読んだ。 #子は親を救うために「心の病」になる #高橋和巳

読んだ。 #子は親を救うために「心の病」になる #高橋和巳
 
 
 
プロローグ 心の「宇宙期」
子どもは大人が忘れたことを知っている
子は母親から「心理システム」を学ぶ
17 生まれたときから赤ちゃんに備わっている体の機能を「生命システム」とし、これから地球に適応するために学んでいくであろう心の機能を「心理システム」と呼ぶことにする。
 生命システムは、食べる、寝る、泣く・・・の機能である。心理システムは、人との付き合い方、人生観や、善悪を判断する倫理観などの生き方の機能である。そこから毎日の「生きる意欲」が湧いてくる。
 
「心は宇宙期」とは何か
22 
(1)乳幼児期:心身ともに親と一体の時期(0~3、4歳)
(2)学童期:親と一緒に生きる時期(4、5~11歳)
(3)思春期:親から精神的に自立していく時期(12~20歳ころ)
(4)成人期:適応が完成し、社会の中で生きる時期。親と対等となる。(20歳ころ~)
(5)宇宙期:「この世界」を抜け出す時期(成人期以後~)
 
 
 
第1章 息子は親を救うために引きこもった
①学童期は親の生き方をまるごと取り入れる
はじめての自由の獲得が第一反抗期となる
健太が小学三年生のある日
 
②反抗期の激しさは、親が教えた「心の矛盾」に比例する
親の辛い生き方が子を苦しめる
33 例えば、両親の仲が悪くて母親が苦労していたとする。子どもはいつも母親の心配をし、我慢だけの生き方を引き継ぐ。すると子どもは新しい世界へ進みたい気持ちと、親のためにもっと我慢すべきだとの気持ちがぶつかり合う。子は悩み、自分を責め、育ってきた家庭を恨むであろう。
 
親の生き方に修正を迫る思春期の「心の病」
35 子の苦しみは、親から受け継いだ苦しみである。だから、親の苦しみでもある。十数年間、無心に親に従ってきた子は、心の深いところで、親と一緒に治りたいと願う。親が生き方を修正して親自身の苦しさを取ってくれなければ、自分の苦しみも取れない、と知っている
 
③「ママの苦しみをとるために僕は不登校になった」
不登校・ひきこもり問題の三つの背景
「ママの苦しみを引き出すために・・・」と謎の言葉を漏らして暴力がエスカレートした
一番目の要求「ママ、僕の苦しみに気づいて」
48 「彼が怒ったのは、お母さんが自分のペースに持ち込もうとしたからじゃないかな。『これ美味しいよねー』と言われて嫌な気がしたのは、『うん』と同意しないといけないと思ったからでしょう。ハンバーグ食べていい子になってね、とそんなふうに彼には聞こえたのかもしれません。彼はいい子だから、そう言われて辛くなった」
 
暴力を振るう理由は、自分だけが我慢したのをわかってくれないから
50 「お母さんが彼を『お人形のように』可愛がると、彼はどうして怒るのでしょう?考えてみてください」
「私の思うとおりにさせられるのは嫌だから・・・」
「それもありますけど、もっと違う理由です」
彼女はその答えを考えながらも、私の言葉を待っていた。
「彼はお母さんが大好きだから、いい子になりたい。お母さんを助けたいと思ってきたんです。小さい頃も今もそれは変わらない。子どもはみんなそうです。
ずっとお母さんのことを考えて、お母さんのために生きてきたのに、でも、いつまでたってもその気持ちを分かってくれない。それで、またハンバーグで喜んでと言われた。彼はもう一度、お母さんに付き合わないといけないと思ったんです。一方で、親から離れて自立していきたい気持ちがある。でも、そうすると、大好きなお母さんと対立しなければならなくなる。それは嫌だし、怖い。お母さんに嫌われたくない。それで、なんで、なんでそうさせるんだ!と怒りがわいてきたんです」
 
