読んだ。 #スピノザ #エチカ 「自由」に生きるとは何か #國分功一郎 #100分de名著
第一回 善悪
スピノザの三つの名前
「哲学する自由」を求めて
19 無知者は、外部の諸原因からさまざまな仕方で揺り動かされて決して精神の真の満足を享有しないばかりではなく、その上自己・神および物をほとんど意識せずに生活し、そして彼は働きを受けることをやめるや否や同時にまた存在することをもやめる。(第五部定理四二備考)
「無知者」は外部から何か「働き」を受けるとぞろぞろ動き出すけれども、それがいったん終わればすぐにいなくなります。そのことを指してスピノザは、彼らは「存在することをやめる」と言っているのです。この一節を読むたびに私は、誰かが批判され始めると、どこからともなくわいてきた連中が事情もよくわからないままそのトレンドに便乗して罵倒の言葉を吐き、しばらくすると何事もなかったかのように消えていく―つまり「存在することをやめる」―インターネット上の炎上のような現象を思い起こさずにはいられません。三百年以上前のアムステルダムでもスピノザをめぐって同じようなことが行われていた。人間はそんなことを繰り返しているわけです。
22 神すなわち自然ー汎神論
スピノザの「汎神論」では神はただ一つです。
「神即自然」
24 『エチカ』はどんな本か?
ギリシア語の「エートス ethos」 慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を現わすようになり、さらには私たちがその場所に住むにあたってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。つまり倫理という言葉の根源には、自分が今いる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがあるわけです。
仮に道徳が超越的な価値や判断基準を上から押し付けてくるものだとすれば、倫理というのは、自分がいる場所に根差して生き方を考えていくことだといえます。
26
第一部 神について
第二部 精神の本性および起源について
第三部 感情の起源および本性について
第四部 人間の隷属あるいは感情の力について
第五部 知性の能力あるいは人間の自由について
岩波文庫版だと上下巻で、下巻は第四部から始まっています。私が提案したい読み方は、下巻から読むことです。第四部の序文が、ちょうど『エチカ』全体の序文として読むこともできる内容になっているからです。ここを出発点にすると読みやすいだろうと思います。
31 善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもあるうるからである。例えば、音楽は憂鬱な人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。(第四部序言)
34 我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを(略)、言いかえれば(略)我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる(第四部定理八証明)
組み合わせとしての善悪-倫理学の始まり
35 ここからもう一度、いわゆる道徳とスピノザ的な倫理の違いについて考えることができるでしょう。道徳は既存の超越的な価値を個々人に強制します。そこでは個々人の差は問題になりません。
それに対しスピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えますから、個々人の差を考慮するわけです。この人にとって善いものはあの人にとっては善くないかもしれない。この人はこの勉強法でうまく知識が得られるけれども、あの人はそうではないかもしれない。そのように個別具体的に考えることをスピノザの倫理は求めます。
スピノザの感情論
36 感情は喜びと悲しみの二つの方向性を持っているのですが、より大なる完全性へと移る際には、我々は喜びの感情に満たされるのだと言っています。(第四部定理四五備考)反対の場合は悲しみです。
「何人も自分と同等でないものをその徳ゆえに妬みはしない」(第三部定理五五系)
第二回 本質
コナトゥスー自分の存在を維持しようとする力
39 あえて日本語に訳せば「努力」となってしまうのですが、これは頑張って何かをするという意味ではありません。「ある傾向を持った力」と考えればいいでしょう。
コナトゥスは、個体を今ある状態に維持しようとして働く力のことを指します。医学や生理学で言う恒常性(ホメオスタシス)の原理に近いと考えればよいでしょう。
おのおのの物が自己の有〔引用者注:存在〕に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない(第三部定理七)
文中の「有」という訳語より、「存在」としたほうがわかりやすいでしょう。ここで「努力」と訳されているのがコナトゥスで、「自分の存在を維持しようとする力」のことです。大変興味深いのは、この定理でハッキリと述べられているように、あるものが持つコナトゥスという名の力こそが、その物の「本質 essentia」であるとスピノザが考えていることです。
「本質」は日常でもよく使われる言葉ですが、もともとは哲学に由来します。「本質」が「力」であるというスピノザの考え方は、それだけを聞いても「ふーん、そうですか」という感じかもしれません。しかし哲学史の観点から見ると、ここには非常に大きな概念の転換があるのです。
我々は「本質」をどうとらえているか
40 古代ギリシアの哲学は「本質」を基本的に「形」ととらえていました。ギリシア語で「エイドス eidos」と呼ばれるものです。これは「見る」という動詞から来ている単語で、「見かけ」や「外見」を意味します。哲学用語では「形相」と訳されます。英語ではformです。物の本質はその物の「形」であるという考え方も、それだけを聞くととくに驚くべきものではないと思われるかもしれませんが、実は私たちの考え方はこれと無関係ではありません。
