読んだ。 #忘れられた日本人 #宮本常一

読んだ。 #忘れられた日本人 #宮本常一
 
1960(昭和35)年に発表されたものとのこと。
土佐源氏」は1941年(昭和16年)、対馬は1950年(昭和25年)の調査によるものとのこと。
柳田國男とは異なるアプローチ。
 
対馬にて
一 寄りあい
16 私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申し合せ記録の古いものは200年近いまえのものもある。それはのこっているものだけれどもそれ以前からも寄りあいはあったはずである。70をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべにかえるというのでなく、家から誰かが弁当をもって来たものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても3日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。1つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。
 
二 民謡
23 こうして道をあるいていて思ったことだが、中世以前の道はこういうものであっただろう。細い上に木がおおいかぶさっていて、すこしも見通しがきかない。自分がどこにいるかをたしかめる方法すらない。おなじ道を何回も通っても迷うということはよくわかる。狐狸の人を化かす話も、こういう道をあるいてみないとわからない。また夜はまったくあるけるものではない。まだ日は山の7合目から上あたりを照らしているはずだが、谷間の樹下の細道はすでに夜のように暗い。
 
24 私もそこで一息いれて、こういう山の中でまったく見通しもきかぬ道を、あるくということは容易でないという感慨をのべると、「それにはよい方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞという声をたてることだ」と一行の中の70近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと「歌をうたうのだ。歌をうたっておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしに行きつつあるかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。私もなるほどと思った。と同時に民謡が、こういう山道をあるくときに必要な意味を知ったように思った。
 
28 対馬でも宿屋へとまるのならば朝昼晩と食事をするが、農家へとめてもらうと、朝と晩はたべるけれど、とくに昼飯というものはたべないところが多い。腹のすいたとき、何でもありあわせのものを食べるので、キチンとお膳につくことはすくない。第一農家はほとんど時計をもっていない。仮にあってもラジオも何もないから一定した時間はない。小学校へいっている子のある家なら多少時間の観念はあるが、一般の農家ではいわゆる時間に拘束されない。私は旅の途中で時計をこわしてから時計をもたない世界がどういうものであったかを知ったように思った。
 
31 男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭けて争う。すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることはすくなかったというが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をしてまけたことはなかった。そして巡礼に来たこれというような美しい女のほとんどと契りを結んだという。前夜の老人が声がよくてよいことをしたといわれたのはこのことであった。明治の終り頃まで、とにかく、対馬の北端には歌垣が現実にのこっていた。巡拝者たちのとまる家のまえの庭に火をたいて巡拝者と村の青年たちが、夜のふけるのを忘れて歌いあい、また踊りあったのである。そのときには嫁や娘の区別はなかった。ただ男と女の区別があった。歌はただ歌うだけでなく、身ぶり手ぶりがともない、相手との掛けあいもあった。
 
 
村の寄りあい
37 60歳をすぎた老人が、知人に「人間1人1人をとって見れば、正しい事ばかりはしておらん。人間3代の間には必ずわるい事をしているものです。お互にゆずりあうところがなくてはいけぬ」と話してくれた。それには訳のあることであった。その村では60歳になると、年より仲間にはいる。年より仲間は時々あつまり、その席で、村の中にあるいろいろのかくされている問題が話しあわれる。かくされている問題によいものはない。それぞれの家の恥になるようなことばかりである。そういうことのみが話される。しかしそれは年より仲間以外にはしゃべらない。年よりがそういう話をしあっていることさえ誰も知らぬ。知人も40歳をすぎるまで年より仲間にそうした話しあいのあることを知らなかった。老人から話の内容については一言もきかされなかったが、解放に行きなやんでいるとき「正しいことは勇気をもってやりなさい」といわれて、なるほどと思った。
 
39 他人の非をあばくことは容易だが、あばいた後、村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは解決しきれない問題が含まれている。したがってそれをどう処理するかはなかなかむずかしいことで、女たちは女たち同士で解決の方法を講じたのである。そして年とった物わかりのいい女の考え方や見方が、若い女たちの生きる指標になり支えになった。何も彼も知りぬいていて何にも知らぬ顔をしていることが、村の中にあるもろもろのひずみをため直すのに重要な意味を持っていた。
 
40 そうした生活の救いともなるのが人々の集りによって人間のエネルギーを爆発させることであり、今一つは私生活の中で何とか自分の願望を果そうとする世界を見つけることであった。前者は祭とか家々の招宴の折に爆発して前後を忘れた馬鹿さわぎになり、後者は狭い村の中でなお人に見られぬ個人の行為となって来る。とくに後者の場合は姑と嫁の関係のようなものの外に、物ぬすみとなったり男女関係となってあらわれる。
 若い男女の性関係は今よりもルーズであったと思われるが、それが婚姻生活の後までもながく尾をひくことがあって、女一人でさばききれなくなると、世話焼きばっばのたすけを借らねばならぬことが多かったのである。
 
42 福井県敦賀の西にある半島の西海岸をあるいていた時のことであったが、道ばたの上に小さいお堂があって、しきりに人声がするのであがってみると、10人ほどの老女がせまいお堂の中で円座して重箱をひらいて食べているとこであった。きけば観音講のおこもりだとのことで、60になるとこの仲間に入って、時々こうしておこもりしたり、また民家であつまって飲食をともにして話しあうのだという。
 
