読んだ。 #暇と退屈の倫理学 増補新版 #國分功一郎

読んだ。 #暇と退屈の倫理学 増補新版 #國分功一郎
 
 
増補新版のためのまえがき
まえがき
序章 「好きなこと」とは何か?
「カタログの中から、なんとなく自分の趣味になりそうなものを送るような人生歩んでない?」
 
23 資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのかわからない。何が楽しいのかわからない。自分の好きなことが何なのか分からない。
 そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人びとに提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。
 
24 〈暇と退屈の倫理学〉の試みは決して孤独な試みではない。同じような問いを発した思想家はかつて存在した。時は一九世紀中頃。イギリスの社会主義者、ウイリアム・モリス[1834~1896]がその人だ。
 モリスはイギリスに社会主義を導入した最初期の思想家の一人である。当時の社会主義者共産主義者たちは、どうやって革命を起こそうかと考えていた。いまでは想像もできないかもしれないが、彼らにとって社会主義革命・共産主義革命はまったくもって現実的なことだった。そして実際に二〇世紀初頭にはロシアで革命が起こるのである。
 さて、モリスが実におもしろいのは、社会主義者であるにもかかわらず、革命志向の他の社会主義者たちとはすこし考えが違うことだ。彼らはどうやって革命を起こそうかと考えている。いつ、どうやって、労働者たちと蜂起するか?それで頭の中は一杯だ。
 それに対しモリスは、もしかしたら明日革命が起こってしまうかもしれないと言う。そして、革命が起こってしまったらその後どうしよう、と考えているのである。
 一八七九年の講演「民衆の芸術」で、モリスはこんなことを述べている。
 革命は夜の盗人のように突然やってくる。わたしたちが気づかぬうちにやってくる。では、それが実際にやってきて、更には民衆によって歓迎されたとしよう。その時にわたしたちは何をするのか? これまで人類は痛ましい労働に耐えてきた。ならばそれが変わろうとするとき、日々の労働以外の何に向かうのか?
 そう、何に向かうのだろう?余裕を得た社会、暇を得た社会でいったいわたしたちは日々の労働以外のどこに向かっていくのだろう?
 モリスは社会主義革命の到来後の社会について考えていた。確かに社会主義共産主義体制は完全に破綻した。だが、それはモリスの問いかけをいささかもおとしめはしない。むしろいまこそ、この問いかけは心に響く。「豊かな社会」を手に入れた今、わたしたちは日々の労働以外の何に向かっているのか? 結局、文化産業が提供してくれた「楽しみ」に向かっているだけではないのか?
 モリスはこの問いにこう答えた。
 革命が到来すれば、わたしたちは自由と暇を得る。その時に大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ、と。
 
 
 
第一章 暇と退屈の原理論──ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
鯛を釣りたい釣り人に、スーパーで買った鯛を渡しても喜んでもらえない
 
パスカルという人
人間の不幸の原因
36 人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。
 
ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではない
38 狩りをする人が欲しているのは、「不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らせてくれる騒ぎ」に他ならない。だというのに、人間ときたら、獲物を手に入れることに本当に幸福があると思い込んでいる。買ったりもらったりしたのでは欲しくもないウサギを手に入れることに本当に幸福があると思い込んでいる。
 
欲望の原因と欲望の対象
熱中できること、自分をだますこと
もっともおろかな者
42 ――そんな風にして〈欲望の原因〉と〈欲望の対象〉の取り違えを指摘しているだけの君のような人こそ、もっともおろかな者だ。
 パスカルはこう言っているのだ。
 人間はつまらない存在であるから、たとえば台の上で玉突きするだけで(ビリヤードのこと)十分に気を紛らわせることができる。なんの目的でそんなことをするのかと言えば、翌日、友人たちにうまくプレーできたことを自慢したいからだ。
 同じように学者どもは、いままで誰も解けなかった代数の問題を解いたと他の学者たちに示したいがために書斎に閉じ籠もる。
 そして最後に――ここ!――こうしたことを指摘することに身を粉にしている人たちがいる。それも「そうすることによってもっと賢くなるためではなく、ただ単にこれらのことを知っているぞと示すためである。この人たちこそ、この連中の中でもっともおろかな者である」。
 
パスカルの解決策
苦しみを求める人間
ニーチェと退屈
46 『悦ばしき知識』
 いま、幾百万の若いヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。彼らを見ていると自分はこう考えざるをえない。彼らは「何としてでも何かに苦しみたいという欲望」をもっている、と。なぜなら彼らはそうした苦しみの中から、自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいからだ…
 
48 第一次大戦後のドイツの思想状況
 当時、大戦後のヨーロッパでは、近代文明の諸々の理念が窮地に立たされていた。それまでヨーロッパが先頭に立って引っ張ってきた近代文明は、理性とかヒューマニズムとか民主主義とか平和とか、様々な輝かしい理念を掲げていた。ところが、そうした理念を掲げて進歩してきたはずの近代文明は、おそろしい殺戮を経験した。第一次世界大戦のことである。もしかしたら近代文明は根本的に誤っていたのではないか? そんな疑問が広がった。
 
緊張の中にある生
ラッセルの『幸福論』
幸福であるなかの不幸
ラッセルとハイデッガーの驚くべき一致
55 実はこの符合は、ハイデッガーラッセルのことを知っている者にとっては少々驚きの事実である。なぜなら、二人は政治的にも哲学的にも犬猿の仲であり、まさしく水と油の関係にあるからだ。
ハイデッガーは二十世紀の大陸系哲学を代表する哲学者であり、ラッセルは二十世紀の英米分析哲学を代表する哲学者である。これら二つの傾向は今に至るまで対立し続けており、両者ともに相手を哲学として認めようとしていない。
 
退屈の反対は快楽ではない
57 「ひと言でいえば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である」
 
人は楽しいことなどもとめていない
58 幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心からもとめることができることこそが貴重なのだ。
 
熱意?
59 ラッセルが同書の第二部「幸福をもたらすもの」の中で到達する答えは簡単だ。熱意、これである。幸福であるとは、熱意をもった生活を送れることだ――これがラッセルの答えだ。
 
ラッセルの結論の問題点
61 幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味を出来る限り幅広くせよ。そして、あなたの興味をひく人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。
 
東洋諸国の青年、ロシアの青年は幸福である?
熱意の落とし穴
 
スヴェンセン『退屈の小さな哲学』
67 スヴェンセンの立場は明確である。退屈が人びとの悩み事となったのはロマン主義のせいだ――これが彼の答えである。
 ロマン主義とは一八世紀にヨーロッパを中心に現れた思潮を指す。スヴェンセンによれば、それはいまもなお私たちの心を規定している。ロマン主義者は一般に「人生の充実」を求める。しかし、それが何を指しているのかは誰にも分からない。だから退屈してしまう。これが彼の答えだ。
 
みんなと同じはいや!
スヴェンセンの結論の問題点
69 ラッセルの解決策が、広い関心を持つように心がけ、自分の熱意のもてる対象を見つけるべし、という積極的な解決策であったとすれば、スヴェンセンのそれは、退屈の原因となるロマン主義的な気持ちを捨て去るべし、という消極的な解決策である。
 
 
 
第二章 暇と退屈の系譜学──人間はいつから退屈しているのか?
「人がなぜ退屈するようになったのか」
定住するようになると、これまで狩りのために使われていた探索能力が不要となり、人間はその能力を持て余して退屈するようになった。
こうして、「退屈する」という性質と付き合う宿命となった人間。
その後、社会の発展により、「有閑階級」というものが生まれる。
 
