読んだ。 #大阪 #岸正彦 #柴崎友香

読んだ。 #大阪 #岸正彦 #柴崎友香
 
名古屋で生まれ育ち、大学入学時に大阪にきて、現在も大阪に住み続けている岸正彦さんと、
大阪で生まれて大阪で育ち、大阪で就職したのちに、30歳を超えて東京へ引越された柴崎友香さんが、交互に書かれた大阪にまつわるエッセイ集。
お二人の文章から感じられる、大阪への思い入れや、大阪との距離感の対比がとてもおもしろかった。
 
21 子どもができない、ということは、地域社会に根をはれない、ということでもある。他の街から移り住んだ人々が、どうやってそこを自分の地元にしていくかというと、ひとつは子育てを通じて、である。子どもを育てるということは、学校、町内会、子供会、PTAなどの活動に参加する、ということであり、そうやって親同士もつながっていって、そこが地元というものになっていく。私たちには、それがない。自分の人生に悔いなど何もないが、心から愛する大阪という街で生まれた子供を育て、大阪の子として成長していく姿を見たかった。
 
46 数キロおきに巨大な橋がかかっていて、私はその中でも特に菅原城北大橋が好きだ。最初の下宿がこの橋と豊里大橋の近くにあったので、ひとりでよく歩いていた。城北大橋は1989年に建設され、当初は車両の通行に百円が必要だったから地元では百円橋と呼ばれていた。2014年ごろに無料になったと思う。
ひとりでも行っていたし、友達とも、彼女とも、よく歩いた。いまでは連れあいの「おさい」としょっちゅう散歩する。なにか嫌なことや、つまらないことや、なんとなく行き詰った感じがするとき、よく行く。行くと必ず、気が晴れる。
 
61 社会全体が自由である、ということは、おそらくほとんどないのではないか、と思っている。たぶん、誰かが自由にしている傍らで、誰かが辛い思いをしてその自由を支えているのだろう。そいういうことをすべて理解したいと思う。
(略)
三十年前に私ははじめて大阪にやってきて、淀川の河川敷に出会い、大阪の自由を感じた。そして、そこから同じ三十年という時間を遡ると、大阪は、阪急百貨店に子どもが捨てらる街だったのだ。
 
72 小学校六年生のある日、教室に入ると友人たちが騒然としていた。「ちくわの穴を覗いてください、っていうて、そこら辺の人にちくわ覗かせるねやん」。土曜日の夕方に、テレビでものすごく変な番組をやっていた、というのだ。なんかすごいもんを見てしまった、と。翌週、私もそれを見た。「始まんで~」とやる気のない低い声に、やかんや鍋のアップが続くオープニング、いままで見ていたお笑い番組とは違って脈絡なく突飛なコント、だらだらと続くトーク、それは一目で異質なものだった。「なげやり倶楽部」という六十分の番組で、トーク部分でのらりくらりと低いテンションでしゃべっていた男の人は、中島らもという名前だった。テレビの中に変な穴があいて、別の世界が写っているみたいだった。こんなんがあってもええねや、とそのけったいな番組をみて学校で話す自分たちを楽しんでいた。「なげやり倶楽部」は三か月で終わった。なにかの間違いで放送された幻の時間みたいに、わたしたちの中ではながらくなっていた。
 
96 初めて子供だけで区外へ出かけたのは、隣の西区にある中央図書館へ行くためだった。小学校六年のころで、大きな自習室へ勉強しにではなく漫画を描きに行ったのだった。
中学二年生「4時ですよ~だ」心斎橋筋2丁目劇場
自転車で15分か20分くらい
 
100 ずっと後になって、ダウンタウンが司会の「HEY! HEY! HEY!」に、UAaikoが出演したとき、「2丁目劇場」の出待ちに行っていたと話した。UAaikoもわたしと同年代だから、あの時期あの場所に彼女たちもいたのだと感慨深かった。しかし、二人とも、ダウンタウンのすぐそばまで行ったとか、勝手に腕を組んだとかあの人だかりの中心に入っていったエピソードを語っていて、ああ、ステージに立つ人はやっぱり違うのやなあ、と妙に納得した。
 
