傾向は、もともと本能的にあるにはあっても、人間の場合は欲動のレベルでそれを固め直すことになります。本能のレベルに異性愛の大きな傾向があるにしても、欲動が流動的だから、欲動のレベルにおいて例えば同性愛という別の接続が成立することがありうるのです。性愛のことだけでなく、何か特定の者に強い好みを持ったりとか、そういう自由な配線が欲動の次元で起こるのです
本能的・進化論的な大傾向はあるにせよ、欲動の可塑性こそが人間性なのです。
欲動において成立する生・性のあり方は、たとえそれが異性愛のようなマジョリティの形式と一致するにしても、すべては欲動として再形成されたものだから、その意味においてすべてが本能からの逸脱です。つまり、極論的ですが、本能において異性間での生殖が大傾向として指定されていても、それは欲動のレベルにおいて一種の逸脱として再形成されることによって初めて正常化されることになるのです。
そのように欲動のレベルで成立するすべての対象との接続を、精神分析では「倒錯」と呼びます。したがって、人間は本能のままに生きているということはなく、欲動の可塑性を常に持っているという意味で、人間がやっていることはすべて倒錯的なのだということになります。こういう発想は、正常と異常=逸脱という二項対立を脱構築しているわけです。我々が正常と思っているものも「正常という逸脱」、「正常という倒錯」です。本能的傾向と欲動の可塑性のダブルシステムを考えるというのがここで言いたいことです。すべての人間を倒錯的なものとしてとらえる発想は、ジャン・ラプランシュという精神分析家が示しています。『精神分析における生と死』(1970)がその文献ですが、全部読むのは大変なので、第一章だけでも読んでもらえれば、今の話がより専門的に説明されています。
ラカン―主体化と享楽
153 人間がいかに限定され、いわば「有限化」されるかということがここからの主題になります。つまり、有限化が主体化なんです。
理想的な状態からはじき出されることを「疎外」と言います。精神分析的には、母が必ずしもずっとそばにいてくれないということが最初にして最大の疎外です。そしてそれがすべての自律の始まりなのです。
154 ここには「快」の二つの様相があります。第一には、緊張が解けて弛緩すること。安心です。しかしもうひとつ見逃せないものがある。第二に、偶然に振り回され、死ぬかもしれないというギリギリのところで安全地帯へもどって来るというスリルであり、これは不快と快が混じったようなもので、こちらの方が第一の快の定義よりも根本的だと言うべきではないでしょうか。第一の定義が、普通の意味での「快楽」(pleasure)です。それに対し、第二の方では、むしろ死を求めているようですらあるわけで、ここにフロイトの「死の欲動」(death drive デストルドー)という概念が当てはまります。死の偶然性と隣り合わせであるような快を、ラカンは「享楽」(jouissance)と呼びました。
154 子供はそのうち、おもちゃなどで遊ぶようになっていくわけですが、そういった対象には母の代理物という面がある。根本的な「欲しさ」の対象は母乳であって、おもちゃの欲しさなど、何か外的対象に向かう指向性は、母との関係の変奏として展開していくことになる。成長してからの欲望は、かつて母との関係において安心・安全(=快楽)を求めながら、不安が突如解消される激しい喜び(=享楽)を味わったことの残響があるのです。
去勢とは何か
155 さて、そこにもう一人の人物が介入してくる。父です。この「父」とは、密接な二人の世界を邪魔するものです。これも実の父でなくともよく、概念的にいえば「第三者」の存在を意味します。子どもにとって外的対象との関係は母との関係の変奏だと言いましたが、そこから離れて、第三者的な外部、すなわち「社会的なもの」を導入するのが、この「二」の外部にいる「三」の人物です。それは親子の一体化の邪魔=禁止するのです。
この禁止は、「ダメ!」と口に出すようなものではなりません。母が子供のそばからいなくなってしまうことがある、それと、二人の外部=第三者の領域があるらしいという認識がつながってくる。母には母の事情があって、ずっと子供だけを構っているわけにはいかない。そこで、自分以外の誰か=第三者との関わりのために母がいなくなってしまう、つまり、母がその誰かによって自分から奪われる、という「感じ」が成立してくる。父=第三者は、ゆえに憎むべき存在であり、母を奪い返さねばならないということになる。これがいわゆる「父殺し」の物語であり、以上のプロセスを精神分析では「エディプス・コンプレックス」と呼びます。そのようにして、「外部がある」ということが子供において成立してくる。外部の客観的認識には、本来の母子一体を邪魔されたがゆえの憎しみが伴なっています(精神分析的にいえば、客観性には憎しみが伴なっているのです)。
こうした父の介入を、精神分析では「去勢」と言います。ずっと母が側に居てくれるという安心・安全は、母の気まぐれ=偶然性によって崩れるわけですが、その理由は、父=第三者が世界には存在するからである。端折った言い方になりますが、「客観的世界は思い通りにはならない、だからもう母子一体には戻れない」という決定的な喪失を引き受けさせられることが去勢です。
欠如の哲学
156 母の欠如を埋めようとするのが人生です。しかしそれは決して埋められない。絶対的な安心・安全はありえないのであり、不安とともに生きていくしかない。だがそう悟っても穴を埋めようとする―それが人生です。根本的な欠如を埋めようとすることが、ラカンにおける「欲望」です。その意味でラカンには「欠如の哲学」があるのです。
(略)
そう言うと、人生は空しい感じがしますが、でもそれでいいんです。もし何か手に入って、「よし、これで人生の目標が達成されたぞ」となったら、その後生きていく気力がなくなってしまいます。結局、何らかの対象aに憧れては裏切られるということを繰り返すことによって人生は動いていくのです。こういうロジック自体をメタに捉えることによって、欲望を「滅却する」方向に向かうのが仏教的な悟りなのでしょう。
つながるイメージの世界と言語による区別
158 ラカンは大きく三つの領域で精神とをらえています。第一の「想像界」はイメージの領域、第二の「象徴界」は言語(あるいは記号)の領域で、この二つが合わさって認識を成り立たせている。ものがイメージとして知覚され(視聴覚的に、また触覚的に)、それが言語によって区別されるわけです。このことを認識と呼びましょう。第三の「現実界」は、イメージでも言語でも捉えられない、つまり認識から逃れる領域です。お気づきかもしれませんが、この区別はカントの『純粋理性理論』に似ていないでしょうか。のちに「否定心理学批判」のところで説明しますが、実はラカンの理論はカントOSの現代版と言えるものなのです(想像界→感性、象徴界→悟性、現実界→物自体という対応になっている)。