退屈と歴史の尺度
人類と誘導生活
76 さて、この遊動生活の伝統は人類にも受け継がれた。人類は長きにわたり遊動生活を行ってきた。一か所に定住することなく、大きな社会を作ることもなく、人口密度も低いまま、環境を荒廃させぬままに数百万年を生きてきた。
 ところがその生活様式がある時に大きく変わった。人類は一所にとどまり続ける定住生活を始めたのである。約一万年前のことだ。人類は約一万年前に、中緯度帯で、定住する生活を始めたことが分かっている。
 一万年というと途方もない長さに思えるかもしれない。けれども、仮に一世代を20年とすれば(つまり平均的な親子の年齢差を20歳とすれば)、一万年前とは500世代前のことに過ぎない。親を500人ほど遡るだけで一万年前に到達する。
 二足歩行する初期人類は遅くとも400万年前には出現したと考えられている。すると人類の歴史の中で一万年とはどれほどの長さであろうか。400万年の内の一万年は、4メートルのうちの1センチに相当する。つまり、人類史の視点から見れば、人類が遊動生活を放棄し、定住生活を始めたのはつい最近のことだと言わねばならないのである。
 
遊動生活についての偏見
強いられた定住生活
定住と食料生産
遊動生活と食料
なぜ一万年前、中緯度帯であったか?
最近一万年間に起こった大きな変化
そうじ革命・ゴミ革命
トイレ革命
死者との新しい関わり方
社会的緊張の解消
社会的不平等の発生
 
退屈を回避する必要
92 定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を適度に働かせる。したがって次のように述べることができるだろう。「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである。」いわゆる「文明」の発生である。
 
負荷がもたらす快適さ
<暇と退屈の論理学>という一万年来の課題
 
遊動生活者と定住生活者についての注
96 先に紹介した村道雄『縄文の生活誌』には、当時の生活を読者にうまく思い描いてもらうために著者の岡村が創作した物語が挿入されている(ほかの部分と区別するためにフォントを変えて印刷されている)。
 同書を単なる学術書とは異なる一流の読み物たらしめているこの物語は実に興味深いものなのだが、それだけではない。岡村は定住革命を解いているわけではないが、彼が想像した先史時代の人々の生活の物語は、じつにみごとに定住革命説に、とりわけ退屈の定住革命的解釈に一致しているのである。
 どういうことかと言うと、話は実に単純であって、岡村の描く物語のなかで、遊動時代の人々は実にせわしなく働き、課題をこなしていくのに対し、定住時代の人々は実にのんびりと優雅に過ごしているのだ。
 
 
 
第三章 暇と退屈の経済史──なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?
「暇を楽しんでいたかつての有閑階級(=貴族)と現代人の違い」
 
暇と退屈はどう違うか?
104 暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇の中にいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり、暇は客観的な条件に関わっている。
 それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のことだ。
 
尊敬される”ひまじん”
107 暇のない人とは、自由にできる時間がない人、つまり、自らの時間の大半を労働に費やさねば生きていけない人のことだ。暇のない人とは、経済的な余裕のない人である。経済的に余裕がないのだから、社会的には下層階級に属する。いわゆる「貧乏暇なし」のことである。
 
有閑階級と所有権
暇の見せびらかし
顕示的閑暇の凋落
109 暇の見せびらかしが進んだ段階を、ヴェブレンは「半平和愛好的産業段階」と呼ぶ。
→賃金労働者と現金支払制を中心にした「平和愛好的産業社会」(が到来する。
→この段階に至ると、使用人集団が減ってくる。富の再配分が見なおされ、階級差は少しずつ縮まっていった。その結果として、暇の見せびらかしも有効性を失う。
 その代わりに現れたのがステータスシンボルとしての消費である。
 
ヴェブレン理論の問題点
111 「製作者本能」→有用性や効率性を高く評価し、不毛性、浪費すなわち無能さを低く評価する感覚
 
アドルノのヴェブレン批判
ヴェブレンVSモリス
 
暇を生きる術を知るものと知らぬもの――「品位あふれる閑暇」
118 暇と退屈の類型

 
ラファルグの労働賛美批判
119 ポール・ラファルグ『怠ける権利』
 マルクスの次女のラウラと結婚したことは日本でもよく知られている。
 
ラファルグの思い込み
122 だがラファルグをここで取り上げるのには理由がある。彼は余暇や怠惰と資本主義の関係について根本的な思い違いをしているからである。
 ラファルグは「資本主義文明」が大嫌いである。だから、労働者階級が労働を賛美することで、それとは気づかずに資本の論理に取り込まれていることが許せない。怠惰の賛美はそこから出てくる。労働をもとめるのではなく、余暇をもとめること。それこそが資本の論理の外に出ることだとラファルグは信じている。
 しかし、実はそれは完全に間違っているのだ。ラファルグの能天気な思い込みは、20世紀に木っ端みじんに砕け散ったと言ってよい。なぜなら、余暇は資本の外部ではないからだ。
 
労働者を使って暴利を貪るにはどうすればよいか?
123 労働者を使って暴利を貪りたいのであれば、実は労働者に無理を強いることは不都合なのだ。労働者に適度に余暇を与え、最高の状態で働かせること――資本にとっては実はこれが最も都合がよいのだ。
 
労働としての休暇
グラムシによる禁酒法の分析
127 ただしここで一方的に資本家だけを非難することで満足してはいけない。グラムシはこう言っている。そのような労働の合理化をもとめたのは決して産業家だけではない。労働者もまたこれをもとめたのだ、と。→酒におぼれることなく労働すれば、それに見合う報酬が与えられる制度が目も前に作られていたからだ。
 
管理されない余暇?
130 レジャー産業は人々の要求や要望に応えるのではない。人々の欲望そのものを作りだす。
 
自分の欲望を広告屋に教えてもらう――ガルブレイス
「新しい階級」
仕事の充実
135 「仕事が充実するべきだ」という主張は、仕事においてこそ人は充実していなければならないという強迫観念を生む。人は「新しい階級」に入ろうとして、あるいは、そこからこぼれ落ちまいとして、過酷な競争を強いられよう。
 新しい階級の子どもたちは小さい頃から、満足の得られるような職業 ――労働ではなくてたのしみを含んでいるような職業 をみつけることの重要性を念入りに教えこまれる。新しい階級の悲しみと失望の主な源泉の一つは、成功しえない息子――|退屈でやりがいのない職業に落ち込んだ息子―― である。こうした不幸に会った個人――ガレージの職工になった医者の息子――は、社会からぞっとするほどのあわれみの目でみられる。
 医者の息子が「ガレージの職工」になったとして、そのどこにどういう問題があるというのか? なぜ彼はあわれみの目で見られなければならないのか? そんな視線の持ち主の差別意識こそ、私たちはあわれみの目をもって眺めてやるべきだ。
 そして、そういう見方がまるで当然であるかのように書くガルブレイスに対しても同じことを言わねばならない。彼が「ガレージの職工」に対する自らの差別意識に気づかないのはなぜなのか? また、なぜ「新しい階級」が新しい強迫観念を生むことに無頓着でいられるのか?しかも彼は、このようにして新しい強迫観念、新しい残酷さの存在を認めたうえで、次のように述べてそこから目を背けるのだ。
 しかし新しい階級はかなりの防衛的な力をもっている。医者の息子がガレージの職工になることは稀である。医者の息子がガレージの職工になることは稀である。たとえ彼がどんなに不適格であろうと、彼はほそぼそとながらも何とか自分の階級の中にすれすれに生きることができるだろう。
 こんなずさんな主張がどうして経済学者の口から出てくるのだろうか。「新しい階級」からこぼれ落ちる人間などたくさんいるに決まっている。そしてまた、仮に「ガレージの職工になった医者の息子」がそういうこぼれ落ちた人間なのだとしても、彼はいかなる劣等感も感じる必要などない。当たり前だ。
 にもかかわらず、彼は周囲の「あわれみの目」によって劣等感の方へと追い詰められていくのだ。まったく恐ろしい事態である。そのような劣等感を生み出すプレッシャーを作り上げ、また増長しているのは、「新しい階級」が拡大していくべきだ」とするガルブレイスのような経済学者の主張に他ならない。
 あきれたことにガルブレイス本人も次のように述べている。「この階級[新しい階級]の一員が給料以外には報酬のない通常の労働者に没落した場合の悲しみにくらべれば、封建的な特権を失った貴族の悲しみも物の数ではないであろう」。その通りだ。そしてガルブレイスよ、よく聞け。君こそがこの「悲しみ」を作り上げているのだ。
 