農耕馬にとって善いことと競走馬にとって善いことは違う
エイドスに基づく判断(「男だから」「女だから」)は、その意味で実に抽象的であるということができます。ここにも『エチカ』のエートス的な発想が生きているといえるでしょう。どのような性質の力をもった人が、どのような場所、どのような環境に生きているのか。それを具体的に考えたときにはじめて活動能力を高める組み合わせを探し当てることができる。ですから、本質をコナトゥスとして捉えることは、私たちの生き方そのものと関わってくる、物の見方の転換なのです。
「変状」と「欲望」―生態学的発想
44 「異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることができるし、また同一の人間が同一の対象から異なった時に異なった仕方で刺激されることができる」(第三部定理五一)
ここで言う反応、つまり刺激による変化のことを、スピノザは「変状 affectio」と呼びます。もう少しスピノザに即していうと、変状とは、あるものが何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びることを言います。先にドゥルーズからの引用に出てきた「触発される力」とは、ある刺激を受けて「変状する力」のことです。「変状」は専門的な用語ですが、『エチカ』を読むにあたって最重要の単語の一つですので、しっかり押さえておきましょう。
変状する力は、コナトゥスを言いかえたものです。たとえば暑さという刺激を受けると、発汗という変状が身体に起こります。これは熱を冷ますことによって自分の存在を維持する為の反応であり、コナトゥスの作用ですね。力としての本質の原理がコナトゥスであり、それは変状を司るという意味では「変状する力」として捉えることができる、と考えればよいでしょう。私たちは常に様々な刺激を受けて生きているわけですから、うまく生きていくためには、自分のコナトゥスの性質を知ることがとても大切になります。
さてまた欲望は、各人の本質ないし本性がその与えられたおのおのの状態においてあることをなすように決定されたと考えられる限り、その本質ないし本性そのものである(第三部定理五六証明)
少しわかりにくい文章ですが、次のように読み解くことができます。本質は力です。力ですから、それは刺激に応じてさまざまに変化します。例えば私の本質は、aという刺激によって、Aという状態になることを「決定」される。そしてそのAという状態は私に、「あることをなすよう」働きかけます。この働きかけが欲望であり、その欲望は本質そのものだといっているわけです。
話が循環しているように思われるかもしれませんが、スピノザはここで、本質が力であることを頑張って説明しようとしているのです。普通は、不変の本質があって、その上で欲望という移り気なものが働くと考えられています。しかしスピノザは、力としての本質が変化しながらたどり着く各々の状態が、欲望として作用するといっているわけです。
46 人間は単に男であったり女であったりするわけではなくて、常に具体的な環境と歴史と欲望が交錯する中で生きている。その中で出来上がる力としての本質は一人ひとり大きく異なります。どういう組み合わせならうまくいくかは、エイドスという形として本質を考えるだけではわからない。「お前は女だからこうしろ」「子どもだからこうしろ」「老人だからこうしろ」というのは、その人の本質を踏みにじることになる。
これはドゥルーズも指摘していることですが、このようなスピノザの考え方を、「エソロジー ethology」の考え方になぞらえることができます。エソロジーというのは、「生態学」や「動物行動学」と訳される、生物学の比較的新しい分野です。生物学は、動植物などの形態を分類し、記述することを基本とします。それに対しエソロジーでは、生物がどういう環境でどういう行動を示しながら生きているのか、つまり具体的な生態を観察し、記述するという研究方法を取ります。その発想のはじまりには、、皆さんもご存じの昆虫学者ファーブルがいます。私は、ファーブルはある意味でスピノザに近いのではないかと思います。
「エソロジー」の語源は、前回見た「エチカ」の語源と全く同じ、ギリシア語の「エートス」です。スピノザのエチカとエソロジーは、生物や人間が生きている場所や環境に注目し、その中でどのように生きているのかに注目するという意味で発送を同じくしていると言えるでしょう。エソロジー的な視点によってエチカが可能になるとも言えます。スピノザによる本質概念の転換は本当に豊かな意味を持っているのです。
人生を豊かにするためには
48 人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である〔・・・〕これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。(第四部定理三八)
50 もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ(と言っても飽きるまでではない。なぜなら飽きることは楽しむことではないから)ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。(第四部定理四五備考)
「自殺」と「死」について
52 あえて言うが、何びとも自己の本性の必然性によって食を拒否したり自殺したりするものでなく、そうするのは外部の原因に強制されてするのである。(第四部定理二〇備考)
私たちは表現の様態(モード)である
