読んだ。 #言語が消滅する前に 「人間らしさ」をいかに取り戻すか? #國分功一郎 #千葉雅也

読んだ。 #言語が消滅する前に 「人間らしさ」をいかに取り戻すか? #國分功一郎 #千葉雅也
 
第1章 意志は存在するのか―『中動態の世界』から考える
・「する」か「される」かではない行為
・意志という概念の矛盾
・依存症からの問いかけ
21 僕は依存症からの問いかけは、ある意味で哲学への挑戦だと思ったんです。20世紀には哲学の中で、近代的な責任主体、つまり意思を持って自発的に物事を選択して生きていく理想的な人間像というものの虚構が批判されてはいた。けれどもそれはある意味では批判に留まっていた。でも依存症に日常的に向き合っている人たちには、それがまさしく生きられた問題としてあって。意志や近代的主体を批判するだけでなく、まさにその先に進まなければどうにも対応できない課題に直面していた。
 上岡さんは依存症からの回復においては「ちょっと淋しいけど、ちょっと退屈だけど、まあいいか、こんなもんか」というぐらいの状態に自然に入っていけるようになることが大切だとおっしゃっていました。これは僕の『暇と退屈の倫理学』が論じていた問題です。上岡さんはこの本にものすごく関心を持ってくれました。この意味では『中動態の世界』は『暇と退屈の倫理学の』続きという側面もあります。
 
・文法には思想的な意味がある
23 文法には、単に言葉がこういう約束になってますよというだけじゃなく、思想的な意味があります。人間の考え方には、言葉の仕組みによってある程度縛られている部分がある。つまり、こういう言葉の使い方をするからこういう考え方になってしまう、という側面がある。そういう前提に基づいて、言葉が別だったら考え方も違っていただろうと、古代の中動態的な、プロセス的な発想を掘り起こしていくという形になっているわけです。
 
・古典語を勉強する魅力
・勉強には中動態的な良さがある
31 僕は「研究」という言葉に昔から抵抗があるんだよね。「究める」ってのがおこがましく感じる。僕は自分のやっていることは研究じゃなくて勉強だと思ってますね。勉強とは「強いて勉める」でしょ。「強いて勉める」ことが大事ですよ。
 究めることはないんですか。
 究めるなんていうことはない。この本も勉強の成果なんです。
 先ほどの「回復することは回復しつづけること」という話と絡んできますね。勉強も中動態だと。
 そう。勉強しつづけるプロセスだけがあるわけだから。
 何かを達成するとか、そういう能動態的な発想が間違いですね。
 研究というのは非常に能動的な言葉だからね。
 自分の外部で何かが完結するってことでしょ。
 そういう感じ。勉強には、そうじゃない、中動態的な良さがある。「強いる」とか、「勉める」とか、そういうのは大切ですよね(笑)。
 
・法律的発想で取りこぼされるもの
33 また、本にも書いているように、われわれが社会を動かしていくときに利用してきたのは法律だけじゃない。法律は現在、社会を最も包括的に規制している規則ですけれども、僕らが従ってきた規則はそれだけじゃない。宗教もそうだし、文法もその一つでしょう。
 なるほど。言い換えると、世の中は、法的な帰責性の判断だけで動いているわけじゃないということですよね。法的に責任があるから悪い、ないから悪くない、ということだけでうごいてるわけじゃない。
 僕の言い方でいうと、もっとグレーゾーンで動いていることがたくさんある。たとえば何かが表立って問題になると、責任を法的に問うという話になるけど、そうなる前のところ、水面下でのやりとりとか、内々で処理するとか、そういう次元で、物事を調整したりということがある
 世の中ではそういう次元がすごく大事であって、何でもオープンに、どっちが悪い、どっちがやったんだ、やられたんだという話にしてしまうと、多くのリアリティが取りこぼされてしまうわけです。
 
・近代的デカルト方式に対抗したい
アレントがたどりついた「非合理的な意志」
42 彼女は「意思の自由」を、中世哲学の言葉を使ってラテン語で「リベールム・アルビトリウム」と呼んでいます。つまり言い換えればアレントは、自由の問題をリベールム・アルビトリウムの問題に還元してはいけないと言ったわけです。
 
 アレントが言う自由とは政治的自由のことだったからですね。
 
・「無からの創造」を認めるのか
44 認める立場はありなんです。それは別に神学者になるということではない。たとえば精神分析は無からの創造を認めるでしょう。ジジェクもどこかで、精神分析という行為は既存の象徴秩序の破壊を伴っており、それは無からの創造を認めることだと言っています
 僕はある一定の立場からは無からの創造が支持されうることは知っていて、知っているからこそ、無からの創造は自分は認めない、と言っているわけです。これは「それを認めるのならば、いろいろ引き受けなければならなくなりますが、いいですね?」という問いの投げかけなんですね。
 ちょっと補足します。僕は今回、アレントの件でなるほどと思いましたけど、これはサルトルもそうですね。サルトルが言ってる自由も、基本的に無からの創造です。人間がいままでの文脈とまったく関係なく、その人が起点になって新たな行為を起こすことであり、それが革命につながる、そういう発想ですよ。
 そもそもカール・シュミットがそうだった。シュミットが言う決断とは、事実上、神学的な無からの創造だということは、確かレーヴィットか誰かが批判している。
 だからアレント以外にも、ある種革命的な、新しい行為を始めるタイプの自由を主張する議論では、人間がまるで神であるかのように、無から行為を引き起こせることを支持するという系譜がある。
 今回、國分さんはそれを問題にして、そうではなく、もっとプロセス的、連続的な状態の方を基本として考えましょう、という話をしてるんですよね。
 ややテクニカルな展開をします。僕が思うに、スピノザの世界観だと、この世界が神、すなわち自然なわけですよね。それ自体は自己原因で、内在的なものとしてある。その中で、われわれ個々人は、巨大な布地みたいな神様の中のひだのようなものとして存在している。僕はスピノザにおいて、世界の始まりがどういわれているのかはわからないし、そういう議論があるのかどうかもわからない。でもともかくも、神、自然が自己原因であるわけですよね。
 すると、推測的な議論になりますが、アレント的あるいはシュミット的、サルトル的な意味での決断する人間は、まさに自己原因的な存在者と言えるんじゃないか。だから、彼らの議論を認めてしまうと、スピノザ主義に反対することになる。つまりスピノザ的な神の自己原因性を、個々の存在者に認めることになる。ここの存在者が巨大な布地のひだであるどころか、全部バラバラになって、それぞれが内在的な神になっちゃうというのが話なのかなと思うんですが。
 そうだと思う。スピノザは神という名の実体に始まりはないと言っているから、それを明確に否定しているわけですね。
 なるほど。ずっとプロセスなんですね。
 ずっとプロセスしかないわけです。当然、自己原因としての一人ひとりの決断という物も認めない。だって、それは様々な原因によって規定されているにすぎないからね。千葉君の指摘はまさしくその通りで、スピノザ的な見方とアレント的な見方は全面的に対立する。
 今回僕は、スピノザの方に立って、アレント的な見方を批判しているけど、僕自身、アレント的な見方をそんなに簡単に退けられるとは考えていません。何というかな、人間主義的な見方、人間ぐらいの知性で世界を見たときには、やっぱりアレント的な見方が必要になると思うのね。たとえばアレントは、人間が奇跡を起こす能力があると言っている。
 そういうことを言うのが、アレントのよくわからないところですよね。
 でも、それは実は簡単なことで、それまでの物事の流れを中断できる、ぶった切ることができるのが奇跡なんだと言っているわけ。だから、イエスの奇跡も、水の上を歩いたとか、5個のパンをたくさんに増やしたとか、そういうことじゃなくて、今まで起こっていた物事の流れを中断して、流れを変えるという点で、イエスは奇跡を起こしたんだと。
 僕はそこにピンとくるんです。その意味での奇跡はいろんな人に起こせることだし、実際、起こっている。
 流れを変える、空気を変えるということですね。
 歴史とはそういう奇跡でできているというアレントの主張もその通りだと思う。たしかにスピノザ主義的な神の視点から見たら、そこにも全部原因があるという話にはなってしまう。でも、人間ぐらいの知性から見たら、歴史には確かに物事の流れの決定的な中断は見いだせる。だから、僕自身はスピノザ的な見方とアレント的な見方を使い分けているところがあります
 
