読んだ。 #カント #純粋理性批判 理性が孕む危うさ #西研 #100分de名著

読んだ。 #カント #純粋理性批判 理性が孕む危うさ #西研 #100分de名著
 
18世紀の哲学者イマヌエル・カント(1724 - 1804)
 
・批判哲学
 
純粋理性批判→人間がもつ理性の限界を確定し、「人間は何を知りうるか」を解き明かしたもの。
哲学史上、最も難解な名著の一つといわれるこの著作。
 
純粋理性批判」が書かれた18世紀のヨーロッパでは、近代科学の最初の波が勃興。科学を使えば世界の全てを説明することが可能だとする啓蒙の時代を迎えていた。そんな中で、西欧人たちは二つの大きな難問に突き当たった。
 
①科学は本当に客観的な根拠をもっているのか
②科学で世界の全てが説明できるとすると、人間の価値や自由、道徳などの居場所はあるのか
 
理性の能力を精密に分析。
人間が知りうるものの範囲をどう確定するか
人間が知りえないものについてどんな態度をもつべきか
といった根本的な問題を明らかにすることで、難問に回答を与えようとしたのが「純粋理性批判」。
 
認識が対象に従うのではなく対象が認識に従う
理性は自らの力を過信して誤謬に陥る
従来の哲学の常識を覆す革命的な視点が盛り込まれている。
「人間が考えることの意味」をあらためて深く見つめなおすヒントを与えてくれる。
 
4 カント以後、神の存在証明を試みる哲学者がほとんどいなくなった
 
5 「そもそも人間は何を、どのように認識しているのか。そのとき理性はどのように働くのか」→認識論
人間の認識の基本構造を明らかにする事によって、きちんとした根拠によって共有しうる知の範囲はどこまでで、ここからはそれを逸脱するので共有できる答えは出ない、ということを示そうとした
 
 「合理的な答えの出る領域と、そういう答えがもともと出ない領域とがある」
 
6 純粋理性批判の課題
①科学が合理的な根拠をもって共有できる根拠
②なぜ人間の理性は究極真理を求めて底なし沼にはまってしまうのか
③よく生きるとはどういうことか(道徳の根拠)
 
 
 
 
第1回 近代哲学の二大難問
十年の沈黙を破って出版された大著
カントが生きた近代ヨーロッパ
 
 近代科学が勃興し始めた18世紀ヨーロッパ。近代人たちが直面した二つの大きな難問
①「科学は本当に客観的な根拠をもっているのか」
②「科学で世界の全てが説明できるとすると人間の価値や道徳などの居場所はあるのか」
 
 その根源的な課題に向き合うために、「認識が対象に従うのではなく対象が認識に従う」という常識を覆す視点を打ち出す。
 
 認識主体によって構成される世界を「現象界」と呼び、私達に経験できるのはこの「現象界」だけだとする。
その上で、人間が決して経験できない世界そのものを「物自体」(叡智界)と呼んで認識能力が扱える範囲外に位置付ける
 これまでの哲学の誤りは全てこの「現象界」と「物自体」の混同から生じるとして、難問の解決を試みる。
 
 
16 哲学とは「合理的な共通理解をつくるための対話の営み
 
近代哲学が直面した二大難問
18 もし人間に自由がないとすれば、生き方や人生についてあれこれ考えたり、悩んだりするのは無駄になりそうです。すべては「決まって」いるのですから・・・・・・。こうして、私たちの心が物の世界と同じ法則性のなかにあるとしたら、人間に自由意志は存在しないことになります。
 そこで、心の世界は物の世界から隔絶して存在すると考えると、心の自由を確保することができます。この立場は物心二元論(物と心は全く別物で隔絶している)と呼ばれますが、「近代哲学の父」と称されるルネ・デカルトが代表的です。しかし、そう考えると、心の世界と物の世界はまったく隔絶してしまうので、互いに影響を与える(相互作用する)こともできなくなる。すると、私たちの心はどうやって肉体(一種の「物」)に働きかけて自分の手足を操作できるのか、という「謎」が生まれてしまう。
 
主観と客観は一致できるか
21 人間の知の客観性をどう理解したらよいか
 
 デカルトが持ち出したのは、「神の存在」。人間は主観の外に出ることはできないけれど、善意ある神は、客観的に認識する能力を人間に授けてくれており、人間が熟考して明らかなこと(主観)は客観とほぼ一致するというのです。今と時代が違うとはいえ、この議論はかなり苦しいですね。
 
 科学にそれなりの客観性があり信頼性がある、ということを疑う人はいない。では、その客観性なり信頼性なりは、どこにその根拠をもっているのか。そもそも知の客観性というものをどう理解すればいいのか。また、道徳や美のような領域についても、それなりの客観的な(共有できる)知をつくりだすことはできるのか。この問題についても、現代にいたるまで哲学の世界で完全に共有されて「定説」になった答えはない。
 私自身は、カントの答えはかなりいい線をいっていて、これを受け継いで発展させたエトムント・フッサールの答えは決定的なものだと考える
 
カントを震撼させたヒュームの警告
22 イギリス経験論(人間のすべての認識は経験によって形成されると考え、人間は自らの主観の外には出られない)-ロック、ヒューム
  大陸合理論(人間は経験に寄らずとも、知性によって理詰めで物事を突き詰めることで、合理的に客観世界の秩序を認識できる)-デカルトスピノザライプニッツ
 
24 ヒューム
・神も科学も思い込みにすぎない
・イギリス経験論=人間の中に浮かぶ知識や観念は、すべて経験から来たものにすぎない
     私という存在は様々な知覚の集まりにすぎない
・火は熱い
     火→熱いという因果関係が本当にあるのか
     妖精が熱さを与えているだけor未知の物理現象X
・ある状態Aになったとき、ある状態Bが起きる、という経験を繰り返しているうちにそういう法則が必ず起きると思い込んだだけの可能性がある
 
カントは何を「批判」したのか
27 ここでいう「批判」は、必ずしも否定や非難のニュアンスを含んでいるわけではありません。理性の能力とその限界を厳しく吟味することを指す言葉です。この本でカントは、人間が備える「純粋理性」のできること・できないことを吟味して明確にしようとしたわけです。
 詳しくは追って説明しますが、カントの言う「理性」とは、広義では、感覚を含む人間の認識能力一般を指します狭義では。特に物事を推理する能力を指します
 この狭義の理性は、さまざまな認識や判断をもとにその原因や前提条件を問うていきます。たとえば、引っ越してきたとき、自分の家の東のほうに歩いていくと、どんな風景が広がっているんだろう、住宅地が続くのかな、それとも畑が広がっているんだろうか、と推理する。この場合には、いくつかの情報に従ってそれなりに妥当な推理が出来そうですし、実際に行って確かめることもできるでしょう。そのように理性を使っている限り、問題はない。
 しかし理性には、どんどん推理を進めていく本性があります。地球の外はどうなっている?太陽系の外は?銀河系の外は?と次々に問うていくと、ついには、宇宙空間には果て(限界)があるのか?ということまで考えてしまう。理性は、科学が行っているように合理的な推理も行いますが、どんどん推理を積み重ねて「究極真理」を問うてしまう、そんな本性も持っているのです。
 わたしたちは、「理性」という言葉に合理性や正確さをイメージしますが、カントは、人間の理性はしばしば暴走して「究極真理」を求め、答えの出ない問いにはまり込んでしまう、と考えます。~ここでは『純粋理性批判』という書名には、理性を正しく使用するために理性の能力を吟味する、という狙いが込められていることだけ押さえておいてください。ちなみに「純粋理性」の「純粋」とは、経験から得た知識を含んでいない、という意味です
 
