読んだ。 #観光客の哲学 増補版 #東浩紀 #ゲンロン叢書013
普遍的な正義や他人への寛容を信じるリベラリズム(左派)の人気がなくなってしまい、
個人的な自由、経済的な自由を重視する、動物的な欲求が軸となったリバタリアニズムと、
各地域の共同体による自治(各共同体の善)を重視するコミュニタリアニズムだけが大きな力を持ってしまった現代に、
代替の主義として、「観光客の哲学」を軸とした連帯=普段は小さなコミュニティーの中で生活しながらも、たまには旅行にでも行ってみる感じで行動し、普段出会うことのない人やモノに出会うこと(誤配)で生まれる共感、憐みによる連帯によって、もう一度普遍的な市民への道を目指せるのではないか、というようなことが説明されていたのではないかと思う。
過去の哲学者の人たちによる目指すべき社会への考えが積み重ねられていく中で、70年代に社会が「大きな物語」を失った後のポストモダンの説明、当時はなかったインターネットやタッチパネルなどの新技術が人類社会に与える影響、これまでの東さんの著作で語られてきた話(郵便的、誤配、動物化、一般意志2.0、等)など、様々な事柄が、「観光客の哲学」に繋がっていくのがおもしろかった。
「第2部 家族の哲学(導入)」は、先日出版された、「訂正可能性の哲学」に繋がっていくとのことなので、そちらもたのしみ。
・ヴォルテール(1694 - 1778)
※最善説――世界は最善であり、悪の事実にもかかわらず合目的的であり、有限な諸事物の価値は、普遍的全体を実現する手段として肯定されるというテーゼ。世界は全体としてうまくいっているんだから、細かい悪いところには目を瞑っておけという考え。その起源はブラトンやアリストテレスにまで遡る。
どちらが「正しい」のか。じつはその問いにはあまり意味がない。
ぼくたちはそもそもひとつの現実しか生きることができず、だれもこの現実をほかの現実と比較することができないので、そこに「まちがい」があるかどうかも決定できないからである。
最善説の是非は、ぼくたちがひとつの現実に閉じこめられているかぎり、原理的に答えることができない。
だからそれは最終的には、議論で解決すべきものではなく、ひとりひとりの信念に委ねるべきものである。
ライプニッツは、「まちがい」はないと信じたほうがひとは幸せになれると考え、
ヴォルテールは、逆にあると考えなければひとは誠実に生きることができないと考えた。
・<ジャン=ジャック・ルソー(1712 - 1778)>
『人間不平等起源論』や『社会契約論』の著者である思想家としてのルソーの人間観と、『新エロイーズ』や『エミール』や『告白』の著者である文学者としてのルソーの人間観には、じつはかなり開きがあるというのが哲学史的な常識である。
「一般意志はつねに正しい」という『社会契約論』の一節(第二編第三章)はあまりにも有名である。
この一節は、共同体の意志が個人の意志に優越すべきだと主張するものとして受け取られ、実際、のち参照するカール・シュミットのような保守の思想家によって肯定的に評価されている。
他方でルソーは、文学者としては、孤独を尊び、偽善を憎み、共同体の規範の押しつけを許さない徹底した個人主義者として受け入れられている。
『新エロイーズ』は、慣習や階層に縛られない自由な感情の発露としての恋愛表現の起源と考えられている。
『告白』は、私的な性体験や嫉妬感情の赤裸々な記述で多くの読者に衝撃を与えた。
エルンスト・カッシーラーは、その分裂を「ジャン=ジャック・ルソー問題」と呼んだ。
ルソーの「一般意志」の概念は、社会と交わりたくない、他人とも会話したくない、人間がそもそも嫌いな人々、現代風に言えば「ひきこもり」や「コミュ障」の人々のために構想された、社会性の媒介なしに社会を生みだしてしまう逆説的な装置として読むべきだという提案である。
ルソーは人間が嫌いだった。社会も嫌いだった。『学問芸術論』や『人間不平等起源論』に記されているように、彼はそもそも、人間は、社会などつくらず、したがって学問も芸術ももたず、家族単位でばらばらに生きるのが本来のすがただと考えていた。
にもかかわらず、人間は現実には社会をつくった。なぜか?
ルソーは、人間は本来は社会などつくりたくないはずだと信じていたからこそ、逆にその問いに答えねばならなかった。
「一般意志」の概念はその必要性から生みだされたのだ。
この観点で読めば、『新エロイーズ』も『告白』も『社会契約論』も、矛盾なく一貫して理解できる。
・イマヌエル・カント(1724 - 1804)
カントの主張。永遠平和の設立のためには三つの条件が必要。
①「各国家における市民的体制は共和的でなければならない」(第一確定条項)。
カントはそこで「訪問権」について語る。国家連合に参加した国の国民は、たがいの国を自由に訪問しあうことができなければならない。
これがきわめて重要なのだが、それはあくまでも訪問の権利だけを意味し、客人として扱われ歓待される権利は含まない。
「友好の権利、つまり外国人の権限は、原住民との交際を試みることを可能にする諸条件をこえてまで拡張されはしないのである」
カントはここで、永遠平和が、第一および第二条項の規定にかかわらず、国家を対象とする条件だけでは成立しないと述べているように見える。永遠平和は、各国が共和国になり、国家連合がつくられるだけでは達成されない。それは、「世界市民法」が成立し、個人が国境を越えて自由に移動できるようにならないと達成されないのである。
ぼくの考えでは、この第三条項の追加でカントが提示しようとしたのは、国家と法が動因となる永遠平和への道とはべつに、個人と「利己心」「商業精神」が動因となる永遠平和へのもうひとつの道があり、この両者が組み合わされなければ永遠平和の実現は不可能だという認識である。
したがって、その訪問権の概念の射程は、国家意志と結びつく外交官の「訪問」ではなく、商業主義的な観光のイメージで捉えたほうが、より正確に測ることができると思われる。観光は市民社会の成熟と関係しない。観光は国家の外交的な意志とも関係しない。言い換えれば、共和制とも国家連合とも関係しない。観光客は、ただ自分の利己心と旅行業者の商業精神に導かれて、他国を訪問するだけである。にもかかわらず、その訪問=観光の事実は平和の条件になる。
したがって、ぼくたちは、ならずもの国家は排除するほかないかもしれないが、ならずもの国家からの観光客は排除してはならない。中国といくら国交が悪化しても中国からの観光客を受け入れねばならないし、ロシアといくら国交が悪化してもロシアからの観光客を受け入れなければならない。それは中国なりロシアなりを国家として評価するからではない。そのような権利を普遍的に保障しなければ、それ自体は中国やロシアと無関係につくることができる永遠平和のための国家連合、それそのものの原理が内部から蝕まれるからなのである。
カントはじつはそこで、各国家に、まずはおまえの下半身を制御できるようになってから国際社会に乗りだしてこいと、そう注文をつけていたのである。
・<ヘーゲル(1770 - 1831)>
ヘーゲルは、国家を市民社会の「理性」にあたるものだと捉えた。たとえばいま、ぼくたちは日本列島という地理的な境界のなかに住んでいる。同じ言葉を使い、モノやカネを交換し、ひとつの社会を形づくっている。けれども、ヘーゲルはそれだけでは国家にはならないと考える。
国家は、その人々が、われわれはひとつの土地に住み、ひとつの歴史を共有し、ひとつの社会をつくるのだという自己意識を抱いたときにはじめて生まれる。それがヘーゲルの考えである。つまりは国家とは、事実の産物というより、なによりもまず意識の産物なのだ。この規定は近代政治思想の基礎をなしている。
ヘーゲルによれば、人間はまず家族のなかで「自然的な倫理的精神」として現れる。ひらたく言えば、家族の愛に包まれた自足した存在として生きることになる。しかしつぎに家の外に出る。市民社会に入る。市民社会というのは、ひととひととが、愛ではなく言語や貨幣を媒介に交流する領域のことである。そこではひとは、みな他者の欲望を介して自分の欲望を満たすようになる。ヘーゲルの言葉を使えば「利己的目的は、おのれを実現するにあたって[・・・・・・]普遍性によって制約され」るようになる。それは、ひとが、主観性と客観性、特殊性と普遍性、つまりは私と公のあいだで引き裂かれた存在となることを意味している。
市民社会のなかの人間は、ひらたく言えば、愛のなかで自足できなくなり、自分が他人から見たらどう見えるのか、自分は社会のなかでなにをやるべきなのか、そのことばかり考えなければいけなくなるのである。
そして最後に、国家が、まさにその分裂を統合する契機として現れる。ヘーゲルによれば、ひとは国家に所属し、国民になることによってはじめて、公的=国家的な意志を私的な意志として内面化し、普遍性を特殊性のなかで経験するようになる。