難波、心斎橋、大阪球場高島屋、グリコ、かに道楽、そごう、ソニータワー、アメリカ村、南中学校、三角公園甲賀流、駐車場のフリーマーケット、梅田、「いこかもどろか」、ナビオ阪急の8階、北野劇場、大阪環状線、阪急百貨店、阪神百貨店、大きな歩道橋、文具店、「トーキョー・ポップ」、レッド・ウォリアーズのユカイ、ブルー・ハーツ、BUCK-TICK、「ドグラ・マグラ」、15~23歳までエレファントカシマシのライブに行くことが人生の最優先事項、
 
123 私は社会学者として、グラスルーツやムラ社会的なもの、共同体的なものをロマンチックに描くことを、自分に禁止している。沖縄という場所を専門としていると、だいたいの社会学者はこれをやりがちなのだ。特に日本の社会学者が沖縄の村落共同体的な生活規範を理想化し、称揚し、ロマンティックに描いてしまうと、それはもろに植民地主義者になってしまう。だから私は、沖縄でも大阪でも、ヴァナキュラーな共同体の紐帯を無条件で肯定することを、自分自身に一切禁止しているのである。
(略)
だが、しかし。だからといって、ひとのつながり、とくに地元社会のつながりを無条件で肯定する気には、やはりならない。さきほど書いた、二十年前ならヘイトスピーチの街宣の場所に出てきて取り囲んでボコボコにしてくれるようなヤンキーのこわい兄ちゃんたちはまた、地元では年下の者をカツアゲしたり、女の子を乱暴に扱ったりするような存在だっただろう
街について考えることは、どこまでも難しい。
 
150 しかし、今になって振り返ってみると、あんなふうに、ミニシアターが次々できて、小劇団が注目され、百貨店でも美術館並みの展覧会をよくやっていたこと、地上波のテレビで深夜に外国やミニシアター系の映画をやっていたこと、三角公園でただしゃべっているだけでお金がなくても楽しく過ごせたこと、そのこと自体が、好景気の時代で、世の中の豊かさだった、と強く思う
 今は、そんな「余地」はだいぶん少なくなった。お金も回っていないし、人の居場所も制限が増えた。街の中に座れるところもほとんどない
 バブルが良かったと言いたいのではない。当時の派手派手しい文化は苦手だったし、地上げもろくでもなかった。しかし、バブル時代の狂乱と世の中にお金が回っていたこととが混同され、「お金を持って心の豊かさが失われた」「お金に踊らされたことの反省」という単純化された心情というか雰囲気が、いつのまにか、人口が減って経済成長はしないから、お金がないから仕方がないとの理由をつけて、労働条件や社会制度が変えられ、街の豊かさがどんどん削られていくのを見ていると、別の未来があったのではと考えてしまう。
 
154 オールドイングリッシュシープドッグ
 
186 引っ越しして三カ月たった一月、阪神大震災のニュースの扱いが小さいことにも、驚いた。間もないときにサリン事件が起こったから印象が薄れてしまって、と話す人の感覚がわかった気がした。1995年1月17日のあの夜、まだ被害もぜんぜん把握されていなくて黒い煙と炎が立ち上がり続けていた夜、東京のスタジオから放送するニュース番組の一つが「もし東京で地震があったら」という話を延々とやっていたのを思い出したりもした。あのスタジオの人たちは、それが何が起こったかもまだわからないほど混乱している街でも放送されているかもって想像しなかったんやろうな。そう思うわたしにも、見えていない場所があるんやろうな
 
188 東京でこのレベルってやばくね?の商店街は、賑わってていいね、という人のほうが多いし、なつかしい雰囲気があるとかで写真を撮ったりしている人も見かける。
 地方に古いものが残っているイメージがあるかもしれないが、個人商店が残っているのはむしろ東京の商店街だ。この十年か二十年で、完全にそうなった。東京は、人口が多いから、お客さんがいる。車を持つのにコストがかかるから、徒歩圏内の店で買い物をする
 元から資産を持っている人が有利になるのがデフレ経済だが、それを証明するかのように、商店街には一階はお店で上階が賃貸マンションになっていたり、お客さんを見たことがないのにずっと開いている古くからのお店もよくある。持ち家だからこそ成り立つ商売。二つ前に住んでいた部屋の近所には、ヨーロッパで買い付けてきたクリスマスの飾りつけだけを売るお店があって、一年のうち九か月はお休みだった。
 
