読んだ。 #我々の文化闘争と労働者自主管理の可能性 南大阪は炎えている  #総評全金山科鉄工支部 #山科鉄工自主管理研究会

読んだ。 #我々の文化闘争と労働者自主管理の可能性 南大阪は炎えている  #総評全金山科鉄工支部 #山科鉄工自主管理研究会
 
栄哲平さんの「我々の文化闘争 南大阪を民衆の文化闘争の砦に」という文章の存在を知り、検索してみたらこの小冊子がみつかった。読んでみたら、それ以外のところもとてもおもしろかった。
 
 
どうやらこの小冊子を発行したのは、1976年に倒産した、大阪西成の山科鉄工というブレス、シャーリング工作機械の組立、販売を業種とする町工場で働いていた人たちが、経営者たちの都合で工場を倒産させたのは納得いかない!ということで、35~40人くらいの労働者たちが工場に残り、占拠し、「労働者自主管理」という形で仕事(闘争)を続けている最中に自主制作したものらしい。
 
一部の文章は社会主義運動的な雰囲気があるが、インタビューに答える労働者たちは気さくで、当時の現場の様子や雰囲気が伝わってくる。大変そうな状況ではあるが、彼らの生き生きとしたエネルギーを感じ取ることができ、読んでいて楽しい気持ちになる。
どうやら経営者や事務、営業の人たちは工場から去ってしまったらしく、工場で機械をつくていた人や、スクラップ作業をしていた人たちだけでやっているようで、経理とか慣れないことをやってます、とか、営業先の中小企業のおやっさんが恐いです、とか、やってみたら 「全員一律」の発想では無理やわ、とか、労災とかもやらんとあかんし、とか、田舎にいたときは背が低かったけど、西成に来たら背が伸びた、やっぱり西成は住みやすいんだナ!とか、おもしろい。
 
栄哲平さんの「我々の文化闘争 南大阪を民衆の文化闘争の砦に」では、
大阪は東京に対抗しての、大阪の地方性たとえば道頓堀は「コテコテ」一色に彩られながら多様な色合いを喪失)でしか自らの文化を捉えず、自らの中央性を曖昧にしてきたことで大阪文化の停滞を起しているのではないか。
大阪の中央性とは、大阪が、沖縄、奄美、九州、四国と西日本の各地から、農村を追われ、炭鉱を追われ、集団就職で、首切りによって、この大阪に来ざるを得なかった人間の集まりであるということ。
大阪の文化は、このような民衆が大阪を最終的な所とし、そこに活路を求め、自らを賭けてやり合う中で育んできたものであり、昔から大阪に住んでいる人間だけによって創られ、大阪という地方に昔から存在するものではない。
大阪弁で、その地方の言葉を馬鹿にされ、大阪弁を使わされてきた人間が、必死の思いでそのくやしさを怒りを大阪弁を使う事によって表現し勝負してきた。そういう民衆の思いの込められた言葉としての蓄積こそが、大阪弁を迫力ある言葉として響かせているのである。
大阪の文化の中央性とは、大阪の地元の人間や自称文化人、知識人、まして関西財界などが形成してきたものでは断じてない。
 
、というような感じで書かれていて熱い。1979年発行。
 
 
 
 
 
我々の文化闘争と労働者自主管理の可能性
南大阪は炎えている
 
総評全金山科鉄工支部
山科鉄工自主管理研究会
 
 
もくじ
(1) 労働者自主管理とめざすべきもの・・・・・・2
(2) 労働者自主管理の可能性・・・・・・6
(3) 自主生産下、営業活動の中から・・・・・・11
(4) 昔 筑豊、 今南大阪で・・・・・・12
(5) 支部機関紙より・・・・・・13
(6) 我々の文化闘争
南大阪を民衆の文化闘争の砦に・・・・・・18
(7) 総評のエライさんは現場を知ってへん 〈大阪、西成・下町工場〉・・・・・・23
 
 
 
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労働者自主管理とめざすべきもの
1 大阪西成にある山科鉄工は、ブレス、シャーリング工作機械の組立、販売を業種とする典型的な町工場である。
 七六年十二月、企業倒産した。山科の倒産は、 「破産」であり、言うまでもなく企業の消滅が意図されている。また、倒産時、企業の財産という財産は、不動産、有体動産を問わず全てが、販売、 金融双方を通じて支配力を有していた商社の法的手中に渡ってからの倒産であ った。会社の財産は何も無い実に見事な倒産であった。工場占拠=自生産を通してしか、闘いの展望はなかったのである。
 
「自主管理」下と〈企業〉活動上 との労働生産性〟とは
2 中小零細町工場に働く私たちは、感覚として、ある種の「劣等感」を持っている。 「どこに勤めているのか?」と問われた時、役所なり大企業の労働者とはおそらく違うであろう感覚を持つ、企業を通して人間を観る社会的評価、位置の問題であろう。こういった「劣等意識」を、物質的充足、表面的体裁で「克服」しようとしてきたのが私達である。自家用車、マイホームを獲得することで自らをなぐさめてきた。経済闘争で、一定の馬力を身に付けていたのも、かかる背景は小さくない。<ゼニ>を通してこれの生活の向上を達成しようとしてきた。職場討議の場で最とも、活発な議論となるのは、賃上げ、一時金の配分方法をめぐっての議論をする時であった。外に向けた企業規模の劣等意識は内に向けては、熾烈な形で格差、競争を要求する。 かかる関係の中で、ある者は、役職者への道を必死に昇りつめて行き(数年前まで組合役員はその踏台であった)またある者は、上昇していく可能性すらほぼ無い。後者は、肉体労働でつかれた体を、立ち飲み屋でウサばらしをして日を送 った。生産性と競争を基調とした職場における資本主義の管理秩序である。 現在三五名の仲間が闘いを続けているが三五名が三五様の<生活><体験>を持っている。ひとことで「団結」と語る事はむなしさしか残らない。
 倒産を契機に開始されたという強いられた中であれ、労働者自主管理の意味は労働者が如何なる主体へと自らを変革するかであり、また過去の職場秩序をどうかえることができるかというところにあるだろう。
 
3 私たちは、現実に労働者管理を続けている訳だが、争議が拡大、増加されようとも、それが直接、 資本主義体制に肉迫すると思っていない。また、倒産―破産―労働者管理の過程で、敵との対決、仲間との関係とさまざまな機会に労働者は鍛えられ、未知の体験をするが、問われる事は、それから何を教訓とするかであろう。
 労働者管理の「企業展望」は経済的基盤それ自体が弱いし、資本主義の波に包囲される運命はむしろ可能性として大である。まして労働管理の経済的内実は販売の領域、生産過程、資金調達等で極めて困難さを伴う恵まれない条件下の苦闘は、 企業消滅を一定遅らせる程度の意味合いとして終る危険性も常にはらんでいる。
 「倒産反対」「解雇反対」 「労働債権確保」とのタテマエ的スローガンは決定的に無意味であり、現状を打破していくための労働者の意識性としては何の活力にもなり得ない。
 労働者管理の目的を、「企業」の再建にあるのか、労働債権の獲得にあるのか、生産過程を労働者自身が管理することに求めるか、きっ ちり整理する必要がある。何が条件で、何が本質かを。
 労働者管理下、生産活動は重要な闘いの位置を占める。が、争議を維持するとの名目で生産性がともすると優先される。また、無意識でいるとそういった生産性意識なり<企業>的活動が日常的には必らず勝ってくる。労働組合が資本主義のただ中で<企業>活動を展開することの現実は決して甘くない。労働者管理は、経済的に常に圧迫されながらの生産性の維持と、本来追求されるべき課題との間で、常に内部では対立関係として日常的に提起されざるを得ないのである。
 同時に、経営者がいない現実から、かつて経営者との関係で解決してきたこと、労働者個有の回路なり領域で解決すべき課題を、敵を設定することで「克服」してきた過去の不充分性などが、労働者管理に はモロに反映される。
 
分業の固定化を変革し労働者を多能工化する
4 ある破産―労働者管理を闘った先人達の組合に、会社が生きていた時、接待の茶を出すのが仕事の婦人労働者が、それだけしか知らな かった訳だが、自主管理の中でそれだけでは通用しなくなった話を聞いた。
 私たちの職場でも同様の事はある。 ある若年労働者は、機械のサビ落としと、ニス塗りを入社以来五年間、毎日やっていた。機械出荷の整備作業である。資本の生産主義に基づく「職人」か「素人」かが分岐となった分業であり、その固定であったのだ。労働者管理になって現実にそれでは済まなくなった一面もある訳だが、彼は今、多方面の作業に参加し、自らの技術の練磨に励もうとしている。また、現実に今述べた労働者と同じく「職場配転」は少なくない。一〇名程いた鋳造工場は残念だが今 「操業停止」している。現在、熔接あるいは機械組立に「素人工」として加わっている。確かにそれは倒産により強いられた結果であり、「職業訓練所」的要素も否定できない一面を持っ ている。しかし、その中で個々の労働者が労働の意味を問い、あり方を問う中から、自己の可能性をより拡大し、力量を高める労働のあり方を追求すべきであろう。
5 私たちの職場は、いわゆる「鍛治屋」である。生産過程は前近代的要素が多く残っている。 機械納期の厳しい受注を余儀なくされている労働者管理下の「企業」にとって生産性は簡単に否定できない深刻な問題である。労働の意味を問うと言っても決してバラ色ではない。 かかる生産性は、熟練工、非熟練工の関係にも深く係わる。 数年前までは「仕事を覚えたかったら、職人の仕事を見ておぼえろ」と言われ たものだ。 技術も「私的所有」であって、教えてもくれない。それは変形されているが本質は今も引き継がれている。 例えば、前述の単調な労働を強制され、そ れにあまんじていた労働者と、その強制が企業命令であったとして直接指揮した者(組合員)との関係性は本質的には企業命令に基 づく支配的管理である。その指揮が生産性を確保するためやむを得な かったのか、それを通じて指揮した者の企業忠誠であるのか。 労働者管理下になっても同様の問題を引き継いでいる。その矛盾は対立的要素として克服され、見つめ直さねばならない。熟練、非熟練の関係はそれにとどま らない。 アフターサービス等そうである。 絶対に技術習得者が必要なのである。労働密度、労働時間の格差となって現れてくる。 更に賃金のあり方に開係してくる。 「全員一律」 「最大限の平等」の発想では決定的に限界なのだ。かつて資本に対し、戦術的有効性はあったことは確かだが、立て前としての団結は、労働者管理下、百害あって一利なしである。 労働者の意識の中に「奴よりも俺の方が仕事はできる」の感情は確実にある。そこを徹底的に点検せ ねばならない。労働者の中にある資本主義的要素は労働のあり方、労働者の関係のあり方の中で検証され対立を通してしか打ち破れない。それは長期争議をどう支えるのかということとあくまで別枠なので ある。
 
