読んだ。 #それでも、日本人は「戦争」を選んだ #加藤陽子

読んだ。 #それでも、日本人は「戦争」を選んだ #加藤陽子
 
東京大学加藤陽子先生が、栄光学園の歴史研究部の中高生17人に行った5日間の集中講義が本になったもの。
日露戦争から太平洋戦争まで、欧米の列強国の思惑と、中国、朝鮮、日本の思惑。このような授業もあるのかと思った。
 
 
 
序章 日本近現代史を考える
1章 日清戦争―「侵略・被侵略」では見えてこないもの
2章 日露戦争―朝鮮か満州か、それが問題
3章 第一次世界大戦―日本が抱いた主観的な挫折
4章 満州事変と日中戦争―日本切腹、中国介錯
5章 太平洋戦争―戦死者の死に場所を教えられなかった国
 
 
はじめに
 
 
序章 日本近現代史を考える
 
・戦争から見る近代、その面白さ
9・11テロの意味
1937(昭和12)7月7日、盧溝橋事件(→日中戦争
25 ものすごく家柄のいい近衛文麿という人が首相であったときに、中国の軍事的にも政治的にもトップであった蒋介石に対してある声明を出すのですが。
このとき日本はなんといったか。
「国民政府を相手とせず」
 
「今次事変は戦争に非ずして報償なり。報償のための軍事行動は国際慣例の認むる所」。
つまり、今、日本が行っていることは戦争ではなくて、「報償」なのだ、だからこの軍事行動は国際慣例でも認められているものなのだ、と発言しているわけです。
 
※報償・・・相手国が条約に違反したなど、悪いことをした場合、その不法行為をやめさせるため、今度は自らの側が実力行意をしていいですよ、との考え方。
 
歴史は暗記?
 
・人民の、人民による、人民のための
南北戦争の途中で
36 「戦没者を追悼し、新たな国家目標を設定するため」
 
なにが日本国憲法をつくったか
39 憲法(前文)
そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、(of the people)
その権力は国民の代表者がこれを行使し、(by the people)
その福利は国民がこれを享受する。(for the people)
 
「政治は大衆のいたるところで始まる。数千人がいるところでなく、数百万人がいるところで、つまり本当の政治が始まるところで始まる。」
 
・戦争と社会契約
国民の力を総動員するために
 
49 戦争相手国の憲法を変える
憲法とは何か』長谷部恭男
長谷部先生は、この本のなかで、ルソーの「戦争および戦争状態論」という論文に注目して、こういっています。戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する契約、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃、という形を取るのだと
 
51 ルソー「戦争とは相手国の憲法を変えるもの」
 
日本の憲法原理とはなんだろう
54 ―国体。
戦前期の憲法原理は一言でいえば「国体」でした。「天皇制」と言いかえてかまいません。
 
・「なぜ二十年しか平和は続かなかったのか」
変人のカー先生(E・H・カー『歴史とは何か』)
大戦直前に書かれた本
61 『危機の二十年 1919-1939』
「制作は論理的原理から導き出されるのであって、政策から論理的原理が引き出されるのではない、と真面目に確信している、どちらかといえばユートピア的な政治家」が、アメリカでは影響力を行使していた
西園寺公望牧野伸顕、珍田捨巳(駐英大使)、松井慶四郎(駐仏大使)、伊集院彦吉(駐伊大使、後に追加)
 
まちがっていたのは連盟のほうだ!
68 イギリスは、連盟の権威をバックにして、単なる言葉や理論によってドイツ、イタリア、日本を抑止できると考えるべきではなかった、とカーは述べています。イギリスがやるべきことは、海軍力の増強しかなかったはずだと。ヴェルサイユ・ワシントン体制という、第一次世界大戦戦後の世界を連盟中心にまわしていこうとの考え方、あるいは、経済重視の安全保障が大切だとの考え方、こういった考え方は、もてる国の現状維持であるとして批判したのは、ドイツやイタリアや日本でした。カーは、このような主張をしていた現状打破国に対しては、言葉だけの抑止では通用しなかったはずだと述べます。軍事力の裏付けなしに現状維持国が現状打破国を抑えることなどできなかったのだと
 ここで考えなければならないのは、1930年代前半にかけてのイギリスに、海軍軍拡の余力があったかということです。
(略)
 結論としてカーは、海軍増強という力の政策によってドイツを抑え込む力がイギリスになかったのだとすれば、イギリスは連盟を背景にしてドイツを刺激するべきではなかった、といっていることになります。これは自分の国に対する、なかなかに暗い診断ですよね。海軍増強、それができないのなら、ドイツと真剣に交渉をすべきだった、こういうのですから。
 
特殊のなかに一般を見る
過去の歴史が現在に影響を与えた例とは
75 ロシア革命は1917年に起こりますが、それを起こした人の多くはユダヤ系のロシア人で、後にボリシェビキ(多数派を意味するロシア語です)といわれるグループでした。この人たちは、1789年に起きたフランス革命が、ナポレオンという戦争の天才、軍事的なリーダーシップを持ったカリスマの登場によって変質した結果、ヨーロッパが長い間、戦争状態になったと考えていました。
 そのことを歴史に学んで知っていたボリシェビキは、ロシア革命を進めていくにあたってどうしたか。これは、レーニンの後継者として誰を選ぶかという問題のときにとられた選択です。ナポレオンのような軍事的なカリスマを選んでしまうと、フランス革命の終末がそうであったように、革命が変質してしまう。ならばということで、レーニンが死んだとき、軍事的なカリスマ性を持っていたトロツキーではなく、国内に向けた支配をきっちりやりそうな人、ということでスターリンを後継者として選んでしまうのです。
 スターリンは、第一次世界大戦やその後の反革命勢力と戦う過程での軍事的なリーダーシップを全く持たなかった人でした。トロツキーは、内戦を戦った闘将でしたし、第一次世界大戦の戦列からロシアを除くために、敵国ドイツとの単独講和にも踏み切った英雄でした。このときトロツキーは、こんなにロシアが損をしてどうする、国がなくなるぞという国内からの圧迫を受けながらも、革命を成就させるためにドイツと手を打たなければと、エストニアラトビアなどをロシア帝国から全部吐きだすのです。一つの帝国が一つの戦争で吐きだした地域の広さでは過去最大でした。その結果、ロシアは戦争をやめることができ、だからこそロシア革命は成功したのです。トロツキーにはこのような政治的才能もあった。
 トロツキーは、第二のナポレオンになる可能性がある。よって、グルジアから出てきた田舎者のスターリンを選んだほうが安全だと。
 ロシア革命を担った人たちが、フランス革命の帰結、ナポレオンの登場ということを知ったうえでスターリンを選んだというのは、かなり大きな連鎖であり、教訓を活かそうとした結果の選択です。一つの事件は全く関係のないように見える他の事件に影響を与え、教訓をもたらすものなのです。しかも、ここが大切なところですが、これが人類のためになる教訓、あるいは正しい選択であるとは限らない。スターリンは1930年代後半から、赤軍の関係者や農業の指導者など、集団化に反対する人々を粛清したことで悪名高い人ですね、犠牲者は数百万人ともいわれる
 
79 ナポレオンとトロツキー西郷隆盛に共通しているのは、軍事的なリーダーシップがあった、カリスマ性があったということです。倒幕から明治維新を経た政局の中で、西郷が果たした軍事上の大きな啄割はよく知られていますね。江戸の無血開城など、その一つでしょう。同じ政治家でも、大久保利通岩倉具視三条実美伊藤博文などには軍事的リーダーシップはなかった。いっぽう西郷は、明治天皇からの厚い信頼など、軍事的なリーダーシップのみならず、政治家としての評価も非常に高かった。文武双方の指導力があったということでしょう。
 その西郷が、1877(明治10)年の西南戦争で、政府に反乱を起こした勢力に担がれてしまう。西郷は9月24日、鹿児島の城山で自刃します。西南戦争が起こった年は、火星が大接近した年でもあったため、この年の8月上旬頃から、ひときわ大きく輝く星が東方の空に見えたといいます。この火星大接近にちなみ、また西南戦争で政府軍と戦う西郷を慕って、世のなかの人々は、これを「西郷星」と呼んで、錦絵などさかんに刷られたのです。その一つを学習院大学井上勲先生という方が紹介しているのですが、面白いですよ。
 
81 統帥権独立という考え方は、山県有朋(キリギリス)が、西南戦争の翌年、1878(明治11)年8月に、近衛砲兵隊が給料への不満から起こした竹橋騒動を見て、また、当時の自由民権運動が軍隊内へ波及しないように、政治から軍隊を隔離しておく、との発想でつくったものです。自らこの年、参謀本部長となった山県は、軍令(軍隊を動かす命令)に関することはもっぱら参謀本部長の管知するところ、との規則を定めます。どうも、自由民権運動に恐れをなして、軍隊への影響を止めるようにしたいということだけではなく、自らも指揮した西南戦争における、西郷との戦いの教訓が大きく影響していると思います。軍事面での指導者と政治面での指導者を分けておいたほうが国家のために安全だ、との発想、これは反乱を防ぐためにも必要なことだったでしょう
 
82 先に、レーニンの後継者がスターリンにされたことで人類の歴史が結果的に被ってしまった災厄を話しましたが、この西郷の一件と統帥権独立の関係も、人類の歴史が結果的にこうむってしまった災厄の一つといえるかもしれませんね。日中戦争、太平洋戦争のそれぞれの局面で、外交・政治が緊密な連繋をとれなかったことで、戦争はとどまるところを知らず、自国民にも他国民にも多大な惨禍を与えることになったからです
 
・歴史の誤用
外交政策の形成者(makers of foreign policy)は、歴史が教えたり予告したりしていると自ら信じているものの影響をよく受けるということ。
②政策形成者(policy makers)は通常、歴史を誤用するということ。
③政策形成者は、そのつもりになれば、歴史を選択して用いることもできる。
 
