読んだ。(見た) #昭和の東京 あのころの街と風俗 #石川光陽

読んだ。(見た) #昭和の東京 あのころの街と風俗 #石川光陽
 
警察のカメラマンとして、昭和2年(1927)~昭和38年の36年間に、東京各地の写真を撮った石川光陽さんの写真集。
 
戦前、戦中、戦後の東京の風景、人々の様子。
銀座や神田、六本木、上野、浅草、遊郭、高円寺のカフェー街、細民街など、戦前の東京の人々の生活風景や、第1回普通選挙ベーブルース来日、2.26事件、そして東京空襲など、警察官だったからこそ撮れた歴史的瞬間の写真など。
それらについての思い出、終戦の日前後の日記などもあり。
石川さんの記憶力もすばらしく、興味深い話も多いので、東京に住んでいる方や、昔の街並みなどに興味がある方にもおすすめです。
 
石川さんは、東京大空襲の様子を記録資料として撮影を行った唯一のカメラマンとのこと。
終戦時、GHQは石川さんの存在を知り、警視庁にフィルムの提出を命令したが、
石川さんは、生命がけで撮影した大切な記録を渡すことをよしとせず、自宅の庭に埋めて提出を拒否したとのこと。
 
14 ライカD DⅢ――このカメラと初めて出会ったのは、赤坂表町署(現・赤坂署)から警視庁勤務になった翌年でしたから、昭和7年だったと思います。
(略)
 そこで、さっそく、会計課長に「買ってほしい」とお願いに行ったのはいうまでもありません。しかし、値段をきくと、課長もびっくりしてしまったようです。しばらくは「とんでもない」「とんでもない」といって相手にしてくれませんでした。なにしろカメラのボデーと標準レンズだけで600円、それに引きのばし器など暗室道具を入れると2000円にもあるのですから、無理もありません。当時私の給料が40円くらい、600円もあれば家が一軒楽に建てられた時代でした。
 しかし、何度も説得をしているうちに、課長も、この新兵器の威力を分かってくれたようで、ついに「ウン」と言ってくれました。
 このライカDⅢで、依頼、「警視庁のドラ息子」と冷やかされながら、東京の街灯をスナップしたのが、この写真集です。
 
33 二か月間の訓練が終わり、赤坂表町署(現・赤坂署)に配属されたのが、昭和2年5月9日。ちょうど、説教強盗が東京中を荒らしまわっていたころで、制服を着て市電に乗っていると、
「昨夜も説教強盗がでたそうよ。でも、やっぱりつかまらなかったみたいだわね」
なんて、聞こえよがしに言われたものです。
 この強盗は、頭に「説教」という文字がつくように、その頃現れた新種の強盗でした。金持ちのお屋敷などに、夜半、刃物で武装して押し入り、現金を奪っていくところまでは、それまでの強盗と変わらないのですが、どういうわけかすぐには逃げず、家人を起こし「犬を飼いなさい」「庭の暗いところに電灯をつけなさい」とか説教をして悠然と引き揚げていくことから、こんな名前がついたのです。
 
40 自殺名所だった上野松坂屋
 
65 五反田駅界隈
 駅がこれだけ高いと、電車の運転も大変だったようで、風の強い日とか台風のときなどは、事故が起きてはいけないと、乗客は五反田駅のひとつ手前の大崎広小路で降ろされ、空の電車が一両ガタゴトと走ったこともあったそうです。
 
78 銀座の近くに東南アジア的風景 
 当時、「大根河岸」と呼ばれていたように記憶しています。橋のたもとに京橋青果市場がありまして、そこではおさまりきらず、橋の上にまで市場がはみだしてきたらしいのです。
 
128 米軍の本土空襲がはじまったのが昭和17年4月、ドウリットル中佐が太平洋上の空母からB25を発信させ、東京、名古屋など五都市を奇襲したのが最初でした。
 東京では、4月18日に尾久地区(現・荒川区)が爆撃を受けました。
 このとき、当時の坂信弥警視総監から、
「空襲はこれだけで終わらないだろう。のちの日のために記録しておかなければならない」
 といわれ、私が特命を受け、撮影にあたることになりました。以来、20年8月15日の敗戦の日まで、まさに”空襲カメラマン”としての毎日を送りました。当時、空襲の状況や被害の模様を記録することは、軍の機密に属することとして禁止されていましたが、警視総監の特別の計らいで許可されたそうです。
 東京空襲が本格化するのが19年秋。20年に入ると、3月、4月、5月とつづいて大爆撃を受け、東京は壊滅的な打撃を被りました。
 
131 3月の大空襲を経験してからというもの、警視庁では、消火活動よりも住民の避難を最優先に考えていました。ところが、憲兵はそれを快く思っていなかったようです。被災現場では、住民の前に「逃げるとは国賊だぞ! 」とサーベルを抜いて立ちはだかり、警察官とこぜりあいがあちこちで見られました。私も、撮影にはいつも私服で出かけていたものですから、2回ほど憲兵に引っ張られたものです。