191 東京に初めて来たとき、驚いたのは木の大きさだった。表参道の立派な欅並木を見て、道端にこんな巨木が生えているなんて、と感動した。東京の木々や公園が好きになり、木自体にも興味を持って樹木図鑑を何冊も買った。2008年に「文藝」でわたしの特集をしてもらったとき、写真を佐内正史さんに撮ってもらった。丸の内と皇居周辺を二階建て観光バスでめぐり、東京は木が大きくて、公園もいっぱいあって好きなんです、と言ったら、佐内さんに、「大阪の人?」と聞かれた。大阪の人はみんなそういうから、と
 東京は木が大きい。わたしの主観ではなくて、客観的に大きい。巨木 (幹回り三メートル以上)の本数は47都道県で一位だ。その多くが御蔵島や西部の山地帯にあるとしても、都心にも巨木や樹齢数百年の木がたくさん残っている。
 土や長谷植生も違うし(大阪は粘土質の土に照葉樹、東京は関東ローム層に落葉広葉樹)、崖や高低差の多い複雑な地形は気が残りやすく、都市化してからの年数も千年以上と、四百年ちょっとと差があるのも大きな要因だ
 
193 よく行っていた純喫茶もとっくになくなって、格安居酒屋チェーンに代わっている。
 デフレになり始めたとき、みんなが貧しくなれば物価や不動産の値段も下がって暮らしやすくなるからいい、と言う人もいた。しかし現実は違う。今の東京二十三区の新築マンション価格はバブル期をこえたそうだ。国民の平均所得はかなり減ったのに、都心のマンションは値上がりしている
 この数年に訪れた外国のどの街も、似たような状況だった。そこはたいてい首都か、ニューヨークかロサンゼルスのようなメガシティの真ん中で、売り出されている部屋は世界中の裕福層が投資するので何億円もして(台北のマンションは立地によっては東京よりも高かった)、長く続いていた本屋や個人商店が何倍にも跳ね上がる家賃を払えずに立ち退いていた。
 
194 この連載で八十年代や九十年代のことを景気がよくて賑やかだったと書いていると、昔はよかったみたいな話なのかと思われるかもしれないが、そうではなくてなにがよくないのかはっきりとわかるようになった。
 社会の制度によって、お金の流れ方が変わっていったその記憶を、その時代を生きた一人として書いておこうと思った。景気がよくても悪くても、大企業へ、よりお金のあるほうへ、お金が流れるように制度が変えられてきたということだ。緊縮財政政策によって非正規雇用が増え、税金や社会保障の負担も増え、公的サービスは削られて国立大学の学費は三十年で倍くらいになった。縁もゆかりもない自治体に納税すれば高級肉がもらえるとか、株を買えば節税できるとか、デフレ下ではさらに格差が広がる制度が次々と作られ、将来のための自衛だと言われる。オリンピックや新型コロナ対策では、大企業ばかりにお金が流れる仕組みが目立った。会社員だった頃、景気対策所得税減税があったが、そんな言葉を耳にすることはまったくなくなり、景気が悪くなっていることを隠したまま消費税率は上げられた。東京の高層ビルばかりが増える風景は、そのことが目に見える形になって表れているんじゃないかと思う。そして、変わってきたことは別の方向に変えていけるはずだとも思う。
 
198 そうかと思うと、東京に来ると急に濃すぎる大阪弁を話し出す人もいる。
 主には、ある年代以上の男の人で、サービス精神がから回ってしまうのか、五倍増しくらいの濃い大阪弁になる。おっちゃん、普段のぼそぼそしゃべってるほうがおもろいんやけどなあ、「大阪の人」キャラに求められる期待に応えようとしてはるんかなあ、と思うのだけれども、中には、武勇伝を語りたいのかやたらと治安の悪さを強調したり、参加してもいないだんじり祭り飛田新地のことを大げさに話し出したりする人もいる。大阪のことをあまり知らない人が聞いて困惑しているのが隣で感じられるし、止めに入りたくなるというか、「大阪代表」みたいな顔でしゃべられるのはとてもつらい。
 