28 主観の共通規格は存在する
①主観が主観の外に出て客観世界そのもの(物自体)に一致することはできない、ということを積極的に認める
②どの主観も一定の共通規格(共通のメガネ)をもっているので、自然認識の基本的な部分(因果律、質量保存の法則など)については共通認識=客観的認識が成り立つ。
 
認識主体によって構成される世界を「現象界」と呼び、私達に経験できるのはこの「現象界」だけだとする。
その上で、人間が決して経験できない世界そのものを「物自体」と呼んで認識能力が扱える範囲外に位置付ける。「叡知界」
 
感性と悟性の働き
カントによる認識の三段階
段階
能力
方法と内容
認識の経験的な部分
認識の純粋な部分
感性
受容性。心が触発されたときに像をうけとる能力。
直観
感覚的な対象によって触発される方法、又はその内容。
感覚を含む認識の素材
感覚が混在しない、直観するための形式。
〈時間・空間〉
悟性
知性。直観した対象を思考し、現象として捉える能力。
概念(経験概念、純粋概念)
心に思い描いた像から対象を認識する方法、又はその内容。
思考の素材
対象を思考するための形式。
〈カテゴリー〉量、質、関係、様態
理性
概念と概念を関連づけて推論し、仮象として捉える能力。
 
 
理念・憶測?
概念どうしを関連づけて推論し、世界を認識する方法、又はその内容。経験を越えて世界を探ることもでき、二律背反(アンチノミー)に陥ってしまうこともある。
概念や直観など、推論の素材
現象を関連づけて統合するための形式。
〈理論・法則〉
 
①.認識の第一段階=「感性
感覚器官を通じて受け取った多様な感覚を、「時間」と「空間」という二つの枠組みの中で整理している。
「時間」と「空間」という感性の形式を抜きにして、事物をとらえることはできない。
 
ここで重要なのは、空間と時間は現実世界(物自体)の側にあるのではなく、私たちの感性が空間と時間という枠組みを備えているということ。
カント認識論によれば、私たちは客観世界を直接捉えることはできない。
あくまでも、私たちが備える感性の働きによって、多様な感覚を空間・時間という枠組みの中で位置づける。
こうして位置づけられた感覚を、カントは「直観」と呼ぶ。
 
②.認識の第二段階=「悟性」
この茫漠たる感覚の束を整理・統合して「判断」をもたらすのが悟性の働き。
感性に空間・時間という形式があったように、悟性にも判断のさいのさまざまな形式が備わっている。→〈カテゴリー〉量、質、関係、様態
 
ア・プリオリー先天的、あらかじめ、そもそも
感性や悟性の形式は、私たちにア・プリオリに備わったもの
 
普通は、客観がまずあってそれを主観が写し取る(客観→主観)と考えるが、カントは逆に、主観のア・プリオリな枠組みが現象としての客観をつくりだす(主観→客観)と考える。
 
39 近代哲学が直面した難問の一つに「主客一致の問題」があると述べたが、カントはこの問題を、主観と客観を一致させるのではなく、主観同士を一致させるという形で解決した。
 
 
 
第2回 科学の知は、なぜ共有できるのか
 
多様な感覚的素材を「時間」と「空間」という形式を通して受容する「感性」
「時間」と「空間」は客観世界にあるのではなく、私たちの認識主観にあらかじめ組み込まれている(ア・プリオリ「形式」だとカントは考える。
いわば、私たちは「時間」「空間」というメガネをかけて世界を認識しており、その規格が共通だからこそ科学や数学が客観性をもつというのだ。
しかし、それだけでは認識は成立しない。
もう一つの共通規格である「悟性」が、そうした感覚的素材を量、質、関係、様態といった「カテゴリー」に当てはめて統一することで、初めて万人が共有できる「知」が成り立つという。
第二回は、認識能力の限界を見極めるカントの洞察を通して、「人間が何を知りえて、何を知りえないか」を明らかにし、科学的知識がなぜ共有できるのかを掘り下げて考える。
 
42 ヒュームが言うように、人間が捉えた現実は客観的世界そのものではない、ということをカントも認めています。
カントは、私たち人間は「物自体」を認識できないとして、それを主観が捉えている世界(現象界)と峻別しました。
 
 数学や自然科学の知を、誰もが信頼して共有できる客観的な知として基礎づけたい――『純粋理性批判』はそんな思いから書かれた。
 すべての人間は、主観に共通のメガネ(認識の共通規格)を備えているため、数学や自然科学の基本的な部分については、認識を共有できると主張する。
 
44 経験概念-茶色い、大きい、テーブル。様々な感覚をひとつの共通のものにまとめる働きをする。いろんな茶色を「同じ茶色」としてまとめるのが概念。実質的には「言葉」と読み替えてもよい。ア・ポステリオリ(後天的)。
 ア・ポステリオリな経験概念しか持たないのならば、ヒュームの議論になる。科学の知は万人には共通できないことになる。
 
46 純粋概念-
4種12個のカテゴリー
(悟性の論理的な概念・純粋知性概念)直観に与えられた多様な素材を悟性による判断の論理的な機能に照らして規定される。
この時の機能がカテゴリーである。
①量
単一性(ひとつ)
数多性(いくつか)
全体性(すべて)
「ひとつ」や「すべて」という言葉それ自体は後天的に学習するものにせよ、「これひとつ」「ここにあるものすべて」という概念そのものは、個々人の経験に拠ることなく、誰もが認識できるものだとカントは考えた。
 
②質
実在性(である・がある)
否定性(~でない・~がない)
制限性(~ではないものとしてある)「これは・・・・・・ではないなにかだ」「これは茶碗ではない」「平皿でもない」「コップとも違う」と絞り込んで範囲を定めていく、という思考の型。
 
③関係(二つの事柄の間に何らかの必然的なつながりを見出す思考の型。二つの事柄がたまたまつながっているのではない、ということ)
実体と属性(「食塩」という物質に対して、「白い」「辛い」という性質を結びつけて「塩は白くて辛い」という「判断」をしている。そのとき、食塩にはこれらの性質が必ず所属していると考えるのであって、たまたまとは考えていないはず。このように、ある種の対象に必然的に属する性質を考える思考の型)
原因と結果(因果性と依存性)(「野菜を加熱した」と「野菜が柔らかくなった」、あるいは「たっぷり寝た」と「元気になった」を、原因と結果の関係で認識している。ヒュームはこれを、二つの事柄が常に相伴って生じる(相乗的隣接がある)だけなのに、そこに人間は習慣として必然性を読み込んでいるのだ、と言います。しかしカントは、「ある原因が必ず一定の結果をもたらす」という思考は単なる週間ではないく、人間の悟性にア・プリオリに備わったものであるという。)
相互性(能動的なものと受動的なものの相互作用)二つの事柄が互いに作用しあうということを見て取る思考の型。
 
