読んだ。 #村上春樹、河合隼雄に会いにいく  #村上春樹 #河合隼雄

読んだ。 #村上春樹河合隼雄に会いにいく  #村上春樹 #河合隼雄
 
前書き/村上春樹
 
第一夜 「物語」で人間は何を癒すのか
○コミットメントということ
15 とくにアメリカに行って思ったのは、そこにいると、もう個人として逃げ出す必要はないということですね。もともと個人として生きていかなくちゃいけないところだから、そうすると、ぼくの求めたものでは意味を持たないというわけです。
 
19 コミットメント(関わり)ということについて最近よく考えるんです。例えば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(関わりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが。
 
 それがいつごろからかなぁ、少しずつ変わってくるんですね。
 
 アメリカにいるあいだ、何にコミットすればいいのか、これからどうすればいいんだろうってぼくはずいぶん考えてきたつもりなのです。ところが、日本に帰ってくると、やっぱり何にコミットしていいのか分からないんです。それがものすごく大きい問題なんです。考えてみると、ここ(※日本)では何かにコミットするルールというのがあまりできていないんじゃないかなという気がします。
 
 考えてみると、68~69年の学生紛争、あのころからぼくにとっては個人的に、何にコミットするかということは大きな問題だったんです。あの頃はっきりした政治的意思があったわけではないんですが、ところが、その必ずしもはっきりしない意思をどうコミットするかという方法論になると、選択肢はものすごく少なかったんですね。あれは悲劇だという気がするんですよ。
 結局あの頃は、ぼくらのの世代にとってはコミットメントの時代だったんですよね。ところが、それがたたきつぶされるべくしてたたきつぶされて、それから一瞬のうちにデタッチメントに行ってしまうのですね。
 
 ただ、95年はオウムの事件と阪神の大地震がありました。あれはまさにコミットメントの問題ですよね。
 
 そうです。そこにものすごい反動のようなものが出たんですよ。ふだんデタッチの状態でいるような若者たちが、ものすごくコミットしたんです
 
 
 
阪神大震災と心の傷
○言語かイメージか
36 ぼくはアメリカ人に強調しているんですが, すべて分析して言語化しないと治らないというのはおかしい。 また,言語で分析する方法は, 下手をすると, 傷を深くするときだってあるのです
 たとえば、「自分はノドに何か詰まっている」と言うと、「何か言いたいことがあるでしょう、思い切って言いなさい」と言うと、「いや、じつは父親を殺したいと思う」と言うとしますね。そうすると、それを言ってしまったことで傷つくのです。自分は何も意識してそんなこと思っていなかった、と思っても、自分は父親殺しの意思を持っていたということで、また辛くなるわけでしょう。
 
○「理屈」で回答するか、「人情で」答えるか
○小説家になってびっくりしたこと
○日本的「個」と歴史という縦糸
56 ぼくが思ったのは、日本における個人を追求していくと、歴史に行くしかないんじゃないかという気がするのです、うまく言えないんだけど。
 というのは、現代、同時代における個人というのをもし描こうとしても、おっしゃるように日本における個人というものの定義がすごくあいまいなのですね。ところが、歴史という縦の意図を持ってくることで、日本という国の中で生きる個人というのは、もっとわかりやすくなるのではないかという気が、なぜかしたのです。
 
○「言語の違い」の深層
59 翻訳の話に戻りますが、英語を日本語に翻訳するときに、なにがむずかしいかというと、代名詞がいちばんむずかしいのです。代名詞をどう処理するかということに翻訳は尽きるのではないかという気がぼくはするのです。代名詞とは何かといったら、個のディフィニション(定義・定置)ですよね。 
 翻訳を十年以上続けてきて、だんだんディフィニションの扱いがこなれていくのですね。ときどきふと、ここまでこなしちゃっていいもんだろうか、どうしてこんなにこなれてくるんだろうか、と思う。それと同時に、そういうディフィニションというのは、ぼくの中でこっちと向こうというのではなくて、一種のあいまいな、アンビギュアスなものになってくる。
 
63 ぼくの小説も英語に訳されて、アメリカでそれを読んだ学生と話をするのですが、やはりどこかうまく合っていないという感じがある。そのかわり、意外なところで感心したり、おもしろがったりするんです。でも、アジア人の読者はだいたい日本人の読者に似ていますね。
 英語で読んでも?
 英語で読んでも、それから中国語や韓国語で読んでも。それで、おもしろいのですが、彼らが求めているのはデタッチメントなんですよね。つまり、自分が社会とは別の生き方をすること、親とは別の生き方をすること、そういうものをぼくの小説の中から読み取って、そこにある程度思い入れをするというところがあるみたいですね
 