労働者管理の内実を問う労働災害問題
6 私たちは、事務系労働者に対し何か反発を感じ、逆に現業労働者としてある種のほこりを持ってきた。 しかし、私達の職場では次の様な例がある。現業労働に属していた者が、現在、生産の工程判断の任務に付いている。彼は、生産工程の情況把握、人の配置指揮が仕事であるにもかかわらず、ともすると自分だけで動いて全てを処理しよう とする。彼自身は仕事をサボっている訳でも何でもない。むしろ人を動かす立場が故に気も使い率先してやっている。 問題は、率先してやる、仕事はまじめだと言う事と、全体=労働工程をどう指導し、管理するかは決定的に別なのである。
 また、一方で彼しかできる者は居なかった訳だが、元鋳造工であった者が今ネクタイと背広に着換えて機械営業に走っている。 彼は仕事 を通して「世間は厳しい」と言っている。 時々俺も現場に帰りたいと言う。知識、決断力、己れひとりの力量がモロに問われる世界である。 私達は、彼らを通して事務・営業労働の厳しさをこの間知ってきた。
 
7 労働者管理の内実を問う基準となるのは労災問題である。なぜなら、労働者管理の中で労災被災者の職場復帰を如何に位置付け準備するかは労働者管理を続けるうえでの力量と質を問われる問題だからである。私が知っている限り、労働者管理を進める組合にその事が準備されているのは見られない労働者管理の企業は運転資金に追われて経済的基盤が弱いということに問題をすり変えてはならない。問題なのは私たちの発想の枠である。私たちの描く労働者像は肉体的にたくましい労働者なり、それに近い者をイメージするだけである。そ の枠を越えるところはない。その事を考える事すらない。この様な現実をふまえつつも労災被災者の職場復帰の場の提供を行なわなければ ならない。
 労働運動は大きな転換をしなければならない。現在言われている労働者自主管理は資本主義社会の中で倒産企業という限定されたものである。そこで何をするかは社会主義なり、めざすべき社会に向けた、 ひとつの実験である。
(労働情報 第35号より転載)
 
 
 
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労働者自主管理の可能性
1⃣
私達の労働組合は、南大阪のなかで企業倒産下、労働組合によって自主生産を続けてい る、いわゆる「長期争議組合」である。
 南大阪は、古くは戦前の港南労働運動の時代より戦闘的な労働運動として、その伝統を語られてきた地域で あり、今日においても全国的に一定の注目を 集つめ、評価も受ける運動を経承している。
 我、組合が、三年にもわたる工場占拠―自主生産を維持できてきたのも南大阪の地域性を抜きに考えることはできない。が、私達が、具体的に自主生産を展開する立場で考える時、今一度「南大阪」を対象化する作業の必要性 を痛感する。又、その事は、全国的な注目なり評価に対し直接的に受けいれることの出来ないある種の異和感を持つことにも関連するのである。
 労働運動の右傾化なり混迷が語られてすでに久しい。 南大阪の実績の強調なり、その事を通じ、全国的な「左派」労働運動の結集という方向性のみが、右傾化・後退をする労働運動に対抗する勢力を創くり出し、現状を突破する力量を身に付ける決定的な鍵を持つとは考えられないからである。
 現下の労働運動は、左右の対立といった皮相なところに本質的問題があるのではなく、優れて労働者の主体的な領域に関わる問題だからである。
 
2⃣
 南大阪には確かに多くの優れた闘かいがある。先日もひとつの争議が終結した。 日本における有数の大独占の下請系列企業の閉鎖の攻撃に対し、長期の抵抗闘争を堅持し、独占を引きずり出し、謝罪さすことに成功した。闘いの結果が、企業再開を計ることが出来ず、銭の解決に終わったとしてもそれは個々の争議の条件性に深く規定される訳であり闘いの意味なり成果をその結果でもっていささかも軽ろんずる必要はない。
 しかしながら、ここで絶対に見逃がしてならない問題は、闘かいを通じ獲得された成果 (銭)は、無条件に個々の労働者に分配され、 個人的な「自由」の中で消費される過程に対しては絶体的な前提の如く考えられている事である。
 個人的な消費過程は、素直なところ物質的充足に当てられ、個々に分散するのである。集団として共同で運用するという事は、実践はともかくとして、発想の域であれ、課題となっていないのである。
 資本主義とは、獲得した資本の価値の増殖過程を知る者が、その過程に自己の運動を賭ける、いわば、その「成功者」が支える歴史であると言えよう。
 生産者としての労働者は、 それに対し、何をもって答え、対抗し、 生産するのか? 少くともその事が問われる段階であることは事実である。
 私達の労働組合で、「闘かいの意義はよく解っているつもりだが、 やはり経営者が居る企業の方が安心できる」との言葉を残して去っ労働者を多く見てきた。
 又、隣接する造船所から大量の失業者が生み出された。この大量の失業者は、「特定不況業種」に基づく行政の雇用 (失業) 政策により二年以上にわたる失業給付に生活の糧なり活路を得ている。社宅を例にとれば、アルバイトで出勤するのも隣人にかくれて行くと聞く。かつての仲間が職安に「密告」するからである。労働者世界の悲劇の側 面である。
 職場を失う代償として得た、「生きた企業」への再就職、数百万程の、数年間の失業給付に賭けざるを得ない事実は、かかる労働者の「弱さ」を言うのは簡単である。 が、その事は社会的構造に根ざしているのであり、資本主義の矛盾を説くことのみでは決定的に無力である。
 労働者が労働組合より、経営者が厳として存在する企業の「安定性」を選択し、金銭的手段に、ささやかな安住を求める背景は、集団としての労働組合の中に未来を賭けることが出来ないという決別の表現である。
 労働組合に、銭を獲得する組織としては体験も実感も持ち得ても、それを越える領域では歴史的に体験すらないのである。
 資本に対する抵抗闘争のみの限界はよく語られてきた。労働組合が、敵の動向なり攻撃に抗する陣型は堅持しながらも、かかる関係とは自立したところで集団としての方向性の中に一歩進まねばならない。
 労働運動として他に替るべき闘いを続ける南大阪の、その闘かいの依拠する基盤は、思想的にも社会的にも決して問題のないものではない。
 
3⃣
 南大阪、特に我西成は、労働者の街である。鉄を中心とした中小零細企業の密集する工場街である。
 その街も、近年大きく変わりつつある。企業基盤の安定した企業はいち早く堺、泉州、大阪南港へと移り、跡地にも住宅が建つ。 中小企業にも貫ぬかれた日本における鉱工業の縮図とでも言える。
 私達は、時代の急速な移り変わりの中で、「倒産企業」として身をさらして生きている。労働運動以前の問題としてかかる企業状況の変化の影響は小さくない。
 かつて、集団就職で多くの青年労働者を毎年迎かえることで企業の成長と安定を実感し、その中に、己の生活と安定と成長を夢みて来た。そして先輩職人の「技術は盗んで憶えろ」という世界で、自らの夢の実現を盗んでも仕事を修得した。それが明日への活力でもあった。
 今、かかる活力なりダイナミックさは急速に無くなりつつある。「倒産企業」ということだけでは決してない。
 企業基盤の低下は別としても、労働運動のかかる過程で、「やってきた事」は負の意味で小さくない。
 技術修得の活力は、労働の成果=賃金の平準化で消え去り、ある意味で否定された。 「団結」という大義の中で、生き生きとした個々のエネルギーは良い意味での競争関係をも排除し、個性のぶつかり合いを無くし消えた。逆に負の側面で組織依存的関係、なれ合いをも生んだ。
 労働組合は、言うまでもなく敵との関係に位置する闘争組織である。
 
 
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が、闘争組織であることでもって、敵と闘っているという立場からのみで全で了解され完結するという一面的とらえ方では、多くの問題から素通りしてしまう危険性を常にはらんでいる。
 「天下国家を論じ」 「闘争的言葉」をより多く有する者が、有能な「指導者」「活動家」であると言った固定的な評価基準がある様な気がしてならない。 地域狭しと飛びまわっている労働者が優れた部分であるかの如き見方も又根強くある。 経済闘争から政治権力闘争へとの定式があり、その固定的発想が背景にある。かかる発想の狭さなり固定化は、人間関係のあり方、交り方を恐しく固定化し集団のはらむ可能性を縮める。
 「奴はうまいことしゃべれる」「俺はよう分からんし、まあ仕事だけをまじめにやるわ」との言葉は、そういった関係のあり方の証しで
定的な地平での選択である。
 集団を構成する個々の労働者は、それぞれが違った生きてきた歴史を持っているし、又、家族をはじめとした社会的な諸々の関係の中で生きている。闘かいに立つ回路は多様であり、求め実現したい夢も又違うのである。かかる違いを交ささせ、ぶつけ合うことを通じ個々人の可能性を開発するところに集団の意味はあるのである。そして社会的関係の中で労働者が何を創り出しうるのか、といった闘いの 方向性が考えられねばならない。
 
