読んだ。 #さいごの色街 飛田 #井上理津子

読んだ。 #さいごの色街 飛田 #井上理津子
 
 
はじめに
第一章 飛田に行きましたか
ある日の飛田/普通の男/「神技」のよう/二十分間の疑似恋愛/「不倫するより健全」/エリートサラリーマン/百五十回行った男/「当たり前」だった時代/無礼講OK/男友達に上がってもらう/老人ホームの車を見た
 
 
第二章 飛田を歩く
飛田への道/抱きつきスリ/大門と嘆きの壁/「料亭」と「鯛よし百番」/飛田の“外”意識/「おかめ」のマスター/深夜の「おかめ」にて/語ってくれたおねえさん/飛田料理組合/菩提寺
 
 
第三章 飛田のはじまり
市会議員の汚職/反対運動と、知事の「置き土産」/大門と開廓当初の街/「居稼」の仕組み/飛田の特徴と花代/娼妓は売られてきた/前借と阿部定/娼妓の暮らし/難波病院と篠原無然/楼主たち/飛田会館/戦前の最盛期
 
83 飛田は、いつから存在したのか。
1912年(明治45年)1月16日に消失した遊郭・難波新地乙部の代替地として、設置されたというのが通説である。
 
84 「同じ場所に復興できないなら、代替地を」と、難波新地乙部の楼主たちは大阪府に陳情書を提出する。市会議員でもあった楼主代表、上田忠三郎らが府庁に日参、上京して内務省に掛け合うなど「尽力」を重ねた。代替地は阿倍野付近か大阪築港付近か淀川北岸かと噂が飛ぶ中、大阪府は、4年後の1916年(大正5年)4月15日、「布告示107号」で、突然、飛田の知を遊郭に指定したのだ。
 第一の理由に挙げられたのが、「失業した難波新地遊郭業者の救済」で、「なぜ飛田の地が選ばれたか」についての説明はなかった。もしや、これには利権がからんでいるのではないかーー。布告が出た5日後、大阪朝日新聞が、立憲同志会系の水野與兵衛府会議員によって飛田の土地の一部が購入されていた事実をスクープした。
 遊郭地に指定されたのは、2万2630坪もの広大な土地だ。それまで一坪1円相当だった地価が、一夜明ければ30円に高騰していた。これを買収して開発し、100戸余りの建物を建てたのは、1916年(大正5)8月に資本金150万円で設立された阪南土地建物という会社で、先述の上田忠三郎が代表者だったのだから、その経緯は明らかにグレーだったのだ
 ましてや、難波新地の楼主たちの変わり身は早く、大火から4年の間に、焼失した党の難波新地乙部の楼126軒のうち76軒は京阪神の他の遊郭にすでに移り、25件は他業に就き、また出身地など地方に移転済みの人も少なくなく、飛田の地が指定されるときには、代替地を必要とするものはほとんどいなかったというから、何をか言わんやである。
 
94 飛田遊郭の営業形態は「居稼(てらし)」だった
 「居稼」は、妓楼に自分の部屋を与えられ、そこで客をとる形態のこと。芸者のように、置屋でスタンバイし、お呼びがかかって座敷に出向く形態「送り」に対して、こう呼ばれた。座敷には、従来に面して太い格子が巡らされ、本来、娼妓はその格子の中で、外向きに並ぶ。東京の「張り見世」と同じ、この形態のことも、大阪では合わせて「居稼」と呼んだ。客は外から覗き込んで、娼妓の品定めをする。娼妓がお客に顔を「照らす」を、当て字にしたもので、「稼ぐ」者が「居る」と書くとは、なんともストレートだ。
 
97 これは、1956年(昭和31年)の直木賞候補となった西口克己の小説『廓』の中の、女衒が京都の「女郎屋」に話す言葉だ。『芸娼妓酌婦紹介業ニ関スル調査』によると、1920年大正9年)の全国の女衒の実績は、「求人1万1385人、求職者8930人、就職者6600人」。この中に、飛田の求人・就職も含まれていたわけである。
 明日の米にも事欠く人たちの目の前に大金をちらつかせ、「戸主」にもちかける。あるいは直接に娘をくどく。その際の女衒らのセールストークのポイントは、
・体を売る仕事だとは、決して口にしない。
・いい着物が着て、いい暮らしができる。金がたくさんもらえる。
・2、3年で上等な着物を着て、たくさんのお土産をもって故郷に帰れる。
 の3点だった。女衒は、娘とひきかえに大金を「戸主」に渡す。その額に、娘が娼妓として働くまでにかかる交通費や食事代、着物代、家具調度代などが加算され、娼妓の『前借金』となる。
 