ポスト・フォーディズムの諸問題
137 フォーディズムは高賃金によって労働者のインセンティヴを確保している。したがって、経済が右肩上がりでなければ維持できない。効率よく生産した製品が効率よく売れなければ、フォーディズムの狙うサイクルは上手くまわらない。そしてそのサイクルはもはやかつてのように回っていない。これが第一の理由である。
 第二の理由は消費スタイルの変化に関わっている。こちらの方が根源的である。
 
 フォーディズムの時代は、同じ型の高品質の商品を大量に生産すれば売れた。したがって経営者は、いかにして高品質の製品を効率よく大量に生産するかを考えたし、それを考えていればよかった。それに対し、現代の生産体制を特上づけるのは、いかに高品質の製品であろうと同じ型である限りは売れないという事態である。いかなる製品も絶えざるモデルチェンジを強いられる。モデルチェンジをしない限り製品は売れない。
 
不断のモデルチェンジが強いる労働形態
139 ここではそのような「無駄」なモデルチェンジをそれ自体として批判したいのではない。注目するべきは、このような生産体制が強いる労働のあり方である。現在の消費スタイルは生産スタイルを決定的に規定しているからである。
 モデルチェンジが激しい場合には、巨大な設備投資を行って生産することが難しい。なぜなら一度作った設備も半年後にはいらなくなるからだ。したがって機械で製品を作ることは困難になる。ではどうするか?もちろん人間にやらせるのである。もしもある程度の設備投資が可能であれば機会にやらせるであろう作業を人間にやらせるわけである。
 また、モデルチェンジが多いということは、新しい製品を出すたびごとに生産者側が大きな賭けを強いられていることを意味する。どのモデルがどれだけ売れるかは全く不透明である。したがって、安定した生産をあらかじめ予定できない。要するに、労働者を一定数確保しておくというやり方を取れない。売れたら多くの労働者が必要になるし、売れなかったら労働者はいらない。
 
〈暇と退屈の倫理学〉とハケ
142 なぜモデルチェンジしなければ買わないし、モデルチェンジすれば買うのか?「モデル」そのものを見ていないからである。モデルチェンジによって退屈しのぎ、気晴らしを与えられることに慣れきっているからである。
 
 
 
第四章 暇と退屈の疎外論──贅沢とは何か?
「浪費と消費の違い」
 
必要と不必要
150 人が豊かに生きるためには、贅沢がなければならない。
 
浪費と消費
151 浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。必要のないもの、使いきれないものが浪費の前提である。
 浪費は必要を超えた支出であるから、贅沢の条件である。そして贅沢は豊かな生活に欠かせない。
 浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物を食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費は何処かで限界に達する。そしてストップする。
 
 しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。
 なぜか?
 消費の対象が物ではないからである。
 人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費は「観念論的な行為」であると言っている。消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない。
 
人は何を消費するのか?
「原初の豊かな社会」
155 狩猟採集生活においては少ない量力で多くのものが手に入る。彼らはなんらの経済的計画もせず、貯蔵もせず、全てを一度に使い切る大変な浪費家である。だが、それは浪費することが許される経済的条件の中に生きているからだ。
 したがって狩猟採集民の社会は、一般に考えられているのとは反対に、物があふれる豊かな社会である。
 
浪費を妨げる社会
 
消費対象としての労働と余暇
159 だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。
 
ファイト・クラブ』が描く消費社会
タイラーとの出会い
 
消費社会とそれに対する拒否
166 また、彼は退屈しているが暇ではない。仕事に忙殺される毎日だ。第三章で暇と退屈を区別した図を作成したが(118)、彼が体現しているのは、暇で退屈しているのでも、暇だが退屈していないのでも、暇もなく退屈もしていないのでもない、四つ目の有り様、暇はないが退屈している人間の姿である。
 この暇なき退屈を生きる彼は、それをブランド品の消費という典型的な消費人間の行動によってやり過ごそうとしている。しかし、やり過ごすことができない。ボードリヤールが言ったように、消費には限界がないからだ。彼は消費はしていても、浪費はしていないのである。
 
(1)現実離れした消費のゲーム――ブランド狂い
(2)現実(苦しみ)のシミュレーション――難病患者ミーティングへの参加
(3)現実(苦しみ)の現前――ファイト・クラブ
 
タイラーとはだれか?
168 だが、重要なのはタイラーが消費社会の論理の外にいるわけではないということである。タイラーは「自分らしく」生きているのではない。彼は消費社会の論理にしたがったまま消費社会を拒否することでタイラーなり得ている。どういうことか?
 消費社会では退屈と消費が相互依存している。終わらない消費は退屈を紛らわすためのものだが、同時に退屈を作り出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。ここには暇が入り込む余地はない。
 消費と退屈のサイクルは繰り返される他ないが、しかし、やはり退屈なのだから、そのサイクルは最終的に拒絶反応を生む。そうして生まれるのがタイラーである。
 タイラーのような人物は目新しく思われてしまう。ノートン演じるブランド男も、最初タイラーの自由奔放さに憧れている。消費社会の特殊な抑圧のなかでは彼のような人物はカッコよく見えてしまう(ブラッド・ピットが演じているからカッコいいのではない!)。
 しかし実はタイラーは自由でも何でもない。もし彼が本当に自由であれば、彼は彼なりの新しい型の解放を積極的に考えたはずだ。だが、彼は消費社会をただ拒み、そして破壊するだけである。当然ながら、破壊の後に何が来るのか、そのときに何をなすべきなのかは、まったく考えていない。
 ではなぜタイラーは破壊にしか向かえないのか?
 彼は何か「本来的」な生があるかのように語るけれども、それが何かは全く明らかでないからである。これは消費によってもたらされる「個性」が何なのかを不明のまま「個性化」を煽る消費社会の論理と全く同じである。彼は消費社会に促されて、しかも消費社会の論理に従ったまま消費社会を拒否しているのだ。彼は消費社会あるいは消費人間が作り出したミラーイメージにすぎない。タイラーは消費社会の落とし子なのである。
 イヤになるのは消費社会はタイラーまでをも利用するだろうということだ。タイラーは遅かれ早かれ自滅する。すると消費社会は「やはり我々の側についた方がいい」と言って「ゆたかな社会」(=消費社会)を勧めてくる。さらにはタイラーの試みを商品として利用することすらあるだろう。タイラーのような消費社会のミラーイメージは、消費社会が自己の存続のために作りだしているとすら言うことができる。
 
現代の疎外
170 一般に疎外とは、人間が本来の姿を喪失した非人間的状態のことを指す。かつては「労働者の疎外」が大いに語られた。労働者は、資本家から劣悪な労働条件・労働環境を強制され、人間としての本来の姿を失っているとされた。たとえばマルクスの『資本論』を読むと、いまでは信じられないような労働条件で働く者たちの姿が描かれている。
 それに対し消費社会における疎外は、かつての労働者の疎外とは根本的に異なっている。なぜなら、消費社会における疎外とは、だれかがだれかによって虐げられていることではないからである。消費社会における疎外された人間は、自分で自分のことを疎外しているのである。ボードリヤールは次のように言っている。「[消費社会における]疎外された人間とは、衰弱し貧しくなったが本質までは犯されていない人間ではなく、自分自身に対する悪となり敵に変えられた人間だ」。
 なぜそのように言えるのか?それは終わりなき消費ゲームを続けているのが消費者自身だからである。たしかに、ある意味で消費者は消費を強制されている。広告であおられ、消費のゲームに参入することを強いられている。しかし、それは資本家が金に物を言わせて労働者に劣悪な条件で働かせる場合の強制とは異なっている。消費者は自分で自分たちを追い詰めるサイクルを必死で回し続けている。人間が誰かに蝕まれるのではなく、人間が自分で自分を蝕むのが消費社会における疎外であるのだ。
 
