読んだ。 #シンギュラリティは近い #レイ・カーツワイル

読んだ。 #シンギュラリティは近い #レイ・カーツワイル
 
たぶん、地球上で進化し続けてきた人類はこれからテクノロジーを進化させていってサイボーグ化していって老いたり死んだりしなくなっていき最終的には宇宙全体に意識が偏在するようになるのではないかという感じの本だった、のではないかと思う。
 
そしてテクノロジーの進化は指数関数的に進んでいくので、21世紀の100年分の進歩は、およそ2万年分の進歩になる。
 
ただ、サイボーグ化していくのはいいんだけど、自分の意識みたいなものがほんとうに新しくなった自分の身体の上にも発生し続けているのかは謎。しかしこれは今現在、我々の身体でさえ、数年たったらほとんどの細胞が入れ替わっている。
 
→わたしとは、長時間持続する物質とエネルギーのパターン→いずれこのパターンをアップロードし、オリジナルとコピーが見分けられないほど正確に複製できるようになる→ジレンマ
 
 
 
 
・人間という種は、生まれながらにして、物理的および精神的な力が及ぶ範囲を、その時々の限界を超えて広げようとするもの
 
理解するという能力そのものの性質も変化する
 
・テクノロジーを創造する種が出現すると、指数関数的なペースが急速に高まり、DNAがタンパク質の合成を支持するという形での進歩では追いつかなくなり、進化の主役は、人間が作り出したテクノロジーに交代した。だからと言って生物の(遺伝的)な進化が続いてないわけではないが、秩序を向上させる(あるいはコンピューティングの有効性と効率性を高める)という点で進化を先導する立場にもはやない。
 
・意識の実在を決定的に裏付ける客観的な検証法は一つとして存在しない
 
・しかし、私の精神のファイルをベースとする人物、すなわちいくつものコンピューティング基盤に点々と移り住み、どの思考媒体よりも長生きするその人は、本当に私なのだろうか。
 
・主観的経験が全くない世界(やたらに物体が渦巻く中、それを経験する意識ある存在がない)を実際に想像してみると、そんなものは存在しないも同然だ。
 
 
 
 
第一章  六つのエポック
 
・人間の脳。超並列処理(100兆のニューロン間結合が同時に作動する)を用いて、微妙なパターンを素早く認識する。しかし、思考速度は非常に遅い。基本的なニューロン処理は、現在の電子回路より数百万倍遅い。さらに現在備えているバージョン1.0の生物的身体も、同じようにもろく、無数の故障モードに陥る。維持するのに厄介な儀式が必要。
 
・シンギュラリティ以後の世界では、人間と機械、物理的な現実とヴァーチャル・リアリティとの間には、区別が存在しない。そんな世界で、確かに人間的だといえるものが残っているかと問われれば、ある一つの性質は変わらずにありつづける、と答えよう。それは、人間という種は、生まれながらにして、物理的および精神的な力が及ぶ範囲を、その時々の限界を超えて広げようとするものだ、という性質だ。
 
・21世紀では、100年分のテクノロジーの進歩を経験するのではなく、およそ2万年分の進歩をとげるのだ(これも今日の進歩率で計算している)。もしくは20世紀で達成された分の1000倍に発展を遂げるともいえる。
 
エポック1 物理と化学物質とエネルギーの段階。基本的な宇宙の法則に基づいて、エネルギーが存在する状態となった。
エポック2 生命とDNA自己複製機能を有する分子集合体=生命が地球に誕生した。また生命は、DNAの仕組みにより、より複雑な組成を再現できる方法を構築した。
エポック3 脳脳の発達によって、生物はパターンを認識できるようになった。創造力や想像力を手に入れた。
エポック4 テクノロジー機械や自動装置の開発、ひいてはコンピューターの開発を行うに至る。ここが現代。
エポック5 人間のテクノロジーと人間の知性が融合する数十年先においてシンギュラリティが起き、この段階に達する。人間の肉体や思考力の限界が、科学技術によって超越的なものとなる。人間の寿命が非常に長くなり、ある意味で人間自身が機械と融合した神に近づいていく。
エポック6 宇宙が覚醒する人間とテクノロジーの存在可能性が極限となり、宇宙のどこにでも存在できるようになる。人間存在は、知性というもっとも抽象的な単位となり、宇宙に偏在するようになる。ここまでくると、肉体や機械という境目がなくなり、個人という境目も希薄になる。
 