43 他所者の若い男二人であったから遠慮なく何でもはなせたのであろうが、観音講のことについて根ほり葉ほりきいていくと、「つまり嫁の悪口を言う講よの」と一人がまぜかえすようにいった。しかしすぐそれを訂正するように別の一人が、年よりは愚痴の多いもので、つい嫁の悪口がいいたくなる。そこでこうした所ではなしあうのだが、そうすれば面と向って嫁に辛くあたらなくてもすむという
 ところがその悪口をみんなが村中へまき散らしたらたまったもんではないかときくと、そういうことはせん。わしらも嫁であった時があるが、姑が自分の悪口をいったのを他人から告げの口されたことはないという。つまりこの講は年よりだけの泣きごとの講だというのである。私はこれをたいへんおもしろいことだと思った。自らおば捨山的な世界をつくっているのである。
 
44 年齢階梯制のはっきりしている社会は非血縁的な地縁集団が比較的つよいところです。無論村の中に血をおなじくする同族集団が内在しているのではあるが、1つや2つではなくていくつもあります。そして同族の者が1つの地域に集って住むのではなくてむしろ分散し、異姓の者と入交っている所が多い。
そういう傾向は瀬戸内海の島々や九州西辺の島々にはとくにつよく見られる。姓を異にした者があい集って住む場合には村の中で異姓者の同業または地縁的な集団が発達して来る。そういう社会では早くからお互の結合をつよめるための地域的なあつまりが発達した。この集りを寄りあいといっている。寄りあいのもっとも多いのは宗教儀礼にちなむものであるが、その外にもいろいろの村仕事の際にもおこなわれている。
 
46 著者は「衆」という瀬戸内地方の下級武士、または農漁民町人など生産者の間でつくられる同業者の集団を取り上げ、以下のように述べています。
 三島衆・塩飽衆などといわれるものがこれであり、その衆という文字はすでに鎌倉時代の文献にもみえる一結衆などにつながるものであろう。一結衆というのは今日の講仲間のことであり、地蔵講・念仏講など、比較的古くから各地で発達をみており、瀬戸内海西部にある小島の八島においてすら、地蔵の一結衆が至徳4年(1387)にみられている。そのほかこの地方に中世に書写された大般若経などのたくさんのこっていることから考えても、般若講など古くからおこなわれていたものと思われる。
 
49 寄りあいというものは戸主の集るものとされているものが多いようであるが、そういう席へ女が代理で出て来ることは少くない。そんな時には女はほとんど発言しないで片隅にいて話だけきいているのが普通のようであるが、女だけの寄りあいもまたおこなわれることがある。これは村こぞっておこなうというようなことはすくなく、たいてい有志の集りである。そしてそれも村の慣行自治に関するものではなく、親睦か信仰または労作業を主としたものであり、そのうち茶飲みという集りはきわめて頻繁にくりかえされて来たのが瀬戸内海地方では一般に見られたところである。お茶に漬物程度のごく粗末な食物で、ごく狭い範囲の女が集ってほんの1、2時間おしゃべりをして別れるのである。子供の髪洗い、名付け、宮参り、百ヵ日をはじめ、家々の招宴の場合にも男が集るほどのこともないような披露を主とする招客はしばしばおこなわれるもので、そういう時にはたいてい女があつまる。そのほか灸すえとか、女だけのいろいろの作業のはじめまたは終には集って簡単な飲食をすることが多い。
 
50 そういう集りがもとになって作業などきめる集りもおこなわれる。作業の中では田植の早乙女や養蚕の盛んなころには共同飼育の当番ぎめなどたいてい女の集りによっておこなわれていたし、また家普請や葬儀などにも女だけの協力作業はあるもので、そういう事を中心にした集りもおこなわれていた。そうした主婦連中の集りの上に、隠居した年よりの集りが別にあったのである。隠居の場合は男または女で別々に集る場合もあるが、講会のようなものには男女ともに集ることが多かった。
同様に、結婚以前の青年男女も若衆組、娘仲間をつくって集りをすることは多く、こうした多くのグループが村の中に層序をなしているところは中部地方の西半から西にかけては少くないのである。
 
51 名倉村で年よりたちに集ってもらって座談会をしたとき、老人たちがみんなでまず面白そうに話し出したのが万歳峠のこと。
 はじめは何のことかよくわからなかったのだがききただしてみると、村から山をこえて田口の方へ出ていく峠のことである。日清戦争の時まではその峠の頂上まで出征兵を見送って万歳をとなえて別れて来たのであるが、峠の上で手をふって別れると、送られる方はすぐ谷のしげみの中に姿がかくれてしまう。そこで別れ場所を峠の頂上より5丁あまり手まえの所にした。そこで、別れの挨拶をして万歳をとなえ、送られる方はそれから振りかえりながら、5丁あまりを歩いて峠の向うへ下っていくのである。こうして万歳峠が、峠の頂上から5丁手前に来たのは日露戦争の時からであったという。まことにこまかな演出ぶりである。こうした事に村共同の意識の反映をつよく見ることができる。
 
54 年齢階梯制の濃厚なところでは隠居制度がつよくあらわれるのが普通であるが、隠居制度はその起源や起因についてはここにしばらくおくとしても、これを持ちつたえさせたのは、非血縁的な地縁共同体にあったと思われる。そういう村では、村共同の事業や一斉作業がきわめて多かった。山仕事、磯仕事、道つくり、祭礼、法要、農作業、公役奉仕など、古風を多くのこす対馬の場合など、こうした共同事業・一斉作業・公役などについやす日数が年間百日内外に達するかと思われる。それ以外の日で自分の家の農作業にしたがわねばならないのであるから、自家経営は自ら粗放にならざるを得ないのである。そして、このうち公役は時代をさかのぼるほど多かったと見られる。
 