無条件降伏方式が選ばれた理由
88 ちなみに、1945(昭和20)年7月26日に出された対日ポツダム宣言についてですが、現在の研究で判明しているところは、鈴木貫太郎首相が記者団に「ポツダム宣言黙殺、戦争邁進」と談話を発表していようがいまいが、アメリカ側は原爆投下のゴーサインを、ポツダム宣言発出の段階で出していたということです(このときの大統領は、4月に急死したローズヴェルト大統領の後を引き継いだトルーマン副大統領でしたが)。
ポツダム宣言受諾の意思を日本側がもっと明確に連合国側に示していれば、広島と長崎に原爆は投下されなかったとの仮定は崩れることが史料から明らかになっています。
 
89 とにかく、なぜ、ローズヴェルト大統領が無条件降伏に拘泥したかという理由は、メイ先生(アーネスト・メイ)によれば、第一次世界大戦終結方法に関する一つの教訓が、ローズヴェルトの意識を縛ったことにあるといいます。ローズヴェルトは「とにかく妥協をしてはいかん。妥協して失敗したのは1918年であった」と考えていました。「1918年に妥協して失敗した」というのは、なんのことかわかりますか。
 第一次世界大戦は、まず休戦というかたちで停戦されたのでした。ドイツ側が1918年11月に停戦しようと考えたのは、アメリカ大統領のウィルソンが提示した14か条の内容を、穏健なものと判断したからでした。しかし、19年にパリで開かれた対独講和会議では、ウィルソンの提唱した理想主義的な講和案は、イギリスやフランスの反対によって葬られ、そのため、アメリカ側はドイツ側から、休戦条件と講和会議の結論が違う点について、問いただされる関係に立つことになったのです。
 休戦に応じなければよかった、というドイツ側の強い不満の感情は、カー先生のいう、危機の20年間を通して一貫して流れていました。つまり、アメリカ側が第一次世界大戦から学んでしまった教訓は、休戦の条件を敵国と話し合ってはならない、これでした。
 メイ先生は、アメリカ国民の犠牲という点だけではなく、第二次世界大戦後の冷戦の時代を考慮すれば、ドイツが敗北し、日本が敗北した後、東欧や東アジアへソ連が影響力を行使するのは十分予期できたはずだと。よって、ソ連戦後に予想される影響力を牽制するためにも、ドイツや日本の降伏条件を緩和すべきであった、こうアメリカの政策を批判しました。
 
戦争を止められなくなった理由
92 それはアメリカにとっての「中国喪失」の体験です。
 第二次世界大戦が終わった段階では、蒋介石率いる中国国民政府が、アメリカとイギリスとともに日本に対して戦い、勝利した国家だったのです。しかし、1945年8月以降、49年10月の中国共産党の勝利にいたる中国における内戦の過程を、アメリカはどうすることもできないでいました。満州事変、日中戦争の時期においてはアメリカは、中国の巨大な市場が日本によって独占されるのではないか、門戸開放政策が守られていないのではないかと考え、中国国民政府を支持してきたわけです。それが、せっかく敵であった日本が倒れたというのに、また戦中期に大変な額の対中援助を行ったのに、49年以降の中国が共産化してしまった
 これはアメリカにとっては、嘆きであったでしょう。10億の国民にコルゲートの歯磨き一本ずつ売っただけで10億本分儲かる、とはよく言われた冗談ですが、こういった景気の良い資本主義的な進出ができなくなる。この中国喪失の体験により、アメリカ人のなかに非常に大きなトラウマが生まれました。戦争の最後の部分で内戦がその国を支配しそうになったとき、あくまで介入して、自らの望む体制をつくりあげなければならない、このような教訓が導きだされました。ですから、北ベトナム南ベトナムが対立したとき、南ベトナムを傀儡化して間接的に北ベトナムを支配するのに止まるのではなく、北ベトナム自体を倒そうとするわけです
 以上が、ベトナム戦争アメリカが深入りした際、歴史を誤用したという、アーネスト・メイの解釈です。
 
 
 
 
1章 日清戦争 「侵略・被侵略」では見えてこないもの
 
・列強にとってなにが最も大切だったのか
日本と中国が競いあう物語
97 まず、江戸時代の末期から明治時代のはじめにかけてを、教科書などがどう説明しているか、その記述を思い出してみましょう。多くの記述は、アヘン戦争(1840-42)とアロー戦争(1856-60)での清国の敗北を描いた後、欧米列強の圧力によって開国を余儀なくされた日本が列強を目標に近代国家化をすすめる、といった構図で書かれています。
 
貿易を支える制度とは?
103 ―商法と民法
結局、民法は1898年7月から、商法は1899年6月から実施されました。
 日本側化は約不平等条約を廃止してくださいと言い続けたとき、列強が「それでは商法、民法を編纂してみてください」というのは、ある意味、正統な言い分ではあったわけですね。もちろん、不平等条約を相手国に強いておくのは利益がありますから、列強が簡単に交渉に応じようとしなかったのは当然ですが。商法や民法というような規則があれば、商売は安定的に安全に行われることになります。
 
華夷秩序という安全保障
106 世界、そして文明の中心である中国は、周辺地域に対して、「徳」を及ぼすものであり、その感化が人々に及ぶ度合いに応じて形成される属人的秩序なのだと。そのなかで、中国と東アジアとの関係を律する国際秩序を朝貢体制と呼びます。
 
日清戦争まで
中国の変化
109 李鴻章
 
110 新疆イリ地方。ヤクーブ・ベクの乱。→ロシアとイリ条約を結ぶ。
 
壬午事変・・・1882年(明治15年,壬午の年),朝鮮のソウルで起こった政変。 第1次京城事変とも。 日本の指導による改革に不満をいだいた軍隊が反乱,閔(びん)氏政府の要人や日本人を殺し,日本公使館を焼打ちした。 暴動後,大院君が再び政権を握り閔氏政権の改革をもとに戻したが,日清両国が介入,大院君は清の保定に幽閉された。
 
甲申事変・・・1884年12月4日に朝鮮で起こった独立党によるクーデター。 親清派勢力の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。 甲申政変、朝鮮事件とも呼ばれる。
 
113 李鴻章袁世凱(この人はのちに中華民国の初代大統領になる人です(※孫文の臨時大総統職から袁世凱へ))を駐箚朝鮮総理という肩書で送り込み、また、中国の天津で開かれた伊藤博文との話し合いにおいて、1985(明治18)年4月、天津条約を締結します。この条約は甲申事変で日本と清国は対立したけれど、戦争は避けたいですね、ということで交わした取り決めでした。両国は朝鮮から双方の軍隊を撤兵するかわりに、朝鮮に出兵するときには事前通告することに決し、これからしばらくの間は、朝鮮をめぐる日清間の衝突は回避されることになりました。
 
山県有朋の警戒
116 山県の文章からは、李鴻章の統率力によってどんどん軍備拡充の進む中国を眺める日本側の焦りがよく伝わってくると思います。もちろん、山県が、中国側の優秀さを訴えることで軍備拡充への日本国内の支持固めをしようとしていたとの点は忘れてはなりませんが。
 
福沢先生の登場
117 「脱亜論
 わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移っている。しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。(略)筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。(略)その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。(略)わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。潤治
 
120 坂野潤治(歴史家)の読み方
欧米列強によるアジア分割が迫っているから、日本は泣く泣く連帯を諦めて朝鮮や中国を捨てる、というような文章ではなく、朝鮮に日本が進出するには内部から改革する方法ではなく、中国を打ってから朝鮮に進出するという武力路線で行きますね、と、このように理解すべきだというのです
 
シュタイン先生の登場
121 そして89年6月、オーストリアのウィーンで、山形は、当時、ウィーン大学政治経済学教授であったロ-レンツ・フォン・シュタイン先生と運命的な出会いをしました。
 シュタインは、伊藤博文憲法調査のためにヨーロッパを訪問した時から、伊藤の心をつかんでしまった魅力的な学者で、伊藤に明治憲法の柱となる権力分立の基本構造や、国家による社会政策の必要性などを教えた人です。
 このシュタイン先生は、伊藤に憲法を教えたように、軍人・山県には、主権線・利益線という、後に山形が帝国議会で演説することになる重要な考え方を教えました。
 

 
123 ①シベリア鉄道ウラジオストックまで貫通したとしても、あなた(山県)が怖れるほどに心配はいらない。その理由は、東アジアに到達する部分でシベリア鉄道は、中国の領土を通過しなければならないからである。これはロシアにとってはひとつの制約要因となる(シュタインはこう見通しを述べていますが、実際にはシベリア鉄道は中国の領土を通過せず、ここに敷設されるのは中東鉄道という鉄道です)。
②第二に、日本を攻めるロシア軍が仮に3万だとすれば、その兵員を客車で運ぶとなると900輌も必要になる。シベリア鉄道は、荒涼たる土地に一本の線路を敷いたものにすぎないだろうから、全線を保全しつつ3万の兵力をアジアまで移動させるのは難しい。さらに、ようやくウラジオストックまで来ても、港は凍っているし、たくさんの輸送船を必要とするから、ロシアはこれだけの兵員を運ぶのはむずかしい。
 
 シベリア鉄道はロシアが朝鮮を占領しようと思ったときに、決定的に重要な役割を果たすのだ。つまり、ロシアはこれによって、アジアに海軍を興すことができる。朝鮮に対する支配権ということと、海軍の根拠地を朝鮮半島の東側に置きうる、という点で、シベリア鉄道の着工は日本にとって大問題になる。
 
