読んだ。 #私の日本地図14 京都 #宮本常一 #未來社

読んだ。 #私の日本地図14 京都 #宮本常一 #未來社
 
宮本常一さんが京都の歴史や思い出などを語ってくれるのを聞いているような感じで少しづつ読んだ。
少し知っている場所もあり、GoogleMapで場所や写真を確認しながら読んだ。おもしろかった。
 
 
 
・もともと大谷というのはここではなく、知恩院のあたりで、そこに親鸞の墓があったのを、慶長八年(一六〇三)徳川家康の命によって親鸞の遺骨を二分し西大谷と東大谷に廟所をつくり、西本願寺東本願寺でまつることにしたという。
 
この寺にのぼって来る清水坂のあたりは、昔は乞食が多く、「坂の者」とよばれていた。そしてこの人たちは京都の市中へ物乞いに出、死人のある家へ出かけて葬送に加わったり、火葬を手伝ったりして、死者に供えたものや、仏事などの供養の品をもらいうけて生活し、時には盗人になることもあって、昼間はともかくとして、夜間などには寺へまいるのもおそれられた。それにもかかわらず、おこもりするものが夕刻など参拝しようとして、盗人におそわれたこともまれではなかったようである。
 
・犬神人
放免とは罪人の放免せられたもののことである。平安時代には、五月と十二月の適当な日をえらんで盗犯や私鋳銭をおこなった者を衛門府から罪状と判決の案文を書いたものを奉り、罪人を宮廷に引き出し、首に白布をまき、罪人の臂と胸背を縄でくくり、笞刑のまねをして放免する風習があった。そのとき罪人の額に犬という字を入墨することもあった
 さて放免せられた者の中には祇園の社に奉仕する者が多かった。境内や祇園祭の神幸路の清掃などにあたり、また市中に行き倒れの死者があるとその処分もした。
 
・鷺舞
鷺舞などはその一つである。鷺舞というのは鷺の姿をして舞うものである。中世の終り頃の絵図にも描かれている。しかし京都ではいつかほろびてしまっていた。ところがこの舞は山口市の八坂神社の祭にうけつがれ、さらに島根県津和野の弥栄神社の祭でもおこなわれた津和野のものは山口から習ったのであった
 山口の鷺舞は太平洋戦争の後中絶してしまって、津和野にだけそれが残った。古いおもかげを残した舞であった。その舞が今また京都でも演ぜられるようになっている。
 
京都というところは古いものをしっかりと抱きかかえて持っている。しかしそれは単に京都人が古いものにこだわっているためではない。そういうものの中にやすらぎを見出そうとする人が日本にはまだたくさんいるということであり、またそれを求めて京都を訪れる人も多い。そういう人たちに対しては京都の人も安心してつきあうことができる。田舎人たちは些細な親切にも喜ぶ心をもっている。そういうものが、京都の町の風物の中ににじみ出ているように思う。私は円山公園の樹下の置座で甘酒をすするたびに、庶民の生きついで来た古い町の心にふれるように思う。
 
法然の出現によって民衆は往生極楽の道を見つけたといっていい。言いかえれば、民衆も貴族も同等に生きる権利を持っていることの自覚である。そしてそのことによって民衆は民衆の結束の力によって生きる道を見出しはじめる。
 
京都の町の宮や寺が今日まで生きのびてきたのについても、論理や制度をこえた心情的なものが大きく支えてきていたのではなかったか。そしてその心情的なものは京都人の心の中に培われているというよりも、日本の風土の中にひろく培われているものではなかろうか。京都における八坂神社の繁栄も、地方に分布する祇園社とそれに対する信仰が下敷になっているのではなかろうか。そして生きのこれるような寺や宮は、何らかの形で、地方の民衆につながりをもっているものが多いのではなかろうかと考えてみる。
 
岡崎公園のできたのは明治二八年(一八九五)であった。その地で第四回内国勧栗博覧会がひらかれた
 
京都疏水
 
薬師寺唐招提寺などは寺へゆくと鍵を出してくれて「勝手にごらんなさい」という。その頃は寺を訪れる人は誰もいなかった。だから仏さまの前に半日すわっていてもよかった。日が暮れて来てまで堂の中にいたことがある。
 