 
④様態(ある命題についてその確からしさの程度を判定すること)
可能と不可能(ありえる・ありえない)
現実存在と非存在(実際に成り立っている・成り立っていない)
必然性と偶然性(必然的に成り立つ・偶然にすぎない)
 
 
51 「ア・プリオリな総合判断」とは何か
 私たちは日常生活の中で「〇〇は・・・・・だ」という判断を頻繁にしており、「分析判断」「総合判断」に大別することができる。
 ここでいう「分析」とは「取り出す」という意味。
分析判断とは、主語の中に含まれているものを述語として取り出す判断のことを指す。
「富士山は山である」「日本人は人間である」
分析判断は必ず成り立つが、新たな情報が付加されることはない。
 
 総合判断は、主語に新たな情報を付加する
「富士山は標高3776メートルである」「日本人は勤勉である」
これらの判断は、私たちの経験や調査を経て初めて形成されるもの。
 
イギリス経験論の立場では、すべての総合判断は経験に基づいて形成されると主張する。ヒュームがその典型。
しかしカントは、経験に基づくものではない総合判断もあると考えた。
主語に新たな情報を付加しているのに(分析判断ではないのに)、その情報は経験や調査に基づくものではない、そういう種類の判断がある。
カントはこれを「ア・プリオリな総合判断」と呼んだ。
 
52 純粋な悟性の原則
「3+2は5である」のような数学(算術)の判断。
「3に2を加えること」というのが主語ですが、これは「5」を含んでいないので、分析判断には該当しない。→総合判断
だから、新たな情報が付加された総合判断でありながら、計測や調査のような経験を必要としない「ア・プリオリな総合判断」であるというのがカントの言い分。
ヒュームはこれを分析判断だと考えた。つまり「3+2」という主語の中におのずと5は含まれており、だからこそ常に正しい。
「3に2を加える」というのは作業の指示にすぎない。これに従って作業することではじめて5が出てくる。
「富士山は山である」のように、主語に述語がおのずと含まれているケースとは違う。
 しかし、この作業を行うと、いつ・だれが・どこで行ってもつねに同じ結果が出る。
 
 ほかにも、自然科学の基礎(土台)にいくつかのア・プリオリな総合判断があるとカントは考える。
あらゆる変化には必ずその原因がある」という因果律。偶然に何かが起こることはない、ということを含んでいる。
「あらゆる変化」という主語のなかには「必ずその原因がある」という術語は含まれていない。→総合判断
 
55 ア・プリオリな総合判断」の原則(純粋な悟性の原則)
1,直観の公理:外延の原則。直観された対象は、すべて外延量をもつ。
たとえば、1本の直線にはある一点から空間的な広がりをもつ。
 
2,知覚の先取:感覚の対象をなす実在的な対象は、必ず一定の感覚の度合い(強い弱い)をもつ。
たとえば、色や音や光の強度は連続的なグラデーションをなす。
 
3,経験の類推:ひとつの経験的認識が成立するには、個々の知覚が「必然的な関係」として結びついているという表象が伴わなくてはならない。
こうした必然的結合には、以下の種類がある。
第一類推:実体持続の原則
現象はどれほど変化しようとも実体は持続しつづけ、自然に含まれる実体の量そのものは増加も減少もしない。
たとえば、密閉したフラスコの水(液体)を熱して蒸気(気体)に変化させても、全体の重さは変化しない。
ラヴォアジエ「質量保存の法則」を受けたもの。
  第二類推:因果律の原則
あらゆる変化は、原因と結果を結びつける法則にしたがって生じる。
あらゆる変化には、その原因がある。例えば、机から皿が落ちる(原因)ことによって、皿が割れる(結果)という事象が起こる。
  第三類推:相互性の原則
全ての実体は、空間において同時に存在するものとして知覚できる限り、完全な相互作用のうちにある。たとえば、私たちが花瓶」に行けられた花を見るとき、花瓶と花が同時かつ別々に存在し、相互に作用している様を認識する。「万有引力の法則」を受けたもの。
 
4,経験的思考一般の要請様相の原則。対象世界について、ある判断が現実的な存在と言い得るための条件(原則)には以下の種類がある。
    1、可能的:1~3の原則に矛盾しないことは、たとえ知覚できなくても起こりうる(存在する)可能性がある。
一致しないこと、例えば外延量をもたない物体は存在しない。
    2、現実的:実際に感覚的に知覚されることは、現に起こっている(確かにある)。
たとえば、磁石に吸い寄せられる鉄粉の動きを見て磁力の存在を推論するように、直接知覚されなくても、合理的な推論として「確かに存在する」とされる場合がある。 
    3、必然的:ある事態がそうなっていることの必然的な理由が理解されているものは、必然的にそうなっている。
経験の普遍的条件に従って、現実的なものと連関しているものは必然的である(存在する)
 
 これらの原則がどうやって成り立つかを示すことが、数学と科学の基礎付けとなる。
感性に備わるア・プリオリな形式である空間・時間(直観)と、悟性が備えるア・プリオリな概念(カテゴリー)とを結び合わせることによって、カントはこれらの原則を導出していく。つまり、共通規格として設定された二つの層を結びつけることで、どんな人にも共通な「認知のさいに働く原則」を導き出す。
 
56 「数」の概念の成り立ち
 まず、量のカテゴリーだけでは数の概念は生じない、とカントは考える。量という思考のカテゴリーに、空間と時間の直観が結びつくことによって、数が生まれる。
 ホワイトボードのような平面を想像する。そこに直径3cmメートルくらいの黒丸を描く。これを単一性のカテゴリーに基づいて「黒丸が1つある」と判断する。
次に、もう1つ同じ大きさの黒丸を描く。先ほどの黒丸と同時に眺めて「黒丸が2つある」。
数多性(いくつか)のカテゴリー。
こうして、黒丸を継続的に加えていくと、1,2,3・・・・・・となって、数の概念が出てくることになる。カントの言い方では「同種のものの継続的な総合」によって数の概念は生まれる。
 こうして数の概念が生まれるためには、まず「空間」が必要であり、かつ、継続的に加えていくので、その都度の経験を「時間」的にまとめていく(総合する)ことが必要となる。
 文化の違いにかかわらず、「いつ・だれが・どこで」行ってもつねに同じ結果が出る。算術(計算)は「ア・プリオリな総合命題」として成り立つ。
 
58 すべての直観は外延量である=直観の公理
 空間・時間の中で直観されるあらゆる対象は、すべて大きさをもつ
外延量=長さ、面積、体積のような空間における大きさのこと=足したり分割したりできる。単位を決めればその数(いくつ分)でもって測ることができる。このように、足したり計測したりできる大きさのことを外延量という。
 
 人間が直観したものは空間的広がりをもっており、それは測定可能で、数と単位で表すことができる。これが「外延量の原則」。そういう能力が人間にア・プリオリに備わっているからこそ、数学の世界が成り立つとカントは考えた。
 数学の世界は何処かに客観的にあるのではなく、人間の認知能力である感性(直観)と悟性(カテゴリー)とが結びつくことによって可能になる
 