4⃣
 私達は、倒産破産以降すでに丸三年にわたって自主生産を続けている。
 そして現在、大きな転換点にたったと実感している。 企業倒産なり敵の攻撃に対する闘かい、強いられた自主生産から<闘い方><生 き方><飯の食い方>を共有しうる、そしてその事を獲得する場とし ての自主生産への移行である。
 この間の過程は、第一に、素朴なところでの職場防衛、その基盤としての工場占拠、第二に、資本の組合つぶしに対抗する 「反合理化闘争」であったといえる。
 かかる領域ではとらえきれない段階に嫌が応でも立ったのである。
 自主生産で得た収入は如何なる方法で運用するのか、再生産を維持する為か、個々人への無条件の分配か、その比率と方法が不断に問われ、議論に登るのである。
 ある争議組合が「やっと旧賃金に回復した。 一時金も出せる様になった」との声を聞くことがある。また再び、かつての高度経済成長下の企業状況への回復への回路か、それとも集団のひとつの「力」の背景としての資金とするのか、その岐路は自主生産の方向性を決する決定的な地平での選択である。
 自主生産が「戦術としての有効性」を越えることが出来るか否かの核心的問題がそこにある。労働組合を、銭を獲得する手段としての組織として、その枠内に永久に押しとどめるのか、私的所有する財産をも賭けた共同性を獲得し、 未来を託する集団として飛躍さすのか、問題は立てられている。
 私達が、自主生産下、賃金を公開性とし、賃金委員会の場で決定し一定の賃金格差を設け、「対立し」「イガミ合い」を通じることを重要視している原則の基本的視点はそこにある。 今、自主生産を担っている組合員は、従来の企業に於けるいわゆる現業労働者ばかりである。その中で日常的に生起する問題は、営業、事務労働と現業労働との関係である。
 私達は例外なく持っている事務労働者に対する「ネタミ」と「軽視」複雑な意識である。 夏の暑い盛り、クーラーの事務所を見て「クソッ」と思ってきた。これは精神労働と肉体労働の問題にも関連する。
 現業労働者として、施工、組立工としての技術に己れの価値と自信の根拠を持ってきたのであり、逆に、それが、その枠にとっこもり労働の枠を拡げ、高めることに消極的となり、ある種絶望的感覚が、その裏返し、事務労働に対する「ネタミ」 「軽べつ」であった事 を見落してはならない。自己の可能性なりを押し拡げる回路をとざしてしまうのである。
 自主生産は営業、事務、経理も不可欠である。三〇、四〇の手習いであれ獲得しなければならない能力であり、「誰かがやるだろう」という事を前提にし、自己の労働の安易な固定化は許されないのである。
 次に忘れてならないのは、労働とそして技術能力を獲得する過程で ある。
 現在の中小企業の活力の低下、更に中小零細の街工場の依ってたつ意識としての基盤の風化の現実である。
 かつて先輩職人に、気げんの悪い時には口も聞いてもらえず、ボールト、ナットを投げつけられ血のにじむような中から得た技術の獲得 熟練の過程がほぼ例外なく消えていることである。
 私達は、かつてむかしのかかる温かさをなつかしむ訳ではなく、多少手荒ではあるが、教育―被教育の体系が生産過程を通じあったことを見失いたくないのであるそれは単に技術を教えるといった労働の枠を超えた人間の関係性、生き方等を学ぶ事の回路が脈打っていたという確信である
 それに対し、労働組合が「労働の平準化」「賃金の平等化」を強調してきた歴史の中に極めて重要な事を失ったことも忘れてはならないと思うからである。
 自主生産は、気の遠くなるような多くの課題を眼前にかかえている。
 日本の労働運動の基盤は企業内組合である。その弱点をとらえ、産別志向なり、企業の枠を唱えることは、皮相な「アンチ」の対抗関係でしかなくなることを私達は確信するに至った。
 自主生産の条件下、生産を課題として重要視する私達は、経済主義の立場からではなく、中小零細企業下の労働者の歴史的にかかえてきた経済的社会的抑圧からの反撃の場として守り抜かねばならないのである。
 抵抗闘争を如何に堅持し、勝利的に終わったとしても「解決金」とての銭も出ない零細企業で闘う事が、かつて不幸な条件であったとの
 
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意識が、逆に今、三年間の体験で、「誉りうる闘いを営める絶好の場である」との意識に近づきつつある。
 日本において、自主生産なり自主管理なる用語は民間大手に於ける資本の側が先行的に実践する生産性をはかる為に労働者動員の運動であり、「革新政党」が、ヨーロッパから直輸入した自主管理社会主義を唱える部分が多く使っている。
 それら双方が、「人間性の回復」という題目の中で、行きつく先が生産力思想を背景にした人間を創り出すことに結果することは疑う与地はなかろう。私達はそれを批判することはたやすい。 しかしそれに対抗しきれる「我々の労務政策」 「職場管理」はこうだ、という何かを作り出すことを抜きにして資本との本当の「ケンカ」は出来ないだろう。
 反体制運動にとって、基幹産業の民間大企業の労働者からその躍動が聞こえるという展望が持てない現在。吹けば飛ぶ、否フッ飛んでしまった倒産企業の中から私達四〇名の集団は世間に向い挑んでいきたいのである。
 
 
 
自主生產下営業活動の中から
 会社倒産、当然の事乍ら解散を余儀なくされる。
 しかし我々は、不当な解雇と倣し倒産以前より生産されていた鍛圧機械、シャーリング会社倒産後も自主管理の中で継続しています。 しかし我々の一番困った事は、資金面は当然の事ですが 機械工場では、鍛圧機械、シャーリング製造、鋳造部では、キューポラでスクラップを溶解し鋳型に流し込む作業をしていた労働者ばかりで会社的事業運営は、不慣れな者ばかりでした。
 自主管理を永久的に継続するには、物を作る、作ったものを売る、作る事に対しては資金面に苦労はあったが物さえそろえれば技術的には問題はない、しかし一台何百万円もするような機械を売る人がいない
 二十数名いた営業担当者も倒産と同時に散った。が、我々の組織を運営して行く以上、限られた人員構成の中で、各人が責任を持って何を担当して行くかが問われました。
 設計、資材、組立、営業、財政、色々なポジションの中で営業担当に成りましたが、徳島県の片田舎で育ち、大阪に来て一八年、 キューポラ相手の鋳物工、まして生まれて一円の物を売った事もない私です。右も左も解りませんでした
 現業労働者は、言葉使いが荒い上に悪い、中でも大阪の鋳物工は・・・・・・
 電話、又、顔を合せての話し方、態度、相手は、その事に依って我々の組織を見ていま す。以前であれば年に一回か二回か身に付けるネクタイ、スーツにも慣れなければならない。
 映画やテレビで見る表面では、華やかに見える大会社への出入り。そしてそのオフィスでの緊張感、日本を代表する商社、中小零細企業のオヤッさんと呼ばれている海千山千の強物相手の緊張感、営業先では、振り向いてもだれもいてくれません
 間違った判断をした事もあります。 受注が決定すれば、諸々の条件も含め価格は適正であったかどうか、約束の納期は守れるか、外色々な事が頭から離れません。
 数えればきりのない心配事とか、悩み事の中でも組織の営業の目的又、私の目標としても我々の手で作り上げた製品を一台でも多く世に出す事と同時に、倒産以前の主要取引商であり、現在我々の組織破壊の当事者である五味屋を後だてに別会社㈱ヤマツナを設立しデッチ上げ誹謗中傷に依って攻撃を仕掛てくる彼らには、絶対に負けられません。
 いずれにしても、今迄活動して来た事についての結果、将来に付いての真意も問われ、変化しつつある情況の中でさらに新たなる局面にさしかかっている時期であると思います。
 
 
 
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筑豊、今 南大阪で
 先日、九州は福岡へ出張に行き、筑豊地方の余りの変り様に唯驚かされた。筑豊名物の硬山 (ボタ山)はスッカリ形を変えて雑草が生い茂っていた。かっては、石炭の豊庫であった筑豊炭田、飯塚、田川直方、遠賀地区と広範囲に無尽蔵といわれた程、埋蔵していた石炭も、明治大正昭和と世代を変えて堀り尽し現在は一砿も採用していない模様であった。筑豊を縦断する遠賀川も昔の様な真黒い泥水でなく、きれいな流れであった。私の故郷は直方ですが、父母が炭鉱に出稼ぎに行き私は少さい時から炭砿育ちで、親子二代の純粋な炭砿太郎です。荒れ果てた、炭や寂れいく商店街を見ると感無量、本当にこの言葉がピッタリする、太平洋戦争終了後、日本の復興に工業、産業を起すには、先づ石炭の増産からと、炭鉱労働者にはいろいろな恩典を受け食料事情も非常に悪い時代だったので特別配給を受けて増産に励みました。と同時に労働組合を結成し、種々の難問と取組んで来た。 私の従事した貝嶋炭砿全盛期には一万数千名の組合員を有する大手炭鉱の強烈な戦闘的な組合であった
 やっぱりここも先頭に進むのは青年行動隊で歴史に残る様な、あの激しかった三池闘争にキャップランプを腰に東京へ陳述団に、或は本社へ抗議行動と、若い人達が絶えず先頭に行動を展開していた。だが何と言ってもエネルギー革命には勝てなかった。それは石炭に変る重油、即ち石油の時代になった。我々が日常使用している化学製品 総てが石油を原料として生産された物ばかりである。 第二に堀り出す資源がなくなった事もある。 我々も連日連夜、常会を開き、閉山後の条件を少しでも有利な条約を獲得する様に話合った。職場を追われた仲間達 は三三五五、阪神地区、中部名古屋地区、京葉横浜地区へと第二の職場をもとめ、知らぬ他国へ不安と希望を抱いて連日の様に十家族、 十五家族と集団で上っていった。私も生れ故郷では、生計が立ず、病身の両親を故郷へ残し身を切られる様な断腸の思いで上阪を決意した。 炭鉱時代の職場の仲間を頼って山科鉄工機械仕上工として就職した。だがこの会社も安住出来る会社ではなかった。 入社後一年にして早くも倒産した。其の後再建して生産活動を続けたが三年前倒産の浮目に会ったが現在では我々労働組合の手に依って自主生産を続け企業再建を目標に長期闘争に、生産活動に頑張っている次第です。
山本
 