57 この寄りあい制度がいつ頃完成したものであるかは明らかでないが、村里内の生活慣行は内側からみていくと、今日の自治制度と大差のないものがすでに近世には各村に見られていたようである。そしてそういうものの上に年より衆が目付役のような形で存在していた。ただ物のとりきめにあたって決定権は持っていなかった。と同時に寄りあいでのはなしあいには、お互の間にこまかな配慮があり、物を議決するというよりは一種の知識の交換がなされたようであり、個々の言い分は百姓代や畔頭たちによって統一せられて成文化せられたのである。
 
 
名倉談義
62 そのとき、きいていて大へん感動したのは、金田金平さんが夜おそくまで田で仕事をする。とくに重一さんの家のまえの田では夜八時九時まで仕事をした。重一さんの家はいつもおそくまで表の間に火がついていたので、そのあかりで仕事ができたと言ったら、小笠原シウさんが、それはいつもおそくまで火をつけていたのではなくて、今日は金平さんが仕事をしているから、また夜おそくなろうと、わざわざ明るくしてやっていたとはなし、しかも、この座談会でそれが語られるまで、一方はその好意を相手につたえておらず、相手の方は夜のおそいうちだと思いこんでいたという事実である。村共同体の中にこうした目に見えないたすけあいがあるものだと思った。無論それと反対の目に見えないおとしあいもあるのであるが、、、。
 
66 小笠原 ~それにしても女は損なものでありました。月のさわりがありますので・・・・・・。あれでどれ位損をしたことか。このあたりはごへいかつぎが多うして月のさわりをやかましく言うところで、もとは一軒ごとにヒマゴヤがありました。そうしてさわりがはじまるとそこへはいって寝起もし、かまども別にして煮炊きしたものであります。いっしょにたべたのでは家の火がけがれるといって、しかしわたしの十五歳の頃には大分すたれました。
(中略)
この山の向こう側にある宇連というところにはつい近頃までヒマヤがありました。
 このあたりでは、ヒマヤは早くなくなりましても、月のさわりのときは、仏様へお茶湯をあげることもならず、地神の藪へは十二日間もはいってはいけぬことになっておりました。
 
金田茂 清水の酒屋、原田甚八郎の家には本家にひさしをつけて、そこをヒマヤにしていました。ヒマヤは一坪ほどのものでありました。
 
小笠原 女はヒマのときは男の下駄をはいてもいけないものでありました。いまでもわたしらのような年寄りは腰巻は日のあたるところへはほしません。また腰巻をひろげてほすこともありません。わたしのうちの若い嫁などそういう事はしませんが、わたしは自分の気がすみませんけに、自分のだけはかげにほしております。
 
79 今の言葉でいうとスリルというものがないと、昔でもおもしろうなかった。はァ、女と仲ようなることは何でもない事で、通りあわせて娘に声をかけて、冗談の二つ三つも言うて、相手がうけ答えをすれば気のある証拠で、夜になれば押かけていけばよい。こばむもんではありません。親のやかましい家ならこっそりはいればよい。親はたいてい納戸へねています。若い者は台所かデイへねている。仕事はしやすいわけであります。音のせんように戸をあけるにはしきいへ小便すればよい。そうすればきしむことはありません。それから角帯をまいて、はしをおさえてごろごろっところがすと、すーっと向うへころがってひろがります。その上をそうっと歩けば板の間もあんまり音をたてません。闇の中で娘と男を見わけるのは何でもない事で、男は坊主頭だが、女はびんつけをつけて髪をゆうている。匂をかげば女はすぐわかります。布団の中へはいりさえすれば、今とちごうて、ずろおす※などというものをしておるわけではなし・・・・・・。みなそうして遊うだもんであります。ほかにたのしみというものがないんだから。そりゃァ時には悲劇というようなものもおこりますよの、しかしそれは昔も今もかわりのない事で・・・・・・。
 
86 敬太郎の家もくらしがまずしうて、その母親が子をつれて来ましてな、方々の家へたのんであるいていて、とうとう私の家へおいてかえったのであります。たのむといいましても、まあ、その家へいって「今晩一ばんとめて下され」とたのみます。たのめば誰もことわるものはありません。台所のいろりばたへあげて、夕飯を出して、しばらくははなしをしているとそのうちにみなそれぞれのへやへ寝にはいる。敬太郎のおふくろと敬太郎はいろりのはたにねるわけです。敬太郎のおふくろはそれがかなしうてならぬ。この子は自分がかえってしまったら、こういうように1人でここにねさせられるかもわからん。そう思うと「よろしくたのみます」ということができん。それであくる朝になると「いろいろ、おせわになりました」といって出ていく。とめた方も別にこだわることもなく「あいそのない事で」といって送りだします。こうして家々へとまって見て、親が気に入らねば、子どもをあずけなくてもよいわけであります。敬太郎のおふくろも方々あるいて見たが、どこの家も気に入らなかったようであります。それでわたしの家へ来た。わたしの祖母にあたるモトというばァさんがいました。夕飯がすんで一きりはなしをして、みなへやへはいっていったが、モトばァさんが「かわいい子じゃのう、わしが抱いてねてやろう」というと、その子がすなおに抱かれてねました。おふくろはそれを見て涙を流して喜んで、この家なら子どもをおいていけると思うて「よろしくたのみます」と言ってかえったそうであります。それから敬太郎はモトばァさんに抱かれてねて大きくなりました。
 
97 はァ、申すまでもなく、よばいは盛んでありました。気に入る娘のあるところまではさがしにいって通うたものであります。しかしなァ、みながみなそうしたものではありません。一人一人にそれぞれの性質があり、また精のつよいものはどうしても一人ではがまんができんという者もあります。あっちの娘のところへ通うた、こっちの娘のところへ通うたというのがあります。しかし、みな十六、七になると嫁に行きますから、娘がそうたくさんの男を知るわけではありません。よばいを知らずに嫁にいく娘も半分はおりましたろう。若い者がよけいにかようのは、行きおくれたものか、出戻りの娘の家が多かったのであります。はいはい、よばいで夫婦になるものは女が年上であることが多うありました。それはそれでまた円満にいったものであります。はい、男がしのんでいっても親は知らん顔をしておりました。あんまり仲ようしていると、親はせきばらい位はしました。昼間は相手の親とも知りあうた仲でありますから、そうそう無茶なこともしません。
 