 それはおもしろいですね。韓国や中国の場合は、デタッチメントというのはこれからすごく大きな課題になると思いますね。韓国、中国の場合は家族、一門のつながりというのがものすごく大事な意味を持っていますから、そこからデタッチするというのは命がけの仕事ですからね。
 それは精神的に、病理的にかなり問題になってきそうなのですか。
 ものすごく問題になると思います。
 話は少しそれるようですが、韓国の人たちは日本にくらべてもあまりに急速に西洋化しすぎて、みんながすごく利己主義になっていると、ある韓国人が言うのです。個人主義がひどすぎて、全体のことを考えずに、自分の利益だけ追求しようとする。日本人は不思議なことに、西洋化しながら、あんがい、いつもみんなのことを考えていることが多い、そこのところをわれわれは見習わなければならない、と言われるのです。
 それで、いや、ぼくはそう思いませんよ、韓国の方は個人主義ではなくて、ファミリーにアイデンティティーを持って、いわばファミリー・エゴなのではないか、と。それは個人と個人の関係の持ち方、その危険性ということをつねに考慮に入れながらできてきた西洋の個人主義とは違う。韓国の場合は、ファミリー・エゴの外へ出るときには、ほんとうにエゴイズムになってしまうので、それが問題になっているのではないか、と言ったんです。
 日本人は(韓国などの)ファミリー・エゴともまた違って、フィールド・アイデンティティで、その場その場をアイデンティティの基礎にしてしまうという、非常におもしろい性質をもっているから、会社をフィールドにしたり、家庭をフィールドにしたりで、その都度うまくやっているのですね
 ですから、韓国の方で、ほんとうの意味の個人主義に目覚めてきた人は、ファミリーからデタッチしたいのだと思うのです。これはものすごい起爆力がいります。そういうことを考えているときに、村上さんの小説のデタッチする面を読み取って、心動かされる人が多いんじゃないですか。
 
○いまは発熱の途上
70 結局、日本人の世界の理屈と、日本以外の世界の理屈は、まったくかみ合っていないというのがひしひしと分かるんですね。ぼくもアメリカ人に何も説明できない。なぜ日本は軍隊を送らないのかというのは、ぼくは日本人の考えていることはわかるから、説明しようと思うんだけれど、まったくだめなんですね。
 自衛隊は軍隊ですよね。それが現実にそこに存在するのに、平和憲法でわれわれは戦争放棄をしているから兵隊は送れないんだと、これは全くの自己矛盾で、そんなのどう転んだって説明できないですよ。そこからいろいろなことがだんだんぼくのなかでグシャグシャになっていくんですよ。
 そうすると、ぼくらの世代が60年代の末に闘った大儀、英語で言うと「コーズ」は、いったいなんだったのか、それは結局のところは内なる偽善性を追求するだけのことではなかったのか、というふうに、どんどんさかのぼって、自分の存在意義そのものが問われてくるんですね。すると、自分そのものを、何十年もさかのぼって洗い直していかざるをえないということになります。 
 これはやはり日本にいたら気づけなかったことだと思うのです。理屈ではわかっていても、ひしひしとは肌身に迫ってこなかったんじゃないかと。
 
72 湾岸戦争と日本の関わりをどう説明すればいいのか、ぼくは今でも考えているのですが、まったくできないですね。
 
 日本は、まあ、非常にずるい方法をとっているのですね。でも、武力で世界が血を流さないようにするためには、世界中がもっとずるくなったらいいんじゃないかという気がしているんですよ(笑)。
 ずるさの加減はどうなのかとか、ずるくなることの弊害はないかとかもっと研究して、ずるさを洗練しなければいかんのですね。それを日本人は、自分たちはずるいやり方でやっているんだと言わずにずるいことをしているから、非難されても防戦一方になっているんですね
 ぼくがずるさと言っているのは、もうすこし違う言い方をすると、人間の思想とか、政治的立場とか、そういうものを論理的整合性だけで守ろうとするのはもう終わりだ、というのがぼくの考え方なのです。人間はすごく矛盾しているんだから、いかなる矛盾を自分が抱えているかということを基礎に据えてものを言っていく、それは外見的に見るとやっぱりずるいわけですね。
 ところが、湾岸戦争での日本の行動を非難するアメリカ人の場合は、矛盾を許容せずにくるでしょう。そうすると、絶対に不戦憲法が悪いことになるわけです。ただ、不戦憲法の論理でいうと、アメリカは、絶対に悪いのですね。そのとき日本流だと、「まあ、どっちもええやないか」ということで一応すましてしまう。そして、戦争に使うカネで別のことをすればよい、というふうになってくる。こちらのほうがいいわけでしょう。
 ただ、そういうずるさの哲学を英語で説明しようとすると、どんなにむずかしいか。
 