人間の発達では、まずイメージの世界が形成されていきます。まだ自己がはっきりせず、刺激の嵐に晒されている生まれたばかりの子供は、対象を十分区別できず、すべては境目が曖昧で、ぼんやりつながっている。近くには強弱の差があり、強い部分に注意が向くとしても、それはまだ他から明確には区別されないでしょう。
そこに言語が介入するのですが、言語が行うのは「分ける」ことです。名前を与え、イメージのつながりを切断し、すべてがごちゃごちゃにならないよう制限する。一定の形態を指さしながら言葉を言うことで、世界が対象に分けられていく。
その過程で、子どもは自分自身の姿を初めて見ることにもなる。鏡によってです。そして名前を呼ばれ、そのひとまとまりのイメージを自分のものとして引き受けるようになる。このことをラカン派「鏡像段階」と呼びます。
鏡像段階を通して自己イメージができる。それは想像界と象徴界の交わりによって可能となるわけです。人間は自分自身の全体像を見ることはできません。鏡によって間接的に(しかも反転した像で)見るしかない。自己イメージはつねに外から与えられる、というのがラカンの重要な教えです。鏡像というのは、鏡に映った姿だけではなく、自分について人から言われることや、有名人やアニメのキャラをモデルにして自分のあり方を調整すると言ったときの外的なものすべてを指します。大人になっても我々は日々、鏡像的な自己イメージの作成を続けています(だから、「自分探し」は決して終わらないのです)。端的にいって、自己イメージとは他者なのです。
そして、先に説明した去勢によって、想像界に対し、象徴界が優位になります。混乱したつながりの世界が言語によって区切られ、区切りの方から世界を見るようになる。よくわからない色や音の洪水のなかで、動く何かを見て「ワンワン?」と名前を探るのではなく、最初から「犬」という区切り=フィルターに当てはまるかどうかでものを見るようになる。象徴界の優位とは、世界が客観化されることです。ですがそれは、原初のあの幸福と不安がダイナミックに渦巻いていた享楽を禁じることを意味するのです。
(略)
象徴界によって創造的エネルギーの爆発が抑圧されてしまうのです。
(略)
言い換えるなら、まさに区別を超えたつながり、あるいは区別の手前のつながりに戻ってみましょうと言っているのです。
ところが、言語は分別ができる世にするもので、「こっちはこっち、向こうは向こう」ということになります。ですから、言語習得というのはある意味世界を貧しくすることなのです。だけれど、言葉を習得しなければ、人間は道具をまともに操作することすらできません。おそらく体もまともに動かせないでしょう。動物の場合なら、言語を習得することなしに一定の行動をとることができますが、動物が本能的に物事を区別し分節化してとらえられているのに対して、人間は言語習得との関係で世界を分節化し直すという「第二の自然」を作りださなければ、その中で目的的な行動をとることができないのです。言語とは、ドゥルーズの言い方を使えば「制度」の一種です。
現実界、捉えられない「本当のもの」
162 イメージと言語によって認識が成立し、意味が生じているわけですが、まったく意味以前的にそこにあるだけ、というのが現実界です。現実界に直接向き合うことはできません。そういう「認識の向こう側」にあると仮に仮定してみましょう。疲れたりして、見慣れているものが何かよくわからなくなったりするときは、そういう外部にちょっと近づく瞬間です。しかし通常、現実界に向き合うことはありません。
では、意味以前の現実界とは何か。それは成長する前の、あの原初の時です。刺激の嵐にさらされ、母の気まぐれに振り回されていた不安の時、不安ゆえの享楽の時です。それが認識の向こう側にずっとあるのです。
ここでラカン理論の変遷について述べておきます。「想像界から象徴界優位へ」という話は50年代の初期ラカンで、その後、60年代に現実界の位置づけが問題になります。ラカン派60年代=中期以後に現実界を重視するようになった、と覚えてください。
これこそが欲しかったものだ、と対象aを求め、手に入れては幻滅するのが人生だという話をしましたが、人はつねに、これこそという「本当のもの」を求め続けているわけです。これが「本当のもの」かと思って何か=対象aを得ても、「本当のもの」はまた遠ざかってしまう。対象aを転々とすることで、到達できない「本当のもの」=Xの周りをめぐっていることになる。このXが、イメージにも言語にもできない「いわく言いがたいアレ」としての現実界なのです。あの原初の享楽!
それは成長し、認識が成立していく過程で失われたものです。幼少期に原初的な満足を喪失したということがつねに世界の影として残り続けているのです。
現在、最初に読むのにお勧めなのは、片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』(誠信書房)です。この著者は実際に精神分析を受けており、精神分析実践の様子も具体的に描かれています。また、新世代のラカン研究者である松本卓也の説明は際立って明晰なもので、『人はみな妄想する―ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』(青土社)は必読書です。これには索引があり、 用語辞典のようにも使えます。
ルジャンドル―ドグマ人類学
164 ピエール・ルジャンドル(1930~)という思想家を紹介します。ルジャンドルはラカン派の精神分析を取り入れながら法の歴史に関する独自の理論を打ち立てた人です。ルジャンドルは自分の理論を「ドグマ人類学」と呼んでいます。
ドグマという言葉は、普通、良い意味では使わないものですよね。融通の利かない、いかなる批判も許さない決めつけみたいなものをドグマというわけですから。哲学史でも、「世界の本質はこうだ」というドグマ的=独断的な決めつけをやめ、人間はどういうふうに世界を捉えているのか、言い換えれば、「人間のOS」を分析しよう、というカントの哲学に転換した歴史があって(それが哲学における近代化です)、我々はカント以後にいる。カント以前の、世界はこうだという思弁を行う哲学を「独断的形而上学(dogmatic metaphysics)」と呼びます(この「独断的」というのは「ドグマチック」の翻訳です)。ですから、今さらドグマという言葉を復活させるなんて、と奇妙な感じがするわけです。ルジャンドルは一種の保守の人で、社会秩序を守ろうとする思想の持ち主です。だからこそドグマ人類学は、世界の伸展から距離をとって、現代的欲望を分析するのに役立つのです。
