読んだ。 #生物から見た世界 #ユクスキュル #クリサート #日高敏隆 #羽田節子

読んだ。 #生物から見た世界 #ユクスキュル #クリサート #日高敏隆 #羽田節子
 
 
目次
まえがき
 
 
序章 環境と環世界
13 生理学者にとってはどんな生物も自分の人間世界にある客体である。生理学者は、技術者が自分の知らない機械を調べるように、生物の諸器官とそれらの共同作用を研究する。それにたいして生物学者は、いかなる生物もそれ自身が中心をなす独自の世界に生きる一つの主体である、という観点から説明を試みる。したがって生物は、機械にではなく機械をあやつる機械操作係にたとえるほかはないのである
要するに問題は、ダニは機械なのか機械操作係なのか、単なる客体なのかそれとも主体なのか、ということである。
 生理学は、ダニは機会だと断言し、ダニには受容器すなわち感覚器官と実行器すなわち行為器官が区別され、それらは中枢神経系にある制御装置によって互いにつながっていると言うだろう。全体が一つの機械であって、操作係に当たるものは何一つないのである。
「まさにそこに誤りがあるのだ。ダニの体のどこをとっても機械の性格はなく、いたるところで機械操作係が働いている」。こう生物学者は答えるであろう。
 だが生理学者は動ずることなくこう続けるだろう。「まさにダニの場合、すべての行為はもっぱら反射だけに基づいている。そして反射弓がそれぞれの動物機械の基盤となっている。

それは受容器、すなわち酪酸や温度など特定の外部刺激だけを受け入れ他はすべて遮断する装置ではじまり、歩行装置や穿孔装置といった実行器を動かす筋肉で終わる。
 感覚的興奮を引き起こす「知覚」神経細胞と運動インパルスを引き起こす「運動」神経細胞には、外部刺激に応じて受容器が神経内に生み出す完全に身体的な興奮の波を実行器の筋肉に伝えるための接続部分としての役目しかない。反射弓全体はあらゆる機械と同様に運動の伝達によって働く。一人であれ複数であれ機械操作係のような主体的な要因はこの現象のどこにも見られない」。
 「事態はまるで反対だ」と生物学者は答えるだろう。「われわれに関りがあるのは、すべて機械操作係であって、機械の部分ではない。なぜなら、反射弓の個々の細胞はすべて、運動の伝達によってではなく刺激の伝達によって働いている。だが刺激は主体によって感じ取られるものであって、客体に生じるものではない」。
 たとえば鐘の舌がそうであるように、機械のどの部分も、きまったやりかたで左右にゆすられたら機械的に働くだけである。暑さ、寒さ、酸、アルカリ、電流といったほかのあらゆる干渉に対しては、ただ一枚の金属片としての反応を示すだけだ。一方、筋肉がまったく別の振る舞いをすることは、ヨハネス・ミュラー以来知られている。どんな外的干渉もすべて同じ刺激に変えて、その筋肉細胞に収縮を引き起こす同じインパルスで答えるのである。
 ヨハネス・ミュラーはさらに、われわれの視神経が出会うあらゆる外部作用は、エーテル波であれ圧力であれ電流であれ、同じように光感覚をよびおこすこと、つまり、われわれの視神経は同じ「知覚記号(Merkzeichen)」で答えることを示している。
 
16 そこで、それぞれの生きた細胞は感知し作用する機械操作係であり、したがってそれに固有の(特異的な)知覚記号と、インパルスすなわち「作用記号(Wirkzeichen)」をもっているのだと結論できよう。それゆえに、動物主体全体の多様な知覚と作用は、小さな細胞という機械操作係の共同作業によるものであって、それぞれは個々の知覚記号ないし作用記号を操っているだけなのである。
 秩序ある共同作業を可能にするために、生物体は脳細胞(これも基本的な機械操作係である)を利用し、その半分を脳の刺激受容部分すなわち「知覚器官(Merkorgan)」「知覚細胞群(Merkzellen)」として大小の集団に分けている。これらの集団は、外部から動物主体に迫ってくる問いかけの刺激のグループに対応している。残り半分の脳細胞を生物体は、「作用細胞群(Wirkzeichen)」あるいはインパルス細胞群として用い、それらを、動物主体の答えを外界に与える実行器の運動を制御する集団としてまとめている。
 知覚細胞の集団は脳の「知覚器官(Wirkorgan)」を構成し作用細胞の集団は脳の「作用器官」の中身をなしている
 もしこのことから、知覚器官とはいろいろな特異的な知覚記号の担い手である細胞機械操作係の集団が働いたり休んだりする場であると想像してもよいのなら、それらの機械操作係はやはり空間的に切り離された個別の存在であると言える。それらがもつ知覚記号も、もしそれらが空聞的に固定された知覚器官以外のところで融合して新しい単位になるという可能性をもたないとすれば、それぞれが孤立したままでいるだろう。しかし実際その可能性は存在するのである。一グループの知覚細胞の知覚記号は、その知覚器官の外で、いや動物の体の外で、集まって一つになり、そのまとまりが動物主体の外にある客体の特性になる。これはわれわれすべてによく知られた事実である。われわれ人間に感じられる感覚のすべて、つまりわれわれに特異的な知覚記号のすべてが一つにまとまって、われわれの行為のための知覚標識として役立つ外界事物の特性となるのである。「青い」という感じが空の「青さ」になり、「緑色」という感じが芝生の「緑」になる。われわれは青いという知覚標識で空を認識し、緑色という知覚標識で芝生を認識するのである。
 
