読んだ。 #母性のディストピア #宇野常寛

読んだ。 #母性のディストピア #宇野常寛
 
序にかえて
11 圧倒的な彼我の距離を言葉を用いて破壊し、ゼロにすること。遠く離れ、本来はつながらないはずのものを、つなげること。それが批判の役割だ。
 
12 世界には虚構だけが捉えることのできる現実が存在する。これはこの逆説を信じることができる人のための一冊であり、そしてまだ信じられないけれど、信じてみてもいいかも知れないと考えている人のための一冊だ。
 
 
 
 
第1部 戦後社会のパースペクティブ
1 二つの「戦後」から
13 【A】アメリカの核の傘に守られ 、自らは一滴の血も流さずに平和を謳歌する 「永遠の12歳 」の国家 ・日本 。いまこそ私たちはその欺瞞を排し 、 「普通の国 」として成熟するために 、憲法9条を改 「正 」しなければならない 。たとえそれがアメリカの暴力を肯定することにつながっても、その罪と痛みを対等な立場で共有することでしか、倫理的であることはできないのだ。
【B】憲法9条が掲げる理想はたしかに偽善的かもしれない 。しかし現実主義という名のイデオロギ ーを振りかざしてなし崩し的に暴力を肯定する勢力が跋扈する現代において 、この偽善をあえて選択することが最大の批判力となるのではないだろうか 。憲法9条を死守することで、日本は自覚的に偽善を選択する国家として再出発するべきなのだ。
 【A】と【B】はそれぞれ戦後民主主義批判とその反批判として、半世紀以上反復され続けてきた今やテンプレートと化した思考である
 もちろん、現代においてこの二つの主張はともに政治的な実効性の観点からは問題外の空虚な精神論の域を出ない 。しかし 、それゆえにこうした現実と切断された物語がこの国の社会において半世紀以上も支配力を保ち続けてきたという事実から私たちは目を背けるべきではないだろう。重要なのはこれらが愚かであることを指摘することではなく、なぜこの愚かさが必要とされたか、だ。
 
2 「政治と文学」再び
3 母性のディストピア
32 世界と個人、公と私、政治と文学を結ぶもの。いや、近代日本という未完のプロジェクトにおいては常に結ばれたふりをすることでしかなかったのだが、このいびつな演技のために彼らが必要としたものは「母」的な存在だったのだ。
 妻を「母」と錯誤するこの母子相関的想像力は、配偶者という社会的な契約を、母子関係という非社会的(家族的)に閉じた関係性と同致することで成り立っている。
 本書では、この母子相関的な構造を「母性のディストピア」と表現したい
 
4 (肥大する母性としての)日本的情報社会
35 いまこの国には一方には時代錯誤のナショナリズムに回帰することで矮小な自己の底上げを期待する卑しさが肥大し、他方には現実から遊離した愚劣な空論を理想主義と言い替え、自分探しを革命と言い換える卑しさが渦巻いている。
(略)
 いま、起きていることは、少なくとも表面的には間違いなくサンフランシスコ体制下の、55年体制下の、そして戦後社会下の言論の復古に他ならない。そして表面的には完全に同一でありながらも、いや表面的には同一であるからこそ決定的に異なっている。
 敵を名指しして、拒否することで思考を放棄し、楽になること。それによって共同性を担保すること。それが情報社会下におけるかつて戦後中流と呼ばれた人々の国民的なライフスタイルとして定着しつつあるとすら言えるだろう
 
36 情報技術に支援されることによって、いま戦後的な「母性のディストピア」は解体されるどころか延命し、肥大している。いや、情報技術の支援によって、それはアイロニーを内包することなく機能するものに進化したとすら言えるだろう。いま、この国を(あるいは世界を)覆っている情報環境は巨大な、目に見えない、母胎のようなものだ。そこで人は目にしたいものだけを目にし、そして信じたいものだけを信じることができる。政治と文学は切断され、「父」としての前者(政治)にコミットしたつもりになりながら情報環境という「母」に守られ後者(文学)の中に引きこもる。何の喪失感も、悪の自覚もないままに。かつて戦後日本を包み込んでいた母胎はサンフランシスコ体制の産物であった。しかし、冷戦終結から四半世紀を経た今日、この母胎は情報技術のつくり上げたネットワークに置き換わり、そして強化されている
 「愛国」を騙る歴史修正主義者とヘイトスピーカーに「あえて」偽悪を引き受ける内面は存在せず、文化左翼たちは考えるためではなく考えないために憲法9条を盲目的に、実質的な平和と安全の実現を度外視した次元で擁護している。戦後的な「母性のディストピア」は、情報技術の支援によって進化しているのだ。それも、より醜悪な形に。
 
38 それはもはや物語回帰ですら、ない。物語回帰の果てに訪れた、「物語」の「情報」への解体だ。彼らが盲信する「物語」は実質的には敵か味方か、ゼロかイチかを判断する「情報」に過ぎない。情報化されたこの世界においては物語ではなく情報だけが地理をキャンセルし、世界の裏側まで一瞬で届いてしまう。相対的に「物語」を総合的、かつ繊細に読み込んでくれる「場」は、距離の近い小規模なコミュニティでしか成立しない。現在の情報社会において「物語」は相対的に時間をかけて、そして近くにしか届かない。一方で「情報」はどこまでも遠くに、そして瞬時に届く、いや届いてしまう。人類はずっと、情報(ソーシャルなコミュニケーション) は閉鎖的な共同体の内部でしか通用しないが、理念は、思想は、物語は地球の裏側まで届くという前提で思考してきた。しかし、情報技術の進歩はこの前提を覆している。現代においては物語のほうが閉鎖的な共同体の内部でしか機能せず、情報だけが瞬時に世界中を駆け巡るのだ。
 
39 こうした震災後の日本の「劣化」が、前向きな議論をする場を潰している。誰もがいま、なんとなくうまくやっていそうな人間が失敗する姿だけを見たがっている。そんな情況下で発言していくことの難しさに直面したのが、私にとっての「震災後」だった。
 この誰もが責任を誰かに転嫁し続ける社会には、「下からの全体主義」とでも言うべきものが支配的に機能している。それは戦前から、より強固に戦後社会に受け継がれた「無責任の体系」の技術的な温存、いや、進化というほかないだろう。ジョージ・オーウェルの『1984年』が描き出したような、トップダウンの父権的なものではなく、どちらかといえば母権的な、日本的なムラ社会の、丸山眞男のいう「無責任の体系」が情報技術によって進化したボトムアップの権力にどう対峙するのか、という古くて新しい問題がここにはある。
 これは言い換えれば、本来、戦後的なものを解体するはずのインターネットが、大きな物語による社会統合装置であるマスメディアを相対化するはずのインターネット以降の情報環境が、どうして現代日本で機能しないのか、という問題でもある。
 こうした情況下で、本来は「下からの全体主義」に抗う役割を負うべきジャーナリズムでは左右の20世紀的イデオロギーへの回帰を選択した/しかし戦後的アイロニーを内包していない内面を欠いた人々の陰謀論的な情報戦が前面化しているのが現状だ。
 共依存的に自分と承認を与えあう存在は(疑似)家族としてその胎内に取り込み、その胎内の和を乱す異分子は排除する――彼らの内面を欠いた人々の共同体は母権的な「排除の論理」に支えられている。特にTwitter以降のソーシャルメディア社会を迎えることで、より解除の難しいかたちに進化しているのだ。
 
 
 
 
第2部 戦後アニメーションの「政治と文学」
1 日本軍と戦後アニメーション
45 言い換えれば自動車とは「個」の捏造だった。1トン前後の鉄の塊を内燃機関で動かすという、おそらくは21世紀の人間観から考えれば個人が行使するには度がすぎた権力を免許制で与えることで成熟した市民の証明とする――それが自動車という文化であった。だからこそ20世紀を通して自動車は成熟した男性性の象徴であり続け、そして女性が自動車を所有することは女性解放の象徴であり続けたのだ。
 逆に映像とは「公」の捏造だった。そもそも映像とは共有不可能な現実(リアル)を共有可能なもの(リアリティ)に加工する装置として20世紀の人類社会を決定づけたものだ
 私たちが現実に体験する世界には物事を整理して記述してくれる神の視点は存在しない。一人一人の体験はばらばらで、乖離している。これに対して劇映画の世界は作者によって統合された視点をもち、整理されている。
 20世紀とは要するに、三次元の実体験(リアル)はローカルな文脈を理解していないと共有できないが、二次元に整理された映像(リアリティ)ならば普遍的に共有できることを用いてメディアが発達し、かつてない大規模な社会が運営可能になった時代だった
 
49 『鉄腕アトム』は、ある科学者のなき息子の姿に似せて作られたロボットだった。しかし、その科学者はいつまでたっても成長しないアトムに失望して、彼を捨ててしまう。そして物語は、機械の、偽りの、成長しない身体をもつはずのアトムの人間的な内面や、自己犠牲的な死を描くことになった。そう、ここではまさに成長しない/死なない(記号的)身体を用いて、成長/死という自然主義的な身体の機能を書くことが執拗に繰り返されていたのだ。
 この事実を引いて、大塚はこの戦後マンガ/アニメがその成立過程から内包する命題を「アトムの命題」と呼んだ。
 そして同時に、この『鉄腕アトム』の成長しない身体、死なない身体は、戦後日本そのものの似姿でもある
 ダグラス・マッカーサーは戦後日本を「12歳の少年」と比喩し、そして現代美術家村上隆はその代表作に、かつて広島に投下された原子爆弾と同じ『リトルボーイ』という名前を与えた。
 市民革命を経ず、欧米の近代国家のデッドコピーを展開した日本という国家は12歳の少年に過ぎず、戦後は核の傘をもつアメリカの影の下、自らその責任を引き受けることなく他国の戦争の成果としての偽りの平和と血まみれの経済的繁栄を無邪気に謳歌し続ける――国家として成熟することなく経済的繁栄だけを手にした日本は、その内面は12歳の少年のまま性器のみを発展させたネオテニー幼形成熟) 国家として消費社会を謳歌することになった。このネオテニー・ジャパンの象徴こそが戦後マンガ、戦後アニメーションの過剰に性的な要素の強調されるキャラクター軍である、というのが村上隆の理解であり、その作品のコンセプトの根幹をなしている
 アメリカという絶対的な父親に去勢され永遠の「12歳の少年/リトルボーイ」として成熟を失った戦後日本が、その極めて直接的な繁栄として生み出した文化が成熟期日的なモチーフに支えられた戦後マンガ/アニメだったのだ。
 そう、アトムの命題」――成長しない身体=(マンガ/アニメの)キャラクターを用いて成熟(老い、死)を描くこと――とは、戦後のマンガ/アニメがその発生時から抱え込んでしまった命題であると同時に「12歳の(身体のまま大人になれない永遠の)少年がいかに成熟すべきか」=「国家として事実上独立していない日本がいかに市民社会を形成するか」という戦後日本という国家の直面した命題の変奏でもあったのだ
 
3 「変身」する戦後ヒーロー
4 ロボットアニメの精神史
5 戦後アニメーション、もう一つの命題
57 大塚英二が「アトムの命題」と呼んだものは、戦後アニメーションが内包した身体観を巡る命題だった。それは言いかえれば世界と個人、公と私、政治と文学の戦後日本的な(アイロニカルな)接続の問題を後者(個人/私/文学)の側から捉えたものだ。では、同じ問題――戦後日本的アイロニーのマンガ/アニメへの作用――を前者(世界/公/政治)の側から捉えたとき、そこにはいかなる命題が設定できるのだろうか。
 ここで本書は「アトムの命題」と対を成す、もう一つの命題について考えたい。
 戦後日本的アイロニーは戦後アニメーションにおいて身体(文学レベル)と戦争(政治レベル)という2つのかたちで表現されてきたのだ。その前者が「アトムの命題」であり、後者がこれから提唱するもう一つの命題だ。 
 この国のアニメーションが戦後的アイロニーを「政治」のレベルでも引き受けること。
 この命題によってアニメーションが要求されたものとは具体的には戦争というモチーフの――あの決定的な敗戦の記憶と平和憲法の呪縛から日本人が直視することができなくなったものの――昇華だった。そして、ここでもまた、戦後アニメーションの「前史」として「特撮」の存在が決定的な補助線を引くことになる。
 
60 怪獣とはそのルーツからして戦後社会のひずみを引き受ける存在であり、その結果当時の怪獣映画/番組は戦後民主主義教育下の児童文化において、巨大な力や大量破壊が人間に与える畏れや憧れ、日常性の断絶の快楽といった部分も含めて、本当の意味で戦争の代表する多面性を描くことが許される数少ない表現の一つとして機能した
 
61 「アトム」的な原子力の平和利用とは要するにアメリカの核の傘の下の平和の肯定に他ならず、そして「ゴジラ」的な核戦争への拒絶はその「後ろめたさ」の表現による解消であると加藤は指摘する
 つまり「アトム」と「ゴジラ」の一対性とは戦後日本的アイロニーに対する2つの態度の一対性の表現のことに他ならない。「アトムの命題」が(近代的)成熟という現実の戦後日本には存在しえないものを虚構の中で実現するものとしての機能を戦後サブカルチャー、とくにアニメーションに与えたとするのなら、「ゴジラの命題」は逆説的に虚構にしか描くことのできない現実をとらえる機能を与えたのだ。「虚構(ファンタジー)を通してしか捉えられない現実を描くこと」、それが今日にいたるまで戦後サブカルチャーを呪縛し続ける「ゴジラの命題」だ。
 