200 大阪にいるときは当たり前すぎてわからなかったが、東京に来て理解できたこともいくつかある。たとえば、大阪弁は会話を続けるためにある言葉だということだ。どういう意味?会話って続けるもんやろ?と大阪にいたときの私なら思ったに違いない。
 大阪の人の会話は、意味の伝達よりも、続けること自体に意味がある。大勢の人が寄り集まって生活する中で、潤滑油というか、人と人との摩擦を減らすためにとにかくしゃべることが選ばれた。しゃべる続けている間、自分は怪しくないですよー、と表現しているのだ(現代の東京の場合、人が増えすぎてなるべく話さない方を選んでいて、大阪もだんだんそうなりつつある)。
 前にラジオで誰かが、この意味のない会話のたとえとして、駅前でばったり会った人に「どこ行くの?」「ちょっと銀行へ」「強盗ちゃうやろな」と言い合う光景をあげていた。この先は、いくつも選択肢がある。つっこみの場合「なんでやねん」、ぼけを重ねる場合「そやねん、下見に」。ここで相手のほうも、つっこみの場合「本気やったんかい!」、ぼける場合「わしも混ぜてんか」・・・・・・。もちろん強盗について話し合いたいわけではないし、とくにおもしろいことが言いたいわけでおなく、続けたい。せっかく続けるなら笑えるほうがいい、というだけなのです。
 
 岸さんが先日Twitterに「よう知らんけど」っていうと怒る東京の人いるよね、と書いていたが、これも「その場にいたらめっちゃ解説に入りたい!」案件だ。
 大阪の人は会話を続けることが目的だから(たとえて言うなら、バレーボールの試合ではなく円陣パス、ピッチャーとバッターではなくキャッチボール)、「よう知らんけど」とつけることで、「知らんのかい!」「見てきたんかと思たわ!」と返せるので、その会話における話の信憑性が宙づりになっても宙づりのまま受け止められる。しかし、意味を聞いていた人、まじめに聞いていた人ほど、騙されたような気持ちになってしまうのだと思う。
 全く違う言語、外国語だと、習慣や考え方も違うのだろうと留保するかもしれないが、同じ言葉で、表面上は意味が通じてしまうがために、齟齬や行き違いが生じ、印象が悪くなってしまうのは、悲しいことやなあ、と思う
 わたしの家族は、親子でその断絶があった。子供のころ、学校での会話と同じ調子で、友達がめっちゃあほなことをして、とか、こんな失敗をしたと自虐エピソードを言うと、そんな子と遊ぶな、そんなことをやったのか、と頭ごなしにかなり怒られた。しかしそれ以外のコミュニケーションの仕方がわからないわたしは、なんで友だちのおっちゃんおばちゃんみたいに笑ってくれへんのやろう、とずっとつらかった。一方で、他県から転校してきた知人が、ちょっとしたことに「あほやなー」などと言われるのを最初はいじめられていると思ったと聞き、気をつけなければと思った。コミュニケーションのギャップは難しいものだ。
 
 
「わたしがいた街で」
229 一般教養で取った都市地理学の授業があまりにおもしろかったので、そのまま人文地理学を選考にした。
 みんぱくやテレビの紀行番組が大好きで、子供のころに旅行しても遊ぶ施設や海や山ではなく屋根や玄関の形が違うことばかり気を取られていたので、人文地理学と出会ったことは必然ともいえる。
 出席した授業は、大阪の街の成り立ちを解説するものだった。碁盤目状の街に人が集まって商業が発展すると、街のまとまりが一区画ではなく、通りの両側になる。(地図を見ると確かにそうなっている。さらに発展すると、一方向の通りだけでなく、そこに垂直な筋にも商店のまとまりが形成され、街の区画はさらに複雑になる。京都中心部はこの形)。そうしてできた「両側町」である、道修町淡路町備後町、博労町などは、東から順に一丁目、二丁目と並んでいる。これは大阪城を中心として、大阪港へ向かっている。その東西方向の「通り」(土佐堀通、本町通り、千日前通りなど)が近世の大阪の中心軸で、当時は脇道であった南北方向の「筋」(御堂筋、谷町筋など)が中心軸となったのは、近代に鉄道ができて、東海道大阪駅と奈良・和歌山からつながる天王寺駅を結ぶようになってから・・・・・・。
 自分が今まで自転車やバスで移動し、歩き回ってきた場所がそんな歴史の上に形成されていること、つまりはここで生きてきた人間の意志が形となって表れているのだということに、私は言いようのない感動を覚えた。街を歩いて目に入るものすべてが、誰かの生きた跡、その積み重ねなのだ。
 