54 なぜなら、個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態である〔・・・〕、言いかえればそれは〔・・・〕神が存在し・活動する神の能力をある一定の仕方で表現するものである。(第三部定理六証明)
神は無限であり外部がない、したがって、私たちも含めた万物がその中にいるのだという話を前回しました。だからこそ神は自然と同一視されるのであり、その自然は宇宙と呼んでもよいと言いました。実は、私たちは神の中にいるだけではありません。私たちは神の一部でもあります。万物は神なのです。
水は水としては生じかつ滅する。しかし実態としては生ずることも滅することもない。(第一部定理一五備考)
すると、私たちを含めた万物は、それぞれが、神が存在する様式であると考えられます。そもそも自然は無限に多くの個物からなっているわけですから、神はそれら個物として存在している。個物は神が存在する仕方であり、その存在の様式なのです。これこそ、個体が様態と呼ばれるゆえんです。
この論点はさらに敷衍することができます。個物が、神が存在するにあたって、の様式であるとしたら、それぞれの個物はそれぞれの仕方で、神が存在したり作用したりする力を表現していると考えることができます。人間の存在は「神は人間みたいな仕方でも存在できるんだぞ」と、水の存在は「神は水のような仕方でも存在できるんだぞ」と、太陽の存在は、「神は太陽のような仕方でも存在できるんだぞ」と、それぞれの個物が神の力を表現していると考えられるわけです。個物が「神が存在し・活動する神の能力をある一定の仕方で表現する」とはそういう意味です。
58 ここからわかるのは、神の力といっても、なにか神秘的な、無規定な力ではないということです。たとえば、神は人間のような仕方では存在できますが、超能力者のような仕方では存在できません。なぜならば、神の力とは自然の法則その物のことであるからです。個物が神の力を表現しているということは、自然の中で働いている、自然法則という力を表現しているということなのです。
スピノザのいう様態について、ジョルジョ・アガンベンという哲学者がおもしろいことを言っています。個物、すなわち様態は名詞ではなくて、副詞のようなものだというのです。
私たち一人ひとりを実態だと考えるならば、一人ひとりが名詞のような存在だということになるでしょう。これはアリストテレスやデカルトなどの考え方に対応しています。ところが、スピノザの考えでは実態は神だけです。私たち一人ひとりは、神の存在の仕方を表現する様態でした。ならばこんなふうに考えられます。ちょうど副詞が動詞の内容を説明するようにして、私たち一人ひとりは神の存在の仕方を説明しているというわけです。
59 もう一つ、「属性」という言葉にも説明が必要だと思いますこの言葉は一般的には実体が持つ性質を意味します。スピノザの考える属性は、この一般的定義と矛盾するわけではないのですが、そこには独特の意味が込められています。属性はスピノザ哲学の中でも最難関の概念の一つなのですが、がんばって説明を試みましょう。
スピノザの属性概念は、デカルトの「心身二元論」への批判として捉えることができます。デカルトは精神と身体をわけ精神が身体を操作していると考えました。巨大ロボットの頭に小さな人間が乗って操縦しているイメージ。
それに対しスピノザは、精神が身体を動かすことはできない、というかそもそも精神と身体をそのように分けること自体がおかしいと考えました。精神で起こったことが身体を動かすのではなくて、精神と身体で同時に運動が進行すると考えたのです。これを「心身平行論」と言います。
例えば怒りに駆られたとき、怒りの観念が確かに精神の中に現れますが、同時に体が熱くなったり、手が震えたりします。落胆すると、その観念が精神の中に現れますが、同時に体の力が抜けます。それらは私という様態の中で同時に起こっていることです。
ただ人間は、精神に対応する「思惟」と、物体に対応する「延長」という二つの属性を知ることができるので、一つにすぎないものを分けて考えてしまいます。精神は精神、身体は身体と考えてしまう。スピノザはそれを批判しました。同じ一つの事態が、思惟の属性と延長の属性の両方で表現されているに過ぎないと考えたのです。
これを神の側から見てみましょう。神という実態が変状して様態が生まれます。その様態は思惟の属性においても存在するし(例えば人間の精神)、延長の属性においても存在する(例えば人間の身体)。思惟も延長も、いずれも神の属性であるからです。そして先に見た通り、そのそれぞれが神の力を表現している。「個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態」とはこの事態を意味しています。
61 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなっている実態、は必然的に存在する(第一部定理一一)
神は精神に対応する思惟と物体に対応する延長の二つの属性だけでなく、無限に多くの属性からなっている。しかし、人間はその知性的限界ゆえに、そのうちのたった二つしか知ることができない。
コナトゥスと社会
63 人はコナトゥスが上手く働いて生きているとき、自由である。そのように自由な人たちは、互いに感謝し合い(第四部定理七一)、
偽りの行動を避け常に信義を持って行動し(同定理七二)、
国家の共通の法律を守ることを欲する(同定理七三証明)。
スピノザの社会契約説
スピノザは『神学・政治論』のなかで、国家状態では人間の自然権に外的な規制が加わるが人間は自然権を放棄するのではなく、適度に自制しながら社会や国家の中で生きているということを述べている。「人は何か悪い〔と思った〕ことをわざわざ実行したりしない。そうするのはただ、より大きな「悪いこと」を避けるためか、より大きな「よいこと」が生じるという希望に駆られた場合に限られる」。「より大きな「よいこと」」のために自然権が規制されることを各人が事あるごとに反復し、再確認しているというのが、スピノザの社会契約の考え方である。(國分功一郎『近代政治哲学―自然・主権・行政』)