・プロセスの中にある「中断」
49 ただ、僕は確かに切断ということを言うけれど、それはアレントみたいに能動的な切断じゃないんですよね。僕の切断は、あるプロセスが続いていて、そのプロセスの中に自分がいて、それがはたと切れるという話なんですよ。だから僕は、中動態的な状態と切断という物を組み合わせて話をしているんだなあという自覚が、ちょっと湧いてきました。
 切断というより、中断みたいな感じかな。
 そう。最近、僕は中断という言い方をしています。例外状態とかそういう大げさなことじゃなくて、もっと日常的に起きる中断に興味がある。
 依存症的なプロセスから別のプロセスに変わる、何かへの依存から別の生き方に変わるというときも、決定的にプロセスを終わらせるのとは違う、中断的な何かが関係しているのではないかという直感もあります。
 
もっとプロセス的なものだということですよね。改良主義のように言われることもあるんじゃないですか。
 
・考えるディスポジションを育てる民主主義。
disposition 性質、気質、性癖、傾向、たち、感じ、気持ち、配置、配列、配備
53 最初からこうするべきだという、完成形としての目的を提示するんじゃなくて、考えることへの勢いをつける。向かう先はみんな違っていていい。態勢であり、傾きである「ディスポジション」ですね。
 意見や世論はできあがったものとしては存在していないんだよね。意見も世論もつくり上げていくものです。でもアレントの政治って、出来上がった意見を持っている立派な大人が集まって成立するというイメージでしょ。
 逆に言えば、アレントはそうじゃない人のことを排除している。
 明らかに排除しているね。
 
・哲学の役割
55 それに言葉を継ぐと、ものを考えるディスポジションを育てていくときには、哲学がとても重要だと思うんです。何かの問題への解決策として、世の中でものすごく陳腐な結論が出てくることがあるでしょう?哲学を勉強していると、その陳腐さに気づくことができる。というのも陳腐な結論は何かを隠蔽している結論だから。
 
56 「人生の真理、究めちゃってるんですか?」みたいに言われることもあるんですが、全然そうじゃない。哲学って真理を極めることじゃないんですね。何か問題があって、その問題に応えようとして悪戦苦闘する中で何か新しい概念を作る。あるいは既存の概念を利用する。哲学というのは問題の発見に始まるこのプロセスだと思うのね。これはドゥルーズも言っていることですね。哲学において大切なのは真理じゃなくて、問題とそれに答える概念だと。『中動態の世界』の場合だと、依存症とか民主主義とかいろんな問題との出会いがあって、それに応えようとして悪戦苦闘した結果、中動態という概念を僕なりに練り上げることになった。
 
・授業は中動態でないといけない
・文法軽視の語学教育
・人間は言葉を使わなくなっている
66 言葉がただの道具になっていて、そこに引っかかることがない。だから、絵文字に置き換えてもかまわないし、記号に置き換えてもかまわない。言葉が言葉であるという理由がない。要するにコミュニケーションが全面化している。これはすごく逆説的な言い方だけど、言語というのはコミュニケーションのためだけにあるものじゃなかったんですよね
 
・道具としての言葉、物質としての言葉
70 今聞いてて思ったんだけど、千葉君って、あんまり小説の話はしないよね。
 小説、苦手なんです。というか、人間と人間のあいだにトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくというのがアホらしくてしょうがない。だって、人と人のあいだにトラブルが起きるって、バカだってことでしょ。バカだからトラブルが起きるのであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから、物語なんて必要ないわけです。つまり、魂のステージが低いという前提で書いているから、すべての小説は愚かなんですよ。だから、僕は小説を読む必要がないと思っているの。
 ここでいきなりものすごいラディカルなテーゼが出たね(笑)。
 でも、詩には人間がいないから物質だけだから。それはすばらしい。
 なるほど。そういうことなんですね。
 
・表現をめぐる折り合い
73 よく言われることですが、コミュニケーションの手段が非常に発達したことで、プロとアマの境界がなくなってしまった。音楽だって、誰でも簡単に世界中に自分の作った曲を届けられますからね。
 
・勉強することの中動態的喜び
76 ここ数カ月ぐらい、プロジェクトという言葉について考えていました。最近、何をするにもプロジェクトが多すぎる気がして。「プロ」というのは前に向かうことですが、層ではない状態で何かをすることは出来ないのかと考えていた時に、今回の「中動態」とい言葉を知って、なるほど、これはもしかしたら一つの方向なのかもしれないなと思ったんです。つまり、プロジェクトではない活動を、別で持っている方が、人間の精神状態や身体として健全なのかなと。今日のお話との関連で、プロジェクトについてはどう思われますか。
 とても面白い質問ですね。プロジェクトと言えば、何といってもハイデガーですね。ハイデガーは「投企」という言葉を使って、人間をプロジェクトする存在として捉えました。人は決断して未来に向かって自分を投げ込むことによって生きているし、生きるべきであるというわけです。僕は『暇と退屈の倫理学』でそれを批判しました。今日の意志の話と直結しますが、決断はゼロを求めることになるからです。
 ただ、ハイデガーという人自身がとても揺れていて、その後、それじゃだめだとすぐに反省してしまうんです。変わり身が早い。パっと反省して、能動でも受動でもないゲラッセンハイト、「放下」が大切だと言いはじめるんですね。ゲラッセンハイトのことは『中動態の世界』でも少し論じましたが、簡単に言えば、流れに身を任せるような状態のことですね。
 こう考えるとハイデガーはプロジェクトという考え方に結局は批判的だったということかもしれません。
 
 
 
第2章 何のために勉強するのか―『勉強の哲学』から考える
・メタ自己啓発としての『勉強の哲学』
・教わることそのものの重要さ
Evernoteという「半他者」
・「キモい」と判断するのは誰か
88 人はキモい時、自分のことをキモいと判断することができるのだろうか?
 たとえば、僕自身は大学生のとき、超キモかったですよ。
 いつ頃がいちばんキモかったですか?
 大学二年生ぐらいかな。現代思想とかを勉強して、すごく偉くなった気でいたわけ。「世界は間違っている。俺が正しい」と本気で思ってた(笑)。それがたぶん大学四年生ぐらいまで続いた。「寄らば斬る!」みたいな人間で、議論して相手を泣かせたりとか、入学式にへんな宗教団体がくると、「みんなで論破しに行こうぜ」って乗り込んだりとかしていた。いま振り返ると、ひどくキモいわけです。ところが当時の僕は当然ながら自分のことをキモいなんて思っていない。
 キモい自分に没入していますからね。
 キモくなるってそういうことなんですよ。実際にそれが起こっている時点では、自分ではわからない。逆に、「俺はいまキモいな」と思う程度じゃ、大してキモくない。
 だとすると、「キモい」は、いったい誰がどうやって判断しているのか。最初にこの本を読んだ時に、いちばん気になったのはそこです。かつての自分を思い出しながらね。
(略)
 もう一つ言うと、かつての國分さんのように完全に没入してしまっているキモい人でも、この本を読めばキモさの構造が分かるようになっている。具体的には、この本では、キモさをアイロニーとユーモアから説明しています。話のちゃぶ台をひっくり返すようなことを言うのがアイロニーで、話を転々とさせていくのがユーモア。その二つが、周りのノリからずれてキモくなることだと説明しているわけです。ということは、完全にキモい人が読んだら「あ、自分はこれをやってる」と気づくんじゃないか。
 気づきました(笑)。自分のかつてのキモさは、アイロニーの徹底だったんだなって。
 
