読んだ。 #沈黙 #遠藤周作

読んだ。 #沈黙 #遠藤周作
 
>島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。
 
55 その夜、山にイチゾウがマゴイチという「とっさま」に属する男をつれて登ってきました。私たちが今日の夕暮、起こった出来事を話すと、イチゾウは細い眼でじっと小屋の一点を見つめ、やがてだまったまま立ちあがると、マゴイチに何か言いつけて二人は床の板を剝がしはじめました。魚油の灯に蛾がまわっています。板戸にかけた鍬をとって彼は地面を掘りはじめました。彼等が鍬をふるう姿が壁に浮かびあがりました。我々二人の体を入れるほどの穴を掘ると彼等はその下に藁を敷き、上を板で覆いました。今後はこの穴をいざという場合、我々のかくれる場所とするのだそうです。
 
64 私の長い間の想像はまちがっていませんでした。日本人の百姓たちは私を通して何に飢えていたのか。牛馬のように働かされ牛馬のように死んで行かねばならぬ、この連中ははじめてその足枷を棄てるひとすじの路を我々の教えに見つけたのです。仏教の坊主たちは彼等を牛のように扱う者たちの味方でした。長い間、彼らはこの生がただ諦めるためにあると思っているのです。
 
170 「正というものは、我々の考えでは、普遍なのです」司祭はその老人のほうにやっと微笑をかえしながら、「さきほど、お役人衆は、我が苦労にいたわりの言葉をくださいました。万里の波濤ををこえ、長い歳月かかって、御国に参ったことに暖かい慰めをくださった。だがしかし、もし正が普遍でないという気持ちがあれば、どうしてこの苦しみに多くの宣教師たちが耐えられたでしょう。正はいかなる国、いかなる時代にも通ずるものだから正と申します。ポルトガルで正しい教えはまた、日本国にも正しいのでなければ正とは申せません」
 
178 「パードレよオ。パードレよオ」
 まるで母親にまとわりつく幼児のように、哀願の声が続いて、
 「俺(おい)あ、パードレばずうっとだましたくりました。聞いてくれんとですか。パードレがもし俺ば蔑(みこな)されましたけん……俺あ、パードレも門徒衆も憎たらしゅう思うとりました。俺あ、踏絵ば踏みましたとも。モキチやイチゾウは強か。俺あ、あげん強うなれまっせんもん」
 番人がたまりかねて棒を持ったまま外に出ていくと、キチジローは逃げながら叫び続けた。
 「じゃが、俺にゃあ俺の言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。俺を弱か者に生れさせておきながら、強か者の真似ばせろとデウス様は仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい」
 怒鳴り声は時々途切れ途切れては、哀訴の声に変り、哀訴の声は泣き声となり、
 「パードレ。なあ、俺のような弱虫あ、どげんしたら良かとでしょうか。金が欲しゅうてあの時、パードレを訴人したじゃあなか。俺あ、ただ役人衆におどかされたけん……」
(略)
 「聞いてつかわさい、パードレ」キチジローは信徒たちに聞えるような声でわめいた。
 「この俺は転び者だとも。だとて一昔前に生れあわせていたならば、善かあ切支丹としてハライソに参ったかも知れん。こげんに転び者よと信徒衆に蔑されずすんだでありましょうに。禁制の時に生れあわされたばっかりに……
恨めしか。俺は恨めしか」
 
231 「二十年間、私は布教してきた」フェレイラは感情のない声で同じ言葉を繰りかえしつづけた。
 「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ」
 「根をおろさぬのではありませぬ」司祭は首をふって大声で叫んだ。「根が切りとられたのです」
 だがフェレイラは司祭の大声に顔さえあげず眼を伏せたきり、意思も感情もない人形のように、
 「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」
 
232 「だが、日本人がその時信仰したものは基督教の教える神でなかったとすれば・・・・・・」
 
「そうではない。この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた」フェレイラは疲れたように床に腰をおろした。
 
233 「お前には何もわからぬ。澳門やゴアの修道院からこの国の布教を見物している連中には何も理解できぬ。デウスと大日と混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作り上げはじめたのだ。言葉の混乱がなくなったあとも、この屈折と変化とはひそかに続けられ、お前がさっき口に出した布教が最も華やかな時でさえも日本人たちは基督教の神ではなく、彼らが屈折させたものを信じていたのだ」
 