106 滋賀県八日市市(現東近江市)にあった八日市新地遊郭では、娼妓になる儀式として、女性を、死者の湯灌に見立てた「人間界最後の別れ風呂」に入れ、その後、土間に蹴落とし、全裸で、麦飯に味噌汁をかけた「ネコメシ」を手を使わずに食べさせた。人間界から「畜生界」に入ると自覚させたのだという。「男根神」と書いて「おとこさん」と呼ぶ期の某を強制的に性器に入れる「入根の儀式」というのも行われたという。
 
112 先述したように、当初、飛田遊郭は、開発のために組織された阪南土地建物が「大家」で、楼主たちに建物を賃貸していた。1926年(大正15)6月に、阪南土地建物が新世界のルナパーク(遊園地)や南陽商店街(ジャンジャン横丁)などの経営を手広く手がける大阪土地建物に吸収合併されたため、楼主たちは、自動的に大阪土地建物の「店子」となった。
 
 
第四章 住めば天国、出たら地獄――戦後の飛田
焼け残る/赤線、青線、ポン引き、カフェー/売春防止法/苦肉の策/一斉取締り/「アルバイト料亭」へ/一九六〇年、黒岩重吾レポート/西成暴動/女性の「保護」/「アホほど儲かった」/住めば天国、出たら地獄/喫茶店ママの「女の子」雑感
 
126 これは、「公娼制度を廃止せよ」というGHQに逆らったのではなかった。内務省は、「(米兵による)性犯罪から子女を守るため」という大義名分の下に、3300万円という巨額を投じて「特殊慰安施設協会(RAA=Recreation and Amusement Association)を組織し、米兵向けの慰安所を設置したのだから。公娼制度を非難するGHQが、本音のところで自国の兵士のために売春婦を必要としたのだ。
 RAA RAAは、敗戦間もない8月26日に、花柳界業者らにより会社として発足し、「新日本女性求む、宿舎、衣服、食料全て支給」などと広告を出して、そうと知らずに応募してきた一般女性まで巻き込んでゆく。東京では吉原、玉の井、立川、福生など13か所に設置された。大阪では千日前のアルサロ「ユメノクニ」に慰安所が設置されたが、飛田には設置されなかった。
 「進駐軍ジープに乗って飛田を見にきたけど、建物が古くさいという理由ではずされた」
 と、飛田近くの山王2丁目の住民でもあった竹島昌威知さんが教えてくれた。
 
132 そのころ、飛田の経営者の中に、着流しに丸帯、膝までの羽織という断層で闊歩する「女次郎長」を名乗る任侠もいた。この女次郎長が、女人禁制の大峰山奈良県)に登ろうとしたというエピソードが、大峰山麓の洞川という町に残っていた。お坊さんら3人の男性を連れて登山口に行き、洞川の住民たちに止められた。「大峰山の女人禁制が解かれた折には、一番乗りする」と取り決めし、「その時に返す」と証文を書いて、区長の家に伝わる役小角の立像を持ち帰ったという。
 
143 「売春婦を、搾取と拘束から解放するのだと、私たちはやったわけです。女性を食い物にして、甘い汁を吸っている業者を徹底的にやっつけようと。しかし、結論を言うと、売春婦まで落ちた女性は転業ができなかった。田舎に居場所がなかった。飛田の経営者や暴力団に搾取されても売春をして生きていくほうがよいという、貧困の構造には太刀打ちできなかった・・・・・・」
 四方さんたちが保護し、旅費をもたせて田舎に帰らせた元売春婦たちは、しばらくして、ぽつりぽつりと戻ってきたのだった。
 