(略)
これは実は原理的な話です。たとえばAという主張をするとして、それには理由aがある、と言われる。それに対して批判が起こると、その理由aをさらに根拠づける、より掘り下げた理由bを言わざるをえなくなる。理由bは「理由の理由」ですね。さて、されに批判が続けば、理由の理由の理由・・・という掘り下げにはキリがありません。原理的には無限に続きます。このことを僕の『勉強の哲学』ではアイロニーと呼びました。
だけれど現実には、批判や反論はあるところで止めざるをえなくなります。時間に限りがあるからです。そうすると、ある段階で、事実上そこで行き止まりの「こうだからこうだ」としか言いようがない命題に突き当たることになる。原理的にはさらに遡れますが、そこで「手打ち」にするしかなくなる。その命題をドグマと呼ぶのです。
こうだからこうだ、というどうしようもなさは、すべての人が個人的に経験しています。それはすなわち、成長する過程での去勢です。母から引き離され、物事を切り分けるようになる。名前とはドグマです。自分で勝手にものに名前をつけることはできません。「これはこう呼ぶのだ」と指定され、かつその名前には結局根拠がありません。
儀礼に拠る有限化
166 ルーティン作成としての秩序化、それは人間が「本能で動く動物になり直すこと」だとも言えます。動物の場合、なにも強制されなくても最初から決まった行動がとれますが、人間の場合には外からの「構築」が必要なのです。第二の自然をつくるわけです。
人間はルーティンを複雑化させていきました。学校で制服を着るとか、教室では黙って先生の話を聞いているとか、体育の時間に整列するとか、みんなで行進するとか、音楽の時間にみんなで同じ歌を歌うとか、我々はそう言うなんでそんなことをやらなきゃいけないのかというような共通行動をさせられ、それを嫌々ながらもうけいれる。しかもそういうことをたんにイヤだと思っているのではなく、たとえば合唱コンクールで一糸乱れぬパフォーマンスを行うことに青春の感動があったりする。
ここはフーコーが規律訓練という概念によって批判的に問題にしたところです。ですが、今はそのことのポジティブな面を言おうとしています。
人は規律訓練を求める。なぜか。認知エネルギーが溢れてどうしたらいいかわからないような状態は不快であって、そこに制約をかけて自分を安定させることに快があるからです。しかし一方では、ルールから外れてエネルギーを爆発させたいときもある。
(略)
これは人間のあらゆる組織的行動に言えることで、また個人的に生活を律するときでもそうです。
ここで「儀礼」というキーワードを出したいと思います。あるいは「儀式」でもよいですが、儀礼の方がより抽象的ですね。ルーティンというのは儀礼です。なんでそんなことをやっているのかその根本の理由が説明できない。たんにドグマ的でしかないような一連の行為や言葉のセットのことです。
人間は過剰な存在であり、逸脱へと向かう衝動もあるのだけれど、儀礼的に自分を有限化することで安心して快を得ているという二重性がある。そのジレンマがまさに人間的ドラマだということになるわけです。どんなことでもエネルギーの解放と有限化の二重のプロセスが起きている儀礼である、という見方をすることで、ファッションでも芸能でも政治でも、いろんなことがメタに分析できるようになります(こうした見方は文化人類学的なものであると言えるでしょう)そして、儀礼とは去勢の反復だと言えます。
否定神学批判
168 このようなXに牽引される構造について、日本の現代思想では「否定神学的」という言い方をします。否定神学とは、「神とは何々である」と積極的に特徴づけるのではなく、神を「神は何々ではないし、何々でもなく・・・」と、決して捉えられない絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義するような神学です。まさにそうした神の定義と、このXのあり方は似ている。我々は否定神学的なXを追い続けては失敗することを繰り返して生きているわけです。
カントまで遡るなら、否定神学的なXは「物自体」に相当すると言えます。
カントについては第四章で紹介しました。カントは、人間が経験しているのは現象であり、現象は感覚的なインプットと概念の組み合わせでできていて、その向こう側に本当の物自体があるのだが、物自体にはアクセスできない、という図式を『純粋理性批判』で提示したのでしたこれがラカンの三つの界とだいたい対応するのです。
カントが現象と呼んでいるのは想像界と象徴界の組み合わせです。人間はイメージ(感性)と言語(悟性)によって世界を現象として捉えている。しかし、その向こう側に現実界(物自体)があり、それにはアクセスできない。にもかかわらず、それにアクセスしようと思っては失敗し続ける。
この捉えきれないものを捉えようとして失敗し続ける人間という「空回り的人間像」のようなものが成立したのが近代です。やってもやってもきりがないという無限性。このことは、たとえばカフカの小説を想起するとよいでしょう。際限のない事務手続きに巻き込まれ、埒が明かない迷宮のようなところに迷い込む・・・そんな世界観です。カフカはそれを誇張的に滑稽なものとして描いている。
こうした近代的人間のあり方を示したのがフーコーの『言葉と物』なのでした。
(略)
フーコーによれば、近代以前には、人間の思考は無限に謎を掘り進めていくようなものではなかった。まず神の秩序が揺るぎなくあって、神はとにかく無限の存在であり、神が作った世界はすべてくまなく秩序的であって、人間はその中に含まれている。人間は神には及ばない有限なものなので、自分にわかる範囲で世界の秩序をできるだけ発見しようとする。人間は有限であり、有限にできることをやるしかなかった。
しかしそれ以後、有限性の意味が変わります。神と比べて人間は有限、なのではなく、人間自身に限界があるために世界には見えないところがある、という自己分析的な志向が立ちあがってくる。人間にわかっていることの背後には何か見えないもの、暗いものがあって、人間はそこに向かって突き進んでいくのだ、というような人間像になっていきます。
171 否定神学という言い方で近現代の思想を捉えたのは、東浩紀の『存在論的、郵便的』です。東において、「否定神学システム」の代表と見なされるのがラカンの理論です。ラカンにおける、現実界が認識から逃れ続けるということが、否定神学システムのいちばん明らかな例なのです。東はそれと同等のものがデリダの初期にもあるとした上で、デリダは後にそこから離脱する方向に向かったという読解を示しました。かつ、同時代のドゥルーズなどにも似た展開が見られるというのです。
しかしどうやったら近代的有限性から逃れられるのか?