236 「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」
 
「日本人は人間を美化したり拡張したりしたものを神とよぶ。人間と同じ存在を神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」
 
「あなたが20年間、この国でつかんだものはそれだけですか」
「それだけだ」フェレイラは寂しそうにうなずいた。
 
257 おや、鼾がまた聞こえはじめた。まるでそれは風車が風で廻っているようだ。尿でぬれた床に尻をおろし、司祭は馬鹿のように嗤った。人間とは何とふしぎなものだろう。あの高く低く唸っている愚鈍な鼾、無知なものは死の恐怖を感じない。ああして豚のようによく眠り、大きな口をあけて鼾をかくことができる。眠りこけている番人の顔が目に見えるようである。それは酒やけがして、肥ってよく食べて、健康そのもので、そのくせ犠牲者にだけはひどく残忍な顔だろう。貴族的な残忍さではなく、人間が家畜や動物に持つ残忍さをその番人も持っているに違いない。自分はそんな男たちをポルトガルの田舎でもよく見て知っている。この番人も、自分がこれからやる行為がどんな辛さを他人に与えるか、毛の先ほども考えぬだろう。あの人を――人間の夢の中で最も美しいものと善いものの結晶であるあの人を殺戮したのもこの種の人間たちだった。
 だが、自分の人生にとって最も大事なこの夜、こんな俗悪な不協和音がまじっているのが不意に腹立たしくなってきた。司祭はまるで自分の人生が愚弄されているような気さえして、嗤うのをやめると、壁を拳で叩きはじめた。番人たちはゲッセマネの園であの人の苦悩にまったく無関心に眠りこけていた弟子たちのように起きなかった。司祭はさらに激しく壁をうち始めた。
 閂をはずす音がする。誰かが遠くから急ぎ足でこちらに近づいてくる。
 「どうしたな。どうしたな。パードレ」
 通辞だった。あの獲物を弄ぶ猫のような声で、
 「怖ろしゅうなったな。さあさあ、もう強情を張らずともよいぞ。ただ転ぶと一言申せばすべてが楽になる。張りつめていた心がほれ、ゆるんで・・・楽に・・・楽に・・・楽になっていく」
 「私はただ、あのいびきを」と司祭は闇の中で答えた。
 突然、通辞は驚いたように黙ったが、
 「あれをいびきだと。あれをな。きかれたか沢野殿、パードレはあれをいびきと申しておる」
 司祭はフェレイラが通辞のうしろに立っているとは知らなかった。
 「沢野殿、教えてやるがいい」
 ずっと昔、司祭が毎日耳にしたあのフェレイラの声が小さく、哀しくやっと聞えた。
 「あれは、いびきではない。穴吊りにかけられた信徒たちの呻いている声だ」
 
265 「基督は、人々のために、たしかに転んだだろう」
「そんなことはない」
「基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」
「これ以上、私を苦しめないでくれ。去ってくれ。遠くに行ってくれ」
 
288 「そこもとは転んだあと、フェレイラに、踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申したそうだが、それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言葉、まことの切支丹とは、この井上には思えぬ」
 「奉行さまが、どのようにお考えになられてもかまいませぬ」
 司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。
 「他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ」筑後守はつめたい声で言った。
 「かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことがある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもならぬ己の弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパードレは、はっきりと申した。切支丹の申す救いは、それとは違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみるとそこもと、やはり切支丹の教えを、この日本と申す泥沼の中でいつしか曲げてしまったのであろう」
 
290 「やがてパードレたちが運んだ切支丹は、その元から離れて得体の知れぬものとなっていこう」
 そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。
 「日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ、パードレ」
 奉行の溜息には真実、苦しげな諦めの声があった。
 
293 その踏絵に私も足をかけた。あの時、この足はへこんだあの人の顔の上にあった。私が幾百回となく思い出した顔の上に。山中で、放浪の時、牢舎でそれを考えださぬことのなかった彼の上に。その顔は今、踏絵の木のなかで摩滅しへこみ、哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」
 その時彼は踏絵に血と埃(ほこり)とでよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい喜びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。