読んだ。 #日本文化の形成 #宮本常一

読んだ。 #日本文化の形成 #宮本常一
 
1.日本列島に住んだ人びと
 1.エビスたちの列島
・エミシという言葉
8 エビスという言葉がある。夷の字を書くことが多いが、蝦夷とも書いた。そして、古くはエミシとよぶことが多かったようで、蘇我蝦夷という人の名はソガノエミシとよんでいる。蘇我蝦夷蘇我氏の氏長で大和の飛鳥のあたりにいて大きな勢力を持ち、紀元六四五年に中大兄皇子中臣鎌足らに攻められて、その邸で自殺しているが、それまで大和地方で最も大きい勢力を持っていた。その人がどうして蝦夷と名乗っていたのであろうか。
 
日本史の教科書に蝦夷が初めて登場するのは恐らく坂上田村麻呂の件でしょう。
中央国家から見れば、制圧され、支配されるべき存在であった「蝦夷」という言葉を以って、蘇我入鹿の父であるほどの人物がなぜ蝦夷と名乗ったのか。
 
蝦夷は毛人とも書き、いずれも高貴な身分の者が名乗る例があります。
著者は、この毛人という字面から、冒頭の素朴な疑問の答えとして「毛が深かったためではないか」と言っています。
しかしながら、「毛が深い」という認識は「毛が薄い」人との接触、そして比較によってはじめて自覚されるものです。
 
9 そういうところへ、朝鮮半島を経由して多くの人々が渡来し、国土統一の上に大きな役割を果たした。朝鮮半島を経由して来た人びとはもともと貧毛の人が多かった。貧毛の人たちからすれば多毛な人はたくましく見えるであろう。毛人と書き、エミシと名乗る人たちの心の中にはそうしたたくましさへのあこがれもあったはずである。そしてその人たちは外から渡来してきた人たちではなく、もともとそこに古くから住んでいた人たちであった。
 
古来から日本に住んでいた人たちは毛深く、大陸から来た人たちは貧毛であった。
著者は、毛深い原住民は「狩猟や漁撈」をその主な生活手段としていたと書いています。
その点で、縄文文化時代においては、北海道・東北は西南日本と比較して食料が豊富であり、人口密度も高く、文化的に優れていたと推測しています。
 
・エミシとは誰か、そして、誰でないのか
 ところが、大和の地に国家が成立するにつれて、原住民は異端視されることとなりました。
720年に完成した日本書紀には、「東夷の中に、蝦夷是れ尤だ強し。」と始まって、東国から東北にかけ、身体能力が高く、農耕に従わず、狩猟に従事する人びとが存在し、いかに野蛮であるかが描かれています
 
といっても、これに留まらず、蝦夷は東北に限らず西南日本にもいたようであることが指摘されています。
その根拠を著者は「古事記」や「日本書紀」に求めます。
 
登場するのは、あの「恵比寿様」です。
 
26 (中略)このコトシロヌシを、後世の人はエビス神としてまつっている。とくにこれをまつっているのは、古くは漁民仲間が多い。そして漁民たちは日本の沿岸に多数住みすいており、漁民もまたエビスであった
 
コトシロヌシはもともと出雲の地にいたのが高天原から下ってきた二人の神に国をゆずったという「日本書紀」の記述や、狩猟民から神としてまつられていたことから、エビスは狩猟を生業とする日本古来の原住民を指すのではないか
地理的な問題で日本列島を統一した大和の国家と接触する機会に乏しい東北の原住民たちは、国家からはいつまでたっても「エビス」のままであって、いつしか「エビス」は未開を意味することとなった。
 
そう著者は指摘しています。
 
また、「日本書紀」「風土記」では、土蜘蛛国栖(くず)海人(あま)と呼ばれた人々が描かれており、彼らは関東以西にあって漁撈や狩猟を生業とするものたちでした。
彼らもまた縄文文化の伝統を受け継ぐものではないかと指摘しています。
 
以上のように、蝦夷とはもともと縄文期から日本にいた人たちであって、統一国家が形成されてなおその文化の影響を受けず、縄文期以来の文化を継続させていた人たちのことであるというのが著者の主張するところでありました。
関東以西にいた土蜘蛛や海人たちは徐々に大陸文化を取り込んだ統一国家に支配され、彼らの生活は大きく変わったものと思われます。
一方、北海道・東北にいた蝦夷たちは、西南日本で形成された統一国家との地理的な関係性の結果によって、つまり原住民とは異なる文化を持つ人たちの繁栄によってはじめて異端視されることとなったのです。
 
では、縄文期から住んでいた毛深い人を野蛮であると書きたてた国家のルーツとはなんなのでしょうか。
 
17 1000年は40世代なのである。
(さて一人の人間が成長して結婚して子供をもつことができるようになるのはだいたい25歳前後であるから)(1000/25=40)
 