6 「ゴジラの命題」と架空年代記
7 「反現実」から考える
65 見田宗介はこうした消費社会下で歴史の虚構化への欲望が全面化する時代を<虚構>の時代と呼ぶ。見田によれば社会の性質を規定するものは(私の言葉に置き換えるのなら「世界」と「個人」、「公」と「私」、「政治」と「文学」をつなぐものは)「現実」と対になる「反現実」に他ならない。「理想と現実」という対立が機能する時代は「理想」こそが「反現実」であり、「虚構と現実」という対立が機能する時代は「虚構」こそが「反現実」として機能する。そして見田はこの「反現実」の移り変わりによって戦後史は整理できると主張する。
 具体的には敗戦から「政治の季節」が終焉するまで、つまり1945年から1960年頃までが、復興という「理想」、あるいはソビエトコミュニズムアメリカン・デモクラシーといった新しい政治体制に対する「理想」が社会を規定する「反現実」として機能した「理想の時代」であり、そして70年代以降の消費社会は商品として流通し始めた「かわいい」「おしゃれ」「きれい」といった意味をまとう記号たちに代表される「虚構」――ここでは差異化のためにあえて提示される(演技される)もの――が「反現実」として機能する<虚構>の時代だとする。
(略)
 この整理に従えば70年代後半から80年代へのオカルトブーム、アニメブーム、特に『ガンダム』的な、架空年代記的なファンタジーを「虚構の時代」の症例として位置づけることができる。要するに「政治の季節」から「サブカルチャーの季節」へ、「理想の時代」から(短い「夢の時代」を経て) 「虚構の時代」への移行は、「公と私」「政治と文学」「世界(システム)と個人(内面)」を結ぶ装置=物語の、現実の歴史(理想)からサブカルチャー上の架空年代記(虚構)への移行でもあったのだ。
 その虚構性を引き受けたうえで「あえて」演じること、空位の王座を守ること、それが戦後的「成熟」の形であり、「公」と「私」を結ぶための精神的回路であったとするのならば、「虚構の時代」のマンガ/アニメ――純度の高い虚構(作家の意図した者しか存在できない世界)を通して初めて戦争や暴力や歴史といったものにアプローチできる時代の文化――はこうした戦後的アイロニーを市場のメカニズムによって内包したとすら言える。
 しかしこの「虚構の時代」は1995年に終わりを告げた、と大澤は主張する。その象徴として挙げられるのが同年に発生したオウム真理教による地下鉄サリン事件と、アニメ『エヴァンゲリオン』(1995~96)の社会現象化である。
 
8 オウム真理教と「虚構」の敗北
68 ここには、「政治の季節」の終わりとともに現実世界では獲得することが難しくなった「大きな物語」への欲望が虚構の消費として表れているのだが、宮台真司はそこに加えて、「虚構の時代」、とりわけ80年代に「反現実」として機能した虚構として「二つの終末観」を挙げる。それは宇宙戦艦ヤマト』を代表する男性的な最終戦争願望と、高橋留美子うる星やつら』の代表する女性的な「終わりなき日常」への適応だ。
 個人の生を意味づける歴史がその機能を止めたとき、架空年代記という虚構でその欠落をうめ、崇高さを回復しようとするのが前者であり、現実を受け入れ、学園のモラトリアムを舞台に繰り広げられる終わりなき日常のラブコメディの中ですべてを忘却して楽しむことを選ぶのが後者だ。そして宮台は前者の虚構への態度をポストモダン状況に対する不適応として否定し、後者のそれを適応として肯定した
 ファンタジーの中で描かれる最終戦争は、まさに「虚構の時代」の架空年代記の究極系として出現したもだった。なぜならそれは、歴史が動的な物語から静的なデータベース=終わりなき日常に変貌したことに耐えられない人々の受け皿として機能したものだったからだ。
 宮台が例示する80年代のアニメはいずれも、前述した当時のブームの中で出現したものだが、『ヤマト』『ガンダム』的架空年代記への沈溺だけではもはや終わりなき日常をやり過ごせなくなった若者たちが求めたのが、『ナウシカ』や大友克洋の『AKIRA』の最終戦争という彼らを取り巻いていた「終わりなき日常」を直接的に終わらせてくれる物語だった、と言える。
 この80年代アニメの精神史は、オウム真理教のたどった歴史と合致する
 オウム真理教を生んだオカルトブームがアニメブームと並走していたことは前述のとおりだったが、オウム真理教はその世界間においても極めてアニメ的であったことで知られている。
 
9 『エヴァンゲリオン』と戦後アニメの変質
70 70年代、80年代のアニメーションが『宇宙戦艦ヤマト』的な架空年代記上での非日常的な崇高と、『うる星やつら』的な日常的なヒーリングを必要としたことは前述した通りだ。そしてこれら戦後アニメーションのパロディ的側面の強い『エヴァンゲリオン』は、『うる星やつら』的な日常(学園ラブコメ) を守るための『宇宙戦艦ヤマト』的な非日常(最終戦争)が、やはり反復的に描かれることになった。 そしてこの二つの世界観は対立的なものではなく、相互補完的なものに他ならない。
 
71 前者はあえて偽悪を引き受け、日本を連合国側において第二次世界大戦をやり直すことで自己回復を仮構しようとする立場【A】に、そして後者は敢えて偽善に居直ることで現実から目を逸らすことこそが倫理的である、という破綻した倫理が正当化される密室を築き上げる立場【B】にそれぞれ対応し、そしてその『宇宙戦艦ヤマト』的な父性と、『うる星やつら』的な母性は共犯関係にあるのだ。
 
 その結果、同作は最終2話の放送回で、これまでの物語を突然放棄し、自己啓発セミナーのパロディ的に主人公が内面を吐露、周囲の人物からの承認を確認し救済される、という結末を迎えた。
 当時、この最終回は制作的破綻という側面も含めて「事件」的に受け止められた。また、内容面においても宗教的、SF的なモチーフを用いて描かれた黙示録的な展開が、失われゆく家長的な男性性への憧れと怯えをめぐる自意識の問題に矮小化された事への共感と失望の間で論争じみた展開がファンコミュニティで頻発していたことも広く知られている。
(略)
 これが意味することは何か。それはオカルトブームの鬼子であるところのオウム真理教が、世界を変えられないのなら自分の内面を変える、自己の内面に何かを注入して世界の見え方を変える、という虚構の時代の思想を信じきれなくなり、一斉に首都へのテロを実行し現実に侵入してしまったのと同じように、同じ1995年に戦後アニメーションもまた架空年代記と架空学園青春期を往復する生に自足できずに、現実に侵入してきたのだ。
 言い換えればそれは、「政治の季節」の終わりから長く続いていた「世界を変える」のではなく「自分の(内面)を変える」という思想の、戦後日本における敗北だった
 
10 「虚構=仮想現実の時代」から「拡張現実の時代」へ
74 地下鉄サリン事件、『エヴァンゲリオン』、そしてインターネットの大衆化、これらはすべて「虚構の時代」の終わりを、正確には虚構の社会における機能の決定的な変化をもたらした。これらはいずれも、もはや虚構が現実から切断され、独立して存在できるものではなくなったことを示していた。この時虚構は現実と地続きのものに、社会的にも情報環境的にも変化したのだ。
 
11 「拡張現実の時代」の想像力
82 もはや文字、音声、映像など「情報」の価値は暴落した。では代わりに値上がりしたものは何か。それは「体験」であり特に人間同士の「コミュニケーション」そのものだ。音楽ソフトは売れないが、フェスの市場や握手券付きのパッケージの市場は拡大しているのはそのためだ。音声データは無限にコピーできるが、この日この時にこの人といったライブの体験はコピーできない、固有のものだ。あるいはアイドルを応援し、その人生にコミットしていた時間もまた固有のものだ。情報から体験へ、二次元から三次元へ、アニメからアイドルへ。虚構に対する現実の優位がここにも確認できる。
 
 
 
 
第3部 宮崎駿と「母性のユートピア
1 ニヒリズムに負けていたのは誰か
86 だがそれからしばらく経って、妹が借りてきたビデオソフトで『もののけ姫』を初めて観たとき、宮崎の近作に覚えていた違和感の正体が何であるのか、掴めたような気がした。それははっきり言えば、宮崎駿が自分の無力感を若い世代に投影していることが透けて見えてしまったことへの失望だったように思う。
 言うまでもないが、無力感とニヒリズムに囚われていたのは若者たちではなく宮崎駿の方だ。熟年たちに説教などされなくても若者たち(当時の私たち)は当然のように生きていくつもりだったし、コンクリートロードが特に素晴らしいとも考えていなかったが、その反面、宮崎たちの世代が東京のクーラーの効いた部屋で農村のあぜ道を賛美する馬鹿馬鹿しさに気づかないほど鈍感でもなかった。
 たしかに当時の街頭にはそれこそ流行のアニメのキャッチコピーを流用して、物憂げに<だからみんな、死んでしまえばいいのに・・・>といったことをわざわざ誰かに聞こえるようにつぶやく若者が溢れていたが、それはサブカルチャーを用いてインスタントに自意識の問題を軟着陸させようとする小賢しくも愛すべき「終わりなき日常を生きる」知恵の域を出るものではなかったし、それは宮崎駿の世代でもそう、変わらなかったはずだ。要するに、当時の宮崎が仮想的にしていたニヒリズムは90年代の若者(私たちの世代だ)のどこにも存在しておらず、不安なのは若者でもなければ子どもたちでもなく、大人たちなのは明白だった。
 
2 『もののけ姫』とアシタカの倫理
88 宮崎駿は自身のアニメーションを「漫画映画」と呼んでいた。そこにはアニメーションは現実と徹底して切断された虚構を、ファンタジーを描くべきだという思想が垣間見えていた。しかしこの『もののけ姫』は明らかに違った。それまで「漫画映画」であること――現実と切断されたきれいな嘘であることをむしろ社会的な機能とし、コンセプトとしてきた宮崎が、その「漫画映画」としての表現を堅持しつつ網野善彦歴史学を援用し現実との接続を試みることによって、従来のそれとは全く異質なものに変貌を遂げた作品――それが『もののけ姫』なのだ
 
89 特に結論もなければ事態の打開に有効な仮説も、人々を強く動機づける夢も語り得ない(!)が、その無力さを受け止めてただただ粘り強く状況に対し続けるのだという姿勢は、事実上何も主張していないがゆえにナルシシズムの記述法としては難攻不落だと言っていいだろう。
 
90 宮崎駿にとって世界の肯定性は(『もののけ姫』では放棄された)「飛ぶ」というイメージと深く結びついていた。さらに言えば、男性的ナルシシズムと深く結びついていた。熟年の飛行機乗りを主役に据えた『紅の豚』(1992)や、飛行機の開発者の生涯を描いた『風立ちぬ』(2013)……宮崎駿が主人公への自己投影を隠さないとき、そこには必ず飛行機の存在が伴われていた。
 
3 ボーイ・ミーツ・ガール?
97 「あーあ、何ということだ。その女の子は悪い魔法使いの力を信じるのにドロボーの力を信じようとはしなかった。その娘が信じてくれたならドロボーは空を飛ぶ事だって、湖の水を飲み干すことだって出来るのに・・・」
 「ハーイ、元気ですよー。女の子が信じてくれたから、空だって飛べるさ。泥棒さんがきっと盗み出してあげるから、待ってるんだよ」
 これは作中のルパンのクラリスに対するセリフだが、ここに現れているのは宮崎駿が「飛ぶ」こと、つまり近代的、男性的なロマンティシズムの追求としての自己実現の成立条件として、少女からの承認を必要としているということだ。少女からの愛が向けられたときにだけ、中年ルパンは少年に戻ることができる。言い換えれば宮崎駿にとってアニメとはもはや大人の世界では成立しないもの――ここでは男性的ロマンティシズム――を子どもの世界に巻き戻すことで疑似回復できる場所を構築するものだった、と言えるだろう
 『未来少年コナン』では当たり前のこととして処理されていたことが、ここではその理由が台詞で、丁寧に、なおかつ反復して語られている。大人の男はもう飛べない、しかし少女に愛されることで一時的に少年に戻って「飛ぶ」ことができる。クラリスというイノセントな美少女を設定し、彼女の母性的な愛=無条件の承認が成立している間だけはルパンは飛べると考えたのだ。ここから逆算して考えると、コナンはラナを抱えることで初めて、塔から飛び降りることができたのだと、考えることができる。
 ここには宮崎駿の考えるある種の男性性への断念と、それでも捨てきれない憧れとが共存している。宮崎駿にとって、少女を救うことによって完成される少年の男性的ナルシシズムは、憧れの結晶であり、そしてすでに失われたものなのだ。
 
4 ラピュタという墓所
99 これが物語冒頭に示される主人公の生い立ちだが、この時点で既にこの物語が男性的なものの決定的な敗北から始まっていることが分かる。本作においてラピュタとは男性的なロマンティシズムと自己実現の象徴だ。そしてパズーの空を飛ぶこと=ラピュタへの憧れは、失われた父性と密接に結びついている。パズーはその後少女を救うべく空へ飛び立つのだが、その冒険は輝かしい父性への接続ではなく失われたそれの回復として位置づけられている。パズーの暮らす鉱山町にはたくましく、気持ちのいい男たちが働いているがその町がそう遠くない将来にさびれていくことが示唆されている。そう、この「男性的なもの」は既に失われ、天空の城から地上の鉱山町に堕ち、さらにその地上の町での理想化されたコミュニティ(パズーの親方が代表する鉱山の男たち)もまた、斜陽を迎えているのだ。
 
5 飛べない豚たちの物語
6 『コクリコ坂から』考える
111 宮崎駿の「脱原発」の姿勢は一貫しているが、それだけに事態は複雑だ。なぜならばここで宮崎駿は片方では「戦後的なもの」を残せと訴え、片方では「戦後的なもの」を捨てろと主張しているのだ。そして奇しくも――あるいは皮肉にも――日本における原子力発電所という存在もまた、宮崎駿の考える二つの「戦後」――60年代以前と70年代以降によって大きくその社会的な文脈が変化した存在だと言える。
 日本における原子力発電所は、戦後の、冷戦期の核戦略を含めた外交戦略の産物だったことは広く知られている。ある時期――田中角栄による「列島改造計画」が登場した70年代以降は、いわゆる「経世会」的な地方への利益誘導政治を支える装置の一つとしての側面が強くなったものだ。
宮崎駿がいう誰もが「上を向いて歩けた」時代を支えていた冷戦下のパワーバランスの産物の一つが原発であったのだ。そして、宮崎駿が「残したいもの」として提示する人情下町的『駅前商店街」は、角栄的な利益誘導政治によって保護されたものだと言えるのだ。そんな70年代以降の「地方」の保護の裏側には常に「原発」的なものがセットで存在していたはずだ
 もちろん、宮崎駿にとってはカルチェラタンや駅前商店街(が象徴するもの))は「いい戦後」で、原発は「悪い戦後」ということになるのかもしれない。しかし、意地の悪い比喩をあえて用いれば彼の考えるカルチェラタン/駅前商店街(が象徴するもの)を残すためにこそ、原発(的な利権)は地方に必要とされたのだ。それが「角栄的なもの」が作り上げた70年代以降の日本だったはずだ
 こうした「角栄的なもの」への無自覚な依存は、結果として言葉の最悪な意味での文化左翼性と結びついている。実際、宮崎駿のパブリックイメージに、前述したような、リベラルな自意識を持ち、言葉の上では移民を受け入れるべきだと口にしながらその実自分たちは文化的に移民が排除された瀟洒(しょうしゃ)な高級住宅街から一歩も出ないヨーロッパの中流階級のような淡泊な偽善性という側面があることも間違いない。
 