というよりも、ヘーゲルの考えでは、そのような内面化の実現(特殊性と普遍性の統合)こそが、国家なるものの精神史的な存在意義なのだ。
『一般意志2.0』の読者のため付け加えておけば、特殊性と普遍性を統合する「国家意志」というこの奇妙な概念の想定こそが、ヘーゲルがルソーの「一般意志」の解釈として引き出したものであり、すなわちルソー問題(個人主義と全体主義の分裂)のヘーゲルなりの解決になっている。
ひとは、家族から離れ、市民を経て、最後に国民になることではじめて成熟した精神に到達する。「個々人の最高の義務は国家の成員であることである」とヘーゲルは記している。
・カール・シュミット(1888 - 1985)
政治的なるものの本質は友(自国民)と敵(テロリスト)を公的な基準で分けることにある
おそらくは彼ら「まじめかふまじめかわからないテロリスト」をより正確に表象することができるのは、シュミット的な「敵」ではなく、むしろドストエフスキーが前掲の小説で描いたような「地下室人」のイメージである。二一世紀のテロリストは、シュミット的というよりもドストエフスキー的、言い換えれば政治的というよりも文学的な存在なのだ。
「友敵理論」――政治が政治として機能するのは「友」と「敵」が峻別されているときだけだという、たいへん大胆な理論。
『政治的なものの概念』(1932)
抽象的な判断には、必ずその判断の基礎となる固有の二項対立がある。たとえば、美学的な判断は美と醜の二項対立(美しいかどうか)に、倫理的な判断は善と悪の二項対立(正しいかどうか)に、経済的な判断は益か損かの二項対立(儲かるかどうか)に支えられている。それらの対立はすべて原理的に独立している。美しいけれど正しくないことや、正しいけれど儲からないといったことは、世のなかにいくらでもある。ぼくたちがそのような判断ができるのは、美学と倫理と経済が独立した判断の範疇を構成しているからである。判断の独立性は、それぞれ固有の二項対立をもっていることで保証されている。
友敵理論はじつに危険な思想である。とはいえ、それは単純に危険だという理由で排除できるものでもない。なぜならば、それは、ユダヤ人が嫌いだとかドイツ国家の偉大さを示したいといった感情的な理由だけで作られたものではなく、国家とはなにか、人間とはなにかを考え抜いた結果として、論理的に引き出された理論でもあったからである。
グローバリズム(二〇世紀初頭の自由主義)を批判する論者は、むかしもいまも数多くいる。彼らは多くの場合、グローバリズムの導入は自国産業にとって損になると、あるいは自国文化を破壊するといった主張を展開する。けれども、シュミットはその類の議論には関わらない。なぜならば彼の考えでは、そのような批判は、政治的な判断に経済的あるいは美学的な判断(グローバリズムは損だ、あるいは醜いといった判断)をもちこんだものにすぎず、結局は政治の価値を損なうものだからである。
国家が存在しなくなったら、政治は存在しなくなる。政治が存在しなくなったら、人間は人間でなくなってしまう。シュミットは人間が人間であるために、グローバリズムを拒否するのだ。これ以上に強い批判の論理があるだろうか。
・アレクサンドル・コジェーヴ(1902 - 1968)
1947年『へーゲル読解入門』
(※彼の仕事で有名なのは、1933年から1939年にかけてパリで行ったヘーゲルについての講義である。のちに哲学や文学の分野で大きな仕事を成し遂げる者たち(ラカン、バタイユ、メルロ=ポンティ、ブルトンなど)がこの講義を聴講していた。講義は後に『ヘーゲル読解入門』として出版されることとなる。)
人間が人間として生きる「歴史」は本質的に1806年のイエナの戦い(ナポレオン戦争)で終わっていたのであり、二〇世紀のふたつの大戦は、現在がすでに「ポスト歴史」(歴史の終わりのあとの時代)に入っていることを確認させるものにすぎなかったと述べた。
のち二〇世紀も終わり近くになって、アメリカの政治学者、フランシス・フクヤマがこの図式を援用して「歴史の終わり」論を主張し、同名の著書(『歴史の終わり』)が世界的なベストセラーとなったので、そちらを経由して知っている読者が多いかもしれない。ただしフクヤマのほうは、歴史の終わりを確認する契機を冷戦の終焉に定めている。
人間の歴史が終わるとはいかにも奇抜な主張に聞こえるが、この背景にも、シュミットの思想と同じくヘーゲル独特の人間観が横たわっている。ヘーゲルの考えでは(コジェーヴが解釈し要約したへーゲルの考えでは)、人間とは、みずからの存在を賭けて他人の承認を求め、環境を変革し続ける精神的な存在にほかならない。
「人間は自己の人間的欲望、すなわち他者の欲望に向かう自己の欲望を充足せしめるために自己の生命を危険に晒し、それによって自己が人間であることを「証明」する。[・・・・・・]このまったくの尊厳を目指した生死を賭しての闘争がなかったならば、人間的存在者は地上に存在しなかったであろう」
裏返して言えば、誇りを失い、他人の承認も求めず、与えられた環境に自足している存在は、たとえ生物学的には人間であってももはや精神的には人間とは言えないというのが、コジェーヴとヘーゲルの考えである。だから、人類がみなそのような自足した存在になってしまえば、人間の歴史は――種としての人類そのものが存続したとしても終わる。(※のちに日本に来て撤回する)
シュミットもコジェーヴもともに、人間と人間の生死を賭けた闘争がなくなり、国家と国家の理念を賭けた戦争が解消され、世界がひとつになり消費活動しか存在しなくなった時代における人間の消失を問題にしている。シュミットはそれを政治の喪失(自由主義化)と呼び、コジェーヴは歴史の終焉(動物化)と呼んだ。
・ハンナ・アーレント(1906 - 1975)
「消費」「労働」「匿名」
1958『人間の条件』。
アーレントはなにが人間の条件になると考えたのか。
アーレントは、人間が行う社会的な行為(アクティヴィティ)を三つに分類している。
活動(アクション)と仕事(ワーク)と労働(レイバー)。
「活動」はギリシア市民の政治的な(ポリス的な)行為をモデルに考えられた理念型である。それは具体的には、広場=公共空間(アゴラ)にすがたを現し、演説をし、他人と議論するといった言語的で身体的な行為を意味している。
対して「労働」は「人間の肉体の生物学的過程に対応する行為」。生物学的過程に対応するとは、つまりは、そこでは身体の力だけが問われるということを意味している。それは現代で言えば、コンビニやファストフード店のバイトのような、だれが行っても同じで、人数と時間のみで換算される賃労働を名指している。
そしてここで重要なのが、アーレントがこのふたつの概念を、行為者の固有名性に注目して対置していることである。固有名性とは、ひらたく言えば「顔」「名前」の問題のことである。アーレントは、活動においては行為者の固有名性が決定的に重要だと考える。実際、政治家の演説において重要なのは、なにを述べているかという内容よりも、むしろだれがその演説をしているかという「顔」のほうである。
他方で労働では顔や名前はまったく重要ではない。工場労働者やバイト店員は匿名の数にすぎない。実際、コンビニに商品を買いに行くときに、だれがレジの担当者かを気にする消費者はほとんどいないだろう。どの店舗かすら気にしていないかもしれない。
労働においては、アーレントの言葉を借りれば、顔のない「生命力」が売買されているにすぎないのである。
しかし、このアーレントの哲学は、理論的には大きな弱点を抱えていることも知られている。
古代ギリシアではたしかに、顕名で公共的な「人間」と匿名で私的な「労働する動物」が明確に分かれていたかもしれない。アーレントはその区別を現代に復活させることを提案した。けれども実際にはそこには、顕名の市民たちによる活動=政治=ポリスは、彼ら市民がそれぞれ所有する奴隷たちの匿名の労働=家政=オイコスで支えられるという、じつに残酷単純な下部構造があったのである。
だとすれば、その区別を現代にそのままもちこみ蘇らせようとすることは、はたして適切な選択だろうか。
政治活動やボランティアの公共的な価値ばかりを強調し、労働に関わっているかぎり人間は人間になることができないと論を立てるのは、むしろ労働の現場から生まれるさまざまな思考を政治の場から排除することにつながるのではないだろうか。
ひらたく言えば、アーレントこそが、コンビニバイトをいちばん人間扱いしていないのではないだろうか。
ぼくがここでアーレントの例を出したのは、一般に彼女が、シュミットやコジェーヴ、とりわけシュミットとは対照的な思想家だと考えられているからである。実際、ナチスに協力したシュミットと、ナチスの迫害を恐れ亡命したユダヤ人のアーレントは政治的に対極に位置している。アーレントは左翼で、シュミットは右翼である。けれども、そのようなイデオロギーの意匠を剥ぎ取ると、彼らの思想は驚くほど近い構造をもっている。
