読んだ。 #失われた未来を求めて #木澤佐登志

読んだ。 #失われた未来を求めて #木澤佐登志
 
マーク・フィッシャー、サイバネティクス、『ダークナイト』『ジョーカー』、ポピュリズムフーコーLSDネオリベラリズム反知性主義
 
「脱魔術化」としてのプロテスタンティズム、ピュウリタニズム、主知主義的合理化のプロセス、
「反脱魔術化」としてのカウンターカルチャーサイケデリック運動、ダダイズムシュールレアリズム、エラノス会議、ホフマンの考え、ハクスリーの「意識革命」、
「再魔術化」としてのニューエイジ運動、リアリーの考え、エスリン研究所、アブラハム・マズロー自己啓発、マインドフルネス、、資本主義的スピリチュアリティ、霊的資本主義の時代、
 
資本主義リアリズム、シミュラークル、ARG(代替現実ゲーム)、Qアノン、コンスピリチュアリティメンタルヘルス発達障害などが、ずーっと繋がっており、すごいのだが、いろいろな専門用語も多く、大量に流れてくる情報に圧倒されて何を読んでいるのかわからなくなることもあったが、わかるところはおもしろかった。またいつか再読したい。
 
 
・リー・エーデルマンは<未来=子ども>という観念のもとで生産される一種の信仰を「再生産的未来主義」と名付ける。エーデルマンはクィア理論の立場から、「(再)生産性の信仰」と、社会秩序の保守と再生産に加担する<未来=子ども>の観念を批判する。
 
ダークナイト』(2008)はテロリズムの映画だったが、『ジョーカー』(2019)はポピュリズムの映画だ。
 
・フランスの思想家、ツヴェタン・トドロフによれば、ポピュリズムとは伝統的な右派や左派に分類できるものではなく、むしろ「下」に属する運動であるという。つまり、既成政党を右も左もひっくるめて「上」の存在として括り、それらを「下」から批判してみせるのがポピュリズムの基本戦略なのだ、と。
 
対立の解消こそがポピュリズム政党のもっとも恐れる事態であるかもしれない。ムフも指摘するように、ポピュリズム政党のアピールは、「ひとたび政権の一翼を担うと弱まってしまう」のである
 
フィッシャーによれば、アイデンティティ政治は連帯ではなく分断を、繋がりではなく切断を生み出す。人種、ジェンター、性的指向、等々……。左派はネオリベラリズムという大いなる敵と闘うことを忘れ、個々のアイデンティティという小さな枠内の議論に閉じこもっている。そこで発生するのは、閉鎖的なクラスタ内において、各々の主張と弾劾が倍音とともに反響していくエコーチェンバー現象である。終わりなき個人攻撃と異端審問。不安と罪の意識に突き動かされた、ニーチェ的な意味での道徳的なリベラル左派たちは、脅迫的な「牧師的欲望」をプチブル意識の内部に育んでいく。そこではエスタブリッシュメント的な特権と資本が癒着している。こうした動向に対して、オールドレフトを自認するフィッシャーは、今こそ階級意識を取り戻し、資本主義リアリズムのオルタナティブとなるような、新しい形の共同体を模索しなければならない、と主張する。ヴァンパイア城から脱出すれば、あらゆることが再び可能になる
 
フィッシャーが仮想敵としているのが、60年代以降のニューレフトであることは明らかである。ニューレフトによる多文化主義や反レイシスト運動やフェミニズム運動が、それまでのオールドレフトに対するカウンターとしてまず台頭し、それはアイデンティティ政治として定着した。だが、左派によるアイデンティティ政治は、やがてシティズンシップに回収されることでブルジョワ化した。一方で、経済格差や階級闘争などの左派における伝統的な問題は等閑視され、そこに空いた間隙に排外主義的な貧しき白人というマジョリティによるアイデンティティ運動が入り込む隙を作った。その帰結がドナルド・トランプ大統領である
 
カウンターカルチャーという亡霊、言い換えれば「失われた未来」
 
・マーク・フィッシャーは絶筆となった『アシッドコミュニズム』の序文のなかで、アシッドコミュニズムとは、とある亡霊に与えられた名前であると述べている。その亡霊とは、70年代以降のネオリベラリズムヘゲモニーと資本主義リアリズムによって祓われた亡霊、すなわち60年代カウンターカルチャーの核心であった「世界を徘徊する自由を求める亡霊」である。
 