19 たとえていうなら、各動物主体はピンセットの二本の脚、すなわち知覚の脚と作用の脚で客体を掴んでいるようなものである。片方の脚で客体に知覚標識を与え、もう片方の脚で作用標識を与えるのである。それによって、客体のある特性が知覚標識の担い手になり、別の特性が作用標識の担い手になる。ある客体の特性はすべて、その客体の構造を通じて互いに結びついているので、作用標識によってとらえられた特性は、知覚標識を担う特性に客体を通じて影響をおよぼすとともに、知覚標識自体がみずからを変化させるように作用しなくてはならない。これを手短かに表現するなら、作用標識は知覚標識を消去するということになる
 すべての動物主体の一つ一つの行動の過程にとって重要なものとして、受容器が通過させる刺激の選択と、実行器にある特定の活動の可能性を与える筋肉の配置があるが、それらとならんでとりわけ重要なのが、知覚記号をつかって環世界の客体に知覚標識を認める知覚細胞の数と配置、および、作用記号によって同じ客体に作用標識をつける作用細胞の数と配置である。
 客体が主体の行動に関われるのは、それが一方では知覚標識の担い手になり、他方では作用標識の担い手になれる(この二つは対立構造によってつながっている)という欠くことのできない特性をそなえている限りにおいてである。

20 主体の客体に対する関係は、前頁の機能環(Funktionskreis)の図でたいへんわかりやすく説明されている。この図は主体と客体がいかにぴったりはめこまれており、ひとつの組織だった全体を形成しているかを示している。さらに、一つの主体が多くの機能環によって同じあるいはさまざまな客体と結ばれていると想像してみれば、環世界説の第一の基本法則を見抜くことができるつまり、動物主体は最も単純なものも最も複雑なものもすべて、それぞれの環世界に同じように完全にはめこまれている。単純な動物には単純な環世界が、複雑な動物にはそれに見合った豊かな構造の環世界が対応しているのである
 
21 われわれに関係があるのは二つの客体の間の力の交換ではない。問題は生きている主体とその客体との間の関係であり、この関係はまったく異なるレベルで、つまり、主体の知覚記号と客体の刺激との間でおこるということである。
 
22 ダニを取り囲む豊かな世界は崩れ去り、重要なものとしてはわずか三つの知覚標識を三つの作用標識からなる貧弱な姿に、つまりダニの環世界に変わる。だが環世界のこの貧弱さはまさに行動の確実さの前提であり、確実さは豊かさより重要なのである。
 
 
※・主体と客体の関係は機能環という図式で表される。
客体のもつある性質は知覚標識の担い手になる。
知覚標識を受容器(感覚器官)が受け取り、脳内の知覚器官が刺激を受けるのが知覚世界である。
一方、脳内の作用器官は、外界に対する動物主体の応答を与える実行器(筋肉)の動きを制御するのが作用世界である。
実行器は客体に対して作用標識を刻みつける。
作用標識によって与えられた性質は、知覚標識の担い手である性質に対し、客体を通して必然的に影響を及ぼし、知覚標識そのものを変化させるように働きかける。
この知覚世界と作用世界が共同で一つのまとまりのある統一体を作り上げたのが環世界である。
この図式に従って、具体的な動物の環境世界、例えばダニが哺乳類に落下して血を吸う一連の流れなどが説明される。
 
 
※2.ダニの行動の生物学的詳細
 ダニの感覚機能
①八本の足
②目がない。その代わりに全身光感覚。
③耳もないが、嗅覚:酪酸:知覚標識。
④温度感覚
⑤触覚
1.ほ乳類の皮膚腺は、第一の環の知覚標識(メルクマール)の担い手
2.酪酸の刺激は、知覚器官の中で、特異的な知覚信号を触発(原訳:解発)し、それを③嗅覚標識として外界に移される。
3.知覚器官の中のこの出来事は、誘導によって作用器官の中に適当なインパンルスを生じさせ、それが①足をはなして落下することを引き起こす。
4.落下したダニは、突き当たったほ乳類の毛に、⑤衝突という作用標識を与える。
5.その標識は、ダニの側に⑤接触(触角)という知覚標識を触発する。
6.この新しい知覚標識は、はいまわるという行為①を触発し、その結果ついにダニは毛のないところにたどり着く。
7.この知覚標識は、暖かい④という知覚標識にとって代わられ、それに続いて穴をあけるという行為⑦が始まり、味覚がないが、⑥液体が適当な温度であれば吸い込む(最後の晩餐)。血を吸った後は、地面に落ちて卵を産んで死ぬ。
8.おのおのの作用標識は、知覚標識を拭い去る
 
 生物・動物を単なる客体(物・部品の集まり)としてではなく、
知覚の行為
作用の行為
をその本質的な活動として保持するものを主体と見なす
 主体が知覚するすべての物がその知覚世界となり、主体が行う作用のすべてがその作用世界となる。知覚世界と作用世界が共同で一つのまとまりある統一体、つまり環境世界を作り上げるのである
 一つのグループの知覚細胞が担当する知覚標識は、知覚器官の外部、いや生物体の外部において統一されてまとまった単位となり、それが生物主体の外に存在する対象の特性となる。
 生きた主体が存在しなければ、いかなる時間・空間も存在しない
 
生物の環境世界
 生物の環境世界は、その周囲に広がって見える環境の単なる一片に過ぎない。
そして、この環境というものは、われわれ自身の、つまり人間の環境世界に他ならない。
 
 
 
23 ダニのとまっている枝の下を哺乳類が通りかかるという幸運な偶然がめったにないことはいうまでもない。茂みで待ち伏せるダニの数がどんなに多くても、この不利益を十分埋め合わせて種の存続を確保することはできない。ダニが獲物に偶然出合う確率を高めるには、食物なしで長期間生きられる能力もそなえていなければならない。もちろんダニのこの能力は抜群である。ロストックの動物学研究所では、それまですでに18年間絶食をしているダニが生きたまま保存されていた。ダニはわれわれ人間には不可能な18年という歳月を待つことができる。われわれ人間の時間は、瞬間、つまりその間に世界が何の変化も示さないような最短の時間の断片が連なったものである。一瞬が過ぎゆく間、世界は静止している。人間の一瞬は18分の1秒である。後に述べるように、瞬間の長さは動物によって異なるが、ダニにどんな数値を当てようと、まったく変化のない環世界に18年間耐えるという能力は、到底ありうるものとは思われない。このことから、ダニはその待機期間中は一種の睡眠に似た状態にあるものと仮定しよう。そのような状態ではわれわれ人間でも何時間化の間、時間が中断される。ダニの環世界の時間は待機期間中、何時間どころか何年にもわたって停止しており、酪酸の信号がダニを新たな活動によびさますにおよんで、ようやく再び動きはじめるのである。
 