61 因果律の原則-「あらゆる変化は、原因と結果を結びつける法則にしたがって生じる」
あらゆる変化には、その原因がある。例えば、机から皿が落ちる(原因)ことによって、皿が割れる(結果)という事象が起こる。
 原因・結果のカテゴリーと時間の結びつきで生まれる因果律の原則は、主観の中にあるが、人間が経験する現象をあらかじめ形づくっている。その意味では客観的なものと言える。カントはこうして、人の経験するすべての現象は因果的な法則に従って生起する、とみなした。
 
66 純粋統覚(根源的統覚)
 感性と悟性を通じて与えられた様々な認識の素材をまとめ上げる「私は考える」という自己意識のこと。「根源的統覚」とも呼ばれる。
カントに先行するライプニッツは、知覚に伴って知覚の働き自体に気づく意識のあり方を「統覚」と呼んだ。
ライプニッツの統覚が経験的な働きであるのに対して、『純粋理性批判』では、感性や悟性の形式と同様、経験を可能にするア・プリオリな働きとして統覚を捉えている。
 
 認識したことや心に思い描いた事柄すべてを、「私が」したこととしてまとめている、ということ。
 たとえば、「友人と土曜日に会う約束をした」「土曜日に仕事がある」「最近ずっと体調がすぐれない」といったことが「私は」という主語を伴なわないばらばらな認識だったとしたら、約束をすっぽかして信用を失ってしまうかもしれない。~
 私たちが人生を振り返ることができるのも、純粋統覚によって、さまざまな体験を「私のもの」として時系列にまとめているから。
 そして、純粋統覚は、知覚や経験を「まとめる」力ですから、認識する働きの核であるといっても過言ではない。私たちは、花びらや茎といったパーツの印象を「まとめる」ことで、対象を花と認識している。
 また、二つの事象を「まとめる」ことで因果を見いだし、「〇〇によって・・・・・・が起こった」と判断している。ものを数えるという行為も、単位を「まとめる」ことに他ならない。~
 この統覚の働きがあるからこそ、「恒常的な自分がある」という自己の意識が生まれてくる。多様な認識をなしながらも、「同じ私がある」という意識を私たちは保っている。こうして、統覚の働きは、対象認識と自己認識の両方につながっていることが分かる
 
 
68 超越論的
 カントは、経験を可能にする条件を吟味することを「超越論的」と呼び、経験可能な領域の外部に超え出ていることを意味する「超越的」と区別した。
たとえば、神を認識できるかどうかは、超越的な認識の問題であって、超越論的ではない。
経験を可能にする感性や悟性、統覚の働きを吟味することが、カントの言う超越論的な哲学の探求である。
 
 心理学者のジャン・ピアジェ。「発達」を考慮に入れると、量や因果性のカテゴリーは、ア・プリオリなものではなく、次第に形成されていくものである、と考えるほうが自然。
 
70 カントには、どうしても認識を二層構造で考えなければならない理由があった
究極真理を語ろうとする従来の哲学を批判し、解決の道筋をつけるため
 空間・時間の枠組みの中で与えられる直観と結びついた認識は、正しい(客観的)認識でありえます。
間違うこともあるので「ありえる」としかいえませんが、実験や観察でもって検証することで、より正しい認識をつくっていくことができる。
これに対し、感性による直観と結びつかない思考、つまり概念のみを頼みとする思考は、客観性という立地をもちえない。
 空間と時間という枠組みでもって直観できない対象とは?→たとえば、神の存在や魂の不死、宇宙空間の限界など
これらを旧来の哲学は語ってきたが、これは「直観なき思考」の暴走であって、答えの出ない底なし沼、合理的に共有されえない独断論に陥ってしまう――カントはそのように指摘したかった。
 なので、直観と概念を完全に切り離したことはかなりの無理がある、と思うが、そこに「思考の暴走を説明するため」という正当な動機があったことも受け止める必要がある
 
 
 
第3回 宇宙は無限か、有限か
理性が本来の限界を超えて推論を続けると必ず陥ってしまう誤謬。
中でも「世界全体についての認識」を例にそうした誤謬の検証を行うカント。
例えば「宇宙は無限か、有限か」。
宇宙に時間的な始まりがあるとすると、その前には時間が存在しないことになり、いかなる出来事も生じず宇宙は誕生しないことになる。
逆に宇宙に時間的な始まりがないとすると、現在までに無限の時間が経過したことになるが、無限の時間とは経過し終えないもののはずだから現在という時間は決して訪れないことなる。
このように、対立するどちらの論も成り立たない矛盾アンチノミー(二律背反)と呼び、この検証を通じてカントは理性の限界を鮮やかに浮かび上がらせる。
第三回は、理性が自ら陥ってしまう誤謬の解明を通して理性や科学的思考への過信に警告を鳴らす。
 
72
①究極真理の問いは、なぜ答えが出ないのか?
②なぜ人間は、答えの出ないといの底なし沼にはまるのか?
段階
能力
方法と内容
認識の経験的な部分
認識の純粋な部分
感性
受容性。心が触発されたときに像をうけとる能力。
直観
感覚的な対象によって触発される方法、又はその内容。
感覚を含む認識の素材
 
感覚が混在しない、直観するための形式。
〈時間・空間〉
悟性
知性。直観した対象を思考し、現象として捉える能力。
概念(判断
心に思い描いた像から対象を認識する方法、又はその内容。
思考の素材
対象を思考するための形式。
〈カテゴリー〉
理性
概念と概念を関連づけて推論し、仮象として捉える能力。
(理論理性、実践理性)
理念・憶測?
概念どうしを関連づけて推論し、世界を認識する方法、又はその内容。経験を越えて世界を探ることもでき、二律背反(アンチノミー)に陥ってしまうこともある。
概念や直観など、推論の素材
現象を関連づけて統合するための形式。
〈理論・法則〉
 
 たとえば、鉄粉に磁石を近づけたとする。
そこで起きた変化を「磁石が鉄粉を引き寄せた」と判断するのが悟性。「原因と結果」のカテゴリー、ひいては「因果律の原則」にもとづいてそう判断する。
さらに一歩進んで、私たちは「肉眼では捉えられないが、個々には何らかの力が働いているに違いない」と考え、「磁力」という一般的な原理を想定する。こうした「推論」をするのが理性の働き
 悟性と理性は「考える」という点では同じ。しかし、悟性が直観と結びついて働くのに対し、理性は必ずしも直観に縛られない。磁力の例は直観を説明するうえで合理的な推論と言えるが、理性は必ずしも合理的な推論を導くとは限らない。
 たとえば理性は、原因・結果のカテゴリーを使ってどんどん推論を進めていくかもしれない。「磁力にもそれを生み出す原因があるに違いない。それは何だろうか?〇〇に違いない! !だったら○○を生み出す原因は何だろうか?原因の原因の、そのまた原因は?」となり、ついに「世界の一切を生み出す究極原因は何か」という問いにたどり着く。
 理性は推論に推論を重ねた挙句、現象界から逸脱し、究極の真理にまで行きつこうとする本性をもっている、とカントは述べる。 答えの出ないことを求めて「暴走」しかねないのが理性。
 人間は、主観の外にある「物自体」を直接には認識できない。人間が認識しているのは、それぞれの主観(心)に映った世界。「現象界」。この現象界を形成しているのが、感性と悟性。感性と悟性には、すべての人に共通の認識規格(メガネ)がア・プリオリに備わっているので、他の人と合理的に共有可能な認識をつくることができる。
 