24 『日本書紀』の景行天皇四十年
東夷あずまえびすの中に蝦夷えみし是これ尤はなはだ強し。男女交居まじりゐて、父子別無し。冬は則すなはち穴に宿ね、夏は則ち樔すに住む。毛を衣しき血を飲みて、昆あに弟相疑ふ。山に登ること飛禽の如く、草を行はしること走獣の如し。恩めぐみを承けては則ち忘れ、怨あだを見ては必ず報ゆ。是を以て、箭やを頭髻たきふさに蔵かくし、刀を衣の中に佩はけり。或は党類を聚あつめて辺界を犯し、或は農桑のうそうを伺ひ以て人民を略かすむ。撃てば則ち草に隠れ、追えば則ち山に入る。故かれ、往古以来未だ王化に染したがはず。
 
26 ところがコトシロヌシという神は、奈良県の山中にも古くまつられていた。『延喜式』という書物を見ると、大和葛上郡に鴨都味波八重事代主命という神がまつられている。葛上郡はいま葛城といわれているところで、そのあたりにはもと鴨とよばれる部族が住んでいた。のちに山背(城)に移って賀茂と書くようになるが、もとはその字のごとく鴨をはじめとして鳥類をとらえることを生業としたもので、やはり狩猟民であったと思われる。その人たちのまつった神にコトシロヌシがあり、土地の人は今日エビス神としてまつっている
 このようなことから考えあわせてみると、古くから日本列島に住んでいて、狩猟や漁撈にしたがっている人びとがエビスと呼ばれたのではなかったかと思う。そののちに日本列島を統一し、支配した民族とよく接触したエビスたちは、自分たちの統率者を神としてまつったが、大和朝廷の支配者たちと比較的接触の少なかった東北のエビスたちは、エビスという言葉が未開を意味するようにとられるにいたったのであろう
 
 
 2.稲作を伝えた人びと
 
 
 
2.日本文化に見る海洋的性格
 1.倭人の源流
 2.耽羅・倭・百済の関係
 3.北方の文化
 4.琉球列島の文化
 
・稲作をもたらしたものと武力国家をもたらしたもの
70 つまり私のいってみたかったのは弥生式文化と古墳文化はおなじ大陸からの文化でありながら、その渡来の経路が違っていたのではなかったかということである。そして弥生式文化というのは稲作をもたらしたものではあったが、ほとんど武力をともなわない文化であった。銅器が渡来しても、利器としての銅器は鋳直して平型銅剣や広幅銅矛にして祭祀呪術に用いたと見られ、また銅鐸のようなものを作っている。これも祭器であったと考える。
 しかし朝鮮半島を経由して来た文化は武力的な要素をたぶんに持ち、武力による国家統一を進めていった。『日本書紀』にあっては、神武天皇以後の歴史は武力統一の歴史であるといってよい。そしてそれは武器のみが伝来したのではない。人もまた徐々にではあるが、朝鮮海峡を超えて多数入り込んできた。しかもその入り込んできた期間はきわめて長かった。西暦起源の頃からはじまって10世紀の終わり頃まで、およそ1000年にわたっている。
 
著者の結論を先に紹介しました。
僕自身、邪馬台国(=弥生式文化)の誕生から大和政権(=古墳文化)の国家統一までが連続的につながっているという習い方をした記憶はありませんでしたが、著者もその二者のルーツが異なることを主張しています。
 
先に日本における稲作の起源について整理しましょう。
 
35 もともとこの列島の上には稲作は行われていなかった。稲作は大陸から渡来したものであるが、それも華北から朝鮮半島を南下して日本にもたらされたものではなく、中国の沿岸から朝鮮半島の南部を経由して、日本にもたらされたものではないかと見られている。そして、それを物語るような遺跡が北九州で発掘されている。福岡県粕屋郡新宮町に夜臼というところがある。そこから縄文系の土器が発掘されているが、この土器は弥生初頭の土器と共伴することで、縄文から弥生へ土器の変化する過程を知ることができる。
 ところがその夜臼式の土器を出す島原半島原山支石墓群の土器の破片に、籾の圧痕のあるものが発見された。すると縄文晩期の頃には、北九州に稲が渡来していたことになる。(中略)
 弥生式文化初期の稲作を伴なう遺跡はいまのところ北九州に多いようで、現在の状況からすると、日本の稲作は北九州に起こったといってもよいのではないかと思う。そしてその米は朝鮮半島からもたらされたものであろうが、その米作は朝鮮半島を北から南へ下った海をわたって日本列島にもたらされたものではないようである。朝鮮北部には今日まで稲作の古い遺跡は発見されていない。
 
本筋ではないのでここでは詳細に触れませんが、稲作は朝鮮半島からではなく、中国大陸から沿岸伝いに朝鮮半島を経由し、日本に伝来したようです
一旦このような形で稲作が伝来すると、農耕によって土地へ定着するようになり、呪術的支配による国家の形成に至りました。
この時代にも青銅器が大陸から輸入されていたようですが、これらは武器でなく銅鐸や鏡など農耕や祭祀の目的で利用されるものが主だったようです。
 