○自己治療と小説
79 小説を書くというのは、ここでも述べているように、多くの部分で自己治療的な行為であると僕は思います。「何かのメッセージがあってそれを小説に書く」という方もおられるかもしれないけれど、少なくとも僕の場合はそうではない。僕はむしろ、自分の中にはどのようなメッセージがあるのかを探し出すために小説を書いているような気がしています
 
84 コミットメントというのは何かというと、人と人とのかかわり合いだと思うのだけれど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです
 しかし、それがこの現実世界、実際的な生活の面で、ぼくに何をもたらすかというのは、ぼくにもまだよくわからないのです。いまぼくは日本に帰ってきて、じつにそれを探している途上なのです。小説のなかではぼくはそれを解決しているのだけれど、小説の方が先へ行ってしまって、ぼく自身がついていけないわけですが、ただ、感じるんですよね、世の中がいま変わりつつあるし、変わらなくてはいけないというのは。
 
86 コミットメントという点で言うと、いま何かにコミットメントしなくちゃならない、ということに気がついた青年たちを、オウムが引き込んだのですね、「ここにコミットしなさい」「答えはありますよ」と。
 ただ、あの人たちの提示したイメージというのか、物語は非常に稚拙なものですね。
 ものすごく稚拙ですよ。それはなぜかというと、イメージにかかわる訓練がなさ過ぎたということです。つまりオウムに入った人たちが習ってきたのはお勉強でしょう。お勉強ではイメージは離れるものなのです。イメージを豊富に持っている人は、お勉強ができないんですよ。
 
 オウムの物語りの稚拙さについて
 でもそれと同時にぼくはこの事件に関して、やはり「稚拙なものの力」というものをひしひしと感じないわけにはいかないのです。乱暴な言い方をすれば、それは「青春」とか「純愛」とか「正義」といったものごとがかつて機能したのと同じレベルで、人々に機能したのではあるまいか。だからこそそれは人の心をひきつけたのではあるまいか。だとしたら「これは稚拙だ無意味だ」というふうに簡単に切って落としてしまうことはできないのではないかと思うようになりました。
 ある意味では「物語」というもの(小説的物語にせよ、個人的物語にせよ、社会的物語にせよ)が僕らのまわりで――つまりこの高度資本主義社会の中で――あまりにも専門化し、複雑化しすぎてしまったのかもしれない。ソフィスティケートされすぎてしまっていたのかもしれない。人々は根本ではもっと稚拙な物語を求めていたのかもしれない。僕らはそのような物語のあり方をもう一回考え直してみなくてはならないのではないかとも思います。そうしないとまた同じようなことは起こるかもしれない。
 
○物語をつくる・物語を生きる
89 村上さんが「物語」というものが現在、「あまりにも専門化し、複雑化しすぎてしまったのかもしれない。ソフィスティケートされすぎてしまっていたのかもしれない」と言われているところは大賛成です。「人々は根本ではもっと稚拙な物語を求めていたのかもしれない」というところは、「稚拙」というより「素朴」と言ったほうがいいでしょうか。
「複雑さ」「専門性(つまり難解さ)」「ソフィスティケート」の程度を、評価の基準とする、という誤りを現代人は犯しているのだと思います。しかし、「素朴」というのも、素朴であるほどいい、というわけでもありません。素朴な話を評価する基準は何なのかが問題なのだと思います。これを言いかえると、「稚拙だから無意味だ」という考えは、村上さんの言われるとおり、性急すぎます。
 私は「オウムの物語」の問題点は、素朴な物語に、現代のテクノロジーという、まったく異質なものを組み込んで物語を作ろうとしたことだと思っています。
 
○結婚と「井戸掘り」
97 ぼくもいま、ある原稿で夫婦のことを書いているのですが、愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂鬱になるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために、「井戸掘り」をするためなんだ、というのがぼくの結論なのです。井戸掘りは大変なことです。だから、べつにしなくてもいいのじゃないかと思ったりするんですよ。
 
 夫婦というのは「こんなおもろいことないんじゃないか」とも、後で言っていますので、その点はわかってくださると思います。ほんとうに「おもろい」ことで苦しみをともなわないものはないと思います。
 
○夫婦と他人
105 西洋の場合は、どうしてもロマンチック・ラブというのを下敷きに敷いていますね。ロマンチック・ラブというのは長続きしないんです。もしロマンチック・ラブを長続きさせようと思ったら性的関係を持ってはならないんです。性的関係を持ちながらロマンチック・ラブの考えを永続させようというのは、不可能なんだとぼくは思うんです。もし夫婦の関係を続けていこうと思ったら、違う次元に入っていかないとだめですね。
 