 この認識から何が得られたであろうか。それはたいへん重要なことである。時間はあらゆる出来事を枠内に入れてしまうので、出来事の内容が様々に変わるのに対して、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だがいまやわれわれは、主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体無しに時間はありえないと言わねばならないだろう。
 
 
 
※・ユクスキュルは、動物は知覚道具と作業道具とそれをまとめる制御装置からなる機械であるという機械論には反対する。そこには知覚したり、作用したりする主体がないからだという。生命を有する主体がなければ、空間も時間も存在しえないとし、それはカントの学説と結びつくとしている。
 
※3.運動の伝達と刺激の伝達
・運動の伝達
機械としての鐘:左右に振られる場合のみ答える。
・刺激の伝達
生物の筋肉:あらゆる外的干渉(熱・寒さ・アルカリ・電熱)などに対し収縮をもつて答える。
我々の視神経:すべての外的作用は、光波であれ、圧力であれ、また電流であれ、すべて光の感覚を呼び起こす。
 
 
※知覚器官においては、刺激源から発した、化学的=物理学的な作用が、ある感覚(知覚標識)へと変えられ、作用器官においては、別の感覚(作用標識)があらためて化学的=物理学的な作用へと変えられる。これは生理学者が考えているような単なる反射ではない。鏡面における単なる反映のようなものではない。
そこには(知覚標識と作用標識の間には)、ある中枢的な出来事が介在しているのであって、この出来事が一方の知覚器官と他方の作用器官の二つの局面を互いに結び合わせている。
そして、両者を媒介するこの中枢的な過程が、まさに意味の創造ということなのだ。あらゆる生物は、それぞれその定められた環世界に固有の、意味の原像を持っている。生物学者は、もっぱら《原因》を求めて、生物をその周囲の事物の反射体と見なすのではなく、《理由》を探って、生物をその環世界の事物に対する意味の付与者と見なすものである。
[この【12】は、「生命の劇場」(2012・講談社学術文庫)の記述から抜粋・引用して再構成しました。]
 
 
 
一章 環世界の諸空間
28 ここでわれわれが研究しようとする動物の環世界(Umwelt)とは、われわれが動物の周囲に広がっていると思っている環境(Umgebung)から切り出されたものにすぎない。そしてこの環境はわれわれに固有の人間の環世界に他ならない。環世界の研究の第一の課題は、動物の環境の中の諸知覚標識からその動物の知覚標識を探り出し、それでその動物の環世界を組み立てることである。
 
 レーズンという知覚標識はダニをまったく動かさないが、酪酸という知覚標識はダニの環世界で著しい役割を演ずる。一方、美食家の環世界で重要性が強調されるのは、酪酸ではなくてレーズンという知覚標識である。
 どの主体も、事物のある特性と自分との関係をクモの糸のように紡ぎ出し、自分の存在を支えるしっかりした網に織り上げるのである。
 
 主体とその環境の客体との間の関係がどのようなものであろうとも、その関係はつねに主体の外に生じるので、われわれはまさにそこで知覚標識を探さねばならない。主体の外にあるこれら知覚標識どうしはそれゆえつねに何らかの形で空間的に結びついており、そしてまた一定の順序で交代していくので、時間的にも結びついている
 
 われわれはともすれば、人間以外の主体とその環世界の事物との関係が、われわれ人間と人間世界の事物とを結びつけている関係と同じ空間、同じ時間に生じるという幻想にとらわれがちである。この幻想は、世界は一つしかなく、そこにあらゆる生物がつめこまれている、という信念によって培われている。すべての生物には同じ空間、同じ時間しかないはずだという一般に抱かれている核心はここから生まれる。最近になってようやく、すべての生物に通用する空間を持つ宇宙の存在への疑いが物理学者たちの間に生じてきた。そのような空間がありえないことは、一人一人の人間が、お互いに見た試合補い合うがなお部分的には相容れない三つの空間に生きているという事実からすでに明らかである。
 
37 触空間(Tastraum)の基本的構成要素は方向歩尺のような運動の大きさではなくて、何か確固としたもの、つまり場所(Ort)である。場所もまた主体の知覚標識のおかげで存在するもので、環境の物質に結び付いた形成物ではない。~、われわれは触覚の知覚記号のほかに場所感覚のための知覚記号ももっていることがわかる。これを局所記号(Lokalzeichen)という。
 
38 触空間は多くの動物でたいへん顕著な役割と果たしている。ネズミやネコは視力を失ってしまっても、触毛がある限りその運動に全く支障がない。夜行性の動物や洞窟に住む動物はすべて、おもに蝕空間に生きているが、これは場所と方向歩尺の融合から成り立ったものである。
 
39 目のある動物においてはじめて、視空間(Sehraum)と、触空間(Tastraum)がはっきり分離する。目の網膜にはごく小さな基本領域、すなわち視覚エレメントがぎっしり並んでいる。それぞれの視覚エレメントには環世界の場所が一つずつ対応している。というのは、それぞれの視覚エレメントに局所記号が一つずつ届くことが分かっているからである。
 
40 触空間では対象物が小さくなるということはおこらない。そしてこれが、視空間と蝕空間が競争になる点である。手を伸ばして茶碗をつかみ、口のほうへ持ってくるとき、視空間では茶碗は大きくなるが、触空間ではその大きさは変わらない。この場合、触空間のほうが優勢である。なぜならば公正な第三者には茶碗が大きくなることは感じられないからである。
 
41 同じ絵をどんどん縮小して同じ網をかけ、それを写真に撮り直してからふたたび拡大すればいいのだ。そうすると、その絵はどんどんきめの粗いモザイクに変わる。一緒に写っている編みは邪魔になるので、粗くなった絵を編みなしの水彩画として再現した。
 