では稲作をもたらしたのは何者なのか。
著者はこの人たちこそを「倭人」であるとし、そのルーツは揚子江から南の主として海岸地方に居住した「越人」ではないかと指摘します。
「倭」とは『魏志』「倭人伝」の「倭」、「越」とは『呉越同舟』の越ですね。
 
越とは中国最初の王朝と呼ばれる「夏」の末裔と言われ、海に潜ることが上手で、体に入墨をし、米と魚を常食とする海洋民族と見られますが、『魏志』の「倭人伝」で描かれる「倭人」もまた、同様の特徴を持っていたようです
52 日本へ稲作が渡来するするのと、越(えつ)が呉を滅ぼして江南の地に国家を形成したとき(紀元前473年)とほぼ時期がおなじようである。越の勢力範囲は華南の海岸一帯から、浙江省福建省広東省、広西省からベトナムにわたっていた。竜を崇拝し、入墨をおこない、米と魚を常食とする海洋民族の国である。この民族の一派が倭人ではなかったかと考える。そして舟またはいかだを利用して、朝鮮半島の南部から北九州へかけても植民地を作ったと考える。そして倭と邪馬台国とは一応区別してみていくべきものと思う
 
越人はベトナムまで勢力を広げており、「夏」も東南アジアの原住民をルーツにもつと言われています。
東南アジアが日本の米のルーツであるとする説からも、この越人たちの稲作が日本に伝わったと見るのは筋違いとは言えないでしょう。
 
面白いのが、魏志』は西暦290年ごろに書かれたと見られていますが、日本へ稲作が渡来して600年も過ぎたころで、これはちょうど弥生式文化の時代から古墳文化の時代への移り変わりのタイミングであったということです。
(そして『日本書紀』は西暦720年に撰出されたもので、律令国家が成立した後であり、稲作が日本に渡来してから1000年の後に、日本の歴史が文字として記録されたもの。)
その頃の『魏志』に書かれた「倭人」の姿は越人の影響を強く受けているが、逆に華北朝鮮半島北部の影響が見受けられないということが読み取れるのです。
 
倭人は中国の南方から海岸沿いに朝鮮半島南部へと至ったとされていますが、彼らはどのようにして日本と朝鮮半島とを行き来していたのでしょうか
著者は、『後漢書』の「韓伝」に、朝鮮半島の南部に「倭」があったと記されている記述を頼りに、倭人朝鮮半島南部に自らの植民地を築いたと推測します。
この植民地を拠点に倭人は日本へ渡り、日本の西部にもまた植民地をつくりました。
これが『魏志』「倭人伝」にある「倭国」でありますが、これは「邪馬台国」とは別種のものであることを匂わす記述が『旧唐書』にも見られるとのことです
 