75 特にポイントとなるのは感性の形式である「空間・時間」。
空間・時間の中で経験される物事の次元(現象界)にとどまっている限りは、みんなが「そうだよね」と共有できる答えに至ることができる。
具体的な観察や記録に基づいて合理的な推論をすることができるからです。
しかし暴走した理性は、この共有可能な現象界を飛び出し、際限なく推論を進めて「答えの出ない問」をつくりだしてしまう。
そして、合理的に共有可能な根拠を示すことができない「独断論」になってしまう
 
 カントは「純粋理性」を徹底的に「批判」する(理性の認識能力を吟味する)ことによって、これらの問いじたいを不可能なものとして葬り去ろうとした
 
 
76 カントの認識論によれば、私たちが合理的に認識しうる対象は、人間の感性が「空間」と「時間」の枠組みで捉えらるものだけ。自分の内的な感覚によってとらえられる限りで「心」について認識することはできる。「今は私はお腹が痛い」「あの人の前に出ると胸がドキドキする」ということ(内的感覚によってとらえられた自分)はきちんと認識できるし、それを材料として人間の心についての学問をつくることも可能。
 しかし、具合的な心の働きの根底に究極の大本として「魂」を想定し、それは肉体が滅びても壊れることはない、つまり不死なのだ、と語ることは、時空から超え出たものを認識しようとしている時点で、そもそも間違った推論。
 ここで気をつけていただきたいのですが、カントは「不死なる魂は存在しない」と主張しているのではない。心の働きの大本にあるかもしれない魂は原理的に認識できないから、「ある」とも「ない」ともいえない。そういう意味で、いくら議論しても答えは出ない、というのがカントの結論。
 
 どこかに「ほんとうの私」を求めるのではなく、「どんなことに私は喜びを覚えるか」を自分に問い、そこから生きる方向を見つけていくしか答えはない、と。このことを示唆してくれたのは、カントより一世紀ほどの哲学者フリードリヒ・ニーチェ
 
79 答えの出ない問として、4つのアンチノミー」(二律背反)対立する二つの命題がどちらも証明できてしまい、どちらが正しいのか決着がつかない状態
 
①宇宙は無限か、有限か
 時間的に無限かゆ喧嘩という問題(宇宙に始まりはあるか否か)
 空間的に無限か有限化かいう問題(宇宙には果てがあるか否か)
 
 正命題 (有限説)「世界(宇宙)は時間的始まりをもち、空間的に見ても限界によって囲まれている」
 反命題(無限説)「世界(宇宙)は始まりをもたず、空間におけるいかなる限界も持たない。時間的にも空間的にも無限である」
 
・時間―宇宙に「始まりがある」とすると、その始まり以前はどうなっていたのかという疑問が生じる。そこには空間も時間もなかったはずだが、なにもないところに何かが生じるのはおかしい
 宇宙はビッグバンとともに始まった、と言われる。しかし、ビッグバンが起きる前はどういう状態だったのか。「いや、ビッグバンによって空間と時間がはじまったのであって、それ以前の時間などは存在しないのだ」といわれるかもしれない。しかし、時間のないところに時間が突然始まったとすれば、ビッグバンを可能にした何かがあったはずだと考える。そうすると、有限説が主張する始まりは、決して、すべてがはじまるという意味での真の始まりとは呼べない。こうして、有限説は否定されてしまう。
 宇宙に「始まりがない」とすると、現在までに無限の時間が過ぎ去ったことになる。しかし、「無限」が「過ぎ去って」しまう、ということは矛盾である。無限に現在という限界点があるのはおかしい
 言い方を変えると、スタート地点のない時間の流れをどうやって現在までに積み上げてきたのか、それは不可能ではないか、という議論。
 レンガ積みをイメージする。起点となる一個のレンガが据えられると、その上にどんどん積み上げていくことができる。しかし、最初の一個を積めないような場所(例えば底なし沼などに)、レンガを積み上げることはできない。同様に、はじまりのないところからいくら時を刻んでも現在に至ることは不可能。こうして「始まりがなければ現在が成立しない」といことになり、「始まりはある」と考えなくてはならない。
 空間についても同様に、もし宇宙空間が有限だとすれば、宇宙の果ての向こう側はどうなっているのか、という疑問が生じる。逆に無限だとすると、こんどは「ここ」を指定できなくなてしまう
 このように、有限説も無限説も誤っていて、どちらも「正しい」と言えない。宇宙は有限が無限化という問いは、決して答えの出ない問、アンチノミーだということになる
 
②物質を分解すると、これ以上分解できない究極要素に至れるか否か
③人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか
④世界には、いかなる制約も受けないものが存在するのか否か
 
84 なぜアンチノミーが生まれるのか
 「世界全体」は、もののような客観的な対象ではない、だから答えが決まらない
 空間と時間の流れ全体を見渡すような視点をもつことはできない。あくまでも、さまざまな証拠にもとづいて時間を遡ったり、既知の空間からさらに遠い先を推理したりする作業ができるだけ。
 空間・時間の中に位置づけられる対象については、答え(共通理解)がつくれる。しかし世界全体はそのような対象ではなく、限りなく時間を遡り、遠くを想像することによって、究極の全体性として思い描かれたもの。
 世界全体とは「理念」(=思い描かれた完全性)である。だから決して認識の対象として与えられることはない。そうではなく、決して到達されえない永遠の目標として、認識に課せられたものとしてあるのだ
決して実現されないが永遠の目標として課せられているものという意味で、世界全体のことを「統制的理念」(認識を導く理念)とも呼んでいる
 
86 理性が持つ二つの「関心」
 「完全性」を求めること。理性による推論は、世界全体を完結した完全なものとしてつかもうとする。なぜか。世界の全体がつかめると、そこに「自分」や「現在」を位置づけることができて、安心できるから
 ②限りなく問い続けることで真理に近づこうとする、という探求心
 この問いつづける関心からすれば、有限説は探求をストップした不完全なものにすぎない。そうみなすところから「無限説」が生まれてくることになる。
 つまり、有限説と無限説の違いは、理性の持つ関心の二側面、「全体を知って安心したい」と「もっともっと問い続けたい」という二つに由来している。
 
 
87 ③人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか
 正命題 (自由はある)「自然の諸法則にしたがう原因性は、世界の諸現象がそこからことごとく導出されうる唯一の原因性ではない。さらに自由による原因性がそれらの諸現象を説明するために想定される必要がある」→(この系列はすべて自然の法則によって決定されているのではなく、自由意志によってこの系列を新たに始めることができる)
 反命題(自由はない)「いかなる自由もなく、世界におけるすべてのものはもっぱら自然の諸法則にしたがって生起する」
 
 系列の始まりとしていったん「自由の原因性」を認めるならば、人間にも自由が認められていいはずだ、と言います。こうして論点は神の存在から、人間の自由意志の存在につながることになる。
 
第三のアンチノミーでは正・反双方の主張を認めている。第一、第二アンチノミーでは正・反どちらも成り立たないとしていたのに対し、第三アンチノミーでは観点を変えればそれぞれに成り立つ理由がある、という。
 「人間に自由はある」と「自由などない」の二つが共に成り立つ、とはどういうことか?
 