 ロマンチック・ラブと日本人
日本では結婚はむしろ社会的、集団的な意味が強かった。したがって恋愛は、秩序を破ると悪とさえ見なされることもあった。ロマンチック・ラブは、あくまで個人を中心に考えるところから出てきたものである。
 しかし、もともと、その背後にある宗教的とさえいえる、個人の人格の完成への意図が、世俗的な結婚と結びついたために、アメリカに見られるような困難な状況が生じてきた。
 日本人は欧米の真似をしようとするが、ロマンチック・ラブの本質を理解するのは極めて困難である。いいかげんな真似をしているので、その危険性の方も日本ではいい加減になり、夫婦の平和を保つのに役立っているともいえる。
 
 
 
第二夜  無意識を掘る”からだ”と”こころ”
○物語と身体
115 たとえば、昔のいわゆる文士という人たちは、自分たちは言葉、精神の仕事をしているのだから体なんか関係ないというか、体を無視する、あるいは体を軽蔑するのですね。暴飲したりするというのは自分の体を軽蔑しているわけです。そういうところから生まれてくる文体と、村上さんのように体を鍛えてつくる文体とは、絶対に変わってくると思います。
 
 近代というのはそもそも、デカルトじゃないですが、心と体と分けてアプローチしようとしたのですね。だから、心が大事だということは、体が大事でない、という非常に単純な考え方があったのではないでしょうか。
 最近の若い人は、そういうふうに精神性と身体性をはっきり分けて考えるという考え方は、随分希薄になってきていると思うんですが。
 
 若い世代の身体観について
 ひとつ言えるのは、身体的な感覚価値がそのまま精神的な感覚価値に結びつく傾向が、時を追うごとに強くなっているということでしょう。つまり頭でっかちから、「気持ち良ければそれでいいじゃん」という方向へのシフトですね。1960年代のカウンターカルチャーとかドラッグ体験とかから一貫して続いている傾向だと思います。それはそれで間違ったことじゃないというか、ひとつの精神の在り方だと僕は思う
 でも僕はそれなりの年になっているからわかるんだけれど、「気持ちよくあり続ける」と一言で言っても、そんなに簡単な事じゃないんですよね。ただごろんと芝生に寝転んでいても、なかなかリンゴは勝手に落ちてこない。気持ちよくあり続けるためには、やはりそれなりの努力を払わなくてはならない。そのへんを簡単に手軽にすませようと思うと、結局たとえばドラッグとか、売春とか、そっちの方に流れてしまいそうな気がします。ですから、あんまり七面倒くさいことをいいたくはないけれど、新しい時代のethics(倫理性)みたいなのはどうしてもある程度必要になってくるんじゃないでしょうか。それは身体性というものを基調にした、より柔軟な哲学のようなものになるでしょうが、この場合妄想的な暴力性(たとえばオウムのような)をきっぱりと排除する力を持つことが一番大きな問題になるだろうという気がします。
 
122 ええ。病のある人はまた別なのですよ。病いのある人はやはり迫力あるのです。
 それぞれに迫力がある・・・・・・。
 ええ、やはり表現しなければならないものを持っているのでしょう。ただし、病いのある人に「箱庭をつくってください」といっても怖かったらつくらないですよ。
 
126 芸術家、クリエートする人間というのも、人はだれでも病んでいるという意味においては、病んでいるということは言えますか?
 もちろんです。
 それにプラスして、健常でなくてはならないのですね。
 それは表現という形にする力を持っていないとだめだ、ということになるでしょうね。それと、芸術家の人は、時代の病いとか文化の病いを引き受ける力を持っているということでしょう。
 ですから、それは個人的に病みつつも、個人的な病いをちょっと越えるということでしょう。個人的な病いを越えた、時代の病いとか文化の病いというものを引き受けていることで、その人の表現が普遍性を持ってくるのです。
 
○作品と作者の関わり
131 「私小説」をめぐって
 日本では自と他の区別は西洋のように明確ではなく、「私」といってもそれは「世界」と同一とさえ言える。このようなあいまいさを巧妙に用いた私小説は、欧米人が「自分自身」のことを語っているのとは全く異なる。それが成功した際は身辺の雑事が「世界」と等価となる、というような狙いをもって書かれている。ただ、これが国際性をもつことは極めて困難であるだろう。
 
134 もちろん、終わってからほかの人が読んだり、批評家読んだりするのと同じレベルでテキストとして読んで、自分で考えることは可能なんですね。ただ、いちばん困るのは、ぼくが一人の読者としてテキストを読んで意見を発表すると、それが作者の意見としてとらえられることなんですね。
 作者の言っているのがいちばん正しいと、思う人がいるということですね。そんなばかなことはないのですよ。
 でも、ぼくがアメリカ人の学生にそれを言うと、みんな怒るのですよ。たとえば、ゼミみたいなものをやって、ぼくの短編をテキストにしてみんなで読んで、「村上さんはどう思いますか?」と言うから、「ぼくはこう思うけど、それはきみたちが持つのと同じように、意見のひとつにしかすぎない」と言っても、「でも、それはあなたが書いたんでしょう」って彼らは言うんですよね。
 アメリカ人はやはりそういう傾向はあるんでしょうか。
 アメリカ人は、とくにいわゆる西洋流のエゴをものすごく大事にしているから、自分の意思とか自分の考えとか、そういうのにすごく寄っかかっているんですね。だから、作者が書いて、作者が言ったら、それは正しいものだと、そういう考え方をするのではないでしょうか。
 ヨーロッパへ行ったら、ちょっと違うと思います。ヨーロッパの方が長い歴史を持っていて、いろいろ変なことをたくさん経験してきているから。
 