125 ロシアが朝鮮半島に下りてきて、東海岸の元山のあたりに港をつくることができたとすれば、極東艦隊の根拠地となってしまう。しかもここはリアス式海岸で非常に深く、大きな船が安全に泊まれる。シュタイン先生は実際に名前を挙げているのですが、日本海に面した元山沖の永興湾というところをロシアが艦隊の機知にしてしまったら、ここは暖かく凍らない海ですから、対岸の新潟などはほんとうに近く感じられる。よって、日本の進退は谷まる、このようにシュタイン先生は脅かしました
 
主権線・・・主権のおよぶ国土の範囲
利益線・・・国土の存亡にかかわる外国の状態
 
民権論者は世界をどう見ていたのか
まずは国の独立が大事
127 民党とは反政府派の人たちで、帝国議会衆議院において立憲自由党立憲改進党に所属する議員は民党に分類され、これらの人数は第一議会では171人に達していました。300議席過半数を占めているのが分かりますね。
 
132 民権派といっても、また反政府といっても、どうもことが外交や軍事に関する問題になると、福沢や山県の考えていることと、あまり変わらなそうだなぁというイメージが描けるのです。日本の場合、不平等条約のもとで明治国家をスタートさせましたから、自由だ民主だのとの理想をいう前に、まずは国権の確立だ、という合理主義が前面に出てしまう、そのような見通しをまずはお話ししました。
 
それでは国会の意味とはなにか
135 兵力というのは、国民の集合体、一致集合のあかしだといっている。で、国民を一致集合させるのはなにか、という問いにいいかえていくわけです。そして、一致集合は国会によってできる、こうつなげてゆくのです。当時の人の頭の中で、いわゆる兵力、パワーというものが、軍事力という狭い理解だけではなく、人心をまとめ上げる場所、つまり国会でもあるのだ、という等式が成りたっていたというのは面白い。
 
「無気無力の奴隷根性!」
140 もちろん、先ほどお話しした、民権派不平等条約からの日本の自立をかなり強く意識していたということもあります。けれどそれだけではありません。民権派は、日露戦争直前ほどは反対しなかった。それはなぜでしょうか。
―反対しなかった理由・・・?
 日露戦争直前の議会の状況を知っているとわかるんです。日露の時は政友会とか、本当に反対しますよね。何だろう、自由党が比較的、政府の、日本から戦争を無理にでも仕掛けてしまおうというような路線に乗れた理由は。
 
藩閥政治と対抗するために
142 福沢諭吉はこういっています。民党は、議会では衆議院議員の8割を占め、常に政府の法律案や予算案の死命を制することはできる。だけど、きみたちは「藩閥政府、専制政府」と批判することしかできないだろう。・・・なんか現在の民主党(2016年3月、維新の党などと合同して民進党に) など野党に対し与党側が行う批判と同じようなことですが。政府には長州閥、それから薩摩閥、土佐、肥後も加えると4つ、幕末の雄藩だけが、結局、政府ポストを独占している。だから、民党である自由党や、改進党のメンバーは、カネも頭脳もあっても、藩閥政府の内部に食い込めない。
 
143 だから市場拡大とともに、福沢がいったのは、「今こそ民党は新たな植民地を獲得して、そこで官僚という、今まで自分たちが食い込めなかった行政に食い込め」ということなのです。これが、自由党などが戦争に対して議会でそれほど強く抵抗しなかった理由の一つです。
 
戦費をつくったのは我々だ
 日清戦争は基本的には9ヶ月の戦争で、戦費が2億3,340万円であったが、この当時明治政府は国債を発行して歳入を増やすということにものすごく慎重であった。民党は地租増徴に絶対反対であったので、政費削減を政府に求めた。これにより戦費が調達できたので、民党の人たちは戦費をつくったのは我々だという自負心があった。
 
日清戦争はなぜ起きたのか
149 陸奥宗光『蹇々録』
「日本が特別な国であることを実証し、見せるのだ」
 
東学党の乱・・・1894年、東学党が、郡主の虐政に対して蜂起した全羅道古阜郡の農民を支持して挙兵、朝鮮半島南部一帯を支配した事件。
李朝は清国に出兵を要請、日本も清国に対抗して出兵し、東学党は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果となった。
 
151 そして、6月6日、清国は日本に向かって、では今から朝鮮に出兵しますね、と断りを入れました。これは、当時、日本と中国の間に、朝鮮に関する取り決めがあったためです。少し前にお話ししましたが、伊藤博文李鴻章が1885年に結んだ天津条約、つまり朝鮮に何か問題が起きて出兵するときには、事前に知らせますよ、といったルールです。上分譲は日本と中国が平等の立場で書かれていますが、地続きの中国と朝鮮の関係と、海を隔てた日本と朝鮮の関係では、中国の方が実質的に派兵に有利であったことはまちがいありませんでした。そして日本側も、6月7日、中国に出兵する旨を連絡します。
 
中国側の反論は?
日本は1876年の日朝修好条規の第一条で朝鮮を「自主の邦」=独立国と認めたのに、内政干渉して改革を強制するのはおかしいのではありませんか。
 
日清戦争の国際環境

 
 
158 それでは、なぜイギリスロシアは、朝鮮を舞台にした日清戦争で対峙しなければならないのか経済的利益を中心に考えてみましょう。その答えは、日清戦争が終わったあとに結ばれた下関条約を見ればわかる。日清講和条約は9カ月の戦争の後、1895年4月に調印されますね。条約の第一条に書かれた言葉は「清国は朝鮮国の完全無欠成独立自主の国たることを確認す」だったわけです。朝鮮に対する形容句がだんだん装飾過多といいますか、今の感覚で眺めれば、なんだか、不思議な感じのする文章です。清国に代わり、朝鮮に影響力を持とうとする日本画、清国にこのような誓いをさせる。
 1876(明治9)年の日朝修好条規では「自主の邦」と書いていたわけです。それが日清戦争後の下関条約で「完全無欠成独立自主の国」となる。このような朝鮮に対する条約と開港場のの設置などは、全て列強にとって均等な条件で提供されることを日本が保証するということになるわけです。もちろん、地理的な接近性の有利さがありますから、日本が恐らく朝鮮の貿易市場で大きな利益を独占することは目に見えています。さらに、下関条約では、すでに貿易港として開港されていた場所以外にも、湖北省の沙市、四川省重慶府、江蘇省の蘇州府、浙江省杭州府を開くことをみとめさせました。日本に対する条件は、諸外国にも対等に適用されましたので、諸外国にとって、日本の勝利は貿易上の利益にかなったことになります。
 
・イギリスはロシアが開戦に乗じて南下してくるのではないかと怖れた。よって、ロシアとの交渉で何も出来ない清国ではなく日本を支持することでロシアの南下に対抗しようとする。イギリスは日本と1894年7月に日英通商航海条約を締結して領事裁判権の撤廃と関税率の引き上げ、相互平等の最恵国待遇を改定するなどして、日本の後押しをする。
 
普選運動が起こる理由
163 ―三国干渉を受けて返してしまった頼りない政府に対して、民意が反映されていないと感じた。
 はい、今のが正解です。戦争に諮ったはずなのに、ロシア、ドイツ、フランスが文句をつけたからといって中国に遼東半島を返さなければならなくなった。これは戦争には強くても、外交が弱かったせいだ。政府が弱腰なために、国民が血を流して得たものを勝手に帰してしまった。政府がそういう勝手なことをできてしまうのは、国民に選挙権が十分にないからだ、との考えを抱いたというわけです。
 
 
 
 
2章 日露戦争 朝鮮か満州か、それが問題
 
・日清戦後
戦争の「効用」
167 中国と日本が戦争に入る前、イギリスは、領事裁判権の撤廃と関税率の引き上げ、相互平等の最恵国待遇を内容とする日英通商航海条約を日本と結びました。つまり、不平等条約の一つの項目が、日清戦争の直前になくなったのですね。残るいま一つの項目は関税自主権の回復だったわけですが、これについては日露戦後の1911年に達成できました。
 このような点から見れば、日清戦争の結果、アジアからの独立がまずは達成され、日露戦争の結果、西欧からの独立も達成された、ということができるかもしれません。日清戦争が1894年から始まり、日露戦争が1904年から始まったのですから、その間、ちょうど10年ということになります。
 
169 なお、ここまでのお話で朝鮮と呼称してきましたのは、朝鮮の正式の国号が大朝鮮国であったことから、これを略してこう呼んできたものです。朝鮮は、1897年に国号を大韓帝国と改めます。日清戦争後、日露戦争前の時期においては、朝鮮というよりは韓国、韓半島というように、当時の日本側でも呼んでいたのです
 
 
なにが新しい戦争だったのか
171 文中に書かれた「大陸戦略の基本をなす、軍の力の同時的利用」というのは、ドイツ(このときはプロイセン)軍が、日露戦争よりずっと前の時期、1870年にフランスと戦争をした際、採用した陸戦の定番というべき、大群で相手を包囲して殲滅する作戦を指します。日露戦争当時の日本軍が、そうしたドイツ流の戦略ではなく、「陸と海の行動の協調」つまり、陸海軍の共同作戦をとってきたことが、戦略家スヴェーチンにとって、特筆すべきことと考えられたのでしょう。
→旅順

 
 
二十億の資財と二十万の生霊
176 日本は1933年に国際連盟を脱退するが、このときに連盟の議場で日本の全権の松岡洋右が議論をしたのは、ポーツマス条約で日本がロシアから獲得した権益はこれであり、中国側が日本に認めた権益の内容はこれであるから、満州の権益をめぐっては中国側がまちがっていて日本側が正しいのだという「二十億の資財と二十万の生霊によって獲得された満州の権益を守れ」論であった。
 
満州事変の根っこには、日露戦争の記憶を巡る日中間の戦いがあった。
 
シュタインの予言が現実に
177 日清戦争後に、ロシア・ドイツ・フランス三国による三国干渉がなされ、日本側は下関条約で獲得した遼東半島を清国に返すという事態になったことは、前の章で説明しました。