 
 
支部機関紙より
今 思うこと
 一口に団結と、言うはやすいけれど言動その他一丸と成る事のむずかしさ。 我が社も破産して、丸二年色々な事がある中で、去る人は去り
今思えば、良く今の状態になれたと思う。 比れなら後何年かかろうが闘えるぞ・・・・二、 三年前ふと目に入った他国の昔話しを思い出します。
 昔、ある村に鳥を取って生活している人が野にあみを張り鳥のかかるのを待っていました。 そこへ渡り鳥の群があり、あみにかかり、鳥は口々に、ここにおりた事をくやんだり、残して来た子供や妻の事等なげき悲しみ、わめいてばたばたして鳴いていました。すると其の中の一羽が言いました。皆、ばた々して死を待つより力を合わせはばたいて見よう・・・・・・と皆に言い聞かせ、それに気付いた皆が、一せいにはばたいて、網を持ち上げ、大空を南の方へ飛んで行ったという話しです。他国の子供の話しですけど、ずい分教えられる事があると思いました。
 我々は死にはしないが目的は一つ。 頑張らねばと思う此の頃です。
製缶 松本
(78年12月12日機関紙No.19より)
 
 
 
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支部機関紙より
俺の一年雨のちくもり! 只今快晴
 一年前、遅配による不安プラス倒産という労働者にとって最悪の状態とのとなり合わせの毎日、一時金をあてにしての家計のやりくりの中での収入ゼロ、正月は目の前にきている。 子供にはこの服を、この靴を、この帽子をの楽しいプランが音をたててくずれ頭の中をグルグル回る。
 虚無感・脱力感・貯えなし。 持金が底をついたらどうしよう
焦り、他人の無責任な展望の予想、放言、 野次馬的グループ。
今は退職してしまった グループとの意見のしょう突。
 雑念を耳に入れたくないため、火留まりに行かず、門前の詰所へ! それ以后、現場就業まで、寒さにふるえながら門前の詰所が自分の職場だった。
 残るべくして残った人達。一人々の顔と名前を想い浮かべてみよう。 なる程皆んな一味ちがう猛者ばかりである。辛棒して良かった。残っていて良かった。 皆んなに笑顔がもどった。
 トイレットペーパーの心配、風呂代のカンパ等・・・今では苦しかったことも笑話である。
 辞めていった人? まだ社外で誰とも顔を合わせたことはない。各々に理由はつくだろう。 生活苦、見切り、損得勘定、 理由は何とでもつく。本当の生活苦なら残ったはずだ。残らなけ ればならなかったはずだ。とに角、敗参者であることにはまちがいない。
 彼等もかっては我々の仲間、同志、友であった。しかし、現在の我々の実状をねたみ、愚かな入れ智恵で踊らされて反目してきている。残った我々には、彼等とちがい、自分達の手で賃金をはじき出しているという自負がある。 厚顔無恥な彼等を相手にしているひまはない。我々には明日があり、明日の戦いが あるのだから・・・・・
組立 橋本欣司
(77年11月28日機関紙No.2より)
 
 
製缶 藤本
ここ大阪は西成
倒産劇に見舞われし
我らが職場を死守せんと
日夜闘争生産に
早くも過ぎて約2年
時には悲喜こもごもに
団結二字に汗流し
いつの日晴れて誇らかに
胸はる我らが組合の
赤旗はためく下にあり
その意気、天にも轟けと
怒れるぶしを突き上げぬ
世に心ある人あらば
内に秘めたる情熱を
いくばくさえも知らざるか
所詮汚濁の世の中
唯ひたすらに理想のみ
望むは無理と知りつつも
尚願わん事多き
踏まれ草にも命あり
見えざる虫にも命あり
我らが命は何ものと
自らの思惑のはてにして
いつの日達せんこの道は
(1998年7月4日機関紙No.13より)
 
 
ワシの人生50年
 
年取って五〇才!
工場閉鎖 1回 倒產 4回 この五〇年の間に
すべての辛苦を経験してきたように思う。労働者にとって倒産という名の悪魔とは何度出合ってもイヤなものである。再起のためには、どんな辛いことも乗越えてゆかねばならぬ と覚悟はしている。
 
 現在の私の仕事は、アルバイト関係である。 アルバイト先の求人によって人員の確保と割り振りである 人一倍気の弱い私 は、アルバイトの手配師とひやかされながら、会社の仕事(本業)との兼ね合いによる員数不足、口ゲンカまでしても確保したい人数。疲れ切ってアルバイトより帰社した人への再度明日の仕事先の要請。将棋の駒を動かすのとちがい 気をつかい 身を切られる思いの毎日です。
 電話のベルが鳴るたびに心臓がドキッドキッの連結です
 こんな毎日ですが苦労が多ければ多い程楽も多いと思いま す。アルバイト先より元気よく帰ってきた時はホッと心労がむくわれます。
 私としてただ一つのお願いは アルバイトに行った以上は山科鉄工の人間として恥かしくない仕事をして来て欲しい。怪我には気をつけて欲しい! ただそれだけです。
笠井常男
(77年12月11日機関紙No.5より)
 
 
 
16ページ
我々の文化闘争
――南大阪を民衆の文化闘争の砦に――
 
<何故、今文化闘争なのか>
 庶民の側からの文化の創出が、文化情況の停滞の中で叫ばれている。我々は、中小零細企業の密集する南大阪の鉄工所で働く労働者である。南大阪は、資本主義社会の景気の変動で生かされ、殺されてきた労働者の”街”である。日本の労働運動がさしたる抵抗もなしえず、右傾化=解体していく中で、かろうじてその戦闘性を保ってきた地域でもある。
 しかしながら、我々が基盤とするところの南大阪において、経済争としての労働運動は行なわれていても、文化闘争の視点は全く欠落している。「文化的」なものと言えば、中国の舞踏団などを招待したりすることがあるが、それは自らが創り出したものを基盤に招待しているのではなく、観る側にのみまわったものであり、自ら演じ創り出していこうとする方向性を持ったものではない。
経済闘争で得た銭は、住宅ローンへ、マイカーの購入へと消えていく。住宅ローンで得た一戸建の家で観るものといえば、テレビから流れてくる映像であり、休みの日にはマイカーに乗って郊外のレジャーセンターへとくり出すこととなる。
 経済闘争によって獲得した銭は、この様にして支配者へと還元される。その結果、支配層により設定された空間の中で堂々めぐりを行ない、その円環を打ち破ることができない。設定された空間での設定された生活から生まれるものは空虚さだけである。この構造を打ち破るには、自らの空間を自らによって設定することが必要とされる。獲得した銭を設定された空間に使うのではなく、自らが演じ創り出していく空間へと使っていかなければならない。文化情況の停滞は、この様に本来主体である側が、設定された空間へ身を委ねている事によるものであり、民衆の側の形骸化もここから起っている。
 この空虚さだけが残る空間から、自己の生活空間を創り出していく事が文化闘争であり、自己の生活空間を活性化していく作業であるといえるだろう。その過程で潜在する民衆のエネルギーが生かされていく事になるのである。
 
<我々の時代認識=70年代における根本的変化について>
 五〇年代、六〇年代は「激動の時代」だったが、それに比べて七〇年代は「変化のとぼしい時代」だったとよく言われる。確かに人間の生き方の根本を問う様な事件は起こらなかったし、強裂なショックにより価値観の変更をせまられる様な事はなかった。だが本当にそうだろうか。
 