 
子供をさがす
 
 
女の世間
111 歩く分には宿には困ることはありませだった。どこにも気安うにとめてくれる善根宿があって、それに春であったから方々からお接待が出て、食うものも十分にありました。お接待というのは親兄弟が死んだようなとき、供養のために、遍路に食うものを持ってきて施しをしよりました。
 
112 「食うものばかりではなかったんですのう」
 「あい、いろんなものをくれました。伊予の山の中では娘をもろうてくれんかといわれて・・・・・・何をさせて使うてくれてもかまわん。食わして大きくしてくれさえしたらええというておりました。よっぽど暮しに困っておりましっろう。遍路の中にも子供の手をひいてあるいているのがたくさんおりました。たいがいはもらい子じゃったようであります。この方には昔は伊予からもらうて来た子供がよけえおりましての。10人も20人もいたことがあります。中には買うて来た子もいたが、たいがいは親がよう育てんからもろうてくれといわれてもろうて来たもんであります」
 
122 田植は古くは乱れ植えであった。それが水縄(みなわ)とよばれる、縄のところどころに赤か青の節をつけたものをひいて、その節のあるところへ植える正条植が盛んになって今日までつづいている。考えて見ると大変非能率的なので定木をつくって使用してみた。これならば腰をのばすこともないので能率はずっとあがる。そこで、私は家族のもので植えるときにはこれをりようしたが、ついに一般化するようにはならなかった。一つには村に水田がすくなくて、あせって田を植えるほどの事もなかったのである。そして話も十分にできないような田植方法は喜ばれなかった。縄植ならば縄をひきかえるたびに腰をのばすのでつかれも少い、その上、手をやすめる時間もあって、おしゃべりもできるのである。しかしその田植がここ二、三年次第に能率化せられはじめた。女たちが田植組のグループをつくって、田を請負で植えるようになったのである。一反千円で引き受ける。こうすれば田の持ち主は御馳走をつくらなくていいし、また早乙女をやとい集める苦労もない。田植組に田植の大体の日を申しこんでおけば植えに来てくれる。これによって田植のご馳走をつくることや人をたのむ苦労からそれぞれの家の主婦は解放せられたのだが、田を持つ者は一日でも二日でも植えに出なければならない義務がある。それによって田植組は一定の労働力を獲得しているのである。この制度は女たちの発明であった。と同時に能率をあげれば収入もふえるので田植のおしゃべりも次第に少くなりつつある。話してもそれが一つの流れをつくらないで断片的な話になる。
 同時にまたラジオやテレビの普及が徹底してきて、主婦たちはみな標準語になれて来、これを使う術も知って来た。
 
124 「田植がたのしみで待たれるような事はなくなりました」。
 田を植えつつ老女の一人がこう話してくれた。田植のような労働が大きな痛苦として考えられはじめたのは事実である。それには女の生き方もかわって来たのであろう。やはり早乙女話の一つに、
 「この頃は面白い女(おなご)も少うなったのう……」
 「ほんに、もとには面白い女が多かった。男をかもうたり、冗談言うたり……ああ言う事が今はなくなった」
 「そう言えば観音様(隣村にいた女)はおもしろい女じゃった」
 「ありゃ、どうして観音様って言うんじゃろうか」
 「あんたそれを知らんので」
 「知らんよ……。観音様でもまつってあったんじゃろか」
 「何が仏様をまつるようなもんじゃろか。一人身で生涯通したような女じゃけえ、神様も仏様もいらだった」
 「なして観音様ったんじゃろうか」
 「観音様ってあれの事よ」
 「あれって?」
 「あんたも持っちょろうが!」
 「いやど、そうの……」
 「あれでもう三十すぎのころじゃったろうか。観音様が腰巻一つでつくのうじょって(うずまって)いたんといの。昔の事じゃのう。ズロースはしておらんし、モンペもはいておらんから、自分は腰巻していると思うても、つくなめば前から丸見えじゃろうが……」
 「いやど、そがいな話の……」
 「そうよ、それを近所の若い者が、前へまたつくなんで、話しながら、チラチラ下を見るげな。「あんたどこを見ちょるんの」って観音様が例の調子でどなりつけたら、若いのが「観音様が開帳しているので、拝ましてもろうちょるのよ」と言ったげな。そしたら「観音様がそがいに拝みたいなら、サァ拝みんさい」って前をまくって男の鼻さきへつきつけたげな。男にとって何ぼええもんでも鼻の先へつきつけられたら弱ってのう、とんでにげたんといの。それからあんた、観音様って言うようになったんといの。それからあんた、若い者でも遊びにでも行こうものなら「あんた観音様が拝みたいか」っておいかえしたげな」
 
 
 「わしゃ足が大けえてのう、十文三分はくんじゃが……」
 「足の大けえもんは穴も大けえちうが……」
 「ありゃ、あがいなことを、わしらあんまり大けえないで」
 「なあに、足あとの穴が大けえって言うとるのよ」
 「穴が大けえと、埋めるのに骨がおれるけに」
 「よっぽど元気のええ男でないとよう埋めまいで……」
 「またあがいなことを……」
 