46 魏書東夷伝にみる諸民族の記録>倭人
 倭の人々は、帯方〔郡〕の東南にあたる大海の中の〔島々〕に住んでいて、山や島によって国や村をつくっている。もとは百余の国々に分かれていて、漢の時代には朝見して来る国もあった。今、通訳をつれた使者が〔中国や帯方郡に〕通って来る所は、三十国である。
 〔帯方〕郡より倭に行くには、郡を出発して、まず海岸に沿って航行し、韓〔族〕の国々を歴て、乍<しばらく>は南に、乍は東にすすんで、その北岸の狗邪韓国に到着する。〔この間の距離は〕七千余里である。
 〔そこから〕始めて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に到着する。この国の大官は卑狗<ひく>といい、次〔官〕を卑奴母離<ひぬもり>という。住んでいる所は海に囲まれた孤島で、広さは四百余里四方ほどである。土地は山が嶮しく、深林が多く、道路は禽獣(けもの)が通う小径のようで、狭く嶮しい。〔人家は〕千余戸ある。良い耕地はなく、人々は海産物を食糧として自活しているが、船によって南北〔の国々〕から米穀を買い入れてもいる。
 次に南へ海を渡り、千余里すすむ。この海の名は瀚海といい、一大国(壱岐)に到着する。〔この国の長〕官もまた卑狗といい、次〔官〕は卑奴母離という。広さはほぼ三百里四方である。〔この国には〕竹木や叢林が多く、三千ばかりの家がある。耕地は少々あるが、耕地を耕すだけでは食糧を確保することができないので、〔対馬国と〕同じく南北から米穀を買い入れている。
 また一つの海を渡り、千余里行って末廬国(佐賀県松浦郡)に到着する。人家は四千余戸あり、〔人々は〕山裾や海浜に沿って住んでいる。草木が繁茂して、〔道を〕すすんで行っても前に行く人の姿を見ることができない〔ほどである〕。〔この国の人々は〕魚や鰒<あわび>を捕らえることが得意で、水の深浅に関係なく水中に潜ってそれら(魚やあわび)を捕らえている。
 陸上を東南に五百里すすむと、伊都国(福岡県糸島郡)に到着する。〔長〕官は爾支<じき>といい、次〔官〕を泄謨觚<せつぼうこ>と柄渠觚<へいきょこ>という。人家は千余戸ある。代々国王がいて、みな女王国に統属している。〔ここは帯方〕郡からの使者が倭と往来する時に常に駐まるところである。
 〔伊都国から〕東南に百里すすめば奴国(福岡市)に到着する。〔長〕官は●馬觚[●は凹に儿]<じばこ>といい、次〔官〕を卑奴母離という。二万余戸の人家がある。〔奴国から〕東に百里すすめば不弥<ふみ>国に到着する。〔長〕官は多模<たも>といい、次〔官〕は卑奴母離という。千余戸の人家がある。〔不弥国から〕南へ水行二十日すすむと投馬国に到着する。〔長〕官は弥弥<みみ>、次〔官〕は弥弥那利<みみなり>という。五万余戸の人家がある。
 〔投馬国から〕南にすすみ邪馬壹<やまいつ>国に到着する。ここは女王の都している所であり、〔長〕官には伊支馬<いしま>があり、次〔官〕を弥馬升<みましょう>、つぎを弥馬獲支<みまかくき>、つぎを奴佳鞮<ぬかてい>といい、七万余戸〔の人家〕がある。女王国より北にある国々については、その戸数やそこへ行く道里<みちのり>をだいたい記載することができるが、その他の周囲の国々は遠く距っていて〔それらの戸数や道里を〕詳細に知ることができない。
 つぎに斯馬国があり、つぎに巳百支国、つぎに伊邪国、つぎに郡支国、つぎに弥奴国、つぎに好古都国、つぎに不呼国、つぎに姐奴国、つぎに対蘇国、つぎに蘇奴国、つぎに呼邑国、つぎに華奴国、つぎに鬼国、つぎに為吾国、つぎに鬼奴国、つぎに邪馬国、つぎに躬臣国、つぎに巴利国、つぎに支惟国、つぎに烏奴国、つぎに奴国(重複か)などの国々がある。ここまでが、女王の支配している領域である。その南には狗奴国があり、男子が王となっている。その〔長〕官には狗古智卑狗がおり、この国の女王には服属していない。
 帯方郡より女王国に至る間の距離は一万二千余里である。
 〔倭〕の男子は、大人・小人の〔身分の〕別なく、みな顔や身体に入墨している。古くから、倭の使者は中国に来ると、みなみずから大夫<たいふ>と称している。〔その昔〕夏〔王朝の第六代の皇〕帝少康の子が会稽(浙江省紹興市地方)に封ぜられた時、断髪し入墨して蛟竜(みなずち)の害をさけ〔身体を守っ〕た。いま倭の水人が水中にもぐって魚や蛤を捕らえるのに入墨するのは、〔少康の子と同じように〕大魚や水鳥の害を防ぎ〔身体を守る〕ためである。しかし今ではそれが次第に飾りにもなっている。〔倭の〕諸国ではそれぞれに入墨の仕方も異なり、或いは左に、或いは右に、或いは大きくし、或いは小さくし、また尊卑〔の身分〕によって〔入墨に〕違いがある。
 〔帯方郡からの〕道里を計算してみると、〔倭は〕ちょうど会稽〔郡〕東冶〔県〕(東冶県とすれば福健省福州付近)の東方〔海上〕にあることになる。
 倭人の風俗は規律正しく、男子はみな冠をかぶらず木綿で頭を巻いている。その衣服は横幅の広い布で、ただ結び束ねているだけで、ほとんど縫っていない。婦人は〔夷狄風に〕髪を下げたり、髷を結ったりしており、衣服は単衣のように作り、衣の中央に穴をあけてそこに頭を貫して着ている。人々は、稲や麻を植え、桑を栽培し蚕を飼って糸を緝績<つむ>ぎ、細麻や縑<かとりぎぬ>や緜<まわた>を産出する。倭の地には牛・馬・豹・羊・鵲<かささぎ>などはいない。兵器には矛・楯・木弓を使用し、その木弓は、下部が短く上部が長くなっている。竹の矢(を使用し)、その鏃には、鉄の鏃あるいは骨の鏃を用いる。〔その産物や風俗・習俗の〕有無の状況は、儋耳<たんじ>(広東省海南島)や朱崖<しゅがい>(広東省海南島)と同じである。
 倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べ、みな徒跣<はだし>で生活している。また家屋を建築していて、父母兄弟はそれぞれ寝所を別々にしている。彼らは朱や丹を身体に塗っていて、それは中国で白粉を用いるのと同じである。飲食には籩豆<へんとう>を用い、手づかみで食べている。人が死ぬと、はじめ十日余、喪に服する。この間、人々は肉食をせず、また喪主は大声で泣き、他の人々は〔喪主の〕傍らで歌舞し飲食する。埋葬しおわると〔喪主の〕一家中が海や川に入り澡浴<みそぎ>をする。それは〔中国における〕練沐<れんもく>のようである。
 〔倭人たちは〕海を渡って中国に往来する時には、常に一人の人物に頭髪を〔整えるための〕櫛をつかわせず、蟣●<しらみ>もとらせず、衣服は垢に汚れたままにさせ、肉食させず、婦人を近づけず、あたかも〔死者の〕喪に服しているようにさせる。これを持衰といっている。もし航海がうまくゆけば、人々は〔彼に〕生口や財物を与える。しかしもし病人が出たり暴風雨の被害に遭った時には、持衰を殺そうとする。〔そうした凶事が起るのは〕持衰が禁忌を守らなかったからである、というのである。
〔倭の地は〕真珠や青玉を産出する。山から丹を産出する。木には●[木へんに冉]<だん>(くすのき)・
 