 
日清戦争で日本が獲得した遼東半島をロシア・ドイツ・フランスの三国干渉で清国に返す。
これによって清と朝鮮の日本に対する態度が変わった。「日本は弱いじゃないか、ロシアの言いなりじゃないか」。
朝鮮、清、親露政策に。
日本は、反日派ともいうべき朝鮮の皇后閔妃を暗殺するという蛮行に出る。
閔妃の下で親露派だった人たちが、ロシアの威力を背景にしつつふたたび政権に就く。
 
179 ということで、日清戦争の勝利で、朝鮮国内に日本の圧倒的優位が確立されたと見えたのは一瞬で、その後に続いた事態は韓国の近代国家への模索と、日本とロシアが韓国を巡って均衡しているという状況です。
 
 清国は、遼東半島を取り返してくれたロシアとよい関係に。
1896 年ニコライ二世の戴冠式に出席した李鴻章に、どうも半端ではない賄賂を贈った。
1896 年「露清防敵相互援助条約」という密約。日本がロシア領あるいは中国領を攻撃したときは、一致して日本にあたる。
 
中国とロシアの間で、黒竜江吉林省を通ってウラジオストックに通じる中東鉄道の敷設権を、ロシアとフランスの銀行に与えるという条約も締結された。
1898 年には、旅順・大連の 25 年間の租借権と、中東鉄道から分岐して、旅順・大連に至る中東鉄道南支線の敷設権をロシアは中国から獲得する。
 
日本が戦争という犠牲を払って得た遼東半島の権益をロシアは何の犠牲もなく手中に収めた。さらに日本にとって脅威だったのが、ロシアが旅順という不凍港を得たのみならず、そこに至る鉄道の敷設を入手したことである。
96 年と 98 年に結ばれた二つの条約は日本にとって悪夢のようなもの。
 
182 ―シュタインの警告がそのまま現実になっちゃったから。
 
 
日英同盟と清の変化
ロシアの対満州政策と中国の変化
183 義和団の乱は、1900年に起こった、中国清朝末期の動乱である。
当初は義和団を称する秘密結社による排外運動であったが、1900年(光緒26年)に西太后がこの反乱を支持して清国が6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。この乱の後、西洋的方法を視野に入れた政治改革の必要を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌の変法を手本としたいわゆる光緒新政を開始した。
 
185 日本でも、1900年に伊藤博文によってつくられた政党である政友会などは、「日英同盟ができた。これはロシアに対して自制を求める同盟だ」と冷静に評価しました。そして、同盟の効用として、大海軍国のイギリスと同盟したのだから、これで日本はしばらく、海軍の軍艦建造をしなくて済むな、それならば地租を上げなくて済むはずだな、これは政党にとって歓迎すべきことだな、と考えます。
 
開戦への慎重論
188 「満洲問題に関する七博士の意見書」
満州に中東鉄道と南支線が敷設されてしまえば、中国の東三省はロシアの支配下になってしまい、例えば重要なハルビンという都市などがロシアの都市となって門戸閉鎖されてしまう。他の国は全然、経済的にも進出できなくなってしまう。これでは困るでしょう。
 
桂太郎首相 開戦2か月前、山県と伊藤に手紙「戦争を決意していいですね」
山県有朋65歳 「老生は承知いたさず」
 
ロシア史料からなにがわかったか
195 日露戦争が起きたのはなぜかという質問への答え方には、時代とともにかなり変化があったのです。マルクス主義唯物史観という学問が影響力を強く持っていた頃、1970年代までは、日本という国は帝国主義国家として成長してきたのだから、中国東北部、つまり満州ですが、そこに市場を求めて、ロシアに門戸開放を迫るために戦争に訴えたのだ、との解釈が有力でした。
 しかし、ロシア側の資料や日本側の資料、これが公開されて明らかになったところでは、どうも、やはり朝鮮半島韓半島のことですが、その戦略的な安全保障の観点から、日本はロシアと戦ったという説明ができそうです。日露戦争から百年経ったのを記念して、日本、ロシア、アメリカなどの学者が集まって2005年に国際会議を開いたときに、このルコヤーノフ先生も報告したわけですが、日露戦争に関しては、どちらが戦争をやる気であったかという点では、ロシアの側により積極性があったのではないかと発言していました。戦争を避けようとしていたのはむしろ日本で、戦争を、より積極的に訴えたのはロシアだという結論になりそうです
 
 
・戦わなければならなかった理由
日露交渉の争点
196 満洲問題と韓国問題と、二つの論点で対立していたらしい
①日本の満韓交換論
ⅰ)ロシアは韓国については日本が勢力圏に入れてしまうのを認める。
  ⅱ)日本はロシアの満州占領は認められないけれども、満州における鉄道の沿線はロシアの勢力圏でることを認め、中東鉄道とその南支線などはロシアが「特殊なる利益」を持っていると認める。
②、ロシアの回答
  ⅰ)そもそも日本は満州について論じる資格はない。
  ⅱ)韓国については日本の優越権は認められない。ただし、ロシアが朝鮮海峡を自由に航行できる権利を日本側が認め、さらに北緯39度以北の韓国を中立化して日本が韓国領土の軍事的に使用しないのなら、日本の韓国に対する「優越なる利益」を認めてもよい。
→このロシアの回答は、日本側は絶対認められないものであった。
 
韓国問題では戦えない
203 欧米に向けて語る戦争正当化の論理と、日本にとって本当に重要なものとはズレている
 
・ここで日露戦争を正当化するための論理は満州問題であり韓国問題が語られていない。
これは、七博士や対露同志会に強硬論を唱えさせたのは政府が日露交渉を有利に展開するため。
日本にとっての死活問題は韓国問題であったが、外国向きには満州問題を語って日本が日露戦争をすることの正当性を訴えようとしていたので、彼らは満州問題を語った。
 
・日本が日露戦争を戦うためには外国からお金を借りなければならなかった。
このときに、韓国問題を出して英米を説得してもイギリスやアメリカにとってはたいした問題ではなかった。
それよりも、「満州の門戸開放」(「アメリカは南部の綿花でつくった綿布を輸出したいでしょう。大豆の世界商品化をはかりたいでしょう」)といって説得したほうがよかった。
よって、日本は日露戦争を正当化する論理としては韓国問題ではなく満州問題を取り上げた
よって、ロシア側は日本が韓国問題に必死であることがわからなかった
 
日露戦争がもたらしたもの
日本とアメリカの共同歩調
204 日清戦争帝国主義時代の代理戦争でしたが(イギリスvsロシア)、日露戦争もやはり代理戦争です。ロシアに財政的援助を与えるのがドイツ・フランス、日本に財政的援助を与えるのがイギリス・アメリです。
 
204 まだ開戦の決意はしていない頃ですが、軍部が陸海軍の共同演習をやり始めた1903年10月8日、アメリカと日本は同時にあることをやりました。日本と清国の通商条約、そしてアメリカと清国の通商条約を同時に、日本とアメリカが申し合わせて改訂を発表したのです。この二つは関係ないように見えるのですが、実はここからも代理戦争だということがわかる。日本と清の通商条約の改定は「日本は東三省における満洲部分の門と開放をやりますよ」というシグナルでした。つまり日本と清国は通商条約を結んで、清国はこれまで以上に都市を外国に開きましょうと決めた。そしてアメリカは通商条約の改訂によって、清国に対していくつかの都市を開くよう要求しますよと示した。この同時発表の条約を見れば、日本とアメリカは中国の満州地域の門戸を開放し、都市に外国商人が自由に入れて、会社なども経営できるようにするのだよ、とのシグナルであったことがわかります。
 こういう条約を作ることで、日本とアメリカは、戦争の後に何が起こるかを世界の人々に知らせるプロパガンダをしたんですね。
 
戦場における中国の協力
209 日露戦争中、中国は中立の立場をとっているのですが、日本軍がロシアと戦っているとき、中国側は日本にお金を寄付してくれます。中国の地方の知事にあたる人たちが日本軍に義援金を渡したりする。彼らは面白い。のちの蒋介石の時代の戦争もそうだったのですが、ある将軍が勝利したりすると、現ナマが渡されます。
 
 最も重要だったのは戦場における中国側の協力です。この時の戦場は満州でした。奉天、旅順、大連、金州。万里の長城以南には入りませんが。もちろん満州には満州人や中国人が住んでいます。ここでの諜報作戦は、日本軍が圧倒的に勝ちました。それは中国の、中立とはいえ日本を援助する地域の官僚たちのバックアップがあったからです。土地勘のある農民たちが日本軍の諜報のために働いてくれた
 
戦争はなにを変えたのか
210 日露戦争で日本は何を獲得できたか。ポーツマス条約にはこうあります。
 第二条 露西亜帝国政府は日本国が韓国に於いて政治上、軍事上及経済上の卓絶なる利益を有することを承認し、
 
 そしてポーツマス条約の第三条が、ロシア以外のすべての帝国主義国にとって福音でした。
 第三条 露西亜帝国政府は清国の主権を侵害し又は機会均等主義と相容れざる何等の領土利益又は優先的若は専属的譲与を満州に於て有せざることを声明す。
 ロシアが黒竜江省吉林省遼寧省という三つの省を占領していたことで排除されていた国々が平等に満州に入れるようになった。
 
212 幸徳秋水らが明治天皇の暗殺を企てた、ということにされて大逆事件が起こるのは1910年です。
 
216 戦争時の増税によって、10円を超える税を収める人が増えた。選挙権を持つ人の中に、会社経営者や銀行家などの金持ちが増えただろうというのは想像がつきます。
→戦争のための増税で選挙権者が戦前の1.6倍に。そして、政治家の質も変わる
 
