読んだ。 #勉強の哲学 #千葉雅也

読んだ。 #勉強の哲学 #千葉雅也
 
勉強とはどういうことか?ということが書いてある本。
 
 
<1章>
 
人は「深くは」勉強しなくても生きていける。深く勉強しない=周りに合わせて動く生き方。
状況に上手く「乗れる」→ノリのいい生き方。周りに対して共感的な生き方。
 
逆に「深く」勉強するとは、流れの中で立ち止まること→「ノリが悪くなる」こと
 
①単純にバカなノリ。みんなでワイワイやれる。
②いったん、昔の自分がいなくなるという試練を通過する。
③しかしその先で、来るべきバカに変身する。→「自己目的的」なノリ
 
勉強とは自己破壊。以前はノレてたことが乗れなくなる。能力の損失が起こる→なんのため?→自由になるため。これまでの「ノリ」から自由になる。同調圧力によって、出来ることの範囲を狭められていた。不自由だった。人生の新しい可能性を開くために勉強する
深い勉強→ラディカル(根本的)ラーニング。
 
環境=ある範囲において、他者との関係に入った状態、他者関係、とする。
他者=人も物もすべて、自分自身でないもの全て、とする。
 
環境的な制約=他者関係から離れて生きることはできない。
無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要。
 
<課題>有限性(=不自由)との付き合い方を変える。
 
環境が変われば、コードが変わるので、ノリが変わる。会社のノリと、中学時代の仲間の飲み会のノリは違う。「キャラを使い分ける」と言われるが、「使う」というより、キャラが「変わる」。外から影響されていない「裸の自分」というものはあるか?私たちは常に、他者との関係で、「そういうノリの人」なのであって、他者から自由な状態はない。環境のノリと自分の癒着は、なんとなく添えを生きてしまっている状態で会って、分析的には意識されていない。
 
背後にあるコード=こうするものだを退いて客観視できていない。環境のノリに、無意識的レベルで乗っ取られている。
その場にいながら距離をとることを考える必要がある。それを可能にしてくれるもの→「言語」
 
生とは他者とかかわること。外から影響を受けていない自分はあり得ない。自分は他者によって構築されたもの。肉体は、両親前の世代の遺伝子がシャッフルされたもの。その上に、成長過程で他者と関わりながら、考え方や好き嫌いができていく。
 
個性はある。しかし100%自分発の個性はない。個性とは私たち一人一人が「どういう他者とどのように関わってきたか?の違い。
 
言語は自分自身でない。他者からインストールされたもの。自分が生まれる以前からの「用法」をまねするという形でインストールされた。
言語には偏った価値観(イデオロギー)が含まれている。環境の「こうするものだ」=コードの中で意味を与えられる。
言語習得=環境のコードを刷り込まれる。言語を通じて、私たちは、他者に乗っ取られている。
 
人間にとって、世界は二重になっている。リアル=物=物質の世界と、言語の世界。言語それ自体は、行為から切り離して使うことができる。言語の他者性。言語によって構築された現実は、異なる環境ごとに別々に存在する。言語を通していない「真の現実」など、誰も生きていない
環境においてノッテいる=言語的なVRを生きている。
 
以前のノリと、別のノリの間のヴァーチャルな次元。言語の世界。
 
新たな言葉の定義に慣れていく途中で「言語それ自体」という次元に出会う。用法が落ち着いていない言語の状態、用法を変える可能性に開かれた状態の言語。器官なき言語。
 
道具的で目的的(塩をとって。言葉のリモコン)VS玩具的で自己目的的(詩的、ダジャレ、早口言葉)
 
 
自由になる、つまり、環境の外部=可能性の空間を開くには、道具的な言語使用のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する玩具的な言語使用にウェイトを移す必要がある
地に足がついていない浮ついた言語をおもちゃのように使う、それが自由の条件である。
深く勉強するとは、言語偏重の人になることである。
 
 
<2章>
コードに従順なデフォルト状態は「保守的」、勉強によって身につけたいのは「批判的になる」こと。
 
ツッコミ=アイロニー。コードを疑って批判する。
ボケ=ユーモア。コードに対してズレようとする
 
コードの不確定性。環境のコードは、常に不確定であり、揺らいでいる。
 
①コードを客観視する=自分だけ「その場にいながらにしていない」。こういうコードなんだ、、と退いて眺めている。コミットしていない。メタな立場に留まる→最小限のアイロニー(ツッコミ)意識。(メタ=高次の)
 
アイロニーとユーモアは、過剰になると、ナンセンスな極限形態に転化する。
 
アイロニーによってコードの根拠づけを無理に求められると、コードそのものの不確定性、要は「空気でしかなかった」という事実が、露になる。
そして、場が白けてしまう。コードを転覆する。アイロニーは会話を「超コード化」する。
 
アイロニストは、特定の環境に依存しない、言葉の真にリアルな意味を求め、結局それに到達できない。
アイロニストは、自分がたまたまある環境の中に投げ入れられていて、そこの言語に浸ってしまっている、という「偶然性」が我慢ならない。
「必然的で唯一の」現実を生きたい、という夢を持ってしまう。しかしそれは果たされない
 
アイロニーは自分が癒着している環境だけでなく、他のあらゆる環境のコードも疑い、「究極の外=現実それ自体」を目指す。=私たち人間を取り囲む「言語的なVR」の絶対的な外部に脱出したい。果たされない。環境の外には別の環境があるだけ。
 
③言語は環境から離れては存在しない、「言語の環境依存性」を認める。=「環境の複数性=言語の複数性」を認める。→一周回ってユーモアへの旅。
 
それはそうと。コードがずれる。拡張される。
ユーモアのおもしろさ=「え?そんな話だったっけ?」「そもそもどこへ向かってたんだっけ?という方向=目的喪失の感覚。あるいは、拡張された話。
ユーモアの過剰=コード変換による脱コード化。意味飽和。
 
アイロニーから始め、その感情化をせずにユーモアへ転回し、ユーモアの過剰化を防ぐために、形態の享楽を利用する。さらに、享楽の硬直化を防ぐために、アイロニカルにその分析をする。
 
 
<3章>
アイロニカルな態度を突き詰めれば、絶対究極を選びたいと比較を繰り返すが、比較にベストな解はない。最終的に「絶対的な無根拠こそが、むしろ、絶対的な根拠なのだ」という逆転が起こる。アイロニー的有限化=決断主義。(無根拠)
 
アイロニーの批判性を生かしておくには、絶対的なものを求めず、そして複数の他者の存在を認めなければならない。
 
決断はしない。比較を「中断する」。
 
信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人。
 
享楽的こだわり→他者との偶然的出会いによって生じる。好き嫌い、向き不向き。
出来事から、直接にこだわりが結実したのではない。こだわりとは、出来事が、ある環境の中で言語を通じて意味づけされ、機能を持つようになった結果。p152
 
※良い授業のポイント--教師が、いかに工夫して少なく教えているか。情報の有限化がポイント。
教師や著者は、何らかの享楽的こだわりを背景として、「ある教え方」になっている。
享楽のレベルで、教育に対する自分の合う、合わないがある。
スタイルに共鳴する。非意味的にウマが合う。