 
※4.種々の生物の環境世界と環境
「環境(Umgebung:ドイツ語)」
「環境世界(Umwelt:ドイツ語)」
「環境」の中に、その一部として、ダニ(主体)にとっての「環境世界」があり、ダニ(主体)の行為によって有意味となるものが、その主体(ここでは、ダニ)の環境世界である。つまり、環境一般というものはなく、我々が、「環境」と呼んでいるもののうち、ダニにとっては、その一部のみが、有意味であり、それを、ユクスキュルは「環境世界」と呼んでいます。
 そうすると、我々がダニの環境世界を見ているように、誰かが我々の環境世界を見ていることはないのでしょうか
 我々がより良い環境を構築しようとする営みは、あたかもダニが木の枝でじっと待つことに似て、それを見ている誰かにとっては、些細なことであり、丸でも四角でも六角形でも大した違いはないということなのでしょうか。
 我々が、考え、信じて行うことに意味があまりないという悲観主義(ペシミズム)に陥る道しか残されていないのでしょうか。
 
 シェーラーによると、生物が「環境」に縛られている(「環境緊縛性」)のに対し、人間は「環境」に縛られず、むしろ開かれた「世界」に自由な態度がとれると考え、このような事態を「世界開在性(Weltoffenheit)」と呼んだ(『宇宙における人間の地位』1928年)
 
 人間以外の主体と、その環境世界の事物との関係が演じられる時間や空間と、我々人間と人間世界の事物との間をつなぐ関係が展開される空間と時間とが、まったく同一のものであるとする妄想にふけることが簡単に行われている。
 さらにこの妄想は、世界というものはただ一つしか存在しないもので、その中にあらゆる生物主体が一様にはめこまれているという信仰によって培われている。ここからすべての生物に対して、ただ一つの空間と時間しか存在しないはずだという、ごく一般的な確信が生まれてくる。それが間違いであるとユクスキュルによれば言えることになる。
 
 
 
※a) 作用空間(Wirkraum)
・運動の活動空間:無数の交差する方向歩尺からなる運動空間であるだけでなく、座標系をもち、それがあらゆる空間規定の基盤となるもの
・人間の空間の三次元性は内耳の三半規管に由来する by ツィーオン
方向歩尺(Richtungsschitte):道筋を測る歩幅尺度
 
b) 触空間(Tastraum)
・場所(Ort):主体の知覚標識により存在するものであり、環境の物質に結びついた形成物ではない by ヴェーバー
局所記号(Lokalzeichen):人間の触覚の知覚記号とは別にもつ場所感覚のための知覚記号
・場所のモザイク(Ortemosaik):主体がその環世界の事物に与えるもの
・触れて調べる際には場所と方向歩尺が結びついてはじめて形を与える働きをする
 
c) 視空間(Sehraum)
・ダニのように皮膚で光を感じる動物は視空間と触空間が重なっている
・場所と場所の結びつけは触空間同様、方向歩尺による
・視空間では対象の大小が変化する
 
 
 
二章 最遠平面
46 周囲十メートル以内では、われわれの環世界の中の物体は筋肉運動によって遠近を判断される。この範囲外では、本来、対象物は大きくなったり小さくなったりするだけである。乳児の場合、視空間は、そこであらゆるものを取り囲んだ最遠平面となって終わっている。われわれがその後しだいに、距離記号を利用して最遠平面を遠くに広げていくことを学習することによってはじめて、おとなでは六キロから八キロの距離で視空間が終わりそこから地平線がはじまるようになるのである。
 
48 イエバエを捕まえようとするとわかるように、人間の手がおよそ50cmの距離まで近づいたときに初めて、ハエの飛び立ち画引き起こされる。このことから、ハエの最遠平面はほぼこの距離にありそうだと推測してよかろう。
 しかし、イエバエに関する別の観察から、彼らの環世界では最遠平面がまた別の様相を呈しているらしいことが分かった。ハエは下がった電灯やシャンデリアの周りとただぐるぐる回るのではなく、それから50cm離れてしまうとかならず突然その飛行を中止して、シャンデリアのすぐ脇か下を通るように飛ぶことが分かったのだ。ハエは、島を見失わぬようにヨットを操る船乗りのように振る舞っているのである。
 
50 われわれの世界にも一人一人を包み込んでいるシャボン玉があることを認識する。そうすると、わが隣人もみなシャボン玉に包まれているのが見えてくるだろう。それらのシャボン玉は主観的な知覚記号から作られているのだから、何の摩擦もなく接し合っている。
 
 
三章 知覚時間
53 時間は主体が生みだしたものだとはっきり述べたことは、カール・エルンスト・フォン・ベーアの功績である。瞬間の連続である時間は、同じタイム・スパン内に主体が体験する瞬間の数に応じて、それぞれの環世界ごとに異なっている。
瞬間は、分類できない最小の時間の器である。なぜなら、それは分類できない基本的知覚、いわゆる瞬間記号を表したものだからである
すでに述べたように、人間にとって一瞬の長さは18分の1秒である。しかも、あらゆる感覚に同じ瞬間記号が伴うので、どの感覚領域でも瞬間は同じである。
 1秒に18回以上の空気振動は聞き分けられず、単一の音として聞こえる。
 1秒に18回以上皮膚をつつくと、一様な圧迫として感じることもわかった。
 
54 ベタという闘魚が自分の映像に対してどのように反応するかを、別の研究者と共同で研究した。闘魚は自分の映像を1秒に18回示されたのでは、それと見分けられない。1秒に30回以上映写しなければ見分けられないのである。
(中略)
 このことから、活発なすばしこい獲物を食物にしているこの魚では、明らかにその環世界の中であらゆる運動過程が高速撮影の場合のようにゆっくり進んでいることが分かる。
 
56
足元に小さな棒を差し出すと、カタツムリはその上に這い上がってくる。この棒で一秒に一―三回カタツムリを叩くと、カタツムリは上がろうとしなくなる。だが、叩くのを一秒に四回以上くりかえすと、カタツムリは棒に上がってこようとし始める。
タツムリの環世界では一秒に四回振動する棒はすでに静止した棒になっているのである。
このことからカタツムリの知覚時間は1秒に瞬間が3つか4つという速度で流れていると推論できよう。
 
 
 
四章 単純な環世界
59 空間と時間は主体にとって直接の利益はまったくない。それらは、多数の知覚標識を区別しなければならないときにはじめて意義をもつようになる。なぜならこれらの知覚標識は、環世界の時間的・空間的骨組みがなければ、ごちゃごちゃになってしまうだろうからである。しかし、たった一つの知覚標識しか含まれていないごく単純な環世界では、そのような骨組みは必要がない。
 