また彼の著作は、消費社会を巧みに演出していった資本家たちによって好意的に受け止められ、又活用されたことも指摘しておきたい。たとえば、堤清二ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』を読んで無印良品を作ったのは有名な話である。
 
疎外と本来性
171 「疎外」という語は、「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」、要するに「本来の姿」という物をイメージさせる。これらを、本来性とか<本来的なもの>と呼ぶことにしよう。「疎外」という言葉は人に、本来性や<本来的なもの>を思い起こさせる可能性がある。
 <本来的なもの>は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが<本来的なもの>と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。
 それだけではない。<本来的なもの>が強制的であるということ、そこから外れる人は排除されるということでもある。何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、人々はそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間あらざる者として排除されることになる。
 例えば、「健康に働けることが人間の本来の姿だ」という本来性のイメージが受け入れられたなら、さまざまな理由から「健康」を享受できない人間は非人間として扱われることになる。これほどおぞましいことはない。
 
疎外を再考する
ルソーと疎外
ホッブズの自然状態論
戦争状態から国家形成へ
注392 したがってこうまとめることができる。国家は現実世界では<獲得によるコモンウェルス>として生成する。そして生成した後に、後付けとして、社会契約や<設立によるコモンウェルス>といった概念をもちだして自らを正当化する。社会契約は近代的な概念だが、それ以前では神話などがその役割を果たしたのだろう。
 
ルソーの自然状態論
180 その理由は実に簡単なものである。ルソーによれば、ホッブズの言う「自然状態」は自然状態ではない。それは既に社会が成立した後の状態、要するに社会状態を描いているに過ぎない。
 ホッブズはある程度の数の人間が集団生活を送っている状態を想定している。しかし、自然状態から社会状態への移行に関して問わなければならないのは、まさしくそのような人間集団の成立なのである。
 だからこう言ってもいいだろう。ホッブズは自然状態と社会状態を描いたのではなくて、それらの名の下に、社会状態と国家状態とでもいえるものを描いていた。ルソーによれば、ホッブズは、「社会のなかで生まれた考え方を自然状態の内にもちこんで、自然状態について論じている」。
 
     自然状態     社会状態      国家状態
ルソー  善良な自然人  堕落した社会      社会契約による共同体
ホッブズ (考察無し)  万人の万人に対する闘争  社会契約による共同体
 
181 自然状態では強いものが弱い者を抑圧すると主張される。しかし、この「抑圧」という語が何を意味するのか自分にはよくわからないとルソーは言う。社会状態では暴力で支配する者がいるだろう。しかし、自然状態では隷属とか支配とかそういったものがそもそも成り立たない。
 
 所有がなければ人を隷属させたり、抑圧したりはできない。自分はこれを所有しているから、俺の命令に従うならこの所有物を分けてやろうというロジックが働かないかぎり、人を自分に従わせることはできないからだ。
 
利己愛と自己愛
182 自己愛は自分を守ろうとする気持ちであり、自己保存への衝動と言い換えることができる。ルソーによれば、人間はどんな状態にあろうとも自己を守ろうとする。危険が迫ればそれをさける。自然状態であろうともそれは変わらない。
 それに対し利己愛とは、他人と自分との比較にもとづいて、自己を他人よりも高い位置に置こうとする感情である。他人よりも優位に立ちたいと思い、劣位にある自分を憎み、優位にある他者をうらやむ、そうした感情である。これは社会状態でしか存在しない。
 
自然状態は何の役に立つのか?
185 そして何よりも重要なことは、ルソーが自然状態について、「もはや存在せず、おそらくはすこしも存在したことのない、多分将来もけっして存在しないような状態」と述べていることである。ルソーは自然状態を、かつて人間がいた状態や戻っていける状態として描いているのでもないし、これからたどり着ける状態として書いているのでもない。
 ルソーの目論見は、私たちが当然だ、当たり前だと思っている社会状態を遠くから眺めてみることにある。人間はいま社会状態を生きているからそれを疑うことができない。しかし、自然状態の話を持ってくれば、「ああ、人より高い場所に自分を置きたいという気持ちは、文明社会だから出てきた気持ちであって、人間の本能なんかじゃないんだよな」と思えるわけである。
 
本来性なき疎外
マルクスと労働
マルクス疎外論はどう読まれたか?
疎外論者たちの欲望
 
労働と仕事――ハンナ・アレント
193 言い換えれば、マルクスは労働を肯定し、かつ否定していることになる。アレントによればこの矛盾は、労働を論じた近代の代表的な哲学者たちにも見出される。そしてなぜこのような矛盾が現われるのかと言えば、近代の哲学者たちが<労働>と<仕事>とを区別しなかったところに原因があると彼女は言う。
 では、ここに言われる<労働>と<仕事>とは何か?
 アレントによれば<労働>とは、人間の肉体によって消費されるものに関わる営みである。たとえば食料や衣料品の生産などがそれに当たる。それはかつて奴隷によって担われていた。だから、<労働>は忌み嫌うべき行為であった。
 それに対し、<仕事>は世界に存在しつづけていくものの創造であり、たとえば芸術がその典型である。<労働>の対象は消費されるが、<仕事>の対象は存続する。ゆえに<仕事>は<労働>に比べて高い地位を与えられてきた。肯定的に捉えられてきたのである。
 
注397 『人間の条件』では「労働 labor」と「仕事 work」だけでなく、そこに「活動 action」を加えた三区分で、人間の「活動的生活 vita activa」を論じている。
 
アレントによるマルクスのテキストの改竄
 
マルクスにおける〈暇と退屈の倫理学
196 しかし,(ハンナ・アレントによるマルクスのテキストの改ざんについて)アレントを非難しても仕方がない。
 問題は,「欠乏と外的有用性によって決定される」という文句がアレントの目に入ってこないということだ。もうこうなると,読み間違いの問題ではない。アレントの欲望の問題である。アレントマルクスのなかに労働廃棄の思想を読み取りたくて仕方ないのである。
 
202 本来性への志向とは、もともとは公であったのに、そこから疎外されているから、本来の姿に戻らねばならなしかし、だからと言って本来性という概念を否定すると同時に、疎外の概念も捨て去るべきであろうか?
 
 
 
第五章 暇と退屈の哲学──そもそも退屈とは何か?
哲学の感動
207 ハイデッガーは哲学についてのある一つの定義を引用する。ノヴァーリスという18世紀ドイツロマン派の思想家が下した哲学の定義である。
 ノヴァーリスによれば哲学とは何か?哲学とはほんらい郷愁である、と彼は言う。様々な場所にいながらも、家にいるようにいたい、そう願う気持ちが哲学なのだ、と。
 
 少し先で、ハイデッガーはこんなことを言っている。哲学に関してどんなに広範囲のことを扱ったとしても、問うことによって私たち自身が感動させられているのでないならば、何ごとも理解はできない。結局はすべて誤解にとどまる。
 
気分を問う哲学
根本にある気分
退屈を二つに分けてみる
 
退屈の第一形式
第1形式:「何かによって退屈させられる」
※電車を待つ時間が暇で退屈だというように、何かによって退屈している状態のこと。思い通りにならない「何か」のために空虚が広がって、時間がぐずついて進まない。
 
退屈は何でないか?
気晴らしと時間
 
〈引きとめ〉
220 私たちは退屈しながら、ぐずつく時間によってひきとめられているのである。
 
〈空虚放置〉
言うことを聴いてくれない
223 物が言うことを聴いてくれない。そのために、私たちは<空虚放置>され、そこにぐずつく時間による<引きとめ>が発生する。これが退屈の第一形式「何かによって退屈させられること」において起こっていることに他ならない。
 