154 ・C子さん(36歳)
 西成で出張売春業を始めた。女性を逃がさないために麻薬を用い始め、自身も麻薬中毒に。麻薬取締法の現行犯で検挙され、実刑となる。
 1953年、29歳で景気を終えて実家に帰るが、狂躁状態に。精神病院で「ロボトミー手術」を受けて、40日後に実家に戻る。しかし、家人がまた再婚話を持ち出したため、家を出る。(「ロボトミー手術」とは、全部前頭葉切除手術のことで、人格変化を起こすなど、医学的、人道的な問題が多く指摘され、現在では行われていない)
 古巣の山王町界隈を縄張りに、再び売春管理をする。売防法後は自ら曳き子となって街頭に立つ。1959年5月30日、検挙。不起訴、婦人相談所に一時保護後、生野学園に移送された。
 生野学園に入寮後、鋼材会社に勤める。しかし、社長のセクハラに遭い、退職。その後、胃潰瘍になり、入院・手術。退院後、新興宗教家に話を聞いてもらい、救われつつある。
 
160 『花の大門灯りがつけば』
友田澄之介 作詩/稲葉実 作編曲
平井治男 唄/斎藤正男とその楽団
 
花の大門、 灯りがつけば
なびく柳に 彼女(アノコ)の笑顔
明るい西成 楽しい飛田
君と僕との新天地 新天地
 
お茶を飲もうか シネマを見よか
更けりゃ青春 ほろ酔いきげん
明るい西成 楽しい飛田
夢の花咲く 新天地 新天地
 
『飛田小唄』
友田澄之介 作詩/山室敏男 作編曲
 
ハァー浪花うれしや 西成ゆけば
むかし恋しい ネオンが招く
飛田えーとこ ほんまにそやそや
紅がこぼれる ちらちらと ちらちらと
 
ハァーあの娘(コ)見たさに また逢いたさに
門をくぐれば 優しいえくぼ
飛田えーとこ ほんまにそやそや
恋のやなぎも なよなよと なよなよと
 
 
 
第五章 飛田に生きる
「さわったらあかん」の掟/夏まつり/原田さんの本当の経歴/開かずの間/舐めたらあかん/古びたアパートで/夫婦の履歴/欲と二人連れ/不動産屋にて/初めてのヤクザ取材/組事務所を訪ねる/求人
 
169 私は、2001年から08年までの間に4回この夏まつりを見に行った。最初の年はまず子どもの人数に面食らった。
 「飛田に住んでる子は数えるほどやけど。(料亭などの)従業員の子やら、近隣に住んでる子やら。飛田ほど奮発してお菓子たくさん出してる町会、他にないんちゃうか。それ目当てに、みんな来てくれる」
 と、町会世話係氏。
 「普通、お神輿は神様がお旅所へ移動するときに乗るものやん?このお神輿も氏神さんに拝んでもらったん?」
 と聞けば、
 「そんなん無理無理、これ、あらへんがな」
 と、世話係氏は右手の親指と人差し指で丸を作って、笑った。
 「飛田には、七夕も地蔵盆も子供の祭りがな~んもなかったんよ。かわいそうやんか。それで、昭和55、6年くらいから、これ始まったらしいよ。そこのころは、中に子どもも大勢住んでたからね」
 とのことで、神様不在のお神輿だった。
 私の住んでいた千里ニュータウンも同じだ。土着のお祭りがないのが「かわいそう」だからと、地区の小学校では、お神輿(つうのもの)をメインにした秋の学校行事があった。
 