(略)
ドゥルーズ+ガタリは、家族の謎を追求するのではなく、絵を描くでも社会活動でも何でも、具体的にアクションをしてみなさいと励ます思想だと説明しましたが、そこで重要なのは、それが無限のXに向かっていく、つねに欲求不満な活動として行われるのではなく、さまざまな活動がそれぞれに有限に、それなりの満足を与えてくれる、それなりに完結するものだということです。無限の負債を背負い、返しきれないもののために悲劇的な人生を送るのではなく、さまざまな事柄を「それはそれ」として切断し、それなりにタスクを完了させていく。ドゥルーズ+ガタリはそういう気楽な人生を推奨していると僕は思います。いわば有限的喜劇です。
ひとつのXをめぐる人生というのは、いわば単数的な悲劇ですが、そうではなく、人生のあり方をもっと複数的にして、それぞれに自律的な喜びを認めようということです。後に説明しますが、東は、単数のXから「複数的な超越論性へ」という転換をデリダにおいて強調しました。
このように、無限の謎に向かっていくのではなく、有限な行為をひとつひとつこなしていくという方向性は、ある意味、近代以前に新たな価値を与えることだとも言えます。フーコーが晩年、古代に発見したような自己とのかかわり方がここにつながってくる。
そして、上級編として言えば、実はラカンは後期になると、空回り的人間像というよりドゥルーズ+ガタリに近いような立場へと向かいました。見せかけである対象aを求めては幻滅するのを繰り返しているのを自覚するだけでなく、その自覚によっても結局消えることがない根本的な享楽を見つけ、享楽的なものとしての、そこに自分の存在がかかっているような「症状」を社会生活と両立させてうまくやりくりできるようにする、という精神分析になっていく。その人の特異性-先の言い方なら「存在の偏り」-であるような症状を、ラカンは「サントーム」と呼びます。サントームについては松本卓也『人はみな妄想する』を参照してください。
第六章 現代思想のつくり方
新たな現代思想家になるために
現代思想を作る四つの原則
178 ①他者性の原則 基本的に現代思想において新しい仕事が登場するときは、まず、その時点で前提となっている前の時代の思想、先行する大きな理論あるいはシステムにおいて何らかの他者性が排除されている、取りこぼされている、ということを発見するのです。これまでの前提から排除されている何かXがある。こういう言い方も品がないですが、「他者探し」をするのです。詳しくは後ほど具体例で説明します。
②超越論性の原則 広い意味で「超越論的」と言えるような議論のレベルを想定する。それは「根本的な前提のレベル」くらいに思ってください。第四章で説明したように、超越論的なものとはカントの概念です。復習しておきます。カントは、人間が物を認識し思考するときの前提として、人間の精神にはあるシステム、いわばOSがあり、それによって情報処理しているのだというようなことを『純粋理性批判』で論じました。そのOSをカントは「超越論的」と形容したのでした。カントにおけるこの意味を踏まえて、何かある事柄を成り立たせている前提をシステマティックに想定するとき、それを超越論的なものと呼ぶのです。
現代思想では、先行する理論に対してされに根本的に掘り下げた超越論的なものを提示する、というかたちで新しい議論を立てるのですが、その掘り下げは、第一の「他者性の原則」によってなされます。先行する理論では、ある他者性Xが排除されている、ゆえに、他者性Xを排除しないようなより根本的な超越論的レベル=前提を提示する、というふうに新たな理論をつくるのです。
③極端化の原則 これは特にフランス的特徴と言えますが、現代思想ではしばしば、新たな主張をとにかく極端にまで推し進めます。主張の核は、排除されていた他者性に向き合うことですが、それをひじょうに極端なかたちで提示する。排除されていた他者性Xが極端化した状態として新たな超越論的レベルを設定するのです。
④反常識の原則 そのようにある種の他者性を極端化することで、常識的な世界観とはぶつかるような、いささか受け入れにくい帰結が出てくる。しかし、それこそが実は常識の世界の背後にある、というかむしろ常識の世界はその反常識によって支えられているのだ、反常識的なものが超越論的な前提としてあるのだ、という転倒に至ります。
179 デリダの場合、先行するものが言っていることに対し、いわば「逆張り」をする。ここで先行するものというのは、一方が優位、他方が劣位とされている二項対立で組み立てられた指向です。できる限り劣位の側を排除して優位の側で物事を組み立てていく、プラスを増やしていくことを目指すような思考です。デリダはそれに対し、プラスとマイナスの区別が本当に一貫して成り立つのか?という疑問を向けます。そのとき、むしろマイナスの方に注目する。だから「逆張り」なんです。これが脱構築なのでした。そこで排除されていたのは「エクリチュール」と言われる他者性です。
第一章の繰り返しになりますが、エクリチュールとは、真理から遠ざかり、ズレて誤解されるもののことですが、多くの場合、ズレや誤解をなくし、真理に近づいていくことが目指されるわけです。だけれど、どれほど努力しても、我々はズレや誤解、すなわち差異を排除することはできません。そうすると、そうであるにもかかわらず、それが排除できるかのように無理を言っていることになります。
このように、実は世界は、根本的にはエクリチュール的な差異が至る所にあるのに、それを否認している、ということを世界の超越論的な前提として発見する。そしてそれはいたるところにあるのだ、というかたちで極端化する。
デリダは、パロール(話し言葉)とエクリチュール(書かれたもの)を対立させ、人々がパロール的だと、つまり真理に近いと見なしているものであっても、決して純粋な真理ではありえず、つねにそこにはズレや誤解の可能性がある、すなわちあらゆるものには「原エクリチュール」という面がある、とします。
そうすると、たいていの場合、すべてを真理に近い関係にしていきたいという強い欲望が働いているのだけれど、それに対して、ズレや誤解、さらに言えば嘘や虚偽をなしには出来ないということを受け入れ、多少なり濁った水で生きていくことこそがむしろ倫理的なのだ、という反常識的な帰結が出てくることになります。
ドゥルーズ―差異それ自体へ
181 ドゥルーズの場合、先行するのは、物事が同一性を持ち、これはこういうものだと定まっている世界です。さらにそこがプラス/マイナスによってヒエラルキー化されているという特徴づけを加えるとデリダっぽくなりますね。
そこから排除されているのは、デリダと共通することですが、ズレ、差異、生成変化です。そしてそういった同一性の崩れこそが世界の超越論的な条件であるとする。しかもそれを極端化し、同一的なAとBのあいだの差異ではなく、「差異それ自体」が世界をつくっているのだ、という存在論が出てくることになります。
デリダの場合は極端化によって、原エクリチュール、ドゥルーズの場合は極端化によって差異それ自体に至るわけです(デリダにおける原エクリチュールとドゥルーズにおける差異それ自体というのは、ほとんど同じような概念だと言えます)。
レヴィナス―存在するとは別の仕方で