どういうことか。シュミットもコジェーヴもアーレントも、一九世紀から二〇世紀にかけての大きな社会変化のなかで、あらためて人間とはなにかを問うた思想家である。そこでシュミットは友と敵の境界を引き政治を行うものこそが人間だと答え、コジェーヴは他者の承認を賭けて闘争するものが人間だと答え、アーレントは広場で議論し公共をつくるものこそが人間だと答えた。答えはいっけん三者三様だが、彼らが人間と対比したものを考えると、共通の問題意識が浮かびあがってくる。
そしてアーレントが『人間の条件』を執筆したのは、ふたたび引用を繰り返せば、「自分の肉体の私事の中に閉じ込められ」た、他者を必要としない「労働する動物」が現れたからである。
実際、アーレントは消費もまた労働と同じ論理で批判している。彼女によれば、労働は生命力を貨幣に変え、消費はその貨幣で動物的欲求を満たすだけの行為である。労働が公共につながらないように、消費も公共につながらない。彼女はつぎのように記している。
「〈労働する動物〉の余暇時間は、消費以外には使用されず、時間があまればあまるほど、その食欲は貪欲となり、渇望的になる」。
したがって、「苦痛と努力の足枷から完全に「解放された」人類は、世界全体を自由に「消費」するようになり、人類が消費したいと思うすべての物を日々自由に再生産するようになるだろう」が、その「ユートピア」で生まれるのは「幸福」を追求する「大衆文化」だけで、人間の生になにも意味を与えてくれないだろう。
シュミットとコジェーヴとアーレントは同じパラダイムを生きている。彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆消費社会を批判するためにこそ、古きよき「人間」の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。
本書が「観光客」について考えることで乗り越えたいのは、まさにこの無意識の欲望である。
しかし、そのような拒否がグローバリズムが進む二一世紀で通用するわけがない。実際、人文学の影響力は今世紀に入って急速に衰えている。だから、ぼくたちは人文学そのものを変革する必要がある。それが、本書の基礎にある危機意識である。
フランス語圏におけるジャン・ボードリヤールやロラン・バルトのような記号論的な消費社会分析、英語圏における文化研究(カルチュラル・スタディーズ)と呼ばれる文化社会学の一派、あるいはドイツ語圏のフリードリヒ・キットラーやノルベルト・ボルツなどである。
だからそちらを知る読者は、人文思想が大衆社会を排除したなんていつの話だと疑問に思うかもしれない。
そもそもその業界では、ヘーゲルの政治観や人間観はとっくに乗り越えられたことになっている。
しかし実際には、その生半可な理解のほうが罠なのである。なぜならば、現実を見れば、いま名前を挙げたポストモダニストたちの社会分析や文化分析が――個別の現象や作品の解釈であるていどの成果をあげたとはいえ――公共とその外部、人間とその外部、政治とその外部を分割する二項対立の解体にいっさい手をつけることができず、また現実の政治にもほとんど影響を与えることができなかったことは明らかだからである。
ポストモダニストはたしかに、政治とその外部を「脱構築」すると主張していた。そしてそれは学会や一部読者層のあいだで流行はした。しかし、現実の社会においては、そのような彼らの主張そのものが、非政治的なもの(戯れ)として政治の外部に排除されたと言える。
実際に2017年のいま、国内でも国外でも、いわゆる「現代思想」の担い手は、文化左翼に甘んじ大学のなかで文学批評や芸術批評を講義するか、あるいはすべての理論を捨てて(つまりポストモダニストの矜持を捨てモダニストに戻り)、古い「政治」のスタイルを受け入れデモに参加し街頭に出るか、どちらかしかできなくなっている。そこでは政治とその外部の対立がみごとに再生産されている。
なにひとつ脱構築されていないし、なにひとつ変わっていない。ぼくはその状況に思想の敗北を見る。
だから、ぼくは、もういちど基礎の基礎に戻り、近代思想の人間観と政治観を、過去のテクストの小手先の解釈変更などに頼るのではなく、根本から問いなおすべきだと考えるのだ。
・<ジャック・デリダ(1930 - 2004)>
「誤配」
「エクリチュール」(文字)――「パロール」(話し言葉)と対をなし、デリダにおいては、文字は話し言葉から派生するものだが、しかし話し言葉もまた文字なくしては成立しないというねじれた相互依存を範例に、ものごとの本質が非本質に本質的に依存してしまう関係を一般に意味する概念として使われている。
ここでぼくが「福島」と「フクシマ」に見いだしているのは、まさにそのねじれた関係の問題である。観光地化とはエクリチュール化のことなのだ。
・ロバート・ノージック(1938 - 2002)
ジョン・ロックの自然状態の想定に戻り、個人の原始的な所有権の確認から始めて、国家が暴力を独占し個人の権利を制限することがどこまで正当化されるのか、石をひとつひとつ積み上げるようにして、きわめて緻密な議論を展開している。
彼の結論は、国家は最小国家(市民を暴力や犯罪から保護し、契約の執行を支援するだけの国家)であるかぎりでのみ道徳的に正当化されるのであって、それ以上の大きさになるのは不当だというものである。
そこでは国家は、異なった利害をもつ複数の個人がともに生きることを可能にするための、ぎりぎり最低限の調整装置としてのみ考えられている。
最小国家は個人の欲望をなにも変えない。個人を国民にしない。それどころか、それはむしろ、個人を国民にする機能(たとえば教育)を、外部にオプションとして追加するための価値中立的な基体として考えられている。
つまりは、リバタリアンの「国家」は、政治=人間の層というよりも、むしろ徹底して脱政治的な、経済=動物の層に属するメカニズムとして考えられているのである。だからこそ彼らは、国家について民間企業と同じように論じることができる。
・<ジョン・ロールズ(1921 - 2002)>
二〇世紀のリベラリズムの理論は、1971『正義論』で整備されたと言われている。
同じようにコミュニタリアニズムも、『正義論』への批判として書かれた著作から生まれている。
サンデルはそこで、ロールズの議論は普遍的な正義を追求する普遍的な主体(負荷なき主体)の存在を前提としているが、それはあまりにも強すぎる仮定であり、実際には政治理論は、特定の共同体の特定の価値観(正義ではなく善)を埋めこまれた主体しか前提とすることができないと主張した。
<※「善(the good)」とは、特定の個人や社会にとって、自己をより幸福にしてくれること(あるいはその状態)のこと。人々は、それぞれが自分の「善」の構想(≒価値観)を持ち、その「善」に従って自分の人生選択をするもの。
「正義(justice)」とは、権利が守られ、みんなが合意した法・ルールによって正しく問題解決されることで、日本語の「権利(right)」に近い意味を持つ。
ロールズは、人々が持つ「善」は多様であるから、それを社会の法・ルールで規制するべきではない。そのため、すべての人が合意できる「正義」に限定して法・ルールを検討するべきと考えた。>
・リベラル・コミュニタリアン論争の核心。
リベラルは普遍的な正義を信じる。コミュニタリアンはそんな正義は信じない。それだけである。
カントたちは、個人が国民になり、そこで終わりだとは考えなかった。特定の国家への所属は、それを超えた普遍的な主体への上昇の一段階にすぎないと考えられていた。一九世紀のナショナリズムは、現代の内閉的なナショナリズムと異なり、永遠平和(カント)や世界精神(ヘーゲル)に通じていた。
このままではどこにも普遍も他者も現れない。それがぼくたちが直面している思想的な困難である。
帝国とは、グローバルな経済的あるいは文化的な交換をスムーズに機能させるため、国民国家とはべつに、国家と企業と市民がともにつくりあげる新たな政治的秩序。
動物=グローバリズムの層こそがつくりだす政治、人文思想が伝統的に政治的思考から排除してきたものこそがつくりだす政治的秩序。
規律訓練のほうは、権力者がああしろこうしろと命令し、懲罰を与えることで対象者を動かす権力。懲罰があるので規律訓練と呼ばれる。
生権力のほうは、あくまでも対象者の自由意志を尊重しながらも、規則を変えたり価格を変えたり環境を変えたりすることで、結果的に権力者の目的どおりに対象者を動かす権力を指す言葉である。対象者の社会的な生活に介入するという意味で生権力と呼ばれる。
・マルチチュードとはなにか。
帝国の内部から生まれる帝国の秩序そのものへの抵抗運動(対抗帝国)を広く指す言葉として捉えなおした。
ネグリとハートも、マルチチュードの概念を説明するにあたり、同じようにアーレントに批判的に触れている。そこで彼らが批判するのは、「政治的なもの」と「社会的なもの」を徹底して分割し、政治的解放を経済的要求に基づく運動(階級闘争)から切り離そうとするアーレントの理論的な傾向である。