・大和政権の成立
65 日本へ朝鮮半島を経由して大陸の文化が流入しはじめるのは、漢という国家が成立し、東北地方を征服し、紀元前108年に満州中国東北部)東部から朝鮮半島にかけて楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡をおいた頃からであった。そしてその文化は日本に青銅器をもたらしたし、多くの武器をもたらしている。それは二つの意味があったと思う。まず武器を持って日本へわたって来た人びとのあったこと。いまひとつは青銅器を必要とする人たちが国の中にいたことであったと思う。
 
※日本へ朝鮮半島を経由して大陸の文化が流入しはじめるのは、漢という国家が成立し、中国の東北地方を征服し、紀元前108年に満州中国東北部)東部から朝鮮半島にかけて、楽浪(らくろう)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)・真番(しんばん)の四郡をおいた頃からであった。そしてその文化は日本に青銅器をもたらし、多くの武器をもたらしている。朝鮮半島にも倭人の植民地があることによって、大陸の文化は半島倭人の手によって日本にもたらされたであろうし、時には強力な集団が侵攻という形をとらないで日本に渡航したと見ていい。そういう力が凝縮してやがて日本の武力的統一をおこない、統一国家を形成していったのではなかろうか神武天皇の東征伝説は、そうした武力による統一の事実が伝承化していったと見てもよい。武力によらなければ強力な組織的な国家を成立させることは不可能で、武力を持った者が徐々に渡来し、やがて結束しやがて律令国家への足場を作っていったものではなかろうか。小さな祭祀王朝の国々を統一して大和朝廷をつくりあげていったのは武力によるものであり、統一国家が生まれるとその統一の維持は祭祀を中心にしてなされるようになった。
 
74 『宋書倭国
武(第二十一代雄略天皇)が、宋の順帝の昇明二年(478年)に使いを遣わして、上表文をたてまつった。
昔から祖禰そでい(父祖)みずから甲冑かっちゅうをきて、山川を跋渉ばっしょうし、ほっとするひまさえなかった。東に毛人(蝦夷アイヌ)を征すること五十五国、西は衆夷(熊襲・隼人など)を服すること六十六国、渡って海北(朝鮮)を平げること九十五国、王道は遍あまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまで及んだ。歴代の倭王は宗主たる天子のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えあやまることはなかった。
 
75 ちょうどこの上表文の書かれた頃、北海道北見地方にはモヨロ人の大きな移動が見られた。モヨロ人たちのことをアイヌユーカラではレプンクルといっているが、レプンクルは海の向こうの人を意味する言葉であるという。それはひとりモヨロ人だけではないであろうと思われる。
 
日本への稲作伝来から500年ほど経って前漢が成立し、ようやく弥生式とルーツの異なる文化の流入が始まります。
武器の流入は軍隊を伴わないものではなかったはず、と著者は指摘します。実際、文献には大陸から進行されたことを記す記述は見当たらないそうです。
この時代で日本と大陸とを積極的に行き来していたのは先述の倭人であって、日本へ渡るには彼らを頼るのが筋であるが、倭人が大陸側から侵略されたような記述も確認できません。
恐らく引き続き倭人が海洋交通を掌握しており、彼らの船を以って武器が流入したと著者は考えます。
 
さらに、倭人が半島に拠点を持ち、海の交通権を掌握していたと考える根拠も示されていました。
1145年に編纂された『三国史記』には、新羅が倭によって63回も侵攻されている記述があります。
かなり時間が経って編纂されたものですから史料としての価値は怪しいものの、日本から侵攻されたという記述がまざまざと残されているところに著者は注目しています。
海を越えて幾度となく朝鮮半島へ軍を送ったということは、倭人が海洋交通を掌握し、さらに半島に拠点を持っていたことを示唆します。
 