われわれの先祖が山地に深い愛着を示したのは、一つは人の魂の帰る場所を山中と考えた人が多かったためかもわからない。日本人は死してその肉体はほろびても、魂はほろびないと考えていた。そしてその魂は山中に入ると考え、その山も吉野山とか立山とか熊野とか、そのほか、その地域では特定の山に魂のふるさとを求めていた。
 その魂はまた山を下って来て生れ出るものに入り来たると考えたらしいことは、子供の生れるとき、山へ馬をひいて山霊を迎えにいく風習をのこしているところが北陸地方にはあった。馬をひいて山中に入ってゆくとき、馬が立ちとまって身ぶるいすることがあるそうである。そのとき山霊が馬に乗りうつったと考え、そこから馬をひいて帰るのであるそして馬の背に乗った山霊は家まで
かえったとき子供のからだにのりうつるというのである
 
・今はケーブルがあるからよいが、ケーブルのなかった頃にはハガキ一通あっても細いけわし坂道を叡山(配達夫はこういった)までのほらなければならなかったそれも雪のないときはよい。雪の道をのぼるには時に死ぬ思いをしなければならぬこともあった。それでもその仕事はやめなかった。誰かがやらねばならぬ仕事なのである。それほどにしても郵便配達だけでは食えぬので、家では百姓をしているとのことであった。
 
本願寺という寺は不思議な寺である。京都の町の中に周囲を圧した規模で建てられておりつつ、京都市民にはそれほど親しまれていない。ここには東寺の弘法さんのような現象は見られない。この寺は地方の民衆の信仰に支持されている。それも多分に政策的なものがあって、東本願寺の信徒はだいたい京都から東西本願寺の信徒は京都から西というふうに区分されていて、信徒の色彩にも差が見られ、幕末の政治的な動きの中でも東本願寺は幕府西本願寺は勤皇をとなえて明治政府へも八万両を献金している。それはそのまま地方民衆の心を反映していると言ってもよかった。
 
いま栄えている知恩院なども明治初年の窮迫は甚しいものであった。明治二〇年頃、約四三万円の借金に山門を売るという話もあったという。それを信徒の寄付によって立ち直ったという。宇治の鳳凰堂が乞食のねぐらになったり、奈良興福寺五重塔が売りに出されたりしながらも、民衆がもう一度寺の方を振り向いてくれることによって生きのびてきたのである
 
応仁の乱のあとなどは、都は荒れはててしまって、公家たちで地方にゆかりのある者はそこをたよって、都を捨てた者が多かった。そしてこの町は再び栄えることはないのではなかろうかとさえ思えた。にもかかわらず、もう一度繁栄をとり戻してくる。地方に住む者たちにとっては都はあこがれの地であり、都によせる心は強かった。人びとの心の中にある都は美しくきらびやかで気高いものでなければならなかった。そして世の中がおちついてくると、もう一度目を見るような町を作りあげてきたのである。それには豊臣秀吉のような主役がいた。いま一つは地方の民衆がいた
 
・京都の市中をあるいていると実にいろいろのことを考えさせられる。考えさせられるような素材が残っているのである私が考えさせられるような素材は、京都市民にとっては、京都の過去を語りついでくるための素材でもあった書物に書いてあるものを見ればわかるというのではなく、残っているものを見て語りついでゆくとき血がかよってくる。と同時に、それを残そうとする試みもなされる。そしてそういうものを残すための講組なども見られる。残されるだけは残そうとする
 私は堀川という川を見てしみじみそう思ったのである。
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これが東京なら、埋めてしまって道路にしてつかっているだろう。道路になってしまえば語り草もきえてしまう。それは市民の中から歴史の一輪が消えていくことになるが、たとえ水がなくても川の形が残っておればいつまでも語り草になる。生活の周囲にいつまでもかわらず続く語り草のあることが人の心をおちつかせてくれる。と同時に、将来を見定める力をも失わせない
 
御所と対照的な点は、御所には堀も石垣も櫓もないが、二条城は二重の堀をめぐらし、石垣を組み、櫓をもっている(もとは天主閣もあった)。防衛の体制は完全にとられている。そして民衆を寄せつけようとしていない。これが武家の正体であったのだということを、まざまざと見せてくれる
 