7 母性の海へ
8 「母」的なるもの/「少女」的なるもの
117 そもそも宮崎駿の基本的なモチーフは近代的かつ男性的な自己実現の不可能性だと言える
未来少年コナン』では男性未満の少年コナンが、やはり守られるべき少女(ラナ)を所有することで冒険を繰り広げ、結果的には社会的な自己実現を果たす。『ルパン三世 カリオストロの城』では守るべき少女(クラリス)を所有することで自らを「おじさん」と自嘲するルパンが男性性を回復する。『天空の城ラピュタ』では、こうした男性に「所有」されるべくその存在を与えてくれる「母」的な女性性への依存(女性性の所有)なくしてはもはや男性的な自己実現は成立しない世界が批評的に強調される。
 男性が男性であるだけで男性的な自己実現の回路に接続できた(「飛ぶ」ことができた)世界はもはや(まさに劇中の「ラピュタ」がそうであるように)既に失われたものでしかなく、(女性性を所有して)疑似的な回復を試みたとしてもやがて、滅びゆくものでしかない。前述した『天空の城ラピュタ』の二重構造は、この宮崎駿のアイロニカルな世界観を端的に表現していると言える。
 ラナ、クラリス、そしてシータというヒロインたちは、いずれも男性主人公の近代的かつ男性的な自己実現を保証するために存在するキャラクターであり、かつ、彼らを無条件で必要とする(肯定する)「母」的な存在でもある。より正確には(前述のドーラとシータの関係が示すように)宮崎駿は彼女たちを「母」的な存在に結び付けている。
 
118 『風の谷のナウシカ』の宮崎自身によるマンガ連載は1982年から1994年まで継続し、既知のように84年にアニメ映画化されている。『魔女の宅急便』は1989年公開であり、まさに『天空の城ラピュタ』で男性的な自己実現を断念するその裏側で、宮崎は空を飛ぶ少女を描き続けてきたのだ。
 宮崎駿は『天空の城ラピュタ』以降、主体的なコミットのできない男性(少年)を反復して描き続けてきた。そしてその結果、現在では彼等は事実上死者の世界に引きずりこまれている、あるいは母胎の中に取り込まれている(『崖の上のポニョ』)。そんな男たちの代わりに、これらの「空を飛ぶ」ヒロインたちは主体的なコミットを引き受けてきたのだ。
 つまりここでは、男性的なものとしては既に断念されている歴史への主体的なコミット、近代的な自己実現が女性的なものとしてはまだ可能とされている。これは既知の性差別構造に依存することで、男性はもう飛べないが女性ならまだ飛べるのだーー女性にはまだ大きな物語が作用しているのだーーというファンタジーを成立させていると言えるだろう。
 
9 少女すらも飛べなくなった世界で
123 宮崎駿がこの時どんなニヒリズムに陥っていたか、その答えは明白だ。それはもはや世界は変えられないというニヒリズムだ。赤から緑へ」の世界的な反体制モチーフのトレンドの変化(マルクス主義からエコロジー思想へ)は思想的には極めて脆弱なものであり、宮崎駿がこのトレンドの影響下にあった時期も短い。
 
124 要するにここでは「謙虚に、粘り強く、そして柔軟な知性を持つこと」つまり「意識を高く」もつことが訴えられている
(略)
 これは宮崎駿に限らず、当時の現実主義化した左翼思想そのものが陥った罠でもある。マイノリティのアイデンティティに代表される個人的なことに潜む政治的なものを暴露することで、「政治と文学」「公と私」の回路を再整備するという妥当な戦略と無謬の正義を展開した結果、ミクロかつ常識論的な情況改善の積み重ねに終始し、マクロなシステム更新については事実上目を瞑る、という態度が常態化していくことになる。
 そしてこの時マクロな問題については、言葉の最悪な意味での「左翼的」な、非現実主義的なロマンティシズムを「あえて」語り理想主義者としての矜持をアピールすることで、現実確変の可能性と責任を問われない安全圏に自らを置く、という態度がセットで採用された。こうして、左翼はマクロなシステムへの批判力を事実上放棄することとひきかえに、ナルシシズムの防御力だけをどこまでも高めていったのだ
 
125 たしかに、『となりのトトロ』で宮崎駿が描いた昭和30年代の農村はご都合主義的に美化されたものにすぎない。同作でサツキとメイがトトロに会うために走り抜ける森のなかの「緑のトンネル」は、実際には人間が森とともに住むのをやめた結果、放置され、末期症状を迎えた森の「死にかけた」状態で発生するものだという。(ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義:佐藤 健志)そう、あの映画で描かれた「トトロの森」は昭和30年代にあった「豊かな森」でもなんでもない。むしろ高度成長以降の杜撰な森林管理の結果荒れ果てた「森」なのだ
 もちろん、宮崎はそんな嘘やデタラメに支えられた「漫画映画」に留まることに疲れてしまったのかもしれない。なら、嘘やデタラメに基づかない(そしてそんな噓とデタラメを誤魔化してくれる母性に依存することなく)「飛ぶ」方法を考えればいい。
 例えば、こんな話がある。
 もし、あのトンネルを維持しようと思うのなら、絶対に人間は森に手を加えることをやめてはいけないのだという
 地球環境自体に人類が決定的な影響を与えるようになってから何千何万年と経った現代において、『もののけ姫』で描かれたような深く、多様性を備えた「森」が人間の介入による維持なくして成立しないものだというのが現代生態学的には前提だ。つまり「森」と「人間」という対立軸の設定自体が「間違っている」ことになる。森とタタラ場をきちんと機能させることで、森が初めて維持されるのだから。そして私は宮崎駿に足りなかったものは、『となりのトトロ』の頃の豊かな想像力を、トトロの森を維持するために必要な力を、「飛ぶ」力を維持するために足りなかったものは、この発想ではなかったのではないかと思うのだ。
 
 
10 鳥は重力に抗って飛ぶのではない
129 しかし、宮崎駿は自身=二郎のフェティッシュを完全に肯定することができない。二郎の人物造形にも表れているその生真面目さは、自身の中に存在する破壊への欲望を直接認めることができない。もし仮に日本が戦勝国であったなら、宮崎のなかのフェティッシュは政治的な正当性と(少なくともここまで正面からは)衝突することはなかっただろう。その場合彼のフェティッシュにはファシストとの戦いとして、植民地解放戦争として、「正義の戦い」として肯定され得る回路が(もちろん、それもまた欺瞞ではあるが一応は)存在するのだから。
 しかし敗戦国の場合はそうはいかない。日本の、ドイツの、イタリアの、武力行使の、殺戮の戦争を肯定する回路は基本的には存在しない。だから、この国の戦後に少年期を過ごした男性の多くが、そのナルシシズムに「ねじれ」を埋め込まれることになったのだ
 そう、これは宮崎駿個人の問題ではない。暴力を行使し、敵を倒す男性的な自己実現の快楽を、政治的に正当化する回路があらかじめ失われているとき、こうした快楽を手放せない男性のナルシシズムの記述には「ねじれ」が生じることになる。暴力の行使への憧れはあくまで私的なもの、物語のなかでの、虚構の中での個人的なものであり、公的には、政治的にはそれを否定するほかない、というアイロニカルな立場を選ばなくてはいけなくなるのだ(だからこそ、本作に登場する国家は全て枢軸国なのだ)。その結果、本作では本音に対する建て前、表面的なエクスキューズとしての反戦的なメッセージが表現されている、と考えるべきだろう。
(略)
 (また、この「ねじれ」は仮に戦前の軍国主義日本を肯定する立場に立ったとしても回避することは不可能だ。かつての日本は正義の暴力を行使していたにもかかわらず、「アメリカの影」に支配されて戦後日本ではその正当性を主張することができない、というかたちで「ねじれ」が生まれる)。
 
131 もし二郎が技術へのフェティッシュだけに駆動される「職人性」だけをその本質に持つ人間なら、菜穂子の存在を必要としなかっただろう。彼はその個人的なフェティッシュを公的に正当化することを欲望しており、それができないために代替物として菜穂子の献身と犠牲が必要とされたのだ。
 
133 宮崎駿は、いったいいつから飛べなくなっていたのだろうか。いや、宮崎駿が飛べたことは果たしてあったのだろうか。いや、私の知る限り宮崎駿は一度たりとも自分の力で飛んだことはないのだ。そこには常に男性主人公を無条件で肯定してくれる女性(母=妻=娘)がいた。彼女たちは救われるべき存在として男たちの前に姿を現し、(政治的には無力な)彼らに安全な冒険を与えた。可哀想な女の子を守る、というロマンを与えてくれた。彼女たちの胎内に取り込まれることで初めて、彼女たちの胎内にいる間だけ、彼らは「飛ぶ」ことができたのだ。
 
 
 
第4部 富野由悠季と「母性のディストピア
1 新世紀宣言と「ニュータイプ」の時代
2 アトムの「汚し屋」と『海のトリトン
145 『海野トリトン』は、従来のアニメと何が異なっていたのだろうか。
 それは、富野が戦後アニメーションの二つの命題――記号的な身体を用いて成長と私を描くこと(「アトムの命題」)と、ファンタジーを用いてしか表現できない現実を描くこと(「ゴジラの命題」)――を、この時期のテレビアニメとしては珍しく極めて意識的に徹底していたことにある。
 
3 アニメロボットと戦後的「身体」
4 ザンボット/ダイターン3
5 『機動戦士ガンダム』とアニメの思春期
6 フィルムとしてのガンダム
7 もう一つの歴史としての「宇宙世紀
161 その機能とは、現実の歴史から失われつつあった個人の生を意味づける「大きな物語」としての機能だ。「政治の季節」の退潮と消費社会の進行――70年代という時代は先進国の社会で「大きな物語」の機能が低下していった時代であったが、その終わりに出現した『ガンダム』の架空年代記は現実の歴史が被物語化する状況下において、物語的な歴史=大きな物語への欲望を虚構に求めつつあった時代の要請に結果的に応えるものだった。団塊世代の男性たちが自分も幕末に生まれていれば坂本龍馬の様に生きたかったと冗談を口にするように、団塊ジュニアの男性たちは自分も宇宙世紀に生まれていればシャアのように生きたかった、と冗談を口にする宇宙世紀という偽史の構築は、アニメーションという虚構性の高い表現で、ファンタジーで、現実の日本の消費社会下ではなかなか成立しない「大きな物語」の作る熱い社会を仮構することを可能にしたのだ。こうして『ガンダム』は「ファンタジーだけが本当のことを描くことができる」という戦後アニメーションの命題(「ゴジラの命題」)を正面から引き受けた作品として結実した。
 
8 奇形児としてのモビルスーツ
9 革命なき世界と「ニュータイプ」の思想
10 「ニュータイプ」から「イデ」へ
11 リアルロボットアニメの時代
12 「オーラバトラー」と肥大化する自己幻想
13 カミーユ・ビダンはなぜ発狂しなければならなかったのか
181 言いわけはやめる。
 今回の企画が、かつてのガンダムファンから顰蹙をかっていることも承知している。(中略)
 しかし、青年は大人になる。
 いやでも大人になり、いやでも組織の中で硬直化した思考を強要される。
 ならば、ウソでもいい、冗談でもかまわない。ニュータイプをやってやろうじゃないか、といったどぎつい台詞を出そうじゃないか。
 そのためには、くり返しでもかまうものか。またガンダムなのだ、と自分にもいいきかせるのが、このニューガンダムなのだ、ゼータガンダムなのだ、ということだ。
 ゼータガンダムの世界は、前作の七年後、八年に近い七年後の時代に設定をした。
 当然、かつてのレギュラーメンバーたちは、それだけ年をとっている。(中略)
 おもしろいかどうかではない。
 時代はこうなのだ、といった物語を手に入れたい。
 そして、この過酷な時代であるからこそ、それに対応できる己を見つけだしたいと願うのである。(略)
 
185 例えば『ガンダム』第一作の終盤でアムロは敵のニュータイプララァ・スン)とニュータイプうしの感応を経験する。ここでアムロは、一瞬だけだが空間を超越した非言語的なコミュニケーションによる誤解なき相互理解を経験し、この体験が物語の中で、人類が進化すべき姿として希望的に提示される。そしてかつてのアムロと同じように、カミーユもまた敵のニュータイプハマーン・カーン)との感応を経験することになる。だが前作とは異なり、彼らは感応を通じてむしろお互いにその存在を否定しあうようになる。ハマーンカミーユとの感応を「他人の心に土足で踏み込む行為」として拒絶し、カミーユもまた彼女への憎悪を確認する。
 ニュータイプ間の感応がもたらすもの、時空間を超越して人間の意識どうしが非言語的に直接触れ合うことで発生するものは、誤解のない完全な相互理解ではなくむしろその逆――相容れない他者が存在するという認識と、その結果始まる負の連鎖――なのではないか。それが、『Zガンダム』の現実認識的な世界観に他ならない人間は媒介なく直接つながりすぎると、負の連鎖しか生まない――これは貨幣と情報のネットワークが世界をつなげすぎてしまった時代に生きる私たちにとっては、圧倒的にリアリティのある世界観のはずだ。しかし富野はここで予見的な想像力を発揮するその一方で、自ら提唱したニュータイプという概念を自己破壊している。
 『Zガンダム』の後半では、ニュータイプの能力が初代『ガンダム』で提示された「認識力の拡大」から大きく逸脱し、それ以前のオカルトブームの影響下にある念動力や降霊術に近いものに後退している。
(略)
 ここでカミーユと死者たちは、「現実の世界での生き死ににこだわるから、一つのことにこだわるんだ」「あの中にいる人だって、すぐこうして解け合える」と目の前の敵の命を奪うことを、ある種の救済として肯定するのだ。
 この思想は、ほとんどオウム真理教のポアの思想に近い。後にオウム真理教の広報が「オウムとはニュータイプのようなもの」と語ったことは先にも述べたが、富野は地下鉄サリン事件の10年前にそれを正当化する思想を自作の中で展開していたことになる。そしてポアを実行したカミーユはその代償に精神を崩壊させ廃人となり、物語は悲劇的に幕を閉じる。
 
