読んだ。(見た)  #大阪ウチナーンチュ フォト・ドキュメンタリー #太田順一

読んだ。(見た)  #大阪ウチナーンチュ フォト・ドキュメンタリー #太田順一
 
写真家の太田順一さん撮った、大阪の大正区に暮らす沖縄の人(ウチナーンチュ)たちの写真とインタビュー集。
 
>現地(ウチナー)での経済疲弊から逃れるべく、船の直行便を乗り付けて多くのウチナーンチュが出稼ぎのために大阪を訪れ、海沿いの町(現在の大正区)に住み始め、その数およそ2万人(刊行当時)。異国のヤマト(本土)のなかにありながらも、ウチナーグチ(沖縄方言)でしゃべり、沖縄の文化を大切に守ってきた人々の真実と素顔にせまったヒューマン・ドキュメンタリー。
 
写真もよかったが、インタビューがかなりよかった。
 
 
1996年発行。163ページ。
 
 
 
悪いとこばっかり見てるからな。夜、酒飲んで外でワーワー言うてけんかして、道端で寝転がったりして。家は貧乏で、仕事も肉体労働の汚いのばっかりや。そんな沖縄が嫌で嫌で仕方なかった。でも、今は俺もわかる、おやじらの苦労が。そんなふうにしか生きられへんかったんや
 
方言札(沖縄の言葉を話すと首から吊るされた札)
 
でも、よう考えたら、僕は内地の子の家へあちこち遊びに行ってたけど、逆にその子らが僕の家に来るということは一度もなかった
 
そやけど、おやじらもええ加減なことをしてるねんで。馬力に薪積むとき、中はがらがらにしといて、外側だけようけあるように見せかけて積んでもって行って、それで金をもらってくるんやから。降ろすときも、揃えて積んだら数少ないのがバレるから、ばらばらにして積む。みんな、そんなことして金を儲けててん。
 
ダライコいうのは旋盤から出る鉄の切りくずのことで、それをバタコ(オート三輪)に乗って、鉄工所回って買い集めてくるねんこの仕事、最初は買うんやなくて、捨ててあるのを拾ってきてたんやというのは、空襲で焼けた工場跡なんかの原っぱに、いっぱい野積みしてあったから。錆びてかたまりになってるので、酸化ダライコて呼んでたわ。それを馬力に積んで尻無川へもって行ったら、朝鮮の人が買うてくれる。朝鮮の人はそれをまた機帆船で製鋼所に売りに行くわけや。沖縄の人いうたら、ちょっと前までみんな馬力しとったのに、ダライコが金になるって知ったら、もうみんなダライコ屋にくら替えや。砲兵工廠跡とか大阪のあちこちに、競ってダライコ探しに行くもんやから、初めはタダやったのに、向こうも金出せと言うようになってしもうた。
 
おじいさんとおばあさんは、おふくろがまだ六歳のときに、おふくろら三人の子供をおばあちゃんに預けて、沖縄からブラジルへ移民に行ってるんです。お
 
僕の家は、他人の家の上に、さらに建て増ししたものなんですアパートに住んでるとき、知り合いのウチナーンチュが、うちの二階に家を建てたらいい、て言ってくれたので、おやじが柱を継ぎ足して建てたんですバラックみたいなものやから、よく揺れるんです。台風なんかが来たら、すぐ避難してね。そんな僕の家の辺り一帯が、大阪市土地区画整理事業で立ち退かなあかんようになった。
 
それに僕、ぜんそく持ちで、ブラジルへ行ったら治るかもしれん、て言われてましたから
 
当時、サンパウロに商店街はなく、露店の市場が一週間単位で場所を移しながら開かれてたんですそこには野菜、果物、肉、乾物、いろんな商品を売る店がずらっと並んでて、それがフェイラ。要するに露店商ですね
 
・電気を家に引いてからは、ラジオをよく聞きました。これだけは売らんとこ、言うて、大事に置いておいたんです。サンタマウロ放送という日本語の放送があって、リクエストで歌謡曲がかかる。美空ひばり西郷輝彦がよくかかってました。テレビは、仕方ないから友達の家へ行って見るんです。その子はスペイン系の白人で、「ナショナルキッド」を吹き替えでやってたので、僕が主題歌を日本語で歌ったら、尊敬の目で見てました
 