マルチチュードの概念には致命的な欠点がある。
新しい運動は、党も要らない、イデオロギーも要らない、指導者も要らない。反資本主義的である必要もない。ただネットワークの力を信じればいい。愛があればいい。
マルチチュードの概念はなぜこのような弱点を抱えてしまったのだろうか。ぼくの考えでは、おそらくふたつの原因がある。
彼らの議論では、世界には帝国しか存在しないので、マルチチュードは帝国に依存して生まれることになるし、帝国への抵抗もまた必然的に帝国に依存して行われることになる。帝国が帝国の敵をみずから生みだし、帝国内で闘いあうというこの自己循環的構図が、マルチチュードの運動論を決定的にあいまいなものにしている。
いまでは『帝国』の議論が突出して知られているが、同書出版以前にも、新たな運動論を模索する議論はいろいろと行われていた。
彼らの関心は、共産主義革命への信頼が失われた世界において、つまり、ひらたく言えば左翼の「大きな物語」が壊れた世界において、いかにしてさまざまな抵抗運動のあいだに連帯をつくりだすかという問いにあった。根源的民主主義は、そこで提案された新たな連帯の構想の名称。
スラヴォイ・ジジェクが1989年の『イデオロギーの崇高な対象』で行った要約。
「そこには[根源的民主主義には]、個々の闘争(平和運動、エコロジー、フェミニズム、人権運動など)の結合がみられるが、そのどれか一つが、「真理」、最後の「シニフィエ」、他のすべての運動の「真の意味」だというわけではない。しかし、「根源的民主主義」というタイトルそのものが示しているように、これらの闘争を結合しうるということ自体が、ある一つの闘争が「結節的な」決定的役割を果たすことを示唆している」。
ここでジジェクが指摘しているのは、ラクラウたちの新たな連帯の構想においては、じつは重要なのは個々の抵抗運動の中身ではなく、連帯の事実そのものになっているということ。かつては共産主義が「大きな物語」として機能し、それら多様な抵抗運動にひとつひとつ意味を与えていた。そして連帯に根拠を与えていた。しかしもはや共産主義は機能しない。となってくると、とにかく中身は関係なく連帯をしていくしかない。現代のヘゲモニー闘争では、むしろその連帯の事実こそが効果を発揮する。
根源的民主主義――「否定神学的」
・「リベラリズム」と呼んでいるもの、それは要は普遍主義のプログラムである。
あらゆる人間にあらゆる権利が等しく認められるべきであり、あらゆる人間のあらゆる尊厳が尊重されるべきだという寛容のプログラムである。ぼくたちは、自分を尊重するのと同じように、あらゆる人間を尊重しなければならない。
その倫理の起源はカントに遡る。彼は『実践理性批判』で、「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という有名な命法を書き記した。
ぼくたちはいま、まさにその普遍主義のプログラムが崩れ落ちる時代に生きている。
マルチチュード、ふたつの致命的な弱点。
①帝国の内部で、帝国自身の原理から生みだされる反作用だと考えられていた。
郵便とはなにか。
「否定神学」=存在しえないものは存在しないことによって存在するという、逆説的な修辞を指す言葉。
「郵便」=存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉。
本書ではその失敗を、『存在論的、郵便的』を引き継ぎ「誤配」と呼ぶ。
否定神学では、神は存在しないがゆえに存在すると考える。
郵便的思考では、神はとりあえず存在しないが、現実にはさまざまな失敗があるがゆえに存在しているように見えるし、またそのかぎりで現実に存在するかのような効果を及ぼすと考える。
住民が観光客を認めないように、原作厨は二次創作を認めない。しかし、同時に、住民の経済が観光客なしには成立しないように、原作厨の喜びもじつは二次創作(二次創作的な実写ドラマ化や実写映画化)なしには存在しない。なぜならば、それこそが原作者を潤わせるからである。
実際、それがいくら「原作とちがう」ものだったとしても、実写ドラマ化や実写映画化によって、原作は売れ、より広い読者を獲得するのが現実である。
ある時期以降(おおざっぱには1995年以降)のオタク系コンテンツは、大なり小なり、みな最初から二次創作の想像力を内面化するようになっている。二次創作の市場が一定規模を超えると、作家はみなあらかじめ二次創作で読み替えられる可能性を考えるようになるし、その読み替えを先取りしてキャラクターを作ったほうが商業的に成功しやすいと判断するからである。
その結果、市場に流通する物語やキャラクターは独特の偏りを帯びてくる。
あるゲームのジャンルでは、物語の二次創作(読み替え)が先取りされた結果、同じ事件がいくども繰り返すループ(時間の反復)のモチーフが流行したりすることになる。
これはポストモダン社会ではじつに一般的な現象だと言える。
あらゆる作品は、「ほかの消費者がその作品をどう評価するか」、そして「自分がこの作品に評価を与えたとして、ほかの消費者は自分のその評価についてどう考えるか」といった、「他者の視線」を内包したかたちで消費されることになる。
かりにそれらの言葉を知らなくても、フェイスブックの「いいね!」機能を思い浮かべれば、その本質はたやすく理解することができる。
ひとは、気に入った投稿を素朴に「いいね!」するわけではない。むしろ「いいね!」をつけると他人からの評判が上がるものに対してこそ、積極的に「いいね!」をつけていく。
そのため、ネットワーク全体で見ると、政治のような、ひとにより賛否が分かれる厄介な話題は避けられ、猫画像や料理画像のような「無害」なコンテンツにどんどん「いいね!」が集まっていくことになる。
ぼくたちはいま、「他人の欲望を欲望する」(他人のいいね!にいいね!する)メカニズムが、かつてなく猛威を振るう世界に生きているのである。
ぼくは『ゲーム的リアリズムの誕生』で、そのような状況は新しい批評の視座を求めると主張した。
そこでは、作品を分析するにあたって、まず作品自体の評価があり、つぎにその消費環境があるという常識的な順序が適用できない。
作品自体があらかじめ消費環境を織りこんでいるので、分析者もそれを考慮して作品に向かわなければならない。
いわば「メタ作品」を分析する「メタ視線」が必要になる。
二次創作を想定して原作が作られるというのは、まさにその状況の好例である。
小説でも映画でもマンガでもなんでもよいが、作品を愛するひとというのは、たいていの場合、作品そのものの読解を重視し、その消費環境についての分析は「社会学的なもの」として排除しがちである(いまでも文芸誌にはそのような時代錯誤な批評が溢れている)。
けれども現代においては、作品の内部(作品そのもの)と外部(消費環境)を切り離し、前者だけを対象として「純粋な」批評や研究を行うという態度、それそのものが成立しない。
外部が内部にどのように繰りこまれているのか、そのダイナミズムを理解しなければ批評も研究も存在できないのだ。
ぼくは『ゲーム的リアリズムの誕生』で、そのダイナミズムへの注目を「環境分析」的読解と名づけた。
その時期に現代社会のありかたが大きく変容したのは事実であり、それ以降の時代は以前とはなんらかの言葉で区別しなければならない。
フランス人はそれをポストモダンと呼んだ。それだけである。
ぼくたちはまさに「他者の欲望を欲望すること」が全面化する社会に生きている。
本書の観光客論はこのような射程のなかで構想されている。二次創作者はコンテンツの世界での観光客である。裏返して言えば、観光客とは現実の二次創作昔なのだ。
・二層構造の時代
それは、単純に、既存のナショナリズムの体制を温存したまま、それに覆い被せるように、まったく異質な別の秩序を張りめぐらせてしまったのである。
二層構造の時代においては、政治がいくらいがみあっていても経済はつながり続けるのだから、もし国際関係をポンチ絵にしたてあげるとすれば、それは、各国が独立の人間として表象されるのではなく、むしろ人間としての独立性を失い、ひとつにつながった「身体」(市民社会)のうえに、ばらばらに「顔」(国家)だけがくっついているような絵になると考えられる。
経済はつながるのに、政治はつながらない時代。欲望はつながるのに、思考はつながらない世界。下半身はつながっているのに、上半身はつながりを拒む時代。それが二層構造の時代の世界秩序だが、最後に、さらに下品との非難を浴びるのを承知のうえで連想を進めるとすれば、この時代においては、国民国家(ネーション)間の関係は、しばしば、愛を確認しないまま、肉体関係だけをさきに結んでしまったようなものになりがちだと言うことができるのかもしれない。
けれども結局は、関係が切れないなら、覚悟を決めて愛を育てるしかない。それは人間関係でも国際関係でも同じではなかろうか?