14 変質する「ニュータイプ
15 『逆襲のシャア』と「母性のディストピア
200 富野の「母」的なものへのアプローチは、宮崎駿と対照的だ。第3部で扱ったとおり宮崎駿は「飛ぶこと」と、男性的なロマンティシズムの追求による自己実現を保障してくれる存在として「母」的なるものを必要としていた。たとえ世界にとっては無価値であってものその価値を無条件で承認してくれる「母」的な存在を仮定しない限り、宮崎駿の男性主人公たちは「飛ぶ」ことができなくなった。そして飛べない男たちの代わりに世界の新しい可能性を発見して、空を飛んでいたのが80年代の宮崎駿のヒロインたちだった。「赤から緑へ」の反体制モチーフの変化のなかで信じられていた可能性を根拠にナウシカは飛び、都市の資本主義の中の肯定性を見出すことでキキは飛んでいた。しかし、宮崎駿は次第に世界に可能性を見出すことができなくなり、少女たちはその胎内でニヒリズムに陥って何もできなくなった男たちを疑似的に飛ばすための存在=母として描かれるようになった。
 そして、宮崎駿がアニメーションの描くべき「きれいな嘘」として、ユートピアとして提示したこの母権的なものに支配された世界を、富野は少年たちを呪縛し、殺していくディストピアとして描いたのだ。
(略)
 宮崎駿に代表される戦後サブカルチャーの想像力は、虚構の中で少女を所有することで「12歳の少年」のまま「父」になる回路として発展してきたものだった。しかし、富野の描く世界では所有されるはずの少女=「母」が逆に男たちを取り込むことで、「父」として成熟させることなく殺してしまう。このとき富野は肥大した母性のおぞましさとその魅力に作品世界を支配させていったのだ。
 富野由悠季は偽りの歴史と偽りの身体による成熟の仮構を可能にする世界、戦後ロボットアニメの文法(が体現する戦後ロボットアニメ―ションの精神)に支配されたこの世界を、「母性のディストピア」として提示したのだ
 戦後ロボットアニメとは、戦後アニメーションの本質がもっとも強固に構造化されたものであり、戦後アニメーションとは(第2部で論じたように)戦後社会そのものの似姿だ。そして、『ガンダム』シリーズが新人類世代から団塊ジュニア世代まで、今日の現役世代の国民文学的地位を確立しているということが象徴するように、偽りの歴史と偽りの身体を用いて成熟を仮構する世界=宇宙世紀とは――「母性のディストピア」とは――まさに戦後という長すぎた時間そのものに他ならないのだ
 
16 『ガンダムF91』と「母」との和解
17 『Vガンダム』と少女性のゆくえ
18 『ブランパワード』と時代への(後退した)回答
19 宇宙世紀から黒歴史
222 こうした二次制作性を許容する/欲望する視聴者たちはすでに歴史を個人の生を意味づける「物語」から、任意のキャラクターを引用し自分の望む物語を二次創作するためのデータベースとして見做しているのだ。まるで、今日のソーシャルメディアで活動する陰謀論者たちが、自分たちの信じたいことを信じるために南京事件否定論疑似科学的な福島の放射能汚染状況を唱える記事を「引用」するように。
 宇宙世紀から黒歴史――富野は私たちにとっての歴史が物語からデータベースへと変貌しつつあることを、自らが造り上げた架空年代記の市場展開とファンの消費態度の変貌からきわめて正確に捉えていたのだ。
 
223 同作の主人公のロランは中世的な少年として描かれるばかりか、物語の中では地球側のプロパガンダで女性兵士のローラとしてその存在を喧伝されることになるのだが、このユニセクシャルな主人公はロボットに乗って大人の社会に参画し自己実現する、ということへの意欲をまったく持っていない。そして月と地球の間の和平を模索するロランは、「黒歴史」の発掘=モビルスーツが象徴する戦争を通じた社会的自己実現という男性的な(と、同作では位置づけられる)ものへの、それもマイルドな抵抗者として描かれることになった。
 
20  少年性への回帰――『OVERMAN キングゲイナー
227 ∀ガンダム』とその中で提示された「黒歴史」という概念は戦後アニメーションの想像力の中で、もっともラディカルに「母性のディストピア」を超克する可能性を示した、とは言えるだろう。だが、「宇宙世紀」から「黒歴史」への移行は高い現代性/未来性を獲得すると同時に、ユニセクシャルな主体とシステムとしての「ロボット」を導入することで戦後ロボットアニメの問題設定自体をキャンセルする試みでもあった
 
21 劇場版『Zガンダム』と『リーンの翼
22 『Gのレコンギスタ』と物語の喪失
23 戦後ロボットアニメの「終わり」
239 ここにおいて、ニュータイプとは事実上、視聴者(ガンダム世代)の分身である矮小な「父」たちの自己回復の手段としての「説教」を涙目で聴いてくれる若者のことでしかない
(略)
彼らが求めているのは自分たちの説教を涙目で聴いてくれる若者でしかなく、さらに彼らが教育コストゼロで活躍してくれる即戦力新入社員(ニュータイプ)であればいうことはないだろう。
 かくして、かつて人の革新と言われたニュータイプはここにおいてくたびれた中間管理職の渇望する即戦力新入社員の比喩にまで矮小化されたのだ。
 ちなみに、こうした「説教リレー」を経て主人公たちがたどりつくのは恐るべきことに陰謀史観と優生思想だ。同作が描く新世代のニュータイプたちは、大衆に秘匿された世界史的な陰謀が存在し、その陰謀の存在を察知し、真実に目覚めることで社会が改良され歴史が正しい方向に舵を切る、という思想に基づいて行動する。こうした陰謀論現代社会においては概ね、社会の複雑さに対してのアレルギー反応として発生するものだ例えば日本においては社会の情報化が右派の歴史修正主義者や左派の福島の放射能汚染を疑似科学的に課題に喧伝する勢力などの陰謀論者を拡大させている
 
24 ニュータイプ黒歴史を超えられるか
 
 
 
 
第5部 押井守と「映像の世紀
1 戦争は、もう始まっている
249 「戦線から遠のくと楽観主義が現実にとって替わる。 そして最高意思決定の段階において、現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けているときは特にそうだ
 これは『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993)で押井守市田義彦を引用する形で展開した「戦争論」だ。
 『パトレイバー2』は時代に先行して、「テロの時代の戦争」を描いた映画だった。そして同時に20世紀という「映像の世紀」についての映画でもあった。押井守は、この映画で展開した戦争/平和の対比は前線/後方の対比に過ぎないことを、首都圏における大規模テロという形で表現した
 「かつての総力戦とその敗北、米軍の占領政策、ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。そして今も世界の大半で繰り返されている内戦、民族衝突、武力紛争……そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた血まみれの経済的繁栄。それが俺たちの平和の中身だ。戦争への恐怖に基づくなりふりかまわぬ平和。その対価をよその国の戦争で支払い、そのことから目をそらし続ける不正義の平和
 「その成果だけはしっかり受け取っていながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の後方であることを忘れる。いや忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると
 これは『パトレイバー2』劇中でのダイアローグの引用だ。
 ここは単なる戦線の後方に過ぎない――それが冷戦下で問われていた戦争とモラルの問題だった。しかし、あれから20年以上が経過した現在、世界情勢の変化と情報技術の進化は本作で描かれた現実/虚構、戦争/平和の境界線を決定的に破壊している。したがって本作の描きだした世界の姿は既に存在しない。
 例えば9・11――アメリ同時多発テローー以降、「ここは戦線後方に過ぎない」のではなく、戦線における前線と後方という概念そのものが消滅している。
 
2 高橋留美子から考える
252 それは、「虚構の時代」を支えた想像力の両輪の一つだった。『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『風の谷のナウシカ』――といった当時のアニメブームの中核を担った作品群が、ファンタジー的な想像力を用いて失われた(個人の生を意味づける)歴史の代替物を崇高な非日常な体験を架空年代記として提供していったのに対し、高橋が整備したのは歴史による意味づけを失った後も続く<終わりなき日常>(宮台真司を肯定し、癒しを与えた、と言えるだろう。
 
260 そう、富野にとっての母=妻=娘を得て「父」になることは、女性性との共依存関係による承認を社会的自己実現の代替物とすることは、「マシーンとなること」と等しかった(そして「マシーンとなること」を回避するための思想=ニュータイプを富野は発展させることができなかった)「母」的な承認の下に宇宙世紀という偽史モビルスーツという仮初の身体を与えられ「父」となることは、まさにアニメーション=夢の中に閉じこもることに他ならない。これは男性性のアイロニカルな表現として――すなわち拡張身体的な意匠として――発展してきた戦後アニメロボットに対する自己批評なのだが、ここに押井がこの時陥ったパラドックスを解き明かす手がかりがある。
 
4 モラルについて
262 うる星やつら』が描く永遠のモラトリアムーー母胎のゆりかごの中で父娘近親相関的マチズモを貪るユートピアを、押井はその中心たる「母」的存在=ラムの欲望、つまり彼女の愛の対象である「子」=「夫」をその胎内に閉じ込めるため、不都合な存在を冷徹に排除していくディストピアとして描きなおしたのだ。それは一見、どこまでも優しい高橋留美子の世界=母性のユートピアが、実のところ徹底的な排除の論理によってのみ成立しているという押井からの告発に他ならない。そう、『ビューティフル・ドリーマー』とは、この肥大した母性とそこに自閉し、依存する矮小な父性の結託として表れる高橋留美子の世界が、実のところ強力な「排除の論理」に支えられた「母性のディストピア」であることを告発した映画でもあるのだ
 恐らく、(その失敗を予感しながらも)あたるが現実に帰還しようとする説得力のある理由はここにしかない。たとえ「父」になることを引き受けたとしても、少年は「母性のディストピア」から脱出することはできない。「その世界を支配する「母」への愛を告白し、「父」になることは、より決定的に「母性のディストピア」の中に閉じ込められることを意味する。しかし、それでもあたるは、それが不可能であるにもかかわらず、現実へ帰還「しようと」しなければならなかった。恐らくは、「モラル」のために
 「政治の季節」が完全に過去のものとなった80年代の消費社会の風景――それはすでにマルクス主義が敗北し世界から革命の可能性が消えた世界の風景だった。高度資本主義の外部に世界は存在せず、物はあっても物語のない消費社会の「終わりなき日常」がこの国の若者たちの生活を支配していた。しかし、押井は「モラル」のためにその終わりなき日常の外部の存在を示すことを選択した。押井にとって、消費社会下におけるモラルの問題は、「政治の季節」の過ぎた後の思春期モラトリアムの問題であると同時に戦後社会そのものの欺瞞を問うことに他ならなかったからだ押井がここで脱出の対象とした母性とは、豊かな消費社会の終わりなき日常に諦念を持ち、祝福するものであると同時に、副作用としてその平和と豊かさを下支えする外部の人柱の存在を忘却させるものだったからだ
 
264 世界の外部を認識することも、「母性のディストピア」から脱出することも、人間には出来ない。人間は現実そのものを認識することはできない。しかしそれでも、人間は現実を認識しようとしなければならない。世界を変えることがたとえ不可能であったとしても、変えようとすることを諦めることは許されなかった。なぜならば、こうして父に、現実に、外部に向かおうとする意志だけが、排除の論理に抗うモラルを喚起することが可能だからだ。モニターの向こうに戦争を押し込め、その成果としての平和を享受する人々にモラルを喚起することが可能だからだ。それが不可能であることを自覚しながらも、外部への脱出を意図し続けなければならない――それが押井守にとってのモラルのあり方だった。
 
5 少女たちの見た夢
6 さまよえる犬たちの物語
272 押井の述べる「犬」とは自分以外の何ものかにその生の意味を保証してもらえないと生きれない人間たち、具体的にはイデオロギー闘争のような歴史が個人の生を意味づける回路を手放せない20世紀的な人間のことだ。そして「猫」とは消費社会に適応し、沈溺し、諦念を受け入れることでその終わりなき日常に意味を求めることを断念した、小市民的なメンタリティを持つ人々のことだ
 
7 もしラムが詐欺師だったとしたら
8 特車二課の日常から
9 押井守の情報論的展開
10 「演出家」への道
288 「少女」については本書で既に検討を加えているが、簡単に復習しよう。この時期までの押井作品にとって世界とは「少女」たちの見た夢のようなものだった。それは終わりのないモラトリアムとして表れている一方で、確実に存在する(しかし不可視の)外部によって維持/支配されている。そして押井の描く主人公たちはモラルのために――『ビューティフル・ドリーマー』のあたるの言葉を借りれば<好きな女を好きでいるためにその女から自由でいたい>と考えるため「少女」の他者として振る舞い、不可視の外部へ脱出しようとする。こうした主人公たちの動機は、必然的にモラトリアムを終わらせる成熟として――少女性に対するマチズモの実現として――描かれることになる。しかし少女にとっての他者であろうとすることこそが、モラトリアムから卒業し「父」として機能しようとするその欲望こそが「少女」のその世界に対する支配力を保証し、彼女たちの夢からの脱出を不可能にしてしまうことを押井は自覚し、露悪的に提示するようになっていく。
 
11 「映像の世紀」、その臨界点――『機動警察パトレイバー2 the Movie』
305 モラルのために――柘植=押井は外部への意識を忘却するべきではない、と主張する。たとえそれが不可能であったとしても、私たちは虚構の内部で思考停止すべきではなく、その外部の現実への脱出を志向し続けなければならない――それが『パトレイバー2』で押井が戦争論と重ね合わせることで展開した認識論とモラルをめぐる問いへの回答だ。前述のように<戦争はいつだって非現実的なもんさ。戦争が現実的であったことなど、 ただの一度もありゃしない>――人間は現実=戦争そのものを認識することはできない。認識し得るのは、(映像が代表する)情報として整理された虚構だけだ。
 そもそも、「映像の世紀」と呼ばれた前世紀とは人々が虚構(映像)を共有することでかつてない規模の社会(国家)の運営が可能になった時代であり、映像とは共有不可能な現実――肉眼が捉えたピンとすらあっていない映像を脳がその記憶と推測で補完することによって成立する視覚体験――をパースペクティブによって整理し、統合することで共有可能なもの=虚構に変換する装置だったと言える。だからこそ押井はそれがたとえ認識不可能であったとしても、現実への意思を忘却してはならないとメッセージを発する。映像の世紀」におけるモラルとは、その虚構性を自覚し外部の現実の存在を意識することでしか成立しないからだ。押井はこの認識論と映像論を、『パトレイバー2』では戦後社会論として展開したのだ。
 ここに母性=内部=虚構=映像=平和と、父性(演出家)=外部=現実=実体験=戦争の比喩が成立する。かつて押井の作品は少女=母の夢=虚構を、他者である少年=父が破壊することでその世界の存在が露呈する、という構造を持っていた(『ビューティフル・ドリーマー』『天使の卵』)。だが押井はやがて(新左翼的な挫折感を背景とした)「父」=他者たり得ることの不可能性を前面化するようになる。それが『紅い眼鏡』『ケルベロス 地獄の番犬』『とどのつまり・・・』といったさまよえる「犬」たちの物語だ。これらの作品では「父」たらんとする意志=少年性こそが守られるべき少女=母を必要とし、その為に虚構からの脱出の契機を、そして脱出先である外部を決定的に見失うというジレンマが前面化することになった。
 