52 思春期は、子どもが親から自立して自分の生き方を作るときである。
 これから先、ずっと親と一緒にはいられないだろうと、子どもは少しずつ感じ始めている。新しい世界も見えてきた。だから、前に進みたい。
 でも、ママはまだ「ハンバーグを食べて、近くにいてほしい」と言っている。それに答えたいけど、そうしたら、じゃあ、僕はどうしたらいいんだろう。ママのことたくさん、たくさん愛してきたのに、これからもまだ我慢が必要なの?どうしてわかってくれないの?どうして僕を追いつめるの?
 これが彼の苦しみであり、暴力の理由だった。麗子さんはその息子の苦しみを理解した。それで彼は楽になった。それから、彼の暴力は少なくなった。母親が何かを伝えたわけではない。ただ理解しただけである。しかし、子には伝わる。親子は敏感である。
 
二番目の要求「ママの苦しみを取って」
「何でも一人でできる」それが母親の苦しみだった
「甘える息子を許せない」のはなぜなのかが分かる
終結―息子の反抗に親が救われる
親が自分の苦しみに気づいたときに、子どもの「心の病」は消える
66 思春期は、子どもが親から精神的に自立していく時期である。
 学童期に必死に親の生き方を学び取ったので、思春期に至った時に、「子の生き方」はほぼ「親の生き方」と一致している。これから自立しようとする時に、受け継いだ「苦しみ」を解決しておきたい。自分の「苦しみ」がとれるためには、親の「苦しみ」がとれないといけない。しかし、親の心の矛盾は長い間封印されてきた。その重い封印を解くために、子どもは「心の病」になる。
必死に訴えるのは、残していく親が心配だからだし、自分が先に進めなくて辛いからである。この二つは同じものだ。二つの問題を解決して、子は自立する。
 
④親の老後が心配なので、僕は三二歳で引きこもった
突然、「家事手伝い」になってしまった息子
うつ病ではなく、社会的「ひきこもり」
74 うつ病ではない。その理由は、第一に、きちんと睡眠がとれているし、ご飯も普通に食べているからだ。うつ病なら、睡眠とか食欲という生命の基本的な営みが乱れてしまう。
 
反抗期がなかった、優しい息子
父親の無念に応えてきた息子
父親が選択できなかった生き方、息子が望んだ生き方
父親の緊張が緩んで、息子は旅だった
親に認めてもらうための頑張りが、生きるための頑張りとなる
91 この世界に生まれて、大切な親に認めてもらうために頑張る、その最初の頑張りが、そのまま人生の最後まで続く頑張りである。多くの人々にとって(9割以上の人々にとって)、これは真実である。
 親から引き継いだ頑張りを修正するのは、最初は思春期である。親の生き方に疑問を投げかけ、抗議し、反抗し、一緒に生き方を変える。
 
 
 
第2章 娘の摂食障害が、母親の人生を回復させた
①拒食症は「我慢が第一」という生き方の結果
拒食症と過食症
95 拒食症の母娘が見えなくなっている我慢は何かというと、感情を表現することの我慢である。人は、辛い、楽しい、苦しい、嬉しいなど、生活のその時々の感情を言葉にして気持ちのバランスをとり、あるいは誰かに共感してもらって、緊張をほぐしている。拒食症の母娘はそれを我慢している。だから、いつも緊張が解けない。
 では、自分の我慢が見えなくなった時に、人は何を我慢しようとするのか?
 食べないということが人間にとって一番の我慢であり、最高の自己抑制であることは容易に理解できるであろう。だから、我慢を自己目的化した女の子は拒食症になる。
 
97 拒食症(神経性無食欲症)と過食症(神経性大食症)の二つを合わせて「摂食障害」という。共通の心理機制は「我慢」である。摂食障害は、多くは拒食症で始まり、途中から過食症に移行する。この変化の背景には心理的な発達と親子関係の進展がある。
 