・ネットワーク理論
その新しい理論によれば、ぼくたちが生きる人間社会――正確には人間社会が含まれる「複雑ネットワーク」一般――は、「大きなクラスター係数」「小さな平均距離」「スケールフリー」という三つの特徴を備えているとされる。
①「大きなクラスター係数」
②「小さな平均距離」
図3bはじつは、図3aの枝のわずか一五パーセントをつなぎかえたグラフである。
それでも点Aから点Bへの距離は、6から3へ縮まっている。
彼らはこのようなグラフを「スモールワールドグラフ」と名づけ、これこそが人間が現実につくっているネットワークの表現に適していると主張した。
人間社会は、数学的に表現すれば、格子グラフでもランダムグラフでも完全グラフでもなく、スモールワールドグラフになる。
ワッツたちのこの発見が教えてくれるのは、人間社会にダイナミズムを与えているのは、他者の絶対的排除でもなければ、他者への完全な開放性でもなく、そのあいだの状態だということだ。
スモールワールド・ネットワークは、他者へのつなぎかえの確率が0でもなければ1でもない、中間の値のときにこそ生まれるものなのだ。
人間社会をモデル化するために「確率的」な「つなぎかえ」を導入すること=コミュニケーションの誤配を導入したことに相当。
③「スケールフリー」
これは人間社会の不平等性を表現している。
あるひとには八人の友人がいるが、別のひとにはひとりしか友人がいないような状況。
ネットワーク理論では、頂点に接続する枝の数を、その頂点の「次数」と表現する。
枝数が偏っていることは、「次数が一様に分布していない」と表現される。
スモールワールドグラフやランダムグラフでは次数分布は必ず偏る。
スケールフリーは、その次数分布に関する特徴を指す言葉である。
スケールフリーは、スケール=規模からフリー=自由、すなわち規模にかかわらず分布が同じかたちをとるという特徴を指す言葉。
スケールフリーなネットワークにおいては、たとえば、枝が一〇本の頂点の総数から一〇〇本の頂点の総数への減りかたが、枝が一〇〇本の頂点の総数から一〇〇〇本の頂点の総数への減りかたに等しくなる。
それゆえ、どれだけ枝数が多い頂点を起点としても、さらに枝数が多い頂点が見つかる可能性がけっしてゼロにならない。
ひらたく言えば、膨大な数の枝が集中する頂点が少数だが必ず存在し続けるわけである。
これがスケールフリーなネットワークの特徴である。したがって、それは「不平等」なネットワークとも言われる。
・「成長」と「優先的選択」
ここで成長とは、ネットワークに新しい頂点が加わることを意味し、優先的選択とは、その新しい頂点が既存の頂点に枝を張るときに、接続先として高い次数をもつ頂点を優先して選ぶ(高い次数をもつ頂点を選ぶ確率が高い)という条件づけを意味している。
それらふたつの概念の導入は、あえて哲学的に解釈すれば、バラバシたちが、ネットワーク理論に時間や主体(方向性)の概念を導入したことを含意している。
しかし、それはけっして富めるものが貧しいものを「搾取」しているからではない。そもそも数学的観点からすれば、富めるものと貧しいものの区別はほとんどない。ネットワーク理論は、全体の次数分布にのみ関わり、頂点の固有性には関知しない。地震(岩盤の歪みの集中)が一定の確率で起こるように、富の集中も一定の確率で起こる。理論は世界の富の偏りは予測できるが、だれが富むのか、だれが貧しくなるのかは予測できない。
富の偏りは、一部の富めるものがつくるのではなく、ネットワークの参加者ひとりひとりの選択が自然に、しかも偶然に基づいてつくりだしていくのだ。それが、バラバシたちの発見の教えである。
・「ツリー」と「リゾーム」
ふたつの異なったネットワークのかたちをもとに、ふたつの異なった社会思想を構想する可能性。
ツリーは木を、リゾームは根茎を意味する。木と根茎のイメージそのものについて言えば、両者を対置するのは数学的に正確とは言えない。
二一世紀のネットワーク理論では、むしろ木と格子が対置されている。木と格子の決定的なちがいは、木では一周して出発点の頂点に戻ってくることができないが、格子では戻ってくることができるところにある。木では枝先と枝先は接続しない。格子では接続する。この点では根茎は木に属する。
しかし、ここで重要なのは、そのような正確さ以前に、とりあえずは思想家たちが、すでに三〇年もまえに、木よりも複雑なかたちをした、なにかしら新しいネットワークのモデルを基礎に新しい社会分析の言語を作ろうとしていたという事実のほうである。木、すなわち幹があり枝があり、分岐が一方向的で、単数の起点があり複数の終点があるネットワークのモデルは、軍や党や巨大企業のような、ひとりのトップを抱え、その命令が位階をたどり順々に現場へと「降りていく」ような近代的な社会組織と親和性が高い。それゆえ、逆にポストモダニストたちは、そのような樹木状のものではない、別のかたちのネットワークについて考えようとした。そこで現れたのがリゾームという言葉である。ツリーとリゾームの対置は、前章で見たネグリたちの議論にも入りこんでいる。『帝国』には、リゾームの概念とインターネットのネットワーク構造(「非階層的で非中心的なネットワーク構造」)を等置し、マルチチュードの活動の場はリゾームだと述べた箇所がある。彼らの理論では、国民国家の体制はツリーをモデルとして、帝国の体制はリゾームをモデルとして考えられている。
ネグリとハートのあいまいさは、遡ればドゥルーズとガタリのこのあいまいさに帰着する。さらに付け加えれば、前章でも指摘したように、いま重要なのは国民国家から帝国への移行でなく両者の重ね合わせ(二層化)だが、ツリーとリゾームの概念はそもそも重ね合わせることができるように作られていない。それもまた概念のあいまいさに起因する。
ツリーとリゾームのモデルをスモールワールドとスケールフリーの概念で置き換える以上のような読み替えこそが、観光客=郵便的マルチチュードの発生機序と戦略について、神秘主義に陥らない洞察を与えてくれるように思われる。
原始的な格子グラフは、枝の確率的なつなぎかえによってスモールワールドグラフへと変わる。共同体は市民社会へと変わる。けれども、社会を社会たらしめた誤配あるいは確率は、すぐに優先的選択(資本)へと変質し世界に圧倒的な不平等をもたらすのだ。
ぼくたちはシュミットやネグリと異なり、国民国家の体制がいままでと同じように単独で続くとも、逆に終わってほかの体制にとってかわられるとも考えていない。それは帝国の体制と重なり、世界秩序の一部として存在し続ける。
そのうえでさきほどの「神話」が教えてくれるのは、帝国のその体制はけっして国民国家の体制と対立するものではなく、むしろ国民国家を生みだした契機そのもの、すなわち、スモールワールドの秩序を可能にしたつなぎかえ=誤配そのものが変質し、偶然性を失い、組織化されることによって生みだされるということである。国民国家と帝国はともに同じ誤配から生まれている。誤配がなければ他者との出会いもないが、逆に格差もない。
だとすれば、ここでぼくたちは、グローバリズムへの抵抗の新たな場所を、帝国の外部に求めるのでもなければ、帝国の内部に求めるのでもなく、むしろ帝国とその外部とのあいだに、すなわち、スモールワールドとスケールフリーを同時に生成する誤配の空間そのもののなかに位置づけることができるのではないだろうか。誤配をスケールフリーの秩序から奪い返すこと、それこそが抵抗の基礎だと考えられないだろうか。これこそがぼくの最後の提案である。そして、ツリーとリゾームをスモールワールドとスケールフリーで置き換える本書の仮説が可能にする、ドゥルーズやネグリたちにはけっして到達できなかった構想である。
出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。
そして、そのような実践の集積によって、特定の頂点への富と権力の集中にはいかなる数学的な根拠もなく、それはいつでも解体し転覆し再起動可能なものであること、すなわちこの現実は最善の世界ではないことを人々につねに思い起こさせることを企てる。
二一世紀の秩序においては、誤配なきリゾーム状の動員は、結局は帝国の生権力の似姿にしかならない。
ぼくたちは、あらゆる抵抗を、誤配の再上演から始めなければならない。ぼくはここでそれを観光客の原理と名づけよう。二一世紀の新たな連帯はそこから始まる。
・リチャード・ローティ(1931 - 2007)
「プラグマティズム」――「真理」とか「正義」とかいった哲学的な言葉はじつは深淵な存在を名指しているわけではなく、ただ日常生活で便利に利用可能な実用的(プラグマティック)な符丁にすぎない、と考える立場。
一九八九年の著作『偶然性・アイロニー・連帯』
「リベラル・アイロニスト」。
その立場の基底にあるのは、公的なふるまいと私的な信念の分裂。
現代は「公的なものと私的なものとを統一する理論への要求を捨てさる」ことが求められる時代。なぜならば、現代の西側先進国社会では(同書は一九八〇年代に著されている)、たとえば、特定の哲学や宗教を私的に信じるのは自由だが、しかしそれを公的なものとして他人に強制し改宗を迫ることはけっして許されないからである。
それが「アイロニスト」と呼ばれるのは、矛盾とともに生きる態度を意味するから。
自分の私的な価値観がたんなる偶然の条件の産物であることを認める。
ローティは、現代人は公的なふるまいと私的な信念の分裂を受け入れるべきだと説く。
他方でぼくは、現代人は国民国家の体制と帝国の体制のあいだに引き裂かれているという認識を記してきた。
コミュニタリアニズムは、あらゆる信念は結局は主体が所属する共同体(国民国家)の偶然性に規定されると主張する政治思想であり、
ここでの言葉を使えば、前者が私的な信念の基礎づけに、後者が公的なふるまいの基礎づけに対応する。
ぼくたちはそのようなふたつの思想が並び立つ時代に生きている。
ローティは私的な信念の公共化を認めない。言い換えれば、普遍的な価値の存在を認めない。
それではぼくたちは、普遍的な価値の支えなしに、いったいどのようにして他者と関係を結べばよいのだろうか?