○結びつけるものとしての物語
137 物語というのが力を失った時代があって、今また物語が復権しようとしているということがありますが、昔は、物語というのは、身体性とかいうことともまた関係なく、ただ自然にあったものではないかとぼくはおもうのですが。
 昔はそんな難しいこと言わなくても、身体性も精神性もみんなこみでありまっせ、という格好だったんじゃないですか。物語と小説の違いとか、そんなことを言う必要もなかったのです、もうそれしかないんだから。
 ところが、そこから歴史を経て、いっぺん否定したところでまた物語の問題が出てきたから、いろいろ意識化しなくちゃならなくなって、いま言っているような身体性の論理なんかが出てくるんだと思います。
 いまわれわれがポスト・モダンというのでいろいろと手探りしていることが、昔はひょいひょいと平気でありました。だから、ぼくは昔の物語とか説話とかが大好きなのです。
 ぼくの仮説ですが、物語というのはいろんな意味で結ぶ力を持っているんですね、いま言われた身体と精神とか、内界と外界とか、男と女とか、ものすごく結びつける力を持っている。というより、それらをいったん分けて、あらためて結びつけるというような意識を持つのはわれわれ現代人であって、あの当時はそれらがいまのように分かれていないところに、物語があったのです
 その後、物語なんて言うのは現実と違うじゃないかというので、評判が悪くなるのですね。ところが、昔だったら、物語も現実も、はっきり分かれていなかったと思います。
 ところが、西洋の場合、特にキリスト教文化圏の場合は、神と人をつなぐものとしての物語は聖書に書いてある。これはもう絶対にオーソドックスなもの、バイブル、すなわち本ですから、それ以外のものは許されなかったと思うのです。それ以外の物語をもしつくったら、それはもう冒瀆の行為だった。それでおそらく西洋には物語がなかなかできなくって、とうとう人間が神に対してちょっと力を持ってきたころになって、『デカメロン』なんていうのをついにつくるんですよ。
 ルネサンスの頃ですよね。
 
141 紫式部
 そうですね。物語はやはりつくらなければいけませんから、つくるということは、そこに個人というのが存在しないとできないのですね。その点、あのころの女性には、そういう意味で個人でありうる環境があったのではないかなとおもいます。
 つまり、男の方は組織に全部組み込まれているでしょう。女性のほうも、身分の高い人はその中に組み込まれているのですが、そこに仕えている紫式部やらはものすごい自由人でしょう。だから、ぼくの考えは、あのころの物語はほとんど女性が書いていると思うのです、まず男性が書いているのはないのじゃないか。
 というのは、彼女たちが社会的システムからひとつ身を退いたところにところにいたということですね。
 ある程度離れていて、そして時間もある。ある程度カネもある、みんなある程度ある。そして、がんばれば自分の地位が上がるということは絶対にない。そういうところにいて、すごく頭もいいわけだから、物語のほうへ力を注ぐことができたのではないかと思いますね
 
因果律を超えて
147 現実にはおもしろい偶然はそうそう起こらない、という前提の上に現代の小説が書かれているとすると、それはみんなSFなのです、ぼくに言わせれば。近代小説にはほんとのリアリティーなんか書いてなくて、あれは空想科学小説みたいなものです。科学に縛られて、つまり、因果律に説明可能な事しか起こってはならないとか、そんなばかなことはないんです。実際にぼくが遭遇している現実では偶然ということが多いんですよ
 ぼくはときどき冗談半分で「あなたは絶対に治らないだろう」と患者さんに言う。しかし、「偶然ということがあるから、ぼくはそれに賭けているからやりましょう」と言う。そして実際にそうなるんです。
 ぼくは何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているのです。みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗するのです。ぼくは治そうとなんかせずに、ただずっと偶然を待っているんです。
 でも、偶然を待つというのはつらいですよね。
 そりゃつらいですよ、なんにもしないんだから。待っていて、うまいこと偶然が起こったら、そのときにはやっぱりパッパッとがんばらなくてはいけないんですけれどもね
 