 これも田を植えながらの早乙女たちの話である。植縄をひいて正条植をするようになって田植歌が止んだ。田植歌が止んだからと言ってだまって植えるわけではない。たえずしゃべっている。その話のほとんどがこんな話である。
 「この頃は神様も面白うなかろうのう」
 「なしてや……」
 「みんなモンペをはいて田植するようになったで」
 「へえ?」
 「田植ちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行きはせんので、田の神様を喜ばして、田植を手伝うてもろうたもんじゃちうに」
 「そうじゃろうか?」
 「そうといの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが田の神さまがニンマリニンマリして……」
 「手がつくまいにのう(仕事にならないだろう)」
 「誰のがええ彼のがええって見ていなさるちうに」
 「ほんとじゃろうか」
 「ほんとといの。やっぱり、きりょうのよしあしがあって、顔のきりょうのよしあしとはちがうげな」
 「そりゃそうじゃろうのう、ぶきりょうでも男にかわいがられるもんがあるけえ……」
 「顔のよしあしはすぐわかるが、観音様のよしあしはちょいとわからんで……」 「それじゃからいうじゃないの、馬にはのって見いって」
 
 こうした話が際限もなくつづく。
 「見んされ、つい一まち(一枚)植えてしもうたろうが」
 「はやかったの」
 「そりゃあんた神さまがお喜びじゃで……」
 「わしもいんで(帰って)亭主を喜ばそうっと」
 
129 無論、性の話がここまで来るには長い歴史があった。そしてこうした話を通して、男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛夫家であるのもおもしろい。女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福であることを意味している。したがって女たちのすべてのエロ話がこのようにあるというのではない。
 女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである。
 
 
135 そのころからわるい事をおぼえてのう。雨の日にはあそぶところがない。子守りらはどこかの納屋に三、四人ずつ集まってあそびよった。そうして子供がねむりよると、おろしてむしろの上にねかして守りは守りであそぶのよ。あそぶといってもこれという事もない。積んである藁の中へもぐったり、時にはまえをはだけて、股の大きさをくらべあわせたり、×××をくらべあわせたり、そこへ指をいれおうてキャアキャアさわぐ。おまえのも出せちうて、わしのも出させておもしろがっていろいよる。そのうちにな、年上の子守りが、「××するちうのはここへ男のをいれるのよ、おらこないだ、家の裏の茅のかげで、姉と若い衆がねているのを見たんじゃ。おまえもおらのにいれて見い」いうてな、わしのをいれさせた。それがわしのおなごを知ったはじめてじゃった。別にええものとも思わなかったし、子守りも「なんともないもんじゃの」いうて・・・・・・。姉はえらいうれしがりよったがと、不審がっておった。
 それでもそれからあそびが一つふえたわけで、子守りたちがおらにもいれて、おらにもいれていうて、男の子はわし一人じゃて、みんなにいれてやって遊ぶようになった。たいがい雨の日に限って、納屋の中でそういう事をしてはあそうだもんじゃ・・・・・・。
 
142 わしはこれという家もない。生まれ故郷も婆が死んで、あとは伯父だけじゃでかえっても家がない。親方のなじみの後家の家を、あっちこっちと渡りあるいて、可愛がってもろうてそれで日がくれた。
 わしらみたいに村の中にきまった家のないものは、若衆仲間にもはいれん。若衆仲間にはいっておらんと夜這いにもいけん。夜這いにいったことがわかりでもしようものなら、若衆に足腰たたんまで打ちすえられる。そりゃ厳重なもんじゃった。じゃからわしは子供の時に子守りらとよく××したことはあったが、大人になって娘を寝たことはない。わしのねたのは大方後家じゃった。一人身の後家なら表立って誰も文句を言うものはない。
 
156 どんな女でも、やさしくすればみんなゆるすもんぞな。とうとう目がつぶれるまで、女をかもうた。そしてのう、そのあげくが三日三晩目が痛うで見えんようになった。極道のむくいじゃ。わしは何一つろくな事はしなかった。男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。
 わしにもようわからん。男がみな女を粗末にするんじゃろうのう。それで少しでもやさしうすると、女はついて来る気になるんじゃろう。そういえば、わしは女の気に入らんような事はしなかった。女のいう通りに、女の喜ぶようにしてやったのう。
(中略)
 あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持になっていたわってくれるが、男は女の気持になってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃアない
 
土佐寺川夜話
「土佐寺川夜話」では、土佐山中の農民の生活について紹介されます。ちょうど戦争が始まったばかりの昭和20年12月9日のこと、著者は伊予の小松から土佐の寺川という所に向かいました。途中、原生林がありました。著者は以下のように述べています。
 
160 その原始林の中で、私は一人の老婆に逢いました。たしかに女だったのです。しかし一見してはそれが男か女かわかりませんでした。顔はまるでコブコブになっており、髪はあるかないか、手には指らしいものがないのです。ぼろぼろといっていいような着物を着、肩から腋に風呂敷包を襷にかけておりました。大変なレプラ患者なのです。全くハッとしました。細い道一本です。よけようもありませんでした。私は道に立ったままでした。すると相手はこれから伊予の某という所までどの位あるだろうとききました。私は土地のことは不案内なので、陸地測量部の地図を出して見ましたがよくわかりませんから分らないと答えました。そのうち少し気持もおちついて来たので「婆さんはどこから来た」ときくと、阿波から来たと言います。どうしてここまで来たのだと尋ねると、しるべを頼って行くのだとのことです。『こういう業病で、人の歩くまともな道はあるけず、人里も通ることができないのでこうした山道ばかり歩いて来たのだ』と聞きとりにくいカスレ声で申します。老婆の話では、自分のような業病の者が四国には多くて、そういう者のみの通る山道があるとのことです。私は胸のいたむ思いがしました。
 