ローティはそう問いかけた。それはまた、ぼくたちがここまでさまざまなかたちで問い続けてきた問題でもある。
ローティの答えはどのようなものだろうか。じつは彼はそこで「感覚」や「想像力」といった言葉をもちだしている。
「本書でこれまで主張してきたのは、わたしたちは歴史や制度を超えたものを求めないようにしようということだった。[・・・・・・]わたしがリベラル・アイロニストと呼ぶのは、この感覚[連帯の感覚]が、まえもって他者と共有されたなにものかについての認識としてあるのではなく、むしろ他者の生の細部への想像的な同一化の問題としてあるような、そのような人々のことである」。
つまりは、連帯は共感の力で広がるのだと、ローティはそう記している。
ローティは普遍的な理念を信じない。だから連帯の基礎として言語や論理は使えない。
プラグマティストの彼が頼ることができるのは、具体的な経験だけである。だとすれば、このような結論にたどりつくのは不可避だと考えられる。
この結論は少なからぬ読者の失望を招くことになった。
共感可能性に基づく連帯などというものは、結局のところ異質な他者の排除を意味するだけではないか、それではほんとうの連帯とは言えないのではないかと厳しい批判を受けた。
実際、ローティはのち一九九八年に出版した『アメリカ未完のプロジェクト』では、国家や伝統に対する「誇り」の機能についておおむね肯定的に語っている。その知識をもって遡行して読むと、『偶然性・アイロニー・連帯』での連帯についての記述もまた、ナショナリズムへの回帰の萌芽のように見えなくもない。
しかしぼくは、ローティがそこで示そうとしていたものは、じつは本書が「誤配」という言葉で名指したものの可能性に近かったのではないかと――少なくとも『偶然性・アイロニー・連帯』の記述をそのように読みなおすことは可能なのではないかと――考えている。
というのも、さきほどの引用にも示されているように、彼がそこで連帯の基礎にしようとしたものは、民族や宗教や文化のような大きな帰属集団が生みだす大きな共感ではなく、あくまでも個人単位での、きわめて具体的な、そして偶然的な「細部」への感情移入にすぎなかったからである。
「われわれ」の感覚は、むしろその細部への共感のあと、事後的かつ遡行的に生みだされる。
ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』の最後のページで、彼の考える連帯をつくりだすのは、「あなたは、わたしが信じ欲することと同じことを信じ欲しますか」という問いではなく、すなわち共通の信念や欲望の確認ではなく、単純に「苦しいですか?」という呼びかけなのだと述べている。
たまたま目のまえに苦しんでいる人間がいる。ぼくたちはどうしようもなくそのひとに声をかける。同情する。それこそが連帯の基礎であり、「われわれ」の基礎であり、社会の基礎なのだとローティは言おうとしている。
これはまさに、つなぎかえがスモールワールドグラフを作った、あの誤配の作用そのものなのではなかろうか。
ルソーは人間が好きではなかった。人間は人間が好きであるはずがないと考えていた。人間は社会をつくりたくないはずだと考えていた。
にもかかわらず、人間は現実には社会をつくる。なぜか。ルソーが『人間不平等起源論』で提示した答えは「憐れみ」だった。憐れみとは、「われわれが苦しんでいる人々を見て、よく考えもしないでわれわれを助けに向かわせる」ものであり、「各個人において自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力している」働きである。もし憐れみがなければ、人類はとうのむかしに滅びていただろうとルソーは記す。憐れみこそが社会をつくり、そして社会は不平等をつくる。それはとても誤配に、そして「つなぎかえ」に似ている。
ルソーもローティもおそらくは誤配の哲学者だったのだ。誤配こそがヘーゲルが見なかったものであり、そしてぼくたちがいま回復しなければならないものなのだ。観光客の哲学とは誤配の哲学なのだ。そして連帯と憐れみの哲学なのだ。ぼくたちは、誤配がなければ、そもそも社会すらつくることができない。
・観光客の哲学は家族の哲学によって補完されねばならない。
①家族の強制性。家族は、自由意志ではそう簡単には入退出ができない集団であり、同時に強い「感情」に支えられる集団でもある。家族なるものには、合理的な判断を超えた強制力がある。
自由意志で入った集団からは、自由意志ですぐに出ることができる。それでは週末の趣味のサークルとかわらず、まともな政治の基盤にならない。
ひとは個人=私のためには死ぬ。国家のためにも階級のためにも死ぬ。同じように家族のためにも死ぬ。だから家族は新しい政治の基礎になりうる。他方でひとは趣味のサークルのためには死なない。だからそれは新しい政治の基礎になりえない。
②家族の偶然性。
世間では「子どもは親を選べない」と言ったりするが、それは哲学的には不正確である。子はたしかに親を選べないが、そもそもほかの親を選んだら自分が自分でなくなるのだから、その想定には意味がない。ほんとうの意味で「選べない」、すなわち偶然性に曝されているのは、むしろ親のほうである。ぼくたちはみな、出生のときに巨大な存在論的抽選器を通過している。ぼくたちのだれひとりとして、生まれるべくして生まれた必然的な存在はいない。ある親からある子どもが生まれることには、じつはなんの必然性もない。みな親から見れば偶然なのだ。この点において、すべての家族は本質的に偶然の家族である。言い換えれば、家族とは、子の偶然性に支えられたじつに危うい集団なのである。
③家族の拡張性。
日本の「イエ」は、歴史的にはむしろ核家族からはかけ離れたイメージで捉えられてきた。そもそもイエは、血縁よりも経済的な共同性を中心とし、養子縁組によってかなり柔軟に拡張が可能な組織だったと言われている。だからこそ日本社会は、イエを企業と読み替え、近代化にすみやかに適合することができた。
一緒に住み、「同じ釜の飯」を食えば、性と生殖がなくとも家族と見なされる、そのようなダイナミズムは世界中にあったし、いまでもある。
その柔軟性は、家族がまさに、第五章の末尾で見たようなルソーあるいはローティ的な「憐れみ」に開かれていることを意味している。家族とはそもそもが偶然の存在である。だからそれは偶然により拡張できるのだ。
家族の輪郭は、性と生殖だけでなく、集住と財産だけでもなく、私的な情愛によっても決まる。この特性が家族の拡張性を生みだしているのだが、しかしそれは同時に、家族の境界をじつにあいまいなものにもしている。
・ピーター・シンガー(1946 - )
功利主義者で、動物の権利の主張で知られている。
『実践の倫理』(1979)類人猿に部分的な人権を与えるべきだと主張し、話題を呼んだ。
彼がそう主張したのは、べつに動物が好きだからではない(好きかもしれないが)。
功利主義の原理(最大多数の最大幸福)を貫くと、人間のあいだの差別が許されないならば種のあいだの差別も許されないという結論が、論理的に導かれると考えたからである。ただしその結論は、すべての動物や生命が無条件に平等であることを意味しない。
シンガーの議論は功利主義に基づいている。つまりある原理(平等の原理)に基づいている。
彼が人権を一部の動物に拡張すべきだと提案するのは、その動物が、平等の原理の対象となる条件を満たしていると考えられるからである。
裏返せば、彼の動物権利論は、論理的に、対象となる動物がその原理の適用にふさわしい感受性をもっているかどうか(人間にどこまで近いか)を判定する作業を要求することになる。ひらたく言えば、シンガーは動物の生命に序列をもちこむことになる。そして、その作業は翻って、人間の生命にも序列をもちこむことになる。
シンガーの議論は徹底して論理的であり、あいまいな常識で止まることはしない。
結果としてシンガーは、オランウータンやチンパンジーの成体のほうが、自己意識をもたない人間の胎児や嬰児よりもはるかに「人格性」が高く、法的に守られるべきだという結論に達し、多くの非難を浴びることになった。
★13 この論理はじつは、カントが『永遠平和のために』で各国が共和制であることを求めた論理とまったく同じ構造をしている。リベラリズムの論理は、つねに幸福への参加資格を求めるのである。
シンガーが胎児や嬰児の人格を類人猿よりも下位に置かざるをえなかったことの意味が、あらためて重要に思われてくる。それは合理主義的な思考の限界を端的に示している。ぼくたちは生まれたばかりの子どもを大切に扱う。それが人類社会の基礎である。けれどもその配慮は、功利主義的には、もしかしたらたいして正当化できないのかもしれない。
なぜならば、新生児はまだ人格をもたないからだ。
新生児に人格はない。でもぼくたちはそれを愛する。だから子どもにも人格が生まれる。
最初に人間=人格への愛があり、それがときに例外的に種の壁を越えるわけではない。
最初から憐れみ=誤配が種の壁を越えてしまっているからこそ、ぼくたちは家族をつくることができるのである。