 表面的には静かなたたずまいのその底で、より大きな変化が進行しているのではないだろうか。今までにはなかった、より激しい根本的な変化が・・・・。
 例えば、この南大阪においても一昔前までは、「鉄を相手に身を粉にすれば、家の一軒ぐらいはなんとか持てる。」という意識が労働者を支えてきた。しかし今ではそういう意識すら完全に崩壊させられてしまっている。この事が、七〇年代において初めて表われたところの根本的な変化なのだ。五〇年代、六〇年代とちがって、たくましい労働者が、一生力のかぎり働いても「家一軒の希望」すら持てないというのが我々のおかれている現在の情況なのであり、労働者(力)の価値がそこまで低下させられてしまっているというのが七〇年代の特徴なのである。その結果、目標の持てない若い労働者は、オートバイでも乗り回しうさをはらすか、毎晩きっ茶店にでもたむろするしかない。しかしこの様な生活からは、むなしさしか残らない事は明らかである。この事は、高度経済成長の下、資本から奪い取った銭を、それぞれ出し合う事によって共有化し、それを共同の生活空間の拡大に使っていくことがあったとすれば、少なくとも今日の悲哀を味わう事はなかったという意味において、まったくの自業自得である。もはや、今の社会とは労働者にとっては家一軒の私有も困難な時代なのであり、集団化を通じて共有という形をとらなければ何ものをも所有できなくなってきているという事である。
 次に七〇年代に入ってから、「健全者」が自分達の意識空間に「障害者」の問題をとり入れざるをえなかったのはなぜかについて考えてみよう。ある人が、「障害者」の事をこの様に描いている。「人間の祖先であるさるがまだ木の上に住んでいた頃、さるの赤ん坊は生まれた時からすぐおっぱいを吸う事と、地面に落ちないために母親の腕にしがみつくことだけは知っていた。しかしある時、母親の腕にしがみつく力のない「障害児」が生まれはじめた。この赤ん坊をつれて、木の上でくらす事はできない。その時、一組の母親と父親がまだ誰もやった事のない危険を承知で「障害児」と共に生きるため、木上生活を捨て、他のさる達と分かれ未知の地上の生活にかけることにした。こうして未知の世界にかけ、地上におりた三匹のさるが人間となったのである」と。
 つまり、さるを脱した最初の人間とは、さるの中に生まれた「障害児」と、「障害児」と共に生きようと未知の世界にかけてとびこんでいった二匹の親ざるの三匹だったということである。たくましい肉体を持った労働者にとって「障害者」の問題は本来無縁のものでしかない。しかし現在の情況にあっては、もはや今までの延長の発想ではだめだという事が直感的に感じられているのであり、自分達と「異質」なものの中にでも新らしい可能性を求めざるをえなくなっているという事である。この様な方向へ「健全者」が動かざるをえないのは、やはり「健全者」社会における労働力の価値の信じられない様な低下によるいきづまりを背景としている。労働者は、当然集団化という道をとらざるをえないが、この時「健全者」社会においては労働力としての価値が低いとされることにより、常に集団化し共有化という方法をとる事でしか所有をなしえない存在としてある「障害者」をとりこむ必要が出てきたという事である。「障害者」が必然的に問題とせるをえない「健全者」の”労働”という問題も、これだけ労働力の価値の低下している現在では、「健全者」にとっても、「健全者」なりに考えざるをえなくなっているのである。もちろん、「健全者」・「障害者」の立場のちがいははっきりあるのであり、その事が「健全者」の側からはっきりととらえられているとはとてもいえないが、ともかく「障害者」のことまでも視点にいれなければ「健全者」社会自体がやっていけなくなった時代―それが七〇年代であるといえよう。
 
<日本の文化情況>
 現在の日本の文化情況を考える場合、「東京が日本の中央である」という捉え方について考える必要がある。一般に信じられているこの事が意識の中で際限なく広げて使われている事に一つの問題があるからである。東京には様々な文化が集約されており(そういう意味においては中央であり)そこを起点にして文化は地方へ伝播していくのだという発想がある。確かに「情報文化」を必要とする「知識人」「文化人」にとって中央とは東京かもしれない。また政治の中央も一応東京であるといえるだろう。しかしながら我々が文化闘争という時、民衆にとっての中央をどこに見すえればよいのか。問題は東京がその様なものとしてあるのかどうかという事である。もし東京が、この様な意味での文化の中央だというのならば、まず東京という地方の文化が語られねばならない。地方文化とは、ある共通の意識空間を媒介とし時間的に蓄積された一定の生活空間を有する民衆によって作られたものであり、当然その地方地方の民衆の生き方の個性の様なものであり生きていく自信の背景となるものである。その上にたって、自からの中央性―民衆が自からをかけていこうとする普遍性を持つ空間が語られねばならない。しかし現実は、地方性が語られない所で中央性のみが語られている。本来はありえない事だが、自らの生活空間をはっきり見ず、現実の意識の上で肥大化させ、全てのものに中央性を与えていったのが今の東京である。これは、自からの生活空間を基盤とせずに中央意識を増大させることにより自己満足してきた東京の民衆の責任であるといえよう。我々はこの様な東京の中央性などというものは信頼しない。この東京の大きなごまかし、そこから生まれている民衆の空洞化―自己喪失は、自からの地方性の掘り起こしを通じてしか抜け道はないといえるだろう。
 
<大阪の文化―その地方性>
 大阪とはどの様な街だろうか。町人文化の栄えた所。商人の伝統によるところの現実感覚の鋭どさ。実力主義の町。いわゆる「がめつい奴」が多いといわれる。例えば、品物を買う時は徹底してねぎる。駄目だろうと思っても、ともかくねぎってみる。何故なら理由は簡単、安く買えた方が得であり、その為には「かっこ悪い」などと気にしていられないからである。また、他人をみる場合、まず大事な事は、相手が自分にとってどれだけ利益をもたらす人間かという事であり、その為に一人一人の人間の実力そのものが正確に評価されるのである。そうしないと自分が損をするからだ。この様な大阪人を貫く等価交換の原理は、歴史的には最初商人の中にめばえたものであり、大阪の文化は、過去何百年もの間、商人の街として栄えたことが大きく影響しているといえよう。そして、今の大阪に住む人間は、その事を誇りに思っているし、自分自身の大きな自信ともしている。
 
<中央性について>
 この事は、吉本や松竹新喜劇の芝居にも現われている。芸人と民衆との競い合いによって展開される舞台は民衆の生活の反映であるといえる。大阪の文化を考えていく時重要なことは、この様な民衆劇が今や唯一といっていい程、大阪にしか存在しない事、そして今なお多くの観客を引きつけている事である。
 また、テレビ番組をみてみると、大阪弁の芝居や漫才が西日本を中心に全国的に放映されている。これは、全国の民衆に大阪弁で表現される民衆の感情が理解されているという事であり、民衆の想い―愛も憎しみも含めて―を全国の民衆と意識の上で共有できるという事である。これは一見何でもない様にみえて実は大変な事である。日本の中に大阪弁と同じ様に民衆の想いを全国の民衆に伝える言葉があるだろうか。残念ながら、東北弁、鹿児島弁等々が、その地方の民衆にとっては何にもまして想いのこもった言葉であっても、やはりその地方の人々の域を出ない。
 外国の例を考えてみても、例えばスイスの場合など一つの国でありながら、多民族国家なので、フランス語、ドイツ語、イタリア語、そしてローマ時代の昔よりある地方でのみ使われているレトロマン語の四つの言葉が公用語と決められている。だから、レトロマン語を使う人達は人口の一%であるにもかかわらず、テレビの一つのチャンネルでは必らずレトロマン語で放送する様、法律で義務づけられている。しかしこの様にわざわざ法律によって保護されていようと、結局その放送を理解しているのはスイスの全国の人々ではなく、わずかなレトロマン語圏の人々だけでしかないのである。これに比べると、大阪弁は法律で保護されている訳でもないのに、情報文化の申し子としてあるテレビにくい入り、日本中の人間に受け入れられているのである。
 
<大阪文化批判―民衆の拠所としての大阪を>
 我々は、この大阪文化の中央性をはっきり捉える必要がある。そして同時に、この様な大阪の文化の持つ中央性にもかかわらず、一方では大阪文化の停滞という情況が現出しているのは何故なのかを考えなければならない。
 それは、先程述べた東京とは逆の意味で、大阪はその文化を大阪という地域とその中の人間という地方性”の枠でしか捉えない事により、自からの中央性をあいまいにしてきたという事である。我々が決定的な問題と考えるのはまさにこの点であり、ここに大阪の大きなごまかしがあり堕落がある。大阪の文化が、あたかも大阪の地元の人間によってになわれてきたかの様に、その中にどっぷりとつかっている情況からは何らの理想のかけらも感じられないし、その行先は退廃極まるものでしかないであろう
 我々の集団は、沖縄、奄美、九州、四国と西日本の各地から、農村を追われ、炭坑を追われて、集団就職で、首切りによって、この大阪に来ざるを得なかった人間の集まりであり、大阪の一つの縮図でもある。大阪の文化は、この様な民衆が大阪を最終的な所とし、そこに活路を求め、自からを賭けてやり合う中で育くんできたものであり、昔から大阪に住んでいる人間だけによって創られ、大阪という地方に昔から存在するものでは決してありえない大阪弁で、その地方の言葉を馬鹿にされ、大阪弁を使わされてきた人間が、必死の思いでそのくやしさや怒りを大阪弁を使う事によって表現し勝負してきたそういう民衆の思いの込められた言葉としての蓄積こそが、大阪弁を迫力ある言葉として響かせているのである
 大阪の文化の中央性とは、大阪の地元の人間や自称文化人、知識人まして関西財界などが形成してきたものではじてない。その中央性は、一九五〇年代後半迄、民衆にとっての中央を形成していた北九州がつぶされていくという深刻な情況の中で、民衆にとっては、まさにこの大阪を最終的な所として、自からを賭けざるをえない所として形成してきたのであり、その息吹によってきたえられてきたのである。
 