娘の拒食症が治った後、母親が「うつ病」になった
「お母さんは自分を生きていない、お祖母ちゃんを生きている」
母親から教わった我慢を娘は生きようとする
116 親が子どもに頼ってきた関係が見えれば、それは認識の大きな前進だ。多くの親は、子が親を頼り、親が子どもを育ててきた側面だけを見ている。しかし、一緒に生活している家族なのだから、だとえ子どもがまだ言葉を話せない赤ちゃんであったとしても、親は子どもに頼り、子どもに助けられている。おっぱいをもらって満足している赤ちゃんの顔を見て救われるのは母親だ。赤ちゃんほど母親の存在を全身で認めてくれる存在はないだろう。だから、親が子を頼り、頼られているのは、とても自然な家族の関係だ。
 
②互いの我慢がとれて、母と娘の人生が回復する
摂食障害が回復する四段階
①単なる思春期のダイエットと思っている時期
②親が病気と認識する段階
③病気の原因が親子関係に由来すると理解する段階
④母親が自分の生き方を振り返る段階
 
言ってほしかった言葉は「ごめんね」ではなく「ありがとう」
母親と一緒にいた記憶がないのは我慢していたから
娘から教えてもらう人生の安心感
123 生きなければならない。頑張らなければならない。それは人が誰でもかかえている強い感情、怒りをも含んだ根源的な感情である。
辛い生き方を背負っているとその怒りの部分だけが強くなって、他の穏やかな感情が相対的に抑制されてしまう。怒りと他の感情の配分は「この世界」に適応していく時に、決められる。成人期になって配分が固定すると、そこからあふれた「感情と出来事の記憶」は意識の下に消し去られる。途切れた記憶は失われた感情である。子どもは時々、変なことを覚えている。それはまだ感情の配分が固定されていないからである。
人が生き直す時、感情の配分が変わり、そぎ落とされてた感情が復活し、記憶が回復する
 
 
 
第3章 虐待されて育った子は「善と悪が逆」になっている
128 これまで第一章、第二章と分析してきた親子関係は、多くの読者、恐らく9割以上の方がそのもとで生育してきた親子関係と共通のものである。心理学で言われている4つの心理発達段階が通用する親子関係である。これを「普通の」親子関係と分類する。
「普通の」親子関係の特徴は何かというと、親子が心理的に共通の理解(共通の心理システム)を持っていて、さらに、それが社会の理解とも一致していることだ。本書の冒頭で心理システムとは、人との付き合い方、人生観や、善悪を判断する倫理観などの機能であると述べた。それが親子で共通、社会とも共通だということである。共通の心理システムができあがったのは、子が、生れてから学童期の終わりまでに熱心に親の生き方を取り入れてきた結果である。共通性があるからこそ、親子は阿吽の呼吸で理解しあい、思春期の子供の訴えは親の「生き方」の奥深くまで届いたのだ。
一方、これから述べる第三章、第四章の親子関係は「特殊な」親子関係である。そのもとで育った子どもたちは、親と共通の心理システムを持っていない。また社会とも共通性がない。社会の9割の「普通の」人たちとは異なった理解を持ち、「この世界」をまったく違う視点から見ており、人生観や善悪の感じ方も異なっている。
 彼らの話に耳を傾けると、逆に、「普通」が何であるかも見えてくる。
 
①虐待を受けて育った母が、子どもを追いつめる
児童虐待の分類とその原因とは
娘を叩きだすと止まらない・・・
「耐えるのが私の存在感の拠りどころだった」
139 人は自分を主張して、自分の存在を確認する。
 例えば、「お腹が空いたよ」、「眠いよ」、「あれが欲しいな」・・・が自己主張である。この世界に生まれて初めての自己主張を認めてくれるのは「母親」である。お腹が空いてギャーと泣いてお乳をもらい満足する。主張を受け止めてもらえると「自分はここにいていいんだ。歓迎されている」と思える。その積み重ねの上に、私たちはこの世界に生きている「実感」、「存在感」を作り上げていく。
 虐待を受けて育つと、ずっと自己主張を封じられてしまうから、自分の存在を確認できなくなる。周りの誰も自分を認めてくれないから、自分がいるのか、いないのかがわからない
 菜奈ちゃんは、母親に叱られた時、
「うん、いいの菜奈ちゃんはもういない」という言葉を口にする。
 あるいは、優希さんの口からは、
「私が、ここで苦しみながら生き続けている意味って何?」と、いきなり存在の基盤を問う言葉が出る。
 それほどに「生きている感覚」が不安定なのだ。
 「生きている意味」を自問することは誰にでもあるだろう。しかし、虐待を受けた子(人)の自問は、より日常的だし、切迫しているし、そして、乾いている。
 虐待を受けたこ(人)が自分の存在を確認する唯一の方法は、自分を抑えることである。自分は「我慢できているか」、我慢できていればよし、自分が「いる」ことになる。我慢できていなければダメ、自分は「いてはいけない、いない」となる。
 