本論の議論と重ねると、やはりそこには本文で記したものと同じ弱点を指摘せざるをえない。
シンガーの議論には憐れみ=誤配がない。功利しかない。
それゆえ貧困国への寄付についても、「最大多数の最大幸福」を目的とした数値的指針を中心にしてしか議論できない。
シンガーの哲学的視座においては、だれか特定のひとを愛することと、あらゆるひとを公正に扱うことはつねに対立している。彼は家族についてつぎのように記している。
「理想的な親であることと、すべての人命の価値は等しいという考えに基づいて行為することの間[の][・・・・・・]葛藤が現実のものであり、解決不可能なものであるのは、こうした理由からである。両者は常に緊張関係にある。親は他人の子どもよりも自分の子どもを愛するものであり、またそうすべきなのだ。そしてこの理由から、親は他人のニーズを満たすよりも先に自分の子どもの基本的なニーズを満たすものなのだ。[・・・・・・]しかしだからといって、親が他人の基本的なニーズを満たすよりも先に、自分の子どもたちにぜいたく品を買い与えることが正当化されるわけではないのだ」。ピーター・シンガー『あなたが救える命』児玉聡、石川涼子訳、勁草書房、2014年、184-185頁。
シンガーの哲学においては、「たまたま出会ったもの」に対する偏愛はつねに公正と倫理に反するものと位置づけられている。
シンガーが支援する寄付行為、それそのものがほんとうは、ある種の誤配抜きには、すなわちたまたま寄付を与えられた人々とそうでない人々の偏差の産出抜きにはありえないのではないか。ひとは、たまたま出会ったひとを助けたいと思うからこそ寄付を差し出し支援を行うのであって、人類全体の匿名の集合的な福利のために所得の一部を差し出すのであれば、それはもはや寄付ではなくたんなる税金なのではないか。つまりシンガーは寄付の必要性について語るあまり、逆にその本質を無化しているのではないか。
本書第五章の言葉を用いれば、シンガーは、スモールワールドでの誤配の表れだった寄付を、スケールフリーの秩序のなかで機能的に最適化しようとしているように思われるのである。
ただし、最後にもういちど繰り返すが、シンガーの論理の力強さと実践とのあいだの一貫性(彼自身、大学院生時代に始まり長いあいだ、所得の一割を寄付に割りあて続けていることが知られている)には目を見張るものがある。
ぼくの批判は、シンガーのその問題提起を深く受けとめたうえでのものである。
異化的で認識的な文学がSF、
そして異化的で非認識的な文学が神話やファンタジーに相当する。
「認識的」はここでは「啓蒙的」に近い意味で使われている。(確固とした学問体系に基づき新たな知見を獲得できるもの)
スーヴィンの著作は1979年に刊行されたものだが、この区分にしたがえば、現在の日本で刊行されているSFは多くがファンタジーに分類されるだろう。
・当時ぼくが抱いたもうひとつの違和感を記しておきたい。情報技術の誕生を新たな舞台=空間の誕生として捉えるサイバースペースの比喩は、誤った認識を生みだしただけではない。それは同時に特殊な政治的含意を帯びていた。
想像的同一化とは、目で見ることができるイメージ(像)への同一化を意味している。
ラカンの主体についての理論は、まるで人間が世界に対して、映画の観客がスクリーンに対するときと同じ構造で接しているかのように読めるところがある。
図2はその想像的同一化の働きを図示したもの。
スクリーンとは世界のことだと考えてほしい。
この図は、映画館で観客がスクリーンを眺めている状態をモデル化するものであるとともに、人間が世界に対峙している状態をモデル化した図でもある。
さて、ここで注目してほしいのは、主体からスクリーンの特定の箇所(イメージ)に矢印が向かっていることである。
この矢印が想像的同一化の作用を意味している。ひとはだれでも、成長の過程で世界のだれかに「同一化」する。具体的には両親や教師や先輩といった人物である。それがこの図ではイメージの黒点で示されている。ひとは想像的同一化の対象と自分を重ね、そのふるまいをまねること(同一化すること)で大人になる。
映画の例で言えば、それは、観客がスクリーンを見ながら、あの俳優かっこいいなおれもああなりたいな、あの女優きれいだなわたしああなりたいな、と思う感情の動きに相当している。
ぼくたちは、なにかを目で見るときに、同時にそんな自分もまなざされている。その分裂が主体の基礎だというのがラカンの主張だ。
図の右の「表象の主体」とは「なにかを見る主体」のことを意味している。
図3はその象徴的同一化の働きを図示したものである。
ラカンのオリジナルにはじつはこちらが近い。ここでもスクリーンは世界を表している。
そして主体が世界=スクリーンを眺めている。
しかしこんどは、世界=スクリーンの背後の構造が描きこまれているところが異なっている。
世界=スクリーンは、ただ漠然と観客=主体に与えられているものではなく、背後にそれを生みだす秩序を隠している。
哲学の言葉で言えば、それは、世界を成立させる「超越論的主観性」や社会をつくりだす「象徴秩序」ということになる。
映画館の例でいえば、それはフィルムの映写機であり、またそのフィルムに映る光景を切り取った映画監督のカメラに相当する。
この図3には主体から発するふたつの矢印が描かれている。ひとつは図2と同じ、想像的同一化の矢印である。
しかしここで重要なのはもうひとつの矢印が、世界=スクリーンを飛び越え、大文字の他者から発して世界=スクリーンを通過し右側の主体へとまっすぐに向かう「視線」なるものに宛てられていることである。
これが象徴的同一化の作用を表している。それは、世界=スクリーンを成立させるメカニズム、それそのものに対する同一化である。
世界を成立させるメカニズムそのものへの同一化とは、あまりに抽象的に響くかもしれない。
けれども、これもまた映画の例で考えるとわかりやすい。
ぼくはさきほど、想像的同一化とはスクリーンに映る俳優(イメージ)への同一化なのだと述べた。
しかし、そもそもその俳優たちはなぜスクリーンに映っているのか。それはむろん、だれかが彼らをキャスティングしたからであり、まただれかが彼らを撮影したからである。
象徴的同一化はその裏方の作業への同一化である。つまりは、映画で言えば、かメラへの同一化ということになるわけだ。「大文字の他者」から主体にまっすぐに伸びる「視線」とは、映画監督が俳優たちを見つめる視線のことである。
象徴的同一化は想像的同一化よりも「高級」である。これもまた、映画の例で考えるとわかりやすい。多少とも映画にうるさい友人がいるひとであれば、つぎのように言われた経験があるだろう(ぼくにはある)。
俳優にせよ物語にせよ、映画の内容を見ているあいだはアマチュアである。映画好き(シネフィル)は、スクリーンに映っているものではなく、映っていないもの、つまりはカメラの画角(フレーム)や監督の視線を追いかけるのだと。まさにそれこそが想像的同一化と象徴的同一化の差異である。
アマチュアはイメージを見る。シネフィルはカメラに同一化する。そして後者の同一化を経ることで、はじめて映画の鑑賞は成熟を迎える。
じつはラカンの理論は、これと同じ論理で主体化の過程を説明している。
別の言葉で言い換えれば、人間は、見えるもの(イメージ)に同一化するだけでなく、見えないもの(シンボルあるいは言語)に同一化することで、はじめて大人になる(主体になる)のである。
以上を踏まえて図1に戻ろう。いまやこの図が図3の変形になっていることはたやすく見て取れるはずである。
その問いは、じつはさきほどまで見てきたサイバースペースの問題と密接に関係している。
サイバースペースの概念が現れたのは1980年代である。一般に「ポストモダン」と定義される時代は、その少しまえの1970年代から始まったと言われている。ここでは詳しく紹介しないが、ポストモダンとは「大きな物語」の喪失によって定義される時代である。
そしてここで重要なのは、さきほど紹介したジャンルSF史における「宇宙」や「未来」の地位低下は、まさに、時期的かつ内容的に、文学におけるポストモダン化の表れだと考えられることである。宇宙と未来の失墜、それは大きな物語の喪失にほかならない。
情報社会論、精神分析、ジャンルSFを横断するこのような歴史を描いてみると、サイバースペースという概念が、大きな物語が消えた世界において、その欠落を埋め合わせる「新しい大きな物語」の役割を果たしたことがわかってくる。
サイバースペースは、宇宙や未来の魅力が失われた時代に、新しいSFの舞台として現れた。
ひらたく言えば、現実の世界はすっかりポストモダン化し、もうだれもかつてのような大きな夢(宇宙や未来を信じる夢)はもてなくなってしまったけれど、唯一サイバースペースにだけは夢が残っている、そのように二〇世紀末の人々は信じようとしたのだ。