一般的な契約説では、安全のために人々が集まって社会契約を行い、その後にそれに従って国家の中で生きていくという論法になっています。つまり人々は、いつかどこかで、一度、契約をしたことになっているわけです。
ここに契約説が虚構と呼ばれるゆえんもあります。誰もそのような契約をした覚えはないからです。
スピノザはたしかに契約説の立場をとっていますが、一度きりの契約という考え方をしません。毎日、他人に害を及ぼすことがないよう、他人の権利を尊重しながら生活すること、それこそが契約だというのです。いつかどこかで一度契約した内容に従うのではなく、一つの国家の中で互いに尊重し合って生活していく。それによって契約はいわば、毎時、毎日、更新され、確認されている。私はいわゆる契約説が一回性の契約説であるとしたら、スピノザのそれは反復的契約説であろうと論じたことがあります。
確かに集団の中で生きていくことで、自分の権利が制約を受けるという面はあるでしょう。スピノザもそれを認めます。ただ、だからと言って集団で生きることを完全に否定はできない。人間は一人では生きられないし、集団で存在してお互いに組み合うことで高められる力があるからです。
しかし、もしその集団やその集団の指導者たちが、これまで確認してきた契約内容に背くようなことを行い、人々の権利が蹂躙されるようなことがあれば、人々は日々の暮らしの中でその契約を確認することをやめるでしょう。つまり、集団は崩壊するでしょう。社会契約が一度限りのものではなく、生活の中で反復的に確認され続けるものだとするスピノザ的契約説は、我々に、常に緊張感を持って契約に向き合う必要があることを教えます。
一人一人の権利が蹂躙され、コナトゥスが踏みにじられる、そのような国家は長続きしないというのがスピノザの考えでした。一人一人がうまく自らのコナトゥスに従って生きていければこそ、集団は長続きする。なぜならばその時に人は自由であるからというわけです。
第三回 自由
「自由」とは何か
67 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されるといわれる。(第一部定義七)
ここで言われている必然性を、その人に与えられた身体や精神の条件であると考えれば、スピノザの言わんとするところが見えてきます。先ほど見たように腕は可動範囲を持ち、その内部には一定の構造がある。これらの条件によって、腕の動きは必然的な法則を課されています。それを飛び越えることはできません。むしろ、腕を自由に動かしていると言えるのは、その必然的な法則にうまく従い、それを生かすことができているときです。
ここでもまた、実験の考え方が大切になります。というのも、その人の身体や精神の必然性は本人にもあらかじめわかっているわけではないからです(第二部定理二四)
誰もがそれを少しずつ、実験しながら学んでいく必要があります。ですから、人は生まれながらにして自由であるわけではありません。人は自由になる、あるいは自らを自由にするのです。
実際、今日まで、誰も身体の機能の全てを説明しうるほど正確には身体の組織を知らなかった。人間の知恵をはるかに凌駕する多くのことが動物において認められることや、夢遊病者が覚醒時にはとてもしないような多くのことを睡眠中になしていること(これは、身体が単に自己の本性の法則のみによって、自分の精神を驚かすような多くのことをなしうることを十分に示している)について説明できないのは言うまでもない。(第三部定理二備考)
自由の反対は「強制」である
自由の定義を読み解く上での二つ目のポイントは、自由の反対の概念が「強制」であることです(前出の第一部定義七をみると、最初、自由の反対は「必然的」といわれて、それが「強制される」に言いかえられています。もし前者だけを取り上げるとすると、自由も、自由の反対も、どちらも「必然性」で説明されることになってしまいます。ですので、ここでは「強制」に目を向けて定義を解読していきましょう。自由の反対を説明するにあたって最初に出てくる「必然的」という形容詞は、「日常的にはそう言われている」ということを述べているのだと思います。日常的には自由の反対は「必然的」と言われるが、その意味するところは「強制」である。「強制」に力点があるからこそ、「むしろ potius」という言葉がその直前におかれているのでしょう)。
強制とはどういう状態か。それはその人に与えられた心身の条件が無視され、なにかを押し付けられている状態です。その人に与えられた条件は、その人の本質と結びついています。ですから、強制は本質が踏みにじられている状態と言えます。あるいは外部の原因によってその本質が圧倒されてしまっている状態と言ってもいいでしょう。
親の𠮟責に耐えきれなかった青年が、家を捨てて軍隊に走り、「家庭の安楽と父の訓戒との代わりに戦争の労苦と暴君の命令とを選び、ただ親に復讐しようとするためにありとあらゆる負担を見に引き受ける」という話です(第四部付録第一三項)。
能動と受動
73 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば〔・・・〕我々の本性のみによって明瞭判然と理解され得るようなることが我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす〔能動〕という。(第三部定義二)
人は自由であるとき、また能動でもある事になります。どうすれば人間は自由になれるかという問いは、したがって、人間はどうすれば能動的になれるかという問いに置き換えることができます。
しかしここに問題が残ります。重大な問題です。