・フィッシャーにとっては、ネオリベラリズムとはまず何よりも、このアシッドコミュニズムという名の「亡霊」を祓うためのプロジェクトに他ならなかったネオリベラリズムが標的とした真の敵、それはソビエトブロックでも、みずからの矛盾の重みによって自壊していったニューディール政策でも社会民主主義でもなかった。ネオリベラリズムのプロジェクト、それは60年代後半と70年代前半に華開いた民主社会主義リバタリアンコミュニズムにおける数々の実験を完膚なきまでに破壊することに主眼があった、という。
 
LSD特有の「曲がる」感覚
 
多田智満子
それは異様におびただしい花弁をもった肉色の薔薇であって、たえず左から右へ(時計の針と同じ方向に)ゆっくり旋回しながら、花開きつづけていた。それはじつに数時間ぶっ通しに、同じ大きさ、同じ形を保ちながら、果てしなく花開きつづけたのである
 
たとえば、ここで槍玉に挙げられているベビーブーマー世代は、この連載の文脈では、60年代以降のカウンターカルチャーの担い手となった当の世代でもある、という点を見過ごすことはできない。
 
・だが、ヒースらの診断に従えば、こうしたカウンターカルチャーによる文化革命/意識革命の運動は、なんら社会制度の具体的な変革には結びつかず、むしろ後続の大量消費文化を用意する元凶にまでなったという。なぜか。
一言でいえば、「消費プロセスを駆動しているのは順応への渇望ではなく、むしろ差異化の探求」であるからだという。人々は他人と違う人間になりたいからこそ商品(ブランドもののバッグ、服、最新のガジェットやら音楽、等々)を飽くことなく求め続ける。「差異」を求める心理は「主流」に対する反抗として現れる。カウンターカルチャーの反逆――「主流」社会の規範の拒絶――は大きな差異の源泉となり、競争的消費の主要な原動力となった。「反逆」は「オルタナティヴ」へのモデルチェンジによって消費社会の商品サイクルを永続化させる
 
カウンターカルチャーに宿っていた可能性、その潜在性/潜性力を根絶やしにすることこそが、ネオリベラリズムに課せられたプロジェクトであった。
 
・バーマンに従えば、近代化とは、この生にとって根源的な役割を果たしていた「意味」の喪失のプロセスに他ならない。それは言い換えれば、世界から「魔法」が解けていくということを意味する。たとえば、デカルトに端を発する機械論的哲学は、精神と物体を明確に分断する思考法を推し進めた。主体と客体を常に対立させる二元論的思考は、自然への参入ではなく、自然との分離に向かう意識、すなわち「参加しない意識」を生み出した。無意味な世界のなかで、内面的に孤立化した諸個人が暮らしているのが私たちが生きる近代社会のあり方なのだ。
 
伝統的価値観の崩壊によって生じた空虚のなかで、我々にあるものといえば、狂信的な信仰復興運動、統一教会への集団改宗、そして、ドラッグ、テレビ、精神安定剤によってすべてを忘れてしまおうとする姿勢である。
 
フィッシャーは、憂鬱症が個人の脳器質的な問題に還元され、周囲の労働環境や社会構造、もっといえば政治の次元が等閑視されてしまう構造を問題視した。資本主義リアリズムは、資本主義が本質的に機能不全であるという事実を、不断に個人の自己責任の問題にすり替えることで、資本主義に代わるオルタナティヴは存在しえないというイデオロギーを堅牢に保つことに成功する。
 
第一次世界大戦とそれが生んだ壊滅的なカタストロフィは、同時代を生きる若者たちに、脱魔術化による合理化のプロセスや進歩、あるいは理性といった啓蒙主義のプログラムに対する根本的な懐疑を植え付けた
 
そしてその元凶としてのカント批判へと至る。「カント、これこそ一切の源にある不倶戴天の敵だ。彼はその認識論によって可視的世界の対象をすべて悟性と抑制に引き渡してしまった
 
・こうしたカントへの不満と批判は、第一次大戦後のドイツにおけるアカデミー哲学としての新カント学派の凋落を予示するものであり、当時「生命の全体的な表現」を求める表現主義的傾向に共感する青年たちがひとしく抱いてたものであったと言って差し支えなく、一般にそれは当時の青年たちを襲った「ニーチェゲオルゲ熱」と表現される、という。バルは日記の中で、「レゾーン(理性)を一切打破し、カント主義を廃絶した最初の哲学者」としてニーチェを評価している
 