「普通の」子は、欲求を満たして、自分の存在を確認する。
虐待を受けた子は、欲求を我慢して、自分の存在を確認する。
そして、逆転した存在感は、異なる心理システムを作り出す。
 
二度の結婚・暴力夫・離婚裁判・夢
145 優希さん(本章クライアント)は、ずっと人には言えなかったこと、誰にも聞いてもらえなかったことを話せるようになった(過去、家庭で受けてきた母からの様々な虐待経験がそれであった)。自分の本音を聞いてもらえたのは初めてだったかもしれない。であれば、彼女は生まれて初めて、自己主張を受けとめられたことになる。語って、聞いてもらって、自分の「存在」を確認できる。語る内容は辛いもの、否定的なものばかりだったとしても、話して、聞いてもらうことで自分が肯定される。初めての自己肯定の体験である。
 
②虐待が止まらないのは心理システムが逆転しているから
普通の人と「善と悪が逆」になっている
148 「普通の」人が当たり前のように思っている善いことが、彼女にとっては悪いことである。「普通の」人が、「なんでそんな馬鹿なことをやっているの! 」と思う生き方が、彼女にとっては善い生き方である。こうした善悪が逆転した心理システムができ上がってしまったのは、小さいころから親に否定され、「悪」しか体験できなかった結果である。
 なぜそうなるかというと、次のような心の動きからである。
 目の前にいる親は、暴力を振るい、ご飯も出してくれないことがある悪い親である。でも、子どもはそれ以外の親を知らない。自分が生き延びていくためには、その親に従うしかない。人は誰でも生きていこうとする。そのために必要なことを実行することが「善」である。だから、子どもにとっては、目の前の「悪い親」に耐えることが「善」であり、その逆に、耐えられずに逃げ出すことが「悪」となる。悪に耐えることが「善」で、善を求めるのが「悪」である。こうして「普通の」人とは善悪が逆転する。これを裁判に当てはめると、悪い夫に耐えることが善であり、夫と争うのは悪となる。
 善悪が逆転した心理システムに生きていると、悪に耐えていると心は安定し、善を求めると不安になる。期待できないものを期待するよりは、確実なものに耐えていた方が不安は小さいからだ。
 
虐待の連鎖
151 まず、人が生きようとする意欲は「善」を実行しようとする気持ちから生まれてくる。優希さんの善は「我慢し、耐える」ことである。彼女は、毎日頑張って、自分を抑え、耐えていこうと前向きになる。がんばって子育てをして、火事をして、部屋をきれいにして、自分を抑えて、子どもを可愛がろうと思う。
 その彼女の生き方を、菜奈ちゃんが逆なでする。菜奈ちゃんは我がままを言ったり、我慢をしなかったり、耐えなかったり、落ち込んだり、固まったりするのだ。
 すると、優希さんの中に「どうしてこの子はちゃんと生きられないんだ!」と怒りがわいてくる。
 耐えて、頑張って生きるのが、いい子だ。
我がままを言って自分を主張するのは、「悪い子だ。そんな子は許せない!」
 彼女が菜奈ちゃんを怒鳴る。
 すると、菜奈ちゃんは固まってしまう。
 それを見て、彼女はさらに怒りが止まらなくなる。こんな時に固まってはいけないのだ。どんな時でも緊張を絶やさず自分を我慢して生きないといけない。
 「固まるのは我がままだ。弱い気持ちだ。悪い子だ!」
 子どもに向かう怒りは、自分に向かっている怒りと同じものだ。
 店員の前でオドオドする自分は嫌いだ、夫にビクビクする自分はダメ人間だ。こんな時に泣いてはいけない・・・・・「そんな人間は許せない!」
 こうして、優希さんが自分の意欲を引き出して前向きに生きようとすればするほど、その気持ちがそのまま菜奈ちゃんへの怒りとなる。
 頑張れば、虐待する。
 優希さんはこの絶対的な矛盾の中で、もがき苦しんでいる。
 そして、虐待が続けば、彼女はいつまでも生きる喜びは味わえない。
 喜びを知らなければ、彼女はいつまでも善を知らず、悪を求めて、自分を抑えて生きようとする。
 虐待の連鎖は終わらない。
 