218 山県はいろいろ悪口を言われた人でした。キリギリスというあだ名もあったらしい。顔が細いからでしょうか。大正天皇は、山県と一緒にご飯を食べるのは嫌だと言ったそうです。大正天皇は鉄道オタクだったので、鉄道をたくさん敷設するために頑張った原敬のことは大好きだったのですが、山県は嫌われちゃうんですね。その山県が商工業者、産業家、実業家たちが議会に登場してくる基盤をつくったというのはとても面白い。
 日露戦後、増税がなされたことで、選挙資格を制限する直接国税10円を結果的に払う層が1.6倍になり、選挙権を持つ人が150万を超えたこと、これが大切なポイントです。
 
 
 
 
3章 第一次世界大戦 日本が抱いた主観的な挫折
 
・植民地を持てた時代、持てなくなった時代
世界が総力戦に直面して
221 セルビア、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国と、オーストリア、ドイツ、トルコなどの同盟国が戦った世界規模の戦争で、開戦は1914年7月28日。ドイツが休戦協定を受け入れ、戦争が終結したのは1918年11月11日のことでした。講和条約の調印は翌年です。
 
222 まず、世界という点では、ヨーロッパで長い電灯を持っていた三つの王朝が崩壊してしまった。
ロシア(ロマノフ朝)、ドイツ(ホーエンツォレルン朝)、オーストリアハプスブルク帝国)。
 
 日本においては、天皇を中心とした立憲君主制による統治は揺るぎませんでした。
 
223 あまりに犠牲の多かった戦争だったので、戦争が二度と起こらないような国際協調の仕組みをつくろうということで、1920年国際連盟が設立されました。連盟は、第一次世界大戦の持った新しい戦争の側面を象徴していると思います。
 戦争の影響の二つ目は、帝国主義の時代にはあたりまえだった植民地というものに対して批判的な考え方が生まれたことです。植民地獲得競争が対戦の原因の一つとなったとの深い反省からです。帝国主義とは、ある国家や人民が、他の国家や人民に対して支配を拡大しようとする努力一般を指しますが、これまで国家の名前で堂々となされてきた植民地獲得や保護国化が、そのままでは世界から承認されないようになってのです。
 
日本が一貫して追求したもの
227 日本は安全保障上の利益を第一目的として、植民地を獲得した。

 
日米のウォー・スケア
231 ウォー・スケア・・・アメリカは、日本が日露戦争に勝った後、日本人が海を越えて襲ってくるのではないのか、戦争が始まるのではないのか、との根拠のない怖れをもちはじめた。
 
1906年4月18日、サンフランシスコで起こった大地震があった。チャイナタウンの中国人に対する暴行と略奪が起こった。
 
1891年から1906年の間に数千人の日本人移民がカリフォルニアに渡っていた。
日本人移民は低賃金で働き白人から仕事を奪う存在として敵視されていた。
1906年には日本人学童の公立学校への入学拒否、1907年には日本人移民を排斥する条項を含む連邦移民法も可決された。
ロシアを打ち負かし好戦的な国家というイメージが、急速にアメリカ社会のなかで膨らんでいったのである。
 
アメリカはあまり植民地を持たない国であったが、1898年には米西戦争でフィリピンとグアムを獲得し、やがてハワイとサモアも併合してゆく。
 
西太平洋の島々
日本は第一次世界大戦が始まると、日英同盟を建前にして強引に戦争に参戦して、イギリスが西半球の海で安心して戦えるようにということで、南洋諸島を非常に短期間で占領してしまった。
この南洋諸島の例えばマリアナパラオ、カロリン、マーシャルなどのミクロネシアは、アメリカが太平洋を横断してくる際のルート上にある島々である。
そして、ベルサイユ講和会議南洋諸島委任統治権を獲得する。
 
山東半島の戦略的な意味

 
241 ―中国を海と陸の両側から攻めることができる。
 
・なぜ国家改造論が生じるのか
変わらなければ国が亡びる
245 日清戦争後に起こった改造運動は、せいぜい「普通選挙が必要だよ」という一項目でした。いわば点でした。日露戦争後に起きた改造運動は、実業家や地方議会の議員などが「悪い税金をなくしましょう」と主張する経済的な運動でしたね。いわば、線にまで伸びた。それが、第一次世界大戦後には、包括的な内容の国家改造論というべきもの、線から面にまで主張が広がった。その理由と背景は何でしょうね。
 
②身分的差別の撤廃
③官僚外交の打破
④民本的政治組織の樹立
労働組合の公認・・・当時は団結権、団体交渉権、団体行動権など、第二次世界大戦後の日本では認められていた権利がなかったのでこのような要求がでてきた。
⑥国民生活の保障
⑦税制の社会的改革・・・地主や資本家に有利な税制はやめろということ。
⑧形式教育の解散
⑨新領土・朝鮮、台湾、南洋諸島統治の刷新・・・日本が植民地や委任統治領とした地域に憲法なりを適用し、選挙権・被選挙権などを与えたらどうかということ。
宮内省の粛正
⑪既成政党の改造・・・地主や資本家が支持する政友会や憲政会以外の政党ができるべきである。
 
将来の戦争
 
危機感の三つの要因
・国家改造論が唱えられるようになった理由
①日本が第一次世界大戦に参戦する際にイギリス・アメリカとの応酬があったが、その事実が帝国議会で暴露されたとき激しい政府批判が巻き起こったから。
②戦争が終わった後、パリ講和会議で日本が直面した、中国とアメリカからの対日批判に、深く日本側が衝撃を受けたから。
③日本統治下の朝鮮で三・一独立運動パリ講和会議の最中に起こってしまったことに脅威を感じたから。
→日本はこれらの苦悩を体験して、大きな主観的危機感に迫られたことが国家改造論が唱えられるようになった理由。
 
・開戦にいたる過程での英米とのやりとり
加藤高明エドワード・グレイ
 
イギリスが怖れたこと
259 ①日英同盟の条文
日英同盟はの目的は「東亜およびインドの地域における全局の平和」の確保と、「中国の独立と領土の保全」の確保にあったので、ドイツとの戦争で発動されるべき条約ではなかったから。
イギリス連邦自治領側が日本に抱いていた警戒感
太平洋のずっと南にはオーストラリアやニュージーランドがあるがこれらの国々は日本の南下を怖れていた。
③イギリスの対中国貿易
日本は第一次世界大戦中に中国のドイツ権益を取得するだろうがこれはよい。しかし、中国自体の権益もドイツに関係あるからという名目で陸海軍が接収したりすれば中国内部から強い反発が起こるだろう。日本に対する中国の反発が日英同盟からイギリスまで及ぼされたら、イギリスの対中国貿易の利益が減ってしまうかもしれない。
 
アメリカの覚書
261 ①アメリカ政府は、日本が中国において領土拡張をはかる意図がなく、その行動が日英同盟によるものであることは、アメリカ政府の満足するところである。
②中国国内に擾乱が発生した場合、日本あるいは他の諸国が措置をとる必要があると日本政府が考えた場合には、事前にアメリカ政府との協議を遂げられるよう、アメリカ政府は希望する。
 
パリ講和会議で批判された日本
松岡洋右の手紙
266 「いわゆる二十一カ条要求は論弁を費やすほど不利なり。そもそも山東問題は、到底、いわゆる二十一カ条要求とこれを引き離して論ずるにあたわず。しかも二十一カ条要求については、しょせん、我においてこれを弁疎せんとすることすら実は野暮なり。我いうところ、多くはspecial pleadingにして、他人も強盗を働けることありとて自己の所為の必ずしも咎むべからざるを主張せんとするは畢竟窮余の辞なり。」
 いわゆる二十一カ条要求は日本が弁明すればするほど不利となる。そもそも山東問題と二十一カ条要求と切り離して論ずることはできない。日本側が弁明するのは無駄なことだ。日本の弁明は、しょせん、泥棒したのは自分だけではないと言って自分の罪を免責しようとする弁明に過ぎず説得的ではない、と。
  Special pleadingというのは、「特別訴答」と言われる法律用語でして、ここでは、自己に有利なことのみを述べる一方的議論、という口語的な意味でつかわれています。こういう偏った議論をしていてはだめだと松岡は述べているのです。
 
近衛文麿の憤慨
272 なぜウィルソンは「十四か条」を発表したのか?
第一次世界大戦中、連合国のイギリスやフランスや日本や帝政ロシアが戦後の植民地分割などについてえげつない取り決めをしていた。
この秘密の取り決めを帝政ロシアを倒したボルシェビキレーニントロツキーは暴露してしまった。
このようなことから、ウィルソンは連合国の戦争目的をあらためて理想化しなければ世界の人々を幻滅させてしまう、あるいはボルシェビキの理想に負けてしまうと考えて、1918年の年頭にアメリカ議会で戦後世界はこうあるべきだという理想、「十四か条」を発表した。
この中のもっとも有名なものが民族自決主義である。
 
三・一独立運動
 
・参加者の横顔と日本が負った傷
空前の外交戦
西園寺公望牧野伸顕、珍田捨巳(駐英大使)、松井慶四郎(駐仏大使)、伊集院彦吉(駐伊大使、後に追加)
 
279 吉田茂は自分の妻のお父さんが、パリ講和会議で次席全権大使を務める牧野伸顕だった。吉田は義理の父親、このような立場の人を岳父といいますが、その岳父である槇野にに連れて行ってくれと頼み、1918年にパリに旅立つのです。そのときの吉田茂の手紙も残っています。
 
 さて欧州戦争もいよいよ終期にあい近づき、これより外交舞台に入り候ことかとあい考え候ところ、この空前の外交戦は後学のためぜひとも欧州にありて見学つかまりたく[中略]ついては小生として、はなはな慮外千万の義にはそうらえども、万一おさしつかえなきにおいては、このさい暫時にてもよろしく候間、英国辺りに在勤仕り候様、しかるべき向きへご推挙願われ申すまじく候や。
 