・ある晩、おふくろが二階の僕の部屋に来て、もうお父ちゃんの面倒見切れへん、何とかして、て言うんです。下へ降りて行ったら、台所のテーブルのところでおやじは酔っ払いながら、紙に”秀吉〟て何や訳のわからんことを書いてる。これはもうアル中を通り越して相当おかしくなってるな、て思ってね。上から押さえつけてものを言うと反発する人やから、やさしく、どないしたんや、て聞いてあげた。そしたらおやじは、子供になったみたいな感じで、沖縄へ帰りたいんや、て言うんです。強がりばかり言って生きてきた人やから、そんな素直な表情を見せたの初めてです。よっしゃ、わかった。沖縄に帰れるようにするからもう酒飲まんときて言うたら、おやじはスーッと気が落ち着いたようです。
 
それから、ものを借りて返すとき、これ使わんかったわ、て言うて返したらあかん。使わなくとも、借りたお陰で助かったわ、て言えとか
 
父親は空き地で豚を飼ったり、ゴーヤー(にがうり)を植えたり、キザラを煮て黒砂糖をつくったりしてた
 
大正運河と貯木池のそばの湿地帯に、バラックの密集地があってん。窪地やったので、沖縄の人は皆、クブングヮーて呼んでた。ジェーン台風(一九五〇年)の後、水がたまって沼になったところに、住むとこのない人が杭を打って水上住宅をつくってん。それが始まりで、以来、バラックがどんどんと建ち並んでいった。四百世帯ほどあったかな。そのうち三分の一が沖縄の人やねん。あとは四国、九州の人が多かった。中は迷路みたいに複雑に入り組んでて、初めて入った人はなかなか出られへん。
 そのクブングヮーに、沖縄の人は身内が沖縄から出て来たら、親戚や仲間を集めて家を建ててあげるねん。土地所有のことなんか関係あらへん。空いてるところに、早い者勝ちや。廃材使って、アッという間に建ててしまう。そのころ大正区は、土地区画整理事業で家の立ち退き、取り壊しをあちこちでやってた。だから梁とか柱とか使えるものがタダでいっぱいあってん。父親の弟一家が出て来たときも、同じようにして建ててもらった。お金は払わなくてええねん。そのかわり、皆にごちそうをする。皆もまた、建て終わった後に飲むのが楽しみで、手伝いに来てるわけや。沖縄のサトウキビ刈りはきつい労働やけど、もともとあれは賃仕事でなく、村の共同作業やねん沖縄のユイマール(共同労働)ていう助け合いの精神が、大阪でも生きててん
 
部落問題に熱心に取り組んでる先生が上映したものや。映画は部落の歴史的なこととかいろいろ説明したあと、じめじめした古い家屋が密集する環境を映し出して、これが差別の実態です、て言うねん。そのとき、僕、思ってん。クブングヮーはもっとひどいで、って。これが差別やったら、沖縄の人も同じように、いや、もっとひどい差別を受けてることになる。僕は自分の田舎へ帰るのに、パスポートを取らんなあかんかった。同じ日本に住んでるのに、ではいったい自分は何者や、ていうことになるやんか。部落の人の仕事は、日雇いとかのきつくて汚れる仕事が多い、て映画で言う。沖縄の人とまったく一緒や。これはもう完全な差別やな、て思った。で、映画が終わってから先生のとこへ行って、「僕、沖縄やねん。部落もひどいけど、沖縄の人の住んでるとこはもっとひどいで」て言うた。先生、言葉なくしてたわ
 
部落解放運動にかかわると、部落の劣悪な環境そのものが差別なんや、差別の結果なんや、てわかってくる
 
でも、同化こそ差別なのとちがうか。子供のころから僕は、ここの人らと自分はどこか違う、沖縄は日本と違うのやないか、て感じてきた。案の定、学生になって沖縄の歴史を勉強してみたら、違ってた。琉球処分(明治十二年)で沖縄がヤマトに組み込まれてから、まだ百十何年や。それ以前は、島津の支配はあったけど、独自の文化をもった王国やってん。そしてこの百十何年というのは、ひたすらヤマトに同化させようと、沖縄から独自の文化を奪っていく過程やってん
 
・ウチナーンチュにも悪い奴がおれば、ヤマトンチュにも素晴らしい人はいる。実際、ウチナーンチュもよう差別するからね、朝鮮の人や部落の人を。だから沖縄だけを擁護するつもりは全然ない
 
親父が飲んで帰ってくると兄貴らは飛んで逃げたけど、俺は中学生ぐらいから、おやじが家でまた酒を飲む、その相手をするようになってん。暴れるのは確かに怖かった。でも、おやじがこれだけ飲むには理由があるんや、悔しい思いがあるからなんや。そう思えて仕方なかったんよ。だから、おふくろがおやじを「あんたはだらしがない人や、外で馬鹿にされたから言うて家で暴れるなんて」の一言で片付けるのには、抵抗があった
 