157 自分の感情を聞いてもらい、認めてもらい、自分がいることを認められるようになると、不安と恐怖は弱まり、さらに、自分がいてもいいと、生きていてもいいと感じられるようになれば、優希さんの固い頑張りと自分を否定する気持ちは和らいでいき、そして、菜奈ちゃんからのメッセージが届くようになる。母親は娘からのメッセージに気づき、「生きる喜び」とそれを共有する確かな存在感を受け取る。
 
菜奈ちゃんからの温かいメッセージを受け取って、善悪が再逆転する
 
 
第4章 親とのつながりを持てなかった子の不思議な訴え
168 彼らは小さい頃から諦めていた。でも、何を諦めていたかは知らない。「分かってもらう」ということも「分かってもらえない」ということも知らないので、「いつかは分かってもらえる」とも思ってこなかった。どこか変だけど、「この世界」とか人生はそういう「あいまいなもの」なのだと、彼らは確信していた。
 彼らが使っている「親」や「家庭」という言葉の意味は、「普通の」人たちが使っている意味とはちがう。「母親」という言葉の代わりに、「あの人」を使い、「私の人生は・・・」と語りはじめるときの「人生」は、客観的な、生れてからの「時間」というほどの意味でしかない。
 「この世界」の手がかりを持たないゆえに、彼らは自分を救う手だても知らない。
 
①親とのつながりを持てないと世界は希薄化する
「私は普通じゃないんでしょうか」という異邦人のような訴え
175 人が人生に求めているもの、それは心理システムの土台をつくっているものである、生きることの源にあるものである。だから、逆に単純なものでもある。
 第一レベルは、「安心」である。不安を避けて、安心していたい。心のもっとも基本的な欲求だ。
 それから、第二レベルには、「愛情」と「お金」と「賞賛」の三つがある。先に述べたように、優しい家族、恋人や愛情、仕事の業績や達成感、お金、人に褒められる、賞賛される、あるいは、人とのつながりや社会的な名誉・・・と、年齢や場所や人間関係によっていろいろ形を変えて現れるが、これら三つにまとめることができる
 基本的にはこの四つ、「安心」と、「愛情」・「お金」・「賞賛」を求めて人生はできあがっている。逆にいうと、これ以外には、人が人生に求めるものはない。求めて人生を楽しみ、得られて満足し、失って落胆し、手にとれずに苦しみ、手に入れて喜び、失って悲しみ、もう一度頑張ろうと思い、もうだめだと断念し、やっぱり満足して安堵し、しかし、期待と違ってがっかりして、人は生きていく。
 それこそが「普通の」人生なのだ。
 大川さんは、実は、この第二レベルの「愛情」と「お金」と「賞賛」を求める気持ちが欠けているか、弱い。これらを知らないのではない。
 
「孤独感」ではなくて「孤立感」
178 どこか自分は人と違うという感覚、「普通」じゃないと思って「孤立」している。
 「普通の」人は、愛情、お金、賞賛を求めて人生を楽しみ、悲しんでいる。目的を共有しているのが一緒に生きている感覚であり、だから、目的を達成したときの喜びも素直に伝わる。あるいは、同じ価値観を持っているからこそ、ねたみやうらやみ、また、競争も生まれる。こういった感覚が一緒に生きている、という実感だ。この大前提の上に、自分だけはうまくいっていないとか、わかってもらえないと思うと「孤独」を感じる。
 最初から、この大暫定の上にいないのが、「孤立」である。
 