私が自分の行為の原因になるとはどういうことでしょうか。『エチカ』によれば、すべては神という自然の内にあり、すべては神という実態の変状です。神の変状であるという意味では、私たちの存在や行為は神を原因としています。私たちは原因ではありません。
他方、私たちは外部から刺激を受け続けながら存在しています。『エチカ』でも、いかなる物も、他の物から作用を受けなければ、存在することも作用することもできないとハッキリ書かれています(第一部定理二八)。これは簡単なことです。酸素を吸収したり、水分を摂取したりしなければ身体は持続しません。ものを考えたりするのも他からの作用があって初めて生じることです。
私たちは常に作用や影響を受け続けている。だとすると、私たちは常に受動でしかありえないのではないでしょうか。私たちが原因になることなどできるのでしょうか。この点を理解するためには、原因/結果、能動/受動をスピノザがどのようにとらえていたのかを検討しなくてはなりません。
順を追って見ていきましょう。ふつう原因と結果は、前者が後者を引き起こす関係にあるものだと考えられています。ところが、『エチカ』の哲学体系においては、原因と結果の関係はそこに留まりません。原因は、結果の中で自らの力を表現するものとして理解されているのです。どういうことでしょうか。
個体とは神の変状でした。神という実態が一定の形と性質を帯びることで個体になる。その意味で、存在しているすべての物は、神をその存在の原因としています。
他方、前回、「様態」の説明のところで見た通り、どの個体も、神の力を表現しているといわれるのでした。存在あするすべての物は、神が存在する仕方、すなわち様態であるからです。このことをスピノザは次のように説明しています。
存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する〔・・・〕。言いかえれば〔・・・〕存在するすべての物は神の能力を―万物の原因である神の能力を一定の仕方で表現する。(第一部定理三六証明)
前回は述べませんでしたが、「表現する」という動詞は、「証明する」とも言いかえることができます。自然界に存在する一つひとつの物は、神の力を説明していると考えられるわけです。
たとえば、神すなわち自然には、水のようなさらさらで透明な液体を作り出す力がある。あるいはまた、ものを考えて哲学などを生みだす人間のような存在を作り出す力もある。神すなわち自然には実に豊かな力があります。その中に存在している一つひとつが、それぞれの仕方で「神にはこんなこともできるよ」「自然にはこんな力があるよ」と説明してくれている。そしてそのような万物をつくり出した原因が中身なのでした。すると、原因と結果の関係は、同時に、表現の関係でもある事になります。神という原因は、万物という結果において自らの力を表現していることになります。
原因と結果の関係が表現の関係でもあるのならば、能動の意味も、我々が普段使っているそれとは異なってきます。
普通の能動と受動は、行為の方向、行為の矢印の向きで理解されています。行為の矢印が、私から外にむかっていれば能動であり、矢印が私に向かっていれば受動というわけです。
先の原因/結果の概念を用いるならば、この定義を次のように言いかえられることになります。私は自らの行為において自分の力を表現しているときに能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現しているとき、私は受動である。
79 自由であるとは能動的になる事であり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います。ですから、どうすれば自らの力が上手く表現される行為を作り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。
もちろんそれを考えるためには、これまでも強調してきた実験が必要です。実験をしながら自分がどのような性質のコナトゥスを持っているかを知らなければなりません。その際、自分がどんな歴史を生きてきて、どんな場所、どんな環境の中にいるのかを知ること、すなわちエソロジー的なエチカの発想も大切になるでしょう。スピノザ哲学の全体が人間の自由に向かって収斂していくことがよくわかると思います。
ここからわかるのは、行為における表現は決して純粋ではないということです。ですから、純粋に私の力だけが表現されるような行為を私が作り出すことは出来ません。つまり私は完全に能動的になることはできません。いつもいくばくかは受動であるのです。なぜなら私たちは周囲から何らかの影響や刺激を受け続けているからです。完全に能動であるのは、自らの外部を持たない神だけです。神は完全に能動です。
ただ、完全に能動にはなれない私たちも、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことは出来ます。スピノザはいつも度合いで考えるのです。自由も同じです。完全な自由はあり得ません。しかし、これまでより少し自由になることはできる。自由の度合いを少しずつ高めていくことはできる。
「意志」は自由ではない
81 スピノザの自由とは能動的になる事であり、能動的であることは行為において自らの力が表現されていることでした。したがって、スピノザの自由とは自発性のことではありません。自発的であるとは、何者からも影響を受けずに、自分が純粋な出発点となって何事かをなすことを言います。スピノザ哲学いおいては、そのような自発性は否定されます。なぜならば、いかなる行為にも原因があるからです。自分が自発的に何かをしたと思えるのは、単にその原因を意識できないからです。
私たちの意識は結果だけを受け取るようにできています。今日の昼ごはんにラーメンを選んだことにも、本屋でふと気になってこのテキストブックを今読んでいることにも、すべてに原因があります。しかしその原因を十分に理解することは人間の知性にとっては実に困難です。だから、自分でラーメンを選んだし、自発的にこのテキストブックを読みはじめたのだと考えるわけです。