179 開かずの間
 原田さんに関して、もう一つ追記しておきたいことがある。
 ある夜、「きれいごとでない話を教えたろか」と、相当酒の入っていた原田さんが言い出した。
 「料亭をよう壊さんもう一つの理由があるねん」
 「なになに?」
 「昔の話やで。あくまで昔の話やで。な。そこんとこ、間違うたらあかんで」
 「分かった」
 「『開かずの間』があるんやんか。分かるか?」
 原田さんがゆっくりと話し出したのは、母親がやっていた料亭の建物は、外から見ると二階建てだが、じつは3階に屋根裏部屋があるということ。そこが、病気になった女の子を寝かしていた部屋だと思うということだった。
 「なんぼ、りっちゃんにかて、俺の口からよう言わん。な、分かるやろ。分かるやろ。そういうことや」
 ということは、その部屋でそのまま亡くなった人もいるということか。病気ばかりでなく、お仕置き部屋としても機能したのだろうか。想像はふくらむが、原田さんは明らかにそれ以上を話したがっていない。書けば簡単だが、そこまで話すまでには、話しはじめてからすでに一時間ばかりを要していた。「こんなこと素面で喋れるかい」と言うかのように、原田さんは白波のお湯割りをぐいぐい飲んだ。
 「その部屋、見たいか?」
 「うん」。奥さんが「やめとき。戸の前に行くだけで冷っとするんよ。ぞっとするんよ。さわらんほうがええ」と言ったが、好奇心が勝った。
 「僕かて中には一回も入ったことないねん。僕が小さい時から、ずうっと閉まったままやったから。ただ、女の子がお盆に載せてご飯を運んでいくのは見たことあるような・・・・・・気ぃするねんな。僕かて”恐いもの見たさ”な気持ちや」
 居酒屋「おかめ」から元料亭の建物までは、裏の通路で続いている。元料亭の建物の中に入るのは2度目だ。1度目は、原田さんに初対面の日で、かなりおびえながら中に入ったよなと思い出しながら、原田さんの後を建物の中に入った。すでに原田さんへの信頼感は絶対だから、怖くはない・・・・・・のだが、電気を点け、2階に上がり、
 「ここや」
 と、通路の端にある戸の前に立つと、奥さんの言が正しかったことがすぐに分かった。単なる木の引き戸だ。だが、奥から、何がしかの”気配”を感じる。戸の奥から、何かしらが漂ってくるような気がしてならないのだ。
 「開けるで」
 原田さんが引き戸を開けた。かたい。歪んでいる。ぐぐぐっと音を立てて、引き戸が開いた。その中には、暗く、細く、急な階段が続いていた。
 「登る?」
 「う、うん」
 私は、特に「気」の鋭いほうではない。パワースポットと呼ばれるところに行っても、何かを感じた経験もない。しかし、この時は違った。暗く、細く、急な階段を2、3段上がると、身の毛がよだった。腕や足、体全体の産毛が立ったような感覚に襲われた。「となりのトトロ」に出てきた「まっくろくろすけ」に似た、しかしもっと陰湿な黒い物体がいっせいに動いた、ような気がした。と同時に、階段上から冷たい風がするするするっと流れてくるのを、確かに感じたのだ。心臓が口元に上がってきたかのように口ががくがくし、震えが止まらなくなった。
 「原田さん、私、無理」
 「そやな。僕も・・・・・・やめとこ・・・・・・」
 二人して踵を返し、引き戸を元通りに閉めた。
 「ほら見てみ。やめときって言うたやろ」 
 「おかめ」に戻ったとき、血の気が失せた顔をしていたらしい私に、奥さんがそういった。「あかん、酒や酒」と、白波のボトルに手を伸ばしながら、やはり青くなっている原田さんが、こうも言った。
 「あのなぁ。飛田はうち以外にも、営業してへんのに建物をようぶつさんと置いてるとこ何軒かあるやろ。よう見てみ。3階がある。つまり、そういうこっちゃ」
 
188 「ウチ、今、おばちゃんやで」
 飛田の曳き子のおばちゃんをしているというのだ。その時、すぐにも食らいつきたい気持ちを抑え、「うわ、そうなん。飛田のこと、また教えてくださいね」に留めたのは、先の取材約束の失敗によって「急いてはコトを損じる」と懲りたからだ。
 田口さんというご夫婦は、創価学会員だった。大きな仏壇をもっていたが、火事で焼けてしまった。「この年から、もうローンよう組まんから」と、小型の仏壇を部屋に置いていたのだった。後日訪ねると「今から集いに行くから、井上さんもおいで」と誘われ、ついて行った。
 集いの会場は、界隈では大きめのお宅。三和土を上がると、八畳ほどの茶の間があり、そこに茶髪の青年から80歳以上とおぼしき女性まで17人がずらりと座っていた。2月だった。「学会歌」の合唱から始まり、
 「南無妙法蓮華経・・・・・・・」
 のお題目が唱和された後、世話役が「1月2日、池田先生の81歳の誕生日に、晴れて入会された方を紹介します」と、前方にちょこんと座っていた、肉体労働者であろう日に焼けた70年配の男性を紹介した。その男性は、
 「いい人間になりたいです。今最悪ですから」
 と皆に言って、ぺこりと頭を下げた。
 続いて、「一人一言ずつ近況報告を」となり、端に座った人から「朝夕、お題目を唱えています」「仏壇に向かうと気持ちが落ち着きます」などと報告したが、先ほどぺこりと頭を下げた70年配の男性に順番が回ると、その人は、
 「集いに来さしてもらうんは、まだ2回目で・・・・・・こんなふうに喋ったこと学校の時から一回もないから・・・・・・かなわんのやけど」
 と小声で言った後、もごもごとこんなふうに続けたのだ。
 「オレは今までむかっとすることがあったら、特に酒飲んでたら、すぐに手ぇが出たけど・・・・・・このごろは心の中で・・・・・・まずお題目を唱えるようになった。唱え終わったら、むかっとする気持ちがおさまってて・・・・・・手ぇがでんようになりました」
 世話役が、「それはいいことです。頭が爆発しそうになったら、お題目、ひとり言やと思うて言うてください。120%、頭の切り替えやっていくようにしてください」と応じ、皆がその男性に拍手をした。田口さん夫婦も大きな拍手をした。男性は「うれし恥ずかし」といった面持ちになった。
 