・エマニュエル・レヴィナス、1906年(明治39年)1月12日 - 1995年12月25日)フランス(満89歳没)
182 レヴィナスも大きく言って差異の哲学を提示した人ですが、差異よりも「他者」というキーワードで知られています。レヴィナスの哲学は「他者の哲学」です。ちなみに、補足しておくと、レヴィナスといえば他者、とあまりに言われすぎたので、それこそ逆張り的に、最近の研究者はレヴィナスのそうではない側面に光を当てる解釈を出すようになりました。とはいえ、それは上級の話で、まずはレヴィナスといえば他者と押さえておけばいいと思います。
レヴィナスはリトアニア出身のユダヤ人哲学者です。母国語はフランス語ではないのですが、フランスに住んでフランス語で哲学をしました。だから彼の使うフランス語はちょっと独自のものがあります。レヴィナスの主著は『全体性と無限』(1961)で、これはひじょうに内容豊富なのですが、ここではそのマクロな立場だけに注目します。それは、哲学史は他者の問題を排除してきた、だから他者の方へ向かう哲学を考えなければならない、という立場です。
最大の仮想敵は、ハイデガーの存在論です。ハイデガーは、物事がただ「ある」という、その「存在そのもの」をいかに思考するか、という極端に基礎的で、きわめて展開が難しい問題に集中した人です。そういう意味でハイデガーは哲学史の極みなのですが、ハイデガーは一時期ナチに加担したという事実があり、それとの関係で、ハイデガー存在論、ひいては西洋哲学史の道行き全体が帯びているある種の危険性を、ユダヤ人であるレヴィナスは告発することになります(レヴィナスはフランス軍に属し、ドイツに捕虜として捕らえられたのですが、そのため絶滅収容所に送られることは免れました)。
存在論は哲学の極みであり、存在することそれ自体を考えるというところまで極まったら、それ以上の根本なんて考えようがない感じがするじゃないですか。だけれど、レヴィナスは、そこでなお、他者が排除されているというのです。というのは、すべて「ただある」という根本的な共通地平にすべての存在者が乗せられてしまうことによって、抽象的な意味での共同性の中にすべてが回収されてしまうからです。そこから逃れる術がもはやないような強制的な地平にすべてが載せられてしまう。このこととファシズムがつながってくるという話です。それは、存在論的ファシズムとでも言うべきものです。
もちろんこれはきわめて抽象的な意味でのことです。ただ、哲学者がすごいのは、このような超抽象的なレベルにおける政治性を考えるところです。存在論という極端な抽象性に抵抗する、ラディカルな意味での他者性を考えなければならない。 そこでレヴィナスは、存在から始めるのではなく、他者との向き合い、他者との距離からすべてを始め直さなければならないという立場をとります。レヴィナスは「無限」であるような他者を超越論的な次元に置きます。これはひとつの極端化です。他者を「無限」と捉え、そして存在論の地平を「全体性」と捉えるのです。
これはひじょうに強力な二項対立です。これに対してデリダは、純粋に絶対的な他者性というものはありえず、他者性は、同一性へと回収されていく運動との緊張関係においてしか問えないのだ、という脱構築的介入を行うことになります。これは『エクリチュールと差異』というデリダの論文集に入っているレヴィナス論、『暴力と形而上学』です。
その後、レヴィナスはもう一つの大著で、ひじょうに大胆なキーワードを出してきます。それは著作のタイトルなのですが、「存在するとは別の仕方で」というものです。フランス語では「Autrement qu'etre」、英語では「Otherwise than being」です。『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』(1974)という著作です。
存在という超抽象的な全体性の地平から、なお外れるような他者―ドゥルーズ的に言えば、存在の全体性から逃走線を引くこと―を考えたとき、その他者はいったいどのように「ある」のかが問われています。それはもはや「ある」とは言えない。なぜなら、「ある」と言ってしまったら、ただちに存在論に引き戻されることになるからです。
そこで、言葉に無理をさせる必要が出てきます。というか、こういう時に言葉に無理をさせるのが哲学者の面白いところです。「ある」というのは我々にとって根本的ですが、さらにそこから外れるものをかろうじてすくいとるために、存在するとは「別の仕方で」、「別様に」というふうに、もはや副詞でしか言えないことを言おうとするんです。結果、「存在するとは別の仕方で」で止める、という無理やりの表現がつくられた。
こう言っては間違いなのですが、言ってみれば「オルタナティブな存在」みたいなものではある。だけれどもそれをオルタナティブな存在と言ってしまうと、存在論に回収されてしまうからダメで、「別の仕方で」というしかないのです。
こうなると哲学はほとんど、詩が行おうとするような、常識的な言葉遣いでは表現できないものを表現するという領域に踏み込んでいます。ただ、それはたんに曖昧なイメージ的なものではなく、確実にひとつの論理によって導き出された、概念としての表現なのです。通常の言葉の用法では表現できない抽象性の概念なのです。ここが、哲学が数学とは違う仕方で到達する独特の抽象性の世界です。厳密に論理的に確定された概念なのだけれど、それを表現するには言葉に無理をさせなければならないということがある。
というわけで、簡潔ですが、本書でのレヴィナスの紹介はこのくらいに留めます。
四原則の連携
186 ①先行する議論は、安定的なものとして構造S1を示しているが、そこからは他者性Xが陰に陽に排除されている。まずこのことに気づく。(他者性の原則)
②そこから、S1は実は根本的な構造ではない、という問題提起へと向かう。S1は根本的でなかったからXは排除せざるをえなかったのである。そこでS1を条件づける構造S2を考える。S2においてようやくXが肯定される。(超越性の原則)
③S1にとってXは従属的、付随的だった。だが今や、Xが極端化され、Xこそが原理となるようなS2を考え、それがS1を条件づけると考えるのである。S2を定式化するために、慣例を破って新たな概念をつくることもある。(極端化の原則)
④S2を前面に押し出すと、常識と齟齬をきたすような帰結を生む。(反常識の原則)
ポスト・ポスト構造主義への展開
187 ポスト構造主義は、諸々の二項対立を脱構築する一方、同一性と差異というより大きな二項対立を設定して、差異の側を支持するものでした。しかし、この本で強調してきたのは、その同一性と差異の大きな二項対立にもさらに脱構築がかけられていて、必ずしも「差異バンザイ」なのではなく、差異と「仮固定的な同一性」の共存が事実上問題にされているということです。ただ、そのように読まない人もいます。どちらかというと、「差異バンザイだったからダメなんだ」というような批判をする人もいるのです。
21世紀に入ってからの、西洋におけるポスト・ポスト構造主義の展開は、ポスト構造主義的な同一性と差異の二項対立をさらに脱構築するというかたちで展開していくものだと言えるでしょう。だけれど、僕の考えでは、日本現代思想には先駆的にそうした問題意識があって、独自の展開を遂げていました。ただ、西洋の人たちはその文脈を知りませんし、それとは別にさらなる脱構築を進めているということになります。