※ゾウリムシは、どこかで何らかの刺激を受けると、逃避運動をおこす。まず後方へ退き、次に向きを変え、さらに前進運動を始める。このようにして障害物は遠ざけられる。この場合、同一の知覚標識は、つねに同一の作用標識によって消去される。
 ただ一つだけゾウリムシに刺激を与えないもの、つまり餌である腐敗バクテリアにゆき当たったときに、はじめて静止する。この事実はわれわれに、自然がただ一つの機能環(Funktionskreis)を用いて生命をいかに目的的に作り上げることができるかを示すものである。
 
クラゲ
63 運動を確実に持続するために、傘の縁に八個の釣鐘形をした縁弁器官がついていて、釣鐘の舌にあたる部分が傘の動きのたびに神経の集まった部分にぶつかる。それによって発生した刺激が次の傘の動きを引き起こす。こうしてクラゲは自分自身に作用標識を与え、これが同じ知覚標識を引き起こし、それがさらに同じ作用標識を呼び起こす。これが無限に続くのである。
このクラゲの環世界ではいつも同じ鐘の音が鳴り響き、それが生命のリズムを支配している。その他の刺激はすべて遮断されている。
 
64 「イヌが歩くときは、この動物が足を動かすが、ウニが歩くときは、その足がこの動物を動かす」
ウニはハリネズミと同様に多数の棘をもっているが、ハリネズミの棘とは違って、その棘はそれぞれが独立した反射係となっている。
 
65 すべての反射係がまったく独立しているにもかかわらず、完全な国内平和を維持している「反射共和国」だといえよう。なぜなら、掴むための叉棘は本来なら近づいてくるあらゆる物体を引っ掴むのだが、ウニの柔らかい管足がこの叉棘に襲われることはけっしてないからだ。
この国内平和はわれわれの場合と違って、中枢部から指図を受けているのではない。われわれの舌は鋭い歯にたえず脅かされているが、その危険は中枢器官に痛みと言う知覚記号が発生することによってのみ避けられている。痛みは痛みを引き起こす行動を抑制するからである。
 
 
 
五章 知覚標識としての形と運動
69 もし仮にウニの環世界について、異なる反射係のすべての知覚標識に局所記号が与えられており、それゆえそれぞれの知覚標識は別々の場所に存在していると仮定したとしても、これらの場所が一つにつながる可能性はけっしてないであろう。したがってこの環世界には、多数の場所の合体を前提とする、形と運動という知覚標識が必然的に欠けているはずである――そして事実そのとおりなのである。
 形と運動はもっと高等な知覚世界ではじめて登場する。ただし、われわれは自分自身の環世界での経験から、物体の形は本来のしかるべき知覚標識であるが、運動は単なる付随的現象として、二次的知覚標識として、たまたま加わるのだと考えることに慣れている。しかしこれは、動物の環世界にはあてはまらないことが多い。動物の環世界では、静止した形と動いている形は二つのまったく独立した知覚標識であるだけでなく、運動は形なしに独立した知覚標識として現れることもあるからである。
 
 コクマルガラスには、じっとしているキリギリスはまったく見えない。キリギリスが跳ねて移動するときにはじめてぱくっと食いつくのである。
 
75 咲いた花とつぼみがいりまじっている野原という環境にミツバチがいる、
 ミツバチをその環世界におき、花をその形に応じた星形や十字型に置き換えてみると、つぼみは円という開いていない形と見なされる。
 このことから、この新たに発見されたミツバチの特性の生物学的意味はすぐに分かる。ミツバチにとって意味があるのは花だけであって、つぼみには意味がないのである。
 
77 形の問題
パターンが出現すると、それらからまったく一般的に通用する「知覚像(Merkbild)」が生まれる。最近の見事な研究からわかるように、蜜蜂の知覚像は色と匂いに満ち満ちている。
 ミミズやイタヤガイもダニも、このようなパターンを持っていない。つまり、彼らの環世界には真の知覚像というものがまったく欠けているのである。
 
 
 
六章 目的と設計
79 われわれ人間は、ある目的から次の目的へと、苦労しながら自分の生活を進めていくことに慣れているので、ほかの動物も同じような生きかたをしていると信じて疑わない。
これは基本的な思い違いであって、このために従来の研究が再三誤った方向に導かれたのであった。
たしかに、ウニやミミズが目的をもっていると主張する人はいまい。しかし、われわれはダニの生活を描写した際に、彼らが獲物を待ち伏せると書いた。この表現によってすでに、無意識にではあるが、純粋な自然の設計(プラン Naturplan)に支配されているダニの生活に人間の日常的些事をもちこんでしまっている。
 
 こういうわけで、環世界を観察する際、われわれは目的という幻想を捨てることがなにより大切である。れは、設計という観点から動物の生命現象を整理することによってのみ可能である。高等哺乳類のある種の行動は目的にかなった行動であることがいずれ実証されるかもしれないが、目的にかなった行動自体がやはり全体としての自然設計に組み込まれているのである。
 それ以外のあらゆる動物では、ある目的に向けられた行動というものは全く見られない。
 
81 これについては、キリギリスとコオロギとでおこなわれた研究が示唆に富んでいる。
一方の部屋には受信用のマイクロフォンの前で元気よく鳴いている一匹の雄がいる。隣の部屋ではこのマイクとつながったスピーカーの前に召す達が集まっているが、その知覚の鐘形ガラスの中でむなしく泣いている雄には目もくれない。その声が外に聞こえないからだ。雌達の接近はまったくおこらない。視覚的な像にはなんの作用もないのである。
 
83 マイクロフォンを用いたキリギリスの実験
 ある知覚標識によって機能環が働き始めたが、正常な客体が締め出されているため、最初の知覚標識の消去に必要とされるはずの適切な作用標識が生まれないのである。
 
 
 