202 不動産屋にて
 梅田さんは、もともと母親名義だった料亭2軒のうち1軒を自分名義に変えたと言ったが、飛田に新規参入はできるのか知りたい。新開筋商店街に不動産屋は2軒ある。そのうち、張り紙のある方の店を覗いた。
 「6畳トイレ付き3万3000円」「2DK5万5000円」などという張り紙に並んで、一軒の「料亭」の案内が張り出されていた。表に張り出されているということは、オープンな情報なのだ。
 「山王3丁目
 客室3
 保証金2000万
 家賃200万」
 ノートにメモを取っていると、
 「やめとき」と後ろから声がかかった。
 
 
第六章 飛田で働く人たち
事務所再訪と、消えた「おかめ」/料亭の面接/西成警察、大阪府警/ビラを配る/二十九歳の女の子/元“お嬢”/彼氏は「借金まみれ」/まゆ美ママ/飴と鞭/商売哲学/タエコさん/原田さんとの再会
 
228 飛田新地料理組合が、公的機関から「感謝」されてきたというのも妙だが、なにより驚いたのは、マントルピースの上に飾られた写真である。料理組合の組合長と茶髪の弁護士が二人でにっこり笑顔で写っている写真が、そこにあったのだ。
 「あれ? これ橋下知事。『行列のできる法律相談所』に出ていたころの橋下知事ですよね?」
 「そうや。組合の顧問弁護士。一回、公演に来てもろた時に写したやつやな」と幹部。
耳を疑った。
 「えっ?ほんまに?」と訊き返しても、
 「そうや。だいぶん前やから、ふたりとも若いわ」
 と得意然としているのだった。
 事務室の壁面に、組合長をはじめとする幹部の名札が並んでいる場所がある。その末尾に、「橋下事務所」と書いた札が確かにかかっているのも、見てしまった。
 
268 料金は、30分1万円(80年代後半当時)。できるだけ「延長」を取る。
 暗黙の約束事は、女の子が玄関口にいないときには呼び込まないこと。近所の他店の呼び込みの邪魔になるからだ。自分の店の間口の間しか呼び込まず、道路の真ん中より向こう側を歩いている人を呼び込む権利は、向こう側にある。店の玄関口に鏡を置くのは、客が店の境界線より手前に来た時点から呼び込むため。鏡に客の姿が映ると、すぐに呼び込みを始めるという寸法だ。
 
281 トサン(年利1095%)、トゴ(年利1825%)などトイチ以上の闇金が横行しているのだという。先に、ヤクザの人たちから聞いた闇金の仕組みの、さらに上をいっているというのだ。
 
298 多くの「女の子」「おばちゃん」は、他の職業を選択することができないために、飛田で働いている。ほかの職業を選べないのは、連鎖する貧困に抗えないからだ。抗うためのベースとなる家庭教育、学校教育、社会教育が欠落した中に、育たざるを得なかった。多くは十代で親になる。親になると、わが子を、かつての自分と類似した状況下におくことになる。
 本書には書かなかったある女の子と、ミナミの居酒屋であった時、彼女は生ビールのジョッキが汚れていたとアルバイトの若い女性を頭ごなしに怒り、料理の運び方がなっていない、客をバカにしているのかと声を荒げた。自分が” 上”の位置にいるとの誇示と、普段抑圧化にいるストレスの発露だと思う。そうした幼稚な言動は、時として、差別言語となって露呈する。 「あいつは朝鮮や」「あいつら部落や」「(生活)保護をもらう奴はクズや」といった耳を疑う言葉を、飛田とその周辺で、幾度となく耳にした。個別の責任ではなく、社会の責任だと思う。