何でおやじは酒を飲んで家で暴れんなあかんかったのか。何で沖縄人集落でけんかが絶えへんかったのか。それは差別によくあるパターンなんよ。弱いとこへ弱いとこへとしわ寄せが行くねん。沖縄人やいうて差別されるのは、何もその人だけの問題でなく、沖縄と日本という社会的な問題や。そやのに、その人の個人的な問題で終始させられてる。だから、差別された怒りや悔しさが組織化されへん。みんなひとりで悶々と右往左往して、結果、はけ口を身近な家族とかに向けていくねん。
 
沖縄が復帰した一九七二年前後、集団や単身で本土に就職して来た沖縄青年による自殺、暴行、殺人、強盗といった事件が頻発した。なじめない本土の生活習慣のもと、約束とは違う劣悪な条件で働かされ、そのうえ侮辱的な仕打ちを受けたことが、多くの事件の原因だった。
 「山口君問題」と呼ばれた事件もそのひとつだ。宮古島出身の山口君が職を転々としたあげく、かつて勤めていた会社の社長宅に放火し、夫人を焼死させてしまった。裁判は、事件を起こすにいたった彼の悩み、苦しみがどんなものであったのかを不問にしたまま、懲役十年を下す。山口君は「殺意はなかった。沖縄の若者が安上がりの労働力として本土に送り込まれ、ボロ切れのように使捨てられる現状を見てほしい」(朝日新聞七四・五・二五)と控訴する。が、控訴審が開かれる直前、山口君は拘置所で首吊り自殺をした。独房内のチリ紙には「生きる希望がわいてこない」と書き残してあった。
 
 
 
山口君は、言いたいことが言葉にできてなかったのね島から出て来た青年が、本土の生活風土になじめず、たどたどしくしかしゃべれないもどかしさを抱きながら、だんだん自分で自分を追い込んでいく。あるいは、まわりから追い込まれていく。結果、それが放火殺人、そして自殺へとつながっていってしまう......。
いちばん象徴的やったのは、事件の調書にも書かれてあったことなんやけど、山口君の放火で社長の奥さんが亡くなったので、宮古から山口君のお父さんとお母さんが社長のもとに泣きながら謝りにやって来た。そのとき、土産としてチョコレートとかの菓子を持って来たんやけど、それが新聞紙で包んであった。それを社長は、こんな失礼なことはないと思った、と
 違うんよ。菓子を新聞紙に包んだのは、貧しい島の親が懸命に用意した、精一杯の気持ちの表れやったのよ。それがわかってもらえないのよ。思いが思いとして伝わらない、あるいは表現できないもどかしさ、それが山口君にあった。僕たちにあった
 
・きれいごとだけで沖縄を見るのは、間違いよ。本土では、沖縄の人間は被差別の側に追いやられるけど、その沖縄のなかで、宮古八重山に対する本島の差別がある。子供のころ沖縄本島に行くと、宮古というだけで相手の顔色が変わったりした。骨身に染みて差別を感じたね。差別はまた宮古のなかにもある。沖縄では島の数だけ重層的に差別構造がつくられてるんよ。まあ、今はもうそうではないんやけど、昔はきつかったからね
 
違いのある文化をいっぱい抱え込んでるのが沖縄やということを、沖縄の青年自身がもっと認識せなあかん
 
その高台から、毎年三月の末になると、集団就職の船が紙テープを引きながら出て行くのが見える。するとおばあさんらは、「焼かれんで帰っといでよ」と神さんに祈るのね。宮古は昔、火葬じゃなかったから、本土の火葬という風習に対しては、死んでそのうえまだ焼いて痛い目にあわすのか、という考えがあった。だから「焼かれんで帰っといでよお」というのは、「絶対に元気で帰っておいで」という意味なんよ
 
病弱で工場を解雇された沖縄出身の若者が、持ち金は百円玉一個という状態に追い詰められて、郵便局に強盗に入った。包丁を突き付けたものの、「金を出せ」と言えずに沖縄の言葉で「ジン出せ」と言ったものだから、局員には何のことか意味がわからない。もたもたしているうちに、とっ捕まってしまった――。
 十五年前、大阪で実際に起きた事件である。このような<笑うには悲しすぎる。悲しいというにはおかしすぎる>(彫刻家・金城実)失敗を、強盗というシチュエイションは別にして、本土に来た沖縄青年の誰もが大なり小なり経験したのではないだろうか
 