230 ほぼ当時のままに残る心斎橋駅の高いドーム屋根と蛍光灯でできたモダンなシャンデリア、それを見上げながらエスカレーターを上がり、改札を出ると大丸心斎橋店の入り口がある。きらきらしたお菓子が並ぶ食品フロアのエスカレーターに乗ると、今度は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計したあの美しく華やかな大理石とステンドグラスの天井やライトが見えてくる。美しいものへの憧れと高揚が詰まった、わたしにとってそれは現実に存在する夢の場所だった。
 
 
243 激痛を抑えるためのモルヒネで、父は意識はあったが、朦朧としていた。人が変わったようになることがあるから、と医師から言われたが、わたしは、抑圧がなくなったせいで今まで言わなかったことを言うようになったのだと思った。
 あるとき、話がある、どうしても言っておかないといけないことがある、と言い出した。
 そして、急にはっきりとした言葉を発した。
「お前の自衛隊に関する考えは間違うてる」
 また別のときは、呆れたような口調で繰り返した。
「おまえは小説をわかってないからなー。全然あかんなー」
 かわいそうやな、と思った。悲しいと言えば、それが悲しかった。
自衛隊に関する話なんて、何年もしていなかった。わたしが大学生になったあたりから、反論されたくなかったようで、父もあまり言わなくなっていた。どうせ左翼の自衛隊絶対反対なんだろう、とわたしのことを頭から決めつけていて、そのときイラクに派遣されていた自衛隊のことも一度も話した覚えはなかった。
 この人、かわいそうやな、と思った。
 自分と同じ考えで、自分の話を聞いてくれる素直な子供が欲しかったのに、わたしがそうじゃない人間になって。自分が嫌いなわけのわからん音楽やわけのわからん映画を好む、ちゃらちゃらした場所で遊び回るような人間に育って。こんなはずじゃなかった、とずっと思ってたんやな。
 父は、真面目にやっていれば報われるはずだと信じていた。我慢して、個人の権利なんてわがままを言わなければ、慎ましい、臨んだ人生が送れると。それはときどき容易に、人生に躓く人間やたとえば事故や犯罪の被害者を、真面目な自分とは違ってなにか非があったはずだと考えることに傾いた。テレビで事件のニュースを見ては、そんなところへ行くからやと言い、イラク人質事件の時は当然「自己責任」を繰り返した。それは、自分がやってきたことは正しいと信じたかったからなのだろうと、今は思うが、殺された被害者のことを悪くいったり、被害や不平等を訴える人を大げさだと言ったりするのを、わたしは許容できなかったし、聞かされるのはつらかった。
 ほかの父親と違って家事も子育てもしたのに、わたしが望んていたようにならなかったことがどうしても受け入れられなかった、心底なぜかわからないと思っていたらしいのは、その後に他の人から聞いた父の言動でも明らかだった。
 しんどかったやろうな。自分と子どもは違う人間なのだと知っていたら、世の中にはいろんな考えの人がいてああいうのもこういうのもまあええかと思えていたら、死ぬ間際に、子どもを否定する言葉ばっかり残さんでよかったのに。最後にそんなしょうもないことが言いたいことやったんかと思われへんですんだのに。
 大学のたしか三年生の終わりごろ、よく漫画を借りにいっていた東洋美術史の先生が、どういう話の流れだったかは忘れたけど、こう言った。
 親を哀れやと思うようになったら、大人になったということですよ。
 入院から三週間後、父は死んだ。