駅舎の理想的時間
 
退屈の第二形式
第2形式:「何かに際して退屈する」
※パーティに出ているけれど退屈だというように、何かに際して退屈している状態のこと。気晴らしのつもりが気晴らしにならず自分の中に空虚が広がって、時間がぐずついている。
 
気晴らしはどこにあるか?
葉巻と事を構えているのではなく……
 
ついに見つかった気晴らし
231 さてどうやら、この第二形式において気晴らしがいったいどこにあるのか、それが見えてきたように思われる。机をトントンと指で叩くのも、葉巻を吸うのも、気晴らしらしきものである。では、なぜそれが気晴らしとは言いきれず、気晴らしらしきものに思えるのか?
 それは、たとえば葉巻を吸うという行為それ自体がそれだけで気晴らしであるわけではないからだ。それは気晴らしの一部なのだ。どういうことかと言うと、このパーティーや私の行為のどこかに気晴らしが存在するのではなくて、実は、そこでの立ち振る舞いの全体、ひいてはそのパーティー全体、招待そのものが気晴らしであるのだ。
 私たちはこのパーティーや自分の振る舞いのどこかに気晴らしがあるものだと思い込んでいた。しかし、そうではない。実は気晴らしを探していたその場所そのものが気晴らしだったのである。だから気晴らしがはっきりと見出せないのだ。
 この第二形式は「何かに際して退屈すること」と定式化されていた。その「何か」とはこの例ではパーティーを指す。ここで私は、パーティーに際して退屈しているわけだが、実は同時にそのパーティーが気晴らしであるのだ。だから次のように言えよう。この退屈の第二形式においては、退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合っているのである。
 
第二形式における〈空虚放置〉と〈引きとめ〉
 
成育する〈空虚放置〉
235 こうして、そこにいる私自身の中に空虚が生育してくる。そう、ここにもまた<空虚放置>があるのだ。しかし、第一形式の場合とは違うタイプのものだ。第一形式の場合には、<空虚放置>は満たされることの欠如であった。単に物が言うことを聴かないということだった。
 ところが、第二の形式の場合には、単純に空虚が満たされぬままになっているということではなくて、空虚がここで自らを作りあげ、現れ出てくる。
 
放任しても、放免しない〈引きとめ〉
第二形式によって明らかになるもの
239

 
第二形式と人間の生
241 第4カテゴリーは一見すると謎めいている。けれども、実は私たちの生活において最も身近な退屈なのだ。暇つぶしと退屈の絡み合った何か――生きることはほとんど、それと際すること、それに挑み続けることではないだろうか?
 
第二形式の「正気」
241 第二形式には「安定」がある。退屈と気晴らしが絡み合ったこの形式を生きることは、「正気」の一種である、と。
 第一形式に見出されるのは大きな自己喪失である。第一形式の退屈にある人間は自分を大きく見失っている。どういうことだろうか?第一形式の退屈のなかにある人間は時間を失いたくないと思っている。駅舎で列車を待ちながら、早く電車に来て欲しいと焦っている。なぜそんなに焦るのかと言えば、何か日常的な仕事のためである。約束に間に合わない。仕事の締め切りが迫っている。そうした日常の仕事に強く縛り付けられているから、焦ってしまう。
 つまり、第一形式のような退屈を感じている人間は仕事の奴隷になっているということだ。それは大袈裟に言えば、時間を失いたくないという強迫観念に取り憑かれた「狂気」に他ならない。第一形式において人は仕事熱心で時間を大切にしているのだからとても真面目なように見える。しかし実はそうではないのだ。ハイデッガーによればそれは大いなる「俗物性」への転落ですらある。
 それに対し、第二形式においては、自分で自分に時間をとっておいて、パーティーに行くことができている。時間に追い立てられてはいない。自分に向き合うだけの余裕もある。だからそこには「安定」と「正気」がある。
 
退屈の第三形式
第3形式:「なんとなく退屈だ」
※なんとなく退屈だ。いわば全面的な空虚の中にいる状態。
 
気晴らしはもはや許されない
 
第三形式における空虚放置と引きとめ
248 何一つ言うことを聴いてくれない場所に置かれるとは、何もないだだっ広い空間にぽつんと一人取り残されているようなものである。ハイデッガーはこのことを「余すところなきまったくの広域」と表現する。
 そのような広域に置かれるということは、外から与えられる可能性がすべて否定されているということだ。外からは何も与えてもらえない。あらゆる可能性が拒絶されている。するとどうなるか?
人間(現存在)は自分に目を向ける。いや、目を向けることを強制される。ではそこに目を向けることを強制されてどうなるか?人間としての自分が授かることができ、授かっていなければならないはずの可能性を告げ知らされる。この状況を突破する可能性、この事態を切り開いていくための可能性、その先端部を自分の中に見出すことを強いられる。
 簡単に言えば、自分に目を向けることで、自分が持っている可能性に気が付くということである。
 可能性の先端部にくくりつけられ、引き止められ、そこに目を向けることを余儀なくされること。これが第三形式における<引きとめ>である。ここではそれはもはや否定的な価値をもたない。なぜなら、それは最高度に深い退屈がもたらした絶対的な<空虚放置>を打ちこわし、状況を切り開く可能性に目を向けることを意味するからである。この<引きとめ>は、解放のための可能性を教えるきっかけに他ならない。
 
第三形式と第一形式の関係
249 第三形式がもっとも深い退屈であるとはどういうことがと言うと、この第三形式からこそ、他の二つの形式が発生するのだ。これはけっして理解するに難しいことではない。
 
250 いや、そうではないのだ。本当に恐ろしいのは、「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けることなのである。私たちが日常の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだ。
 私たちの最も深いところから立ち昇ってくる「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けたくない、そこから目を背けたい……。故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈だ」から逃げ去ろうとするのである。第一形式の退屈をもたらすのは、第三形式の退屈なのである。「なんとなく退屈だ」という声から何とか逃れようとして、私たちは仕事の奴隷になり、その結果、第一形式の退屈を感じるに至るのだ。
 
第三形式と第二形式の関係
 
開放と自由
253 ハイデッガーは、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよ――これがハイデッガーの退屈論の結論である。
 
254 人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた。
 退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。これは人間の能力そのものであるのだから、けっして振り払うことはできない。したがってパスカルが言っていた通り、人間はけっして部屋に一人でじっとしていられない。これは人間が辛抱強くないとかそういうことではない。能力の余りがあるのだから、どうしようもない。どうしても「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまう。
 
 
 
第六章 暇と退屈の人間学──トカゲの世界をのぞくことは可能か?
 
ひなたぼっこするトカゲについて考える
ある物をある物として経験する
 
石/動物/人間
261 (1)石は無世界的である。
(2)動物は世界貧乏的である。
(3)人間は世界形成的である。
 
ダニの世界
吸血のプロセス
 
三つのシグナル
267 (1)酪酸のにおい
(2)摂氏37度の温度
(3)体毛の少ない皮膚組織
 
268 言い換えれば、このダニは純粋に三つのシグナルだけでつくられた世界を生きている。
 
環世界
 
ダニの驚くべき力
273 ユクスキュルは驚くべき事実を紹介している。バルト海沿岸のドイツの都市ロストックの動物学研究所では、それまですでに18年間絶食しているダニが生きたまま保存されていたというのだ。
 
時間とは何か?
274 時間とは瞬間の連なりである。
 彼はこう言う。人間にとっての瞬間を考えることができる。人間にとっての瞬間とは18分の1秒(約0.056秒)である。
 
275 映画館のスクリーンには動画が映されている。人や物はなめらかに動いている。しかし、映写機のメカニズムからわかるのは、スクリーン上ではコマの映写と暗転が繰り返されているということである。実際に映画館で映画が上映されているとき、1コマと1コマの間には、シャッターが閉じる瞬間があるのだ。要するに私たちが映画を見ている間、スクリーンは何度も真っ暗になっている。
 