 
・山口君のことは同じ浜比嘉島出身の先輩から、大正区で沖縄の青年が集まってるから行こう、と誘われて行って知ったんです。集まりでは山口君だけでなく、ほかにも沖縄から就職で来た青年の事件や問題がいっぱい起きてることが報告されてね。何でやろ?て皆で考えていったら、沖縄の青年がいかに悪い環境の下で働かされているか、ということがひとつわかってきた。例えば肉の問屋で働いてた子なんか、将来は店を持たせてやる、て言われて来たんだけど、来てみたら、寝るのは倉庫を改造した簡単な間仕切り部屋で、夜は外に出られないよう、建物の周囲に有刺鉄線が張ってあって、おまけにシェパードまで放してあった、と。また自殺者を出した半導体工場では、プライベートな電話ができないよう、沖縄の女の子が二、三十人もいる寮に公衆電話がわざと置かれてなくて、遠く離れた守衛室にある公衆電話しか使えないようにしてあった、と。
 復帰前は、パスポートを取り上げといて働かせる、ということがよくあったんです。その延長線上なんですね、沖縄青年が劣悪な労働環境に置かれるのは。沖縄の人間を信用してなくて、監視しようとする意識が働いてる。そういうことを知らないで、いや知らせないで、沖縄から若い子が働きにどんどん出て来て、そして耐えられずに次々と辞めていく。すると、やっぱり「沖縄者」は定着率が悪い、と言われることになる。企業の側は定着させるための努力を何ひとつしてないのに、おかしいですね。
 
最近の沖縄から来る若い人たちを見ていると、みんなものおじしなくて表情も明るい。まわりにも自分をうまく合わせて、やわらかく入って行く。それは、僕らの世代がもてなかったものです。まわりになじめず、かたくなで、だからしんどかった。今の若い人たちは、沖縄青年よ、集まれ!みたいな会は、もう必要としなくなってるのかもしれないですね
 
・うちの舟は、米軍の爆撃機P3の燃料タンクをふたつに割ったものなんよ。残骸になって転がってたのを拾ってきたやつで、全長三メートルぐらいかな。漁に出るときは、家からその舟をおやじと二人で担いで、海まで一キロの山道を運んで行くの。二人ともしゃべらずに、黙々と。道は白く光ってて、風のほか何の音もしない。気の遠くなるような光景さ。海に着くと、今度はモリやたいまつとか道具を運びに、今来た道をまた戻る。
 漁は月夜の晩でなく闇夜の、しかも波の静かなときでないと駄目。海は狭い内海になってて底が深いから、無風のとき、表面は鏡みたいになる。たいまつを照らすと、魚の泳いでるのがようく見える。それをおやじが舟の前からモリで突き、僕は後ろで櫓をこぐ。たいまつの燃える音だけがしててね、あとはシーンとしてる。何と言うのかな、何千年も前の太古から続いてるような、そんな深い静けさなんよ。そのなかを五時間も六時間もこがされるんだから、もう眠い、眠いわ。居眠りしたら舟が止まるでしょ。おやじにすぐわかるわけ。しょっちゅう怒られてたな
 
おばあさんは字は読めんけど、月を見て潮の満ち引きの時刻がわかる人でね。生活の仕方も考え方も、中国の明の時代そのままに生きてる人だった。琉球は薩摩が侵入するまで中国の明とつながって、その影響を強く受けてたでしょ。その五百年も六百年も昔の中国の文化が、沖縄の特に田舎で、時が止まったみたいにずっと伝えられてたのよ、おばあさんの代までは。僕は物心ついたころから、おばあさんからものの言い伝えや心の戒めの話をさんざん聞かされて育ってる。だから、かなり古臭い考え方をすると自分でも思うよ。まあ言うたら、明の時代の生き残りだな。
 
 
まず、言葉がわからない。親方である叔父さんには息子がいて、僕にいろいろ話しかけてくるんだけど、その子は大阪生まれだから、何を言ってるのかさっぱりわからん。いとこ同士で通じ合えないわけよ。大阪弁でそうなのだから、奈良なんかにスクラップの引き取りに行ったら、もう完全にアウトや食べ物も合わない。叔父さんとこで食べてる分には沖縄料理だからいいんだけど、仕事で外に出てるときは食堂で食べんといかんでしょ。甘くって甘くって、全然食べれんかった