・勉強は孤独と切り離せない
92 でも僕は、世の中からズレているって、基本的に大事なことだと思うんです。たとえば、この本はコミュニケーション論として読めるという感想がありました。環境に合わせるというのは、定型発達的なコミュニケーションで、それに対して僕がアイロニーやユーモアの説明で出しているいくつかの逸脱の例は、どちらかというと発達障害的なケースにあたるという読み。そして、そういう逸脱的なケースにこそ思考の可能性が宿るのだとしたら、コミュニケーションがノーマルじゃない状態を肯定することになるんだと。これはすごくいい意見をもらったなと思ったんです。
 ズレるということに関して違う観点から話すと、僕はいま「孤独」がすごく必要だと考えています。ハンナ・アレントが孤独(ソリチュード)と寂しさ(ロンリネス)の違いについて書いているんですね。
 孤独とは何かというと、私が私自身と一緒にいられることだ、と。孤独の中で、私はわたし自身と対話するのだとアレントは言う。それに対して寂しさは、私自身と一緒にいることに耐えられないために、他の人を探しに行ってしまう状態として定義されます。「誰か私と一緒にいてください」という状態が寂しさなんですね。だから、人は孤独になったからと言って必ずしも寂しくなるわけじゃない
 それはいい区別ですね。
 ところがいまの世の中を見ると、孤独がなくなっている。孤独な経験がないから、人はすぐに寂しさを感じてしまう。そして、孤独はズレているときに起こるんです。世の中からズレているとき、なぜ自分が考えていることと感じていることを周りの人はわからないんだろう、と思う。それはまさしく自分自身と対話するということです。
 つまり、勉強することがズレることだとすれば、それは最終的に、孤独をきちんと享受できるようになることだと思うんです。
 そう。独学というのも、まさに孤独に生きることをいかに肯定するかを学ぶことなんですね。
 実存主義が流行った頃は孤独という言葉がカッコよくつかわれたけど、いま、あまり孤独っていわない。若い人はすぐに「ぼっち」とか言うでしょう。
 「ぼっち飯」は恥ずかしいとか。
 何がぼっちだ。いまは「仲間」とか「つながり」ばかりが強調されている時代で、孤独の重要性は本当に忘れられてしまっている。だから『勉強の哲学』から孤独のことを考えてもらいたいと思うんですよ。勉強は孤独と切り離せない。
 
・「権威主義なき権威」の方崩壊
96 これもハンナ・アレントが言っているんだけど、政治は自由で平等な人々の間で言葉を使って行われる説得を基礎にしている。その対極にあるのが暴力で、これは力で相手を圧倒して言うことを聞かせるわけです。興味深いのは権威で、これは説得と暴力のあいだにある。人が自由を保持しつつ服従するというのがアレントによる権威の定義です。つまり、自分で判断できる余地があり、自由にふるまえるんだけど、その上で「これはすごい」と思って服従する
 選択の余地があるけれども、服従する。
 そうです。殴られるわけでもないし、説得されるわけでもないけれど、自ら従う。勉強も同じようなところがあって、勉強すると「ドゥルーズすげえな」とか「プラトンすげえな」とか、そういうすごいものにたくさん出会うわけですよね。そういう出会いを通じて、何を大事にしなければいけないのか、何を破ってはいけないのかを学んでいく。
 
・異なる立場を比較しつづける人
99 じゃあ「信頼すべき他者」とはどういう人なのか。本の中では、常に歴史の蓄積のある議論に参加していて、複数の異なる立場を比較しつづけている人だと説明しています。比較しつづけている人とは、「こう決めちゃえばいい」という単純な決断を逃れている人。そして、そういう比較しつづけている人同士が信頼に基づいて、知の共同体を形作っている。我々が読むべき本も、まずそのような人が書いた本です。これはかなり保守的な発想でもあって、知的信頼の空間は、権威性を帯びている空間だと言っているわけ。その意味では、ソフトな権威主義なんですね。
 
 だけど、僕が言っている比較し続ける人は、知の共同体の中で、たえず吟味にかけられる。だから、途中で真面目な議論から降りて、他の人とコミュニケーションを取らないような状態になったら、もうその人は権威者から脱落する。つまり、権威とはそういう「知的な相互信頼の空間」を形作っていくプロセスの中にあるのであって、それは悪い権威主義に対する批判として読めると、倉下さんは言ってくれたんです。
 
・歴史の重々しさにどう触れるか
・キモさからの復帰
・人間以外の教師はあり得るか
 
 
 
第3章 「権威主義なき権威」の可能性
・ムラ的コミュニケーションの規範化
エビデンス主義の背景にある言葉の価値低下
114 「エビデンシャリズム」
 これはインターネットに加え、新自由主義的な経済体制の台頭とも相関関係にあると思います。そこでは言葉ではなくて「エビデンス」として認められている、極限まで種類を切り詰められたパラメーターに従ってのみ評価が行われ物事が進んでいくエビデンス主義の特徴の一つは、考慮に入れる要素の数の少なさです。ほんの数種類のデータしか「エビデンス」として認めない。
 そしてエビデンス主義の背景にあるのが、言葉そのものに基礎をおいたコミュニケーションの価値低下だと思います。人を説得する手段として言葉が使われず、「エビデンス」のみが使われていく。それこそアレントが言っていたような政治のイメージは、みんなが言葉でやりあってその中で一致を探るというものでしたが、言葉による説得の納得はかつての地位を失ってしまっている。
 言葉で納得するということと、エビデンスで納得するということは違うことなんですよね。
 全然違いますよね。
 
115 ところでこの場合のエビデンスとは何なのでしょうね。世の中では数字とか言われているけれど。
 基本的には、ある基準から見て一義的なもののことだと思います。多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されているもの。もちろん代表的には数字です。それに対して言葉というのは、解釈が可能で、揺れ動く部分があって、曖昧でメタフォリカルです。エビデンスにはメタファーがない。まあ、エビデンス主義者ならばメタファーを消し去ってエビデンスを行くことが必要なのだと言うでしょうけどね。メタファーの価値低下が文明論的にどれほど大変なことかが理解されていない。これがポイントでしょう。エビデンシャリズムの強まりとは、メタファーなき時代に向かっていることでもある。
 メタファーなき時代。それは立木康介さんが『露出せよ、と現代文明は言う  「心の闇」の喪失と精神分析』で言っていたことと近い感じがしますね。
 精神分析系の論者はみんな口をそろえて言っています。メタファーがなくなっていくと。われわれの無意識の構造にとってメタファーというのは基本的なものだという認識があるので、社会がかつての神経症/精神病モデルでは語れないようなものに変わっていっていると言うときの中心になるポイントです。
 