朝鮮海峡の航海権を倭人が握っていたとしても、半島にも倭人の植民地があることによって、大陸の文化は半島倭人の手によって日本にもたらされたであろうし、時には強力な集団が侵攻という形をとらないで日本へ渡航したと見ていい。そういう力が凝集してやがて日本の武力的な統一をおこない、統一国家を形成していったのではなかろうか
 
倭人のみならず、秦の始皇帝の後裔といられる新羅系秦(はた)氏もまた日本へも多数移動していたことが確認されます。
なお、本書では、この秦氏は日本全国に分布し、焼畑をもたらしたのではないかとされています。
このように、朝鮮半島からは武器のみならず、徐々にではあるが移民が多数入り込んできたようです。
移民は西暦紀元の頃からはじまって10世紀の終わり頃まで続いたとされますが、これは弥生式文化の収束する時期とも重なっていますね。
 
82 言語学者服部四郎博士は日本語と琉球語が同祖語であることを問題にし、奈良時代の大和地方の言葉と、今日の京都・東京方言を比較してみると、基礎語において81%が残っていることを明らかにし、琉球語について、日本語との共通単語を調べ、比較した結果、現代の京都方言と首里方言は1450年ないし700年前にわかれたものではないかと推定した。つまり、もともと同じ言葉であったものが、ひとつは東へ行き、ひとつは南へ行き、両者の間にはそれほど密接な交渉がなかったために差異を生ずるようになったというのである。するとその分離したところは何処かということになるが、北九州であろうと考えられる。おそらく3世紀の頃、日本の統一王権が、九州から近畿へ移動したであろうとの推定がひとつの基礎になっているのであるが、そのころまで九州と琉球の間には南より北へではなく、北から南へのつながりがかなり強く見られたのではないかと思う。
 
97 ただ、琉球列島から九州南部・四国南部にかけては、男は海に出て潜るが、女は海に出ることが少なく、また潜る風習もほとんどない。そこに南洋文化とのつながりを考えることができる。
 
まとめ
というわけで、稲作の伝来武力の伝来は時期が異なり、前者が弥生式文化に、後者が大和政権の成立に直接的な影響を及ぼしたと考えられるというのが著者の主張です。
大陸からの移民が大和政権のルーツであるという記述は本書にはありませんが、少なくとも前漢成立によって伝来するようになった大陸の文化が、律令国家である大和政権の基盤となっていると考えてよいでしょう。
 
このような律令国家が、自身の文化に迎合せぬ日本古来の原住民たちを指して「蝦夷」と名づけたということです。
 
 
 
 
3.日本における畑作の起源と発展
 1.焼畑
109 佐渡などでは山を焼いたあとへダイコンをまいているが、もともとダイコンやカブラは野生のものではなかったかと思う。山を焼いたあとに作ったものには辛みがない。だからいまもダイコンを作るために焼畑をおこなっているが、東北・北陸の焼畑では古くはみなダイコン・カブラを作っていた。サトイモなども焼畑に作るとエグ味が少なくなったものである。
 つまり山を焼くことによって野獣を捕らえるのに便利であるばかりでなく、焼跡には食糧に適する植物の育成も見られたであろう。そうした経験が、焼いたあとへ一定の植物の種子をまいたり、あるいは根菜を植えるような作業を生み出していったのではないかと思う。このようにして山の頂近いところでも山を焼くことから植物の食糧化が進み、生活をたててゆくこともできるようになっていったのではないかと思う。そのような体験の積み重ねが、焼いたあとの地面を植物栽培に利用するようになっていったのではなかろうか。
(中略)
 焼畑耕作を必用とする人びとは移動性が強かった。狩人はその系列に属する者で、この人たちは野獣を追って山から山へわたりあるいたわけであるが、野獣の多いところには適当な場所を求めてしばらくは小屋掛けをして足をとどめたようで、周囲の山地を焼いて焼畑耕作をおこなうことが少なくなかったと考える。
 焼畑習俗を持つ村々には狩をおこなっているものが多いのである。青森県下北半島の畑・川名などはもと焼畑をさかんにおこなっていたし、秋田の阿仁(北秋田郡)付近のマタギの村々でも焼畑をおこなっていたと聞いた。九州山脈南部の山間の村々も早くから狩猟を生業の一部としているものが多いが、そこにもまたさかんに焼畑がおこなわれていた。
 
113 大和吉野地方はスギの造林が近世初期からさかんにおこなわれたが、造林するためには、その土地に植えている雑木を一切伐り取らねばならぬ。伐りとってそれを焼き、そのあとへ植林するのであるが、いきなり苗木を植えるのでなく、2、3年は畑として利用し、ソバ、ヒエ、マメなどを作り、そのあとへスギを植える。そのようにしてスギの造林を進め、やがては山地の大半をスギの林でおおうようにしていったのである
 土佐の場合も雑木林を伐って焼き、ソバ、ヒエ、マメを作り、ここではコウゾやツマタを植え、焼いてから10年近くはそういうことに利用したあとへスギの植林をおこなっている。この場合にはスギ造林の手段として焼き畑がおこなわれあのであって、すぐれた山林経営であった。この両地方だけでなく、スギの造林の盛んになっていった地方を見ると、元焼き畑の行われているところが多かった。だから焼き畑がスギばかりでなくヒノキなどを含めた針葉樹の人工造林を進めていく上に、大きな役割を果たしていることを見逃してはならない。
 