<結論>
 最近、体制の側からも大阪の復権等が叫ばれているが、我々にとっては、大阪という地域そのものの発展がどうなろうと関心はない。ましてや、関西の財界がつぶれようが、階級的な圧迫を常に肌で思い知らされてきた我々にとって、日本資本主義がつぶれるという喜ぶべき事ではあっても、悲しむべき涙の一滴も持ち合わせてはいない。ただ我々にとって、我々も含め、我々の父母たち、またこれからも大阪に来ざるをえないであろう多くの民衆が、どうなってもかまわないという訳にはいかないのである。住み良かろうが悪かろうが、この大阪で生活し、生きていかざるをえない、故郷を追われた人達にとって、共有しうる様な場としての意識の空間としての大阪の文化情況に対して、我々は責任を負わなければならない。
 大阪の工場地帯の小学校は、どの教室でもその過半数が西日本を中心とした地方の出身者の息子や娘達で占められている。子ども達は、生まれた時から自然と大阪弁を覚え、使っている。この子ども達が、大阪弁を使って地方なまりのある親を馬鹿にしていくのか、それとも親の生きざまをうけついでいくのかという事は、まさに大阪の責任であり、大阪の文化の別れ目だろう。
 今年の夏、九州の筑豊で一人の少年に出会った。彼は、「やすし、きよしの漫才は日本一や。俺も学校を卒業したら、大阪に出て漫才師になってもうけするつもりや。」と、目を輝かせて話してきた。この少年も、結局、南大阪に流れざるをえないし、また登場してくるのである。かつて「東京へ行くな。自分のふるさとを創れ。」とある詩人は言った。しかし、彼が呼びかけた民衆は、農村を追われ、炭坑を追われ、東京ではなくこの大阪に来たのである
 我々は、彼らに対して何を持って答えるべきか。我々は、この敵の近代化の戦術の必然の結果を嘆くまい。その戦術を超えるものとして戦術を持って答えなければならない。それは、この様にして、この大阪に集められた様々なる位相を持つ民衆が、そのおん念としたたかさで真に共有しうる様な文化情況を、意識空間を創出していくということなのである。来たれ!南大阪は今、炎えている。
ことなのである。来たれ!南大阪は今、炎えている。
 
 
 
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総評のエライさんは 現場を知ってへん
〈大阪西成・下町工場〉
報告記者 後藤正治
 
鉄は軟らかいもの
 ここは天国釜ヶ崎――という歌があった。 その釜ヶ崎のあるまちとして知られている大阪市西成区。天国とはいかないまでも、庶民にとっては暮らしやすい。 生活のしやすいまちであることに間違いはない。
 西成区の物価は、大阪府下の衛星都市にくらべて二割がたは安いといわれる。たとえば街の角々に赤い灯をともす一杯飲み屋。 コップ酒が一杯百五十円が相場。 めんの大盛りが百円。おかずを二品、みそしるをつけて、まず五百円で晩めしが食える。
 庶民のまち西成はもう一つの顔をもつ。煙りの都といわれた大阪工業地帯の老舗としての顔である。古くは大正・昭和初期、新しいものでも昭和二十年代に建てられたものが多いという。
 とりわけ大阪湾に注ぐ木津川をはさむ両岸は、鉄鋼、造船、起重機、機械など、鉄を扱う工場が肩を並べている。その中でも西成区の南津守地区は「鉄工所の巣」といわれるほど中小のその多くは零細な鉄工所がひしめき合っている。
 その南津守の一角に山科鉄工所がある。 従業員八十名。鋳造では大阪で五本の指に入るといわれたこともあった。現在では鋳造は休業状態、主にシャーリング(厚い鋼材を切断 する機械)、ブレスなど鍛圧機械の製造メー ーである。
 鉄とはなんですかと尋ねると、「軟らかいもんやナ」という旋盤工(経験二十五年)の答えがかえってきた。
 鉄はそれぞれの硬度を持つ。その硬度差を利用して適当な力を加えれば、常温でもたとえば羊かんのように切ることもできるし、りんごのように皮をむくこともできる。あめのようにねじり、ひん曲げることもできる。ハンマーと当定盤を用いれば、まったくの手仕事で薄い鉄製の灰皿を打ち出すこともできる。溶接でつぎ足せば、いくらでも複雑な形状に仕上げることもできる。鉄は決して冷たく固い対象物ではなかった――。
 
つらいこと、おもしろいこと
 木村敬一さんは二十五歳。 西成生れの西成育ち。 高校生のとき手配師につれられて”アンコ”と一緒に力仕事のアルバイトもした。 西成は隅から隅まで知っている。 山科に入って五年目。 「仕上げ」を担当(仕上げとは工程の中で組み立てる部門をいう。 仕上げ師という言葉もある)。鉄板のサビ落とし、磨きグラインダーかけや溶接もやる。
 折田利之さんは二十二歳。 鹿児島県出身。中学を卒業して名古屋の鉄工所に五年。主にフライス盤を使い、溶接、仕上げの基礎も身につけた。山科に入って一年。木村さんと同じグループ(五人)で仕上げを担当。
 花田隆治さんは十九歳。長崎県有明海に面する湯江の出身。六人兄弟の四男坊。 中学を出てすぐ先輩がいた山科に入った。長崎にいたときは「大阪は景色もいいし本当にあこがれていた」という。家の生業は出稼ぎ。整備を担当。五年目。
 就業時は午前八時。
 仕上げは五人のグループ仕事である。外注の下請けからおおまかに加工された鋼材が入ってくる。まず材料の鋼材をどうこなすか。 不用部分からガス溶接(アセチレン酸素を使う)で切り落とす。薄いものや丸く切るものはまずこれで切る。
 穴あけ。 ラジアルという機械を使う。五人の中で穴あけの専門が一人。ラジアルとはキリのこと。千枚通しを、重ねた紙に差し通す ように、ラジアルは鋼材を突き抜ける。
 削る。比較的小さな鋼材はセーバーで、大きいものはシカルを使う。ともに削り機のこと。カンナで木材を削るように鉄片がそぎ落ちる。
 グラインダーかけとサビ落とし。仕上った部品はクレーンを使って組み立てる。そして仮溶接 (ポイントだけを溶接する)。本溶接は専門職がやることになる。 溶接棒を使うアーク溶接を使う。
 昼休みは一時間。 午後四時の終業時には、 汗まみれ、油まみれでクタクタになる――。
 ――仕事の中でつらいこと、苦しいこと、いやなこと、といったらどんなこと?
 折田 つらいと感じたことはあまりないですね。夏は暑いし冬は寒い、とくに夏はきついけど、鉄工所だったらどこでも同じだし。僕らの「仕上げ」はグループ仕事だから、人間関係で気づかれすることぐらいかな。
 ――やけどとかのけがはよくあるの?
 木村 やけどはしょっちゅうやナ。溶接やるから。うちは大きな事故はあまりないけど昨年片腕を落した人がいた。磨きのときにグラインダー回すでしょ。その時シャフトに捲き込まれて。あとは重いもん持つことが多いから、腰をやられるのが多いことかな。
 ――仕事の中でつらいこと、苦しいこと、事の喜びみたいなもの、そんなものがあるとしたらどんなこと?
木村 うーん。なんやろナ。やっぱし一台の機械仕上げて出す時かなぁ。徹夜してゴテル機械の子守りをして、やっと出すとき、そんな時はよかったと思う。ようやった、後は一杯飲みに行こかとなる。
 
職人か労働者か
 山科鉄工所の従業員の平均年齢は三十五、六歳。西成にある工場のほとんどがそれくらいの平均年齢だという。二十代が八人。後は「おっちゃん」である。 山科鉄工所も一昔前までは、先輩後輩、上下関係の厳しい職場だったという。
 言いつけられた工具を間違って手渡すと、ハンマーや「亀の甲」が飛んできた。新入りの見習いは「ぼうさん」と呼ばれた。 「ぼうさん」とは「ぼうず頭」からきたらしい。
 
 「おっちゃん」たちの中でも、四十歳以上の世代は職人気質が色濃く残っているという。 朝、仕事のだんどりで二言三言口をきいたらもう一日中口をきかない人もいる。
 「人間やから間違うこともある。けど、自分の仕事は裏切らん、これがワシらの気やナ」 と、経験二十九年の鋳物師 (四十七歳)はいう。
 ――自分は労働者か、職人か、それともどちらでもない、の三つに分けたら自分のことどれだと思う?
 木村 職人という言葉、これは昔風な言葉やと思う。”カン"で仕事をやった時分の人らは、自分のことを職人だと思ってたと思う。 まあ今でも職場によって違う。 鋳物とか溶接なんかは、職人的な気分が残ってる。僕らはグループ仕事やし、自分のこと職人やとは思わんナ。俺は労働者やと思ってる。
 ――仕事はどうしておぼえていくの?
 木村 どこの工場でも昔みたいに手取り足取りして教えてもらうことはあまりないみた い。工場にしたら、溶接やったら溶接ばっか り、磨きやったら磨きばっかりさしたいわけや、生産第一に考えとるから。俺の場合だっ たら磨きとか錆び止めのニス塗りばっかり。 上にあがらんわけや。まあ俺らの後に入って来たのは三人か四人。 不況で人を取らんかったこともあるけどナ。だから仕事覚えよ思ったら、見よう見真似で覚えるしかない。
 折田 昔みたいにアレやコレやりして一人前になっていく機会は減ったみたい。 「芯出し」からグラインダーかけまで、一から十までやってみたい気はする。
 木村 溶接にしても僕らがやるのは仮付け だけ。「本チャン」は本職がやる。 僕は一応溶接の免状もってるけど、資格は関係ないわけや。 「本チャン」の経験つまんとナ。十年で一人前いうくらいやし。
 