ですから、私たちが自発性を信じてしまうことには理由があるわけですが、しかし、実際にはそのようなものは存在しえません。この自発性は一般に「自由意志」と呼ばれています。これが私が先ほど言った、一般に自由と考えられているもののことです。
例えば人間が自らを自由であると思っているのは、<すなわち彼らが自分は自由意志を持ってることをなし あるいはなさざることができると思っているのは、>誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らはそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。(第二部定理三五備考)
85 精神の中には絶対的な意志すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのこと または かのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた ほかの原因によって決定され、このようにして無限に進む。(第二部定理四八)
精神の中には確かに意志と感じられる物が存在しています。しかしそれも何らかの原因によって決定を受けているのです。したがって意志は自由な原因ではありません。それは、何物からも影響も命令も受けない自発的な原因などではないのです。そもそもそのようなものは自然界に存在しえません。
意志と意識の違い
86 意志の自由を否定したら人間がロボットのように思えてしまうとしたら、それは人間の行為をただ意志だけが決定していると思っているからです。意志だけが人間の行為の唯一の操縦者であるのだから、その操縦者がいなくなったら、人間には操縦者がいなくなると考えてしまっているのです。「意志の自由」や「自由意志」を否定することへの強い抵抗の根拠はここにあります。意志が一次元的に行為を決定していると信じられているからこそ、その抵抗は強いものになるのです。
行為は実際には実に多くの要因によって規定されています。
例えば歩く動作のことを考えてみましょう。
(略)
ですので、身体の各部分は意識からの指令を待たずに、各部で自動的に連絡を取り合って複雑な連携をこなしています(これを身体内の「協応構造」と言います)。
(略)
私たちはこれまでに学んだ何らかの形式に沿って歩いています。それは意識して選択されたものではありません。意識せずに従っている習慣です。しかしそれは私たちの行為を強く規定しています。
また現代の脳神経科学では、脳内で行為を行うための運動プログラムがつくられた後で、その行為を行おうという意志が意識の中に立ち現れてくることがわかっています。意志はむしろ運動プログラムがつくられたことの結果なのです。
(略)
つまり、行為は多元的に決定されているのであって、意志が一元的に決定しているわけではないのです。けれどもどうしても私たちは自分の行為を、自分の意志によって一元的に決定されたものと考えてしまいます。繰り返しになりますが、それは私たちの意識が結果だけを受け取るようにできているからです。
88 意志が一元的に行為を決定しているわけではないというとき、日本語だと混同しやすい二つの言葉をきちんと区別しておく必要があります。二つの言葉とは、「意志」と「意識」です。英語だとWillとConsciousnessでまったく別の単語ですから間違いようがないのですが、日本語では似ているので注意が必要です。
スピノザは意志が自由な原因であることを否定しました。しかし、私たちが意志の存在を意識することは否定していません。たしかに私たちはそのような精神の力を感じるのです。では意識とは何でしょうか。スピノザはこれを「観念の観念」として定義しています。とんちみたいな言い回しですが、むずかしいことではありません。「観念の観念」とは、精神の中に現れる観念についての反省のことです。
(略)
意志が自由な原因であることの否定は、意識の存在の否定とは何の関係もありません。意識の存在は否定されていません。意識は何らかの観念があれば、それに反省を加えることで生まれてきます。
先ほど行為は様々な複数の要因によって多元的に決定されていると言いました。おそらく、意識もその要因の一つであるでしょう。人間の精神の特徴の一つは、意識を高度に発達させ、それによって自らの行為を反省的にとらえることができるようになった点にあります。だから意識は行為に影響を与えることができます。したがって、意識は無力ではありません。しかし意識は万能でもありません。意識では身体の複雑な機構を統制できないし、習慣もほとんどの場合は意識できない。無意識を意識化することの難しさを説いたのがフロイトですし、脳内の運動プログラムに至っては意識することは不可能です。
ですが、行為において意識は何らかの役割を果たすのです。スピノザは意志が自由な原因であるという思い込みを批判しました。しかし、それはあなたの意識の否定ではありません。あなたはロボットではありません。意識は万能ではないし、意識は自発的ではない、ただそれだけのことです。
「意志の神学」と現代社会
91 意志の概念はまさしく信仰の中で発見されていきました。それを作ったのは、パウロやアウグスティヌスらのキリスト教哲学者であったとアレントは言っています。意志の概念がいつどうやってはじまったのかを確定することは困難です。ただ重要なのは、現在のような意志の概念はかつては存在しえなかったということです。
第四回 真理
現代を決定づけた時代
真理の基準は真理自体である
96 実に、光が自身と闇とを顕わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。(第二部定理四三備考)