若き日のケインズ
283 ケインズは、ドイツから取り立てるべき賠償金の額をできるだけ少なくするとともに、アメリカに対して英仏が負っている戦債の支払い条件を緩和するよう求めたのです。しかしアメリカ側は、このような経済学が支持する妥当な計画に背を向け、とにかく英仏からの戦債返済を第一とする計画を、パリ講和会議において主張したのです。
 1919年の時点で、ケインズの言うとおりに、寛容な賠償額をドイツに課していれば、あるいは29年の世界恐慌はなかったのではないか、このように予想したい誘惑にかられてしまいます。そうであれば、第二次世界大戦も起こらなかったかもしれません。けれども、ケインズの案は通らなかった。その結果ケインズは「あなたたちアメリカ人は折れた葦です」という手紙を残してパリを去ることになりました。
 
霊媒師・ロイド=ジョージ
批判の口実に利用される
 
 
 
 
4章 満州事変日中戦争支那事変) 日本切腹、中国介錯
 
・当時の人々の意識
謀略で始まった作戦と偶発的な事件と
299 満州事変のほうは、1931(昭和6)年9月18日、関東軍参謀の謀略によって起こされたもので、日中戦争のほうは、37年7月7日、小さな武力衝突をきっかけとして起こったものです。ここで、満州事変には「起こされた」という言葉を使い、日中戦争には「起こった」という言葉を使ったことに注目してください。
 
 満州事変のほうは、二年前の29年から、関東軍参謀の石原莞爾らによって、しっかりと事前に準備された計画でした。関東軍というのは、日露戦後、ロシアから日本が獲得した関東州(中心地域は旅順・大連です)の防備と、これまたロシアから譲渡された中東鉄道南支線、日本はこの鉄道に南満州鉄道と名前をつけましたが、この鉄道保護を任務として置かれた軍隊のことをいいます。
 

 
304 満州事変の計画性に対して、1937年7月7日に起きた日中戦争のほうは偶発的な事件、盧溝橋事件をきっかけにしていました。もちろん、事件が起きてもおかしくない、構造的な要因はずっと前から蓄積されていたのですが。
 
満州事変と東大生の感覚
307 満州事変2か月前のアンケート
Q 武力行使は正当なりや
→88%の東大生が「然り」
 
308 だた、戦争になってもいいと考えている人が9割弱を占めていることに変わりはありません。
。たくさん勉強していたでしょうし、いろいろな知識を持っていたと思われる東大生の88%が武力行使を「是」としていたということに私は驚きました。
 
戦争ではなく「革命」
 
満州事変はなぜ起こされたのか
満蒙は我が国の生命線
313 長谷部恭男先生の『憲法とは何か』(岩波新書
 ある国の国民が、ある相手国に対して、「あの国は我々の国に対して、我々の生存を脅かすことをしている」あるいは、「あの国は我々の国に対して、我々の過去の歴史を否定するようなことをしている」といった認識を強く抱くようになっていた場合、戦争が起こる傾向がある、と。
 
315 満州というのは「あて字」で、もともとはManjju(マンジュ)と発音する民族が住んでいた地域に対し、ヨーロッパ人や日本人などが、その発音に漢字の音をあてて「満洲」と書き、それが慣用的に戦後の日本では「満州」と表記されるようになったものだといいます。
 
 満州と呼ばれた場所は、清朝の支配体制下の地方制度の名前では、東三省(遼寧省吉林省黒竜江省の三省)地域に該当していました。ですから、満州については、中国東北部といったり、東三省といったり、いいかえをすることが多いです。この満州、東三省地域を、北はロシア、南は日本と、勢力範囲で分けるようになったきっかけが、日露戦争でした。戦争が終わるとロシアと日本はむしろ協調するようになって、1907(明治40)年、第一次西園寺公望内閣のときに、満州の鉄道と電信をロシアと日本でどう分けるかという問題をめぐって、この線から北はロシア、この線から南は日本というように、第一回日露協約の秘密条項で定めました。まあ、野蛮な時代ですね。清朝、つまり中国が主権を有する土地を、ロシアと日本とで勝手に分けてしまう。

 
清朝ロシア帝国の崩壊→日露戦争で締結された条約に関する日中の解釈の違いが浮き彫りに
 第一次世界大戦の時にロシア革命が起こって、日本と満蒙についての秘密条項を締結した帝政ロシアが崩壊してしまう。
この後にできたソ連政府は南満州と東部内蒙古の満蒙についての帝政ロシアと日本との秘密条項を世界に暴露してしまう。
さらに清朝が崩壊して中華民国が成立する。
 
条約のグレーゾーン
320 ⅰ)満蒙問題での日中における条約の解釈の違い
 ①鉄道守備兵設置権について
 鉄道守備兵はのちの関東軍の重要な構成要素となる軍隊で、日本側にとっては重要なポイントであったが、中国は日露戦争直後から、このような権利はそもそもロシアにさえ与えていなかったのだから、ロシアから日本に譲渡される根拠がないと強く主張していた。
 日本側は、ロシアと日本の間で鉄道守備兵を置く権利をお互い認め合った条約を締結したのだから、中国はそれについて意義を唱えることはできないと主張していた。
 ②満鉄平行線禁止条項について
 満鉄の併行線禁止条項も、日本側は日清条約の秘密議定書に書いてあると主張していましたが、実際は秘密議定書という形式でなく、日本と中国との間の会議録の文中に記載された文言にすぎなかった。
 
陸軍と外務省と商社
 
国家関連が大部分
330 満鉄というと、鉄道の管理にあたる小さな会社のようなイメージがありますが、それは違います。この会社は1906(明治39)年6月、まずは鉄道運輸業を営むために設立されましたが、同じ年の8月、運輸業の他に鉱業、ことに撫順と煙台の炭坑採掘、水運業、電気業、倉庫業、鉄道附属地の土地・家屋の経営などを政府から任されることになりました
 このように国家関連の投資が大部分を占めるという状況により、満蒙については国民からの批判が起きにくい構造ができていました。
 
・事件を計画した主体
332 帰国した石原は、永田鉄山、鈴木貞一、根本博ら、陸軍の中堅幕僚層が、1927(昭和2)年11月から東京で始めた木曜会という、国策や国防方針などを考える際に必要となる、次の戦争に関する研究を行うための勉強会に出席するようになります。
 
323 石原の戦争論
①日本とアメリカがそれぞれの陣営に分かれて航空機決戦を行うのが世界最終戦争である。
②対ソ戦のためには、中国を根拠地として中国の資源を利用すれば、二十年でも三十年でも持久戦ができる。
 
ずれている意図
・国民向けの説明
 日本は戦争で苦労して満蒙の特殊権益を得たが、その戦争で締結された条約に中国は違反した。よって、日本は被害者である。満蒙の特殊権益を無法者の中国から守らなければならない。
・軍人向けの説明
 来るべき対ソ戦争に備える基地として満蒙を中国国民政府の支配下から分離させること、そして、対ソ戦を遂行中に予想されるアメリカの干渉に対抗するため、対米戦争にも持久できるような資源獲得基地として満蒙を獲得しなければならない。
 
独断専行と閣議の追認
338 桂太郎が組織を準備していた立憲同志会、その後継政党である憲政会、そのまた後継である民政党
 
蒋介石の選択
 
リットン調査団と報告書の内容
 
吉野作造の嘆き
352 盗泉の水は飲むなと教えられてきたはず
 
 この時点で、政党が戦争反対の声をあげられなかった理由は、大きく二つの流れで説明できると思います。一つには、中国に対する日本の侵略や干渉に最も早くから反対していた日本共産党員やその周辺の人々は、1927年3月15日に一斉に検挙される三・一五事件がおこり(488人起訴)、その翌年の4月16日には三・一五事件の時点では逃亡できた共産党の大物党員などが検挙された四・一六事件が挙げられます。(339人起訴)。
 
 二つには、共産党に次いで戦争に反対するであろう合法無産政党、例えば全国労農大衆党は、「帝国主義戦争反対」をとともに「服務兵士家族の国家保障」という満州事変に出兵した兵士や現役として兵営に徴収された兵士が、それ以前に勤めていた会社や商店から解雇されないように、また出征中・在営中の賃金が保障されるように雇用主に求めたものであった。このとき、雇用主からこの保障を勝ち取っていたのは陸軍省であり、陸軍側を怒らせるスローガンは通りにくい。よって、「帝国主義戦争反対」のスローガンは掲げずに選挙をやって当選した議員もいた。
 
・連盟脱退まで
帝国議会での強硬論の裏側
357 つまり、ここからは、内田康哉外相の方針が中国政府内の方針の変化にきちんと対応しようとしていたものだったということがわかるのです。ですから1933年1月19日、内田は自信満々で、昭和天皇に対して、「連盟のほうはもう大丈夫です、もはや峠は超えました、脱退などせずに大丈夫そうです」と報告していたほどです。
(→しかし、昭和天皇は、強硬姿勢をとりつつ中国側を交渉の場に引き出そうという考え方に強い不安と不満を感じていた。)
 