遊びって知らんナ
 ――残業は何日するの?
 木村 やったときで二十五時間(月)くらいかナ。 二年前ぐらいからあんまりない。 不景気になったから。昔の人の話では百時間はザラだったらしいけど。
 折田 うちは残業はやりたくなかったら、せんでもエエわけです。ただ僕らはグループ仕事だから、自分が休んだら人の仕事がふえますし、そのへんは気をつかいますけど。
 ――給料はどれくらい?
 木村 日給月給やけど、僕で十五万くらい。年の割合だったら良すぎるくらいと思う。 入ったときは千九百円(日給)やった。給料は 年によってちょっとずつちがうかな。若いもんはエエけど、おっちゃんらは安いわけや。
 花田 僕で十二万。いろいろ引かれて手取り十万ぐらいかな。 入ったときは一万九千円(月給)もらった。
 ――給料は主に何に使うのかな?
 人によっていろいろ。 免許取ったら車がほ しい、ステレオもほしい。 そんな感じで使ってたらキリないし、僕はパチンコぐらいかな。
 ――休みの日は何をして過ごすのかな?
 花田 僕は洗濯やナ。賭事一切せんしね。 娯楽ゆうたら仕事中に煙草吸うぐらい。初めナ、僕のグループ四人やろ、皆んな三十過ぎでナ、酒飲みに連れていかれてつらかった。今はだいぶ飲めるからどうちゅことないけど。
 木村 僕らの仕事、油でゴテゴテになるわナ、そやから洗濯に相当時間食われるわけ。ワシら考えたら遊びって知らんナ。
 ――新聞なんか読む?
 折田 毎日は読みませんね。毎日見るのはスポーツ新聞かな。
 花田 僕は前は『読売新聞』取ってたけどやめた。金かかるしナ。
 ――女の子なんかどうかな?
 木村 ナンセ南津守は女の近よらん所というさかい(笑)。俺の場合は二年前に女にふられてやめた。
 花田 うちの職場には女なんか全然おらんからね。
 木村 班長連中の世代は割合職場結婚が多いらしいけど。不自由するといったら不自由するナ。
 
 
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闘うのは俺たち
 山科鉄工所の労働組合は、全国金属山科鉄工支部。 全金南大阪地協の一員として、毎年の春闘にはかなりの戦闘性を発揮してきた。 全金南大阪地協は大阪の春闘相場を決めてきた実績をもつ。
 山科鉄工所は十年前に倒産したことがある。それまでは、鋳造部だけが職能組合として全国金属(以下全金)に加盟、それ以外の部は上部団体をもたない職場組合だった。倒産後 新会社が設立されると一括して全金に加盟。
ただし組合組織は変形のユニオンショップ。
 学校を卒業して入社した場合は自動的に組合員になる。中途採用の場合は「組合もあるが、入らない方が・・・・・・」といわれる。木村さんも入社九ヶ月後にやっと組合員になれた。 木村さんは組合の副委員長、書記長を経て、一年前から青年部 (八名)の部長である。
 ――組合ってなんだろう?
 木村 うーん、なんやろナ。俺らの生活を守るもの、一人ひとりの弱いもんが集まって自分らの生活を守るもの、ということかな。
 折田 名古屋にいたときは、まったく認識もなかったですね。忙しいときにはさんざんこき使って暇になったら首を切る。組合はあったですけど文句もいわなかった。会社のいう通りなんでものむ。 自分が残るためには他人にやめてもらっても仕方がないというムードだった。こちらへ来てびっくりしたです。
 木村 俺なんか初めはもらうもんはもらう、ゼニカネ取るのが組合やと思ってた。今はちょっとちがうナ。 自分が鍛えられるところが組合かな。学校のくりかえしみたいな気もする。もともと書いたり、しゃべったりは全然アカン。けど、今やったら人前でも五分くらいやったらいけるさかいナ。
 花田 初めは全然わからんかった。一年ぐ らいしてからそんなもんもあるんやなあ、という感じがした。
 ――毎年春闘ってものがあるわけなんだけど、春闘って一体何かな?
 木村 今までだったらカネをとる、とれるだけとる。ゼニの話やから皆んながまとまる。とにかく経営者とケンカしてとれるだけとるのが春闘やと思ってた。
 ――春闘のヤマ場になったらね、総評のえらいさんなんか来るわね。 そんな人にどんな気持を持つのかな?
 木村 どうゆうたらええのかな。総評のえらいさんは、やっぱりそのときの相場に合わしていくことが頭にあると思う。現場のナ、山科なら山科のしんどさというものは知ってないと思う。国民春闘とかいうとるが、俺らの見るのとやっぱり違う。闘うのは俺らやし、苦しいのんをわかっとるのも俺らやと思う。
 
政治に期待はしない
 わが国の第一党は政治無関心党だという。
とりわけ青年層の政治離れが指摘される。同時に、各種の世論調査では政治におおいに関心はあるが支持政党はない、という層の比率 も高い。
 これは、政党、政治家に野党もひっくるめて愛想がつきたということなのか、それとも 政治に関心を持とうがどうなるものでもないということなのか。
 ――いわゆる政治とか世の中、あるいは選挙とか、どんな感じをもってるのかな?
 折田 僕らの組合は全金だから選挙という社会党支持なわけ。 社会党のビラしばらされたりもします。でも政治とかとくに期待するということはないですね。
 花田 僕は政治って何のことかよくわからんし、そんな所まで行ってない。
 折田 そら政治職とかに腹は立ちますけどね、目をつぶるというかな、 投票してもなんにもならないわけでしょ。 関心がないわけじゃないけど関心は薄いということはある。
 木村 たのまれたらビラも撒くど、政治に期待するということはないナ。 総評でも社会党でも利用さしてもらうとこは利用さしてもらう。その義理でビラぐらい撒いたってもエエデという所やな。
 ――この前(昨年十二月)の総選挙だったら社会党だったら西風さん(西風勲社会党大阪一区・落選)が組合にあいさつに来るでしよ。どんな気持で迎えるわけ?
 折田 来るといったってその時だけだしすぐ帰ってしまう。 支持することはあっても期待することはないですね。身を入れて応援するという所まではいかんです。
 ――それは不信ということかな、それとも俺たちの役に立たないから・・・・・・。
 木村 実際ね、春闘で三万円引き出してもそれを引き出すのは現場におる自分らしかないわけだしね。 全金とか総評とかの看板で、 会社側がある程度ビビルということはあっても、闘いとるのは全金じゃなくて、山科支部なわけでしょ。その程度のもんやと思うナ。
 ――たとえば俺たちの生活というものがすべてでね、世の中全体がどう動いているのか あるいはどう動いてほしいのか、そのへんはどうだっていいということかな。
 木村 今の世の中いうたら儲けるやつはいくらでも儲けると、アカンやつはいつまでたってもペーペーで終ってしまうことになってるよ。この仕組みには腹は立つ。中国みたいに働くものは平等というかな、よう知らんけど、そんな世の中を願うというたら願うとることになるけど。
 
倒産の中で知った
 不況の中で減産につぐ減産を強いられてきた中小の鉄工業界は、昨年の中頃から関を切ったようにバタバタと倒産が相継いだ。とりわけシャーリングなど設備機械をつくる山科などの鉄工所は、そのほとんどが倒産か、実質上倒産に近い状態に追い込まれている。
「昨年の春頃からおかしかった」 山科鉄工所は、十二月七日に不渡りを出し、十二月二十八日に倒産を宣告された。
 社長は逃亡。 山科の販売権の九十七%を握 っていた五味屋K・K (大阪船場にある機械専門の商社)債権者として登場した。五味屋はこれまでにも山科鉄工所の実質上のオーナーとして、傾きかけた山科を支えてきたが十一月に資金援助を打ち切った。
 それまでに山科鉄工所の土地、工場、機械などほとんどの不動産、動産に担保権を行使 債権保全の手続を完了していた。組合は五味屋による計画倒産の可能性が極めて強いという。
 会社側は十二月二十一日、文書でもって、「全従業員の解雇」を通告。組合側は鉄工所の再建、操業の再開を掲げて「自主管理闘争」に入った。
 倒産(偽装倒産) ―経営者逃亡―債権者と”整理屋”の収拾。これらの倒産劇は西成区にある鉄工所関係だけでも枚挙にいとまがないほどである。 「大阪亜鉛」 「浪速サドル」「大阪事務能率」 「大鋼シャーリング」・・・・・・など。
 ――倒産の中で組合としても一人ひとりの生活においても非常に厳しい状勢になってきたわけだけど
 木村 春闘だって取れるときはエエわけだ。取れんときにどうするか。ゼニカネやなしにどうするのか、ということが今なわけや。 まずは職場を守っていく、なんとか山科を再開させていく、これが今の仕事やと思う。
 折田 昨年の十二月から月給もらってないわけだけど、シャーリングのアフターサービスの仕事があるわけです。出張に行ってもゼニにならんわけです。けど、仕事をやっていく中で職場を再開させていくきっかけをつくっていく。 初めは職場に八十人はいたわけです。今は四十数人。この四十数人が団結してがんばっていく、 それしかないと思う。
 木村 倒産して初めてわかる、というものがあるわけ。かゆい所に手がとどいていると感じるときがあるわけ。 他の全金の支部から差し入れもらったり、支援カンパもらったりして。顔は知らんかってもしんどさは知っとると。
 花田 社長なんか関係ないと思ってたけど今は組合つぶそうとしてる重役なんかナ、イヤな感じするナ。 自分は組合が首にするといったときにやめていく人間やと思う。俺、今 まで全然わからんかったナ、倒産してナ、初 めて労働者としてナ、闘う労働者としてナ、やっていくことをナ。
 
ぶつけることが闘うこと
 ――たとえばネクタイを締めて背広を着て勤めている若い人たちもたくさんいる。 汗をかくことも油にまみれることもない人たち。そんな人をどう見るかな?
 折田 身体を使わないという点では楽だとは思いますけれども、うらやましいとは全然思いませんね。背広を着ていても当然苦労はあるわけでしょ。営業だったら競争も激しいし、他人を落とすこともやらねばならんわけだし、そんな苦労は全然したくない感じがする。自分が汚れる仕事をしているからどうこうという気持はないですね。
 木村 やりたいなあとは思わんし、 結局俺たちと同じ一つの歯車やないかと思う。鉄工所で真黒になっていても恥しいとはまったく思わんし、誇りもある。この頃頭にくることがあってもぶつけん人が多いでしょ。ぶつけられん人はかわいそうやと思う。同じ労働者やのに。
 ――労働者って何んだと思う?
 木村 うーん、生きる屍かな。 コキ使われて、ハイそれまでよ。 それはそれでもかまわんけど、資本家にバァンとぶつけていく、苦しさをぶつけてナ、ワシらがおらんかったら山科ちゅう鉄工所はないんやデーとな。ぶっけていくことが闘うということやないか。
 