 
92 ④世界には、いかなる制約も受けないものが存在するのか否か
 物事の偶然性・必然性(様相のカテゴリーにもとづくもの)
 何かの事柄が起こったとする。ある山の噴火。そのさい、この噴火はいくつかの原因によって条件づけられている。条件が1つ変わったら噴火しなかったかもしれない。その意味で、噴火は偶然的なものであって、必然的に起こるとは言えない。同じように、身のまわりの物事は基本的に条件づけられたもの=偶然的なものと言える。
 そこで、あらゆる事柄についてその成立条件をたどっていくと、最終的には、何ものにも条件づけられない、必然的に存在するもの(神)があるはずだ、と考える立場が出てくる。これは、第三アンチノミーの第一原因とほぼ同じ推論(また、別の考え方も出てくる。条件の系列の最後ではなく、系列の「全体」こそが「端的に必然的な存在者」なのだ、というもの)
 このように、「端的に必然的な存在者」を認める立場(正命題)に対し、そのようなものの存在を認めない立場(反命題)もでてくる。
 証明方法は第三アンチノミーとほぼ同じ。
 
93 理性は「理念」を思い描く
 心の自由や神についての議論が、現実世界を離れ、想像の世界に飛躍しているという指摘は分かりやすい。
しかし、宇宙の始まりや宇宙の果て、あるいは眼前にある物質の根源は、感性で直観できる「空間」や「時間」と地続きなので、人間にも認識できると錯覚しがち。
しかし先に述べたように、「世界全体」を想像するとき、じつは空間・時間を飛び出してしまっている
 理性は推論に推論を重ね、究極的に無条件なもの(究極の真理)に至ろうとする性質を持っている。
この「究極的に完全なもの」として、理性が思い描くものを「理念(イデー)」と呼ぶ。
感性が直観を、悟性が判断をつくったように、理性は理念をつくる
しかし、四つのアンチノミーが示したとおり、理念は経験(空間・時間)を超えて出ているので、それについて正しい答えを導くことはできない
 
 しかし、カントは、理念は「探求の目標」として人間に課せられてものだと述べている。つまり、まったく無意味なものではない。究極の真理にたどり着くことは永遠にないが、人間(特に科学者)は、そこを目指して可能な限り探求しなくてはならない、という。
 そして、理性は完全なものを理念として思い描くのだが、その働きが最も有効なものとして発揮されるのは、じつは認識や理論の領域ではなく、行為(道徳)の領域だと考える。理想的な完全な道徳的社会の一員であるように人は行為しなくてはならない、という
 
95 ブッダ。毒矢の例え。いままさに毒矢が刺さって苦しんでいる人がそんな問題を考えるだろうか、そんなことを考えていたら死んでしまう。人間にとって大事なのは、その毒や、つまり煩悩による苦しみを解決することであり、宇宙の果てがどうなっているかということや、死後も魂が生き続けるかどうかはどうでもよい。
 
 神や魂の不死はどうでもよくなるかというと、そうではない。『純粋理性批判』の終盤で、これらは再び取り上げられる。「神がいる/いない」ということは理論的には決定できないが、「よく生きる」ためには神や魂の不死を信じることが必要だ、という議論をしている。神の問題を「いるか/いないか」という問いから切り離したうえで、「なぜ人は神を求めるのか」という問いに変換して復活させようとする、と言ってもいいでしょう。
 そのさいもう一つ重要な意味を持ってくるのが、人間の自由意志についての議論。第三のアンチノミーでは、いったん「ある」とも「ない」ともいえないと結論されたが、自由がなければ道徳を語ることにも意味がなくなってしまう。
 
 
 
第4回 自由と道徳を基礎づける
理性の能力の限界を厳しく吟味すると「神の存在」や「魂の不死」は証明できないことが明らかになる。
ではなぜ古来人間は、神や魂について考え続けてきたのか?
 その動機の裏には「かくありたい」「かく生きたい」という「実践的な関心」があった
「神の存在」「魂の不死」を前提としなければ道徳や倫理は全く無価値なものになると考えたカントは、それらを「認識の対象」ではなく、実践的な主体に対して「要請された観念」だと位置づける
この立場からカントは、科学によって居場所を失いつつあった価値や自由といった人間的な領域を基礎づけようとする。
第四回は、科学が主導権を握りつつあった世界にあって新しい道徳の復権を目指したカントの思索を通して、知識や科学だけでは解決できない「人間的価値や自由の世界」を深く見つめ直す。
 
98 それでも人間に自由はある?
 人間の理性には、
①世界の全体を「完全なもの」として知り尽くしたい。
②完全な生き方をしたい(「最高の善い生き方をせよ」と理性は命令を下す)
理性は、「完全なもの=理念」を思い抱く能力。その理念は、認識の面では実現されることはない
しかし、人が実践(=行為)するとき、理性は「完全な道徳的世界」という「実践的理念」にもとづいて「~すべし」と命令してくる
 
カントにとって、道徳的に生きることは、そのまま最高に充実した生を意味していた。
ニーチェは激しく拒否。生の充実と高揚は、恋愛や音楽、芸術(アート)、などの場面で現れるのであって、道徳ではない。
 
人間は欲求の言いなりになるだけではない。喉が渇いたからといって、隣の人のペットボトルを奪って飲んではいけない、と考えることができる存在。それが正しい行動かどうかを考えて、自らの行動を自分の意思で選ぶことができる。その点で、生理的欲求に従うほかない犬や猫とは違う。
 つまり人間は、他者を尊重しながら、社会の一員としてふさわしい道徳的行動を考え、選択することができる。理性的判断に基づいた道徳的行動にこそ人間の自由がある。
 
101 道徳が自由をつくる
 ――タチの悪いうそをついた人を、なぜ人びとは非難するのだろうか。もちろん探せば、いろんな理由を指摘できるだろう(たとえば、力あるものから脅されてそうしたのかもしれません)しかし、それを無視して、理性による意思決定ができたはず、と人は信じる。だからこそ、うそをついた人を非難するのだ。
 このように、私たちは「実践」する立場では自由の存在を信じている。
 
他人の意見に無批判に従うとこ「他律」(ヘテロミー)
自分自身の主体的で理性的な判断に従うこと「自立」(オートノミー
 
 カントにとって「自由に生きる人」とは、人の言いなりにならず主体的に考える姿勢であり、そして主体的な判断に従って道徳的に行為すること
 カントの言う自由とは「勝手気まま」「欲望の開放」ではない。
 
 カントがこう考えた理由を理解するには、時代背景を抑えておくことが重要。伝統的に人の生き方に答えを与えてきたのは宗教だった。ヨーロッパではキリスト教。近代にはいると、カトリックプロテスタントの対立を背景に、キリスト教の求心力は少しずつ失われていった。そして何より「自由」の観念が一般化することで、伝統やしきたりと一体化した信仰はその力を失った。
 旧来の信仰に変わる、新たな生の目標を示す必要がある――これこそがカント道徳論の根底にある問題意識。
 
103 人間が立脚する二つの世界
 人間の自由は「ある」ともいえるし「ない」ともいえる正反の命題はどちらも成り立つ
   ↓
 人間が「現象界」と「叡知界」という二つの世界の属しているから
 
 人間の行動を外から見れば――認識の対象(客体)とした場合は、すべて因果律で説明することができる
 「脅されたから」「気の弱い性格だったから」
 この時、人間の自由を認めることはできない。
 空間・時間を伴なう「現象界」に属しているものとして人間を見る限り人間には自由はない
 
 行為をしている本人の立場からは
 あのとき、うそをつかないこともできた、と感じているかもしれない。その人も、いつも他人の意のままになっていたわけではなく、自分がどう行動すべきかを主体的に判断して行為したこともあった。
 なぜ、実践的な立場からすれば、自由が「ある」のか?
 