その幻想はいまも残っている。情報社会論では、近未来に「シンギュラリティ」が来る、新しい技術の力で人間のすがたも社会のすがたも一変するといった、二〇世紀どころか一九世紀の空想的社会主義者もかくやと思わせる「大きな物語」がまだ流通している。その類の言説はビジネス界隈ではじつに素直に受容されているが、本来はこのような視野のもとで批判的に検討されるべきである。
それは、いわば、不気味なものについての考察の、別のかたちでの表現だ。
二〇年前に論文を書いていたとき、ぼくがそこで念頭に置いていたのはじつはコンピュータのインターフェイス画面である。
コンピュータの画面には映写機もカメラも存在しない。
それでは、このカメラが欠落した状況で、いかにして同一化の二重性を確保するのか。そこでぼくが考えだしたのが、宛先の二重化というアイデアだった。図では、ひとつの世界=スクリーンのうえに、想像的同一化の対象(イメージ)と象徴的同一化の対象(シンボル)が等価に並ぶようすが描かれている。
ポストモダンの世界では、世界のカメラがなくなったかわりに、スクリーンのうえにイメージとシンボル、見えるものと見えないもの、現象とそれを生みだす原理が同時に並び立つ。
主体はそのふたつに同時に同一化する。その結果、あるときイメージのほうに同一化していたとしても、つねにシンボルへの別の同一化から介入が来るような、そのような葛藤が生じる。
図5の視聴者は、熟議する出演者のすがた(イメージ)を見ると同時に、可視化された視聴者の空気=コメント(言葉/シンボル)も見ることになる。
ニコ生の視聴において、辛辣でシニカルなコメントが流れ、出演者への感情移入に冷や水を浴びせられた経験があるひとは少なくないだろう。
図5の世界では、視聴者=主体は単純にイメージに同一化することができない。
視聴者はときに出演者に同一化してしまうかもしれないが(想像的同一化)、しかし同じ画面にはたえずコメントが流れ、そちらを読むとこんどは大文字の他者ならぬ視聴者の無意識に同一化することになり(象徴的同一化)、出演者への素朴な感情移入は壊れてしまうことになる。
このように理解すると、二〇年前のぼくが「目と言葉、イメージとシンボル、仮想現実の虚構性を伝える情報と現実性を仮構する情報とが、ともに並んでスクリーンの上に見いだされる」と抽象的な言葉で描こうとした経験が、かなり具体的にニコ生の画面で実現していることがわかるだろう。1990年代には仮説でしか語れなかったポストモダンの主体の新たな二重化が、いまでは現実に動いている。
イデオロギーのかわりにコンピュータが与えられたこの時代において、ぼくたちはどう世界と関係をもつべきか。
・GUIの開発とは、「にせもの」が「にせもの」として触られ、操作され、「ほんもの」のほうも変化させてしまう、そのような新たな世界感覚を実現するメディアの創出だったのだ。
それでは、触視的平面の出現は、ひとの政治や社会との関係を具体的にどのように変えるのだろうか。それを明らかにするためには長い論文が必要であり、まだその準備はできていない。
・だとすれば逆に、スクリーンが触視的平面に置き換えられることで、そのような人間観も変わるだろう。
それは政治や社会についての言説も変えるはずだ。
具体的には、いま記したような「見えるもの」と「見えないもの」の対立に基づく行動原理、すなわち、ひとは「見えるもの」にすぐ騙される、だから「見えないもの」について語ろうという指針そのものの有効性が失われていくのではないか。
実際、そのような現象はいまやあちこちで観察されるように思われる。
たとえば本書初版出版の数ヶ月まえ、アメリカではドナルド・トランプが大統領になった。トランプはポピュリストで、発言には性差別的で人種差別的なものが多く、政策も場当たり的で批判が多い。にもかかわらず彼は2016年には勝利を収めたし、2020年の大統領選で敗北したあとも大きな影響力を保っている。
2016年のトランプ旋風は専門家にとっても予想外の現象だった。リベラルの多くは当初、トランプの支持者はセレブで大金持ちという煌びやかなイメージ(見えるもの)に騙されているだけであり、支離滅裂な実態(見えないもの)を暴けば影響力も下がるだろうと考えた。
けれどもそううまくはいかなかった。支持者の多くはいくら真実を示されても嘘のほうを信じ続けたし(フェイクニュース)、リベラルの執拗な批判は、逆に支持者たちの側に悪質な陰謀論の流行を引き起こすことになった。
トランプは「にせもの」にすぎず、見えないところにこそ「ほんもの」があるという知識人のキャンペーンは、一方では「にせもの」でなにが悪いという開きなおりを引き出し、他方ではおれたちにはおれたちの「ほんもの」があるのだという独自の世界観を生み出す結果にしかならなかったのである。
触視的平面の時代においては、ひとは「にせもの」の彼方に「ほんもの」があるはずだと考えない。
現代は、「にせもの」が「にせもの」として触られ、操作され、加工され、多くのひとがその操作そのものに快楽を覚える時代であり、また「にせもの」を触っているだけでもいつか「ほんもの」に届くはずだと信じられる時代なのだ。
すべてが見え、触ることができるはずの時代においては、見えないものについて語る人々はむしろ信頼を失う。
そんな時代に知識人がなにを行動原理にすべきなのか、なかなか悩ましい問題だ。
これはいいかえれば、触視的平面の時代における「リテラシー」とはなにかという問題でもある。
触視的平面の時代において、そのような疑いの精神はどこにいってしまうのか。最後に短く触れておこう。
『サーチ』という映画。
同作はインターフェイスに支配された現代人の生をみごとに物語に変えていた。
けれどもこの作品で本当に驚くべきなのは、むしろぼくたちがそれを物語として読み取れることのほうだろう。さきほども記したように、この映画には画面のキャプチャしか存在しない。一時間半強の上映時間のあいだ、ぼくたちが見るのは、デスクトップのうえを動くカーソルであり、開いては閉じるウィンドウであり、スマホのうえで不可視の指がタイプする文字列である。
人間の顔が登場しないわけではない。PCやスマホに顔が映ることもあるからだ。とりわけ主人公のディヴィドは、エンジニアという職業のせいか、やたらとFaceTimeを利用する。そのため、要所要所では俳優の会話が映され、それこそがこの作品の娯楽性を支えている。
けれども、この映画では、それらの会話がいつどこで、どのような目的で行われたかを正確に理解するためには、FaceTimeのウィンドウのなかに映されたディヴィドの顔を見、会話を聞くだけでなく、付随して表示される時刻やユーザーアイコン、また並んで開いたメーラーやSNSほか複数のウィンドウとの整合性など、さまざまなメタ情報をきちんと読み取る必要があるのである。ときにはそこに重要な伏線が隠されてもおり、それは物語の最後で大きな役割を果たす。むろん観客のほとんどは読み取りを意識すらしていないだろう。けれどもその能力は映画製作の前提となっている。
もし観客が、グーグルもフェイスブックもYouTubeも、またウィンドウズOSもMacOSも知らなかったら、『サーチ』は映画としてまったく成立しなかったにちがいない。おもしろいとかおもしろくないとか以前に、そこでなにが語られているのか、観客はなにも理解できないはずだ。
このような映像作品が登場し商業的にも成功したという事実は、さきほど掲げた問いに対して重要なヒントを与えてくれる。
なんども繰り返しているとおり、スクリーンの時代の映像作品においては、観客は俳優(見えるもの)に同一化するだけでなく、カメラ(見えないもの)にも同一化しなければいけなかった。似た二重化は『サーチ』でも働いている。
ただし対象が異なっている。ここでも観客は俳優(見えるもの)に同一化するだけでは不十分である。伏線は隠れている。けれどもそれは必ずしもカメラ(見えないもの)への遡行を引き起こさない。
たとえば、ヒッチコックのスリラーではしばしばカメラワークそのものが伏線として機能しているが、『サーチ』ではそのようなことは起こらない。
そもそもこの映画はすべてが画面キャプチャによってつくられており、古典的な意味でのカメラワークは存在しない。
むしろそこで観客に求められているのは、文字や記号によるメタ情報という「もうひとつの見えるもの」の存在に気づき、それを解読し、整合性を確認する能力である。同じ画面のなかのふたつのウィンドウ、つまりFaceTimeとメーラーやSNSのあいだの齟齬が、物語を駆動する疑いの核として機能している。
ぼくは第七章で似たような齟齬についてニコニコ生放送を例に説明しているが、おそらくはこちらの例のほうがわかりやすいだろう。
触視的平面においてはすべてが見える。そして触ることができる。少なくともそうみなされている。ケイのいうイリュージョンだ。
だからそこでは、「にせもの」のむこうに「ほんもの」があると説き、後者への接触こそ重要だと説く言説は信用されない。むしろ、のっぺりと広がる「にせもの」の世界をそのまま受け入れ、そのうえで異質な論理に導かれた複数のサブ世界を発見し、それらのあいだの矛盾を探る能力のほうが必要とされる。
このことは、これからの知識人の行動原理を考えるうえで参考になるかもしれない。