ベタの時間、カタツムリの時間
 
時間の相対性
279 時間はあらゆる出来事をその枠内に入れてしまう。だから時間は客観的に固定したものであるかのように思える。しかしそうではない。むしろそのなかを生きる主体こそがその環世界の時間を支配しているのである。ダニが、ベタが、カタツムリが、そして人間が、己の生きる時間を支配している。「これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体なしに時間はありえないと言わねばならないだろう」。
 
環世界から見た空間
279 同じようなことが空間についても言える。
 
物そのもの?
ミツバチを語るハイデッガー
 
〈とりさらわれ〉と〈とらわれ〉
287 ミツバチは目の前にある蜜を蜜として受け取ることができないと言われた。ミツバチは蜜へと関係しているが、その関係の仕方は「とらわれている」。動物は衝動を停止したり解除したりするシグナルに「とりさらわれている」。
 ここまで来れば、続いてハイデッガーが何を言いたいのかはわかるだろう。人間はとらわれていない、と言いたいのである。なぜならハイデッガーに言わせれば、人間は蜜そのものを認識することができるし、蜜を蜜として受け取ることができるからである。これを拡張すれば、人間は世界のあらゆる事物を事物そのものとして認識できるということになる。つまり、世界そのものに関わることができる、と。
 
注407 二つの語に込められた価値判断は、これらの語の英語訳を見てみると分かりやすい。<とらわれ>は「麻痺状態」をいみする benumbment という語で翻訳されている。他方、<とりさらわれ>は being taken という表現で翻訳されている。
 
トカゲの環世界、宇宙物理学者の環世界
天文学者の環世界
人間と動物の違い
 
盲導犬から考える――環世界間移動について
296 人間はその他の動物とは比べものにならないほど容易に別の環世界へと移動する。ここにこそ、ハイデッガーが見落としていた、いや、見ようとしなかった人間の特性がある。
 環世界論から見出される人間と動物との差異とは何か?それは人間がその他の動物に比べて極めて高い環世界間移動能力を持っているということである。人間は動物に比べて、比較的容易に環世界を移動する。
 
環世界と退屈
297 ハイデッガーによれば、人間は<世界形成的>であり世界そのものを受け取ることができるがゆえに退屈するのだった。そしてこの退屈は人間が自由であることの証拠である。そのためハイデッガーは、人間に断固として環世界を認めなかった。環世界を生きているのは、<とらわれ>た存在である動物だと言った。
 しかし、人間に環世界を認めないというのは無理のある主張であった。人間もまたそれぞれの環世界を生きている。
 ただしここで重要なのは、人間は他の動物と同様に環世界を生きているけれども、その環世界を相当な自由度をもって移動できるということだ。人間は他の動物に比べて相対的に、しかし相当に高い環世界間移動能力を持つ。
 ならば、ハイデッガーの立論の問題点とは何か?それは、この相対的に高いに過ぎない能力を、絶対的なものとみなしてしまったことであるように思われる。そのために人間が、環世界を超越する存在として描かれることになってしまった。
 
298 では、ここから退屈について考えるとどうなるか?人間は環世界を生きているが、その環世界をかなり自由に移動する。このことは、人間が相当に不安定な環世界しか持ち得ていないことを意味する。人間は容易に一つの環世界から離れ、別の環世界へと移動してしまう。一つの環世界にひたっていることができない。おそらくここに、人間が極度に退屈に悩まされる存在であることの理由がある。人間は一つの環世界にとどまっていられないのだ。
 ハイデッガーの例を少し解説してみよう。退屈の第一形式の説明において、駅で待っていた彼は退屈したので駅舎の外に出た。そして地面に絵を描き始めた。そこに絵を描き始めたとたん、自分を支える地盤であったものはキャンバスになる。屈んで、下を向く姿勢では、地面はそれまでとはまったく違うように体験される。目で見ず、足で確かめていたものが、目の前で、視界の外まで広がっていく平面となる。道を歩く人々の顔や上半身は気にならなくなり、ただ足音や気配だけが感じられるようになる。つまり、地面に絵を描き始めたとたん、人は全く別の環世界に突入する。しかし、ハイデッガーがそうであったように、その環世界にひたっていることは難しい。とくに大人はすぐに環世界間移動能力を発揮して、その環世界を離れ、別の環世界へと移行してしまう。
 退屈の第二形式の説明で論じられた葉巻でもいい。タバコを吸う人ならわかるだろうが、喫煙の煙は独特の時間を与えてくれるものである。そのゆったりとした形状の変化はとても美しく、喫煙者はしばしばそれに見とれる。その時、時間はゆっくりと流れている。忙しく働いていた人間が喫煙するとき、時間の早さは極端に変化する。つまりまったく別の環世界へと入る。しかし、たばこの煙に<とりさらわれ>続けることは難しい。すぐに人は環世界間移動能力を発揮し、喫煙者の環世界を出ていく。
 環世界を容易に移動できることは人間的「自由」の本質なのかもしれない。しかし、この「自由」は環世界の不安定性と表裏一体である。何か特定の対象に<とりさらわれ>続けることができる人なら人は退屈しない。しかし、人間は容易に他の対象に<とりさらわれ>てしまうのだ。
 するとハイデッガーの退屈論を次のように書き変えることができるはずである。
 人間は世界そのものを受け取ることができるから退屈するのではない。人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈するのである。
 
退屈する動物
 
 
 
第七章 暇と退屈の倫理学──決断することは人間の証しか?
ハイデッガー。退屈の3つの形式
第1形式:「何かによって退屈させられる」
第2形式:「何かに際して退屈する」
第3形式:「なんとなく退屈だ」
 
人間と自由と動物についてのハイデッガーの考え
306 (1)人間は退屈し、人間だけが退屈する。それは自由であるのが人間だけだからだ。
(2)人間は決断によってこの自由の可能性を発揮することができる。
 
目をつぶれ! 耳を塞げ!
 
決断の奴隷になること
310 キルケゴール「決断の瞬間とはひとつの狂気である」
 
 「決断」という言葉には英雄的な雰囲気が漂う。しかし、実際はそこに現れるのは英雄的な有様からは程遠い状態、心地よい奴隷状態に他ならない。
 
決断後の主体
314 決断したものは決断された内容の奴隷になる。
 
第一形式と第三形式の意外な関係
決断の電車旅行
第二形式の特殊性
人間が人間らしく生きること
 
コジェーヴ――歴史の終わり人間の終わり
321 彼の仕事で有名なのは、1933年から1939年にかけてパリで行ったヘーゲルについての講義である。のちに哲学や文学の分野で大きな仕事を成し遂げる者たち(ラカンバタイユメルロ=ポンティブルトンなど)がこの講義を聴講していた。講義は後に『ヘーゲル読解入門』として出版されることとなる。
 
既に訪れていた歴史の終わり
 
アメリカ人は動物
325 コジェーヴアメリカの大量生産・大量消費社会のことを思い描いている。そこには我慢がない。望むものがすべて与えられる。しかも必要以上に与えられる。彼等には幸福を探求する必要がなく、ただ満足を持続している。そこには「本来の人間」はない。これが「人間の終わり」だ。
 人間が終わったのなら、そこにいるのはだれか?いや、「だれ」とは言うべきではない。そこにいるのは何か?
 コジェーヴによれば、そこにいるのは動物である。人間が終わった後も、ホモ・サピエンスという種は存続する。ただし人間としてではなく動物として。合衆国において実現された歴史以後の世界を見てわかるのは、歴史が終わったあと、人間は動物性へと回帰していくということである。
 たしかにこれからも人間は記念碑や橋やトンネルを建設するだろう。しかし、それは鳥が巣を作り、クモがクモの巣を張るようなものである。蛙や蝉のようにコンサートを開き、子どもの動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散する。それが<歴史以後>の動物である。
 