特異点が到来する頃には、人間とテクノロジーとの区別がなくなっている。人間が、今日機械と見なされているようなものになるからではなく、むしろ、機械の方が、人間のように、さらには人間を超えて進歩するからだ。
 
シンギュラリティには、理解するという能力そのものの性質も変化する、という顕著な特徴がある。我々人間はテクノロジーと融合するにつれどんどん賢くなっていく。
 
・従来の知能の長所(パターン認識能力)と非生物的な知能(スピードと記憶容量と正確さ、知識と技能を共有する力)とを合体させると恐るべきことになる。
 
・GNRの頭文字をとった各技術の発展が、シンギュラリティをもたらすとされている。
G=Genetics(遺伝学)
N=Nanotechnology(ナノテクノロジー
R=Robotics(ロボット工学)
 
最後には、宇宙全体にわれわれの知能が飽和する。これが宇宙の運命なのだ。われわれが自分自身の運命を決定するのであり、今のように、天体の働きを支配する、単純で機械的な「もの言わぬ」力に決定されるのではない。
 
 
 
第二章  テクノロジー進化の理論
 
・複雑さを増す」ことそれ自体は、進化のプロセスの究極の目的でも最終的な産物でもない。進化の結果引き出されるのは、よりよい答えであって、より複雑な答えだとは限らない。
 
秩序はすなわち、無秩序の反対ではない。無秩序とは、「事象がランダムな順序で起こること」だとしたら、無秩序の反対は「ランダムでないこと」になってしまう。情報とはデータの配列であり、有機体のDNAのコードとか、コンピュータのプログラムのビットのように、その配列に意味がある
 
一方で「ノイズ」とは、ランダムな配列のことだ。ノイズはその性質からして予測不可能ではあるが、なんの情報ももってはいない。しかし、情報もまた予測不可能なものであるもしも、それまでのデータから以後のデータが予測できるのなら、以後のデータは情報ではなくなる。よって、情報もノイズも圧縮することはできない(さらには、まったく同じ配列を復元することもできない)。
 
要素が交互に現れる予測可能なパターン(0101010101...など)には秩序があると思うかもしれないが、最初の数個のビット以降には何の情報もふくまれていない。
 
したがって、秩序立っているからというだけで、秩序があるとは言えない。秩序には情報が必要だからだ秩序とは、目的にかなった情報のことである。秩序を測る基準は、情報がどの程度目的にかなっているかということだ。
 
エントロピー(閉鎖系におけるランダム性
 
・ヒトゲノム全体には8億バイトの情報しかなく、データ圧縮をすればたったの3000万から1億バイトになってしまう。これは、完全に形成された人間の脳にある、全てのニューロン間結合と神経伝達物質の濃度パターンによってやり取りされる情報量の1億分の1程度でしかない。
 
・主要なパラダイムシフトは、ほんの数千万年ごとに起こっている。時が下がり、数百万年の間に原人、旧人とヒト科の進化が進み、その本の数十万年後にはホモサピエンスが出現した。テクノロジーを創造する種が出現すると、指数関数的なペースが急速に高まり、DNAがタンパク質の合成を支持するという形での進歩では追いつかなくなり、進化の主役は、人間が作り出したテクノロジーに交代した。だからと言って生物の(遺伝的)な進化が続いてないわけではないが、秩序を向上させる(あるいはコンピューティングの有効性と効率性を高める)という点で進化を先導する立場にもはやない
 