「ウチの家は人とは違っていたらしい」
母親のことを話そうとしなかった理由
母親の心理状態を推測する
親が「いない」と、心理システムができない
188 もちろん、母親が悪いわけではない。母親は子供を育てるのに一生懸命だったに違いない。しかし、残念ながら人間理解の「能力」が低かったので、子どもに生き方を教えることができなかった
 
189 子どもは母親を通じて、この世界を知り、自分を知り、人を知り、社会を知っていく。その最初の手掛かりが小さいころの母子関係のなかにある。
 毎日、子どもは母親の反応をみる。それを基準に自分を知る。自分は、いい子であるか、悪い子であるか、そういう自分が分かる。しかし、恵子さんには、母親のポジションを取ってくれる人がいなかったので、彼女は自分のいい子なのか、悪い子なのか、上手くできたのか、できなかったのかが分からなかった。だから、自分がどこにいるのか、自分が誰なのかを確認できなかった。彼女は自分を知らないまま大人になった
 母親は食事を出してくれただろう。でも「美味しいかい?」とは聞いてくれなかった。すると、それが美味しいものなのか普通のものなのか、あるいはまずいものなのかを確認できない。身体は美味しいものを食べて満足を感じているが、一方で、それが何なのか理解できない。この食事は人間的に社会的に喜ぶべき時代なのか、
あるいはただ普通のできごとなのか。その結論が出せないのだ。出来事の強弱がなくなり、全てが並列になる。
 美味しいものを食べてお母さんと一緒に悦ぶという体験は、人と共感する原点である。それが人間関係を作る土台になる。つまり、美味しいものを食べると人は嬉しくなる。それを確認してくれる人がいると、美味しいという自分の感覚が母親のそれと繋がり、共感が生まれる
 美味しさは自分の体が感じている、全く否定しようのない、明確で、確実な感覚だ。それを、他の個体である母親と共有できる。人と人とのつながりができる。生まれてから何度も繰り返されたその関係の先には、母親以外の多くの人々がいて、さらにその先に、社会があるのだ。さらに、美味しさからはじまった人との共感は、楽しさやうれしさ、悲しさや苦しみへと広がり、人とのつながりを強固にする。こうして、自分の体の喜び、自分の感情は、社会の共通の基盤である心理システムにつながっていく
 しかし、母親が「美味しい?」と聞いてくれないと「美味しいから満足、うれしい、よかった」という体験は、人間関係の中で確認できないままに、ぼんやりとしてしまい、やがて消えていく。
 世界との関係が希薄になる。
 彼女の感覚は現実世界から徐々に透明なガラスで遠ざけられていく。
 子どもは人々が共通して求めているもの、人とのつながりを確信できないままに、大人になってしまう。そうして、彼らはふわふわした、とらえどころのない存在感の中で生きている。自分には「美味しい」の確信がない。それが彼らの「孤立感」であり「普通」でないことの感覚なのである
 
 
②この世界での解決は、「親と出会う」前に戻ること
希薄な「存在感」、偽物の私
195 「気持ちを受け止めてもらうっていうのも、本当は小さい頃のたわいのないことの積み重ね何だろうなと思います。自分にはそういう経験がなかったのが、悲しいことなんだろうな、と思います。その悲しさにも気がつかないで今まで生きてきました
 
母親の障害を受け入れる
197 「軽度発達障害」の一番の障害は、人間関係の理解が十分にできないことである。他人が何を考えているかを推測できないので、子どもの気持ちが見えない。だから親の立場に立てない。子どもと一緒に共感したり、喜んだり、落ち込んだりができない。子どもからすれば、自分を分かってくれない人、ただ同居している「あの人」になってしまう。同じ理由で、社会の共通の理解、つまり「普通のこと」が何であるかを理解できないから、子どもに、常識、つまり、当たり前のことや、何がよくて、何が悪いかということを教えられない・・・と説明した
 
