読んだ。 #中動態の世界 意志と責任の考古学 #國分功一郎 #シリーズケアをひらく

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第1章 能動と受動をめぐる問題
 
20 謝るというのは、私の心のなかに謝罪の気持ちが現れ出ることであろうし、想いに耽るというのも、そのようなプロセスが私の頭の中で進行していることであろう。歩くことさえ、「(さまざまな必要条件が満たされつつ)」私のもとで歩行が実現されている」と表現されるべき行為であった。にもかかわらず、われわれはそうした事態や行為を、「私が何ごとかをなす」という仕方で表現する。というか、そう表現せざるをえない。
 「私が表現をなす」という文は、「能動」と形容される形式のものにある。たったいまわれわれが確認したのは、能動の形式で表現される事態や行為が、実際には、能動性のカテゴリーに収まりきらないということである。
 「私が歩く」という文が指し示しているのは、私が歩くというよりも、むしろ、私において歩行が実現されていると表現されるべき事態であった。つまり、能動の形式で表現される事態や行為であろうとも、それを能動の概念によって説明できるとは限らない。「私が謝罪する」ことが要求されたとしても、そこで実際に要求されているのは、私が謝罪することではない。私のなかに謝罪の気持ちが現れ出ることなのだ。
 
 
23 われわれは後に意志の概念をより詳しく検討する。ただ、この段階で通りすがりに軽く論じてみただけでも、この概念には何らかの困難が見いだされることがわかる。意志は自分以外のものに接続されていると同時に、そこから切断されていなければならない。われわれはそのような実は曖昧な概念を、しばしば事態や行為の出発点に置き、その原動力とみなしている。
 
24 ならば、そのような曖昧なものの存在を信じているがゆえに、能動/受動という曖昧な区別を利用する羽目になっているとは言えないか?能動/受動の区別の曖昧さとは、要するに、意志の概念の曖昧さなのではないか?
 すると、われわれは意志などという不確かな概念に依拠すべきではないし、意志など幻想であるから、そんな概念は投げ捨てねばならないと思われるかもしれない。
 
31 太陽をすぐ近くにあるものと感じてしまうのは、そのような誤謬を犯しているからではない。太陽までの真の距離を知ったとしても、太陽の光を浴びれば、われわれは「やはり太陽を近くにあるものとして表象する」のだ。
 太陽の光と人間身体が出会ったとき、両者のもつ特性ゆえに、そのような効果が発生する。スピノザは意志についても同じようにこれを効果として考えた。われわれの精神は物事の結果のみを受け取るようにできている。だからこそ、結果であるはずの意思を原因と取り違えてしまう。そのことを知っていたとしても、そう感じてしまう。「われわれが意志の表れを感じる以前に脳は活動を開始しているのだよ」などと訳知り顔で語る学者もそう感じているし、それを教わった人もそう感じ続ける。
 
34 これはフランスの言語学者、エミール・バンヴェニストが指摘していることだが、ひとたび能動態と受動態を対立させる言語に慣れ親しんでしまうと、この区別は必須のように思われてくる。日本語の話者であっても事情は変わらない。この区別を知ってしまうと、行為は能動か受動のいずれかであると思わずにはいられない。それ以外は思いつくことすら難しくなってしまう。
 
かつて、能動態でも受動態でもない「中動態」なる態が存在していて、これが能動態と対立していたというのである。すなわち、もともと存在していたのは、能動態と受動態の区別ではなくて、能動態と中動態の区別だった。
 
第2章 中動態という古名
 
第3章 中動態の意味論
 
88 以上を比較検討しながらバンヴェニストは、先ほどわれわれも引用した定義を書き記す。
「以上のような照合から十分明白に、本来の意味で言語的な一つの区別、主語と過程との関係にかかわる一つの区別が現われてくる。能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。
 一言でいうとこういうことだ。
 能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。
 
97 そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない
 
第4章 言語と思考
 
111 デリダ
 そして、この表現は決定的に重要である。言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であるといえよう。
 
112 社会や歴史という場を必要としない言語決定論、すなわち言語が直接に思考を決定づけるという考えは、ソシュール言語学を極度の単純化する形で述べ立てられ、一時期大流行した(デリダはそうした思潮に警戒してバンヴェニストを批判したようにも見える)。それは一言でいえば、言葉があるから現実が認識できるという考えである。
 たとえば、オオカミはイヌと区別されている。しかしオオカミはイヌ科の哺乳類である。われわれがオオカミを犬と区別できるのは「オオカミ」という記号があるからであり、もしこの記号がなくなってしまえば両者は区別できないというわけだ。ここから、言語によってこそ世界は分節化されて現れ出るのであり、言語以前の世界は無定形なカオスにすぎないという大げさな結論が導き出された。
 しかしこの手の考え方は、実に簡単な思い違いをしている。
 ある単語の不在は、出発点ではなくて結果である。 たとえば、「オオカミ」という単語をもたない言語があるとすれば、それはその言語の使い手たちが、オオカミを特別に認識する必要をもたなかったからに過ぎない。認識の必要だけでなく、さまざまな事例ごとにさまざまな事情があるだろう。それは個別に検討してみなければ分からないことである。
 思考する主体は常に何らかの現実のなかにいる。だから言語が思考を直接に規定するということは考えられない。言い換えれば、言語の規定作用を、思考という規定されるものへと直接に差し向けることはできない
 