松岡洋右全権の嘆き
358 この、天皇に対する内田の奏上(天皇に対して申し上げるという意味)を聞いて、とても不安に思った人物がいました。それは、牧野伸顕(まきの・のぶあき)内大臣でした。内大臣というのは、天皇の側に仕えて、政治問題など天皇の職務全般を補佐するための要職です。その牧野は自分の日記に「お上(かみ)は恐れながら、全然ご納得あそばされたるようにあらせられず」と書いています。難しい表現ですが、意味するところは、天皇は内田の奏上に対してまったく納得していない、ということです。昭和天皇としては、強硬姿勢をとりつつ中国側を交渉の場に引きだそうと考えた内田のやり方に強い不安と不満を感じていたのですね。
 内田のやり方に不安を感じていたのは天皇や牧野だけではありませんでした。パリ講和会議で牧野と組んで日本の正当性を世界にアピールしていた、あの松岡洋右もその一人でした。松岡は、国際連盟でリットン報告書が審議される場に、再び日本全権として立った人物です。
 松岡が内田外相に対して、そろそろ強硬姿勢をとるのをやめないと、イギリスなどが日本をなんとか連盟に留まらせるように頑張っている妥協策もうまくいかないですよ、どこで妥協点を見いだすか、よく自覚されたほうがよいですよ、と書いて送った電報が残っていますので、それを読んでおきましょう。難しい言葉は平仮名に直してあります。1933年1月末の電報です。
 申し上げるまでもなく、物は八分目にしてこらゆるがよし。いささかの引きかかりを残さず奇麗さっぱり連盟をして手を引かしむるというがごとき、望みえざることは、我政府内におかれても最初よりご承知のはずなり。日本人の通弊(つうへい)は潔癖にあり。[中略] 一曲折に引きかかりて、ついに脱退のやむなきにいたるがごときは、遺憾ながらあえてこれをとらず、国家の前途を思い、この際、率直に意見具申す。
 どうですか。どうも私は「松岡に甘い」と、日頃教えている学生にもよく言われますが、これだけの文章を、連盟脱退かどうかという国家の危機のときに、外相に書けるというのは立派なことだと思います。物事はなにごとも八分目くらいで我慢すべきで、連盟が満州問題にかかわるのをすべて拒否できないのは、日本政府自身、よくわかっておいでのはず。日本人の悪いところは何事にも潔癖すぎることで、一つのことにこだわって、結局、脱退などにいたるのは自分としては反対である、国家の将来を考えて、率直に意見を申し上げます、このように松岡は内田に書く。
 ここで松岡が妥協しろといっているのは、イギリス側が日本に対して提議した二つの宥和方針で、①連盟の和協委員会の審議に、アメリカやソ連など、現時点での連盟非加盟国も入れて、彼らにも意見を聞いてみよう、②日中二国ももちろん当事国として和協委員会に入ってください、というものでした。これは1932年12月、イギリス外相のサイモンによって提案されました。しかし、内田は断乎反対します。アメリカやソ連が加わったら、よけい日本に厳しい結論が出てしまうと内田は考えたのでしょう。
 しかし、これは間違いで、当時のアメリカは不況のまっただなかにあって、他国に目を向ける余裕がなかった。さらに1932年11月、民主党のフランクリン・D・ローズヴェルトが大統領に当選したことで、これまで日本に対して厳しいことを言っていたスティムソン国務長官がハル国務長官に交代する事情もあり、アメリカは国内問題に集中する、つまり非常に孤立的な態度をとる。世界のことなんて関係ない、という態度をとる時代がしばらく続きます。ソ連もまた、1931年12月に、日本に対して不可侵条約締結を提議してきたほどでした。農業の集団化に際して、餓死者も出るほどの国内改革を迫られていたのが当時のソ連でしたので、いまだ日本と戦争する準備などはなかったわけです。
 松岡だけが妥協しろといっていたのではなくて、たとえば、連盟の会議のために陸軍から派遣されていた建川美次(たてかわ・よしつぐ)もまた、陸軍大臣に宛てた秘密電報で、1932年12月15日、「この際、大きく出て、彼ら(米ソ)の加入に同意せられてはいかがかと存す」と書いていました。つまり、ここでいう彼らの加入というのは、アメリカとソ連を加えることですね。陸軍の随員までもが、妥協しろと書き送っていた点に注意してください。
 
すべての連盟国の敵!!
362 陸軍の熱河省への侵攻
 
 当時の斉藤実首相は、天皇に熱河作戦の取消を頼んだ。
天皇も取り消そうとしたが、侍従武官長の奈良武次や元老の西園寺公望らは天皇が一度出した許可を撤回したら天皇の権威が失われる、陸軍などの勢力が公然と天皇に反抗するかもしれないとして取消を反対する。
結局昭和天皇は熱河作戦の取消はできなかった。
 
・2月20日の閣議で、このままでは国際連盟から経済制裁を受ける怖れが出てくること、また除名という日本の名誉にとって最も避けたい事態も考えられるとして、国際連盟の準備していた日本への勧告案が宗秋で採択された場合には自ら連盟を脱退してしまう、という方針を選択することに決まった。その後、陸軍は2月22日に熱河作戦を開始し、3月27日に日本が国際連盟から脱退する調書が提出された。
 
・戦争の時代へ
陸軍のスローガンに魅せられた国民
369 さて、1930年の産業別就業人口を見てみますと、農業に従事する人は46.8%いました。国民の約半分が農民だったのですね。
 
ドイツ敗北の理由から

 

暗澹たる覚悟
379 日中戦争が始まる前の1935年、胡適「日本切腹、中国介錯論」を唱えます。すごいネーミングですよね。日本の切腹を中国が介錯するのだと。
 ・現在世界はアメリカとソ連の二大強国となっている。よって海軍、陸軍ともに豊かな軍備を持っている日本の勢いを抑止できるのは、アメリカの海軍とソビエトの陸軍しかない。日本はこのことをよく理解しており、アメリカとソビエトの軍備が整わないうちに中国への決定的な戦争を仕掛けてくるだろう。
 ・これまで日本が満州事変や華北分離工作をやっても、日本と争うと損なのでアメリカやソビエトは日本と中国の紛争には介入してこなかった。中国はこのアメリカとソビエトを日本と中国との紛争に引き込まなければならない。そのためには、中国は日本との戦争をまず正面から引き受けて、二三年間は負け続けることである。
 
汪兆銘の選択
385 日本の全民族は自滅の道を歩んでいる。中国がそれを介錯するのだ、介錯するための犠牲なのだということです。すごい迫力ですね。
 
汪兆銘胡適の論に対して、日本と三年、四年と戦争を繰り広げている間に、中国はソビエト化してしまうと危惧した。よって、日本と争っていては国民党は敗北して中国共産党の天下となってしまうので、日本と妥協することが必要であると説いた。
 
 
 
 
5章 太平洋戦争 戦死者の死に場所を教えられなかった国
 
・太平洋戦争へのいろいろな見方
「歴史は作られた」
Q1 どうして日本はアメリカとの戦争に踏み切ったのか?アメリカとの戦力差を軍部はどこまで把握していたのか、その差をどう埋められると考えていたのか?それを知っていた知識層はどう考えていたのか
Q2 日本軍はどのように戦争を終わらせようと考えていたのか、どのような形が勝利だと考えていたのか
 
393 アメリカと日本の国力の差は当時においても自覚されていました。たとえば、開戦時の国民総生産でいえば、アメリカは日本の12倍、すべての重化学工業軍需産業の基礎となる鋼材は日本の17倍、自動車保有台数に至っては日本の160倍、石油は日本の721倍もあった。このような数値は、明治大学山田朗先生の書いた『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館)という本に出ています。
 こうした絶対的な差を、日本の当局は特に国民に隠そうとはしなかった。むしろ、物的な国力の差を克服するのが大和魂なのだということで、精神力を強調するために国力の差異を強調すらしていました。国民をまとめるには、危機を扇動するほうが近道だったのでしょう。
 
395 竹内好大東亜戦争と吾等の決意」
 歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりにそれを見た。感動にうちふるえながら、虹のように流れる一すじの光芒のゆくえを見守った。(中略)12月8日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持ちであった。(中略)率直にいえば、われらは支那事変に対して、にわかには同じがたい感情があった。疑惑がわれらを苦しめた。(中略)わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。(中略)この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。(中略)大東亜戦争は見事に支那事変を完遂し、これを世界上に復活せしめた。今や大東亜戦争を完遂するものこそ、われらである。
 
伊藤整十二月九日の日記
 今日は人々みな喜色ありて明るい。昨日とはまるで違う
 
山形の小作農阿部太一
 キリリと身のしまるを覚える
 
天皇の疑念
401 アメリカとの戦争を説得する際、大坂冬の陣を教訓として使う。
 
402 さらに、41年10月18日に東条英機が首相となると、登場は「対米英蘭蒋(蒋とは蔣介石、つまり中国のこと)戦争終末促進に関する腹案」という文書を、陸海軍の課長級の人々につくるようにめいずる。これが戦争を終わらせる計画ですよ、と天皇の前で説明するための材料をつくらせる。ただ、この腹案の内容というのは、他力本願の極致でした。このときすでに戦争をしていたドイツとソ連の間を日本が仲介して独ソ和平を実現させ、ソ連との戦争を中止したドイツの戦力を対イギリス戦に集中させることで、まずはイギリスを屈服させることができる、イギリスが屈服すれば、アメリカの継戦への意欲が薄まるだろうから、戦争が終わると。すべてがドイツ頼みなのです。また、イギリスが屈服すれば、アメリカも戦争を続けたいと思わないはずということで、希望的観測をいくえにも積み重ねた論理でした
 41年6月22日に始まっていた独ソ戦を、なぜ日本の仲介で止めさせることができると考えていたのか。この点は、現在の時点から考えると、とうてい信じがたいでしょう。ただ、当時日本は、イギリス、アメリカ、オランダ、中国、これらの国々が悪いのは自由主義を信奉する資本主義国だからで、有産階級や資本家が労働者や農民を搾取している悪い国だと、さかんに国民に説明していた。その点でいえば、ソ連社会主義国であって資本主義国とは違う、とくに経済政策の点では国家による計画経済体制をとっているのだから、反自由主義、反資本主義ということで、日本やドイツと一致点があるのだ、こう日本側は考えようとしていたのだと思います。
 