マラブー―形態の可塑性
・カトリーヌ・マラブー Catherine Malabou(1959年(昭和34年) - )フランス
188 ポスト・ポスト構造主義の段階を説明するには、やはり「逆張り」という言葉が便利です。これまでの現代思想で是とされてきた「差異の方へ」という方向づけに対して、逆張りをする。つまり、同一性の側に何らかの肯定的な意味を持たせるということです。ただし、それは差異が重要ではないと言いたいのではなく、差異の思考をより推し進めるためにこそ同一性の側にもう一度注意を向けるという展開をとるのです。
マラブーはデリダの指導によってヘーゲルに関する博士論文を書いた人で、マラブ―にとっての主な先行議論はデリダです。デリダにおける、すべてはエクリチュール的であり、ズレ続けており、差異の運動である、ということが前提であり、それに対して、むしろ同一性を持つもの、マラブ―の場合それを「形態」(フォルム)と言うのですが、形態の概念を改めて重視する必要がある、というふうに逆張りをするのです。
これは僕の解釈では、同一性の側にちょっと揺り戻しをかけるということだと思います。ただ、だからと言って同一性こそが大事というわけではなく、「形態を持ちつつの変化」を言おうとするのです。
マラブーは、それこそがデリダやドゥルーズの世代の議論よりも根本的な超越論的構造である、というふうに議論を展開します。そしてそこで「すべては仮固定的に形態を持ちながらも差異化し変化していく」というようなタイプの差異概念を提出することになり、それを「可塑性」(プラスティシテ Plasticite)と呼ぶことになります。可塑性の概念については、『わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義』(2004)がわかりやすいと思います。他の著作でもこの概念が常に念頭に置かれています。
本書全体を通して、同一性と差異の大きな二項対立自体の脱構築ということで、「仮固定的な」という言い方をうまく使おうとしたわけですが、それはもともと僕の体質的な発想であると同時に、マラブーさんから学んだ面があると思います。というのは、僕はパリに留学してマラブーさんに師事したからです(パリ第十大学)。本書は、多少マラブー的な筋で全体的に説明しているところがあるかもしれません。
メイヤスー―絶対的な実存とその変化可能性
・クァンタン・メイヤスー Quentin Meillassoux(1967年(昭和42年)10月26日 - )フランス
189 メイヤスーの場合も、マラブー同様、すべてはエクリチュール的であり、差異であるというポスト構造主義の前提を相手取って、そこからの新たな展開を試みている哲学者です。そのとき、マラブーの場合には、可塑的な形態という、一種の「柔らかさの原理」を出してくるわけですが、メイヤスーの場合は、これまでの議論では考えられてこなかったような、より徹底的な同一性に向かう、という明らかな逆張りの立場なのです。
メイヤスーの場合、排除されていたものとは、人間の解釈に左右されないただ端的に同一的に存在している物自体としての実在です。その意味を人間がどう考えるかとまったく無関係に、ただそうあるようにある存在。ハイデガーにおける存在もやはり人間の意味理解との関係で問われていたところがありますが(詳細は略しますが)、それよりもさらにドライに残酷に切り離された、端的な存在というのを言おうとするのがメイヤスーです。
それで、説明を端折りますが、そのような絶対的に同一的な実在を考えると、それは全く無意味にただあるだけであって、なぜそのように存在しているかという理由がまったくないもの、ということになる。 理由なしに存在する、というのは偶然的だということです。絶対的な実在は絶対的であるからこそ偶発的であり、ならば、そのままのあり方で存在しつづける必然性はない。端的な実在は、ただの偶然で、いつでも全く別のものに変化するかもしれない、という帰結に至るのです。
これがメイヤスーの主著『有限性の後で』(2006)において言われていることなのですが、この図式だけで言うと、興味深いのは、すべては差異だという議論に対する逆張りとして考えるがゆえに、同一的でありながら突然まったく別のものに変化するかもしれないという帰結になり、差異の哲学の新たな徹底という様相を呈するところです。
ですからメイヤスーの道行きは、ポスト構造主義の流れに反しているものでは全然ないのです。むしろポスト構造主義の前提に強烈な逆張りをかけることによって、ポスト構造主義のある種滑稽な反転像のようなものを打ち出しているのです。
第七章 ポスト・ポスト構造主義
21世紀における現代思想
アラン・バディウ(1937~)『存在と出来事』(1988)
フランソワ・ラリュエル(1937~)非哲学(non-philosophie)
ジャック・ランシエール(1940~)
思弁的実在論の登場
196 「思弁的実在論」(Speculative Realism)
メイヤスー、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、グレアム・ハーマンとい4人が、2007年にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで「思弁的実在論」と題したワークショップを開き、それによってポスト構造主義以後の一つの方向づけが示されることになりました。
四人の仕事は異なりますが、思弁的実在論というものは大きく言えば、人間による意味づけとは関係なく、ただ端的にそれ自体として存在している事物の方へ向かう、という方向づけです。意味よりも、それ自体としてあるものを問題にする新種の実在論が登場した。
その代表者がメイヤスーであることはすでに述べましたが、もうひとつ、「オブジェクト指向存在論」(Object Oriented Ontology, OOO)と呼ばれる潮流を作ったのが、ハーマンです。ハーマンは、あらゆる存在者=オブジェクトは根本的にバラバラであり、絶対的に無関係に存在していて、関係は二次的なものであるという主張をしています。
意味づけの外にある客観性
197 メイヤスーは、人間がどう意味づけるかに関係なく、ただ端的に存在している事物があり、そしてそれは一義的に何であるかを言える、つまり、唯一の真理として「これはこういうものだ」と言える、という主張をします。このとき、メイヤスーは数字を持ち出すことになります。数理的思考こそが、事物が何であるかを直接に言えるのだ、というのです。このように数字を持ち出すことが妥当かどうかは本書の範囲を超えますので、ここではメイヤスーはそう論じているのだというだけに留めさせてください。
自然言語(日本語や英語など通常の言語)による意味づけの外にあるような客観性は、数学的なものである。
このようなメイヤスーのポジションを現代思想の展開の中で捉え直してみましょう。先ほどから出ている言葉ですが「意味づけ」というのがキーワードです。