 デカルトにおいては、「私は考える」が「私は存在する」を直接に規定する。「私は考える、だから私は存在する」は論理の問題である。それに対してカントはこう考えた。これら二項だけでは、どうやって「私は存在する」が「私は考える」によって規定されるのかがわからない。したがって、「私は存在する」が「私は考える」によって規定される、その形式を設定しなければならない。
 カントによれば、その形式とは時間である。時間という形式が設定されることにより、「私は考える」と「私は存在する」の関係は単なる論理的なものであることをやめる。<考える私>と<存在する私>は、時間の中で、関係しつつもズレを伴う。いわば、両者は関係しつつも切り裂かれる。ここに言われる「時間」とは、ほとんど「現実」と呼ばれるにふさわしい。
 
第5章 意志と選択
 
124 そうして取り組んだのが、『精神の生活』へと至る一連の講義である。
 プロジェクトは三部構成の予定だったが、「思考」を論じる第一部と、「意志」を論じる第二部を書き上げたところでアレントはこの世を去った。1975年のことである。所有するタイプライターには、第三部の表題となる「判断」の文字だけが打たれた紙が挟まっていたという。
 残された第一部と第二部の原稿は、友人のメアリー・マッカーシーの手で編集され、1978年に出版された。なお、この三部構成(思考、意志、判断)は明らかにカントの批判哲学の構成(理論理性、実践理性、判断力)を意識したものである。
 
126 理性と欲望の二つだけを行為の動因とする限り、どうしてもうまく説明できない事態が生じてしまう。そこでアリストテレスは新たな概念を提示する。それが、プロアイレシスの概念である。
しばしば「選択 choice」と翻訳されるこの語は、「選択」を意味する名詞(ハイレシス)に、「前に」「あらかじめ」などを意味する接頭辞の(プロ)がついてできた語であり、『ニコマコス倫理学』における説明によれば、「他の諸々のものに先立って何かを選ぶ」ことを意味する。
 アレントはこの語をアリストテレスによる造語と言っているが、実際にはアリストテレス以前からこの語は存在している。とはいえ、アリストテレスの著作のなかでこの語が独自の意味を込めて使用されていることは事実であり、この語がそこで新しい概念として練り上げられたと言うことはできるだろう。
(略)
 理念と欲望の相互作用のなかでプロアイレシスが成立し、行為が遂行されるアレントの言い方を借りれば、プロアイレシスは両者の間に挟まって媒介の役割を果たす。行為の端緒はプロアイレシスであり、プロアイレシスを生み出すのは理性と欲望である。
 プロアイレシスにおいて理性と欲望とが混じり合う様を指して、アリストテレスは、プロアイレシスは「欲求を伴う知性」であり、また、「思考を伴う欲求」でもあると述べている。すると無自制は、プロアイレシスが理性よりも欲望により強く影響されて成立している状態を指すと考えられるだろう。
 プロアイレシスの概念を設定することにより、理性と欲望の影響力の度合いを考えることができるようになる。先ほどの矛盾は、理性と欲望の影響力の度合いを考えることができるようになる。先ほどの矛盾は、理性と欲望が直接に行為を生み出すと想定したがために現れたものだと考えればよい。
 
128 われわれは記憶を、過去にかかわる精神的な器官と見なすことができる。それは過ぎ去ったものにかかわっているからである。ならば同じ意味で、われわれは未来にかかわる精神的な器官を考えることができるだろう。それが意志である。
 
129 未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去から切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められたとき、はじめて、意志に場所が与えられる。始まりを司る能力、何ごとかを始める能力の存在が認められることになる。
 
