読んだ。 #海と毒薬 #遠藤周作
読んだ。 #海と毒薬 #遠藤周作
>太平洋戦争中に、捕虜となった米兵が臨床実験の被験者として使用された事件(九州大学生体解剖事件)を題材とした小説。
>成文的な倫理規範を有するキリスト教と異なり、日本人には確とした行動を規律する成文原理が無く、集団心理と現世利益で動く傾向があるのではないか。小説に登場する勝呂医師や看護婦らは、どこにでもいるような標準的日本人である。彼らは誰にでも起き得る人生の挫折の中にいて、たまたま呼びかけられて人体実験に参加することになる。クリスチャンであれば原理に基づき強い拒否を行うはずだが、そうではない日本人は同調圧力に負けてしてしまう場合があるのではないか──自身もクリスチャンであった遠藤がこのように考えたことがモチーフとなっている。
ストーリーを追っていく過程で、自分の心の在り方、自分が生活している日本の社会、そのふたつの関係を再確認することになる。
戸田医師の少年時代を回想する章。わたしたちの過去の経験。戸田医師の感覚は非常識な感覚なのか。
日本の社会、組織ではよくあること。
すぐ先の街への空襲で殺されることと、病院で病気で死ぬことと、病院で実験台にされて殺されること。
職業倫理を支えている社会の、個人の、考え方の脆さ、堅さ。
137 そのくせ、長い間、ぼくは自分が良心の麻痺した男だと考えたことはなかった。良心の呵責とは今まで書いた通り、子供の時からぼくにとっては、他人の眼、社会の罰に対する恐怖だけだったのである。勿論、自分が善人だとは思いもしなかったが、どの友人も一皮向けば、ぼくと同じだと考えていたのだ。偶然の結果かもしれないが僕がやった事はいつも罰をうけることはなく、社会の非難をあびることはなかった。
143 もう、これ以上、書くのはよそう。断っておくが、ぼくはこれらの経験を決して今だって苛責を感じて書いているのではないのだ。あの作文の時間も、蝶を盗んだことも、その罰を山口になすりつけたことも、従姉と姦通したことも、そしてミツとの出来ごとも醜悪だとは思っている。だが醜悪だと思うことと苦しむこととは別の問題だ。
それならば、なぜこんな手記を今日、ぼくは書いたのだろう。不気味だからだ。他人の眼や社会の罰だけにしか恐れを感ぜず、それが除かれれば恐れも消える自分が不気味になってきたからだ。
不気味といえば誇張がある。ふしぎのほうがまだピッタリとする。ぼくはあなた達にもききたい。あなた達もやはり、僕と同じように一皮むけば、他人の死、他人の苦しみに無感動なのだろうか。多少の悪ならば社会から罰せられない以上はそれほどの後ろめたさ、恥しさもなく今日まで通してきたのだろうか。そしてある日、そんな自分がふしぎだと感じることがあるのだろうか。
194 「でも俺たち、いつか罰をうけるやろ」勝呂は急に体を近づけて囁いた。「え、そやないか。罰をうけても当たり前やけんど」
「罰って世間の罰か。世間の罰だけじゃ、なにも変わらんぜ」戸田はまた大きな欠伸をみせながら「俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。俺たちを罰する連中かて同じ立場におかれたら、どうなったかわからんぜ。世間の罰など、まずまず、そんなもんや」
だが言いようのない疲労感を覚えて戸田は口を噤んだ。勝呂などに説明してもどうにもなるものではないという苦い諦めが胸に覆いかぶさってくる。「俺はもう下に下りるぜ」