ここに言われる「規範」というのは基準ということです。つまり後半部分だけを取り出すと、真理は真理自身の基準であり、そしてまたそれは虚偽の基準でもあるということになります。さて、真理の基準とは何でしょうか。それはおそらく、その基準に当てはめればどんなものでもそれが真であるか偽であるかがわかる、そういう定規のようなものでしょう。
さて、誰かがそのような基準を発見したと言って見せてくれたとします。「おい、この基準で測れば、どんなものでも真かどうかがわかるぞ!」というわけです。それを見せられた私は、当然、次のような問題を抱くでしょう。「ちょっと待ってくれ。君が言っていることはわかるけど、でも、この基準自体が真であるとどうして言えるんだ?」相手はどうするでしょうか?「分かった、じゃあ、この真理の基準が真だと言えるようなもう一つ別の真理の基準を探してくるよ」となります。
(略)
これはなにを意味しているかというと、真理の基準は存在しえない、もう少し正確に言えば、真理の外側にあって、それを使えば真理を判定できる、そのような基準を見出すことは原理的に不可能だということです。
(略)
ならばどう考えればよいのでしょうか。この実に深刻な逆説に対する答えが先の定理なのです。つまり、真理の基準を真理の外に設けることはできない。真理その物が真理の基準とならなければならない。そして何が真かを教えるものは、何が偽であるかも教えてくれるだろう。それが「真理は真理自身と虚偽との規範である」の意味するところです。
では真理が真理自身の基準であるとはどういうことでしょうか。それは真理が「自分は真理である」と語りかけてくるということです。言い換えれば、真理を獲得すれば、「ああ、これは真理だ」と分かるのであって、それ以外に真理の真理性を証したてるものはないということです。ここだけ聞くと納得できないかもしれません。しかし、先ほどの簡単な思考実験で分かったのは、真理の真理性を証したてるものを真理の外側に見出すのは不可能だということでした。
ここまでくると、「光が光自身と闇とを顕わすように」という前半の部分の意味も見えてきます。どんなものも光を当てないと見えません。しかし、ただ一つだけ光を当てなくても見えるものがある。それが光です。光はそれを照らす光を必要としない。光は光だけで自らを顕わすことができる。真理もまたそれと同じだというわけです。
しかし納得できない方も多いはずです。なぜならこの真理観では近代科学が成立しえないからです。科学は新しく提示する実験結果や定理を公的に証明し、共有するというプロセスと切り離せません。「その定理を見てみれば真理だと分かる」というのでは科学にはならないわけです。その意味で、スピノザの真理観は近代科学の在り方に抵触します。
真理は自分でつかみ取れ―デカルトとの違い
99 我思う、ゆえに我あり Cogito, ergo sum ―コギト命題
さまざまなものに疑いを投げかける指先を、くるりと自分に向けた時、考えている私が存在していることは疑えないと気づくわけです。デカルトはこの「私は考えている、だから私は存在している」を第一真理として、それを足掛かりに哲学を構築していきました。
デカルトの考える真理は、その真理を使って人を説得し、ある意味では反論を封じ込めることができる、そういう機能を備えた真理なのです。
スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではありません。そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっています。だから、真理が真理自身の規範であると言われるのです。いわば、真理に向き合えば、真理が真理であることは分かるというわけです。スピノザの真理観を伝えるもう一つの定理を見てみましょう。
真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。(第二部定理四三)
103 デカルトは誰をも説得することができる公的な真理を重んじました。実際にはそこで目指されていたのはデカルト本人を説得することであったわけですが。それに対しスピノザの場合は、自分と真理の関係だけが問題にされています。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのです。だから自分が獲得した真理で人を説得するとか反論を封じるとか、そういうことは全く気にしていないわけです。
真の観念を有する者は同時に自分が真の観念を有することを知るとは、真の観念を有する者だけが真の観念の何たるかを知っているということでもあります。これは言いかえれば、真の観念を獲得していない人には、真の観念がどのようなものであるのかはわからないということでもあります。
あえて問うが、前もって物を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。すなわち前もって物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。(第二部定理四三備考)
どういうことでしょうか。「いま、自分はこの物について確実な認識を有している。確実な認識とはこのような認識のことだ」、そのように感じることができるのは、なにかを確実に認識した後のことだとスピノザは言っているのです。
何かを確実に認識した時、人はその何かについての認識を得るだけでなく、確実さとは何かも知ることができます。それは、自分が確実さをどのように感じるのかを知るということでもあります。何事かを認識することは、その何事かだけでなく、自らの認識する力を認識することでもあるのです。何かを知ることで、私たちは自分たちのことをよりよく知るといってもよいでしょう。
