読んだ。 #あいたくてききたくて旅にでる #小野和子

読んだ。 #あいたくてききたくて旅にでる #小野和子
 
124 生家は貧しい小作農で、兄弟が多いうえに母親は病弱だったという。
 七つの年に同じ村の金持ちの家に子守に出て、そこで十六の年まで年季奉公したという。
 小学校にも行けなかったということで、まったく字が読めなかった。
 「<むがす むがす>は誰に聞いたのですか」
と問うと、朝、赤ん坊を背中にくくりつけれれると、すぐに村はずれの「おばあの家」に走って、そこで聞いたという。「おばあ」は一人暮らしの老人だったそうだが、昔話をよく知っていて、やってくるヤチヨさんを迎えて語ってくれ、また、ヤチヨさんの背中でなく赤ん坊のために唄もうたってくれる人だったという。
 そんな「おばあ」のところに来るのはヤチヨさんだけでなくて、貧乏なために七つ八つから他家で働く子どもたちが、赤切れの幼い手をあたために寄ってくる「たまり場」のようになっていたという。
 「そんな場所が村にはあったのですね」
 わたしは目を丸くした。
 「なにか事情があって一人暮らしする人は、いつも村にいた。男だったり、女だったりしたが、橋の袂とか村はずれの山際とか、そういうところにひっそり暮らしていた。そこへ俺のような子どもがよく行ってたのよ。息を抜くためだよ
 ヤチヨさんは往時をしのぶような表情で目を細める。
 家の内で祖父母や両親たちから語りを聞けない子どものために、まるで神が用意されたかのような、もうひとつの家の外の「語りの場」があったことを知って、わたしは深く頭を垂れた。
 文字も筆も紙もいらない。口と耳だけを使って、集落の片隅で、ひっそりと営まれた物語の世界が、そこにあったのである。生きるために「息を抜く」ことが許される場が、そこにあったのである。
 
148 ミドリさんは「六十年ぶり」だと笑いながら、とても楽し気に、たちまち十話ほどの民話を淡々と語ってくださった。その話はあちこち抜けているような気もしたが、それだけにミドリさんの心になにを残したかを物語ってくれる語りであった。
 なかでも、「一番好きだ」という「さんかのみや梨」は、枝葉を切って芯だけが残っているような一話だった
 
167 Kさんがひきつけられた「山なし取り」の、いわば曖昧さの中にこそこの一話の真意があるのではないかという。
 つまり、病床でひたすら自分の欲望を貫こうとし、その際は子どものことなどはどこかでどうでもよくなってしまうかのように見える「母」
 そして、彼方に危険が待ち受けていることがわかっていながらも、「それでも行く」と子が言えば、一度は止めても、次にはわずかな忠告の言葉を添えて、その背中を見送らねばならないのも「母」
 その母を振り切って離れて旅立とうとする子どもを、げろりと呑んで、いつまでも自分の胎におさめておきたいという気持ちを抑えがたくいだくのもまた「母」
 「病気の母」も「白髪のばあさま」も「沼の主」も、みんな「母」の姿の異なる表現ではないかとKさんは受け取ったという。そして、この三様の思いは、日々、子育てする自分に潜んでいるものであったと書いてあった。
 その母の胎を切り裂いて自力で外へ出た時にこそ、「子なるもの」は真に自立していくのではないか。民話「山なし取り」は、そういうことを語っているのかもしれないと思うと、納得がいくとKさんは言う。
 
186 ・・・民話とは、人間が生あるかぎり、ふつふつと生まれるものではないかと思うのです。あなたが聞く耳を持ち、語る唇を取り戻したとき、まざまざと現代民話が存在する実感を得られるでしょう。気が付けばあなたは語り手でもあるのです。
 松谷みよ子『現代民話―その発見と語り』
 