数値のマジック
406 アメリカは1939年の時点では飛行機を年間で2141機しか作れなかった。これに対して日本は年間で4467機を製造していた。しかし、アメリカが本気になった1941年では1万9433機を製造するようになっており、日本側の予測をはるかに超える事態でした。
 
・戦争拡大の理由
激しかった上海戦
ドイツ、ソ連アメリカ、イギリスが中国を援助していた。
 
南進の主観的理由
日中戦争はなかなか終わらない。援蒋ルートによって英米ソが中国を支援してるから。
よって、援蒋ルートを閉鎖するために、仏印に飛行場をつくりそこから物資を運ぶ車輌や船舶を爆撃をすればよい。
日中戦争はなかなか終わらない。それならば、戦争継続のためには資源が必要である。
よって、東アジアの資源を日本自らが獲得するために南進した。
 

 
中国の要求
 
チャーチルのぼやき
424 「イギリスはアメリカの戦争を戦っている」
 
七月二日の御前会議決定の舞台裏
428 このようなグラフを見ると、松岡外相などが考えていた「三国同盟ソ連」の4国同盟路線が、なかなか魅力的だったというのは理解できますね。ところが、松岡のプランは6月22日の独ソ戦勃発で崩れてしまうヒトラーさん、なぜ急に戦争を始めてしまうのよ、と嘆いたかはわかりませんが、松岡はそれまでの態度を一変して、ならばドイツがソ連を攻撃している間に、日本もソ連の背後からドイツと一緒になって攻撃してしまおうといいだす。つまり、「北へ進め」との大号令をかける
・外務省と参謀本部作戦課の北進論に対して、陸軍省軍務局と海軍(海軍省と軍令部)は、ソ連を攻撃されると日米交渉の線もまだ可能性があるのに困るとして反対する。そして、北進論を抑えるために陸軍省軍務局と海軍が南進を唱えるようになる。彼らは、南部仏印進駐しても、フランス領でアメリカの権益と関係ないので、アメリカがなにか強い報復措置にでないだろうと考えていた
日本の南部仏印進駐が実行されたのを見たアメリが、すぐさま、7月25日、在米日本資産の凍結(ある国に対する制裁の一段階で、政府や民間が保有する資産・財産の引き出し、移動を禁ずる行為)を断行し、8月1日には、石油の対日全面禁輸を実行した。
 
 なぜアメリカは迅速な反応をしたのか?
 ハインリックス先生『太平洋戦争』(東京大学出版会
 アメリカは、とにかくドイツ軍300万人によって侵攻されたソ連が10月まで戦線を維持して敗北しなければ、翌年の春まで安泰だと考えた。ソ連には冬将軍という強烈な味方があったから。かつて、フランスのナポレオンが19世紀初頭、モスクワまで進攻しながらもロシアを攻め落とせなかったのは、ロシアの冬の厳しさゆえだった。42年春になれば、アメリカの軍需産業ソ連向けの兵器を輸出する能力を持てると見られていたから。
 

 
 
・なぜ、緒戦の戦勝に賭けようとしたのか

 
奇襲による先制攻撃
435 1941年12月8日、真珠湾攻撃を開始する。このとき、ワシントンにいた野村吉三郎駐米大使がハル国務長官に対米最終通牒を手渡したのは、攻撃がすでにはじまってからほぼ一時間が経過した後であったので、日本は宣戦布告より前に奇襲作戦で英米に打って出たこととなる。
 
真珠湾はなぜ無防備なままだったのか
439 海軍の戦死者が3077人、戦傷者が876人、陸軍の戦死者が226人、戦傷者が396人であり、沈められた戦艦は5隻、駆逐艦2隻、破壊された航空機は188機にのぼった。ただし、別の場所に退避していた空母を攻撃できなかったことは大きな誤算であった。
 
441 魚雷は高度100メートルぐらいで飛ぶ飛行機から落とされると、ガーっと60メートルくらい、海面から沈む。この沈んだ時の衝撃で機械が動き、魚雷についたスクリューが回り出して海面近くまで浮上し、あとは定深度6メートルを保って目標に向かってぐんぐん進む。そして目標の船、これは吃水(浮かんでいる船の船底から水面までの距離)7メートルなのですが、6メートルで進んでくるということは、船底から1メートルの火薬庫がある場所をちょうどよく狙って爆破する。魚雷はある意味で大変よくできた兵器でありまして、飛行機はすでに安全なところを飛んでいながら、魚雷果て機関の船の底、火薬庫を狙って海中をぐんぐん進むわけですね。
 真珠湾は水深12メートルの浅い湾でした。戦艦は水面から船底まで7メートルあれば停泊させられますから、ここに停泊させるのは合理的です。そしてもっと合理的だったのは、水深が12メートルしかありませんから、投下されたときに60メートル沈むのが魚雷だとすると、これは無敵の湾だったことになります。深い湾でしたら、魚雷がきちんと沈んでも余裕があることになる。しかし、真珠湾は浅いので、魚雷が落とされれば、すべて湾の底に杭を打ったように突き刺さって、全然役に立たないはずだ、こうアメリカ側は考えていました。つまり、アメリカ側も、日本の技術に対して、侮っていた部分がある。海底すれすれまでしか沈まないように、そうっと魚雷を落とす技術などありえないと思っていた
 
速戦即決以外に道はあったのか
446 ドイツは共産主義を倒すため合理的な中国との取引を捨て、日本を選んだ。
 
日本は戦争をやる資格のない国
448 水野廣徳「無産階級と国防問題」
 日本が島国で領土的な安全がめったな理由で脅かされることがないならば、日本の国家としての不安材料は経済的な不安だけだろう。経済的な不安に対しては日本が他国に対して「国際的非理不法」を行わなければ外国との通商が維持され、外国との通商が維持されれば国家の重要物資が供給され、経済的な不安は解消される
現代戦争は必ず持久戦、経済戦となるが、物資の貧弱、技術の低劣、主要輸出品が生活必需品でない生糸である点などで日本は致命的な弱点を負っている。このような意味で、日本は「戦争をする資格がない国」である。
 
・戦争の諸相
必死の戦い

 
それでも日本人は必勝を信じていたのか
 
戦死者の死に場所を教えられない国
 
満州の記憶
466 国や県は、ある村が村ぐるみで満州に移民すれば、これこれの特別助成金、別途助成金を、村の道路整備や産業振興のためにあげますよ、という政策を打ちだします
 このような仕組みによる移民を分村移民というのですが、助成金をもらわなければ経営が苦しい村々が、県の移民行政を担当する拓務主事などの熱心な誘いにのせられて分村移民に応じ、結果的に引揚げの課程で多くの犠牲を出していることがわかっている。
(中略)
 満州からの引き揚げといったとき、我々はすぐに、ソ連軍侵攻の過酷さ、開拓移民に通告することなく撤退した関東軍を批判しがちなのですが、その前に思いださなければならないことは、分村移民をすすめる際に国や県がなにをしたかということです。
 
捕虜の扱い
468 その一つが捕虜の扱い方のデータです。あるアメリカの団体が、捕虜となったアメリカ兵の名簿から、捕虜となり死亡したアメリカ兵の割合を地域別に算出しました。そのデータからは日本とドイツの差が分かります。ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1.2%にすぎません。ところが、日本軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は37.3%にのぼりました。これはやはり大きい。日本軍の捕虜の扱いのひどさはやはり突出していたのではないか。もちろん、捕虜になる文化がなかった日本兵自身の気持ちが、投降してくる敵国軍人を人間と認めない気持ちを生じさせた側面もあったでしょう。しかしそれだけではない。
 このようなことはなにから来るかというと、自国の軍人さえ大切にしない日本軍の性格が、どうしても捕虜への虐待につながってくる。戦後、復員して東京大学文学部に入って近代史を学び、自身、後に一橋大学教授となる藤原彰先生は、戦前、陸軍士官学校での陸軍大尉で中国戦線に従軍していました。先生はもう亡くなりましたが、藤原先生が書いた『飢死した英霊たち』(青木書店)はぜひとも読んでいただきたい。
 戦争には食料がいる。ニューギニア北部のジャングルなどには自動車道はない。兵士の一日の主食は600グラムです。最前線で5千人の兵士を動かそうとすると、基地から前線までの距離にもよりますが、主食だけを担いで運ぶのを想定すると、なんと、そのためだけに人員が3万人くらい必要になるのです。しかし、このような計算にしたがって食料補給をした前線などひとつもなかった。この戦線では戦死者ではなく餓死者がほとんどだったと言われるゆえんです
 そして、このような日本軍の体質はもちろん国民生活にも通底していました。戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つだと思います
(略)
 それにくらべるとドイツは違っていました。ドイツの国土は日本にもまして破壊されましたが、45年3月、降伏する2か月前までのエネルギー消費量は、何と33年の1、2割り増しでした。むしろ戦前よりもよかったのです。国民に配給する食料だけは絶対に減らさないようにしていた。国民が不満を持たないようにするためにはまずは食糧確保というわけです
 
469 戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つだと思います。敗戦間近の頃の国民の摂取カロリーは、1933年時点の6割に落ちていた。40年段階で農民が41%もいた日本で、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。日本の農業は労働集約型です。そのような国なのに、農民には徴集猶予がほとんどありませんでした。(中略)
それにくらべてドイツは違っていました。ドイツの国土は日本にもまして破壊されましたが、45年3月、降伏する2ヶ月前までのエネルギー消費量は、なんと33年の1、2割増しでした。むしろ戦前よりよかったのです。
 
あの戦争をどう見るか

 
 
おわりに
文庫版あとがき
483 1910(明治43)年の大逆事件で死刑となる幸徳秋水は、日露戦争開戦後2カ月たった1904年4月3日付の週刊「平民新聞」に次のように書き、日清戦争の時の辛苦をきれいに忘れてしまっている国民のさまを嘆いています。
 
参考文献
謝辞
解説 橋本治