自分を知ることは自分に何らかの変化をもたらします。つまり、何かを認識すること、真理を獲得することは、認識する主体そのものに変化をもたらすのです。私たちは物を認識することによって、単にそのものについての知識を得るだけでなく、自分の力をも認識し、それによって変化していく。真理は単なる認識の対象ではありません。スピノザにおいて、真理の獲得は一つの体験として捉えられているわけです。
(略)
自らの認識する能力についての認識が高まっていくわけですから、これはつまり、少しずつ、より自由になっているのだと考えることができます。
「主体の変容」が自分を高める
106 スピノザの哲学が何かを理解する体験のプロセスをとても大事にしていることがわかるでしょう。何かを認識し、それによって自分の認識する力を認識していく。このように認識には二重の性格があります。スピノザはそこに力点を置きました。このような真理観はある意味で密教的といえるかもしれません。真理とそれに向かう自分との関係だけが問題にされているからです。
人は自らの力を十分に表現するように行為しているときに能動的といわれるのでした。しかし、そのような表現をどうやって公的に証明したらよいでしょうか。おそらくできません。
自分と上手く組み合うものと出会った時、人はその活動能力を増大させます。それが善いことでした。しかし活動能力の増大をどうやって証明できるのでしょうか。こちらはもしかしたら生理学的に証明できる値があるのかもしれませんが、基本的には難しいだろうと言わざるをえません。
私たちはこれまで、どうして力としての本質という考え方が必要なのか、どうして力の表現としての能動の定義が必要なのかを見てきました。皆さんがそれに納得してくださっていることを期待します。しかし、近代科学的な視点で眺めるならば、それらは、もしかすると根拠がないと言われてしまうかもしれないのです。エヴィデンスを出すことも、公的に証明することもできない事柄だからです。
私たちの考え方は強く近代科学に規定されています。私たちの思考のOSは近代科学的です。ですから、そのOSはスピノザ哲学をうまく走らせることはできないかもしれません。これこそ私が「はじめに」で述べた、「頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない」ということの意味に他なりません。
近代科学はデカルト的な方向で発展しました。その発展は貴重です。その恩恵にあずかって生きています。そしてまた、公的に証明したり、エヴィデンスを提示することもとても大切です。それを否定するのは馬鹿げています。
108 しかしそのことを踏まえたうえで、同時に、スピノザ哲学が善悪、本質、自由、そして能動をあのように定義した理由を考えていただきたいのです。
近代科学はとても大切です。ただ、それが扱える範囲はとても限られています。近代科学では、たとえば、スピノザの考える表現の概念は扱うことができません。しかし、前回見たように、この表現の概念がなければ、カツアゲされてお金を手渡す行為と瀕死の重傷を負った旅人を手助けする行為の違いすら、我々は十分に説明できなくなってしまうのです。
デカルトとスピノザの真理観の違いに注目した哲学者としてミシェル・フーコーがいます。フーコーは『主体の解釈学』という講義録の中で、かつて真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていたと指摘しています。ある真理に到達するためには、主体が変容を遂げ、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめてその真理に到達できる。
この考え方が決定的に変わったのが十七世紀であり、フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象となってしまったというのです。フーコーはしかし、十七世紀には一人例外がいて、それがスピノザだと言ってます。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけです。これは実に鋭い指摘です。
AIと現代社会
112 スピノザは精神と身体の関係について徹底して考えた哲学者です。今回は全く触れられませんでしたが、現代の脳神経科学や医学からもスピノザの主張の正しさが証明されつつあります。スピノザはAIを考えるうえでも参考になるはずです。それは結局、人間について考えることに帰着するでしょう。というのも、人間について、まだあまりにも多くのことがわかっていないからです。
脳神経科学・・・スピのノザの主張の正しさが証明
113 スピノザ哲学を使ってそのような状態を変革する解決策がすぐに提示できるわけではありません。しかし、これまでに勉強してきたスピノザの様々な概念、すなわち、組み合わせとしての善悪、力としての本質、必然性としての自由、力の表現としての能動、主体の変容をもたらす心理の獲得、認識する力の認識・・・、これらの概念を知るだけでも、この社会の問題点を理解するヒントにはなるはずです。
哲学を学ぶとは
これまでに何度か言及してきたドゥルーズは、哲学とは概念を創造する営みだと言いました。哲学者はある問題に直面し、それを何とかしようとして概念を創造します。そうした概念の連なりが哲学の歴史です。
哲学研究の一つの役割は、そうやって想像された概念の内実を解明することにあります。
では、哲学が概念の想像であり、哲学者は概念を創造するものであるとしたら、哲学を学ぶとはどういうことでしょうか。いつの時代の誰誰という哲学者がこれこれのことを言ったという事実を知ることも大切です。しかしそれは哲学を学ぶに当たって最も重要なことではありません。
哲学を学ぶ際に一番重要なのは、哲学者が作り出した概念を体得し、それをうまく使いこなせるようになることです。たとえば、組み合わせとしての善悪の概念を使って物事を判断できるようになる。必然性としての自由の概念から教育について考えてみる。そんなふうにして概念を使いこなせるようになることこそ、哲学を学び身につけることなのです。