130 意志の概念は責任の概念と強く結びついている。
(略)
何らかの行為を自らの意志で開始したと想定されるとき、その人はその行為の責任を問われるのである。
 
131 意志を何ごとかを開始する能力として理解している。だからこそ、この言葉に基づいて責任を考えることができる。
 
132 選択と区別されるべきものとしての意志とは何か? それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から切り離そうとする概念である。しかもこの概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。
「リンゴを食べる」という私の選択の開始地点をどこに見るのかは非常に難しいのであって、基本的にはそれを確定することは不可能である。あまりにも多くの要素がかかわっているからだ。
 ところがそのリンゴが、実は食べてはいけない果物であったがゆえに、食べてしまったことの責任が問われねばならなくなったとしよう。責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。この概念は私の選択の脇に来て、選択と過去のつながりを切り裂き、選択の開始地点を私のなかに置こうとする。
 
145 暴力は抑え込み、権力は行為させる
 ごく大雑把に言うならば、マルクス主義的な権力間においては、権力は「国家の暴力装置」と同一視されていた。暴力を独占している階級や機構が大衆を押さえつけている、その有り様がボンヤリと「権力の行使」と名指されていたのである。
 それに対しフーコーは、権力は押さえつけるのではなくて、行為させると考えた。
 たとえば工場で労働者が、軍隊で兵士が、学校で生徒が、しかるべき仕方で行為させられている。その意味で権力は、「抑圧」のような消極的なイメージではとらえきれないのであって、「行為の産出」という積極的なイメージで語られねばならないというわけだ。
 
第6章 言語の歴史
 
176 ならば次のように言えよう。中動態が失われ、能動態が受動態に対立するようになった時に現れたのは、単に行為者を確定するだけではない、行為を行為者に帰属させる、そのような言語であったのだ、と。出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行―そのような流れを一つの大きな変化の歴史として考えてみることができる。
 行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意志に他ならない。意志とは行為の帰属先である。哲学者のジョルジョ・アガンベンは、意志とは行動や技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置だと述べている。選択(プロアイレシスないしリベルム・アルビトリウム)から区別される限りでは存在するかどうかすらあやしいこの意志の能力が、行為を記述するとなると突如引き合いに出されるのはそのためだと考えられる。
 
195 言語は不均衡な体系である。言語は常に様々な要求に対応しながら、抑圧と矛盾を抱えつつ運用されている。人の心や社会と同じである。だから、矛盾が甚だしくなれば、抑圧に対する反発が強くなることもある。
 
第7章 中動態、放下、出来事-ハイデッガードゥルーズ
 
204 「意志が未来を主張することは、人間に過去の忘却を強いるということであり、それによって思考は、そのもっとも重要な活動であるan-denken すなわち回想を奪われてしまう」
 意志は絶対的な始まりであることを主張する。いや、そう主張していなくとも、そうでないならば意志は意志ではありえないのだった。だが、そのような絶対的な始まりがありうるとはとても思えない。
「意志が始まりを所有したことなどあったためしがない」。
 にもかかわらず人はそのような意志をもとうとする。そのとき、いったい何が起こるか?そこに起こるのは「過去の忘却」である。
 意志しようとするとき、人は過ぎ去ったことから目を背け、歴史を忘れ、ただ未来だけを志向し、何ごとからも切り離された始まりであろうとする。そうして思考はそのもっとも重要な活動を奪われる。
 
206 人は意志するとき、ただ未来だけを眺め、過去を忘れようとし、回想を放棄する。繰り返すが、意志は絶対的始まりであろうとするからである。そして、回想を放棄することは、思考を放棄することに他ならない。なぜならば、人はそれまでに自分が受け取って来たさまざまな情報にアクセスすることなしにものを考えることはできないからである。
つまりハイデッガーはこう言っているのだ、意志することは考えまいとすることである、と。
 
第8章 中動態と自由の哲学スピノザ
 
232 例えば同書の解説は「文字と母音」のそれにより始まる。「文字は口の動きを表す記号」であり、「母音は一定の限定された音を示す記号」であるとの定義を提出し、そこからスピノザは、「これらの定義よりわれわれは、ヘブライ語において母音が文字ではないことを理解できる」と結論する。
 よく知られているようにヘブライ語には母音を記す文字がない。スピノザはそのことをこのような簡潔な定義で説明しているわけだが、これに続いてスピノザが述べる比喩はとても素敵なものである。
「文字と母音の違いを明確に理解してもらうためには、笛の例を使ってこれを説明するのがよい。指で触れて音を奏でる笛である。この場合、母音とは音楽の音である。文字は指が触れる穴だ」
 
 おそらく、内在原因の概念を導入するためには表現の概念が必要だったのであり、また、表現的関係について考えるためには内在原因の概念が必要だった。表現の概念は原因の意味を変容させ、原因と結果の階層秩序を撤廃する。すなわち原因と結果の関係は、「働きかける」と「働きを受ける」の関係であることをやめ、原因が結果において自らの力を表現するという関係になる
 