・人間の脳は、非常に効率の悪い、電気化学的なデジタル制御のアナログコンピューティング処理を用いている。脳の計算の大半は、ニューロン間結合(シナプス結合)によって行われ、毎秒約200回の計算速度しかない(ひとつの結合ごとに)。
これは、現在の電子回路の速度より100万倍以上も遅い。
しかし、人間の脳は三次元の超並列組織を構成していることから、驚異的な力をもっている。三次元回路を人工的に構成するための様々なテクノロジーはすでに準備段階に入っている。
 
 
 
第三章  人間の脳のコンピューティング能力を実現する
 
パターン認識 、知性、感情にかかわる知能などの人間の能力を再現するには、脳を機能的にシュミレートするだけで十分。しかし、ある特定の人の人格を「アップロード」(その人の知識、技能、人格などすべてをとらえること)しようとするのなら、個々のニューロンや、細胞体(突起以外のニューロンの本体部)や軸索(出力の接続部)や樹状突起(入力の接続部の樹状構造)やシナプス(軸索と樹状突起をつなぐ領域)などの、ニューロン各部のレベルでの神経のプロセスをシュミレートする必要がある。
 
・人間のニューロンは素晴らしい創造物だが、これと同じ遅い手法を用いてコンピューティング回路を設計したりはしない。自然淘汰を通じて進化してきた設計は確かに精巧だが、我々の技術で作り出せるものよりも、何桁もの規模で能力が劣る。
人間のニューロンにある複雑さのほとんどは、情報処理ではなく、生命維持機能を支えるために使われている。究極的には、我々の精神的なプロセスを、より適切なコンピューティング回路基板に移植することが可能になるだろう。そうなれば、我々の精神は、こんなに小さなところに収まっている必要はなくなる。
 
・こうしてデータを削除すると熱が発生し、ゆえにエネルギーを要する。情報が1ビットでも消されると、その情報はどこかに行かなければならない。熱力学の法則によれば、抹消されたビットは基本的に周囲の環境に放出され、その結果、環境のエントロピーが増す。エントロピーは、環境中の情報量を測る尺度と見なすこともできる(明らかに無秩序な情報を含んでいるが)。エントロピーが増すと、環境の温度が高くなる(温度はエントロピーを測る尺度であるため)
 
コンピュータがもしも、入力された情報を1ビットたりとも削除しないとすれば、コンピュータが環境に対して熱を放出することはなく、したがって、コンピュータが外部からのエネルギーを必要とすることもなくなる。エネルギーを必要としないコンピュータ。それを、(計算過程の情報を捨てる不可逆的コンピューティングに対し)可逆的コンピューティングという。
 
・岩はどれくらい賢いか?
 
 
 
第四章  人間の知能のソフトウェアを実現する
 
脳のニューロンの半数以上を有する小脳のような大きな領域
 
ニューロンの発火はデジタルな事象ととらえられ、シナプス内の神経伝達物質のレベルはアナログの値ととらえられる
 
・デジタルのコンピューティングはアナログのコンピューティングに機能的に同等だということを念頭においておかねばならない。つまり、デジタルとアナログがまじりあったネットワークの機能全てを、デジタルだけのコンピュータで実行することが出来る。この逆は真ではない。デジタルコンピュータの機能のすべてをアナログコンピュータでシミュレートすることはできない。
それでも、アナログコンピューティングには光学的な利点がある。潜在的には、デジタルよりも何千倍も効率が高い。アナログは数個のトランジスタで実行できる。デジタルでは数千もしくは数万のトランジスタが必要。しかし、アナログのこの利点も、デジタルではシミュレーションのプログラミングが容易であることで相殺されうる。
 
・我々は矛盾している。
イデアや取り組み方が、対立するものも含めて多様にあることが、より良い結果につながる。我々の脳は、矛盾した考えを持つことに長けている。実際、こうした多様性を内に抱えているからこそ、我々は繁栄している。
 