・そのまえ下関で外国船の砲撃をはじめたときも、藩の命令で寺の梵鐘を供出したことがあった。釣鐘の下側を敵の方に向けておくといかにも大きな大砲を据えているように見えるというので、敵おどすために梵鐘を戦地に運んだ
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近いうちにかならずバク(幕府)がせめて来る」というのが合言葉であった。
 
天皇というものは日本中の五穀の豊穣を司る神のように思えた。つまり天皇(われわれの地方では禁裡様といった)はわれわれ農民ときわめて近い関係にある人として意識されていた。それは、はいつくばって応待しなければならない武士や大名とはおよそ違った感覚のものであり、村祭に衣冠をつける八幡宮の神主をもう少しえらくした人のように思えた
 
 
四条橋の上から見ると賀茂川は死体で埋まりそれが流水をせきとめていた。そして町には死臭がみちていた。それが六月の大雨でやっと下流へ押しながされていった。そのことについて『蔭涼軒日録』には「洛北死屍の悪を洗滌するなり、快哉」と記している。
 
法華宗は即身成仏をとき、現世を寂光土たらしめようとする現世利益を目的とした仏教であり、そのために加持祈禱もおこなった。このような現実的な宗教は京都の富有層には大いに歓迎された。
 
町民たちは町内の結束をかためるための寄合をしたり、自治に必要な費用をいろいろな名目で町民からとりたて、それを町内の普請につかったり、飲食費にあてたりした。祇園祭の山や鉾もこうした町内によって守られたのであるが、さらに、そうした町がいくつか集って町組を組織した
 なぜそういうものが必要であったのか、それは火事を防ぐためであったと思われる
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町民たちが自身の力で町を守ろうとする組織は、室町の後期には一応できあがっており、その組織を生み出していった思想的な背景に法華宗のあったことは見のがせない
 
京都という町は単に京都市民によって支えられた町ではなく、京都をとりまく田舎の人びとによっても支えられていたのである。本願寺が田舎の人たちに支えられているのもその一例であり、京都の伝統的な産業も田舎の人たちによって支えられているといっていい
 
愛宕山は火伏の神として信仰されているが、もとは山岳信仰の山であったと思われる。もと、この山を含めた一帯を愛宕郡といった。これをアタゴとよまずオタギとよんだオタギは御嶽であろうと思うオタギは神が天から天降りする山のことであり、沖縄ではウタキといっているが、本土でもオタケ、タケと名のつく山には神がまつられ、聖地になっているものが少なくない。愛宕という山もそういう山であった。
 
私は京都の町に日本海的な文化のにおいの強さを感じてきたのであるが、それはまた、武家文化とは本質的には対照的なものではなかったかと思っているそしてそれは王朝以来の文化をうけついできたものではなかっただろうか。前述の国々も近世封建制の中をくぐりぬけてきながら、なお中世以前の文化を多く残しているのは、そこに生きた人たちが京都を一つの指標としていて、古い生活態度をくずさなかったためではないかと思う。田舎者が出て来ても京都では安心して行動することができたし、また田舎風を丸出しにしても笑われることはすくなかった
 
 
和文脈と漢文脈
いまひとつ宮廷と民間をつなぐ大切な絆があった。それは仮名である。もともと中国からもたらされたものは漢字であった。だから公文書をはじめ、宮廷の人びとは好んで漢字を用いて意志伝達をおこなった。ところが宮廷人たちはその漢字の中から仮名を工夫した。和歌とよばれる文学は仮名でないと心情を十分表現することができなかったので、和歌は早く仮名を用いて表現された。その仮名を一般の文章にも用いたのは宮廷の女たちであった。女は仮名を用いて意志も感情もこまやかに表現し、多くの物語を書いた。
 漢字は宮廷の男たちと僧侶の間で用いられていた。しかし、仏教を民間の一般民衆の間に弘めようとする聖とよばれる僧侶たちは、仮名を用いて文章を書き、その表現も平易を旨とした。それが多くの説話文学を生むことになった
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そしてそういうものが全国の民衆に共通した感情と思想を徐々に形成していく固になったのではなかろうか私は明治維新の到来は一方にこのような民衆の目ざめがあり、この中軸をなしていたのが京都であったためではないかと思っている