 
梶田富五郎翁
172 「爺さんは山口県の久賀のうまれじゃそうなが、わしも久賀の東の西方の者でのう、なつかしうてたずねて来たんじゃが・・・・・・」
 と話しかけると、
 「へえ、西方かいのう、へえ、ようここまで来んさったのう・・・・・・はァわしも久しう久賀へもいんで見んが、久賀もずいぶん変んさっつろのう」
 郷里の言葉を丸出しで話し出した翁には、初めから他人行儀はなかった。
 
173 どうしてここへ来たちうか。それはな、久賀の大釣にはメシモライというて――まァ五つ六つ位のみなし子を船にのせるならわしがあって、わしもそのメシモライになって大釣へのせられたのじゃ。
(略)
生まれてはじめてメシモライで乗った船がいきなり対馬へ行くんじゃから、子供心にたまげたのう。
 
184 潮がひいて海の浅うなったとき、石のそばへ船を二はいつける。船と船との間へ丸太をわたして元気のええものが、藤蔓(つる)でつくった大けな縄を持ってもぐって石へかける。そしてその縄を船にわたした丸太にくくる。潮がみちてくると船が浮いてくるから、石もひとりでに海の中へ宙に浮きやしょう。そうすると船を沖へ漕ぎ出して石を深いところへおとす。船が二はいで一潮に石が一つしか運べん。しかし根気ようやっていると、どうやら船のつくところくらいはできあがりやしてのう。みんなで喜うでおったら大時化(しけ)があって、また石があがって来て港はめちゃめちゃになった。
 こりゃ石の捨場がわるかったのじゃ、もっと沖の方へ捨てにゃァいかんということになって、今度はずーっと深いところまで持っていって捨てやした。
 そりゃもう一通りの苦心じゃァなかった。わしら子供じゃからみておるだけじゃったが、ようやるもんじゃと子供心に感心したもんよの。それがあんたァ、魚を釣りに出る合間の仕事じゃから……。
 
188 久賀と浅藻の間を行き来していたが、その頃久賀じゃァハワイへいくことがはやっての・・・・・・。久賀で働きゃァ一日が十三銭にしかならんが、ハワイなら五十銭になる、何とええもうけじゃないかちうてみなどんどん出ていった。しかしわしらは漁師で、もう一生魚をとって暮らそうと決心していたから気は変らだった。
 
 魚もよう釣れたもんじゃ。まァ一日にタイの二、三十貫(1貫は3.75㎏、30貫は112.5㎏)も釣って見なされ、指も腕も痛うなるけえ。それがまた大けな奴ばっかりじゃけえのう。ありゃァ、かかったぞォ、と思うて引こうとするとあがって来やァせん。岩へでもひっかけたのかと思うと糸をひいていく。それを、あしらいまわして機嫌をとって船ばたまで引きあげるなァ、容易なことじゃァごいせん。きらわれた女子をくどくようなもので、あの手この手で、のばしたりちぢめたり、下手をしたら糸をきるけえのう。そのかわり引きあげたときのうれしさちうたら――、あったもんじゃァない。そねえなタイを一日に十枚も釣って見なされ、たいがいにゃァええ気持になる。晩にゃ一杯飲まにゃならんちう気にもなりまさい。そういう時にゃァ金もうけのことなんど考えやァせん。ただ魚を釣るのがおもしろうて、世の中の人がなぜみな漁師にならぬのかと不思議でたまらんほどじゃった。
 
192 やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす。わしはその頃はもう嫁をもろうて、この土地の土になる気になって、漁師だけでは食えんから、子供の時なろうた菓子のつくり方を家内におしえて、わしは沖へ出る、家内は家で菓子をつくって商いをする、とまァそないにしてつつましう暮らしをたてて来やしたがのう。
 はァ、おもしろいこともかなしいこともえっとありましたわい。しかし能も何もない人間じゃけに、おもしろいということも漁のおもしろみぐらいのもの、かなしみというても、家内に不幸のあったとき位で、まァばァさんと五十年も一緒にくらせたのは何よりのしあわせでごいした。
 だいぶはなしましたのう。一ぷくしましょうかい。
 
 
私の祖父
 「私の祖父」では、著者の祖父である宮本市五郎について書かれています。弘化3年(1846年)山口県大島に生まれ、昭和2年(1927年)にそこで死にました。中農の次男に生まれましたが、兄が早くから大工として外に出たため、家で百姓をしたそうです。著者は述べます。
 
198 仕事をおえると神様、仏様を拝んでねた。とにかくよくつづくものだと思われるほど働いたのである。しかしそういう生活に不平も持たず疑問も持たず、1日1日を無事にすごされることを感謝していた。市五郎のたのしみは仕事をしているときに歌をうたうことであった。歌はその祖父にあたる人から幼少の折おしえこまれたのがもとになっているらしい。田植、草刈、草とり、臼ひきなどの労働歌をはじめ、盆踊歌やハンヤ節、ションガエ節のようなものをも実によくおぼえていた。祖父にあたる人は長男であったのが伯父の家へ養子に来た。気らくな人で、生涯めとらず、すきな歌をうたいのんきに仕事をして一生をおわったらしい。田植時期になると太鼓1つをもって方々の田へ田植歌をうたいにいった。盆になれば踊場へ音頭をとりにいった。旅人はまた誰でもとめた。子がいないから弟の長男を養子にもらった。それが善兵衛である。善兵衛は働きものだが旅人の宿はつづけた。宿といってもお金一文もらうわけではない。家族のものと同じものをたべ、あくる日には一言お礼を言って出ていくのである。
 