人間であり続ける日本人
327 だが、あろうことか、彼はこの見解をも根本的に覆すことになる。歴史以後、人間はアメリカ人になる、すなわち動物になるという見解を、彼は撤回するのである。
 その撤回のきっかけになったのが、1959年の日本訪問である。日本人を見たコジェーヴは、日本人こそ歴史以後の人間の姿だと考えるようになる。そして、日本人はすこしも動物的ではなかったと言うのである。どういうことか見ていこう。
 日本人は鎖国期に約300年にわたって、いかなる内戦も対外戦争もない時代を生きたたぐいまれなる国である。この時代こそまさしく歴史の終わりである。そこには、与えられたものを否定して前進するという歴史的発展は完全に欠けていた。なぜならその必要がそもそもなかったのだから。完全な平和であったのだから。日本は歴史の終わりをすでに体験している。
 では、歴史の終わりを体験した日本人はいったいどのような特徴を持っているか?
コジェーヴスノビズムという語をあげる。一般にこの言葉は「紳士や教養人を気取ったきざな俗物的態度」のことを指すが、コジェーヴはもっと広い意味で用いている。実質ではなくて形式を重んじる傾向。歴史的な意味や内容をすっかり失ってしまい、形式化された価値だけを絶対視する立場。分かりやすく言えば”カッコつける”ということである。
 ただし、それが日本ではにわかには信じられないほど高度に洗練されている。ご多分に漏れず、コジェーヴがあげる例は能楽や茶道や華道であるが、それだけではない。究極的にはどの日本人も、純粋なスノビズムにより、まったく無償の自殺を行うことができるとコジェーヴは言う。ハラキリ、そして「特攻」の事である。彼によれば、「この自殺は、社会的政治的な内容を持った「歴史的」価値に基づいて遂行される闘争がもたらす生命の危機とはなんの関係もない」
 武士がハラキリをすることは単に形式を重んじての事であって、それによって何か切迫する事態が解決するわけではないし、飛行機で戦艦に無謀な突入をすることは、自国の勝利を導いたりしないと言いたいのだろう。自分が犠牲になることで戦争を勝利に導き、革命を成就させることができるといった「歴史的価値」を信じて命を賭けることにこそ「本来の人間」の姿を見ているコジェーヴには、この「無償」の自殺、報酬なき自殺は目新しいものであった。
 スノビズムが支配しているのだから、日本には宗教も道徳も政治も必要ない。そうしたもので人間をまとめ上げなくても、スノビズムが最高度の規律をもたらしている。スノビズムは「戦争と革命の闘争や強制労働から生まれた規律をはるかに凌駕していた」。
 コジェーヴが言っていることに納得できなくてもいい。重要なのは彼がここから導き出した結論だ。
 コジェーヴによれば、どんな動物もスノッブではあり得ない。だからスノッブである日本人は人間である。
 するとこうなる。アメリア人はまだ「歴史の終わり」の初期を生きているに過ぎない。最近始まった日本と西洋世界との交流は後に西洋人を日本人化することへとつながるだろう。したがって、たとえ歴史が終わりを迎えようとも、ホモ・サピエンスという種が存続する限り、人間が消滅することはない。人間はみな日本人になって生き延びる。
 
コジェーヴの勘違い
330 だが、この議論には途方もない勘違いが横たわっているように思われる。その勘違いと歯「本来の人間」のイメージである。
 「本来の人間」は自らに与えられた状況を否定し、その乗り越えを試み、歴史的価値を信じて命まで賭けるらしい。だが、そんな人間が本当に「本来的」なのだろうか?
 ハイデッガーの退屈論を批判的に読解してきた私たちにとっては、コジェーヴの勘違いを位置づけることは容易だ。「本来の人間」は退屈の第三形式(したがって第一形式)において描かれた人間に対応している。彼らは決断し、自ら奴隷になる。ならば、いったいそのどこが「本来的」なのか?
 人間はたいてい第二形式の退屈を生きている。時折、何らかの原因でそれに耐えきれなくなり、第三形式=第一形式へと逃げ込む。ヘーゲルコジェーヴも、そこに逃げ込んだ人間を勝手に理想化しただけである。
 
 「アメリカ人」の動物性も、「日本人」のスノビズムも第二形式の退屈の現れにすぎない。
 
勝手な理想化
 
テロリストたることの勧め?
334 なぜ人は過激派や狂信者たちをうらやむのか?いまや私たちはこの問いに明確に答えることができる。過激派や狂信者たちは、「なんとなく退屈だ」の声から自由であるように見えるからだ。
 彼らを恐ろしいと同時にうらやましくも思えるとき、人はこの声に耐え切れなくなりつつあり、目をつぶり、耳をふさいで一つのミッションを遂行すること、すなわち奴隷になることを夢見ているのだ。
 そして、言うまでもなく、ここに言う過激派や狂信者たちの姿は、コジェーヴの言う「本来の人間」の姿にぴたりと重なる。彼等こそはまさしく、「歴史的価値」にもとづいて、与えられたものを否定し、己の命を賭ける「本来の人間」ではないのか?
 コジェーヴよ、お前は自分がテロリストに憧れる人々の欲望をあおっていることが分かっているのか?お前の壮大な勘違いは決して無垢ではあり得ないのだ。
 
355 すると人間にとって、生き延び、そして、成長していくことは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ自分なりの安定した環世界を、途方もない努力によって、創造していく過程と言った方がよいだろう。
 はじめて保育園や幼稚園まるいは学校といった集団生活のなかに投げ込まれた子どもは強烈な拒否反応を示す。それは、それまでに彼ないし彼女が作り上げてきた環世界が崩壊し、新しい環世界へと移行しなければならないからである。これは極めて困難な課題である。だからしばしば失敗も起こる。
 
肝試しと習慣
337 しかし、ひとたびそこに住み始めるなら、毎日の見慣れた風景にいちいち反応したりしない。周囲の環境をシグナルの体系に変換していくとはそういうことである。
 なぜこのような変換が行われるのだろうか?新しいものに出会うことは大変なエネルギーを必要とするからである。毎日、目に入ってくるすべてのものに反応しているととても疲れてしまう。習慣はその煩雑な手続きから人間を解放してくれる。
 
注410 最近の研究では自閉症者が独特の環世界を生きていることが明らかになってきている。たとえば、シャワーの一本一本が肌を刺すように感じる。周囲が同でもいいと思っている情報が気になってしまい、本題に入れない等々。彼らはしばしば習慣に強く固執することが知られている。自閉症と退屈の関係についてはここでは問うことができないが、重要な問いであると思われる。
 
考えること
339 しばしば世間では、考えることの重要性が強調される。教育界では子どもに考える力を身につけさせることが一つの目標として掲げられている。
 だが、単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。
 人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が予想できないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっているのは必然である。
 
ドゥルーズにおける「考えること」
ハイデッガーの生きた環世界の崩壊
快原理
人間らしい生からはずれること
人間的自由の本質
 
 
 
結論
一つ目の結論
 
スピノザと分かることの感覚
352 人は何かが分かったとき、自分にとって分かるとはどういうことかを理解する。「これが分かるということなのか…」という実感を得る。
 
なぜ結論だけを読むことはできないか?
二つ目の結論
楽しむための訓練
日常的な快
再びハイデッガーについて
 
消費社会と退屈の第二形式
359 人間であるとは、おおむね退屈の第二形式を生きること、つまり、退屈と気晴らしとが独自の仕方で絡み合ったものを生きることであった。そして、何かをきっかけとしてその中の退屈がせり出してきたとき、人は退屈の第三形式=第一形式へと逃げ込むのだった。
 ならばこう言えよう。贅沢を取り戻すとは、退屈の第二形式の中の気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり、人間であることを楽しむことである、と。
 