ただし、これが言わんとするのは、決定不可能だから何も言えないということではなく、「物事は複雑だ」ということです。多義的、両義的だということです。
たとえばフーコーだったら、誰かが一方的に支配を受けているのではなく、むしろ被支配者が支配に加担している面があり、だから単純にどちらが悪いとも言いきれないような力学が複雑にある、というふうに、現実の複雑さを言っているのです。これは、どっちもどっちだから「どっちも悪くない」ということではありません。
ただ、こういう現代思想の傾向は単純化され、素朴な相対主義として捕らえられることがよくあります。「物事はどうにでも捉えられる」とか、「そういう立場を撮っていると歴史修正主義になる」とか、「「ポスト・トゥルース」と言われるような勝手な事実認識の押し付けや陰謀論を許容することになるのではないか」と言われたりするのです。
確かに現代思想は、そういった現代の困った現象を一刀両断に批判するものではありません。そうではなく、人間の思考・言語には、例えば陰謀論にも至るような可能性がそもそもあるということをまず冷静に認めることから始めなければならないのです。だから「そういうものはよくないからなくしましょう」と単純には言えません。
人間はそもそも精神分析的にいっても「過剰」な存在であって、一定の意味の枠組みを離れて物事を別様に意味づけようとする傾向があるので、それが突拍子もないような妄想に展開することは人間の基本設定としてありうるわけです。
実在それ自体の相対主義
199 しかし、メイヤスーの議論はそういった「常識的に考えて歴史的事実はちゃんとある」というような話よりももっと深いところまで到達しています。
揺るぎない客観性は数学的だとされるわけですが、メイヤスーの場合は、事物を数学的に記述すれば世界の真理が分かるという話にはとどまりません。前章で述べたように、メイヤスーによれば、この世界がこのようにある、ということには必然性がなく、世界はたまたま、偶然的にこうなっているのであって、だから世界は突然別物に変わるかもしれない。客観的世界は根本的な偶然性の下にある、ということが深く捉えられる。
この世界がこうであるということに必然性があるなら、世界には隠された存在理由があることになりますが、それ(「充足理由」と言います)をメイヤスーは消去し、完全に乾ききった「ただあるだけ」のこの世界を捉えるのです。そしてそれこそが自然科学的世界像を根本的に正当化する哲学的態度である、と考えるのです。
世界の意味を言おうとするのではなく、世界の今そうである限りでの設計をただ記述するのが数理である。かつ、記述される世界はなんらそれを保証する根源的意味がなく、いつ何時、まったく別のあり方に変化してしまってもおかしくない。
自然科学の徹底的なドライさをちゃんと認めようとするがゆえに、世界の(自然法則のレベルでの)変化可能性という突拍子もない主張を同時に認めるよう求めるのがメイヤスーの面白いところです。この意味でメイヤスーは反常識的なのです。
スランス現代思想、あるいは悪い意味でのポストモダン思想は、「物事は相対的で、どうにでもいえると言っているから陰謀論を招き寄せてしまう。だから客観的事実をちゃんと追求しよう」などと言われるわけですが、メイヤスーにおいては、「確かに客観的事実というものはあるのだが、客観的事実の客観性を突き詰めるならば、客観的事実は根本的に偶然的なものであり、いくらでも変化しうる」という、より高次の、実在それ自体に及ぶ相対主義のようなものが出てくることになります。
現代思想では、物事の意味をひとつに固定せず、意味が逸脱し多様化することを論じるわけですが、それはメイヤスーにおいてさらに実在のレベルで徹底されているのです。メイヤスーは、ポスト構造主義の相対主義に対する逆張りによって、かえってより深い相対主義を提示している、とも言えるでしょう。
内在性の徹底―ハーマン、ラリュエル
201 他方、意味づけを逃れる「それ自体」を、個々のバラバラのオブジェクトというあり方で言おうとするのが、ハーマンのオブジェクト指向存在論です。日本語では「四方対象」(2010)でその立場を知ることができます。
ハーマンによれば、事物はひとつひとつ絶対的に孤独であり、それ自体に引きこもっている=退隠している。それが本来の、第一次的なもののあり方で、関係というのは二次的で、現象的なものである。哲学では、それ自体の内にあるということを「内在性」と言いますが、ハーマンは、オブジェクトひとつひとつの内在性を徹底するのです。人間も、犬でも洗濯機でも、一つ一つが他からアクセスできない孤独な闇なのです。これはいくらかレヴィナス的でもあると思います。
それ自体であること=客観性へと向かうことが、世界はいつ変化するかわからないという主張にもなるメイヤスーの場合は時間的ですが、それに対しハーマンは、同時的に複数の引きこもったオブジェクトが散在している、という空間的な話になっている。あるいは、メイヤスーは直線的、ハーマンは水平的、とも言えるでしょう。
202 ラリュエルは「非哲学」というプロジェクトを1980ー90年代に展開しました。非哲学とは何か。それは、これまでの哲学すべてに対して外部的であろうとする理論です。自然科学とも違います。独特の抽象理論です(ラリュエル自身は非哲学を「科学」と呼んでいるのですが、それは経験科学ではなく、いわば「思弁科学」でしょう)。
(略)
ラリュエルは、哲学は「実在」を捉え損なっていると考えました。実在、それをラリュエルは「一者」と呼びます。哲学は一者=実在を捉えようとするのだが捉え損ねる。そのとき、無限遠点としてのXが想定され、それは「物自体」だったり「存在それ自体」だったりするわけだが、その「捉えようとするのだが捉え損ねる」という構造の外に、そのXとは区別されたものとして「一者」を置くのがラリュエルの独自性なのです。
すぐさま言えば、これは日本の観点から見れば、否定神学批判です。哲学はつねに否定神学的Xを必要としてきたのだが、そういうものとしての哲学全体の外にみずからを位置づけるのがラリュエル、ノンフィロソフォアーなのです。
ちょっと上級編のコメント。古代ギリシャ以来、「存在」と「一者」の関係づけはいろいろ議論になってきたのですが、二つを切り離すのがポイント。ラリュエル的には、「存在論」より「一者論」が先に立つ、というわけです。
一者とは実在であり、ただそれ自体に内在的であるとされます。
従来の哲学者は、内在を、超越との対立に置いて語っているのが、ラリュエルは「あらゆる二項対立の外部」という意味で、自分は絶対的な内在性を考えているのだ、と主張します。ラリュエルの一者は、内在vs.超越よりも手前にある。
ラリュエルは、哲学というものを、二項対立の組み合わせによって物事を論理的に意味づけることだと見ています(これはデリダと共通ですね) )。そしてその外部に、ただただ内在的で、論理から逃れる一者=実在 とは、「秘密」なのだとも言われます。
しかし結局、ラリュエルはまた大きな二項対立をつくっているのではないでしょうか?次のような区別が導入されます。哲学的な二項対立、二元論はdualismと呼ばれ、それとは区別して、哲学全体とその外部の一者との対立はthe dualと呼ばれます。
うーん、どうでしょう。これは結局「哲学」なのでは・・・?