・「考えるのではなく視る人
 
 
・ホフマンによれば、現実というものは、それを体験している主体すなわち自我を抜きにしては考えることはできない現実、それは「送り手」である外界と、「受け手」である自我の相互関係において成り立っているホフマンはこうした外界と自我の関係性をラジオの受信機に喩えている。すなわち、現実とは自我の内奥にある感覚器官のアンテナを用いて受信された外界の写しであって、送り手と受け手のどちらかが欠けても現実は成立しないのである。そして、LSDはわれわれの脳、つまり受け手の中枢にあるアンテナに強く働きかけ、生化学的な変化をそこに生じさせ、それによって受け手は通常の現実とは異なった波長を受け取ることが可能となる。LSDはそれまでの、さながら自然律であるが如く強固で不動であるかのように思われた「現実」とは本質的に異なるまったく異質な「現実」を構成するのである外界の波長が無限に多様であるとすれば、LSDがその都度もたらす様々なアンテナの変化によって構成される現実も権利上は無限に存在するだろう。「その現実は、否、もっと正確に言えば現実のこの様々な層は、互いに排他的な関係にあるのではなく、むしろ相補的であり、それが一緒になってすべてを包括した悠久の超越的な現実を構成しているのである。
もう一つ、ホフマンは日常の現実と、LSDによって引き起こされるもうひとつの現実との間の本質的な相違はどこにあるのか、という問いを提起している。彼はそれに対して、日常においては、我々の自我と外界との間には本源的な分離が横たわっているのだが(外界は我々にとって客体として立ち現れる)、LSDの酩酊状態においては、外界とそれを体験している自我との境界が、その酩酊の深さに比例して取り払われることになるのではないか、と述べている。
 
つまり受け手と送り手との間に区別がなくなり、両者の間に行き来が生ずる。自我の一部が外界へ、事物へと転移される。それによって、外界は生き生きとし始め、より深い意味を持つようになる。それはわれわれに至福感を感じさせることもあれば、逆に恐怖を抱かせるような悪霊的なものを感じさせることもある。至福感を伴う場合には、新しい自我は外界の事物そのものと結びつき、また他の人びととも精神的に一体化するように感じられる。この体験は、自我と宇宙に存在する一切のものとが一体であるという感情の昂まりとなる。
 
つまり、共産主義者の洗脳テクノロジーに対抗するだけでなく、あわよくばそれらを上回る洗脳テクノロジーをみずからの手中に収めるためにCIAが目をつけたのが、当時スイスのサンド社が手掛けていたLSDであり、そのために発動されたのがMKウルトラ計画であった。
 
リアリーらサイケデリクス派は、LSDを「洗脳」ドラッグとしてではなく、隠された真理を開示するための「啓蒙」ドラッグとして見なした。だが、これら二つの態度の差は、見かけほどに開いているとは必ずしも言えないのではないか
 
エサレン以降の研究者たちは、カウンターカルチャーから意識的に距離を取り、LSDをヒッピーたちの手から奪い返し、サイケデリック・セラピーに、神とつながる<至高体験>の儀式に供することを求めている
かくして、サイケデリクスは現実を転倒させる革命のための武器から、有り難い<至高体験>を味わい人生のネクストステージへの階段を昇るための霊的な護符へと変質していった。このサイケデリクスの変質の過程は、アメリカにおけるカウンターカルチャーからニューエイジ運動への移行の過程とほぼ同期している。
 
・さらに近年では、精神の健康を保つ、あるいは精神機能を向上させる目的で、作用閾値未満のごく微量のLSDを数日おきに摂取するマイクロドージングなるムーブメントも流行っているようだ。ここに至ってLSDは完全に骨抜きにされ、ビジネスパーソンが束の間の休憩中に摂取するサプリメント、あるいは西海岸のプログラマーが高いパフォーマンスを発揮するために摂取するスマートドラッグの位置にまで堕した。ここでのLSDは、ビジネス・スキルを獲得して同期のライバルに差をつけよ、という競争=狂躁社会から突きつけられる要求に応えるための便利な呪符であり、それ以上でもそれ以下でもない。再帰的無能感(フィッシャー)に奉仕する抗うつ剤が氾濫している資本主義リアリズムにあっては、まさにうってつけなのかもしれないが。
 