243 スピノザが構想する世界は中動態だけがある世界である。内在原因とはつまり中動態の世界を説明する概念に他ならない。
 
244 この問いは『エチカ』における能動と受動の概念をめぐるもう一つの問題に直結している。実はスピノザは『エチカ』のなかで「能動」と「受動」という用語に訴えかけている。しかもそれらは同書できわめて重要な位置を占めるキーワードで会って、端的に言って、「能動」は目指すべきもの、「受動」は斥けるべきものに他ならない
 
246 「あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有する各々の物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。」(第一部定理二八)
 言い回しは複雑であるが、その言わんとするところは難しくない。個物はたえず他の個物から刺激や影響を受けながら存在しているということである。
 「変状」はこのように、個物としての様態個物が呈する一定の状態の二つを意味する。どちらも変状であって、結局は同じことを言っている。神すなわち自然という実態しか存在しないのであり、どちらの意味の変状も、その実態が一定の性質や携帯を帯びることを言っているのである。
 しかしまた、両者は同時に区別もされねばならない。様態であるわれわれにとっては、様態と様態が受ける変状とは端的に別物である。だから二つ目の意味での変状は二次的な変状と考えればよいであろう。
 
249 「感情とはわれわれの身体の活動能力を増大あるいは減少し、促進あるいは阻害する身体の変状、また同時にそうした変状の観念であると解する」(第三部定義三)
 感情とはわれわれのもとに起こる変状である。「身体の変状」および「そうした変状の観念」と言われていることからわかるように、スピノザは感情を身体と精神にまたがるものとして捉えている。つまり「感情」という語は極めて広い意味で用いられている。
 
258 ここから、スピノザ倫理学の一つの注意点が導き出せるように思われる。
 われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に配することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部を持たない神だけである。
 だが、自らの本質が原因となる部分をより多くしていくことはできる。能動と受動はしたがって、二者択一としてではなくて、度合いを持つものとして考えられねばならない。われわれは純粋な能動になることはできないが、受動の部分を減らし、能動の部分を増やすことはできる。
 
262 スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、我々は自由であるのだ。ならば自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するのか?その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。だからスピノザはやや強い言い方で、いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態から脱することができると述べた。
 自由と対立するのは、必然性ではなくて強制である。強制されているとは、一定の様式において存在し、作用するように他から決定されていることを言う(同前)。それはつまり、変状が自らの本質によってはほとんど説明されえない状態、行為の表現が外部の原因に占められてしまっている状態である。
 人は必然的な法則に囚われたときに不自由となって強制の状態に陥るのではない。自らの有する必然的な法則を踏みにじられているときに強制の状態に陥る。だから自由や強制は変状の質の差として考えられねばならないのである。
 いまわれわれが「必然的な法則」と呼んだものは、具体的にはわれわれ一人一人のなかで働くコナトゥスの作用にかかわっている。コナトゥスはわれわれ一人一人の構成と相関関係にあるのだった。つまり、構成が異なればコナトゥスは異なった仕方で作用する。コナトゥスの作用が異なるから、〈変状する能力〉の現れも異なってくる。そしてそのような力こそ、われわれ一人一人の本質である。
 スピノザは本質を具体的に考えた。だから自由になるための道筋も、一人一人で異なる具体的なものになる。
 
第9章 ビリーたちの物語
 
274 スピノザはねたみの感情を解説して、何人も自分と同等でないものをねたみはしないと言っている(『エチカ』第三部定理五五系)。
(略)
 この自分に対する言い聞かせは、つまり、自分がねたみを抱きそうになった人物を、自分と同等でないものへと変換する手続きに他ならない。人は空を飛べる鳥にあこがれはしても、鳥をねたみはしない。言い換えれば、ねたんでいるとき、人は相手に自分を見ている。
 
285 しかし、ジョンソンは歴史を中立的な条件として考えているのではないか? 歴史の持つ強制力がそこではあまりにも過小評価されてはいないか?
 そう考えるとき、どうしても言及しなければならないのが、カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』の冒頭にある次の有名な言葉であろう。
「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである」。
 マルクスのこの有名な一文は実に見事な文学的表現である。もしこの一文が、「人間は自分自身の歴史を思うが儘につくっているわけではない」という表現であったならば、その意味するところは台無しである。「人間は自分自身の歴史をつくる」に、「だが、思う儘にではない」と言葉が継がれているからこそ、人間が歴史をつくっているとも、それを強制されているとも言いきれないさまが見事に表現されているのだ。
 
293 自由へ近づくために
 完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。
 自分がいまどれほど自由でどれほど強制されているかを理解することも難しい。また我々が集団生活で生きていくために絶対に必要とする法なるものも、中動態の世界を前提としていない。
 われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しづつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいて行くことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。