115 しかし焼畑耕作もまた大陸に起源を持つものもあるかと思う。武蔵という国名はムサシとよむ。そしてサシは焼畑を意味する朝鮮語であるという。武蔵の西武山地から甲斐へかけて、サシまたはサスという言葉のついた地名が多い。指・差の字が書かれている。そういうところはたいてい焼き畑をおこなっていたところである。東京の町の中の指ケ谷ももとは焼畑をおこなっていたところではないか。相模もサシガミからきたのではないかという。そうすると武蔵も朝鮮半島から渡来してきた人たちがこの地方に定住するようになって名づけられた地名ではないかということになるが、彼らの定住以前から武蔵の地名はあったともいう。
 
 2.古代中国の農耕
 
 3.渡来人と農耕
121 それでは日本で焼畑と定畑を発達させていった根幹になる人々とはどういう人であっただろうか。私は大陸から朝鮮半島を経由して日本に渡来した人びとではなかったかと考える。その暗示を与えてくれるのが陸田をハタとよぶ言葉である。ただしハタはハタケとよぶこともある。山口県では焼畑のことをハタとよび、定畑のことをハタケまたはシラバタケとよんでいた。畠と書くのがそれにあたり、火田と白田は区別されていた。しかし陸田をハタまたはハタケとよんでいることは興味深い。ところで秦の字もハタとよんでいる。ハタ耕作を伝えたのがこの人たちではなかったかと考える。さらにまた織機をもハタといっているのは秦人がその技術を伝えたものではないかと思っている。もとより秦人のみが畑作農耕や機織の技術を伝えたのではないが、この仲間が日本の生産技術の進歩に貢献したことはきわめて大きかったので、この人々のことを中心に日本における畑作のことを考えていってみたい。
 
137 土は焼くことによって酸性から微酸性にかわっていく。土壌の酸度によってそこに育つ作物はかわっていくものである。例えば定畑の作物の間に茂る草は、一般の野草とおのずから異なるものがある。農地を荒らして三、四年もたつと、そういう草は茂らなくなってチガヤのようなものが茂ってくる。酸性の強い火山灰土地帯では、ほとんどカヤの系統の草が茂るが、酸性が緩和されてくると畑に茂る雑草と同じようなものが茂り始める。かつて副食物として利用されたと見られる、セリ、ナズナ、ハハコ、ハコベ、オオバコ、ダイコン、カブラなどは、そうした酸性の緩和された土壌に育つものであり、野を焼くことによって、そういうものが茂るようになったのだと思う。
 
161 つまり、私のいってみたかったのは、短粒米揚子江付近から朝鮮半島の南部をへて日本へ、長粒米の赤米琉球列島を北上して日本へ、陸稲朝鮮半島の奥部から南下し、主として秦人によって日本にもたらされたものではなかったかということである。しかし陸稲の栽培は、日本ではそれほどの発達を見なかった。水稲が安定作物であり、圧倒的に伸びていったことも原因していよう
 
166 麻績(おみ)郷のあったのは、信濃伊那郡、同更級郡、下野安蘇郡、同河内郡、同芳賀郡、上総周淮郡、下総海上郡陸奥伊具郡などであった。その分布から見ると、古い縄文文化を受け継いでいるものではないかと考えるのであるが、これはにわかに決めることはできないであろう。
 
 
付 海洋民と床住居
178 稲作は朝鮮半島を経由して伝えられたものではあるが、中国北部から満洲、朝鮮北部を経由し、朝鮮南部から日本へ渡ってきたというようなものではないという。朝鮮北部には、紀元前300年ころの稲作の遺跡は見つかっていないという。そうすると米は中国大陸から朝鮮半島西岸をへて、日本に伝えられたとみられる。日本への文化の流入は、海を越えてくる以外にルートはない。そしてそれは米と米を作る技術だけが日本に渡来したのではなく、稲作技術をもったものが籾をもって日本に渡来してきたと見ていい。
 
183 高倉に米をかこうのは単なる保存だけはなく、稲の命を守ることが大きな目的であったのだろう。南から米を持ってきた人々は高床の家に住む者は少なかったが、米は高倉の中にしまておいた。高倉は秀倉(ほくら)ともいったのではなかろうか。祠と書いてホコラとよんでいるが、もとはホクラといったものかと思う。そして、神はホクラに祀ったものと思われる。日本の神社を見ると、拝殿には土間のあるものもあるが、神殿はほとんど高床になっている。なぜ神を高床に祀らなければならなかったか。また、なぜ米を高床におさめなければならなかったか。ともに神聖なものは高所において守ることによって神威を保ち、魂を再生させると考えたにほかならなかった。このような考え方は中国北部のものではない。東南アジアの稲作地帯に見られるものである。すなわち、稲作を日本にもたらした人々の思想と文化であると見てよい
 