307 『パトレイバー2』で押井が提示した世界観は、人間は「父性=外部=現実=実体験=戦争」を認識することはできない、しかしモラルの問題として常に「母性=内部=虚構=映像=平和」の中に留まりながらもそれを意識しなければならない、というものだ。このアイロニカルな戦後論を、第1部で展開した「政治と文学」の現代的問題に即して論じるのなら、押井はこの国の長すぎた「戦後」の本質――「政治と文学」の切断による「文学」の自閉およびそれを可能にするマチズモの仮構装置=「母性のディストピア――と、戦後民主主義下における「平和」、「映像の世紀」下の虚構としての「平和」とを重ね合わせていると言えるだろう。
 
310 私たちは海の向こうの戦争を現実として認識することはできない。モニターの中の虚構としてしか、海の向こうの戦争を認識することができない。戦争=前線=現実と平和=後方=虚構とを接続する装置――それが、20世紀における「映像」だった。映像という制度に依存し、遠く離れた場所の事物を虚構化することで共有すること、そしてかつてない規模の社会の運営を可能にすること――それが、「映像の世紀」と呼ばれた前世紀に私たちがなし得たことだった。私たちはこうして得られた偽りの平和を手放すことはできない。しかし手の届かない遠い場所に戦争という現実が存在することを忘却するべきではない。目で見、手で触れることはできないが確実に存在する現実を忘却すべきではない――。
 柘植=押井はこうして、戦後という偽りの時代の、「映像の世紀」の臨界点を提示した。
 だが今日において、押井が同作で描いた世界の姿は既に存在しない。
 グローバル/情報化は同作が描いた前線と後方の、戦争と平和の、現実と虚構との境界線を決定的に破壊した。
 2001年9月11日のアメリ同時多発テロは「ここは戦線の後方に過ぎない」のではなく、あらゆる場所が潜在的に戦場であり得るということを象徴的に証明した。もはや「戦線から遠の」いて「楽観主義が現実にとって代わる」ことはない。なぜならば戦線なるものが既に存在しないからだ。
 そう、21世紀=テロの世紀を生きる私たちはもはやモニターの中に戦争を押し込めることはできない。総力戦/冷戦の世紀から、テロの世紀へ。映像の世紀から、ネットワークの世紀へ。情報ネットワーク環境の拡大と通信技術の発達が、世界中のあらゆる場所から(映像を含む)情報を発信することを可能にしたように、総力戦の時代からテロの時代への移行は世界中のあらゆる場所を潜在的な戦場へと変化させたのだ。
 
12 接続された未来――『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊
13 すべての映画はアニメになる
325 前世紀において私有の否定と計画経済を掲げて人類の理想を説いたイデオロギーが自滅し、これに勝利した陣営が掲げた市場競争の原理は激しい地域格差とその結果としての内戦を世界中で惹き起こしてこれを恒常化した。2つの陣営が覇を競い合っていた時代に鳴りを潜めていた勢力、つまり頑迷な民族主義や不寛容な宗教が亡霊のように復活してこれに拍車をかけ、これらを制御しようとしたあらゆる試みが失敗に終わったとき、人々は再び自らを檻に閉じ込めることを望んだのだ。
 競争もないが発展もまた存在しない社会。
 停滞が結果としてもたらす安定。
 かつての神やイデオロギーに替わってそれを可能にしたのが科学技術(テクノロジー)であり、限りある資源の集積と公平な分配という永遠の課題は政治や経済活動の大幅な後退によってのみ果たされたのだ。科学技術そのものを掌握しようとする旧時代の為政者たちは急速に没落し、国家もまた集配機構の管理単位として地理学的な区分にまでその位置を後退させた。それはかつて説かれた単純再生産社会(ユートピア)の皮肉な実現であり、社会的生産活動の総和を固定された新たな中世の再来でもあった。
 これは押井自らが『アヴァロン』公開時に執筆した、映画の後日談的な小説からの引用だ。押井は素子=「人形使い」が予感した広大なネットワークに支配された世界とは停滞と安定に支配された世界に他ならないと考えたのだ。そしてこの喪われた未来においては、生の実感もまた喪失される。終盤までゲーム外の世界とされるアッシュの生活世界が実感を伴わず、ゲーム内と同様に色彩がセピア調に退色しているのは、そこがたとえ現実であったとしてもゲーム内と同程度の生の実感しか得られない世界だからだ。いや、この表現は不正確だろう。アヴァロンはそもそも、現実世界で失われた生の実感を仮想現実で回復することを目的に開発されたゲームに他ならないからだ。
 
326 広大なネットワークに覆われた世界において、もはや現実は生の実感を与えることはない。なぜならそこには「モニターの向こう側の絶対的な現実」もなければ「物語の外部」も「モラトリアムの終わり」も原理的に存在しえないからだ。そしてその欠落を埋めるため、逆説的に(かつて)現実(と呼ばれたもの)の仮想空間でも構築を目論んだのがアヴァロンというゲームーー特に「Class Real」――に他ならない。世界の全てがネットワークに覆われ半虚構化したとき、もはやかつて柘植が立っていた絶対的な現実=物語外部=彼岸は、皮肉にも仮想現実の中で再構築されるしかない――それが押井の提示した新しい世界観だった。
 
329 ネットワークに覆われた世界とは、あらゆる人間が発信者にも受信者にもなる世界であり、また、あらゆる場所がモニターのこちら側であり、向こう側でもある。物語の外部=絶対的な現実は情報環境的に消滅したのだ。素子=「人形使い」が期待した広大なネットワークとは、停滞と安定が支配するユートピアディストピアに他ならなかった。そしてこの新しい世界には他者も外部も存在できない。
 
14 他者なき世界、そのイノセンス
332 これまでの押井は他者の存在を、絶対的な外部の存在を――たとえそれが究極的には認識できないものだとしてもその存在を忘却することなく対峙することを――現代におけるモラルとして提示してきた作家だった。そのことだけが、高橋留美子的な母性のユートピアディストピアにおけるモラルの可能性だったからだ。そしてそのモラルは押井の映画を物語的に支える構造そのものだった。目で見、手で触れることはできない、しかし確実に存在する「物語の外部」「絶対的な現実」が調節性として機能し押井の映画を物語的に支配していた。
 しかし、『イノセンス』の時点で、このモラルの問題は消滅している。なぜならば素子のいう広大なネットワークに覆われた世界とは、繰り返し述べるようにあらゆる人間が発信者にも受信者にもなる世界であり、そしてあらゆる場所がモニターのこちら側であり、向こう側でもあり、物語の内部であり外部となる世界だからだ。この新しい世界において、高橋留美子的な母性のユートピアディストピア=物語の内部=虚構から、物語の外部=現実に脱出することは不可能だ。なぜならば、そもそもそこには情報環境的に「物語の外部」も「絶対的な現実」も存在していない、できないからだ。世界はネットワークに接続された無数の物語たち―ラムの胎内/アヴァロンのフィールド/かつて映像と呼ばれたもの――の集合体に変化したのだ。仮にある胎内から脱出できたとしても、そこは「絶対的な現実」ではなく別の物語の胎内にすぎない。
 そしてこの新しい世界で、現実への脱出も、その到達できない脱出口へ祈ることも不可能になった私たちが手にできる唯一のモラルとは他者を支配することなく自閉することだけだ。人間以外のものを愛の対象に選び、自閉することだけなのだ。映画の結末でバトーが露わにした怒り。それはこの新しいモラルの発露と考えていいだろう。本来なら正しく自閉しうる存在=人形に意思を与え、双方向のコミュニケーションを可能にしてしまうこと。ネットワークの世紀における虚構と現実の差異がそうであるように、もはや量的に差異しかないはずの人間の人形の間に質的な線を引き、人間の優位を信じて「人形になりたくなかった」と述べること。それは新しい世界のモラルを生き、素子という人間外の存在への信仰で自らの生を支えるバトーにとっては最も許しがたい行為なのだ
 前述したように、かつて『ビューティフル・ドリーマー』の作中であたるは自分が好きな人と好きでいるためにその人から自由でいたいのだと語ったが、ここでは正義と自由が等号で結ばれている。正義=排除の論理に抗うことこそが自由であり、それがラムへの愛の前提条件なのだ。たとえその愛の対象が排除を望んでいたとしても、だ。これはおそらく押井の新左翼の(遅れてきた)活動家としての経験から得られたものだろう。国内においては連合赤軍の末路に代表されるマルクス主義の敗北から20世紀後半の人類社会が得たものとは、政治的なもの、公的なもののために文学的なもの、私的なものを抑圧した20世紀的なイデオロギーに対する反省であり、自由を抑圧した正義は必然的に自戒するという教訓だった。共同体の排除の論理を超えるためにその外部へと脱出することは、この反省に基づいた正義と自由を結びつける思想であり、80年代という時代の要請したものでもあった。この正義と自由を結びつけるものとして、押井が描いてきたモラルは存在した
 
 だからあたるは「モラルのために」ラムの胎内から外部に脱出することで、正義(政治的なもの、公的なもの)と、自由(文学的なもの、私的なもの)を矛盾なく実現することができる――はずだった。しかし、これまで論じてきたように、この正義と自由を巡る押井の情報論的展開はむしろ「外部」の不可能性を決定的に露わにしていった。そして押井の世界認識の背景となっていったグローバル/情報化は、そもそも世界から外部を消滅させた。こうして政治と文学、公と私、正義と自由の(「外部」という幻想に支えられた)幸福な結託が可能だった時代(映像の世紀)は終わりを告げた。
 それは、共同体/外部、虚構/現実、排除の論理/モラルといった二項対立で世界をとらえることが不可能になったことを意味した。『アヴァロン』で押井が描いたように、この新しい世界においてはもはや(あらゆる現実が情報化=虚構化されたために)虚構と現実に質的な差異はなく、情報量の多寡による量的な差異でしか存在できない。このとき、かつて外部(を志向する意思)によって確保されていたモラルと自由は、相対的に多い情報量に対する対処力の高さ――「高いリアリティの与える経験値」によってもたらされる「調整力」――に過ぎなくなる。『イノセンス』のバトーは、そんな世界に生きている。言い換えれば本作におけるバトーはこれまでとは違うモラルを――映像の世紀における「人間」のそれとは異なるモラルを――生きているということだ。それは「人間」のモラルではなく「人形」のモラルとでも言うべきものだ。こうした新しいモラルの提示は、規律と訓練によって錬磨され、他者に対して開かれた柔軟で寛容な知性を持つ近代的「人間」としてのモラルが有効ではなくなったネットワークの世紀に対する押井の一つの回答であったことは間違いないだろう。
 だからこそ、バトーは「人形」を「人間」にしてしまう行為――具体的には作中で行われるセクサロイドに生身の少女の意識をダビングする行為と、「人形になりたくなかった」という被害者の少女の告白――を共に嫌悪する。彼にとって、両者は他者なきユートピアを形成する非人間的な、人形的なもの――自意識と双方向のコミュニケーションを必要としないもの――の存在を損なう行為として等価なのだ
 
336 しかし、押井がここで素子に与えた「母」のイメージは高橋留美子的なものとは明白に異なっている。高橋留美子の描く「母」=ラムが(かつて押井が批判したように)他者の存在を排除し、隷属させることを無意識に要求するのに対し、押井の描く「母」=素子はそもそも他者なき世界に生きる=非人間的な存在に囲まれて自足する「子」=バトーを、安心して犬と銃器と戯れられるように庇護するだけだ。ラムとは異なり素子の母性が排除の論理を発動しないのは、そもそも『イノセンス』の世界には他者が構造的に存在し得ない、排除すべき他者が存在し得ないからだ。したがって素子=「母」の役割は「子」=バトーがその遊び場で怪我をしないようにそっちに行っては危ないと声をかけ、転べば助け起こして土ぼこりを払うこと、それだけだ。
 映像の世紀からネットワークの世紀へ。「母性のユートピアディストピア」はこのとき高橋留美子的なもの(ラム)から、(後期)押井守的なもの(素子)へと進化したのだ。第一部で論じた戦後的な「母性のディストピア」が、情報技術の支援でより凶悪なものに進化したように。「宇宙世紀」が「黒歴史」に進化したように。
 
339 もはやアニメーションは、3D化することで仮想の空間内における立体モデルとしてのキャラクターの動きをシミュレートするものに近づき、20世紀の劇映画という「制度」――すなわち三次元の体験を二次元の情報(映像と物語)に整理して共有可能にするもの――から逸脱しはじめている。それはまさに「もう一つの現実」であり、20世紀を支えた虚構を超えはじめている。
 押井にとって映画とは物語の外部――その目で見、手で触れることはできないにもかかわらず確実に存在する絶対的な現実――との対峙に他ならなかった。だが広大なネットワークに覆われた新しい世界は情報環境的に絶対的な外部を消失させた。それはいわば押井にとっての映画の終わりであり、世界にとっては映像という虚構に整理された現実を共有することで初めてこの規模の社会が運営可能になっていた時代――映像の世紀――の終わりだった。そして押井はこのネットワークの世紀には、他者なき自己完結を可能にする情報環境下には、そのフェティッシュを確認すること以外に動機を持てなくなったのではないか。演出家=テロリストは、その犯行動機を情報環境的に失ったのだ。
 残された動機があるとすれば、それは犬=人間の姿をしていないが双方向のコミュニケーションが可能なものと、人情=人間の姿をしているが双方向のコミュニケーションが取れないものへの愛しかない――それは押井にとっての映画の「映像の世紀」の終わりの宣言でもあった押井守はネットワークの世紀に書くべきものを見出せなかったのだ。
 
15 「父」への回帰
16 戦後史への撤退戦
17 ゴーストと女兵たち
18 「母殺し」の可能性
 
 
 
 
第6部 「政治と文学」の再設定
1 「映像の世紀」と「母性のディストピア
372 近代とは人間に「市民」「父」という役を演じることを要求する舞台装置に他ならず、したがってその舞台=「公」的なものとは原理的に虚構にすぎない。そして近代日本人の自意識とは、この舞台的な空間が機能しないことへの自覚として常に立ち現れてきた。それが虚構であることを自覚し、演じることがそもそも虚構の被膜の融解した日本的な文化空間においては成立しなかったのだ。日本の前近代性とはつまるところ、この近代の必要条件として切断されているべきものがされていないことに起因している。虚実が、世界と個人が、公と私が、政治と文学が切断されていないがゆえに、それを接続するために演じることが成立しない。独立したふたつのものが化合するという現象が発生しないのだ。このような情況下にある近代日本において成熟とはそれが不可能であると自覚しながらも虚実の切断への意思を表面することと同義だった。
 しかし第二次世界大戦における決定的な敗戦は、そこにもう一つのゆがみを加えた。その不可能性を引き受けながらも虚実の切断の意思を表明する、という疑似的な成熟のかたちすらも敗戦とその後の占領政策は完全に破壊したのだ。「アメリカの影」の下「12歳の少年」に留め置かれることになった戦後という時代、成熟する主体であることそのものが、政治と文学の切断と再接続の可能性そのものが、この時代に失われているのだ。
 代わりにこの国の戦後がたどり着いた成熟像、それは12歳の少年による成熟の仮構だった。このとき「アメリカの影」で実質的に「政治」レベルは消去され、彼らは「文学」のレベルでの「政治」ごっこを行うことでその代替としたのだ。成熟の不可能性の自覚から、成熟そのものの仮構へ。「あえて」アメリカの影を直視しないためにアメリカと自己同一化すること、あるいはアメリカの影の存在を意図的に無視して一国平和主義を普遍的平和主義だと錯覚すること。敗戦の記憶から、アメリカの影から「あえて」目を背ける。忘却したふりをすること。これが、治者/戦後民主主義者であることという戦後日本人が獲得したアイロニカルな成熟の可能性だった。こうして鈍感なふりをすることと成熟は統合で結ばれたのだ。
 