 カント認識論において、外から見た人間の行動は、空間時間の中で生じたことなので現象界に属す。
しかし同時に、人間の心(魂)は、私たちが認識しえない「物自体」の世界、叡知界にも属しているとされる。
つまり、認識の対象(客体)としての人間は現象界に属し、その行動は自然法則で説明されるものの、実践の主体としての人間は叡知界に属しているので、その行動は自然法則を超えた「自由な原因性」でありうる
 
 実践の主体としての人間をカントがどうとらえたか?
 カントは人間の「認識」の構造を完成・悟性・理性の3層で説明した。
ところが、実践の主体として人間を見るときには、感性と理性の二層が判断や行動のベースになる。
 ここでの感性は、空間・時間的な直観を生み出す働きではなく、欲望や感情をとらえる働きを指す
とにかく私たちは「もっと欲しい」「サボりたい」といってた欲望に引きずられるが、こうした特徴をカントは「傾向性」と表現した。
 こうした傾向性をもつ感性は受動的なもの。食べたい、眠りたいという欲望はいわば向こうから「やってっ来る」のであって、自分からつくり出したわけではない。なので、感性の欲望や傾向性のままに行動する限りでは、因果性にとらえられたまま。
 これに対して、「道徳的に生きよ」と命じるのが理性の働き。人間は一方で、欲望と傾向性によって引きずり回されるが、それを理性でもって「正しい行為かどうか」と判断し、コントロールしようとする。
 人間は、いつも感性(欲望)と理性の2つによって引っ張られている存在。
 
 認識における理性と、実践における理性とでは、意味合いがかなり異なる。
前者を、「理論理性」、後者を「実践理性」とよんで区別している。
 どちらの理性も、それぞれ「理念」を描くという点では同じだが、理論理性が「完全なる世界」を理念として思い描き、辿り着けなくてもそれを目指して探求するのに対し、実践理性は「完全なる道徳的世界とそこでの生き方」を理念として思い描き、それをそのまま実践するように命じるという差異がある。そして、道徳的行動を命じる実践理性を持っているところにこそ、人間の尊厳があるという。
 
107 「道徳的世界」の根本ルール
 『人倫の形而上学の基礎づけ』、『実践理性批判
 
 実践理性の描く道徳的世界
 「理性的存在者(理性を持つ者)からなる国家」であって、そこに自分を含むすべての人間が所属している。そのメンバーは対等で自由な存在であり、何よりもお互いを尊重しあわねばならない。道徳的世界は、みなが互いを尊重しながら平和に共存する世界。
 
 道徳論に大きな影響を与えたのはジャン=ジャック・ルソー。どんな貧しい人でも身分の低い人でも、同じ人間である。
ルソーが『社会契約論』で提起した対等で自由な共和国の理想を、道徳的世界として読み換えたところに、カントの道徳法則は成り立っている。
 
111 理性の究極の関心
①私は何を知りうるか―理論理性の働きで、世界の正しい認識を求めるもの。「私が知りうる」のは、「空間」と「時間」のもとで直観された現象界のみ。現実の時空を超え出た究極の真理は、私たちはけっして知りえない。
 
②私は何をなすべきか―実践理性の求めるもの。「私がなすべき」は道徳的に行動すること。実践理性は易きに流れる感性の「傾向性」をいさめ、人間を完全なる生き方へと導く。
 
③私は何を望んでよいか―「私は何を希望することが許されるか」。
「道徳的に生きることは何に値するか」と言い替えている。→「幸福」に値する。
道徳的に生きる人は幸福を得る資格がある。
ここで重要なのは、幸福になるための手段として、道徳的な生き方があるわけではない。道徳的に生きた結果として「幸福に値する」ことになる。
 
しかし、道徳的世界の一員にふさわしく、現実の社会を正しく生きたとしても、幸福には恵まれないかもしれない。どうしたらよいのか?→「神」と「魂の不死」
 
114 神の存在は「要請」される
 善行に必ずしも幸福が伴わない、「徳副不一致」の現実はいつの世にも存在する。
 このような現実世界にあって、道徳的に正しく生きることを支えてくれるのが神への信仰である。
 
 「神はいるのか/いないのか」という究極真理の問いは無用としつつも、「なぜ人間は神の存在を問い続けて来たのか」「なぜ人間は神を必要としているのか」と問いを転換させることで、これを人間の生き方を考えるために有用な問いへと再設定したといえる。
 
116 カントが思い描いた理想郷
 わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな驚きと畏敬の念をもって心を満たす二つのものがある。それは、わが頭上の星を散りばめた天空と、わが内なる道徳法則である。(『実践理性批判2』中山元
 
 ところで僕たちは、人間の品位を高く評価し、人間を精神[精霊]と同じ列に高める自由の能力が人間にあることを承認することに、どうして今頃思いついたのであろうか。人類がそれ自体としてこんなに尊敬すべきものと考えられるということは、此の上ない時代の良い兆候だと、僕は思う。それこそ、圧制者たちと地上の神々の頭から後光の陰が消えると言う証拠なんだ。哲学者たちがこの品位を証明する。(1795年4月、シェリング宛の手紙。『ヘーゲル書簡集』小島貞介)
 
 カントの道徳論は、決して滅私奉公や自己犠牲を強いるものではない。カントの言う「道徳的な生き方」には、自分自身への配慮が含まれている。他者の幸福を考えて行為するだけでなく、自分のことも尊重し、自分の能力を進歩させなくてはならない。それも大切な道徳的な義務である。
 
120 カントの捉える主観は、感性と悟性で認識をつくり出すだけでなく「究極の真理」に憧れ、また生活上の必要を抱くだけでなく「よい生き方」を求めるものでもあった。
 
121 あらかじめ絶対の「正解」を想定する(これは独断論になる)のでもなく、人それぞれの答えしかないと決めつける(これは相対論になる)のでもなく、「人びとが納得できる合理的な共通理解はどうやったら可能か」と考えていく。そういう姿勢をカントは示唆している。
 