184 そしてこのような文化は、そのはじめ海洋的な性格をもった南から来た人々が日本にもたらしたものであったと考えられる。それは高床住居の古い住い方を見るとよくわかる。大和法隆寺の東院の境内、夢殿の北に伝法堂という建物がある。東西に長く、板張りのガランとした建物であるが、これはもと橘夫人美千代の家であったという。橘美千代は藤原不比等の夫人であった。今日のこっている貴族の住居としては最も古いものであるが、これが住居かと思うと、あまりにガランとしていて驚くのである。この住居を見てすぐ思い浮かべられるのは「源氏物語絵巻」の寝殿造りである。平安時代の貴族たちの生活は絵で見れば華やかであるが、誠に寒々としたものである。
~こうした寒々とした家は北方系のものではない。南からもたらされたままの住様式である。これは朝鮮半島の住居などとおよそ違うものである。
しかも神の祭をおこなうために穢れることを忌み嫌った。穢れの中のひとつに土に接することがあった。神の祭祀に直接携わるものを殿上人とよび、地下人と区別した。そして板の上で生活し、外出する時も牛車に乗った。そしてできるだけ土に触れないようにした。このような生活と思想は北方文化の中から生まれたものではなかった
 
191 琉球には糸満という漁民集落がある。その活動はすばらしいものがあるが、それは男だけの活動で女は陸で生活している。この人たちは方々に出漁し、その活動範囲は西はアフリカのザンジバルから東はハワイにおよび、日本本土でも対馬隠岐、出雲をはじめ、太平洋岸は伊豆、牡鹿半島に及んだ。そしてそれぞれの土地に追込み網の漁法を伝えている。その活動範囲の広さと勇敢さには驚愕するものがある。それがしかもサバニと呼ばれる小舟に乗っての航海である。
 
 
 
196 昭和5年、6年(1930、1931)22歳、23歳
こうしたことから、積極的に古老からの聞き書きをするようになり、周囲の村にも最終の足を伸ばすようになるが、郷里では「気狂い」とうわさされる。
 
211 昭和29年(1954)47歳
この年より昭和34年にかけては渋沢敬三より旅行をとめられ、もっぱら執筆活動。ただし、渋沢敬三、外国旅行中は国内各地をあるく。
 
213 昭和32年(1957)50歳
この頃、谷川健一とはかって平凡社より『風土記日本』(全7巻)刊行。この編集と執筆にはたいへん情熱を注ぎ、そのため、また身体をこわす。ようやくくらしの息がつけるくらいになる。戦後ずっと定収入なし。あまり金にならぬ雑文を書いてわずかに糊口をしのぐ。
 
216 昭和38年(1963)56歳
10月、渋沢敬三逝去。渋沢の世話になること、昭和14年以来25年におよぶ。渋沢から、はじめ遊歴人、昭和32年以降は箱入息子といわれたが、あるひ、どれくらい歩いたか調べてみよとのことで、ざっと計算してみると、旅行日数約4000日、通過した町村(旧村)3000、足をとどめて話を聞いた箇所800、民家にとめてもらうことおよそ1000軒であった。
 この年、武蔵野美術大学より教授就職の要請があり、渋沢はじめて承諾す。それまで就職の口かかるも渋沢が宮本にかわって拒絶していた。できるだけ束縛のない状況におきたかったものと思われる。
 
 
解説 網野善彦
 
校訂にあたって 渡部武
243 当時先生が所長を務めておられた近畿日本ツーリスト日本観光文化研究所(通称「観文研」、現在の「旅の文化研究所」の前身)で、所員に向けて月に一度、第二金曜の夕刻に講義が行われた。最初は江戸期から明治期にかけての旅行記を先生独自のフィールドワーク体験を交えながら話された。ご子息千晴氏の覚書によると「古川古松軒の『東遊雑記』からはじまって、曾良の日記と『奥の細道』がはさまり、菅江真澄の『遊覧記』、野田泉光院の『日本九峰修行日記』、河合継之助『塵壺』、菱屋平七『筑紫紀行』、イザベラ・バード『日本奥地紀行』、ケンペル『江戸参府旅行日記』、シーボルト『江戸参府紀行』と続いて、モースの『日本その日その日』でひとまず終わった」とのことである。
 
245 「われわれが気がつかない、つい見落としてしまうことの中に、大事な歴史があると思うんです」
※われわれが気がつかない、つい見落としてしまうことの中に、大事な歴史があると思うんです。
定説というのは迷信であって、本当の学説ではない。
定説にしばられると学問は停滞していく。