374 アメリカの影」の下、戦後日本では世界と個人、公と私、政治と文学の関係が前者が消去されていることで実質的に成立していない。しかし、いやだからこそ表面的にはそれらが存在し接続されていることで実質的に成立していない。しかし、いやだからこそ表面的にはそれらが存在し接続されているかのように演じることが要求される。その結果として後者(個人、私、文学)がその内部で自己完結することで、前者(世界、公、政治)と疑似的に接続されている状態をつくりあげる。この回路は政治的なものの語り得ない、武器を持てない/持たない戦後日本の男性的な自意識の救済に他ならない。その結果、こうして矮小な父性を救済すべく肥大した母性が導入され、無条件の承認を与えることで自己完結が達成される。
江藤淳から村上春樹まで、この国の戦後を生きた男たちは「母」の胎内に閉じこもったまま、「父」になる夢を見続けることになる。そして、何もなし得ないまま、死んでいく。この肥大した母性と矮小な父性の結託こそが戦後日本を呪縛した「母性のディストピア」だ。
 
 
375 例えば宮崎駿にとっては「飛ぶ」ことが、世界と個人とを結ぶことだった。しかし、堀越二郎がその近眼のためにパイロットに道を幼少期に断念していたように、宮崎駿は自らが「飛べない豚」であるという自覚から出発した作家だった。だからこそ宮崎駿は飛べない豚たちの物語(ルパン三世カリオストロの城天空の城ラピュタ紅の豚など)と、彼らの代わりに飛び続ける少女たち(風の谷のナウシカ魔女の宅急便など)を反復して描いた。「母」の胎内でだけ飛ぶことが、「父」になることができる。いや、その夢を見ることのできる少年たちがいる。それは戦後日本の根底に存在するニヒリズムと、そこから出発したアイロニカルな成熟のかたちそのものであり、宮崎自身の苛立ちとは、裏腹に高度成長から商品社会へグロテスクに肥大した戦後日本の姿そのものだったと言えるだろう。
 
376 対して、富野由悠季はこの戦後という「母性のディストピア」を、偽りの身体と偽史によって表現した。モビルスーツという仮初の身体と、宇宙世紀という架空年代記を用いた成熟の仮構装置は富野がその時代認識の表現として構築した巨大なシステムだった。そして、「ニュータイプ」とはそのシステムを内破するものとして――自己破壊的な超克として――自ら見出したものだった。
 こうした戦後アニメーションの想像力が陥った袋小路にもっとも意識的な作家が押井守だった。押井は端的に述べれば、先行する作家たちの囚われていた戦後的男性性とその成熟の問題(「母性のディストピア」)を、そして「政治と文学」と呼ばれた問題を情報論に変換して展開することで突破しようとした。具体的にそれは、超越的な外部を想定することのできない新しい世界におけるモラルのあり方の探求として行われた(その最大の成果がパトレイバー2だった)。
 
377 こうしている今も、この国ではアイロニーを欠いた人々の物語回帰が進行している。いや、それはもはや「物語」と呼ぶべきではないだろう。人々は情報技術に支援されることで(新しい「母」を獲得することで)アイロニーを欠いたまま見たいものだけを見て(「情報」を得て)、信じたいものだけを信じることができる。ヘイトスピーカーから文化左翼まで、Googleで5分調べてたどり着いた都合のよい真実を根拠に、使い古されたイデオロギー向精神薬のように消費し、その精神を安定させることができる。富野由悠季的に表現するのなら、この「母性のディストピア」は宇宙世紀(物語/映像的)から、黒歴史(ゲーム/ネットワーク的)に進化したのだ。押井守的に表現するのならその象徴がアイロニーを失った人形としてのバトーであり、そしてテレビのデッドコピーから抜けだせない日本のインターネット文化である。『イノセンス』で素子=新しい「母」に依存するバトーはあたるのように外部を志向すらしない。それは外部の不可能性を認識しながらもあえてそれを思考するアイロニーがここでは喪失されているからだ。その喪失は今日において(素子という新しい「母」によって)技術的に埋め合わされている。こうして子は物語ではなく情報を享受することでネットワークの海から承認を獲得するのだ。
 
2 戦後アニメーションのターニング・ポイント
384 君の名は。』が震災を安全に「泣ける」過去の悲劇に加工し読み替えることで、国民的「後ろめたさ」に対する「癒やし」の装置として機能するなら、『聲の形』は戦後アニメーションが描いてきたユートピアとしての終わりなき日常へのノスタルジー(それは既に失われたものである)で、過酷な現実――同作で描かれているハンディキャップはその一つである――の中和を試みる。『君の名は。』は読み替えること、『聲の形』は中和することでこの現実に対峙しているのだ。そして、この対峙は傷の忘却(の正当化)とノスタルジー(による思考停止)に他ならない。両作が共に、主人公の凡庸な少年の生に意味を与えるために薄幸な少女の救済が設定されるという、戦後アニメーションの「母性のディストピア」構造が極めて無自覚に希薄化されて反復していることは、この両作の想像力の射程距離の限界を結果的に示してしまっている。戦後的なものに縛られた想像力では、もはやこの新しい世界を(忘却とノスタルジー以外の方法で)捉えることができないのだ。
 
391 しかし、私は考える。すずは異界を覗く力を維持すべきだったのではないか。異界を覗く力は日常の風景の中に非日常を重ね合わせる。この時日常の風景は、深く潜ることで同時にどこまでも遠くに行けるものになる。しかし、「母」になることは、日常を決定的に非日常から切り離す。世界を、公を、政治を「見ないことにする」。すずはあの夏、原爆孤児を引き取るために必要な想像力を、家族から疑似家族へ愛を拡張する想像力を――、世界を、公を、政治を、「見ないことにする」のではなく他の方法で獲得すべきだったのではないかと思うのだ。戦争が始まる前、すずはその異界を覗く力で座敷わらし=浮浪児に対し、疑似家族的に接する。しかし、成人した彼女は、夫のなじみの娼婦となった彼女に対し、当然かつてのように接することはできない。そして原爆によって死亡したことが示唆される彼女の生まれ変わりとして、すずは広島で第二の座敷わらし=原爆孤児の少女に出会う。そして彼女を今度は「母」として迎え入れる。だがこのときすずは、右手を、家族を奪い去ったものから「あえて」目をそれし、忘れたふりをしている。
 前述してきたように、こうして始まった戦後と呼ばれる時代では、世界と個人、公と私、政治と文学は切断されている。いや、より正確にはアイロニカルな接続が行われている。ここでは人々は前者と後者が接続されているふりをすること――戦後民主主義批判/擁護的な偽悪/偽善を「あえて」演じること――でしか「父」であることはできず、そして「母」たちは前者と後者のグロテスクに歪んでしまった関係を「あえて」見ない、考えないことでその胎内に自己完結した世界をつくりあげる。そして「父」を演じる子たちはその空虚さを「母」の膝に甘えることで、胎内に回帰し引きこもることで埋めようとし、娘たちは「母」となりその子たちに自分のテリトリーに閉じ込めることでその箱庭的な世界を満ち足りたものにしようとする。矮小な父性――戦後民主主義批判/擁護の表面的な対立関係と実質的な共犯関係――と肥大した母性――半径数メートルの日常世界での自己完結と思考停止――との結託による「母性のディストピア」はこうしてこの国の長すぎた「戦後」という時代を覆いつくしていったのだ。
 
3 第四の作家ともう一つの命題
394 そしてテレビの時代に怪獣たちはお茶の間に進出し、怪獣を撃退するヒーローがその大衆化の中で要求される。こうして登場した怪獣退治の専門家たちもまた、アメリカの影を帯びていた。例えば『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の2作は、サンフランシスコ体制の比喩として繰り返し読解されてきた。高度成長期の日本の街並みを襲う怪獣や宇宙人はいわば東側諸国の侵攻軍のようなものであり、それを撃退すべく組織されながらも見るからに戦力不足の「科学特捜隊」や「ウルトラ警備隊」といった防衛組織は日本の自衛隊、防衛組織に代わって侵略者を退治してくれる友好的な宇宙人=ウルトラマンウルトラセブン在日米軍
 20世紀という「戦争の世紀」の表舞台で活躍した国民国家による暴力装置=軍隊への畏れと憧れが複雑に入り混じった感情が、子供番組という不自由な枠組みに軟着陸したときに生まれた奇形的な想像力――それが戦後日本のミニチュア特撮の本質だ。それは強く強大なものへの憧れと、それをストレートに表現することを許してくれない敗戦の傷跡――が複雑に絡み合うことで生まれた奇形児であり、永遠の「12歳の少年」だったのだ。そして怪獣映画やウルトラマンはあらゆる意味において戦争映画のアイロニカルな代替物=ミニチュアであったのだ。
 
4 「ゴジラの命題」、再び
399 物語の結末で、人類(日本人)はゴジラを駆除するのではなく、「凍結」し、その活動再開を防止するためのケアを継続しながら、長い復興の道を歩むことが示唆される。ゴジラの「凍結」を主導した主人公格の若手政治家(矢口蘭堂)は語る。「日本、いや、人類はもはやゴジラと共存していくしかない」と。このゴジラとは福島第一原子力発電所が象徴する戦後日本の負の遺産のことに他ならない。当然だがこれはアイロニーだ。実際にはこの国は震災と原発事故に右往左往するばかりで対応できず、むしろ何も解決しないままにその傷を忘却しようとしている。しかし、庵野はこうした現実に対してゴジラという虚構を対峙させた。虚構の力でゴジラ福島第一原子力発電所を、日本の中心である東京駅の正面に配置したのだ
 
<2016.9.3 朝日新聞夕刊>
そしてそのアイロニカルな語り口の根底には、怪獣映画の中でしかこうしたまっとうな――それこそ20年前から反復され続けた――主張が有効性を持ち得ないこの国への絶望が垣間見える。。
 
 「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」――それが同作の宣伝に用いられたキャッチコピーだ。かつて庵野が監督したアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は、同様の正体不明の生物の襲来がもたらす人類の危機を、消費社会を生きる自意識過剰なティーンエージャーの内面の問題、心象風景の比喩としてのみ描ききることで、戦後サブカルチャーの文脈をリセットした。そして庵野は20年の時間を経て、再びゴジラという怪獣を通じて公と私、政治と文学、世界と個人の現代的な関係を描くことに舵(かじ)を切った。その手段としての「怪獣」の再定義とオタク的ポリティカル・フィクションの構築という野心的な試みの与えた衝撃は極めて、大きい。
 
5 平成『ガメラ』から『シン・ゴジラ』へ
6 オタク的想像力の「政治と文学」
405 残念ながら2017年現在、オタクとはヘイトスピーチ歴史修正主義の温床のひとつと言わざるを得ない。しかしあの頃の、かつてのオタクたちは世界を、個人の生を意味づける「物語」としてではなく、被物語的な「情報」の集積として見做す人たちだった。それは「政治の季節」を生きた団塊世代の、より具体的には世界をあくまで物語的に見ようとするマルクス主義的な発想の亡霊を祓うために、「政治の話なんかダサくてできない」と言っていた80年代の新人類――都市型ライブカルチャーの受容者――たちとは異なるかたちでの、オタクたちの抵抗だった。当時のオタクたちはその意味において「政治的」であったのだ
 
411 そしてオタクたちは堕落した。ターニング・ポイントの一つとして挙げられるのが、1997年の「新しい歴史教科書をつくる会」の発足だろう。かつて自分たちが批判したマルクス主義者たちとまったく同じように、世界を、歴史を、自らの生を意味づける「物語」として解釈することに固執する彼らの「市民運動」が、歴史修正主義的に改竄した歴史を記述した教科書を用いて「物語」を公教育の場で流布するところから始まったことは象徴的な出来事だ。景気の後退、インターネットの普及、そしてオタクたち自身の加齢――様々な要因が想定されるが、この時期に一気にオタクたちは劣化し、保守論壇似非科学陰謀論に席巻され、気が付くとインターネット上には「萌え」系のアニメアイコンに日の丸をあしらった「ネット右翼」が溢れ、街頭にはヘイトスピーカー歴史修正主義者の「市民運動」としての「デモ」が溢れかえった。
 だからこそ、『シン・ゴジラ』はあの頃のオタク的な知性と、あの頃に彼らを率いた新保守系改革派が理想としていたリーダーシップが「もう一つの3.11」を迎え撃つ、という物語になったのだ。
 
 この点は左翼の――本当にくだらないことだが――攻撃対象になってもいる。例えば、公開直後に噴出した批判の一つとしては、この映画が政治家と官僚を主役に置き、その活躍を描くことでそれ自体が弱者への視線を欠いたものである、といった類のものがある。こうした紋切型の左翼的クレームの持つ論理のショートカットと偏狭さが、この国の批判的知性を劣化させていることは類をまたないが、ここで本当に重要なのは思わずこういう幼稚な難癖をつけたくなってしまうこの国の左翼のメンタリティにあるのだろう。究極的なことを言えば、この国の左翼はほんとうに批判力を持った現実的な理想主義の存在を認めたくないのだ。なぜならば、彼らの存在が自分たちの卑しさ――その実現性や実効性を度外視して、非科学的な甘言とあらゆるリスクを過大に喧伝し常に「~である」ではなく「~ではない」という言葉しか発することのできない卑しさ――を浮き彫りにしてしまうからだ。
 現実と遊離していることこそが理想として成立するための条件である――それは徹底的に私的であることが逆説的に公的である、とする戦後民主主義の精神が生んだ負の遺産としての精神性だ。他国の戦争をモニターの向こう側に押し込め、アメリカの核の傘の下にいる現実を忘却し、憲法9条こそがこの国の平和と安全を保障しているのだと主張し続ける、というおおよそ当時のローカルな文化空間以外では通用しない破綻した論理と態度が成立していたのは、現実には存在し得ないものこそが理想として価値をもつとした戦後憲法の精神性が、現実の戦後日本を守護に理想や正義を語ることを困難にしたサンフランシスコ体制下におけるアメリカという義父による抑圧が、無意識のレベルで強く作用していたからに他ならない。それは軍事的な従属によってアメリカという義父に承認される(ことによって自己回復を試みる)という戦後保守の甘えや卑しさとまったく選ぶことろのない精神性だ。
 