148 フィクションについて
 最近小説が力を失ったというようなことが巷間よく言われるわけですが、ここでも言っているように、僕は決してそうは思っていません。小説以外のメディアが小説を越えているように見えるのは、それらのメディアの提供する情報の総量が、圧倒的に小説を越えているからじゃないかと僕は思っています。それから伝達のスピードが、小説なんかに比べたら、もうとんでもなく早いですね。おまけにそれらのメディアの多くは、小説というフィクションをも、自己のフィクションの一部としてどん欲に呑み込んでしまおうとする。だから何が小説か、小説の役割とは何か、という本来的な認識が、一見して不明瞭になってしまっているわけです。それは確かです。
 でも僕は小説の本当の意味とメリットは、むしろその対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさ(あるいはつたない個人的営為)にあると思うのです。それを保っている限り、小説は力を失わないのではあるまいか。時間が経過して、そのような大量の直接的な情報が潮が引くように引いて消えていったとき、あとに何が残っているかが初めてわかるのだと思います
 だいたい、巨大な妄想を抱えただけの一人の貧しい青年が(あるいは少女が)徒手空拳で世界に向かって誠実に叫ぼうとするとき、それをそのまま――もちろん彼・彼女が幸運であればということですが――受け入れてくれるような媒体は、小説以外にそれほどたくさんはないはずです。
 相対的に力を失っているのは、文学という既成のメディア認識によって成立してきた産業体質と、それに寄り掛かって生きてきた人々に過ぎないのではないか、と僕は思います。フィクションは決して力を失ってはいない。何かを叫びたいという人にとっては、むしろ道は大きく広がっているのではないでしょうか。
 
150 紫式部だって、やっぱり自分を癒すためでしょう、そう思いますね。
 というのは、あれだけ長いものを書くというからには、よほどの業を抱え込んでいたのでしょうか。
 そうそう、ものすごく業の深い女性だったろうと思います。
 それは現代の一読者として河合先生がお読みになって、やはりそれをお感じになりますか。
 感じます。癒されるためというか、癒すためというか、あれだけのことをやったんだから、すごいと僕は思いますけど。
 
151 フィクションについて
 村上さんが小説のメリットについて、「その対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさ」をあげておられるところ、大変嬉しく思いました。何でも自分のことに引きつけて申し訳ありませんが、これこそわたしのしている心理療法のメリットそのものと思うからです。そして、わたしが自分の仕事を、相談に来られた人が「自分の物語を見出していく」のを援助することがと思っているのが、それほど間違っていない、と傍証してもらっているように感じるのです。
 現代の一般的風潮は、村上さんの書かれたことのまったく逆の、「できるだけ、早い対応、多い情報の獲得、大量生産」を目ざして動いています。そして、この傾向が人間のたましいに傷をつけ、その癒しを求めている人たちに対して、われわれは一般的風潮のまったく逆のことをするのに意義を見出すことになるのです。このように考えると、心理療法家の仕事と作家の仕事の間に共通点が感じられて嬉しく思います
 それにしても、一人ひとりのたましいを深く傷つける前述のような傾向が、個人主義を唱える欧米から生じてきたというアイロニーについて、ゆっくり考えてみなくてはならないと思います。個人をもっとも大切と考える生き方が、個人をもっとも深く傷つける傾向を生み出しているのです
 
○治ることと生きること
163 そういう人(患者)にお会いすることによって、僕の病も癒されているということがたいへん多いと思いますね。この仕事をしなかったらぼくはおかしくなっていると思います。
 
○個性と普遍性
164 映画『ガイアシンフォニー
 
167 殺すことによって癒される人
 そんな人はいると思います。しかし、それはあくまで「その人にとっての真実」であって、そこから一般的ルールや結論などは取り出せないと思います。そして、心理療法家としては――オプティミスティックすぎると言われそうですが――そのような運命を背負った人が、どのような「物語」を生み出すことによって、この世に生きながらえていくか、ということに最大限の力をつくすべきだと思っています。
 
『心臓を貫かれて』マイケル ギルモア(著),, 村上 春樹(翻訳)
 
○宗教と心理療法
172 たとえば、麻原彰晃という人はその善悪の「基準線」という意味においてはかなり病んでいる人ではないかとぼくは思うのですが、ああいう人は治癒される可能性というのはあるんでしょうか。
 それは会う人によるでしょうね。
 しかし、結局は、まあ、言ってみれば、器の勝負みたいなもので、彼よりもぼくが大きい器を持っていたら彼に会えるし、彼の器のほうが大きかったらもうだめですね。だから本当に人間と人間の勝負です。それはもう不思議なことに、6歳の子でも、ぼくより器が大きかったらこっちは負けるわけです。
 ということは、宗教家と心理療法家、あるいは精神科医というのは非常にむずかしい勝負になるということですか。
 ものすごくむずかしいです。ところが、精神科医となると、その人たちはむしろ科学で守っているわけだから、「これは異常である」というふうにして、「なんとか薬を飲ませて・・・・・・」というふうにも考えますからね、ぼくらのやり方とはちょっと違うのです。
 ぼくらのようなやり方は、宗教家の方法に近いとも言えますね。ただ、ドグマを持っていないのです。「念仏を唱えたら救われますよ」というようなことは絶対に言わない。むしろその人が自分で見つけるものを尊重する。ただし、その人が見つけるものが現代社会と共存できるかどうかについては、一緒に考えていくわけですね。だから、相手から教えられる場合がすごく多いですよ、ほんとうに。
 