七章 知覚像と作用像
87 主体の目的と自然の設計とを比較してみると、だれも正しい扱いが出来ずにいる本能の問題を切り抜けることができる
 ドングリはカシワの木になるのに本能を必要としているだろうか。一群の骨形成細胞は骨を造るために本能的に働いているだろうか。もしそんなことはないと否定して、本能の代わりに自然の設計というものを秩序立ての要因として取り入れるなら、クモの巣網張りや鳥の巣作りにも自然の設計の支配が認められるであろう。どちらの場合も各個体の目的というものは論外なのだから。
 本能は、個体を超えた自然の設計というものを否定するためにもちだされる窮余の産物にすぎない。自然の設計が否定されるのは、設計が物質でも力でもないので、設計とは何かということについて正しい概念を形成できないためである。
 しかし具体的な例に頼れば、設計を見る目を持つとは難しいことではない。
 
88 設計がなければ、つまり、あらゆるものを支配する自然の秩序の条件がなければ、秩序ある自然でなく、単なる混沌になってしまうにちがいない。すべての結晶は自然の設計の産物であり、そして物理学者たちがボーアのみごとな原子モデルを披露するとき、彼らはそれによって、みずからが探りだした非生物的自然の設計を解説しているのである。
 生物界がいかに自然の設計の支配を受けているかは、環世界を研究するときにいちばんよくわかる。
 
90 ヤドカリの家についたイソギンチャクはいかの攻撃を防ぐのに役立つが、家にイソギンチャクの覆いがついていない最初の例では、イソギンチャクの知覚像は「保護のトーン」になる。
 
92 私が彼(アフリカの奥地に住んでいる人)に短いはしごに上るようにいうと、彼はこう訪ねた。
「支柱と隙間しか見えないけど、いったいどうすればいいんですか」
もう一人の黒人がかれの前で上って見せたところ、彼はそれを難なくまねることができた。
 
93 作用トーン
 知覚像にどの作用像がトーンを与えるかについては、主体の気分が非常に重要である。ただし複数の作用像を仮定することが出来るのは、動物の行動を支配する中枢的な作用器官がある場合だけである。ウニのように完全に反射で動いている動物はこの限りではない。しかし、ヤドカリの例でもわかるように、それ以外の場合には作用像の影響は動物界に広くおよんでいる。
 
94 われわれが作用トーンを考慮にいれたとき初めて、環世界は動物にとってわれわれが驚嘆するような大きな確実性を獲得する。ある動物が実行できる行為が多いほど、その動物は環世界で多数の対象物を識別することが出来ると言ってよいだろう。実行できる行為が少なく作用像も少なければ、その環世界は少ない対象物からなる。このためその環世界はたしかに貧しいものではあるが、それだけ確実なものになっている
 
96 ある動物の行為の数が増すとともに、その環世界に存在する対象物の数も増える。その数は体験を積み重ねることのできる動物では、各個体が生きていく過程で増加していく。なぜなら、それぞれの新しい体験は、新たな印象に対する新たな態度を引き起こすからだ。その際、新しい作用トーンをもった新しい知覚像が作られるのである。
 これはとりわけイヌで観察することができる。イヌはある種の人間の日用品の扱いかたをおぼえるが、その場合イヌは人間の日用品をイヌの日用品にしているからである。
 とはいえ、イヌの対象物の数はわれわれの対象物の数より格段に少ない。
 
98 テーブルはハエにとって歩行のトーンを持っているので、彼らはその上を歩き回る。
ハエの足には味覚器官があり、それが刺激されると口吻を突き出す行動が触発されるので、食物はハエを引き留めるが、ほかのあらゆるものは彼らを歩き回らせる
ハエの環境からハエの環世界を取り出すのは意図も容易である。
 
※・対象物への行為によって作り上げる作用像と感覚器官によって与えられる知覚像は、緊密に融合され、対象物は新しい性質を付与され、我々はその対象物の意味を知ることができる。その意味を、作用のトーンと呼ぶ。
 
 
 
八章 なじみの道
100 きまった距離を何度も通る場合、歩くときに与えられた運動量が方向記号として記憶に残るので、われわれは視覚標識にまったく注意を払っていなくても、意識せずとも同じ場所で止まる。このため、なじみの道では方向記号がたいへん有効な働きをするのである。動物の環世界でなじみの道の問題がどのような影響をおよぼしているかを突き止めることは、たいへん興味深い。いろいろな動物の環世界でなじみの道が構築される際、嗅覚標識触覚標識は決定的な役割を担っているに違いない。
 
 
 
九章 家と故郷(ハイマート)
109 モグラはよく発達した嗅覚器官のおかげで、トンネルの中でうまく食物を見つけるだけでなく、トンネルの外の硬い土の中の食物を5~6cmの距離からかぎつけることが証明されている。
 
111 おそらく、非常に多くの動物が自分の狩場を同種の仲間から防衛し、それによってそこを故郷にしていることがわかるだろう。任意の地域を選んでそこに故郷領域を描きいれてみると、それはそれぞれの種について、攻撃と防御によって境界線がきまる一種の政治地図のようなものになる。しかも多くの場合、空いた土地は一つもなく、いたるところで故郷と故郷がぶつかり合っていることが明らかになるであろう。
 
 猛禽の巣と猟場の間には中立地帯があり、彼らはそこではふつう一切獲物を襲わないという、たいへん注目すべき観察がある。
この環世界の区分は、猛禽が自分のひなを襲うのを防ぐために自然によって与えられたものだと鳥類学者は考えており、おそらくこの推測は正しいだろう。
 
 
 
一〇章 仲間
121 ローレンツはこう書いている。「母親という仲間の個々の場合について、母親記号のどれが生得的なものでどれが個々に獲得されるものであるかを明らかにしなくてはなるまい。とんでもないことに、獲得された母親の記号は、生後数日いや数時間(ハイイロガンの例)後にはしっかり刻み込まれている。このため、この段階で子供を母親から引き離した場合には、われわれはその記号が生得的なものだと確信してしまうにちがいない。」
 
 愛の仲間を選ぶ際にも同じことが起こる。この場合も、最初の取り違えが起こると、代理仲間として獲得された記号がしっかり刻み込まれてしまうので、もはや取り違えようのない代理仲間の知覚像が生じるのである。その結果、同種の動物すら愛の仲間として受け入れられないことになる。
 