「何も解決していないことが分かりました」
「社会的な存在感」は、同じものを求めているという確信から生まれる
201 彼女に欠けているもの、それは自分がこの社会で生きているという「無条件の存在感」である。これは、心理システムの土台になっているもので、自分が他の人々と一緒に生きているという疑いようのない感覚である。つまり、同じ世界に生き、同じものを見ていると確信し、同じものを良いと感じ、同じものを嫌と感じ、いちいち言葉にしなくてもそう思い、伝わり、利害を共通にしているという感覚である
 これを「社会的な存在感」と呼ぶことにする。
 「社会的な存在感」は何によって生み出されているかというと、それは、「自分と他人が同じものを求めて生きている」という日々の実感からである
 それは、「愛情」、「お金」、「賞賛」に由来する。
 人が人生に求めるものは、四つあると述べた。人は、
 第一レベルでは「安心」を、
 第二レベルでは、「愛情」、「お金」、「賞賛」を求めて生きている。
 これらのうち、第二レベルを共有しているという確信が、「社会的な存在感」を生みだす。美味しいものを食べて、「美味しいね」と確認しあえる関係が広がってできたものである。
 「愛情」とは、家族の愛情、理解、異性を求める気持ち、恋愛、結婚、子育て・・・と、人とのつながりである。これを求めている、求めたい、みんなも欲しがっている
と感じられていることが、自分が「同じ社会で、人とつながっている」という存在感を生みだす。
 「お金」は、衣食住という物質的な生活を支えるものである。みんなこれを欲しがっている、自分も欲しい、手に入れたら同じように嬉しさを味わう。これが「同じ社会で、一緒に頑張っている」と感じさせる。
 「賞賛」を受けたい気持ちは、親から褒められること、親から必要とされることを基本にしてできあがり、他人に褒めてもらうこと、人から必要とされること、勲章をもらうこと・・・となる。そうされたい、そうしてあげたい、自分もみんなもそうだ、という当たり前にわかっていることが「同じ社会を、みんなと一緒に作っている」という感覚だ。
 この三つの欲求の成就と失敗を、毎日、毎日、人と一緒に繰り返していることが「社会的な存在感」となる。
 この「社会的な存在感」はあまりにも当たり前で、誰にでもあるので、「普通の」人には、それが「ない」ということが想像できない。
 例えば、朝、ベットで目が覚めて、「ああ、自分はこの社会にいる」とあらためて思う人はいないだろう。「いる」のが当たり前で、起きた瞬間の私たちの意識は、すでにこの社会とつながっているからだ。
 
問題は解決できる場合にだけ発生する
209 「社会的な存在感」に支えられずに、独自に、それ自身として深いレベルで満たされる「安心」がある
心がそこに到ると、人の心は、動かず、振り回されず、完全に安定する。それは、「社会的な存在」として生きて「いる」を超えた、ただ「ある」だけの存在である。
 
210 「いる」は、愛情、お金、賞賛を求めて、人とのつながりを必要とするが、
は一人でも完結できる。「ある」はつながりを求めるものではなくて、実はすでに奥深くでつながっているものを感じる力である。そこでは社会的な関係を生きて「いない」から自分を制限していない、もちろん死んでもいない。ただ「ある」だけである。だから、社会を超えて、人々とも、物事とも、自然とも、すべてとつながっている。
 「社会的な存在感」として「普通に」生きることを断念せざるを得なかった大川さんは、このただの「存在」を感じ始めている。
 「ある」をこの社会で実現するためには、「いる」が必要になる。でも、この社会に適応する前に「ある」はあった。
 
自分で「ある」ことの、小さな幸せと大きな自由
「自分の感覚で生きていいんだ」
220 彼らは「この世界」の心理システムを教えてくれる「親」を持てなかった。それは人とつながれない不幸をもたらした。しかし、心理システムを完成できなかったということは、逆に、生まれたままの心に制限を加えていない、ということでもある。
 「社会的存在」から離れた「存在」は、ずっと自由で、ずっとひろく、安定している。
 