 この第二形式という概念を使えば、消費社会についてもさらに別様の定義が可能である。つまり消費社会とは、退屈の第二形式の構造を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる社会だということができる。
 人間はおおむね気晴らしと退屈の混じり合いを生きている。だから退屈に落ち込まぬよう、気晴らしに向かうし、これまでもそうしてきた。消費社会はこの構造に目をつけ、気晴らしの向かう先にあったはずのものを記号や観念にこっそりとすり替えたのである。それに気がつかなかった私たちは、物を享受して満足を得られるはずだったのに、「なんかおかしいなぁ」と思いつつも、いつの間にか、終わることのない消費のゲームのプレイヤーにさせられてしまっていたのだ。浪費家になろうとしていたのに、消費者になってしまっていたのだ。
 人類は気晴らしという楽しみを創造する知恵をもっている。そこから文化や文明と呼ばれる営みも現れた。だからその営みは退屈の第二形式と切り離せない。ところが消費社会はこれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造を作り出した。消費社会のために人類の知恵は危機に瀕している
 
モリス、芸術、社会変革
三つ目の結論
 
〈動物になること〉の日常性
363 人間は高度な環世界間移動能力をもち、複数の環世界を移動する。だから一つの環世界にとどまること、そこにひたっていることができない。これが人間の退屈の根拠であった。
 だが人間はその環世界間移動能力を著しく低下させるときがある。どういうときかと言えば、それは、何かについて思考せざるをえなくなった時である。人は、自らが生きる環世界に何かが「不法侵入」し、それが崩壊するとき、その何かについての対応を迫られ、思考し始めるのだった。思考するとき、人間は思考の対象によってとりさらわれる。<動物になること>が起こっている。「なんとなく退屈だ」の声が鳴り響くことはない。
 しかし、思い出そう。習慣という人間の環世界を大きく支配するルールを分析して分かったのは、環世界の崩壊と再創造は日常に起こっているという事実だった。そう、現実は刻々と変化するのであり。まったく同じ習慣を同じように適用することで生きていけるはずがない。人は日常的に環世界を再創造している。
 ということはつまり、私たちは実は日常的に<動物になること>を経験していることになる。それは決して特別なことではない。それに、考えてみればそれも当たり前ではないだろうか?退屈している状態にどっぷりとつかり続けることはむしろ困難である。「なんとなく退屈だ」の声は、ふと聞こえるのであって、その声が絶え間なく耳元で大音量で流れている状態など考えられない。<動物になること>はありふれているのだ。
 
楽しむことと思考すること
 
待ち構えること
366 思考は強制されるものだと述べたジル・ドゥルーズは、映画や絵画が好きだった。彼の著作には映画論や美術論がある。そのドゥルーズは、「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか?その努力はいったいどこからきているのか?」という質問に答えてこう言ったことがある。「私は待ち構えているのだ」。
 ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。<動物になること>が発生する瞬間を待っている。そして彼はどこに行けばそれが起こりやすいのかを知っていた。彼の場合は美術館や映画館だった。
 
 自分にとって何がとりさらわれの対象であるのかはすぐには分からない、そして、思考しないのが人間である以上、そうした対象を本人が斥けていることも十分に考えられる。
 しかし、世界には思考を強いるものや出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』結論だ。
 
〈暇と退屈の倫理学〉の次なる課題――暇の「王国」に向かって
368 さて、本書にとっての最初の問いは、どうしても退屈してしまう人間の生とどう向き合って生きていくかということだった。それに対し、<人間であること>をたのしみ、<動物になること>を待ち構えるという結論が導きだされた。
 
 退屈と気晴らしが入り混じった生、退屈さもそれなりにはあるが、楽しさもそれなりにある生、それが人間らしい生であった。だが、世界にはそうした人間らしい生を生きることを許されていない人たちがたくさんいる。戦争、基金、貧困、災害――私たちの生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ち溢れている。にもかかわらず、私たちはそれを思考しないようにして生きている(ドゥルーズはこう言っている。「私たちは、自分の時代と恥ずべき妥協をし続けている。この恥辱の感情は、哲学のもっとも強力な動機の一つである」)。
 退屈とどう向き合って生きていくかという問いはあくまで自分に関わる問いである。しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。それは<暇と退屈の倫理学>の次なる課題を呼び起こすだろう。すなわち、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いだ。
 
あとがき
付録 傷と運命──『暇と退屈の倫理学』新版によせて
418 すると、<現象>とそれを経験する<自己>という二項図式そのものを、予測モデルの再現性の度合いという考え方から再定義できることが分かる。どういうことかというと、自己と非自己の境界線そのものが、この度合いによってきめられているのではないかということだ。おそらく、予測モデルが立てられる現象の中で、最も再現性の高い現象として経験され続けている何かが、自己の身体として立ち現れる。小児科医の熊谷晋一郎は、これを次のように説明している。「世界体験の中で次々に立ちあがる事象のうち、最も再現性高く反復される事象系列群こそが、「身体」の輪郭として生起する」
 
 これは別に難しい話ではない。たとえば赤ちゃんは最初、うまく自分の身体を扱うことができない。おしゃぶりしたいものを手にとる事ができても、それをうまく口に運ぶことができない。どのように動かそうとするとどのように動くのかを教えてくれる、「自分」の腕の反復構造についての予測モデルが、まだ形成されていないからである。そのような状態では、「自分」の身体が高いサリエンシーを持っている。
 「自己の身体」がサリエンシーへの慣れのメカニズムの中から生起するのだとしたら、それに対応する「自己」もまた同じメカニズムから生起するものと考えることができるだろう。これについては、ごく簡単に抑えておくにとどめる参考になるのは、ジル・ドゥルーズフロイト精神分析理論を修正・発展させつつ提示した自我のモデルである。
 フロイト精神分析は、エス/自我/超自我という三つの構成要素からなる精神像を描き出した。大雑把に言えば、エスは生命としてのエネルギーそのものであり、自我はそこから析出される形で現れる、意識の担い手であり、超自我はその自我を監視する、良心や理想の担い手である。ここではその厳密な定義を検討する必要はない。問題はドゥルーズによるその批判的再検討の方である。
 ドゥルーズはこのモデルについて、これは精神生活を大局的に、つまりマクロ的に捉えたときに見出されるものに過ぎないと考えた。すなわち、それはミクロな水準で起こっている無数の出来事を、大雑把に――今の言葉で言えば「ざっくりと」――まとめ上げた時に取り出せる傾向に過ぎない、と。
 ならば、ミクロな水準で起こっていることとは何か?ドゥルーズによれば、いわゆる自我がエスから精製したとみなされるよりも前の段階では、エスの中に、複数の刺激がもたらす複数の興奮と、その興奮を「拘束」しようとする複数の作用のみがある。やや専門的な話になってしまうが、「拘束」とは精神分析の用語で、興奮が流出するのを制限する精神作用のことを指す。興奮を抑えようとする働きと考えればよい。これは、本校の議論に置き換えれば、サリエンシーへの慣れに対応する。また、精神分析の権威ある時点によれば、興奮を抑える「拘束」の作用は、「表象を相互に結合し、比較的安定した形態を構成し維持しようとする」ことで行われる。比較的安定した形態の構成・維持とは、本稿で言う予測モデルの形成に相当する。
 ドゥルーズによれば、こうして拘束された興奮一つ一つが、人間を根本から駆動する欲動となる。つまり、単数形のいわゆる自我が生成するより前の段階では、刺激による興奮を拘束することで発生する欲動が無数に存在している。つまり、一つの自我があるのではなくて、無数のミクロな自我があるということである。いわば、つぶつぶ状の自我群である。それらのつぶつぶがマクロ的に統合される限りで、いわゆる自我は存在する。
 環境やモノや他者を経験する自己及びその身体は、最初から存在しているわけではない。まず自己があって、それが環境やモノや他者と言うサリエンシーを経験するのではない。自己そのものがサリエンシーへの慣れの過程の中で現れる。「自他」という言葉を使って説明するならば、これはすなわち、<他>への慣れが行われる過程において<自>が出来上がることを意味する。サリエンシーという<他>に対する慣れの過程が<自>を生み出す。