・人間の知能は「自己理解」に必要とされる閾値より上なのか下なのか?脳のリバースエンジニアリングが加速度的に進展する中で、我々が自分自身を理解する能力には限界などない。
人間の知能を拡張するうえで重要となるのは、現実のモデルを頭の中で構築できる能力。再帰的に働く。
 
もし、ある人物の頭脳プロセスを本当に取り込むのなら、再インスタンス化された頭脳には身体が必要となる。なぜなら、我々の嗜好の多くは、身体的なニーズや欲望に向けられているから
 
 
 
第五章  衝撃……
 
・プリモ・ポストヒューマン - ナターシャ・ヴィタモア
 
・2030、心臓、赤血球、白血球、血小板、膵臓甲状腺他全ての内分泌器官、腎臓、膀胱、肝臓、食道下部、胃、小腸、大腸等はすでに取り除かれている。この時点で残っているのは、骨格、皮膚、生殖器、感覚器官、口と食道上部、そして脳。
 
・21世紀半ばまでには、人間は限りなく思考を拡大できるようになるだろう。これは一種の不死と言えるが、データと情報は必ずしも永久不滅ではないことを指摘しておかなければならない。つまり、情報の寿命はその妥当性、有用性、利便性によって異なる。
古いフォーマットの磁気テープとかのデータ。バックアップを書き換え続けなければならない。
しかし、私の精神のファイルをベースとする人物、すなわちいくつものコンピューティング基盤に点々と移り住み、どの思考媒体よりも長生きするその人は、本当に私なのだろうか。
 
・MITのオープンコースウェア(無料で学べる授業)
 
・戦争が発明の父なら、遊びは発明の母。
 
 
 
第六章  わたしは技術的特異点論者だ
 
シンギュラリタリアンは、信仰の問題ではなく理解の問題。→その一方で、科学的動向を熟考することにより、伝統的宗教が取り組もうとしてきた諸問題(道徳・不道徳の本質、人生の目的、宇宙における知性)に対する新しい見方が生まれることは間違いない。
 
・死は悲惨。愛する人が死んだとき、人は良く自らの一部を失ったように感じると言うが、それはまさにその通りで、その人と交流するために脳の中に出来上がっていた神経系のパターンを実際に使う能力が失われる
 
生命の目的-そして我々の人生の目的-は、より偉大な知識を創造して評価し、そして、より素晴らしい「秩序」に近づくこと。
 
・非生物的な今日の我々のように、自分にも感情と精神があると言い張るようになるのは目に見えている。
最終的には(完全に客観的な手段では)測ることのできない、意識という問題に立ち返ることになる。
意識の実在を決定的に裏付ける客観的な検証法は一つとして存在しない
 
 
誰に、または何に意識があるのかという問題、および、他者の主観的経験の性質は、我々の論理的、道徳的法的概念の基礎をなしている。人間社会の法体系は、主として意識の概念に基づいており、とりわけ(意識のある)人間に被害-特に深刻な意識的経験の形で-を及ぼす行為や、人間の意識的経験を終わらせる行為(殺人など)に多大な関心が向けられている
 
主観的経験が全くない世界(やたらに物体が渦巻く中、それを経験する意識ある存在がない)をじっさいに想像してみると、そんなものは存在しないも同然だ。一部の哲学的流れ―東洋(仏教思想のある宗派など)、西洋(量子力学における観測者本位の解釈など)の双方―では、まさしく世界はそのように見られている。
 
・自分と、まったくの自分のコピー。どちらが私か。
私とは、現にここにある物体なのではないか?この身体と脳を形作る整然かつ混沌とした分子の集合体なのではないか?→原子と分子はどんどん入れ替わっている。→わたしとは、長時間持続する物質とエネルギーのパターン→いずれこのパターンをアップロードし、オリジナルとコピーが見分けられないほど正確に複製できるようになる。→ジレンマ