・まず注意しておくべきは、反知性主義(Anti-intellectualism)を、その訳語が想起させがちな「知性」に対するアンチとして捉えてしまうと往々にしてその本質を取りこぼすことになる、という点である。インテレクチュアル(intellectual)」とは「知識人」を意味し、反知性主義はまずもって「知性」を不当に(?)独占する知識人階級のエリートたちに対するアンチとして理解する必要があるだろう(この点について神学者の森本あんりは、「反知性主義は単なる知性への軽蔑と同義ではない。それは、知性が権威と結びつくことに対する反発であり、何事も自分自身で判断し直すことを求める態度である。」と述べている)。
 
また信仰の基盤を個人の内面に求めるピューリタニズムは、同時にヨーロッパにおける個人主義を醸成した
 
20世紀のカウンターカルチャーと18世紀の信仰復興運動を繋ぐ真のミッシングリンクはリアリーではない。歴史の狡知は、もっと深いところで地下水脈を人知れず形成している。そして、そこにはやはりLSDという物質が常に関わっている。
 
ハクスリーはサイケデリクスによって<物自体>に到達することができると信じた。この現象世界というまやかしを一気に突き破って、彼方にある唯一の<リアル>にアクセスすること、これこそがハクスリーが提唱した「意識革命」のアジェンダであった
 他方、フィッシャーはサイケデリクスによって直ちに<物自体>の世界に到達できるという企てを慎重に退けているように見える。むしろ、サイケデリクスは私たちに、この世界がどのように構築され機能しているか、という外のビジョン(outside vision)を授けてくれるそれはこの世界を突き破ることなく視点をあくまでこの世界の内に留めたまま、しかしこの世界が一貫性と恒常性を伴った、改変しがたい強固なものではなく、むしろ矛盾だらけで可塑性のある、ある種の「壊れやすさ」を伴った世界であることを開示する。それが哄笑を誘うのは、この世界が恣意的で偶然的な基盤=イデオロギーに支えられたシステムに過ぎないことをどこまでも暴露してやまないからだ。
 
・いい音楽と悪い音楽があるのと同様に、いいドラッグと悪いドラッグがあるのです。それ故、私たちが音楽自体に「反対」だと言えないのと同様に、ドラッグ自体に「反対」だとは言えないのです。
 
例えば、何世紀にもわたり人びとは一般に、そしてまた医者、精神科医、あるいは解放運動までもが、欲望については語りましたが、快楽については決して語りませんでした彼らは、「欲望を解放せねばならない」と言います。違うのです。新しい快楽を創造せねばならないのです。そうすれば、欲望はそれについてくるでしょう
 
フーコーを仕事に駆り立てる唯一の好奇心、すなわち「自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心」。
 
異なる仕方で思索すること、異なる仕方で知覚すること、思索の思索自体への批判作業を行うこと。別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企て。言い換えれば、限界(limit)の線をいかに越え、引き直すか。線を絶えず引き直し続けること。その終わりなきプロセスの只中に自身の身を置くこと。
 
・社会がもちこたえ、生きているのは、つまり諸権力が社会において「絶対的に絶対」ではないのは、あらゆる受諾と強制の背後に、脅迫や暴力や説得の彼方に、生がもはや交換の対象でなくなる瞬間、諸権力がもはや何もできなくなる瞬間、絞首台と機関銃を前にして人々が立ち上がる瞬間の可能性があるからだ
 
・だがボードリヤールによれば、ディズニーランドには隠された役割が存在する。その役割とは、ディズニーランドの外側に存在する実在の世界それ自体がディズニーランドに他ならない、という事実を見えなくすることである。
 
ディズニーランドは、それ以外の場すべてを実在だと思わせるために空想として設置された
 
・マクゴニガルは、ポジティブ心理学などを援用しながら、人生に意味を見出すための最善で唯一の方法は、日々の行動を、何か自分自身よりも大きな存在に結びつけ日々を送ることである、と述べる。
 
・彼女のような人々は、パステルQアノンと呼ばれている。パステルカラー、ピンクとゴールドの配色、水彩画、手書きフォント、自然風景と豊かなライフスタイル、いかにも幸福そうな笑顔の画像、等々……。パステルQアノンは陰謀論の無害化と衛生化に努める
 