228 ここであらためて思うのだが、わたしたち日本人の民話は、子のない老夫婦から始まる話がなんと多いことかということである。指折って、あの話この話と数えてみてその数の多さに目を見張る。
(略)
・・・(「民話の研究会」の仲間と宮城県を採訪した)そのときカヤ刈りと屋根葺きの話をくわしく聞いたのだが、屋根葺きには結いがあって互いに屋根を葺き合うという。話がそこへきたとき、私は「じいとばあのふたり暮らしの場合はどうなるのですか」と聞いた。すると労働を提供できない場合は結いは成立しないという返事だった。
 私はなんともいえぬ驚きを感じた。この例が普遍的な例なのかどうか、まだこれは課題であって結論ではない。しかしたった一つの地域にせよ、もし、じいとばあのふたり暮らしが屋根を葺くことにもことかくのであれば・・・・・・昔話の中になぜ子持たずのじいとばあの話が多いかが、はっとするほど切なく感じられたのである。子のないじいとばあ、屋根葺きも思うようにまかせぬじいとばあ、であればこそ、「舌切り雀」のばあは大きなつづら欲しさに走ったのではなかろうか。「古屋のもり」で虎狼より古屋のもりが恐ろしいとつぶやくじいばあの悲しみが惻々としてつたわってきはしないか・・・・・・。
 松谷みよこ「再話の方法」
 
233 いまは観光名所の一つとして有名な岩手県遠野市の「デンデラ野」は、かつて「結い」を離れた老いたる人々が、その死を迎えるまでをともに暮らす大事な場所であったという事実はよく知られている。
 
234 ・・・山の持ち主から山を借りることができない年寄りや子どもは、山へ入って「芝を刈る」ことだけは許されている。
 もちろん、金を払わないで、タダでもらっていくのだから、それを刈って積んで置いたり、保存したりすることは禁じられていて、その人たちは、必要なだけ毎日刈りにいくわけだ。
 つまり、子のない老夫婦は必要なだけの芝を毎日刈ることだけは許されているというのだ。わたしはアアッと声をあげた。
 子のない爺と婆で始まる民話の冒頭に、しばしば「お爺さんは山へ芝刈りに・・・・・・」という言葉が置かれていることの意味を突き付けられた気がした。その語りの芯にあったものを突き付けられた気がした。
 
252 のどかに語られる民話だが、その底には切れば血の吹き上がる現実の「根」が横たわっていることを、わたしは何度も思い知らされてきた。
 かつて忽然と姿を消した年寄りや子どもの話もよく耳にした。
 語った人は、
 「神隠しにあったんべなあ」
 と嘆息する。
 「神隠し」というひとつの虚構世界をつくることで、忽然と姿を隠した者たちを位置付けし、あるいは姿を隠さざるを得なかった者たちを不思議世界の住人にしてきたのだろうか。
(略)
  「神隠し」という世界をつくり上げることによって、生き抜いてきた先祖たちの数は決して少なくないのではなかろうかと思う。そして、その底深くには必ず現実の「根」があったのではなかろうかと思う。
 
256 福井
 「すずめの宮が呼んだんかのう」
 古老は言ったそうだ。
 「すずめの宮」は「沈めの宮」からきていて、むかし、この地帯の貧しい人たちが年取った者を沈めたところだという。つまり「姥捨て」がおこなわれていた名残の小さい祠を指していた。「沈め」は「鎮め」で、「霊鎮め」の意味があったという。
 唐突なようだが、のちに明らかになった事実を通して、北朝鮮によって拉致された地村保志さんと婚約者の濱本富貴恵さんの失踪のいきさつが、それより二十年近く前に「現代民話」として書かれた水上氏の「岬かくし」にすべて重なることにわたしは気が付いて驚いた。現実にあった事実が判で押したように重なっている。
 福井の若狭海岸から忽然と姿を消した若い二人の失踪は、当時は謎のままだったが、その失踪事件を水上氏はそこで聞いた「ふしぎな話」として心にとめ、現代民話「岬かくし」一遍に仕立てて世に問うていたのだ。
 
260 中上健次が水上氏について書いた文章
 ・・・それにしても語りは同時に騙りでもある。橙いろの陽ざしが直射しているところは書いていない。騙りの文章によって、光と闇を同時に読者は読み、もっとこまかく読もうと思う者には、上から谷をのぞき込み同時に下からのぞく日とかげりの経験をすることになる。描写ではなく語りである。描写、それに私は触発されることはあまりない。描写を見つけたことによって近代人の、意識も無意識も、心理も小説に導入できたのだろうが、やはりあんのんと後で眠っているわけにはいかないという気になる。胸のそこここにいま発語したいもの、いま書きあらわしたいものがある時はなおさらである。
 語りは何によって成り立つのだろうと思う。語り手と聴き手の間には、親和力の漲った場所ができるはずである。語り手<私>は、その親和の場所の中で、いかようにも変わる事が出来る。先に自然の目が、<私>の目に取って変る例をあげたが、語りとは個人ではなく、背後に一種共同体のような、いや、人と人が集まった複声のようなものが、語る<私>を差し出しているのである。語りとは単声ではない
 中上健次「著者ノートに変えて 短編小説の力」
 