122 カント哲学の難点
 道徳を議論不可能な領域においてしまった点。カントの道徳論について、何を根拠にして賛成したり批判したりすればいいのかわからない。
 カント曰く、根拠を示しながら議論を重ね、合理的に共有できる知となりうるのは、「空間」と「時間」の枠組みを伴なった現象界に現れるものだけ。ということは、私たちは道徳を理論的に考察することはできないということになる。
 
 カントの認識論についても、感性・悟性という認識の構造について、それが妥当なものであるかどうかを、どうやって人は確かめることができるのか、明確にされていない。
 
123 共有知として哲学を蘇らせる
 こうした問題点を指摘しつつ、カント哲学を発展的に継承したのがエトムント・フッサール彼はカントによって叡知界に追いやられた道徳を再び現象に取り戻し、根拠を上げながら考えて議論する道を開いた
 そのさい、「現象」の意味合いをフッサールは大きく拡張している。
 カントの考える現象は、「空間」と「時間」の中で見たり触ったりすることに限られ、それについては共通理解がつくることができるとした。
しかしフッサールは、事物や事実だけでなく、道徳や自由、あるいは神についても、それなりの仕方で人は体験している(意識の中に現れてくる)のであって、「現象」に属するものであるとみなす
 たとえば、面倒なことに首を突っ込みたくはないが、これは見て見ぬふりをするわけにはいかないと思うとき、私たちは道徳を体験している。あるいは、神をこの目で見ることはできないが、神を信じる人が今日あったことや考えたことを神に語りかけるとき、その人はそういう仕方で神を体験している、ということができる。
見たり聞いたりすることだけが体験ではなく、想像したり思考したり憧れたり祈ったり怒ったり、などのすべてが体験であり現象であるとフッサールはみなす。
 このように考えれば、まったく体験できない物自体(叡智界)を想定する必要はなくなる。こうして、すべての物事は広義の意味での「現象」であるから、これを考察すればよいとして、物自体の世界をなくしてしまったのがフッサールの創始した「現象学
 
 
 
 
 
 
 
<プロデューサーAのこぼれ話>
そそり立つ巨大な壁、カント
正直に告白しておかなければならないことがあります。私は大学の学部生時代と大学院時代を合わせると合計6年間、哲学を研究してきましたが、ついにその期間中にカントの「純粋理性批判」を読み通すことができませんでした。もう少し正確にいうと、冒頭の感性の仕組みを解き明かしたくだりと、4つのアンチノミーを論じるくだりだけはなんとか読み通すことができました(それでも決して理解できていたとはいえませんが)。
全くもってお恥ずかしい限りなのですが、哲学を専攻していた人間が何度アタックしても途中で挫折してしまう…それほどまでに難解なのが、カント「純粋理性批判」なのです。この経験がトラウマとなって「100分de名著」で取り上げるのをずっと躊躇し続けていました。ところが、この2年ほど、AIやIT技術の発展で新たな形の「科学万能主義」が席捲し始めていることを受けて、「私たちは本当に自由な選択を行っているのだろうか。むしろビックデータやAIによるデータ解析に操られているだけではないのか」という問いにあらためて直面させられていました。その時にあらためて思い起こされたのがカントによる「自由」についての議論だったのです。
こういう時代だからこそ、あらためてカント「純粋理性批判」を読み返す意味があるのではないか。しかし、独力でこの本を読み通す自信は全くない。そこで、まずはとっかかりとして、今まで何冊か哲学の本を読み解いてくださった西研さんの研究室の扉をたたくことにしました。西さんは、「カントを読み解くには、まず彼の問題意識をきちんとおさえるところから始めたほうがよい」というとても貴重なアドバイスをくださいました。
西さんによれば、純粋理性批判」が書かれた18世紀のヨーロッパでは、近代科学の最初の波が勃興。科学を使えば世界の全てを説明することが可能だとする啓蒙の時代を迎えていたといいます。そんな中で、西欧人たちは二つの大きな難問に突き当たりました。それは「科学は本当に客観的な根拠をもっているのか」「科学で世界の全てが説明できるとすると、人間の価値や自由、道徳などの居場所はあるのか」の二つです。その難問を考え抜いたカントは、理性の能力を精密に分析。「人間が知りうるものの範囲をどう確定するか」や「人間が知りえないものについてどんな態度をもつべきか」といった根本的な問題を明らかにすることで、難問に回答を与えようとしたのが「純粋理性批判だというのです。科学万能主義が席捲していた18世紀ヨーロッパと、AI至上主義が唱えられる現代はとても似ているのではないかと、西さんの解説をお聞きしながらあらためて痛感し、「人間にとっての自由」や「人間が考えることの意味」をあらためて深く考えなおしてみるためにも、「純粋理性批判」を読み直すべきではないかとこの時直観したのでした。
それからおよそ3か月ほどの時間をかけて、実に30年ぶりに「純粋理性批判」を完読することができました。もちろんすべてを理解できたわけではありませんが、西さんからいただいた「著者の問題意識」という羅針盤が大いに助けになったことはいうまでもありません。初読のときには、全くとりつくしまがなかった論点についても「ああ、おそらくこんな複雑な議論をすすめているのは、カントが直面していた近代の二つの難問をなんとか解決しようとした形跡なのだな」と考えると、ディティールはわからないまでもなんとか議論についていくことができました。読み終えたときには、これまで未踏だった険しい山に登頂し、素晴らしい風景を見通せたような感慨をもちました。ガイドしてくれた西さんに心から感謝したいと思います。
純粋理性批判」の詳しい内容ついてには、番組やテキストを通じてすでにご覧いただいていると思いますが、その議論を短くつづめていうと以下のように要約できるかと思います。
カントは、認識主体によって構成される世界を「現象界」と呼び、私達に経験できるのはこの「現象界」だけだとします。その上で、人間が決して経験できない世界そのものを「物自体」と呼んで認識能力が扱える範囲外に位置付け、これまでの哲学の誤りは全てこの「現象界」と「物自体」の混同から生じるとして、これまで哲学がぶつかってきた難問の解決を試みていきます。いわば、私たちは「感性」と「悟性」という共通のメガネをかけていて、このメガネの性能を詳しく分析していけば、共通理解の土台を確保できるというわけです。また、この共通のメガネでとらえられない問いは、人間の理性では決して答えの出ない問題だとすることで、それまでの哲学が追究してきた「神の存在」「魂の不死」「宇宙の全体」といった問題を一気に始末してしまうわけです。
これらの議論の後、カントは一転して、この共通のメガネでは決してとらえられない「物自体」の世界に「人間の自由の根拠」を求めていくわけですが、この議論は、現代人の目からみるとややアクロバティックにみえるかもしれません。ですが、「人間の尊厳」をあくまで理性の力で救い出そうとするカントの強靭な思考には心から敬意を表したいと思います。このあたりの「人間の自由や価値」に関する議論の更なる発展については、現象学者のエドムント・フッサールが一つの方向性を示していると西さんにお聞きしているので、機会があったら、ぜひ西さんとともにフッサールの著作を読み解いていけたらと思っています。最後に、私自身、大好きなカントの文章をひいて、この「こぼれ話」を締めくくりたいと思います。
頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな驚きと畏敬の念をもって心を満たす二つのものがある。それは、我が頭上の星を散りばめた天空と、我が内なる道徳法則である」(カント「実践理性批判」より)