7 「現実」対「虚構」
415 マルクス主義の敗色が濃厚となり、世界的な「政治の季節」が終焉に向かっていってからの四半世紀――70年代から90年代半ばまでの四半世紀――は世界的に「世界を変える」のではなく「自分を変える」思想が支配的な時代だった。革命はもう成立しない。ならば、世界を変えるのではなく、自分の内面を変えて世界の見え方を変える――だからこそ、内面に変革をもたらすものとしてのサブカルチャーがこの時代の先進国の社会では特別な位置を占めていた。かつての『エヴァンゲリオン』が放送された1995年は、こんな時代の末端にあった。冷戦は終結し、インターネットの普及が始まり、時代はグローバル/情報化へ舵を切りはじめていた。
 かつての『エヴァンゲリオン』における世界の問題が全て、主人公の少年の自意識の問題の比喩に過ぎないのは、同作が「世界を変える」のではなく「自分の内面を変える」ことしか信じられなかった時代の臨界点に出現した作品であり、庵野秀明という作家がそんな時代と寝ることを結果的に選択したからに他ならない
 そして自己啓発セミナーそのものである旧『エヴァンゲリオン』の結末は、全てを自意識の問題に還元した結果として虚構が不要になったという逆説だ。世界と個人、公と私、政治と文学――前者と後者を接続するために物語が、虚構が、ファンタジーが機能していたはずなのだが、旧『エヴァンゲリオン』には徹底して後者しかいない。より正確には、徹底して「世界を変える」ことを断念したことが、架空年代記におけるそれすらも断念したことが、物語を、虚構を不要にして、問題を自己啓発セミナーというありふれた現実の1プログラムに収斂させてしまった。物語とは、虚構とは世界と個人をつなぐものである。世界との接続を放棄し徹底して自己の内面の問題に閉じこもることは物語的想像力を否定し、俗流心理学的な承認の獲得プログラムというありふれた、そして陳腐な現実に留まることを意味したのだ。
 
 1995年は、オウム真理教による地下鉄サリン事件で記憶されている。オウム真理教こそが『エヴァンゲリオン』の、いや戦後アニメーションの並走者であり、その教義やイメージ戦略において、戦後アニメーションの強い影響下にあることは広く知られている。前述したように、彼らがその修行場であるサティアンで使用した空気清浄機は『宇宙戦艦ヤマト』に登場する放射能除去装置になぞらえて「コスモクリーナー」と名付けられ、教団の後方を担う幹部は雑誌などのインタビューに自分たちは『機動戦士ガンダム』に登場するニュータイプのようなものだと答えた。さらに教祖麻原彰晃を救世主として描くアニメーションの演出はほぼ『風の谷のナウシカ』を踏襲したものだった。彼らは戦後アニメーション的な架空年代記に酷使した世界観を構築していた。それはもちろん、世界を変えるのではなく自分の内面を変えるためだ。現実から切断された虚構の中で自己実現を果たし、内面を変える=解脱すること。それが彼らの目的だった
 それは革命とフロンティアを失った20世紀最後の四半世紀に世界的に支配的だったユースカルチャーの、極東における純化された発現でもあっただろう。しかし、彼らは敗北した。結局、彼らは虚構の中で自分を変えることだけでは満たされなくなり、世界を変えるために毒ガステロという凶行に向かっていったのだ。
 革命とフロンティアを失い、世界を高度資本主義とそれのもたらす消費社会が覆ったとき、この終わりなき日常を覆すことは不可能だと考えた若者たちが現実の世界を変えるのではなく虚構を通して自分の意識を変える方向に舵を切っていった時代の終わりが、見えてきた。
 ではその「終わり」を具体化したものは何か。
 それは情報技術だ。
 
417 もちろん、大半の人間には知的冒険心など存在しない。「検索をかけてまで」新しいものに出会って自分を変えようなどとは考えない。しかしそんな彼ら/彼女らだからこそ、その可処分時間は家族や恋人、友人とのだらだらとして雑談に占められている。スマートフォンソーシャルメディアの発展は、その雑談のコストをもゼロに近づけ、24時間対応にした。彼ら/彼女らはよほどのことがなければ――少なくとも前世期のようには――虚構に、フィクションに関心を寄せなくなっている。この20年は情報環境的に虚構が現実に敗北していった20年なのだ。
 
419 考えてみれば、そもそも人々が映像で描かれた物語を最大の共通体験とする社会自体が戦後に決定的に拡大したもので、たった数十年の歴史しかもたないものだ。
 
8 カリフォルニアン・イデオロギーと「映像の世紀」の終わり
419 現代はもう一回世界を、現実を変えることが信じられる時代になっている
 
421 もはや国家より市場が大きく、オバマよりジョブズの方が世界を変えたと思われている。正確にはそう信じられる人々と、そうではない人々に世界は二分されている。先進国の都市部に暮らす新しい産業のグローバルな市場のゲームのプレイヤーとそのゲームに参加できずに国家というセーフティネットを生活的にも精神的にも必要としている人々に、世界は二分されている
 
9 「ポケモンGO」と「大きなゲーム」
425 こうしていま、文化の中心は紙やスクリーンの上の他人の物語を受信することではなく、自分の物語を語ることに移りつつある。いま、私たちは製作費数十億円の他人の物語を受信するよりも自分が主役の自分の物語として、参加した祭りで楽しそうに仲間とはしゃぐ写真をFacebookでシェアする(語る)ことの方に相対的に快楽を覚えつつある
 そしてGoogleがモニターの文字情報の検索から、現実そのものの情報化とその検索に舵を切ってから久しい。「仮想現実から拡張現実へ」とはもう15年ほど前の情報産業のトレンドの変化を表現する言葉だが、これは私たちの虚構に対する欲望の変化をも体現している。
 フロンティアと革命の可能性を失った消費社会においては「ここではない、どこか」を仮構することが虚構の役割だった。しかし、超国家的に拡大した市場を通じて世界を変える回路が常態化した今日において、外部を失ったグローバル化以降の世界において虚構が果たすべき役割は「いま、ここ」を重層化し、世界変革のビジョンをこの現実に示すこと、なのだ
 
10 巨神兵東京に現れる
429 情報化の発達した現在、もはやモニターの中でいかなることが起きても、それは人々の心を本質的に動かすことはない。もはや平面においては、二次元の中ではどんなことも可能な現代において、虚構の中で語られる世界の終わりは、最終戦争後の未来は批判力を持たない。既に現実と遊離した、冷戦期の古びた終末観はどれほど連発されようと、いや、セカンドインパクトサードインパクト、フォースインパクトとされればされるほど、その批判力のなさ――安易な心象風景の比喩としての――を露呈してしまう。現実との接点を失い、それが自意識の問題の比喩でしかないことを露呈してしまった「世界の終わり」は何の批判力ももたないのだ。
 世紀末に最終戦争が起こらなかったことも、原子力発電所が爆発しても世界は終わらなかったことも、現代を生きる私たちは知っている。「世界の終わり」はもう来ない。いや、私たちの目に見えるかたちではもう来ない。ファーストインパクトも、セカンドインパクトも、当然、来ない。それは冷戦期の、カビの生えた「世界の終わり」のイメージなのだ。
 
 私たちが生きているのは冷戦/映像の世紀を上書きしたテロ/ネットワークの世紀だ。この新しい時代に世界を終わらせるのは、ある日突然世界の外部からの訪れで全てをリセットするものではなく、私たちの生きているこの場所を内部からゆっくりと侵食していく目に見えない力だ。かつて、広島と長崎に投下された原子爆弾のように一瞬で全てを灰にして、まるでスイッチのオンとオフを切り替えるように世界を終わらせるのではなく、福島で爆発した原子力発電所のようにゆっくりと世界を壊死させていく力――前者を原爆的、後者を原発的な力だとするのなら、庵野秀明が出した時代への回答は原爆としてではなく、原発としてのゴジラを生むことだったのだ
 
11 「政治と文学」の再設定
434 対して、IngressポケモンGOにおいて個人と世界は接続されている。それも「物語」ではなく「ゲーム」で接続されている。自分の物語と世界の物語がゲーミフィケーションによって接続されているのだ。この場合の世界とは、ドメスティックな国家ではなくグローバルな市場であり、そしてデータベース化されたこの世界の歴史と自然(地理)そのものだ。しかし、劇映画という制度に強く依存する――あえて時代に逆行する――『シン・ゴジラ』において、その接続先は国家といういま時代から取り残され始めた装置に限定され、そして個人と世界をつなぐ媒介も(劇映画における)物語という情報環境的に脆弱になってしまった回路を用いることしかできない。 いや、言いかえればGoogle的、IngressポケモンGO的、ジョン・ハンケ的なアプローチこそが、「映像の世紀」の退潮後に非物語的な装置を用いて世界と個人を結ぶ回路をどう再構築するかという巨大な問いに対する、現時点での最も批判力のある解答なのだ。その背景をなすGoogle的な世界観は、世界を物語としてではなく情報の集積として見做す、というまさに『シン・ゴジラ』で庵野が描いた戦後のオタク世代の「思想」と同一のものを孕んでいる。いや、より徹底されたものだと言えるだろう。しかし、ハンケと異なり庵野は劇映画という制度にとどまり、個人と対峙すべき世界も20世紀的な国家に限定することを選んだ。世界がグローバルな市場(というゲーム)にコミットするプレイヤーと、その巨大なゲームから取り残された人々のセーフティネットとして国家(という劇映画)に依存する観客たちに二分されている現在、庵野はあえて後者を選択していることはすでに述べた。しかし『シン・ゴジラ』における政治と文学の決定的な断絶は、その選択の困難さを体現しているのだ。
 
12 戦後サブカルチャーと「ネットワークの世紀」
13 吉本隆明と母性の情報社会
440 「戦後日本最大の思想家」吉本隆明は『共同幻想論』において、西欧の父権的な近代国家に対してアジアの母権的な原始国家を対峙させている。この時の吉本の狙いは近代国家の、とくに現代的な国民国家の相対化にあった。
 人間の社会像は自己幻想(個人)、対幻想(家族的な関係性)、共同幻想(国家的な共同体)から形成される。本来は独立した関係を持つこれらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大可能になる。この理論から日本の古代史を参照した時、対幻想と共同幻想の接続は同時に母権社会から父権社会への移行として捉えられる、という。当時吉本の念頭にあったのは、近代天皇制批判としての反国家論の展開だったと思われる。そして、戦前の文学者や知識人の転向問題から出発し、やがて60年代の学生反乱のイデオローグを務めた吉本にとって、その間に記された『共同幻想論』の理論は天皇制と同時に戦後の市民社会の虚妄にも向けれられていくことになった。近代天皇制にも、戦後民主主義にも動員されない自立した主体の形成、それが吉本の思想の根幹にあった。
 そこで吉本が共同幻想から自立の根拠として提示したものは何か。それは対幻想の領域で機能する核家族的な想像力だ。吉本にとっての戦後復興と高度成長とは、こうした対幻想が戦後的中流幻想の根幹をなすものとして強力に機能した時代でもあった。吉本はこの対幻想に基づいた自立を「大衆の原像」と呼び、その思想の根拠に置いた。
 しかし
 
450 消費社会のもたらした消費による自己実現によって、共同幻想に拮抗し得る対幻想/自己幻想を育むこと――それが大塚がこのとき「おたく」に見出した可能性であり、その「おたく」の思想の実践こそがその処方箋だった。それは吉本隆明の80年代における展開の継承でもあった。吉本が全身をコム・デ・ギャルソンの洋服で包み、消費社会を肯定した時、その自己幻想の肥大を逆利用した戦略は思想未満のイメージ(ハイ・イメージ)として提示されたもの――具体的には消費社会のスケッチとそこから生まれるアイデア・メモ――に過ぎなかった。しかし、大塚の言説はこの時結果として吉本が消費社会から得た「ハイ・イメージ」を具体化したものだと言える――ただし戦後民主主義を相対化する第三の道ではなく、そのリハビリテーションとして。大塚は、ここで「おたく」による戦後民主主義というイデオロギーと消費社会との「和解」を試みたのだ。
 しかし「おたく」が「オタク」となった今日において、大塚英志の戦略もまた破綻している。
 
14 もう一つの対幻想
454 かつて吉本隆明が唱導した「大衆の原像」に立脚した思想とは、戦後レジーム化における(左右の)思考停止の突破口を模索するものであった。憲法9条を改正し偉大な「父」を演じること(【A】)でもなく、それを死守することで矮小な「父」に居直ること(【B】)でもない第三の道――それが吉本の根底をなす構想だった。このとき吉本が想定していたのは、20世紀的なイデオロギーによって駆動される(共同幻想としての)国家に、(対幻想によって支えられた)「大衆の原像」を対置するという構図のもと、後者に立脚するという戦略だった。そして、それは父権的/言語的な禁止を基礎に置く国民国家的な共同幻想に対して、市場に氾濫する母権的/イメージ的な包摂をもたらす対幻想をもって対峙することでもあった。吉本はこの対比と西洋近代的な前者と、アジアの前近代的(であるがゆえに部分的にポストモダンに通じる)公社との対比に重ね合わせていた。
 
 それは消費社会のもたらした20世紀イデオロギーの解体を最大限に肯定しつつ、新しい時代のモラルを模索する試みであったことは疑いようがない。しかしその後の情報社会の不幸な展開が証明したように、吉本がかつて消費社会に氾濫するハイ・イメージの中に見出したアジア的な「母性」の支配する世界が、近代国家を超克したユートピアではなく、代替なきまま機能を麻痺させるディストピアであるとしたら――いや、現にそうなっていることは疑いようがないのだが――第三の道を選び、「母性のディストピア」を超克する可能性はどこにあるのか。
 
15 「政治と文学」から「市場とゲーム」へ
458 このもう一つの対幻想に基づいた主体こそが恐らく「母性のディストピア」を超克しうる最大の可能性だ。なぜならば今日においてこの空間的永続を表現する兄弟/姉妹的な対幻想は国家という共同幻想に回収されることなく、市場に解放されることで、対幻想のままその対象を拡大することができるからだ。
 国家が共同幻想=物語的な存在であるのに対し、市場は非物語的な存在=ゲーム的な存在だ。物語が虚構によって個人の生を意味づけるのに対し、ゲームはプレイヤーの関与とその結果という現象によって価値づける。
(略)
 その意味においては核家族的な対幻想(ファミリー・ロマンス)は物語/国家的、兄弟/姉妹的な対幻想(ボーイズ・ラブ)はゲーム/市場的なものだと言えるだろう。
 