296 山中の木を倒して、轆轤をまわして椀や盆などをつくることを生業とした木地師の集団、製鉄に必要な燃料としての材木を得るために、山から山へとわたり歩いてふいごを踏んだタタラと呼ばれた人々、そして、鉄砲によって獲物を得て生計を立てた猟師など、一群の「山人」たちの暮らしは、かつての狩猟時代の名残をとどめつつ独自に営まれてきた。
 
300 夜、船底の寝部屋で、みんなして「編み物をした」と言われたのも忘れられない。船には食料や日用品のほかに、毛糸をたくさん積み込むことを忘れなかったそうだ。港の船主の娘さんに会った時、
 「わたしは父が漁から帰ってきて、渡されるセーターやチョッキやマフラーをたのしみにしていた。漁師の娘はみんな親父の手編みのセーターで大きくなったようなものだ」
と言われたのも忘れられない。
 
310 ・・・このあたりは浜も貧しかったが、山際で百姓する農民はもっと貧しかったよ。
 そして、この浜へ赤ん坊を捨てにくる人が絶えなかった。それを示す浜の名前が残っている。
 たとえば、間引いた赤ん坊を捨てることから「子投げ浜」といった。それではあんまりだということで、いまでは「小滝浜」なんてよんでいるけど、もとは子を投げた浜なのしゃ。
 それから、捨てられた赤ん坊が死にきれなくて泣き続けるところを「夜泣き浜」、その赤ん坊の死体を食い荒らす鳥や獣がいて、そこを「餓鬼荒らし」と呼んだ。
 わたしはおそろしい話に震えた。
 漁師さんははるか向こうの海に視線を投げながら、
「もうこんなことを知っているものは誰もいないよ。浜の名前も変わってしまったし・・・・・・」
と言って笑う。
 
315 二〇一一年三月十一日が襲った癒しがたい被災の現実を目の当たりにして、老漁師さんに出会った夕暮れのことをしきりに思い出した。二十年あまりもまえのその日のことが、何度も頭をよぎった。
 のっぴきならない現実を背負いながら、そして、有無を言わさずそこへと追い込まれながら、なお生き抜こうとするその時に生まれてくる「もう一つの世界」の夢のような物語の群れ。それを手放してはならないと、私は思う。
 それらは、いつもつつましくも野放図な断片の形で私たちの前に投げ出されて存在し、ため息にも似た一瞬の点にしか見えないことが多いのだけれど
 
350 小野さんに「聞く」とはなにか、と漠然とした問いを投げかけたことがあります。小野さんは、田中正造の言葉を引かれました。田中は「学ぶ」ことを指して「自己を新たにすること、すなわち旧情旧我を誠実に自己のうちに滅ぼしつくす事業」と言ったのだと。小野さんが微笑みながら「すごい言葉でしょう」と言われたことを覚えています。当然、ここでの「学ぶ」は「聞く」ことに置き換えられます。小野さんは繰り返し、「聞く」とは古い自分を打ち捨てていくこと、自分自身を変革することなのだと言われました。「聞く」ことは単に情報を得る手段でも、ましてや巷でうそぶかれるような他人に好かれるための社交術でもありません。聞いたならば、それに対する自分自身のからだの反応に出会わざるを得ない。そこで自分がどのような人間か、どの程度の人間かを突きつけられる。他なるものに出会い、それまでの自分では決して理解のおよばない事柄の前に立ち尽くす・・・。「今の自分のままじゃ聞けないんですよ。語り手に見合う自分を作り出さなくちゃいけない」と小野さんは言われました。『あいたくて ききたくて 旅にでる』に収められたあらゆる文章から、「聞きたい」と願って歩み訪れた先で、実際に聞いたものを受け止めきれない戸惑いと、それでもなお必死に受け止めようとする小野さんの踏ん張りが感じられます。小野さんの声は、そうして少しずつ、聞くことを通じて作られたのだと私は思っています。
 
354 「戦争のことは、何十年経っても簡単に思い出したり、語ったりできないのです。だから、話を聞くあなたたちの心のうちの覚悟を聞かせてほしい。知っている者が、知らない者にその経験を語って当然という暗黙の了解だけでは語れません。そのお互いの覚悟が通じ合わなければ、つらすぎるのです」