 
 
第5章 心の発達段階の最後、「宇宙期」とは何か
222 人は虚空からこの地上に降りてきて、虚空に帰っていく。
 虚空は、宇宙の果てなのか、あるいは、ただの無なのか。
 自分がどこから来たかが分かれば、自分は何か、自分が誰かが分かるだろう。しかし虚空は知ることができない。なぜなら、そこには意識も何もないからだ。私たちが知りうるのは、虚空から降りてきたこの「有」の世界だけだ。そこで、いったい自分はなんであるか、との問いに回答を出せるのは、「有」が何であるかを知った時である。
 「有」とは何か。自分がここに「ある」、「いる」とは何か、である。
 ここに世界があると信じ、自分がその中に生きていると思い込んでいるのは、そう信じるにたる実感があるからである。その実感とは、自分の「社会的な存在感」だ。朝、目が覚めて自分が「いる」と感じる瞬間の存在感、それが何かが分かると、それは「有」を知ったことになる。
 しかし、その「社会的な存在感」の中で暮らしているうちは、それが何であるかを知ることはできない。なぜなら、「知る」という作業は、対象化する作業だからだ。対象化は「それ」から離れて、「それ」を外側から見ることである。例えば、小さい沼に住んでいる魚は、沼の中にいる限り、自分の住んでいる世界を知ることはできない。沼から出て、岸辺からそれを見た時に初めて、自分の生きている世界が見える。これが対象化の作業である。
 虚空から生まれた「有」を知るとは、「社会的な存在」である自分の姿を知ることであり、それには「社会的な存在」から離れることが必要になる。
 では、「社会的な存在」から離れるとはどういうことが。
 それは、自分の心理システムから離れることである。
 
224 「社会的な存在感」を離れると、そこにあるのは単純な生命システムと、ただの「存在」である。
「存在」があるところは、虚空から「有」が生じたところ、この世界が始まったところ、私たちが生まれたところである。
 
①生きている実感がある、ない、の違い
生きている実感は親から教わるもの
 
②成人期の先、「宇宙期」を推測する
日々の生活から離れると、見えてくるもの
三つのキーワード「アウトサイダー」「中年クライシス」「価値の相対化」
 
③「この世界」から離れ「宇宙期」へと至る心のプロセス
妻に先立たれた男性が体験した「心の不安」とは
日常生活の意味が変わり、求めてきた人生全体が見える
「妻への裏切り」を受け入れて、一人になる
252 大切にしてきた人たちとのつながりを維持する、それは「善」である。壊すのは「悪」である。善と悪があって「この世界」の存在感は維持されている。
善と悪を対等に受け入れて、「社会的な存在感」は相対化される。
 
自分一人がただ「ある」という瞬間を体験する
255 皆と一緒に生きている感覚を一度閉じて、心理システムから離れる。それが「宇宙期」の入り口である。そして、再び、人とのストレスや義務を感じて「この世界」に戻る。成人期への復帰である。出入りができて、「社会的な存在」は相対化される。
 
「宇宙期」は「すべてがオーケー」という感覚に満たされる
 
 
 
エピローグ
カウンセリングはただ「聞く」という作業
269 カウンセリングは悩みを解決する場所ではない、自分を確認する作業である。
自分の話をする。自分の心を聞いてもらって、その時の自分を確認する。話の内容は、辛いことであってもいい、楽しいことであってもいい、ひどいことであってもいい、あるいは、実現しそうにない夢や「妄想」であってもいい。しかし、語ることが、話しての存在感を確かなものにする。そうして、話の内容が、どんなことであっても、自分を認めていく作業は心を安定させる。
カウンセリングとは、この「聞く作業」である。
耳を傾けて、クライアントの発している言葉の奥底にある、その人の「存在」を聞く。
「存在」をどこまで深く見通せるかどうかが、カウンセラーの力量である
 
カウンセリングに「理論」は通用しないということ