・「心の闇」が「蒸発」した社会
116 立木さんは「抑圧=メタファー」と書かれていますね。抑圧はメタファーであり、メタファーが衰退しているということは抑圧が衰退しているということだと。
 メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということですから、見えていない次元の存在を前提にしている。ところが、すべてがエビデントに表に現れるならば、隠された次元が蒸発してしまうわけです。
 立木さんの本の後半では、エビデンス批判がされていますね。
 あの本で重要だと思ったのは「心の闇」が必要だという指摘です。例として取り上げられていたのは1997年の神戸連続児童殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇事件」です。評論家たちは犯人の少年の「心の闇」について語った。でも、むしろ「少年は、残念ながら、心の闇をつくり損なった」のであって、自らの「苛烈な欲望」をその闇にしっかりとつなぎとめておかねばならなかったというのが立木さんの指摘でした。
 きちんと「心の闇」を作ることが大事なのに、それがいままさしく「蒸発」してしまっている
 あるいは、至る所にダダ漏れになっている。かつてだったら2ちゃんねるみたいな空間に「心の闇」が一応は隔離されていたのが、いまや2ちゃんねる的言説がSNSの至る所にまき散らされている。これは松本卓也さんが言っていたことなのですが、本来だったら無意識に書き込まれるべきことがネットに書き込まれている。
 なるほど。「心の闇」による隔離が弱まった結果、これまでだったら人目に触れるはずのなかったような欲望がネットに書き込まれれるようになり、ネットはまるで無意識が書き込まれる場所のようになっている、と。
 こうやって「心の闇」の機能を論じていると思い出すのがアレントのことです。彼女は『革命について』の中で、「心の特性は暗闇を必要とし、公衆の光から保護されることを必要とし、さらにそれが本来あるべきもの、すなわち公的に表示してはならない奥深い動機にとどまっていることを必要とする」と述べ、まさしく「心の闇」の機能を肯定的に論じています。
 どうしてアメリカ革命とフランス革命を論じた本でアレントがそんな話をしているのかというと、これはロベスピエールに対する批判として出てくる話題なんです。ロベスピエールは社会から偽善や欺瞞を廃絶しようとした。だから人間の心に徹底的に光を当てようとするんだけれども、アレントに言わせれば、動機というものは明るみに出された途端、その背後に別の動機を潜ませているように思わせてしまう「動機は、その本質から言って、姿を現すことによって破壊される」アレントは言っています。つまり、追求すればするほど、さらに奥に別の動機が潜んでいるのではないかと思われてしまって、結局その人間は疑惑の対象になる。
 「お前は偽善者だ。反革命だ」ということになって、ギロチンにかけられることになるわけです。何でもかんでも理性の光の下にさらそうとすると全員偽善者になるので恐怖政治が起こる。これがアレントによるロベスピエール批判なんですね。
 これは実に現代的な問題だなと思うんです。思い出すのは学生たちの就活のことです。「うちの会社を志望する動機を教えて下さい」と訊かれ続けている就職活動中の学生たちというのは、ロベスピエールの前に立つ革命家のようなものではないか。さらに厄介だと思うのは、ロベスピエールは「おまえは偽善者だ!」と言ってきたけれど、いまのしゃかいはその偽善を突くんじゃなくて、そうして語られた「動機」を評価してくるし、場合によっては信じてしまうわけでしょう。これは、心には光を当てても見えてこない闇の部分がどうしても残るのだという感覚をずっと否定されれいるということであって、これでは自意識がおかしくなってしまうのではないか。
 うまく偽善者ぶれるかどうかというゲームがあるのかもしれませんね。しかしそのアレントの話は興味深いものです。言い換えるなら、「心の闇」というのは不合理ですね。完全に光に照らして理性的に説明することはできないような不合理性が、他人を「一応は信じておく」ためにどうしても必要なんでしょう。完全なる信頼を目指してすべてをエビデントに説明させようとすると、人間社会は根本的に崩壊してしまう。
 
・個人の問題でないものが個人の責任に
120 現代的なコミュニケーションの主要な問題は、何でも明確に表に出して言うということの規範化だと思います。明るみの規範化。本当はそこまで言いたくない、黙っていたい、もうちょっと静かにしていたいというような気持ちを尊重してくれない。おそらくそういうタイプの一部の人たちは、自分を「コミュ障的」と自認したり、さらには「コミュ障的」であることに何らかの抵抗的な意義を込めたりするのだと思います。明るみに晒されすぎることに対する抵抗ですね。
 
・貴族的なものの消滅への危機意識
123 エビデンシャリズムに対して僕は「言葉の力」ということを言いたいと思うけれど、それは明らかにある種の不平等の肯定とつながることも同時に確認しなければならないと思います。そこには、できる人とできない人という明確な能力差がある。
 逆に言ってエビデンスは民主的なものですね。科学とはデモクラシーである。
 
 そこが厄介ですね。無意識のダダ洩れというのが民主主義の徹底状態であると。
 そこは確認しなくてはいけない。現代における民主主義的なものの徹底が持つ二面性を見据えなければ、いま起こっていることは理解できないと思う。民主主義的なものの徹底が二面性をもつという事実から目を背けてはならない。
 すると、この現状において「言葉の力」を訴えることは、ある種の精神的な貴族制を肯定することにつながると思うんです。
 
・「内なる声」と水平的な対話
 フィンランド「オープンダイアローグ」
参加者の間の「水平のダイアローグ」と、個人内部での「垂直のダイアローグ」のバランスが大切だというすごく常識的な話ではあるのですが
 
・新たなる貴族への生成変化
130 民主主義だけでよいならば、たとえば国会で人種差別を肯定する法律を作ることも可能になりますよね。しかしそれは駄目であると憲法で決めておく。
 この民主主義と立憲主義とのバランスは国によっても異なるし、答えはないと思います。上からの力をどういう形で担保しておくのかについてはいくつかのやり方があるでしょう。いずれにせよ大切なのは、民主主義は民主主義だけではうまく機能しないのだろうということです。
 
 だからドゥルーズが常に超越的なものの発生を考えていたということと、水平の次元と垂直の次元をいっぺんに考えなければいけないということは地続きの問題だと思う。
 
・教育はコミュニケーションか
ネオリベ的主体と行為のコミュニズム
138 熱い教師と一体になって「一緒に考えようぜ!」みたいなことになる(笑)。それはウザいと思う人もいると思うんです。→ネオリベが出てきた一因は、そのウザさに対する反発。
 
・原理なき判断を再発明する
139 この種のエビデンス主義は、ある意味で民主主義の徹底なんですね。誰にでも理解できる基準で物事を決めるということですから。だから簡単には否定できないのだけれども、何でもかんでも、分かりやすい公正な原理で進めればいいというわけではないでしょう。
 
・人倫、礼、逆転された保守主義
141 最近、イギリスではハード・レフトのジェレミー・コービン率いる労働党が選挙で大躍進しました。どうして勝ったのかというのをジジェクが分析していて、それがおもしろかったんです。60年代には左派の方が乱暴で、右派が上品だった。今は完全に入れ替わっていて、右派の方が下品になっている。他方、左派の方はというと、ツイッター・カルチャーに支配されつつあって、言葉の一部を取り上げて脊髄反射的にポリティカリー・コレクト(PC)を基準にして攻撃を加えるばかりで、少しも議論を組み立てられない。コービンが受け入れられたのはこのどうしようもない対立の中にはいらず、ディーセンシ―を保ちながら選挙戦を戦ったからだというんです。
 ジジェクはそこで、ヘーゲルの言う「人倫」に言及するんですね。人倫とは、はっきりというべきことや口に出してはいけないことを規定している暗黙のルールやマナーのことです。実はこういうものこそが社会において革命的な力をもつ、と。コービンは穏やかに見えるかもしれないが、人倫を体現する彼のような人物こそ、実は革命的な起爆力を持っている。これはすごくおもしろいなと思いました。
The secret to Corbyn's success was rejecting PC culture as much as he rejected rabble-rousing populism
 ああいったディーセントな左派のあり方というのは、いまの政治のあり方としてパンチ力がないような感じがする。でも実はそうではない。人倫に依拠しているということがじつは革命的な力をもちうるし、人々に訴えかけるのだという一つの時代診断ですね。日本の分析みたいな感じがする。問題は共通しているのだなと思いました。これはコミュニケーション過剰社会における一つの処方箋になるのではないか。
 
 
 