ノモンハンでの出来事
179 ただ、このあいだ非常に奇妙な経験をしました。ぼくはノモンハンに行ったんです。モンゴル軍の人に頼んで、昔のノモンハンの戦場跡に連れて行ってもらったのです。そこは砂漠の真ん中で、ほとんど誰も行ったことがないところで、全部戦争の時そのままに残っているんですよ。戦車、砲弾、飯盒とか水筒とか、本当にこの前戦闘が終わったばっかりみたいに残っている。ぼくはほんとうにびっくりしました。空気が乾燥しているからほとんど錆びていないのですよ。また、あまりにも遠くて、持って行ってくず鉄として使うにも費用がかかるので、ほったらかしにしてるのですね
 それで、いちおう慰霊という意味もあって、ぼくは迫撃砲弾の破片と銃弾を持って帰ってきたのです。えんえんまた半日かけて町に戻って、ホテルの部屋にそれを置いて、なんかいやだなと思ったんですよ、それがあまりにも生生しかったから。
 夜中にパッと目が覚めたら、部屋が大揺れに揺れているんです。ぼくは完全に目は覚めていたんですよ。もう歩けないぐらいに部屋中がガタガタガタガタ揺れていて、ぼくははじめ地震だと思ったのですね。それで真っ暗な中を這うようにしていって、ドアを開けて廊下に出たら、ピタッと静まるんです。何が起こったのか全然わからなかったですよ。
 これはぼくは、一種の精神的な波長が合ったみたいなものだろうと思ったのです。それだけ自分が物語のなかでノモンハンということにコミットメントしているから起こったと思ったのですね。それは超常現象だとかいうふうに思ったわけではないですけれども、なにかそういう作用、つながりを感じたのです。
 そういうのをなんていう名前で呼ぶのか非常にむずかしいのですが、ぼくはそんなのありだと思っているのです。
 まさにあるというだけの話で、ただ下手な説明はしない。下手な説明というのはニセ科学になるんですよ。ニセ科学というのは、たとえば、砲弾の破片がエネルギーを持っていたからとか、そういうふうに説明するでしょう。
 極端に言うと、治療者として人に会うときは、その人に会うときに雨が降っているか? 偶然風が吹いたか? とかいうようなことも全部考慮に入れます。
 要するに、ふつうの常識だけで考えて治る人はぼくのところへは来られないのですよ。だから、こちらもそういうすべてのことに心を開いていないとだめで、そういう中では、いま言われたようなことはやはり起こりますよ。
 ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが・・・・・・。
 それは小説を書いておられるからですよ。
 
○暴力性と表現
193 ぼくは、読者が同一化してシンパシーを感じている主人公こそが、暴力に深くかかわることに意味があると思うのですよ。
 それはどういうことかというと、私はそういう暴力性を持っていますよ、ということなんです。みんな持っているのですよね。
 暴力というか、腕力、人間はそういうものを持っていたから生き延びてきたのです。狩猟にしろ、採集にしろ、農耕にしろ、全部そうでしょう。
 しかもそれだけではなくて、共同体をつくって、他のところへ攻め込むということになったら、まさに暴力がなかったらできない。そういうふうにして人間はずっと生きてきたのですね。そのなかで、欧米の国々はそういうものはルールの中に取り込んだんですね。つまり戦争でも、彼らはフェアな戦争だったらやってもいいと考えたのでしょう。それからいろいろなスポーツも全部そうです。
 それは、たとえば、キリストに基づく暴力であれば正しいということですね。
 ええ。日本の場合は、そういうルールがなかなかつくりにくいのだけれども、まあ、それでも、ある程度みんなが共存できるような格好でやってきた。
 そして、日本の場合、とくに不幸なのは、あの大戦争ということがあったから、ものすごく急進的な暴力否定ということになったのですね。平和が大切だからと言って、子どもに兵隊ごっことかチャンバラとかまで全部禁止したりした。つまり自分の持っている暴力性を一度も体験せずに育ったりする
 そして、思春期になったらもうワーッと荒れますからね、なんかむちゃくちゃなことがしたくなって、たとえば、いじめをやる。いじめなんて昔からあったので、いじめそのものはそんなに憂うべきことではないとも言えます。それは全世界、全歴史にわたってあったわけですで、いまは相手を殺すまでやってしまうというところに問題がある。
 その大きい原因のひとつは、やはり小さい時から経験がなさすぎるということではないでしょうか。昆虫を殺すのもいけないとかね。昔ぼくらだったらカエルを殺したりなんかしているうちに、動物を殺すのはよくないことだとかふと思ったりしたものだけれど。とにかく現代の日本のわれわれは和という点に妙にこだわりすぎたのと、精神と肉体の乖離のために、暴力に対してはすごい仰圧を持っているのです。だから、作品(村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』)の中で突発してくるのではないか、というふうにぼくは思っているのです。「平和の時代」とわれわれが呼んでいるちょっと前は、もう、めちゃくちゃやっていた。日本の文化、日本の現代は、そういうのをものすごく潜在的に背負っていると思うのです。そのことはどうしても出てくると思うし、みんなすごく自覚すべきだと思うのですね。
 