コンスピリチュアリティ(Conspirituality)という言葉がある。これは、ニューエイジ的なスピリチュアリティ(Spirituality)と陰謀論(Conspiracy Theory)の交叉を説明する際に用いられる造語である。
 
結果、メンタルヘルスの疾病は資本主義リアリズムに取り憑く病となる
 
現在、鬱病は脳内の神経伝達物質の均衡が崩れることによって発症すると考えられている(モノアミン仮説)。こうした精神障害の化学・生物学化は、当然の如く、抗うつ薬SSRI)の万能性をアピールすることに資する。だが、解明されるべきは、なぜ神経伝達物質の均衡が崩れたのか、である。フィッシャーは『資本主義リアリズム』のなかで以下のように指摘していたことを思い出そう。
 
ここでの職場結合性うつ病とは、対人関係や自己同一性の双方での明らかなパーソナリティ機能の問題が認められない、安定した社会機能を有する個人が、職場での過重労働(目安としては一ヶ月あたり100時間を超える時間外労働)を誘因として発病した鬱病に対して提唱された概念である
 
自己啓発ネットワークビジネスは「強い思考やイマジネーションはいずれ現実化する」というポジティブ・シンキングの発想を主要な参照点としている。身も蓋もなく言えば、「自分が強く願えば自分/世界は変わる」もしくは「自分が変われば世界も変わる」という考え方がそれらのベースにある。言ってしまえば、それはどこまでも唯心論的、さらに言えば独我論的な世界観である。
小池靖が『セラピー文化の社会学』のなかで指摘するように、ネットワークビジネス(とそれが信奉するポジティブシンキング)は、自分の力で成果を生み出し成功しようとする意味で、「強い自己」を前提とした、競争社会で自己責任を強調する態度を推奨しているこうした態度が、リベラル能力資本主義とも親和的であることは言うまでもない
同様の性質は、いわゆる自己啓発セミナーにも見られる。なお自己啓発セミナーは、第八回で言及した、あのエサレン研究所で実践されていたエンカウンターグループをルーツのひとつとする。エサレン研究所のヒューマン・ポテンシャル運動は、社会の価値観や制度によって抑圧されている潜在能力の解放が目指されていたのだった。その運動は当時のカウンターカルチャーの精神とも確かに結びついていた。だが、結局それは社会を変革することはなく、現在では自己啓発セミナーとして「再魔術化」したリベラル能力資本主義に適合した姿を見せている
自己啓発セミナーとネットワークビジネスの重要な差異は、「社会によって抑圧されている自己の限界を解放する」という契機が自己啓発セミナーに加わる点であるという。
 
自己啓発セミナーは、自己の抑圧からの解放を志向する。しかし、それはどこまでも自己の内部で起こる出来事であるがゆえに、世界を変えることは遂にない。世界とそこで起こる事象は、すべて自己の内側の心的表象に還元されてしまうのだ。そこに見られるのは、自己の外側に存在する世界/社会を変えることはできないので、それらを自己の内側に取り込んだ上で「自分が変われば世界も変わる」という発想に繋げていくという、一種の認識論的な詐術である。ここには、<外部>が存在しない唯心論的な世界に対するアプローチにおいては、外部=環境を変容させるのではなく、外部=環境の受け取り方(解釈)を変容させることが目指される
 
自己啓発は個人を自己の檻のなかに閉じ込める。すべてが絶えず自己に再帰してくる。自分が変われば世界も変わる、という希望とともに。だが、それは同時に呪いでもある。
うつ病自己啓発はともに表裏の関係にあるどちらも魔術的自立主義という自己幻想を所与としたリベラル能力資本主義に支配的な「病」である、という点において。自分の力だけが自分を変え、なりたい自分になることができるという信念。可塑的な脳と、強固で不可逆な資本主義という制度。
もし、この交換不可能で二項対立的なイデオロギーこそが、資本主義を維持させている当のものである、としたら? つまり、資本主義は見かけほど強固でも不変でもなく、脳と同じく(あるいはそれ以上に)可塑的で変更可能である、としてみたら?
 