122 目の前にぶら下げられた水泳パンツがコクマルガラスにとって攻撃できる敵になること、つまり「敵」という作用トーンをもつこと、を考えると、ここでは代理的というものが問題なのだといえよう。コクマルガラスの環世界にはたくさんの敵がいるので、代理敵が現れても、それが一度だけならなおのこと、本物の敵の知覚像には何の影響も与えない。だが、仲間の場合は違う。仲間と言うものは環世界に一度しか存在しない。それで、ある代理仲間に作用トーンが付与されてしまうと、それよりのちに本物の仲間が現れることはもはや不可能になるに違いない。「チョック」の環世界ではお手伝いさんの知覚像が独占的な「愛のトーン」を持ってしまったので、その後は他のあらゆる知覚像は働かなくなってしまったのである。
 コクマルガラスの環世界では、あらゆる生物すなわち動く物体がコクマルガラスコクマルガラスでないものとに分かれており、しかも各個体の経験次第でその境界が異なっている(原始人でも似たことがないではない)と想像すれば、今述べたような、ひじょうに奇妙な誤りが起こることも理解できよう。そのとき相手がコクマルガラスであるかそうでないかということについて、決定的役割を果たすのは知覚像だけでなく、自分の立場での作用像もまた重要なのである。どの知覚像がそのときの仲間のトーンをもっているのかをきめるのは、この作用像だけなのである
 
 
 
一一章 探索像と探索トーン
126 ある友人の家にしばらく滞在したときのことである。
毎日昼食のときに私の席の前には私のための陶器の水差しが置かれていた。
ある日、召使いがこの陶器の壺を壊してしまったため、代わりにガラスのデカンタが置かれていた。
食事のとき私は水差しを探したが、ガラスのデカンタは目に入らなかった。
友人に、水ならいつものところにあるじゃないかと指摘されてはじめて、皿やナイフの上に散らばっていたさまざまな光が突然大気の中を突進して一つになり、ガラスのデカンタを築きあげたのだった。
探索像(Suchbild)は知覚像を破壊するのである。
 
128 ヒキガエルについて次のような報告がある。長い間空腹だったあとミミズを食べたヒキガエルは、ある程度形の似ているマッチ棒に即座に跳びかかる。このことから今しがた食べたばかりのミミズが探索像として役立っていると考えてよかろう。
 これとは反対に、このヒキガエルが最初蜘蛛で空腹を満たすと、別の探索像をもつことになる。今度は、コケのかけらやアリに食いつこうとするからである。もちろん、これはヒキガエルにとってたいへん不都合なことである。
 
 ところで、われわれはいつも、ただ一つの知覚像をもったなんらかの対象物を探しているのではけっしてなく、ある特定の作用像に対応する対象物を探すことのほうがはるかに多い。たいていの場合、われわれはきまった椅子を探すのではなく、なにか座るためのもの、つまり、特定の行為トーンと結びつきうるものを探す。ここで論じうるのは探索像ではなく探索トーン(Suchton)である。
 
動物の環世界において探索トーンの果たしている役割がいかに大きいかは、前述のヤドカリとイソギンチャクの例を見ればよくわかる。あのときヤドカリの異なる気分と呼んだものは、ここではより厳密に、異なる探索トーンと呼ぶことができる。ヤドカリは探索トーンをもって同じ知覚像に歩みより、ついでそれに対してときには保護のトーンを、ときには住居のトーンを、またときには食物のトーンを与えた。
 空腹なヒキガエルは最初はただおおまかな摂食のトーンをもって食物探しに歩きまわる。ミミズかクモを食べたのちにはじめて、そこに一定の探索像が加わるのである。
 
 
 
一二章 魔術的環世界
133 われわれ人間が動物たちのまわりに広がっていると思っている環境と、動物自身がつくりあげ彼らの知覚物で埋めつくされた環世界との間に、あらゆる点で根本的な対立があることは明らかである。これまでのところでは、原則として環世界とは外部刺激によって呼び起こされた知覚記号の産物だとされていた。しかし、探索像なるものや、なじみの道をたどること、そして故郷(ハイマート)を限定するということは、すでにこの原則の例外であった。それらはいかなる外的刺激にも期することのできない、自由な主観的産物なのだ
これらの主観的産物は、主体の個人的体験が繰り返されるにつれえて形成されていくものである。
 さらに進むと、われわれは、たいへん強力だが主体にしか見えない現象が現われるような環世界に足を踏み入れることになる。それらの現象はいかなる経験とも関係がないか、あるいはせいぜい一度の体験にしか結びついていない。このような環世界を魔術的環世界と呼ぼう。
 
140 なじみの道と生得的道
 両者の唯一の違いは、なじみの道の場合はそれ以前の体験によって確立された一連の知覚記号作用記号が交代に現れてくるのに対し、生得的な道の場合は同じ一連の記号が魔術的現象としていきなり与えられる点である。
 他者の環世界の中のなじみの道は、生得的な道と同様、部外者である観察者にはまったく見えない。自分以外の主体にとってなじみに道がその環世界に現れるのだとすれば(このことは疑いない)、生得的な道が出現することを否定する理由はない。なぜなら、この現象も同じ要素、すなわち環世界から抽出された知覚記号と作用記号、によって成り立っているのだからである。これらの記号は前者の場合には感覚記号によってよびおこされたものであり、後者の場合には生得的な鳴き声のように次つぎ想起されるものなのであろう。
 