第4章 情動の時代のポピュリズム
・人間はもはや言語によって規定されていない
149 アガンベンの『身体の使用』にすごくおもしろいくだりがあるんです。アガンベンによれば、近代の哲学は基本的にカント哲学に基づいて超越論的主体としての人間を研究してきた。それに対しニーチェベンヤミンフーコーバンヴェニストといった哲学者たちは、そこからの脱出を試み、人間を規定する「歴史的ア・プリオリ」を言語に見出すことでその試みを実現しようとした。
 つまり人間は言語によって規定されている――こういう19世紀末くらいからはじまっていた20世紀的な哲学は、超越論的な主体ではなくて、話す人間、言語を扱う人間を扱っていた。これは言語論的転回の起源みたいなものですね。
 多少補足説明をすれば、カントの場合、人間の思考はそもそもいくつかの抽象的なルールによって条件づけられていると考える。それが19世紀末あたりから、人間の思考や振る舞いを条件づけているのは、歴史的に形成された言語だととらえるようになったということですね。
 そうです。「歴史的ア・プリオリ」というのは、フーコーの用いた表現です。ア・プリオリなのに歴史的というのは矛盾しているんですが、でも、実際にわれわれの思考を遡っていくと、歴史的に規定された前提みたいなものがある。それを言語に求めるのがニーチェ以降の哲学の基本になって行ったというわけです。
 問題はその次で、アガンベンはこの哲学の試みは今日、完結点に到達したと言っているんです。少し引用すると「しかしまた変化してしまったのは、言語活動はもはや、思考されないままにとどまりながら、言葉を話す人間たちの歴史的可能性を規定し条件づけるような、ひとつの歴史的ア・プリオリとしては機能していないということである」と。
 このように、人間を規定するものとしての言語は、もう終わってしまった。人間はもはや言葉によって規定されていないとアガンベンは診断しているわけですね。→動物化
 
・直接的な情動喚起の時代
153 ドゥルーズフーコーにあてた手紙で欲望と快楽を対立させていますね。欲望というのは何かと何かのあいだにいることです。満たされていない状態と満たされている状態のあいだにいて、まさしく我慢しながら頑張っている状態。それに対し、快楽とは終着点であり、どこか死とも結びついている。フーコーは快楽に関心があるのだろうが、自分は欲望の方に関心があるというのがあの手紙で言われていたことで、そこには異なる二つの哲学の方向性が示されていた。(ジル・ドゥルーズ「欲望と快楽」、『狂人の二つの体制 1975-1982』)
 でも、現代に見出されるのは、ずっと終着点に居続けているような状態ではないでしょうか。それ技術的に可能になってしまっている。
 
154 素朴な感想を言えば、我慢がなければ何ごとも成し遂げられないだろうという考えがぼくの中には強くありますね。
 でも、そもそも我慢することによって何ごとかを成し遂げるということ自体が、人間の営みの中に英雄性や特権性を持ち込もうとする発想であって、反民主的なんですよ。今日の民主主義においては、努力によって弁証法的苦難を乗り越えて出現するようなヒーローを抹消することこそが民主主義になるわけです。
 千葉君が使った「英雄性」という言葉でアレントのある概念を思い出したんだけど、彼女の考える政治というのは言語と使い方に卓越した人間が勝つ一種のゲームですね。だからそこには残酷な側面がある。けれども、他方で、このゲームを通じて平均的なレベルがアップするという側面もある。
 そのことを説明するためにアレントは「平等」と「同等」を区別しています。(『活動的生』)平等は画一化に基づいている。それに対して、同等というのは、政治参加の権利を行使するのにふさわしいという目標と同等になることを意味する。この同等の観念が決定的に失われてしまっているのではないか。
 ただ、同等になるというモチベーションを失ってしまったら、もう文化って成り立たなくなるわけですよね。
 僕もそう思う。その点でインターネットは象徴的です。インターネットには当初、知の決定的な民主化が期待された。誰でもどんな情報にもアクセスできるし、誰でもどんな情報でも発信できるという希望が語られていたし、その可能性は今も大事だとは思います。
 けれども、誰でもアクセスできて、誰でも容易に発信できるというインターネットの条件が、何らかの選別も行われていない情報の氾濫をもたらしているというのが、現段階で起こっていることでしょう。しかもそれが人々の憎しみをかきたてる方向に猛スピードで進んでいる。フェイクニュースヘイトスピーチのことです。これは民主化パラドックスというほかないと思います。
 
・左派ポピュリズムへの疑問符
158 もちろんトランプの持つ差別主義は許してはならないけれども、「自分たちが政治的決定に関われないのはおかしいじゃないか」という実感にはやはり一片の民主主義的な審理があると言わねばならない。だから単にトランプを批判して民主主義を擁護した気になっている人を見ると、強い違和感を覚えます。
 とはいっても、この実感を単に肯定するわけにもいかないので、千葉君が言う情動と言語のエコノミーをうまく作り上げなければならない。どうしたらいいだろうか。
 
 大竹弘二『公開性の根源 秘密政治の系譜学』
 この本の補論「統治vsポピュリズム?」の中で、大竹さんはラディカル・デモクラシーのポピュリズム戦略に疑問符を突きつけているんですね。
 大竹さんの議論の要点はこうです。ラディカル・デモクラシーのポピュリズム戦略は、経済的な階級闘争ではなく、さまざまな社会集団を統一的に結びつけるヘゲモニー闘争として展開される。経済的な階級闘争を社会の基底にある最終審級として立てることはもはやできないからです。そうすると、何がいま争点になるべきかは、ヘゲモニー闘争を通じて政治的に決定されることになる。つまり、左派ポピュリズムでは、その都度、人々をまとめ上げる論点を発見し、その政治的なやりくりを通じて動員を行っていくことになる。これでは個々の論点は何でもありになってしまう。大竹さんはそれを「空虚なシニフィアンといって批判しています。
 なるほど。論点はなんだっていい。反基礎づけ主義も極まれり、ですよね。要するに、何かを気に入らない人たちが、気に入らないと言って連帯すればOKということでしょう。たとえば、「安倍辞めろ」というシニフィアンで大同団結できるなら、もうそれでいいと。
 何らかの基礎や思想、理念、理想というものがなくなって、ある問題が偶然的にみんなをまとめ上げるものとして借定される。はたして、それでいいのかどうか。僕自身は「安倍辞めろ」一点張りで良いとは思えない。
 別に「安倍辞めろ」と言ったっていいわけですが、それだけを燃料にしてファナティックになってしまうのはまずいでしょう。
 それはもう普通に起こっていることですよね。ただ、政治学者が理論的に良しとするのは問題だろうと。
 起こっていることだから、理論や方法ではないですよね。
 そう、むしろ現象です。あるいは社会の表情と言ってもいい。社会は今ファナティックな表情をしている。そのとき、どうやって情動と言語のあいだのエコノミーをうまく作るかを考えるのが学者の役割だと思うんだけど。
 
・物語を失った憲法
160 言語は直接的情動に対して距離をとる。だから、ホットになっている状況に対して、クールな距離の取り方をもたらすのが言語的介入です。でも、そういうことを言うと、「冷笑系」とか呼ばれて批判されるわけです。
 
・言語を玩具的に使用する
161 言語は状況に対する距離そのものですから、言語が失墜するということは距離がなくなることです。そうすると敵対する関係の間の距離もなくなるから、もう直接衝突になっていくわけですよね
 別の言い方をすれば、言語の物質性が持つ、直接衝突を避けるための緩衝材という側面が浮かび上がってきます。この緩衝材という社会的意義が、文字あるいは芸術の存在意義と結びついてくるんじゃないですかね
 文学や芸術は、言語を道具的に直接使うのではなく、言語を言語として取り扱います。そうしうメタ言語的な取り扱いが日常の中にあるという状況が、直接情動的な方向に社会が向かい合わないための防波堤になる。
 
・遊びとしての無目的性の政治
164 たとえば五味さんが、50音表のどの文字にも「る」を付けると、全部動詞になるんだよと言ってね(笑)。
 「かる」「きる」「くる」……ああ、面白いなあ、それ。
 
165 政治は真剣にやらなければいけないというのが、決断を重視するカール・シュミットの思想ですね。決断は一度やってしまったら取り返しがつかない。それに対して遊びは、何回も何回も繰り返すことができる。繰り返しながら、法や言葉をもともとあった文脈から引き剝がすということが行われる。
 