この行き詰まりを打開するためには、新自由主義のみならずリベラリズムにおける伝統全体の核心にある、自律的な個人という信念を捨てる必要がある
 
・すなわち、再魔術化でも単なる唯物論的還元主義としての脱魔術化でもない、反―脱魔術化としてのスピノザ主義を構想すること……?
自己の可塑性を世界の可塑性に向けて押し開くこと。自己の可塑性ではなく、世界の可塑性こそを信じること。そうすることによって、私たちは、鬱の状態で死ぬまで横たわっているか、脳に電極を埋め込んで死ぬまで資本主義に搾取されるか、という二つの選択肢のどちらでもない、別の可能性の未来に思いを馳せることができる。
 
・たとえば、ダーウィンは生物の進化を主の「分岐」として理解する。分岐が種を多様化させ、そして、種の多様化こそが進化の意味だった。つまり、ダーウィンからすれば、進化は進歩から厳密に区別されるべきものとなる。種の進化にとって問題となるのは、環境社会に適応しているかどうかであって、そのこと自体は偶然性によって左右される。そうした現象に対して「高等」とか「下等」といった価値観を適用させるのは、社会的な価値関係や階層秩序を暗に前提としている証左でしかない。実際、ダーウィンは生物の形態に関して「高等」や「下等」といった表現を用いることに対して常に慎重な態度をとっていた。
 
・今や、異常なものは正常なものと性質を異にするわけではない。怪物は、無限に広がる正常―異常の連続体の地平の内に囚われる。そこに<外部>はない。<外部>は常にすでにスペクトラムの内側へ包摂される。異常は絶えざる管理と矯正の対象となる。そこではたとえば、狂気=怪物は何らかの<外部> を示すものとしてではなく、進化の系列上における遺伝的退行として解釈し直される。この地平の内側では、人間 は狂うことさえできなくなるのだ。この正常化=規範化の権力の下で、いわば個人は横に伸びる平均の軸と縦に伸びる遺伝的系譜の軸からなる座標系=マトリクスのどこかに必ず定位される。
 
・(包摂による統治)。かくして、自立支援制度と特別支援教育が導入され、ソーシャルワーカースクールカウンセラー精神保健福祉士が動員される。近年における発達障害の診断数の増加は、こうした状況と明らかに不可分なものとしてある。たとえばASDの特徴のひとつとして、他者の声の調子、身振り、表情などから相手の気持ちを読み取る能力が定型発達者に比べて劣ることが挙げられるが、これなどは、相手の感情を読み、それに応じて地震の感情をフレキシブルに表出することが常に求められる感情管理社会を生きる上で不可欠な能力である
 現行の社会に適応できない者、言い換えれば正規分布における平均値から逸脱した者たちは、直ちに「障害」としてラベリングされ、教育的支援や福祉的支援といった諸々のセーフティネットを介して再び社会に包摂される。だがそこで行われる自立支援とは、要するに平均値からの偏差を可能な限り矯正することであり、他人に迷惑をかけるような、過大な不満、分不相応な意思、不届きな欲望を持たないように、言い換えれば、わきまえた欲望を持つことが出来るように善導してあげること、「正常なもの(le normal)」に少しでも近づけるよう適切にマネジメント=方向づけをして、社会が当人に定めた相応な位置に再配置することである。
 
規律社会の否定性が生み出したのは、[禁止や命令に従わないものとしての]狂人や犯罪者であった。それに対して能力社会が生み出すのは、[然々(しかじか)することができない者としての]うつ病患者と無能な人間である。
 
・17、18世紀を通じて、オランダ(そしてスイス)というカルヴィニスト国家は、脱魔術化と世俗化を他国と比べても早期の段階で徹底させ、現世内禁欲、契約に基づく人間関係、勤労の賛歌、といったプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を貫徹させた。そこでは、悪魔との闘争も現世における勤労によってなされるべきだとするリアリズムが魔女狩りの集団的パラノイアに対して優勢となったのである。この過程の中で、民衆の中に根づいていた魔術は不正な力の行使、つまり労働をせずにほしいものを手に入れる手段=労働の拒否と見なされ、根絶の対象となった。魔術は勤勉を殺す
 こうして男性の身体は「労働機械」へ、女性の身体は「産む機械」へと変容させられる。「資本主義によって発展した最初の機械とは、蒸気機関でも時計でもなく、人間の身体だったのだ」。身体の脱魔術化の完成。
 
・ところで、LSDなどのサイケデリクスは環境によって作用が大きく左右される。そこで重要になるのが、いわゆる「セット」と「セッティング」である。「セット」は服用者の心的状態、「セッティング」は服用者を取り囲む環境状態をそれぞれ意味する。これら二つのファクターがどちらも良好な状態でなければ、最悪バッドトリップに陥る。