461 現代はあくまで個と個として、いや、正確には相補性の片割れとして、境界を越えて誰かとつながることが要求される時代だ。人と人、人と法人、人と事物が媒介なく直接つながりうる時代、それが「境界のない世界」を実現するネットワークの世紀だ。しかし共同幻想を通じてしか自分以外の何ものかとつながることのできない旧世紀のオールドタイプたちが「壁を作れ」と叫んでいる。私たちに必要なのは人間と人間、人間と事物が媒介なく直接つながる時代の思想なのだ。
 
 そこで出会い得る他者は物語の外部に立つ絶対者ではない。しかし世界中が接続され、誰もが同じフィールドに立たされた時、この世界は個人の生に対しあまりに広く、深い。そしてこの接続された世界とそのメカニズムはボトムアップ的に絶えず更新を繰り返していく。革命ではなくイノベーションによって進化する世界が、既に出現しているのだ。問題は、この戦後日本という空間がそのポテンシャルを殺す方向にしか傾けなかったことにしかない
 では国家/反国家という零落した共同幻想としてのファミリー・ロマンスからの離脱をなしうる友愛の関係性を私たちはいかにして手にすることができるのか。それは比喩的に述べれば「父」になることなく、夫婦/親子的な対幻想に依存することなく、今日においては国家という共同幻想ではなく市場という反現実のネットワークに解放された主体をいかに確立するかという問でもある。「父」にならない成熟の像について、私たちは考えなければならないのだ。
 
16 ロボットアニメの新しい身体
461 これらの新しい『ガンダム』におけるモビルスーツはもはや少年に「父」になる夢を見せる偽りの機会の身体ではなく、既に完成されたナルシシズムと全能感を持つ美少年たちのアクセサリーに過ぎない(したがってそこには自らが偽物の、矮小な父でしかないことを自覚することでの戦後的成熟は成立しない)。
 1995年、あの決定的な敗戦から半世紀を経た節目の年に、『エヴァンゲリオン』の主人公の少年(碇シンジ)が「父」になる夢を抱き、その不可能性に直面して傷ついていたその時、既に『ガンダムW』の美少年パイロットたちはまったく異なるゲームを開始していたのだ。それはまさに戦後アニメーションの終わりとその遺伝子を引き継いだ別の何かの始まりの光景だったに違いない。
 彼らが演じる物語は(「父」となるための)成熟と喪失の物語ではなく、(少年同士の関係性として描かれる)相補性の片割れとしてのアイデンティティ・ゲームであり、そして消費者の二次創作的欲望がこのゲームを何万倍にも再生産し、拡大している。それはトロワとカトルが合奏し、キラとアスランが再会し、ロックオンとティエリアが和解し、三日月とオルガが誓い合ったその瞬間から始まった新しいゲームなのだ。
 
465 しかし私たちは核家族的な対幻想に回帰することはできない。それは今日においてはアイロニーを欠いた物語回帰を、情報環境に支援されて信じたいものを信じることを、肥大する「母性のディストピア」に取り込まれ、その矮小さを忘却して「父」になることを意味するからだ。私たちはあくまでここから、もう一つの対幻想から、今日的な世界と個人、公と私、政治と文学、いや市場とゲームの関係性を記述し得る物語を獲得しなければならないのだ。
 このもう一つの対幻想が世界と個人、公と私を接続する物語を記述し得ないのは、それがまだ「・・・ではない」というかたちでしか表現されていないものだからだ。「父」にならない成熟像の模索として生まれたこの対幻想は、いまは「・・・ではない」というかたちで表現される関係性でしかない。それは「・・・である」というかたちに結実したとき、この戦後サブカルチャーの想像力が乗り上げた巨大な暗礁からの最大の脱出運動は成功し、その機能を停止した「アトムの命題」は決定的に更新されるだろう。ではどうするのか。
 
17 想像力の必要な仕事
465 この肥大した「母性のディストピア」を破壊するためには、私たちの「父」への欲望を他のかたちに置き換えることが、新しい成熟のかたちを示すことが必要だ。政治と文学ではなく市場とゲームを結ぶ新しい蝶番を獲得することだ。
 
467 もはや答えは明白だ。ここで必要とされているのは終わらない戦後=「ゴジラの命題」を内破するための想像力だ。そしてそのための方法は一つしかない。
 この現実を変えること、それだけだ。
 『シン・ゴジラ』で描かれたもう一つの日本、もう一つの「失われなかった」20年、もう一つの「災後」を現実のものにすること、それだけだ。
 庵野秀明アイロニーとして提示したものを、私たちは現実にするしかないのだ。失われてしまったオタク的な成熟の可能性を取り戻し、平成の改革勢力の理想を実現するしかないのだ。
 
468 そのために私たちは同作でのゴジラ=震災に対抗し得た力――世界を非物語的な情報の束として解釈する「オタク」の思想と、その成熟としてのリアルポリティクス的な「第三の道」を、アイロニーではなく現実に主張し得る価値として追及する他ない。それ以外に、この国のスクラップ・アンド・ビルドを実現することはできないのだから。
 シン・ゴジラ』に登場する技官、研究者たちの動機はナショナリズムでもなければ、父性の獲得でもない。ただ目の前にある情報を整理し、謎を解き明かし、情況をコントロールする快楽を得ることだ。彼らの発揮する公共性は、こうした快楽に結びついている。おもしろいこと、気持ちのいいこと、夢中になれることと結びついた公共性への回路が、ここには出現している
(略)
 庵野秀明が失われた理想として、あるいは不可能性として提示したものを可能性として読み替えること。ヘイトスピーチ歴史修正主義の温床となった「オタク」的なものを、(かつて垣間見えた可能性を回復し)非物語的な世界に耐えうる強さを備えたリアルポリティクスに引き戻すこと。世界を非物語的な情報の集合として認識することを受け入れ、戦後的なイデオロギー対立を無効化すること。さらに言えば、敗北した平成の構造改革勢力の理想を新しいかたちに再生すること――これがかつてオタクと呼ばれた想像力の孕んでいた――そして一度は失われてしまった――可能性なのだ。
 この可能性を現実にすることこそが「東京駅前のゴジラと付き合っていくこと」であり、その根幹をなすオタク的な成熟こそが、父を演じるのでもなければ、母の膝に甘えるのでもない第三の道であるはずなのだ。それは未だに「世界を変える」ことではなく「自分を変える」ための想像力しか手にしておらず、世界に、公に、政治に対してはカビの生えた20世紀的左翼の方法論でしかアプローチできないこの国のハイカルチャーの、あるいは倫理としての非政治性から微温的な文化左翼に転向することしかできなかった新人類と呼ばれたサブカルチャーの担い手たちにはできないことのはずだ。
 
469 メインカルチャーとメジャーの権威をも文化資本は解体しつつあり、マイナーが分衆として資本に取り込まれるにはまだ間があった七六~八三年という転形期にあった、低成長下のサブカルチャーは奇妙な活性化をみせていたのだ。『すすめ!!パイレーツ』に『マカロニほうれん荘』。『LaLa』に『別マ』に『花とゆめ』。萩尾望都大島弓子山岸凉子。『JUNE』に『ALLAN』。諸星大二郎ひさうちみちお。『ビックリハウス』『POPEYE』『写真時代』に『桃尻娘』に糸井重里椎名誠。藤井新也。つかこうへいに野田秀樹タモリとたけし。鈴木清順異種格闘技戦新日本プロレス。パンクにレゲエ、テクノ・ポップ、ニューウェーヴ、サザン、RCサクセション。YMO、『よい子の歌謡曲』『スター・ウォーズ』。ミニシアター。『ガンダム』に新井素子。世界幻想文学大系やラテンアメリカ文学。メジャー不在の大空位時代にあっては、あらゆる新しいものがマイナーのままメジャーであった。正義も真理も大芸術も滅び、世の中は、面白いもの、かっこいいもの、きれいなもの、笑えるもの、ヒョーキンなものを中心に回るしかない。この幸福な季節を、橋本治中森明夫は八〇年安保と呼ぶ。( 浅羽通明『天使の王国 平成の精神史的起源』)
 
 後に「80年安保」と呼ばれるサブカルチャーの量的爆発が発生した80年代初頭は同時に、ここで紹介されている「新人類(のちの「サブカル」的なもの」と、本書で取り上げた「オタク」的なものが明確に分離していく時代だった、と言える。
 一般的には前者は年のインターナショナルなライブカルチャーで、後者は全国区のドメスティックなメディアカルチャーだとされている。前者は基本的に輸入文化であり欧米のユースカルチャーに対して敏感であり、その洗練されたローカライズを競うものだったと言えるだろう。ジャンル的にはその中心に音楽があった。対して、マンガ、アニメ、ゲームなどを中心とする後者は「一般的」には国内のマンガ雑誌とテレビアニメを基盤とする国内文化だったと言える。私が思春期の頃は前者こそがサブカルチャーの中心であり、後者は80年代末の幼女連続殺人事件の犯人がいわゆる「オタク」だったことの影響もあり、ほとんど犯罪者予備軍のようなイメージで見られることも多かった。こうした彼我の相対的な位置は、世紀の変わり目のあたりで逆転する。インターネットの普及を背景に、若者のサブカルチャーの中心は後者に移動し、(国の掲げる「クール・ジャパン」政策の空回りを横目に)日本のオタク系サブカルチャーがグローバルに支持を集めている現実が広く知られるようになり、ドメスティックだと思われていた後者の文化はむしろグローバルな輸出文化としての期待を集めるようになった。
 この時代の「オタク」たちは(恐らく「結果的に」なのだろうけれども)そこに確固たる世界観を構築しつつあったはずだ。SF、アニメ、特撮、パソコン(特にマッキントッシュ)、ビデオゲーム、輸入ボードゲーム/カードゲームとその国内ローカライズ文化、テーブルトークRPGとメールゲーム、模型、ミリタリー、モータースポーツ・・・。私よりも少し年上のいわゆる「団塊ジュニア世代」を中心にこの頃、「オタク」的な感性を背景にした教養体系が機能していたのではないか、と私は考えている。そして、これらの体系は、漠然とした、しかし確実に一つの世界観として共有されていたのではないだろうか。
 この雑食性と総合性は、一見新人類たちが掲げた「80年安保」と似ている。しかしその守備範囲は、「必修科目」のラインナップは確実に「新人類」のそれとは異なっている。私は仮に、この総合性を強くもった世界観を新人類のそれと対比し「ニュータイプ」の世界観と呼びたいと思う。
 現在につながるカリフォルニアン・イデオロギーの源流にマッキントッシュ(を中心とするパソコン文化)を通じて間接的に触れ、ボードゲームとそのローカライズで物語の語り手としての、またはシステム設計者としての訓練を受け、戦後のアイロニカルな文化空間の鬼子であるオタク系文化の批判性を受け止め、そして軍事へのオタク的な興味を基盤にリアルポリティクスを重視する(ことで戦後的な左右対立の思考を拒否する)――まさに国防からライフスタイルまでをカバーする総合的な世界観を、少なくとも総合性に近い雑食性を、彼らは結果的に確立しつつあったように思えるのだ。
 今日においては、こうした「ニュータイプ」的な総合性は、オタク的なものの大衆化とインターネットの普及による趣味の細分化で破綻している。しかし、その一方でおsの遺伝子は今の若い現役世代の精神性の中に確実に宿り、現在のサブカルチャーやIT業界のクリエイティビティを支えてもいる。
 
 
 
 
結びにかえて
▼2016年の「敗北」から
475 彼らのこうした世界市民的な自意識こそが、アメリカにドナルド・トランプ大統領を生んだのだ。彼らのその「境界のない世界」を自身が自由に移動できることを前提とした「語り口こそ」が、新しい「壁」を生んでいるのだ。グローバルな市場のプレイヤーとして世界市民的な自意識をもつ自分たちと、まだ経済的にも精神的にも国民国家というセーフティネットを必要としている旧世紀の住人たちとの間に壁を生成しているのだ。「境界のない世界」のすばらしさを訴える彼らは、自分達こそが壁を作っていることに気づいていない。これが、カリフォルニアン・イデオロギーの経験した最初の敗北だ
(略)
 失われた革命の代替物として、世界ではなくその見え方を変える手段として虚構が求められていた時代は既に、終わりを迎えた。そしていま、私たちは再び世界を変えることができる。少なくともそう信じられる時代に生きている。そして、そのために虚構は機能している。現実の世界を変えるためにこそ虚構を経由することが求められている。それが「ゴジラの命題」が現代に対して有効であり続けている理由だ。
 
 
▼「境界のない世界」への二つの道
▼ハイ・イメージのゆくえ
482 この表面的な断絶と実質的な結託は、ソーシャルメディアの内部でも発生している。例えば父権的な言語禁止の場としてのTwitterと、母権的イメージによる包摂の場のInstagramの棲み分けがこれにあたる。「・・・ではない」という否定の言葉と相互監視のネットワークであるTwitterに対し、「…が好き」という肯定のイメージが氾濫するInstagramを、人々は解離的に使い分けている。あるいは、個人的なコネクションの管理アプリケーションとしてのFacebookと、不特定多数の人々と常に接触し日本的「世間」の実相として機能しているTwitter都の棲み分けでは、前者には肥大した自己幻想としての喧伝が溢れ、後者には共同幻想を下支えする同調圧力が渦巻いている。この両者もまた、同一人物がそれぞれ自己喧伝と怨嗟の発露の場として解離的な使い分けが行われている。
▼中間のものについて
▼未来へのブループリント
 
 
498 カント著・中山元訳『純粋理性批判』(光文社古典新訳文庫、2010年)/<身軽な鳩は、空中を自由に飛翔しながら空気の抵抗を感じ、空気のない真空の中であれば、もっとうまく飛べるだろうと考えるかもしれない。プラトンも同じように、感覚的な世界が知性にさまざまな障害を設けることを嫌って、イデアの翼に乗り、この感覚的な世界の<彼岸>へと、純粋な知性の真空の中へと、飛びさったのだった。そしてプラトンは、その努力が彼の探求にいささかも起用するものではないことには気づかなかったのである。[真空の中では]その上でみずからを支えたり、それに力を加えたりすることができるような、いわば土台となるいかなる抵抗もないために、知性を働かせることができなかったのである。>
 
 しかし思索にふける人間の理性にとっては、自分の建造物をできるだけ早く建設してしまって、その後になってからやっと、建造物の土台が適切に構築されているかどうかを調べるという[転倒した]やりかたが、いわばごくふつうの<宿命>となっているのである。しかしそのときになると人間というものは、さまざまないいわけを考えだして、建物の土台は強固なものだと言い聞かせてみずからを慰めたり、後になってから点検を実行することは危険であると、拒んだりするものなのである。