166 真剣勝負としての合目的性の政治が目的への自己犠牲的奉仕を求めるものだとしたら、遊びとしての無目的性の政治は自由の実現が何らかの充実感をもたらす、そういう政治じゃないかと思う。やはり遊びなんだから、楽しさというか充実感がある。それをアレントの言葉を借りて固く言い換えれば、自由の実現ということになるのではないか。
 
 この遊びについての議論をさらに展開してみます。実は大竹さんは遊びを論じるなかで中動態の概念を導入しているんです。僕が言葉を足して説明すると、遊びというのは、主体が客体を操作する行為ではなく、主体と客体が関わりながら、どちらが主体でどちらが客体かわからなくなってしまうようなプロセスですね。
 遊んでいるときには主体と客体が区別できなくなる。この点に注目すると、遊びという主題は、中動態を通じて、アガンベンが『身体の使用』で論じた「使用」の概念につながります。アガンベン古代ギリシア語で「使う」を意味するクレースタイという動詞が中動態で活用することにヒントを得て、「使用」と「支配」を区別することを提案しました。
 支配というのは主体が客体を自らの思うがままにすることですね。能動と受動の対立に基づいた、主語による目的語の支配です。それに対し、使用では能動と受動、主語と目的語、主体と客体という対立が無効になる。というのも、人は何かを使うときには使われるものに自らを合わせないといけないからです。使用においては、使用するものが使用されるものに合わせて生成変化しなければならない。たとえば自転車を使う、つまり自転車に乗るためには、自分が<自転車を使用する者>に変化しないといけない。
 要するに、使うというのはサイボーグになるということですよね。
 そう、使用においては、使うものの側に変化、あるいは新しい主体化が起こるということです。そして遊びが中動態的なものであるとしたら、遊びとしての政治も、参加することで自由を実現する主体へと生成変化していくという充実感を伴なう政治ではなかろうか。
 
・なぜレイシズムに引っ張られるのか
169 政治活動は、主体化にとって非常に大きな場だということですよね。ただ、政治活動以外でも、アーティストが芸術活動で主体化するように、人は何かに熱中することで主体化される。そうするとポイントは、目的志向的な活動は何か主体化を取りこぼす面があるということですよね。
 目的志向的に動いていると、何かが疎外されるつまり、目的志向活動の外部にこそ、主体化があるわけです。さらにいうと、この主体化という言葉は、主権化とも言い換えられる思うんです。國分さんはさきほど、目的志向的に活動すると、ある方向性に一致する人々は喜ぶけど、犠牲が出ると言いました。つまり、そこで振り分けが起こる。そこで取りこぼされた人たちは、自分たちの居場所がないという不満を持ってしまう。そうではないようにするためには、いかに主体化あるいは主権化の場を、目的の外部で確保するかが重要になるわけですよね。
 その場合、「主権化」というのはどういう意味だろう?
 何が言いたいかというと、主権化を、今言ったような意味での主体化というものに定義変更するべきだということです。今まで主権という言葉は、目的志向的な行動の強者の側に割り当てられるような響きを持っていましたから。
 
 主権を求める人たちの声がなぜレイシズムに引っ張られてしまうかというと、主体化のモデルが敵に基づいているからだろうと思うんです。
 敵をやっつけることで主体化するというモデルしかないから、主体化への要求が敵を打ち立てるレイシズムに結びついてしまう。すると、いま議論しているような目的を持たない遊びとしての政治は、アドホックには敵はあるかもしれないけれども、それが主体化のモメントになるのではなくて、参加して活動していることそのものが主体化につながっていくような政治であるのかもしれませんね。
 根本的に敵対関係によって動機づけられるものではないような主体化、ということですよね。そのような政治は可能か。まさに反シュミット的な政治ですよね。
 でも、それこそがコミュニズムだと思います。コミュニズムが言っている「コミューン」とは、敵友関係がない、遊びの共通地平を開くということですよ。歴史的な共産主義運動は、ハッキリ敵を作ってやってきた。その歴史から言えば、今言ったような遊びとしての共通平面を立てるというのは、どちらかというとアナキストが考えてきたことだと思います。
 
・クール、レスネスの遊戯空間
171 アレントの純粋な公共空間って、極端に突き詰めれば、何も決定しない社交空間ですよね。パーティーですよ。
 というのも、アレントが考えた公共性のアクションの空間は言語によって成立するわけです。そして、そのような空間が目的的というよりは、共存することを目的とするような、つまり脱目的性こそを目的とするようなものであるとするならば、それは遊びの空間になる。社会のなかにそう言う空間を分離できるかどうかは別問題として、理念としてはそうなると思います。
 そうだとすると、アレントの公共空間が言語的空間だということは、まさに言語の定義と一致します。つまり、直接的に何かを実現するのではない、間接的で、迂回的なもの、玩具的なものであることと一致する。結局、言語空間を言語の本性において徹底するならば、それは遊戯空間になるわけです。
 遊戯空間こそがアレントの考える自由の空間ということですね。そしてソリューションの政治には自由は全くないし、行政による統治は自由とは無関係に実現可能である。
 現実の政治は、資源の配分なり国境なり、有限性によって印づけられているから、その中でソリューションを出さざるを得ない。だから純粋な言語空間にはなり得ず、どうしても非政治的なものと政治とのハイブリッドになってしまいます。むしろ、今言ったような政治空間が純粋に実現されているのは文学であり言論なんですよね。
 政治を遊戯空間と捉えると、左派ポピュリズム的な空間との違いもはっきり分かりますね。遊戯空間は先述した「使用」と結びついている。自分が言葉を使いながら主体へと生成変化するわけですね。それに対して、「空虚なシニフィアン」によって動員される空間では、何かを使うのではなく、いわば情動的に自分がその「空虚なシニフィアン」によって支配されてしまうのではないか。
 そうですね。ポピュリズムはホットだけど、遊戯空間はクールなんですよ。遊戯空間はそれが遊戯だとわかっているので、夢中になってもやめられる。ホットに沸騰している状態はやめられないでしょう。
 
 ベルサーニが言ってることですが、社交性は自分の実存を100%懸けて関わることじゃなくて、自分をより少なく、「レス」にして関わることだと言うことですね。ベルサーニは、社交性とは「レスネス」だと言ってます。
 
・他者に依存していることを認める
グローバル資本主義化で問われる「主体化」
 具体的にはフーコーも論じたプラトンの『アルキビアデス』という対話篇を引いています。対話の中でソクラテスは「使うものと使われるものは違いますよね」という。たとえば靴職人がナイフを使って皮を切るとき、ナイフと靴職人は別である。だから、使用関係において、使うものと使われるものは区別されねばならない。でも面白いことに、そこで話をやめておけばいいのに、ソクラテスがさらに話を進めて、「しかし、靴職人は自分の手や目も使うのではないかね」というんだよ(笑)。そうすると「あれ?」となっちゃう。
 ソクラテス、半端ないですね(笑)。
 プラトンがそこで「ここには支配関係と違う、使用関係がある」と気づいていたら、違う哲学史が始まったかもしれない。あらかじめ存在している主体が何かを使うのではなくて、使用の中で主体化が行われるという哲学が生まれたかもしれない。でも、プラトンは何としてでも使うものと使われるものは違うという図式を維持しようとするから、人間においては魂が身体を使っているのだ、魂が使うものであり、身体が使われるものなのだという我々のよく知る図式がそこででてきてしまう。つまり、魂が身体を支配する関係で人間を考えてしまうわけです。
 僕は哲学史において、この時こそ中動態の論理が抑圧された瞬間ではないかと思うんです。『中動態の世界』の中で、「中動態を抑圧することで哲学ができあがった」というデリダの言葉を紹介しているけれど、使用を支配に還元したこの瞬間こそ、プラトニズムが誕生した瞬間ではないかとすら思う。
 「主体化」という概念は、今本当に考えるべき問題だと思います。グローバル資本主義が全体的に事物を脱文脈化し、何でも交換可能な状態にして流動化させていく。その結果、自分の固有性が失われ、何とでも交換できる入れ換え可能なものになっていくわけです。そのときに、どうやって自分の固有性ある特異性をもう一回取り戻すか。それが主体化の問題と関わっているわけです。
 グローバル資本主義に対するバックラッシュとして生じている、レイシズムとセットになったナショナリズムも、自分は自分なんだということを何とかして言おうとしている症状だと思うんです
 