201 私がまだ五、六歳ごろののことであったと思う。山奥の田のほとりの小さい井戸に亀の子が一ぴききいた。私は山にいく度にのぞきこんでこの亀を見るのがたのしみだった。ところが、こんなにせまいところにいつまでもとじこめられているのはかわいそうだと思って祖父にいって井戸からあげてもらい、縄にくくって家へもってかえる事にした。家で飼うつもりであった。喜びいさんで一人でかえりかけたが、歩いているうちにだんだん亀が気の毒になった。見しらぬところへつれていったらどんなにさびしいだろうと思ったのである。そして亀をさげたまま大声でなき出した。通りあわせた女にきかれても、「亀がかわいそうだ」とだけしかいえなかった。そしてまた山の田の方へないて歩いていった。女の人がついて来てくれた。田のほとりまで来ると祖父は私をいたわって亀をまたもとの井戸にかえしてくれた。「亀には亀の世間があるのだから、やっぱりここにおくのがよかろう」といったのをいまでもおぼえている。この亀は私が小学校を出るころまで井戸の中にいた。そしてかなりの大きさになった。ある日となりの田の年寄りが、「亀も大分大きくなったで、この中では世間がせまかろう」といって井戸から出してすぐそばの谷川へ入れた。それからのち私が三十をすぎるころまで、夕方山道をもどって来るとこの亀が道をのそのそと歩いているのを見かけることがあったが、祖父はまた山道でこの亀を見かけると、そのことをかならずはなしてくれたものである。
 
203 「どこにおっても、何をしておっても、自分がわるい事をしておらねば、みんなたすけてくれるもんじゃ。日ぐれに一人で山道をもどって来ると、たいてい山の神さまがまもってついて来てくれるものじゃ。ホイッホイッというような声をたててな。」小さい時からきかされた祖父のこの言葉はそのまま信じられて、その後どんな夜更の山道をあるいても苦にならなかったのである。
 
209 世間のつきあい、あるいは世間態というようなものもあったが、はたで見ていてどうも人の邪魔をしないということが一番大事なことのようである。世間態をやかましくいったり、家格をやかましくいうのは、われわれの家よりももう一まわり上にいる、村の支配層の中に見られるようにみえる。このことは決して私の郷里のみの現象ではないように思う。会津盆地の片田舎の貧農の家に育った蓮沼門三の自伝をよんでみて、家族内での人々の生き方をみると、われわれの家とほとんどかわっていない。こうした貧農の家の日常茶飯事についてかかれた書物というものはほとんどなくて、やっと近頃になって「物いわぬ農民」や「民話を生む人々」のような書物がではじめたにすぎないが、いままで農村について書かれたものは、上層部の現象や下層の中の特異例に関するものが多かった。そして読む方の側は初めから矛盾や悲痛感がでていないと承知しなかったものである。
 
210 さて祖父と祖母は50年つれそって、喜の字の祝と金婚の祝を子供たちからしてもらって、貧乏はしても自分の歩いて来た道に満足したのであるが、その年の3月のある宵、祖母は前の家へもらい風呂にいって、そこでしばらくはなし、家へかえって隠居部屋へはいろうと縁へ手をついたまま、脳出血で死んだ。祖父がねようと思って、便所へ行くために縁へ出ると祖母がうつぶしている。声をかけても返事がない。ゆすぶっても動かない。そこで母をよんだ。母がいって見ると、もうこときれていた。嫁に手をやかせず、自分もくるしまずに死んだのだからこれほどしあわせはないといって村人からは徳人といってうらやましがられた。
 
213 祖父が死んだあくる日、近所の老人が祖父名義の貯金通帳をもって来た。それは自分の葬式の費用にするためのものであった。この通帳をあずかっていた老人は、その昔私の家をやいた少年であった。青年のころにはすこし気が変になっていたのを祖父はよくめんどうを見てやった。青年はそれから四国巡礼に出て長い間かえらなかった。もどってくるとすっかり元気になっていた。そして小商売をはじめた。正直で親切で貧乏人にはよい味方であった。祖父にとっては自分の家へ不幸をもたらした人だったけれど信頼してずっと年下なのにかかわらず何事も相談していたようである。
 
 
世間師(一)
世間師(二)
214 日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。
 
243 お伊勢のお札がふって、ええじゃないかとさわいだのもそのころであった。明治元年五箇条の御誓文の「各その志をとげ、人心をして倦まざらしめん事を要す」というのをとりまちがえて、方々のカカヌスミにいったのも、それから間もない頃であった。
 それまで、このあたりには一年に一度だけすきなことをしてよい日があった。同じ南河内郡磯城村の上の太子の会式である。上の太子というのは聖徳太子の御廟のある所である。ここに旧二月二十二日に会式があって、この夜は男女共に誰と寝てもよかった。そこでこの近辺の人は太子の一夜ぼぼと言ってずいぶんたくさんの人が出かけた。
 寺のまえに高い灯籠をたて、参拝した人たちは堂のまえにつどうて、音頭をとり石づきみたいなことをした。
 「出せ出せや酒を、酒を出さねばヨーホーホーイ」
 というような音頭であった。そのぞめきの中で男は女の肩へ手をかける。女は男の手をにぎる。すきと思うものに手をかけて、相手がふりはなさねばそれで約束はできたことになる。女の子はみんなきれいに着かざっていた。そうして男と手をとると、そのあたりの山の中へはいって、そこでねた。これはよい子だねをもらうためだといわれていて、その夜一夜にかぎられたことであった。ずっと昔は良家の娘も多かったが、後には柄のわるい女も多くきた。この時はらんだ子は父なしごでも大事に育てたものである。
 翁も十五になったとき、この一夜ぼぼへいって初めて女とねた。それから後もずうっとこの日は出かけていったが、明治の終頃には止んでしまった。
 ところが明治元年には、それがいつでも誰とでもねてよいというので、昼間でも家の中でも山の中でもすきな女とねることがはやった。それまで、結婚していない男女なら、よばいにいくことはあったが、亭主のある女とねることはなかった。そういう制限もなくなった。みなええ世の中じゃといってあそんでいたら、今度はそういうことをしてはならんと、警察がやかましく言うようになった。
 