○日本社会の中の暴力
200 結局、日本のいちばんの問題点は、戦争が終わって、その戦争の圧倒的な暴力を相対化できなかったということですね。みんなが被害者みたいになっちゃって、「このあやまちはもう二度とくり返しません」という非常にあいまいな言辞に置き換えられて、だれもその暴力装置に対する内的な責任を取らなかったんじゃないか
 われわれの世代的な問題というのも、そこに帰属するのではないかと思います。ぼくらは平和憲法で育った世代で「平和がいちばんである」、「あやまちは二度とくり返しません」、「戦争は放棄しました」、この三つで育ってきた。子どもの頃はそれでよかったのです、それ自体は非常に立派なことであるわけですから。でも、成長するにつれて、その矛盾、齟齬は非常に大きくなる。それで1968年、69年の騒動があって、しかし、何にも解決しなくて、ということがえんえんとあるのですね。
 あのときの若者たちも、自分の中の暴力という認識はつくれなかったとぼくは思います。自分らは正しいことをやっているから、やらざるをえないんだというふうに単純に思っていたのだけれど、やっぱりそんなことをもっと超えて働いている本質的な暴力性、そういうことの認識がないものだから、どうしてもあれは最終的にうまくいかないのですね。
 それまでの日本人の持っている文化のパターンをこわそうと思ったら、いろんな意味でものすごい暴力が要るんです。ところが、彼らも文化のパターンの中に入ってやっているから、こわれようがないんですよ。ものすごく単純でプリミティブな暴力だから、機動隊が出てきたら終わりになる。
 そうですね、結局、暴力の実力の比較で行けば、向こうのほうがプロですからね。
 結局、ぼくがそれだけ長い年月欠けて暴力性に行きついたというのは、そういう曖昧なものへの決算じゃないかなという気もしなくはないのです。
 ですから、結局、これからのぼくの課題は、歴史に均衡すべき暴力性というものを、どこに持っていくかという問題なのでしょうね。それはわれわれの世代的責任じゃないかなという気もするのです。
 そうですね。暴力性をどういう表現に持っていけばいいのか、いまの若者がそこまで気がついてくれるといいんですけれどもね。
 
○痛みと自然
207 ぼくが日本の社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正しさは意味のない正しさだということです。たとえば、フランスの核実験にみんなで反対する。たしかに言っていることは正しいのですが、誰も痛みをひきうけていないですね。文学者の反核宣言というのがありましたね。あれは確かにムーヴメントとしては文句のつけようもなく正しいのですが、誰も世界の仕組みに対して最終的な痛みを背負っていないという面に関しては、正しくないと思うのです。そういう意味では、ぼくは村上龍というのは非常に鋭い感覚を持った作家だと思っているのです。彼は最初から暴力というものを、はっきりと予見的に書いている。ただ、ぼくの場合はあそこへ行くまでに時間がかかるというか、彼とぼくとは社会に対するアプローチが違うということはありますが。
 
○われわれはこれからどこへいくのか
 
後書き/河合隼雄
223 日本は今なかなか大変なところにきている。今までは欧米文化の上澄みを上手にすくって取り入れていたが、とうとう根っこのところでぶつからねばならぬときが来ている、と思われる。このような認識の点ではわれわれは共通していると思う。
 日本文化が革新を強いられている中で、困難な状況のひとつとして生じているのが、人間関係のことだ、とわたしは思っている。人間関係をどのようにして持つのか、新旧の間でゆれ動いている。そのことがもっとも典型的にあらわれているのが夫婦関係である。これまでの日本的夫婦関係では、うまくいかない。さりとて、アメリカをお手本にすると、離婚率は急上昇するだろう。別に離婚がいけないことはないが、アメリカ人の夫婦関係が模範的とは言い難い。こんな状況の中で、新しい夫婦関係をまさぐっていく間に、いろいろな摩擦が生じてくる。それは単純にどちらかが「悪い」からだとは言い難い。もっとも、夫婦のどちらかが相手を「悪い」と非難していることが多いが。