(略)
ともかく、二項対立による意味づけの外部を形式的にピュアに考えようとしたという点で、ラリュエルの仕事は思弁的実在論の先駆と言えると思います。メイヤスーの場合の、それ自体として偶然的にあるだけの世界、その「それ自体」というステータスはラリュエル的内在性であり、まさに「秘密」だと言えるでしょうし、ハーマンにおけるお互いに無関係なオブジェクトについても同様に言えるでしょう。
複数性の問題と日本現代思想
206 現代思想には、60年代後半に否定神学システムが意識される段階があり、その後、ひとつのXをめぐるのではなく、より分散的で複数的に諸関係を展開していくという向きに、デリダやドゥルーズは議論を展開することになりました。
繰り返すならば、ひとつのXをめぐる空回りを人間の運命として最も強くいったのはラカンです。現代思想において、ラカンは否定神学的思考の王であると言える。 捉えられない何かを捉えようとするというのは、発達論的には、母親が自分のもとからいなくなってしまうという根源的な欠如を埋めようとすることです。それに対し、親子関係にすべてをしゅうやくするのではなく、より広大な社会や事物との関係へと思考を開いていこうとしたのがドゥルーズ+ガタリなのでした。デリダもドゥルーズ+ガタリも、ラカンに対してどう距離をとるかが大きな課題で、ひとつの欠如をめぐって意味作用が展開するというのではない方向に向かいました。東浩紀の『存在論的、郵便的』はそのことを明確化しています。そして東は、単数の否定神学的Xから「複数的な超越論性」へ向かう、という方向づけを示しました。
ここで「超越論性」という概念は、人間のあり方を条件づける抽象的なレベルという意味で、それが単数の欠如なのか―ひとつの穴をめぐって人生が展開される―、そうではなく複数的なものなのか、ということです。では、複数的なものというのをどう考えるべきかというのは、開かれた問題だと思います。
他方で、メイヤスーやマラブーは、デリダやドゥルーズがラカン批判を通して複数的なものを問題にしたということを重視していません。複数性への着目は、日本現代思想に特徴的なことです。フランスにおける新世代は、デリダやドゥルーズを否定神学システムに寄せて捉え、複数性が言われる文脈もそこに含めてしまい、それに対して自分独自の新たな外部性を提示する、というかたちになっていると思います。
有限性の後での新たな有限性
210 こうしたローマの思想については『主体の解釈学』(2001)というコレージュ・ド・フランス講義で集中的に論じられていて、大変面白いのでぜひ参照してみてください。
ここに興味深い有限性があると思うのです。法的なものではなく、行政的であり監査的であるとされる反省の形態は、無限に深まって泥沼になることがない。そのような意味での無限批判がここにはある。すなわち、謎のXを突き詰めず、生活の中でタスクがひとつひとう完了していくというそんなイメージの、淡々とした有限性です。主体とはまず行動の主体なのであって、アイデンティティに悩む者ではないのです。
複数的な問題に有限に取り組む
211 ここで重要なのは、諸々の問題は必ずしもひとつにつながるわけではない、ということです。もちろん関連する問題はあるけれど、すべての問題がつながってダマになってしまうとき、人は途方もないアイデンティティの悩みで閉塞状態に陥り、何もできなくなってしまう。問題は分割して一個一個解決しなければならないというのはデカルトも言うところですが、まさにその巨大な謎、巨悪が立ちあがらないように、個別に物事にアプローチするということこそが、複数へという方向づけの意味なのではないでしょうか。
世俗性の新たな深さ
213 オルタナティブな有限性とは、行動の有限性、身体の有限性にほかなりません。
ひとつの身体が実在する。そのことに深い意味はない―メイヤスーの絶対的偶然性の哲学は、おのれの謎Xをめぐるアウグスティヌス的無限反省のその手前へ、というフーコーの方向性と密かに共鳴している。メイヤスー的にいえば、この身体はいつまったく別のものになるかもわかりません。古代中国で荘子が夢に見たように蝶になるかもしれない。身体は故障するし、病むし、老いていき、いつか崩壊して他の物質と混じり合う。メイヤスーはその生成変化よりもラディカルに、突然蝶になったっておかしくないとまで考えた(そのときには、今の世界から、わたしが蝶であるような世界へと、世界全体が変化する)。そうだとしても、というかだからこそ、今ここを生きるしかないのです。私がこのようであることの必然性を求め、それを正当化する物語をいくらひねり出してもキリがありません。今ここで、何をするかです。今ここで、身体=脳が、どう動くかなのです。
身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。
世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。
底なし沼のような奥行きではない別の深さがある。それは世俗性の新たな深さであり、今ここに内在することの深さです。その時世界は、近代的有限性から見たときとは異なる、別種の謎を獲得するのです。我々を闇に引き込み続ける謎ではない、明るく晴れた空の、晴れているがゆえの謎めきです。
付録 現代思想の読み方
読書はすべて不完全である
215 哲学書を一回通読して理解するのは多くの場合無理なことで、薄く重ね塗りするように、「欠け」がある読みを何度も行って理解を厚くしていきます。プロもそうやって読んできました。
現代思想を読むための四つのポイント
217 ①概念の二項対立を意識する。
②固有名詞や豆知識的なものは無視して読み、必要なら後で調べる。
③「格調高い」レトリックに振り回されない。
④原典はフランス語、西洋の言葉だということで、英語と似たものだとして文法構造を多少意識する。
原文の構造を英語だと思って推測する
218 その上で、フランス語の特徴をひとつだけ言っておきます。フランス語は、英語に比べて、運用するために最小限必要な語彙の数がやや少ないと言われています(また、英語とフランス語よりも日本語の方が多い)。そのため、一単語の多義性を駆使する傾向があるようです。どこか抽象性が高いようなフランス語分のカッコよさは、相対的に少ない語彙でいろんなことを言おうとするから生じる効果だと思われます。
レトリックに振り回されず、必要な情報だけを取り出す
219 古典を意識した文章にはお決まりのレトリックがいろいろあり、何を言うかより、まずその古臭い「カタ」があって、カタにはめるかたちで言いたいことを出していく、というかカタにはめるために言いたいことをわざと大げさに膨らませたり、大して本質的でないお飾り的な文を増やしたりすることがあります。これは「科学」とは大いに異なります。必要な情報だけを伝えるのが科学的な文章ですが、人文系の文章は古くは「弁論術」に由来し、人を説得するための技術がいろいろ含まれた文章なのです。
固有名詞や豆知識を無視する
概念の二項対立を意識する
ケース1:「なんかカッコつけてるな」
ケース2:「カマし」のレトリックにツッコまない
ケース3:お飾りを切り詰めて骨組みだけを取り出す
ケース4:言い訳の高度な不良性
おわりに 秩序と逸脱
244 個人的な話ですみません。本書は、「こうでなければならない」という枠から外れていくエネルギーを自分に感じ、それゆえこの世界において孤独を感じている人たちに、それを芸術的に展開してみよう、と励ますために書かれたのでしょう。
本書が、人生をより活力あるものにするために少しでも役立つことを願います。