また帰ってくる
 これからのことだけどね、倒産の中で争議を続けていくわけだけど、やはり一人ひとりが迫られてくる局面がやってくるという ことも予想されるわけだね。
 折田 僕の場合は兄貴が鹿児島県で牛を飼って生活している。そんな生活もしてみたいという気もフッとするわけだけど、帰れる余地もまったくないし、解散になってもこちらで仕事を見つけていきたい。
 ――仕事を変えてみたい気はある?
 折田 今でもまだまだ半人前だし、むつかしい修理なんかでももっとこなせるようになりたいし、仕事を変えたいとは思わないです。給料のエエトコ、エエトコを探すのはみじめやと思う。今の所は仲間意識もあるし、そんな所で仕事を見つけたいし、次の会社へ行っでも組合運動は続けたいと思う。今の争議を通じてある程度信頼される人になって卒業したいと思ってるんだけどね。
 ――花田さんはどうかな?
 花田 仕事はこっちでやっていきたいと思うナ。田舎におっても仕事はないし、西成もええとこやし。初めはイヤな感じがしたけどナ。
 ――西成が気に入ったわけ?
 花田 やっぱしええとこやと思うナ。にぎやかやし、広いしナ。こっち来たとき(身長 が) 百五十しかなかったんよ。今百八十あるしナ。食いもんも良かったと思う。解散になったら一度は国に帰るけど、また来てな、同級生と一緒に仕事みつけられたらと思う。
 
嫁さんは西成から
 ――木村さんはどうかな?
 木村 仕事をもっとおぼえて、できたらこんな仕事をやっていきたい。仕事もひと通り出来るようにナ。 溶接だったら溶接だけにこだわらんと、機械もわかる、ガスも出せる、施盤も使える、クレーンも動かせる。実際現場で使えるようにナ。免状取ってもあんまり関係ないし、免状あって役に立つのは車ぐらいと思う。
 ――組合運動は続けるのかな?
 木村 ゼニカネで人に頭を下げるんやなしに、ぶつけるときにはバァンとぶつけられる そんな人間になっていきたいとは思う。
 ――西成って何かな?
 木村 西成やったら隅から隅まできっちりわかるけどナ。 西成って何やいわれたら、そうやナ、嫁さんもらうんやったら西成からやと思てるけどナ
 
 山科鉄工所を南へ一キロばかり下った所に、佐野安造船のドックがある。佐野安造船は木津川両岸に立ち並ぶ工場街の中でも老舗であり、佐野安造船労働組合(第一組合)はその戦闘性を誇ってきた。
 稲葉一一三さん(五十六歳)は戦地から帰って、終戦になるとすぐ徒弟として佐野安に勤務した。十数年にわたって労組の委員長を務め今年で定年を迎える。
「結局、昔の私たちと同じゃないですか。よい賃金がほしい、楽な仕事につきたい。私は徒弟制度が我慢できませんでした。それが組合をやった動機です。 私は近頃の若い者は、という言い方は嫌いですね」。
 夕ぐれになると南津守の工場街は、赤茶けた空と錆びた灰色の風景に包まれる。 工場街をはさむ木津川には、苔むした巨木が重なるように浮んでいる。自転車に乗って帰りを急ぐ青年たちの頬は寒風に打たれて赤く染まっている。
 ナイーブで、たくましく、ういういしくて したたかな彼ら。筆者が出会った彼らは、あるいは組合運動と倒産の劇を通して、自己と自己の労働を対象化しうる力量を身に付けた 意識層としての青年たちであるかも知れない。 だが、いくつかの偶然にまぜられた必然が、彼らにその力量を身に付けることを強いたとするなら、数知れぬ彼らが、南津守の鉄工所で、西成の町工場で、各地の工場街で生きづいているはずである。
 
一九七七年 現在の眼
特集号「いま若者たちはどこに」4月号より
転載
 
 
 
30ページ
争議経過
1976年
1月
◇経営危機に直面―社長経営意欲無し、出社せず。
◇五味屋㈱・対山科鉄工の支配権強化
◇合理化提案
・社外工・嘱託の首切り←→白紙撤回
・土地一部売却・営業部独立・新会社設立(ヤマシナ・エンジニアリング(株))
・営業新会社に五味屋常務派遣される。
 
※五味屋㈱とは
山科鉄工(株)と総代理店契約を持ち、販売・金融両面より、 全面的な支配権を有す。 大阪立売堀にある機械・工具の商社である。
(大証二部上場)
山科鉄工は「倒産する能力すら有し得なかった」。倒産前 一年間は五味屋の商業上の利害、及び債権保全の為の期間 として「生かされた」と言った方が正確である。
 
9月6月
◇経営状態更に悪化
五味屋は、山科鉄工及び山科下請工場全体に量産体制を指示。 当然、資金繰、困難に直面。
◇賃金の遅配・配発生
 
11月
◇山科・五味屋、共同で債権者に対し「山科鉄工再建協力委員会」の結成を要請→手形ジャンプの依頼。
◇山科鉄工の経営危機表面化
◇内整理(任意和議)による再建案提案
=合理化案提出
五〇%の人員減
二〇%の賃金カット
一時間の時間延長
労使休戦(スト・組合旗の禁止)
 
11/19
◇組合工場占拠体制に入る
◇和議法に基づく再建に政策は転換される。
経営者・債権者一体となって和議案 (合理化) 迫まる。←
 
12/7
第一回手形不渡―倒產→組合拒否
 
12/16
ヤマシナ・エンジニアリング㈱全員解雇
 
12/20
◇山科鉄工従業員全員解雇←→組合拒否→経営者撤回
 
12/28
破產法申請
◇健康保険資格喪失届け
 
1977年
1/ 10
◇大阪地方労働委員会に不当労働行為救済申し立て 2号事件 以降
<被申立人・山科鉄工㈱ヤマシナエンジニア㈱・五味屋㈱三者
 
1/15
大阪地裁にて破産法に対し審尋(都合三回開らく)
 
2/10
◇大阪地裁 破産宣告 (破産管財人=葛城弁護士)
 
2/14
破産管財人、組合員の自宅に解雇通知郵送。
地方労働委員会に不当労働行為救済申立。 11号事件
<被申立人、破産管財人破産申立債権者両者>
前、二号事件と併せ、現在に至るまで係争中
◇山科経営者・管理職、別会社設立の動ごき。
 
※破産申請は、山科鉄工の一般債権者が申立ているが、申立費用は山科鉄工社長が出しており「三者破産を装う自己破産」である。
 
3/14
第一回債権者集会
(於) 大阪地裁
山科の営業継続の廃止、多数決で決定。
 
5/1
「山科退職者同盟」結成。
組合の工場占拠、有体動産等に対し、管財人に圧力をかけるなどくりかえし攻撃。
 
7/18
健康保険、資格継続勝ち取る。
◇経営者・管理職、別会社㈱ヤマシナ設立
貸工場を転々とし、現在は、五味屋㈱の貸工場提供により生産を継続。
 
8/20
NHKテレビ「若い広場」で「倒産からの出発」と題し、争議の様子放映される。
=五味屋㈱・㈱ヤマシナ全面協力関係
 
8/30
支部第十一回定期大会。
◇五味屋㈱より地労委を介して和解交渉を要請。
別会社㈱ヤマシナに抗議行動(西成警察・介入)
決裂
 
9/22
◇五味屋㈱、大阪地裁に「土地・工場、明け渡し」提訴
<土地・工場明け渡し、不法占拠に対する損害賠償>=現在係争中
 
※倒産以降、アルバイトと工場内にある仕掛品を完成さすことを通じ生活を確保し、併せて以降、本格的自主生産体制に入っていく資金的土台も作くってきた。
 
1978年
1/5
◇五味屋㈱ 本社前抗議行動 (西警察介入)
 
3/30
五味屋㈱社長=佐藤昇三郎→和解解決を要請す。(拒否)
 
5/26~28
五味屋(株)機械工具九州展示会に別会社(株)ヤマシナ製品展示
九州現地での抗議行動
 
11/21
別会社㈱ヤマシナの工場発見→再び逃亡
 
1979年
2/7
阿倍野労働基準局 労災保険の件で交渉。
 
4/16
土地・工場、明け渡し、裁判有り。
 
9/14
支部第十三回定期大会。
 
 
 
編集後記
五味屋、山科両者による倒産攻撃、そして一般債権者による破産申請から、早くも三ヶ年を経過しようとして居ます。 この間、私達は、工場を経営者の存在しない中にあって、労働者自ずからの手による自主生産体制を展開してきたところです。この小冊子は、山科鉄工の総括と同時に、私達が現代の社会状況の中にあって将来の夢すら持てないといった状況を打ち破る為の考え方と同時に、三ヶ年間に渡る自主生産下の中で、我々が求めて来たもの、又、求 るべき夢を現わしたものです。我々は、今後の夢を、この様な考え方で進めて行きたいと思います。
 以上、最後に時間の制約の中で一部しか記載できなかった事を、深くおわび致します。 次回の発行紙にはもっと充実したものにしたいと思います。
「編集実行委員会」
 
 
 
発行者
大阪市西成区南津守4-1-2
総評全国金属
山科鉄工支部
山科鉄工自主管理研究会
TEL:06 (657) 0252
 
印刷所
(株)国際印刷出版研究所
TEL:06(551) 6854
 
発行日
1979年11月10日
 
¥300