 
 
第5章 エビデンス主義を超えて
・「炎上」したアガンベンのコロナ発言
181 スペイン風邪―1918年から1920年にかけ全世界的に大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称。
全世界で5億人が感染したとされ、 世界人口(18億-19億)のおよそ27%(CDCによれば3分の1)とされており、 これには北極および太平洋諸国人口も含まれる。死亡者数は5,000万-1億人以上、おそらくは1億人を超えていたと推定されており、人類史上最も死者を出したパンデミックのひとつである。
 
182 アガンベンは、僕に言わせればもともと保守的な傾向がある思想家ですが、安全と引き換えに易々と死者の権利や移動の自由を引き渡す社会に対して、強い警笛を発しました。(アガンベン『私たちはどこにいるのか? 政治としてのエピデミック』)
 コロナ禍の中、死者たちが葬式もなされぬままに埋葬されている。人々はそれを受け入れ、驚くべきことに教会ですらそれについて何も言わない。しかし、死者が埋葬の権利をもたない社会、死者の権利を踏みにじる社会で、倫理や政治はどうなってしまうのか。そもそも、生存だけを価値として認める社会に意味があるのか。アガンベンはそう問いかけるわけです。
 移動の自由についてはこう言います。過去にも深刻な伝染病はあった。にもかかわらず、それを理由にして移動の自由すら奪う緊急事態宣言を行うことなど、戦争中ですら誰も考えなかった、と。
 その結果、世界中の哲学研究者から総スカンを食らい、「炎上」騒ぎが起こるわけです。でも僕は、アガンベンの挙げた二点はコロナ禍を考えるうえで極めて重要な問題を含んでいると思うんです。
 
・右・左とは違う新たな分割線
184 こうした状況に対して、右・左の分割線とは違う分割線が引かれているんじゃないでしょうか。つまり、絶対安心・安全という側と、リスクとともに生きていくことに人間的意味を見出す側の分割線がいま引かれていると僕は思うんです

 以前、千葉君が作った「たばこと政治の相関関係」という図がありますね。この図の左上にある「ネオリベラリズム+普遍主義」とは、リベラルな立場から無迷惑社会に賛同する左派の禁煙推進派のことだと説明しています。つまり千葉君は、右と左以外の対立軸を設定しないと、左派のリベラルがネオリベラルな国家主義と通底してしまうことに気づけないんだということを、この図で言おうとしているわけです。その分割線が、いま言った安全・安心リスクとの共生、というものですね。
 そうです。アガンベンは後者ですよね。彼にとって、安心・安全を至上命題にすることは、死が無意味になることでもある。それだったら、リスクとともにあったとしても、意味がある死を死ぬべきだという立場をとっている。というのも、つまりアガンベンは、現在は収容所における人間の扱いと似たものが全面化していると捉えているからです。収容所で死ぬことは意味のある死ではない。「ホモ・サケル(剥き出しの生)」だから。それより犠牲の方がはるかにマシだし、人間の本来性があるというのがアガンベンの話で、筋は通っているんですよ。
 そうなんだよ。他にもアガンベンは、コロナのなかの教会や宗教者に対して、殉教者たちの教えを忘れたのか、信仰よりも命を犠牲にする用意がなければならないと厳しく問い質しているんです。僕はそういうアガンベンに共感するところがあるし、実際2020年はさまざまなイベントやメディアでアガンベンのことを話した。けれども、僕自身にはアガンベンのように発言する勇気まではなかった。
 
・否定性とともに生きていく意味
186 アガンベンの問いかける問いは、ネガティビティ(否定性)の問題にもつながっています。かつては、セクシャル・マイノリティが世の中に対して、どこか否定的で斜に構えた態度をとることにクィア・ポリティクスの本質があったと僕は思いますが、最近ではそうではなく、まともな市民としての包摂を言う方向性が強まっています。要するに、すべてのマイノリティが不快な思いをせず、安全に生きられればいちばんいいんだ、という考えが強まっているわけです。
 僕はそれがマイノリティの問題のすべてなのかとつねづね疑問を感じています。やっぱり、多少苦労があったり、お互いに対する否定的なものがあったりしても、それとともに生きていくことにこそ、人間的な意味があるんじゃないのかアガンベンのように「殉教」とまで行かなくても、否定性とともに生きていくことが、意味のある死を死ぬことにつながると思うわけです。逆に、何も考えなくても自分の安全が確保されて、予防医療で病気もギリギリまで抑えて、死ぬ時に死にますという死に方はすごく空寒いものがありますよ
 否定性とともに生きていくというのは、抽象的にいうと難しく感じられるけど、具体的に考えればよくわかることなんだよね。それこそ否定性がなかったら勉強なんかできない。博士論文を書くのは苦しいし、卒論を書くのも苦しい。投げ出したくなるかもしれないけれど、苦しいと思いながら乗り越えることで成長するんだし、得るものがあるわけです。だから何か苦労をし、不快さとともに生きていくことは、人間らしさの一つだと言いたいですよね
 
 たとえばつまらない話だけど、最近、ケーキを買うと「これでよろしいですか?」って確認させられるんです。ショートケーキとチョコレートケーキって言ったんだから、よろしいも何もないと思うんだけど。ああいう対応は昔はなかったよね。あれは、こちらの言質をとろうとしているんです。
 それで責任回避しようとしているんですね。今は言質を取るという法務的発想が全国民に広がっているという(笑)。
 本当にそうです。僕が『中動態の世界』で意志概念を批判しているのも、結局、法律的な発想ですべて説明したり、解決したがるようになってきているからです。千葉君が指摘した、近代の抽象的な市民を本当に実現しようという傾向も法務的発想なんだよね。具体的な人間が生きている状況を想定するよりも、法律的な権利の水準で全員一緒にしてしまえばもうそれでいいじゃないか、というね。
 そこに無意識はないわけですよ。すべて意志か、不作為か、という単純な話になって、無意識のうちの事情みたいなものが問われなくなっていくんです。分析哲学でやっている自由意志の議論を見ても、基本的には法律の発想なんだと思うんですよね。責任帰属という法学的な問題を基礎づける位置に分析哲学が置かれている。つまり、世の中の公共的な問題を基礎づけることが哲学者の役割みたいになっているわけです。
 特に20世紀の哲学は、限界までその外側について考えようとしていました。最近YouTubeデリダの動画を見ていたら(Derrida: "What Comes Before The Question?")、問うことは大事だけど、問うこと以前に何があるのかを考えないといけないという話をしていて。これなんて外側を思考する分かりやすい例だと思ったんです。
 いま、そういう法外なことを考えさせないようになっていますよね。かつては「法外」が倫理的な意味合いを持っていました。でもいまは、とにかく法律の枠内で生きるのが市民であって、それ以外のことを考えると、居場所がなくなる感じがあります
 法外なことについて考えること自体が許されなくなっているんだね。さらに言えば、法務的な思考は、千葉君がたびたび指摘してきたエビデンス主義とも関係しているんです。
 