142 環世界の研究に深くかかわればかかわるほど、われわれには客観的現実性があるとはとうてい思えないのに何らかの効力をもついろいろな要素が、環世界の中には現れるのだということを、ますます納得せざるをえなくなっていく。まず場所のモザイクである。
これは主体の目が環世界の事物に刻印するものであるから、客観的な環境においては、環世界空間を支える方向平面と同じく、ないに等しい。同様に、客観的な環境には、主体にとってのなじみの道に相当するような要素を見つけることはできなかった。また故郷と猟場の分割ということは、客観的な環境にはない。環世界では重要な要素である探索像は、環境においてはその形跡すらない。そして最後にわれわれは、客観性とは無縁なのに設計どおりに環世界に入りこんでくる生得的な道という魔術的な現象にぶつかった。
 したがって、環世界には純粋に主観的な現実がある。しかし環境の客観的現実がそのままの形で環世界に登場することはけっしてない。それはかならず知覚標識か知覚像に変えられ、刺激の中には作用トーンに関するものが何一つ存在しないのにある作用卜ーンを与えられる。それによってはじめて客観的現実は現実の対象物になるのである。
 そして最後に、単純な機能環が教えてくれるように、知覚標識も作用標識も主体の表出であり、機能環が含む客体の諸特性は単にそれらの標識の担い手にすぎないと見なすことができる。
 こういうわけで、いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実にほかならない、という結論になる。
 主観的現実の存在を否定する者は、自分自身の環世界の基盤を見抜いていないのである。
 
 
※・人間が観察した結果、主体だけにしか見えないような現象の起こる環世界がある。これは、外的な刺激や体験とも関連付けられない。こうした環世界を魔術的環世界と呼んでいる。(これらは、遺伝的にプログラムされたものを言っていると思われる)
 
 
 
一三章 同じ主体が異なる環世界で客体となる場合
145 環世界の研究にとって個々の問題の追及はたいへん重要であるが、環世界相互の関係を展望するにはそれではあまりにも不十分である
 ある限られた領域で次のような問題を追求するならば、そのつど次のような展望ができるだろう。つまり、同じ一つの主体が、それが重要な役割を演じている異なった環世界において客体としてどのように振舞っているか、という問題である。
 
150 これらさまざまな作用トーンに対応して、カシワの木の多数の住人たちの知覚像もさまざまな形をとっている。それぞれの環世界はカシワの木から特定の部分を、すなわちその環世界の機能環知覚標識の担い手と作用標識の担い手の両方を形作るのに適した特性をもつ部分を、切りとっているのである。アリの環世界では、山あり谷ありの猟場になるひび割れた樹皮の背後に、カシワのほかの部分はすっかり姿を消してしまっている。
 カミキリムシはこじ開けた樹皮の下で餌をあさり、ここに卵を産む。その幼虫たちは樹皮の下にトンネルを掘り、そこで外界の危険から守られて、餌の中を食べ進む。
とはいえ彼らは、完全に守られているわけではない。なぜなら、強力なくちばしで樹皮を穿つキツツキが追いかけてくるばかりでなく、(他の動物の環世界においては)とても堅いカシワの材に、細い産卵管をまるでバターに刺すように突き刺して自分の卵を産みこむヒメバチも、彼らを亡きものにする。その卵からはヒメバチの幼虫が孵(かえ)り、自分の犠牲者の肉を貪るのだ。
 
 その居住者たちの何百という多種多様な環世界のすべてにおいて、カシワの木は客体として、ときにはこの部分でときにはあの部分で、きわめて変化に富んだ役割を果たしている。同じ部分があるときには大きく、またあるときには小さい。その材はあるときは堅く、あるときはやわらかい。あるときには保護に役立ち、あるときには攻撃に役立つのである
 カシワの木が客体として示す相矛盾する特性を全部まとめようとするなら、そこからは混沌しか生まれてこないであろう。とはいえ、それらの特性はすべて、環世界というものを担い守っている一つの主体の部分部分にすぎない。これらの環世界の主体たちは、いずれもそれらの特性を認識することはないし、そもそも認識しえないのである。
 
 
 
一四章 結び
158 このような例[天文学者や深海研究者や化学者や原子物理学者や感覚生理学者や音波研究者や音楽研究者の環世界がそれぞれに異なること]はいくらでもある。行動主義心理学者の見る自然という環世界においては肉体が精神を生み、心理学者の世界では精神が肉体をつくる。
 自然研究者のさまざまな環世界で自然が客体として果たしている役割は、きわめて矛盾に満ちている。それらの客観的な特性をまとめてみようとしたら、生まれるのは混沌ばかりだろう。とはいえこの多様な環世界はすべて、あらゆる環世界に対して永遠に閉ざされたままのある一つのものによって育まれ、支えられている。そのあるものによって生みだされたその世界のすべての背後に、永遠に認識されないままに隠されているのは、自然という主体なのである
 
 
訳者あとがき 日高敏隆
161 昆虫が好きだったぼくは思わず手にとって開いてみた。戦時中のうすい粗末な紙だったが、何だかおもしろそうな絵がついている。ついひきこまれてしまってページを繰っていった。そのときぼくは中学二年生。説明はとてもむずかしかったが、とにかく動物には世界がどう見えているのかということではなくて、彼らが世界をどう見ているかを述べていることはわかった
 本の中で述べられていた「環境世界」というものが実に新鮮なものに感じられて、その後ずっとぼくの心に残ることになった。
 
163 客観的に記述されうる環境(英語のnvironment、ドイツ語でこれに相当する語はUmgebung)というものはあるかもしれないが、その中にいるそれぞれの主体にとってみれば、そこに「現実に」存在しているのは、その主体が主観的につくりあげた世界なのであり、客観的な「環境」ではないのである。
 それぞれの主体が環境の中の諸物に意味を与えて構築している世界のことを、ユクスキュルはUmwelt(ウムヴェルト)と呼んだ。それは客観的な「環境(Umgebung)」とはまったく異なるものである
 実はドイツ語では昔から、客観的な「環境」のことをUmweltとといっている。いわゆる環境問題は、Umweltproblemである。その一方、英語にはユクスキュルのいうUmweltに相当する語はない。
 
 
 
※・トゥーレ・フォン・ユクスキュルが、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環境世界理論を解説している。その締めの文章で、人間同士の理解について述べている。「他の人間を理解するためにまずわれわれは、自分の主体的世界がすべての人間にとっても同じであるという世界や意見を捨てなければならない。他の生物を理解しようとする努力の中から、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、動物の環境世界の研究の科学的方法を発展させた。たしかに、それはすぐに人間相互の理解の問題に応用するには不十分である。しかし、そこにその手がかりがないかどうか――たぶん重要な手がかりがあると思うのだが――調べてみなければなるまいと