259 明治から大正、昭和の前半にいたる間、どの村にもこのような世間師は少なからずいた。それが、村をあたらしくしていくためのささやかな方向づけをしたことはみのがせない。いずれも自ら進んでそういう役を買って出る。政府や学校が指導したものではなかった。
 しかしこうした人びとの存在によって村がおくればせながらもようやく世の動きについて行けたとも言える。そういうことからすれば過去の村々におけるこうした世間師の姿はもうすこし掘り起こされてもいいように思う。
 
 
文字をもつ伝承者(一)
文字をもつ伝承者(二)
 
 
 
あとがき
304 ここに収められたもろもろの文章の大半は雑誌『民話』の第3号から隔月に1回ずつ10回にわたって「年寄たち」と題して連載したものである。対馬にて、村の寄りあい、女の世間、土佐源氏、梶田富五郎翁、私の祖父、世間師(一)(二)、文字を持つ伝承者(一)(二)がこれである。年寄りを中心にして古い伝承のなされ方について書いた。枚数がかぎられていたためにあるものは引きのばし、あるものはちぢめている。それも編集者の寺門正行君から電話でせきたてられたり、汽車の中で書いたりしたものが多かったので、今回すこしずつ増補添削をして、全体としても一冊にととのえられるようにした。
 
308 私の方法はまず目的の村へいくと、その村を一通りまわって、どういう村であるかを見る。つぎに役場へいって倉庫の中をさがして明治以来の資料をしらべる。つぎにそれをもとにして役場の人たちから疑問の点をたしかめる。同様に森林組合や農協をたずねていってしらべる。その間に古文書のあることがわかれば、旧家をたずねて必要なものを書きうつす。一方何戸かの農家を選定して個別調査をする。私の場合は大てい1軒に半日かける。午前・午後・夜と1日に3軒すませば上乗の方。仲間にたのむと、その人たちはもっと能率をあげる。
 古文書の疑問、役場資料の中の疑問などを心の中において、次には村の古老にあう。はじめはそういう疑問をなげかけるが、あとはできるだけ自由にはなしてもらう。そこでは相手が何を問題にしているかがよくわかって来る。と同時に実にいろいろな事をおしえられる。『名倉談義』はそうした機会での聞取である。
 その間に主婦たちや若い者の仲間にあう機会をつくって、この方は多人数の座談会の形式ではなしもきき、こちらもはなすことにしている。
 それらの中からみちびき出してき来た問題はいくつもある。がわたしの一ばん知りたいことは今日の文化をきずきあげて来た生産者のエネルギーというものが、どういう人間関係や環境の中から生まれ出て来たかということである。
 
 
 
注(田村善次郎)
解説(網野善彦
327 「対馬にて」をはじめ「村の寄りあい」「名倉談義」などで、宮本氏は西日本の村の特質をさまざまな面から語っている。帳箱を大切に伝え、「講堂」や「辻」のような寄合の場を持ち、年齢階梯制によって組織される西日本の村の特質が、これらの文章を通じて、きわめて具体的に浮彫にされてくる。それは昔話の伝承のあり方にまで及んでおり、「村の寄りあい」には、西日本では村全体に関することが多く伝承されるのに対し、東日本では家によってそれが伝承されるという注目すべき指摘が見られる。しかし東日本の実体については「文字を持つ伝承者」(二)で磐城の太鼓田を中国地方の大田植と比較し、後者が村中心であるのに、前者がが大経営者中心であったとする程度にとどまり、内容的にはほとんどふれられていない。
 戦後、寄生地主制や家父長制が「封建的」として批判されたことが、農村のイメージをそれ一色にぬりつぶす傾向のあった点に対し、西日本に生れた宮本氏は強く批判的であり、それを東日本の特徴とみていた。この書にもそうした誤りを正そうとする意図がこめられていたことは明らかで、それは十分成功したといってよい。ただ逆に現在からみると、ここで語られた村のあり方が著しく西日本に片寄る結果になっている点も、見逃してはならぬであろう。
 女性の独自な世界がリアルに語られているのも同じ背景を持っているといってよい。「村の寄りあい」の「世話焼きばっば」、老女たちだけの「泣きごとの講」、自らつくった「おば捨山的な世界」や「女だけの寄り合い」、また「女の世間」に描かれた共同体の大きな紐帯をなしていた女性の役割、とくに女性たちの世間話の中から笑話の生れてくる過程など、まことに興味深い話が数多く紹介されているのは、家父長制一本槍の農村理解に対する宮本氏の批判的角度の意識的な強調であろう
 就中注目すべきは、宮本氏が女性たちのまことに解放的な「エロばなし」をはじめ、ある種の性の「解放」について、各所で触れている点である。「対馬にて」の観音堂での歌垣や「男女共に誰と寝てもよかった」という「世間師」(二)の南河内郡磯城村の太子廟の会式は、特別な場でのそれであるが、この話の主役左近熊太翁が「女はねるのが風流の一つ」といい、畿内の「気品のある女には恋歌を書いてわたすと大ていは言うことをきいてくれた」と話していること、「土佐源氏」の主人公の博労に応じた何人もの女性の話などを通して、宮本氏は男女の関係について、通常の「常識」と異なるあり方が庶民の世界に生きていることを語ろうとしているかにみえる。