エビデンス主義という責任回避
189 エビデンスには、反権威主義や民主主義的な側面もある。これは熊谷晋一郎さんがよく挙げている話だけれど、医療にはもともと強力なパターナリズムがあって、たとえば、脳性麻痺はきちんとリハビリをやっていけば健常者になれると言って、リハビリさせていた。それに対して、そんなエビデンスはないと突きつけて、パターナリズムを批判してきた歴史がある。エビデンス主義には民主主義的な側面があって、熊谷さんはその重要性も指摘します。僕もその点、熊谷さんに深く同意します。
 ところが、エビデンス主義には別の側面もあって、非常に少ないパラメータだけを使って真理を認定するので、個人の物語を無視するわけです。斎藤環さんは、プラシーボで治るならそれが一番いいと新聞に書いたら、エビデンスがないと強烈に叩かれたらしい。自分が治ったということは、本人にとっては大事な物語なのに、エビデンス主義は「それは誰にでも通用するわけじゃない」「科学的に根拠はない」と民主主義的な暴力で叩き潰してしまうところがあるわけです。
 エビデンス主義が掲げる科学主義は宗教的なものの危険に対して極めて敏感であるわけですが、他方でそれ自体が狂信的になっている感がある。つまり、一方にはエビデンス主義が批判する、エビデンスなき新興宗教のようなものが確かにあるけれども、他方でエビデンス主義そのものが宗教みたいになっているのではないか。
 エビデンス主義も結局、一定のエビデンスとされるものだけを信じていればいいという意味で宗教だし、それを否定すると反科学主義になって、オカルト的なものを信じる宗教になってしまうということですよね。
 本当はそうじゃなくて、何らかのデータであるにせよ思想にせよ、その有効性の軽重を測って調整することが重要なのに、そういう主張がなかなか理解されづらくなっているんですよ。一つの同じ原理で行動していればいいと思ったら楽だから、どうしてもそうなってしまいやすいわけです。
 つまり、状況によって判断することの難しさと責任から逃れようとしていると思うんですその意味で、エビデンス主義も法務的発想と同じように責任回避に使われやすい。だけど、状況によって度のエビデンスを採用するかという選択の問題だってあるし、人間は決定的な保証のない判断を引き受けざるを得ないこともある。それをとにかく回避したがる風潮が蔓延しているわけです
 それは組織論にも言えることで、たとえばカリスマ的な経営者に属人的に依存しているような組織はダメで、そういう人がいなくなっても回るシステムを作ることが優先されます。でも、全体的にその方向に行くのは問題だと思うんです。魅力がない人の組織なんてろくなもんじゃないでしょう。次の天才を見つけてくることはやはり大事なんですよ。
 國分さんが言うように、エビデンス主義が民主化だというのはその通りで、要するに誰でもいい、誰でもできる世界を目指しているわけです。個の力は必ずしも信頼できないから、安定的なシステムを作りたいということなんだろうけど、一方で、今日のそういう民主化傾向には、何か個人が突出することを嫌がり、誰かを引きずり下ろすルサンチマン的な傾向もある。そこで嫌われたり、非効率だとして退けられたりしていることをどう考えるかが、いま問われているわけです。
 オカルトとエビデンスという対比を考えると、オカルトが帰依であるとしたら、エビデンスは責任回避ですよね。たぶん、どちらも近代社会に対する反発なんです。オカルトのほうは、余りに大きな課題を自分一人では担いきれないと感じる人が何か大きなものに自分を委ねようとすることでしょう。
 では、エビデンス主義の責任回避の方がどうかというと、これには前史があると思うんです。意志概念に基づいて、個人に過大な責任を負わせるシステムを作ったら、逆説的にもそのシステムを信じているほど、この過大な責任を避けたいと思うようになった。その結果としてエビデンスだけに従うマインドが出てくる。責任主体を立ち上げようとしていたがゆえに、エビデンスやルールに従うことでその責任を回避するという無責任な社会が出てきてしまう
 もちろんね、民法、刑法的な側面では意志は大事なんです。僕は『中動態の世界』を出版していこう、ずっと意志概念の批判をやってきているけれども、それをなくしてしまえなどとは思っていない。それはそれで社会を運営するうえで必要だから。でも、個人が自由に物事を選択していて、その背景に意思があるというのはフィクションに決まっている。もしかしたら近代の初めにはそれはフィクションだとある程度理解されていたのかもしれないけれども、いまはそれがリアルだと勘違いされてしまったために、エビデンス主義のような変化ことが起こっていると思うんです。
 最近のネットでの炎上騒ぎもそうだけど、責任を取らせようという力がすごくつよくなっていますよね。何かあった時に責任をはっきりさせて、謝らせる、罰するということが強くなったら、そりゃ回避したくなりますよ。
 そういう帰責性から逃れるような思考が人間のリアリティには必要だとするなら、それは赦しの問題になるし、たとえ責任がるとしてもそこを追求しすぎないとか、ある程度適当に流すといった曖昧な対応をしなければいけない。そういうものが生活レベルでは重要です
 つまり話は二段階になっていて、生活のレベルで地に足がついた形で物事を流すことができていれば、昨今のような巨大な責任回避問題はむしろ起きないんですよ。だから僕は、人類としてのデフォルトが失われたからこういうことになっている、と単純に思うわけです。
 
・重層的な時間をどう取り戻すか
194 最近、一般に「責任」と翻訳されるレスポンシビリティ(responsibility)を、インピュタビリティ(imputability)から区別するべきではないかと主張しているんです。(「利他」とは何か (集英社新書) 伊藤 亜紗→第4章:中動態から考える利他――責任と帰責性 國分功一郎)。責任がレスポンシビリティであるなら、それは目の前の事態に自ら応答(respond)することですよね。それに対し、インピュート(impute)というのは「誰々のせいにする」という意味で、責めを負うべき人を判断することであって、これを「帰責性」と呼ぶことができます
 今日の議論で言えば、いまはインピュタビリテイが過剰になって、それを避けることにみんな一生懸命だから、レスポンシビリティが内から沸き起こってくる余裕がないという状態ではないか。レスポンシビリティはまさに中動態的なもので、「俺が悪かった」とか「俺がこれを何とかしなきゃ」とか、ある状況にレスポンドしようという気持ちですね。
 ところがレスポンスを持つ雰囲気が今の社会にはない。とにかく誰かが俺にインピュートしてくるのではないか、俺のせいにしてくるかもしれないということばかり考えているから、責任回避が過剰になる。
 千葉君の話と結びつければ、日常生活でレスポンシビリティを持つことができていれば、インピュタビリティが過剰になったりしないと言えるのではないか
 
 一番わかりやすい例は、良心的兵役拒否です。たとえばベトナム戦争に私は行かないというのは、その時点では明らかに違法行為だけれども、それが正義だったことは後からわかるわけです。
 ポイントは時間にあって、ジャスティスのほうは時間がかかる。今はむしろコレクトネスばかりで、それは瞬時に判断できる。判断の物差しがあるから。社会がそういう瞬時的なコレクトネスによって支配されているから、時間がかかるジャスティスやレスポンシビリティが入り込む余地がなくなってきている感じがします。
 
 インターネットで距離がなくなる→時間が無くなる→ジャスティスやレスポンシビリティがなくなる
 
・言葉は「魔法」である
198 人間ってやっぱり言葉で現実を織りなしているわけです。言葉というフィクションのレイヤーで包むことによって、人間は生きていくことができるわけだから、そこをおろそかにすることは、人間らしさを損なうことになる。
 言葉は危ないもので、場合によっては、一言で人間の振る舞いを大きく左右することができる。科学の力を魔法のように言ったりしますけど、原爆なりなんなりを作ることができる科学者の行動自体を一言で買えることができてしまう言葉のほうがよっぽど魔法だと僕は思います。でも、だからこそいま、文系を抑制する動きが高まっていると言ったら、アイロニカルにすぎるのかもしれないけれど、そういう意味でも言葉の軽視はひしひしと感じるわけです。
 
・講義は「コンテンツ」ではない
・心理とレトリックとの綱引きの中で
 
 
 
おわりに
207 言語の力が衰退しつつある、というのを、僕は隠喩や多義性の衰退として捉えており、それをよくツイッターでも言っている。また、そのことが本質的に「性」のあり方の変化に関わっているとも考えており、それについては、欲望会議 「超」ポリコレ宣言(千葉 雅也  (著), 二村 ヒトシ (著), 柴田 英里 (著))で論じているので、そちらも参照していただければ幸いである。